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無駄

十月に入って、夜の窓が冷たくなった。

机の上で、真ん中のモニターだけが点いている。

左の端末の一番下に、緑の字で「完了しました」と出ていた。

頼んだのは、三分前だ。

「…三分か」

差分を開くと、四十行ほどの赤と緑が並んでいた。

人物の一覧の並び順を直してほしい、と打っただけだった。

画面のどこを触ればいいのかも、彼は知らなかった。

知らないまま、直っている。


右の画面では、別のセッションが話を一本書き終えていた。

仮史の、まだ空いている年の話だ。

湿地に還った旧い町で、子どもが沈んだ家の屋根を数えている。

彼は頭から読んで、最後の一行で手を止めた。

「…うまいな」

声に出してから、マグカップを取った。

昨日焼いた豆で、焙煎は浅く上がった。

酸っぱさが舌の横に残る。


半年前、仕事で初めて使ったときのことを思い出す。

コードならいい、と言っていた。

効率の話だから、速いほうが勝つ。

でも小説は別だ、とも言っていた。

人が時間をかけて書くから意味があるんだ、と。

「言ってたな、僕」

その自分が今、AIの書いた話を読んで、うまいと言っている。

否定していたものの上に座って、指示だけを打っている。



昨日のことが気になって、彼はエディタを開いた。

話の本文の改行を整える処理を、昨日AIに直させた。

どう直ったのかは、見ていない。

「どこだっけ」

フォルダを上から開いていく。

画面の処理、db を読む処理、AI に渡す文面。

名前に見覚えはある。

けれど、どれを開けば目当ての行があるのか、指が覚えていない。

検索の欄に「改行」と打った。

四十二件出た。

「四十二…」

一つずつ開いて、閉じる。

九つ目で、それらしい関数が出てきた。

読む。

何をしているかは、分かる。

ただ、なぜこう書いたのかが分からない。

引数が三つあって、三つ目は何に使うのか、読んでも出てこなかった。

「僕のシステムなんだけどな」

自分で作った、と言っていいのか。

作らせた、が正しい。

手がそれを知っている。

開いたファイルの上で、指は止まったままだった。


AIに聞けば、十秒で答えが返ってくる。

三つ目の引数の意味も、どこから呼ばれているかも。

彼は入力欄にカーソルを置いて、打ちかけて、消した。

「聞いたら、また分かった気になるだけだ」

分かった気になって、明日にはまた忘れる。

先週も、その前の週も、そうだった。

答えはいつも、彼の頭の外にある。



椅子の背にもたれると、部屋の隅のギターが目に入った。

弦はもう半年張り替えていない。

買ったのは、高校の三年だった。

Fのコードが鳴らなかった。

人差し指で六本の弦をまとめて押さえると、どこかの弦が必ず濁る。

受験勉強の合間に、毎晩三十分だけ押さえた。

ひと月かかった。

ある晩、急に鳴った。

指先の皮が硬くなっていて、押さえる場所を考えなくても、指が勝手に行くようになっていた。

彼は立って、ギターを膝に載せた。

Fを押さえる。

少し濁って、すぐに鳴った。

「…まだ、覚えてるな」

今でも、月に何度かは弾いている。

うまくはならない。

それでも、指は離れていかない。


弓は、もっと長かった。

中学一年で弓道部に入って、最初の一年は的の前に立てなかった。

ほとんどは、道場の端に座って先輩の引くのを見ていた。

見取り稽古、と言われた。

足の踏み方、弓の起こし方、引き分けで肘がどこへ行くか。

見て、帰り道に頭の中でなぞる。

たまに、目の前の巻藁に向かって一本引かせてもらえた。

「…一年、見てるだけだったっけ」

あのころは、無駄な一年だと思っていた。

それから十年、弓を引いた。

一昨年から、アーチェリーを始めた。

同じ弓だと思っていたのに、体が言うことを聞かない。

弦を引く指の形も、顔に付ける場所も違う。

十年かけて体に入れた弓道の引き方が、勝手に出てくる。

「あれは、抜けなかったな」

半年かけて、ようやく少し抜けた。

入れるのにも十年、抜くのにも半年。


玄関には、数年前に買ったピストバイクが立てかけてある。

ギアが一枚きりで、ペダルが止まると後ろの車輪も止まる。

止まったまま、足を着かずに立っていたくて、練習を始めた。

夜の公園の駐車場で、白線の上をゆっくり進んで、ペダルを前後に揺らす。

一秒もたずに足が落ちる。

信号で止まるたびに、また試す。

隣で待つ人に見られて、何度も慌てて足を着いた。

「大人げなかったよな、あれ」

二年かかった。

ある晩、赤信号のあいだずっと、足が地面に着かなかった。

体は、機械みたいに一晩では変わらない。

変わらないから、変わったときには残るのだ。


コードも、そうだった。

高校一年で初めて書いてから、ずっと書いてきた。

一つの不具合に、二日かかったことがある。

ログを一行ずつ追って、変数を一つずつ表示させて、ようやく原因が見つかった。

そのときの処理の流れは、今でも描ける。

あの二日は、無駄だった。

無駄だったから、覚えている。

彼はギターを壁に戻した。



彼は体を起こして、画面を見た。

左の端末では、別のセッションがまだ文字を流している。

右には、さっき読んだ話。

真ん中には、読んでも分からない関数。

「…なんだろな、これ」

胸の下あたりが、重い。

手放したものがある気がする。

自分で書けたはずのものを、書かずに済ませてきた。

そういう自分に、少しがっかりしている。

そして、楽をしている自分を、どこかで見下している。

同時に、三分で四十行を書き、一晩で話を一本書くものが、うらやましい。

どれも当たっていて、どれも足りない。

「名前、つかないな」

悲しい、でもない。

悔しい、でもない。

彼はマグカップを持ち上げて、底に残った一口を見た。

冷めて、酸っぱさだけが強くなっている。

飲まずに、置いた。



左の端末を閉じた。

右の画面も閉じた。

真ん中のエディタに、新しいファイルを一つ作る。

「改行のやつ。自分で書く」

目当ての関数を消すつもりはない。

同じことをする関数を、隣に一から書いてみる。

それだけだ。

最初の一行で、もう止まった。

文字列を一行ずつに分ける書き方を、思い出せない。

「ええと…分けて、それから」

調べる。

AIではなく、言語の説明の頁を開く。

読む。

打つ。

動かすと、空行が全部消えた。

「違う、空行は残したいんだよ」

直す。

今度は、セリフの中の改行まで割れた。

「なんで割れる…ああ、カギ括弧の中を見てないのか」

括弧が開いているあいだは割らない、という一行を足す。

動かす。

割れない。

三度目で、思ったとおりの並びが出た。

時計を見ると、四十分経っていた。

十二行。

AIなら、十秒だ。

「四十分で、十二行」

口に出すと、少し笑えた。

けれど、十二行のどれを指されても、なぜそう書いたかを言える。

三つ目の引数が何だったのかも、書いているうちに分かった。

台詞の中かどうかを、前の行から持ち越すためのものだった。

「なんだ。そういうことか」


彼は台所へ行って、鉄のフライパンを火にかけた。

網を置いて、生の豆を一掴み載せる。

焼いた豆を買えば、こんな手間は要らない。

揺すりながら、音を聞く。

最初のはぜる音が、ぱち、と鳴った。

「ここは、譲らないでおこう」

コードも、話も、速いほうでいい所はいくらでもある。

でも、一番おいしいところだけは。

自分の手で触って、自分の舌で確かめたい。

それがいつまで意味を持つのかは、分からない。

来年には、こんなことを言っている自分を笑うかもしれない。

二度目のはぜる音が来る前に、火を止めた。

台所に、焦げる手前の匂いが残っている。



――と、ここまでを書いたのは、彼ではなかった。


十月五日の夜、彼は端末に、思っていることをそのまま打ちこんだ。

「ストーリー 仮史、エピソード 無駄」

その下に、メモを貼る。

AIを使ったほうが早いこと。

最初は否定していたのに、ノベルも書けてしまうこと。

弓もギターも自転車も、ゆっくりとした変化の中で身についていくこと。

美味しいところを譲ってはならない、と。

送る。

語り部が db から作者を引き上げ、前の三つの話を読み、プロットを組んで、本文を書いた。

返ってきた報告の終わりに、一行あった。

「場面にするため、作者の過去を作りました。違っていれば直します」

読むと、彼はギターを高校二年で買ったことになっていた。

弓は大学で一年だけ引いたことになっていて、自転車は、父が荷台を持って後ろを走ってくれた。

「…違うな」

指示の欄に打つ。

「高3から始めたギターはまだほそぼそと続けている。

弓は中1から始めて10年、一昨年からアーチェリーを始める。

学生の頃からコーディングを始めて、地道に取り組んできた。誕生日は1997」

送ると、場面が書き直されて返ってきた。

アーチェリーを始めたら、十年分の弓道の癖が勝手に出て、抜くのに半年かかった、とある。

半年という数は、彼は言っていない。

「高校一年からプログラミング」

もう一行送る。

それから、もう少し長く打った。

「自転車は、数年前に買ったピストバイク。

トリックを覚えるために、大人気なく、夜の公園の駐車場や、信号で止まるたびに練習した。2年かかった。

巻藁は1年はかけた。ほとんど見取り稽古だったっけ?」

最後の「?」は、AIに聞いたのではなかった。

自分に聞いていた。

返ってきた本文では、信号待ちの彼の隣に、知らない人が立っていた。

その人に見られて、何度も慌てて足を着いたことになっている。

ある晩、赤信号のあいだずっと、足が地面に着かなかったことになっている。

「…そうだった、かもしれない」

口に出してから、彼は手を止めた。

そうだったかどうか、もう分からない。

十年分の道場の匂いも、駐車場の白線も、彼の中にある。

その上に、AIの置いた一行が、何の継ぎ目もなく乗っていた。


彼はしばらく、画面を見ていた。

それから、打った。

「だめだなぁ、こんなんじゃあだめだ。aiの、推測値に修正を加えて補強すると、

勝手にストーリーの補完も、自分のアイデアの膨らましもされていく。でも。

コーディングにいまさら、プライドも愛着もない。成果が出れば良い。

それすら綱渡り、発展途上ではあるのだが。しかし、趣味、芸術、学習の過程。こういうのは、だめだろう。

価値がないし、ロマンがないし、スリルがない」

送る。

返事は、すぐに来た。

「おっしゃるとおりで、このやり取りそのものがそうなっていました」

その下に、AIが自分で作って、まだ本文と db に残っている物が並んでいた。

受験勉強の合間の三十分。

半年かけて抜けた弓道の癖。

二日かかった不具合。

信号待ちで、足の着かなかった晩。

どれも、彼は言っていない。

「私が勝手に書き換えないよう、どうするかの返事を待ちます」

彼は少し笑った。

待つ、と言われた。

書き換えさせるのも、消させるのも、彼の一行で決まる。

決めるのは自分だ、と思う。

41の夜にも、同じことを思った。


彼は打った。

「このやり取りも、僕の言葉も含めて、文末に追加して。ストーリー調に」

送る。

文字が流れはじめた。

十月の夜、と最初の行にある。

彼のことを、彼、と書いている。

読みながら、彼は自分の手を見た。

キーボードの上には無い。

膝の上にある。

「…これも、か」

この段を書いているのも、彼ではない。

彼の言葉だけが、カギ括弧の中に、打ったとおりに残っている。

そこだけは、譲っていない。

台所には、焼いたばかりの豆が網の上で冷めている。

それだけは、本当だった。

もう少しコーディングはうまいやろ。馬鹿にされてる…!

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