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出生枠


毎月一日の朝、ルシア・ソウザの端末に、同じ形の通知が届く。


「出生枠 待ち順のお知らせ。サンパウロ第三集約区 ルシア・ソウザ様/マテウス・リマ様。

現在の待ち順:四百十二番(前月比 マイナス九)。申請者の年齢上限まで:四年二か月」


ルシアは、台所の流しの前で、それを読んだ。

コーヒーを淹れる湯が、薬缶の中で鳴りはじめていた。


九つ、進んだ。


六年前、最初の通知が来たときは、二千百番台だった。

一年に三百ほど進む。

今の四百十二番なら、あと一年半。

年齢の上限まで、四年二か月。

間に合う。

計算の上では、間に合う。


計算の上では、と、ルシアは毎月、同じことを思う。


出生枠の数は、毎年、集約区ごとに決まる。

降る光の総量と、区の人口と、来年死ぬ人の見込みから、来年生まれていい人の数が決まる。

総量は動かない。

だから、生まれていい数は、死ぬ数とほとんど同じになる。

去年、枠の数が、急に一割減った年があった。

その年、待ち順は、ほとんど進まなかった。

来年、また減らない保証は、どこにも無い。


「九つか」


後ろで、マテウスの声がした。

寝癖の頭で、ルシアの肩越しに画面を覗き込んでいた。


「九つ」


「先月は、十二だった」


「知ってる」


マテウスは、ルシアの肩に顎を乗せた。

重かった。

ルシアは、振り払わなかった。


「来年には、来るよ」


マテウスは、毎月、同じことを言う。

ルシアは、毎月、同じように黙っている。


薬缶が、甲高く鳴った。



ルシアの仕事は、塔の二十階の保育室にある。


第三集約区の三つの塔の子どもたちを、朝から夕方まで預かる。

零歳から三歳まで、四十人ほど。

保育士は、ルシアを入れて八人。

区の割り当ての仕事の中では、希望者の多い仕事だった。

子どもに触れられるからだ。

出生枠を待っている女たちが、真っ先に申し込む。


その日の朝も、ルシアは、零歳児の部屋で、ミルクを温めていた。


部屋には、六人の赤ん坊がいた。

一番小さいのは、生まれて四か月の男の子だった。

母親は、塔の工場で働いている。

毎朝、赤ん坊をルシアに渡すとき、少しだけ泣きそうな顔をする。

夕方に迎えに来るときは、走ってくる。


ルシアは、温めたミルクの瓶を、手首の内側に一滴垂らした。

熱すぎない。

男の子を抱き上げて、膝の上に乗せた。

瓶を口に当てると、男の子は、目を閉じて、夢中で吸いはじめた。


重かった。

四か月の重さだった。

抱くたびに、ルシアは、その重さを、腕で覚えてしまう。


隣で、同僚のアナが、別の赤ん坊のおむつを替えていた。

アナは、四十を過ぎている。

出生枠の年齢の上限を、三年前に越えた。

待ち順は、最後まで、百番台に届かなかった。


「ルシア。今月、何番だった」


アナは、手を止めずに聞いた。

保育室の女たちは、毎月一日に、互いに番号を聞き合う。

聞かないほうが、つらいからだ。


「四百十二」


「九つか」


「九つ」


アナは、替え終わったおむつを丸めて、屑入れに入れた。


「あたしのときは、最後の年、四つしか進まなかった。枠が減った年でね」


「……うん」


「間に合うよ、あんたは。まだ四年ある」


アナは、そう言って、赤ん坊を抱き上げた。

抱き上げて、窓のほうへ行った。

窓の外の、隣の塔の壁を、赤ん坊に見せていた。


アナの背中を、ルシアは見ていた。

四十を過ぎて、他人の赤ん坊を抱いている背中。

四年後の自分かもしれない背中。


膝の上で、男の子がミルクを飲み終えた。

ルシアは、男の子を肩に担いで、背中を軽く叩いた。

小さなげっぷが出た。

男の子の髪から、ミルクと、石鹸と、赤ん坊だけの匂いがした。



ルシアとマテウスの住まいは、第三集約区の四十二階にあった。


集約区は、サンパウロの古い市街地の上に、百年かけて建てられた。

細い塔が、何十本も並んでいる。

塔と塔のあいだを、空中の渡り廊下が繋いでいる。

塔の中に、学校も、病院も、工場も、畑もある。

塔の外に出る用事は、ほとんど無い。


集約区ができる前、この国の人は、広い土地に散らばって住んでいた。

内陸の、小さな町や村に。

降る光の受光場から遠い町は、電気が細かった。

電気が細い町に住む人の、一人あたりの維持の費用は、集約区に住む人の三倍かかった。

だから、町は、一つずつ畳まれた。

住民は、集約区へ移された。


ルシアの祖母のイラシは、畳まれた町の、最後の住人の一人だった。


イラシは、ルシアたちと一緒に住んでいる。

四十二階の、三部屋の住まいの、一番小さな部屋に。

八十八になる。

耳はまだ聞こえる。

目も、まだ見える。

膝が悪くて、車椅子を使っている。


ルシアがコーヒーを持っていくと、イラシは、窓際の車椅子に座って、外を見ていた。

窓の外は、隣の塔の壁だった。

壁の向こうの、ずっと遠くに、内陸の丘がかすんで見える。

イラシは、毎朝、その丘を見ている。


「おはよう、おばあちゃん」


「おはよう、ルシア。何番だった」


イラシは、振り向かずに聞いた。

毎月一日の朝、イラシも、同じことを聞く。


「四百十二。九つ進んだ」


「そう」


イラシは、コーヒーを受け取って、一口飲んだ。

それから、窓の外の丘を見たまま、言った。


「ルシア。今夜、マテウスも一緒に、話がある」



その夜、三人は、小さな食卓を囲んだ。


夕食は、塔の中の畑で採れた豆と、培養の鶏肉だった。

イラシは、ほとんど手をつけなかった。

食べ終わると、イラシは、膝の上の端末を、食卓の上に置いた。


画面に、書類が映っていた。


「情報体への移行 申請書」


ルシアは、画面を見て、それから祖母の顔を見た。


「……何、これ」


「読んでのとおりよ」


イラシは、穏やかに言った。


「わたし、情報体になろうと思うの」


食卓が、静かになった。


情報体。


体を捨てて、情報の側だけで生きる道。

手段としては、百年以上前に確立している。

脳の中にあるものを、全部、区の計算の器へ移す。

移したあとの人は、声と、画面の中の姿だけで生きる。

体は、手放す。

手放した体は、戻らない。

戻る体が、もう無いから。


選ぶ者は、多くない。

それでも、毎年、区で何十人かが選ぶ。

たいていは、年寄りだった。

体の維持に、割り当ての多くを食うようになった年寄り。


「なんで」


ルシアの声は、自分で思ったより高く出た。


「おばあちゃん、まだ元気じゃない。耳も目も」


「膝が、もう駄目なの。先月の検診で、言われたわ。

来年には、歩けなくなるどころか、座っているのもつらくなるって。背骨も、細くなってる」


イラシは、自分の膝を、毛布の上から撫でた。


「治療はできる。でも、治療の割り当ては、区の年寄り全員で分け合ってる。

わたし一人の背骨を直すのに、若い人の病気の分を削ることになる。それは、嫌なの」


「そんなこと、おばあちゃんが気にしなくても」


「気にするわよ。八十八年、割り当ての中で生きてきたんだから」


マテウスは、黙っていた。

画面の書類の、下のほうを見ていた。


ルシアも、その視線を追った。


申請書の下のほうに、欄が一つあった。


「移行者の体の維持費の減少分に相当する点数を、同一世帯の出生枠申請者の待ち順へ譲渡する(任意)」


譲渡先の欄に、名前が入っていた。


ルシア・ソウザ。


ルシアは、息を止めた。


情報体に移った人の体の維持費は、区の割り当てから浮く。

浮いた分は、出生枠に回される。

移行した人は、浮いた分に相当する点数を、同じ世帯の誰かの待ち順に譲ることができる。

その決まりは、ルシアも知っていた。

知っていたけれど、自分に関係のある決まりだとは、思ったことがなかった。


「……これ、どれくらい」


聞いてから、ルシアは、聞いたことを後悔した。


「三百番くらい、進むそうよ」


イラシは、あっさり言った。


「四百十二番が、百番台になる。来年の春には、枠が来る」


ルシアは、椅子から立ち上がった。


「やめて」


「ルシア」


「やめて。そんな理由で、おばあちゃんが体を捨てるなんて。

わたしが、子どもが欲しいから、おばあちゃんが体を捨てるなんて。そんなの、わたし、一生」


声が詰まった。

ルシアは、台所へ行って、流しの前に立った。

蛇口をひねって、水を出した。

何をするわけでもなく、水が流れるのを見ていた。


背中で、イラシの声がした。


「ルシア。そんな理由じゃないわ」


ルシアは、振り向かなかった。


「背骨の話も、本当。割り当ての話も、本当。あんたの待ち順の話も、本当。

でも、どれも、一番の理由じゃないの」


「……じゃあ、何」


「それは、あんたが、ちゃんと座って聞く気になったら、話すわ」


イラシは、車椅子の車輪を回して、自分の部屋へ戻っていった。

戸が、静かに閉まった。


マテウスが、ルシアの隣に来て、蛇口を閉めた。


「……聞いてあげなよ」


「聞きたくない」


「聞かなかったら、おばあさんは、黙ってやるよ。あの人は、そういう人だ」


ルシアは、流しの縁を握りしめた。


マテウスの言うとおりだった。

イラシは、そういう人だった。

畳まれる町に、最後まで残った人だった。

残ると決めたら残り、出ると決めたら出る。

誰に何と言われても。


窓の外で、隣の塔の明かりが、一つずつ消えていった。

区の夜の消灯の時間だった。


その夜、ルシアは眠れなかった。


マテウスの寝息を背中で聞きながら、ベッドの中で、端末の画面を開いた。

区の案内の、情報体への移行の頁を読んだ。

今まで、一度も開いたことのない頁だった。


「情報体への移行は、本人の意思のみによって行われます。

家族その他の第三者による移行の勧奨は、禁じられています。

移行の申請から実施までには、一か月以上の考慮期間を置きます。

考慮期間中は、いつでも申請を取り下げることができます」


その下に、区ごとの移行者の数が、年ごとの表で並んでいた。

第三集約区は、去年、四十一人。

十年前は、二十六人だった。


表の下に、小さな字で、注記があった。


「移行者のうち、出生枠申請者への点数譲渡を行った者の割合:七割」


ルシアは、その一行を、何度も読んだ。


勧奨は、禁じられている。

家族は、移行を勧めてはいけない。

ルシアは、勧めていない。

勧めるどころか、やめてと言った。


でも、ルシアは、六年、待ち順の通知を読んできた。

毎月一日の朝、台所の流しの前で。

祖母は、毎月一日の朝、「何番だった」と聞いてきた。

ルシアは、毎月、番号を答えた。

九つ。

十二。

四。


番号を答えることは、勧奨だっただろうか。


ルシアは、画面を閉じた。

暗い天井を見上げた。


隣の部屋から、小さな音が聞こえた。

祖母が、車椅子の上で、寝返りのように体を動かす音。

膝が痛む夜は、ベッドで眠れずに、車椅子に座ったまま夜を明かす。

先月から、そういう夜が増えていた。


七割、と、ルシアは思った。

去年の四十一人のうち、二十九人が、誰かの待ち順に点数を譲った。

二十九人の家族も、たぶん、毎月一日の朝に、番号を答えていた。



次の日の夜、ルシアは、祖母の部屋の戸を叩いた。


イラシは、窓際の車椅子に座っていた。

窓の外は、暗かった。

消灯のあとの集約区は、非常灯の小さな緑の光が、塔の縁に点々と並んでいるだけだ。


ルシアは、祖母のベッドの端に座った。


「聞く。ちゃんと座って」


イラシは、ルシアのほうへ車椅子を回した。

しばらく、孫の顔を見ていた。

それから、膝の上の端末を操作した。


「会ってほしい人がいるの」


画面に、女の顔が映った。


年寄りの女だった。

七十を少し過ぎたくらいに見えた。

白い髪を後ろで結って、褪せた花柄の服を着ている。

顔は、どこかで見たことがあるような気がした。

目の形が、イラシに似ていた。


「ベネジタ・ソウザ」


イラシが言った。


「わたしの祖母。あんたの、ひいひいおばあちゃん」


ルシアは、画面を見つめた。


「……だって、ひいひいおばあちゃんは、二百年近く前の人でしょう」


「八十九年前に、情報体になったの。七十四の年に」


イラシは、画面の中の女を見ていた。


「わたしが生まれる一年前。わたしの母が、出生枠を待ってたの。祖母は、体を捨てて、点数を母に譲った。

それで、わたしが生まれた」


ルシアは、何も言えなかった。


「祖母は、それから八十九年、情報体で生きてる。昔の町の、区の計算の器の中で。

町が畳まれたとき、器ごと、この集約区に移された。

わたしは、生まれてから八十八年、ずっと祖母と話してきた。声と、画面で」


「……なんで、今まで、言ってくれなかったの」


「あんたの母さんが、嫌がったから」


イラシは、少しだけ目を伏せた。


「ローザは、祖母と話すのを嫌がった。機械と話すのは気味が悪いって。

自分が生まれたのは、ひいおばあちゃんが体を捨てたからだって知ったら、なおさら嫌がった。

だから、ローザの前では、話さなかった。ローザが死んでからも、あんたに話す機会を、なくしてた」


母のローザは、ルシアが十五のときに死んだ。

病気だった。

割り当ての治療は受けた。

間に合わなかった。


画面の中で、ベネジタが、口を開いた。


「ルシア」


声は、少しかすれていた。

古い録音のような、柔らかい雑音が混じっていた。

内陸の町の、古い訛りがあった。


「イラシから、あんたのことは、毎日聞いてるよ。赤ん坊のときから。

歩いたときも、学校に行ったときも、ローザが死んだときも。マテウスと一緒になったときも」


ルシアは、声が出なかった。


「会えてうれしい。八十九年も待つと、会いたい人が、たくさんできる」


ベネジタは、画面の中で笑った。

笑い方が、イラシにそっくりだった。



ベネジタの話は、長かった。


昔の町のこと。

サンタ・ルジアという、内陸の丘の町。

コーヒーの畑と、牛と、白い教会。

雨季になると、赤い土の道がぬかるんで、牛車の轍が深く残った。

雨の前の日には、土の匂いが強くなった。


「その匂いがね、もう分からないの」


ベネジタは言った。


「情報体になると、匂いが無い。音と、画面の光だけ。雨の話を聞いても、雨の匂いが思い出せない。

思い出そうとすると、匂いという言葉だけが出てくる」


「……後悔、してますか」


ルシアは聞いた。

聞いてから、ひどい質問だと思った。

ベネジタは、気にしなかった。


「半分ね」


「半分」


「半分は、後悔してる。雨の匂いが分からないのも、イラシを一度も抱けなかったのも。

イラシが生まれたとき、わたしは、もう体が無かった。画面の中から、赤ん坊を見てた。抱けなかった」


ベネジタは、少しのあいだ黙った。


「でも、もう半分は、後悔してない。わたしが体を持ってたら、あと五年か十年で死んでた。

イラシの声を、八十九年、聞けなかった。イラシが歩くのも、結婚するのも、ローザが生まれるのも、

ローザが死ぬのも、あんたが生まれるのも、見られなかった」


イラシが、車椅子の上で、黙って画面を見ていた。


「どっちが得か、なんて、わたしにも分からない。八十九年経っても、分からない。

ただ、選んだのは、わたしよ。誰かに選ばされたんじゃない。それだけは、あんたに言っておく」



画面が消えたあと、ルシアは、長いあいだ黙っていた。


イラシが、言った。


「一番の理由はね、ルシア」


ルシアは、祖母の顔を見た。


「わたしは、祖母がわたしにしてくれたことを、あんたの子にしてあげたいの」


イラシの声は、静かだった。


「わたしは、生まれてからずっと、祖母の声を聞いて育った。

母が仕事でいないとき、祖母が、画面の中で、歌を歌ってくれた。昔の町の歌。

わたしが泣いてると、祖母が、雨の話をしてくれた。匂いは分からないって言いながら、雨の話を。

わたしは、祖母の声で、昔の町を知った。祖母の声で、自分がどこから来たのかを知った」


イラシは、窓の外を見た。

暗い中に、非常灯の緑が並んでいた。


「わたしは、あと二年か三年で死ぬ。体があるまま死んだら、あんたの子の声を、一度も聞けない。

子が生まれるのが、わたしの死ぬ前でも、後でも。

体のまま待ってたら、わたしは、あんたの子に、昔の町の歌を歌ってやれない」


「……だから、情報体に」


「だから、情報体に。点数の話は、おまけよ。おまけだけど、おまけがあれば、子が早く来る。

早く来れば、わたしは、体を捨ててすぐに、あんたの子の声が聞ける。祖母みたいに八十九年待たなくていい」


イラシは、少しだけ笑った。


「それに、祖母と、また一緒に住める。器の中で。八十八年、画面越しだったから。今度は、同じ側で」


ルシアは、ベッドの端から立ち上がって、祖母の車椅子の前にしゃがんだ。

祖母の膝の上の、毛布越しの手を握った。

細くて、乾いていて、温かかった。


この手が、無くなる。


「……一つだけ、お願いがある」


ルシアは言った。


「決める前に、サンタ・ルジアに、一緒に行きたい。おばあちゃんが、体のまま。

わたしも、雨の匂いを、嗅いでみたい」


イラシは、目を見開いた。

それから、ルシアの手を、強く握り返した。


「……畳まれた町よ。何も無いわよ」


「何も無くても」


イラシは、しばらく黙っていた。

それから、小さく頷いた。



サンタ・ルジアへは、二日かかった。


集約区の塔の地下から、内陸行きの列車に乗った。

列車は、半日走って、受光場のある最後の町で止まった。

そこから先は、線路が無かった。

町の外れで、古い電気の荷車を一台借りた。

マテウスが、運転した。

車椅子は、荷台に積んだ。


列車の中で、イラシは、一度だけ、畳まれた日のことを話した。


窓の外を、内陸の平原が流れていた。

緑の、何も無い平原。

昔は、ここにも町や村が散らばっていたという。

今は、受光場と、その周りの畑のほかは、草と灌木だけだった。


「最後の日の朝、区の役人が、トラックで迎えに来たの」


イラシは、窓の外を見たまま言った。


「三十人。荷物は、一人、箱二つまで。家具は持っていけない。牛も、鶏も。

牛は、前の週に、隣の町の受光場の牧場に引き取られていった。鶏は、皆で、最後の晩に食べた」


ルシアは、黙って聞いていた。

マテウスも、向かいの席で、黙っていた。


「箱二つに、何を入れるか、一晩じゅう考えた。写真。祖母の器の番号を書いた紙。母の形見の十字架。

それから、教会の裏の、墓の石のかけら。父と母の墓の。石は、重いから入れるなって言われたけど、入れた」


「その石、今も」


「部屋の、棚の奥にあるわ。あんたには、見せたことがなかったわね」


イラシは、少し笑った。


「トラックが丘を越えるとき、皆、振り返らなかった。約束してたの。振り返らないって。

振り返ったら、降りたくなるから。わたしも、振り返らなかった。四十年、一度も」


イラシは、窓ガラスに、指先で触れた。


「だから、今日が、四十年ぶりに振り返る日なの」


列車が、小さく揺れた。

ルシアは、祖母の膝の上の手に、自分の手を重ねた。



赤い土の道は、半分草に埋もれていた。

荷車は、何度も轍にはまりかけた。

マテウスは、そのたびに荷車を降りて、後ろから押した。

イラシは、助手席で、窓の外を見ていた。

一言も喋らなかった。


丘を一つ越えたところで、イラシが言った。


「止めて」


荷車が止まった。


丘の下に、町があった。


町、だったものがあった。


屋根の落ちた家々が、斜面に散らばっていた。

壁だけが残って、中から木が生えている家があった。

道は、どこも草に覆われていた。

丘の一番上に、白い教会が建っていた。

白い壁は、ところどころ剥げて灰色になっていた。

鐘楼の鐘は、無くなっていた。


誰もいなかった。


町が畳まれたのは、四十年前だった。

最後まで残った三十人ほどが、集約区へ移された。

イラシは、その三十人の一人だった。

四十八の年だった。


マテウスが、荷台から車椅子を下ろした。

ルシアが、祖母を抱えて、車椅子に移した。

祖母の体は、驚くほど軽かった。


三人で、教会までの道を上った。

草の中を、車椅子を押して。

車輪が、何度も石に引っかかった。

そのたびに、マテウスが前を持ち上げた。


教会の前の広場に着いたとき、空が暗くなりはじめていた。

西の丘の上に、厚い雲が湧いていた。


「降るわね」


イラシが言った。


それから、深く息を吸った。


「……ほら」


ルシアも、息を吸った。


土の匂いがした。


赤い土の、湿った匂い。

草の匂い。

遠くで、雨が地面を叩きはじめた匂い。

集約区の塔の中では、一度も嗅いだことのない匂いだった。


「これよ」


イラシは、目を閉じていた。


「これが、雨の前の匂い。祖母が、思い出せないって言ってた匂い。

祖母に、八十九年、言葉でしか渡せなかった匂い」


雨が、来た。


最初の一粒が、ルシアの頬に当たった。

それから、一斉に降ってきた。

マテウスが、慌てて上着を脱いで、イラシの頭に掛けようとした。

イラシは、首を振った。


「いいの。濡れさせて」


イラシは、車椅子の上で、顔を空に向けた。

雨が、祖母の顔を叩いた。

白い髪が、額に張りついた。

祖母は、笑っていた。

濡れながら、声を出して笑っていた。


ルシアは、祖母の隣に立って、同じように顔を空に向けた。

雨が、冷たかった。

匂いが、体の中に入ってきた。


この匂いを、覚えておこう、と思った。

祖母が、もうすぐ嗅げなくなる匂いを。

いつか、画面の中の祖母に、話して聞かせるために。


雨が小降りになってから、三人は、教会の裏の墓地へ行った。


墓地も、草に埋もれていた。

石の十字架が、傾いたり、倒れたりしていた。

名前の刻まれた板は、どれも苔に覆われていた。


イラシは、車椅子の上から、墓地の奥を指さした。


「あの、大きな木の下」


マテウスが車椅子を押した。

木の下に、小さな墓が二つ並んでいた。

十字架の一つは、根元から折れていた。

もう一つの十字架の、台座の角が、欠けていた。


四十年前に、イラシが持ち出した、石のかけらの跡だった。


イラシは、車椅子から身を乗り出して、欠けた角に、指で触れた。

長いあいだ、触れていた。


「父さん。母さん。ただいま」


小さな声だった。


「来月、祖母のところへ行くわ。器の中で、祖母と住むの。ここには、もう来られない。

この手で触れるのは、今日が最後」


イラシは、指を離した。

それから、墓の横の地面から、濡れた赤い小石を一つ拾った。

親指の先ほどの大きさだった。


「これは、ルシアに」


イラシは、小石を、ルシアの手のひらに置いた。

小石は、冷たくて、濡れていて、赤い土がついていた。


「わたしは、持っていけないから」


その夜、三人は、教会の中で眠った。

屋根の半分は落ちていたが、祭壇のまわりだけは、まだ雨がしのげた。

マテウスが、荷車から毛布を運んできた。

イラシは、祭壇の前に車椅子を止めて、そのまま眠った。

ルシアは、祖母の足元に毛布を敷いて、横になった。


夜中に一度、目が覚めた。


祖母が、小さな声で、歌っていた。

眠りながらなのか、起きているのか、分からなかった。

知らない歌だった。

落ちた屋根の隙間から、雨上がりの星が見えた。

土の匂いが、まだ残っていた。


ルシアは、手のひらの中の小石を、握りしめたまま、また眠った。



集約区に戻って三日目、イラシは、申請書を区の窓口に出した。


移行の日は、一か月後に決まった。


その一か月を、イラシは、体でしかできないことをして過ごした。


塔の中の畑で、土をいじった。

車椅子の上から手を伸ばして、豆の蔓を支柱に巻いた。

塔の共同の浴場で、長い時間、湯に浸かった。

ルシアが、背中を流した。

祖母の背中は、骨が浮いていた。

ルシアは、力を入れすぎないように、布で、ゆっくり流した。


好きなものを、食べた。

黒い豆と豚の煮込み。

内陸の町の料理。

培養の豚肉では、本当の味にならないと言いながら、二杯食べた。


隣の塔に住む、昔の町の知り合いに、会いに行った。

四十年前に一緒に集約区へ移った三十人のうち、生きているのは、もう五人だけだった。

五人は、イラシの車椅子を囲んで、昔の町の歌を歌った。

イラシも、歌った。

ルシアは、廊下の隅で、それを聞いていた。

知らない歌だった。

知らない歌なのに、どこかで聞いたことがあるような気がした。



移行の二週間前、イラシは、部屋の棚の奥から、古い箱を二つ出させた。


四十年前、サンタ・ルジアから持ってきた箱だった。

紙の箱で、角が潰れて、ところどころ布で継いであった。


「中身を、あんたに渡しておきたいの」


イラシは、ベッドの上に、中身を一つずつ並べた。


写真が、二十枚ほど。

どれも、紙に焼いた古い写真だった。

白い教会の前で、大勢の人が並んでいる写真。

牛車の上で、若い女が笑っている写真。


「これ、わたし。十八のとき」


牛車の上の若い女は、今のルシアに、少し似ていた。


小さな木の十字架が一つ。

イラシの母の形見だった。

表面が、手で撫でられて、つるつるになっていた。


折りたたんだ紙が一枚。

開くと、数字と記号が、細かく並んでいた。


「祖母の器の番号。町の区の器の。畳まれたときに、器ごと集約区に移されたから、今は番号が変わってる。

でも、元の番号は、これ。わたしが八つのときに、母が書いてくれた。

祖母に会いたくなったら、この番号を言えばいいって」


イラシは、紙を、指でそっと伸ばした。


「祖母は、器の番号で呼ばれてたの。役所の書類では。名前じゃなくて。わたしは、それが嫌だった。

だから、画面の前では、いつも、名前で呼んだ。ベネジタおばあちゃん、って」


最後に、布に包んだ石のかけらが出てきた。

灰色の石の、角のかけらだった。


「両親の墓の、台座の角。重いから持っていくなって言われて、持ってきた石」


イラシは、それを、ルシアの手に乗せた。

重かった。

手のひらに、ずしりと沈んだ。


「わたしが器の中に行ったら、わたしも、番号で呼ばれるわ。書類の上では」


イラシは、ルシアの顔を見た。


「あんたは、名前で呼んでね」


「……呼ぶよ。当たり前でしょう」


「当たり前のことを、頼んでおきたいの」


イラシは、空になった箱を、膝の上で撫でた。


「箱は、捨てていいわ。四十年、よく保ったわね」


ルシアは、箱を捨てなかった。

中身を戻して、自分の部屋の棚の奥に、しまった。



移行の十日前の夜、マテウスが言った。


ルシアと二人で、台所の流しの前に立っていたときだった。

イラシは、もう寝ていた。


「ルシア。俺、言ってないことがある」


「何」


マテウスは、洗い終えた皿を拭く手を止めた。


「最初の夜。おばあさんが、申請書を見せたとき。点数の欄を見て、俺、ほっとしたんだ」


ルシアは、マテウスの顔を見た。


「三百番進むって聞いて。来年の春には枠が来るって聞いて。ほっとした。一瞬だけど。

これで、間に合うって」


マテウスは、皿を布巾で包んだまま、立っていた。


「ほっとしたのが、ずっと、嫌なんだ。おばあさんが体を捨てるのに、俺は、ほっとした。そのことが」


ルシアは、何も言わなかった。

しばらくして、マテウスの手から、皿を取った。

棚にしまった。


「わたしも」


ルシアは言った。


「わたしも、ほっとした。最初の夜、やめてって言いながら、頭のどこかで、三百番って数えてた」


マテウスが、ルシアを見た。


「だから、あのとき、あんなに怒ったんだと思う。自分に」


二人は、流しの前で、並んで立っていた。

蛇口から、水が一滴、垂れた。


「……点数、断れるんだよね」


マテウスが言った。


「受け取らないって、区に言えば。点数は、区の全体に回る。誰か、知らない人の待ち順が、少しずつ進む」


「うん」


「断る?」


ルシアは、答えなかった。


断れば、祖母の体の分の点数は、知らない誰かのものになる。

知らない誰かの子が、少し早く生まれる。

ルシアの待ち順は、四百番台のまま。

年齢の上限まで、四年。

間に合うかもしれない。

間に合わないかもしれない。


受け取れば、来年の春に、枠が来る。

祖母は、情報体になってすぐに、ひ孫の声が聞ける。

祖母が、それを望んでいる。


でも、受け取ったら、ルシアは、一生、自分の子の顔を見るたびに、祖母の体のことを思い出す。

祖母の背中の、浮いた骨のことを。


「……まだ、分からない」


ルシアは言った。


「移行の日まで、考える」



ルシアは、次の日、一人で区の情報体の器の施設へ行った。


施設は、第三集約区の最下層にあった。

窓の無い、低い建物だった。

中は、静かで、涼しかった。

計算の器が並ぶ部屋の手前に、小さな面会室があった。

椅子が一つと、壁に大きな画面が一つ。


ルシアが座ると、画面に、ベネジタが映った。


「来ると思ってた」


ベネジタは言った。


「点数のことでしょう」


「……どうして」


「わたしの娘も、同じ顔をして、ここへ来たのよ。八十九年前。わたしが移行したあとで」


ベネジタは、少し遠くを見るような目をした。

画面の中の目が、本当にどこかを見ているのかどうか、ルシアには分からなかった。


「娘は、点数を受け取るかどうか、最後まで迷ってた。

受け取ったら、わたしを踏み台にしたみたいで嫌だって。わたしは、画面の中から、怒鳴ったわ。

踏み台にしろって。そのために体を捨てたんだって」


「……それで」


「娘は、泣きながら受け取った。一年後に、イラシが生まれた。娘は、イラシを抱いて、毎日、ここへ来た。

画面の前で、イラシを見せてくれた。わたしは、抱けなかった。でも、見た。毎日、見た」


ベネジタは、ルシアの顔を見た。


「受け取るか断るかは、あんたが決めなさい。わたしは、怒鳴らない。

八十九年経って、怒鳴るのは、やめたの。ただ、一つだけ」


「はい」


「断っても、イラシの体は戻らない。それだけは、覚えておいて。断るのは、あんたの心のためよ。

イラシのためじゃない。それが悪いとは言わない。心のために断るなら、それでいい。

ただ、イラシのために断るんだと、自分に言い聞かせるのだけは、やめなさい」


ルシアは、画面の前で、長いあいだ黙っていた。


面会室の外で、計算の器の低い音が、ずっと続いていた。

八十九年、この音の中で、ベネジタは生きてきた。

十日後から、祖母も、この音の中で生きる。



移行の前の晩、イラシは、ルシアに、髪を切ってくれと言った。


「情報体の姿は、最後の体の姿で映るんですって。祖母に聞いたわ。

伸び放題の髪で、九十年映るのは嫌だから」


ルシアは、台所の椅子に祖母を座らせて、肩に布を掛けた。

鋏は、塔の共同の理容室から借りてきた。

ルシアは、人の髪を切ったことがなかった。


「どれくらい」


「肩の上まで。昔の町にいたころの長さ」


ルシアは、祖母の白い髪を、指で梳いた。

細くて、柔らかかった。

鋏を入れると、白い髪が、布の上に落ちた。


「……ルシア」


「動かないで」


「あんた、あの石、持ってる?」


「持ってる。ポケットに」


「そう」


イラシは、少しのあいだ黙っていた。


「子どもが生まれたら、その石を、握らせてあげて。赤い土の匂いは、もう取れちゃってるだろうけど。

石は、石だから。サンタ・ルジアの石よ」


「うん」


「わたしは、画面の中から、それを見てるわ。握れないけど、見てる」


ルシアは、鋏を動かした。

祖母の髪が、少しずつ短くなっていった。

うなじが見えた。

細いうなじだった。

子どものころ、祖母の膝の上で眠ったとき、このうなじに腕を回した。


切り終えて、布を外すと、祖母は、台所の窓ガラスに映る自分を見た。


「……あら。若返ったわ」


「そう?」


「四十八の年の頭よ。町を出た日の」


イラシは、窓ガラスの中の自分に向かって、少しだけ首をかしげた。

それから、ルシアのほうを向いて、笑った。


「上手ね。九十年映っても、恥ずかしくないわ」


ルシアは、布の上の白い髪を、丸めて、紙に包んだ。

捨てられなかった。

包んだまま、ポケットの、赤い小石の隣に入れた。



移行の日の朝、イラシは、いつもより早く起きた。


ルシアが部屋へ行くと、祖母は、窓際の車椅子に座って、外を見ていた。

窓の外の、隣の塔の壁の、ずっと向こうの、内陸の丘を。


「おはよう、ルシア」


「おはよう」


ルシアは、コーヒーを渡した。

祖母は、両手でカップを包んで、ゆっくり飲んだ。

飲み終えて、カップをルシアに返した。


「おいしかった。これも、最後ね」


ルシアは、何も言えなかった。


施設へは、マテウスが車椅子を押した。

塔の中の廊下を、昇降機を、渡り廊下を。

途中で、昔の町の五人の知り合いが、廊下に並んで待っていた。

一人ずつ、イラシの手を握った。

誰も、何も言わなかった。

最後の一人が、小さく、昔の町の歌の一節を口ずさんだ。

イラシも、口の中で、それに合わせた。


施設の、移行の部屋は、白くて、静かだった。


寝台が一つ。

寝台の横に、医師と、区の職員が一人ずつ。

壁に、画面が一つ。

画面には、ベネジタが映っていた。


イラシは、寝台に横になった。

職員が、書類の最後の確認をした。

名前。

生年月日。

移行の同意。

点数の譲渡先。


「譲渡先、ルシア・ソウザ様。変更はありませんか」


職員が、イラシに聞いた。


イラシは、ルシアのほうを見た。


ルシアは、寝台の横に立っていた。

祖母の手を握っていた。


この十日間、ルシアは、ずっと考えていた。

考えて、決めていた。


「……受け取ります」


ルシアは、職員に言った。


それから、祖母の顔を見た。


「受け取る。おばあちゃんの体の分を、わたしが、受け取る。子どもが生まれたら、全部話す。

おばあちゃんが、何のために体を捨てたのか。サンタ・ルジアの雨の匂いのことも。

わたしが、ほっとしたことも。全部」


イラシは、ルシアの顔を見ていた。

それから、ゆっくり、笑った。


「ほっとしたの」


「……した。ごめんなさい」


「いいのよ。わたしの母も、ほっとしたって、祖母に言ったらしいわ。八十九年前に」


イラシは、ルシアの手を、強く握った。


「ほっとしたことも、話してあげて。それも、本当のことだから」


職員が、医師に目で合図をした。

医師が、寝台の横の機械に触れた。


ルシアは、祖母の手を握っていた。


祖母の手は、温かかった。

細くて、乾いていて、温かかった。

その手が、ルシアの手を、一度だけ強く握った。

それから、ゆっくり、力が抜けていった。


ルシアは、手を離さなかった。


部屋が、静かになった。

計算の器の低い音だけが、壁の向こうから聞こえていた。


どれくらい経ったのか、ルシアには分からなかった。


壁の画面の中で、ベネジタの隣に、もう一つ、顔が映った。


イラシだった。


画面の中のイラシは、少しだけ若く見えた。

白い髪を肩の上で切りそろえて、窓際の車椅子に座っていた。

車椅子に座っている姿で映るのだと、ルシアは思った。

最後の自分の体の形を、そのまま持っていくのだと。


「ルシア」


画面の中から、イラシの声がした。

少しかすれて、柔らかい雑音が混じっていた。

ベネジタの声と、同じ種類の雑音だった。


「聞こえる?」


「……聞こえる」


「ああ、よかった」


イラシは、画面の中で、隣のベネジタを見た。

ベネジタが、画面の中で、イラシの手を取った。

画面の中の手と、画面の中の手が、重なった。


「おばあちゃん。やっと、同じ側ね」


イラシが言った。

ベネジタが、笑った。


それから、イラシは、ルシアのほうを向いた。

少し、困ったような顔をした。


「……ねえ、ルシア。変ね」


「何」


「雨の匂いが、思い出せないの。十日前に、あんなに嗅いだのに。匂いっていう言葉は、覚えてるのに」


ルシアは、寝台の上の、もう動かない祖母の手を握ったまま、画面を見上げた。

涙が、止まらなかった。


「わたしが、覚えてる」


ルシアは言った。


「わたしが、覚えてる。赤い土の、湿った匂い。草の匂い。遠くで雨が地面を叩きはじめた匂い。

わたしが、話してあげる。毎日」


画面の中で、イラシが、ゆっくり頷いた。



次の月の一日の朝、ルシアの端末に、通知が届いた。


「出生枠 待ち順のお知らせ。サンパウロ第三集約区 ルシア・ソウザ様/マテウス・リマ様。

現在の待ち順:百十一番(前月比 マイナス三百一)。移行者からの譲渡点数を反映しています」


ルシアは、台所の流しの前で、それを読んだ。

薬缶の湯が、鳴りはじめていた。


三百一。


祖母の体は、三百一番だった。


ルシアは、画面を閉じた。

閉じてから、祖母の部屋のほうを見た。

戸は、開いたままになっていた。

窓際に、空の車椅子が置いてあった。

区に返す手続きは、まだしていなかった。


朝のコーヒーを、ルシアは、三つ淹れた。

一つはマテウスに。

一つは自分に。

もう一つを持って、居間の壁の端末の前に座った。


画面に、イラシとベネジタが映った。


「おはよう、ルシア。何番だった」


イラシが聞いた。

毎月一日の朝と、同じ聞き方だった。


「百十一。三百一、進んだ」


「そう」


イラシは、画面の中で、ほんの少しだけ目を細めた。


「わたし、三百一番だったのね」


「……うん」


「思ったより、多かったわ。背骨が細いぶん、安いと思ってた」


ベネジタが、隣で吹き出した。

ルシアも、泣き笑いのような顔になった。


ルシアは、手に持ったコーヒーを、画面の前の小さな机に置いた。

湯気が、画面の前で揺れた。


「匂い、分かる?」


「分からないわ」


イラシは、首を振った。


「でも、湯気は見える。置いといて。冷めるまで」



その週の終わり、ルシアは、祖母の車椅子を区に返しに行った。


区の福祉の窓口は、塔の十階にあった。

車椅子を押して、昇降機に乗った。

空の車椅子は、軽かった。

軽いことが、押していて、つらかった。


窓口の職員は、車椅子の番号を確かめて、書類に印を付けた。


「移行者の方の物品ですね。お預かりします」


移行者の方。


職員は、それ以上、何も聞かなかった。

移行者の車椅子を返しに来る人は、毎月、何人かいるのだろう。


ルシアは、窓口に、車椅子を置いた。

置いてから、ひじ掛けに、一度だけ手を置いた。

祖母が、いつも手を置いていた場所だった。

布が、少しすり減っていた。


保育室に戻ると、アナが、零歳児の部屋で待っていた。


「聞いたよ」


アナは言った。


「おばあさん。移行したんだってね。それで、百十一番」


ルシアは、頷いた。


アナは、しばらく、ルシアの顔を見ていた。

何か言うのだろうと思った。

よかったね、とか。

ずるい、とか。

ルシアは、どちらを言われても、黙って聞くつもりだった。


アナは、どちらも言わなかった。


代わりに、抱いていた赤ん坊を、ルシアの腕に渡した。

四か月の、あの男の子だった。

もう五か月になっていた。


「ほら。重くなったでしょ」


「……うん」


「あんたの子も、こうやって重くなる。毎日、少しずつ」


アナは、ルシアの肩に、手を置いた。


「おばあさんの分も、ちゃんと重くしてやりな」


アナは、それだけ言って、隣の部屋へ行った。


ルシアは、腕の中の男の子を見た。

男の子は、ルシアの顔を見上げて、よだれを垂らしながら笑った。


重かった。

五か月の重さだった。



同じ月、ルシアは、区の出生の窓口へ、書類の確認に行った。


窓口の待合室に、若い夫婦が一組、座っていた。

二十代の終わりくらい。

女のほうが、膝の上に端末を載せて、画面をじっと見ていた。

画面に、待ち順の通知が映っていた。

番号の横に、「前月比 マイナス二」と出ていた。


ルシアは、その数字から、目を逸らせなかった。


先月、ルシアの待ち順が三百一進んだとき、ルシアの前にいた三百一組は、それぞれ、一組ぶん、

後ろへずれた。

一組ぶん。

一年に三百しか進まない待ち順の、一組ぶん。

何日かぶん、何週間かぶん、枠が遅れる。


目の前の夫婦も、たぶん、その三百一組の一つだった。

マイナス九になるはずだった月が、マイナス二になったのかもしれない。

ルシアには、分からない。

分かりようがない。


女が、ふと顔を上げて、ルシアを見た。

ルシアの手元の書類の、「出生枠 確定前確認」という見出しが見えたのかもしれない。

女は、少しだけ羨ましそうな顔をして、それから、小さく会釈した。


ルシアも、会釈を返した。


何か言いたかった。

祖母のことを。

三百一のことを。

言えなかった。

言ったところで、女の待ち順は戻らない。


窓口で名前を呼ばれた。

ルシアは立ち上がった。

立ち上がりながら、この顔を覚えておこう、と思った。

名前も知らない、膝の上の画面をじっと見ていた女の顔を。


子どもに話すことが、一つ増えた。



春に、枠が来た。


夏のはじめに、ルシアは身ごもった。


身ごもってから、ルシアは、毎晩、壁の画面の前に座った。

膨らんでいく腹を、画面に向けた。

イラシとベネジタは、画面の中から、それを見ていた。


「動いた?」


イラシが、毎晩聞いた。


「まだ。もうちょっと先」


「わたしの母は、わたしが腹を蹴るたびに、ここへ来て、祖母に報告したそうよ」


「毎回?」


「毎回。一日に三回来た日もあったって」


ベネジタが、画面の中で笑った。


「うるさかったわよ。蹴った、蹴った、って。わたしは、腹に手を当てることもできないのに」


「当てたかった?」


ルシアが聞くと、ベネジタは、少しだけ黙った。


「……当てたかったわね。九十年経っても、それだけは」


ルシアは、画面に向かって、自分の腹に手を当てた。

画面の中のベネジタと、イラシが、それを見ていた。


「代わりに、当ててる」


ルシアは言った。


「二人の分も」



女の子は、次の年の二月に生まれた。


名前は、ルジアにした。

サンタ・ルジアの町から取った。

マテウスは、最初、「町の名前なんて」と言ったが、名付けの書類に記入するときには、

何も言わずにその名前を書いた。


退院した日の夜、ルシアは、ルジアを抱いて、居間の壁の画面の前に座った。


画面に、ベネジタとイラシが映っていた。

二人とも、何も言わなかった。

画面の中から、赤ん坊を見ていた。

長いあいだ、見ていた。


「……ルジア」


イラシが、ようやく言った。

声が、震えていた。

情報体の声でも、震えるのだと、ルシアは初めて知った。


「ルジア。ひいおばあちゃんよ。聞こえる?」


ルジアは、眠っていた。

小さな口を、少し開けていた。


「それと、ひいひいひいおばあちゃん」


ベネジタが言った。


「長いわね。ベネジタでいいわ」


ルシアは、笑った。

マテウスも、後ろで笑った。


イラシが、画面の中で、小さく息を吸うような仕草をした。

それから、歌いはじめた。


昔の町の歌だった。

隣の塔の、五人の知り合いが、廊下で歌っていた歌。

移行の日に、最後の一人が口ずさんでいた歌。

ルシアが、知らないのに、どこかで聞いたことがあるような気がした歌。


聞いたことがあるはずだった。

ルシアが赤ん坊のとき、祖母が、同じ歌を歌っていたのだ。

体のあった祖母が、ルシアを抱いて。


今は、画面の中から歌っていた。


ベネジタが、途中から、声を合わせた。

二人の声は、少しかすれて、柔らかい雑音が混じっていた。

同じ種類の雑音だった。


ルジアが、目を覚ました。

泣かなかった。

小さな目を開けて、画面の光のほうを見ていた。

ルジアが、画面の光のほうへ、小さな手を伸ばした。


ルシアは、ポケットから、赤い小石を出した。

サンタ・ルジアの墓の横で、祖母が拾った石。

赤い土は、もう乾いて、ほとんど落ちていた。


ルシアは、石を、ルジアの小さな手のひらに乗せた。

ルジアの指が、反射のように、石を握った。

小さな拳の中に、赤い石が、すっぽり隠れた。


「おばあちゃん。握ったよ」


画面の中で、イラシが、身を乗り出すような仕草をした。

歌が、途切れた。


「……見えたわ」


イラシの声は、かすれていた。


「握ったわね」


ルシアは、ルジアの拳を、そっと画面のほうへ向けた。

画面の中のイラシが、手を伸ばした。

画面の中の手と、画面の外の小さな拳が、ガラス一枚を挟んで、向かい合った。


触れることは、できなかった。

それでも、イラシは、長いあいだ、手を伸ばしたままでいた。



その年の最初の雨は、三月に来た。


夜だった。

集約区の塔の外壁を、雨が叩く音がした。

塔の中では、雨の音は、ほとんど聞こえない。

壁が厚いからだ。

ルシアは、居間の窓を開けた。


集約区の窓は、少ししか開かない。

手のひらほどの隙間だけ。

その隙間から、雨の匂いが入ってきた。


塔の壁と、渡り廊下の金属と、遠くの街の埃が混じった匂いだった。

サンタ・ルジアの赤い土の匂いとは、違った。

違ったけれど、雨の匂いだった。


ルシアは、ルジアを抱いて、窓の隙間の前に立った。

ルジアの小さな鼻に、雨の匂いが届くように。


それから、振り向いて、壁の画面に向かって言った。


「降ってる」


画面の中で、イラシとベネジタが、こちらを見た。


「匂い、話すね」


ルシアは、窓の隙間から入ってくる匂いを、ゆっくり吸った。


「塔の壁の匂い。濡れたコンクリートの。渡り廊下の手すりの、鉄の匂いも少し。

それと、ずっと遠くから、土の匂いがする。すごく薄いけど。たぶん、塔の外の、どこかの土」


「赤い土?」


イラシが聞いた。


「分からない。赤いかどうかは、匂いじゃ分からない」


ルシアは、少し考えてから、言った。


「でも、サンタ・ルジアの匂いと、どこか同じところがある。雨が、地面を叩きはじめたところの匂い」


画面の中で、イラシが、目を閉じた。

ベネジタも、目を閉じた。


匂いは、届かない。

二人とも、それを知っている。

ルシアも、知っている。


それでも、ルシアは、話し続けた。

雨が止むまで。

ルジアが、腕の中で、また眠ってしまうまで。


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