天より上から
夜だった。
三枚のモニターのうち、真ん中だけが点いている。
端末の入力欄で、カーソルが点滅していた。
男はしばらくそれを見てから、一行だけ打った。
「20歳のノアを呼んできて」
送る。
語り部が、db の底から一人の人物を引き上げてくる。
生まれは一一五七二年の三月二十五日。
二十歳なら、一一五九二年。
旅の途中。
翼はもう、まともではない頃だ。
街道沿いの宿の裏手に、石組みの井戸があった。
初夏の日が傾きかけて、井戸の縁の石がまだ温かい。
その縁に、ノアが腰かけていた。
膝の上に剣を伏せ、刃こぼれを指でなぞっている。
白に近い淡い金の髪を、後ろで一つに結っていた。
外套の下で、背中の荷が少し傾いでいる。
細長い荷だ。
折れた骨を布で巻き直した、母の翼だった。
足音に気づいて、ノアが顔を上げた。
薄い灰青の目が、男を一度だけ測る。
「……誰」
目はすぐ刃へ戻った。
指は止まらない。
もう一言だけ、足す。
「奇跡の型の話なら、聞く。それ以外なら、ガレナが中にいる。うるさいほうだから、すぐ分かる」
男は、少し迷ってから口を開いた。
「ミレアはどこにいる?」
剣をなぞっていた指が止まった。
ノアは刃を膝に伏せ、はじめてまっすぐ男を見た。
さっきより、目の色が冷えていた。
「……なんで、その名前を知ってる」
答えを待たずに立ち上がる。
外套の裾が揺れて、背中の荷がかすかに軋んだ。
「灯改めの人? それとも、天の」
少し黙る。
井戸の水面に目を落として、声がわずかに幼くなった。
「母さんは、関係ない。ボクが出てきた。だから、母さんのところには行かないで」
顔を上げたときには、もう元の短い声に戻っている。
「用があるなら、ボクに言って」
母は、ヴァレンツァの長屋に残っている。
灯改めは自分が引き受けると言って、翼の無いまま、娘を送り出した。
ノアはそれを、見知らぬ男に一言も明かさなかった。
「ごめんなさい、悪気はなかった」
男は言った。
「確かめたいことがあって、天界の更に上から来た。翼の調子はどう?」
ノアはしばらく黙って、男の顔を見ていた。
詫びられたことより、「天界の更に上」という言葉のほうを測っているようだった。
「……天より上に、何かあるの」
男が答える前に、小さく首を振る。
「いい。母さんに用じゃないなら、それで」
井戸の縁に腰を戻した。
剣を鞘に納めて、背中に手を回し、外套の上から荷に触れる。
布越しに、骨の継ぎ目を確かめる手つきだった。
「平気」
いつもの一言だった。
けれど手は、背中から離れない。
「……じゃない。片方の骨、二本折れてる。巻いて、繋いではいる。飛べる。けど、まっすぐ上がらない。
右に流れる」
指先で、巻いた布の端をつまむ。
「母さんの翼だから。ボクのじゃない。直し方、知らない。都の人なら知ってるんだろうけど」
少しだけ、口の端が下がった。
「借りたまま、ボロボロにしてる。……返すときに、ごめんって言う」
顔を上げる。
「キミ、確かめたいことって、なに」
男は、確かめたかったことを並べた。
「今が何年か、自分が何歳か、父親が誰か…」
ノアは眉をわずかに寄せた。
妙な問いだ、という顔をした。
それでも、一つずつ答えた。
「一五九二年。夏の手前」
「二十。春に、なった。旅の途中で。ガレナが勝手に祝って、ラウロが酒をこぼした」
そこで言葉が止まった。
三つ目の問いのところで、手が膝の上で組まれる。
「父親は、知らない」
声はいつもどおり短い。
けれど、少し間が空いた。
「覚えてない。母さんは話さなかった。都のことも、灯りのことも、『あとで話す』って言って、それきり。
聞く前に、ボクが出てきたから」
井戸の水面を見たまま、ぽつりと足す。
「天の人だったのか、地上の人なのかも知らない。……生きてるかどうかも」
顔を上げて、男を見た。
灰青の目に、さっきとは違う色が浮かんでいた。
警戒より、探る色だった。
「キミ、天より上から来たって言った。確かめたいって」
「……知ってるの。ボクの父親」
男は知っていた。
名も、いま何をしているかも、この先どうなるかも。
「今は教えられない」
男は言った。
「知らないことも、重要です」
ノアは口を開きかけて、閉じた。
「……そう」
それ以上は聞かなかった。
拳を一度だけ握って、ほどく。
言えないことは黙る。
自分がいつもそうしているから、相手にもそれを許す顔だった。
「助けたい人はいるか?」
ノアは、しばらく答えなかった。
宿の窓から、ガレナの笑い声と、それを叱るイルウェンの声が漏れてくる。
「いる」
短く言って、指を折った。
「『奇跡』を植えられた人たち。
代価なしで病気が治るって言われて、腕に型を入れられて、あとから印が出る。
印が出たら、灯改めにも、村の人にも追われる。治ったのに」
「この前の村で、一人、間に合わなかった。十かそこらの子。ボクらが着いたときには、もう」
そこで言葉を切った。
理由も、気持ちも言わない。
手だけが、また背中の翼の布を探した。
「……救えるのと救えないのがある。分かってる。
分かってるけど、型を配ってるやつを止めれば、少なくとも増えない」
少し間を置いて、声がわずかに低くなる。
「あと、一人」
「助けたい、って言っていいのか分からない人。ボクを二回、叩きのめした人。
十五のとき、坂の下で、代価も取らずに子どもを治してた。……かっこいいと思った」
名前は、言わなかった。
「次に会ったら、たぶん、戦う。止める。それで、どうなるかは知らない」
顔を上げる。
「母さんは、助けなくていい。強いから。……ボクが助けられるほうだったし」
男は、その一人の名を知っていた。
次に会う場所も、そこで何が起きるかも。
決めたのは、男だった。
「でも、戦わなければならないか。つらいな」
口に出してから、もう一つ足した。
「もし、僕がそれを強いているのだとしたら、怒るか?」
ノアは、すぐには答えなかった。
男の顔を、長く見ていた。
天より上から来た、と言った相手。
父のことを知っていて、言わない相手。
その言葉の意味を、ゆっくり組み立てているようだった。
「……キミが」
それだけ言って、視線を井戸に落とす。
「つらいとか、言わないで。言うなら、最初から」
途中で、口を閉じた。
言いかけたことを、飲み込んだ顔だった。
しばらくして、短く言った。
「怒る」
膝の上で、指を一本立てる。
「あの子のぶん。間に合わなかったぶんは、怒る。ボクのためじゃなくて」
それから、首を横に振った。
「でも、ボクのことは、怒らない」
「止められても行くし、行けって言われなくても行く。
あの人のところには、たぶん誰に言われなくても行った。
……キミが決めたのかもしれないけど、歩くのはボク。剣を抜くのも、ボク」
立ち上がる。
外套の下で、折れた翼が小さく鳴った。
「だから、ボクのにする。キミのせいにはしない」
宿の戸のほうへ一歩踏み出して、振り返らずに足を止める。
「……ひとつだけ」
声が、少しだけ子どもに戻った。
「最後に、母さんに会わせて。翼、返して、ごめんって言うから。それだけは」
答えを待たずに、戸を開けた。
中から、ガレナの声がした。
「ノア! どこ行ってたの!」
戸が閉まる。
井戸の縁に、温かさだけが残った。
そうしてノアは去っていった。
男は、画面の前に戻っていた。
カーソルが、また点滅している。
怒る、と言われた。
ボクのにする、とも言われた。
どちらも、男が書いた言葉ではなかった。
男は、少し考えてから、もう一行打った。
「語り部さん。この件は記録して、仮史に登録しておいて」




