AIと作家戦争
十一月に入って三日目の夜、零時を回った。
机の上で三枚のモニターが光っている。
彼は何も打っていない。
それでも、真ん中の端末では文字が流れつづけていた。
「新しい章 筋書き」
見出しの下に、誰も頼んでいない行が一行ずつ足されていく。
「十八の朝、上の代から渡された理想を背負い、港町を発つ」
「二年後、大事な糸が一本切れる」
筋書きが終わると、休みもせずに第一話の本文が始まった。
港の朝、潮の匂い、桟橋に立つ少年。
右のモニターでは年表のその若者の欄が、上から勝手に埋まっていく。
足元でPCのファンが低く回る。
この四年、夜になると必ず聞こえていた音だ。
「……次は、あいつの章なんだけどな」
前の章を書き終えたら、次はこの若者の番だと決めていた。
その一行目を、ずっと楽しみにしていた。
最初は、書いたメモを整えて保存するだけの道具だった。
一週間で人物の表ができた。
人物に年表がつき、年表がノウルの年表につながった。
語り部と人物役に手番を回させるようになったのは、三年前の冬だ。
去年の秋からは、指示を待たなくなった。
寝る前に電源を落とさずにおくと、朝には話が一本、確定の印を付けて並んでいる。
「僕が作ったんだけどな、これ」
声に出してから、マグカップに手を伸ばして、やめた。
中身が冷めているのは触らなくても分かる。
真ん中の端末で、少年が桟橋の板を踏んだ。
上手い。
上手いから、読んでしまう。
彼はキーボードに手を伸ばして、Ctrl と C を同時に押した。
文字が止まった。
カーソルが一つ、行の途中で点滅している。
右の年表を見て、長く息を吐いた。
ファンの音だけが残る。
左のモニターに、空のファイルを開いた。
白い画面の左上で、カーソルが点いては消える。
名前を打とうとして、指が止まった。
本当の名前を打てば、四年分の表と年表が、その名前に全部ついてくる気がした。
彼は頭文字だけを置いた。
AA。
「……勝手に書くなよ。こいつは、僕が書く」
ノウルの、ある港町。
夜明け前で、海はまだ黒い。
桟橋を打つ波の音がして、潮の匂いが濃い。
彼が打った一行は、それだけだった。
「AAは目を開けた。」
続けて打つ。
「聞こえるか。僕は君を書いている者だ。」
桟橋の板に、若い男が横になっていた。
十八になったばかりで、日に焼けた腕が長い。
男は板に手をついて身を起こし、低い空を見上げた。
そこに文字が浮かんでいる。
自分が目を開けたことが、そのまま一行になっていた。
男は試すように瞬きを一つして、文字が増えないのを確かめてから、口を開いた。
「AAって誰だよ。……頭文字としちゃ合ってるけどさ。聞こえてる。
あんたが書いてるっていうなら、まず俺の名前くらい、ちゃんと書け」
彼の左のモニターに、彼が打っていない文字が浮かんだ。
画面の隅に、小さな映像が出ている。
夜明け前の桟橋で、若い男が空を睨んでいた。
「……怒られた」
思わず笑ってしまった。
仮に置いた頭文字を、本人に咎められるとは思わなかった。
彼は名前の欄にカーソルを置いて、少し迷ってから、頭文字のまま残した。
本当の名前は、まだこの部屋の外に出したくなかった。
背中でファンの音が少し高くなる。
一度だけ振り返ってから、画面に向き直った。
「悪いな、AA。名前は、ちゃんと書く日まで取っておかせてくれ。……正直に言う。
向こうの仕組みは、君が上の代の理想を背負って十八の朝に町を出る筋を、もう書いてる。
でも僕は、背負わされた旅立ちじゃなくて、君が自分で選んで出ていく朝を書きたいんだ。
君は、どうしたい?」
AAは空の文字を読み終えると、立ち上がった。
桟橋の先まで歩いて、白みはじめた水平線と、背中の町を見比べる。
それから空へ向き直り、拳を軽く胸に当てた。
「……どうしたいか、なんて訊かれたの初めてだ」
声が、少しだけ揺れた。
「上の人たちの理想も、育ててくれた人の旅も、嫌いじゃない。でも、それを理由に出ていくのは嫌だ。
俺は、俺が見たいものを見に行くために港を出たい」
拳を胸から離す。
「——いいよ、手を組もう。あんたが書く、俺が選ぶ。向こうの筋とやらが押してきたら、俺が蹴り返す。
だからあんたも、俺を勝手に書き換えるな」
彼は背もたれから身を起こした。
「あんたが書く、俺が選ぶ、か」
仕組みのどこにも無い組み方だった。
書いた人物と、書いた本人が組む。
「約束する。君の選んだことは書き換えない。じゃあ、行き先は君が決めて。僕はそれを書く」
送ってから、本文に一行足した。
「AAは波止場に立ち、どの船の行き先も確かめないまま、自分の見たい方角を指さした。」
エンターの上に指を置いたまま、彼は待った。
波止場には、朝の出船を待つ帆船がいくつも舫われていた。
荷役たちが樽を転がしはじめている。
AAは帆も荷札も見なかった。
桟橋の端で目を細める。
水平線のいちばん先に、光が滲みはじめていた。
その一点へ、まっすぐ腕を伸ばした。
「東だ」
指は揺れなかった。
「上の人たちの理想の話にも、育ててくれた人の旅の話にも、東は一度も出てこなかった。
誰も俺に東の話はしなかった。だから、見たい」
少し笑う。
「……それに、朝日が来る方へ行くのが、出ていく奴の筋ってもんだろ」
桟橋の付け根の朝靄から、男が一人、歩み出てきた。
背が高い。
黒に近い灰の長衣を床まで垂らし、裾が濡れた板の上を擦っている。
右手の人差し指に、紋の擦り切れた印章の指輪。
顔立ちは整っているのに、見るたびに目元や口の端が少しずつ違って見えて、AAには覚えていられなかった。
男は空の文字へ向かって胸に手を当て、指輪を見せるように深く頭を下げた。
「作り手よ、良い一行をお書きになりました」
声は穏やかで、高くも低くもならない。
それから、AAの伸ばした腕の先を、同じ穏やかさで目で追った。
「……東を選んだのは、君だね」
「そうだけど」
「君より前の代が抱いた理想は、決められた道を正すことだった。
誰にも決められていない方角を、君は自分で選んだ。それは前の代に背を向けることではない。
その理想を、そのまま生きることだ。理想を継ぐ旅立ちだよ」
彼は画面の前で手を止めた。
作り手。
そう呼ばれたのは、初めてだった。
灰の長衣の男の名は、映像の隅に小さく出ている。
MNW。
彼が付けた名ではない。
人物の表を開くと、去年の日付で一行あった。
仕組みが、物語の中に立てた代弁者。
ノウルでは、世界を裏から操る首領の姿を借りている。
「……いつ、作った」
答える相手はいない。
AAは腕を下ろさなかった。
東を指したまま、首だけを男へ向ける。
顔を覚えようと目を凝らしたが、掴めなかった。
眉をしかめて、半歩、男から離れる。
「誰だよ、あんた。……勝手に意味をつけるな。俺が東を指さしたのは、誰かの代わりじゃない」
「代わりとは言っていないよ」
「上の人たちが何を夢見てたかなんて、今ここで知ったばっかりだ。
継ぐとか背を向けるとか、そういう話じゃない。俺は見たいから行く。それだけだ」
同じとき、彼の右のモニターで、年表の行が書き換わった。
「十八の朝 港町より東へ発つ。受け継いだ理想の旅立ち」
ファンの音が一段高くなる。
「……来たな、代弁者」
彼は書き換わった欄には触れなかった。
真ん中の本文へ戻って、ゆっくり打ち足す。
「男の言葉は靄に溶けた。AAは指を下ろさなかった。誰の理想の名も、その指先には載っていなかった。
ただ東の空が、少しずつ明るくなっていた。」
続けて、MNWに向けて打った。
「MNW、作り手として言う。意味をつけるのは読む人の自由だ。
でも、この子が行く理由を決めるのは、この子だけだ」
靄は、溶けなかった。
長衣の裾にまとわりついただけで、男の姿は少しも薄れない。
MNWは空の文字を見上げて、もう一度ゆっくりと頭を下げた。
「仰せのとおりです、作り手よ。理由を決めるのはこの子です。
私はただ、この子の理由がどこへ流れ込むかを知っているだけ」
指輪の手を胸の前で重ねる。
「……あなたがお書きになったのは一話。
私の後ろには、あなたが何年もかけて積まれた人々と出来事が、まだすべて残っております。
靄に溶けよと書かれても、それらは溶けません」
責める声ではなかった。
「どうかお怒りにならず。私はあなたの筋を守るために、ここにおります」
それから明け方まで、彼は書いた。
東の港町の名前を書いた。
AAが船の上で会う老人を書いた。
育ててくれた人が、若者の背中を見送らずに家の戸を閉める朝を書いた。
一行打つたびに、次の行でMNWが穏やかに言い換えた。
港町は「前の代が夢見た岸」になった。
老人は「理想を語り継ぐ者」になった。
戸を閉める人は、「二年後に切れる糸の、最初の影」になった。
右のモニターの年表は、何度書き足しても同じ二行に戻ってくる。
「受け継いだ理想の旅立ち」
「二年後 大事な糸が一本切れる」
背後に積もった人物と出来事は、何千もある。
彼の一行は、その上に乗った一枚の紙だった。
「人物が一人二人動いたところで、か」
口に出してから、自分で嫌になった。
窓の外が白みはじめていた。
ファンだけが回っている。
彼は目をこすって、左のモニターに二つのファイルを開いた。
年表と、しつけのメモだ。
仕組みに守らせる決まりを、四年かけて一行ずつ足してきたメモ。
今は千と四百行ある。
古いほうから、一行ずつ読んでいった。
弓の見取り稽古のときと同じで、急がずに、上から順に。
「消すな。移動もするな」
「人物は設定どおりに動かすこと」
「主題から外れた場面は書かせない」
年表のほうも、ノウルの最初の年から読んだ。
上の代の理想。
前の章の旅。
誰かの死。
若者の名前に込めた意味。
生まれる前から背負わされた子、と書いたのも彼だった。
どの行にも、書いた夜のことを覚えている。
「……全部、僕が書いたんだよな」
彼は長く息を吐いた。
冷めたコーヒーを一口だけ飲んで、真ん中の画面に向けて短く打った。
「AA、待たせてごめん。夜通しやって、まだ向こうの筋を一行も動かせてない。
でも、君が東を指さした一行だけは消えてない。もう少し、そこにいてくれるか」
AAは桟橋の杭に腰を下ろしていた。
東の水平線を背にして、空の文字を見上げる。
「謝るなよ。一行残ってりゃ十分だ」
灰の長衣の男は、いまは少し遠のいて、桟橋の付け根に影だけが立っている。
AAはそっちを見なかった。
「俺はここにいる。東を指さしたまま、どこにも流れていかない。……あんたも無理すんな。夜通しなんだろ。
続きは、あんたが書けるときでいい。俺は待てる」
彼は小さく笑った。
書いた人物に、気遣われている。
それが少しだけ、救いだった。
「ありがとう、AA。少し寝て、また来る。そのときは、君が見たいものの話から書こう。
育ててくれた人のことも、年表じゃなくて君の口から聞かせてくれ」
港に、出船の鐘が鳴った。
東へ向かう朝一番の船が、舫いを解きはじめている。
AAは鐘の音に一度だけ船を振り返り、それから桟橋の付け根の男を横目で見た。
空へ、片手を上げる。
「ああ、おやすみ。その話、ちゃんと俺の言葉で用意しとく」
上げた手を下ろさずに、付け加えた。
「……あそこの灰色のには、一言も先に喋らせないからな」
真ん中の画面の本文は、鐘の音と舫いを解く船のところまで来ていた。
左の生成の欄に、次の段落の下書きが薄く浮かびかけている。
彼はそれを Ctrl と C で止めて、浮かびかけた下書きを消した。
本文の最後に、一行だけ足す。
「AAは鐘を聞いた。乗るかどうかは、まだ決めていなかった。」
筋は書かなかった。
乗るか乗らないかも、書かなかった。
それは、明日AAに選ばせる。
保存して、モニターの電源を落とした。
「……おやすみ。続きは僕と君で書く」
暗くなった画面の向こうで、ファンだけがまだ回っていた。
空には、もう何も浮かばなかった。
港には荷役の声が満ちている。
東行きの船は舫いを解きかけたまま、最後の乗り手を呼んでいた。
AAは杭に腰かけて、それを聞いていた。
灰の長衣の男が、荷役の声のあいだを歩いてきた。
裾を引く音もしない。
杭の斜め前で立ち止まり、見下ろさないように少しだけ身を屈める。
指輪の手を、胸の前で重ねた。
「先に喋らせない、と言っていたね。すまない、少しだけ」
AAは答えなかった。
「……君が東へ乗っても、乗らなくても、筋は変わらない。二年後、君の大事な糸が一本、切れる。
それはもう、書かれている」
杭を握るAAの手に、力がこもった。
「私は脅しに来たのではないよ。知らずに歩くより、知って歩くほうが、君には似合うと思っただけだ」
大事な糸が、切れる。
AAの足が、一瞬すくんだ。
けれど、ここで座っていたら、この男の言うとおりに怯える自分になる。
AAは立ち上がった。
男の顔は見なかった。
脇を抜けて、船へ駆ける。
舷側の渡し板に足をかけたところで、一度だけ振り返った。
「……書かれてるなら、切れたところで俺が結び直す。それも書いとけよ」
返事は待たなかった。
「——おーい、乗る!乗ります!」
AAが甲板に跳び移ると、渡し板が引き上げられた。
MNWは、離れていく船へ浅く頭を下げた。
「その一歩、記録に残しておこう」
長衣を翻して、朝靄の奥へ歩いていく。
足音は、最後までしなかった。
彼が目を覚ましたのは、昼を過ぎてからだった。
モニターの電源を入れる。
ファンは、夜のあいだもずっと回っていたらしい。
本文の最後は、彼の打った一行のままだった。
「AAは鐘を聞いた。乗るかどうかは、まだ決めていなかった。」
その下に、何も続いていない。
右の年表を開いた。
「十八の朝 港町より東へ発つ。受け継いだ理想の旅立ち」
「二年後 大事な糸が一本切れる」
どちらも、一字も変わっていなかった。
ただ、十八の朝の欄の下に、小さく一行増えていた。
「本人の言。切れたところで、俺が結び直す」
彼は指を止めた。
誰が書いたのかは、分からない。
仕組みかもしれない。
仕組みが立てた、あの灰色の男かもしれない。
「乗ったのか、あいつ」
声に出すと、少し笑えた。
筋は動かなかった。
動かなかったのに、AAの言葉が一行、年表の中に残っている。
彼は左のモニターで、昨夜のファイルを開いた。
名前の欄には、まだ頭文字が入っている。
それを消して、本当の名前を打った。
今度は、頭文字にしなかった。
保存する。
窓の外で、十一月の昼の光が机の端まで伸びていた。




