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読めない設計図


カーナボン軌道管制所の朝は、四百年前から同じ手順で始まる。


六時に、夜番と朝番が交代する。

交代のとき、夜番は、夜のあいだの記録を読み上げる。

朝番は、それを聞いて、記録の帳面に印を付ける。

印を付けたら、朝番が、管制室の真ん中の席に座る。

席の前の画面に、軌道の集光網の、鏡群の一覧が並んでいる。

一覧の数字を、上から順に確かめる。


ティア・ロウは、見習いになって一年目の朝も、二年目の朝も、同じ手順で数字を確かめてきた。


「第百十二鏡群、姿勢のずれ、許容の幅の中。第百十三、同じ。第百十四、同じ」


声に出して読むのも、手順のうちだった。

管制室には、ティアのほかに、もう一人しかいない。

オーウェン・マクレイ。

七十一になる、管制所で一番古い技師だった。

オーウェンは、ティアの後ろの席で、湯気の立つ茶を飲んでいた。

ティアの読み上げを、目を閉じて聞いている。


「第百十五、同じ。第百十六……」


ティアは、そこで一瞬、止まった。


第百十六鏡群の、姿勢のずれの数字。

許容の幅の中だった。

幅の、上の端に近かった。

昨日も、上の端に近かった。

一昨日も。


「……同じ」


ティアは、読み上げを続けた。

第百十七。

第百十八。

全部で三百四十の鏡群を、四十分かけて読み上げた。


読み終えると、オーウェンが目を開けた。


「百十六で、止まったな」


ティアは、振り向いた。


「……止まってません」


「止まった。半拍」


オーウェンは、茶の湯呑みを机に置いた。


「何が気になった」


「姿勢のずれが、許容の幅の上の端に近いんです。三日続けて」


「幅の中だろう」


「中です」


「なら、同じだ」


オーウェンは、それだけ言って、また目を閉じた。


ティアは、画面に向き直った。

第百十六鏡群の数字を、もう一度見た。

幅の中。

手順では、幅の中の数字は、「同じ」と読む。

読んで、次へ進む。

それだけだ。



オーストラリアの西の海岸の、赤い砂の平原に、カーナボン軌道管制所はある。


白い建物が一つ。

その横に、大きな皿の形のアンテナが三つ。

まわりは、見渡す限り、赤い砂と、低い灌木だけだった。

一番近い町まで、車で二時間。

管制所には、技師が八人と、見習いが二人住んでいる。


仕事は、軌道の集光網の見張りだった。


集光網は、千三百年前に作られはじめた。

地球の上に、何万枚もの鏡が並んで、太陽の光を集めて、地上の受光場へ束にして降ろしている。

降る光で、世界中の電気がまかなわれている。

千年以上、そうだった。

これからも、そうだろうと、誰もが思っている。


見張りといっても、することは少なかった。


鏡の姿勢は、鏡が自分で直す。

束の向きも、自動で合わせる。

管制所の技師がするのは、数字が許容の幅の中にあるかを確かめることと、幅を外れた鏡群に、

交換の指示を出すことだけだった。


交換は、手順書に書いてある。


どの部品を、どの順で、どう替えるか。

手順書は、何百年も前に書かれて、そのあいだに、ほとんど変わっていない。

変える必要が、無かったからだ。

集光網は、手順書どおりに部品を替えていれば、止まらなかった。


止まらないことが、この時代の、いちばんの誇りだった。


管制所の食堂の壁に、古い暦が掛けてある。

一年ごとに、新しい暦に掛け替える。

掛け替えても、中身は、ほとんど同じだった。

祝日も、行事も、季節の配光の切り替えの日も。

四百年前の暦と、今年の暦を並べても、違いは、年の数字だけだった。


「変わらないってのは、いいことだ」


ティアが見習いになった最初の日、オーウェンは、その暦を指さして言った。


「俺の師匠も、そう言ってた。師匠の師匠もな。変わらないってことは、誰も困ってないってことだ。

誰も飢えてない。誰も凍えてない。誰も、戦ってない。千年、そうだった」


ティアは、そのとき、頷いた。

頷くのが、当たり前だと思った。


ティアの生まれた町も、変わらない町だった。

南の海岸の、小さな集約区。

祖母の家と、母の家と、ティアの家が、同じ間取りで、同じ場所にあった。

祖母が子どものころに歌った歌を、母が歌い、ティアが歌った。

変わらないことは、安心だった。


変わらないことが、少しだけ息苦しくなったのは、管制所に来てからだった。



ティアが、初めて空のちらつきを見たのは、九つの年だった。


南の海岸の、生まれた町の浜辺だった。

夏の夜、祖母と二人で、浜に座って、海を見ていた。

祖母は、毎年、夏の同じ日に、ティアを浜に連れていった。

その日は、祖母の母の命日だった。


海の上の空に、集光網の白い帯が架かっていた。

帯は、いつもと同じ明るさで、光っていた。


その帯の一か所が、ふっと明るくなった。


「おばあちゃん。今、空が、まばたきした」


ティアが言うと、祖母は、空を見上げた。


「ああ。空のまばたきね」


祖母は、驚かなかった。


「昔から、あるのよ。わたしのおばあちゃんも、見たって言ってた。夏の夜に、ときどき、空がまばたきする。

空が、眠たいのねって」


「なんで、まばたきするの」


「さあ。空に聞いてごらん」


祖母は、笑った。

ティアも、笑った。

それで、話は終わった。


家に帰ってから、ティアは、学校の端末で、知能に聞いた。

子ども用の、一段目の権限で。


「空のまばたきは、なぜ起きるのですか」


「夜空が一瞬明るく見える現象には、流れ星、大気の揺らぎなどがあります。

集光網の光の反射によるものについては、この権限の粒度ではお答えできません」


九つのティアには、最後の一行の意味が、よく分からなかった。

分からないまま、何年も、夏の夜に浜に座って、空のまばたきを数えた。

年に、三回か四回。

多い年は、六回。

数えて、何になるわけでもなかった。

祖母は、「あんたは、変なものを数える子ね」と言った。


十七の年に、祖母が死んだ。


その夏、ティアは、一人で浜に座った。

空は、一度もまばたきしなかった。

ティアは、夜明けまで座っていた。


次の年、ティアは、軌道管制所の見習いの募集に申し込んだ。

母は、反対した。

南の海岸の町で、祖母と、母と、同じように暮らせばいい。

変わらない町で、変わらない仕事をして。


ティアは、母に、理由を言わなかった。

空のまばたきの理由を知りたい、とは、言えなかった。

言えば、変な子ね、と言われる気がした。



その夜、ティアは、管制所の屋上に上がった。


屋上は、管制所の技師たちが、夜に空を見るための場所だった。

古い木の椅子が、何脚か並んでいる。

赤い砂の平原の夜は、真っ暗で、星がよく見えた。


ティアは、椅子に座って、空を見上げた。


天の川が、白く流れていた。

その手前に、細い光の帯が、東の地平線から西の地平線まで、弧を描いて架かっていた。


集光網だった。


何万枚もの鏡が、太陽の光を跳ね返して、夜の空に光の帯を作っている。

帯は、いつも、同じ明るさで光っている。

千年以上、そうだった。


ティアは、帯の一か所を、じっと見た。


第百十六鏡群のあたり。

南の空の、帯が少しだけ太くなっているところ。


見ているうちに、そこが、ちらついた。


ほんの一瞬。

白い光が、ふっと明るくなって、またもとに戻った。

瞬きをするくらいの長さだった。

気のせいかもしれなかった。


ティアは、息を止めて、同じ場所を見つめた。


一分。

二分。


また、ちらついた。


今度は、はっきり見えた。

帯の一か所だけが、白く瞬いた。

星の瞬きとは、違った。

星は、色を変えながら震える。

帯のちらつきは、白いまま、明るくなって、戻る。


「見えたか」


後ろで声がした。


オーウェンが、屋上の入口に立っていた。

古い上着を肩に掛けて、手に湯呑みを持っていた。


「……見えました。百十六のあたり。白く、ちらついて」


オーウェンは、ティアの隣の椅子に座った。

湯呑みの茶を、一口飲んだ。

それから、空の同じ場所を見上げた。


「白いちらつき、って呼んでる。俺たちはな」


「前から、あるんですか」


「ある。俺が見習いのころから。俺の師匠のころからも、あったらしい」


オーウェンは、空を見たまま言った。


「年に何回か、どこかの鏡群で、ちらつく。

姿勢のずれが、幅の上の端に寄ると、束を降ろす向きと、光を集める向きが、ほんの少し食い違う。

そうすると、跳ね返った光の一部が、夜の側に漏れる。それが、下から見ると、ちらついて見える」


「危なくないんですか」


「幅の中だ」


オーウェンは、いつもと同じ言葉を言った。


「幅の中なら、鏡が自分で直す。何日かすれば、戻る。四百年、そうだった」


ティアは、空を見上げたまま、黙っていた。


また、ちらついた。


「……オーウェンさん」


「ん」


「幅って、誰が決めたんですか」


オーウェンは、湯呑みを口元で止めた。


「許容の幅。姿勢のずれが、どこまでなら大丈夫か。その幅は、誰が、何を見て決めたんですか」


オーウェンは、長いあいだ答えなかった。

赤い砂の平原を、夜の風が吹いていった。


「……作った奴らだ」


オーウェンは、ようやく言った。


「千三百年前に、この網を作った奴ら。設計した奴ら。幅は、そいつらの設計図に書いてある。

手順書は、設計図から写したもんだ」


「その設計図、読めますか」


オーウェンは、ティアの顔を見た。

それから、また空に目を戻した。


「読めない」


「……え」


「俺には、読めない。お前にも、読めない。この管制所の誰も、読めない」


オーウェンは、茶を飲み干した。


「原設計の図は、上の段にある。知能に問い合わせる権限の、六段目より上。俺たち保守の技師は、三段目だ。

手順書は読める。設計図は、読めない」


ティアは、オーウェンの横顔を見た。

皺の深い顔に、集光網の白い帯の光が、薄く映っていた。


「……じゃあ、幅が正しいかどうかも」


「分からない。確かめたことはない。確かめる必要が、無かった。

四百年、幅の中で、網は止まらなかったからな」


南の空で、また、白くちらついた。



次の日の昼休み、ティアは、管制所の端末で、知能に問い合わせた。


「第百十六鏡群の、姿勢のずれの許容の幅は、どのような根拠で定められていますか」


答えは、すぐに出た。


「集光網の各鏡群の姿勢のずれの許容の幅は、原設計に基づいて定められています。

保守業務に必要な情報は、保守手順書に記載されています。

原設計の詳細は、この権限の粒度ではお答えできません」


ティアは、別の聞き方をした。


「第百十六鏡群の、骨組みの継手の設計寿命は、何年ですか」


「保守手順書では、継手の交換の周期を、姿勢のずれが許容の幅を外れた時点と定めています。

設計寿命の詳細は、この権限の粒度ではお答えできません」


「集光網の主骨の、設計寿命は、何年ですか」


「この権限の粒度ではお答えできません」


ティアは、画面を見つめた。


三段目。

保守技師の権限。

手順書は、全部読める。

どの部品を、どの順で、どう替えるか。

でも、なぜその部品なのか、なぜその順なのか、なぜその幅なのかは、一行も読めない。


ティアは、端末の奥の、申請の画面を開いた。


「上位権限の閲覧申請」


申請先:キャンベラ集光網設計院。

申請する権限:六段目(原設計の閲覧)。

申請の理由:


ティアは、理由の欄に、少し考えてから書いた。


「第百十六鏡群の姿勢のずれが、三日続けて許容の幅の上の端に近い。

夜間に白いちらつきが目視で確認できる。許容の幅の根拠を確かめたい」


送信した。



返事は、三日後に来た。


「上位権限の閲覧申請について。申請者:カーナボン軌道管制所 見習い技師 ティア・ロウ。

審査の結果、申請を却下します。

理由:申請の内容は、保守業務の範囲で対応が可能であり、原設計の閲覧の必要性が認められないため。

姿勢のずれが許容の幅の中にある場合は、保守手順書に従い、経過を観察してください」


ティアは、その返事を、オーウェンに見せた。


オーウェンは、食堂の古い暦の前で、茶を飲んでいた。

画面を見て、鼻を鳴らした。


「だろうな」


「知ってたんですか」


「俺も、出した。三十の年に。同じような理由で。同じような返事が来た」


オーウェンは、湯呑みを置いた。


「俺の師匠も、出したらしい。師匠の師匠も。皆、同じ返事だ。必要性が認められない」


「……なんで、読ませてくれないんですか」


「さあな」


オーウェンは、暦を見上げた。


「昔、原設計の図が盗まれかけたことがあったんだそうだ。四百年くらい前。

集光網を乗っ取ろうとした連中がいた。束の向きを変えれば、光を好きなところに落とせるからな。

それで、原設計の図は、上の段に上げられた。上の段の、上の段の、そのまた上に。

それ以来、下の段に降りてきたことはない」


「それって、四百年、誰も」


「読んでない。下の者は。上の者が読んでるかどうかは、知らん」


オーウェンは、少しだけ笑った。


「設計院の奴らも、読んでないかもしれないぞ。読む必要が、無いからな。

網は、手順書どおりにやってれば、止まらない」


ティアは、却下の通知を、画面の上で閉じた。


「……止まらないって、誰が決めたんですか」


オーウェンは、答えなかった。



月に一度の、母との通信の日だった。


管制所の端末の画面に、母の顔が映った。

南の海岸の町の、母の家の台所だった。

母の後ろの窓から、灰色の海が見えた。


「元気にしてる?ちゃんと食べてる?」


母は、毎月、同じことから聞く。


「食べてる」


「そっちは、まだ暑いんでしょう」


「暑い。砂が、赤い」


母は、少し笑った。

それから、いつものように、帰ってこないのか、と聞いた。

ティアは、いつものように、まだ分からない、と答えた。


「管制所の見習いなんて、若い女の子のする仕事じゃないわよ。

何も起きない網を、一日じゅう見張ってるだけでしょう」


「……うん」


「こっちに戻って、港の事務所で働けばいいのよ。おばあちゃんも、わたしも、そうしてきたんだから」


ティアは、少し迷ってから、聞いた。


「母さん。空のまばたき、見たことある?」


母は、きょとんとした顔をした。


「空のまばたき?……ああ、おばあちゃんが言ってた。夏の夜の」


「うん」


「あるわよ。子どものころ、何回か。おばあちゃんと浜に座ってて。空が、眠たいのねって」


母は、懐かしそうに笑った。


「なんで、そんなこと」


「……こっちで、毎晩見てるの。仕事で」


「仕事で?」


「空のまばたきは、網の鏡が、少しだけずれたときに、光が漏れて見えるんだって。

こっちでは、白いちらつきって呼んでる」


母は、少しのあいだ、黙っていた。


「……そう。空が眠たいんじゃ、なかったのね」


母の声は、少しだけ寂しそうだった。


「おばあちゃんには、言わないでおいてあげて。あの人、空が眠たいって話、好きだったから」


「おばあちゃん、もういないよ」


「知ってるわよ」


母は、笑った。

笑いながら、目を伏せた。


「知ってるけど。言わないでおいてあげて」


通信が切れたあと、ティアは、しばらく画面の前に座っていた。


空のまばたき。

白いちらつき。

同じものを、南の海岸の町では、四代にわたって、空が眠たいと呼んできた。

管制所では、四百年、幅の中なら同じと読んできた。


どちらも、何も変えなかった。



その週の終わり、オーウェンは、ティアを管制所の裏の倉庫に連れていった。


倉庫は、平屋の、長い建物だった。

中は、薄暗くて、ひんやりしていた。

棚が、奥まで何列も並んでいた。

棚の上に、灰色の箱が、ぎっしり積んであった。


「交換部品の倉庫だ」


オーウェンは、棚のあいだを歩きながら言った。


「鏡群の骨組みの継手。膜の張り替え用の枠。姿勢を直す小さな噴射口。全部、ここにある。

軌道の保守艇が、年に何回か取りに来る」


オーウェンは、一番奥の棚の前で立ち止まった。


棚の上の箱に、札が貼ってあった。


「骨組み継手(第一期型)」


箱の数を、ティアは数えた。

一段に、二十。

五段。

百。


「ここだけじゃない。世界中の管制所の倉庫に、同じ棚がある。全部合わせて、三百十二個」


「三百十二」


「第一期型の継手は、もう作れない。材料が無いんだ。六十年前に、最後の工場が止まった。

今ある分を、使い切ったら、終わりだ」


ティアは、箱の一つを、手で撫でた。

灰色の箱の表面に、埃がうっすら積もっていた。


「……使い切ったら、どうなるんですか」


「退役した鏡群から、外して使う。古い継手を、磨いて、検査して、もう一回使う。今も、半分はそうしてる」


「退役した鏡群って」


「集光網の端のほうに、もう光を集めてない鏡群がある。壊れて、直す部品が無くて、止めた鏡群だ。

そこから、使える部品を剥がしてくる」


オーウェンは、棚の箱を見上げた。


「網は、少しずつ、自分を食べて生きてる。端のほうから」


ティアは、何も言えなかった。


「このことは、手順書には書いてある。部品が足りない場合は、退役した鏡群から転用すること、ってな。

書いてあるから、皆、知ってる。知ってるけど、誰も気にしない。気にしても、どうにもならないからな」


オーウェンは、倉庫の出口のほうへ歩き出した。

歩きながら、言った。


「俺は、あと三か月で、ここを出る」


ティアは、顔を上げた。


「引退だ。七十一だからな。代わりの技師は、来ない。来年から、この管制所は、七人になる。

再来年は、たぶん六人だ」


「……代わりが、来ないんですか」


「来ない。人が要らないんだ。網は、止まらないからな。止まらない網を見張るのに、そんなに人は要らない」


オーウェンは、倉庫の戸を開けた。

外の強い日差しが、薄暗い倉庫の中に差し込んできた。

赤い砂の平原が、白く光っていた。


「お前は、ここに残るのか」


オーウェンは、振り向かずに聞いた。


ティアは、少し迷った。


南の海岸の、母の家のことを思った。

母は、毎月の通信で、帰ってこいと言う。

管制所の見習いなんて、若い女のする仕事じゃない。

変わらない町で、変わらない仕事をして、変わらない暮らしをすればいい。

祖母も、母も、そうしてきたのだから。


「……分かりません」


ティアは言った。


「でも、百十六が、どうなるか、見てからにします」


オーウェンは、何も言わずに、倉庫の外へ出た。

ティアも、後に続いた。

倉庫の戸が、背中で閉まった。



その週の日曜、ティアは、オーウェンを車に乗せて、町へ行った。


オーウェンは、もう車を運転しない。

目が、夜に弱くなったからだ。

月に一度、町の墓地へ行くときは、見習いの誰かが運転する。

その月は、ティアの番だった。


赤い砂の平原の一本道を、二時間走った。

オーウェンは、助手席で、ずっと窓の外を見ていた。


町の墓地は、海の見える丘の上にあった。

オーウェンの妻の墓は、丘の一番上の、古い木の下にあった。

十二年前に死んだ、と聞いていた。


オーウェンは、墓の前に立って、しばらく黙っていた。

それから、上着のポケットから、小さな紙を出して、墓石の上に置いた。

紙には、鉛筆で、数字が書いてあった。


「……それ、何ですか」


ティアは、後ろから聞いた。


「今月の、ちらつきの数だ。全部の鏡群の、合計」


オーウェンは、振り向かずに答えた。


「女房は、管制所の食堂で働いてた。四十年。俺が屋上でちらつきを数えてると、茶を持って上がってきた。

今夜は何回、って聞くんだ。俺が答えると、先月より多いね、とか、少ないね、とか言う。それだけだ。

それだけのことを、四十年」


オーウェンは、墓石の上の紙を、小石で押さえた。


「死んでからも、毎月、持ってきてる。誰も聞かないからな。数を」


ティアは、何も言えなかった。


帰りの車の中で、オーウェンは、師匠の話をした。


「ベアトリスは、八十四まで、管制所にいた。引退しなかった。引退しろって何度言われても、しなかった。

毎晩、屋上でちらつきを数えて、帳面に書いた。最後の晩も、書いてた。

朝、屋上の椅子で、帳面を膝に乗せたまま、死んでた」


「……帳面を」


「最後の行は、第八十二鏡群、ちらつき二回、だった。字が、途中で途切れてた」


オーウェンは、窓の外の赤い平原を見ていた。


「俺は、あの人ほど、しつこくはなれなかった。七十一で引退する。帳面は、誰かに渡す」


オーウェンは、それ以上、何も言わなかった。

ティアも、聞かなかった。

誰に渡すのか、とは。



その夜も、ティアは、屋上に上がった。


南の空の、集光網の白い帯を見上げた。

第百十六鏡群のあたり。


ちらついていた。


三日前より、回数が増えていた。

十分に一回くらいだったのが、五分に一回くらいになっていた。


ティアは、ポケットから、小さな紙の帳面を出した。

管制所の売店で買った、見習い用の帳面だった。

鉛筆で、書いた。


「三五九八年 九月十四日 夜。第百十六鏡群のあたり。白いちらつき。五分に一回。昨日は七分に一回。

三日前は十分に一回」


書き終えて、帳面を閉じた。


画面の数字は、幅の中だった。

手順書では、幅の中の数字は、「同じ」と読む。


でも、帳面の数字は、同じではなかった。



第百十六鏡群の姿勢のずれが、許容の幅を外れたのは、それから十二日後の朝だった。


ティアが、朝の読み上げをしていたときだった。


「第百十五、同じ。第百十六……」


画面の数字が、赤く光っていた。


「……第百十六、幅の外」


ティアの声が、少しだけ上ずった。


後ろの席で、オーウェンが目を開けた。

湯呑みを置いて、立ち上がって、ティアの肩越しに画面を覗き込んだ。


「手順どおりにやれ」


オーウェンは言った。

声は、落ち着いていた。


手順は、決まっていた。

幅を外れた鏡群には、継手の交換の指示を出す。

指示を受けた軌道の保守艇が、倉庫から継手を取りに来る。

交換する。

外した古い継手は、地上の管制所に送り返される。

管制所で検査して、使えるものは磨いて、倉庫に戻す。

使えないものは、溶かす。


ティアは、手順書を開いて、指示の書式に、一つずつ数字を入れた。

鏡群の番号。

ずれの値。

交換する継手の位置。

送信した。


交換の作業のあいだ、ティアは、管制室の通信の席で、軌道の保守艇と話していた。


交換の手順の確認は、地上の管制所と、軌道の保守艇が、声でやりとりする決まりだった。

四百年前から、そうだった。


保守艇の作業員は、若い男の声だった。

名前は、ラヒムといった。


「第百十六、継手の三番、外した。新しいのを嵌める」


「了解。三番、交換」


ティアは、手順書の項目に、印を付けた。


しばらく、ラヒムの息づかいだけが聞こえた。

真空の中で、命綱一本で、作業をしている息づかい。


「……管制所。一つ、聞いていいか」


ラヒムが言った。

手順書に無い言葉だった。


「どうぞ」


「主骨の表面って、昔から、こんな色なのか」


ティアは、通信の席で、背筋を伸ばした。


「こんな色、とは」


「白っぽいんだ。粉を吹いたみたいに。継手の嵌まってたところのまわりだけ。

俺、この仕事三年目だけど、主骨をこんなに近くで見たの、初めてでさ。

手順書には、主骨には触るなって書いてあるだろう。だから、触ってない。ただ、白いんだ」


ティアは、後ろの席のオーウェンを振り向いた。

オーウェンは、目を開けて、通信の画面を見ていた。


「……手順書どおりに、触らないでください」


ティアは言った。


「ただ、その、白いところの写真を、撮れますか」


「撮れる。でも、手順書に無いぞ」


「無いです。でも、撮ってください。わたしの名前で、頼んだことにして」


ラヒムは、少しのあいだ黙っていた。


「……了解。撮る。見習いの名前で」


その夜、ラヒムの撮った写真が、管制所に届いた。


主骨の表面の、継手の嵌まっていたところのまわりが、白く粉を吹いたように変色していた。

変色は、細い筋になって、斜めに伸びていた。

同じ向きに。


ティアは、写真を、自分の帳面に挟んだ。

画面の数字は、幅の真ん中に戻っていた。



三日後、軌道の保守艇から、交換が済んだという知らせが来た。

第百十六鏡群の姿勢のずれは、幅の真ん中に戻った。


その夜、屋上から見上げると、南の空の白いちらつきは、止まっていた。


ティアは、帳面に書いた。


「三五九八年 九月二十九日 夜。第百十六鏡群のあたり。ちらつき、無し。継手の交換、済み」


書きながら、少しだけ、ほっとした。

手順書どおりにやれば、網は止まらない。

四百年、そうだった。



外された古い継手が、管制所に届いたのは、その十日後だった。


軌道から降りてくる補給の便に乗って、灰色の箱に入って。

検査の係は、その月、ティアだった。


検査の部屋は、倉庫の隣の、小さな作業場だった。

作業台の上に、拡大の鏡と、古い測定の器具が並んでいる。

ティアは、箱を開けて、継手を取り出した。


手のひらほどの大きさの、金属の塊だった。

二つの面がある。

片方の面は、鏡の骨組みに嵌まる。

もう片方の面は、主骨に嵌まる。

主骨は、集光網の全部の鏡群を繋いでいる、一番太い骨だ。

地球を一周する、巨大な輪。

千三百年前に、最初に作られた部分だった。


手順書の検査の項目は、骨組みの側の面だけだった。

骨組みの側の面の、すり減り具合を測る。

決められた値より減っていたら、溶かす。

減っていなかったら、磨いて、倉庫に戻す。


ティアは、骨組みの側の面を測った。

減っていた。

決められた値より、少しだけ。

溶かす側だった。


手順では、そこで検査は終わる。


ティアは、継手を裏返した。


主骨の側の面を、拡大の鏡で覗いた。


手順書には、主骨の側の面を検査する項目は無かった。

主骨の側は、すり減らないことになっている。

主骨は、動かないからだ。


拡大の鏡の中に、細い線が見えた。


面の上に、髪の毛より細い線が、何本も、斜めに走っていた。

線の向きが、揃っていた。

全部、同じ向きに。

継手の傷ではなかった。

継手の面は、滑らかだった。

線は、面の上に、何かの型を押しつけたように、写っていた。


主骨の表面の型だった。


主骨の表面に、同じ向きの細いひびが、何本も走っている。

継手は、何年も、そのひびの上に押しつけられていた。

押しつけられて、ひびの形を、面に写し取っていた。


ティアは、拡大の鏡から目を離した。

手が、冷たくなっていた。



オーウェンは、ティアの呼ぶ声を聞いて、作業場に来た。


ティアは、何も言わずに、拡大の鏡をオーウェンのほうへ向けた。


オーウェンは、しばらく覗いていた。

長いあいだ、覗いていた。

それから、顔を上げた。


顔から、色が引いていた。


「……主骨の側か」


「はい。手順書の項目には、無い面です」


「分かってる」


オーウェンは、作業台の椅子に、ゆっくり腰を下ろした。


「主骨は、すり減らないことになってる。動かないからな。手順書には、主骨の検査の項目は、一つも無い。

交換の手順も、無い」


「交換の手順が、無い」


「無い。主骨は、替えられないんだ。地球を一周する輪だ。一体で作ってある。

どこか一か所を外したら、輪全体が、ばらばらになる」


オーウェンは、両手で顔を覆った。


しばらくそうしていて、それから、手を下ろした。


「……ティア。ちょっと待ってろ」


オーウェンは、作業場を出ていった。

十分ほどして、戻ってきた。

手に、古い帳面を一冊持っていた。


表紙が、茶色く変色していた。

角が、すり切れて丸くなっていた。

紐で、縛ってあった。


「俺の師匠の帳面だ」


オーウェンは、紐を解いた。


「ベアトリス・ハロウェイ。俺が見習いのころの、ここの一番古い技師だった。

師匠は、師匠の師匠から、この帳面を受け取った。その師匠も、そのまた師匠から。

一番古いページは、四百年前だ」


オーウェンは、帳面の中ほどを開いた。


鉛筆の字が、びっしり並んでいた。

日付と、鏡群の番号と、白いちらつきの回数。

何百年分の、夜の記録だった。

字は、ページごとに違った。

何人もの人が、書き継いできた字だった。


「師匠たちも、ちらつきを数えてたんですか」


「数えてた。誰にも頼まれずに。手順書にも無いのに」


オーウェンは、帳面を、一番最初のページまで戻した。


一番最初のページには、字ではなく、図が描いてあった。


鉛筆の線の、細かい図だった。

太い輪の、断面のような図。

輪の中の、何層もの構造。

図のまわりに、小さな字で、数字と記号が書き込んであった。

ティアには、半分も読めなかった。


図の下に、一行だけ、読める字があった。


「主骨 第一期建設分 設計寿命 一三三〇年 交換不可(一体成形)」


その下に、もう一行、別の字で。


「原設計の図より、手で写す。三一九四年。権限の引き上げの前日」


ティアは、その二行を、長いあいだ見ていた。


「……四百年前の人が、写したんですか。原設計の図を」


「写したらしい。原設計の図が、上の段に上げられる前の日に。どうやって見たのかは、知らん。

帳面には、書いてない。ただ、写した。一枚だけ。一番大事だと思った一枚を」


オーウェンは、図の下の数字を、指でなぞった。


「一三三〇年」


「第一期建設分って、いつですか」


ティアの声は、かすれていた。


「集光網の第一期は、二二九八年から二三一〇年。主骨の最初の輪が、繋がったのが、二三〇〇年」


ティアは、頭の中で、数を足した。


二三〇〇年と、一三三〇年。


三六三〇年。


今年は、三五九八年だった。


「……三十二年」


ティアは言った。


オーウェンは、何も言わなかった。

作業台の上の、古い継手を見ていた。

主骨のひびの形を写し取った、灰色の金属の塊を。


「設計寿命ってのは、その年に壊れるって意味じゃない」


オーウェンは、しばらくして言った。


「その年まで、壊れないように作った、って意味だ。その年を過ぎても、保つかもしれない。

百年保つかもしれない。その前に、壊れるかもしれない」


「でも、ひびは、もう出てます」


「出てるな」


「三十二年」


「三十二年だ」


オーウェンは、帳面を閉じた。


「俺は、七十一だ。三十二年後には、生きてない。お前は、五十一だ」


作業場の窓の外で、赤い砂の平原に、夕日が沈みかけていた。

東の空に、集光網の白い帯が、薄く浮かびはじめていた。



その夜、ティアは眠れなかった。


自分の部屋の机で、オーウェンの師匠たちの帳面を、一ページ目から順にめくった。

オーウェンが、今夜だけ貸してくれた。


四百年分の、白いちらつきの記録。

日付と、鏡群の番号と、回数。

書く人が替わるたびに、字が替わった。

右に傾いた字。

丸い字。

小さくて読みにくい字。

字は替わっても、書き方は同じだった。

日付。

番号。

回数。


ティアは、白い紙を一枚出して、鉛筆で、線を一本引いた。

横に、年。

縦に、その年のちらつきの合計の数。


帳面の四百年分を、十年ごとに足していった。


三二〇〇年代の最初の十年。

合計、四十一回。


三三〇〇年代の最初の十年。

合計、五十八回。


三四〇〇年代の最初の十年。

合計、九十回。


三五〇〇年代の最初の十年。

合計、百六十三回。


三五九〇年代の、今までの八年。

合計、二百七十回。


ティアは、紙の上に、点を打っていった。

点を、線で結んだ。


線は、最初の三百年、ほとんど平らだった。

少しずつ、少しずつ、上がっていた。

それから、この百年で、急に反り返っていた。


四百年前の誰かも、三百年前の誰かも、二百年前の誰かも、毎晩、数を書いた。

誰も、四百年分を、一枚の紙に並べてみなかった。

並べる必要が、無かったからだ。

毎晩の数は、幅の中だった。

去年と比べれば、少し多いだけだった。

少し多いだけの年が、四百年、続いていた。


ティアは、紙を持ったまま、窓の外を見た。

夜明け前の空に、集光網の白い帯が、薄く光っていた。


鉛筆の線は、帳面を書き継いだ何十人かの、誰の手でも引けた線だった。

誰も、引かなかった。



朝の交代のとき、ティアは、その紙をオーウェンに渡した。


オーウェンは、夜番の席で、紙を受け取った。

眼鏡を掛けずに、紙を目から遠ざけて、長いあいだ見ていた。


「……四百年分か」


「十年ごとに、足しました。師匠たちの帳面の数を」


オーウェンは、紙の上の線を、指でなぞった。

平らなところ。

少しずつ上がっているところ。

この百年で、反り返っているところ。


「俺の字の数も、入ってるな」


「入ってます。三五五〇年代から、オーウェンさんの字です」


オーウェンは、紙を膝の上に置いた。


「俺は、毎晩、数を書いた。四十年。先月より多いとか、少ないとか、女房と話した。

一枚に並べたことは、一度もなかった」


「皆、そうでした。四百年」


「並べたら、こうなるって、誰も思わなかったのかね」


オーウェンは、窓の外の、朝の赤い平原を見た。


「……思ったのかもしれないな。思って、並べるのが、怖かったのかもしれない」


オーウェンは、紙を畳んで、ティアに返した。


「報告書に、これも付けろ。紙のまま。お前の字のまま」



報告書は、ティアが書いた。


オーウェンが、横で見ていた。

手順書に、報告書の書式は無かった。

幅を外れた鏡群の交換の報告なら、書式がある。

主骨の側の面に、ひびの形が写っていたという報告の書式は、どこにも無かった。


ティアは、白い書式に、一から書いた。


交換した継手の番号。

主骨の側の面の、拡大の像。

細い線の向きと、数と、長さ。

それから、四百年前に手で写された図の、一行。


「主骨 第一期建設分 設計寿命 一三三〇年 交換不可(一体成形)」


最後に、ティアは、自分の帳面の数字を書き足した。

第百十六鏡群のあたりの、白いちらつきの回数。

十分に一回。

七分に一回。

五分に一回。

交換のあと、無し。


それから、報告書の後ろに、二枚を綴じた。

一枚は、軌道の保守艇のラヒムが撮った、主骨の表面の白い筋の写真。

手順書に無い、見習いの名前で頼んだ写真。

もう一枚は、四百年分のちらつきの数を、十年ごとに足して、鉛筆で線にした紙。

何十人もの技師の字を、ティアの字で一本に繋いだ線。


写真にも、紙にも、書式は無かった。

書式の無いものを、書式の無いまま、綴じた。


「……帳面の数字まで、書くのか」


オーウェンが言った。


「書きます。機械の数字は幅の中でした。でも、帳面の数字は、同じじゃなかった。

幅の中でも、変わってたんです」


オーウェンは、何も言わなかった。

ただ、報告書の一番下の、報告者の欄に、ティアの名前の横に、自分の名前を並べて書いた。


「見習い一人の名前じゃ、読まれないからな」


送り先は、キャンベラ集光網設計院。

上の段の、そのまた上の段の人たちに、読まれるはずの書類だった。


送信した。



返事は、十九日後に来た。


「カーナボン軌道管制所 オーウェン・マクレイ技師/ティア・ロウ見習い技師。報告を受理しました。

所見は、上位の審議に回付します。

審議の結果が出るまで、現行の保守手順書に従い、保守業務を継続してください。なお、

原設計の図の写しとされる資料については、その出所と真正性が確認できないため、

審議の資料とはいたしません」


ティアは、その返事を、三回読んだ。


受理しました。

回付します。

継続してください。


「……これで、終わりですか」


オーウェンは、食堂の古い暦の前で、茶を飲んでいた。


「終わりじゃない。受理された」


「受理されて、回付されて、それで」


「それで、たぶん、何年か経って、審議の結果が来る。現行の手順を継続されたい、ってな」


オーウェンは、暦を見上げた。


「俺の師匠も、似たような報告を出したことがあるらしい。帳面に、そう書いてある。四十年前だ。

返事は、受理しました、だった。審議の結果は、まだ来てない」


ティアは、暦を見た。


今年の暦。

去年の暦と、同じ祝日、同じ行事、同じ配光の切り替えの日。

来年の暦も、同じだろう。

再来年も。

三十二年後も。


「変わらないってのは、いいことだ」


オーウェンが言った。

最初の日と、同じ言葉だった。

でも、言い方が違った。

最初の日は、誇らしげだった。

今は、何かを確かめるように、ゆっくり言った。


「誰も困ってないってことだからな。困ってないうちは、誰も、変えようとしない。

変えようとしないうちに、変わらなきゃいけない時が、来る」



ティアは、それから、別のことを始めた。


管制所の端末から、世界中の軌道管制所の、保守の技師たちに、短い伝言を送った。

全部で、四十一の管制所。

南アメリカの西の海岸。

アフリカの南の端。

北の凍った島。

どこも、カーナボンと同じように、赤い砂や、白い氷や、灰色の海の、人の少ない場所にあった。


伝言は、短かった。


「主骨の側の面を、見てください。交換で外した継手の、主骨に嵌まっていた側の面です。

手順書の検査の項目には、ありません。拡大の鏡で見ると、細い線が写っていることがあります。

見えたら、教えてください」


一週間、返事は来なかった。


二週間目に、一通来た。

南アメリカの西の海岸の、アタカマ管制所からだった。


「見ました。うちの倉庫に、検査済みで戻した継手が四十個あります。全部、主骨の側を見ました。

十一個に、線が写っていました。向きは、全部同じでした」


三週間目に、もう二通来た。

アフリカの南の端と、北の凍った島から。


「九個に写っていた」

「写っていた。うちの一番古い技師が、帳面を持っていた。

四百年前の図の写しは無いが、白いちらつきの記録が三百年分ある」


一か月で、十四の管制所から、返事が来た。


ティアは、返事を、全部、自分の帳面に書き写した。

管制所の名前と、継手の数と、線の写っていた数。

それから、白いちらつきの記録がある管制所の、記録の年数。


帳面は、すぐにいっぱいになった。

ティアは、売店で、新しい帳面を三冊買った。


一か月目の終わりに、アタカマ管制所から、声の通信が入った。


伝言ではなく、声だった。

管制所どうしが声で話すのは、交換の手順の確認のときだけの決まりだった。

その決まりを、向こうが破ってきた。


画面に映ったのは、白い髪の女だった。

オーウェンと同じくらいの年に見えた。

後ろに、灰色の岩山と、乾いた空が見えた。


「カーナボンのティア・ロウさん?」


「……はい」


「アタカマのイネス・カルデロン。ここの一番古い技師」


イネスは、手に、古い帳面を持っていた。

紐で縛った、茶色く変色した帳面だった。

オーウェンの師匠たちの帳面と、よく似ていた。


「あなたの伝言を読んで、うちの帳面の、一番最初のページを開いたの」


イネスは、帳面を画面のほうへ向けた。


一番最初のページに、鉛筆の図が描いてあった。


太い輪の、断面のような図。

何層もの構造。

小さな字の、数字と記号。


カーナボンの帳面の図と、線の一本一本まで、同じだった。


図の下に、一行、字があった。


「主骨 第一期建設分 設計寿命 一三三〇年 交換不可(一体成形)」


その下に、別の字で。


「カーナボンより送られた写しを、手で写す。三二〇一年」


ティアは、画面を見つめたまま、息ができなかった。


「四百年前にね」


イネスが言った。


「あなたのところの誰かが、うちの誰かに、写しを送ってたの。どうやって送ったのかは、書いてない。

たぶん、あなたと同じように、手順に無い伝言で。うちの誰かは、それを写した。

写して、帳面の一番最初に貼った。それから四百年、誰も、この図のことを、どこにも言わなかった」


イネスは、帳面を閉じた。


「言わなかったのは、たぶん、言っても、受理されるだけだって知ってたから」


「……今は」


「今は、あなたがいる。十四の管制所から返事が来てるんでしょう。

うちの帳面の図も、写しの出所として、あなたの報告に足していいわ。カーナボンから、アタカマへ。

三一九四年と、三二〇一年。二つの管制所の、二つの手で写された同じ図。

出所が確かめられないなら、確かめられるまで、数を増やせばいい」


イネスは、少しだけ笑った。


「わたしは、七十四。三十二年後には、生きてない。でも、数を増やす手伝いなら、できる」



「何をするつもりだ」


ある夜、屋上で、オーウェンが聞いた。


「分かりません」


ティアは、正直に言った。


「上の段の人たちは、四百年前の図を、資料にしないって言いました。出所が確かめられないから。

だったら、出所の確かなものを、たくさん集めます。十四の管制所の、継手の面。

三百年分の、ちらつきの記録。全部、手で書いて、名前を付けて」


「集めて、どうする」


「もう一回、送ります。それでも受理されるだけなら、また集めて、送ります」


オーウェンは、しばらく黙っていた。

南の空の、集光網の白い帯を見上げていた。


「三十二年あるな」


「三十二年しか、ないです」


「三十二年あれば、何かできるかもしれない。できないかもしれない」


オーウェンは、湯呑みの茶を飲み干した。


「俺の師匠たちは、四百年、数えるだけだった。数えて、書いて、次に渡した。誰も、変えられなかった。

変えようとも、しなかったのかもしれない」


「……オーウェンさんも」


「俺もだ。四十年、幅の中なら同じと読んできた」


オーウェンは、立ち上がった。


「お前は、読むな。同じと」



十二月の最後の週、管制所の食堂で、オーウェンの送別の夕食が開かれた。


技師八人と、見習い二人。

食堂の長い机に、町から取り寄せた肉と、焼いた魚と、赤い砂の平原でしか採れない、

小さな酸っぱい実が並んだ。

皆、いつもより少しだけ多く喋った。

オーウェンは、いつもより少しだけ少なく喋った。


食事の終わりに、管制所の所長が、短い挨拶をした。


「オーウェン・マクレイ技師は、四十年、一度も網を止めませんでした」


皆が、拍手をした。

オーウェンは、湯呑みを持ったまま、軽く頭を下げた。


拍手が止むと、オーウェンは、湯呑みを机に置いた。


「止めなかったんじゃない。止まらなかっただけだ」


食堂が、少し静かになった。


「網は、千三百年、止まらなかった。俺がいてもいなくても、止まらなかった。

俺がしたのは、数字を読んで、同じと言うことだけだ」


オーウェンは、壁の古い暦を見上げた。


「来年からは、同じと言わない奴が、一人いる。そいつの言うことを、聞いてやってくれ」


オーウェンは、それだけ言って、また湯呑みを持った。


皆が、ティアのほうを見た。

ティアは、机の下で、自分の帳面を握っていた。



オーウェンが管制所を出たのは、十二月の終わりだった。


最後の朝番の日、オーウェンは、いつもどおり六時に夜番と交代して、真ん中の席に座った。

三百四十の鏡群の数字を、上から順に読み上げた。

四十分かけて。


ティアは、後ろの席で、それを聞いていた。


「第百十五、同じ」


オーウェンの声は、いつもと同じだった。


「第百十六」


オーウェンは、そこで止まった。


半拍。


「……幅の中。先週より、上の端に、〇・〇二寄った」


ティアは、顔を上げた。


オーウェンは、振り向かずに、読み上げを続けた。


「第百十七。幅の中。先週と、変わらず。第百十八。幅の中。先週より、下に〇・〇一」


オーウェンは、三百四十の鏡群を、全部、そうやって読んだ。

同じ、と一度も言わなかった。

いつもの倍の、八十分かかった。


読み終えて、オーウェンは、真ん中の席から立ち上がった。


「引き継ぎだ」


オーウェンは、上着のポケットから、茶色く変色した帳面を出した。

紐で縛った、師匠たちの帳面だった。


ティアは、両手でそれを受け取った。

重かった。

四百年分の、鉛筆の字の重さだった。


「一番最初のページの図は、お前の帳面にも、写しとけ」


オーウェンは言った。


「写して、お前の名前と、今日の日付を書いとけ。いつか、誰かが、出所を聞いてきたら、そう答えろ。

三一九四年に、名前も分からない誰かが写した。三五九八年に、ティア・ロウが写した。

そうやって、繋がってるって」


ティアは、帳面を胸に抱えた。


「……写します」


オーウェンは、管制所の迎えの車に乗った。

赤い砂の平原の一本道を、町のほうへ走っていった。

車は、すぐに、砂埃の向こうに小さくなった。


ティアは、管制所の門の前で、それを見送った。

見えなくなるまで、見送った。



その夜、ティアは、屋上の古い木の椅子に座って、帳面を開いた。


オーウェンの師匠たちの帳面の、一番最初のページ。

四百年前の鉛筆の図。


ティアは、自分の新しい帳面の、一番最初のページに、それを写した。


太い輪の断面。

何層もの構造。

小さな字の、数字と記号。

意味の分からない記号も、分からないまま、一本の線も省かずに写した。

写しながら、何度も手が止まった。

線の一本一本を、四百年前の誰かが、同じように写したのだと思った。

その誰かも、きっと、意味の分からない記号を、分からないまま写したのだ。


写し終えて、図の下に書いた。


「主骨 第一期建設分 設計寿命 一三三〇年 交換不可(一体成形)」


その下に、書いた。


「三一九四年の写しより、手で写す。三五九八年十二月三十日。ティア・ロウ」


鉛筆を置いて、空を見上げた。


南の空に、集光網の白い帯が、東の地平線から西の地平線まで架かっていた。

千三百年、そこにあった帯だった。

天の川の手前で、同じ明るさで、光っていた。


ティアは、帯の一か所を、見つめた。


第百十六鏡群のあたり。


一分。

二分。


ちらつかなかった。


五分。

十分。


ちらつかなかった。


帯は、静かに、白く光っていた。

何も変わらないように見えた。


ティアは、帳面の次のページを開いて、書いた。


「三五九八年 十二月三十日 夜。第百十六鏡群のあたり。ちらつき、無し。十分間」


それから、少し考えて、一行足した。


「同じ、ではない。十分間、見た」


食堂の壁の古い暦は、明日、新しい暦に掛け替えられる。

中身は、今年と同じだ。

祝日も、行事も、配光の切り替えの日も。


違うのは、年の数字だけだった。


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