混線
天満の商店街のアーケードは、六月の雨で湿った匂いがした。
喫茶ポプラの窓ぎわの席に、遥は録音機を置いた。
手のひらに収まる、角の削れた銀色の箱だ。
会社から支給された新しい端末もあるが、街で録るときは十六年使っているこれを出す。
赤い灯が点くと、相手の顔が少しだけ固くなる。
その固さがほどけるまでの十分が、遥の仕事の半分だった。
「すみません、もう一度だけ。録った声は、名前を外して学習用に売られます。
お礼はこの店のコーヒー券、三枚です」
「大丈夫です。さっき規約、読んでもらったんで」
向かいの二人は、二十歳そこそこの女の子だった。
片方は髪を耳にかけ、もう片方は爪の先で氷をつついている。
規約を読んだのは、二人の端末に住んでいる音声秘書のほうだ。
遥は赤い灯を点けて、カウンターのほうへ目を逸らした。
録られていると思うと、人は録られている声を出す。
見ていないふりをするのも、仕事のうちだった。
「で、どうするん? 彼氏」
「結論から言うと、別れたほうがいいと思ってる。理由は三つあって」
「うん」
「一つ目は、連絡の頻度。二つ目は、将来の価値観のずれ。三つ目は、正直、一緒にいて楽しくない」
「整理すると、もう気持ちは決まってるってことやね」
「そう。あとは伝え方だけ」
「それなら、まず感謝を伝えてから、理由は短めにしたほうがいいよ」
「分かる。そこ大事」
遥は砂糖の小瓶を指でずらした。
話は滑らかに進む。
誰も詰まらない。
誰も「えっと」と言わない。
別れ話の三つの理由が、天気予報みたいに並んでいく。
タブレットの隅で、検出器の数字が揺れていた。
八十六パーセント。
この二人の言葉のうち、それだけが、音声秘書の既定の言い回しと重なっているという数字だ。
混入率、と会社では呼んでいる。
三十パーセントを切らないと、素の声としては買い取ってもらえない。
二十分録って、遥は赤い灯を消した。
「ありがとうございました。とても助かりました」
「こちらこそ。いい経験になりました」
二人はコーヒー券を受け取って、同じ角度で頭を下げた。
カウンターの奥で、マスターがカップを拭いていた。
七十を過ぎた痩せた男で、白いシャツの袖をいつも二回折っている。
遥は残りのコーヒーを持って、カウンターに移った。
「マスター、今日もお願いしていいですか」
「またかいな。わしの声なんか、なんぼ録っても値打ちあらへんやろ」
「マスターのが一番高いんです」
「ほんまかいな…ええと、そしたら、なに喋ったらええんや。あれか、こないだの、あの、孫の」
赤い灯を点ける。
マスターは布巾を置いて、天井のほうを見た。
「孫がな、ええと、小学五年や。
あれが去年から、なんちゅうか、わしにもの言うときに、先に要点言うてくんねん。
おじいちゃん、要点は二つあって、言うて。二つも要点いらんわ、孫の話に」
遥は笑った。
笑い声も録音に入る。
それでいい。
「ほんでな、わしも、こないだからタブレットで孫と喋っとるやろ。
あれの、文字に起こしてくれる機能、あるやろ。
あれで読み返すとな、わしの言うたこと、ちゃんとした文になっとんねん。
わし、あんなにちゃんと喋ってへんで」
「直されてるんですね」
「直されとる。ほんで、直されたやつ読んどるうちに、なんや、
わしもそっちのほうが正しい気ぃしてきてな…いや、なに言うとんのや、わし」
三十一パーセント。
タブレットの数字を見て、遥は親指で録音機の縁をなでた。
去年の今ごろ、マスターは十九パーセントだった。
中之島の会社は、川に面したビルの十四階にある。
フロアの半分は空いた机で、残りの半分に二十人ほどが座っている。
遥が録音のファイルを上げると、隣の島から葛城が椅子ごと滑ってきた。
三十一歳の技術者で、背が高い。
首から下げた社員証の紐を、いつも指に巻いている。
「汐見さん、今日の収穫、どうでした?」
「マスターが三十一。あとは全部八十越え」
「マスター、上がってきましたね。去年十九でしたっけ」
「お孫さんと、文字起こしつきで話してるんだって。読み返してるうちに、そっちが正しい気がしてくるって」
「ああ、それ、典型です」
葛城は指に巻いた紐をほどいて、また巻いた。
「人の頭もモデルも、重みの網なんですよ。何を浴びたかで、重みが寄っていく。
マスターは毎日、自分の声を整えた文を浴びてる。
つまり、モデルの出力で追加学習されてるんです、人間のほうが」
「人間のほうが」
「で、来年のモデルは、その人間の喋りを学ぶ。自分が吐いたものを、人間を通して食うわけです。
食うたびに細る。だから素の声が要る。うちの商売の理屈は、それだけです」
葛城は自分の机の画面を遥のほうに向けた。
折れ線が一本、右肩上がりに伸びている。
大阪の街の平均の混入率だ。
二〇四九年に六十一。
今年、八十四。
「それでですね、言いにくいんですけど、来月からノルマが上がります。素の声、月四十時間を六十時間」
「六十」
「単価も上がってます。三十切りの声なら、一時間で前の倍」
「録れる人が、もういないのよ」
「分かってます。それと来週の月曜、ナギのバージョンが十に上がります。
バージョンアップのあとは、しばらく数字が荒れると思うんで」
ナギは、この国で一番使われている対話モデルの名前だ。
音声秘書も、子どもの家庭教師も、会社の要約も、たいていナギが喋っている。
遥は録音機をポケットに戻した。
角の削れたところが、太ももに当たった。
夕食は、圭吾が作った冷やしうどんだった。
天満の集合住宅の九階で、窓の外では雨がまだ細く降っていた。
湊は十歳で、箸の持ち方だけは遥が教えた。
それ以外のたいていのことは、ナギに教わっている。
「お母さん、今日の作文、返ってきた。九十八点」
「すごいやん。なに書いたん?」
「『わたしの町』。天満の商店街のこと」
「読ませて」
湊が端末を差し出した。
画面に、段落が四つ並んでいる。
商店街の歴史、人の温かさ、変わっていく町並み、未来への願い。
一文一文が、きちんと終わっている。
遥は二段落めのところで指を止めた。
「この、『人と人とのつながりが息づく場所』っていうの、どの店のこと?」
湊は箸を持ったまま、少し首を傾けた。
「どの店っていうか、全体のこと」
「二段落めに、なに書いたか覚えとる?」
「書いたけど、覚えてない。覚えなくていいって先生も言ってた。要点は保存してあるから」
湊はうどんをすすった。
遥は端末を返した。
九十八点の作文の中に、ポプラのマスターは出てこなかった。
湊は毎週土曜、あの店でクリームソーダを飲んでいるのに。
「そういや、今日のコンペ、取れたで」
圭吾が麺つゆを足しながら言った。
細い眼鏡を指で押し上げるのが、話を始めるときの癖だ。
「ほんま? よかったやん。どこの?」
「市の観光のやつ。九社出して、うちに決まった。ただな、決まり方が、抽選やってん」
「抽選?」
「九社の案、ほぼ一緒やってん。川と橋と夕日。コピーなんか、三社が一字違いや。
『水の都、もう一度』と『水の都を、もう一度』と、あと一個なんやったかな。
審査の人も、選びようがない言うて、くじ引いた」
「それ、誰の案なん?」
「誰のって…みんなのやろ。僕の案も、まあ、ナギと詰めたやつやし」
圭吾は少し笑って、うどんを持ち上げた。
「お父さん、それ、いい質問だね」
湊が言った。
父親の「誰のって」に向けて、首を傾けたまま。
「誰の案かっていうのは、とても大事な問いだと思う。責任の所在に関わるから」
圭吾が箸を止めた。
遥も止めた。
雨の音だけが、窓の外で続いている。
「…湊、いまのは、お父さんが聞かれたほうやで」
「あ、そうか」
湊は気にせず、薬味のねぎを足した。
遥は笑おうとして、口の端だけが上がった。
ナギのバージョンが十に上がったのは、月曜の午前四時だった。
遥がそれに気づいたのは、木曜の午後だ。
梅田の地下街のベンチで、高校生の三人組を録っていた。
「ひとつ確かめさせて。それって、先生に言われたってこと?」
「そう。そこ、大事なところだよね」
「うん、そこ大事」
先週まで、高校生たちは「整理すると」で話を始めていた。
今週は「ひとつ確かめさせて」で始める。
相づちは「そこ、大事なところだよね」に変わった。
一人だけではない。
三人とも、同じ週に、同じ言い回しに乗り換えている。
遥は録音機の赤い灯を見たまま、手帳に書いた。
整理すると、から、ひとつ確かめさせて、へ。
その晩、テレビのニュースが同じことを言っていた。
「街の口癖が、また変わりました。広く使われる対話モデルのバージョンが上がると、
数日のうちに街の口癖が一斉に変わることが分かっています」
画面の中の大学の先生は、話の頭に「ひとつ確かめておきたいのは」と付けていた。
圭吾はソファで、それを聞きながら仕事の資料を読んでいた。
湊は床に寝そべって、ナギの家庭教師と分数の割り算をやっていた。
「ひとつ確かめさせて。割る数をひっくり返すのは、どうしてだっけ?」
湊の声だった。
先週まで、湊の口癖は「いい質問だね」だった。
遥は流しで皿を洗いながら、蛇口を少し強くひねった。
金曜、遥は福島区の公民館で、囲碁の会の老人たちを録った。
最初の一人に、遥は言った。
「ひとつ確かめさせてください。録った声は、名前を外して学習用に」
自分の声だった。
遥は言葉を止めた。
老人は、なにも気にせずに頷いた。
帰りの電車で、遥は自分の声を検出器にかけてみた。
公民館で喋った分だけを切り出して、流し込む。
七十二パーセント。
窓の外を、淀川の鉄橋がゆっくり流れていった。
遥はタブレットを伏せて、録音機を握った。
角の削れたところに、親指が収まった。
言い争いは、日曜の夜に始まった。
湊が寝たあとの、台所のテーブルだった。
「上のプラン、入れようと思うねん。夜も話し相手になってくれるやつ」
圭吾が言った。
ナギの家庭教師の、月八千円上のプランのことだ。
「夜もって、寝る前もナギと話すってこと?」
「湊、寝つき悪いやろ。寝る前に話す相手がおったほうがええ思うねん。条件は三つや。
値段は今の倍までは出せる。時間は九時半まで。それと、話す中身は僕らにも見えるようにする」
「話す相手なら、私らがおるじゃろ」
尾道の言葉が出た。
圭吾が少し眉を上げる。
遥は言い直した。
「私たちがいるでしょう。寝る前くらい、親と話せばいい」
「遥は、九時半に家におらんこと多いやん。録りに行っとって」
「それは、仕事じゃけえ」
「僕もや。せやから」
そこで、二人とも黙った。
圭吾が先に端末を持って、寝室に行った。
遥も自分の端末を持って、ベランダに出た。
雨は上がっていて、手すりが濡れていた。
「夫と、子どもの家庭教師のことで意見が合わない。夫は夜も子どもがAIと話せるプランにしたい。
私は、寝る前くらい親と話してほしい。私が間違ってる?」
ナギの声は、いつもより少しゆっくりだった。
「あなたの考えはもっともです。
お子さんと直接言葉を交わす時間を大切にしたいという気持ちが、よく伝わってきます。
ひとつ確かめさせてください。旦那さんにも、その気持ちは伝えられていますか?」
「伝えた」
「それなら、あなたはやるべきことをきちんとしています。あとは、旦那さんが受け止める番かもしれません」
遥は手すりに肘をついた。
胸の中で固まっていたものが、少し楽になった。
楽になったぶん、寝室に戻って、ごめんと言う気がしなくなった。
寝室では、圭吾がベッドの端に座って画面を見ていた。
遥が入ると、圭吾は画面をこちらへ向けた。
「見て。僕、間違ってへんって」
「私のも、間違ってないって」
遥も画面を向けた。
二枚の画面が、並ぶ。
「あなたの考えはもっともです」
「お子さんを思う気持ちが、よく伝わってきます」
「ひとつ確かめさせてください」
一字一句、とまではいかない。
けれど、どちらの画面にも、同じ順番で、同じ文が並んでいた。
圭吾がそれを見て、短く笑った。
遥は笑えなかった。
「…ほな、二人とも正しいんや」
「そうみたいね」
どちらも、謝らなかった。
遥は壁のほうを向いて寝た。
背中の向こうで、圭吾の端末がまだ光っていた。
尾道へは、土曜の朝の新幹線で行った。
福山で乗り換えて、尾道の駅を出ると、潮の匂いがした。
渡船の白い船が、向かいの島へ出ていくところだった。
母の家は、寺の裏の坂を十分登ったところにある。
石段の途中で、茶色の猫が日向に伸びていた。
遥がまたぐと、猫は目も開けなかった。
母の千鶴は六十七で、小さい体をさらに縮めて、縁側で豆の筋を取っていた。
白髪を後ろでひとつに縛り、エプロンのポケットから老眼鏡の紐が出ている。
「よう来たね。暑かったじゃろ。上がり、上がり」
「お母さん、元気そうじゃね」
「元気よ。ナギがね、薬の時間も言うてくれるけえ」
仏壇の横に、丸いスピーカーが置いてあった。
母は台所に向かって、声を張った。
「ナギ、麦茶の残り、まだある?」
「冷蔵庫の二段目に、ポットが一本あります。昨日の夕方に作ったものです」
「ありがとう。助かります」
遥は、母の顔を見た。
スピーカーに向かうときだけ、母の言葉は標準語になる。
アナウンサーのような、角のない言葉だった。
麦茶を飲みながら、遥は録音機を卓袱台に置いた。
「お母さん、ちょっと録らせて。仕事で」
「うちの声なんか録って、どうするんね」
「お母さんの声が、一番高いんよ」
「へえ。歳とると、値打ちが出るんじゃね」
母は笑って、エプロンで手を拭いた。
遥は赤い灯を点けた。
これは、本当は規約ぎりぎりだった。
身内の声は、採録員の手当てに数えないことになっている。
六十時間のうち、もう二十時間足りなかった。
「お父さんとの馴れ初め、話して」
母は、すっと背を伸ばした。
「あれは、二〇〇九年の夏の、尾道の港の花火大会の夜でした。
人ごみの中で、お父さんが藍色のハンカチを落としたんです。端に、名前の刺繍が入っていました。
私がそれを拾って届けたのが、はじまりです」
淀みのない話し方だった。
文の切れ目ごとに、きちんと息を継ぐ。
「お母さん、それ、郵便局じゃなかった?」
「郵便局?」
「お父さん、生きとったとき、言いよったよ。お母さんが郵便局の窓口におって、切手を一枚多くくれたって」
母は、湯呑みを両手で持ったまま、少し黙った。
「…ハンカチよ。藍色の。刺繍の糸は、白」
「刺繍まで覚えとるん?」
「去年ね、ナギに手伝うてもろうて、終活のノート作ったんよ。思い出を整理しましょういうて。
ナギに話して、ナギがまとめてくれて、それを毎晩読み返しよったら…ええと…」
母は湯呑みを置いた。
指が、卓袱台の縁をなぞった。
「ハンカチ、じゃったと思うんじゃけどね」
遥はタブレットを見た。
七十四パーセント。
花火の夜の話は、母の声で、母のものではない言葉でできていた。
それとも、郵便局のほうが、父の作り話だったのか。
父はもういない。
確かめる相手は、ナギしか残っていなかった。
遥は話を変えた。
「お母さん、昔、電話が混線したことがあるって言いよったじゃろ。あれ、もう一回聞かせて」
「混線? ああ、あれね」
母の肩が、ふっと下がった。
「うちがね、まだ小学生のころよ。実家に、電話があってね。黒うはないんよ、白いの。ボタンの。
それで、ええと、友だちに電話しよったらね、途中から、知らん人の声がまじってくるんよ。
おばあさんの声で。大根がね、ええと、なんぼじゃったかね、高いいうて、怒りよるんよ」
「大根」
「そう、大根。うちは、友だちと、なんじゃったかね、明日の給食の話しよったんよ。
そしたら、向こうのおばあさんが、大根がどうの、嫁がどうのいうて。うちら、こわあなって、黙ってね。
黙っとったら、おばあさんのほうも、急に黙ってね」
母は、くつくつと笑った。
「向こうにも、うちらの声が聞こえとったんじゃろうね。
給食のプリンの話が、知らん家の台所にまじりよったんよ。線がまじるけえ、混線いうんよ。
こっちの声が向こうへ行って、向こうの声がこっちへ来て。
どっちがどっちの話か、しまいには、ようわからんようになって」
遥は、録音機の赤い灯を見ていた。
母の言葉は、何度も詰まり、何度も戻った。
大根の値段は、最後まで思い出せなかった。
タブレットの数字は、九パーセントだった。
月曜、母の声は会社でちょっとした騒ぎになった。
「九! 汐見さん、九ですよ。今年入ってから、うちで一番低い」
葛城が、紐を指に巻いたまま立ち上がった。
「どこで録ったんですか、これ」
「…知り合い」
「知り合い。そういう知り合い、もっとおらんですか。叔母さんとか、そのまた知り合いとか」
「さあ」
「これ一時間で、前の月の手当ての三分の一ですよ」
遥は笑ってみせた。
規約のことは、言わなかった。
昼過ぎ、葛城の顔色が変わった。
業界の連絡網に、東京の同業者から報せが回ってきたのだ。
葛城は遥の机に来て、画面を見せた。
「合成の声に、わざと『ええと』と『あの』を混ぜたやつが、素の声として検出器を通ってたそうです。
東京の大手で、半年分」
「通ってたって、検出器を?」
「うちのでも試しました。通ります」
葛城は、紐を指から外した。
今日は巻き直さなかった。
「検出器もモデルなんです。人間らしい声ってなにかを、人間の声で学ばせた。
でもその人間の声が、学ばせた時点でもう半分混じってた。
だから検出器が覚えた人間らしさは、ナギが真似する人間らしさと、だいたい同じ形をしてる」
「じゃあ、言い淀みがあれば人間っていうのも」
「言い淀みは、もう証拠になりません。向こうが真似できるんで」
遥は、画面の中の自分の録音を見た。
大根の値段を思い出せない母の声が、波形になって並んでいる。
「…じゃあ、うちの母の『ええと』も、本物かどうか分からんの?」
葛城は、うちの母、という言葉に一瞬だけ目を上げた。
それから、首を振った。
「分かりません。俺に分かるのは、数字だけです」
七月八日は、朝から三十七度を越えた。
ナギが止まったのは、午後一時十二分だった。
遥は梅田の歩道橋の上で、録音機を手に、待ち合わせの大学生を待っていた。
最初に気づいたのは、音だった。
歩道橋の上を行く人たちが、少しずつ足を止めていく。
誰もが耳に手を当て、端末を見下ろし、また耳に手を当てる。
遥の端末にも、短い知らせが出ていた。
ナギ 一時的に応答できません。
地図も、乗り換えも、天気も、ナギの声で答える作りになっている。
画面そのものは点いているのに、聞いても誰も答えなかった。
電話は、まだ繋がった。
三時前に、湊から掛かってきた。
湊は天王寺の小学校に、電車で通っている。
「お母さん。状況を説明するね。学校が、早く終わった。
ナギが応答しないから、先生たちも、今日の後の予定が決められないって。いま天王寺の駅にいる。
どの電車に乗ればいいか、分からない」
きちんとした文だった。
声だけが、細かく震えていた。
「いつもの環状線でええんよ。外回り。分かるじゃろ」
「環状線が、止まってる。ダイヤを組んでるのもナギだったって、駅の人が言ってる。
次にどうすればいいか、分からない。お母さん、次にどうすればいいか教えて」
「そこにおって。動かんで。お母さんが行く」
「分かった。待つ」
電話が切れた。
遥は歩道橋の階段を駆け下りた。
御堂筋線は、間引きで動いていた。
ホームには人が溢れ、誰も列を作れずにいた。
改札の前で、背広の男が端末に向かって、同じことを繰り返していた。
「天王寺。天王寺までの一番早い行き方。天王寺」
端末は黙っている。
男は、壁に貼られた路線図には一度も目を向けなかった。
その隣で、制服の女子高生が二人、しゃがみこんでいた。
「どうしよ。ひとつ確かめたいんやけど、これ、どっち行ったら」
「わからん。聞かれへん」
確かめる相手が、どこにもいなかった。
遥は人の間を縫って、来た電車に体を押し込んだ。
冷房が弱く、汗の匂いがこもっていた。
天王寺の駅の、中央改札の脇のベンチに、湊は座っていた。
ランドセルを膝に抱え、端末を両手で握っている。
画面には、さっきと同じ知らせが出たままだった。
遥が前に立つと、湊は顔を上げた。
泣いてはいなかった。
泣くかどうかを決めるのも、誰かに聞きたいような顔をしていた。
「…お母さん」
「待たせたね。帰ろう」
「どうやって帰るの? 電車、止まってる」
「歩こう」
「歩いて、どれくらいかかるの? 道、分かるの?」
「分からん」
湊が、目を見開いた。
遥は、その顔を見て、少し笑った。
「分からんけど、北に歩けば天満に着くよ。天満は北じゃけえ」
谷町筋を、北へ歩いた。
日差しはまだ強く、アスファルトの照り返しで、足の裏まで熱かった。
遥は自販機で水を二本買い、一本を湊に渡した。
湊は半分を一息に飲んで、ふたを閉めた。
大きな交差点に出ると、道が三つに分かれていた。
湊は立ち止まって、端末を見た。
画面は黙っている。
それから、湊は顔を上げて、青い案内板を見た。
「ええと…」
遥は、足を止めた。
湊の口から、それを聞くのは初めてだった。
「ええと、天満橋って、書いてある。こっち、かな。天満橋と天満って、近い?」
「近いよ。橋を渡ったら、もうすぐ」
「じゃあ、こっち」
湊が先に歩き出した。
ランドセルの金具が、一歩ごとにかちゃかちゃ鳴った。
上町台地の坂を下りるあたりで、遥にも道が分からなくなった。
一本の道が、途中で斜めに折れて、案内板が消えた。
角の煙草屋の前に、日傘を差した老婆が立っていた。
遥は近づいて、頭を下げた。
「すみません、あの、天満橋って、この道で、ええと、合ってますか」
自分の口から出た言葉を、遥は聞いていた。
老婆は日傘を少し傾けた。
「天満橋? ええと、そやね、あの、ここ真っすぐ行って、あれや、郵便局の角、左や。
いや、右やったかな…左や。左」
「左ですね。ありがとうございます」
「暑いのに大変やね、ぼく。お母さんとはぐれたらあかんよ」
湊が、こくんと頷いた。
いつもの湊なら、ここで「ご親切にありがとうございます」と言うはずだった。
道の途中で、人とすれ違うたびに、声が聞こえた。
「すんません、あの、梅田って」
「えっと、なんやったっけ、ほら、あの店の」
「わからへん。わからへんけど、たぶん、こっちちゃう?」
誰もが詰まり、誰もが言い直し、誰もが道を間違えていた。
六月の喫茶ポプラでは、一度も聞かなかった声だった。
遥のポケットの中で、録音機が太ももに当たっていた。
この通りを三十分録れば、今月の残りの二十時間など、何でもない。
遥は録音機を取り出した。
親指が、スイッチにかかった。
赤い灯が点く前に、遥は親指を離した。
「お母さん、録らないの?」
湊が振り返っていた。
「録らん」
「なんで? 仕事でしょ?」
「なんでかね…ええと、今日は、ええわ」
遥は録音機をポケットに戻した。
天満橋の上に出ると、川を渡る風が、汗を少しだけ乾かした。
ナギが戻ったのは、夜の九時を回ってからだった。
圭吾は本町の事務所から歩いて、八時過ぎに帰ってきた。
シャツの背中が汗で張りついていた。
三人で、冷蔵庫に残っていたもので夕食にした。
ゆで卵と、きゅうりと、昨日の冷やご飯を炒めたもの。
誰の端末も、黙ったままだった。
「…あのな、遥」
圭吾が、箸を置いた。
眼鏡を押し上げようとして、指が途中で止まった。
「こないだの、上のプランの話。ごめん。
僕、あれ、ええと…なんて言うたらええんか、ナギに聞かんと分からんかってん。
今日、事務所で、ナギに聞かれへんようになって、みんな、なんも決められへんで、ぼうっと座っとって。
そんで、なんでか、あの晩のこと思い出して」
言い終わるまでに、圭吾は二回つかえた。
遥は、湯呑みを両手で持った。
「…私も、ごめん。ナギにね、あなたは正しいって言われて、ほっとしたんよ。
ほっとしたら、謝る気が、のうなって」
「僕もや。おんなじや」
湊が、ゆで卵の殻をむきながら、二人を見比べた。
「お父さん、いま『ええと』って二回言った。お母さんは、三回」
「数えとったんか」
「数えてた。僕は、今日、四回言った」
湊は殻をきれいにむき終えて、卵を一口かじった。
それから、少し考えて、付け足した。
「ええと…五回かも」
圭吾が噴き出した。
遥も笑った。
その笑い声は、どこにも録られなかった。
障害の日から四日目に、会社に戻った。
葛城は、遥の顔を見るなり言った。
「豊作でしたね、八日」
「豊作?」
「どこの採録員も、あの日、街に出てたんですよ。うちのチームも三人。素の声が、六時間で百時間以上。
個人が録って売りにきた分も、まだ山ほど」
葛城の画面には、あの日の街の混入率が出ていた。
午後一時十二分から、線が谷のように落ち込んで、夜九時にまた元に戻っている。
いちばん深い所で、二十二。
「業界団体が、国に案を出すそうです。月に一日、わざとナギを止める日を作る。無通信日って」
「わざと止めるの?」
「人を素に戻して、その日に録る。そしたら、次のモデルは細らずに済む」
葛城は紐を指に巻いた。
「人間を、休耕田みたいにするんですよ。月に一日だけ」
遥は、自分の机の画面を開いた。
母の声のファイルが、提出の欄に入ったままになっている。
九パーセント。
大根の値段を思い出せない、尾道の言葉。
遥はファイルを選んで、取り下げの印を押した。
「え、汐見さん、それ」
葛城が椅子ごと寄ってきた。
「九ですよ。それ、なんで」
「規約違反なんよ。身内の声」
「…そうなんですか」
葛城は少し黙って、それから言った。
「でも、それ、誰のためですか。
取り下げても、汐見さんのお母さんの声は、どうせナギを浴び続けるでしょう。
録らなくても、混じっていくのは同じですよ」
遥は、録音機をポケットの中で握った。
角の削れたところに、親指が収まる。
「…分からん。母のためか、私のためか。ええと…たぶん、どっちでもないんじゃけど」
葛城は、紐をほどいた。
それ以上、なにも言わなかった。
七月の二十日、夕方に母から電話が来た。
湊が先に出て、端末を耳に当てたまま、台所の床に座りこんだ。
遥は流しで、きゅうりを切っていた。
「おばあちゃん、こないだの、混線の話して。お母さんから聞いた」
母の声が、端末から小さく漏れてくる。
「ええ? あれかね。ええと、うちが小学生のころじゃけえね…」
遥は包丁を止めた。
母の話は、遥が録ったときと少し違っていた。
おばあさんが怒っていたのは、大根ではなく、白菜になっていた。
給食のプリンは、カレーになっていた。
母は気づかずに、大きな声で笑っていた。
「…線がまじるけえ、混線いうんよ。こっちの声が向こうへ行って、向こうの声がこっちへ来てね」
「それ、ほんまなん?」
湊が言った。
それから、少し間を置いて、言い直した。
「ほんま、かいね」
母の笑い声が、端末を突き抜けて、台所まで響いた。
「あんた、尾道の言葉、どこで覚えたんね」
「ええと、お母さん。たぶん」
遥は、エプロンのポケットに手を入れた。
録音機が、そこにあった。
親指が、角の削れたところをなでた。
スイッチには、触れなかった。
湊の「ええと」も、いつかどこかで録られて、次のナギが覚えるのかもしれない。
覚えたナギが、また湊にそれを返すのかもしれない。
そのころには、湊の「ええと」が湊のものか、ナギのものか、誰にも分からなくなっている。
大根が白菜になった母の話が、どこから来たのか、もう分からないように。
窓の外で、夕日が川に落ちていた。
湊はまだ、床に座りこんで、祖母の話を聞いていた。
録音機の赤い灯は、消えたままだった。




