撤退線
地図の上では、線は一本の赤い線だった。
アリフ・サントソは、移転調整局の事務所の壁に貼られた地図を、毎朝見上げてから仕事を始める。
ジャカルタ北岸の、海沿いの帯。
その帯を東西に横切って、赤い線が一本引かれている。
線の内側は、灰色に塗ってある。
線の外側は、薄い緑に塗ってある。
灰色は、堤防とポンプで守る土地。
薄い緑は、湿地に還す土地。
撤退線、と呼ばれている。
線は、アリフが生まれる前から少しずつ内側へ動いてきた。
百年前、この街の北の海際には、高い堤防が築かれた。
堤防の内側で、ポンプが昼も夜も海水を汲み出していた。
街の地面は、年に何センチも沈んでいた。
海は、年に何ミリも上がっていた。
沈む地面と、上がる海のあいだで、ポンプは休めなかった。
五十年前、ポンプを動かす電気の値段と、守られる土地の値打ちを比べる計算が行われた。
計算の結果、一番外側の帯は、守らないことになった。
それが最初の撤退線だった。
それから数年から十年ごとに計算がやり直され、線は内側へ動いた。
今年の計算で、最後の漁村が、線の外側に入った。
「カンプン・ラウト。残り四十一世帯。閉鎖まで九十日」
アリフの上司のブディは、書類の束をアリフの机に置いた。
「お前の担当だ。移転先の手配は済んでる。ボゴールの新しい団地。家賃は三年、局が持つ。
あとは、出ていってもらうだけだ」
「出ていかない人は」
「出ていかない人はいない」
ブディは言った。
「九十日後に、電気と水が止まる。ポンプが止まる。堤防の水門が開く。潮が入ってくる。
そうなってから残る人は、いない。いたとしても、それはもう局の仕事じゃない」
アリフは書類の束をめくった。
四十一世帯の名前と、年齢と、家族の数。
一番上の一枚に、赤い付箋が貼ってあった。
「ヌライニ。八十一歳。単身。移転の同意書、未提出。面談、三回拒否」
「その婆さんが、最後の一人になる」
ブディは、自分の机に戻りながら言った。
「前の担当は、三回行って、三回とも追い返された。お前は四回目だ。
若いから、少しは話を聞いてもらえるかもしれない」
アリフは付箋の名前を見た。
ヌライニ。
どこかで聞いたことがあるような気がした。
気のせいだと思った。
よくある名前だった。
カンプン・ラウトへは、車で行けなかった。
線の外側の道は、五年前に補修が打ち切られていた。
アスファルトがひび割れて、ところどころ水が溜まっている。
アリフは、線の内側の最後の駐車場に車を停めて、そこから歩いた。
堤防の上に上がると、海が見えた。
アリフは、足を止めた。
海を見るのは、何年ぶりだろうと思った。
アリフの家族は、アリフが五つのときに、この北岸から内陸のボゴールへ移った。
移転の第三次の撤退線のときだった。
アリフは、海のそばに住んでいたことを、ほとんど覚えていない。
覚えているのは、母が引っ越しの車の窓から、ずっと後ろを見ていたことだけだった。
海は、灰色だった。
空も、灰色だった。
二つの灰色のあいだに、細い水平線が一本引いてあった。
それも、地図の上の線に似ていた。
堤防の外側、海の側に、村があった。
堤防と海のあいだの低い土地に、古い土手がもう一本、海に沿って延びていた。
土手の内側には、トタン屋根の平屋が二十軒ほど固まっていた。
土手の端に、小さなポンプ小屋が一つあった。
あのポンプが止まれば、平屋の床まで水が来るのだろう。
土手の外側、潮の入る泥の上には、木の杭の上に建った家が二十ほど並んでいた。
杭の足は、泥の中に埋まっている。
潮が満ちると、家の下まで水が来るのだろう。
家と家のあいだに、板の渡り廊下が掛けてあった。
渡り廊下の下を、小さな舟が何艘か、ロープで繋がれて揺れていた。
堤防から村へ、木の階段が下りていた。
階段の手すりに、ペンキで何か書いてあった。
かすれて、半分しか読めない。
「ここは まだ 村」
アリフは、階段を下りた。
ヌライニの家は、村の一番海寄りの端にあった。
杭の上の家の、表の間が、小さな食堂になっていた。
食堂といっても、長い板の机が一つと、丸椅子が五つあるだけだ。
奥の台所から、魚を焼く匂いがしていた。
アリフが入口に立つと、奥から声がした。
「役所の人だろう」
小柄な老女が、台所ののれんを分けて出てきた。
白い髪を後ろで一つに束ねて、色の褪せた更紗の腰布を巻いていた。
顔は日に焼けて、皺が深かった。
目だけが、若い人のように黒く光っていた。
「四回目だね。今度は若いのが来た」
「移転調整局の、アリフ・サントソです」
「ヌライニ」
老女は名乗って、アリフを上から下まで眺めた。
「座んな。昼、まだだろう」
「いえ、仕事で」
「仕事でも、腹は減る。前の三人は、座らなかった。座らない人とは、話さないことにしてる」
アリフは、少し迷って、丸椅子に座った。
ヌライニは台所に戻って、しばらくして皿を一枚持ってきた。
焼いた小魚が三匹と、白い飯と、青菜の炒め物。
小魚は、見たことのない種類だった。
銀色の腹に、黒い斑点が並んでいる。
「今朝、獲れたやつ。この辺にしかいない。名前は、ここの言葉でしか無い」
アリフは、一口食べた。
身が柔らかくて、少し泥の匂いがした。
その泥の匂いのあとに、甘みが来た。
「……うまいです」
「だろう」
ヌライニは、向かいの丸椅子に座った。
自分は何も食べなかった。
アリフが食べるのを、黙って見ていた。
アリフは、食べながら、鞄の中の書類のことを考えていた。
移転の同意書。
ボゴールの団地の間取り図。
家賃の補助の説明書。
食べ終わったら、それを出さなければいけない。
食べ終わって、アリフが鞄に手を伸ばしたとき、ヌライニが言った。
「出さなくていい。前の三人から、同じのをもらってる」
「では、なぜ」
「なぜ、出ていかないのか、かい」
ヌライニは、窓の外を見た。
窓の外には、海しかなかった。
灰色の海が、杭の足の下まで、ゆっくり寄せていた。
「あんたの地図の、赤い線。あれを引いたのは、誰だい」
「……計算です。ポンプの電気代と、土地の値打ちを比べた」
「計算に、この魚は入ってたかい」
アリフは、答えられなかった。
「入ってないだろう。この魚は、ここにしかいない。
ここの泥と、ここの潮と、ここのマングローブの根のあいだにしかいない。
値打ちの付け方が分からないものは、計算に入らない。入らないものは、無いのと同じ」
ヌライニは、立ち上がって、アリフの空いた皿を取った。
「あたしはね、無いのと同じにされるのが、嫌なだけさ」
アリフは、何も言えずに座っていた。
帰り際、入口のところで、ヌライニが言った。
「サントソ、って言ったね」
「はい」
「母親の名前は」
「デウィです」
ヌライニは、アリフの顔を、じっと見た。
長いあいだ、見ていた。
「……そうかい」
それだけ言って、台所に戻っていった。
アリフは、堤防の階段を上りながら、振り返った。
杭の上の家々が、灰色の海の上に並んでいた。
一番端の家の窓から、細い煙が上がっていた。
その夜、アリフはボゴールの母の家で夕食をとった。
母のデウィは、団地の三階に一人で住んでいる。
父が死んでから、もう六年になる。
アリフは週に二度、仕事の帰りに寄って、一緒に飯を食う。
食卓には、鶏の煮込みと、揚げた豆腐と、白い飯が並んでいた。
デウィの料理は、いつも同じだった。
内陸の市場で手に入るもので作る、内陸の料理。
魚が出ることは、ほとんどなかった。
「新しい担当、決まったの」
食べながら、アリフは言った。
「北岸の、最後の村。カンプン・ラウト」
デウィの箸が、止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐにまた動いて、豆腐を一切れ、アリフの皿に移した。
「……そう」
「知ってる?」
「名前だけね。昔、あの辺りに住んでたから」
デウィは、それ以上言わなかった。
アリフも、聞かなかった。
母は、北岸のことを話さない。
アリフが子どものころから、ずっとそうだった。
引っ越しの前のことを聞くと、母はいつも「忘れた」と言った。
五つの子どもにも、それが嘘だということは分かった。
分かったから、聞かなくなった。
食事のあと、アリフが皿を洗っていると、デウィが後ろから言った。
「まだ、人がいるの。あそこに」
アリフは、手を止めずに答えた。
「四十一世帯。来月には、半分になると思う」
「……そう」
デウィは、ベランダのほうへ行った。
ベランダには、何も置いていなかった。
鉢も、物干しも。
祖母が死んだあと、母は、ベランダのものを全部片付けた。
アリフが皿を拭き終えて振り向くと、デウィは、何も無いベランダに立って、北のほうを見ていた。
北のほうには、ボゴールの丘と、夜の街の明かりしか見えなかった。
海は、見えるはずがなかった。
「母さん」
「なんでもない」
デウィは、振り向かずに言った。
「風に当たってるだけ」
アリフは、それ以上、何も言わなかった。
食卓の上の、空になった皿を重ねた。
母の皿には、鶏の骨が、きれいに並べてあった。
魚の骨を並べるように、きれいに。
アリフは、次の週も村へ行った。
その次の週も行った。
書類は、鞄の底に入れたまま、出さなかった。
四十一世帯のうち、土手の内側の平屋の家族は、話せば分かってくれた。
子どものいる家族が多かった。
ボゴールの団地には、学校がある。
病院がある。
水が止まらない。
アリフが間取り図を見せると、母親たちは黙って頷いた。
父親たちの中には、黙って海のほうを見る者もいた。
それでも、最後には同意書に名前を書いた。
一週ごとに、同意書の束は厚くなった。
一週ごとに、村から人が減った。
平屋の家族が出ていくとき、アリフは必ず立ち会った。
局の決まりではなかった。
ただ、自分の母が引っ越しの車の窓からずっと後ろを見ていたことを、思い出すからだった。
出ていく家族は、たいてい何か一つ、家に残していった。
壁に掛けた古いカレンダー。
軒先の鳥籠。
台所の、使い込んだ鍋。
持っていけば持っていけるものを、わざと残していく。
なぜかと聞くと、ある父親は言った。
「家が、空っぽだと寂しがるだろう」
アリフは、それを書類には書かなかった。
平屋の家族の中に、一軒だけ、同意書を出し渋る家があった。
土手の端の、ポンプ小屋の隣の家だった。
住んでいるのは、二十五、六の若い夫婦と、生まれて三か月の赤ん坊。
夫のルディは、アリフが訪ねるたびに、ポンプ小屋の中にいた。
「このポンプは、親父が三十年、面倒を見てきたんだ」
ルディは、油にまみれた手で、古いモーターの軸を磨きながら言った。
「局のポンプじゃない。村のポンプだ。
局の大きいポンプが線の内側に引っ込んでから、村の連中が金を出し合って、中古を買った。
親父が据え付けた。親父が死んでからは、俺が見てる」
モーターは、低く唸っていた。
小屋の外で、土手の内側の水路の水が、ゆっくり海へ吐き出されていた。
「これが止まったら、土手の内側は、ひと潮で沈む。親父が三十年守ったもんが、ひと潮で」
「局からの移転の補助は、ボゴールで三年」
「知ってる。前の担当にも聞いた」
ルディは、軸を磨く手を止めなかった。
「分かってるんだよ。出ていかなきゃいけないのは。赤ん坊もいるし。
でも、こいつを止める日が決まってるのが、どうにも、な」
アリフは、何も言えなかった。
モーターの唸りを、しばらく一緒に聞いていた。
帰り際、ルディの妻が、戸口で赤ん坊を抱いて言った。
「来月の半ばには、出ます。あの人も、分かってますから。
ただ、最後の日までは、ポンプを見させてあげてください」
アリフは頷いた。
書類には、「移転予定日:閉鎖の十二日前」とだけ書いた。
ヌライニの食堂には、毎回、昼に寄った。
ヌライニは、毎回、何も聞かずに皿を出した。
焼いた小魚。
干した海老の混ぜ飯。
マングローブの若い実を煮たもの。
アリフが知らない料理ばかりだった。
「これは、何ですか」
「ブアの煮たの。マングローブの実。灰汁を抜くのに三日かかる」
「三日」
「三日。水を替えて、替えて、替えて。面倒だから、もう誰も作らない。あたしが死んだら、作る人はいない」
アリフは、苦いような甘いような、その煮物を食べた。
食堂には、ときどき他の客も来た。
杭の上の家の住人たちだった。
漁師の老人。
網を繕う女たち。
彼らは皆、ヌライニと同じように、移転の同意書を出していなかった。
アリフが局の人間だと分かると、最初は睨んだ。
三週目には、睨まなくなった。
五週目には、漁師の老人が、自分の皿の魚を一匹、アリフの皿に移した。
「食え。痩せすぎだ」
杭の上の家の住人は、ヌライニを入れて九世帯だった。
土手の内側の平屋が空になっていくあいだも、杭の上の九世帯は、一軒も減らなかった。
「なぜ、杭の上の人たちは、出ていかないんですか」
ある日、アリフはヌライニに聞いた。
ヌライニは、台所で鍋を洗っていた。
手を止めずに答えた。
「杭の上の家は、ポンプが止まっても沈まないからさ」
「でも、電気も水も止まります」
「電気は、屋根の板で取ってる。雨の日は足りないけど、晴れれば足りる。水は、雨水を溜めてる。
飲み水は、月に一回、舟で内陸から運ぶ。それで、七十年やってきた」
ヌライニは鍋を伏せて、手を拭いた。
「土手の内側の平屋は、土手とポンプに守られてる。守られてる家は、守りが外れたら終わり。
杭の上の家は、最初から守られてない。潮が来たら、潮の上に住む。潮が引いたら、泥の上に住む。
守られてないから、守りが外れても、何も変わらない」
アリフは、ヌライニの言うことを、半分しか分からなかった。
分からないまま、書類に書けない言葉が、一つずつ溜まっていった。
六週目の朝、ヌライニは、アリフを舟に乗せた。
「今日は、書類の仕事は休みだろう」
「……局には、村の見回りって言ってあります」
「なら、見回りな。舟で」
ヌライニは、櫂を一本、アリフに渡した。
舟は、杭の家のあいだを抜けて、林のほうへ出た。
潮が引きかけていて、泥の上に、細い水路が何本も残っていた。
ヌライニは、その水路を選んで、舟を進めた。
どの水路が林の奥まで続いているのか、見ただけで分かるらしかった。
林の中に入ると、空気が変わった。
ひやりとして、湿っていた。
頭の上で、葉が重なって、光がまだらに落ちてきた。
足元の泥から、細い根が、何百本も突き出していた。
鉛筆くらいの太さの根が、上に向かって、びっしりと。
「息をする根だよ」
ヌライニが言った。
「泥の中は、息ができないから。根の先を外に出して、息をしてる」
アリフは、根のあいだの泥を見た。
小さな蟹が、何十匹も動いていた。
アリフの影が差すと、一斉に穴に隠れた。
水路の奥の、少し広くなったところで、ヌライニは舟を止めた。
水の中を、覗いた。
「ほら」
アリフも覗いた。
濁った水の中を、小さな銀色の影が、群れになって動いていた。
腹に、黒い斑点が並んでいた。
「あの魚は、ここで生まれる。根のあいだで、大きくなる。大きくなったら、外の海へ出る。
卵を産むときに、また戻ってくる」
「林が無くなったら」
「いなくなる。どこにも、行くところが無いからね」
ヌライニは、舟の縁に腕を乗せて、水の中を見ていた。
「あんたの地図の緑の帯。湿地に還すって、書いてあるだろう」
「はい」
「還すって言い方は、悪くない。ここは、元々、こういう場所だった。
人が勝手に土手を築いて、ポンプで水を抜いて、住んだ。住めなくなったから、返す。それは、筋が通ってる」
ヌライニは、アリフのほうを見た。
「だからね、あたしは、線そのものに文句があるわけじゃない。
あたしが気に入らないのは、還したあとに、誰も見に来ないってことさ。還したら、終わり。
地図の上で緑に塗って、終わり。林は、植えなきゃ、そう簡単には戻らない。
戻っても、誰かが見てなきゃ、ごみ捨て場になる」
アリフは、何も言わなかった。
局の書類には、湿地に還したあとの区域のことは、一行も書いていなかった。
書く欄が、無かった。
帰りの舟の上で、アリフは、生まれて初めて櫂を漕いだ。
うまく漕げなかった。
舟は、何度も同じところで回った。
ヌライニは、舟が回るたびに、声を出して笑った。
七週目、アリフは局の資料室で、撤退線の計算の元の記録を探した。
線の外側と内側を分けた計算。
ポンプの電気代と、土地の値打ち。
記録は、局の知能に聞けば出てきた。
アリフの権限で、読める範囲までは。
カンプン・ラウトの欄を見た。
「土地の評価額:居住用地として。平屋二十一戸、杭上家屋二十戸(うち居住九戸)」
「ポンプ維持費:年額」
「堤防補修費:十年あたり」
「評価:維持費が評価額を上回る。撤退対象」
それだけだった。
マングローブの実のことは、書いていなかった。
黒い斑点の小魚のことも、書いていなかった。
杭の上の家が、ポンプに頼っていないことも、書いていなかった。
杭の上の家は、平屋と同じ「居住用地」として数えられて、平屋と同じ値打ちで、
平屋と同じように撤退対象になっていた。
アリフは、局の知能に聞いた。
「杭上家屋は、ポンプの維持を必要としない。なぜ撤退対象に含まれるのか」
答えは、すぐに出た。
「撤退線は、区域単位で設定されます。区域内に個別の例外を設けると、
行政サービス(電力・上水・救急・郵便)の提供義務が残り、撤退の目的が達成されません。
杭上家屋の居住者も、区域の閉鎖後は行政サービスを受けられません」
アリフは、画面を見つめた。
行政サービスを受けられません。
電気は、屋根の板で取ってる。
水は、雨水を溜めてる。
飲み水は、月に一回、舟で運ぶ。
杭の上の九世帯は、七十年、行政サービスをほとんど受けずに暮らしてきた。
そして、行政サービスを受けられなくなるから、出ていけと言われている。
アリフは、資料室の椅子に深く座った。
窓の外に、ボゴールの街が見えた。
内陸の丘の上の街。
アリフの育った街。
ここは、海から遠い。
遠いから、守りが要らない。
守りが要らない街と、守りを最初から当てにしていない村。
その二つは、似ているような気がした。
似ているのに、片方は地図の灰色に塗られて、片方は薄い緑に塗られている。
八週目、アリフが食堂を訪ねると、ヌライニは留守だった。
入口に、漁師の老人が座っていた。
「婆さんは、舟だ。マングローブの苗を植えに行った」
「苗」
「毎年、この時期にやる。今年で、七十年目だとさ」
老人は、顎で沖のほうを示した。
アリフは、杭の家の縁から、沖を見た。
灰色の海の上に、小さな舟が一艘浮いていた。
舟の上で、小さな人影が、何かを泥に差し込んでいた。
その向こうに、緑の帯が見えた。
海の上に、濃い緑の森が、細長く延びている。
マングローブの林だった。
「あれ、全部、ヌライニさんが」
「全部じゃない。最初は、婆さんの亭主と、もう一人の女と、三人で始めた。亭主は二十年前に死んだ。
女のほうは、もっと前に、内陸へ行った」
老人は、煙草を巻きながら言った。
「その女の名前、知ってるか」
アリフは首を振った。
「サリ。サリ・サントソ」
アリフは、老人の顔を見た。
サリ・サントソは、アリフの祖母の名前だった。
「婆さんは、最初におまえの名字を聞いたときから、気づいてたよ」
老人は、巻いた煙草に火を点けた。
「おまえの婆さんと、ヌライニは、同じ杭の家で育った。姉妹みたいなもんだった。
二十四年前、第三次の線のとき、おまえの婆さんは、娘夫婦と孫を連れて内陸へ行った。
孫ってのは、たぶん、おまえだ」
アリフは、沖の舟を見た。
舟の上の小さな人影は、アリフに気づいていないようだった。
一本ずつ、苗を泥に差し込んでいた。
祖母のことは、よく覚えていない。
アリフが八つのときに、ボゴールで死んだ。
覚えているのは、祖母が、団地のベランダの小さな鉢に、何かの苗を育てていたことだけだった。
何の苗だったのか、アリフは知らなかった。
育たずに、枯れた。
内陸の団地のベランダで、海の木が育つはずがなかった。
ヌライニの舟が戻ってきたのは、日が傾いてからだった。
舟を杭に繋いで、ヌライニは梯子を上ってきた。
腰布の裾が、泥で黒く汚れていた。
食堂の入口に、アリフが座っているのを見て、ヌライニは少し眉を上げた。
「今日は、昼じゃないね」
「……サリ・サントソは、僕の祖母です」
アリフは、座ったまま言った。
ヌライニは、梯子の最後の段に立ったまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくり食堂に上がって、アリフの向かいの丸椅子に座った。
「爺さんに聞いたのかい」
「はい」
「おしゃべりだね、あの人は」
ヌライニは、膝の泥を手で払った。
払っても、落ちなかった。
「最初に名字を聞いたときに、そうかと思った。母親の名前を聞いて、そうだと分かった。
デウィは、サリの娘だ。あの子が嫁に行くとき、あたしが髪を結ってやった」
「なぜ、言ってくれなかったんですか」
「言ったら、あんた、仕事がやりにくくなるだろう」
ヌライニは、何でもないことのように言った。
「あんたの仕事は、あたしをここから出すこと。婆さんの幼なじみだと分かったら、出しにくくなる。
出しにくくなったら、あんたが上に叱られる。それは、サリに悪い」
アリフは、何も言えなかった。
ヌライニは、窓の外の緑の帯を見た。
夕日が、マングローブの林の縁を赤く染めていた。
「サリとあたしは、あの林の、最初の百本を植えた。十一の年だった。あたしの亭主になる男と、三人で。
あのころ、この辺りは、ただの泥だった。昔の堤防が崩れて、潮が入って、家も畑も沈んだあとの泥。
木を植えたら、魚が戻ってきた。魚が戻ってきたら、人が戻ってきた。杭の家を建てた」
ヌライニの声は、静かだった。
「サリは、最後まで植えてた。
第三次の線が引かれて、娘夫婦が内陸へ行くって決めたとき、サリは残るって言った。
でも、孫が、まだ五つだった。喘息持ちでね。潮風がよくなかった。
それで、サリは、孫のために内陸へ行った」
アリフは、自分の胸に手を当てた。
子どものころ、確かに喘息があった。
ボゴールに移ってから、いつの間にか治った。
「行く前の晩、サリはここで、あたしにブアの煮方を教わり直した。自分でも作れるのにね。
向こうでも作るからって。……作れたのかね。ブアの実は、向こうには無い」
「ベランダで」
アリフは言った。
声がかすれた。
「祖母は、団地のベランダで、鉢に何かの苗を育ててました。育たずに、枯れました」
ヌライニは、アリフの顔を見た。
長いあいだ、見ていた。
それから、目を閉じて、小さく息を吐いた。
「……そうかい」
それだけ言った。
最初の日と同じ言い方だった。
同じ言い方なのに、今度は、全然違う重さに聞こえた。
高潮が来たのは、閉鎖の十九日前だった。
気象局の警報は、前の日の夕方に出ていた。
南の海で生まれた低気圧が、予想より北へ寄っている。
大潮と重なる。
北岸の低地は、避難の準備を。
アリフは、その夜、局の当直だった。
当直の画面に、警報の地図が映っていた。
北岸の帯が、赤く点滅していた。
撤退線の外側の、薄い緑の帯も、赤く点滅していた。
薄い緑の帯には、もう行政サービスはほとんど届いていない。
救急の出動は、線の内側に限られる。
決まりでは、そうなっていた。
カンプン・ラウトの残りは、平屋が二世帯と、杭の上の九世帯。
平屋の二世帯のうち一つは、生まれたばかりの赤ん坊がいる若い夫婦だった。
来週、ボゴールへ移ることになっていた。
アリフは、当直の画面を見ていた。
それから、立ち上がって、上着を取った。
「どこへ行く」
隣の席の同僚が聞いた。
「北岸です」
「線の外は、管轄外だぞ」
「分かってます」
アリフは、局の車の鍵を取って、外へ出た。
線の内側の最後の駐車場に着いたとき、雨はもう横殴りになっていた。
堤防に上がると、海が見えなかった。
灰色の雨と、灰色の波と、灰色の空が、全部混ざっていた。
風で、体が持っていかれそうになった。
村へ下りる木の階段は、半分水に浸かっていた。
アリフは、手すりにしがみついて下りた。
「ここは まだ 村」の文字が、波をかぶっていた。
土手の上まで来ると、ポンプ小屋が見えた。
小屋の中から、甲高い異音がしていた。
モーターが空回りしている音だった。
土手の内側の平屋の路地に、もう膝の高さまで水が来ていた。
平屋の一軒の窓に、明かりが点いていた。
若い夫婦の家だった。
アリフは、水の中を歩いて、その家の戸を叩いた。
戸を開けたのは、赤ん坊を抱いた若い母親だった。
顔が真っ青だった。
「ポンプが止まったんです。夫が見に行って、戻ってこなくて」
アリフが振り向くと、土手の上に人影が二つ見えた。
ポンプ小屋の前で、若い父親と、もう一人、誰かが何かしていた。
もう一人は、小柄な影だった。
ヌライニだった。
アリフは、水の中を土手まで戻った。
土手の上で、ヌライニは、ポンプ小屋の扉を押さえていた。
若い父親が、小屋の中で、懐中電灯を口にくわえて、配電盤をいじっていた。
「何してるんですか」
アリフが叫ぶと、ヌライニが叫び返した。
「見りゃ分かるだろう。この子が、ポンプを直せると思ってる」
「直せるんですか」
「直せやしないよ。モーターが水をかぶった。もう終わりだ。でも、この子が諦めないから、扉を押さえてる」
小屋の中から、若い父親が叫んだ。
「もう少しなんだ。あと少しで」
アリフは、小屋の中を覗いた。
配電盤から、火花が散っていた。
床に、水が入りはじめていた。
「出てください」
アリフは、若い父親の腕をつかんだ。
「感電します。ポンプは、もう無理です。奥さんと赤ちゃんが待ってます」
若い父親は、アリフを見た。
それから、配電盤を見た。
懐中電灯が、口から落ちた。
「……家が」
「家は、また建てられます。行きましょう」
アリフは、若い父親を小屋から引っ張り出した。
ヌライニが扉を離した。
扉が、風で音を立てて閉まった。
三人で、水の中を平屋へ戻った。
水は、腰の高さまで来ていた。
若い母親が、赤ん坊を抱いて、戸口で待っていた。
「堤防まで上がりましょう」
アリフが言うと、ヌライニが首を振った。
「堤防の階段は、もう水の下だよ。登れない。こっちだ」
ヌライニは、土手の外側を指さした。
杭の上の家々が、雨の中に、黒い影になって並んでいた。
波が、杭の足を叩いていた。
でも、家の床は、波より上にあった。
一番端の家の窓に、明かりが点いていた。
「杭の上は、沈まないって言ったろう」
その夜、ヌライニの食堂に、十四人が集まった。
平屋の若い夫婦と赤ん坊。
杭の上の家の住人たち。
漁師の老人。
網を繕う女たち。
そして、アリフ。
外では、一晩じゅう、風が唸っていた。
杭の家は、ときどき、ぎしりと揺れた。
揺れるたびに、若い母親が赤ん坊を強く抱いた。
そのたびに、網を繕う女の一人が、母親の背中をさすった。
「大丈夫。この家は、七十年、揺れてきた。揺れるから、折れないの」
ヌライニは、台所で湯を沸かしていた。
屋根の板で取った電気は、夜のうちに尽きた。
それからは、炭の七輪で湯を沸かした。
皆に、甘い茶を配った。
アリフにも配った。
アリフは、茶を飲みながら、窓の外を見た。
暗闇の中に、土手の内側の平屋の屋根が、いくつか見えた。
屋根の下まで、水が来ていた。
あの屋根の下に、出ていった家族が残していった、カレンダーや、鳥籠や、鍋がある。
「家が、空っぽだと寂しがるだろう」
あの父親の言葉を、アリフは思い出した。
空っぽではない家が、今、水の下にあった。
夜半、赤ん坊が寝ついて、食堂が少し静かになったころ、ヌライニがアリフの隣に座った。
七輪の炭が、赤く光っていた。
その明かりで、ヌライニの顔の皺が、深く見えた。
「サリはね」
ヌライニは、誰に言うでもなく話しはじめた。
「嵐の夜が好きだった。変な子でさ。皆が怖がってるときに、窓に張り付いて、波を見てるの。
十の年の嵐のとき、あたしが泣いてたら、サリが言ったんだよ。『ほら、ヌル。
波が、林にぶつかって割れてる。林があるところだけ、波が小さい』って」
アリフは、窓の外を見た。
暗くて、何も見えなかった。
波の音だけが、聞こえた。
「そのころの林は、ほんの少しだった。古い林の、切り残し。それでも、林の後ろだけ、波が小さかった。
サリは、それを見て、次の年に、植えようって言い出した。十一の年だ。
あたしと、あたしの亭主になる男を引っ張って、泥の中に入って」
ヌライニは、七輪の炭を、火箸でつついた。
「大人たちは笑ってたよ。子どもが植えた木が、何になるって。サリは、笑われても植えた。
次の年も、その次の年も。十年経って、林が伸びて、その後ろに魚が戻ってきて、大人たちは笑わなくなった」
「祖母は、そういう人だったんですか」
アリフは言った。
自分の知っている祖母と、うまく重ならなかった。
アリフの知っている祖母は、団地のベランダで、黙って鉢の苗を見ている、小さな老人だった。
「そういう人だったよ」
ヌライニは言った。
「だから、内陸へ行くって聞いたとき、あたしは怒った。
あんたが一番最初に植えたのに、あんたが一番最初に出ていくのかって。ひどいことを言った。
サリは、何も言い返さなかった。孫が咳をしてるの、あたしも知ってたのにね」
ヌライニは、火箸を置いた。
「それっきりさ。手紙は、何度か来た。返事を書かなかった。
書こうと思ってるうちに、死んだって知らせが来た」
外で、風が一段と強く唸った。
杭の家が、ぎしりと揺れた。
若い母親が、眠ったまま赤ん坊を抱き直した。
「あんたが最初に来たとき、サントソって聞いて、サリが迎えに来たのかと思ったよ」
ヌライニは、少し笑った。
「馬鹿だろう。八十一にもなって」
アリフは、何も言えなかった。
七輪の炭が、小さく音を立てて崩れた。
朝、嵐が抜けた。
アリフは、杭の家の縁に立って、村を見た。
土手の内側は、海になっていた。
平屋の屋根だけが、水面から出ていた。
ポンプ小屋は、半分沈んでいた。
土手の外側の杭の家は、一軒も沈んでいなかった。
渡り廊下の板が何枚か飛ばされ、屋根のトタンが何枚かめくれていた。
それだけだった。
その向こうで、マングローブの林が、朝日の中で濡れて光っていた。
林の縁で、波が砕けていた。
林の内側の水面は、静かだった。
「林が、波を割ってくれる」
いつの間にか、ヌライニが隣に立っていた。
「七十年植えて、それだけのことはしてくれる」
昼過ぎ、潮が少し引いたころ、アリフはルディと二人で、土手の上に立った。
ポンプ小屋は、屋根の近くまで水に浸かっていた。
扉は、昨夜閉まったまま、水の下にあった。
ルディは、長いあいだ、小屋を見ていた。
それから、水の中に入っていった。
胸まで浸かって、小屋の壁を手で探った。
しばらくして、何かを外して、戻ってきた。
小さな金属の板だった。
ポンプの銘板だった。
製造番号と、古い会社の名前が刻んであった。
その下に、誰かが釘で引っかいたような字で、名前が彫ってあった。
「親父の名前だ」
ルディは、銘板の泥を、シャツの裾で拭った。
「据え付けたときに、彫ったんだと。俺も、知らなかった。去年、軸受けを替えるときに、初めて見つけた」
アリフは、銘板を見た。
かすれた字で、「スギヨノ 二一一七」と読めた。
「昨夜は、すまなかった」
ルディが言った。
「あんたが引っ張り出してくれなかったら、たぶん、俺は、あそこで」
「いえ」
アリフは首を振った。
「僕は、管轄外で、勝手に来ただけです」
「管轄外」
ルディは、少し笑った。
「局の人間ってのは、面白い言い方をするな」
ルディは、銘板をポケットにしまった。
それから、沈んだ自分の家の屋根を見た。
屋根の上に、昨夜、妻が持ち出しそびれた赤ん坊の布団が一枚、引っかかっていた。
「ボゴールの団地、水は止まらないんだろう」
「止まりません」
「ポンプも、要らないんだろう」
「要りません。丘の上なので」
「そうか」
ルディは、しばらく黙っていた。
「……要らないってのも、なんだか寂しいな」
アリフは、何も答えなかった。
答えられなかった。
自分の育った丘の上の街には、ポンプが要らない。
守りが要らない。
守りが要らないということが、寂しいことだとは、考えたこともなかった。
局に戻ると、アリフは上司のブディの部屋に呼ばれた。
ブディは、机の上に一枚の紙を置いていた。
管轄外出動の報告書だった。
アリフが、村から戻ってすぐに書いて出したものだった。
「線の外は、管轄外だ」
「分かってます」
「分かってて、行った」
「はい」
ブディは、報告書を指で叩いた。
「始末書だ。査定にも響く。それは、覚悟しとけ」
「はい」
アリフは頭を下げた。
それから、鞄から、もう一枚の紙を出した。
嵐の抜けた朝、ヌライニの食堂の机で、手書きで書いたものだった。
「これも、読んでください」
ブディは、紙を受け取った。
読みながら、眉が寄っていった。
「杭上家屋居住者の、区域内残留に関する例外申請」
「杭の上の家は、ポンプが止まっても沈みませんでした。昨夜の高潮で、土手の内側は全部沈みました。
杭の上は、一軒も沈んでいません。十四人が、杭の上で朝まで過ごしました。救急は、一度も呼んでいません」
「それで」
「杭の上の人たちは、七十年、行政サービスをほとんど使わずに暮らしてきました。
電気は屋根の板、水は雨水、飲み水は舟で運ぶ。閉鎖のあとも、同じ暮らしができます。
撤退の目的は、ポンプの電気代を止めることです。杭の上の人たちは、ポンプの電気を使っていません」
アリフは、息を継いだ。
「湿地に還したあとの区域にも、誰かが要ると思います。マングローブを植えて、林を見る人が。
杭の上の人たちを、湿地の管理人として残すことは、できないでしょうか」
ブディは、長いあいだ紙を見ていた。
それから、紙を机の上に置いた。
「できない」
「なぜですか」
「区域単位だからだ」
ブディの声は、怒ってはいなかった。
疲れていた。
「一つ例外を作れば、北岸の全部の線で、同じ申請が出る。
杭の上に住んでる者は、この街の北岸だけで何千人いると思う。
その全員に、残る権利を認めたら、線はもう線じゃなくなる。
線の外で誰かが病気になったら、誰かが溺れたら、局の責任になる。
お前が昨夜やったことを、局が毎晩やることになる」
「でも」
「でも、は無い」
ブディは、アリフの手書きの紙を、もう一度手に取った。
「これは、預かっとく」
「……え」
「例外は出せない。この村には、間に合わない。だがな」
ブディは、紙を、机の引き出しにしまった。
「次の線の計算は、五年後だ。計算の班には、知り合いがいる。
杭の上の家が、ポンプに頼ってないってことは、今の計算には入ってない。
入ってないことは、誰かが書いて持っていかないと、入らない」
アリフは、ブディの顔を見た。
「お前が昨夜、管轄外で拾ってきたのは、それだ。始末書と一緒に、上に回しとく」
ブディは、椅子を回して、窓のほうを向いた。
「行け。閉鎖まで、あと十八日だ。仕事は、まだ残ってる」
閉鎖の前の日、アリフが食堂を訪ねると、机の上に、一枚の紙が置いてあった。
移転の同意書だった。
ヌライニの名前が、震えるような字で書いてあった。
アリフは、紙を見て、それからヌライニを見た。
「……なぜ」
「杭の上の連中がね」
ヌライニは、台所で、最後のブアの煮物を鍋から皿に移していた。
「あたしが残るなら、自分たちも残るって言うんだよ。あの嵐のあとで」
「それは」
「それは、困るのさ」
ヌライニは、皿を机に置いた。
「あたしは、八十一だ。十年もしないうちに死ぬ。
死んだあとに、あの連中が、あたしが残ったから残った、って理由で、ここにいたら困る。
電気も水も来ない、救急も来ない線の外で、年を取っていくのを、あたしのせいにされたら困る」
ヌライニは、アリフの向かいに座った。
「あたしが出ていけば、あの連中も、自分で決める。出ていく者は出ていく。残る者は、自分で決めて残る。
それでいい」
「爺さんは」
「あの人は残るよ。あたしが出ていっても、残る。そういう人だ」
ヌライニは、少し笑った。
「一つ、頼みがある」
「何ですか」
ヌライニは、台所の隅から、布の袋を一つ持ってきた。
袋の中に、細長い緑の実が、何十本も入っていた。
マングローブの実だった。
ブアではなく、苗にするための実だった。
「今年の分。まだ半分しか植えてない。残りを、植えてきておくれ」
アリフは、袋を受け取った。
重かった。
一本一本が、ずしりと重たかった。
「僕は、植え方を知りません」
「教える。今日、これから」
ヌライニは、立ち上がって、腰布の裾をたくし上げた。
「サリの孫が、植え方を知らないなんて、恥ずかしいからね」
その日の午後、アリフはヌライニの舟に乗って、林の縁へ出た。
泥に、実を差し込む。
深すぎても、浅すぎても、根づかない。
潮が引いたときに、実の先が泥から指一本分出ているくらい。
それを、潮の流れに沿って、斜めに並べる。
並べ方が悪いと、波で抜ける。
ヌライニは、舟の上から、アリフの手つきを見ていた。
アリフが間違えるたびに、短く言った。
「深い」
「浅い」
「向きが逆」
日が傾くまでに、アリフは袋の中の実を、全部植えた。
泥だらけになった。
腕が、上がらなくなった。
舟の上で、ヌライニは、アリフが植えた列を見ていた。
「半分は、抜けるね」
「……はい」
「半分は、残る。残ったのが、十年経つと、あんたの背丈を越える。二十年経つと、波を割る」
ヌライニは、舟の櫂を取った。
「サリとあたしが植えた最初の百本も、半分は抜けた。残った五十本が、あの林の真ん中にある。
一番太いやつら」
アリフは、林の奥を見た。
夕日の中で、太い幹が何本か、黒く立っていた。
祖母が、十一の年に植えた木だった。
その晩、ヌライニは、杭の上の住人たちを食堂に集めた。
九世帯の、十六人。
嵐で飛ばされた渡り廊下の板は、皆で打ち付け直してあった。
新しい板と古い板が、まだらに並んでいた。
アリフは、入口の隅に座っていた。
呼ばれてはいなかったが、ヌライニが「あんたもいな」と言った。
ヌライニは、机の前に立って、皆の顔を一人ずつ見た。
「あたしは、出ていくよ」
食堂が、静かになった。
網を繕う女の一人が、声を上げた。
「なんで。あの嵐でも、杭の家は沈まなかったじゃない。婆さんが、残るって言ってたから、あたしらも」
「だからさ」
ヌライニは言った。
「あたしが残るから、あんたらが残るんなら、それは困る。あたしは十年もしないで死ぬ。死んだあとに、
あんたらが、婆さんが残ったから残ったって言って、ここで年を取ったら、あたしは、
あの世でサリに合わせる顔がない」
誰も、何も言わなかった。
「出ていく者は、出ていけばいい。残る者は、残ればいい。でも、それは自分で決めな。
あたしの顔を見て決めるんじゃなくて、自分の家の杭を見て決めな」
漁師の老人が、煙草を巻く手を止めた。
「俺は、残るぞ」
「知ってるよ」
ヌライニは、笑った。
「あんたは、あたしが何を言っても残る。だから、あんたには何も言わない」
老人も、少し笑った。
それで、食堂の空気が、少しだけ緩んだ。
その夜のうちに、五世帯が、出ていくと決めた。
四世帯が、残ると決めた。
決めたあと、皆で、ヌライニの最後のブアを食べた。
三日かけて灰汁を抜いた、苦いような甘いような煮物を。
アリフも食べた。
網を繕う女が、アリフの皿に、お代わりをよそった。
「役所の人。あんたも、覚えときな。この味」
アリフは頷いた。
覚えようとして、ゆっくり噛んだ。
閉鎖の日、アリフは、堤防の上に立っていた。
隣に、ヌライニがいた。
小さな鞄を一つだけ提げていた。
残りの荷物は、前の日のうちに、ボゴールへ送ってあった。
杭の上の九世帯のうち、五世帯が出ていった。
四世帯が残った。
漁師の老人は、残った。
正午に、堤防の水門が開いた。
局の機械が、遠くから操作した。
誰も、水門の前にはいなかった。
鉄の扉が、ゆっくり持ち上がった。
その下から、海の水が、土手の内側の、もう沈んだ平屋のあいだへ流れ込んでいった。
音は、ほとんどしなかった。
水は、静かに、低いほうへ流れていった。
地図の上では、今この瞬間、薄い緑の帯が、正式に湿地になった。
アリフは、ヌライニを見た。
ヌライニは、泣いていなかった。
杭の上の家々を、じっと見ていた。
一番端の、自分の家を見ていた。
窓から、煙が上がっていた。
漁師の老人が、ヌライニの台所を使っているのだろう。
何か焼いているのかもしれない。
黒い斑点の、名前のない小魚を。
「行こうか」
ヌライニが言った。
アリフは、ヌライニの鞄を持った。
二人で、堤防の上を、線の内側の駐車場のほうへ歩いた。
途中で、ヌライニが一度だけ振り返った。
アリフは、母が引っ越しの車の窓から、ずっと後ろを見ていたことを思い出した。
ヌライニは、ほんの少しだけ見て、すぐに前を向いた。
「振り返ってばっかりいると、転ぶからね」
一年後、アリフは、北岸の湿地還し監視班にいた。
移転調整局から、自分で異動を願い出た。
始末書のせいで、査定は下がった。
監視班は、局の中でも人気のない部署だった。
線の外の、湿地に還した区域を、舟で見回る。
不法な投棄がないか。
堤防の外側が崩れていないか。
それだけの仕事だった。
仕事の合間に、アリフは、マングローブを植えた。
それは、監視班の仕事ではなかった。
誰にも頼まれていなかった。
休みの日に、自分の舟で出て、植えた。
ボゴールの母の家には、ヌライニが住んでいた。
母のデウィが、引き取った。
最初に会ったとき、デウィは、ヌライニの顔を見て、しばらく声が出なかった。
それから、子どものように泣いた。
「髪を、結ってもらったの。嫁に行く日に」
ヌライニは、デウィの頭を撫でながら言った。
「覚えてるよ。あんた、泣きっぱなしだった。今と同じだ」
その日の夕方、ヌライニは、デウィの台所で、ブアを煮た。
実は、アリフが湿地から持って帰ったものだった。
三日かけて、灰汁を抜いた。
水を替えて、替えて、替えて。
三日目の夜、三人で、その煮物を食べた。
デウィは、一口食べて、また泣いた。
母の味だ、と言った。
祖母のサリの味だ、と。
ベランダには、鉢が一つ置いてあった。
中に、マングローブの苗が一本、植えてあった。
内陸のベランダで、海の木が育つはずがない。
それでも、ヌライニは、毎朝その鉢に、塩を少し溶かした水をやっていた。
「育たないですよ」
アリフが言うと、ヌライニは答えた。
「育たなくていい。見てれば、思い出す」
その日、アリフは、ヌライニとデウィを舟に乗せて、北岸へ出た。
一年ぶりの村だった。
土手の内側は、もう、村ではなかった。
平屋の屋根は、ほとんど崩れて、水の下に沈んでいた。
水面から、若いマングローブの芽が、あちこちに顔を出していた。
アリフが植えたものもあった。
アリフが植えていないものもあった。
潮に運ばれてきた実が、勝手に根づいたのだった。
杭の上の家は、四軒だけ残っていた。
一番端の家の窓から、煙が上がっていた。
漁師の老人が、縁に出てきて、手を振った。
舟を寄せると、老人は、焼いた小魚を三匹、皿に乗せて差し出した。
銀色の腹に、黒い斑点。
ヌライニは、一匹を手に取って、長いあいだ見ていた。
それから、食べた。
「……泥の匂いがする」
「ここの泥だ」
老人が言った。
ヌライニは、ゆっくり噛んで、飲み込んだ。
それから、舟の縁から、林を見た。
アリフが一年前に植えた列は、半分抜けていた。
残った半分が、膝の高さまで育っていた。
「海は、戻ってくるもんだよ」
ヌライニが言った。
「人が戻れないだけさ。でも、木は戻れる。魚も戻れる。人は、それを見に来ればいい」
デウィが、ヌライニの手を握った。
アリフは、櫂を握ったまま、黙っていた。
舟を片付けて局に戻ると、ブディが、監視班の詰所に顔を出していた。
移転調整局の上司が、監視班の詰所に来ることは、まず無い。
ブディは、アリフの机の横に立って、窓の外の海を見ていた。
「村へ行ってたのか」
「はい。休みなので」
「休みの日に、線の外か」
ブディは、鼻を鳴らした。
それから、上着のポケットから、折りたたんだ紙を一枚出して、アリフの机に置いた。
「計算の班から、回ってきた。五年後の線の、評価項目の案だ」
アリフは、紙を開いた。
細かい表が並んでいた。
土地の評価額。
ポンプ維持費。
堤防補修費。
その下に、一行、新しい項目が足してあった。
「杭上家屋・自立居住の有無(区域内例外の検討対象)」
アリフは、その一行を、何度も読んだ。
「案だ。通るかどうかは、分からない」
ブディは言った。
「通っても、カンプン・ラウトには間に合わない。あの村は、もう線の外だ。
次の線で救われるのは、どこか別の村の、別の婆さんだ」
「……はい」
「それでもな」
ブディは、窓の外を見たまま言った。
「入ってなかったものが、一行入った。お前の始末書と、あの手書きの紙のおかげだ。
査定は戻らんが、それは覚えとけ」
ブディは、それだけ言って、詰所を出ていった。
アリフは、紙を机の引き出しにしまった。
しまってから、もう一度出して、表の一行を指でなぞった。
計算に入らないものは、無いのと同じ。
ヌライニの言葉を、思い出した。
一行だけ、無いのと同じではなくなった。
その夜、アリフは、局の事務所の壁の地図の前に立った。
北岸の帯。
赤い撤退線。
線の外側の、薄い緑。
アリフは、鉛筆を取って、薄い緑の上に、小さな字で書き込んだ。
魚の名前を書いた。
ヌライニに教わった、ここの言葉でしか無い名前を。
その下に、ブア、と書いた。
灰汁を抜くのに三日、と書いた。
その下に、杭の家、四軒、と書いた。
書いても、計算には入らない。
明日の朝には、誰かに消されるかもしれない。
消されたら、また書けばいい。
アリフは、鉛筆を置いて、地図を見上げた。
薄い緑の上に、鉛筆の字が、小さく灰色に光っていた。




