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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第九話 行商人の護衛任務 その一

 翌日の早朝。


 まだ猫夜亭の食堂にも朝の静けさが残っている頃、シグマは二階の自室から一階へと降りてきた。


 窓から差し込む淡い朝日が、磨かれた木の床を細長く照らしている。


 食堂には焼きたてのパンと、温かいスープの香りが漂っていた。


 いつもなら、この時間に起きている客は早朝から依頼へ向かう一部の冒険者くらいだ。


 シルフは昨日は隣の部屋を借りたからまだ部屋にいるだろう。


 紅蓮たちもまだ自宅のはずだ。


 そう考えながら階段を降りたシグマは、食堂の中央にあるテーブルを見て足を止めた。


「……珍しいな」


 そこには、すでに朝食を囲んでいる四人の姿があった。


 紅蓮は湯気の立つスープを静かに口へ運び、白鬼はパンに果実のジャムをたっぷりと塗っている。


 黒鬼は小さく切ったパンを両手で持ち、隣ではシルフが何やら真剣な表情で羊皮紙を眺めていた。


 四人がシグマより先に揃っている。


 これまでの旅では、ほとんど見たことのない光景だった。


「俺が遅かったか?」


 シグマは少し焦り、小走りでテーブルへ向かった。


 階段を降りてくるシグマに気づいたシルフが、すぐさま片手を大きく振る。


「シグマー! こっちや、こっち!」


「見れば分かる」


「朝から冷たいなぁ。もうちょいこう、再会を喜ぶ感じで来てもええんちゃう?」


「昨日も会っただろ」


「一晩も離れとったんやで?」


「同じ建物にいただろ」


「夢の中では別々やったかもしれへんやん!」


「知らん」


 シグマが素っ気なく返すと、白鬼がくすくすと笑った。


 彼がテーブルまで近づくと、白鬼と黒鬼はほぼ同時に動いた。


 二人の間に置かれていた空席を引き、左右から手招きする。


「シグマさん、こちらへどうぞ」


「……どうぞ」


「そこに座れということか?」


 白鬼が満面の笑みを浮かべる。


「ほかにどんな意味があると思ったんですか?」


「いや……別に」


 シグマは一瞬だけ紅蓮の方を見た。


 紅蓮はスープを飲みながら、我関せずといった様子で視線を逸らした。


 助け舟を出すつもりはないらしい。


 シグマは諦め、促されるまま二人の間に腰を下ろした。


 右隣に白鬼、左隣に黒鬼。


 座った瞬間、二人がわずかに椅子を寄せる。


「……近くないか?」


「そうですか?」


「いつも通りだと思います」


「いつも、こんなに近かったか?」


「細かいことを気にしたら負けですよ」


「何に負けるんだ」


 白鬼は答えず、楽しそうにパンをかじった。


 黒鬼も小さく微笑み、シグマの前へ空の皿を差し出してくれる。


 シグマは小さく息を吐き、四人を見回した。


「悪かった。待たせたか?」


「いや、待っていない」


 紅蓮が即座に答える。


「私たちが少し早く来ただけだ。集合時間を決めていたわけでもない。謝る必要はないぞ」


「そうですよ。私たちが勝手に早起きしただけです」


「……今日は、ちゃんと起きられました」


 黒鬼が少し誇らしげに胸を張る。


 その横で、シルフも勢いよく胸を張った。


「うちもや!」


「シルフは白鬼に布団を剥がされていただろう」


「起きたことに変わりはないやろ!」


「自力ではない」


「起き方に貴賤なしや!」


「朝から意味の分からんことを言うな」


 紅蓮に切り捨てられ、シルフは不満そうに唇を尖らせた。


 シグマは四人の顔を順に見る。


「それで、どうしてこんなに早く集まっているんだ?」


 その問いに、白鬼が待ってましたとばかりに身を乗り出した。


「鳥さんたちの名前を考えたんです」


「……名前?」


「昨日、決められなかったでしょう?」


 黒鬼が補足する。


「せっかくこれから一緒に旅をするんですから、ずっと黒い方、黄色い方と呼ぶのも可哀想です」


「まあ、それはそうだな」


 シグマが頷くと、シルフは手元の羊皮紙を持ち上げた。


 どうやら、先ほどから真剣に眺めていたものは名前の候補を書き並べた一覧らしい。


「うちは一晩かけて、百を超える名前を考えたで!」


「全部聞く必要はない」


「まだ何も言うてへんやん!」


「顔を見れば分かる」


「どんな顔やねん!」


 紅蓮が眉間を押さえる。


「念のため聞くが、まともな名前はあるのか?」


「当然や。まず黒い方が、漆黒爆走丸」


「却下だ」


「早い!」


「黄色い方が、黄金天空疾風号」


「却下です」


「白鬼まで!」


「長すぎます」


 白鬼はにこやかな笑顔のまま言い切った。


 黒鬼も申し訳なさそうに首を横へ振る。


「覚えられません……」


「ほんなら短いのもあるで。黒い方がクロクロ、黄色い方がキイキイ」


「鳴き声みたいになっているぞ」


「親しみやすいやろ?」


「雑になっただけだ」


 誰からも賛同を得られず、シルフは羊皮紙を抱えて机へ突っ伏した。


「渾身の百案が……」


「百も考えて、なぜ最初に出す候補がそれなんだ」


「一番自信あったからや」


「残りを聞く必要はなさそうだな」


「横暴や!」


 シルフの抗議を無視し、白鬼が人差し指を立てる。


「次は私ですね」


「白鬼は何を考えたんだ?」


「黒い方が、黒蜜です」


「……食べ物か」


「黄色い方は、きな粉です」


「やはり食べ物だな」


「二羽並ぶと、黒蜜きな粉ですよ。美味しそうでしょう?」


「鳥に美味しそうな名前をつけてどうする」


「毎日呼ぶたびに、お腹が空きます」


「なおさら駄目だろ」


 シルフが勢いよく顔を上げる。


「うちはええと思うで! 黒蜜ときな粉! 響きも可愛いやん!」


「お前は自分の候補を諦めたのか?」


「今は白鬼の応援に回っただけや」


「節操がないな」


 白鬼は少し不満そうに頬を膨らませた。


「ほかにもありますよ。黒豆と卵黄、海苔と沢庵、餡子と栗金団――」


「腹が減ってきたから、もういい」


「まだ半分も言っていません」


「すべて食べ物なのか?」


「はい」


 迷いのない返事だった。


 シグマは額を押さえる。


「次は黒鬼か」


「……はい」


 黒鬼は少し緊張した様子で、膝の上に置いた小さな紙を広げた。


「黒い方が、くーちゃんで……黄色い方が、ぴーちゃんです」


「可愛いな!」


 シルフが即座に食いつく。


 黒鬼は嬉しそうに頬を緩めた。


「本当ですか?」


「めっちゃ可愛いで! くーちゃん、ぴーちゃん!」


「それなら、黒い方はクロちゃん、黄色い方はキナちゃんでも……」


「黒鬼らしい候補だな」


 シグマが言うと、黒鬼は照れくさそうに顔を伏せた。


「……駄目でしょうか?」


「駄目ではない。ただ、少し幼い気もする」


「成長して大きくなったら、似合わなくなるかもしれませんね」


 白鬼が言うと、黒鬼は残念そうに肩を落とした。


 今度は紅蓮が腕を組む。


「最後は私だな」


「紅蓮はどんな名前にしたんだ?」


「黒い方は夜叉丸。黄色い方は日輪丸だ」


 しばしの沈黙。


 紅蓮が眉を寄せる。


「何だ、その反応は」


「いや……紅蓮らしいと思ってな」


「古風ですね」


「……強そうです」


 黒鬼は好意的に受け取ったようだが、白鬼は微妙な表情をしている。


「でも、少し堅くありませんか?」


「名とは生涯背負うものだ。軽々しく決めるべきではない」


「鳥さん本人が嫌がりそうです」


「なぜ決めつける」


「夜叉丸って呼ばれて振り向く鳥、ちょっと怖いやろ」


 シルフが茶化す。


「お前の漆黒爆走丸よりはましだ」


「五十歩百歩や!」


「私の方が百歩ましだ」


「自分で言うんか!」


 四人は、それぞれ自分の候補を譲ろうとしない。


 食べ物の名前が親しみやすい。


 可愛い名前の方が呼びやすい。


 古風な名前には威厳がある。


 そしてシルフは、なぜか漆黒爆走丸の格好良さを熱弁していた。


 次第に話はまとまるどころか、余計に混乱していく。


「そもそも、黒蜜は鳥の色に合っています!」


「くーちゃんの方が呼びやすいです……」


「名には強さが必要だ」


「漆黒爆走丸には全部あるで!」


「長さしかないだろう」


「何やと!」


 しばらく様子を見ていたシグマは、スープを一口飲んだ。


「本人たちに聞けばいいんじゃないか?」


 四人の動きが止まる。


「……それもそうですね」


「最初からそうすればよかったのではないか?」


「シグマがそれを言うのか?」


 紅蓮に問われ、シグマは首を傾げた。


「何がだ?」


「お前は何も考えていないのか?」


 全員の視線がシグマへ集まる。


「俺もか?」


「当然やろ!」


 シルフが身を乗り出す。


「まさか、自分だけ考えてへんとか言わんよな?」


「昨日、馬車屋から戻る間に少し考えた程度だ」


「あるんですね?」


 白鬼が期待を込めた目を向ける。


 黒鬼も無言のままシグマを見上げた。


 紅蓮も興味を示し、腕を組んだまま返事を待っている。


 シグマは少し考え、口を開いた。


「黒い方は、ノクス」


「ノクス……」


 黒鬼が小さく繰り返す。


「黄色い方は、ソル」


 先ほどまで騒いでいた四人が、不思議なほど静かになった。


 シグマは、その反応に戸惑う。


「……変か?」


「いや」


 紅蓮が首を横に振る。


「悪くない。むしろ、かなりいい」


「何か意味があるんですか?」


 白鬼に尋ねられ、シグマは頷く。


「ノクスは夜。ソルは太陽を意味する古い言葉らしい」


「古い言葉?」


「どこで覚えたかは分からない。ただ、頭に浮かんだ」


 シグマの記憶は、今も欠けたままだ。


 時折、自分でも知らない言葉や知識が、不意に頭へ浮かぶことがある。


 それがかつての自分の知識なのか、この世界で得たものなのかさえ、分からない。


 だが、二羽の姿を思い返した時、その言葉が不思議なほど自然に浮かんだ。


「黒い方は落ち着いていて、夜のように静かだ。黄色い方は明るくて活発だから、太陽を連想した」


「ノクスとソル……」


 黒鬼がもう一度呟き、嬉しそうに微笑む。


「綺麗な名前です」


「私も気に入りました」


 白鬼も素直に頷いた。


「うちの漆黒爆走丸と黄金天空疾風号より、ちょびっとだけええかもしれへんな」


「比べる必要はない」


「ほんのちょびっとやで!」


「完敗だろう」


 紅蓮に言われ、シルフは再び机へ突っ伏した。


 シグマは四人の様子を見ながら言う。


「決めるのは俺たちじゃない。二羽が気に入るか、聞いてからだ」


「そうですね」


「本人たちが嫌がる名前をつけるわけにはいきません」


 白鬼と黒鬼が頷く。


 その横で、シルフが勢いよく手を挙げた。


「ほんなら、うちらの案も全部聞いてもらおうや!」


「必要ないだろう」


 紅蓮が即答する。


「なんでや! 公平に選ばせなあかんやろ!」


「漆黒爆走丸と呼ばれる鳥の身にもなれ」


「気に入るかもしれへんやん!」


「気に入らなかった場合、誰が責任を取るんだ?」


「うちが一生面倒見る!」


「お前は数年後、別のことに夢中になって忘れていそうだ」


「失礼な!」


 シルフは諦めず、自分たちが一晩かけて考えたこと、選択肢は多い方がよいこと、鳥にも自由に選ぶ権利があることを、身振り手振りを交えながら熱弁した。


 途中から話の論点が名前ではなく、鳥の権利と自由についての演説になっていたが、本人は至って真剣だった。


 やがて紅蓮が根負けし、大きくため息をつく。


「分かった。聞くだけ聞けばいい」


「やった!」


「ただし、百個すべて言うのは禁止だ」


「ええっ!?」


「五個までだ」


「せめて十個!」


「三個にするぞ」


「五個でお願いします!」


 シルフが頭を下げる。


 シグマたちは呆れながらも、結局その提案を受け入れた。


 話がまとまったところで、シグマも簡単な朝食を注文する。


 パンと野菜のスープ、それに薄く焼いた肉。


 全員が食事を終える頃には、猫夜亭の食堂にも少しずつ客が増え始めていた。


 ◇◇◇


 朝食を終えた五人は、そのまま冒険者ギルドの受付へ向かった。


 朝の依頼受付が始まったばかりということもあり、受付前には数人の冒険者が並んでいる。


 リリアンヌは今日も変わらず、柔らかな笑顔で依頼書を整理していた。


 シグマたちの姿を見つけると、猫耳をぴくりと動かす。


「おはようございます。皆さん、今日はお早いですね」


「おはよう、リリアンヌ」


 紅蓮が挨拶を返す。


「今日は依頼を探しに来た」


「かしこまりました。希望する内容はありますか?」


 リリアンヌの問いに、シグマが一歩前へ出る。


「昨日、馬車を受け取った。しばらく遠出に慣れるため、馬車を使える依頼を受けたいと思っている」


「なるほど。護衛や運搬系ですね」


「できれば一日か二日程度で往復、あるいは片道を終えられる依頼がいい」


 リリアンヌは少し考えた後、何かを思い出したように手を打った。


「それでしたら、ちょうどよい案件があります」


 そう言って受付の下に置かれていた箱から、一枚の依頼書を取り出す。


 羊皮紙を机の上へ広げ、五人に見えるよう向きを整えた。


「依頼主は行商人のイシュタリカさん。先日のワイバーン騒ぎで馬車を失ってしまい、現在アルランカに滞在しています」


「ワイバーンに?」


 白鬼が目を丸くする。


「はい。幸い、ご本人に大きな怪我はありませんでした。ただ、馬と馬車の両方を失い、残った商品を運べず困っているそうです」


 リリアンヌは依頼書の内容を指で示す。


「目的地は、東の街リットガル。依頼内容は道中の護衛と、商品の運搬です」


「リットガルか」


 紅蓮が顎に手を添える。


「ディアグランディアとの国境に近い街だな」


「その通りです。アルランカからは、馬車で一日半ほどです」


「距離も丁度いいな」


 シグマは依頼書へ目を通す。


 道中は平原が多く、街道も比較的整備されている。


 初めての馬車で長距離を走る練習としては、申し分のない経路だった。


「報酬は銀貨十五枚か」


 シルフが依頼書を横から覗き込む。


「護衛と運搬の両方にしては安くない?」


「ワイバーンに襲われたことで、かなり損失が出てしまったそうです」


 リリアンヌは少し困ったように微笑む。


「そのため、高額な報酬を用意する余裕がないとのことでした。条件が条件ですので、まだ引き受け手が見つかっていません」


 紅蓮は仲間たちを見回した。


「私は問題ない。馬車の訓練が目的なら、報酬の額は重要ではないからな」


「俺も構わない」


「私も賛成です」


「……私も」


 白鬼と黒鬼が続く。


 最後にシルフが胸を張った。


「もちろん、うちも賛成や!」


「お前は依頼の報酬を受け取る立場ではないだろう」


「気持ちの問題や!」


 紅蓮は苦笑し、リリアンヌへ顔を戻す。


「この依頼を受ける」


「ありがとうございます」


 リリアンヌは受領印を押し、依頼書の控えと受領証を紅蓮へ渡した。


「依頼主のイシュタリカさんは、東門近くの宿屋『赤犬亭』に滞在されています。この受領証をお見せください」


「分かった」


「出発予定は本日ですか?」


「ああ。準備ができ次第、すぐに向かうつもりだ」


「それでは、道中お気をつけて」


 五人はリリアンヌへ挨拶し、猫夜亭を後にした。


 ◇◇◇


 馬車屋へ到着すると、店の前にはすでに昨日受け取ったばかりの馬車が準備されていた。


 艶のある木材で作られた車体。


 荷物を積める広い後部と、六人程度なら余裕を持って座れる客室。


 その前には、二羽の騎鳥が並んでいる。


 黒い羽毛を持つ騎鳥は、静かに首を伸ばしながらシグマたちを見つめた。


 一方、鮮やかな黄色の羽毛を持つ騎鳥は、待ちくたびれたのか足踏みを繰り返している。


「おっ、来たか!」


 店主が馬車の横から姿を現した。


「頼まれていた通り、朝一番で準備しておいたぞ。車輪と留め具も、もう一度確認してある」


「助かる」


 シグマが頭を下げる。


 紅蓮たちも、それぞれ店主へ礼を伝えた。


「ところで、名前は決めたのか?」


 店主の問いに、シルフが勢いよく前へ出る。


「それを今から決めるところや!」


「もうほとんど決まっているだろ」


 紅蓮がシルフの襟を掴み、後ろへ引き戻した。


 まずはシルフが、自信満々に自分の候補を伝える。


「黒い方は漆黒爆走丸! 黄色い方は黄金天空疾風号や!」


 二羽は同時にシルフから顔を背けた。


「即答やないか!」


「嫌だそうだな」


「まだ分からへんやろ! 照れとるだけかもしれへん!」


 続いて白鬼が黒蜜ときな粉を提案した。


 二羽はしばらく白鬼の顔を見つめた後、ゆっくり首を横へ振った。


「駄目ですか……美味しそうなのに」


「名前だからな」


 黒鬼のくーちゃんとぴーちゃんにも、二羽は首を傾げるだけだった。


 紅蓮の夜叉丸と日輪丸に対しては、黒い騎鳥が一瞬だけ反応を見せたものの、最終的には小さく首を振った。


「私の案も駄目か」


「意外と好みが厳しいな」


 シグマは二羽の前へ立つ。


 まず、黒い騎鳥の目を見る。


「ノクスはどうだ?」


 黒い騎鳥は一度だけ瞬きをした。


 次の瞬間、大きく首を縦に振る。


「気に入ったみたいですね」


「即決やん……」


 シルフが悔しそうに呟く。


 シグマは黄色い騎鳥へ顔を向けた。


「お前は、ソルでどうだ?」


 黄色い騎鳥は首を傾げる。


 右へ傾け、次に左へ傾ける。


 何度か瞬きをしながら考え込むような仕草を見せた後、仕方ないと言わんばかりに小さく頷いた。


「随分悩みましたね」


 白鬼が笑う。


「悪くはない、くらいでしょうか……」


 黒鬼が騎鳥の顔を覗き込む。


 その様子を見ていた店主が、突然声を上げて笑った。


「ははは! そいつはメスだからな。少し呼び方が気に入らなかったんじゃないか?」


「……メス?」


 シグマが黄色い騎鳥を見る。


 ソルは、なぜ今まで気づかなかったのかと言いたげな顔で見返していた。


「悪い。なら……ソルちゃん、でどうだ?」


 黄色い騎鳥の羽が、ふわりと膨らんだ。


 今度は迷うことなく、何度も嬉しそうに首を縦へ振る。


「そこなんや!」


 シルフが腹を抱えて笑う。


「名前やなくて、ちゃん付けが欲しかったんやな!」


「可愛いですね、ソルちゃん」


 白鬼が頭を撫でると、ソルは満足そうに目を細めた。


 黒鬼もノクスの首元へ手を伸ばす。


「これからよろしくね、ノクス」


 ノクスは静かに頷いた。


「ノクスとソルちゃんか」


 紅蓮は二羽を見比べ、満足そうに微笑む。


「よい名に決まったな」


 名前も決まり、全員が馬車へ乗り込む。


 御者台にはシグマと紅蓮。


 客室には白鬼、黒鬼、シルフが座った。


 シグマが手綱を握ると、ノクスとソルは息を合わせて歩き始める。


「それじゃあ、行くぞ」


「出発や!」


 シルフの声を合図に、新しい馬車はゆっくりと街道へ走り出した。


 ◇◇◇


 赤犬亭は、東門からほど近い場所にある中規模の宿屋だった。


 赤い犬が骨を咥えた看板が、入口の上で風に揺れている。


 馬車を宿屋の前へ止めると、シグマは一人で店内へ入った。


 受付にいた中年の女性へ受領証を見せる。


「冒険者ギルドから来た。イシュタリカという行商人の依頼を受けている」


「少々お待ちください」


 女性は頷くと、奥の階段へ向かった。


 しばらくして、一人の若い男性が降りてくる。


 年齢は二十代半ばほど。


 細身で背はやや高く、淡い茶色の髪を短く整えている。


 高価そうではないが丁寧に手入れされた旅装を身に着け、腰には小さな革鞄を提げていた。


「お待たせしました。イシュタリカと申します」


「シグマだ。冒険者ギルドから依頼を受けてきた」


 二人は簡単に挨拶を交わす。


 シグマが受領証を見せると、イシュタリカは安堵したように表情を緩めた。


「本当にありがとうございます。条件があまり良くない依頼でしたので、今日も見つからなければどうしようかと思っていました」


「仲間が外で待っている。すぐに出れますか?」


「はい。準備をしてまいります」


 イシュタリカは深く頭を下げ、足早に二階へ戻っていった。


 シグマが外へ出ると、シルフが御者台へ身を乗り出していた。


「どないやった?」


「今、準備をしている。すぐに来るそうだ」


「どんな人でした?」


「若い男だ。話した印象では、特に問題はなさそうだ」


「そうか」


 紅蓮は頷き、馬車の固定具を確認する。


 しばらくすると、イシュタリカが大きな背負い鞄を持って宿から出てきた。


 しかし、馬車と二羽の騎鳥を目にした途端、足を止める。


「……これは」


「何か問題があるか?」


 シグマが尋ねると、イシュタリカは慌てて首を横に振った。


「いえ、申し訳ありません。馬車があまりにも真新しく、それに馬ではなく騎鳥でしたので、少し驚いてしまいました」


「昨日受け取ったばかりだ」


「昨日ですか?」


 イシュタリカの表情に、わずかな不安が浮かぶ。


 新しい馬車と、扱いに慣れているか分からない騎鳥。


 護衛を依頼する側としては、不安を感じるのも当然だった。


 シグマは首から下げていた認識票を取り出す。


 紅蓮も同じように自分の認識票を見せた。


「俺はシルバークラス。紅蓮はゴールドクラスだ」


「ゴールドと、シルバー……?」


 イシュタリカは目を見開いた。


「この依頼に、ですか?」


「何か不都合があるか?」


「いえ、とんでもありません! 普通、この程度の護衛依頼を受けるのはアイアンクラスの方がほとんどです。シルバーやゴールドの冒険者が来るとは思っていませんでした」


 イシュタリカは受領証と二人の認識票を交互に見る。


「ですが、本当に銀貨十五枚でよろしいのですか? 正直に申し上げますと、皆さんの等級に見合う報酬とは到底思えません」


 紅蓮は認識票を胸元へ戻した。


「私たちにも目的がある。新しい馬車での遠征訓練を兼ねているため、今回は報酬額を重要視していない」


「なるほど……」


「安いからといって、仕事の手を抜くつもりもない。安心してくれ」


 紅蓮の言葉に、イシュタリカはようやく安堵したように息を吐いた。


「分かりました。どうぞよろしくお願いします」


 イシュタリカは馬車へ乗り込むと、申し訳なさそうに付け加えた。


「出発前に、東門近くの行商人ギルドへ寄っていただけますか?」


「荷物の受け取りか?」


 シグマが尋ねる。


「はい。ワイバーンに襲われた際に残った商品と、滞在中に買い付けた商品を預けています」


「分かった」


 シグマが手綱を動かす。


「ノクス、ソルちゃん。行くぞ」


 二羽は鳴き声を上げ、馬車を引き始めた。


 街中の石畳を走っているにもかかわらず、車体はほとんど揺れない。


 馬車に乗り慣れているはずのイシュタリカが、驚いた様子で座席や床を見回す。


「これは……想像以上に安定していますね」


「昨日、練習した時もほとんど揺れませんでした」


 白鬼が答える。


「ノクスとソルちゃんは、息もぴったりです」


「馬よりも歩幅が安定しているのでしょうか。それに、急な動きも少ない」


 イシュタリカは窓から二羽を眺める。


「次に馬車を買う機会があれば、騎鳥も検討してみたいですね」


「ええで。見た目も可愛いし、速いし、賢いし!」


 シルフが自分の騎鳥であるかのように胸を張る。


「シルフさんの鳥なのですか?」


「ちゃうで」


「なぜ自慢したんだ」


 紅蓮が呆れた声を出す。


 白鬼と黒鬼は顔を見合わせ、小さく笑った。


 ◇◇◇


 行商人ギルドへ到着すると、イシュタリカは全員へ頭を下げた。


「すぐに戻りますので、少々お待ちください」


 そう言って建物の中へ入っていく。


 十分ほど経った頃、ギルドの大きな扉が開いた。


 イシュタリカと三人の職員が、一つの大きな箱を運んでくる。


 箱は一見すると、金属の補強が施された大型の木箱だった。


 だが、四人がかりで運んでいるにもかかわらず、全員の顔には苦しそうな表情が浮かんでいる。


「何や、あの箱」


 シルフが首を傾げる。


「見た目より重そうですね」


 白鬼も馬車から降りた。


 箱が近づくと、シルフの目が大きく開く。


「もしかして、アイテムボックスか?」


「はい。その通りです」


 イシュタリカが額の汗を拭う。


「見た目以上に大量の商品が入っています。申し訳ありませんが、積み込みを手伝っていただけますか?」


「私が持とう」


 紅蓮が箱の下へ手を入れる。


 職員の一人と交代し、腰を落として持ち上げた。


「――うっ!」


 紅蓮の口から、思わず低い声が漏れる。


「紅蓮が声を出した!?」


 シルフが驚愕する。


「どれだけ重いんや、それ!」


「見ていないで手伝え!」


「はいっ!」


 シルフとシグマも加わり、箱を馬車の荷台へ運ぶ。


 怪力を持つ紅蓮が加わっても、簡単には動かせないほどの重量だった。


 どうにか荷台の中央へ載せると、車体の左右の均衡を崩さないよう縄で厳重に固定する。


 大きな箱が中央に置かれたため、客室は先ほどよりかなり狭くなった。


「これで全員乗ったら、ぎゅうぎゅうやな」


 シルフが箱の横に座り、肩をすぼめる。


「箱だけに、はこ詰め状態や」


 沈黙。


 誰も反応しない。


 行商人ギルドの職員まで、無言で視線を逸らした。


「……今の、聞こえへんかった?」


「聞こえたから黙っているんだ」


 紅蓮が冷たく返す。


「箱が重すぎて、空気まで重くなりましたね」


 白鬼が微笑みながら追撃する。


「うまいこと言わんでええねん!」


「シルフさんよりは上手でした……」


「黒鬼まで!」


 イシュタリカは困惑しながらも、やがて耐えきれず笑い出した。


「皆さんは、とても仲がよいのですね」


「どこを見たらそう思うんや!」


 シルフの声が、ギルド前の通りへ響いた。


 ◇◇◇


 東門を抜けた馬車は、広大な平原を東へ進んでいた。


 青い空の下、風に揺れる草が波のように広がっている。


 街道は緩やかな起伏を描きながら、遠くの地平線へ続いていた。


 ノクスとソルは安定した足取りで走り、馬車の揺れは驚くほど少ない。


 狭くなった車内ではあったが、退屈することはなかった。


 白鬼が昨日の馬車の練習について語り、シルフが何度も話を大きく脚色する。


 黒鬼が小声で訂正を入れ、紅蓮がそのたびにシルフを睨む。


 イシュタリカも次第に会話へ加わり、道中で訪れた街や、珍しい商品について話してくれた。


「南の港町では、魚を乾燥させた保存食が有名でしてね。見た目は少し地味ですが、炙ると酒によく合うんですよ」


「酒に合うのか」


 シグマが反応する。


「ええ。かなり塩気が強いので、辛口の酒がおすすめです」


「今度、見かけたら買ってみるか」


「シグマ、酒の話になると少し食いつきが良くなるな」


 紅蓮に指摘され、シグマは少し視線を逸らした。


「そうか?」


「そうですよ」


 白鬼が楽しそうに笑う。


「普段より返事が早かったです」


「……気のせいだ」


 そんな他愛もない会話が続く中、イシュタリカがふと空を見上げた。


「そういえば、皆さんは勇者について、どれくらいご存じですか?」


 シルフの肩が、ほんの少し揺れた。


 普段の旅では、自分が風の勇者であることを隠している。


 現在も一般の冒険者と同じ服装をしており、勇者だと示す装飾品も外していた。


「勇者について?」


 紅蓮が慎重に聞き返す。


「はい。行商をしていると、各地でさまざまな噂を耳にするんです。もちろん、どこまで本当かは分かりませんが」


「噂話なら、うちらも興味あるで」


 シルフが平静を装って答える。


「どんな話なん?」


「一番有名なのは、やはり光の勇者でしょうか」


 イシュタリカは指を一本立てた。


「明るく聡明で、容姿も美しい男性だそうです。各地を巡り、多くの人を救っているため、民衆からの人気も非常に高いとか」


「完璧超人みたいやな」


「実際に会った方は、誰にでも分け隔てなく接する人物だったと話していました」


 続けて、二本目の指を立てる。


「影の勇者は、全身を覆う黒いフルプレートの鎧を着た巨漢の男性だそうです。素顔はおろか、肌を見た者すらほとんどいないとか」


「暑くないんでしょうか?」


 白鬼の疑問に、イシュタリカは笑う。


「私も同じことを思いました。ただ、寡黙ながら人助けには熱心で、魔物に襲われた村を何度も救っているそうです」


「見た目は怖いが、悪い人間ではないということか」


 シグマが呟く。


「噂が正しければ、そうですね」


 イシュタリカは話を続ける。


「木の勇者は小柄な女性で、とても無口だそうです。しかし、傷ついた人や飢えた土地を救う姿から、聖女のように慕われていると聞きました」


 黒鬼がわずかに表情を和らげる。


「優しい人なんですね……」


「火の勇者は、熱血漢で正義感が強い一方、かなり自分勝手だとも聞きます」


 紅蓮の眉がわずかに動く。


「人助けはするのですが、勢い余って建物を壊したり、周囲へ被害を出したりすることが多いとか」


「……あいつなら、やりかねないな」


 紅蓮が小さく呟く。


「知り合いなのですか?」


「いや、噂から受けた印象だ」


 紅蓮はすぐに言葉を濁した。


「雷の勇者は、ここ数年ほとんど姿を見せていないそうです。どこかの国の部屋へ閉じこもったままで、近しい者ですら会えていないとか」


「勇者が引きこもりか」


 シグマは眉を寄せる。


「何か事情があるのかもしれませんね」


 イシュタリカも断定はせず、肩をすくめた。


「水の勇者は、非常に美しい女性だそうです。ただ、戦いや功績よりも、なぜか色恋の噂ばかりが広まっています」


「どんな噂や?」


 シルフが興味津々で身を乗り出す。


「王族と関係があるとか、複数の貴族から求婚されているとか、訪れた街で必ず誰かを虜にするとか……」


「ほうほう」


「なぜそこだけ食いつく」


 紅蓮に睨まれ、シルフは元の位置へ戻った。


「氷の勇者は冷徹な女性で、あまり人前に出ないため、人気は高くないようです。詳しい話も、ほとんど聞きません」


 そこでイシュタリカは少し笑い、最後の一本を立てる。


「風の勇者は、小柄な少年だそうです」


「……少年?」


 シルフの頬が引きつる。


「ええ。誰にでも気軽に話しかける、とても親しみやすい人物だとか」


「ほ、ほら! ええ噂やん!」


 シルフが不自然に声を弾ませる。


 しかしイシュタリカの話は終わっていなかった。


「ただ、かなり頭が悪く、わがままで自分勝手だともっぱらの評判ですね」


「ぶっ!」


 白鬼が吹き出す。


 紅蓮も思わず口元を押さえた。


 黒鬼は笑ってはいけないと思ったのか、顔を伏せて肩を震わせている。


 シグマも堪えようとしたが、耐えきれず小さく笑い声を漏らした。


「な、なんやその噂!」


 シルフが顔を真っ赤にする。


「しかも少年って! うち……いや、風の勇者は立派な大人の女性かもしれへんやろ!」


「ですが、各地では少年だと伝わっていますよ」


「誰や、最初に少年って言い出した奴!」


「それに、困っている人を助けた後、報酬として大量の菓子を要求したという話もあります」


「必要経費や!」


 シルフが勢いよく立ち上がる。


 馬車がわずかに揺れ、紅蓮がすぐに肩を掴んで座らせた。


「落ち着け」


「これが落ち着いていられるか!」


 イシュタリカは、なぜシルフがこれほど怒っているのか理解できず、不思議そうに首を傾げた。


「風の勇者がお好きなのですか?」


「好きというか、本人というか……」


「シルフ」


 紅蓮が低い声で止める。


 シルフは口を閉じ、不満そうに腕を組んだ。


 シグマは笑いを堪えながらイシュタリカへ言う。


「気にしなくていい。少し思うところがあるだけだ」


「はあ……」


 イシュタリカは納得しきれない様子だったが、それ以上は追及しなかった。


 やがて、表情を少し曇らせる。


「最後は、土の勇者ですね」


 馬車の中の空気が、わずかに変わった。


 シグマは無意識に左腕へ視線を落とす。


「土の勇者は、残虐非道な人物だと聞いています」


 イシュタリカの声には、先ほどまでの軽さがなかった。


「かつて街を一つ滅ぼし、多くの人を殺した大罪人。現在は聖王都アイリシアの地下に幽閉されていると」


 それは、世間に広まっている噂だ。


 事実かどうかを確かめた者など、ほとんどいない。


 だが、何度も語られ続けるうちに、噂は人々にとっての真実へ変わっていく。


 シルフの表情から笑みが消えた。


「……それも、噂やろ」


「もちろんです。私も実際に見たわけではありません」


 イシュタリカは少し慌てたように付け足す。


「ただ、近いうちに土の勇者がディアグランディアを経由し、旧グランディアの王都跡へ向かうという話を聞きました」


「土の勇者が?」


 紅蓮が鋭い視線を向ける。


「どこで聞いた?」


「行商人ギルドです。国境付近では、すでに護送に備えて警戒を強めているそうです」


「護送……」


 シグマの胸の奥で、何かがざわついた。


 理由は分からない。


 だが、土の勇者という言葉を聞くたび、忘れている何かが内側から強く叩いてくるような感覚があった。


 イシュタリカは窓の外へ視線を向ける。


「正直に言えば、少し不安です。街を一つ滅ぼした者が近くを通るとなれば、恐ろしく感じる人も多いでしょう」


 シルフは眉を引きつらせたまま、会話へ入ろうとはしなかった。


 紅蓮も何かを考え込んでいる。


 シグマは自分の左手を握り、静かに息を吐いた。


 しばらくの間、話題は現在のグラン王国周辺の情勢へ移った。


 分裂した三国の関係。


 ディアグランディアとアルステラの国境。


 旧グランディア領内に残る魔物や盗賊。


 行商人であるイシュタリカの話は具体的で、シグマたちにとっても有益なものだった。


 ◇◇◇


 太陽が真上へ昇った頃。


 シグマは街道近くに、穏やかな流れの河原を見つけた。


「昼にしよう」


 馬車を街道から少し離れた場所へ止める。


 周囲には低い草が生え、川辺には平らな石が並んでいた。


 紅蓮が馬車と荷物の見張りを担当し、シグマ、シルフ、イシュタリカが調理を始める。


 白鬼と黒鬼は、シグマたちのアイテムボックスから食材や調理器具を取り出していった。


 するとイシュタリカも、腰に下げていた革製の鞄へ手を入れる。


 鞄の大きさには収まらないはずの干し肉や野菜、香辛料の瓶が次々と出てきた。


「……その鞄は何だ?」


 シグマが手を止める。


「アイテムバッグですよ」


 イシュタリカは何でもないことのように答えた。


「アイテムボックスを、持ち運びやすい鞄にしたものです」


「そんなんあるんか!」


 シルフが目を輝かせる。


「便利そうやな。いくらくらいするん?」


「これは金貨五枚ほどです」


「ごっ……!」


 シルフの声が裏返る。


「鞄一個で金貨五枚!? 盗まれたら泣くだけじゃ済まへんで!」


 イシュタリカは笑いながら首を横に振る。


「このアイテムバッグには所有者登録があります。持ち主以外が持とうとすると、中に入っている物の総重量がそのままかかるんです」


「総重量?」


「試してみますか?」


 イシュタリカは鞄を地面へ置いた。


 シルフが興味津々で取っ手を掴む。


「こんな小さい鞄、片手で――」


 力を込める。


 鞄は一寸も動かなかった。


「ふんっ!」


 今度は両手で掴み、腰を落とす。


「ぬぬぬぬぬ……!」


 顔を真っ赤にして引っ張るが、やはり動かない。


「何やこれ! 地面にくっついとるんちゃうか!?」


「現在、中身は三百キロほどあります」


「先に言えや!」


 シルフは取っ手から手を離し、尻餅をついた。


 黒鬼が心配そうに駆け寄る。


「大丈夫ですか?」


「うちの腰が大丈夫やない……」


 イシュタリカが鞄を持つと、今度は何の苦労もなく持ち上がった。


「所有者には、鞄そのものの重さしかかかりません」


「便利だな」


 シグマが感心する。


「安いものもあるのか?」


「容量が小さく、所有者登録のない品であれば、銀貨五十枚ほどからあります。ただし、盗まれれば誰でも中身を取り出せてしまいます」


「それでも十分高いですね」


 白鬼が苦笑する。


「旅をするなら、便利な道具はほかにもありますよ」


 イシュタリカは料理を手伝いながら、さまざまな道具を教えてくれた。


 少量の魔力で湯を沸かせる携帯炉。


 水分を弾く防水布。


 乾燥させた食材を長期間保存できる密閉容器。


 夜間に小さな光を灯し続ける魔石灯。


 どれも便利だが、それなりの値段がするものばかりだった。


 やがて料理が完成し、紅蓮も馬車から離れて河原へやってくる。


 ノクスとソルちゃんも荷具を外され、水辺で羽を休めた。


 今日の昼食は、野菜と干し肉を煮込んだスープと、平たいパン。


 イシュタリカが持っていた香辛料を加えたことで、普段よりも食欲をそそる香りが漂っている。


「紅蓮、旅道具の話を聞いたんです」


 白鬼が食事をしながら切り出す。


「アイテムバッグ、便利そうですよ」


「金貨五枚だそうだ」


 シグマが続ける。


 紅蓮は即座に首を横へ振った。


「却下だ」


「早っ!」


 シルフが声を上げる。


「まだ詳しく説明してへんやん!」


「金貨五枚という時点で却下だ。今の私たちに必要な出費ではない」


「でも、荷物が軽くなりますよ?」


「馬車とアイテムボックスがある」


「馬車を置いて移動する時に便利です……」


 黒鬼も控えめに意見を出す。


 紅蓮は少し考えたが、それでも首を横へ振った。


「便利なのは認める。しかし、便利だからと高価な物を次々買っていては、いくら金があっても足りない」


「さすが紅蓮さん。堅実ですね」


 イシュタリカが感心する。


 少し考えた後、笑顔で提案した。


「リットガルには、魔道具を扱う知り合いがいます。質のよい物を安く仕入れられるかもしれません」


「商売をするつもりか?」


「行商人ですので」


 イシュタリカは悪びれることなく答えた。


「皆さんには護衛を引き受けていただいた恩があります。相場より安くお譲りしますよ」


 紅蓮はスープを飲みながら、しばらく黙って考える。


「……値段次第で検討しよう」


「決まりですね」


「買うとは言っていない」


「検討していただけるだけで十分です」


 イシュタリカの商人らしい笑顔に、紅蓮は苦笑した。


 六人と二羽は河原で昼食を取りながら、穏やかな時間を過ごした。


 ◇◇◇


 昼食を終え、再び馬車が走り始める。


 満腹になった白鬼、黒鬼、シルフは、しばらくすると眠気に負けた。


 白鬼は黒鬼の肩へ寄りかかり、黒鬼は箱にもたれながら目を閉じている。


 シルフは最初こそ眠らないと言い張っていたが、今では口を半開きにして熟睡していた。


 御者台ではシグマが手綱を握り、その隣に紅蓮が座っている。


 イシュタリカは客室の入口近くに腰掛け、二人とグラン王国の情勢について話していた。


「国境付近の商人は、最近かなり慎重になっています」


「盗賊が増えたのか?」


「それもありますが、三国の関係が不安定だからです。昨日まで通れた道が、翌日には封鎖されることもあります」


「商人には厳しい状況だな」


「ええ。ただ、人が行き来しにくい時ほど、必要な物資は高く売れます」


 イシュタリカは苦笑する。


「危険と利益は、いつも隣り合わせです」


 しばらく進んだ頃。


 先頭を走っていたノクスの動きが、わずかに変わった。


 速度を落とし、何度も後ろへ顔を向ける。


「……どうした?」


 シグマが手綱を緩める。


 ノクスは短く鳴き、前方を見た後、再びシグマへ視線を送った。


 普段は落ち着いているノクスが、これほど明確に異変を伝えようとするのは初めてだった。


「紅蓮。三人を起こしてくれ」


「分かった」


 シグマは馬車を止め、御者台から飛び降りる。


 街道の先を見つめるが、遠目には特に何も見えない。


 草原が広がり、その中を細い道が続いているだけだ。


「何や……敵か?」


 寝ぼけた声を出しながら、シルフが馬車から降りてくる。


「ノクスが何かに気づいた」


「ちょっと見てくる」


 シルフは馬車の屋根へ軽やかに飛び乗った。


 目元へ手を当て、遠くを見渡す。


 しばらくして、表情が引き締まった。


「おるな」


「何がいる?」


「スライムや。街道の少し先に、何体か集まっとる」


 シルフが屋根から飛び降りる。


 白鬼と黒鬼も馬車から出てきた。


「スライムですか……」


「……嫌です」


 二人が揃って顔をしかめる。


 紅蓮も露骨に嫌そうな表情を浮かべた。


「面倒な相手だな」


「そんなに厄介なのか?」


 シグマの問いに、白鬼が説明する。


「大きくて、ねばねばしていて、溶解液を飛ばしてくるんです」


「服や武器に付着すると、溶かされることがある」


 紅蓮が続けた。


「しかも、普通の斬撃や打撃はほとんど効かない。核を魔法や属性攻撃で破壊する必要がある」


「倒しても、素材は安く買い叩かれます」


 白鬼が肩を落とす。


「汚れる、面倒、儲からない。冒険者からは嫌われています」


「うげぇ……」


 シルフが改めて声を漏らす。


「迂回した方が早いんちゃう?」


「この辺りで街道を外れるのは危険だ」


 紅蓮は周囲の草原を見る。


「草が深い。車輪を取られる可能性がある」


 五人が討伐するか、迂回路を探すか相談していると、イシュタリカが馬車から降りてきた。


「スライムがいるのですか?」


「ああ。数体らしい」


「それでしたら、倒していただけませんか?」


 全員がイシュタリカを見る。


「依頼に討伐は含まれていないぞ」


 紅蓮が念を押す。


「もちろん、無理にとは申しません。ただ、スライムの素材で状態のよい物があれば、私が相場より高く買い取ります」


「スライムの素材を?」


 シルフが首を傾げる。


「何に使うん?」


「最近、スライムの体液を加工した塗り薬が注目されているんです」


「塗り薬?」


「適切に処理すれば、腫れや軽い火傷に効果があるそうです。まだ広く知られてはいませんが、薬師の間では需要が増えています」


 イシュタリカは商人らしい目で街道の先を見る。


「ちょうど、まとまった量を集めているところでした」


「高く売れるんですか?」


 白鬼が尋ねる。


「状態にもよりますが、通常の倍以上で買い取ります」


 五人は顔を見合わせた。


「……倒すか」


 紅蓮が言う。


「結局、金かい」


 シルフが呆れる。


「旅には金が必要だ」


「さっきアイテムバッグを却下した人の言葉とは思えへんな」


「無駄遣いをしないことと、稼がないことは別だ」


「正論やから言い返せへん!」


 討伐が決まり、黒鬼が馬車に残ることになった。


 危険が迫った場合、すぐに馬車を動かしてイシュタリカを避難させる役目だ。


 黒鬼は少し不満そうだったが、自分の役割を理解して頷いた。


「気をつけてください」


「ああ」


 シグマ、紅蓮、白鬼、シルフの四人は、街道を進んだ。


 少し離れた場所から、半透明の塊がいくつか揺れているのが見える。


 だが、近づくにつれて全員の表情が変わった。


「数体ちゃうやん……」


 シルフが引きつった声を出す。


 草原の窪地。


 そこには、大小さまざまなスライムが集まっていた。


 小さいものでも人間の腰ほど。


 中型になると、紅蓮の背丈を優に超えている。


 そして群れの最奥には、周囲のスライムとは比較にならない巨大な個体がいた。


 高さは五メートル近い。


 淡い青色の半透明な体内に、人の頭ほどもある濃紺の核が浮かんでいる。


「遠くからだと、透けていて数が分からなかってん」


 シグマが目を細める。


「三十体くらいか」


 紅蓮は大剣の柄へ手を掛ける。


「それに、あの巨大個体。通常のスライムではないな」


「キングスライムほどではないけど、かなり育っとるな」


 シルフが弓を手に取る。


「一度下がるぞ」


 四人は気づかれないよう距離を取り、草陰で作戦会議を始めた。


「物理攻撃は効かない。シグマと私は、武器に魔力をまとわせて核を狙う」


 紅蓮が地面へ簡単な配置図を描く。


「シルフは小型を頼む。数が多いため、動きの速いお前が適任だ」


「風でまとめて吹き飛ばして、核を射抜けばええんやな」


「ああ」


「中型は俺と紅蓮か」


 シグマが確認する。


「そうだ。問題は巨大個体だが――」


 全員の視線が白鬼へ向いた。


「……なぜ、私を見るんですか?」


「お前の炎魔法が最も有効だ」


「嫌です」


 白鬼は即答した。


「大きすぎます。絶対に、ねばねばしたものを飛ばしてきます」


「そこを何とかしてくれ」


「紅蓮さんがやればいいじゃないですか」


「私は火属性を武器にまとわせることはできるが、広範囲への魔法攻撃は得意ではない」


「シグマさんは?」


「土魔法では相性が悪い」


「シルフさん」


「うちは小さいの担当や」


 白鬼は逃げ道を探すように三人の顔を見る。


 しかし、全員が期待の目を向けていた。


「……分かりました」


 白鬼は深いため息をつく。


「でも、服が溶けたら全員責任を取ってください」


「どう責任を取るんだ?」


「新しい服を買ってもらいます」


「その程度なら構わない」


 シグマが答えると、白鬼の頬がわずかに緩んだ。


「シグマさんが選んでくれるんですか?」


「なぜそうなる」


「今、責任を取ると言いました」


「金を出すという意味だ」


「選んでくれてもいいんですよ?」


「戦闘前に何の話をしている」


 紅蓮が呆れた声を出す。


 白鬼は笑みを浮かべながら立ち上がった。


「冗談です。半分くらいは」


「半分は本気なのか」


 それぞれが配置につく。


 シルフは草の中を素早く移動し、群れの左側へ。


 紅蓮は右側。


 シグマは正面。


 白鬼は巨大スライムがいる奥へ向かう。


 シグマは右腕の義手へ意識を集中させた。


 内部の火龍石が、低く脈打つ。


 赤い魔力がガントレットの表面を走り、拳を薄い炎が覆った。


 紅蓮も大剣を抜き、刃へ炎の魔力をまとわせる。


 シルフが矢を番えた。


 白鬼は杖を握り、深呼吸する。


「始めるぞ」


 紅蓮の合図と同時に、シルフが矢を放った。


「風裂矢!」


 矢は風をまとい、群れの端にいた小型スライムへ突き刺さる。


 柔らかな体を貫き、その中心にある小さな核を正確に撃ち抜いた。


 核が砕けた瞬間、スライムの体が形を失って地面へ崩れ落ちる。


 近くにいた小型スライムたちが一斉に震え、シルフの方へ向きを変えた。


「ほら、こっちや!」


 シルフは次々と矢を放ちながら走る。


 一体。


 二体。


 三体。


 小さな核を正確に射抜き、群れを本隊から引き離していく。


 同時に、シグマと紅蓮も中型の群れへ突入した。


 スライムの一体が、体表を大きく膨らませる。


「来るぞ!」


 紅蓮の声。


 次の瞬間、粘つく液体が勢いよく飛び出した。


 シグマは横へ跳ぶ。


 溶解液が地面へ落ち、草を煙とともに溶かしていった。


「触れれば義手以外は危ないな」


 着地と同時に地面へ手をつく。


「土壁!」


 土が盛り上がり、次々と飛んでくる溶解液を受け止める。


 壁の表面が音を立てて崩れていくが、その間に紅蓮が側面へ回り込んだ。


「はあっ!」


 炎をまとった大剣を横薙ぎに振るう。


 刃はスライムの柔らかな体へ深く入り込み、内部の核へ迫った。


 だが、体が刃へまとわりつき、勢いを奪う。


「ちっ、重い!」


 紅蓮が剣を引こうとするが、粘液が絡みついて抜けない。


 別のスライムが背後から迫る。


「紅蓮!」


 シグマが地面を蹴った。


 右拳を振り抜き、炎をまとった拳をスライムの側面へ叩き込む。


 柔らかな体が大きく歪み、内部の核が一瞬だけ表面近くへ押し出された。


「今だ!」


 紅蓮は大剣をひねり、露出した核を斬り砕く。


 核が割れ、スライムの体から力が抜けた。


 まとわりついていた粘液が崩れ、大剣が解放される。


「助かった」


「次が来る」


 シグマは振り向きざまに拳を構える。


 二体の中型スライムが、左右から迫っていた。


 一方、白鬼は巨大スライムと向き合っていた。


「近くで見ると、余計に気持ち悪いですね……」


 五メートル近い巨体が、ぶるぶると震える。


 その振動だけで、周囲の地面がわずかに揺れた。


 白鬼は杖を前へ向ける。


「炎槍!」


 三本の炎の槍が放たれ、巨大スライムの体へ突き刺さった。


 表面が焼け、蒸気が立ち上る。


 しかし、核までは届かない。


「硬い……というより、厚すぎます」


 巨大スライムが体を大きく膨らませた。


 白鬼の顔から血の気が引く。


「まさか――」


 無数の溶解液が雨のように放たれた。


「光壁!」


 白鬼の前に光の壁が出現する。


 液体が壁へ衝突し、激しい音と白煙を上げた。


「うぅ……!」


 一発一発は防げる。


 だが、数が多すぎる。


 光壁の表面に亀裂が走り始めた。


「このっ……!」


 白鬼は杖を握る手へ力を込める。


 最後の一滴が落ちると同時に、光壁が砕け散った。


「危なかった……」


 安堵する暇もなく、巨大スライムが地面を滑るように迫る。


 見た目からは想像できない速度だった。


「速っ――!」


 白鬼は横へ飛ぶ。


 巨大な体が先ほどまで立っていた場所へ覆いかぶさり、地面の草を飲み込んだ。


 白鬼は転がりながら立ち上がる。


「本当に、私一人でこれを倒すんですか!?」


 離れた場所では、シルフが小型スライムの群れを相手にしていた。


 風をまとった矢で核を射抜くが、数が多い。


「一列に並んでくれへんかな!」


 シルフが跳びながら矢を放つ。


 一体を倒した直後、足元の草陰から別の小型スライムが飛び出した。


「うわっ!」


 粘液が靴へ付着する寸前、シルフは風を地面へ叩きつけて跳び上がった。


「危なっ! 靴が溶けたら歩いて帰らなあかんところやった!」


 空中で身体をひねり、三本の矢を同時に番える。


「風連矢!」


 三本の矢が別々の軌道を描き、それぞれ三体の核を撃ち抜く。


 着地したシルフの背後から、さらに二体が迫る。


「まだおるんか!」


 シルフは弓を横へ振り、風の刃を放つ。


 スライムの体が横へ押し流され、草原の斜面を転がった。


 核が体の端へ移動した一瞬を逃さず、矢を射る。


「これで十体目!」


 一方、シグマと紅蓮は背中合わせになり、次々と中型スライムを相手にしていた。


「右から二体!」


「任せろ!」


 紅蓮が大剣を地面へ突き立てる。


「炎輪!」


 刃から円状に炎が広がり、二体のスライムを包み込む。


 体表の水分が一気に蒸発し、動きが鈍った。


 シグマはその間を駆け抜ける。


 一体目の核へ右拳を叩き込み、炎を内部で爆発させた。


 核が砕ける。


 その勢いのまま左足を軸に回転し、二体目へ蹴りを放つ。


 物理攻撃だけなら意味はない。


 しかし、靴底へ薄く土属性の魔力をまとわせ、体を大きく揺らす。


 内部の核が表面近くへ浮いた。


「紅蓮!」


「見えている!」


 紅蓮の大剣が振り下ろされ、核を真っ二つにする。


「残りは?」


「中型はあと六体!」


 シルフの声が遠くから響く。


「小さいのは、まだ八体くらいや!」


「数が減らないな」


「最初に見えなかった奴らが、草の中から出てきとる!」


 シグマが周囲を見る。


 確かに、窪地のさらに奥から新たなスライムが姿を現していた。


 この場所は、スライムの巣に近いのかもしれない。


 その時、白鬼の悲鳴が響いた。


「きゃあっ!」


 巨大スライムの体が鞭のように伸び、白鬼を薙ぎ払おうとする。


 白鬼は光壁を斜めに展開した。


 伸びた体が壁へぶつかり、軌道を逸らされる。


 それでも衝撃は完全に消せず、白鬼の小さな体が地面を転がった。


「白鬼!」


 紅蓮が駆け寄ろうとする。


「来ないでください!」


 白鬼は杖を支えに立ち上がった。


 額に汗を浮かべているが、怪我はない。


「こっちは私がやります! そちらを片づけてください!」


 巨大スライムは、再び体を膨らませていた。


 白鬼は息を整えながら、その内部を見つめる。


 炎槍では核まで届かない。


 表面を焼くだけでは、すぐに周囲の粘液が穴を塞いでしまう。


 ならば、一点ではなく、体そのものを大きく減らす必要がある。


「……嫌ですが、近づくしかありませんね」


 白鬼は杖の先へ炎を集める。


 巨大スライムが溶解液を放つ。


 白鬼は光壁を出さず、横へ走った。


 一発目を避ける。


 二発目は、杖で生み出した小さな光の盾で軌道を変える。


 三発目が髪のすぐ横を通過し、数本の毛先を溶かした。


「髪まで……!」


 白鬼の額に青筋が浮かぶ。


「もう許しません!」


 巨大スライムの目前まで踏み込む。


 杖を地面へ突き立て、両手を前へかざした。


「炎柱!」


 地面から巨大な火柱が立ち上がる。


 スライムの下半分を飲み込み、内部の粘液を激しく沸騰させた。


 巨大な体が大きく揺れ、悲鳴のような振動音を響かせる。


 高温に耐えきれず、体の一部が蒸発した。


 核を覆う粘液が薄くなる。


「見えた!」


 白鬼は杖を引き抜き、先端を核へ向ける。


「炎槍――五連!」


 五本の炎の槍が、同じ一点へ向けて放たれた。


 一発目が残った粘液を穿つ。


 二発目、三発目が穴を広げる。


 四発目が核の表面へ亀裂を入れた。


「これで……終わりです!」


 五発目が亀裂へ突き刺さる。


 巨大な核が、内側から砕け散った。


 五メートルの巨体が激しく波打ち、支えを失って崩れ落ちる。


 大量の粘液が地面へ広がった。


 白鬼は慌てて後方へ飛び退く。


「危ないっ!」


 あと少し遅ければ、崩れた体液に足を取られていた。


 白鬼は肩で息をしながら、倒れた巨大スライムを見下ろす。


「二度と……一人で相手をしたくありません」


 その頃、シグマは最後の中型スライムと向き合っていた。


 相手はほかの個体よりも素早く、何度も体を伸ばして攻撃を繰り返してくる。


 拳を当てても、核を反対側へ移動させて回避する。


「核を動かせるのか」


「なら、逃げ場をなくせ!」


 紅蓮が大剣を地面へ突き刺し、炎を放つ。


 スライムの左右を炎の壁が塞いだ。


 熱を嫌い、核が中央へ移動する。


 シグマは右腕を引く。


 火龍石へ魔力を流し込み、拳を覆う炎を圧縮する。


「そこだ」


 一歩踏み込む。


 炎をまとった拳が、スライムの中央へ突き刺さった。


 柔らかな体を貫き、核へ直接届く。


「爆ぜろ」


 拳に凝縮していた炎が解放された。


 鈍い破裂音。


 核が粉々に砕け、最後の中型スライムが崩れ落ちる。


「こっちは終わった!」


 紅蓮が声を上げる。


「うちも最後や!」


 シルフが地面を蹴り、高く跳び上がった。


 残った小型スライム三体が、一か所へ集まっている。


 空中で一本の矢を番え、矢尻へ風を集中させる。


「風穿!」


 放たれた矢は一直線に飛び、一体目の核を貫く。


 勢いを失わず二体目、三体目まで撃ち抜き、背後の地面へ突き刺さった。


 三体のスライムが、ほぼ同時に崩れ落ちる。


 シルフは着地し、得意げに髪を払った。


「完璧や」


 直後、崩れたスライムの体液が足元へ流れてくる。


「うわああっ!」


 シルフは慌てて飛び退いた。


「最後まで締まらないな」


 紅蓮が呆れる。


「倒したんやからええやろ!」


 四人は周囲を確認する。


 動いているスライムは、もういない。


 白鬼も無事だった。


 シグマは馬車の方向へ腕を上げ、合図を送る。


 しばらくすると、黒鬼が操る馬車がゆっくり近づいてきた。


「皆さん!」


 黒鬼は馬車を止めると、すぐに飛び降りた。


 真っ先に白鬼へ駆け寄る。


「白鬼、怪我は?」


「大丈夫ですよ。髪が少し溶けただけです」


「髪が!?」


「ほんの少しです」


 黒鬼は白鬼の毛先を何度も確認する。


 その様子に、白鬼は苦笑しながら妹の頭を撫でた。


 イシュタリカは倒されたスライムの群れを見て、目を輝かせる。


「これは……想像以上ですね」


「素材として使えるか?」


 シグマが尋ねる。


「はい。核を綺麗に破壊している個体が多いので、体液の状態も良好です。特に、あの巨大個体は希少ですよ」


「高く買ってくれるんやろな?」


 シルフが念を押す。


「もちろんです。ただ、回収には少し時間がかかりそうですね」


 イシュタリカの指示を受け、全員で素材回収を始めた。


 専用の容器へスライムの体液を入れ、溶解性が強い部分と薬の素材になる部分を分ける。


 慣れていないシグマたちには難しく、イシュタリカが一つ一つ丁寧に説明した。


「その透明な部分は使えます。濁っている箇所は溶解性が強いので、触れないようにしてください」


「見分けがつかへん!」


「光へ透かすと分かります」


「全部同じに見えるで!」


「シルフは容器を運ぶだけにしろ」


「うちだけ雑用!?」


「混ぜられるよりましだ」


 巨大スライムを含め、三十体近い素材を回収する。


 数が多いこともあり、すべて終える頃には太陽が西へ傾き始めていた。


「まずいな」


 紅蓮が空を見る。


「予定よりかなり遅れた」


「ここから一番近い宿は?」


 シグマの問いに、イシュタリカが考える。


「少し先に小さな村があります。日没までに急げば、到着できるはずです」


「そこへ向かおう」


 急いで道具を片づけ、全員が馬車へ乗り込む。


 ノクスとソルちゃんも疲れているはずだが、掛け声に応えて力強く走り始めた。


 ◇◇◇


 太陽が地平線へ沈みかけた頃。


 馬車は、ようやく小さな村へ到着した。


 村の周囲には簡素な木の柵があり、その内側に農地と民家が点々と並んでいる。


 大きな建物はなく、家々の煙突から夕餉の煙が立ち上っていた。


「小さい村やな」


 シルフが窓から外を見る。


「ほとんどが農家でしょうか」


 白鬼の言葉に、イシュタリカが頷く。


「この辺りでは、麦と根菜を育てている家が多いですね」


「宿はあるのか?」


「あります。この先の『うさぎの尻尾亭』です」


 イシュタリカの案内で進むと、やがて一軒の民家が見えてきた。


 外見は周囲の家とほとんど変わらない。


 ただ、入口の横には小さな看板があり、丸いうさぎの尻尾とともに『うさぎの尻尾亭』と書かれている。


「ほんまに宿屋なん?」


「看板がなければ、普通の家だな」


 紅蓮も不思議そうに建物を見る。


「少し待っていてください」


 イシュタリカは一人で中へ入った。


 窓越しに、年配の店主らしき男性と親しげに話している姿が見える。


「知り合いなんでしょうか?」


「行商で何度も来たことがあるんだろう」


 数分後、イシュタリカは三本の鍵を持って戻ってきた。


「部屋は空いていました」


「この家に泊まるのか?」


 シグマが尋ねる。


「いえ、この村では空き家を宿として貸しているんです」


「空き家?」


「農家の子どもが街へ出た後など、使われなくなった家がいくつかあります。それを村が管理して、旅人へ貸しているんですよ」


 イシュタリカは鍵を三本掲げる。


「一軒あたり、銅貨三十枚です。馬車を止められる納屋もあります」


「一軒で銅貨三十枚?」


 白鬼が驚く。


「アルランカの宿より、かなり安いですね」


「食事や風呂はありませんが、寝るだけなら十分です」


 イシュタリカは鍵を二本、紅蓮へ渡す。


 さらに三枚の小さな羊皮紙を取り出し、そのうち二枚も手渡した。


「これは?」


「簡単な地図です。三軒とも隣り合っています」


 六人は地図を頼りに村の中を進んだ。


 宿として借りた家は、村の端に並んでいた。


 右に小さな平屋。


 中央に少し広い家。


 左に二階建ての家。


 話し合いの結果、部屋割りはすぐに決まった。


 シグマとイシュタリカは、右側の最も小さな家。


 紅蓮とシルフは、中央の家。


 白鬼と黒鬼は、左側の家を使う。


「なぜうちと紅蓮が同じ家なん?」


 シルフが不満そうに尋ねる。


「嫌なのか?」


「いや、夜中に寝相で斬られへんか心配で」


「今夜、確実に斬られたいらしいな」


「冗談や! 剣から手を離して!」


 馬車は中央の家に付属する納屋へ入れた。


 ノクスとソルちゃんは、シグマたちの家の横にある家畜小屋を使うことになった。


 荷物を置き終えた頃には、空はすっかり暗くなっていた。


「夕食はどうする?」


 紅蓮が尋ねる。


「近くに美味しい定食屋があります」


 イシュタリカが答える。


「以前、この村に来た時によく利用していました。皆さんをご案内しますよ」


 全員が賛成し、出発しようとした時だった。


「少し待ってください」


 黒鬼が家畜小屋へ向かう。


 アイテムボックスから騎鳥用の餌を取り出し、二つの桶へ分け始めた。


「ノクスとソルちゃんの食事を忘れています」


「あ……」


 シルフが足を止める。


「完全に忘れとった」


「私もだ」


 紅蓮が素直に認める。


 黒鬼は水も新しいものへ交換し、二羽の羽毛や足に異常がないか確認する。


「今日はたくさん走ってくれて、ありがとう」


 黒鬼が優しく声をかけると、ソルちゃんが嬉しそうに頭を寄せた。


 ノクスも静かに首を下げる。


「黒鬼さん、よく気がつきますね」


 イシュタリカが感心する。


「本当に優しい子です」


 白鬼も誇らしそうに妹を見る。


 シグマは黒鬼へ近づいた。


「助かった。俺も忘れていた」


「……いえ。私にできることをしただけです」


「それでもだ」


 シグマは黒鬼の頭へ手を置き、優しく撫でる。


 黒鬼は驚いて体を固くした。


 しかしすぐに頬を赤く染め、嬉しそうに目を細める。


「ありがとうございます……」


 その光景を、白鬼がじっと見ていた。


 次第に頬が膨らんでいく。


「……シグマさん」


「何だ?」


「私も、今日たくさん頑張りました」


「そうだな」


「巨大スライムを一人で倒しました」


「ああ。助かった」


「髪も少し溶けました」


「怪我がなくてよかった」


「それだけですか?」


「……ほかに何がある?」


 白鬼は無言でシグマの右腕へ抱きついた。


「おい」


「不公平です」


「何がだ?」


「黒鬼だけ撫でてもらいました」


「餌の準備をしてくれたからだ」


「私は巨大スライムを倒しました」


「さっき礼を言っただろ」


「言葉だけでした」


 白鬼はシグマの腕を抱いたまま、離れようとしない。


「白鬼、子どもみたいですよ……」


 黒鬼が小さく言う。


 白鬼は黒鬼へ視線を向け、にこりと笑った。


「では、黒鬼は真似しないのですか?」


「えっ?」


「したくないのですか?」


「それは……」


 黒鬼はシグマと白鬼を交互に見る。


 しばらく迷った後、おそるおそるシグマの左腕へ抱きついた。


「……私も」


「なぜそうなる!」


 両腕を双子に抱かれ、シグマの顔が一気に赤くなる。


 白鬼は右腕へ頬を寄せ、満足そうに笑う。


 黒鬼は恥ずかしそうに俯きながらも、離れようとはしなかった。


「お、お前たち、歩きにくいだろ!」


「私は平気です」


「私も……大丈夫です」


「俺が平気じゃない!」


 紅蓮とシルフは一瞬、呆気に取られていた。


 次の瞬間、二人そろって大笑いする。


「シグマ、顔真っ赤やで!」


「見れば分かることを言うな!」


「両手に花とは、随分と贅沢だな」


「紅蓮まで笑うな!」


 シグマが怒鳴るが、紅蓮たちは笑いながら先に歩き始めた。


「ほな、うちら先に行くでー」


「待て! こいつらを何とかしてから――」


「行きましょう、シグマさん」


 白鬼が腕を引く。


「……置いていかれてしまいます」


 黒鬼も反対側から引いた。


 シグマはどうにか腕を抜こうとしたが、二人とも思った以上にしっかり抱きついている。


 無理に振りほどけば、転ばせてしまうかもしれない。


「……分かった。分かったから、引っ張るな」


 諦めたシグマは、二人に挟まれたまま歩き始めた。


 しばらく進んだところで、黒鬼が下からシグマの顔を覗き込む。


「……嫌ですか?」


「何がだ?」


「こうして、腕を組むのは」


 黒鬼の声には、わずかな不安が含まれていた。


 シグマは答えに詰まる。


 人に触れられることには、未だに慣れていない。


 自分へ向けられる視線も、近づかれる距離も、時折どうしようもなく恐ろしくなる。


 けれど、白鬼と黒鬼から向けられる好意を嫌だとは思わなかった。


 むしろ少しだけ嬉しいと感じてしまう自分がいて、そのことに戸惑っている。


「……嫌ではない」


 シグマは黒鬼から目を逸らして答えた。


 黒鬼の表情が、ぱっと明るくなる。


「本当ですか?」


「ああ。ただ、恥ずかしいだけだ」


 反対側へ顔を逸らす。


 すると、そこには白鬼のにやにやした顔が待ち構えていた。


「嫌ではないんですね?」


「聞いていただろ」


「もう一度、私に言ってください」


「言わない」


「黒鬼にだけ言うのは不公平です」


「同時に聞いていただろう!」


 白鬼は楽しそうに腕へ抱きつく力を強める。


 シグマは深いため息をついた。


 それでも、二人の腕を振りほどくことはしなかった。


 ◇◇◇


 定食屋『三日月亭』は、村の中心近くにあった。


 小さな木造の建物だが、扉を開けた瞬間、焼いた肉と香草の香りが六人を包んだ。


 白鬼、黒鬼、シルフの腹が、ほぼ同時に鳴る。


 少し遅れて、シグマの腹からも小さな音がした。


 全員が無言で顔を見合わせる。


 イシュタリカが堪えきれず笑った。


「たくさん戦いましたからね。奥の席へ行きましょう」


 店内は村人らしい客で賑わっていた。


 イシュタリカは店主と親しげに挨拶を交わし、慣れた様子でいくつかの料理を注文する。


 六人が大きなテーブルへ座ると、イシュタリカが口を開いた。


「今夜の食事代は、私が持ちます」


「いいのか?」


 紅蓮が尋ねる。


「もちろんです。依頼料とは別に、スライムの素材も大量に手に入りました。皆さんのおかげで、十分な利益が見込めます」


「ほんなら遠慮なく!」


 シルフが即答する。


「少しは遠慮しろ」


「遠慮したらイシュタリカさんの厚意が無駄になるやろ?」


「物は言いようだな」


「今日は本当に助かりました。好きなだけ召し上がってください」


 イシュタリカが笑う。


 しばらくして、大皿に盛られた料理が次々と運ばれてきた。


 香草をまぶして焼いた鳥肉。


 根菜と豆の煮込み。


 川魚の香草焼き。


 焼きたてのパン。


 大きな器に入った野菜のスープ。


 さらに、泡の立つ冷たいエールが全員の前へ置かれる。


「おお……!」


 シルフと白鬼が目を輝かせる。


 黒鬼も嬉しそうに料理を見つめていた。


「それでは」


 イシュタリカが杯を持ち上げる。


「今日一日の安全と、皆さんとの出会いに」


「乾杯!」


 六人の杯が中央で触れ合う。


 心地よい音が響いた。


 シグマはエールを一口飲む。


 麦の香りと、わずかな苦味。


 長い一日の疲れを洗い流すような味だった。


「美味いな」


「シグマ、飲むの早ない?」


 シルフが驚く。


「この程度なら水と変わらない」


「出た、酒豪発言」


「シルフは飲みすぎるなよ」


 紅蓮が睨む。


「分かっとるって。今日は二日酔いにならへん程度にする」


「その言葉を何度聞いたことか」


 食事が始まると、テーブルはすぐに賑やかになった。


 シルフがスライム戦で自分が何体倒したかを大げさに語り、紅蓮が一つずつ訂正を入れる。


 白鬼は巨大スライムを倒した時の苦労を訴え、黒鬼が何度も髪の毛先を心配する。


 イシュタリカは二羽の騎鳥について質問し、シグマがノクスとソルちゃんの性格を説明した。


「ソルちゃんは呼び方にこだわるんですね」


「ちゃん付けを忘れたら、走ってくれへんかもしれんな」


 シルフが笑う。


「明日、試してみるか」


「やめておけ」


 紅蓮が止めた。


「依頼中に機嫌を損ねられては困る」


「ノクスは大人しいですよね」


 黒鬼が言う。


「今日もスライムに最初に気づいてくれました」


「ノクスが知らせなければ、街道で不意に襲われていたかもしれない」


 シグマは杯を置く。


「あとで、もう一度礼を言っておこう」


「ソルちゃんにも言ってあげてください」


 白鬼が付け加える。


「ソルちゃんも、急いで村まで走ってくれましたから」


「ああ」


 料理はどれも美味しく、皿は次々と空になっていく。


 イシュタリカが各地の珍しい料理を語り、シルフがすべて食べてみたいと騒ぐ。


 紅蓮は呆れながらも、次の街で必要な道具をイシュタリカへ相談していた。


 白鬼と黒鬼は、両側からシグマの皿へ料理を取り分けようとして、どちらが先に置くかで小さく張り合っている。


「自分で取れるぞ」


「遠慮しなくていいんですよ」


「……たくさん食べてください」


「俺の皿だけ山になっているんだが」


 皿の上には、肉も魚も煮込みも積み重なっていた。


 シルフがそれを見て笑う。


「愛情の大盛りやな」


「余計なことを言うな」


 シグマは不満を口にしながらも、二人が取り分けた料理を残さず食べた。


 楽しい会話と、温かな料理。


 杯が触れ合う音。


 仲間たちの笑い声。


 これほど賑やかな食卓を囲むことが、かつての自分にもあったのだろうか。


 シグマには分からない。


 思い出そうとすれば、頭の奥には暗闇と、無数の目だけが浮かぶ。


 だが今は、それでよいのかもしれない。


 失ったものが分からなくても、今ここにあるものまで見失う必要はない。


 右では白鬼が楽しそうに笑っている。


 左では黒鬼が、小さな口でパンを食べている。


 向かいではシルフと紅蓮が、くだらない言い争いを続けていた。


 イシュタリカも、すでに昔からの知人であるかのように笑っている。


 シグマは杯を手に取り、静かにエールを口へ運んだ。


 窓の外では、農村の夜が深まっていく。


 長い旅の、まだ最初の一日。


 行商人の護衛任務は、穏やかな宴とともに幕を閉じようとしていた。


 明日は再び馬車を走らせ、国境の街リットガルを目指す。


 そしてその先には、ディアグランディアと、かつてグラン王国の中心だった大地が待っている。


 シグマはまだ知らない。


 今日、何気ない世間話の中で耳にした土の勇者の噂が、やがて自らの失われた過去へとつながっていくことを。


 今はただ、仲間たちの笑い声に包まれながら。


 新たな旅の一日が、静かに終わっていくのであった。

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