就労抽選
通知は、朝の六時に来た。
ヨナス・ベッカーは、それを台所で聞いた。
コーヒーの粉を量っていたところだった。
壁の端末が、短く二回鳴った。
二回鳴るのは、行政からの通知だけだ。
どうせ配当の額の改定だろう、と思った。
銅の配給の話かもしれない。
先月も、家電の買い替えに要る銅の申請が通らなかった。
ヨナスは粉を量り終えてから、端末の前に立った。
「連邦就労配分局より。二〇八八年度第一期就労抽選の結果をお知らせします。ヨナス・ベッカー様。当選。
配属先:ゲルゼンキルヒェン第三回収場、手作業選別員。就労期間:一年(更新あり)。
着任前確認期間:三十日」
ヨナスは画面を読んだ。
もう一度、頭から読んだ。
当選。
十九年だった。
三十三の春に物流の倉庫の仕事が無くなってから、毎年、抽選に申し込んできた。
申し込みは簡単だった。
端末の画面で、名前の横の欄に印を付けるだけだ。
毎年、印を付けて、毎年、落ちた。
落ちたと知らせる通知は来ない。
何も来ないことが、落ちたという知らせだった。
十九回、何も来なかった。
二十回目に、来た。
ヨナスは台所の椅子に座った。
立っていられなかった。
手が震えていた。
コーヒーの粉の入った缶を、どこに置いたか分からなくなった。
「父さん?」
階段から声がした。
娘のリーナが、寝癖の頭で下りてきた。
十七になる。
母親に似て、背が高い。
「何、朝から。端末鳴ってたけど」
ヨナスは画面を指さした。
声が出なかった。
リーナは画面の前に立って、読んだ。
読み終えて、振り向いた。
ヨナスが見たことのない顔をしていた。
「……当たったの」
「当たった」
ようやく声が出た。
出てみると、思っていたより情けない声だった。
リーナは、しばらく何も言わなかった。
それから、「おめでとう」と言った。
言い方が、少し硬かった。
ヨナスはそれに気づかなかった。
気づく余裕が無かった。
昼前には、団地じゅうに知れ渡っていた。
誰が言いふらしたわけでもない。
当選者の名前は、地区の掲示板に出る。
出ることになっている。
配られた枠が、誰のところへ行ったのかを、皆が確かめられるように。
三階のシュミットの婆さんが、焼き菓子を持ってきた。
向かいのカヤ夫婦が、花を持ってきた。
下の階の若い男は、何も持たずに来て、ヨナスの手を握って、しばらく離さなかった。
「おめでとうございます。本当に。俺、七年申し込んでて」
「七年か」
「はい。七年です」
若い男は笑っていた。
笑いながら、目の奥だけが笑っていなかった。
ヨナスには、その目の意味がよく分かった。
十九年、自分も同じ目で、当選した誰かを見てきたからだ。
配当だけで、暮らしは立つ。
連邦が持つ計算資源が生んだ価値を、国民の頭数で割って、毎月振り込む。
家賃と食費と、少しの楽しみには足りる。
足りないのは、銅だけだ。
銅の配給の枠は、働いている者に多く割り振られる。
それと、もう一つ。
「権限、上がるんですよね」
若い男が言った。
「働いてる人は、二段目になるって」
「ああ」
ヨナスは頷いた。
連邦の知能に問い合わせるときの、権限の段のことだ。
配当だけで暮らす者は、一段目。
働いている者は、二段目。
研究や行政の職に就いている者は、三段目から上。
段が上がると、同じ質問をしても、答えが細かくなる。
ヨナスは、自分の権限の段のことを、ほとんど考えたことが無かった。
一段目の答えで、困ったことが無かった。
天気も、レシピも、病院の予約も、一段目で足りる。
二段目が要る質問を、ヨナスは持っていなかった。
若い男が帰ったあと、ヨナスは居間の窓から外を見た。
団地の向こうに、灰色の丘が見えた。
昔、炭鉱のボタ山だった丘だ。
その向こうに、今は別の山がある。
何十年分の、捨てられた機械の山。
古い電話、古い端末、古い洗濯機、古い車の中身。
あの山から、銅を掘る。
それが、ゲルゼンキルヒェン第三回収場だった。
ヨナスの祖父は、この土地で石炭を掘っていた。
ヨナスは、機械を掘る。
何かが一周して戻ってきたような気がした。
台所で、リーナが皿を洗う音がしていた。
いつもより、音が大きかった。
その夜、リーナは自分の部屋で、壁の端末に向かっていた。
画面の隅に、小さな文字で「権限:一段目」と出ている。
リーナはそれを、いつも見ないようにしていた。
見ると、腹が立つからだ。
質問の欄に、打ち込んだ。
「廃電子機器から、銅を九十九パーセント以上の純度で回収する、低エネルギーの方法を教えて」
答えは、すぐに出た。
「廃電子機器からの銅の回収には、主に物理的な選別、熱による処理、薬品による処理などの方法があります。
連邦の回収場では、これらを組み合わせて効率的な回収を行っています。
より詳しい情報は、この権限の粒度ではお答えできません」
リーナは、画面を見つめた。
何度も見た答えだった。
言い方を変えても、同じところで止まる。
「この権限の粒度ではお答えできません」。
十四のとき、学校の授業で、銅が足りないという話を聞いた。
銅が無いから、新しい機械が作れない。
機械が作れないから、古い機械を掘る。
掘るのにも機械が要る。
その機械にも、銅が要る。
おかしい、と思った。
おかしいなら、誰かが解いているはずだと思った。
それで調べはじめた。
一段目で分かることは、半年で全部分かった。
そこから先が、どこまで行っても開かなかった。
学校の先生に聞いた。
先生は、二段目の権限を持っていた。
先生の端末で同じ質問をすると、答えは三行長くなった。
三行長くなって、また同じところで止まった。
「この先は、三段目ね」
先生は申し訳なさそうに言った。
「大学の研究室に入れば、三段目がもらえるわ。でも、研究室の枠も、抽選だから」
研究室の枠に申し込むには、就労の経歴が要る。
就労の経歴を作るには、就労の枠に当たらなければならない。
就労の枠は、十九年申し込んでも当たらない人がいる。
リーナは十六になった春から、自分でも抽選に申し込んでいた。
父には言っていなかった。
言えば、父は自分のことのように心配する。
心配して、何も変わらない。
今年も、リーナの名前の横には何も来なかった。
代わりに、父の名前の横に来た。
画面の「権限:一段目」の文字を見ながら、リーナは膝を抱えた。
隣の部屋から、父の笑い声が聞こえた。
電話で、誰かに当選を知らせている。
たぶん、ケルンに住んでいる叔母だ。
父は、何年ぶりかという声で笑っていた。
リーナは、父の笑い声を聞くのが好きだった。
好きだったから、余計に胸が苦しかった。
端末の画面に、もう一度だけ質問を打った。
「就労抽選の当選枠を、家族に譲ることはできますか」
答えは、すぐに出た。
「できます。当選者は、着任前確認期間(三十日)のあいだに限り、同一世帯の十六歳以上の家族一名に、
当選枠を譲ることができます。譲渡は一度のみで、取り消しはできません。
譲渡を受けた者は、当選者と同じ条件で着任します」
リーナは、その答えを長いあいだ見ていた。
一段目でも、それは答えてくれるのだと思った。
ゲルゼンキルヒェン第三回収場は、団地からバスで二十分のところにあった。
ヨナスは、着任前の見学の日に、一人でそこへ行った。
リーナは、学校があるからと言って、ついて来なかった。
バスを降りると、まず匂いがした。
焦げたような、酸っぱいような匂い。
古い機械の山から、風に乗って流れてくる。
山は、思っていたより大きかった。
灰色と黒と、ところどころに色あせた青や赤が混ざっている。
崩れた斜面に、小さな重機が何台か取り付いて、機械の塊を少しずつ崩していた。
重機には、人が乗っていなかった。
回収場の建物は、昔の炭鉱の選炭場を改造したものだった。
煉瓦の壁に、新しい鉄骨が継ぎ足してある。
入口で名前を言うと、中から女が出てきた。
背の低い、がっしりした女だった。
六十は越えている。
灰色の作業着の袖を肘までまくり上げて、腕に古い火傷の跡がいくつもあった。
「新人?」
「ヨナス・ベッカーです。見学に」
「ハティジェ・ユルドゥズ。ここの選別線の班長みたいなもん。班長って役職は無いけどね」
ハティジェは、ヨナスの手を見た。
握手をするのではなく、ただ見た。
「何の仕事してた」
「物流の倉庫です。十九年前まで」
「十九年」
ハティジェは、口の端で笑った。
「長かったね。まあいい。手は、覚えてるもんだよ。ついておいで」
選別線は、建物の奥にあった。
長いベルトが、ゆっくり流れている。
ベルトの上に、砕かれた機械の破片が乗っている。
基板のかけら。
電線の切れ端。
画面の割れた電話。
ベルトの両側に、作業着の男女が十人ほど並んで、破片を手で拾い分けていた。
銅の多いもの。
銅の少ないもの。
銅を含まないもの。
三つの箱に、手で放り込んでいく。
「機械でやらないんですか」
ヨナスは聞いた。
聞いてから、馬鹿な質問だったかと思った。
ハティジェは、気にしたふうもなかった。
「やれるよ。選別の機械はある。上の山で動いてるのと同じ会社が作ってる。でもね」
ハティジェは、ベルトの上から電線の切れ端を一本拾って、ヨナスの目の前にかざした。
「あの機械一台作るのに、この電線が何キロ要ると思う」
ヨナスは答えられなかった。
「銅が足りないから、銅を掘る機械が作れない。だから、人の手で掘る。人の手なら、銅は要らない。
飯と、配当と、この作業着だけでいい」
ハティジェは電線を、銅の多いものの箱に放り込んだ。
「あたしたちの仕事は、銅が足りないから、あるの。銅が足りたら、無くなる。覚えときな」
ヨナスは、選別線を見た。
並んだ十人の手が、黙々と動いていた。
誰も喋っていなかった。
ベルトの流れる音と、破片が箱に落ちる音だけがしていた。
その音を、ヨナスは知っていた。
十九年前の倉庫で、毎日聞いていた音に似ていた。
荷物がベルトを流れる音。
人の手が、それを仕分ける音。
胸の奥で、何かが動いた。
確認期間のあいだは、試しに線に立ってもいい決まりだった。
ハティジェにそう言われて、ヨナスは次の日から毎朝、回収場へ通った。
最初の三日は、手がまるで動かなかった。
ベルトの上の破片は、どれも似たような灰色に見えた。
基板のかけらを拾って、銅が多いのか少ないのか、目で見ても分からない。
分からないまま箱に放り込むと、隣の若い女が、黙ってそれを拾い直して別の箱に移した。
一時間で、ヨナスが分けた破片の三分の一が、拾い直された。
昼休み、ヨナスは建物の裏の煉瓦の壁にもたれて、配給のパンをかじっていた。
手のひらが、細かい傷だらけになっていた。
手袋をしていても、破片の角が刺さる。
ハティジェが、隣に座った。
「目で見るからだよ」
ハティジェは自分のパンをちぎりながら言った。
「目で見たって、灰色は灰色。重さで分けるの。持ったときに、ずしっと来るのは銅が多い。
軽いのは樹脂ばっかり。それと、割れた断面の色。赤っぽい筋が見えたら、銅」
「重さ」
「重さ。持ってりゃ、そのうち手が覚える。頭で覚えようとするから遅いの」
ヨナスは自分の手を見た。
十九年、重いものを持っていない手だった。
「……倉庫にいたころは、荷物を持つだけで、中身の重さが分かったんです。何キロか、だいたい」
「ほら」
ハティジェは笑った。
「手は、覚えてるって言ったろ」
四日目から、ヨナスは目をつぶって破片を持ってみることにした。
ずしっと来るもの。
軽いもの。
その中間のもの。
目を開けて、断面の色を見る。
赤い筋。
何も無い灰色。
一週間目、隣の若い女が拾い直す数が、半分に減った。
十日目には、ほとんど拾い直されなくなった。
十日目の帰り、バスの窓に映った自分の顔を見て、ヨナスは驚いた。
笑っていた。
自分でも気づかないうちに、笑っていた。
選別線に流れてくるのは、破片だけではなかった。
砕かれる前の、形の残った機械が、ときどき混ざって流れてくる。
古い電話。
古い腕時計型の端末。
子ども用の、音の出る絵本。
そういうものは、手で分解してから選別する決まりだった。
分解の台は、選別線の端にある。
ヨナスは、十日目を過ぎたころから、その台にも回されるようになった。
電話の裏蓋を外すと、ときどき、中に何かが挟まっていた。
小さな写真のシール。
折りたたんだ紙切れ。
子どもの字で「パパへ」と書いたメモ。
四十年前、五十年前に、誰かが使っていた電話だった。
その誰かは、電話を替えるときに、中身を確かめずに捨てたのだろう。
あるいは、確かめる前に死んだのかもしれない。
最初にそういうものを見つけたとき、ヨナスは手を止めて、ハティジェに聞いた。
「これ、どうするんですか」
ハティジェは、ヨナスの手の中の写真のシールを見た。
若い男女が、海辺で笑っている写真だった。
色が褪せて、端がめくれていた。
「銅は、含まれてないね」
「……はい」
「だったら、銅を含まないものの箱」
ハティジェは、それだけ言って、自分の持ち場に戻った。
ヨナスは写真のシールを、しばらく手のひらに乗せていた。
それから、銅を含まないものの箱に入れた。
入れる前に、一度だけ、写真の二人の顔を見た。
知らない二人だった。
その日の帰り、ハティジェが、バス停まで一緒に歩いた。
珍しいことだった。
「さっきの写真」
歩きながら、ハティジェが言った。
「あたしも、最初の一年は、全部取っといたんだよ。写真も、手紙も。家の箪笥の引き出しに入れて」
「今は」
「引き出しが三つ埋まったところで、やめた。ここには、毎日、何百人分の昔が流れてくる。
全部取っといたら、あたしの家が、他人の昔で埋まる」
ハティジェは、火傷の跡のある腕を、作業着の袖に隠した。
「覚えときな。ここで拾うのは、銅だけ。それ以外は、見たら、見たってことだけ覚えて、箱に入れる。
それでいい」
ヨナスは頷いた。
頷いたけれど、あの海辺の二人の顔は、しばらく頭から離れなかった。
その週の日曜の夜、リーナが言った。
夕食の途中だった。
ヨナスが、選別線での話をしていた。
重さで分けること。
断面の赤い筋のこと。
ハティジェという班長みたいな女のこと。
ヨナスは、久しぶりに自分の話をしていた。
話すことがあるのが、うれしかった。
リーナは黙って聞いていた。
フォークで、皿の上の芋をつついていた。
ヨナスの話が途切れたところで、リーナはフォークを置いた。
「父さん。枠、私に譲って」
ヨナスは、言われたことの意味が、すぐには分からなかった。
「……何だって」
「当選の枠。確認期間のうちなら、家族に譲れるの。十六歳以上なら」
リーナは、ヨナスの顔をまっすぐ見ていた。
用意してきた言葉だと分かった。
「私、十六から抽選に申し込んでた。父さんには言ってなかったけど。二回とも落ちた」
「なんで、言わなかった」
「言ったら、心配するでしょう」
ヨナスは、何も言えなかった。
確かに心配しただろう。
心配して、何もしてやれなかっただろう。
「働いたら、権限が二段目になる。二段目で就労の経歴を二年作れば、大学の研究室の枠に申し込める。
研究室に入れば、三段目がもらえる」
「三段目で、何をするんだ」
「銅」
リーナは言った。
「銅を、今よりずっと少ない電気で、ずっと高い純度で取り出す方法。
一段目の知能は、そこから先を教えてくれない。先生の二段目でも、途中で止まる。
三段目より上には、たぶん答えがある。答えがあるのに、誰も使ってない。
使える段にいる人が、その質問を持ってないから」
ヨナスは、娘の顔を見た。
十七の顔だった。
母親が死んだとき、リーナは九つだった。
あれから八年、ヨナスは、この子が何を考えて毎晩部屋にこもっているのか、ほとんど知らなかった。
「……父さんは、十九年待ったんだ」
言ってから、ヨナスは自分の声が震えているのに気づいた。
「十九年だ、リーナ。毎年、印を付けて、毎年、何も来なかった。やっと来たんだ。
やっと、手が覚えてるって、言ってもらえたんだ」
「知ってる」
リーナの声も、震えていた。
「知ってるから、言いたくなかった。でも、言わないと、三十日が過ぎる」
食卓の上で、二人の皿の料理が冷めていった。
ヨナスは立ち上がった。
何か言おうとして、何も言えずに、居間の窓の前へ行った。
窓の外に、灰色の丘が見えた。
夜の中で、回収場の照明だけが、丘の向こうを白く照らしていた。
「少し、考えさせてくれ」
ヨナスはそう言った。
背中で、リーナが「うん」と言うのが聞こえた。
十四日目、選別線が昼前に止まった。
ベルトが、ぎしりと音を立てて止まった。
上の山で、破片をベルトに送り込む重機が一台、動かなくなったのだという。
人の乗っていない重機が、斜面の途中で腕を振り上げたまま固まっていた。
「待機」
ハティジェが言った。
選別線の十人は、それぞれベルトの横にしゃがみ込んだ。
誰も文句を言わなかった。
よくあることらしかった。
一時間ほどして、白い車が一台、回収場の入口に着いた。
降りてきたのは、ヨナスより少し若いくらいの男だった。
灰色の作業着ではなく、紺色の上着を着ていた。
胸に、配分局の技術部の徽章があった。
男は選別線の横を通り過ぎるとき、しゃがみ込んだ十人をちらりと見た。
珍しいものを見るような目だった。
それから、まっすぐ上の山へ登っていった。
ヨナスは、ハティジェの隣で、それを見送った。
「誰です」
「配分局の技師。四段目」
「四段目」
「重機が止まると、来る。いつも同じ人じゃないけど、だいたい四段目」
一時間ほどして、男が山から下りてきた。
重機は、まだ止まったままだった。
男は選別線の入口で立ち止まって、手首の端末に何か話しかけていた。
ヨナスのところまで、声が聞こえた。
「第三回収場、送り込み機の三号。駆動部の軸受けの焼き付き。予備部品の在庫を確認。
無ければ、同型の廃機からの流用手順」
手首の端末が、すぐに答えた。
男の耳にだけ聞こえる答えらしく、ヨナスには聞こえなかった。
男は何度か頷いて、また山へ登っていった。
三十分後、重機が動き出した。
腕がゆっくり下りて、斜面の機械の塊を崩しはじめた。
ベルトが、ぎしりと音を立てて、また流れはじめた。
「四段目だとね」
破片を拾いながら、ハティジェが言った。
「どこの部品を、どう外して、どう付け替えるかまで、全部教えてくれるんだって。
前に来た技師が、自慢してた」
「一段目だと」
「一段目だと、『専門の技術者にご相談ください』」
ハティジェは、笑いもせずに言った。
ヨナスは、手の中の基板のかけらを、目をつぶって持った。
ずしっと来た。
銅の多いものの箱に入れた。
帰り際、紺色の上着の男が、白い車に乗り込む前に、選別線のほうを振り向いた。
ヨナスと目が合った。
男は、少し気まずそうに笑って、軽く手を上げた。
「ご苦労さまです」
それだけ言って、車に乗った。
悪い人ではないのだろう、とヨナスは思った。
四段目の知能に聞けば、壊れた重機を直せる。
一段目の知能に聞けば、専門の技術者に相談しろと言われる。
その違いは、男のせいではない。
それでも、白い車が走り去ったあと、ヨナスは自分の手を見た。
手のひらの傷が、少しずつ治りかけていた。
この手が知っていることは、何段目なのだろう、と思った。
リーナが回収場へ来たのは、父に枠のことを言った週の終わりだった。
ヨナスには言わずに来た。
学校を早退して、バスに乗った。
自分が欲しがっているものが、どういう場所なのか、見ておかなければいけないと思った。
入口で名前を言うと、見学の受付は済んでいないと言われた。
帰りかけたところで、後ろから声が掛かった。
「ベッカーの娘?」
振り向くと、背の低い女が立っていた。
作業着の袖を肘までまくり上げている。
腕に、古い火傷の跡があった。
「……なんで分かったんですか」
「顔が似てる。あと、あんたの父さん、毎日あんたの話をしてる」
ハティジェ・ユルドゥズは、リーナを上から下まで眺めた。
「枠を譲れって言ったんだってね」
リーナは、顔が熱くなるのを感じた。
「父が、話したんですか」
「話しちゃいないよ。ただ、ここ三日、あんたの父さんの手が遅い。何か考えてるときの遅さだ。
それで、昼に聞いた。そしたら、娘がって」
ハティジェは、建物の中を顎で示した。
「入んな。受付は、あたしが後でやっとく」
選別線の端の、分解の台の前に、ハティジェはリーナを立たせた。
台の上に、古い電話が一台置いてあった。
二つ折りになる型の、分厚い電話だった。
「これ、いつごろのか分かる?」
「……二〇五〇年代、くらい」
「そう。五十年代の、折りたたみの流行り。で、この電話のどこに、銅が一番多く入ってると思う」
リーナは電話を手に取った。
重かった。
画面の裏か、電池のまわりか、基板か。
一段目の知能に聞けば、たぶん「基板と配線に多く含まれています」と答えるだろう。
「基板」
「外れ」
ハティジェは、電話の折り目の部分を指で叩いた。
「ここ。蝶番の中。この型は、折り曲げても切れないように、蝶番の中に太い銅の撚り線を通してある。
一台で、基板の三倍入ってる」
「……そんなの、どこにも書いてない」
「書いてないよ。あたしが、ここで十一年、何万台も割って覚えたことだもの。
知能に聞いたって、出てきやしない。誰も、知能に教えてないから」
リーナは、手の中の電話を見た。
蝶番のところが、他より少しだけ重いような気がした。
気のせいかもしれなかった。
「三段目より上に、答えがあるって、あんたの父さんに言ったんだってね」
「……はい」
「あるかもしれない。でも、無いかもしれない。
上の段の知能が知ってるのは、上の段の人が教えたことだけだよ。蝶番の銅のことは、誰も上に教えてない。
上にいる人は、電話を割ったことがないから」
ハティジェは、電話をリーナの手から取って、分解用の工具で蝶番をこじ開けた。
中から、赤銅色の細い線の束が出てきた。
照明の下で、鈍く光った。
「それとね」
ハティジェは、線の束を銅の多いものの箱に落とした。
「あんたが、少ない電気で銅を取り出す方法を見つけたとするよ。そしたら、どうなると思う」
「……銅が、足りるようになる」
「そう。銅が足りたら、選別の機械が作れる。機械が作れたら、この線はいらなくなる」
ハティジェは、ベルトの両側に並んだ十人の背中を見た。
「あたしたちの仕事は、銅が足りないから、あるの。
あんたの父さんが十九年待った枠は、銅が足りないから、空いたの」
リーナは、何も言えなかった。
そんなことは、考えたことがなかった。
銅が足りないことは、解かなければいけない問題だと思っていた。
問題が解ければ、皆が楽になると思っていた。
皆の中に、父は入っていなかった。
「責めてるんじゃないよ」
ハティジェは、リーナの肩を軽く叩いた。
手が、硬くて重かった。
「知っときなって話。知ったうえで、それでもやりたいなら、やればいい。
あたしは、それで仕事が無くなっても、恨まない。たぶんね」
帰りのバスの中で、リーナは端末を出した。
一段目の知能に、質問を打った。
「就労抽選の枠は、なぜ毎年これだけの数なのですか」
答えは、すぐに出た。
「就労抽選の枠の数は、連邦が保有する計算資源と自動化設備で賄えない作業量をもとに、
毎年算定されています。主な要因は、自動化設備の製造に必要な鉱物資源、特に銅の供給不足です。
鉱物資源の供給が改善されれば、就労枠は順次削減される見通しです」
削減される見通しです。
リーナは画面を閉じた。
窓の外に、灰色の丘が流れていった。
ボタ山だった丘。
祖父の祖父が掘った石炭の、捨て場だった丘。
あの石炭が尽きて、祖父の仕事は無くなった。
それから何十年も経って、今、父は銅を掘る仕事に就こうとしている。
その銅が足りるようになったら、父の仕事はまた無くなる。
足りないから、仕事がある。
足りたら、仕事が無くなる。
じゃあ、足りないままのほうがいいのか。
リーナは、その問いに答えられなかった。
一段目の知能に聞いても、答えは返ってこない気がした。
何段目の知能に聞いても、たぶん同じだった。
バスが団地の前に着いた。
リーナは降りて、自分の家の窓を見上げた。
台所の明かりが点いていた。
父が、夕食を作っているのだろう。
リーナは、しばらく下から、その明かりを見ていた。
確認期間の二十五日目、ヨナスはハティジェに聞いた。
昼休みの、建物の裏の煉瓦の壁の前だった。
春の日差しが、壁を温めていた。
遠くで、山を崩す重機の音がしていた。
「班長は、なんでここに」
「班長じゃないって」
ハティジェは、配給のパンをちぎった。
「当たったからだよ。あんたと同じ。十一年前に」
「何年、待ったんですか」
「一回目は、十五年」
ヨナスは、パンをかじる手を止めた。
「一回目」
「一回目に当たったのは、四十の年。もう二十六年前になるね。あのころは、今より枠が多かった」
ハティジェは、しばらく黙っていた。
重機の音が、途切れて、また始まった。
「息子に譲ったの」
ヨナスは、何も言わなかった。
「息子は十八だった。頭のいい子でね。数学が好きで、一段目の知能じゃ足りないって、毎晩ぼやいてた。
今のあんたの娘と、おんなじ」
ハティジェは、少し笑った。
「譲って、あの子はここで二年働いて、研究室の枠に申し込んで、当たって、ベルリンに行った。
今は、配分局の上のほうにいる。五段目だか六段目だか。何してるのか、あたしにはよく分からない。
電話は、年に一回、あたしの誕生日にかかってくる」
「……後悔は、してないんですか」
聞いてから、ヨナスはひどい質問をしたと思った。
ハティジェは、気にしなかった。
「しなかったと言ったら嘘になる。十一年、また何も来なかったからね。
あのとき譲らなかったら、って、何百回も考えた」
ハティジェは、パンの最後のひとかけらを口に入れた。
「でもね。譲ったのは、あたしが決めたこと。あの子がベルリンで何になったかは、あの子が決めたこと。
その二つは、別。あたしは、あたしが決めたことの分だけ、後悔すりゃいい。あの子の分まで背負わない」
ハティジェは立ち上がって、作業着の尻をはたいた。
「それに、二回目は当たったしね。十一年待って。人生、長いもんだよ」
ヨナスも立ち上がった。
昼休みは、あと五分だった。
「一つだけ、言っとく」
建物の入口で、ハティジェが振り向いた。
「あんたの手は、もう覚えた。十日で覚えた。それは、どっちに転んでも、あんたのもんだよ。
枠が誰のもんになっても、あんたの手が覚えたことは、あんたの手に残る」
その夜、ヨナスは眠れなかった。
居間のソファに座って、窓の外の回収場の照明を見ていた。
白い光が、丘の向こうの空を照らしていた。
夜のあいだも、上の山では重機が動いている。
人の乗っていない重機が、古い機械の山を少しずつ崩している。
テーブルの上に、写真のシールが一枚あった。
今日、ヨナスは、初めて決まりを破った。
分解の台で、古い電話の裏蓋から出てきた一枚を、銅を含まないものの箱に入れずに、
作業着のポケットに入れた。
写真には、小さな女の子が写っていた。
三つか四つくらい。
公園の砂場で、スコップを持って、得意そうに笑っている。
ヨナスは、その写真を、リーナに似ていると思ったわけではなかった。
知らない子だった。
知らない子なのに、ポケットに入れずにいられなかった。
十九年、ヨナスは何もしていなかったわけではない。
リーナを育てた。
妻が病気になってからは、妻の世話をした。
妻が死んでからは、一人でリーナを育てた。
朝、弁当を作って、学校へ送り出して、夕方に迎えて、夕食を作った。
宿題を見てやった。
見てやれなくなったのは、リーナが十二を過ぎたころからだ。
リーナの宿題は、ヨナスの一段目の頭では、もう分からなくなった。
それは、仕事ではなかった。
連邦の数え方では、ヨナスは十九年、働いていなかった。
配当を受け取るだけの、一段目の人間だった。
でも、写真の女の子のような子を、一人、育てた。
ヨナスは写真を裏返した。
裏に、ペンで何か書いてあった。
かすれて、ほとんど読めない。
目を近づけると、日付だけが読めた。
二〇四七年、六月。
四十一年前の、六月。
この子は、今ごろ四十代の半ばだ。
どこかで生きているかもしれない。
自分がこの写真を撮られたことも、覚えていないかもしれない。
ヨナスは、写真をテーブルに戻した。
リーナの部屋から、小さな音がしていた。
端末の画面を叩く音だった。
こんな時間まで、まだ何かを調べている。
一段目の知能に、何度も何度も、同じところで止まる質問を投げている。
ヨナスは、立ち上がって、リーナの部屋の前まで行った。
ドアをノックしかけて、やめた。
ドアの隙間から、端末の青い光が漏れていた。
自分が十九年待ったのは、何のためだったのか。
働くためだったのか。
働いて、手が覚えていると言ってもらうためだったのか。
それとも。
ヨナスは、ドアの前で、長いあいだ立っていた。
端末を叩く音は、止まらなかった。
二十七日目の朝、リーナは学校へ出るとき、部屋のドアを開けたままにしていった。
いつもは、閉めていく。
閉め忘れたのか、わざとなのか、ヨナスには分からなかった。
洗濯物を取りに入ったとき、机の上に紙のノートが一冊、開いたまま置いてあった。
ヨナスは、見るつもりはなかった。
娘の机の上のものを、勝手に見るような父親ではないつもりだった。
でも、開いたページの一行目が、目に入ってしまった。
「聞けなかった質問」
見出しのように、そう書いてあった。
その下に、番号を振った文が、びっしり並んでいた。
「一。廃電子機器から銅を低エネルギーで高純度に回収する方法」
「二。銅の代わりに使える、豊富にある元素の導電材料はあるか」
「三。選別の機械を、銅を使わずに作る方法」
「四。回収場の重機の銅の使用量を半分にする設計」
「五。二〇四〇年代の電話に使われていた銅の総量」
ヨナスは、ページをめくった。
次のページも、その次のページも、同じように番号の付いた質問が並んでいた。
最後のページの番号は、三百十二だった。
「三百十二。なぜ銅の配給は、働いている人に多いのか」
その下に、小さな字で、リーナの字が続いていた。
「一段目の答え:就労者の生活に必要な機器の維持のため。本当か?」
ヨナスは、ノートを閉じた。
閉じてから、元どおり開いたままにしておかなければいけないと気づいて、同じページを探して開き直した。
手が少し震えていた。
三百十二。
十九年、ヨナスは、知能に質問をすることがほとんどなかった。
天気と、レシピと、病院の予約。
それ以上のことを聞こうと思ったことがなかった。
聞きたいことが、無かった。
娘には、三百十二あった。
一つも、答えてもらえていなかった。
ヨナスは、洗濯物を抱えて、部屋を出た。
ドアは、開けたままにしておいた。
居間で洗濯物を畳みながら、ヨナスは妻のことを思い出した。
妻のアンナは、病気がわかってから、毎晩のように知能に質問をしていた。
病気のこと。
薬のこと。
治療のこと。
一段目の答えは、いつも同じところで止まった。
「詳しくは、担当の医師にご相談ください」
担当の医師は、三段目だった。
医師は親切だったが、忙しかった。
アンナの質問の半分に、答える時間が無かった。
最後の半年、アンナは質問をしなくなった。
しなくなってから、ヨナスは、アンナが何を聞きたかったのか、一度も聞かなかった。
聞いても、自分には答えられないと思ったからだ。
リーナは、九つだった。
母親が毎晩、端末の前で、同じところで止まる答えを見つめていたのを、あの子は覚えているのだろうか。
ヨナスは、畳みかけのシャツを膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
窓の外で、回収場の方角から、重機の音がしていた。
二十九日目の朝、ヨナスは回収場へ行かなかった。
代わりに、地区の行政窓口へ行った。
窓口と言っても、人はいない。
古い郵便局の建物の中に、端末が四台並んでいるだけだ。
一台に、老人が一人座って、配当の明細を印刷していた。
ヨナスは一番奥の端末の前に座った。
名前を言って、手のひらをかざした。
「就労抽選の当選枠の、譲渡を」
画面が切り替わった。
「就労抽選当選枠の譲渡手続き。譲渡元:ヨナス・ベッカー。
譲渡先を、同一世帯の十六歳以上の家族から選択してください」
候補に、名前が一つだけ出た。
リーナ・ベッカー。
ヨナスは、その名前を見た。
指を伸ばしかけて、止めた。
昨夜、結局、リーナの部屋のドアはノックしなかった。
今朝、リーナが学校へ出るとき、ヨナスは何も言わなかった。
リーナも、何も聞かなかった。
確認期間が明日で終わることを、二人とも知っていた。
言ってから決めるべきだろうか、と思った。
リーナを連れてきて、ここで一緒に押すべきだろうか。
でも、それをすると、リーナはたぶん、最後に「やっぱりいい」と言う。
ヨナスには分かっていた。
娘は、父親から何かを取り上げたと思いながら生きていくことに、耐えられない。
母親に似て、そういう子だった。
だから、自分で決める。
ハティジェが言ったように、決めたことの分だけ、自分で後悔すればいい。
ヨナスは、リーナの名前を押した。
「譲渡は一度のみで、取り消しはできません。譲渡を確定しますか」
確定を押した。
「譲渡が確定しました。リーナ・ベッカー様に、当選枠が移りました。
ヨナス・ベッカー様の権限は、一段目のままです。
次回の就労抽選への申し込みは、来年度第一期から可能です」
画面が、元の待ち受けに戻った。
それだけだった。
ヨナスは、端末の前に座ったまま、しばらく動けなかった。
隣の端末で、老人が印刷を終えて、紙を折りたたんでいた。
老人は立ち上がるとき、ヨナスのほうを見た。
何か言いたそうな顔をして、何も言わずに出ていった。
ヨナスは、自分の両手を見た。
手のひらの、細かい傷が、まだ治りきっていなかった。
三十日目、確認期間の最後の日、ヨナスは回収場へ行った。
もう枠は自分のものではない。
それでも、確認期間のうちは、線に立つことができた。
決まりを調べたら、そう書いてあった。
譲渡したあとでも、期間が終わるまでは、試しに立ってかまわない。
たぶん、そんなことをする人間を、決まりを作った人は想定していなかった。
ハティジェは、ヨナスの顔を見て、何も聞かなかった。
ただ、いつもの分解の台を顎で示した。
ヨナスは一日、古い機械を割った。
電話の蝶番をこじ開けて、銅の撚り線を取り出した。
基板のかけらを持って、目をつぶって、重さで分けた。
ずしっと来るもの。
軽いもの。
その中間。
断面の赤い筋。
隣の若い女は、一度もヨナスの破片を拾い直さなかった。
夕方、選別線が止まった。
作業着の男女が、一人ずつ帰っていった。
ヨナスは、最後まで台の前に立っていた。
ハティジェが、隣に来た。
「譲ったんだね」
「はい」
「娘には、言った?」
「まだです。今夜、言います」
ハティジェは頷いた。
それから、自分の作業着のポケットから、何かを出した。
紙の箱だった。
靴の箱くらいの大きさで、角がすり切れていた。
「これ、持っていきな」
ヨナスは箱を受け取った。
軽かった。
蓋を開けると、中に、写真のシールや、折りたたんだ紙切れや、子どもの字のメモが、ぎっしり詰まっていた。
「あたしの箪笥の、一番上の引き出しの分。十一年前に、二回目で当たったときの最初の一年に取っといた分」
「……なんで、俺に」
「あんた、昨日一枚、ポケットに入れたろ」
ヨナスは顔が熱くなった。
ハティジェは笑った。
「見てたよ。まあ、あたしも最初はそうだった。だから、あんたに渡す。
あたしの引き出しは、まだ二つ埋まってる。一つ空いたら、少しは楽になる」
「俺は、これを、どうすれば」
「知らないよ。好きにしな。あんたは明日から、一段目の暇人なんだろ。暇人には、暇人の仕事がある」
ハティジェは、箱の蓋を、ヨナスの手の上で閉じた。
「銅は、含まれてないよ。だから、ここでは要らない。でも、どこかで要る人がいるかもしれない」
その夜、ヨナスはリーナに話した。
夕食のあと、食卓で。
端末の画面で、譲渡の記録を見せた。
リーナは、画面を見て、それからヨナスを見た。
顔から、すっと色が引いた。
「なんで、勝手に」
「勝手に決めた。お前に聞いたら、お前は、いいって言うからな」
「言わない」
「言う。お前は、母さんに似てる」
リーナの目に、涙が溜まった。
溜まったまま、こぼれなかった。
「……父さんの、十九年は」
「十九年は、無駄じゃなかった」
ヨナスは、自分でも驚くくらい、はっきり言った。
「十九年、お前を育てた。連邦の数え方じゃ、それは仕事じゃないらしい。でも、俺はそれをやった。
それで、手は、ちゃんと覚えてたんだ。十日で思い出した。枠が無くても、手は俺のもんだ」
リーナは、何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
「一つだけ、頼みがある」
「……何」
「回収場の、ハティジェって班長に、ちゃんと教わってくれ。
あの人の手は、知能より、いろんなことを知ってる。
お前が上の段に行っても、あの人の手が知ってることは、上には無い。
上の人は、電話を割ったことがないからな」
リーナは、ようやく涙をこぼした。
こぼしながら、笑った。
「それ、ハティジェさんに言われたんでしょう」
「……なんで分かる」
「私も、言われたから」
ヨナスは、少し驚いて、それから笑った。
食卓の上で、二人の皿は、もう空になっていた。
リーナが選別線に立ったのは、翌週の月曜だった。
最初の三日は、父と同じで、手がまるで動かなかった。
灰色の破片は、どれも灰色に見えた。
隣の若い女が、黙ってリーナの分けた破片を拾い直した。
四日目、リーナは目をつぶってみた。
重さ。
ずしっと来るもの。
軽いもの。
十日かかっても、父ほどには覚えられなかった。
二週間目、ハティジェに言われた。
「あんたは、頭で覚えようとしすぎ。父さんのほうが筋がいい」
リーナは、少しむっとした。
むっとしながら、うれしかった。
権限は、二段目になった。
最初の夜、リーナは端末の前で、同じ質問を打った。
廃電子機器から、銅を、少ない電気で、高い純度で。
答えは、一段目より六行長くなった。
六行分、知らなかったことが書いてあった。
そして、六行目の終わりで、また止まった。
「より詳しい情報は、この権限の粒度ではお答えできません」
リーナは、画面を見て、笑った。
笑ってから、ノートを開いた。
紙のノートだった。
回収場の売店で、配給の紙を使って作られた、ざらざらのノート。
一ページ目に、ハティジェから聞いたことを書いた。
「五十年代の折りたたみ型。蝶番の中に太い撚り線。基板の約三倍」
二ページ目に、自分で割って確かめたことを書いた。
「六十年代の腕時計型。バンドの留め金の裏。薄い銅の板。重さで分かる」
三ページ目は、隣の若い女に聞いたことだった。
女の名前は、ミラといった。
リーナより三つ上だった。
話してみると、よく笑う人だった。
ノートは、一段目の知能にも、二段目の知能にも、書いていないことで埋まっていった。
誰も知能に教えていないこと。
上の段の人が、電話を割ったことがないから、知らないこと。
いつか三段目に行ったら、このノートを、知能に教えるつもりだった。
教えたら、それはもう、リーナのものではなくなる。
上の段の誰かのものになる。
それでいい、とリーナは思った。
それでいいかどうかは、三段目に行ってから、もう一度考えることにした。
同じころ、ヨナスは団地の集会所の壁に、板を一枚打ち付けた。
古い掲示板の板だった。
就労抽選の当選者の名前を貼り出すための板の、隣に打ち付けた。
そこに、ハティジェから受け取った箱の中身を、一枚ずつ留めていった。
写真のシール。
折りたたんだ紙切れ。
子どもの字のメモ。
自分がポケットに入れた、砂場の女の子の写真も、端のほうに留めた。
板の上に、紙を一枚貼った。
ヨナスの字で、こう書いた。
「回収場から出てきたもの。銅は含まれていません。心当たりのある方は、持っていってください」
団地の人間は、最初、誰も気にしなかった。
配当の日に集会所へ来て、明細の話をして、帰っていった。
板を見て、首をかしげる者もいた。
一か月ほど経った日の午後、三階のシュミットの婆さんが、板の前で立ち止まった。
長いあいだ、立っていた。
それから、震える指で、板の端の紙切れを一枚、外した。
紙切れには、男の字で、短い文が書いてあった。
ヨナスは、留めるときに読んでいた。
「今日も遅くなる。先に寝ていて。愛してる。H」
シュミットの婆さんは、紙切れを胸に押し当てて、声を出さずに泣いた。
ヨナスは、集会所の隅で、それを見ていた。
近寄らなかった。
何も聞かなかった。
紙切れが本当に、婆さんの死んだ旦那のものなのか、ヨナスには分からない。
五十年前の、どこかの誰かが、どこかの誰かに書いた紙切れかもしれない。
婆さんにも、たぶん、分からない。
それでも、婆さんは、紙切れを持って帰った。
その晩、ヨナスはハティジェに電話をかけた。
板のことと、婆さんのことを話した。
電話の向こうで、ハティジェは長いあいだ黙っていた。
それから、言った。
「銅は、含まれてなかったろ」
「はい」
「でも、要る人がいた」
「はい」
「ほらね。暇人には、暇人の仕事があるんだよ」
ハティジェの声は、少し鼻にかかっていた。
ヨナスは、それを指摘しなかった。
秋のはじめ、ハティジェの誕生日に、ベルリンから電話がかかってきた。
年に一回の電話だった。
その日、ハティジェは選別線の昼休みに、建物の裏の煉瓦の壁の前で電話を受けた。
リーナは、少し離れたところで配給のパンをかじっていた。
聞くつもりはなかったが、ハティジェの声は大きかった。
「元気だよ。……ああ、まだ線に立ってる。……辞めないよ。辞めてどうすんのさ」
しばらく、ハティジェは黙って相手の話を聞いていた。
それから、ふいにリーナのほうを見た。
「……ノート?」
リーナは、パンを持つ手を止めた。
「ああ、いるよ。うちの線に、ノートを付けてる子が。……誰に聞いたの。……配分局の、選別線の作業記録?
そんなもんまで上に行ってんのかい」
ハティジェは、電話を耳から少し離して、顔をしかめた。
それからまた耳に当てた。
「で、それをどうしたいの。……見せてほしい。……上の知能に、覚えさせたい」
リーナの心臓が、一つ大きく鳴った。
「あのね」
ハティジェの声が、少し低くなった。
「あの子が付けてるのは、あの子の手と、あたしの手と、隣のミラの手が、何万台も割って覚えたことだよ。
欲しけりゃ、自分で来な。電話、割りに」
電話の向こうで、相手が何か言った。
ハティジェは、声を出して笑った。
「そう。あんたも、一回くらい割ってみな。蝶番のとこ、重いから。……うん。……うん。誕生日、ありがと。
体に気をつけな」
電話を切ると、ハティジェはしばらく、煉瓦の壁にもたれて空を見ていた。
それから、リーナのほうへ歩いてきた。
「聞いてたろ」
「……すみません」
「いいよ。どうせ、あんたのことだし」
ハティジェは、リーナの隣に腰を下ろした。
「うちの息子がね。上の段の知能が、回収の効率で詰まってるんだって。
書いてあることは全部覚えたのに、それ以上が出てこない。
で、作業記録を遡ったら、第三回収場の選別線だけ、拾い直しが妙に少ない。
調べたら、ノートを付けてる子がいるって」
リーナは、自分の膝の上のノートを見た。
三冊目の、ざらざらの表紙。
「……渡したほうが、いいんでしょうか」
「知らないよ。あんたのノートだ」
ハティジェは、いつもの言い方で言った。
「でも、一つだけ。渡すなら、あんたが三段目に上がってから、あんたの名前で渡しな。
上の段の誰かのもんにするんじゃなくて、あんたのもんとして、上に持ってくの。
そしたら、上の段の知能は、蝶番の銅のことを、ベッカーって名前と一緒に覚える」
リーナは、しばらく黙っていた。
「そしたら、銅が足りるようになって、この線が無くなるかもしれない」
「かもね」
「ハティジェさんの仕事も」
「かもね」
ハティジェは、パンの最後のひとかけらを口に入れた。
「そしたら、あたしも集会所で、あんたの父さんと板の番でもするよ。
暇人には暇人の仕事があるって、あたしが言ったんだから」
リーナは、笑った。
笑いながら、ノートを胸に抱えた。
四冊目のノートを買おう、と思った。
渡すものが増えるなら、その前に、もっと書いておきたかった。
次の年の春、ヨナスは、また抽選に申し込んだ。
端末の画面で、名前の横の欄に、印を付けた。
二十一回目だった。
リーナは、選別線で二年目を迎えていた。
手は、父ほどではないが、覚えた。
ノートは、五冊目になっていた。
集会所の板は、二枚に増えていた。
ハティジェの引き出しの残り二つ分と、リーナとミラが分解の台で見つけた分。
団地の外からも、ときどき人が見に来るようになった。
持っていく人は、月に一人か二人だった。
それでよかった。
抽選の結果の日、ヨナスの端末は鳴らなかった。
朝の六時、ヨナスは台所で、コーヒーの粉を量っていた。
端末が鳴らないのを確かめて、粉を量り終えて、湯を沸かした。
階段から、リーナが下りてきた。
作業着に着替えていた。
「鳴った?」
「鳴らなかった」
「そっか」
リーナは、父の淹れたコーヒーを一口飲んで、玄関へ向かった。
出る前に、振り向いた。
「父さん。今日、分解の台で出てきたもの、持って帰るね」
「ああ。銅の無いやつな」
「銅の無いやつ」
リーナは笑って、出ていった。
ヨナスは台所の窓から、娘がバス停へ歩いていくのを見ていた。
その向こうに、灰色の丘が見えた。
丘の向こうの回収場から、朝の最初の重機の音が聞こえてきた。
ヨナスはコーヒーを飲み終えて、カップを洗った。
それから、集会所の鍵を取って、家を出た。




