未設計
書類の一番上の欄に、ノエル・ガルニエは、いつも同じことを書く。
「設計書番号:なし」
リヨンの第二職能学院の、入学審査の窓口だった。
窓口の職員は、ノエルの書いた書類を受け取って、一番上の欄を見た。
見て、手が止まった。
「……なし?」
「なしです」
「紛失ではなく」
「最初から、ありません」
職員は、書類から顔を上げて、ノエルを見た。
上から下まで、眺めた。
ノエルは、その目に慣れていた。
十七年、同じ目で見られてきた。
背は、同じ年の男子の平均より、五センチ低い。
髪は、はっきりしない茶色。
目は、左右で少しだけ色が違う。
右が灰色で、左が、灰色に緑が混じっている。
設計された子どもに、そういう目の子はいない。
左右の目の色を揃えるのは、設計の一番最初の項目だからだ。
「未設計……の方ですね」
職員は、言葉を選ぶように言った。
「はい」
「少々、お待ちください」
職員は、奥の部屋へ行った。
しばらく戻ってこなかった。
ノエルは、窓口の前の椅子に座って、待った。
待合室には、他にも入学志望者が何人かいた。
皆、ノエルと同じくらいの年だった。
皆、背が高く、肩幅が揃っていて、目の色が左右で同じだった。
一人の女の子の左耳の後ろに、小さな銀色の跡があった。
外部デバイスを後から植えた跡だ。
癒着の跡、と呼ばれる。
設計のあとで、足りない機能を足した印。
今は、それもおしゃれの一つになっていた。
三十分後、職員が戻ってきた。
後ろに、白衣の女を連れていた。
「ガルニエさん。第二職能学院の医療科の入学には、設計書の提出が必須です。
保険と、実習の安全の基準が、設計書の番号に紐付いているので」
「知ってます。だから、なしって書きました」
「ええ。それで」
職員は、後ろの白衣の女を見た。
「未設計の方の場合、後付けの設計書を作ることになります。
遺伝設計士の方に、あなたの体を調べてもらって、設計書と同じ形式の書類を作ります。
こちらが、担当の先生です」
白衣の女は、四十を少し過ぎたくらいに見えた。
黒い髪を短く切って、細い眼鏡を掛けていた。
眼鏡を掛けている人間を、ノエルは久しぶりに見た。
目の設計が普通になってから、眼鏡は、ほとんど見かけなくなっていた。
「エリーズ・ルロワです。リヨン中央設計所の」
女は、ノエルに手を差し出した。
ノエルは、少し迷ってから、その手を握った。
乾いた、冷たい手だった。
「後付けの設計書を作るのは、わたしも初めてです」
エリーズ・ルロワは言った。
「未設計の方に会うのも、実は、初めて」
ノエルの母のクレールは、その話を聞いて、台所で黙り込んだ。
二人の住まいは、リヨンの旧市街の、古い石造りの建物の三階にあった。
窓から、ソーヌ川が見える。
川の向こうの丘に、白い大聖堂が建っている。
何百年も前からある大聖堂だった。
設計の時代になっても、あの大聖堂の形は変わらない。
「……設計所の人に、体を調べられるの」
クレールは、鍋をかき混ぜる手を止めずに言った。
「調べられるだけだよ。設計されるわけじゃない。後から、書類を作るだけ」
「分かってる」
クレールは、鍋の火を弱めた。
それから、ノエルのほうを振り向かずに言った。
「……医療科じゃなきゃ、駄目なの」
「駄目じゃないけど」
ノエルは、食卓の椅子に座った。
「医療科に行きたいんだ。人の体を診る仕事がしたい。母さんも知ってるだろう」
クレールは、知っていた。
ノエルが十の年から、図書館の古い医学書を読みあさっていたことを。
設計の時代の医学書ではなく、設計の前の時代の。
人の体が、生まれるまで何が起きるか分からなかった時代の医学書を。
「設計されてない体のことは、設計の時代の医学書には、書いてないんだ」
十二のとき、ノエルは、母にそう言った。
「だから、昔の本を読んでる。僕の体のことが書いてあるのは、昔の本だけだから」
クレールは、鍋を食卓に運んで、ノエルの向かいに座った。
「……あの人たちは、あんたの体を見て、何て言うかしらね」
「何も言わないよ。書類を作るだけだって」
「そうだといいけど」
クレールは、スープを二つの皿に注いだ。
それから、しばらく、自分の皿を見ていた。
「ノエル。あの人たちが、あんたの体を見て、何か言っても」
「うん」
「あんたの体に、間違ってるところは、一つもないからね」
ノエルは、少し笑った。
母は、十七年、同じことを言ってきた。
ノエルが、転んで膝を擦りむいたときも。
学校の健康診断で、一人だけ別の部屋に呼ばれたときも。
同じ年の子たちに、「型なし」と呼ばれたときも。
「知ってるよ」
ノエルは言った。
クレールは、スープに口をつけなかった。
窓の外の、白い大聖堂を見ていた。
ノエルは、母が設計をしなかった理由を、知っていた。
小さいころに、一度だけ聞いた。
ノエルには、兄がいた。
ノエルが生まれる四年前に、生まれた兄だった。
兄は、設計された。
当時、いちばん流行っていた型で。
兄は、二つの年に死んだ。
型に、見つかっていなかった欠陥があった。
型落ちの通知が来たのは、兄が死んだ半年後だった。
母は、それから、ノエルを身ごもったとき、設計所へ行かなかった。
設計しないで産むことは、禁じられてはいない。
ただ、ほとんど誰もしない。
保険が、きかない。
学校の健康診断の基準が、合わない。
職業の適性の審査が、受けられない。
何もかもが、設計書の番号を前提にできている。
それでも、母は、行かなかった。
「設計した子は、死んだ。設計しなかった子は、生きてる。それだけよ」
母は、いつもそう言う。
それが理屈になっていないことを、母も分かっているはずだった。
設計しなかった子が死ぬことも、ある。
設計した子の、ほとんどは生きている。
それでも、ノエルは、母にそれを言ったことがない。
学校の健康診断の日のことを、ノエルは、毎年、同じように覚えている。
学年の全員が、講堂に並ぶ。
一人ずつ、手首の端末を、測定の機械にかざす。
機械が、設計書の番号を読んで、その型の基準の値と、今の体の値を比べる。
ずれがあれば、赤く光る。
無ければ、緑に光る。
皆、緑に光って、次の列へ進む。
ノエルの番が来ると、機械は、何色にも光らない。
読む番号が、無いからだ。
測定係の職員が、名簿を見て、ノエルの名前の横の印に気づく。
それから、決まった言葉を言う。
「ガルニエ君は、別室で」
別室は、講堂の裏の、物置のような小さな部屋だった。
中に、古い型の測定の器具と、年寄りの看護師が一人。
看護師は、毎年、同じ人だった。
名前は、マルトといった。
設計の前の時代の測り方を知っている、区で最後の看護師の一人だった。
マルトは、ノエルの背丈を、壁の目盛りで測った。
体重を、古い秤で量った。
胸に、冷たい聴診器を当てて、長いあいだ、心臓の音を聞いた。
「今年も、元気ね」
マルトは、毎年、そう言った。
「基準は」
十三の年、ノエルは聞いた。
「僕の基準は、何なんですか。皆は、型の基準と比べてるのに」
マルトは、聴診器を首に掛け直して、少し考えた。
「去年のあんたよ」
「去年の」
「去年のあんたと比べて、背が伸びた。体重も増えた。心臓の音は、去年と同じ。揺らぎも、去年と同じ。
だから、元気」
マルトは、ノエルの頭を、ぽんと叩いた。
「型なんか無くたって、比べるものは、あるのよ」
講堂に戻ると、同じ学年の何人かが、ノエルを見て笑った。
「型なし、物置から帰ってきた」
ノエルは、笑い返さなかった。
怒りもしなかった。
去年の自分と比べて、背が伸びたことを、考えていた。
マルトは、ノエルが十五の年に、引退した。
それからは、別室に、年寄りの看護師はいなかった。
古い器具を、ノエルが自分で使って、自分で測った。
去年の自分の値を、自分で手帳に書いておいて、比べた。
同じ頃、エリーズ・ルロワは、自分の家の書斎で、ノエル・ガルニエの検査の予約表を見ていた。
リヨンの新市街の、高い塔の二十八階だった。
書斎の窓から、旧市街の古い屋根の群れと、白い大聖堂が見えた。
エリーズは、二十年、遺伝設計士をしている。
リヨン中央設計所で、一年に四百組ほどの夫婦の相談を受ける。
子どもの体を、生まれる前に、どう設計するかの相談を。
相談は、決まった順番で進む。
まず、病気への強さ。
次に、環境への適応。
それから、背丈、体つき、目の色、髪の色。
最後に、性別。
両性や、どの性別とも子を作れる体も、選べる。
夫婦は、たいてい、その年に流行っている型を選ぶ。
流行りの型は、たくさんの子で使われていて、実績があるからだ。
実績があれば、安心できる。
エリーズは、その安心を、二十年、売ってきた。
予約表の、ノエル・ガルニエの欄を見た。
「設計書番号:なし」
エリーズは、自分の仕事の中で、この欄が空になっている書類を、初めて見た。
後付けの設計書。
生まれてしまった体を調べて、それが、もし設計されていたら、どんな設計書になっていたかを書く。
型の番号は、付かない。
どの型にも、当てはまらないはずだからだ。
代わりに、項目ごとに、実際の体の状態を書く。
病気への強さ。
環境への適応。
背丈、体つき、目の色。
目の色、の欄に、エリーズは、何と書けばいいのか、少し考えた。
左右で違う、と書くしかない。
設計書の書式には、左右で違う目の色を書く欄は無い。
書斎の戸が開いた。
「お母さん。まだ起きてるの」
娘のカミーユだった。
十七になる。
背が高く、肩幅が揃っていて、目の色は左右とも、澄んだ青だった。
十七年前、いちばん流行っていたヴェルレーヌ型で設計した子だった。
エリーズが、自分で設計した。
「仕事。明日、珍しい検査があるの」
「珍しいって」
「未設計の子の、後付けの設計書を作るの。第二職能学院の医療科を受ける子」
カミーユの眉が、少しだけ動いた。
「……ノエル・ガルニエ?」
エリーズは、娘の顔を見た。
「知ってるの」
「同じ学校。同じ学年。有名だもん。型なし」
カミーユは、戸口にもたれて、言った。
「医療科、受けるんだ。わたしも受けるのに」
「そう」
「型なしが、医療科ね」
カミーユの声には、軽い笑いが混じっていた。
エリーズは、それを聞き流さなかった。
「カミーユ。その呼び方は、やめなさい」
「みんな、そう呼んでるよ」
「みんなが呼んでても」
カミーユは、肩をすくめて、戸を閉めた。
廊下を遠ざかる足音がした。
エリーズは、予約表に目を戻した。
型なし。
エリーズ自身が、二十年、型を売ってきた。
型があることを、安心として売ってきた。
型が無いことが、呼び名になるのは、エリーズたちが売ってきたものの、裏側だった。
検査は、リヨン中央設計所の、一番奥の部屋で行われた。
部屋は、白くて、明るかった。
壁に、大きな画面が一枚。
部屋の真ん中に、寝台が一つ。
寝台に横になると、天井から、薄い光の輪がゆっくり降りてきて、ノエルの体の上を、
頭から足まで通り過ぎた。
痛くも、熱くもなかった。
それを、三回繰り返した。
「終わりです。起きていいですよ」
エリーズ・ルロワが言った。
ノエルは、寝台の上で体を起こした。
壁の画面に、ノエルの体の図が映っていた。
骨。
内臓。
血の流れ。
それから、細かい記号の列。
ノエルには、半分も読めなかった。
エリーズは、画面の前に立って、長いあいだ黙っていた。
「……何か、悪いところがありましたか」
ノエルは聞いた。
「いいえ」
エリーズは、画面から目を離さずに答えた。
「悪いところは、ありません。健康です。とても」
「じゃあ」
「ただ、ばらばらなの」
エリーズは、画面の一か所を指でなぞった。
「設計された体は、揃ってるの。左右が揃ってる。上下の釣り合いが揃ってる。
骨の太さも、血の流れの速さも、決めた値の近くに揃ってる。
だから、設計書の書式は、揃った値を書くようにできてる」
エリーズは、画面の別の場所をなぞった。
「あなたの体は、揃ってない。右の鎖骨が、左より少し長い。
心臓の打ち方に、ほんの少しだけ、揺らぎがある。悪い揺らぎじゃない。健康な揺らぎ。
ただ、設計された体には、無い揺らぎ」
ノエルは、自分の鎖骨に、指で触れた。
右と左。
違いは、分からなかった。
「それを、設計書の書式に、どう書けばいいのか、わたしにも分からない」
エリーズは、ようやくノエルのほうを向いた。
眼鏡の奥の目が、少し疲れて見えた。
「目の色の欄も。書式には、一つの色しか書けない。あなたの目は、二つの色だから」
「右が灰色で、左が灰色と緑です」
「知ってる。今、見た」
エリーズは、寝台の横の椅子に腰を下ろした。
「ねえ。一つ、聞いていい?仕事とは、関係ないの」
「はい」
「あなたの体は、誰も決めてない。生まれる前に、誰も、何も決めなかった。
それって、あなたにとって、怖いこと?」
ノエルは、少し考えた。
「……分かりません。僕は、決められた体を持ったことがないから、比べられない」
「そうね」
「先生は、怖いですか。僕の体を見て」
エリーズは、すぐには答えなかった。
眼鏡を外して、指で目頭を押さえた。
「……少しね」
エリーズは言った。
「わたしは、二十年、体を決める仕事をしてきた。決めることで、怖いことを減らせると思ってきた。
病気になる怖さ。どんな子が生まれるか分からない怖さ。それを、型で減らす。型の実績で、安心を売る」
エリーズは、眼鏡を掛け直した。
「あなたの体を見ると、その怖さが、そのまま生きてるのが分かる。何も減らしてない体。
それで、ちゃんと健康に、十七年、生きてる。そういう体を見ると、少し怖い。
わたしが二十年やってきたことが、何だったのかって」
ノエルは、何も言わなかった。
設計士が、そんなことを言うとは思っていなかった。
「ごめんなさい。仕事と関係ない話をした」
エリーズは、立ち上がった。
「後付けの設計書は、二週間で作ります。書式に合わないところは、わたしが、どうにかする」
「どうにかって」
「まだ、分からない」
エリーズは、少しだけ笑った。
笑うと、急に若く見えた。
「分からないことを、どうにかするのも、仕事よ」
その週の木曜、エリーズは、いつものように、設計の相談を六組受けた。
四組目の夫婦は、三十代の前半だった。
二人とも、ヴェルレーヌ型の世代より少し上の、揃った体をしていた。
妻の腹は、まだ目立たなかった。
「今年いちばん人気の型を、お願いしたいんです」
夫が言った。
画面の型の一覧を、指で示した。
一覧の一番上に、今年の流行りの型の名前があった。
その二つ下に、ヴェルレーヌ型の名前があった。
流行りは過ぎたが、まだ一覧に残っていた。
「病気への強さ、環境への適応、背丈と体つきは、型の標準で。目の色は、青がいいです。
妻が、青がいいって」
「性別は」
「……それは、二人で、まだ迷ってて」
妻が、少し恥ずかしそうに笑った。
エリーズは、いつもの順番で、説明を始めた。
型の実績。
型で設計した子の数。
問題が見つかった例の少なさ。
二十年、何千回も繰り返してきた説明だった。
言葉は、考えなくても出てきた。
「安心ですね」
妻が言った。
「ええ。実績がありますから」
エリーズは、いつものように答えた。
答えながら、ノエル・ガルニエの体の図を思い出していた。
右の鎖骨が、左より少し長い。
心臓の打ち方の、健康な揺らぎ。
左右で違う目の色。
十七年前、エリーズも、この椅子の反対側に座っていた。
カミーユを身ごもっていたときだった。
夫と二人で、同僚の設計士の前に座って、型の一覧を見た。
結局、同僚には頼まずに、自分で設計した。
一番実績のある型を。
一番安心な型を。
目の色は、青にした。
夫が、青がいいと言ったからだ。
夫とは、カミーユが五つのときに別れた。
カミーユの目は、今も、夫の好きだった青のままだった。
「ルロワ先生?」
妻が、不思議そうにエリーズを見ていた。
エリーズは、説明の途中で、黙り込んでいたらしかった。
「……ごめんなさい。続けます」
エリーズは、説明を続けた。
いつもの言葉で。
いつもの順番で。
夫婦は、今年いちばん人気の型を選んで、満足そうに帰っていった。
夫婦が出ていったあと、エリーズは、相談室に一人で座っていた。
画面の型の一覧を、長いあいだ見ていた。
一覧のどこにも、「なし」という欄は無かった。
同じ週、学校の生物の実習で、ノエルは、一人だけ別の机に座らされた。
医療科を受ける生徒のための、放課後の実習だった。
自分の血を一滴取って、機械にかけて、数値を読む。
設計された生徒の血は、設計書の番号と照らして、基準の値が機械に出る。
ノエルの血は、照らす番号が無い。
機械は、「基準値:該当なし」と表示して、止まった。
「ガルニエ君は、今日は、見学で」
実習の教師は、困った顔でそう言った。
ノエルは、教室の隅の机に座って、他の生徒たちが数値を読むのを見ていた。
二十人ほどの生徒が、二人ずつ組になっていた。
皆、背が高く、肩幅が揃っていた。
一人だけ、組になっていない生徒がいた。
カミーユ・ルロワだった。
カミーユは、自分の実習台の前に立って、機械の画面を見ていた。
組の相手が、今日は休みらしかった。
しばらくして、カミーユは、実習台の上の器具を持って、教室の隅へ歩いてきた。
ノエルの机の前に立った。
「見学なんでしょ」
「うん」
「じゃあ、わたしの組、手伝って。相手がいないの」
ノエルは、カミーユの顔を見た。
澄んだ青い目が、左右で同じ色をしていた。
「……いいの」
「何が」
「型なしと組んで」
カミーユは、少しだけ眉を寄せた。
「母に、その呼び方やめろって言われた」
「お母さん?」
「エリーズ・ルロワ。あんたの後付けの設計書を作ってる人」
ノエルは、驚いて、何も言えなかった。
カミーユは、器具を机の上に置いた。
「母が、珍しく、仕事の話を家でしたの。あんたの体、ばらばらなんだってね」
「……健康な、ばらばらだって」
「知ってる。母、そう言ってた」
カミーユは、ノエルの向かいの椅子に座った。
器具の中から、細い針のついた小さな筒を取り出して、ノエルの前に置いた。
「わたしの血、取って。あんたが読んで。わたしが、あんたに数値の読み方、教える」
ノエルは、筒を手に取った。
「僕の血は、読めないんだけど」
「知ってる。だから、わたしのを読むの。わたしの血なら、機械が基準を出す。
基準と比べて読む練習は、わたしの血でもできるでしょ」
カミーユは、自分の左手の人差し指を、ノエルのほうへ差し出した。
「医療科、受けるんでしょ。見学で終わらせてたら、受からないよ」
ノエルは、しばらく、差し出された指を見ていた。
それから、筒を、カミーユの指先に当てた。
実習は、それから、週に二回、二人でやるようになった。
カミーユは、教えるのが上手かった。
数値の読み方。
基準との比べ方。
異常の見つけ方。
設計の時代の医学の、決まった手順を、順番どおりに。
ノエルは、教えられるのが上手かった。
一度聞いたことは、忘れなかった。
それに、カミーユの知らないことを、たくさん知っていた。
設計の前の時代の医学書に書いてあったこと。
人の体が、生まれるまで何が起きるか分からなかった時代の、病気の見つけ方。
「それ、どこで習ったの」
ある日、ノエルが、古い医学書の話をすると、カミーユが聞いた。
「図書館。三百年くらい前の本」
「三百年前の医学なんて、役に立つの」
「僕の体には、役に立つ。設計の時代の本には、僕みたいな体のことは、書いてないから」
カミーユは、少し黙った。
「……ねえ。聞いていい」
「うん」
「なんで、あんたのお母さん、設計しなかったの」
ノエルは、器具を片付ける手を止めた。
カミーユは、慌てたように言い足した。
「言いたくなかったら、いい」
「いや」
ノエルは、器具を箱にしまった。
「兄がいたんだ。僕が生まれる四年前に。兄は、設計された。その年、いちばん流行ってた型で。
ランボー型っていう」
カミーユの顔から、少しだけ色が引いた。
ランボー型の型落ちは、設計の授業で、必ず習う。
二十年ほど前、その型で生まれた子の一部に、二つの年までに重い病気が出ることが分かった。
全部の子ではない。
千人に何人か。
型落ちの通知が出たのは、分かってから半年後だった。
「兄は、二つで死んだ。通知が来たのは、死んだあと。母は、それから、設計所に行かなくなった」
ノエルは、箱の蓋を閉めた。
「設計した子は死んだ、設計しなかった子は生きてる、って母は言う。
理屈になってないのは、母も分かってる。でも、そう言わないと、たぶん、立ってられないんだと思う」
カミーユは、長いあいだ黙っていた。
実習室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
カミーユの青い目に、その光が映っていた。
左右で同じ色の、揃った青だった。
「……わたし、ヴェルレーヌ型なの」
カミーユが言った。
「十七年前に、一番流行ってた型。母が、自分で設計した。
母の同僚が設計した子も、この学年に、たぶん四割くらいいる。実績が一番ある型だって。
一番安心な型だって」
「うん」
「ランボー型も、そう言われてたんだよね。流行ってたときは」
ノエルは、答えなかった。
答えられなかった。
カミーユは、自分の左手の人差し指を見た。
週に二回、ノエルが針を当てる指だった。
小さな点の跡が、いくつも並んでいた。
「……わたし、自分の体、揃ってて、安心だって思ってた。今の今まで」
カミーユは、指を握りしめた。
「揃ってても、安心じゃないことって、あるんだね」
型落ちの通知が、リヨン中央設計所に届いたのは、その十日後の朝だった。
エリーズは、自分の部屋の机で、それを読んだ。
「型落ち通知。対象:ヴェルレーヌ型(二八七二年〜二八七九年設計分)。
内容:十代の後半から二十代の前半にかけて、聴力が段階的に衰える例が、対象の約三割に確認された。
命に関わるものではない。衰えの速さと程度には、個人差がある。
外部デバイスによる補助で、日常の生活に支障の無い水準まで補える。
各設計所は、対象者とその家族に、速やかに通知すること」
エリーズは、通知を二回読んだ。
三割。
ヴェルレーヌ型は、八年間、リヨンで一番流行った型だった。
この設計所だけで、三千人以上が、その型で設計された。
エリーズ自身が設計したのは、四百人ほど。
その三割。
百二十人。
その中に、カミーユがいた。
いるかどうかは、まだ分からない。
三割だ。
七割は、何も起きない。
何も起きないかもしれない。
エリーズは、机の引き出しから、カミーユの設計書を出した。
十七年前に、自分で書いた書類だった。
型の番号の欄に、ヴェルレーヌ型と書いてある。
その下の、設計者の署名の欄に、自分の名前がある。
エリーズは、自分の名前を、長いあいだ見ていた。
通知の手順は、決まっていた。
対象者の家族に、設計所から連絡する。
面談を組む。
型落ちの内容を、説明する。
検査を受けてもらう。
衰えが始まっていれば、外部デバイスの相談に回す。
百二十人の家族に、エリーズは、連絡しなければならなかった。
一人目は、自分の家族だった。
その日の夕方、カミーユは、学校の実習室で、器具を落とした。
ノエルの隣だった。
いつもの放課後の実習。
カミーユが、ノエルに数値の読み方を説明していた。
説明の途中で、ノエルが何か聞き返した。
カミーユは、聞き返されたことに、気づかなかった。
「カミーユ?」
ノエルが、もう一度言った。
少し大きな声で。
カミーユは、顔を上げた。
ノエルの口が動いているのを見て、それから、自分の右の耳に、手を当てた。
「……ごめん。今、何て」
「さっきの数値の、三つ目の」
カミーユは、ノエルの口元を、じっと見ていた。
ノエルが言い終わると、少し遅れて、頷いた。
「ああ。三つ目ね」
カミーユは、器具を持ち上げて、説明を続けようとした。
その手が、震えていた。
器具が、指から滑って、床に落ちた。
ガラスの割れる音がした。
実習室の他の生徒たちが、一斉に振り向いた。
カミーユは、床の破片を見下ろしていた。
右の耳に、手を当てたままだった。
「……最近、右が、少し遠いの」
カミーユは、小さな声で言った。
「先週から。気のせいだと思ってた」
ノエルは、床にしゃがんで、破片を拾いはじめた。
拾いながら、言った。
「今朝、設計所から、何か来てない?」
カミーユは、ノエルを見下ろした。
「……何で」
「僕の端末に、ニュースが流れてきた。ヴェルレーヌ型の、型落ち」
実習室の空気が、変わった。
何人かの生徒が、自分の端末を取り出して、画面を叩いた。
一人が、声を上げた。
それから、もう一人。
実習室の半分近くの生徒が、画面を見つめて、黙り込んだ。
カミーユは、自分の端末を取り出さなかった。
右の耳に、手を当てたまま、窓の外を見ていた。
窓の外に、旧市街の古い屋根と、白い大聖堂が見えた。
その夜、ルロワの家の食卓で、エリーズは、カミーユに通知を見せた。
カミーユは、それを読んだ。
読み終えて、画面を伏せた。
「知ってる。学校で、みんな見てた」
「カミーユ。明日、設計所で検査を」
「右が、遠いの」
カミーユは、母の言葉を遮った。
「先週から。今日、実習で、ノエルの声が聞こえなかった。器具、落とした」
エリーズは、何も言えなかった。
「三割なんだってね。三割に、入ったんだと思う」
カミーユの声は、平らだった。
怒ってもいなかった。
泣いてもいなかった。
「……ごめんなさい」
エリーズは言った。
「何が」
「あなたを、ヴェルレーヌ型で設計したのは、わたし。わたしが、選んだ。一番実績がある型だって。
一番安心な型だって。あなたのためだと思って」
カミーユは、母の顔を見た。
長いあいだ、見ていた。
「お母さん」
「うん」
「わたしの体を決めたのは、お母さんなんだよね」
エリーズは、頷いた。
「目の色も。背丈も。肩幅も。耳も。全部、お母さんが、ヴェルレーヌ型を選んだから、こうなった」
「……そう」
「じゃあ、わたしの体で、お母さんが決めてないところって、どこ」
エリーズは、答えられなかった。
カミーユは、椅子から立ち上がった。
「ノエルの体は、誰も決めてない。ばらばらで、揃ってなくて、でも健康で、十七年生きてる。
お母さんの型で決めた、わたしの揃った体は、十七年で、耳が遠くなってきた」
カミーユの声が、少しだけ震えた。
「わたし、ノエルに、型なしって言ってた。お母さんに、やめろって言われるまで。
型なしって、ちょっと可哀想な子のことだと思ってた」
カミーユは、自分の右の耳に、手を当てた。
「可哀想なのは、どっちなの」
カミーユは、それだけ言って、自分の部屋へ行った。
戸が、静かに閉まった。
エリーズは、食卓に一人で座っていた。
伏せた端末の上に、手を置いていた。
その手が、冷たかった。
型落ちの通知の電話を、エリーズは、三日かけて百二十の家族に掛けた。
設計所の、自分の部屋の机で。
一件ずつ、名簿の順番に。
一件目の家族は、父親が出た。
エリーズが名乗って、通知の内容を読み上げると、電話の向こうで、長い沈黙があった。
「……命に関わるものでは、ないんですね」
「ありません」
「それなら、いいです。デバイスを植えれば、聞こえるんですね」
「聞こえます。日常に支障の無い水準まで」
「分かりました。検査の予約を、お願いします」
父親は、それだけ言って、電話を切った。
十件目の家族は、母親が出た。
母親は、エリーズの説明を、最後まで黙って聞いた。
聞き終えて、静かに言った。
「ルロワ先生。うちの子を設計したとき、先生は、一番安心な型だとおっしゃいました」
「……はい」
「わたし、その言葉を、十七年、信じてきました。あの子が熱を出したときも、転んだときも。
この子は、一番安心な型だから、大丈夫だって」
「はい」
「これから、何を信じればいいですか」
エリーズは、答えられなかった。
電話の向こうで、母親は、しばらく待っていた。
それから、「検査の予約を」とだけ言って、電話を切った。
三十四件目の家族の父親は、電話口で、怒鳴った。
「あんたたちが売ったんだろう。安心を。金を取って。型落ちだって?車みたいに言うな。
うちの娘は、車じゃない」
エリーズは、受話器を耳に当てたまま、黙って聞いていた。
父親は、五分ほど怒鳴りつづけた。
それから、急に声が小さくなった。
「……娘が、先週から、わたしの声が聞こえないって言うんだ。わたしの声だけ。低い声が、遠いって」
「低い音から、衰えが始まる例が多いと、通知にあります」
「わたしの声が、一番先に、聞こえなくなるのか」
父親は、それきり黙った。
電話の向こうで、父親が泣いているのが分かった。
エリーズは、何も言えずに、受話器を握っていた。
百二十件目を掛け終えたのは、三日目の夜だった。
エリーズは、机の上の名簿を見た。
百二十の名前に、一つずつ、印が付いていた。
名簿の一番上の名前は、カミーユ・ルロワだった。
その印だけは、電話ではなく、食卓で付けた。
エリーズは、名簿を閉じて、部屋の明かりを消した。
暗い部屋の窓から、旧市街の屋根の向こうに、白い大聖堂が、夜の照明に浮かんでいた。
次の週から、学校の空気が変わった。
ヴェルレーヌ型の生徒は、学年に四割いた。
そのうちの三割。
学年の一割ほどの生徒の耳が、少しずつ遠くなりはじめていた。
遠くなりはじめていない生徒も、いつ始まるのか、分からなかった。
始まるかどうかも、分からなかった。
休み時間の廊下が、静かになった。
皆、少しずつ、声を大きくして話すようになった。
話しながら、互いの顔を、以前より長く見るようになった。
口の動きを、読むために。
ノエルは、何も変わらなかった。
ヴェルレーヌ型ではないから。
どの型でもないから。
ノエルの耳は、十七年前と同じように、聞こえていた。
それが、学校の中で、少しずつ、別の意味を持ちはじめた。
「型なしだけ、無事かよ」
ある日、廊下で、誰かが言った。
ノエルの後ろから。
振り向くと、同じ学年の男子が三人、立っていた。
一人の右耳の後ろに、新しい癒着の跡があった。
聴力を補うデバイスを、先週植えたばかりの跡だった。
まだ赤く腫れていた。
「設計してないくせに。型なしのくせに。お前だけ、何ともないのかよ」
ノエルは、何も言わなかった。
言うことが、無かった。
男子は、ノエルの肩を突いた。
強くはなかった。
ノエルは、半歩、後ろに下がった。
「やめなよ」
後ろから、声がした。
カミーユだった。
廊下の向こうから、歩いてきた。
右の耳に、手を当てていなかった。
その代わり、男子たちの口元を、じっと見ていた。
「ノエルが何かした?」
「……何も。でも」
「何もしてないなら、突く理由、無いでしょ」
カミーユは、男子たちの前に立った。
「わたしも、ヴェルレーヌ型。わたしも、右が遠い。来月、デバイスを植える。あんたと同じ」
カミーユは、男子の右耳の後ろの、赤い跡を見た。
「痛かった?」
男子は、急に聞かれて、戸惑った顔をした。
「……少し」
「そう。わたしも、たぶん痛い」
カミーユは、それだけ言って、ノエルの腕を掴んだ。
そのまま、廊下を歩き出した。
男子たちは、追ってこなかった。
廊下の角を曲がったところで、カミーユは、ノエルの腕を離した。
「……ありがとう」
ノエルが言うと、カミーユは、首を振った。
「お礼を言われることじゃない。わたしも、先月まで、あいつらと同じだったから」
カミーユは、壁にもたれた。
「ノエル。あんたが何ともないのは、あんたのせいじゃない。わたしの耳が遠いのも、わたしのせいじゃない。
でも、あいつらの気持ちも、ちょっと分かるの。
自分の体が、自分のせいじゃないところで壊れていくのって、誰かのせいにしないと、立ってられないんだよ」
ノエルは、母のことを思った。
設計した子は死んだ、設計しなかった子は生きてる。
理屈になっていない言葉で、母は、十七年、立ってきた。
「……知ってる」
ノエルは言った。
「僕の母も、そうだから」
カミーユが、右の耳の後ろにデバイスを植えたのは、次の月のはじめだった。
設計所の、デバイスの科の部屋だった。
エリーズは、付き添わなかった。
カミーユが、一人で行くと言った。
植えたあとの一週間、カミーユは、学校を休んだ。
デバイスは、根を張って、体に溶ける。
溶けるあいだ、熱が出る。
植えたところが、灼けるように痛む。
痛みが引くと、そこに、灼けたような印が残る。
癒着の跡。
消えることは、ない。
一週間目の夕方、ノエルの端末に、カミーユから伝言が来た。
「聞こえる。右も。前より、少し変な聞こえ方だけど。自分の声が、頭の中で二重になる。慣れるって」
ノエルは、少し迷ってから、返事を打った。
「跡、どう」
返事は、すぐに来た。
「見る?」
次の日、カミーユは、学校に来た。
長かった髪を、肩の上で切っていた。
右の耳の後ろに、赤黒い印が、はっきり見えた。
灼けたような、小さな花のような形。
髪を下ろせば、隠れる場所だった。
カミーユは、隠さなかった。
廊下で、何人かの生徒が、カミーユの印を見た。
見て、目を逸らした。
逸らさずに見続ける生徒もいた。
その中の何人かの右耳の後ろにも、同じ形の印があった。
髪で隠している生徒もいた。
カミーユは、実習室の、いつもの机に座った。
ノエルが、向かいに座った。
「……変?」
カミーユが、自分の印を指さして、聞いた。
ノエルは、少し考えた。
「変じゃない。ばらばらになっただけ」
カミーユは、ノエルの顔を見た。
それから、声を出して笑った。
「ばらばら」
「右と左が、揃ってない。前は揃ってたのに」
「そうだね」
カミーユは、自分の左手の人差し指を、ノエルのほうへ差し出した。
針の跡が、いくつも並んだ指。
「今日も、読んで。わたしの血」
ノエルは、筒を取って、カミーユの指先に当てた。
その夜、カミーユは、母の書斎の戸を叩いた。
エリーズは、机で、ノエルの後付けの設計書を書いていた。
書式に無い欄を、一つずつ足しているところだった。
「お母さん。一つ、頼みがある」
カミーユは、戸口に立ったまま言った。
右の耳の後ろの印が、書斎の明かりに照らされていた。
「わたしの設計書、書き直して」
エリーズは、ペンを置いた。
「……書き直す?」
「型落ちで、基準が変わるんでしょ。三割の子は、別の基準になるって。
だったら、わたしの設計書も、書き直しが要るはず」
「それは、設計所の事務で、自動で」
「自動じゃなくて。お母さんが、書いて」
カミーユは、書斎の中に入ってきて、机の横に立った。
机の上の、ノエルの書類を見た。
設計意図の欄の、「なし。本人の体による」という一行を。
「わたしの設計意図の欄、何て書いてあるか、知ってる」
エリーズは、答えなかった。
知っていた。
十七年前に、自分で書いたのだから。
「健康に、安心して育つように。ヴェルレーヌ型」
カミーユは、自分で言った。
「それ、嘘じゃないと思う。お母さんは、本当にそう思って書いた。でも、今のわたしの体には、合ってない」
カミーユは、右の耳の後ろの印に、指で触れた。
「だから、書き直して。お母さんが決めたところと、お母さんが決めてないところを、分けて。
わたし、自分の体の、どこが自分のなのか、知りたいの」
エリーズは、長いあいだ、娘の顔を見ていた。
それから、机の引き出しから、白い書式を一枚出した。
「……時間が、かかるわよ」
「いい。待つ」
その夜、エリーズは、娘の設計書を、一から書き直した。
型の番号の欄には、ヴェルレーヌ型、と書いた。
その横に、型落ちの通知の番号を書き足した。
右の耳の欄に、デバイスの番号と、植えた日を書いた。
設計意図の欄には、二行、書いた。
「設計時:母が選んだ。健康に、安心して育つように」
「現在:本人の体による」
夜中の二時に、エリーズは、書き上げた書類を、カミーユの部屋の戸の下に差し込んだ。
朝、台所に下りてくると、カミーユが、食卓で書類を読んでいた。
読み終えて、書類を畳んで、自分の鞄にしまった。
何も言わなかった。
ただ、朝食のパンを、母の分まで切って、皿に載せてあった。
後付けの設計書は、予定より一週間遅れて、できあがった。
エリーズは、それを、自分の手で、ガルニエの家へ届けに行った。
郵送でも、端末でも送れる書類だった。
それでも、届けに行くと決めていた。
旧市街の、古い石造りの建物だった。
狭い階段を三階まで上がって、戸を叩いた。
戸を開けたのは、ノエルの母だった。
クレール・ガルニエは、四十代の半ばで、ノエルと同じ、はっきりしない茶色の髪をしていた。
エリーズの白衣を見て、顔が強張った。
「……設計所の方ですね」
「エリーズ・ルロワです。ノエル君の、後付けの設計書を、お届けに」
クレールは、少し迷ってから、エリーズを中へ通した。
ノエルは、留守だった。
図書館に行っている、とクレールは言った。
台所の食卓に、二人で座った。
窓から、ソーヌ川と、白い大聖堂が見えた。
エリーズは、鞄から、書類を出した。
紙に刷った設計書だった。
型の番号の欄は、空だった。
「本来の書式では、ノエル君の体は、書けませんでした」
エリーズは言った。
「書式の欄が、揃った体のためにできているので。だから、欄を、いくつか足しました。
設計所の上に、書式の変更を申請して、通しました」
クレールは、書類に目を落とした。
目の色の欄に、二つの色が書いてあった。
右:灰色。
左:灰色、緑の混じり。
鎖骨の欄に、右と左の長さが、別々に書いてあった。
心臓の打ち方の欄に、揺らぎの幅が書いてあった。
その横に、小さな字で、エリーズの手書きの注記があった。
「健康な揺らぎ。基準は本人」
一番下に、設計意図、という欄があった。
設計された子の書類には、そこに、夫婦と設計士が選んだ理由が書かれる。
病気に強くするため。
環境に適応させるため。
流行りの型だから。
ノエルの書類の、その欄には、一行だけ書いてあった。
「なし。本人の体による」
クレールは、その一行を、長いあいだ見ていた。
「……この書類があれば、あの子は、医療科に入れるんですね」
「入れます。実習の機械も、この書類の値を、ノエル君の基準として読むように設定できます。
基準値、該当なし、とは、もう出ません」
クレールは、書類の上に手を置いた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
エリーズは、首を振った。
それから、少し黙ってから、言った。
「わたしの娘は、ヴェルレーヌ型です」
クレールは、顔を上げた。
「わたしが、自分で設計しました。先月、型落ちの通知が出ました。娘は、三割に入りました。
右の耳の後ろに、デバイスを植えました」
クレールは、何も言わなかった。
「命に関わるものではありません。ランボー型とは、違います。でも」
エリーズは、自分の手を見た。
「娘に、聞かれました。わたしの体で、お母さんが決めてないところって、どこって。答えられませんでした」
台所の窓の外で、川の上を、鳥が一羽、飛んでいった。
長い沈黙のあとで、クレールが言った。
「……わたしの上の子は、ランボー型でした」
「ノエル君から、聞きました」
「わたしは、あの子の体を、全部決めました。目の色も、髪の色も。一番いい型を選んだと思ってました。
あの子が死んだとき、わたしが殺したんだと思いました」
クレールの声は、静かだった。
「だから、ノエルのときは、何も決めなかった。
何も決めなければ、何が起きても、わたしのせいじゃないと思った」
クレールは、自分の手を、書類の上で握った。
「でも、それも、決めたんです。何も決めないって、わたしが決めた。あの子が型なしって呼ばれるのも、
健康診断で別の部屋に呼ばれるのも、医療科の書類に、なしって書かなきゃいけないのも。
全部、わたしが決めたことの続き」
エリーズは、クレールの顔を見た。
「決めても、決めなくても、同じなんですね」
クレールは言った。
「親は、何かを決める。決めたことの続きを、子どもが生きる。子どもの体が、揃ってても、ばらばらでも」
エリーズは、長いあいだ黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……同じです」
二人は、食卓を挟んで、しばらく座っていた。
窓の外の大聖堂の鐘が、夕方の時を打った。
何百年も前から、同じ時間に、同じ音で。
設計書が届いた次の日曜、ノエルは、母と一緒に、兄の墓へ行った。
リヨンの西の丘の、古い墓地だった。
母は、毎年、兄の命日に一人で行っていた。
ノエルを連れていったことは、一度もなかった。
兄の墓は、墓地の奥の、小さな区画にあった。
二つの年で死んだ子どもたちの墓が、並んでいる区画だった。
同じ年に死んだ子が、何人もいた。
墓石の生まれた年と死んだ年が、同じ二年のあいだに固まっていた。
ランボー型の区画だ、とノエルは思った。
誰も、そう呼ばないけれど。
兄の墓石には、名前と、二つの年だけが刻んであった。
リュカ・ガルニエ。
二八七〇年 ― 二八七二年。
母は、墓石の前にしゃがんで、持ってきた花を供えた。
それから、鞄から、エリーズの作った設計書を出した。
紙に刷った書類を、墓石の前に置いた。
「リュカ。あんたの弟の、設計書よ」
母は、墓石に話しかけた。
「型は、無いの。設計意図は、なし。本人の体による、だって。変な書類でしょう」
ノエルは、母の後ろに立って、黙って聞いていた。
「あんたの設計書には、一番いい型の名前が書いてあった。
設計意図の欄に、わたしが、健康に育つように、って書いた。あんたは、二つで死んだ」
母の声は、震えていなかった。
「ノエルの設計書には、何も書いてない。ノエルは、十七になった。医療科に行くの。
人の体を診る仕事がしたいんだって」
母は、書類を拾い上げて、また鞄にしまった。
それから、墓石に、手のひらを当てた。
「どっちが正しかったのか、わたし、分からないの。十七年経っても。
たぶん、どっちも、正しくなかったし、間違ってもいなかった。
わたしが決めたことの続きを、あんたたちが生きた。それだけ」
母は、立ち上がった。
ノエルのほうを振り向いた。
目が、少し赤かった。
「……ノエル。あんたも、何か言ってあげて」
ノエルは、墓石の前にしゃがんだ。
兄の名前を見た。
会ったことのない兄だった。
兄が死んだから、自分は、設計されなかった。
設計されなかったから、今、ここにいる。
「兄さん」
ノエルは言った。
「僕、医療科で、型落ちの子たちを診る医者になろうと思う。型があっても、無くても。
去年のその子と比べて、元気かどうか、診る医者に」
墓地の上を、風が吹いていった。
丘の下に、リヨンの街と、白い大聖堂が見えた。
春、ノエルとカミーユは、二人とも、第二職能学院の医療科に受かった。
入学の最初の実習の日、ノエルは、自分の血を一滴取って、機械にかけた。
機械が、ノエルの後付けの設計書を読み込んだ。
しばらく、画面が止まった。
それから、数値が出た。
数値の横に、基準の欄が出た。
「基準値:本人」
ノエルは、その文字を、長いあいだ見ていた。
隣の机で、カミーユが、自分の血の数値を読んでいた。
右の耳の後ろの印を、髪で隠さずに。
カミーユは、ノエルの画面を覗き込んで、少しだけ笑った。
「よかったね。見学じゃなくて」
「うん」
「基準、本人だって。変なの」
「変だね」
「でも、わたしのも、そのうちそうなるかもね。ヴェルレーヌ型の基準、型落ちで書き直しだって。
三割の子と、七割の子で、基準を分けるって。そのうち、一人ずつ、基準が本人になる」
カミーユは、自分の画面に戻った。
「そしたら、みんな、ばらばらだね」
同じ日の午後、エリーズは、リヨン中央設計所の相談室で、若い夫婦と向かい合っていた。
二人とも、二十代の後半だった。
女のほうの腹は、まだ目立たなかった。
設計の相談の、最初の面談だった。
夫婦は、画面に映った型の一覧を、熱心に見ていた。
今年、いちばん流行っている型。
実績のある型。
ヴェルレーヌ型の名前は、一覧から消えていた。
「この、今年いちばん人気の型って、安心ですか」
男のほうが聞いた。
エリーズは、すぐには答えなかった。
二十年、この質問に、同じ答えを返してきた。
実績があります。
安心です。
「……今のところ、問題は見つかっていません」
エリーズは言った。
「でも、ランボー型も、ヴェルレーヌ型も、流行っていたときは、問題は見つかっていませんでした。
見つかるのは、たいてい、十年、二十年経ってからです。子どもが、育ってから」
夫婦は、顔を見合わせた。
「それと、もう一つ」
エリーズは、画面の一覧の一番下に、一行を足した。
設計所の上に申請して、先週通したばかりの一行だった。
「設計しない、という選択も、あります。
保険と、学校と、職業の書類は、生まれたあとに、後付けの設計書で整えられます。わたしが作ります」
女のほうが、目を見開いた。
「……設計しない子なんて、今、いるんですか」
「います。一人、知っています。健康です。とても」
エリーズは、それ以上、何も勧めなかった。
「どれを選んでも、選んだことの続きを、お子さんが生きます。揃っていても、ばらばらでも。
それだけは、覚えておいてください」
夫婦は、長いあいだ黙っていた。
それから、女のほうが、一覧の一番下の一行を、指でなぞった。
なぞって、また上の型の一覧に、指を戻した。
戻して、また下に。
エリーズは、それを、黙って見ていた。
窓の外に、旧市街の古い屋根と、白い大聖堂が見えた。
何百年も、形の変わらない大聖堂だった。
誰も、あの形を、設計し直そうとはしない。




