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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第八話 馬車と馬?

 早朝の猫夜亭は、夜の賑わいが嘘のように静かだった。


 窓から差し込む淡い朝日が、まだ人の少ない食堂を柔らかく照らしている。


 厨房からは包丁がまな板を叩く音と、鍋の中で湯が沸く音が聞こえてくる。


 そんな食堂の片隅で、シグマはいつものように朝食を取っていた。


 ただし、今日の献立はいつもとはずいぶん違っている。


 湯気を立てる牛肉麺。


 ふっくらと蒸し上げられた、白く柔らかな饅頭。


 そして、細切りの肉と野菜を炒めた青椒肉絲。


 朝食と呼ぶには、少しばかり重そうな組み合わせだった。


 この朝食を作ったのは、普段厨房を担当している料理人ではない。


「どうだ? うまいか?」


 シグマの隣の席に座り、期待に満ちた表情でこちらを見つめているシルビアである。


 以前から一度、自分の料理を食べてもらいたいと頼み込み、今朝だけ厨房の一角を借りて作ったらしい。


 シグマは箸で牛肉麺を持ち上げ、口へ運ぶ。


 見た目からして、朝から食べるには少しきついのではないかと思っていた。


 しかし、実際に食べてみると、想像していたほど脂っこくない。


 牛肉の旨味はしっかりと出ているが、汁は澄んでおり、香辛料の香りも控えめだ。


 蒸した饅頭も柔らかく、青椒肉絲を挟んで食べると、ほどよい塩気が加わってよく合う。


「朝からこれは重いと思ったが……意外と食べやすい。味付けもちょうどいい」


「本当か!」


 シルビアの虎耳が、ぴんと嬉しそうに立ち上がる。


「ああ。うまい」


「そうか、そうか!」


 シルビアは満面の笑みを浮かべた。


 褒められたことがよほど嬉しいのか、頬杖をついたまま、シグマが食べる姿をじっと眺め続けている。


 シグマは再び麺を口へ運んだ。


 味は確かにうまい。


 だが、すぐ隣から一口食べるたびに観察されていると、どうにも落ち着かない。


「……シルビア」


「なんだ?」


「食べづらい」


「気にするな。私は見ているだけだ」


「それが食べづらいと言っている」


「作った者として、食べた時の反応を確認するのは当然だろう?」


「もう感想は言った」


「まだ牛肉麺の感想しか聞いていない。饅頭と青椒肉絲が残っている」


「全部食べ終わるまで見ているつもりか?」


「そのつもりだ」


 シルビアは悪びれることなく答えた。


 むしろ、先ほどより楽しそうにシグマを眺めている。


 シグマが諦め、蒸し饅頭へ手を伸ばした――その直後だった。


 ゴンッ!


 食堂に、鈍く重い音が響いた。


「いったあああっ!」


 シルビアが頭を押さえ、勢いよく振り返る。


「何をするんだ!」


 その背後には、一枚の木の板を手にしたリリアンヌが立っていた。


 表情だけを見れば、いつものように穏やかで、にこやかですらある。


 しかし、その背後から漂う空気は明らかに冷たかった。


「シルビアさん」


「な、なんだ……?」


「朝の業務は、もう終わったのですか?」


「いや、その……まだだが……」


「入口の掃除は?」


「まだ……」


「水差しの補充は?」


「それも、まだ……」


「空いている食器の片付けは?」


「これからやろうとは思っていた」


「では、なぜお客様の隣に座って、食事を眺めているのでしょうか?」


 リリアンヌの笑顔が、一段と深くなる。


 シルビアの耳が、しゅんと垂れ下がった。


「料理の感想を聞いていただけだ」


「感想を聞くのに、これほど長い時間が必要なのですか?」


「ひ、必要だったかもしれないだろう?」


「必要ありません。今すぐ仕事へ戻ってください」


「分かった! 分かったから、その板をもう一度振り上げるな!」


 シルビアは慌てて席から立ち上がった。


 厨房へ戻る途中、彼女は振り返り、シグマに向かって手を上げる。


「食べてくれてありがとな! また試作品ができたら頼む!」


「ほどほどの量ならな」


「約束だぞ!」


「シルビアさん!」


「今行く!」


 リリアンヌに呼ばれ、シルビアは逃げるように厨房へ消えていった。


 その背中を見送った後、リリアンヌはシグマへ向き直り、申し訳なさそうに頭を下げる。


「お食事中に失礼いたしました」


「いや。助かった」


「本人に悪気はないのですが、料理を褒められると周りが見えなくなってしまうようで……」


「よく分かった」


「味の方は、本当に大丈夫でしたか?」


「ああ。うまい」


「それを聞けば、本人も喜びます」


 リリアンヌは苦笑すると、木の板を脇に抱え、朝の業務へ戻っていった。


 静けさを取り戻した食堂で、シグマはようやく落ち着いて食事を再開する。


 牛肉麺を半分ほど食べ終えた頃、入口の扉が勢いよく開いた。


「おはよーさん! ああ、腹減ったぁ!」


 入ってくるなり大きな声を上げたのは、シルフだった。


 彼女は食堂を見回し、シグマを見つけると、迷うことなく向かいの席へ座る。


「朝からえらい豪勢なもん食べとるなぁ」


「シルビアの試作品だ」


「へえ。朝から牛肉麺に饅頭に青椒肉絲か。ずいぶん、けったいな組み合わせやな」


「見た目ほど重くない」


「ほな、うちも同じのにしよかな」


 シルフは厨房の方へ顔を向ける。


「シルビアー! うちにもシグマと同じ朝飯頼むわー!」


「分かった! 少し待ってろ!」


 厨房の奥から、シルビアの大きな返事が聞こえてきた。


 その声に続いて、リリアンヌの叱る声も小さく響く。


「返事だけでなく、手も動かしてください!」


「動かしている!」


「ほんま朝から賑やかやなぁ」


「お前が来るまでは静かだった」


「うちが騒がしいみたいな言い方やめてくれへん?」


「違うのか?」


「……否定しづらい聞き方するなぁ」


 しばらくすると、牛肉麺と蒸し饅頭、それに少量の青椒肉絲が運ばれてくる。


 先ほどまで空腹を訴えていたシルフは、早速、麺をすすり始めた。


「朝からずいぶんけったいな献立やと思ったけど……」


 もう一口食べる。


「うまいわ。見た目よりあっさりしとるし、これなら朝でも全然いけるな」


「同じことを言った」


「ほな、うちとシグマは味覚が似とるんやな」


「それだけでは分からない」


「もうちょっと話を広げようや」


 シルフがにこにこと食事を続けていると、再び入口の扉が開いた。


 現れたのは、紅蓮、白鬼、黒鬼の三人である。


 三人は食堂を見回し、シグマたちを見つけると、まっすぐこちらへ歩いてきた。


「おはようございます、シグマさん!」


「お、おはようございます……」


「ああ」


 白鬼と黒鬼は挨拶をすると、いつものようにシグマの左右へ座った。


 迷いのない動きだった。


 紅蓮はその様子を見て、わずかに苦笑する。


「お前たち、そこが自分の席だと思っていないか?」


「空いていたから座っただけです」


「わ、私も……たまたまです……」


「毎回たまたま同じ席が空いているのか」


 白鬼は聞こえなかったふりをし、黒鬼は恥ずかしそうに俯いた。


 シグマは左右を見たが、特に何も言わなかった。


 紅蓮はそれ以上追及することを諦め、残っていた席へ腰を下ろす。


 そして、牛肉麺を頬張るシルフを一瞥した後、腕を組んだ。


「全員揃ったな。今日の予定を話すぞ」


 紅蓮の一言で、白鬼と黒鬼も表情を引き締める。


 シルフだけは、まだ口いっぱいに麺を入れていた。


「注文していた馬車が、今日には完成しているはずだ。まずはそれを受け取りに行く」


「おお」


 シルフが麺を飲み込みながら、目を輝かせる。


「それと、馬車を引かせる馬も見に行く予定だ」


「馬ぁっ!?」


 シルフが勢いよく叫んだ。


 ただし、彼女の口の中には、まだ青椒肉絲が残っていた。


 細かな食べかすが宙を舞い、向かいに座っていたシグマの顔へ飛んでいく。


 食堂に、短い沈黙が落ちた。


「あっ……」


 シルフの顔から、さっと血の気が引く。


「す、すまん、シグマ! わざとやないねん!」


 シグマは無言で布巾を取り、頬についた食べかすを拭った。


「食べてから話せ」


「ほんまにごめんて!」


 シルフが慌てて頭を下げる。


 しかし、なぜかシグマ本人より先に立ち上がった者がいた。


「シルフさん!」


 白鬼である。


「食事を口に入れたまま喋るなんて、行儀が悪いですよ!」


 反対側では、黒鬼も珍しく厳しい目を向けていた。


「シ、シグマさんの顔に……かかってしまいました……。もっと気をつけてください……」


「いや、悪かったとは思っとるけど……」


 シルフは二人の剣幕に押され、椅子の背へ身を引いた。


「なんでシグマ本人より、二人の方が怒っとるん……?」


「当然です!」


「と、当然です……」


「何が当然なんや……?」


「シグマさんへ迷惑をかけたからです!」


「そ、それだけです……」


「黒鬼、最後の言い方がちょっと怪しいで」


「怪しくありません……!」


 白鬼と黒鬼が、さらに何かを言い返そうとする。


「お前たち」


 紅蓮が低い声で呼び止めた。


 三人の動きが止まる。


「話が進まん。全員座れ」


「はい……」


「は、はい……」


「うちまで怒られた気分や……」


 白鬼と黒鬼が席へ戻り、シルフも大人しく食事を再開した。


 紅蓮は小さく息を吐き、話を戻す。


「馬車と馬が決まったら、今日は近くの草原で操作の練習をする。明日から実際に依頼で使うつもりだからな」


「今日一日で覚えるんか?」


「最低でも、全員が止める、進む、曲がるくらいはできるようにする」


 シルフは少し嫌そうな顔をした。


「うちは荷台で応援する係でもええんちゃう?」


「駄目だ」


「即答やな……」


「途中で御者が負傷する可能性もある。誰か一人しか扱えない状態では、いざという時に困る」


「私は魔法を使いますし、黒鬼も治療がありますよ?」


 白鬼が言う。


「だからこそだ。戦える者ほど、動けなくなる可能性も高い」


 紅蓮の言葉に、白鬼は口を閉じた。


「一人が操作できなくなっただけで、全員がその場から動けなくなるのは危険だ。簡単な操作だけでも覚えてもらう」


「うちは弓を撃ちながら御者もできるで」


「まず普通に御者ができるようになってから言え」


「まだ始めてもおらんのに信用ないなぁ」


「普段の行いだ」


「紅蓮までシグマみたいなこと言うようになってきたな」


「似ていない」


 紅蓮とシグマがほぼ同時に答えた。


 シルフは箸を止め、二人の顔を交互に見る。


「そういうとこは似とるで」


「出発はシルフが食べ終わってからだ」


 紅蓮が強引に話を終わらせる。


「ほな急いで食べるわ!」


「今度こそ口に入れたまま喋るなよ」


 シグマに言われ、シルフは慌てて口元を押さえた。


     ◇


 シルフが朝食を食べ終えた後、五人は馬車屋へ向かった。


 朝の街には、すでに多くの人が行き交っている。


 店を開く商人。


 荷物を運ぶ職人。


 依頼へ向かう冒険者たち。


 人混みを避けながら通りを進み、やがて一行は馬車屋へ到着した。


 店の前では、店主が従業員と共に車輪を運んでいるところだった。


 紅蓮たちの姿に気づくと、店主は作業を止め、笑顔で近づいてくる。


「おお、来たな! ちょうどよかった。頼まれていた馬車は完成しているぞ」


「本当か?」


「ああ。こっちだ」


 店主に案内され、五人は店の裏手へ回る。


 そこに置かれていた馬車を見て、紅蓮たちは思わず足を止めた。


「おお……」


 シルフが感嘆の声を漏らす。


 完成した馬車は、五人が想像していたものよりも、はるかに立派だった。


 車体を支える骨組みには太い木材が使われ、要所には金属製の補強が施されている。


 車輪も通常の馬車より厚く、多少の悪路であれば問題なく進めそうだ。


 荷台には雨風を防ぐ丈夫な覆いがあり、両側には小さな窓も付いている。


 内部には向かい合わせの長椅子が設けられ、御者台との間には開閉できる小窓まであった。


「かなり頑丈に作ってあるな」


 シグマが車輪の金具を確認しながら言う。


「冒険者用だからな。街道だけでなく、多少荒れた道も走ると聞いていた。簡単に壊れないよう、足回りを特に強くしてある」


 店主は誇らしげに胸を張った。


「車輪は通常より一回り厚くして、外周には鉄を巻いてある。軸にも衝撃を和らげる仕掛けを入れておいた。無茶をしなければ、そう簡単には壊れん」


「無茶って、どの程度や?」


 シルフが尋ねる。


「崖から落ちたり、大型の魔物に踏み潰されたりしなければ大丈夫だ」


「それは馬車やなくても大丈夫やないやろ」


「だから無茶だと言った」


 店主は笑いながら、馬車の後部を開いた。


「それと、道具屋から預かっていた物も届いている。アイテムボックスを座席下へ固定し、工具や予備の部品も積み込んであるぞ」


 長椅子の下には、黒い金属で角を補強された大きな箱が収められていた。


 表面には複雑な魔法陣が刻まれ、中央には青い魔石が埋め込まれている。


 その横には、通常の工具箱や予備の縄、車輪止めが革帯で固定されていた。


「アイテムボックスまで固定してくれたのか」


 紅蓮が箱の状態を確認する。


「走行中に動いたら危険だからな。取り外すこともできるが、普段はこのまま使った方がいい」


「助かる」


「携帯用の金床も中へ収納されている。ただ、詳しい使い方は道具屋のガルドから聞いてくれ。俺は魔道具の専門家じゃない」


「あとで寄るつもりだ」


 紅蓮が頭を下げると、白鬼と黒鬼も続いて礼を言った。


「ありがとうございます!」


「あ、ありがとうございます……」


「ええ仕事しとるなぁ。見た目も格好ええやん」


 シルフは楽しそうに馬車の周りを歩き回り、荷台を覗き込んでいる。


 そのまま長椅子へ腰を下ろし、背もたれに体を預けた。


「これなら長旅でも快適そうやな。荷物をアイテムボックスに入れたら、中で寝転がることもできるんちゃう?」


「快適さを求めるのはいいが、勝手に荷台を自分の部屋にするなよ」


 紅蓮が言う。


「まだ何もしてへんやろ!」


「今のうちに言っておいた方がいいと思った」


 シグマも続ける。


「シグマまでうちの扱い雑になってきとらん?」


「妥当な判断です」


 白鬼が答えた。


「白鬼まで!」


 店主はそんな五人を見て笑った後、紅蓮へ尋ねた。


「ところで、引かせる馬はもう決まっているのか?」


「いや。これから見に行くつもりだ。どこか信用できる馬屋を知らないか?」


「それなら、向かいの店がいい」


 店主が通りの反対側を指さす。


 そこには、馬の頭を描いた木製の看板が掲げられていた。


「馬だけでなく、騎獣全般を扱っている。冒険者向けの個体も多いぞ」


「騎獣?」


 シルフの耳が、ぴくりと動いた。


「普通の馬以外もおるんか?」


「行って聞けば分かる」


 紅蓮は嫌な予感がしたのか、釘を刺すようにシルフを見る。


「先に言っておくが、珍しいという理由だけで選ぶなよ」


「分かっとる、分かっとる」


「今の返事、絶対分かっていませんよ」


 白鬼が小声で言う。


「聞こえとるで」


「聞こえるように言いました」


     ◇


 五人が馬屋へ入ると、最初に感じたのは違和感だった。


 馬の匂いも、鳴き声もない。


 広い店内には受付と机、壁に並べられた鞍や手綱があるだけで、肝心の動物は一頭も見当たらなかった。


「……馬屋だよな?」


 紅蓮が周囲を見回す。


「馬どころか、生き物すらおらへんやん」


 シルフが奥を覗き込んでいると、店の裏から一人の男が姿を現した。


「いらっしゃい。馬を探しに来たのか?」


「ああ。ただ、ここにはいないようだが」


「動物たちは城壁の外にある牧場で飼っている。街の中では場所も足りないし、騒音や匂いの問題もあるからな」


 店主は机の上へ一冊の帳面を広げた。


「どんな用途で使う予定だ?」


「五人乗りの馬車を引かせる。長距離の移動と、魔物討伐の依頼にも使うつもりだ」


「なるほど。なら候補は三種類だな」


 店主は指を一本立てる。


「まずは普通の馬だ。扱いやすく、従順で、馬車を引かせるなら最も無難だ。価格は一頭、銀貨十二枚」


「普通が一番安全そうですね」


 白鬼が頷く。


「そうだな。街道を走るだけなら、馬を選んでおけば大きな問題はない」


「街道を走るだけなら?」


 黒鬼が尋ねる。


「馬は臆病な生き物だ。危険を感じ取る能力が高いとも言えるが、大型の魔物を目の前にすると、怯えて動かなくなることがある」


 店主は帳面に描かれた馬の絵を指で叩く。


「販売する馬には、魔物の匂いや鳴き声に慣れる訓練もしている。それでも実際の討伐現場は別物だ。十分な信頼関係がなければ、御者の指示を振り切って逃げる可能性もある」


「それは困りますね……」


 白鬼が難しい顔をする。


「次は騎龍。正式にはリトルアースドラゴンと呼ばれる、小型の地竜だ」


「それや!」


 説明の途中で、シルフが声を上げた。


「まだ何も聞いていないだろう」


 紅蓮が睨む。


「名前からして強そうやん!」


「実際、強いですよ。気性が荒く、扱いは難しいが、信頼を得られれば戦闘にも参加する。牙も爪も強く、並の魔物なら自分で追い払える」


「ほら! これしかないやろ!」


「だが、馬車を引くのは苦手だ。」


 店主が続ける。


 シルフの笑顔が止まった。


「体は頑丈だが、馬車を引くこと自体を嫌がる個体が多い。速度も安定しない。急に走り出したり、立ち止まったりすることもある。価格は一頭、銀貨二十枚だ」


「却下だ」


 紅蓮が即座に言った。


「早すぎへん!? もうちょっと話し合おうや!」


「馬車を引かない騎獣を買って、どうするつもりだ」


「馬車の横を走らせて護衛させるとか……」


「誰が世話をする」


「うちが……」


「餌の量も多いぞ」


 店主が付け加える。


「毎日かなり食べる。鱗の手入れも必要だし、機嫌を損ねれば近づくことすらできん」


「……みんなで協力して」


「自分で世話をすると言ったばかりだろう」


「うちを中心に、みんなでや」


「却下だ」


「二回も却下された……」


 シルフは肩を落とし、椅子の背にもたれかかった。


 店主は苦笑しながら三本目の指を立てる。


「最後は騎鳥、フィナリアルだ」


「騎鳥……」


 黒鬼が小さく呟く。


「大型の鳥で、人を乗せたり、馬車を引かせたりするために飼育されている。人懐っこくて扱いやすく、特に馬車を引くことを好む」


「馬車を引くことが好きなのか?」


 シグマが尋ねる。


「ああ。群れで動く習性があるから、仲間と一緒に走ることを喜ぶんだ。人の声も覚えやすく、慣れるのも早い」


「戦闘ではどうなんだ?」


 紅蓮が尋ねる。


「危険を察知すれば嘴や脚で身を守る。魔物を蹴り飛ばすこともあるが、騎龍ほどの強さは期待しない方がいい。あくまで逃げるための力だと思え」


「馬車を引くのには向いていて、戦いは得意ではないんやな」


「そういうことだ。価格は一羽、銀貨八枚」


 三種類の説明が終わり、五人は顔を見合わせた。


「普通に考えれば、馬だな」


 紅蓮が言う。


「扱いやすく、長く使われている。実績もある」


「せやけど、地竜も捨てがたいで?」


「まだ言うか」


「強いのは正義やん」


「馬車を引かんと言われただろう」


「鍛えれば引くようになるかもしれへん」


「お前は騎龍を鍛える前に、自分の我慢強さを鍛えろ」


「ひどない?」


 紅蓮とシルフが言い合う中、シグマは帳面に描かれた騎鳥の絵を見ていた。


 しばらく黙っていた後、静かに口を開く。


「俺は騎鳥がいい」


 紅蓮とシルフが、同時にシグマを見る。


「騎鳥?」


「ああ」


「何か理由があるのか?」


 紅蓮に尋ねられ、シグマは少し考える。


「なんとなくだ」


「お前までシルフのようなことを言うな」


「なんでそこでうちが出てくるねん!」


 紅蓮は呆れたように頭を押さえた。


 しかし、馬屋の店主は感心したようにシグマを見ていた。


「いや。その考えは、悪くないかもしれない」


「どういうことだ?」


「お前たちは馬車を扱った経験が少ないんだろう?」


「ああ。まともに扱えるのは、今のところシグマだけだ」


 紅蓮が答える。


「なら、フィナリアルの方が向いている。馬は賢い。だからこそ、長く一緒に過ごして信頼を築かなければ、本当の意味では言うことを聞いてくれない」


 店主は壁に掛けられた手綱へ目を向ける。


「経験のある御者なら、怯えた馬を落ち着かせることもできる。だが、慣れていない者には難しい。フィナリアルは人に懐くのが早く、声や簡単な合図も覚えやすい。価格も安いから、初めて騎獣を飼う冒険者には人気がある」


「そういう違いがあるのか」


 紅蓮が納得したように頷く。


 その隣で、白鬼が嬉しそうにシグマを見る。


「さすがシグマさんです! なんとなくで一番いい選択肢を選ぶなんて!」


「シグマさんは、きっと……最初から分かっていたんです……」


 黒鬼も静かに頷いている。


「いや。本当になんとなくだ」


「謙遜しなくてもいいですよ」


「謙遜ではない」


 そこへ、シルフがにやにやしながら紅蓮の肩を叩く。


「いやぁ、さすがシグマやなぁ。誰かさんは、考えなしに馬が一番やとか言っとったけど」


「騎龍を選ぼうとしたお前にだけは言われたくない」


「うちは最初から浪漫を選んどっただけや」


「より悪いだろう」


 ゴツンッ。


 紅蓮の拳が、シルフの頭へ落ちた。


「痛いっ!」


「余計なことを言うな」


「暴力反対や!」


 頭を押さえて抗議するシルフを無視し、紅蓮は店主へ向き直る。


「とりあえず、馬とフィナリアルの両方を見せてもらえるか?」


「ああ。実際に見て決めるのが一番だ」


     ◇


 店主に案内され、五人は城門の外へ出た。


 牧場があるのは、普段あまり利用しない大門と東門の間。


 城壁に沿ってしばらく歩くと、広い柵に囲まれた牧場が見えてきた。


 見渡す限りの草地。


 その中を、何十頭もの馬と、色鮮やかな大型の鳥たちが自由に歩き回っている。


「おお……!」


 シルフが目を輝かせる。


 そして牧場を見回した後、店主へ尋ねた。


「騎龍は?」


「騎龍なら西門側の牧場だ」


「ここやないんか?」


「気性が荒いからな。馬や騎鳥と同じ場所では飼えない」


「ちょっとだけ見に行かへん?」


「行かない」


 紅蓮の返答は早かった。


「見るだけやで?」


「見たら欲しくなるだろう」


「もう欲しいで」


「なおさら行かん」


 シルフは心底残念そうに肩を落とした。


 しかし、残りの四人はそんな彼女を置いて、馬と騎鳥がいる柵へ歩いていく。


「ちょっ、置いていくなや!」


 慌てて追いかけてきたシルフを加え、五人はまず馬を見せてもらった。


 どの馬も毛並みがよく、よく訓練されている。


 店主が合図を送るだけで歩き、止まり、人間が近づいても騒ぐことはない。


「確かに扱いやすそうだな」


 紅蓮が馬の首筋を撫でる。


 馬は嫌がりはしなかったが、耳を動かしながら紅蓮の様子を窺っている。


 初対面の五人に対して警戒しているのか、大人しいながらも一定の距離を保っていた。


 続いて、五人は騎鳥のいる柵へ移動する。


 フィナリアルは、人の背丈を越えるほど大きな鳥だった。


 丸みのある胴体は柔らかな羽毛に覆われ、長く太い脚は力強い。


 翼は小さく、空を飛ぶことはできないようだが、その代わり、走ることに適した体つきをしている。


 五人が柵へ近づくと、数羽のフィナリアルが興味深そうに首を傾げた。


 そのうち一羽が、小走りでシグマの前へやってくる。


 全身を黒い羽毛に覆われた個体だった。


「近いな」


 シグマが手を伸ばす。


 黒いフィナリアルは逃げるどころか、自分から頭を寄せてきた。


 シグマの無機質な右手へ嘴を当て、確かめるように何度か軽くつつく。


 痛みはない。


 やがて危険がないと判断したのか、黒い騎鳥は気持ちよさそうに目を細めた。


「随分と懐かれたな」


 紅蓮が感心したように言う。


「この子、シグマさんを気に入ったみたいですね」


 白鬼も黒い騎鳥の羽毛へ触れようとする。


 だが、黒い騎鳥は白鬼の手を避けるように首を動かし、再びシグマへ体を寄せた。


「……私には触らせてくれないんですけど」


「警戒されているんじゃないか?」


「そんなはずありません!」


「初対面だから、警戒されてもおかしくない」


「シグマさんには最初から懐いているじゃないですか」


「俺に言われても困る」


 白鬼が少しむきになっていると、別の一羽が駆け寄ってきた。


 鮮やかな黄色の羽毛を持つフィナリアルである。


 黄色い騎鳥は白鬼と黒鬼の間へ頭を突っ込むと、二人の頬へ交互に擦り寄った。


「わっ!」


「か、かわいい……」


 白鬼の不満は、一瞬で消えた。


 黒鬼も黄色い羽毛を優しく撫で、嬉しそうに目を細めている。


「ほんまに人懐っこいなぁ」


 シルフが近づくと、黄色い騎鳥は今度は彼女の髪へ嘴を伸ばした。


「おっ、うちにも懐いたか?」


 次の瞬間、騎鳥がシルフの髪を軽く引っ張る。


「痛っ! それ髪や! 餌やないで!」


 シルフが慌てて離れると、黄色い騎鳥は不思議そうに首を傾げた。


「気に入られたんじゃないか?」


「食べ物として見られとる気がするんやけど」


「髪の色が草に似ているからでは?」


 白鬼が笑う。


「うちの髪は草やない!」


 馬たちと比べ、フィナリアルは明らかに人との距離が近かった。


 初対面にもかかわらず、五人の周囲を歩き回り、時折、服や手を嘴で軽くつついてくる。


 その様子を見て、紅蓮も考えを変えたようだった。


「確かに、こちらの方が扱いやすそうだな」


「決まりやな」


 シルフが言う。


「地竜とちゃうんは残念やけど、こいつらも結構かわええし」


「お前は何も決めていないだろう」


「細かいことはええやん」


 話し合いの結果、五人は特によく懐いてきた二羽を選んだ。


 黒いフィナリアルと、黄色いフィナリアル。


 一羽につき銀貨八枚。


 二羽で銀貨十六枚のはずだったが、店主は少し考えた後、銀貨十五枚でいいと言った。


「二羽まとめて買ってくれるんだ。銀貨一枚くらいは負けておく」


「いいのか?」


「ああ。その代わり、大事にしてやってくれ」


「もちろんだ」


 紅蓮が代金を支払い、五人は店主へ礼を伝えた。


 黒と黄色の騎鳥は、最初から自分たちも仲間であるかのように、五人の後ろをついて歩いた。


     ◇


 二羽のフィナリアルを連れて馬車屋へ戻ると、店主は驚いた顔をした。


「馬ではなく、フィナリアルにしたのか」


「ああ。何か問題があるか?」


「問題というほどではないが、馬が来ると思って調整していたからな。引き具の高さや幅を変える必要がある」


 店主はフィナリアルの体格を測り、馬車の接続部分を確認する。


「悪いが、少し時間をもらえるか?」


「構わない。こちらも寄る場所がある」


 馬車屋に調整を頼み、五人は道具屋へ向かった。


 その途中、紅蓮は酒屋の前で足を止める。


「少し待っていろ」


 そう言って店内へ入った紅蓮は、しばらくすると、大きなワイン樽を肩に担いで出てきた。


「……それを今から飲むつもりか?」


 シグマが尋ねる。


「違う。ガルドへの礼だ」


「それにしては大きすぎへん?」


「道具の手配だけでなく、馬車屋への運搬まで引き受けてくれたんだ。このくらいは必要だろう」


「紅蓮さん、嬉しそうですね」


 白鬼の言葉に、紅蓮は視線を逸らした。


「別に嬉しくはない」


「でも、その樽を選んどる時、めっちゃ笑っとったで」


「見ていたのか」


「店の外から丸見えやったし」


「樽を叩いて、耳を近づけていました……」


 黒鬼も小さく付け加える。


「中身の状態を確かめていただけだ」


「やっぱり、めっちゃ真剣に選んどるやん」


 紅蓮は答えず、樽を担ぎ直して歩き始めた。


 道具屋へ到着すると、彼女は勢いよく扉を開く。


「ガルド! いるか!」


「扉を壊す気か!」


 店の奥から怒鳴り声が返ってきた。


 積み上げられた木箱の間から姿を現したガルドは、不機嫌そうに眉を寄せている。


 しかし、紅蓮が肩に担いでいるワイン樽を見た瞬間、その表情が見る見るうちに変わっていった。


「おい、それはまさか……北部産の赤葡萄酒じゃないのか?」


「ああ。しかも三年物だ」


「三年物だと!?」


 ガルドは紅蓮ではなく、樽へ向かって駆け寄った。


 側面に刻まれた焼き印を確かめ、嬉しそうに何度も頷く。


「間違いない。北部の山間で作られているやつだ。香りが強くて、肉料理によく合うんだよな」


「馬車へ積む道具を手配してくれた礼だ」


「分かっているじゃないか、紅蓮!」


 先ほどまで怒鳴っていたとは思えないほど、ガルドは満面の笑みを浮かべていた。


「店の奥へ置いておいてくれ。間違っても転がすなよ」


「この程度の樽を落とすか」


「落とす心配じゃない。中身が揺れるのが勿体ないんだ」


「面倒な男だな」


「酒に関しては、お前も似たようなものだろう」


 紅蓮は否定せず、樽を店の奥へ運んでいった。


 その背中を眺めながら、シルフが呆れたように息を吐く。


「二人とも、酒が絡むと急に機嫌ようなるなぁ」


「シグマも飲むか?」


 戻ってきた紅蓮が尋ねる。


「飲む」


「そこは迷わへんのやな」


「悪いか?」


「別に悪うないけど、今は道具の説明を聞きに来たんやろ?」


「そうだったな」


「酒を持ってきた本人が忘れるな」


 ガルドは呆れたように言うと、作業台の上へ丸められた一枚の紙を広げた。


 描かれているのは、完成した馬車の内部を上から見た図だった。


「お前たちが注文した道具について説明する。馬車に積んではあるが、使い方を知らなければ、どれもただの荷物だからな」


「私は聞かなくても大丈夫やで」


 シルフが胸を張る。


「こういうんは見たら大体分かる」


「では帰っていいぞ」


「なんでや!」


「説明を聞かない奴に渡す道具はない」


「聞く! ちゃんと聞くから!」


 シルフは慌てて作業台へ近づいた。


 白鬼もその隣に立つ。


 黒鬼は説明を書き留めるため、小さな紙と炭筆を取り出していた。


 その様子に気づいたガルドは、少し感心したように眉を上げる。


「お嬢ちゃんは準備がいいな」


「わ、忘れてしまうと……困りますから……」


「黒鬼は真面目だな」


 シグマが言う。


 黒鬼は嬉しそうにしながらも、恥ずかしそうに炭筆へ視線を落とした。


「そ、そんなことは……」


「私も覚えられますよ!」


 白鬼が割り込むように声を上げる。


「お姉ちゃんも……紙を用意した方がいいと思う」


「大丈夫です。私には抜群の記憶力がありますから!」


 黒鬼は何か言いたそうに白鬼を見たが、結局、黙って紙へ視線を戻した。


「まずはアイテムボックスだ」


 ガルドが図の中央を指で叩く。


「馬車の座席下に固定してある。見た目は大きな箱だが、内部には空間を拡張する術式が刻まれている。外から見える大きさより、遥かに多くの物を収納できる魔道具だ」


「どれくらい入るんや?」


 シルフが尋ねる。


「食料や水、毛布、予備の武器、工具を入れても余裕がある。上手く使えば、普通の荷馬車数台分は入るだろう」


「そんなに入るんですか!」


 白鬼が目を輝かせる。


「ほな、うちの着替えやお菓子もたくさん入るな」


「お前専用ではない」


 紅蓮が即座に言った。


「まだ何も入れとらんやろ」


「今のうちに釘を刺しておく」


「今日そればっかりやな!」


 ガルドはアイテムボックスの鍵を取り出し、全員に見えるよう持ち上げた。


 鍵の持ち手部分には、小さな青い魔石が埋め込まれている。


「収納できる量には限界がある。箱の中央に埋め込まれた魔石を見れば、おおよその残り容量が分かる仕組みだ」


「今は青かったな」


 シグマが言う。


「ああ。青なら余裕がある。黄色に変わったら残りは少ない。赤くなったら、それ以上入れようとするな」


「無理に入れると、どうなるんですか?」


 白鬼が尋ねる。


「術式が不安定になる。最悪の場合、収納していた物が全部まとめて外へ吐き出される」


「……馬車の中にですか?」


「そうだ」


「金床や工具も一緒に?」


「当然だ」


 白鬼の顔から笑みが消えた。


「絶対に無理に入れません」


「それだけは覚えておけ」


 ガルドは鍵を紅蓮へ渡した。


「基本的には鍵を差し、蓋を開けて出し入れする。取り出したい物を思い浮かべながら箱へ触れれば、入口まで移動してくる」


「中で荷物が勝手に整理されるのか?」


 紅蓮が尋ねる。


「完全に勝手ではない。最初に食料、道具、衣類、討伐素材といった区画を設定する必要がある。四つまで分けられるから、種類ごとに整理しておけ」


「うち専用の区画を一つ作れば――」


「作らない」


「最後まで言わせてくれてもええやん!」


「お前の荷物だけで一つ使うつもりだろう」


「お菓子と着替えと予備の弓くらいや」


「十分多い」


「食料の場所へ、お菓子も入れればいいのでは?」


 白鬼が言う。


「白鬼、分かっとるやん!」


「私も少し入れたいだけです」


「結局、自分も食べたいんやん」


 紅蓮が額を押さえる。


「食料の区画へ入れるのは構わんが、必要な保存食を圧迫するほど入れるな」


「はーい」


「返事が軽い」


 ガルドが咳払いし、説明を続ける。


「生き物は入れるな。それと、火がついた物や、魔力が不安定な魔石も収納するな」


「中に入れた食べ物は、腐らないんですか?」


 黒鬼が尋ねる。


「外に置くより傷みにくいが、時間が完全に止まるわけじゃない。生肉や魚を何日も放置すれば、普通に腐る」


「食べ物を入れたことを忘れたら、最悪やな……」


「だから帳面を用意して、何を入れたか記録しておけ」


 ガルドが言うと、全員の視線が黒鬼へ集まった。


「く、黒鬼。任せてもいいか?」


 紅蓮が尋ねる。


「は、はい。分かりました……」


「私も手伝います!」


 白鬼が元気よく手を挙げる。


「では、今の注意事項を言ってみろ」


「赤くなったら、気合で押し込まない!」


「……間違いではないが、それしか覚えていないだろう」


「ほかも覚えていますよ!」


「では、生肉は?」


「焼いてから入れる!」


「黒鬼。帳面はお前一人で管理してくれ」


「はい……」


「どうしてですか!」


「今の返事で分かっただろう」


 紅蓮の言葉に、白鬼は不満そうに頬を膨らませた。


「次は携帯用の金床だ」


 ガルドは図の端を指さす。


「金床そのものはアイテムボックスの中へ収納してある。使う時は必ず馬車の外へ出せ」


「荷台で使ってはいけないのか?」


 シグマが尋ねる。


「駄目だ。金床そのものが重い上、武器を叩く衝撃が馬車の床や車輪に伝わる。修理をしているつもりで、馬車を壊すことになるぞ」


「どうやって出すんや? あんな重いもん、持ち上げられへんで」


「持ち上げる必要はない。箱を開け、金床を思い浮かべながら、設置したい場所を指示する」


 ガルドは床を指さした。


「アイテムボックスの近くで、十分な広さのある場所なら、指定した地面へ直接取り出せる。ただし、人の頭上や不安定な場所には出せないよう制限されている」


「試してみたいな」


 紅蓮が呟く。


「お前なら普通に担げるだろう」


「魔道具で取り出す方が楽だ」


「紅蓮でも楽したいと思うんやな」


「当然だ。力があるからといって、何でも力任せに運ぶ必要はない」


「さっき樽を担いどったやん」


「あれは私が運びたかったからだ」


「やっぱり嬉しかったんやん」


 紅蓮の拳がゆっくりと持ち上がる。


「何でもありません」


 シルフは即座に頭を押さえ、視線を逸らした。


「工具箱には、車輪の留め具、交換用の金具、縄、簡単な武器の補修道具が入っている。それから、車輪が泥へ沈んだ時に使う板も積んである」


「板を敷けば抜け出せるのか?」


「ああ。地面の固い場所まで並べて、その上をゆっくり進ませる。ただし、勢いよく動かすな。車輪が板から外れて余計に沈む」


 シグマと紅蓮は真剣な表情で聞いている。


 黒鬼も、説明を聞き逃さないよう炭筆を動かし続けていた。


 一方、白鬼は途中から工具箱に描かれた模様を眺め、シルフは店内の棚に並んだ矢尻へ視線を向けている。


 ガルドは二人の様子に気づいた。


「そこの二人」


「はい!」


「聞いとるで!」


 二人は同時に姿勢を正した。


「車輪が泥に沈んだら、どうする?」


「白鬼さんの魔法で地面を吹き飛ばす!」


 シルフが即答した。


「馬車ごと吹き飛ぶだろうが」


「では、私が炎魔法で泥を乾かします!」


「車輪と馬車が燃えるぞ」


「……あかんかったか」


「いい案だと思ったんですが……」


 ガルドは深々とため息をついた。


「最初から説明し直す。今度こそ聞け」


「ええっ、最初から?」


「聞いていなかったお前たちが悪い」


「黒鬼の紙を見せてもらえば――」


「自分で聞け」


 紅蓮に睨まれ、シルフと白鬼は揃って肩を落とした。


「はい……」


「分かりました……」


 二人がガルドから改めて説明を受けている間、シグマは黒鬼の書いた紙を覗き込んだ。


 整った文字で、アイテムボックスの使い方や注意点が細かく記されている。


「分かりやすいな」


「そ、そうでしょうか……」


「ああ。これなら全員が見ても分かる」


「でしたら……馬車の中に置いておきます。忘れた時に、すぐ確認できるように……」


「助かる」


 シグマが頷くと、黒鬼は炭筆を握ったまま、小さく微笑んだ。


     ◇


 道具屋を出て馬車屋へ戻ると、調整を終えた馬車が店の前へ出されていた。


 黒と黄色のフィナリアルには、それぞれの体格に合わせた引き具が取り付けられている。


 二羽は窮屈そうにすることもなく、早く走りたいと訴えるように何度も地面を蹴っていた。


「待たせたな。調整は終わったぞ」


 馬車屋の店主が、引き具の留め具を最後に確認する。


「馬に使う物より少し高い位置で固定してある。フィナリアルは脚の動きが大きいから、低い位置で繋ぐと走った時に邪魔になるんだ」


「外れる心配はないか?」


 紅蓮が金具を引き、強度を確かめる。


「普通に走る分には問題ない。だが、一日の終わりには必ず留め具を確認しろ。小さな緩みを放っておけば、やがて大きな破損につながる」


「分かった」


「それと、最初から速く走らせるなよ。二羽がお前たちの合図に慣れるまでは、ゆっくり歩かせろ」


 店主は手綱をシグマへ差し出した。


「今の中で馬車を扱えるのは、お前だけだったな」


「ああ」


「フィナリアルは馬よりも声へ反応しやすい。手綱だけで無理に動かそうとせず、進む、止まる、曲がるの合図を短い言葉で統一するといい、名前があるならそれぞれに指示が出来る。」


「名前はまだ決めていない」


「なら、しばらくは羽の色で呼んでも構わん。ただし、全員が違う言葉で指示すると混乱するぞ」


 シグマが御者台へ上がる。


 その隣には、黒鬼が少し緊張した様子で座った。


 紅蓮、白鬼、シルフは後方の荷台へ乗り込む。


 馬車の中には向かい合わせの長椅子があり、その下にアイテムボックスが固定されていた。


 シルフは早速、座席下へ身を屈める。


「これがアイテムボックスか」


「勝手に開けるな」


 紅蓮が止める。


「見るだけやって」


「お前の見るだけは信用できん」


「朝から信用されてへんなぁ、うち……」


「自分の行動を思い返せ」


 シルフが何か言い返そうとした時、シグマが前方から声をかけた。


「動かすぞ。座っていろ」


「はいはい。勇者様は大人しく座っときます」


「自分で勇者様と言うな」


 紅蓮の言葉に、シルフは口を尖らせながら椅子へ腰を下ろした。


 シグマは手綱を軽く握り、二羽へ声をかける。


「進め」


 黒いフィナリアルが先に一歩を踏み出した。


 黄色いフィナリアルも少し遅れて続く。


 引き具が軋み、車輪がゆっくりと回り始めた。


 完成したばかりの馬車が、初めて自らの力で前へ進む。


「おお……!」


 黒鬼が小さく声を漏らす。


 荷台からは、シルフの大きな歓声が響いた。


「動いた! ほんまに動いたで!」


「馬車なんだから動くだろう」


 紅蓮が答える。


「分かっとるけど、こういうんは感動するやん!」


 シルフは窓から顔を出し、後ろへ流れていく街並みを眺める。


「思っとったより速いなぁ!」


「まだ歩いているだけだ」


「もっと速う走らせてみようや!」


「店主の話を聞いていなかったのか」


「ちょっとだけなら――」


 ガタンッ!


 片方の車輪が、道に落ちていた小さな石を踏んだ。


 馬車が大きく揺れ、立ち上がりかけていたシルフの体が宙へ浮く。


「うわっ!」


 シルフは慌てて座席へしがみついた。


 隣に座っていた白鬼が、冷ややかな視線を向ける。


「もっと速く走ったら、今頃外へ飛んでいましたね」


「今のは心の準備ができとらんかっただけや」


「立つなと言われていたでしょう」


「ちょっと外を見たかっただけやん」


「落ちても拾いに戻らんぞ」


 紅蓮が言う。


「そこは戻ってきてや!」


「なら大人しく座っていろ」


 シルフは渋々、椅子へ深く腰を下ろした。


 その後、馬車は大きな問題もなく街を抜け、近くの草原へ向かった。


 御者台では、シグマが二羽の様子を注意深く観察していた。


 黒いフィナリアルは落ち着いており、声をかけるだけで素直に進路を変える。


 一方、黄色いフィナリアルは好奇心が強いらしく、道端の花や空を飛ぶ虫へ何度も目を向けていた。


 黄色い方が少し外へ逸れようとするたびに、黒い方が歩調を緩め、相棒を待とうとする。


「二羽で性格が違いますね……」


 黒鬼が言う。


「ああ。黒い方は慎重で、黄色い方は落ち着きがない」


「どこかの誰かさんたちみたいですね」


 荷台から白鬼の声が飛んでくる。


「誰のことや?」


 シルフが尋ねる。


「誰でしょうね」


「こっち見ながら言うのやめてくれへん?」


 草原へ到着すると、シグマは声と手綱を使い、二羽をゆっくりと停止させた。


 馬車から降りた紅蓮が、辺りを見回す。


 平坦な草地が広がっており、少し離れた場所には緩やかな坂もある。


 馬車の操作を覚えるには、ちょうどいい場所だった。


「ここなら、多少進路を間違えても何かにぶつかる心配はないな」


「多少どころか、思いっきり間違えても大丈夫やで」


 シルフが両手を広げる。


「何もないからな!」


「だからといって好き勝手に走るなよ」


 シグマは御者台から降りると、全員を見回した。


「俺だけが扱える状態では困る。今日は全員、最低限の操作を覚える」


「私は後ろから魔法で援護する役目です」


 白鬼が目を逸らしながら言う。


「馬車の操作までは必要ないと思います」


「うちも弓で周囲を警戒する役目や」


 シルフも白鬼へ続く。


「御者までやっとったら、敵を見つけられへんやろ?」


「御者が負傷した時はどうする」


 シグマが尋ねる。


「その時は紅蓮が……」


「私も戦っている可能性が高い」


 紅蓮が腕を組む。


「では、黒鬼が……」


「私も負傷者の治療をしているかもしれません……」


「ほなシグマが――」


「最初に俺が負傷した場合の話だ」


 シルフと白鬼は同時に口を閉じた。


「全員が動けなくなることなんて、そうそうないと思いますけど……」


 白鬼が小さく呟く。


「ないとは言い切れない」


 シグマの声は静かだった。


「それに、長距離を移動するなら交代できた方がいい。一人で御者を続ければ、周囲への警戒も鈍る」


「それは確かにそうだな」


 紅蓮が頷く。


「御者だけでなく、馬車を止める方法を知らなければ、緊急時に全員が危険になる。遊びではない。覚えろ」


「紅蓮まで真面目やなぁ……」


「当然だ」


 白鬼とシルフは互いの顔を見合わせる。


「……逃げられそうにありませんね」


「せやな」


 二人は同時にため息をついた。


「では、誰から始める?」


 紅蓮が尋ねる。


「黒鬼からだ」


 シグマが答えた。


 黒鬼は自分の名前が出たことに驚き、肩を揺らした。


「わ、私からですか?」


「道具の説明も一番理解していた。話を聞いて、その通りに動くのが得意だろう」


「そうでしょうか……」


「ああ」


 シグマに真っ直ぐ言われ、黒鬼は少し迷った後、小さく頷いた。


「が、頑張ります……」


 御者台へ上がった黒鬼は、緊張で体を硬くしていた。


 手綱を受け取るものの、強く握りすぎて指先が白くなっている。


 シグマはその隣へ座った。


「力を入れすぎなくていい」


「でも……落としてしまったら……」


「落とさない程度でいい。強く握ると、細かい合図が出せなくなる」


 シグマは黒鬼の持つ手綱へ、自分の手を軽く添えた。


「このくらいだ」


「は、はい……」


 突然手を添えられた黒鬼の頬が、僅かに赤くなる。


 荷台からその光景を見ていた白鬼の眉が、ぴくりと動いた。


「近くないですか?」


「教えているんだから、仕方ないだろう」


 紅蓮が答える。


「でも、手を重ねる必要までは……」


「お姉ちゃん」


 黒鬼が振り返る。


「集中できないので……静かにしてください」


「黒鬼!?」


「今は私の練習です」


「は、はい……」


 妹に叱られた白鬼は、しょんぼりと座席へ戻った。


 シルフが白鬼の肩を軽く叩く。


「元気出し。順番はそのうち回ってくるで」


「シルフさんに慰められると、余計に悲しくなります」


「どういう意味やねん!」


 荷台の騒ぎを無視し、シグマは黒鬼へ説明を続けた。


「まず、進めと短く声をかける。強い声でなくていい。聞こえれば十分だ」


「……進んでください」


 二羽のフィナリアルが同時に首を傾げた。


 だが、動かない。


 黒鬼の声が小さすぎて、合図だと判断できなかったらしい。


「もう少しだけ大きく」


「は、はい」


 黒鬼は一度深呼吸する。


「進んでください」


 今度は声が届いた。


 黒いフィナリアルが足を踏み出し、黄色いフィナリアルもその後に続く。


 馬車がゆっくりと前へ進み始めた。


「動きました……!」


「前を見ろ」


「は、はい!」


 黒鬼は慌てて前へ向き直った。


「曲がる時は、行きたい方向の手綱を少しだけ引く。反対側を強く引く必要はない」


「右へ……行ってください」


 声をかけながら右手側の手綱を僅かに引く。


 二羽は歩調を合わせ、緩やかに右へ曲がった。


「上手い」


 シグマが言う。


「初めてにしては、かなり安定している」


「ほ、本当ですか?」


「ああ。二羽も落ち着いている」


 黒鬼の表情が明るくなる。


「シグマさんが……分かりやすく教えてくれるからです……」


「お前がきちんと聞いているからだ」


 黒鬼は嬉しそうに微笑み、もう一度前を向いた。


 その後も、直進、左右への旋回、停止を繰り返す。


 止める時に少し合図が弱く、黄色いフィナリアルだけが一歩多く進むことはあったが、大きく進路を外すことはない。


 練習を終える頃には、黒鬼は一人でも馬車をゆっくり走らせられるようになっていた。


「これなら問題ない」


 シグマが手綱から手を離す。


「もう少し慣れれば、一人でも街道を走れる」


「あ、ありがとうございます……!」


 黒鬼が嬉しそうに頭を下げる。


 白鬼は我慢できなくなったように立ち上がった。


「シグマさん! 次は私ですよね!」


「次は紅蓮だ」


「どうしてですか!?」


「先ほど決めた順番だ」


「そんな順番、聞いていません!」


「今決めた」


「横暴です!」


「お姉ちゃんは後」


 黒鬼が静かに言った。


「黒鬼まで……」


「お姉ちゃんは、人の話を聞かないから……先に紅蓮さんを見て勉強してください」


「私だって話は聞いています!」


「では……アイテムボックスへ入れてはいけない物は?」


「生き物と、腐った食べ物!」


「腐る前の生肉も……長く入れてはいけません」


「大体合っています!」


「大体では困る」


 紅蓮に言われ、白鬼は再び肩を落とした。


「では、私がやる」


 紅蓮が御者台へ乗り込み、黒鬼と交代する。


 紅蓮は手綱を受け取ると、大剣を握る時と同じように力強く掴んだ。


「紅蓮。力を抜け」


「これでも抜いている」


「もっとだ」


「落としそうだ」


「落とすほど弱く握れとは言っていない」


 紅蓮は眉を寄せながら、少しずつ指の力を緩める。


「大剣より面倒だな」


「手綱は敵ではない。力で従わせようとするな」


「分かっている」


「分かっている者の握り方には見えんけどなぁ」


 荷台からシルフが口を挟む。


「では、お前が先にやるか?」


「紅蓮の勇姿を見守るのが仲間の役目や」


「逃げただけだろう」


「戦略的な順番変更や」


「黙って見ていろ」


 紅蓮は二羽へ声をかけた。


「進め!」


 力強い声が草原へ響く。


 驚いた黄色いフィナリアルが大きく跳ね、黒いフィナリアルも反射的に勢いよく走り出した。


 馬車が急発進する。


「わああっ!」


 白鬼とシルフが、同時に後方へ倒れた。


 黒鬼は座席の縁を掴み、どうにか体勢を保っている。


「紅蓮! 声が強すぎる!」


「普通に言ったつもりだ!」


「どこがや! 魔物を威嚇する時の声やったで!」


「紅蓮さん! 止めてください!」


「止まれ!」


 紅蓮が声を上げ、手綱を強く引いた。


 二羽は急停止し、今度は荷台にいた三人の体が前へ投げ出される。


「きゃっ!」


「うわっ!」


 白鬼とシルフが床へ転がり、黒鬼だけは前の座席へ手をついて耐えた。


「……黒鬼。よく耐えたな、大丈夫か?」


 シグマが振り返る。


「だ、大丈夫です。あ、ありがとうございます……」


「うちらの心配もしてくれへん?」


 床に倒れたまま、シルフが顔を上げる。


「怪我はないだろう」


「心に深い傷を負ったわ」


「元気そうだな」


「扱いが雑や!」


 紅蓮は申し訳なさそうに二羽を見る。


 黄色いフィナリアルは驚いたように羽毛を膨らませ、黒いフィナリアルは不満そうに短く鳴いていた。


「悪かった」


 紅蓮が二羽の背へ声をかける。


「力を入れすぎた」


「今度は声を抑えろ。手綱も引くのではなく、軽く張るだけでいい」


「分かった。もう一度だ」


 二度目は、紅蓮も慎重に声をかけた。


 最初より遥かに穏やかに馬車が動き出す。


 力加減に苦戦しながらも、何度か繰り返すうちに、紅蓮は安定して操作できるようになった。


 特に進路を決めた後は迷いがなく、真っ直ぐ走らせることに関しては黒鬼よりも速かった。


「止める時は、もう少しゆっくりだ」


「このくらいか?」


「それでいい」


 二羽が緩やかに歩調を落とし、静かに停止する。


 紅蓮は満足そうに頷いた。


「大体分かった。力ではなく、合図を伝えることが大切なんだな」


「ああ」


「戦闘と同じだな。相手の動きを考えず、力任せに攻撃しても隙を作るだけだ」


「そこまで立派な話にする必要あるん?」


 シルフが尋ねる。


「お前もすぐに分かる」


「嫌な予感するわ……」


 続いて、ようやく白鬼の番が回ってきた。


「待っていました!」


 白鬼は勢いよく御者台へ上がり、シグマの隣へ座る。


 そして黒鬼を意識しているのか、やけに距離を詰めた。


「近い」


 シグマが言う。


「御者台が狭いだけです」


「反対側が空いている」


「気のせいです」


 荷台へ戻った黒鬼が、無言で姉を見つめていた。


「白鬼。まず手綱を持て」


「はい!」


 白鬼は元気よく返事をし、両手で手綱を握る。


「力は入れすぎない。声も大きくする必要はない」


「分かりました!」


「今の返事より小さな声でいい」


「はい!」


「変わっていない」


 白鬼は一度咳払いをし、二羽へ声をかけた。


「進んでください!」


 やはり声が大きかった。


 黄色いフィナリアルが驚いて駆け出し、黒いフィナリアルも引っ張られるように速度を上げる。


「速い! 思ったより速いです!」


「白鬼、落ち着け。手綱を強く引くな」


「でも、止めないと!」


「急に引けば、さっきの紅蓮と同じになる」


「では、どうすればいいんですか!?」


「声を落とせ。ゆっくり止まれと伝えろ」


「ゆ、ゆっくり止まってくださあああい!」


「声が大きい!」


 二羽は白鬼の焦った声に混乱し、左右へ別々に進もうとする。


 馬車が草原を大きく蛇行した。


「右! いえ、左! やっぱり右です!」


「どっちやねん!」


 荷台でシルフが叫ぶ。


「白鬼! 一度進路を決めたら変えるな!」


 紅蓮も座席へしがみつきながら指示を飛ばす。


「だって黄色い子が右へ行きたそうなんです!」


「御者はお前だ! 騎鳥の行きたい方へ行ってどうする!」


「でも、無理に止めるのはかわいそうです!」


「なら御者を代われ!」


「嫌です!」


 白鬼は涙目になりながらも、手綱を離そうとしなかった。


 シグマが横から手を伸ばし、白鬼と一緒に手綱を操作する。


「まず真っ直ぐに戻す。声は出さなくていい」


「は、はい!」


「手の動きだけで進路を伝えろ」


 二羽の歩調が少しずつ揃い、馬車が直進へ戻る。


「次は止める。強く引くな。手綱を軽く張って、短く言え」


 白鬼は一度深呼吸した。


「……止まってください」


 先ほどよりも遥かに小さな声だった。


 二羽は少しずつ速度を落とし、やがて馬車が静かに停止する。


「止まりました……」


「ああ」


「できました!」


 白鬼の表情が一気に明るくなる。


「シグマさん、できましたよ!」


「今のはよかった」


「もっと褒めてください!」


「止まれただけだ」


「黒鬼の時は、上手いとか初めてとは思えないとか、たくさん言っていたじゃないですか!」


「黒鬼は最初からできた」


「私も最後にはできました!」


「最後にはな」


「扱いが違いませんか!?」


 白鬼が不満そうにシグマへ詰め寄る。


「お姉ちゃん」


 荷台から黒鬼の声が聞こえた。


「前を見てください」


「今は止まっています!」


「でも、手綱を持っている時は……集中しないと駄目です」


「黒鬼までシグマさんの味方をするんですか?」


「味方ではなく……危ないから言っているだけです」


「分かりました……」


 白鬼は口を尖らせながら前へ向き直った。


 その後も練習を続け、何度か大きく曲がりすぎることはあったものの、最後には一人で進む、曲がる、止まるまでを行えるようになった。


「どうですか?」


「最初よりはよくなった」


「最初と比べないでください」


「ほかに比べるものがない」


「黒鬼と比べてください!」


「黒鬼の方が上手い」


「もういいです!」


 白鬼は頬を膨らませ、乱暴にならないよう慎重に手綱をシグマへ返した。


 最後はシルフだった。


「ついに、うちの出番やな」


 シルフは自信満々に御者台へ上がる。


「見とき。風の勇者による華麗な手綱捌きを見せたるわ」


「弓と馬車は違うぞ」


「同じようなもんやろ。手を使って狙ったところへ動かすんやから」


「全く違う」


「始める前から否定せんでもええやん」


 シルフは手綱を握ると、二羽のフィナリアルへ笑いかけた。


「よし。黒い方、黄色い方、今からうちが動かすで。安心してついてきてな」


 二羽がシルフの声に反応し、首を傾げる。


「まずは真っ直ぐや。ゆっくりでええからな。あっ、でも遅すぎても日が暮れるし、ちょっとだけ急いでくれてもええで」


 二羽は動かない。


「どうしたん? 遠慮せんでもええで。ほら、前や。前に進むんや」


 黄色いフィナリアルが、近くに咲いていた花へ目を向けた。


「あっ、花が気になるんか? 綺麗やけど、食べたらあかんで。腹壊すかもしれへんしな」


 黄色いフィナリアルが花の方へ歩き始める。


「いや、そっちちゃう。前や前。黒い方も止まっとらんと、黄色い方を呼び戻してや」


 黒いフィナリアルは、その場から動こうとしない。


 片方だけが進んだことで、馬車が斜めに傾いた。


「うわっ、ちょっと待って! 二羽とも別々のことせんといて!」


「言葉が多い」


 シグマが言う。


「会話は大事やろ?」


「合図と会話の区別がついていない。二羽が混乱している」


「せやけど、仲良うなるには話しかけた方がええやん」


「走っていない時にしろ」


「今も走ってへんで」


「お前が走らせられていないからだ」


 荷台から笑い声が上がった。


「シグマさん、上手いですね」


 白鬼が楽しそうに言う。


「今のは一本取られたなぁ」


 紅蓮も僅かに笑っている。


「笑うなや!」


 シルフは頬を膨らませながら、改めて手綱を握り直した。


「短く進めと言え」


「分かった。進め!」


 二羽のフィナリアルが、ほぼ同時に足を踏み出す。


「動いた!」


「前を見ろ」


「分かっとるって!」


 シルフは先ほどまでとは打って変わり、指先で器用に手綱を動かした。


 弓を扱うことで細かな力加減に慣れているためか、一度合図の出し方を理解すると、曲がる操作は驚くほど滑らかだった。


「右や」


 二羽が緩やかに右へ曲がる。


「次は左」


 今度も大きく膨らむことなく、きれいな弧を描いた。


「どうや!」


「悪くない」


「悪くないだけ?」


「最初が酷すぎた」


「最初のは二羽と仲良うしようとしとっただけや」


「馬車を動かす練習だ」


「でも、結構上手いでしょう?」


 白鬼が荷台から尋ねる。


「指先の使い方は上手い」


 シグマが認める。


 シルフは得意げに胸を張った。


「聞いたか、紅蓮! うちは褒められたで!」


「前を見ろ!」


「え?」


 シルフが前へ向き直る。


 進行方向には、小さなくぼみがあった。


「左へ避けろ!」


「分かっとる!」


 シルフは慌てて手綱を動かした。


 二羽はくぼみを避けようと急に左へ曲がる。


 荷台が大きく揺れ、白鬼と黒鬼が紅蓮へ倒れ込んだ。


「きゃっ!」


「わっ……!」


 紅蓮は二人を片腕で受け止めながら、御者台を睨む。


「シルフ!」


「避けたやろ!」


「もっと早く前を見ていれば、急に曲がる必要はなかった!」


「褒められたから、ちょっと後ろ見ただけやん!」


「御者が進行方向から目を離すな!」


「はい……」


 シルフは叱られた子供のように肩を落とした。


 それでも、その後は真面目に前を向き、直進と停止も問題なくこなした。


「止まれ」


 シルフが短く合図する。


 二羽が歩調を緩め、馬車が静かに止まった。


「よし。完璧や」


「前を見ていればな」


「最後くらい素直に褒めてくれてもええやん」


「操作自体は悪くなかった」


「ほら! うち、才能あるやろ!」


「調子に乗るところが悪い」


「一言余計や!」


 全員が最低限の操作を覚えた後も、練習は続いた。


 今度は直線だけではなく、目印として地面へ置いた木箱の間を縫うように走る。


 緩やかな坂道を上り、下りでは速度を出しすぎないよう抑える。


 狭い場所で馬車の向きを変え、後退せずに元の進路へ戻す。


 最初に挑戦した黒鬼は、速度こそ遅いものの、木箱へ一度も触れることなく通り抜けた。


「おお……黒鬼、また上手くなっとるやん」


 シルフが感心したように言う。


「は、速く走るのは怖いので……ゆっくり進んだだけです……」


「安全に進めるのも大切だ」


 シグマが答える。


「無理に速くする必要はない」


 紅蓮は坂道の下りで速度を抑えることに苦戦した。


 手綱を引きすぎると二羽が急に止まり、緩めすぎると馬車の重さで速度が上がってしまう。


「平地より難しいな」


「馬車の重さが後ろから押す。二羽だけに止めさせようとせず、早めに速度を落とせ」


「なるほど」


 二度目は坂へ入る前から速度を落とし、安定して下りきることができた。


 白鬼は木箱の間を通る途中で、黄色いフィナリアルが一つの木箱へ興味を示したため、一緒になってそちらへ近づいてしまった。


「白鬼! 木箱へ寄るな!」


「黄色い子が気になっているようなので……」


「何が入っているかは関係ない!」


「中身は空やで!」


 シルフが叫ぶ。


「空なら確認しなくてもいいではありませんか!」


「確認しようとしたんは白鬼やろ!」


 木箱へぶつかる寸前で、シグマが手綱を補助する。


「騎鳥が興味を持つたびに寄り道していたら、目的地へ着かないぞ」


「今度から気をつけます……」


 最後のシルフは、木箱の間を素早く抜けようとして紅蓮に止められた。


「速さを競っているんやないの?」


「安全に曲がる練習だ」


「遅かったら、敵に追いつかれるやん」


「今は敵に追われていない」


「緊急時を想定して――」


「まず通常時の操作を覚えろ」


「はい……」


 途中で御者を交代する練習も行った。


 普段は必ず馬車を止めて交代する。


 しかし、戦闘中に御者が負傷した場合、すぐに馬車を止められるとは限らない。


 そのため、十分に速度を落とした状態で、隣の者へ手綱を渡す練習も行うことになった。


 まず黒鬼が手綱を握り、一定の速度で馬車を進める。


「交代する時は、完全に止めた方がいいのでは……?」


「普段はそうしろ」


 シグマが答える。


「今は緊急時を想定している。御者が負傷した時、止める余裕がない場合もある」


「では……誰と交代しますか?」


「白鬼だ」


「私ですか!」


 白鬼が荷台から身を乗り出す。


「走っている馬車の上で交代なんて、危なくありませんか?」


「だから練習する」


「黒鬼が私に手綱を渡してくれるなら、頑張ります!」


「馬車の外へ落ちないでくださいね……」


「黒鬼は私を信用していないんですか?」


「さっき……何度も進路を間違えていたから……」


「今度は大丈夫です!」


 黒鬼が速度を十分に落とし、白鬼が慎重に御者台へ移動する。


 手綱を受け取る際、白鬼の足が座席へ引っかかった。


「わっ!」


 体が前へ傾く。


 シグマが白鬼の腰を掴み、御者台から落ちるのを防いだ。


「危ない」


「す、すみません……」


 白鬼の顔が一瞬で赤くなる。


 荷台では、黒鬼が姉とシグマをじっと見つめていた。


「交代できました!」


 白鬼は照れ隠しをするように、必要以上に大きな声を出した。


「まだ手綱を持っただけだ」


「分かっています!」


 次は紅蓮からシルフへの交代だった。


「落とすなよ」


 紅蓮が手綱を差し出す。


「誰に言うとるんや。うちは風の勇者やで」


「風の勇者と手綱を落とさないことに何の関係がある」


「何となく格好ええやろ」


 シルフは片手で手綱を受け取ろうとする。


 だが、黄色いフィナリアルが突然、飛んできた蝶へ反応して横へ動いた。


 手綱がシルフの指から滑り落ちそうになる。


「うわっ!」


 紅蓮が即座に掴み直す。


「片手で受け取るな!」


「今のは蝶が悪い!」


「蝶に責任を押しつけるな!」


「黄色い方も蝶に気を取られすぎや!」


 シルフが前方へ声を飛ばす。


 黄色いフィナリアルは褒められたと思ったのか、嬉しそうに鳴いた。


「返事しとる場合ちゃうで!」


「お前と似ているな」


 紅蓮が呟く。


「どこがや!」


「落ち着きがなく、すぐ余所見をする」


「全然似てへん!」


 全員が同時にシルフを見る。


「なんで黙るん?」


 誰も答えなかった。


 何度も交代や操作を繰り返し、最後には全員が一人で草原を一周できるまでになった。


 黒鬼は最も安定しており、速度こそ控えめだが、急な操作を一度もしなかった。


 紅蓮は最初こそ力加減に苦労したが、慣れてからは進路を迷わず、坂道でも安定していた。


 白鬼は時折、黄色いフィナリアルの気分に流されて進路を変えてしまうものの、声の大きささえ抑えれば問題なく扱えた。


 シルフは指先の操作だけなら上手かったが、頻繁に後ろを振り返ったり、二羽へ話しかけすぎたりするため、最後まで紅蓮から注意を受け続けた。


 日が傾き始めた頃、五人は馬車を止め、草原で短い休憩を取った。


 夕日に染まった空の下、二羽のフィナリアルは引き具を外してもらい、近くの草を啄んでいる。


 黄色いフィナリアルは食べながらも、時折飛んでくる虫を追いかけていた。


 黒いフィナリアルはそんな相棒の後ろを、落ち着いた様子で歩いている。


「随分と性格が違うな」


 紅蓮が言う。


「黒い方はシグマに似ていますね」


 白鬼が答える。


「静かで落ち着いていて、周りをよく見ています」


「ほな、黄色い方は白鬼に似とるな」


 シルフが言った。


「どうして私なんですか?」


「元気で、すぐ走り出して、人の言うことを途中までしか聞かへん」


「最後の部分はシルフさんでは?」


 黒鬼が小さく口を挟む。


「黒鬼までそんなこと言うん!?」


「わ、私は……事実を言っただけです……」


「黄色い方は、シルフと白鬼を混ぜたような性格だな」


 紅蓮が結論を出す。


「そんな騒がしい生き物、可哀想やろ!」


「シルフさんと一緒にしないでください!」


「白鬼も否定するんか!」


 二人が言い争う横で、シグマは黒いフィナリアルの首筋を撫でていた。


 黒いフィナリアルは目を細め、体をシグマへ寄せる。


「本当にシグマさんへ懐いていますね」


 黒鬼が隣へやってくる。


「ああ」


「触っても……大丈夫でしょうか?」


「聞いてみればいい」


「き、聞くんですか?」


 黒鬼が戸惑いながら手を伸ばす。


 黒いフィナリアルは一度だけ黒鬼の手を見た後、逃げることなく首を下げた。


 黒鬼が優しく羽毛を撫でる。


「柔らかいです……」


「気に入られたようだな」


「はい……!」


 黒鬼が嬉しそうに微笑む。


 その少し離れた場所では、白鬼が黄色いフィナリアルへ干し果物を与えていた。


「まだ欲しいんですか?」


 黄色いフィナリアルが、白鬼の手を嘴で軽くつつく。


「仕方ありませんね。あと一つだけですよ」


「さっきから、あと一つを何回言っとるん?」


 シルフが尋ねる。


「まだ三回目です」


「それ、普通に三個追加しとるやん」


「練習を頑張ってくれたご褒美です」


「やりすぎると太るぞ」


 紅蓮が注意する。


「では、本当にこれで最後です」


 白鬼が干し果物を差し出す。


 黄色いフィナリアルは勢いよく食べると、今度はシルフへ嘴を向けた。


「うちは持っとらんで」


 黄色いフィナリアルは、シルフの髪を軽くつまんだ。


「痛い痛い! これは干し草やない!」


「髪の色が草に似ているからでは?」


 白鬼が笑う。


「うちの髪を餌扱いせんといて!」


 騒がしい声が、夕暮れの草原へ広がっていった。


     ◇


 日が沈む前に街へ戻った五人は、馬車屋へ馬車と二羽のフィナリアルを預けた。


 本当はそのまま猫夜亭まで連れていきたかったが、猫夜亭には大型の騎鳥を休ませる場所がない。


 馬車屋の店主が、今夜は責任を持って二羽の世話をすると申し出てくれた。


「明日の朝には、餌も水も済ませておく。だが、これからは自分たちで世話をしろよ」


「ああ。世話の仕方も覚える」


 紅蓮が答える。


「餌は何をあげればええん?」


「基本は穀物と野菜だ。果物も食べるが、甘い物ばかり与えるな」


 店主は白鬼を見る。


 白鬼は何も言わず、干し果物が入った袋を背中へ隠した。


「……分かりました」


「黄色い方は食欲がありそうだから、特にな」


「見られていましたか」


「ここへ戻ってくる途中も、お前の袋をずっと見ていたぞ」


 白鬼が黄色いフィナリアルを見る。


 黄色いフィナリアルは何も知らないように首を傾げた。


「かわいいので、仕方ありません」


「甘やかすなよ」


「努力します」


 白鬼の返事には、あまり期待できそうになかった。


 馬車屋を後にした五人は、夕暮れの街を歩いて猫夜亭へ戻った。


 食堂へ入ると、すでに多くの冒険者たちが酒と料理を楽しんでいる。


 五人はいつもの大きな卓を囲み、それぞれ夕食を注文した。


 テーブルには、香草を塗って焼いた肉、魚と野菜の煮込み、焼きたてのパン、大皿に盛られた炒め野菜が次々と並べられた。


 紅蓮が赤葡萄酒を注文すると、シグマも同じ物を頼む。


 運ばれてきた杯を手に取り、二人はほとんど同時に酒を口へ含んだ。


「どうだ?」


 紅蓮が尋ねる。


「悪くない」


「それだけか?」


「ほかに何を言えばいい」


「香りがどうだとか、肉に合うとかあるだろう」


 シグマはもう一度酒を飲み、少し考える。


「肉に合う」


「今、私が言っただろう」


「実際に合うからな」


 紅蓮は呆れながらも、どこか楽しそうに杯を傾けた。


 そのやり取りを見ていたシルフが、焼いた肉を頬張りながら笑う。


「シグマに酒の感想を聞いても、飲めるか飲めへんかくらいしか返ってこんのちゃう?」


「飲めない酒など出さないだろう」


「そういう話やないねん」


「では、何の話だ?」


「もうええわ。紅蓮、シグマに味の説明を求めるんは諦め」


「そうした方がよさそうだな」


「勝手に話を終わらせるな」


「続けたいんか?」


「別に」


「ほら、終わったやん」


 シルフが楽しそうに笑う。


「せっかく馬車も騎鳥も手に入ったんや。乾杯せえへん?」


 そう言って、シルフは自分の杯を持ち上げた。


「何に乾杯するんだ?」


 紅蓮が尋ねる。


「決まっとるやろ。新しい馬車と、新しい仲間にや」


 シルフの言葉に、白鬼と黒鬼も杯を持った。


「いいですね!」


「は、はい……」


 紅蓮は少しだけ微笑み、自分の杯を上げる。


 シグマも周囲を見た後、それに倣った。


「新しい馬車と、黒と黄色の騎鳥に!」


「乾杯!」


 五人の杯が、卓の中央で軽く触れ合う。


 シルフが一口飲んだ後、首を傾げた。


「でも、いつまでも黒い方と黄色い方って呼ぶんも変やな」


「名前を決めた方がいいですね」


 白鬼が焼いた肉を皿へ取りながら言う。


「私たちの仲間になったんですから、格好いい名前を付けましょう」


「うちに任せてや!」


 シルフが勢いよく手を挙げる。


「黒い方は、暗黒地竜王ブラックドラゴン!」


「鳥だ」


 紅蓮が即座に切り捨てる。


「ほな、漆黒の暴風竜!」


「鳥です」


 白鬼も続ける。


「分かっとる! でも、地竜を買えへんかった無念を名前に込めたいんや!」


「騎鳥が可哀想だろう」


「黒い羽で格好ええし、絶対似合うって!」


「長すぎて、呼んでいる間に逃げます……」


 黒鬼が控えめに指摘する。


「ほな縮めて、ブラックや」


「普通すぎませんか?」


「さっきまで長い言うとったやん!」


「長すぎるか、普通すぎるかのどちらかなんですよ」


「注文が多いなぁ!」


 白鬼が得意げに胸を張った。


「ここは私に任せてください。黒い方は、黒豆です!」


 今度は全員が黙った。


「……どうして黒豆なんだ?」


 紅蓮が尋ねる。


「黒くて、丸くて、かわいいからです」


「騎鳥だぞ」


「目が黒豆みたいでかわいかったじゃないですか」


「暗黒地竜王の方が、まだ格好ええやろ」


 シルフが呆れたように言う。


「黒豆の方が呼びやすいです!」


「黒い方が聞いたら泣くで」


「では、シルフさんは黄色い方の名前を考えてください」


「もう考えとる。金色地竜王ゴールデンドラゴンや」


「結局、地竜ではないですか!」


 白鬼とシルフが名前について言い争い始める。


 黒鬼は少し考えながら、煮込み料理の具材を匙でゆっくり混ぜていた。


「黒い子は……夜みたいな色でした」


 小さな声だったが、シグマには聞こえた。


「夜に関係する名前か?」


「はい……。落ち着いていて、静かだったので……」


「悪くない」


 シグマが答える。


 黒鬼は少し嬉しそうに顔を上げた。


「黄色い子は……太陽みたいでした。明るくて、元気で……」


「落ち着きはなかったがな」


 紅蓮が言う。


「でも……見ていると、元気になります」


「黒鬼、ええこと言うやん!」


 シルフが身を乗り出す。


「ほな、黒い方が夜王で、黄色い方が太陽王や!」


「王を付けるな」


「格好ええやろ!」


「呼びづらい」


 紅蓮が肉を切り分けながら言う。


「名前については、今夜中に無理に決めなくてもいいだろう。明日、実際に一緒に依頼へ出てから考えても遅くない」


「それもそうですね」


 白鬼が頷く。


「性格も、もう少し分かるかもしれません」


「黄色い方の食い意地は、もう十分分かったけどな」


 シルフが笑う。


「シルフさんの髪を食べようとしていましたね」


「食べようとしたんやなくて、気になっただけや!」


「三回も引っ張られていたではないですか」


「仲良うなった証拠やろ」


「餌と勘違いされているだけだ」


 紅蓮の言葉に、白鬼が吹き出した。


「笑うなや!」


 食卓へ笑い声が広がる。


 しばらく騎鳥の話を続けた後、話題は草原での練習へ移った。


「結局、一番上手かったのは黒鬼でしたね」


 白鬼が少し悔しそうに言う。


「紅蓮さんも上手でしたが、最初の出発は少し怖かったです」


「悪かった」


 紅蓮が素直に謝る。


「手綱を握る力加減が分からなかった」


「あれは出発というより、襲撃やったな」


 シルフが笑う。


「急に馬車が飛び出して、うちの魂だけ後ろに残ったかと思ったわ」


「お前の御者も似たようなものだっただろう」


「うちは操作自体は上手かったやん」


「余所見が多すぎた」


「周囲の確認や」


「後ろを向いて自慢することを、周囲の確認とは言わない」


「シグマに褒められたら、そら皆に聞かせたくなるやろ」


「聞こえていた」


「直接反応が欲しい時もあるやん」


「そのせいで全員が転びかけたんだぞ」


 紅蓮が杯を置く。


「次に御者をする時は、絶対に前から目を離すな」


「分かっとるって」


「今日だけで何度聞いた言葉だろうな」


「明日からは大丈夫や」


「一番信用できない言葉だな」


「紅蓮はうちに厳しすぎへん?」


「自分の胸に聞け」


 シルフは自分の胸元へ目を落とす。


「何も答えてくれへんで」


「本当に聞く奴があるか」


 今度は紅蓮まで笑ってしまった。


「私は、最後はきちんとできましたよね?」


 白鬼がシグマへ尋ねる。


「ああ。最初よりはよくなった」


「また最初と比べるんですか?」


「練習なんだから、始めた時より上手くなったかを見るのは当然だろう」


「そうですけど……もっと黒鬼の時みたいに褒めてください」


「黒鬼は最初から上手かった」


「それはもう聞きました!」


「お姉ちゃんも……最後は上手だったよ」


 黒鬼が姉へ言う。


 白鬼の表情が一気に明るくなった。


「本当ですか?」


「うん。最初は……少し怖かったけど」


「そこは言わなくてもいいんですよ」


「でも、最後はきちんと止まれたから……」


「黒鬼……!」


 白鬼は嬉しそうに妹へ抱きついた。


「やっぱり黒鬼は優しいですね!」


「お、お姉ちゃん……食事中です……」


「黒鬼がかわいいので仕方ありません!」


「離れてください……」


 そう言いながらも、黒鬼は本気で嫌がっている様子ではなかった。


「ところで、馬車の御者は誰を中心にするんだ?」


 紅蓮がシグマへ尋ねる。


「普段は俺がやる」


「一人では疲れるだろう」


「なら、黒鬼と交代する」


 シグマが答えると、黒鬼が驚いたように顔を上げた。


「わ、私ですか?」


「ああ。一番安定していた」


「で、でも……私で大丈夫でしょうか……」


「問題ない。最初は街道の安全な場所だけでいい」


「はい……頑張ります」


 黒鬼は緊張しながらも、嬉しそうに頷いた。


「私は?」


 白鬼が尋ねる。


「慣れるまでは、広い道だけだ」


「黒鬼と扱いが違います!」


「蛇行しただろう」


「あれは黄色い子が右へ行きたがったからです!」


「それについて行ったのはお前だ」


「仲間の意見も尊重しただけです!」


「御者と騎鳥が相談して進路を決めるんか?」


 シルフが笑う。


「シルフさんは余所見でくぼみに突っ込みかけたじゃないですか!」


「避けたからええやん!」


「急に避けたから、私たちが倒れたんです!」


「結果として怪我せえへんかったやろ!」


「結果だけで判断するな」


 紅蓮が二人を窘める。


「明日から実際に街道を走るんだ。今日の失敗を笑って済ませられるのは、草原だったからだぞ」


「分かっています」


「分かっとる」


 白鬼とシルフが、少しだけ真面目な表情になる。


「明日はどんな依頼を受けるんですか?」


 黒鬼が尋ねた。


「馬車を使うなら、少し遠くの依頼がいいですよね……」


「ああ」


 紅蓮は食事の手を止め、考える。


「輸送、護衛、遠方の魔物討伐。その辺りから選ぶことになるだろう」


「せっかくやし、遠くまで行きたいなぁ」


 シルフが言う。


「一日で帰れへん場所とか」


「いきなり長距離は危険だ」


「馬車も騎鳥も手に入ったんやで? ちょっとくらい冒険したいやん」


「今日は草原を走っただけだ。荷物を積んで悪路を進んだことも、魔物と遭遇したこともない」


 紅蓮の言葉に、シルフは不満そうに口を尖らせる。


「ほな、日帰りより少し遠いくらい?」


「依頼を見てから決める」


「馬車で野営をするのも楽しそうですね!」


 白鬼が目を輝かせる。


「荷台で寝られるのでしょうか?」


「荷物の大半はアイテムボックスへ入れられる。三人程度なら横になれるだろう」


 シグマが答える。


「三人……」


 白鬼が黒鬼を見る。


 黒鬼も白鬼を見返す。


 二人の視線が、ゆっくりとシグマへ向いた。


「何だ?」


「いえ。何でもありません」


「な、何でもないです……」


 二人は同時に視線を逸らした。


 その様子を見ていたシルフが、口元をにやりと歪める。


「なるほどなぁ。三人で寝られるんかぁ」


「シルフ」


 紅蓮が低い声で呼ぶ。


「何も言っとらんやん!」


「顔に出ている」


「顔だけで怒られるん!?」


「余計なことを言う前に止めただけだ」


「うちへの信頼が底を突いとる……」


 シルフが卓へ突っ伏す。


 白鬼と黒鬼は、何事もなかったように食事を続けていた。


「野営するなら、見張りの順番も決めないとな」


 紅蓮が話題を戻す。


「御者をした者は、夜の見張りを軽くするべきだ。疲れを残したまま翌日も走らせるのは危険だ」


「なら、シグマさんばかり御者をするのは駄目ですね」


 白鬼が言う。


「私たちも交代で運転しないと」


「さっきまで嫌がっとったのに、急にやる気出したな」


「シルフさんとは違います。必要だと分かれば、私は真面目に取り組みます」


「うちも必要ならやるで」


「余所見をしないならな」


 紅蓮が念を押す。


「分かっとるって」


「明日、馬車を壊した者は修理代を自分で払え」


「それは困る!」


「なら慎重に扱え」


「急に責任が重うなった……」


 五人は食事を続けながら、明日の予定を話し合った。


 朝一番に馬車屋へ向かい、二羽のフィナリアルを引き取る。


 その後、猫夜亭で必要な食料と水をアイテムボックスへ収納し、冒険者ギルドの窓口で依頼を確認する。


 最初の依頼は、馬車で半日ほどの距離までに留める。


 無理に戦闘を求めず、二羽と馬車の状態を確かめることを優先する。


「忘れ物がないよう、今夜のうちに必要な物を書き出しておくか」


 紅蓮が言う。


「黒鬼。頼めるか?」


「はい。食料、水、毛布、雨具、予備の縄、工具……」


「お菓子も」


 シルフが手を挙げる。


「必要ありません」


 白鬼が即答する。


「長旅には甘い物が必要やろ!」


「自分が食べたいだけでしょう」


「疲れた時に甘いもん食べると元気出るんやで」


「それは否定できないな」


 紅蓮が言う。


「少量なら入れておいてもいい」


「ほら、紅蓮も認めとるやん!」


「少量だ。アイテムボックスの食料区画を占領するなよ」


「分かっとる。袋三つくらいにするわ」


「一つだ」


「二つ」


「一つ」


「一つと半分」


「どうやって半分にするつもりだ」


「中くらいの袋一つと、小さい袋一つ」


「結局二つではないか!」


 再び、食卓へ笑い声が広がった。


 馬車のこと。


 二羽のフィナリアルのこと。


 誰の運転が一番危なかったか。


 どんな名前を付けるか。


 明日はどこまで行けるのか。


 話題は次々と移り変わり、料理がなくなっても、五人の会話が途切れることはなかった。


 これまでの五人は、依頼を受けるたび、自分たちの足で目的地へ向かっていた。


 持っていける荷物にも限りがあり、日が暮れる前に帰れる距離を意識しなければならなかった。


 だが、馬車とアイテムボックス、そして二羽の騎鳥を手に入れたことで、進める距離は大きく広がる。


 遠く離れた土地。


 これまで受けられなかった依頼。


 まだ見たことのない街や村。


 これから先、五人の前には、今まで以上に多くの道が待っている。


「明日が楽しみやな」


 シルフが笑った。


 いつもの軽い調子ではあったが、その声には隠しきれない期待が込められていた。


「馬車で街の外へ出て、知らん場所まで行く。なんか、ほんまに旅が始まる感じするわ」


「もう旅は始まっているだろう」


 紅蓮が言う。


「分かっとる。でも、今までは歩きやったやん」


 シルフは杯を両手で包みながら、楽しそうに続ける。


「馬車があって、荷物があって、仲間が乗って、二羽が引いてくれる。そういうん、冒険者らしくてええやん」


「お前は勇者だろう」


「勇者でも冒険はするで」


 シグマは、賑やかに話すシルフと、それに呆れながら応じる紅蓮を眺めた。


 隣では白鬼と黒鬼が、黒い騎鳥と黄色い騎鳥の名前候補を紙へ書き出している。


 暗黒地竜王。


 黒豆。


 夜風。


 金色地竜王。


 ひまわり。


 太陽。


 まともな名前と、そうでない名前が同じ紙に並んでいた。


「シグマさんは、どんな名前がいいと思いますか?」


 白鬼に尋ねられ、シグマは紙へ視線を落とす。


 少し考えた後、首を横へ振った。


「まだ分からない」


「明日までに考えてくださいね」


「ああ」


「二羽を見ながら決めればいい」


 紅蓮が杯へ残っていた酒を飲み干す。


「名前は、その者の性格や生き方を表すこともある。急いで決める必要はないだろう」


「紅蓮、急に格好ええこと言うなぁ」


「茶化すな」


「でも、シルフさんの名前候補よりは説得力があります」


 白鬼が笑う。


「暗黒地竜王も格好ええやろ!」


「だから鳥です」


「分かっとるって!」


 五人の笑い声が、夜の猫夜亭に響いた。


 明日からは、馬車を使った新しい依頼が始まる。


 黒と黄色の二羽を仲間に加え、五人が進める道は、これまでよりも遥かに遠くまで続いている。


 まだ名前すら決まっていない二羽の騎鳥。


 初めて手に入れた、自分たちだけの馬車。


 そして、アイテムボックスへ積み込まれていく、旅のための道具。


 それらは五人にとって、単なる移動手段や荷物ではない。


 これから始まる長い旅の形が、少しずつ整い始めた証だった。


 五人の旅は、新たな二つの足音と、四つの車輪を加え、これまでより少しだけ賑やかに動き始めようとしていた。

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