イデアパンク2077
熊の腕が、横から来た。
毛皮の下で肩の肉が盛り上がるのが、先に見える。
足を引いたところで、杖の先の光がふっと細くなった。
地面が近い。
苔の湿った匂いがして、視界の縁が赤く染まっていく。
「…また、切れた」
左上のMPの数字が、ゼロのまま点滅している。
二十三回目だ。
僕は頭の上へ手をやって、HMDを外した。
白い部屋に戻った。
壁も床も天井も継ぎ目のない白で、天井の四隅にセンサーの黒い目が並んでいる。
家の一室を丸ごと作り変えて、どこに立っても体の全部を拾えるようにした部屋だ。
外したHMDは、昔かけていた老眼鏡より軽い。
つけたままご飯も食べられるし、つけたまま眠る若い人もいるらしい。
それでも、同じ熊に二十三回やられたあとで、顔に乗せておく気にはならなかった。
「もうすぐ八十になるっていうのに、熊に負けて拗ねてるんだからねえ」
声に出すと、少しだけ笑えた。
幸か不幸か、と思う。
たぶん、両方だ。
床に腰を下ろすと、右の膝が小さく鳴った。
人工の関節で、入れて十二年になる。
眼は六十のときに治したきりで、もう眼鏡はいらない。
肝臓の半分は培養したものに替えてあり、腸の中には毎朝のサプリで送りこんだ菌が住んでいて、
食べすぎた分の脂を勝手に片づけてくれる。
父が八十のころは、杖をついて病院へ通っていた。
僕は杖の代わりに、ゲームの中で魔法の杖を振っている。
「科学の粋を集めて、やってることは熊と喧嘩、かあ」
窓のそばへ行った。
六月の十二日で、窓の端の表示は三十六度。
空は白く霞んで、太陽の輪郭がぼやけている。
今朝のニュースでは、ヨーロッパの北のほうで先週、六月なのに雪が降ったと言っていた。
海の流れが弱って、あっちは寒くなり、こっちは暑くなる。
同じ画面に、その二つが並んで流れる。
どこの国も、もう手綱を握れていない。
握れていないまま、車も船もまだ油で走っている。
足りなくなる、足りなくなると五十年言われて、まだ足りている。
核融合は、僕が二十代のころから、ずっと「あと三十年」のままだ。
向かいの家も隣の家も、同じ灰色の箱だった。
熱を通さない厚い壁に、雨水をためる平たい屋根。
いくつもの国が集まった会議で決まった型で、安くて丈夫で、どこの町でも同じ顔をしている。
隣はベトナムから来た夫婦で、その向こうはケニアの人だと聞いた。
朝、垣根越しに挨拶をすると、向こうの言葉が耳の中で日本語になって届く。
僕の「おはようございます」も、向こうの耳では向こうの言葉になっているはずだ。
ゲームの中も同じで、パーティを組んだ相手がどこの国の人なのか、もう気にしたことがない。
「国境なんて、どこに行ったかねえ」
壁に、仕事の窓を出した。
受け持っているのは、AIの開発チームが三つ。
二つは緑で、残りの一つが黄色くなっている。
開くと、倉庫の在庫を引き当てる処理で、同じところを四十分回っていた。
「ええと、つまり…倉庫が一つしかないと思いこんでるのかなあ」
指示の欄に一行だけ打つ。
「前提を疑って。倉庫は三つある」
送ると、黄色が緑に変わった。
それで、今日の僕の手の仕事はおしまいだ。
もう一つ、来月の計算資源の枠の申請が届いていた。
国の計算資源をどれだけ借りるか、三つのチームの分をまとめて取り合いに出す。
書類はAIが作り終えていて、僕は中身を読んで、署名を置くだけだ。
十年前に定年を迎えて、それからもこうして見張りの仕事を請け負っている。
今月の配当も、口座に入っていた。
配当と見張りの稼ぎを足して、ようやく今の暮らしになる。
働く枠をもらえているだけ、ましなほうだ。
五十年前も、僕はコードを書いていた。
その前の何年かは、自分の指で一行ずつ打っていた。
二十代の終わりにAIが書くようになって、僕は指示を書く側へ回った。
AIの癖を見つけるたびにメモへ一行足して、それが二百行を超えた。
モデルが新しくなるたびに、そのメモを書き直した。
夜中にコーヒー豆を焦がしながら、そんなことをやっていた。
そのメモは、今はもう無い。
相手の会社の帳簿も、担当の人の好みも、どこにどんな機械が置いてあるかも、
AIは言われる前に知っている。
さっきの「倉庫は三つある」の一行だって、要らない日のほうが多い。
「プログラマーなんて、虚業かなあ。…それとも、芸術か」
窓の外で、隣の家の屋根の上を、白い鳥が一羽横切っていった。
四回羽ばたいて、翼を広げたまま、すうっと滑る。
落ちないのが、少し不思議に見えた。
「…やっぱり、もう一回だな」
「ファンタズマ・オブ・ノウル」。
いま僕が遊んでいるゲームの名前だ。
五十年前に流行った、剣と魔法の異世界ものの作りで、最新のVR機器で遊ぶ。
見える物の細かさも、距離の感じも、もう本物と見分けがつかない。
首を振っても景色が遅れてついてくることはないし、初めての人がいきなり宙返りをしても、
酔って吐いたりはしない。
コントローラーなんて物は、とうに無くなった。
カメラと赤外線のセンサー、それから腕に埋めた小さな粒が、筋肉の電気を読み取る。
僕が拳を握ろうと思った瞬間に、向こうの手が握られる。
HMDをかけ直すと、白い壁が消えて、森の入口の祠の前に立っていた。
負けると、ここで目を覚ます。
石の台座に苔が厚く生えて、湿った土の冷たさが足の裏から上がってくる。
そこから一度、町はずれの倉庫まで歩いた。
この世界には、指一本で荷物を呼び出す仕組みが無い。
倉庫の奥で、布をかけたままの木箱を開ける。
翼が入っていた。
一年前に、町の地下の古い遺跡で拾った物だ。
外の世界から来た道具、と町の人は呼んでいて、鑑定屋の札には「外部デバイス・翼」とだけ書いてある。
背中の留め金を肩甲骨の下に噛ませると、魔法が何もかも一段強くなる。
そのかわり、滅多に手に入らないし、壊れたら修理に竜の鱗が三枚と、町の職人に十日かかる。
だから、ずっと箱にしまっていた。
「しまっておいても、熊は倒れてくれないからねえ」
留め金をはめると、背中で翼がひとりでに開いた。
首を回して、それを見た。
見てしまうと、もう駄目だった。
「ああ、ちょっと待って、これ…羽根が一枚ずつ別に揺れてるよ。
長いのが十枚と、その上に小さいのが何段も。風が来ると、外側の一枚だけ先に煽られて、内側は遅れて動く。
それでいて、どれも隣の羽根に刺さってない。畳むときは外側から順に、下へ潜りこんでいくんだ。
順番を決めてあるのかなあ、それとも毎回ぶつからないように計算してるのか。
これ、一枚いくらで回してるんだろ」
誰も聞いていないのに、一息で言った。
頭の中では、もうどう組んだかを考えはじめている。
考えたところで、誰にも頼まれていない。
「いやあ、いいねえ」
どういう理屈で浮くのかは、どこにも書いていない。
羽ばたく力だけで人一人が持ち上がるはずはないし、鑑定屋に聞いても首を振るだけだった。
分からなくても、飛べる。
飛べるなら、使う。
五十年前、僕が毎晩仕事を任せていたAIだって、中で何が起きているのか、作った人にも分からなかった。
分からないまま、僕はそれの書いたコードを通していた。
森の奥の、急に開けた場所に、熊がいた。
座っているだけで、平屋の家ほどある。
黒い毛皮の先が、光を受けて銀に光っていた。
剣も矢も、あの毛に滑って通らない。
効くのは魔法だけで、僕のキャラクターは、魔法の器が小さい。
翼を羽ばたかせた。
耳の後ろに貼った薄い板が、体が持ち上がったと内耳に伝える。
足の裏はまだ白い部屋の床に着いているのに、胃がふわりと浮いた。
二度、三度と羽ばたいて、木の梢より高くへ出る。
熊が顔を上げた。
鼻先が濡れていて、息が白い。
杖を下へ向けて、氷の槍を三本撃ち出した。
一本目が肩に刺さって、毛皮の上で砕ける。
二本目は背中の肉に食いこんで、熊が吠えた。
声が、腹の底まで響く。
三本目は外れて、地面の苔を凍らせた。
熊が立ち上がった。
立つと、梢に爪が届きそうになる。
翼を畳んで、横へ滑った。
爪が、さっきまで僕のいた空気を掻いていく。
風が頬を叩いた。
もう一度翼を広げて、背中側へ回る。
炎を撃つと、毛皮の表で火が走って、焦げた獣の匂いが鼻を突いた。
それでも、熊は倒れない。
左上の数字が、見る間に減っていく。
百二十、八十、四十。
「器が小さいって、こういうことだよねえ」
最後の雷を首筋に落としたところで、数字がゼロになった。
翼が、急に重くなる。
羽ばたいても体が上がらない。
翼を畳んで、そのまま地面へ降りた。
膝で受けると、向こうの膝も、こっちの人工の膝も、同じように軋んだ気がした。
剣を抜いた。
熊の目は、焦げた毛の奥で赤い。
四つ足になって、真っ直ぐ突っこんでくる。
僕は横へ跳んだ。
腕が振られる。
頭の上を、丸太みたいな腕が通っていった。
くぐった先に、首があった。
雷の焦げ跡で、そこだけ毛が剥げている。
剣を突き入れた。
硬い肉を割る手応えが、柄から手首まで上がってくる。
熊が、ゆっくり横に倒れた。
地面が揺れて、木の葉がぱらぱらと降ってきた。
「…ようやくか」
二十四回目だった。
倒したら、それで終わりではない。
毛皮を剥いで、爪を外して、町まで運ぶ。
ナイフを入れるのに、ゲームの中の時間で一時間かかった。
毛皮を丸めると、僕の背丈より長い筒になる。
畳んだ翼の上からそれを背負い、爪を六本、腰の袋に入れた。
着ている薄いスーツが、荷の分だけ肩を下へ引く。
昔、荷物を背負って坂を上ったときの、あの感じを思い出す。
足が遅くなって、息も少し上がる。
昔のゲームなら、こんなものは指で弾いて袋に入れて、一瞬で町へ帰れた。
それが、今は流行らない。
物は山ほど作れるし、仕事はAIがやる。
欲しいものは何でも手に入る時代に、わざわざ重いものを担いで歩く。
手間にこそ金を払う。
一世紀くらい、巻き戻ったような話だ。
それでも、肩に食いこむこの重さがあるから、倒したのが本当に思える。
「面倒くさいのが楽しいんだから、人間はねえ」
町の門をくぐるころには、日が傾いていた。
石畳の広場に、魔石の灯がぽつぽつと点りはじめる。
一つ一つの灯が、去年より暗い。
毛皮を買い取るのは、広場の角の店だった。
店番の女主人は肩も腕も太くて、袖をまくった前腕に、なめし液の染みが茶色く残っている。
腰に下げた帳面は角がめくれて、紐で縛ってあった。
「森の主じゃないか。あんたが獲ったのかい」
「二十四回目で、やっとね。いくらになるかなあ」
女主人は毛皮を広げて、焦げた首のあたりを指でつまんだ。
「去年なら金貨八枚出したよ。今年は五枚。それ以上は無理だね」
「五枚かあ。焦がしすぎたかな?」
「焦げじゃないよ。なめし場の釜が焚けないんだ。魔石が高くてね。
北の鉱脈が細ってて、来月からまた値が上がるって話さ」
女主人は帳面を開いて、五と書きこんだ。
「それに、主がこんな町の近くまで出てくるようになったのも、森が痩せたからだよ。
ここ何年か、雨の降り方がおかしいんだ。降らないときは降らないし、降るときは川が溢れる」
僕は毛皮の銀の毛先を見ていた。
「…これ、仕様かなあ」
「何だって?」
「いや、こっちの話。五枚でいいよ」
金貨を五枚、手のひらに受けた。
冷たくて、重かった。
広場の噴水のそばで、子どもが五、六人遊んでいた。
真ん中に一人、男の子が目を開けたまま、棒みたいに突っ立っている。
ほかの子は手をつないで、その周りを回りながら歌っていた。
「ねむりびと ねむりびと 目をあけたまま どこいった 空のむこうの 町へいった いつかえる いつかえる」
歌が終わると、真ん中の子の肩を一人がつつく。
つつかれた子は動かない。
動いたら負けらしかった。
「きみたち、それは何の遊び?」
声をかけると、髪を二つに結んだ女の子が振り向いた。
前歯が一本抜けている。
「眠り人ごっこ。知らないの?」
「知らないねえ。眠り人って、どんな人?」
「目をあけたまま、どっか行っちゃう人。体はここにあるのに、中がいないの。
宿で寝てたり、急に止まったりして、何日も帰ってこないの」
女の子は、僕の背中を指さした。
「その羽、眠り人のでしょ。遺跡で出るやつ」
「…そうだよ。よく知ってるね」
「じゃあ、おじさんも眠り人?」
答える前に、真ん中の男の子がくしゃみをして動いた。
子どもたちが笑い声を上げて、また輪になって回りはじめる。
僕は、その輪をしばらく見ていた。
「これも、仕様かなあ」
口の中で言っても、答える人はいない。
広場の奥で、鐘が一つ鳴った。
いちばん大きな魔石の灯が、じじっと揺れて、消えた。
子どもたちが歌をやめて、そちらを見る。
町役人らしい痩せた男が、灯の柱に紙を一枚、釘で打ちつけていた。
「来月より、夜の灯は鐘一つ分早く落とす」
読んだ大人たちが、何も言わずに散っていく。
女主人が店の戸口から顔を出して、消えた灯を見上げ、それから戸を閉めた。
子どもたちは、少しして、また歌いはじめた。
僕は宿へ行って、二階の寝台に横になった。
この世界では、宿の寝台で眠ってから抜けるのが決まりだ。
抜けたあと、僕の体はここで眠っていることになる。
目を開けたまま、なのかもしれない。
天井の木目を見ながら、HMDに手をかけた。
外したら、白い部屋が暗かった。
窓の外は、もう夜になっている。
腹が鳴った。
ゲームの中で一時間毛皮を剥いでいるあいだ、こっちの僕も何も食べていない。
窓から見下ろす街は、あまり明るくない。
油はまだあるとはいえ、無駄に灯をつけるのは嫌われるようになったし、暗いところでも見える目を、
いまはたいていの人が入れている。
街灯は足元を照らすだけで、空の星がいくつか見える。
それでも、静かではなかった。
駅のほうから、人の声と、低い太鼓の音が上がってくる。
今夜も、どこかで催しをやっているのだ。
広告は、見る人の目の中にだけ光る。
目のスイッチを入れると、通りの上に、新しいゲームの竜が翼を広げた。
二度羽ばたいて、畳む。
畳んだところで、羽根の先が隣の羽根に刺さって、向こうへ突き抜けた。
「…重なり、取ってないなあ」
広告だから、そこまで回さないのだろう。
倉庫の木箱の中の翼のほうが、ずっと手間がかかっている。
仕事が無くなって、それでもまだ使えるエネルギーがあって、人は遊ぶことと、
何かを作ることにばかり時間を注ぐようになった。
人が時間をかけて作ったものに値がつくのは、もうそこだけだ。
こんなに遊んでいる時代は、たぶん今まで無かった。
いつまで続けられるのかは、誰も言わない。
言わないで、灯を少しだけ暗くしている。
「さて」
立ち上がると、膝がまた鳴った。
シャツを替えて、玄関で靴を履く。
外の空気は、まだ昼の熱を残していて、ぬるかった。
通りの角に、若い人が一人立っていた。
目を開けたまま、まばたきもしないで、どこか遠くを見ている。
口元だけが、何かに笑っていた。
その前を通り過ぎてから、一度だけ振り返った。
まだ、動かない。
「…眠り人だねえ」
駅のほうの太鼓が、少し大きくなった。
僕は膝をさすって、そっちへ歩きだした。




