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均質化


三十一本の作文を読み終えたとき、マーゴ・ウェルズは、赤ペンのキャップを閉めた。


教室の暖房は、朝の十時で止まる。

今月の燃料の割り当てが、そこで尽きるように組んである。

十時を過ぎると、窓ガラスの内側に、うっすら霜の模様が浮きはじめる。

生徒たちは上着を着たまま授業を受ける。

マーゴも、コートの前を閉めて、教卓に座っている。


放課後の今は、教室にマーゴ一人だった。

吐く息が白かった。


机の上に、三十一本の作文が積んである。

紙に、手で書かせたものだ。

この学校で、作文を紙に手で書かせる授業は、マーゴの「自前作文」の授業だけだった。

州の教育委員会は、この授業を、毎年「廃止検討」の欄に載せる。

毎年、マーゴは載せられたまま、授業を続けている。


課題は、先週出した。


「あなたが最後に燃やしたもの」


オハイオの冬は長い。

石油の配給は年ごとに細くなって、この町の家の半分は、もう暖炉か薪ストーブに戻っている。

燃やすものの話なら、十六の子どもにも、書くことがあるはずだった。


マーゴは、一番上の一本を取った。

テオ・ラミレスの作文だった。


字は、きれいだった。

構成は、完璧だった。

最初の段落で、問いを立てる。

二つ目の段落で、燃やしたもの、つまり古い家具の話をする。

三つ目で、燃やすことの意味を、エネルギーの歴史と結びつける。

石炭から石油へ、石油から、軌道上の集光網へ。

最後の段落で、「燃やすという行為は、人類が次の時代へ移る前の、最後の儀式なのかもしれない」と結ぶ。


いい作文だった。

先週の、三十本の作文と同じように。


マーゴは、二本目を取った。

三本目を取った。

十本目まで取った。


問いの立て方が、同じだった。

燃やしたものが、ほとんど同じだった。

古い家具。

古い本。

古い椅子。

エネルギーの歴史への結びつけ方が、同じだった。

最後の一文が、言い回しを少しずつ変えて、同じだった。

儀式。

儀式。

儀式。


マーゴは、机の引き出しから、古い端末を出した。

マーゴは接続をしていない。

脳とクラウドをつなぐ手術を、しないまま五十八になった。

だから、昔ながらの端末で、昔ながらの照合の仕組みを使う。


三十一本の作文を、読み取らせた。

画面に、数字が出た。


「構成の一致率:九十四パーセント」

「結論の一致率:九十七パーセント」


去年の同じ時期は、九十一パーセントだった。

その前の年は、八十八だった。

マーゴが、この学校に来た二十年前は、六十台だった。


照合の画面の下のほうに、一本だけ、赤い印の付いた作文があった。

一致率、二十二パーセント。


マーゴは、その一本を、束の中から探し出した。


ジューン・オコナーの作文だった。


字は、汚かった。

消しゴムの跡が、紙を薄くしていた。

構成は、無かった。

段落の区切りも、ろくに無かった。

最初の一文は、こうだった。


「わたしが最後に燃やしたのは、おばあちゃんの手紙です。おばあちゃんは、まだ生きています」


マーゴは、読んだ。


ジューンの家は、町の外れの、古い農家だった。

十一月の終わり、薪が尽きた。

石油の配給は、次の月まで来ない。

祖母が、寝室の押し入れから、箱を一つ出してきた。

祖父から来た手紙の箱だった。

祖父は、もう三十年前に死んでいた。

祖母は、手紙を一通ずつ、ストーブにくべた。

くべる前に、一通ずつ、声に出して読んだ。

ジューンは、隣でそれを聞いていた。


「おばあちゃんは、読み終わると、手紙を火に入れました。火が、手紙の字を食べていくのが見えました。

おばあちゃんは、全部覚えてるから大丈夫と言いました。

でも、次の日に、どの手紙だったか思い出せないと言いました。わたしは、覚えています。

三通目の手紙に、ヘラジカの話がありました。わたしは、そのヘラジカのことを、今も考えています。

おばあちゃんの代わりに覚えているのは、わたしだけなので、わたしが忘れたら、あのヘラジカは、

どこにもいなくなります」


儀式、という言葉は、一度も出てこなかった。

エネルギーの歴史も、出てこなかった。


最後の段落は、こうだった。


「燃やしたのは手紙ですが、燃えなかったのはヘラジカです。これで終わりです。

まとまっていなくて、ごめんなさい」


マーゴは、赤ペンのキャップを、また外した。

何か書こうとして、書けなかった。

キャップを閉めた。


窓の霜の模様が、夕日で薄い橙に光っていた。



次の日の朝、テオ・ラミレスは、授業の前に教員室へ来た。


十六にしては背が高く、髪を短く刈り込んでいる。

右の耳の後ろに、小さな銀色の点がある。

接続の端子の跡だ。

この学校の生徒の九割に、同じ点がある。


「ウェルズ先生。僕の作文、何点でしたか」


マーゴは、机の上の束から、テオの作文を出した。

余白に、赤ペンで点数が書いてあった。


「A。構成、論理、語彙、全部満点」


テオは、作文を受け取らなかった。

マーゴの顔を見ていた。


「一致率は、何パーセントでしたか」


マーゴは、少し驚いた。

生徒に一致率の話をしたことはなかった。


「……どうして、それを」


「兄が、三年前に先生の授業を取ってました。先生が照合の機械を使ってるって、言ってました」


テオは、少し言いにくそうに続けた。


「兄は、一致率九十一パーセントで、Aでした。今、大学で、接続工学をやってます。成績はずっと上位です。

でも、兄の書くレポートは、兄の同級生の書くレポートと、ほとんど同じだそうです。

教授が、誰が書いても同じだから、名前だけ見て点を付けてるって」


マーゴは、黙って聞いていた。


「僕の作文、九十四パーセントでしたか」


「全体の一致率が九十四。あなた個人の一致率は、九十六」


テオは、目を伏せた。


「……そうですか」


「Aよ」


「Aでも、九十六パーセントは、僕じゃないです」


テオは、ようやく作文を受け取った。

自分の字を、見つめた。


「書いてるとき、答えが、全部分かるんです。

どう書けばいいか、どういう順番で、どういう言葉を選べばいいか。考える前に、分かる。

分かるから、そのとおりに書く。書き終わると、いい作文になってる。でも」


テオは、作文を二つに折った。


「でも、燃やしたものは、本当は家具じゃないんです」


「何を燃やしたの」


テオは、答えなかった。

答えようとして、口を開けて、閉じた。

耳の後ろの銀色の点に、指で触れた。


「……分からなくなるんです。本当は何を燃やしたか、思い出そうとすると、家具の話が出てくる。

家具の話が、一番いい答えだから。

一番いい答えが、先に来るから、自分の答えが、どこにあるのか分からない」


マーゴは、何も言わなかった。

テオは、しばらく立っていた。


「ジューン・オコナーの作文は、何点でしたか」


「どうして」


「クラスで、一人だけ、接続してないから。あの子の作文だけ、違ったんじゃないかと思って」


マーゴは、少し迷ってから、言った。


「まだ、点を付けてない」


「付けられないんですか」


「付けられない」


テオは、少しだけ笑った。

笑ったあとで、何かを決めたような顔をした。


「先生。放課後、自前作文の補習って、やってますか」


「やってない」


「やってください。僕、出ます」


テオは、それだけ言って、教員室を出ていった。

二つに折った作文を、上着のポケットにねじ込んで。



その週の金曜、学校に客が来た。


灰色のコートを着た、四十くらいの女だった。

校長室で、校長と三十分話したあと、校長に連れられて、マーゴの教室に来た。

放課後で、教室にはマーゴしかいなかった。


「ノーヴァ発想研究所の、エレン・ブースです」


女は名刺を出した。

紙の名刺だった。

最近、紙の名刺を出す人間は、決まって同じ種類の仕事をしている。


「ジューン・オコナーさんの担任の先生ですね」


「担任ではありません。作文の授業を持っているだけです」


「作文の授業の先生だから、お話を伺いたいんです」


エレン・ブースは、勧められる前に椅子に座った。

コートは脱がなかった。

教室の寒さに、少し眉を寄せていた。


「単刀直入に申します。弊社は、非接続のお子さんの発想を、正当な対価でお預かりする仕事をしています」


マーゴは、黙っていた。


「ご存じだと思いますが、接続が普及して百年近く経ちます。人類の知能は、平均では大きく上がりました。

ただ、新しいものが出にくくなった。特許の出願数は、この三十年で四割減っています。

新しい曲も、新しい物語も、新しい料理も、出てくるのは、どこかで見たものの組み合わせばかり」


「均質化」


「ええ、そう呼ばれています。それで、発想の値段が、上がっているんです。

接続していない人の頭から出てくる、どこにも無い発想の値段が」


エレン・ブースは、鞄から一枚の紙を出した。

州の作文コンクールの、昨年度の入賞作の一覧だった。


「昨年、州のコンクールで、ジューン・オコナーさんの作文が、佳作に入っています。

審査員の一人が、弊社の顧問でした。一致率が、極端に低かったそうです」


マーゴは、その一覧を見た。

去年、マーゴが、ジューンの作文をこっそり応募したものだった。

ジューンには、佳作に入ったことしか伝えていなかった。


「弊社の契約は、こうです。お子さんは、非接続のまま、週に一度、弊社の研究員と面談します。

話したこと、書いたこと、思いついたことを、弊社がお預かりします。

それを、弊社がクラウドに整理して載せ、必要とする企業や研究所に提供します。

対価として、ご家族に、月々の報酬と、燃料と電力の優先割り当てをお付けします」


「燃料」


「ええ。オコナーさんのお宅は、今年の冬、石油の配給が足りていないと伺っています」


マーゴは、エレン・ブースの顔を見た。

その顔には、悪意は無かった。

ただ、仕事の顔だった。


「……クラウドに載せる、と言いましたね」


「はい」


「載せたら、接続している全員が、それを知ることになる」


「そうです。それが、弊社の提供する価値です。新しい発想が、すぐに全員の役に立つ」


「全員が知ったら、それはもう、新しい発想ではなくなるんじゃないですか」


エレン・ブースは、少しだけ笑った。


「ですから、弊社は、次の発想を、また買うんです」


マーゴは、何も言わなかった。

言うことが、見つからなかった。


「先生に、何かしていただきたいわけではありません。ご家族とは、もうお話ししています。

ただ、先生が、お子さんの作文をいちばんよくご存じなので、ご挨拶に」


エレン・ブースは立ち上がって、コートの襟を立てた。


「この教室、寒いですね」


「十時で、暖房が止まるので」


「弊社の研究所は、一日じゅう暖かいですよ」


女は、そう言って出ていった。

廊下を遠ざかる足音が、硬く響いた。



その夜、マーゴは、自分の家の台所で、一人で夕食をとった。


町の中ほどの、小さな二階建てだった。

夫のハロルドが死んでから、八年、一人で住んでいる。

暖房は、居間のストーブ一つ。

石油の割り当ては、一人暮らしだと、月に十二リットル。

マーゴは、夕食を台所で済ませて、すぐに二階の寝室に上がる。

寝室は、厚い布団でしのぐ。


食器を洗いながら、マーゴは、妹のことを思い出していた。


妹のケイトは、マーゴの二つ下だった。

十八の年、大学の推薦の条件に、接続が入った。

マーゴは、推薦をあきらめた。

ケイトは、接続した。


接続する前のケイトは、手紙を書く子だった。

同じ家に住んでいるのに、マーゴの部屋の戸の下に、手紙を差し込んできた。

今日の夕飯のこと。

学校の嫌な先生のこと。

窓から見えた、変な形の雲のこと。

字は、右に傾いていて、ところどころ綴りを間違えていた。


接続したあとも、ケイトは、手紙を書いた。

大学から、月に一度。

字は、まっすぐになった。

綴りは、一つも間違えなくなった。

話は、上手になった。

上手になって、誰が書いても同じになった。


最後の手紙は、三十年前に来た。

ケイトは、西海岸で、接続工学の研究者になっていた。

手紙には、仕事が順調なこと、家族が元気なことが、完璧な文章で書いてあった。

変な形の雲のことは、書いてなかった。


それから、手紙は来なくなった。

電話は、年に一度、クリスマスにかかってくる。

話は、五分で終わる。

話すことが、何も無いわけではない。

ただ、ケイトの話すことは、マーゴがクラウドの外から聞いても、どこかで聞いたことのある話ばかりだった。


ハロルドは、接続していた。

接続した人間と、接続していない人間は、結婚しないほうがいいと、当時は言われていた。

話が合わなくなるからだ。

ハロルドは、マーゴと話すときだけ、接続を切ってくれた。

三時間の上限いっぱい、毎晩。

それで、三十年、話が合った。


ハロルドが死んだあと、マーゴは、彼の机の引き出しに、小さな紙の束を見つけた。

マーゴと話したあとに、彼が書き留めていたメモだった。

接続を切っているあいだに、思いついたことを。

その字は、右に傾いていた。

ケイトの子どものころの字に、少しだけ似ていた。


マーゴは、洗い終えた皿を、布巾で拭いた。


ジューンの作文の、ヘラジカのことを考えた。

あの子の作文が、どこかの研究所で整理されて、クラウドに載る。

載ったら、接続した全員の頭の中に、ヘラジカが届く。

届いたヘラジカは、ケイトの手紙のように、完璧で、どこかで見たことのあるものになる。


マーゴは、皿を棚にしまって、ストーブの火を落とした。

二階に上がる階段が、冷たく軋んだ。



補習は、次の週の月曜から始まった。


マーゴが校長に届け出たのは、「自前作文・放課後補習(希望者)」という名前だった。

希望者は、二人だった。


テオ・ラミレスと、ジューン・オコナー。


ジューンは、テオが出ると聞いて、来ることにしたらしかった。

小柄な子で、色の褪せた古いセーターを何枚も重ね着している。

髪は、自分で切ったような長さだった。

耳の後ろには、銀色の点が無い。


「わたし、補習がいるほど、下手ですか」


最初の日、ジューンはマーゴにそう聞いた。


「補習がいるのは、テオのほう。あなたは、先生の手伝い」


「手伝い」


「テオに、考え方を教えてあげて」


ジューンは、テオを見た。

テオは、少し赤くなって、目を逸らした。


「僕、接続を切ってみたいんだ」


テオは言った。


「一時間だけ。自分で考えて、書いてみたい」


接続は、完全には切れない。

端子は脳に根を張っていて、外すには、また手術がいる。

ただ、受信を止めることはできる。

耳の後ろの点を、指で二回押す。

止めていられるのは、一回に最長で三時間。

それを過ぎると、体が勝手に受信を再開する。


テオは、指を耳の後ろに当てた。

二回、押した。


それから、机の上に突っ伏した。


「テオ?」


「……大丈夫です」


テオの声は、くぐもっていた。


「頭が、急に、遠くなって。音が、ぜんぶ、遠い」


マーゴは、ジューンと顔を見合わせた。

ジューンは、驚いていなかった。


「接続してる子が切ると、みんな、そうなるって。いとこが言ってた。泥の中を歩いてるみたいだって」


ジューンは、自分の椅子を引いて、テオの隣に座った。


「大丈夫。泥の中でも、歩けるよ。わたし、ずっと泥の中だもん」


テオは、ゆっくり顔を上げた。

目の焦点が、うまく合っていないようだった。


「……何を、書けば、いい」


「前の課題。最後に燃やしたもの」


マーゴが言った。


「本当は家具じゃないって、言ってたでしょう」


テオは、鉛筆を握った。

紙の上に、鉛筆の先を置いた。

動かなかった。


五分、動かなかった。


十分、動かなかった。


テオの額に、汗が浮いていた。

教室は寒いのに、汗をかいていた。


「分からない」


テオは言った。

声が、震えていた。


「何も、出てこない。いつもなら、すぐに、答えが来るのに。何も来ない。何も来ないのが、怖い」


ジューンが、テオの鉛筆を握った手に、自分の手を重ねた。


「答えを、探さなくていいよ」


「……え」


「答えじゃなくて、燃やしたときのこと。

何を燃やしたかじゃなくて、燃やしたとき、どこにいて、何が見えて、何の匂いがしたか。それだけ」


テオは、ジューンを見た。

それから、目を閉じた。


長い沈黙だった。

窓の外で、風が鳴っていた。

遠くで、最後の石油の配給車が、クラクションを鳴らしていた。


「……裏庭」


テオが、目を閉じたまま言った。


「裏庭の、ドラム缶。父さんが、ゴミを燃やしてた。秋。落ち葉の匂い。それと、紙の燃える匂い」


「何の紙」


「……ノート」


テオの声が、小さくなった。


「青い、ノート。表紙に、恐竜のシールが貼ってある」


テオは、目を開けた。

自分でも驚いたような顔をしていた。


「僕が、七つのときに、書いたノートだ」


「何を書いたの」


「……話」


テオは、鉛筆を握り直した。


「話を書いたんだ。接続する前。七つのとき。恐竜と、宇宙人と、僕の犬が出てくる話。ノート一冊ぶん。

去年の秋、部屋を片付けてて、出てきた。読んでみたら、ひどかった。

字は間違いだらけだし、話はめちゃくちゃだし。

恥ずかしくなって、父さんがドラム缶で燃やしてるところに、持っていって、入れた」


テオは、鉛筆を紙の上で動かしはじめた。

ゆっくりだった。

一文字ずつ、確かめるように書いていた。


「入れるとき、全然、迷わなかった。いらないって、分かったから。

一番いい答えが、いらないって言ったから。それで、入れた」


鉛筆が、止まった。


「……あれが、僕が、接続する前に書いた、最後の話だった」


テオは、紙を見つめていた。

紙には、まだ三行しか書いていなかった。

字は、汚かった。

いつものテオの字ではなかった。


ジューンが、その三行を覗き込んだ。


「いいね」


「どこが。三行しか書いてない」


「三行とも、テオの字だもん」


テオは、何か言いかけて、言えずに、また鉛筆を動かした。


マーゴは、教卓から、二人の背中を見ていた。

寒い教室の中で、二人の吐く息が、白く重なっていた。



補習は、週に三回になった。


テオは、毎回、接続を切った。

最初の週は、三十分で音を上げた。

二週目は、一時間もった。

三週目には、上限の三時間いっぱい、切ったまま書けるようになった。


書いたものは、相変わらず汚かった。

消しゴムの跡だらけで、同じことを二度書いていたり、途中で話が飛んだりした。

それでも、書くたびに、少しずつ長くなった。


青いノートのこと。

恐竜の名前のこと。

犬の名前のこと。

犬は、テオが九つのときに死んだ。

接続したのは、八つのときだった。

犬が死んだときのことは、よく覚えていない。

正確に言うと、覚えているのに、どう感じたかが思い出せない。

感じたことの代わりに、「ペットの死に際して、子どもが経験する喪失の段階」という、

一番いい答えが出てくる。


「それ、書けばいいじゃん」


ジューンが言った。


「思い出せないってことを」


テオは、ジューンの顔を見た。

それから、書いた。


「犬が死んだとき、僕は、悲しかったはずだ。

でも、悲しかったということを、僕は、教科書の言葉でしか思い出せない。

僕の悲しさは、どこかで、みんなの悲しさと混ざってしまった」


マーゴは、その一文を読んで、しばらく黙っていた。


ジューンは、テオの作文を読むのが好きだった。

読んで、首をかしげて、「ここ、分からない」と言う。

テオが説明すると、「それ、書いてない」と言う。

テオは、書き足す。


逆に、テオは、ジューンの宿題を見てやった。

ジューンは、数学と理科が、ひどく苦手だった。

接続していないから、公式も、年号も、元素の記号も、自分の頭で覚えなければならない。

テオには、全部、考える前に分かった。


「ずるい」


ジューンは、テオが三秒で解いた方程式を見て、言った。


「ずるいよ。わたし、これに三十分かかった」


「僕は、作文の三行に三十分かかった」


テオが言うと、ジューンは吹き出した。


「おあいこだね」


二人が笑っているのを、マーゴは教卓から見ていた。

接続した子と、接続していない子が、一つの机で、互いの足りないところを埋めている。

二十年、この教室で、マーゴが一度も見たことのない光景だった。



十二月の半ば、マーゴは、ジューンの家を訪ねた。


補習のことを、家の人に説明しておきたかった。

それと、もう一つ、確かめたいことがあった。


オコナーの家は、町の外れの、古い農家だった。

納屋の屋根が、半分落ちていた。

玄関の脇に、薪が積んであった。

積んであるといっても、膝の高さまでしかなかった。


戸を開けたのは、ジューンの母親だった。

四十代の半ばで、ジューンによく似た顔をしていた。

耳の後ろに、銀色の点があった。


「ジューンの親なのに、接続してるのかって、思いました?」


母親は、マーゴの視線に気づいて言った。


「あたしは、接続してます。仕事で要るので。倉庫の在庫管理。接続しないと、雇ってもらえない。

でも、あの子にはさせなかった。夫が、させたくないって。夫は、もういませんけど」


居間は、寒かった。

ストーブに火は入っていたが、弱かった。

薪を、少しずつしかくべていないのだと分かった。


ストーブの前の椅子に、老女が座っていた。

毛布にくるまって、咳をしていた。

乾いた、長い咳だった。


「母です。ジューンの祖母」


老女は、マーゴを見て、にっこり笑った。


「あら。ジューンの先生ね。ヘラジカの作文の」


マーゴは、少し驚いた。


「読んだんですか」


「読んでもらったの。あの子、わたしに読んで聞かせてくれたのよ。わたしが燃やした手紙の話」


老女は、また咳をした。


「あの人の手紙、ぜんぶ燃やしちゃった。でも、あの子が、覚えててくれた。ヘラジカのこと。

わたしは、もう、思い出せないの。あの人が、どこでヘラジカを見たのか。

でも、あの子が覚えてるから、いいの」


老女は、ストーブの弱い火を見ていた。


台所で、母親が茶を淹れながら、小さな声でマーゴに言った。


「ノーヴァの人が、来たでしょう。学校に」


「ええ」


「うちにも来ました。三回」


母親は、湯の沸く鍋を見ていた。


「母の咳、医者は、寒さのせいだって。暖かくしてれば、治るって。うちの石油の配給は、月に二十リットル。

薪は、あれだけ。一月と二月を、越せるか分からない」


「契約するんですか」


マーゴは聞いた。

聞いてはいけないことだと、分かっていた。


母親は、長いあいだ黙っていた。


「……決めるのは、ジューンです。あの子に、決めさせます」


母親は、茶を三つの茶碗に注いだ。


「あの子、何て言ってると思います?」


「分かりません」


「ヘラジカは、売らないって。それ以外なら、売ってもいいって」


マーゴは、茶碗を受け取った。

手が、少しだけ震えた。



テオの両親から、学校に苦情が来たのは、その週の終わりだった。


テオの成績が、落ちていた。

数学と理科は、変わらなかった。

落ちていたのは、接続を前提にした授業だった。

歴史の即答テスト。

語彙の反応速度の測定。

テオは、補習のあと、接続を戻すまでに時間がかかるようになっていた。

戻したあとも、しばらく、答えが来るのが遅かった。


「息子に、何をさせてるんですか」


電話の向こうで、テオの母親が言った。

マーゴは、校長室の受話器を耳に当てていた。

校長が、机の向こうで腕を組んでいた。


「作文の、補習です」


「接続を切らせてるって、息子が言ってました。三時間も」


「本人の希望です」


「十六の子の希望で、将来を潰すんですか。あの子は、兄と同じ大学に行くんです。接続工学の。

接続の成績が落ちたら、推薦がもらえない」


マーゴは、何も言い返せなかった。

母親の言っていることは、正しかった。

この国で、接続の成績が落ちることが何を意味するか、マーゴはよく知っていた。

接続しなかった自分が、この町の、廃止検討の授業を持ったまま、二十年を過ごしてきたのだから。


「……補習は、本人が続けたいと言う限り、続けます。

ただ、接続を切る時間は、短くするよう、本人と話します」


電話を切ると、校長がため息をついた。


「ウェルズ先生。あなたの授業は、来年度、本当に廃止になるかもしれませんよ」


「毎年、そう言われてます」


「今年は、本当に」


校長は、窓の外を見た。


「州は、燃料の予算を削りたい。暖房を十時で止めても、まだ足りない。役に立たない授業から、削られます」


「役に立たない」


「一致率の低い作文は、どこの大学も、どこの会社も、点数を付けられないんです」


マーゴは、校長の顔を見た。

校長は、目を逸らした。


「付けられないのは、付け方を忘れたからでしょう」


マーゴは、そう言って、校長室を出た。

廊下は、もう暗かった。

暖房の止まった校舎の中を、冷たい空気がゆっくり流れていた。


教室に戻ると、テオが一人で残っていた。

机に向かって、鉛筆を動かしていた。

耳の後ろの点が、切れていることを示す小さな赤い光を点けていた。


「テオ。お母さんから、電話があった」


テオは、手を止めなかった。


「知ってます。昨日、喧嘩しました」


「接続を切る時間を、短くしましょう」


テオは、鉛筆を止めた。

振り向いた。


「先生。州の作文コンクール、締め切りはいつですか」


「一月の末」


「それに、出したいんです。これを」


テオは、机の上の紙の束を持ち上げた。

補習の三週間で書いたものだった。

消しゴムの跡だらけの、汚い字の束。


「青いノートの話を、ちゃんと書きたい。最後まで。自分の頭だけで。そのためには、三時間じゃ足りない」


「足りないって」


「冬休みのあいだ、一週間、切ったままでいようと思います」


マーゴは、テオの顔を見た。


「三時間を過ぎたら、体が勝手に受信を戻すでしょう」


「戻るたびに、また切ります。三時間ごとに。夜中も。目覚ましを掛けて」


「そんなことをしたら」


「分かってます。頭が痛くなるし、眠れないし、たぶん、接続の成績は、もっと落ちます」


テオは、紙の束を胸に抱えた。


「でも、一週間、自分だけで考えたら、何が残るか、知りたいんです。

僕の中に、みんなと混ざってないものが、どれくらい残ってるか」


マーゴは、長いあいだ黙っていた。

それから、言った。


「ご両親には、自分で言いなさい。私からは、止めない」


テオは、頷いた。

笑ってはいなかった。

怖がっている顔だった。

怖がりながら、決めている顔だった。



冬休みの一週間のことを、テオはあとで、うまく人に説明できなかった。


一日目は、頭が割れるように痛かった。

三時間ごとに目覚ましが鳴って、耳の後ろの点が勝手に受信を戻しかける。

そのたびに、指で二回押す。

押すと、また世界が遠くなる。

遠くなった世界の中で、テオは、ベッドの上で膝を抱えていた。


二日目、母親が部屋の前で泣いていた。

ドア越しに、「お願いだから戻して」と言っていた。

父親が、母親を連れていった。

父親は、何も言わなかった。

ドアの前に、夕食の皿を置いていっただけだった。


三日目、テオは、窓の外を見ていた。


雪が降っていた。

接続しているとき、雪は、「オハイオ州北東部、降雪量三センチ、気温マイナス四度」だった。

接続を切ると、雪は、ただの雪だった。

白くて、ゆっくりで、音がしなかった。

テオは、一時間、雪が落ちるのを見ていた。

何も考えていなかった。

何も考えていないということを、テオは、生まれて初めて経験した気がした。


四日目、テオは、犬の名前を思い出した。


ビスケットだった。

茶色い、耳の垂れた犬だった。

テオが五つのときに、父親が、どこかから貰ってきた。

テオは、ビスケットに、青いノートの話を読んで聞かせたことがあった。

ビスケットは、テオの膝の上で、途中で寝た。


ビスケットが死んだ日のことも、思い出した。


庭の、ドラム缶の横に、父親が穴を掘った。

テオは、九つだった。

接続して一年経っていた。

穴の前で、テオの頭の中に、言葉が次々に流れ込んできた。

喪失の段階。

ペットロスの平均的な期間。

子どもにとっての最初の死別体験の意義。

テオは、その言葉の流れの中で、泣けなかった。

泣くべきだと分かっていたのに、泣く前に、泣くことの意味が説明されてしまって、泣けなかった。


四日目の夜、ベッドの上で、テオは泣いた。


七年遅れて、泣いた。

声を殺して、長いあいだ泣いた。

泣き終わってから、机に向かって、書いた。


字は、ひどかった。

涙で紙が濡れて、鉛筆の線がにじんだ。

それでも、書いた。


五日目も、六日目も、書いた。

青いノートの話。

恐竜と、宇宙人と、ビスケットが出てくる話。

七つのテオが書いた話を、十六のテオが、思い出せる限り、書き直した。

思い出せないところは、思い出せないと書いた。

七つのテオが何を考えていたのか、十六のテオには、半分も分からなかった。

分からないことを、分からないまま、書いた。


七日目の朝、テオは、耳の後ろの点を押さなかった。


受信が戻ってきた。

音が近くなった。

世界が、急に、全部の答えを持って戻ってきた。

雪は、また「降雪量三センチ」になった。


テオは、机の上の紙の束を見た。

三十枚あった。

汚い字の、三十枚。


それは、一週間前には、どこにも無かったものだった。



同じ週、十二月の二十八日に、ジューンは、ノーヴァ発想研究所との契約書に、名前を書いた。


祖母の咳が、止まらなくなっていた。

夜中に、何度も起きて咳をした。

咳のあいだに、息がうまく吸えなくなった。

町の診療所の医者は、暖かい部屋で寝かせるようにとだけ言った。


契約書は、分厚かった。

ジューンは、最初から最後まで読もうとした。

半分まで読んだところで、祖母が、隣の部屋で、また咳をした。

ジューンは、残りの半分を、読まずに署名した。


署名の前に、エレン・ブースに、一つだけ確かめた。


「ヘラジカは、売りません。それでいいですか」


エレン・ブースは、少し不思議そうな顔をした。


「ヘラジカ、というのは」


「わたしの、おばあちゃんの、手紙の中のヘラジカです。それは、わたしのです。それ以外なら、話します」


「分かりました。面談で、ヘラジカのお話は伺いません」


エレン・ブースは、そう言って、契約書を受け取った。


その日の夕方、オコナーの家に、燃料の配送車が来た。

石油のタンクが、満杯になった。

その夜、居間のストーブに、久しぶりに強い火が入った。

祖母は、毛布を肩まで下ろして、火の前で眠った。

一晩、咳をしなかった。


ジューンは、祖母の寝顔を見ながら、ストーブの前に座っていた。

強い火が、顔を熱くした。

その熱さが、うれしかった。

うれしいことが、少しだけ怖かった。



年が明けた最初の土曜、ジューンは、ノーヴァ発想研究所の車で、市内の研究所へ連れていかれた。


研究所は、町から一時間、車で走ったところにあった。

ガラス張りの、低い建物だった。

中に入ると、暖かかった。

上着を三枚脱いでも、まだ暖かかった。

ジューンは、四枚目のセーターを脱ぐかどうか、しばらく迷った。


面談の部屋は、小さかった。

柔らかい椅子が二つと、低い机が一つ。

窓の外に、雪をかぶった松林が見えた。


研究員は、若い男だった。

二十代の終わりくらい。

名前は、ソールと言った。

耳の後ろに、銀色の点があった。

点の横に、もう一つ、小さな点があった。

研究所の、専用の送信の端子だと、あとで知った。


「緊張しなくていいよ。お茶、飲む?」


ソールは、温かいココアを出してくれた。

ジューンは、両手で包むようにカップを持った。

ココアを飲むのは、何年ぶりか分からなかった。


「今日は、何でもいいから、最近考えたことを話してくれる?」


「何でも」


「うん。何でも。くだらないことでも、いい。むしろ、くだらないことのほうが、いい」


ジューンは、窓の外の松林を見た。


「……雪が、松の枝から落ちるときのこと」


「うん」


「枝に雪が積もって、重くなって、枝が下がって、ある瞬間に、雪がどさっと落ちる。

そうすると、枝が、びよんって跳ね上がる。跳ね上がって、隣の枝にぶつかって、隣の枝の雪も落ちる。

それが、ずっと続いて、林の中を、雪の落ちる音が走っていく」


「うん」


「それが、なんだか、うちの町の人たちみたいだなって思った。一人が辞めると、隣の人も辞める。

一人が引っ越すと、隣の人も引っ越す。軽くなって、跳ね上がって、隣にぶつかる」


ソールは、黙って聞いていた。

聞きながら、目が、少しだけ遠くなった。


ジューンは、それに気づいた。


ソールの目が、ジューンを見ていなかった。

ジューンの顔の、少し向こうを見ていた。

耳の後ろの、二つ目の点が、小さく青く光っていた。


今、この人は、わたしの話を、送ってるんだ。


ジューンは、そう思った。

松の枝から雪が落ちる話が、今、どこかへ飛んでいく。

来週には、誰かが、町の人たちのことを話すときに、その話を使う。

一人が辞めると、隣も辞める。

雪が落ちて、枝が跳ね上がる。


話し終わると、ソールの目が、戻ってきた。

ソールは、にっこり笑った。


「すごくいいね。ありがとう」


ジューンは、ココアのカップを見た。

中身は、半分残っていた。

まだ、温かかった。


「……あの」


「うん?」


「ソールさんは、今の話、覚えてますか」


ソールは、少し驚いた顔をした。


「覚えてるよ。もちろん。雪が松の枝から落ちて、跳ね上がって、隣にぶつかる。町の人たちみたいだって」


「わたしが、何て言ったか、じゃなくて」


ジューンは、カップを机に置いた。


「ソールさんが、どう思ったか」


ソールは、口を開けて、閉じた。

それから、少し困ったように笑った。


「……いい話だと思ったよ」


「それだけですか」


「それだけ、って」


ソールは、耳の後ろの点に、指で触れた。


「ごめんね。僕は、こういうとき、自分がどう思ったか、うまく言えないんだ。

一番いい答えが、先に来るから」


ジューンは、何も言わなかった。

テオと同じだ、と思った。


帰りの車の中で、ジューンは、窓の外を見ていた。

雪の積もった松林が、流れていった。

ときどき、枝から雪が落ちて、枝が跳ね上がるのが見えた。

隣の枝にぶつかって、隣の枝の雪も落ちた。


さっきまで、それは、ジューンの話だった。

今は、もう、誰の話でもなかった。


ジューンは、窓ガラスに、指で小さくヘラジカの絵を描いた。

息で曇ったガラスの上に。

描き終わってから、手のひらで消した。



一月の二週目、学校が始まった。


最初の日の朝、ジューンは、廊下で、その言葉を聞いた。


「燃えなかったヘラジカ、ってやつ、知ってる?」


同じ学年の、接続している女の子だった。

隣の子に、話しかけていた。


「知ってる知ってる。昨日から、みんな言ってるやつ。

失くしたものの代わりに、覚えてるものがある、みたいな意味でしょ。いい言葉だよね」


「誰が言い出したんだろ」


「さあ。クラウドに上がってた。どっかの詩人じゃない?」


ジューンは、廊下の真ん中で立ち止まった。


教室に入ると、黒板の隅に、誰かが落書きをしていた。

下手なヘラジカの絵と、その下に、「燃えなかったヘラジカ」。


昼休みには、三人の生徒が、その言葉を使った。

一人は、なくした財布のことで。

一人は、別れた恋人のことで。

一人は、何の意味もなく、ただ口癖のように。


ジューンは、午後の授業に出なかった。


マーゴが、それを知ったのは、放課後だった。

補習の教室に、ジューンが来なかった。

テオが、一人で待っていた。

テオの顔は、青ざめていた。


「先生。ジューンの作文、クラウドに上がってます」


テオは、耳の後ろの点に触れていた。


「今朝、戻してから、ずっと流れてくるんです。燃えなかったヘラジカ。どこから来たのか、辿れました。

ノーヴァ発想研究所の、提供データの中に、ジューン・オコナーの作文が一本、入ってる。

去年の、州のコンクールの、佳作の作文」


マーゴは、息を止めた。


「……ヘラジカは、売らないって、言ってたはず」


「面談では、話してないと思います。

でも、契約書に、過去の作品の権利も含むって、書いてあったんじゃないかな。

コンクールに出した作文は、もう公開されてるから」


コンクールに出した作文。


それを出したのは、マーゴだった。


ジューンには言わずに、こっそり応募した。

あの子の作文を、誰かに読んでほしかった。

一致率二十二パーセントの作文に、誰かが点を付けてくれることを、確かめたかった。


マーゴは、教卓に手をついた。

手が、冷たかった。


「……私が、出したの」


テオが、マーゴを見た。


「去年、あの子に言わずに、私が、応募した。佳作に入って、うれしかった。

うれしくて、あの子に、入ったことだけ伝えた。それが、どこの誰の目に留まるかなんて、考えなかった」


テオは、何も言わなかった。


マーゴは、コートを掴んで、教室を出た。

廊下を走った。

五十八になって、廊下を走ったのは、初めてだった。



ジューンは、町の外れの、凍った池のほとりにいた。


オコナーの家の裏の、小さな池だった。

テオが、場所を教えてくれた。

接続で、ジューンの端末の位置を辿ったのだと言った。

それが正しいことかどうか、マーゴには、考えている暇が無かった。


ジューンは、池のほとりの倒木に座って、凍った水面を見ていた。

上着を何枚も重ね着して、それでも肩を震わせていた。


マーゴは、隣に座った。

息が切れていた。

しばらく、何も言えなかった。


「先生」


ジューンが、先に言った。

凍った水面を見たままだった。


「ヘラジカが、いなくなった」


マーゴは、何も言えなかった。


「わたし、作文に書いたよね。わたしが忘れたら、ヘラジカは、どこにもいなくなるって。

だから、忘れないようにしてた。毎晩、寝る前に、三通目の手紙のこと、思い出してた。

おじいちゃんが、湖のそばで、朝、ヘラジカを見たこと。

ヘラジカが、水を飲んでて、顔を上げて、おじいちゃんを見たこと。おじいちゃんが、動けなくなったこと。

息をするのも忘れたって、書いてあったこと」


ジューンの声は、静かだった。


「今は、みんなが覚えてる。燃えなかったヘラジカ。みんな知ってる。みんな使ってる。

財布をなくしても、恋人と別れても。

でも、誰も、湖のことも、朝のことも、おじいちゃんが息を忘れたことも、知らない。

ヘラジカって言葉だけ、みんなの中にいて、ヘラジカは、どこにもいない」


ジューンは、膝を抱えた。


「わたしが忘れるより、ひどい」


マーゴは、ジューンの肩に手を置いた。

ジューンは、振り払わなかった。


「……私が、出したの」


マーゴは言った。


「去年のコンクール。あなたに言わずに、私が、あなたの作文を応募した。

あなたの作文に、誰かが点を付けてくれるのを、見たかった。それが、ノーヴァの人の目に留まった。

契約書の、過去の作品の権利に、入ってた」


ジューンは、ゆっくり、マーゴのほうを向いた。


「ごめんなさい」


マーゴは、頭を下げた。

五十八年の人生で、生徒に頭を下げたのは、初めてだった。


ジューンは、長いあいだ、マーゴを見ていた。

それから、また池のほうを向いた。


「先生は、悪くないよ」


「悪い」


「悪くない。先生は、ヘラジカを、誰かに見せたかっただけでしょう。わたしも、そうだった。

だから、作文に書いた。書いたら、誰かに読まれる。読まれたら、誰かのものになる。分かってた。

分かってたけど、書きたかった」


ジューンは、凍った水面に、小石を一つ投げた。

小石は、氷の上を滑って、向こう岸まで行った。


「ねえ、先生。書かなきゃよかったのかな」


マーゴは、答えられなかった。


しばらくして、後ろで、雪を踏む音がした。


テオだった。

息を切らして、紙の束を抱えていた。

冬休みの一週間で書いた、三十枚の束だった。


「……勝手に、来た」


テオは、倒木の反対側の端に、腰を下ろした。

ジューンは、テオを見なかった。


「僕、今朝、接続を戻したとき、最初に流れてきたのが、燃えなかったヘラジカだった」


テオは言った。


「すぐに、ジューンのだって分かった。補習で、あの作文、読ませてもらってたから。それで、辿った。

辿って、全部分かった。それから、一日じゅう、流れてきた。みんなが使ってた。先生たちも使ってた」


テオは、紙の束を膝の上に置いた。


「でも、僕の中では、ヘラジカは、みんなのと違う」


ジューンが、初めて、テオのほうを見た。


「僕の中のヘラジカは、湖のそばにいる。朝で、水を飲んでて、顔を上げる。

ジューンのおじいちゃんが、息を忘れる。補習で、ジューンが、それを話してくれた。

三回くらい、話してくれた。僕は、それを、接続を切ってるときに聞いた。

だから、それは、クラウドに行ってない。僕の、泥の中にある」


テオは、耳の後ろの点に触れた。


「たぶん、先生の中にも、ある。先生も、接続してないから」


ジューンは、テオを見て、マーゴを見た。


「……二人しか、いないじゃん」


「二人いれば、どこにもいなくは、ならない」


テオは言った。

それから、少し赤くなった。


「僕の、青いノートの話は、一人もいなかった。僕が燃やして、僕が忘れて、どこにもいなくなってた。

この一週間で、三十枚書いて、やっと、一人になった」


テオは、紙の束を、ジューンに差し出した。


「読んでくれる?二人目になってほしい」


ジューンは、紙の束を見た。

汚い字の、三十枚。

消しゴムの跡と、涙でにじんだ跡。


ジューンは、それを受け取った。

一枚目を読んだ。

二枚目を読んだ。

三枚目で、少し笑った。


「ビスケット、途中で寝てる」


「寝るんだよ、あいつ。いつも」


ジューンは、読み続けた。

凍った池のほとりで、日が傾いていった。

マーゴは、二人のあいだで、黙って、それを見ていた。


日が落ちてから、三人で、オコナーの家まで歩いた。


居間のストーブには、強い火が入っていた。

石油のタンクが、満杯だからだ。

その火の前で、祖母が、毛布を膝に掛けて座っていた。

咳は、していなかった。


「あら、ジューン。先生も。お友だちも」


祖母は、三人を見て、うれしそうに笑った。


「寒かったでしょう。火に当たりなさい」


三人は、ストーブの前に並んで座った。

テオは、居間の古い家具を、珍しそうに見回していた。


「おばあちゃん」


ジューンが言った。


「ヘラジカの話、していい?」


「ヘラジカ?」


祖母は、首をかしげた。


「何の話だったかしら」


ジューンは、少しだけ黙った。

それから、話しはじめた。


「おじいちゃんが、湖のそばで、朝、ヘラジカを見た話。三通目の手紙に書いてあった」


ジューンは、ゆっくり話した。

湖の色。

朝の霧。

水を飲んでいたヘラジカが、顔を上げたこと。

祖父が、動けなくなったこと。

息をするのも忘れた、と書いてあったこと。


祖母は、目を閉じて聞いていた。

聞き終わると、目を開けて、火を見た。


「……そう。あの人、そんなこと書いてたの」


「うん」


「いい話ね。初めて聞いたみたい」


祖母は、そう言って、ジューンの手を握った。


ジューンは、笑った。

笑いながら、目の端を、袖で拭いた。


テオは、それを、黙って見ていた。

マーゴも、黙って見ていた。

ストーブの火が、四人の顔を、同じ色に照らしていた。



州の作文コンクールの結果は、三月に出た。


テオの作文、「青いノートとビスケット」は、入賞しなかった。

佳作にも入らなかった。

審査の講評には、一行だけ書いてあった。


「構成の破綻が目立つ。主題が一貫しない」


テオは、講評を読んで、笑った。


「だよね」


マーゴは、照合の端末で、テオの作文を読み取らせた。

画面に、数字が出た。


「構成の一致率:十一パーセント」


マーゴは、それをテオに見せなかった。

見せる必要は、無いと思った。

テオは、もう、数字を気にしていなかった。


テオは、接続を戻していた。

ただ、毎晩、夕食のあと、二時間だけ切ることにした。

両親と、何度も話し合って決めた時間だった。

母親は、まだ納得していなかった。

父親が、「二時間ならいい」と言った。

父親は、テオに、裏庭のドラム缶の話をしなかった。

テオも、しなかった。

ただ、ある晩、テオが接続を切って書いていると、父親が部屋の戸口に立って、しばらく見ていた。

何も言わずに、また戻っていった。


ジューンは、ノーヴァとの契約を続けていた。


祖母の咳は、二月の終わりに治った。

石油のタンクは、毎月満杯になった。

ジューンは、週に一度、研究所の研究員と面談をして、話した。

思いついたこと。

考えたこと。

それは、翌週には、クラウドに上がって、誰かの言葉になった。


その代わりに、ジューンは、ノートを一冊、持つことにした。


紙のノートだった。

マーゴが、教員室の棚から出してきた、古い大学ノート。

表紙に、ジューンが、自分の字で書いた。


「燃やさないし、売らない」


中に書いたことは、誰にも見せなかった。

マーゴにも、テオにも。

ただ、一ページ目だけは、テオに見せた。

湖と、朝と、水を飲んでいるヘラジカの、へたくそな絵が描いてあった。



四月、町に、最後の石油の配給車が来た。


来月から、この町への石油の配給は打ち切られる。

暖房は、州の送電網の電気に、全部切り替わる。

州の知らせには、そう書いてあった。

電気の割り当ては、石油よりも少ない。

それでも、燃やすものは、もう配られない。

配給車の運転手は、最後のタンクを空けたあと、しばらく車の横で煙草を吸っていた。

それから、クラクションを一度だけ長く鳴らして、町を出ていった。


同じ週、マーゴは、新しい課題を出した。


「あなたが、まだ誰にも話していないこと」


三十一本の作文が、戻ってきた。

マーゴは、放課後の教室で、一本ずつ読んだ。

教室は、もう寒くなかった。

窓の霜は、とっくに消えていた。


ほとんどの作文は、やっぱり、似ていた。

問いの立て方も、結び方も。

一番いい答えは、今も、三十人の頭に、同じように届いている。


照合の端末に、読み取らせた。


「構成の一致率:九十一パーセント」


去年の同じ時期と、同じ数字だった。

秋には、九十四だった。


三パーセント。


マーゴは、その数字を、長いあいだ見ていた。

三十一人のうち、何人かが、何かを書いた。

一番いい答えではない、何かを。

それが誰なのか、マーゴは、照合の結果を開かなかった。

開けば分かる。

開かなくても、読めば分かる。


最後の一本は、ジューンの作文だった。


一行だけ、書いてあった。


「まだ誰にも話していないことは、まだ誰にも話していないので、書きません。ごめんなさい」


マーゴは、声を出して笑った。


笑ってから、赤ペンのキャップを外した。

余白に、点数の代わりに、一行だけ書いた。


「ヘラジカは、私も覚えています」


書いてから、少し考えて、その下に、もう一行足した。


「三人目です」


赤ペンのキャップを閉めた。

窓の外で、春の最初の雨が降りはじめていた。


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