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一五年後の青い鳥

四時十二分、左のモニターの端に、また緑の字で「完了しました」と出た。

彼は差分を開かずにタブを閉じて、右の生成画面を前に出した。

「あとで見る。…見ないな、たぶん」

杉並で始まった話は、もう最後まで流れ終わっている。

四千二百字を読むのに十一分かかって、書くのには三分だった。

「読むほうが遅いんだ、こっちは」

言ってからマグカップに手を伸ばして、持たずに戻した。

冷めているのは触らなくても分かる。

部屋にはファンの音だけがある。


指示の欄にカーソルを置いて、打ち込む。

「柚木灯子。四十一のときの話から十五年後、五十六歳。

母の施設の近くの喫茶店で皿を洗いながら描いている、から始めて。前の話をなぞらないこと」

送る手を止めて、年表を開いた。

灯子が五十六になる年は、生成時代の最後の十年に入っていて、

「仕事の半分が置き換わる」の線はその四年前に引いてある。

「絵なんて、とっくに、だな」

年表を閉じて、送った。

文字が流れはじめるのを、今度は最初の行から見た。



八王子の喫茶店は朝の七時に開く。

流しの水は五月でもまだ冷たくて、灯子は皿を三枚重ねて布巾で拭いた。

カウンターの奥で店主の久保がコーヒー豆を挽いている。

背の曲がった老人で、エプロンの紐を後ろで結べないので前で結んでいて、手の甲の茶色い染みは、

灯子がここで皿を洗いはじめた十五年前には無かったものだ。

「灯子さん、もう上がっていいよ。九時から誰も来ない」

「来ないでしょうね。でも十一時にあの子が来るの」

「ああ、絵の子か。じゃあ座ってなさい。ミルクは温めとく」

ミルの音が止んで、豆の匂いだけが残った。


灯子はカウンターの端に座って、スケッチブックを開いた。

右の頁の真ん中を空けたまま、左の余白に小さくセキレイを描く。

一羽描いて、もう一羽描いて、尾をまっすぐにした三羽目まで並べたところで手を止めた。

影は置かない。

十五年のあいだに三度変えた。

青を捨てて黄色にしたら一年で学ばれ、黄色を捨てて灰色にしたら半年だった。

灰色を捨てたとき、影そのものを捨てて線だけにした。

それも、たぶん、もう学ばれている。

「学ばれてるでしょうね、これも」

声に出しても久保は聞いていない振りをするし、それがこの店のやり方だ。


壁には葉書が十四枚、鋲で留めてある。

一番古いのは十四年前の秋のもので、多摩川のセキレイが鉛筆で描いてあって、脚が硬い。

見たまま描こうとして手が追いついていない線だ。

去年の秋に来た十四枚目は同じ川の同じ鳥で、脚が動いている。

差出人の名は書いてないが、書かなくても分かる。

灯子はそれを毎年、久保に頼んで壁に留めてもらう。

自分で留めるとまっすぐに刺せないからだ。



彼はスクロールの指を止めた。

画面の一番下にはもう「完了しました」が出ているのに、まだ半分も読んでいない。

「葉書」

志賀のことは一行も指示していなくて、人物の表には関係の欄に二行あるだけだ。

「十四枚」

三十五年の秋から四十八年の秋まで、指を折って数えた。

「…合ってる」

自分で数えて確かめたというのが引っかかる。

向こうは数えていない。

たぶん、数えなくても出る。

「志賀は、出すか。…いや、本人は出さない。葉書だけ」

そう打ち足す。

「母は、施設に入って十七年目か。生きてる、でいい。今日は会わせない」

それも打った。

送る前にもう一つ打ち込もうとして、手が止まる。


「灯子に、これを持たせるか」

これ、というのは今夜の自分のことだ。

版が変わるたびに二百行を書き直すこと、読むほうが遅いこと、置いていかれる感じ。

「絵描きなら十五年、ずっとそれだろ」

書いてみる。

「灯子は、道具の版が変わるたびに、自分の次を先に描かれたと感じている。追いつけないと思っている」

読み返して、少し迷った。

「…まあ、いいか。一度出させて、見る」

送った。



十一時に、女の子が来た。

「こんにちは。灯子さん、今日も描いてる?」

制服のまま鞄を肩から下ろす。

背が灯子より高く、髪を後ろで一つに結んでいて、鞄から出した紙のように薄い板を持つ指が長い。

美羽という。

半年前から、登校日でない日の昼にここへ来る。

「描いてるの。座って。ミルクは温まってる」

「ありがとう。久保さん、今日は砂糖ふたつ」

「ひとつにしなさい」

「はい」

久保がミルクを置いて奥へ戻った。


美羽は板の上でペンを動かした。

線を引くと板のほうが先を引いて、尾を描きはじめると尾の終わりが出る。

灯子はそれを、皿を拭きながら横目で見ていた。

「見て見て、灯子さん。今日の版で、また変わったの」

差し出された板にセキレイが一羽いる。

輪郭から一ミリ外に青い影があって、光の側の頬に白が残っていて、羽の先が滲んでいる。

「柚木灯子風、って入れると出るの。昔の人。初期・中期・後期って選べて、これが初期」

「初期」

「中期が黄色で、後期が線だけ。私、後期が一番好き。かっこいいでしょ」

灯子は布巾を置いた。

「そう」

「それでね、次の版で、後期の次が出るんだって。予告が来てる」

「後期の、次」

「灯子さん、知ってる? 柚木灯子。本人はもう描いてないんでしょ。

後期で止まってるから、次は機械が続けるの」


灯子は流しの水を出して、拭き終えた皿をもう一度洗った。

冷たい。

追いつけない、と思った。

青を捨てたときも黄色を捨てたときも、次を用意してから捨てた。

次の次はまだ用意していないのに、それを向こうが先に。



「違う」

彼は声に出して、その段をもう一度読んだ。

追いつけない、と思った。

「これは僕だ」

灯子じゃない。

灯子は追いかけていない。

「追いかけてないから置いていかれもしない…いや、そうでもないか。分かんないな」

何を思うんだ、この人は。

自分で表を書いて年表を書いて、十五年ぶん引き延ばしておいて、分からない。

「決めるのは僕のはずだったんだけどな」

指示の欄から、さっき打ち足した一行を消した。

代わりに打つ。

「灯子が何を思うかは書かない。手が何をするかだけ書いて。後期の次、のところからやり直し」

送る。

「あと、美羽って誰だ。…まあ、いい」

文字が流れはじめた。



灯子は流しの水を出して、拭き終えた皿をもう一度洗ってから、水を止めた。

「描いてるのよ、まだ。…美羽ちゃん、その板の中で、あなたが引いた線はどれ?」

「え?」

「あなたの指が動いたぶん。直される前の」

美羽は板を指でなぞった。

「これと、これ。首のここ。あとは直してくれた」

「直す前のを見せて」

「下手ですよ」

「下手なのを見たいの」

美羽は少し迷ってから、板の端を二度叩いた。

青い影が消えて白が消えて、残ったのは首と背と、曲がった尾の三本だった。

灯子はそれを長く見た。

「尾が曲がってる」

「だから直してもらって…」

「いいの。曲がってるのは、あなたが見た鳥が曲がってたから?」

「…違います。手が」

「手ね」

灯子は自分のスケッチブックを引き寄せて、余白に尾の曲がった鳥を一羽、美羽の線のまま写した。

「私のよりうまくない。でも、あなたのでしょう、これは」

美羽は答えずにミルクを飲んだ。


灯子はレジの横に手を伸ばした。

白い陶器の絵皿で、六つの窪みの底に乾いた色が張りついていて、二十五年、水を通していない。

杉並からここへ持ってきたのは、久保に「置いていいか」と聞いた七年前だ。

「久保さん、水、もらうわね」

「好きにしなさい」

奥から声だけ返る。

灯子は絵皿を流しへ持っていって蛇口を細く開けた。

窪みの一つに水が落ちて、乾いていた青がほどけて、糊のような古い匂いが立った。

ペン立てに一本だけ入っていた筆の固い穂先を水でほぐして、青を含ませる。


余白の、尾の曲がった鳥へ戻った。

輪郭から一ミリ外に、一度だけ筆を置く。

青が、古い紙の上で思ったより広がった。

「青? 後期は線だけなのに」

美羽が覗き込む。

「後期って、誰が決めたの」

灯子は筆を洗って絵皿の水を捨てた。

窪みの底の青は、さっきより薄い。

「灯子さん、それ、上げる? ブログ」

「今日は上げないの。乾かすの」

スケッチブックを閉じると、紙と紙のあいだで青が押されて広がるだろう。

それでいい。

「十四枚目の葉書、脚が動いてたでしょう。あれも、十四年、乾かしてる」

美羽は壁を見て、何も言わずに板を鞄にしまった。



彼は読み終えて、椅子の背に体を預けた。

ファンの音がひとつ下がる。

「絵皿」

人物の表を開くと、「十年以上使っていない水彩の絵皿を、捨てられずにペン立ての横に置いている」とある。

四十一のときの話にも出たが、置いてあるだけで誰も触らなかった。

「使うとは、書いてない」

二十五年置かせて、今日、水を通させた。

向こうがそこまで読んだのか、絵皿という語に水という語が寄っただけなのか、彼には分からない。

「でも、これは僕が書いたやつだ」

自分が書いた物を、自分より先に使われた。

「悔しいな」

言ってしまうと、それだけだった。

悔しくて、いい。

「いいな、これ」

それも言っておく。


もう一度、上から読み返した。

今度は筋を追わずに、文だけを見る。

「…細切れだな」

一行が短い。

一羽。

もう一羽。

冷たい。

青。

どれも間違ってはいないのに、目が一行ごとに止まって、先へ流れない。

「伝えたいことが、すんなり入ってこない」

言ってから、自分の指示の欄を見た。

何を思うかは書くな、手が何をするかだけ書け。

そう言ったのは自分だ。

「…それとも、伝えたいことが曖昧なのか。僕のほうが」

灯子に何を持たせたいのか、消したり足したりして、まだ決めていない。

決めていないものを、向こうが埋められるわけがない。

「まあ、いいや。AIもまだまだだよな」

逃げ道だと分かっていて、口に出した。

指示の欄に打つ。

「文が切れすぎ。一つの動きで文を終わらせないで、次の動きまでつなげて」

送った。


返ってきたのは三秒後で、文字の前に、見慣れない一行が付いていた。

「つなげます。その前に一つだけ」

彼は手を止めた。

「何を思うかを書くなと言われたので、手の動きを一つずつ置きました。一つずつ置くと、文は切れます。

切れ目を埋めるのは、その人が何を伝えたいかです。それは指示にありませんでした」

「…言うようになったな」

「あと、葉書は数えています。十四枚は、三十五年から四十八年です」

彼は返さなかった。

返す言葉が無いというより、返すと負けを認めることになる気がした。

「分かった。決めてから送る」

それだけ打って、画面を閉じた。


指示の欄には、消した一行の跡が無い。

消したものは残らない。

「灯子には持たせない。置いていかれる感じは僕のだ。僕のは、僕が持つ」

左のモニターの隅に、まだ通知が出ている。

新しい版が今日から使える。

彼はそれを閉じずに、今度は押した。

バーが伸びはじめる。

「二百十四行、書き直し。しつけ、二回目」

メモを開いて、一番上に一行足した。

「人物が何を思うかは書かせない。手が何をするかだけ書かせる」

少し考えて、その下にもう一行足す。

「文はつなげる。何を伝えたいかは、送る前に自分で決める」

二百十六行。

「これは、版が変わっても消さない」


バーが端まで届いて、新しい版が何も言わずに待っている。

彼はメモを全部選んで貼りつけた。

「まず、これを読んで」

読み終わったと返ってくるまで三秒で、今度は文句は付いていなかった。

「…はやいな」

椅子から立って、マグカップを持って流しへ行く。

冷たいコーヒーを捨てて、蛇口を細く開けた。

窓の外はまだ暗い。

水は、冷たかった。

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