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受光権


地球の夜の側を、セラム・テスファイェは、鏡の裏から見下ろしていた。


鏡は、一枚が、サッカー場ほどの大きさがある。

薄い膜を、細い骨組みで張ったものだ。

表は、太陽のほうを向いている。

裏は、地球のほうを向いている。

セラムは、その裏の骨組みに、命綱で体を繋いでいた。


足の下、三万六千キロ先に、地球が浮かんでいた。

夜の側に入った地球は、黒かった。

黒い中に、光の点が散らばっている。

点は、ところどころで固まって、明るい染みになっていた。


受光場のある街だ。


軌道の集光網が集めた光は、束になって、地上の受光場へ降りていく。

受光場の生成機が、それを電気に変える。

電気は、受光場のまわりの街へ流れる。

だから、夜の地球で光っているのは、受光場のまわりだけだった。

受光場から遠い土地は、黒いままだった。


セラムは、東アフリカの高原のあたりを探した。

いつもの癖だった。

アディスアベバの受光場は、大きな染みになっていた。

その北東、染みから少し離れたところに、小さな光の点が一つあった。


アンバの町だった。


セラムの生まれた町。

高原の、谷の縁にしがみつくように建った、人口二千の町。

町の東の丘に、小さな受光場がある。

四十年前、集光網が光を降ろしはじめたころに、この高原で最初に建てられた受光場の一つだった。


「テスファイェ、三番骨の締め付け、終わったか」


ヘルメットの中に、班長の声が響いた。


「終わりました。トルク、規定値」


「よし。戻れ。次の交代まで、あと四十分」


セラムは、工具を腰の袋にしまった。

命綱を手繰って、骨組みを伝って、保守艇のほうへ戻った。

戻りながら、もう一度だけ、足の下を見た。


アンバの小さな光の点が、夜の高原に、ぽつんと灯っていた。



保守艇の居住区で、セラムは、弟からの伝言を開いた。


地上との通信は、一日に一回、決まった時間にまとめて届く。

伝言は、三日前のものだった。

画面に、ダウィトの顔が映った。


「姉さん。見たか、配光計画の改定案」


ダウィトは、町の電気屋の作業場で撮っているらしかった。

背後に、分解した古い無線機が並んでいた。

二十六になっても、ダウィトの顔は、子どものころと同じように、怒ると鼻の穴が広がった。


「アンバの受光権が、来年の雨季の前に、切られる。受光場は撤去。

受信の割り当ては、全部、デブレの新しい受光場に移す。アンバの住民は、デブレへの移住を推奨。

推奨だってさ。推奨」


ダウィトは、画面の外の何かを、拳で叩いた。

がしゃん、と音がした。


「受光場が無くなったら、町に電気が来ない。診療所の冷蔵庫も、学校の明かりも、全部止まる。

住むなって言ってるのと同じだ。それを、推奨って」


ダウィトは、しばらく黙っていた。

それから、声を落とした。


「姉さんは、光を降ろす側だろう。上で、どうにかならないのか。誰に言えばいい。何をすればいい」


伝言は、そこで終わっていた。


セラムは、画面を閉じた。


配光計画の改定案は、読んでいた。

軌道保守員の端末にも、同じ文書が回ってくる。

改定の理由は、三つ書いてあった。


一つ。

アンバの受光場は、四十年前の古い型で、変換の効率が低い。

二つ。

集光網の一部の鏡が老朽化し、束を振り分ける余裕が減っている。

三つ。

降る光の総量は、これ以上増えない。

増えない総量を、効率のいい受光場に集める。


三つ目の理由は、どの改定案にも、必ず書いてある。

降る光の総量は、これ以上増えない。


それは、セラムがいちばんよく知っていることだった。

セラムの仕事は、鏡を直すことだ。

新しい鏡を作ることではない。

新しい鏡を作るための材料は、もう地上には、ほとんど残っていない。

今ある鏡を、一枚でも長く保たせる。

それが、軌道保守員の仕事だった。


総量が増えないなら、誰かの分を減らして、誰かに回すしかない。

アンバの分を減らして、デブレに回す。

デブレには、五万人が住んでいる。

アンバには、二千人しか住んでいない。


セラムは、居住区の小さな窓から、外を見た。

鏡の列が、太陽の光を受けて、白く並んでいた。

その向こうに、地球の縁が、青く光っていた。


降ろす側だろう、とダウィトは言った。


降ろす側にいるから、分かることがある。

降ろす側にいるから、どうにもならないことも、分かる。


セラムは、返事の伝言を録ろうとして、三回、録り直した。

三回とも、最後まで話せなかった。

四回目に、短く録った。


「次の休暇で、帰る。それまで、何もするな」


送信してから、何もするな、という言い方は、よくなかったと思った。

でも、もう送ってしまった。



次の日、セラムは、束の見張りの当番だった。


保守艇の管制室の奥に、見張りの席がある。

画面に、この艇が受け持つ鏡群の束の行き先が、一覧で並んでいる。

行き先は、受光場の名前で書いてある。

アディスアベバ第二。

ナイロビ北。

モンバサ。

デブレ(建設中)。

アンバ。


名前の横に、束の出力と、向きのずれが、数字で出ている。

ずれが決められた幅を超えたら、見張りの当番が、束を止める。

それが、見張りの仕事だった。

束が受光場を外れて、人のいるところに落ちないように。


その日の午後、管制室に、配光局からの定例の指示が届いた。


「第四鏡群、振り分け先変更。キシマ受光場への定常の束を、本日十五時をもって停止。

以後、同鏡群の束はナイロビ北受光場へ振り分ける」


キシマ。


セラムは、その名前を知らなかった。

ケニアの西の、湖の近くの受光場らしかった。

一年前の配光計画の改定で、受光権が切られることが決まっていた町だった。


「テスファイェ。十五時の切り替え、お前の当番だな」


ヨハネス管制長が、後ろから言った。


「はい」


「手順どおりにやれ」


手順は、簡単だった。

十四時五十五分に、キシマへの束の出力を、段階的に下げる。

十五時ちょうどに、束を止める。

第四鏡群の向きを、ナイロビ北に振り直す。

十五時十分に、ナイロビ北への束を、段階的に上げる。


画面の上の、いくつかの数字を変えるだけの作業だった。


十四時五十五分、セラムは、キシマへの束の出力を下げはじめた。

画面の数字が、少しずつ小さくなった。

百。

八十。

六十。


キシマの町が、今、どんな様子なのか、セラムには分からなかった。

町の人たちは、切られる日を知っているはずだった。

今日の十五時に、電灯が消えることも。

診療所の冷蔵庫が止まることも。


四十。

二十。


十五時ちょうど、セラムは、束を止めた。


画面の一覧から、キシマの名前が消えた。


それだけだった。


音も、揺れも、何も無かった。

セラムは、第四鏡群の向きを振り直す操作をして、十五時十分に、ナイロビ北への束を上げた。

ナイロビ北の数字が、少しずつ大きくなった。


手順は、全部、決められたとおりに済んだ。


当番を終えて、居住区に戻ると、セラムは、小さな窓から地球を見た。

昼の側だった。

ケニアの西の、湖の近く。

雲がかかっていて、何も見えなかった。

見えたとしても、昼の地球では、町の明かりは分からない。


キシマの電灯が消えた瞬間を、セラムは、見ていない。

見ていないのに、消したのは、セラムだった。


来年の雨季の前には、見張りの一覧から、アンバの名前が消える。

その日の当番が、誰になるのか、セラムは知らなかった。

自分でなければいいと思った。

思ってから、誰でも同じだ、と思い直した。



アンバの受光場は、町の東の丘の上にあった。


受光場といっても、デブレやアディスアベバのような大きなものではない。

丘の斜面に、網の目のような金属の板が、段々に並べてあるだけだ。

板の一枚一枚は、畳一枚ほどの大きさ。

それが、三百枚。

丘の頂上に、生成機の建屋が一つ。

建屋の中で、板が受けた光を、町の電気に変えている。


ダウィトは、子どものころ、その丘でよく遊んだ。


板のあいだの草むらで、姉と一緒に、虫を捕った。

板の下は、昼でも、ほんの少し暖かかった。

光の束が降りてくる時間帯は、丘に入ってはいけないことになっていた。

入っても、体に害があるほどではないと、大人たちは言った。

それでも、入ってはいけないことになっていた。

束が降りてくると、丘の上の空気が、かすかに揺らいで見えた。

陽炎のように。


「あれは、姉さんたちが、上から送ってるんだよ」


九つのとき、姉が言った。

姉は、十七だった。

軌道保守員の訓練校に、受かったばかりだった。


「いつか、わたしが送る光で、この町の明かりが点くの」


ダウィトは、その話を、ずっと覚えていた。


今、ダウィトは、町の電気屋の作業場で、古い無線機を分解していた。

作業場の窓から、東の丘が見えた。

夕方で、束が降りてくる時間だった。

丘の上の空気が、かすかに揺らいでいた。


来年の雨季の前には、あの揺らぎも、見えなくなる。


作業場の戸が開いて、老人が入ってきた。

町の診療所の、ゲタチェウ先生だった。

七十を過ぎて、まだ診療所を一人で回している。


「ダウィト。冷蔵庫の具合を、見てくれないか。また唸ってる」


「先生。来年になったら、冷蔵庫、唸りもしなくなりますよ」


「知ってるよ」


ゲタチェウ先生は、作業台の端に腰を下ろした。


「知ってるから、今のうちに、直しておいてほしいんだ。止まるまでは、動いててほしい」


ダウィトは、無線機のネジを外す手を止めた。


「先生は、デブレに移るんですか」


「移らないよ」


ゲタチェウ先生は、あっさり言った。


「私が移ったら、この町の年寄りを、誰が診る。年寄りは、移れないんだ。

デブレに移ったって、知り合いもいない、畑もない。年寄りは、ここで死ぬ。

死ぬまで、誰かが診てなきゃならない」


「電気が無くても」


「電気が無くても。私が医者になったころは、この町には、受光場なんてなかった。

石油の発電機が、一台あっただけだ。石油が尽きかけて、それも止まった。五年、電気無しで診た。

それから、受光場が来た」


ゲタチェウ先生は、窓の外の丘を見た。


「光は、降ってくるもんだと、皆、思ってる。雨みたいに。でも、あれは、誰かが上で降らせてるんだ。

降らせるのをやめたら、降らない。それだけのことさ」


ダウィトは、何も言わなかった。

姉のことを、考えていた。



セラムが地上に降りたのは、それから二か月後だった。


軌道から降りる便は、月に二回。

アディスアベバの受光場の隣の発着場に降りる。

そこから、乗り合いのバスで六時間。

高原の道は、雨季の前で、乾いて白く埃っぽかった。


バスの窓から、途中の町や村が見えた。


受光場のある町は、すぐに分かった。

丘の斜面に、金属の板が段々に並んで、昼の光を鈍く跳ね返している。

町の家の屋根に、電線が張ってある。

店先に、冷たい飲み物を売る冷蔵の箱がある。


受光場の無い村も、すぐに分かった。


電線が無い。

あっても、切れて垂れ下がっている。

家の屋根に、小さな黒い板が一枚か二枚、載っている。

地上で太陽の光を受ける、古い型の板だ。

百年前には、どの家の屋根にも、あれが載っていたという。

軌道の集光網ができてからは、効率が悪いと言われて、ほとんど作られなくなった。

今、あれを屋根に載せているのは、受光権の無い村だけだった。


十年前に受光権を切られた村の前を、バスが通った。

セラムは、窓に額をつけて、その村を見た。


村は、半分が空き家になっていた。

残りの半分の家に、黒い板が載っていた。

広場で、子どもたちが、ボールを蹴っていた。

子どもたちは、バスを見て、手を振った。

セラムも、手を振り返した。



アンバの家に着いたのは、夕方だった。


母のアルマズは、居間の床に、青草を敷いて待っていた。

コーヒーの儀式の支度だった。

小さな炭の炉に、黒い土のポットが載っていた。

乳香の煙が、部屋の中に細く漂っていた。


「おかえり」


母は、セラムを抱きしめた。

小さくなった、と思った。

前の休暇から、一年しか経っていないのに。


ダウィトは、居間の隅に座っていた。

セラムを見て、立ち上がって、少し迷ってから、ぎこちなく抱きついた。

抱きついてから、離れて、言った。


「何もするなって、何だよ」


「……ごめん。言い方が悪かった」


「言い方の問題じゃない」


「ダウィト」


母が、炉の前から言った。


「コーヒーが先。話は、三杯目のあと」


ダウィトは、黙って座り直した。

セラムも、座った。


母は、生の豆を鉄の皿で炒りはじめた。

豆が、ぱちぱちと音を立てた。

煙が上がって、部屋に香ばしい匂いが広がった。

母は、炒った豆の皿を、セラムとダウィトの鼻先に、順に差し出した。

匂いを嗅がせる。

それが、儀式の決まりだった。


子どものころから、何百回も見てきた手順だった。

軌道の上では、コーヒーは、袋に入った粉を湯で溶かして飲む。

炒る匂いを嗅いだのは、一年ぶりだった。


一杯目。

二杯目。

三杯目。


三杯目を飲み終えたとき、外は、もう暗くなっていた。

居間の天井の電灯が、点いていた。

受光場から来る電気の電灯だった。


「さて」


母が言った。


「話しなさい。二人とも」



ダウィトは、町の集会で決まったことを話した。


町の住民の半分は、デブレへの移住に同意していた。

若い家族が多かった。

仕事がある。

学校がある。

電気が来る。

移住の補助金も出る。


残りの半分は、残ると言っていた。

年寄りが多かった。

畑がある。

墓がある。

ゲタチェウ先生がいる。


「残る人たちのために、受光場を残してほしいって、請願を出した。三回。三回とも、同じ返事が来た。

『配光計画は、地域全体の総量の最適化に基づいて策定されています』」


ダウィトは、コーヒーの小さな杯を、指で回していた。


「総量の最適化。総量、総量って、あいつら、それしか言わない」


「総量は、本当に増えないの」


セラムは言った。


「増えないのよ。鏡を直すことはできる。でも、新しい鏡は作れない。作る材料が無い。

今ある鏡は、少しずつ傷んでいく。直しても直しても、少しずつ。

だから、総量は、増えないどころか、少しずつ減ってる」


「減ってる」


ダウィトが、顔を上げた。


「それ、どこにも書いてない」


「書いてないわね」


「なんで」


「書いたら、皆、怖がるから」


ダウィトは、黙った。

母も、黙っていた。

炉の炭が、小さくはぜた。


しばらくして、ダウィトが言った。


「姉さん。一つ、頼みがある」


セラムは、弟の顔を見た。

弟の顔は、真剣だった。

真剣なときの顔は、子どものころと同じだった。


「デブレの新しい受光場は、ここから九十キロ。光の束は、上からまっすぐ降りてくるわけじゃない。

少しは、縁から漏れる。こぼれ光。

デブレに束を向けたとき、アンバの丘にも、ほんの少しだけ、こぼれ光がかかる時間があるはずだ。

束の向きの時間割があれば、その時間だけ、うちの受光場で受けられる。全部じゃなくていい。

診療所の冷蔵庫と、学校の明かりの分だけ」


「時間割」


「束の振り分けの時間割。姉さんの端末に、あるだろう」


セラムは、コーヒーの杯を置いた。


「無理よ」


「なんで」


「一つ。時間割は、保守員が外に出してはいけない情報。出したら、わたしは、仕事を失う。二つ。

こぼれ光は、受けるものじゃない。こぼれてるだけ。弱すぎて、生成機が回らない。

回そうとして、受光場の向きを無理に変えたら、束の縁を引っ張ることになる。束が揺れる。

揺れた束は、どこに落ちるか分からない」


「分からないって」


「受光場じゃないところに、落ちるかもしれない。人のいるところに。

わたしたちが、上で何のために、毎日、束の向きを見張ってると思ってるの」


ダウィトは、唇を噛んだ。


「……じゃあ、黙って、真っ暗になるのを待てって言うのか」


「そうは言ってない」


「言ってるだろう。何もするなって。上にいる人間は、いつもそうだ。総量が、最適化が、危ないからって。

下で暮らしてる人間のことなんか」


「ダウィト」


母が、低い声で言った。

ダウィトは、口を閉じた。

立ち上がって、居間を出ていった。

戸が、乱暴に閉まった。


セラムは、閉まった戸を見ていた。


「……あの子、あんたが帰ってくるのを、ずっと待ってたのよ」


母が言った。


「姉さんが帰ってきたら、何とかしてくれるって。毎晩、東の丘を見ながら言ってた」


「わたしには、何ともできない」


「知ってるわ。あの子も、たぶん、知ってる」


母は、炉の火を落とした。

居間の天井の電灯が、二人を照らしていた。

受光場から来る、光の電灯。

セラムたちが、上で守っている光の。


「ねえ、セラム」


母は、空になった杯を、盆の上に並べながら言った。


「わたしが子どものころ、この町には、光は降ってこなかった。太陽は、ただ昇って、ただ沈んだ。

夜は暗かった。暗いのが、当たり前だった」


「うん」


「受光場が来て、夜が明るくなった。明るいのが、当たり前になった。今、それが、また取り上げられる。

取り上げられるのは、つらいわ。でもね」


母は、盆を持って立ち上がった。


「暗いのが当たり前だったころも、わたしたちは、ちゃんと暮らしてた。コーヒーも、こうして淹れてた。

炭の火でね。電気で淹れるコーヒーなんて、飲んだこともなかった」


母は、台所へ行きかけて、振り向いた。


「あの子に、それを、思い出させてやって。あんたにしか、できない」



休暇の三日目の夜、町の集会所で、移住の説明会が開かれた。


配光局から、デブレの役人が二人、来ていた。

町の住民が、百人ほど集まっていた。

セラムは、母と一緒に、後ろの壁際に立った。

ダウィトは、前のほうの長椅子に、腕を組んで座っていた。


役人は、画面に、デブレの新しい団地の絵を映した。

明るい部屋。

冷蔵庫。

洗濯機。

子どもの通う、大きな学校。


「移住に同意された世帯には、住宅と、三年分の生活の補助が付きます。仕事の斡旋もします。

デブレの受光場の保守と、新しい工場の職員が、足りていません」


前のほうの長椅子で、若い男が手を上げた。

ダウィトの幼なじみの、ヨナタンだった。

妻と、三つの娘がいる。


「受光場の保守の仕事って、アンバの受光場を見てきた経験は、役に立ちますか」


「もちろんです。古い型の保守の経験は、貴重です」


ヨナタンは、隣のダウィトを見た。

ダウィトは、何も言わなかった。

ヨナタンは、役人に向き直って、頷いた。


「……同意します」


集会所の中が、少しざわめいた。

ヨナタンに続いて、何人かが手を上げた。

若い家族ばかりだった。


説明会のあと、集会所の外で、ヨナタンがダウィトに近づいてきた。


「悪いな」


「何が」


「お前一人に、丘を任せることになる」


ダウィトは、夜の東の丘を見上げた。

束の時間は終わっていて、丘の上の空気は、静かだった。


「丘は、来年には無くなる」


「無くならなくても、光が来ないなら、同じだろう」


ヨナタンは、ダウィトの肩を叩いた。


「娘が、三つなんだ。熱を出したとき、夜中に冷やすものが無いのは、困る。デブレに行けば、冷蔵庫がある」


「分かってるよ」


ダウィトは言った。


「分かってるから、止めない」


ヨナタンは、しばらく黙って立っていた。

それから、「デブレに来たら、飯、食いに来い」と言って、家族のほうへ歩いていった。


セラムは、壁際から、弟の背中を見ていた。

弟は、ヨナタンの背中が見えなくなるまで、集会所の前に立っていた。



次の朝、セラムは、東の丘に登った。


丘の上の、生成機の建屋の前に、ダウィトがいた。

建屋の扉を開けて、中の機械を点検していた。

ダウィトは、町の電気屋として、この受光場の保守も任されていた。


セラムを見て、ダウィトは、ばつの悪そうな顔をした。


「……昨日は、ごめん」


「わたしも」


セラムは、建屋の中を覗いた。

古い機械だった。

四十年前の型。

それでも、中は、きれいに掃除されていた。

部品の一つ一つに、小さな札が付いていた。

交換した日付と、ダウィトの字で、短い覚え書き。


「全部、あんたが」


「俺が来てから、十年。前の電気屋の爺さんから、引き継いだ」


ダウィトは、機械の側面を、手のひらで叩いた。


「こいつ、古いけど、一回も止まったことがないんだ。デブレの新しいやつより、効率は悪い。

でも、止まらない。止まらないように、俺が見てる」


セラムは、札の一枚を手に取った。


「冷却管、三番。継ぎ目のにじみ。仮止め。次の雨季の前に要交換」


姉の仕事と、同じだった。

直しても直しても、少しずつ傷んでいく。

それを、一日でも長く保たせる。


「ダウィト」


「ん」


「あんたの仕事と、わたしの仕事、同じね」


ダウィトは、少し驚いた顔をした。

それから、丘の斜面の、金属の板の列を見た。


「……同じじゃないよ」


「同じよ。上と下で、場所が違うだけ」


ダウィトは、何も言わなかった。

丘の上を、乾いた風が吹いていった。

板の列が、朝の光を受けて、鈍く光っていた。



休暇の残りの十日を、セラムは、ダウィトと一緒に丘で過ごした。


生成機の点検を手伝った。

冷却管の継ぎ目を、二人で見た。

板の列のあいだの草を刈った。

子どものころに虫を捕った草むらは、もう無かった。

ダウィトが、板に影がかからないように、毎月刈っているのだった。


請願のことは、二人とも、もう口に出さなかった。

時間割のことも。


最後の日の夕方、セラムは、ダウィトと並んで、丘の上から町を見下ろした。

束が降りてくる時間だった。

頭の上の空気が、かすかに揺らいでいた。


町の家々に、明かりが点きはじめた。

診療所の窓。

学校の窓。

ダウィトの作業場の窓。

母の家の、居間の窓。


「来年の雨季の前には、これが全部、消えるんだな」


ダウィトが言った。

怒ってはいなかった。

ただ、確かめるように言った。


「全部じゃないわ」


セラムは、町の外れを指さした。

ゲタチェウ先生の診療所の屋根に、小さな黒い板が二枚、載っていた。

地上で太陽を受ける、古い型の板。


「先生、いつの間に」


「先月、自分で載せたんだって。隣の村の空き家から、もらってきて。

冷蔵庫の分だけでも、昼のあいだは回るように」


ダウィトは、しばらく、その黒い板を見ていた。


「……あれ、効率、すごく悪いんだぜ。集光網の百分の一もない」


「でも、誰にも取り上げられない」


ダウィトは、黙った。

丘の上の揺らぎが、少しずつ薄れていった。

束の時間が、終わろうとしていた。



次の朝、セラムは、町の広場から、アディスアベバ行きのバスに乗った。


母とダウィトが、見送りに来た。

母は、布に包んだ炒ったコーヒー豆を、セラムの鞄に押し込んだ。


「上じゃ、炒れないでしょう」


「炒れない。火が使えないから」


「匂いだけでも、嗅ぎなさい」


セラムは、笑って、包みを鞄の奥にしまった。


ダウィトは、バスの横に立って、黙っていた。

バスの運転手が、出発を告げる声を上げた。

セラムは、ステップに足を掛けて、振り向いた。


「ダウィト」


「ん」


「受光場、ちゃんと見ててね。撤去の日まで」


ダウィトは、少し眉を寄せた。


「撤去の日まで見てて、どうなるんだよ」


「分からない。でも、止まらない機械は、止まらないように見てる人がいるから、止まらないのよ」


ダウィトは、何か言い返そうとして、やめた。

それから、小さく頷いた。


バスが、動き出した。

窓から振り返ると、広場の真ん中で、母が手を振っていた。

ダウィトは、手を振らずに、東の丘のほうを見ていた。

丘の上の、生成機の建屋のほうを。


九つのとき、訓練校へ行く姉を、ダウィトは、あの丘の上から見送った。

バスが見えなくなるまで、丘の上で手を振っていた。

セラムは、それを、覚えていた。


今のダウィトは、手を振らなかった。

代わりに、丘を見ていた。

セラムは、それで、いいと思った。



軌道に戻って三週間目に、鏡が割れた。


正確に言うと、割れたのは、鏡の群れの一つだった。

軌道には、小さなごみが、無数に漂っている。

昔の衛星の破片。

部品の欠片。

それが、ある鏡群の骨組みの根元に、ぶつかった。

骨組みが歪んで、膜が裂けて、鏡の群れ全体の向きが狂った。


保守艇の管制室に、警報が鳴り響いた。


「第七鏡群、姿勢制御喪失。束の出力を緊急停止」


セラムは、居住区から管制室へ走った。

画面に、第七鏡群の状態が映っていた。

十二枚の鏡のうち、五枚が、あらぬ方向を向いていた。

残りの七枚は、無事だった。


第七鏡群の束の行き先は、東アフリカ高原だった。


デブレの受光場。


「修理の見積もりは」


管制長のヨハネスが言った。

五十代の、白髪の男だった。

セラムが訓練校を出たときから、この保守艇にいる。


「骨組みの交換が要ります。部品は、第三補給艇に予備があります。

取りに行って、交換して、姿勢を戻すまで、最短で四十日」


セラムは、画面を見ながら答えた。

答えながら、頭の中で、別のことを考えていた。


「四十日、デブレは停電だ」


ヨハネスが言った。


「デブレの新しい受光場は、第七鏡群からの束だけで回るように組んである。予備の束は、無い。

総量に余裕が無いからな。五万人が、四十日、暗くなる」


管制室の誰かが、小さく息を呑んだ。


セラムは、画面の中の、無事な七枚の鏡を見ていた。


「管制長。無事な七枚は、束を出せますか」


「出せる。でも、七枚じゃ、デブレの新しい受光場は回らない。

あれは、十二枚分の強い束を前提にした、効率の高い型だ。弱い束だと、変換が始まらない」


「古い型なら」


セラムは言った。


ヨハネスが、セラムを見た。


「古い型の受光場は、弱い束でも回ります。効率は悪いけど、変換の閾値が低い。七枚分の束でも、回る」


「東アフリカの高原に、古い型の受光場が、まだ残ってるか」


「一つだけ。デブレから、九十キロ。第七鏡群の振り分けの範囲に、ぎりぎり入ってます」


セラムは、端末の地図に、その場所を出した。


アンバ。


ヨハネスは、地図を見て、それからセラムの顔を見た。


「……お前の町か」


「はい」


「撤去の予定が入ってる受光場だな。来年の雨季の前に」


「まだ、撤去されていません。生成機も、生きています。先月、わたしが自分で点検しました」


管制室が、静かになった。


ヨハネスは、長いあいだ、地図を見ていた。


「テスファイェ。一つだけ聞く」


「はい」


「これは、お前の町を救うための提案か」


セラムは、少し考えた。

考えてから、正直に答えた。


「救えません。四十日、光が行くだけです。四十日経ったら、束はデブレに戻ります。

アンバの受光権は、予定どおり切られます。わたしの提案で、それは変わりません」


「じゃあ、何のための提案だ」


「七枚の鏡の光を、四十日、どこにも降ろさずに捨てないための提案です」


ヨハネスは、黙っていた。


「総量が増えないなら、捨てる余裕は無いはずです。使える受光場があるなら、使うべきです。

そこが、たまたま、わたしの町だっただけです」


ヨハネスは、ゆっくり息を吐いた。


「……地上の配光局に、上げる。受光場の保守担当に、連絡を取れ。生成機を四十日回せるか、確認しろ」


「保守担当は、わたしの弟です」


ヨハネスは、少しだけ笑った。


「だろうな」



ダウィトのところに、軌道からの緊急の伝言が届いたのは、夜中の二時だった。


作業場の隅の、古い無線機が鳴った。

地上の配光局を通した、正式な伝言だった。

ダウィトは、寝床から飛び起きて、無線機の前に座った。


画面に、姉の顔が映った。

保守艇の管制室で撮っているらしかった。

後ろで、警報の灯りが、赤く回っていた。


「ダウィト。よく聞いて」


姉の声は、早口だった。

仕事のときの声だった。


「第七鏡群が壊れた。デブレへの束が、四十日止まる。残りの七枚の束を、アンバに降ろす。

配光局の正式な指示。あと十八時間で、最初の束が行く。それまでに、生成機を全開で回せるようにして」


ダウィトは、画面を見つめた。


「……アンバに」


「アンバに。四十日だけ。四十日経ったら、束はデブレに戻る。受光権の話は、変わらない。

それは、先に言っておく」


「分かった」


ダウィトは言った。

自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。


「冷却管の三番が、まだ仮止めだ。全開で回すなら、交換しないと保たない。部品は、ある。朝までに替える」


「ほかに、足りないものは」


「無い。俺が十年、見てきた機械だ」


画面の中で、姉が、ほんの一瞬だけ、笑ったように見えた。


「……同じね。上と下で」


「同じだよ」


伝言が切れた。


ダウィトは、工具の箱を掴んで、作業場を飛び出した。

夜の町は、まだ明るかった。

来年の雨季までは、明るいはずの町だった。


東の丘へ走りながら、ダウィトは、ゲタチェウ先生の診療所の前を通った。

窓に、明かりが点いていた。

先生も、夜中に起きているらしかった。

ダウィトは、窓を叩いた。


「先生。明日から四十日、光が来ます。デブレから、患者が来るかもしれない」


窓が開いて、先生が顔を出した。

寝間着の上に、白衣を羽織っていた。


「デブレから?」


「デブレが、四十日、停電になる」


先生は、少しのあいだ、何かを考えていた。

それから、言った。


「冷蔵庫、全部空けておく。デブレの病院の薬を、預かれるように」


ダウィトは頷いて、また走り出した。

丘の上の生成機の建屋が、星明かりの中に、黒く見えていた。



最初の束が降りてきたのは、次の日の夜八時だった。


ダウィトは、生成機の建屋の中で、計器を見ていた。

冷却管の三番は、朝のうちに新しいものに替えてあった。

町の電気屋の若い見習いが二人、手伝いに来ていた。

ゲタチェウ先生も、白衣のまま、建屋の入口に立っていた。


「来るぞ」


ダウィトが言った。


計器の針が、ゆっくり動きはじめた。

建屋の外で、丘の上の空気が揺らぎはじめた。

陽炎のような揺らぎが、夜の闇の中で、星をかすかに歪ませた。


針が、いつもの位置を越えた。

さらに上がった。

上がって、赤い線の手前で止まった。


生成機が、低く唸った。

四十年前の古い機械が、四十年でいちばん強い光を受けて、唸っていた。


「……回ってる」


見習いの一人が言った。


ダウィトは、計器から目を離さなかった。

冷却管の温度。

変換の効率。

出力。

全部、許容の範囲に収まっていた。


「回ってる」


ダウィトは、もう一度、自分で言った。


建屋の外に出ると、町が見えた。


町は、いつもより明るかった。

いつもの割り当ての倍の電気が、町に流れ込んでいた。

余った電気は、配光局の指示で、臨時の線を通してデブレの方角へ送られることになっていた。

九十キロの線は、全部は届かない。

途中の村に、少しずつ配られる。

それでも、何も無いよりは、ましだった。


「ダウィト」


ゲタチェウ先生が、建屋の入口から言った。


「私は、診療所に戻る。明日の朝には、デブレから患者が来る」



デブレから、最初のトラックが来たのは、次の日の昼だった。


荷台に、冷蔵の箱が積んであった。

デブレの病院の薬だった。

停電で冷やせなくなった薬を、アンバの診療所の冷蔵庫に預けに来たのだった。


二台目のトラックには、人が乗っていた。

病院の機械で命を繋いでいる患者たち。

電気で動く機械が要る人たち。

付き添いの家族。

看護師。


三台目のトラックには、充電の要る電池が、山ほど積んであった。


アンバの町は、四十日のあいだ、デブレの分まで光を配る町になった。


学校の教室は、臨時の病室になった。

ダウィトの作業場は、電池の充電所になった。

町の集会所は、デブレから来た人たちの寝床になった。

母のアルマズは、毎日、集会所で、炭の炉でコーヒーを淹れた。

デブレから来た人たちに、一人ずつ振る舞った。


「電気があるのに、なんで炭で淹れるの」


デブレから来た子どもが、母に聞いた。


「電気は、今は、病気の人のために取っておくの」


母は、豆を炒りながら答えた。


「それに、コーヒーは、炭で淹れたほうがおいしいのよ」


デブレから来た人の中には、アンバを見下していた者もいた。

移住を推奨されている、古い受光場の、二千人の町。

その町に、五万人の町の病人が、身を寄せていた。

身を寄せて、アンバの年寄りが作った飯を食べていた。


十日目の夜、集会所で、デブレの病院の若い医者が、ゲタチェウ先生に頭を下げているのを、ダウィトは見た。


「先生。私たちは、アンバの受光権を切ることに、賛成の署名をしました。病院として」


ゲタチェウ先生は、何も言わなかった。


「新しい受光場ができれば、デブレの病院は、もっと大きな機械を入れられる。

アンバの年寄りも、デブレに来ればいい。そう思ってました」


「間違ってはいないよ」


ゲタチェウ先生は言った。


「光の総量が決まってるなら、大きい病院に集めたほうが、助かる人は多い。算数としては、正しい」


「でも」


「でも、算数で割り切れないところに、年寄りが住んでる。それだけのことだよ」


ゲタチェウ先生は、若い医者の肩を叩いた。


「今は、あんたの患者を診なさい。四十日しかない」



二十三日目の夜、生成機の冷却管の温度が、赤い線に触れた。


ダウィトは、建屋の中で、計器を睨んでいた。

四十年前の機械に、毎晩、四十年でいちばん強い光を受けさせてきた。

二十三日、一度も止めずに。

機械のどこかが、悲鳴を上げはじめていた。


「止めるか」


見習いの一人が、青い顔で聞いた。


「止めたら、診療所の機械が止まる」


ダウィトは言った。

集会所の臨時の病室には、電気で動く機械に繋がれた患者が、七人いた。

診療所の冷蔵庫には、デブレの病院の薬が詰まっていた。


ダウィトは、無線機で、軌道の保守艇を呼んだ。

正式な回線だった。

四十日のあいだ、受光場の保守担当は、軌道の管制と直接話せることになっていた。


出たのは、姉だった。


「冷却管の温度が、赤い線に触ってる。三番は替えたけど、今度は一番と二番だ。部品が無い」


画面の向こうで、姉は、すぐに手元の端末を叩いた。


「束の出力を、一割落とせる。一割落とせば、温度は下がる」


「一割落としたら、臨時の線の先の村に、電気が届かなくなる」


「……そうね」


姉は、黙った。

ダウィトも、黙った。


一割の光を、どこかから削らなければならない。

削れば、どこかが暗くなる。

総量は、増えない。

上でも、下でも、同じ式だった。


「ダウィト」


姉が言った。


「冷却の水、足せない?管じゃなくて、外から。昔の型は、建屋の外側に、予備の冷却の水槽があったはず。

四十年前の図面では」


ダウィトは、建屋の裏を思い浮かべた。

雑草に埋もれた、錆びた四角いものがあった。

前の電気屋の爺さんが、「使ったことはない」と言っていた箱。


「……ある」


「それを使って。弁の場所は、図面を送る」


十分後、四十年前の図面が、無線機の画面に届いた。

ダウィトは、見習い二人と、懐中電灯を持って、建屋の裏へ回った。

雑草を刈った。

錆びた弁を、油を差して、三人がかりで回した。

弁は、ぎしりと鳴って、動いた。


夜明け前、冷却管の温度が、赤い線から離れた。


ダウィトは、建屋の床に座り込んだ。

全身が、汗と油と錆で汚れていた。

無線機の画面に、姉がまだ映っていた。

姉も、夜通し、上で起きていたらしかった。


「……四十年前の人たち、ちゃんと考えてたんだな」


ダウィトが言うと、姉が笑った。


「四十年前の人たちも、上と下で、同じ仕事をしてたのよ」



四十日のあいだ、セラムは、第七鏡群の修理に出ずっぱりだった。


歪んだ骨組みを切り離す。

第三補給艇から運んだ新しい骨組みを、一本ずつ継ぐ。

裂けた膜を張り替える。

一日に十時間、命綱一本で、真空の中にいた。


作業の合間に、セラムは、足の下を見た。


東アフリカの高原。

アディスアベバの大きな光の染み。

その北東の、デブレの受光場のあたりは、暗かった。

五万人の町が、暗かった。


その少し先に、小さな光の点があった。


アンバだった。


いつもより、明るかった。

いつもの倍くらい。

小さな点が、少しだけ大きな点になっていた。

その点から、細い光の糸が、暗いデブレのほうへ伸びていた。

臨時の線に沿って、途中の村々の明かりが、点々と繋がっていた。


セラムは、ヘルメットの中で、長いあいだ、その糸を見ていた。


四十日目の朝、第七鏡群の最後の鏡の姿勢が戻った。


「第七鏡群、姿勢制御回復。束の出力、段階的に再開。振り分け先、デブレ」


管制室の声が、ヘルメットの中に響いた。


「アンバへの臨時の束は、正午で停止する」


セラムは、骨組みにつかまったまま、足の下を見た。


正午。

東アフリカは、昼だった。

昼の側の地球では、町の明かりは見えない。

アンバの小さな点が消える瞬間を、セラムは見ることができなかった。



その日の夜、当番を終えたセラムを、ヨハネス管制長が居住区の食堂で呼び止めた。


食堂といっても、壁から引き出す小さな机と、固定された椅子が四つあるだけだ。

ヨハネスは、袋のコーヒーを二つ溶かして、一つをセラムの前に置いた。


「四十日、ご苦労だった」


「管制長こそ」


ヨハネスは、袋のコーヒーを一口飲んで、顔をしかめた。


「まずいな。いつ飲んでも」


「地上のは、炒るところから淹れます」


「知ってる。俺も、高原の生まれだ」


セラムは、少し驚いて、管制長の顔を見た。


「ゴンダールの近くの、小さな町だ。二十年前に、受光権が切られた。俺が、この艇に来て三年目だった」


ヨハネスは、袋を机の上に置いた。


「切り替えの当番は、俺じゃなかった。俺じゃなくて、よかったと思った。

思ってから、誰でも同じだと思った」


セラムは、何も言えなかった。

キシマの切り替えの日に、自分が思ったのと、同じことだった。


「お前が、アンバに束を降ろすと言ったとき、俺は、少し腹が立った」


「……はい」


「俺の町のときには、誰もそんなことを言わなかったからだ。言う機会も、無かった。鏡は、壊れなかった」


ヨハネスは、窓の外の鏡の列を見た。


「だがな。壊れた鏡の光を、捨てずに使う。それは、正しい。お前の町だったのは、たまたまだ。

たまたまで、いい」


ヨハネスは、立ち上がった。


「地上の配光局に、報告書を上げた。古い型の受光場は、弱い束でも回る。

近隣の受光場が止まったときの受け皿になる。撤去の前に、考え直す価値がある。そう書いた」


「管制長」


「通るかは、知らん。総量は、増えない。受け皿を残すのにも、金がかかる」


ヨハネスは、食堂の出口で、振り向いた。


「俺の町の受光場は、とっくに撤去された。板は、どこかの工場で溶かされて、新しい受光場の部品になった。

たぶん、デブレのにもな」


ヨハネスは、それだけ言って、出ていった。


セラムは、冷めていく袋のコーヒーを、両手で持っていた。

まずかった。

それでも、最後まで飲んだ。



配光局から、アンバの受光権の最終決定が届いたのは、雨季が始まる十日前だった。


ダウィトは、作業場で、その文書を読んだ。


「アンバ受光場の定常の受光権は、予定どおり停止する。ただし、

第七鏡群の事故における臨時受光の実績を踏まえ、同受光場を撤去せず、

東部高原の予備受光場として指定する。予備受光場には、定常の束は振り分けない。

事故・保守等により近隣の受光場が停止した際にのみ、臨時の束を振り分ける。

保守担当は、現任者を継続とする。保守に要する電力は、予備受光場の性質上、配光局からは供給しない」


ダウィトは、文書を二回読んだ。


受光権は、切られる。

光は、来なくなる。

でも、受光場は、残る。

いつか、どこかの鏡が壊れた日のために。


保守に要する電力は、供給しない。


ダウィトは、少し笑った。


光の来ない受光場を、光の来ない町で、光無しで保守しろということだった。


その日の午後、ダウィトは、町の外れの空き家を回った。


十年前に受光権を切られた隣の村の、空き家だった。

屋根から、古い黒い板を外した。

地上で太陽を受ける、効率の悪い、誰にも取り上げられない板を。

十枚外して、荷車に積んで、東の丘へ運んだ。


生成機の建屋の屋根に、黒い板を並べた。

板から、細い線を建屋の中へ引いた。

古い電池に繋いだ。


昼のあいだ、黒い板は、わずかな電気を電池に溜めた。

それで、生成機の計器が一つ、点いた。

冷却管の温度を示す、小さな計器が。


光が来なくても、機械が生きていることを示す、小さな灯りだった。



決定の文書が届いた次の週、ダウィトは、デブレへ行った。


乗り合いのバスで、二時間。

デブレの町は、明るかった。

昼間でも、店の看板が光っていた。

大通りに、冷たい飲み物を売る箱が、いくつも並んでいた。

四十日の停電のことは、もう誰も話していないようだった。


新しい受光場は、町の南の平原にあった。

アンバの丘の、十倍の広さがあった。

金属の板が、地平線まで、びっしり並んでいた。


受光場の門の前で、ヨナタンが待っていた。

新しい作業着を着ていた。

胸に、受光場の保守班の徽章が付いていた。


「よく来たな」


ヨナタンは、ダウィトを、生成機の建屋に案内した。

建屋の中は、アンバの建屋の五倍の広さがあった。

機械は、新しくて、静かだった。

唸り声を、ほとんど立てなかった。


「すごいだろう。効率は、アンバの三倍だ」


「……うん」


「でもな」


ヨナタンは、声を落とした。


「ここの機械、壊れたら、誰も直せないんだ。部品ごと、丸ごと交換する。

交換の部品は、アディスアベバの倉庫から来る。倉庫に無かったら、待つしかない。

四十日の停電のとき、ここの班長たち、何もできなかった。束が来ないんだから、当たり前なんだけどさ。

アンバの受光場が古い型だって聞いて、驚いてた。そんなものが、まだ動いてたのかって」


ヨナタンは、ダウィトの顔を見た。


「班長が、お前のことを聞いてた。古い型を、十年、一回も止めずに見てた奴。

四十日、全開で回して、冷却の水槽を開けて保たせた奴。うちに来ないかって。

古い型の直し方を、若い連中に教えてほしいって」


ダウィトは、静かな機械を見ていた。


「……行かない」


「だろうと思った」


ヨナタンは、笑った。


「一応、聞けって言われたから、聞いた」


二人は、建屋を出て、受光場の縁に立った。

地平線まで並んだ板が、昼の光を跳ね返していた。


「ヨナタン」


「ん」


「娘、熱、出してないか」


「一回出した。夜中に、冷蔵庫の氷で冷やした。すぐ下がった」


「そうか」


ダウィトは、頷いた。


「よかった」


帰りのバスの窓から、ダウィトは、遠ざかるデブレの受光場を見ていた。

その向こうに、東の空があった。

あの空の、ずっと上で、姉が鏡を直している。



雨季の始まる前の日、ダウィトは、町に残る人たちと、集会所に集まった。


千人が、残ることになった。

年寄りが多かった。

それと、年寄りを置いていけない、何人かの若い者。

ダウィトも、その一人だった。


ゲタチェウ先生が、集会所の前に立った。


「明日から、光は来ない」


先生は、それだけ言った。

皆、知っていた。


「私の診療所の屋根には、黒い板が二枚ある。冷蔵庫は、昼のあいだだけ動く。夜は止まる。

だから、夜に要る薬は、昼のうちに出す。夜中に具合が悪くなったら、戸を叩きなさい。

明かりは点けられないが、私は起きる」


誰かが、小さく笑った。

先生も、少し笑った。


「隣の村の空き家に、黒い板が、まだたくさん残ってる。ダウィトが、屋根から外して、配ってくれる。

一軒に二枚。昼に溜めて、夜に使う。電灯一つと、ラジオ一つくらいは、回る」


ダウィトは、集会所の隅で、荷車に積んだ黒い板の山の横に立っていた。

この十日のあいだに、空き家を回って集めたものだった。

百枚近くあった。


皆が、一人ずつ、ダウィトのところへ来た。

一軒に二枚、黒い板を受け取った。

受け取るとき、何人かは、ダウィトの手を握った。


「四十日、ありがとうよ」


誰かが言った。

ダウィトは、首を振った。


「俺じゃない。上で、姉さんたちが送ってくれた」


「上の人にも、ありがとうだ。でも、下で受けたのは、お前だろう」


最後に、母のアルマズが来た。

母は、黒い板を受け取らなかった。


「うちは、いいわ」


「なんで」


「コーヒーは、炭で淹れるもの。電灯は、あんたの作業場に一つあれば足りる」


母は、ダウィトの汚れた手を取った。


「あんたは、明日から、光の来ない丘の番人ね」


「……うん」


「姉さんと、同じね」


母は、そう言って、笑った。



雨季が明けたころ、セラムは、夜の側の地球を見下ろしていた。


保守艇の居住区の、小さな窓からだった。

東アフリカの高原。

アディスアベバの大きな光の染み。

その北東に、デブレの光の染み。

新しい受光場のまわりに、五万人と、アンバから移った千人ほどが住んでいた。


その少し先は、暗かった。


アンバの受光権は、切られた。

町の電灯は、もう点かない。

残った千人は、ゲタチェウ先生の診療所の屋根と同じ、黒い板で暮らしていた。

昼に溜めた電気を、夜に少しずつ使う。

上から見ると、町は、ほとんど真っ暗だった。


セラムは、窓に額をつけて、その暗いあたりを見ていた。


伝言で、ダウィトは言っていた。


「毎晩、姉さんの艇が高原の上を通る時間に、丘の上で、一つだけ明かりを点ける。黒い板で溜めた電気で。

一分だけ」


一分だけ。

それでは、上から見えるはずがなかった。

三万六千キロ離れた軌道から、電球一つの明かりが見えるはずがない。

ダウィトも、それは分かっているはずだった。


それでも、セラムは、毎晩、その時間に窓の前に座った。


今夜も、座った。


時計が、その時間を指した。


暗い高原の、アンバのあるあたりを、セラムは見つめた。

何も見えなかった。

見えるはずがなかった。

それでも、目を離さなかった。


一分が過ぎた。


セラムは、窓の前で、自分のヘルメットの灯りを点けた。

居住区の窓に向けて、一度だけ、点けて、消した。

地上からは、もちろん、見えない。


見えないことを、二人とも知っている。

知っていて、毎晩、点ける。


降ろす側と、受ける側。

上と下で、場所が違うだけの、同じ仕事。


セラムは、窓から離れて、明日の作業の手順書を開いた。

第九鏡群の、骨組みの点検。

直しても直しても、少しずつ傷んでいく鏡を、一日でも長く保たせるための手順を。


実際には、こんな大掛かりな装置がなくても、電力なしに温水を出したりする装置はいくらでも作れるので、スマホは使えないかもしれないけど、生活、健康レベルが極端に下がるようなことはないと推測。

人口移動と過密とで都市部で問題が起きると想像する。

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