無断学習
検索窓に自分の名前を打つのは、もうやめようと決めていた。
決めていたのに、柚木灯子の指はまた同じ四文字を打っていた。
「柚木灯子」
候補が下に伸びる。
「柚木灯子 風」
「柚木灯子 風 プロンプト」
「柚木灯子 風 無料」
三つ目で指が止まった。
無料、と来た。
灯子は画面から目を離して、机の端に置いたマグカップを取った。
中のコーヒーはとっくに冷えていて、表面に薄い膜が張っている。
一口飲んで、顔をしかめて、元の場所に戻した。
壁の時計は夜の十一時を回っている。
杉並の古いアパートの二階、六畳の仕事部屋には、液晶タブレットと、画集の詰まった本棚と、
乾ききった水彩の絵皿が一枚だけある。
絵皿は十年以上、使っていない。
それでも捨てられずに、ペン立ての横に置いてある。
もう一度画面を見た。
「無料」の候補を押したのは、確かめたかったからではない。
ただ、見ないでいるほうが気持ちが悪かった。
出てきたのは、共有サイトに並んだ画像の一覧だった。
青い影の少女。
青い影の猫。
青い影の、雨の路地。
どれも、灯子の絵に似ていた。
似ている、という言い方は正しくない。
灯子が十五年かけて手に入れた癖を、そのまま持っていた。
輪郭の外に一ミリだけはみ出す青。
光の当たる側の頬を塗らずに残す白。
髪の先だけ、紙が水を吸ったみたいに滲ませる処理。
どれも、灯子の手が覚えたものだ。
それが、知らない誰かの一行の指示で、何十枚も出てくる。
一覧の一番上の画像には、こう添えてあった。
「柚木灯子っぽさ九割。三秒で出ました」
灯子は画面を閉じなかった。
閉じても、そこにあるのは変わらない。
代わりに、スクロールした。
二百枚ほど下まで行ったところで、指が疲れた。
仕事が減りはじめたのは、四年前だった。
最初に来なくなったのは、ソーシャルゲームのキャラクター原案だった。
一体いくらで受けていた仕事が、ある月からぱったり途絶えた。
問い合わせると、担当者はすまなそうに言った。
「社内で、ある程度は作れるようになってしまって」
ある程度、の中身は聞かなかった。
聞かなくても分かった。
次に来なくなったのは、小説の表紙だった。
出版社の編集者は正直な人で、電話の向こうでため息をついた。
「柚木さんに頼むと、いくらかかるか、上から聞かれるんですよ。
で、答えると、じゃあ柚木さんっぽいのを社内で出せばいいだろうって」
「私っぽいの」
「すみません。僕は反対したんですけど」
灯子は「いえ」と言った。
それ以外に言うことが無かった。
残った仕事は、単価が三分の一になった。
それでも受けた。
断れば、次の月には別の誰かが受ける。
その誰かは、灯子っぽい絵を三秒で出せる。
母の施設の請求書は、毎月二十日に届く。
机の右側に、封を切ったまま積んである。
一番上の一枚に、今月の金額が印刷されている。
灯子はそれを見ないようにして、液晶タブレットの電源を落とした。
画面が黒くなる。
黒い画面に、自分の顔が映った。
四十一歳の、疲れた顔だった。
目の下の影が、青く見えた。
蛍光灯のせいだと思うことにした。
メールが来たのは、その三日後の朝だった。
件名は「キービジュアル制作のご相談(手描き証明付き)」。
差出人は、株式会社ランタンワークス、開発部、志賀颯太。
灯子は布団の中でスマートフォンを見て、それから起き上がって、もう一度見た。
ランタンワークスは、名前だけは知っていた。
スマートフォン向けのゲームを何本か出している、中くらいの会社だ。
ここ二、三年で急に本数が増えた。
増えた理由も、だいたい見当がつく。
本文は丁寧だった。
「突然のご連絡、失礼いたします。
弊社で開発中の新作タイトルのキービジュアルを、柚木様に一枚、描いていただけないかと考えております。
条件として、制作の全工程を録画し、手描きであることの証明を添えて納品していただきたく存じます。
報酬は、下記の額を考えております」
下記の額を見て、灯子は一度スマートフォンを伏せた。
最近受けている仕事の、十倍近かった。
四年前の単価と比べても、三倍はあった。
伏せたスマートフォンを、また表に返した。
数字は変わっていなかった。
本文はまだ続いていた。
「弊社としては、生成物ではない、人の手による一枚をタイトルの顔にしたいと考えております。
詳しいお話を、直接させていただけませんでしょうか」
生成物ではない、人の手による一枚。
最近、その言葉をよく見かける。
「人が描きました」というラベルを付けたパッケージが、売り場の棚で目立つ場所に置かれている。
わざわざラベルにしないと、分からなくなったからだ。
灯子はしばらく画面を見ていた。
キッチンで湯が沸く音がした。
昨夜、タイマーを掛けたまま寝たのだった。
返信を打った。
「お話、伺います」
打ってから、少し迷って、一行だけ足した。
「ただ、なぜ私なのかは教えてください」
送信した。
湯の沸く音が止まった。
ランタンワークスの事務所は、大崎の駅から歩いて十分の、灰色のビルの七階にあった。
エレベーターを降りると、低い音が聞こえた。
耳で聞くというより、足の裏で感じる音だった。
ぶうん、と、途切れずに続いている。
受付に出てきた若い男が、灯子の視線に気づいて頭を下げた。
「すみません、うるさいですよね。隣の敷地が変電所で、その向こうが計算センターなんです。
最初はみんな気にするんですけど、一週間で慣れます」
「慣れるんですか」
「慣れます。あ、志賀です。メールを差し上げた」
志賀颯太は、二十三か四くらいに見えた。
ひょろりと背が高く、襟の伸びたシャツを着て、首から社員証を下げている。
灯子の顔を見るときだけ、少し目が泳いだ。
会議室は狭かった。
机を挟んで座ると、颯太はタブレットを出して、灯子のほうへ向けた。
「新作の、『ひかりの町の郵便屋』というタイトルです。雨の多い港町で、手紙を届ける子どもたちの話で」
画面に、キャラクターの一覧が並んだ。
灯子は黙って見た。
青い影の少年。
青い影の少女。
青い影の、郵便鞄を提げた犬。
颯太がそっと言った。
「……見て分かると思うんですけど、キャラクターの立ち絵は、社内で作っています」
「私っぽいの、ですか」
「はい」
颯太は否定しなかった。
灯子はそれが少し意外だった。
言い訳をされると思っていた。
「全部で二百十四枚あります。立ち絵と、表情差分と、背景と。
それで、タイトルの顔になるキービジュアルだけは、人の手で描いた一枚にしたいんです」
「なぜ」
「売れるからです」
これも、否定しなかった。
「うちの会社、ここ三年で七本出しました。七本とも、生成の素材でほとんど作ってます。
売上は、出すたびに落ちてます。レビューに『どうせAI』って書かれるんです。
書かれると、そこで終わりです。だから上が、一枚でいいから本物を入れろって」
「一枚でいいから」
灯子は言葉を繰り返した。
颯太は、今度は少し困った顔をした。
「言い方が悪かったです。すみません」
「いいえ。正直でいいと思います」
本当にそう思った。
取り繕われるより、よほどいい。
灯子は画面を指で送った。
立ち絵を一枚ずつ見ていく。
似ている。
よく似ている。
ただ、何枚かに一枚、妙なところがあった。
指が六本になりかけている手。
左右で形の違う耳。
灯子なら絶対にやらない影の入れ方。
それを見ると、少しだけ息がしやすくなった。
「メールの最後に、なぜ私なのかって書きました」
「はい」
「答えを、まだ聞いていません」
颯太は膝の上で手を組んだ。
しばらく黙っていた。
足の裏で、変電所の音が続いていた。
「僕が、柚木さんの絵が好きだからです」
灯子は何も言わなかった。
「中学のとき、『雨宿りの森』の表紙を本屋で見ました。あれで、絵を描きはじめたんです。
高校のあいだは、ずっと柚木さんの絵を真似して描いてました。トレースも、たくさんしました。すみません」
「トレースは、練習ならみんなやります」
「……はい」
颯太は顔を上げなかった。
組んだ手に、力が入っているのが見えた。
「それで、美大を受けて、落ちて、専門学校に行って。
でも、卒業するころには、絵の仕事はもうほとんど無くて。今は、ここで出力を選んで、直す仕事をしてます」
「出力を選ぶ」
「生成した絵を、何百枚の中から使えるのを選んで、指とか耳とか、変なところを直すんです。
描くっていうより、消しゴムをかける仕事です」
颯太は少し笑った。
笑ったあとで、笑ったことを後悔したような顔をした。
「だから、今回の企画が出たとき、キービジュアルは柚木さんに頼みたいって、僕が言いました。
上は、柚木さんの名前を出せば話題になるからって、乗りました。そういう順番です」
灯子は画面の立ち絵に目を落とした。
青い影の少女が、郵便鞄を抱えて笑っている。
その青の入れ方は、灯子が二十代の終わりにようやく手に入れたものだった。
この子を描いたのは、誰なのだろう。
目の前の青年ではない。
青年は、選んで、直しただけだ。
では、誰が描いたのか。
「……条件を、もう一度教えてください」
灯子がそう言うと、颯太は初めてまっすぐこちらを見た。
「全工程の録画です。下描きから、仕上げまで。それを、発売のときに公開します。
手で描いたことの証明として」
「期限は」
「六週間です」
灯子は頷いた。
「受けます」
言ってから、請求書の束のことを思った。
思ったことが、顔に出ていなければいいと思った。
帰り道、大崎の駅までの道で、灯子は一度だけ振り返った。
灰色のビルの向こうに、窓の無い大きな建物が見えた。
あれが計算センターなのだろう。
屋上に、白い湯気のようなものが立ちのぼっていた。
冷やすための水が、蒸発しているのかもしれない。
あの中で、青い影の少女が、何枚も何枚も生まれている。
そう考えると、少しだけ気分が悪くなった。
気分が悪くなった理由を、灯子はうまく言葉にできなかった。
盗まれた、というのとは違う。
盗まれたなら、取り返せばいい。
これは、取り返せない。
灯子の癖は、灯子の手に残ったまま、同時に向こうにもある。
二つになってしまったものは、一つに戻らない。
改札を通るとき、スマートフォンが震えた。
颯太からだった。
「本日はありがとうございました。資料として、社内の立ち絵と設定をすべてお送りします。
参考にしていただければ」
添付は、二百十四枚の画像だった。
灯子は電車の中で、それを開かなかった。
次の日曜日、灯子は母の施設へ行った。
施設は、八王子の丘の上にあった。
駅からバスで二十分。
坂の途中で降りて、桜並木の下を歩く。
桜はもう葉ばかりになっていた。
母は、談話室の窓際の椅子に座っていた。
膝に毛布を掛けて、外の駐車場を見ていた。
「お母さん」
声を掛けると、母はゆっくり振り向いた。
灯子の顔を見て、少し考えるような顔をした。
「あら。どちらさま」
「灯子」
「とうこ」
母は口の中で名前を転がした。
転がしても、何も出てこないようだった。
灯子は慣れていた。
慣れているつもりだった。
隣の椅子を引いて座り、鞄から画集を出した。
十年前に出した、灯子の最初の画集だった。
母の部屋の棚に置いてあったのを、前に来たときに見つけて、持ち帰っていた。
表紙が少し日に焼けていた。
「これ、見る?」
母は画集を受け取って、膝の上で開いた。
一枚ずつ、ページをめくった。
青い影の少女。
青い影の猫。
雨の路地。
母は、ページをめくる手をときどき止めた。
止めて、指で絵の表面をなぞった。
なぞるのは、いつも影の部分だった。
「きれいな青ねえ」
「うん」
「こういう青、どこかで見たことがある気がするわ」
灯子は何も言わなかった。
子どものころ、母はよく、台所のテーブルで灯子に絵を描かせた。
チラシの裏に、クレヨンで。
灯子が青ばかり使うので、母は笑って言った。
「灯ちゃんの絵は、いつも雨が降ってるみたいね」
母はたぶん、それを覚えていない。
覚えていないけれど、青だけは覚えている。
どこかで見たことがある気がする、というかたちで。
「誰が描いたのかしらね」
母がそう言った。
灯子は、少し迷った。
私、と言えばいい。
言っても、母はふうんと言うだけだろう。
でも、言いかけて、灯子の口は止まった。
最近、その答えに自信が無かった。
検索窓に四文字を打てば、同じ青が何百枚も出てくる。
あの中の一枚を母に見せても、母はきっと同じように言う。
きれいな青ねえ、と。
「……誰だろうね」
灯子はそう答えた。
母は、そうねえ、と言って、またページをめくった。
窓の外で、駐車場に車が一台入ってきた。
誰かの家族が、面会に来たのだろう。
帰りのバスの中で、灯子は窓に額をつけていた。
誰が描いたのか。
自分の母親に、そう聞かれて、答えられなかった。
それが、無料の二百枚を見たときよりも、ずっとこたえた。
録画用のカメラは、颯太が宅配便で送ってきた。
液晶タブレットの画面と、灯子の手元を、同時に撮れるものだった。
箱の中に、手書きのメモが一枚入っていた。
「お手数をおかけします。止めたいときは、いつでも止めてください。止めた部分は編集で切れます」
灯子はメモを本棚の隅に立てかけて、カメラを机の上に据えた。
赤いランプが点いた。
誰かに見られながら描くのは、初めてではない。
配信で描いていた時期もある。
けれど、証明のために撮られるのは初めてだった。
自分が機械ではないことを、機械で撮る。
少しおかしい、と思った。
おかしいと思いながら、ペンを取った。
最初の一週間は、本番の画面に線を引かなかった。
灯子はいつも、そうしている。
キャンバスの外側、余白の部分に、小さな落書きを何十個も描く。
少年の肩の角度。
郵便鞄の紐の垂れ方。
雨の粒が、傘の縁で跳ねる形。
一つ描いては消し、また描く。
本番に手を入れるのは、手が勝手に動くようになってからだ。
若いころ、先輩の絵描きに笑われたことがある。
「柚木ちゃん、それ時間の無駄じゃない。本番で直せばいいじゃん」
直せる。
直せるが、直した線は、どこかで分かる。
最初から迷わずに引いた線と、迷ってから直した線は、見る人が見れば違う。
灯子はそう信じていた。
信じていたから、余白で迷うことにしていた。
録画を見返すと、最初の三日分は、ほとんど余白の落書きだった。
これで証明になるのだろうか、と灯子は少し笑った。
なるのだろう。
機械は、迷わない。
四日目の夜、灯子は資料のフォルダを開いた。
開かないつもりだった。
開けば、自分の絵に似たものを二百十四枚見ることになる。
それでも、キービジュアルは作品の顔だ。
中に出てくる子どもたちと、顔が違っていては困る。
仕事として、見ないわけにはいかなかった。
一枚目から順に見た。
会議室で見たときより、ずっと細かいところまで見えた。
青い影。
残した白。
髪の先の滲み。
十枚、二十枚と見ていくうちに、灯子は奇妙なことに気づいた。
似ているのは、癖だけではなかった。
灯子が捨てた癖まで、入っていた。
二十代の半ばまで、灯子は目のハイライトを星の形に入れていた。
師匠筋にあたる人に「子どもっぽい」と言われて、やめた。
やめてから十五年、一度も描いていない。
その星のハイライトが、何枚かの立ち絵の目の中に入っていた。
灯子はマグカップを置いた。
中身は、また冷えていた。
さらに見た。
五十枚目あたりで、手が止まった。
背景の一枚。
雨の路地の、郵便ポストの上。
そこに、小さな鳥が一羽、とまっていた。
セキレイだった。
灯子は画面に顔を近づけた。
尾羽の先を、少しだけ上に跳ねさせた描き方。
灯子のセキレイだった。
二十五のころ、灯子は、誰にも見せない練習帳の代わりに、小さなブログをやっていた。
毎日一枚、落書きを上げた。
そこに、ときどきセキレイを描いた。
実家の近くの川にいた鳥で、描くと気持ちが落ち着いた。
仕事の絵には、一度も入れたことがない。
ブログは、見に来る人がほとんどいないまま、三年でやめた。
閉鎖はしていない。
ただ、放ってある。
パスワードも、もう覚えていない。
仕事の絵だけを学習させたなら、このセキレイは出てこない。
出てくるはずがない。
誰かが、あのブログまで拾いに行った。
灯子は長いあいだ画面を見ていた。
変電所の音は、ここまでは聞こえない。
アパートの外を、夜中の配送車が通っていった。
カメラの赤いランプが、まだ点いていた。
灯子は手を伸ばして、録画を止めた。
次の日、灯子は仕事をしなかった。
図書館に行った。
行っても何をするわけでもなかった。
画集の棚の前に立って、昔の画家の名前を指でなぞった。
この人たちの癖も、きっと全部、どこかの機械の中にある。
死んだ人は怒らない。
怒る人がいないから、誰も困らない。
生きている灯子は、困っていた。
怒っているのかどうかは、自分でもよく分からなかった。
帰りに、コンビニで一番安い弁当を買った。
レジの横の棚に、小さな子ども向けの塗り絵帳が並んでいた。
表紙の絵に、見覚えのある青い影が入っていた。
値段は二百円だった。
裏返すと、作画者の名前は書いていなかった。
灯子はそれを一冊買った。
なぜ買ったのか、自分でも分からなかった。
アパートに戻って、弁当を食べて、それから塗り絵帳を開いた。
一ページ目は、傘をさした女の子だった。
線だけの女の子は、灯子の絵に似ていた。
似ているのに、描いたのは誰でもない。
灯子は色鉛筆の箱を出した。
何年も前に、姪にあげそびれたものだった。
青い鉛筆を取って、女の子の頬に影を入れかけて、やめた。
代わりに、黄色を取った。
頬に、黄色い影を入れた。
影が黄色いなんて、おかしい。
おかしいのに、塗ってみると、女の子の顔は少しだけ温かくなった。
夕方の光が、横から当たっているように見えた。
灯子は鉛筆を置いて、しばらくその女の子を見ていた。
それから、スマートフォンで颯太にメッセージを送った。
「一度、会って話をさせてください。仕事の外で」
既読はすぐに付いた。
返事は、二十分後に来た。
「はい。どこへでも伺います」
二十分のあいだに、あの青年は何を考えたのだろう。
灯子はそう思ったが、聞くつもりはなかった。
聞かなくても、会えば分かる。
同じ夜、志賀颯太は、まだ事務所にいた。
七階のフロアには、もう颯太しか残っていなかった。
天井の照明は半分落としてあって、自分の机のまわりだけが明るい。
足の裏で、変電所の音が続いている。
入社して一週間で慣れた音だった。
慣れたはずの音が、今夜はやけに大きく聞こえた。
画面には、生成の管理画面が開いていた。
左の欄に、学習に使った画像のフォルダの名前が並んでいる。
「yuzuki_all」
颯太が自分で付けた名前だった。
中身は、三千二百枚ほどある。
灯子の仕事の絵。
画集からスキャンしたページ。
昔の配信の切り抜き。
そして、もう誰も見ていない小さなブログの、毎日の落書き。
高校生のころ、颯太はそのブログを見つけた。
見つけたとき、宝物を掘り当てたような気がした。
憧れの人が、仕事ではなく、ただ描きたくて描いた絵がそこにあった。
颯太は全部保存した。
毎晩、一枚ずつトレースした。
セキレイも、何羽も描いた。
尾羽の先を少し上に跳ねさせるやり方は、そこで覚えた。
あのころは、それが自分の手を鍛えることだと思っていた。
実際、鍛えられた。
颯太の絵は、灯子の絵に少しずつ似ていった。
似ていくのが、うれしかった。
美大の試験で落ちたとき、講評に一行だけ書いてあった。
「上手いが、誰の絵か分からない」
誰の絵かは、颯太にはよく分かっていた。
柚木灯子の絵だった。
颯太の絵ではなかった。
専門学校を出るころには、絵の仕事は生成に置き換わっていた。
颯太は、描く仕事ではなく、出力を選んで直す仕事に就いた。
描けないわけではない。
描いても、描いた絵に値段がつかない。
それだけのことだった。
二年前、社内で「キャラクターの絵柄を統一したい」という話が出た。
そのとき、颯太は自分のハードディスクから、あのフォルダを出した。
誰かに頼まれたわけではない。
上司は、どこかの絵柄を学習させろと言っただけだ。
どこの絵柄にするかを決めたのは、颯太だった。
一番よく知っている絵だった。
一番好きな絵だった。
それを学習させれば、一番いいものが出ると思った。
実際、いいものが出た。
上司は喜んだ。
二本のゲームが、その絵柄で出た。
売れなかった。
売れなかった理由を、上司は「どうせAIと書かれたから」と言った。
颯太は、別の理由も知っていた。
出てくる絵は、上手いが、誰の絵か分からなかった。
誰の絵でもあって、誰の絵でもなかった。
颯太が美大で言われたのと、同じことだった。
画面の端で、社内のチャットが光った。
上司の井坂からだった。
こんな時間に、と思いながら開いた。
「柚木さんの進み具合どう?録画の途中経過、一回見せてもらえる?
あと、キービジュアル上がったら、それも学習に足しとこう。最新の手が入れば、立ち絵ももっと寄るし」
颯太はしばらく、その文面を見ていた。
それも学習に足しとこう。
指がキーボードの上で止まったまま、動かなかった。
足の裏で、変電所が唸っていた。
この建物の隣で、いまも何千枚という絵が出ている。
どれも、誰の絵でもない。
颯太は返信を打った。
「確認します」
それだけ送って、チャットを閉じた。
閉じたあとで、スマートフォンを見た。
柚木灯子からのメッセージが、そこにあった。
「一度、会って話をさせてください。仕事の外で」
颯太は画面を伏せた。
伏せて、天井を見た。
半分落とした照明が、白くにじんで見えた。
二十分、そうしていた。
それから画面を表に返して、「はい。どこへでも伺います」と打った。
喫茶店は、灯子が選んだ。
阿佐ヶ谷の駅から少し入った、古い店だった。
窓際の席に座ると、外の商店街の雨よけのテントが見えた。
その日は本当に雨が降っていて、テントの縁から水が垂れていた。
颯太は約束の十分前に来た。
灯子はその五分前に来ていた。
注文を済ませると、灯子はタブレットを出して、一枚の画像を颯太のほうへ向けた。
郵便ポストの上の、セキレイだった。
颯太は、その画像を見た瞬間に、顔の色を変えた。
灯子はそれを見て、確かめる手間が省けたと思った。
「このブログのこと、知ってる人は、ほとんどいないの」
灯子はそう言った。
責める声にならないように気をつけた。
気をつけなくても、責める声にはならなかった。
怒りよりも、疲れのほうが大きかった。
「私の仕事の絵を集めて学習させたんなら、まだ分かる。世の中、みんなやってる。
でも、これは仕事の絵じゃない。誰にも見せるつもりで描いてない。毎日、自分のために描いてたの」
「……はい」
「あなた?」
颯太はテーブルの木目を見ていた。
長い沈黙だった。
店の奥で、コーヒー豆を挽く音がした。
「僕です」
颯太は顔を上げた。
目が赤かった。
泣いてはいなかった。
「高校のとき、あのブログを全部保存しました。トレースの練習に使ってました。
それを、二年前に、会社で絵柄を作るときに、そのまま学習に使いました。誰にも頼まれてません。
僕が選びました」
灯子は黙って聞いていた。
「言い訳はしません。でも、一つだけ言わせてください。
悪いことをしてるつもりは、そのときは無かったんです。好きなものを、一番いい形で残せると思ったんです。
柚木さんの絵が、どこにでもあるようになれば、それはいいことだと思ってました」
「どこにでもある」
「はい」
「それで、私の仕事は無くなった」
颯太は答えなかった。
答えようがないことを、灯子も分かっていた。
コーヒーが来た。
灯子は砂糖を入れずに一口飲んだ。
熱かった。
冷めていないコーヒーを飲むのは、久しぶりだった。
「もう一つ、聞いていい?」
「はい」
「上の人は、私のキービジュアルをどうするつもり?」
颯太の手が、カップの取っ手の上で止まった。
灯子は、それで答えが分かった。
「学習に足すのね」
「……昨日、そう言われました。まだ、返事はしてません」
灯子は窓の外を見た。
テントの縁から、水が途切れずに垂れていた。
一滴ずつ落ちているのに、途切れて見えなかった。
「契約は、守ります」
灯子はそう言った。
颯太が驚いた顔をした。
「え」
「受けた仕事は描く。期限までに、手で描いて、録画も付けて納品する。お金が要るのは本当だから」
「でも」
「でもね」
灯子はカップを置いた。
「何を描くかは、私が決める。契約書には、キービジュアル一枚、手描き、録画付きとしか書いてなかった。
絵柄の指定は、無かった」
颯太はしばらく灯子の顔を見ていた。
それから、ゆっくりと意味が分かったような顔をした。
「……無かったです」
「あなたたちが持ってる私は、十五年前から去年までの私でしょう。それは、もう返してもらえない。
だったら、そこに無い私を描くしかない」
灯子は自分で言いながら、それが本当にできるのかどうか、分からなかった。
十五年かけて手に入れた癖を、六週間で捨てられるのか。
捨てたあとに、何か残るのか。
分からなかった。
分からないけれど、黄色い影の女の子のことを思い出した。
二百円の塗り絵帳の、一ページ目の女の子。
あの子の頬は、少しだけ温かかった。
「上の人には、何も言わなくていい。言っても揉めるだけだから。
あなたは、納品されたものを、そのまま出して」
颯太は長いあいだ黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「出します。何があっても」
灯子はそれ以上、何も言わなかった。
雨は、店を出るころにも降っていた。
喫茶店を出たあと、颯太は大崎の事務所へ戻った。
日曜の夜で、フロアには誰もいなかった。
照明を点けずに、自分の机のモニターだけを点けた。
管理画面を開いて、左の欄の「yuzuki_all」を見た。
消そう、と思った。
フォルダを選んで、削除の項目に指を置いた。
そこで止まった。
消して、何になるのか。
颯太は、学習というものの仕組みを、ある程度は知っている。
学習に使った画像を消しても、学習済みのモデルからは消えない。
三千二百枚の絵は、もう画像としてそこにあるのではない。
何億という数字の並びに溶けて、どこにあるとも言えない形で残っている。
セキレイの尾羽の跳ね方も、星のハイライトも、その数字のどこかにある。
どこにあるかは、作った颯太にも分からない。
フォルダを消しても、青い影の少女は明日も生まれる。
颯太は席を立って、フロアの奥の島へ行った。
エンジニアの木戸の机には、付箋がびっしり貼ってあった。
その中の一枚に、木戸の個人の連絡先が書いてあった。
夜中に呼び出すのは気が引けたが、颯太はメッセージを送った。
「特定の画像を、学習済みのモデルから抜く方法ってありますか」
返事は、思ったより早く来た。
木戸は夜型だった。
「抜くって、忘れさせるってこと?研究はあるけど、うちの規模じゃ無理。
完全に抜くなら、その画像を外して、最初から学習し直すしかない。
計算センターを何週間か借り切ることになる。電気代だけで、今度のタイトルの開発費が飛ぶよ」
少しして、もう一通来た。
「なんで?権利関係で何かあった?」
颯太は返事を書きかけて、やめた。
代わりに、「ありがとうございます。また話します」とだけ送った。
窓の外で、計算センターの屋上から白い湯気が上がっていた。
夜でも、止まらない。
あの湯気の下で、今も誰かの絵が溶けて、別の誰かの絵になっている。
何万人の絵描きの、何億枚の絵。
その一人が柚木灯子で、その三千二百枚を選んで入れたのが自分だった。
一から学習し直すには、今度のタイトルの開発費が飛ぶ。
一人の絵描きの三千二百枚のために、それだけの電気を燃やす。
燃やしても、灯子の仕事は戻ってこない。
他の誰かのフォルダは、そのまま残る。
颯太は机に戻って、フォルダの削除の項目を、もう一度見た。
それから、押した。
「yuzuki_all を削除しますか」
はい、を押した。
画面から、フォルダの名前が消えた。
何も変わらなかった。
足の裏で、変電所が唸っていた。
意味の無いことをした、と颯太は思った。
思いながら、自分のハードディスクを机の引き出しから出した。
高校のころから使っている、古い外付けのディスクだった。
中に、同じフォルダの元がある。
颯太はそのフォルダも消した。
十年分のトレースの練習も、一緒に消した。
消し終わってから、上司の井坂への返事を打った。
「柚木さんのキービジュアルは、学習には足しません。理由は、納品のときに説明します」
送信してから、颯太は椅子の背にもたれた。
天井の照明は消えたままだった。
モニターの光だけが、机の上の消しゴムを照らしていた。
使い込んで丸くなった、小さな消しゴムだった。
颯太はそれを手に取って、しばらく指の中で転がした。
描くっていうより、消しゴムをかける仕事です。
灯子に、そう言ったのを思い出した。
消しゴムで消せるのは、紙の上の線だけだった。
残りは、四週間だった。
灯子は、一週目を丸ごと捨てた。
余白に描いた少年の肩も、郵便鞄の紐も、全部消した。
消した部分も、録画には残っている。
それでいいと思った。
迷ったことが残っているほうが、手で描いた証明になる。
新しい余白に、また落書きを描きはじめた。
今度は、青を使わないと決めた。
影は、青以外の色で描く。
輪郭からはみ出さない。
頬の白を残さない。
髪の先を滲ませない。
決めてから描いてみると、手が動かなかった。
ペン先が画面に触れるたびに、手が勝手に青を探した。
二十年近く、そうやって描いてきたのだ。
手は、灯子の考えより先に、灯子の癖を知っている。
一日目は、線を一本も残せなかった。
二日目も、ほとんど同じだった。
三日目、灯子はペンを置いて、台所で皿を洗った。
洗いながら、手が震えているのに気づいた。
怖かった。
青を捨てたら、自分には何も残らないのではないか。
あの二百十四枚のほうが、よほど柚木灯子らしいのではないか。
機械が作った自分のほうが、本物の自分より上手いのではないか。
皿を拭いて、棚に戻して、それから本棚の隅に立てかけたメモを見た。
「止めたいときは、いつでも止めてください」
止めてもいい、と書いてある。
止めても、誰も責めない。
請求書の束は減らないけれど、止めることはできる。
灯子は液晶タブレットの前に戻らなかった。
代わりに、ペン立ての横の、乾ききった水彩の絵皿を取った。
十年以上、使っていない絵皿だった。
表面に、固まった絵の具がこびりついている。
青と、茶色と、黄色。
水を一滴垂らすと、黄色がゆっくり溶けた。
灯子は、古い筆を出した。
スケッチブックの残りの一枚を開いた。
画面ではなく、紙に描いた。
描いたのは、セキレイだった。
尾羽の先を、跳ねさせなかった。
まっすぐ下ろした。
紙の上で、鳥は少し重たそうに見えた。
重たそうなまま、ポストの上ではなく、濡れた石の上に立っていた。
灯子はそれを、しばらく眺めた。
上手くはなかった。
けれど、どこにも無い鳥だった。
あのフォルダの三千二百枚のどこにも、この鳥はいない。
その夜から、手が動くようになった。
キービジュアルの構図は、最後の二週間で決まった。
雨上がりの港町。
郵便鞄を提げた少年と少女が、坂の上から海を見下ろしている。
空は割れて、夕方の光が横から差している。
影は、黄色と橙で描いた。
光が当たる側の頬を、白く残さず、薄く色を置いた。
髪の先は滲ませず、一本ずつ線で切った。
目のハイライトは、小さな四角にした。
窓から入った光が、そのまま目に映っているように。
少女の肩に、セキレイが一羽とまっている。
尾羽はまっすぐ下りている。
描きながら、灯子は自分の手が知らない線を引くのを、何度も見た。
余白で試して、消して、また試して。
本番の画面に線を置くのは、手が迷わなくなってからにした。
それはいつもの灯子のやり方で、変えなかった。
変えたのは、何を描くかだけだった。
締め切りの前の晩、灯子は仕上げの最後の一筆を入れた。
時計は、朝の四時を回っていた。
窓の外が、うっすら明るくなりかけていた。
画面の中の少年と少女は、灯子の知っている子どもたちではなかった。
十五年描いてきた子どもたちとは、顔の作りが違った。
影の色も、線の切り方も違った。
それでも、描いたのは灯子だった。
一本残らず、灯子の手が引いた線だった。
カメラの赤いランプが点いていた。
灯子はそれを見て、少し笑った。
「以上です」
誰に言うでもなく、そう言った。
それから録画を止めた。
録画は、そのままでは証明にならなかった。
颯太から、そう連絡が来たのは、描き上げた日の昼だった。
「すみません、言い忘れていました。
録画は、第三者の審査を通さないと『手描き』のラベルが付けられない決まりで。
制作証明協会というところに、柚木さんご本人が行っていただく必要があります」
灯子は四時間しか寝ていなかった。
それでも、その日の夕方には、新宿の雑居ビルの五階にいた。
制作証明協会の受付は、歯医者の待合室に似ていた。
白い壁に、白い椅子が並んでいる。
座っているのは、灯子と同じくらいの年の人が多かった。
膝の上に、描いた絵の入ったケースを抱えている人もいた。
誰も喋らなかった。
名前を呼ばれて、奥の小部屋に通された。
机の向こうに、若い女の審査員が座っていた。
胸の名札には「審査第二課」とだけあった。
「録画データをお預かりします。あと、制作に使われたペンと、液晶タブレットの記録も」
「記録」
「筆圧と、ペン先の傾きと、線を引く速さの記録です。タブレットの中に残っています」
灯子は、言われたとおりにタブレットを渡した。
審査員は、それを机の上の機械につないだ。
画面に、細かい波のような線が何本も流れはじめた。
「最近、録画だけだと、録画ごと生成されてしまうんです」
審査員は画面から目を離さずに言った。
「描いているように見える手の映像も、作れてしまうので。でも、筆圧の揺れは、まだ真似が難しい。
人の手は、同じ線を二度と同じ強さでは引けないので」
「同じ強さで引けないのが、証明になるんですか」
「はい。ぶれているのが、人の証明です」
審査員は、そこで初めて灯子の顔を見た。
少しだけ笑った。
自分でも、おかしなことを言っていると思ったのかもしれない。
審査は、一時間ほどかかった。
灯子は小部屋の椅子に座って、画面を流れる波を見ていた。
最初の三日分は、波が細かく途切れていた。
余白の落書きを、描いては消していたときだ。
真ん中あたりで、波がほとんど止まっている日が何日かあった。
手が動かなかった日だ。
最後の二週間は、波が長く続いていた。
自分の迷いが、波の形で残っていた。
機械が、灯子の迷いを測っていた。
「……はい、大丈夫です」
審査員が画面を閉じた。
「手描きと認めます。ラベルの発行は、明日になります」
「ありがとうございます」
灯子は頭を下げて、タブレットを受け取った。
部屋を出るとき、審査員が後ろから言った。
「あの」
振り向くと、審査員は少し迷うような顔をしていた。
「途中で、何日か手が止まっていましたよね。記録が、ほとんど平らで」
「はい」
「何があったんですか。いえ、審査とは関係ないんですけど」
灯子は少し考えた。
「絵柄を、変えてたんです」
「変えてた」
「前の絵柄は、もう、私のじゃなくなったので」
審査員は、何か言いかけて、やめた。
それから、小さく頷いた。
「……私も、昔、描いてたんです。学生のころ」
灯子は何も言わなかった。
審査員も、それ以上は言わなかった。
エレベーターで一階まで降りるあいだ、灯子は、手が止まっていた日の平らな波のことを考えていた。
描けなかった日も、証明の一部になる。
人であることの証明に、描けなかったことが入っている。
ビルを出ると、新宿の空はもう暗かった。
大きな画面の広告に、青い影の女の子が映っていた。
どこかの飲料の広告だった。
灯子は、今度は目を逸らさなかった。
逸らさずに、その前を通り過ぎた。
納品の日、颯太は会議室で、灯子の絵を上司の井坂に見せた。
井坂は四十代の半ばで、日焼けした顔をしていた。
画面を見た瞬間、眉を寄せた。
「……これ、柚木さんの絵?」
「柚木さんの絵です。録画もあります」
颯太は録画の早送りを見せた。
余白の落書き。
消された一週目。
皿を洗いに行って、戻らない数時間。
紙に描いたセキレイを、カメラの前にかざす手。
最後の四時の一筆。
井坂は腕を組んで見ていた。
「いや、手で描いたのは分かるよ。でも、これ、柚木灯子の絵柄じゃないでしょ。
うちの立ち絵と、全然合わないじゃん」
「契約書には、絵柄の指定はありません」
「そういう話じゃなくてさ」
「そういう話です」
颯太の声は、自分で思っていたより大きく出た。
井坂が少し驚いた顔をした。
「立ち絵を柚木さんの絵柄にしたのは、僕です。学習させたのも、僕です。柚木さんの許可は、取ってません」
「……それは、今さら言っても」
「今さらです。分かってます。だから、このキービジュアルは、このまま出させてください。
学習にも、足さないでください」
井坂は長いあいだ黙っていた。
足の裏で、変電所の音がしていた。
「売れなかったら、お前のせいにするぞ」
「はい」
「本当にするぞ」
「はい」
井坂はため息をついて、画面をもう一度見た。
坂の上の少年と少女。
黄色い影。
肩のセキレイ。
「……まあ、いい絵ではあるんだよな」
井坂はそう言って、会議室を出ていった。
颯太は、閉じたドアに向かって、長く頭を下げた。
その夜、颯太は灯子に電話をかけた。
メッセージではなく、電話にした。
声で言わなければいけない気がした。
灯子は、三回目の呼び出し音で出た。
後ろで、水の流れる音がしていた。
皿を洗っていたらしかった。
「通りました。そのまま出します。学習にも、足しません」
電話の向こうで、水の音が止まった。
「……そう」
「上司には、全部話しました。僕が学習させたことも」
「怒られた?」
「売れなかったら、僕のせいにするそうです」
灯子は、少し笑ったようだった。
息の音だけで、そう分かった。
「売れないと思う」
「僕も、そう思います」
「でも、いい絵でしょう」
颯太は、会議室の画面の中の、坂の上の二人を思い出した。
黄色い影。
肩のセキレイ。
「いい絵です」
「なら、いい」
灯子はそう言って、また水を出した。
皿を洗う音が、電話越しに戻ってきた。
「おやすみなさい、志賀さん」
「おやすみなさい」
電話が切れたあとも、颯太は、しばらく耳に端末を当てていた。
水の音の名残が、耳の奥に残っていた。
『ひかりの町の郵便屋』は、その年の秋に出た。
売れなかった。
正確に言えば、ランタンワークスの前の七本と、だいたい同じくらいしか売れなかった。
レビューの欄には、いつもの言葉が並んだ。
「立ち絵、どうせAI」
「キービジュアルだけ別人。詐欺では」
「パッケージと中身が違いすぎる」
灯子はそれを、一度だけ読んだ。
読んで、閉じた。
思っていたより、何も感じなかった。
感じないようにしたのかもしれない。
ただ、何日かして、スマートフォンに知らない人からのメッセージが届いた。
「ひかりの町の郵便屋のキービジュアルを描かれた柚木灯子さんですか。録画を全部見ました。
途中で、皿を洗いに行って戻ってこないところで、なぜか泣きました。絵柄が変わったのは、なぜですか。
前の絵も好きでしたが、今の絵のほうが、あったかいです」
差出人は、地方の高校生だった。
美術部に入っていて、絵が描けなくなっていると書いてあった。
何を描いても、どこかで見た絵になってしまうから、と。
灯子は、返事を書くまでに三日かかった。
「絵柄が変わったのは、前の絵柄を、もう私一人のものにしておけなくなったからです。
それで、新しいのを探しました。まだ探している途中です。描けないときは、紙の端っこで練習してください。
本番に線を引くのは、手が迷わなくなってからでいいです。
どこかで見た絵になってしまっても、それを描いたのはあなたです」
送信してから、灯子は最後の一行を消したくなった。
偉そうだと思った。
でも、もう送ってしまったので、そのままにした。
同じ週、灯子のところに、二つ仕事が来た。
一つは、小さな出版社からだった。
詩集の表紙を描いてほしい、と書いてあった。
「生成でも作れることは分かっています。
でも、あのキービジュアルの黄色い影を見て、この詩集はこの人の手でなければと思いました。
予算は多くありません」
予算は、確かに多くなかった。
四年前の単価の、半分ほどだった。
灯子は受けた。
もう一つは、生成の会社からだった。
「柚木灯子さんの新しい絵柄を、正式な許諾のうえで学習させていただけないか」
という内容だった。
許諾料は、詩集の表紙の二十倍だった。
灯子はその申し出を、一晩、机の上に置いておいた。
請求書の束の、隣に置いた。
朝になって、断りの返事を書いた。
断った理由は、自分でもうまく説明できなかった。
倫理とか、誇りとか、そういう大きな言葉で考えたわけではない。
ただ、今の絵柄は、まだ途中だった。
途中のものを売ったら、もうそこから先へ行けない気がした。
請求書の束は、減らなかった。
その月、灯子は、母の施設の近くの喫茶店で、週に三日、皿を洗う仕事を始めた。
絵を描く時間は減った。
減った時間で描く絵は、前より一枚一枚が重たくなった。
冬のはじめ、颯太から連絡が来た。
会ったのは、また阿佐ヶ谷の喫茶店だった。
颯太は、少し痩せていた。
「会社、辞めました」
座るなり、颯太はそう言った。
「売れなかったから?」
「いえ、売れなかったのは、いつもどおりです。辞めたのは、僕の都合です」
颯太は鞄から、一冊のスケッチブックを出した。
使い込まれて、角がすり切れていた。
「見てもらえますか。下手ですけど」
灯子はスケッチブックを受け取って、開いた。
鳥が描いてあった。
雀や、鳩や、烏。
公園や駅のホームで、見たまま描いたのだと分かった。
線は硬くて、迷いが多かった。
何度も消した跡が、紙の上に灰色の雲みたいに残っていた。
灯子の絵には、似ていなかった。
「高校のときから、ずっと柚木さんの真似しかしてなかったので。自分の線が、分からないんです。
だから、見たものを見たまま描く練習から、やり直してます」
「仕事は」
「今、倉庫で働いてます。夜勤です。昼間、描いてます」
灯子はページをめくった。
最後のほうに、セキレイが一羽いた。
尾羽の先は、跳ねてもいなかったし、まっすぐでもなかった。
描いた颯太の手が迷って、どっちつかずになっていた。
不格好な鳥だった。
灯子は、それを長く見ていた。
「このセキレイ」
「……すみません。つい」
「謝らなくていい。これ、どこで描いたの」
「多摩川です。河原にいました。本物を見るのは、初めてでした」
颯太は少し恥ずかしそうに笑った。
「柚木さんの絵で、何百回も描いたのに。本物は、ずっと尾っぽを振ってて、全然止まってくれないんです」
灯子は笑った。
自分でも驚くくらい、声を出して笑った。
喫茶店の奥で、豆を挽く音が一瞬止まった。
「そうなの。止まらないの。だから、あの跳ねた尾羽は、私の嘘」
「嘘」
「動いてるのを、一枚に閉じ込めるための嘘。それを、あなたたちの機械は、本物だと思って覚えた」
颯太は黙って、自分のスケッチブックのセキレイを見た。
「……だったら、僕のこれも、嘘ですか」
「あなたのは、迷ってる。迷ってる線は、嘘がつけないの」
灯子はスケッチブックを閉じて、颯太に返した。
「紙の端っこで、たくさん迷って。本番の線は、そのあとでいい」
颯太は、スケッチブックを両手で受け取った。
何か言いかけて、やめて、頭を下げた。
窓の外は、晴れていた。
商店街のテントの縁から、昨夜の雨の残りが、ときどき一滴だけ落ちた。
十二月の半ば、灯子は、十三年ぶりにあのブログを開いた。
パスワードは、覚えていなかった。
登録してあったメールアドレスは、まだ生きていた。
再設定の手続きをすると、五分で入れた。
管理画面は、十三年前のままだった。
最後の記事の日付は、二〇二一年の三月。
落書きのセキレイが一羽、川の石の上にとまっている。
尾羽の先が、少し上に跳ねている。
閲覧数の欄を見て、灯子は少し笑った。
最後の記事の閲覧数は、四だった。
十三年で、四人。
そのうちの一人は、たぶん高校生の颯太だ。
残りの三人のどれかは、絵を集めて回る機械だったのかもしれない。
灯子は、新しい記事を書いた。
本文は無し。
紙に描いた水彩の絵を、一枚だけ撮って上げた。
濡れた石の上の、尾羽をまっすぐ下ろしたセキレイ。
颯太の不格好なセキレイを見た夜に、もう一度描き直したものだった。
投稿の前に、一行だけ説明を書こうとした。
「この絵を学習に使わないでください」
打ってから、消した。
書いても、読むのは人だけだ。
機械は、読まずに持っていく。
代わりに、こう書いた。
「十三年ぶりに描きました。セキレイは止まりません」
投稿を押した。
閲覧数の欄に、ゼロと出た。
灯子は画面を閉じなかった。
しばらく、ゼロのままの数字を見ていた。
いつか、この数字が一つ増える。
増えたのが人か機械か、灯子には見分けられない。
見分けられないまま、また描く。
それが、この先の自分の仕事なのだと思った。
その年の暮れ、灯子は、母の施設に面会に行った。
母はもう、灯子の名前を思い出せない日のほうが多かった。
その日も、灯子を見て、「どちらさま」と言った。
灯子は、描き上げたばかりの詩集の表紙の刷り見本を、母に見せた。
夜の川辺に、女の子が一人立っている絵だった。
影は、黄色と橙で描いてあった。
母はしばらく絵を見ていた。
それから、指で、女の子の頬をなぞった。
「あったかい色ねえ」
「うん」
「誰が描いたの」
灯子は少し迷って、答えた。
「私」
母は、ふうん、と言って、また絵を見た。
灯子のことは、やっぱり思い出さなかった。
でも、絵からは目を離さなかった。
面会の時間が終わるまで、母はずっと、その女の子の頬を指でなぞっていた。
帰りの電車で、灯子はスマートフォンを出した。
検索窓に指を置いた。
四文字を打ちかけて、やめた。
代わりに、メモ帳を開いた。
次に描きたいものを、一行だけ書いた。
「止まらないセキレイ」
電車が多摩川を渡った。
窓の下の河原に、何か小さな鳥が見えた気がした。
確かめる前に、電車は鉄橋を渡りきった。




