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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第十話 行商人の護衛任務 その二

 薄い朝日が窓から差し込み、静かな部屋の床を淡く照らしていた。


 鳥の鳴き声に混じり、外からは荷車の車輪が軋む音や、遠くで家畜を呼ぶ声が聞こえてくる。


 シグマが目を覚ますと、家の中から微かに香ばしい匂いが漂っていた。


 昨夜まで使っていた宿とは違う天井を見上げ、ここがイシュタリカの借りた家であることを思い出す。


 身体を起こし、両腕の義手を軽く動かす。


 指を握り、開く。


 異常がないことを確認してから身支度を整え、リビングへ向かった。


 部屋へ入ると、既にイシュタリカが椅子に腰掛け、湯気の立つカップを傾けていた。


「おはようございます」


 シグマが声をかけると、イシュタリカはカップを置き、穏やかに笑った。


「おはようございます、シグマさん。よく眠れましたか?」


「はい。おかげさまで」


「それはよかった。旅人向けの貸家ですから、あまり上等な寝具ではありませんでしたが」


「十分すぎるほどでした。野営に比べれば、屋根と寝台があるだけでもありがたいです」


「確かに、雨や魔物を気にせず眠れるというのは、それだけで贅沢ですね」


 シグマも向かいの席へ腰を下ろす。


 テーブルの上には黒い液体が入ったポットと、まだ使われていないカップが置かれていた。


「コーヒー、飲みますか?」


「いただきます」


 イシュタリカが慣れた手つきでカップへ注ぐ。


 立ち上る香りは強く、仄かに焦げたような苦い匂いがした。


 シグマは一口含む。


 鋭い苦味が舌に広がり、寝起きのぼんやりとした意識を一気に引き戻した。


「少し濃かったでしょうか?」


「いえ。眠気を覚ますにはちょうどいいです」


「私は朝が弱いので、旅先ではいつも濃くしているんです」


 イシュタリカは照れたように笑い、自分のカップを持ち上げた。


「皆さんは、まだお休みですか?」


「恐らく」


 シグマは昨夜の光景を思い出し、僅かに眉を寄せた。


 シルフと紅蓮は、夕食が終わったあとも酒を飲み続けていた。


 イシュタリカが先に席を立ち、シグマたちが家へ戻ることになっても、二人は名残惜しそうに残った酒瓶を眺めていたほどだ。


「昨日は随分と盛り上がっていましたからね」


「盛り上がりすぎです」


「ははは……」


 イシュタリカは困ったように笑った。


「紅蓮さんは落ち着いた方だと思っていましたが、お酒が入ると随分と豪快になるのですね」


「シルフが煽るからです」


「シルフさんは楽しそうでしたね」


「楽しそうというより、歯止めが利いていませんでした」


 シグマが真顔で答えると、イシュタリカは声を抑えて笑った。


「朝食はどうしましょうか。昨日の店なら、朝も営業していると思いますが」


「では、そこで食べましょう。先に皆を呼んできます」


「分かりました。私はその間にノクスとソルの様子を見ておきます」


「ありがとうございます」


「私の商品を運んでくれた、大切な働き手ですからね。これくらいはさせてください」


 コーヒーを飲み終えたシグマはカップを置き、イシュタリカに一礼して家を出た。


     ◇


 村の朝は早い。


 道端では既に店を開く準備を始めている者がおり、家畜の鳴き声や薪を割る乾いた音が、あちらこちらから聞こえてきた。


 焼きたてのパンを籠へ並べる女性。


 井戸から水を汲み上げる子供。


 農具を肩に担ぎ、畑へ向かう老人。


 昨夜とは違う活気に満ちた村の中を歩き、シグマが最初に向かったのは、シルフと紅蓮が借りている家だった。


 扉の前に立ち、軽く拳を握る。


 コンコン。


「シルフ。紅蓮。朝だ」


 返事はない。


 耳を澄ませても、人が動く気配すら感じられなかった。


 もう一度、今度は少し強めに扉を叩く。


「起きているか?」


 やはり、物音一つ聞こえない。


「……起きているはずがないか」


 昨日、あれだけ飲んでいたのである。


 むしろ、この時間に自力で起きてきたなら褒めてもいいほどだ。


 シグマは小さくため息を吐くと、二人をひとまず後回しにし、白鬼と黒鬼の家へ向かった。


 白鬼達の家の扉をノックすると、しばらくして中から小さな足音が近づいてくる。


「はい……」


 扉を開けたのは黒鬼だった。


 既に普段の黒い魔導士服へ着替えており、杖や鞄も綺麗にまとめられている。


 長い前髪の奥に隠れた表情は分かりにくい。


 しかし、声や立ち姿を見る限り、すっかり準備を終えているようだった。


「おはよう、黒鬼」


「お、おはようございます、シグマさん」


「もう準備を終えたのか?」


「はい。朝、慌ててしまうのは苦手なので……昨日の夜に、ほとんど終わらせておきました」


「立派だな」


「そ、そんなことは……普通のことです」


 黒鬼は照れたように俯き、前髪の先を指で触れた。


 そのときだった。


「黒鬼ぃ……誰だったの……?」


 家の奥から、眠たげな声が聞こえてくる。


 続いて姿を現したのは白鬼だった。


 普段は綺麗に整えられている金色の髪は、寝癖で四方八方に跳ねている。


 服装も寝巻きのままで、片方の袖は肩からずり落ちかけていた。


 目も半分ほどしか開いておらず、完全に寝起きである。


「シグマさんです」


「へえ、シグマ……」


 白鬼はぼんやりと呟いた。


 そのまま数秒間、シグマを見つめる。


「……シグマ?」


「ああ。おはよう」


「…………」


 白鬼は瞬きをした。


 次に自分の髪へ触れる。


 跳ねた毛先を指先で摘み、それから寝巻き姿の自分を見下ろした。


 片方の袖がずり落ちていることにも気づく。


 ゆっくりと、首筋から顔へ赤みが上っていった。


「きゃあああああっ!」


 次の瞬間、白鬼は物凄い勢いで家の奥へ駆け戻っていった。


 勢いよく閉められた扉の向こうから、何かを落とす音が響く。


 続いて棚にぶつかったような鈍い音。


「あいたっ!」


 さらに籠が転がり、何かが床へ散らばる音まで聞こえてきた。


 残されたシグマと黒鬼は、無言で顔を見合わせる。


「……姉が、申し訳ありません」


「いや……俺も来る時間が早すぎたかもしれない」


「いつもは、もう少し早く起きるんです」


「そうなのか」


「昨日、たくさん食べたから眠くなったと言っていました」


「子供みたいだな」


「時々、本当に十五歳なのか心配になります」


 黒鬼が小さくため息をつく。


 シグマは思わず苦笑した。


 家の奥からは、まだ慌ただしい物音が続いている。


「黒鬼はよく眠れたか?」


「はい。昨日は楽しかったです」


「そうか」


「皆で一緒に食事をするのは、やっぱり楽しいです。知らない村でしたけど……怖くありませんでした」


 黒鬼が少しだけ顔を上げる。


「シグマさんたちが、一緒でしたから」


「俺も、よく眠れた」


「本当ですか?」


「ああ」


「……よかったです」


 黒鬼はほっとしたように胸元へ手を添えた。


 その仕草から、シグマが昨夜も悪夢にうなされていなかったか心配していたことが伝わってくる。


「今日の道は、危険なのでしょうか?」


「イシュタリカさんの話では、大きな問題はないらしい。ただ、国境に近い街だから警戒は必要だ」


「国境……」


「怖いか?」


「少しだけ。でも、皆さんと一緒なら大丈夫です」


「無理はするな。何か感じたら、すぐに言ってくれ」


「はい」


 二人が今日の道程や天候について簡単に言葉を交わしていると、奥の扉が勢いよく開いた。


「お待たせしました!」


 現れた白鬼は、普段どおり綺麗に髪を整え、旅装に着替えていた。


 先ほどまで寝巻き姿で立っていた人物と同一人物とは思えないほど、晴れやかな笑顔を浮かべている。


「おはようございます、シグマ! 今日も素晴らしい朝ですね!」


「……」


「……」


 シグマと黒鬼は、揃って白鬼を冷めた目で見つめた。


「何でしょう、その目は?」


「いや」


「別に……」


「寝癖一つない完璧な私に、何か問題でも?」


「姉さん。さっきのことは……」


「何のことでしょう?」


 白鬼は満面の笑みを浮かべたまま首を傾げる。


「私は今、起きて身支度を整え、爽やかにシグマをお迎えしたところですが?」


「無かったことにするつもりか」


「無かったことではありません。最初から存在しなかったのです」


「無理があるぞ」


「無理ではありません。黒鬼、世の中には知らない方が幸せなこともあります」


「私も見てたよ……」


 白鬼は黒鬼の両肩へ手を置く。


「見ていません」


「見てた……」


「黒鬼」


「……見てません」


 黒鬼が押し切られた。


 シグマは再びため息をつく。


「とりあえず、朝食を食べたら、そのまま村を出る」


「はい!」


「分かりました」


「家も引き払う。忘れ物がないように、荷物を全てまとめて持ってきてくれ」


「……えっ?」


 白鬼の明るい表情が凍りついた。


「どうした?」


「い、いえ……その……」


 白鬼がゆっくりと部屋の奥へ視線を向ける。


 開け放たれた扉の隙間から、脱ぎ散らかされた衣服や、蓋の開いた鞄が僅かに見えていた。


 床の上には、先ほど落としたらしい小物まで散らばっている。


「まさか、まだ準備していないのか?」


「準備はしています!」


「終わっていないんだな」


「準備を始める心構えは、昨日のうちに済ませていました」


「それは準備とは言わない」


「姉さん。昨日、私が荷物をまとめるように言ったよね?」


「覚えています」


「どうしてやらなかったの?」


「朝の私なら、きっと何とかしてくれると信じていました」


「今の姉さんが、その朝の姉さんだよ……」


 黒鬼の声に呆れが滲む。


 シグマは額へ手を当てた。


「白鬼は片付けを急いでくれ。黒鬼は俺と一緒に来てほしい」


「はい」


「えっ、黒鬼を連れていくのですか?」


「シルフと紅蓮を起こす」


 白鬼は一瞬、何かを言いたそうに口を開いた。


 自分も一緒に行きたいのだろう。


 しかし、シグマと黒鬼、そして部屋の奥に散乱した荷物を順番に見て、静かに口を閉じた。


「……行ってらっしゃいませ」


「急げよ」


「はい!」


 元気な返事だけは立派だった。


     ◇


 再びシルフと紅蓮の家へ戻ったシグマは、黒鬼と共に扉の前へ立った。


 黒鬼が控えめに扉を叩く。


「シルフさん、紅蓮さん。朝です」


 反応はない。


 黒鬼は少し困ったようにシグマを見たあと、今度は少し強く叩いた。


「起きてください。もう出発の準備をする時間です」


 それでも返事はなかった。


「入って起こしてもらえるか?」


「わ、私がですか?」


「俺が入るよりはいいだろう」


「それは……そうですけど」


 黒鬼が恐る恐る扉へ手をかける。


「鍵は掛かっていないようです」


 扉を引くと、あっさり開いた。


 家の中から、酒の匂いが流れ出てくる。


 シグマと黒鬼は、揃って顔をしかめた。


「……これは酷いな」


 床には空になった酒瓶が何本も転がっている。


 卓上には食べかけの豆や干し肉。


 椅子には、紅蓮の上着とシルフの外套が無造作に引っ掛けられていた。


 奥の部屋からは二種類の寝息が聞こえてくる。


 一つは豪快で低い。


 もう一つは笛のように軽く、ときおり妙な音が混じっていた。


「二人を頼む」


「が、頑張ります」


「危険だと思ったら、すぐに外へ出ろ」


「起こすだけですよね……?」


「寝起きの酔っ払いがどう動くかは分からない」


 黒鬼の肩が僅かに震えた。


「紅蓮さん、寝ぼけて大剣を振ったりしませんよね……?」


「さすがにしないと思う」


「思う、なんですね……」


 それでも黒鬼は意を決したように頷き、家の中へ足を踏み入れた。


「シルフさん、紅蓮さん……朝です。起きてください」


 シグマはしばらく扉の前で待つ。


「紅蓮さん……」


 返事はない。


「シルフさん、起きないと朝食がなくなりますよ」


「朝食……?」


 奥から、掠れた声が聞こえた。


 シグマは小さく息を吐く。


 食事という言葉には反応するらしい。


「後は頼む」


「は、はい」


 黒鬼の声を背中で聞きながら、シグマはノクスとソルのいる場所へ向かった。


     ◇


 二羽が繋がれている小屋へ着くと、イシュタリカが大きな桶を持って立っていた。


 ノクスとソルの前には、水と穀物がたっぷり入った器が置かれている。


「イシュタリカさん」


「シグマさん。皆さんは起きていましたか?」


「半分ほどは」


「ということは、残り半分は……」


「今、黒鬼が戦っています」


「戦っているのですか?」


「起こすために」


「なるほど……大変そうですね」


 イシュタリカは全てを察し、それ以上尋ねなかった。


「二羽の世話をしてくれたんですね。ありがとうございます」


「このくらいは当然です。私の商品を運んでもらったのですから」


 ノクスは落ち着いた様子で餌をついばんでいる。


 一方のソルは、シグマの姿を見つけると食事を中断し、嬉しそうに翼を揺らした。


「クルルッ!」


「ちゃんと食べろ」


 シグマが首元を撫でると、ソルは気持ちよさそうに目を細めた。


 その様子を見たノクスも、興味がないふりをしながら、少しずつシグマの方へ近づいてくる。


「ノクス?」


「クル……」


 シグマが反対の手でノクスの頭を撫でると、ノクスは静かに頭を押しつけてきた。


「ノクスも撫でてほしかったのか?」


 ノクスは答えず、視線を逸らす。


 しかし頭だけは、シグマの手の下から動かさない。


「この二羽は、本当にシグマさんに懐いていますね」


「馬車の練習で、一緒にいる時間が長かったからかもしれません」


「動物は人を見るといいます。きっと信用されているのでしょう」


「それなら、嬉しいです」


 シグマが答えると、イシュタリカは少し意外そうに瞬きをした。


 それから穏やかに笑う。


「シグマさんは、動物の前だと表情が柔らかくなりますね」


「そうでしょうか」


「ええ。普段も怖いわけではありませんが、少しだけ近寄りがたい雰囲気がありますから」


 シグマは無意識に自分の顔へ手を伸ばしかけ、途中で止める。


「気をつけます」


「悪い意味ではありませんよ」


 やがて食事を終えた二羽を連れ、シグマたちは馬車へ向かった。


 手綱と装具を一つずつ丁寧に確認しながら、ノクスとソルを馬車へ繋ぐ。


 革帯に緩みがないか。


 翼や首元へ擦れる箇所がないか。


 二羽が苦しそうにしていないか。


 全てを確認したシグマは御者台へ乗り、馬車を仲間たちの家の前へ移動させた。


 ほどなくして、白鬼が大きな鞄を抱え、家から飛び出してくる。


「お待たせしました!」


「随分と早かったな」


「私にかかれば、この程度の片付けなど一瞬です!」


 白鬼は胸を張った。


 しかし、鞄の口から片方だけの靴下が飛び出している。


 側面も不自然に膨らみ、今にも中身が飛び出しそうだった。


「鞄が閉まっていないぞ」


「これは通気性を確保しているのです」


「閉めろ」


「はい」


 白鬼が慌てて靴下を押し込む。


 だが、代わりに反対側から布が飛び出した。


「白鬼」


「少々お待ちください!」


 鞄の上に乗り、全体重をかけて蓋を閉めようとする。


 その姿を、ノクスとソルが揃って不思議そうに眺めていた。


 少し遅れて黒鬼も姿を現す。


 こちらは整然と荷物をまとめ、落ち着いた足取りで歩いてきた。


「お疲れ、黒鬼」


「はい……」


「二人は?」


「少し前に起きました。今、急いで片付けています」


 黒鬼は一度言葉を切り、家の方を振り返った。


「それと……昨日、私たちが帰ったあとも飲んでいたみたいです」


「まだ飲んでいたのか?」


「酒瓶が増えていました」


 シグマと白鬼は、揃って深いため息をつく。


「だから起きられないんですよ」


「白鬼に言われると、二人も納得できないと思うぞ」


「私はお酒を飲んで寝坊したわけではありません」


「寝坊したこと自体は認めるんだな」


「……そこは今、重要ではありません」


 しばらく待っていると、イシュタリカも荷物を持って馬車へやってきた。


「まだお二人は?」


「片付け中です」


「そうですか……」


 イシュタリカは苦笑しながら、馬車の荷台へ荷物を積み込む。


 さらに待つことしばし。


 ようやく家の扉が開き、シルフと紅蓮が姿を現した。


 二人とも旅装には着替えている。


 しかし、髪はところどころ跳ねたままだった。


 紅蓮は大きな荷物を片手に抱え、もう片方の手で額を押さえている。


 シルフに至っては目を半分閉じたまま、ふらふらと歩いていた。


「お、おはようさん……ええ朝やなぁ……」


「もう朝ではなく、出発の時間だ」


「いや、これには深い事情があってやな」


「聞こう」


 シグマが腕を組む。


 シルフは一度目を逸らしたあと、もっともらしい顔を作った。


「昨日の酒が、うちらを離してくれへんかってん」


「酒瓶に意思はない」


「ひょっとしたら、呪われた酒やったんかもしれへん」


「飲み続けたのは自分の意思だろう」


「酒瓶の中から、もう一杯だけって声が聞こえてきてな」


「幻聴だ。飲みすぎている」


「……せやな」


「それから、昨日の夜のうちに荷物をまとめておくように言ったはずだ」


「うっ」


「朝から全員を待たせた。今は護衛依頼の途中だという自覚はあるのか?」


「反省してます……」


 シルフは長い耳を垂らし、肩を小さくする。


 その様子を見た紅蓮が、一歩前へ出た。


「悪かった。シルフだけが悪いわけではない。私も止めずに飲んでいた」


「紅蓮」


「ああ」


「シルフより年上だな?」


「……そうだ」


「今回の護衛隊の代表でもあるな?」


「そうだ」


「それなのに一緒になって飲み続け、寝坊し、出発を遅らせたのか?」


「…………」


「紅蓮の方が問題だ」


「面目ない……」


 紅蓮まで肩を落とした。


 シルフが小声で囁く。


「助けに入ったのに、うちより怒られとるやん」


「お前は黙っていろ」


「はい……」


 シグマは二人を見比べたあと、御者台を指さした。


「罰として、今日は二人が馬車を操作してくれ」


「え?」


「交代でやればいい。眠いからといって寝ることは許さない」


「そ、それ罰なん?」


「当然だ」


「うち、二日酔いで揺れに弱なってんねんけど……」


「自業自得だ」


「ぐうの音も出えへん……」


「分かった。私たちが責任を持って御者を務める」


 紅蓮は力なく答えた。


「ただ、ノクスとソルの扱いはまだ慣れていない。最初だけ教えてくれ」


「ああ。それは構わない」


「シグマ、うちにも優しく教えてな?」


「寝なければな」


「厳しすぎへん?」


 こうして予定より少し遅れたものの、全員の準備がようやく整った。


     ◇


 朝食を取るため、六人は昨日訪れた食堂へ向かった。


 扉を開けた瞬間、焼きたてのパンと肉の香りが一斉に鼻をくすぐる。


 店内では既に何人もの村人が食事を取っており、皿の触れ合う音と楽しげな会話が満ちていた。


「いらっしゃい! 昨日の旅人さんたちだね」


 恰幅のいい女主人が、明るく声をかけてくる。


「朝のおすすめを六人分お願いします」


「任せな! 今日はいい燻製肉が入ってるよ!」


 ほどなくして、テーブルの上へ料理が次々と運ばれてきた。


 表面を香ばしく焼いた丸いパン。


 とろりとした半熟の卵。


 塩と香草で焼き上げられた厚切りの燻製肉。


 大きめに切られた芋と根菜が入った乳白色のスープ。


 さらに、小さな器には鮮やかな赤色の果実を煮詰めた甘いジャムまで添えられている。


 焼きたてのパンを割ると、ふわりと湯気が立ち上った。


 外側はぱりっとしているが、中は驚くほど柔らかい。


 そこへ半熟の卵を載せ、塩気の効いた燻製肉と一緒に口へ運ぶ。


 卵の濃厚な黄身が肉の旨味を包み、パンへじんわりと染み込んでいった。


「美味しい……」


 黒鬼が小さく呟く。


「このお肉、すごく香りがいいですね!」


 白鬼は目を輝かせ、早くも二枚目のパンへ手を伸ばしている。


「朝からよう食うなぁ……」


 向かいに座るシルフは、スープを前に青い顔をしていた。


「食べないのか?」


 シグマが尋ねる。


「食べたい気持ちはあるんや。せやけど、お腹の中がまだ昨日の宴会を続けとる」


「自業自得だ」


「それ、今日何回言われるんやろ……」


「安心しろ。昼までには、あと十回は言われる」


 紅蓮が淡々と告げる。


「紅蓮まで敵になったんか⁉」


「私は既にスープを飲んだ。お前も飲め。優しい味で胃に染みるぞ」


「ほんま?」


 シルフは恐る恐るスプーンでスープを掬った。


 匂いを確かめ、慎重に口へ運ぶ。


 ゆっくりと飲み込んだ直後、垂れていた耳が僅かに持ち上がる。


「……うまっ」


 もう一口。


「これ、めっちゃ美味いやん!」


「急に元気になりましたね」


 白鬼が呆れたように言う。


「胃に染みるわぁ……昨日のうちに出会いたかった」


「昨日のうちに飲んでいたら、酒の肴にしていたでしょう」


「黒鬼ちゃん、うちのこと分かっとるなぁ」


「褒めていません……」


 スープは芋と根菜が形を失うほど柔らかく煮込まれていた。


 乳のまろやかさの中に、炒めた玉ねぎの甘味と、肉から出た深い旨味が溶け込んでいる。


 身体の内側へ染み渡るような温かさだった。


 イシュタリカも満足そうにパンを食べている。


「旅の前に、これだけしっかり食べられるのはありがたいですね」


「リッドガルまでは、どのくらいですか?」


 黒鬼の問いに、イシュタリカは少し考えて答えた。


「順調なら、昼を少し過ぎる頃でしょう。ただし、入門に時間がかかるかもしれません」


「何かあるのか?」


「リッドガルは国境に近い街です。検問が厳しいんですよ。詳しいことは、道中でお話しします」


 食後には香りの強い茶と、小さく切られた甘い焼き菓子が出された。


 外側は少し硬い。


 しかし噛むと、中から蜂蜜の甘味と木の実の香ばしさが広がった。


 白鬼は気に入ったのか、最後の一つを大事そうに両手で持っている。


「食べないのか?」


「最後に取っておきます」


 白鬼は嬉しそうに答える。


 その隣で、黒鬼が静かに皿を見つめていた。


「それ、黒鬼の前に置いてあったものだぞ」


「……えっ?」


 白鬼が固まる。


 黒鬼は何も言わない。


 ただ、前髪の奥から白鬼を見つめている。


「く、黒鬼。これは違うのです」


「何が違うの?」


「私は毒見を……」


「返して」


「半分では駄目ですか?」


「全部」


「一口だけ……」


「姉さん」


「はい……」


 白鬼は名残惜しそうに焼き菓子を皿へ戻した。


 黒鬼はそれを半分に割ると、一方を白鬼へ差し出す。


「……半分なら、いいよ」


「黒鬼!」


 白鬼は感動したように妹へ抱きついた。


「苦しい……」


 朝食を終えた一行は女主人に礼を言い、村をあとにした。


     ◇


 村を出ると、穏やかな風景がどこまでも続いていた。


 道の両側には青々とした畑が広がり、遠くには緩やかな丘が連なっている。


 風が草原を渡るたび、草の穂が波のように揺れた。


 空は高く澄み渡り、白い雲がゆっくりと流れている。


 御者台には紅蓮とシルフが並んで座っていた。


 最初にシグマが手綱の扱いを説明し、その後は紅蓮がノクスとソルを操っている。


 シルフは隣で道を確認し、周囲を警戒する役目を任されていた。


 少なくとも、そのはずだった。


「シルフ」


「……」


「シルフ」


「……起きとるで」


「目が閉じているぞ」


「心の目で道を見とる」


「心の目では、道の穴は見えん」


 紅蓮が肘でシルフの脇腹を小突いた。


「痛っ!」


「寝るな」


「寝てへん! ちょっとだけ魂が身体から離れかけただけや!」


「それを寝ているという」


 荷台から笑い声が上がる。


「シルフさん、落ちないでくださいね」


 黒鬼が心配そうに声をかけた。


「大丈夫や。うちは風の...風使いやから 落ちても風で戻ってくる」


「はぁ、試すなよ」


 シグマが即座に釘を刺す。


「冗談やって」


「シルフの冗談は、時々本当にやりそうで怖い」


「シグマ、うちへの信用低すぎへん?」


「日頃の行いだ」


「ぐっ……」


「自業自得ですね」


「白鬼ちゃんまで!」


「今日、二回目です」


「数えんでええ!」


 笑い声に包まれながら、馬車は穏やかに街道を進んでいく。


 しばらくして、イシュタリカが進行方向を眺めながら口を開いた。


「そろそろ、リッドガルについて説明しておきましょうか」


 皆の視線がイシュタリカへ集まる。


「リッドガルは、アルステラ王国東部にある大きな街です。ディアグランディア王国との国境に近いため、兵士や騎士が多く配置されています」


「国境の街か」


 紅蓮が僅かに表情を引き締める。


「はい。人や物資の出入りも多いため、検問はかなり厳重です。街へ入るだけでも、相当な時間を取られることがあります」


「そんなに厳しいん?」


「密輸や間者を警戒していますからね。両国の関係は、表向きは落ち着いていますが、決して良好とは言えません」


 シルフの眠そうな表情が少しだけ消える。


「最近、何かあったのか?」


「大きな戦闘が起きたという話は聞いていません。ただ、国境付近で兵士が睨み合うことは珍しくありません」


 イシュタリカは声を落とす。


「商隊が理由もなく止められたり、積荷を細かく調べられたりすることもあります。下手に逆らえば、密輸を疑われかねません」


「揉め事も多い街です。兵士同士、商人同士、時には国境を越えてきた者同士の争いも起こります」


「治安が悪いのですか?」


 白鬼の質問に、イシュタリカは首を横に振った。


「単純に悪いとは言い切れません。兵士が多いため、表通りはむしろ安全です。ただ、人が多く、金も多く動く場所には、それを狙う者も集まります」


「商人にも気をつけた方がいいということか」


「そのとおりです」


 イシュタリカは真剣な表情で頷いた。


「リッドガルの商人は、皆さんが思っている以上に逞しい。値段を吹っかける者、粗悪品を高級品として売る者、契約書の小さな文字に罠を仕込む者もいます」


「えげつないなぁ」


「もちろん全員ではありません。しかし、私が紹介する店以外では、なるべく高価な買い物をしない方がいいでしょう」


「特に白鬼は気をつけろ」


 シグマが告げる。


「どうして私なのですか?」


「珍しい物を見たら、すぐに欲しがるからだ」


「きちんと値段を見ています」


「この前、何に使うか分からない石を買おうとしていただろう」


「あれは、何か不思議な力を秘めていそうでした」


「ただの川石だったぞ」


「磨けば光るかもしれません」


「川石だからな」


「綺麗な石には価値があります!」


「銀貨三枚の価値はない」


「……あれは少し高かったかもしれません」


「少しではない」


 再び笑いが起こる。


 そんな会話を続けているうちに、遠くの平原の先へ大きな城壁が見えてきた。


 高く頑丈な石壁。


 その上には複数の見張り台が建ち、アルステラ王国の旗が風にはためいている。


 城壁の外側には、入門を待つ馬車の長い列が続いていた。


 商人。


 旅人。


 荷物を積んだ荷車。


 武装した冒険者。


 列の横では兵士たちが厳しい目を光らせている。


「あれがリッドガルです」


 イシュタリカの言葉に、一行は自然と口数を減らした。


     ◇


 馬車は西門付近に設けられた検問所へ停められた。


 周囲には完全武装した兵士が何人も立っている。


 腰には剣を下げ、胸元にはアルステラ王国の紋章が刻まれていた。


「積荷を確認する。全員、馬車から離れてくれ」


 兵士の指示に従い、シグマたちは馬車から降りる。


 荷台の品物が一つずつ確認されていった。


 箱の蓋を開け、内容物を記録と照らし合わせる。


 保存食の包みも一部を開かれ、底に何か隠されていないか調べられた。


 兵士の一人が、平らな魔石板の上へ小型の金属器具を置く。


 器具から淡い光が放たれ、シグマのアイテムボックスへ向けられた。


 すると魔石板の表面へ文字と簡単な絵が浮かび上がる。


 保存食。


 野営道具。


 予備の衣服。


 武器。


 アイテムボックスの中身が、種類ごとに表示されていた。


「中身を直接取り出さなくても分かるのか」


「国境の街やからな。密輸対策用の魔道具や」


 シルフが小声で説明する。


「ただし、全部が細かく見えるわけやない。品目と危険物の反応を見るもんや」


 イシュタリカのアイテムバッグも同様に調べられた。


 大量の商品が表示されたため、確認には時間がかかるかと思われた。


 しかし、行商人として事前に登録された品物と一致したらしく、担当の兵士が書類へ印を押す。


「積荷に問題なし。次は入門手続きだ」


 一行は身分証を確認する窓口へ移動した。


 イシュタリカは行商人専用の通用口へ案内され、先に街へ入っていく。


「中で待っています」


「分かりました」


 残された五人は、それぞれ冒険者カードを提出した。


 紅蓮。


 白鬼。


 黒鬼。


 シグマ。


 四人は問題なく確認を終える。


 最後にシルフがカードを差し出した。


「はい、これでええ?」


 門番がカードを受け取り、表面を確認する。


 その動きが止まった。


 門番はカードを見る。


 次にシルフの顔を見る。


 再びカードへ目を戻した。


「……風の勇者、シルフ・ミュラー?」


「同姓同名の別人やで」


「カードに勇者認証があるが」


「似たような名前の人、世の中には三人くらいおるやろ?」


「勇者認証は本人にしか付与されない」


「せやったな」


 門番の表情が一気に険しくなる。


 隣の兵士へ視線を送り、小声で何かを伝えた。


「確認が必要だ。中へ来てもらう」


「いや、うち急いどるんやけど」


「聖王都から、あなたを発見した場合は事情を確認するよう通達が来ている」


「聖王都から?」


 紅蓮の顔つきが変わる。


「詳しいことは詰め所で話す。連れていけ」


「ちょ、待って! 自分で歩ける! 引っ張らんといてや!」


 左右から腕を掴まれたシルフは、そのまま詰め所の中へ連れていかれた。


 扉が閉まる直前まで、シルフの声が響いている。


「うちは何も悪いことしてへんからなー!」


 残された四人は、閉じた扉を見つめた。


「何かしたのですか?」


 白鬼が不安そうに尋ねる。


「勇者だから確認されているのだろう」


 紅蓮の表情は険しい。


「問題は、聖王都から何を伝えられているかだ」


 シルフがいなくなったことで、四人も一時的に通行を止められてしまった。


 門の脇で待つこと、しばらく。


 やがて詰め所の扉が開き、シルフが一人で出てきた。


 入る前よりも長い耳が垂れ、足取りも重い。


「……最悪や」


「何があった?」


 紅蓮が尋ねると、シルフは周囲を気にするように見回した。


「うちの護衛をしとった連中が、数日前にここへ来たらしい」


「護衛?」


「聖王都から、うちについてきとった連中や。途中で別れたやろ?」


 シルフは声を潜める。


「そいつらが、うちは護衛を振り切って勝手に行方をくらませた、見つけたらすぐ報告してくれって言うとったらしい」


「それで、どこにいたか聞かれたのか?」


「せや。どこへ行ってた、誰と行動しとった、何をしとったって、尋問みたいに聞かれたわ」


「何と答えた?」


「旅の途中で魔物に襲われて護衛とはぐれた。その後は冒険者に助けてもろて、一緒に行動しとったって」


「信じたのか?」


「完全には信じてへんやろな。ただ、うちが勇者やから、罪人みたいに拘束するわけにもいかんかったんやと思う」


 シルフは頭を抱える。


「それに、聖王都へ報告を送る言うとった。ここに長居したら、また面倒なんが追いついてくる」


「どれほどで来る?」


「早ければ数日やろな」


「なら、依頼を終えたら早めに街を出よう」


「絶対やで。うち、勇者やのに自由なさすぎやろ……」


 シルフが騒いでいると、先に街へ入っていたイシュタリカが近づいてきた。


「皆さん、手続きは終わりましたか?」


「終わりました!」


 シルフが勢いよく答える。


「何か揉めていたように見えましたが」


「何でもないで! ちょっと門番さんと、勇者について熱く語り合っとっただけや!」


「勇者について?」


「それより、目的地はどこなん?」


 シルフは強引に話題を変えた。


 イシュタリカは不思議そうに首を傾げたが、それ以上追及せず馬車へ乗り込む。


「では案内します。ここから中央通りを抜け、南門へ向かう途中に店があります」


     ◇


 リッドガルの街中は、アルランカとは異なる賑わいを見せていた。


 幅の広い道を、荷馬車や騎馬兵が絶え間なく行き交っている。


 道沿いには武器屋や食料品店だけでなく、見慣れない外国の商品を扱う店も並んでいた。


 ディアグランディア風の赤い布。


 異国の文字が刻まれた陶器。


 香りの強い香辛料。


 店先からは商人たちの声が飛び交い、その間を兵士が巡回している。


 曲がり角ごとに数人が立ち、通行人へ鋭い視線を向けていた。


「思ったより物々しいですね」


 白鬼が荷台から周囲を見回す。


「国境に近いからです」


 イシュタリカが答える。


「ただ、警備が多いことと安全であることは、必ずしも同じではありません。皆さんも荷物から目を離さないでください」


 指示に従い、馬車は中央通りを進んだ。


 やがて一行は、三階建ての大きな店の前へ到着する。


 看板には、尻尾を大きく広げた狐の紋章と共に、金色の文字が刻まれていた。


 ――フォックス商会。


 店先には荷車が何台も停まり、使用人たちが忙しそうに荷物を運んでいる。


「こちらです。少し待っていてください」


 イシュタリカは馬車を降り、店内へ入っていった。


 しばらくして屈強な男たちが数人現れる。


 彼らは積荷の印を確認すると、手慣れた様子で馬車の荷物を降ろし、次々と店の中へ運び込んでいった。


 最後にイシュタリカと共に、一人の女性が姿を現す。


 艶のある栗色の髪を肩の辺りで揃え、落ち着いた深緑色の衣服を身に着けていた。


 派手さはない。


 しかし、生地や装飾の細部を見れば、相当な高級品だと分かる。


 整った顔立ちには穏やかな笑みが浮かんでいる。


 だが、その瞳はシグマたちの武器、装備、立ち位置を短い時間で静かに観察していた。


「皆さん、紹介します」


 イシュタリカが女性の隣へ立つ。


「彼女はレイラ・リストウッド。このフォックス商会の店長であり、商会長でもあります」


「初めまして」


 レイラは優雅に頭を下げた。


「フォックス商会を預かっております、レイラ・リストウッドと申します。遠いところからイシュタリカさんを護衛してくださり、ありがとうございます」


「紅蓮だ。護衛隊の代表を務めている」


「お話は中で伺いましょう。立ったままでは、せっかく運んでくださった皆様に失礼ですから」


     ◇


 店の奥にある応接間へ通された一行は、大きな長椅子へ腰掛けた。


 部屋には柔らかな絨毯が敷かれ、壁には見たことのない装飾品や魔道具が並んでいる。


 光を閉じ込めたような硝子玉。


 針が勝手に動く方位器。


 小さな火を灯し続ける金属製の燭台。


 白鬼は目を輝かせていたが、シグマの視線に気づくと、何も触っていないと言わんばかりに両手を膝へ置いた。


 店員が人数分の茶を運び終えると、レイラは改めて口を開いた。


「先ほど紹介にあずかりました、レイラ・リストウッドです。この店を任されて十年以上になります」


「十年以上?」


 シルフが驚いたようにレイラを見る。


「失礼ですが、お若く見えますね」


 黒鬼が遠慮がちに言うと、レイラは嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます。今年で三十六になります。夫と子供もおりますので、決して若いとは言えませんけれど」


「三十六⁉」


 シルフが思わず声を上げた。


「シルフ」


 紅蓮が睨む。


「あ、いや、すまん。めっちゃ若く見えたから」


「ふふ。商人にとって、相手を驚かせられることは悪いことではありません」


「ご主人も商人なのですか?」


 黒鬼の問いに、レイラは頷く。


「はい。別の街で支店を預かっています。夫婦であっても、商売では競争相手です。売り上げで負けるつもりはありません」


 冗談めかした口調だった。


 しかし、その目は本気だった。


 続いて、シグマたちも順に自己紹介を行う。


「紅蓮だ。今回の護衛隊の代表を務めている」


「白鬼です! 攻撃魔法が得意です!」


「黒鬼です……回復と防御を担当しています」


「シルフ・ミュラーや。弓を使っとる」


「シグマです」


 シグマが名乗ると、レイラの視線が僅かに長く止まった。


 認識阻害のマント。


 両腕のガントレット。


 腰に下げた三つの鬼の仮面と黒い刀。


 だがレイラは何も尋ねず、すぐに笑みを戻した。


 自己紹介が一通り終わると、イシュタリカが本題を切り出す。


「レイラさん。こちらの皆さんは、魔道具に興味を持っています。護衛の報酬とは別になりますが、できれば安く譲っていただけませんか?」


「魔道具を?」


 レイラは五人を順番に見回す。


「具体的には、どのような物をお探しですか?」


「まだ決めてはいません。旅に役立つ物があれば、見せていただきたいと考えています」


「なるほど……」


 レイラは頬へ指を添え、少し考え込む。


 やがて何かを思いついたように微笑んだ。


「では、一つ提案があります」


 紅蓮の表情が僅かに険しくなる。


「提案?」


「簡単な仕事を引き受けていただけませんか?」


「内容を聞こう」


「ご安心ください。少なくとも、こちらで危険があると把握している仕事ではありません」


 レイラは両手を膝の上で組んだ。


「一つの荷物を、街の東にある関所まで運んでいただきたいのです」


「それだけですか?」


 白鬼が首を傾げる。


「ええ。店の人員が不足しておりまして、今日中に届けなければならない荷物が残っているのです」


「商会の人間を使えばいいのでは?」


 紅蓮が尋ねる。


「本来はその予定でした。しかし、別の商隊で問題が起こり、護衛と荷運びを任せられる者が出払ってしまいました」


「問題とは?」


「護衛の一人が怪我をし、予定していた人数を変更せざるを得なくなったのです。こちらの荷物は急ぎですが、商隊全体を止めるわけにもいきません」


 レイラは困ったように眉を下げる。


「そこへ馬車を持った腕利きの冒険者が来てくださった。私にとっては、まさに渡りに船です」


「報酬は?」


「仕事を終えてくだされば、店にある旅用魔道具の中から、お好きな物を一つ差し上げます。残りの商品も、可能な限り値引きいたしましょう」


 随分と条件がいい。


 紅蓮、白鬼、黒鬼、シグマは互いに顔を見合わせた。


 関所まで荷物を運ぶだけ。


 街の外には出るが、地図を見る限り、それほど遠くはない。


 レイラほどの商人が、そこまで困っているということなのだろうか。


 四人が小さく頷き合った、そのとき。


「待った!」


 シルフが勢いよく立ち上がった。


「ただほど高いもんはない! 絶対、何か裏があるやろ!」


 室内が静まり返る。


 紅蓮は片手で顔を覆った。


「シルフ。言い方があるだろう」


「せやけど、魔道具一個ただでくれるんやで? 他も値引き? 荷物を運ぶだけで? そんなん怪しすぎるやろ!」


 シルフはレイラを真っ直ぐに指さす。


「うちらを使って、表に出されへん物を運ばせる気ちゃうんか!」


「シルフさん……」


 黒鬼が慌てて袖を引く。


 しかしレイラは不快そうな顔をするどころか、小さく笑い始めた。


「ふふ……あははは」


「な、何がおかしいん?」


「いいえ。失礼しました」


 レイラは目元を軽く拭う。


「あなたは正しい。商人の話を簡単に信じてはいけません。特に、条件が良すぎる話は疑って当然です」


「ほら見い!」


「ただし、今回に限っては、人を害するような裏事情はありません」


 レイラは表情を整えた。


「実は、この荷物を手配したのは私なのです。しかし、届け先の確認に不備があり、通常の商隊へ載せることができませんでした」


「確認の不備?」


 シグマが尋ねる。


「関所の補給隊へ渡す品と聞いていたのですが、実際の受取先は東部関所の訓練担当でした。受領部署が違えば、必要な書類も変わります」


「それで商隊に載せられなかった?」


「はい。書類を作り直している間に、出発時刻を過ぎてしまいました。今日中に届けられなければ、商会の信用に傷がつきます」


「中身は何ですか?」


 黒鬼の問いに、レイラは一瞬だけ間を置いた。


「訓練用の生体資材、と登録されています」


「生き物なん?」


「ええ。ただ、私は仲介を頼まれただけですので、詳しい種類までは知らされていません」


「知らない物を運ぶのですか?」


 白鬼が眉を寄せる。


「商会では珍しいことではありません。封印された荷物の場合、商人が不用意に中身を確認できないこともあります。その代わり、送り主と受取先の証明を確認します」


「それを証明する物は?」


 シルフはまだ警戒を解いていない。


「届け先を記した書類と、関所の受領証があります。荷物を渡せば、その場で受領の印を押してもらえます」


 レイラは机の引き出しから書類を取り出し、紅蓮へ差し出した。


 紅蓮は内容へ目を通す。


 シグマも隣から確認した。


 届け先は東部関所。


 荷物の分類は、訓練用生体資材。


 運搬仲介はフォックス商会。


 受領担当者の名前と、関所の印も記されている。


「どうだ?」


 白鬼が尋ねる。


「書類上は問題ない」


 紅蓮は答えた。


「ただし、説明されていない危険があれば、その場で依頼を中断する」


「もちろんです」


 シルフはしばらく唸っていたが、やがて何も言わず椅子へ座った。


 警戒はしている。


 しかし、依頼を拒むだけの明確な理由も見つからなかったのだろう。


 紅蓮はシルフを一瞥したあと、レイラへ向き直る。


「分かった。依頼を引き受けよう」


「ありがとうございます。すぐに準備を整えます」


 レイラは満足そうに微笑んだ。


     ◇


 シグマたちが馬車へ戻ると、少し遅れてイシュタリカが店から出てきた。


 その手には、印が押された一枚の書類が握られている。


「こちらを」


 シグマが受け取ると、それは行商人護衛依頼の受領書だった。


 依頼完了を示す印と、イシュタリカの署名が書かれている。


「これで皆さんの護衛依頼は完了です。本当にありがとうございました」


「こちらこそ、世話になりました」


 紅蓮が答える。


「道中、私たちも色々と学べました」


「それは私も同じです。特に、あのスライムの大群を皆さんが退けたことは、長く忘れないでしょう」


 イシュタリカは一度、店の入口へ視線を向けた。


 そして、声を落とす。


「最後に、一つだけ忠告があります」


 五人の表情が引き締まる。


「レイラさんは、悪人ではありません」


「では、何を警戒する必要がある?」


「いい人でもない、ということです」


 イシュタリカの声は真剣だった。


「彼女は商人です。利益になることなら、使えるものは可能な限り利用する。相手の命を軽く扱う方ではありませんが……相手が多少困る程度なら、躊躇なく計算へ入れるでしょう」


「今回の依頼も?」


「私は内容を詳しく聞いていません。ただ、あの方が魔道具を一つ無償で渡すと言ったのであれば、皆さんへ支払う以上の利益があると考えているはずです」


「やっぱり怪しいやん」


 シルフが声を潜める。


「怪しいというより、何かを隠している可能性があるということです。用心してください」


 それだけ告げると、イシュタリカは小さく頭を下げた。


「では、私は商品の取引を済ませてきます。皆さんの旅が良いものになることを願っています」


「ああ。イシュタリカさんも気をつけて」


 シグマが手を差し出す。


 イシュタリカは一瞬驚いたあと、その手をしっかりと握り返した。


「また、どこかでお会いしましょう」


「はい」


 イシュタリカは微笑み、街の人混みの中へ消えていった。


 残された五人は、しばらく無言で顔を見合わせる。


「やっぱり怪しいやん!」


 最初に声を上げたのはシルフだった。


「まだ怪しいと決まったわけではない」


 紅蓮は冷静に答える。


「ただし、状況によっては依頼を破棄する」


「できるのか?」


 シグマが尋ねる。


「ギルドを通していない個人間の依頼だ。説明されていない危険があった場合、こちらに続行する義務はない」


「それなら安心ですね」


 白鬼が頷く。


「安心はできへん! めっちゃ用心せなあかん!」


 シルフだけは、誰よりも激しく何度も頷いていた。


     ◇


 しばらくすると、店の裏手から大きな木箱が運び出されてきた。


 レイラと二人の店員が押す荷車の上に載せられている。


 箱は人一人が横になって入れるほど大きい。


 板は厚く、周囲を何本もの金属の帯で補強されていた。


 側面には小さな空気穴が開いている。


 時折、中から何かが動くような、微かな音も聞こえた。


「こちらが届けていただく荷物です」


 レイラは平然と告げる。


「中身は何や?」


 シルフがすぐに尋ねた。


「先ほど申し上げたとおり、訓練に使用する生体資材です。書類上は、危険動物として分類されています」


 空気が変わった。


 紅蓮が箱の前へ立つ。


「危険な動物を、種類も分からないまま私たちへ運ばせるつもりだったのか?」


「輸送用の封印が施されています。通常の運搬であれば、外へ出ることはありません」


「通常でなければ?」


「強い衝撃を与えたり、封印を破壊したりしなければ問題はないと聞いています」


「聞いているだけか」


「ええ。私は捕獲した者でも、訓練に使う兵士でもありませんから」


 シグマは箱へ近づき、耳を澄ませた。


 中から聞こえるのは、爪で板を引っ掻くような音ではない。


 もっと小さく、弱い音。


 衣擦れ。


 あるいは、浅い呼吸音のようにも聞こえる。


「蓋は開けない方がよろしいでしょう」


 レイラが忠告する。


「封印が解ければ、暴れる可能性があります」


「そんな危険な動物を、なぜ関所で必要とする?」


 シグマが尋ねる。


「兵士の訓練に使用するそうです」


 レイラは顔色一つ変えずに答えた。


「国境近くでは、魔獣や危険動物への対処訓練も必要ですから」


「種類も知らずに、関所へ届けるのか?」


「書類と封印を信用するのが商人の仕事です。全ての荷物を開けて確かめていては、商会は成り立ちません」


「……そうですか」


 シグマは穏やかに返した。


 だが、胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感が残る。


 箱からは魔獣らしい唸り声も、威嚇音も聞こえない。


 魔力の強い魔獣ならば、近づくだけでも何かを感じるはずだ。


 それでも、今この場で蓋を開けば、依頼を受ける前から揉め事になる。


 箱の封印が本物である以上、勝手に破ることもできない。


 シグマは箱から離れた。


「荷台へ積んでください」


「ありがとうございます」


 レイラは微笑んだ。


 店員たちが木箱を馬車へ積み込み、太い縄で固定する。


 最後にレイラは関所までの地図と、受領書を紅蓮へ手渡した。


「道は一本です。東門を出て森へ入り、そのまま街道を進めば関所へ着きます」


「護衛は付けないのか?」


「皆さんほどの方々に、こちらから護衛を付ける必要がありますか?」


「質問に答えていない」


「人員が不足しているため、付けられないというのが正直なところです」


 紅蓮はレイラの顔を見つめた。


 レイラは最後まで穏やかな笑みを崩さない。


「無事のお戻りをお待ちしております」


 その言葉に見送られ、一行はフォックス商会をあとにした。


     ◇


 東門を出た馬車は、地図に記された街道を進んだ。


 最初は平原が続いていた。


 だが次第に左右から木々が迫り、道は薄暗い森の中へ入っていく。


 荷台の中央には、大きな木箱が固定されている。


 白鬼と黒鬼は、時折不安そうに箱を見ていた。


「本当に、何が入っているのでしょう」


「魔獣なら、もっと音がしてもいいと思う……」


 黒鬼の言葉に、シグマも同意していた。


 馬車が揺れるたび、箱の中から微かな物音が聞こえる。


 しかし暴れる様子はない。


「眠っているのでしょうか?」


 白鬼が小声で尋ねる。


「眠らされている可能性もある」


 紅蓮が答える。


「関所に着いたら、中身を確認させよう」


「受け取りを拒まれた場合は?」


「その時点で依頼を破棄する。箱は関所へ預け、私たちはレイラの店には戻らない」


「魔道具は諦めるのですか?」


 白鬼が残念そうに言う。


「命より大事な物はない」


「分かっています。ただ、少しだけ残念だと思っただけです」


「それがええ」


 シルフは弓を抱えたまま、周囲の木々へ視線を巡らせていた。


 先ほどまでの軽い様子は消えている。


「……それにしても、静かすぎるな」


 シグマの言葉に、全員が口を閉ざす。


 鳥の声が聞こえない。


 風で葉が擦れる音はある。


 車輪が土を踏む音。


 ノクスとソルの足音。


 それ以外の、生き物の気配が不自然なほど薄かった。


 シグマが御者台から身を起こした、その直後。


 森の奥から蹄の音が響く。


 一つではない。


 前方。


 後方。


 左右。


 複数の騎馬が、馬車を包囲するように木々の間から姿を現した。


「止まれ!」


 鋭い声が飛ぶ。


 紅蓮が手綱を引き、ノクスとソルを止めた。


 現れたのは、鎧を身に着けた十数人の男たちだった。


 先頭には、他の者より豪華な鎧を着た中年の男がいる。


 全員、肩や胸の一部へ布を巻きつけ、紋章が見えにくいよう隠していた。


 男は馬上からシグマたちを見下ろす。


「その馬車を改めさせてもらう」


 シグマは男の鎧を確認した。


 布の下には紋章らしき盛り上がりがある。


 しかし木漏れ日のせいで、細部までは見えない。


「何の権限で止める?」


 紅蓮が問い返す。


「国境警備隊の命令だ。不正な積荷を運ぶ馬車が、この道を通るという情報が入った」


 男の視線が荷台の箱へ向けられる。


「行商人でもない者たちが、大型の馬車を動かしている。十分に怪しい」


「俺たちはフォックス商会から依頼を受け、荷物を関所まで運んでいる」


「書類を見せろ」


 紅蓮が受領書へ手を伸ばす。


 そのとき、シルフが鋭く叫んだ。


「出すな!」


 全員の動きが止まる。


 シルフは立ち上がり、騎士たちの鎧を睨みつけた。


「こいつら、アルステラの騎士やない!」


 男の表情が僅かに変わる。


「何を根拠に――」


「肩の紋章や!」


 シルフは男たちを指さした。


「上から布を被せて隠しとるけど、紋章の縁が外まで出とる。アルステラの星章は、あんな形やない」


 風が吹き、先頭の男の肩へ巻かれた布が僅かに揺れた。


 その下から、翼のような金属の縁が覗く。


「あれはディアグランディアの竜翼章や!」


 紅蓮が即座に大剣の柄へ手をかける。


 白鬼と黒鬼も馬車から降り、杖を構えた。


 シグマは御者台から静かに地面へ降りる。


 男は数秒間黙り込み、やがて盛大なため息をついた。


「……話が違うではないか」


「何?」


「馬鹿な冒険者どもが、何も知らずに荷物を持ってくると聞いていた」


 男は額へ手を当てる。


「まさか、紋章を知った者が混ざっているとはな」


「誰から聞いた?」


 シグマが静かに尋ねる。


「それを答える必要があると思うか?」


 男は腰の剣を抜いた。


 周囲の騎士たちも一斉に武器へ手をかける。


「面倒だ。全員、ここで消えてもらう」


「団長」


 部下の一人が僅かに躊躇した。


「あれは、相手は風の勇者です。本当に殺すのですか?」


「ここで逃がせば、我々が国境を越えたことが知られる!」


 団長の怒号が森へ響く。


「全員殺せ! 馬車と積荷は回収しろ!」


 騎士たちが一斉に武器を抜いた。


「黒鬼、馬車と二羽を守れ!」


 紅蓮が叫ぶ。


「はい! ――光壁!」


 黒鬼が杖を掲げる。


 馬車を囲むように、半透明の光の壁が展開された。


「白鬼、左を!」


「任せてください!」


「シルフは後方! シグマは私と正面だ!」


「ああ」


 騎士たちが馬を走らせ、一斉に迫る。


 左右から六騎。


 正面から四騎。


 後方では、弩を構えた騎士が狙いを定めていた。


 最初に動いたのはシルフだった。


 三本の矢を同時に番える。


「うちらを馬鹿な冒険者扱いしたこと、後悔させたる!」


 弦が鳴る。


 三本の矢は風を纏い、別々の騎士へ向かった。


 一本は馬の足元へ突き刺さり、巻き起こった風で騎馬の進路を逸らす。


 残り二本は騎士の肩と腕を正確に射抜いた。


「ぐあっ!」


 二人の騎士が姿勢を崩す。


 だが一人は鐙へ足をかけたまま踏みとどまり、片手で槍を突き出した。


「シルフ、下がれ!」


 紅蓮が大剣で槍を弾く。


 その隙を突き、別の騎士が紅蓮の背後へ回り込んだ。


「させません!」


 白鬼が杖を向ける。


「炎弾!」


 小さな火球が騎士の眼前で弾けた。


 馬が驚いて前足を上げ、騎士の身体が大きく揺れる。


 正面から迫った騎士は、長槍をシグマへ突き出した。


 シグマは身体を横へずらし、穂先を避ける。


 しかし騎士はすぐに槍を引き、馬の勢いを利用して横薙ぎに振るった。


 シグマは左腕で受ける。


 金属同士がぶつかる激しい音。


 衝撃で足が地面を滑る。


「硬い腕だ!」


 騎士が驚いた瞬間、シグマは右手で槍の柄を掴んだ。


 そのまま強く引く。


「なっ――」


 騎士の身体が馬上から浮いた。


 シグマは引き寄せた騎士の胸へ掌底を叩き込み、地面へ転がす。


 だが、その背後から二頭目の騎馬が迫っていた。


 剣が振り下ろされる。


 シグマは上体を捻って回避したが、刃がマントの端を浅く裂いた。


「シグマ!」


 黒鬼の声が飛ぶ。


「問題ない!」


 シグマは地面へ左の義手を突き出した。


「地杭」


 土が激しく盛り上がり、太い柱が斜めに突き出す。


 馬は驚いて前足を上げた。


 騎士が姿勢を崩した瞬間、シグマは鎧の脇腹へ拳を叩き込む。


 鈍い音が響き、騎士が横へ吹き飛んだ。


「はあっ!」


 反対側では紅蓮の大剣が、騎士の剣と槍をまとめて弾いていた。


 しかし三人が同時に攻め込み、紅蓮の足が止まる。


 一人の剣を受ければ、別の槍が脇腹を狙う。


 紅蓮は身体を捻って避けるが、穂先が鎧の表面を掠めた。


「隊列を崩す!」


 白鬼の周囲へ、複数の炎の槍が現れる。


「炎槍!」


 放たれた炎は騎士そのものではなく、馬の進行方向へ次々と突き刺さった。


 地面で炎が燃え上がる。


 突然現れた火に馬が怯み、騎士たちの隊列が崩れた。


「今です、紅蓮さん!」


「ああ!」


 紅蓮が崩れた隊列へ踏み込む。


 大剣の腹を一人の盾へ叩きつけた。


 盾ごと騎士が馬上から吹き飛ぶ。


 その勢いのまま大剣を横薙ぎに振るい、二人目の騎士を馬から叩き落とした。


 命を奪うための斬撃ではない。


 しかし、その一撃を受けた騎士は地面へ倒れ、起き上がることができなかった。


「弩、放て!」


 後方の騎士たちが一斉に引き金を引く。


 複数の矢が空気を裂き、馬車と黒鬼へ迫った。


「光壁!」


 黒鬼が障壁へ魔力を注ぎ込む。


 矢が光の壁へ次々と突き刺さり、激しい音を立てて弾かれた。


 一発。


 二発。


 三発。


 四発目が当たった瞬間、障壁の表面へ小さな亀裂が走る。


「黒鬼!」


「だ、大丈夫です!」


 黒鬼は怯みながらも、杖を握り直した。


「馬車には……近づけさせません!」


 障壁の光が再び強まる。


 ノクスとソルは騒ぐことなく、黒鬼の後ろで低く身を構えていた。


 だがソルの羽毛は逆立ち、ノクスは低い唸り声を漏らしている。


「障壁を破れ! 積荷だけでも奪え!」


 騎士団長が叫ぶ。


 二人の騎士が馬から降り、盾を構えて黒鬼の障壁へ迫った。


 白鬼はそちらへ杖を向けようとする。


 しかし、その隙を狙って一人の騎士が白鬼へ接近した。


「先に魔法使いを潰せ!」


 剣が振り下ろされる。


 白鬼は咄嗟に杖で受けた。


「きゃっ!」


 細い身体が衝撃で後ろへよろめく。


「白鬼!」


 紅蓮が助けへ向かおうとするが、別の騎士が立ちはだかった。


 騎士は再び白鬼へ剣を振るう。


 その瞬間、一筋の矢が騎士の手首を射抜いた。


「ぐっ!」


「うちの仲間に、何してくれとんねん」


 シルフが次の矢を番えている。


 その目から、眠気も軽さも完全に消えていた。


 白鬼は距離を取り、杖を握り直す。


「ありがとうございます!」


「後ろ見せたらあかんで!」


「はい!」


 白鬼は杖を地面へ向けた。


「炎輪!」


 足元から炎が円を描くように広がり、障壁へ迫っていた騎士たちの進路を塞ぐ。


 熱に馬が怯み、兵たちが一歩後退した。


 戦いは、騎士団長が想像していたものとは全く異なっていた。


 騎士たちは数で勝っている。


 装備も統率も、一般的な冒険者を圧倒できる水準にある。


 奇襲も成功するはずだった。


 それでも、紅蓮たちには届かない。


 シグマの拳が鎧を歪める。


 紅蓮の大剣が武器ごと騎士を薙ぎ払う。


 白鬼の魔法が隊列を崩し、黒鬼の障壁が馬車を守る。


 そして距離を取ろうとした者は、シルフの矢によって正確に射抜かれた。


 騎士の一人がシグマへ斬りかかる。


 シグマは右腕で剣を受け止めた。


 刃が義手の表面を擦り、火花が散る。


 左拳を鎧の胸へ叩き込む。


 騎士がよろめいたところへ、身体を回転させて蹴りを放った。


 騎士の身体が地面へ転がる。


 別の騎士が背後から槍を突き出した。


「シグマ、右や!」


 シルフの声。


 シグマは一歩踏み込み、槍の軌道から外れた。


 そのまま槍の柄を脇へ挟み込み、義手でへし折る。


「なっ――」


 驚愕した騎士の顎へ拳を叩き込み、意識を奪った。


 ほんの僅かな時間。


 森の道に立っていた騎士たちは、一人、また一人と地面へ倒れていく。


「ば、馬鹿な……」


 団長の顔から血の気が引く。


 最後の部下が紅蓮に叩き伏せられると、男は馬の首を返した。


「撤退する!」


「自分だけ逃げる気か!」


 部下の声を無視し、男は森の奥へ馬を走らせる。


「逃がすかいな」


 シルフは静かに矢を番えた。


 弦を引き絞る。


 風の流れを読む。


 木々の揺れ。


 馬の速度。


 男の身体の動き。


 呼吸を止め、指を離した。


 放たれた矢は木々の隙間を縫い、逃げる男の右肩を正確に射抜く。


「ぐああっ!」


 男が馬上から落ちた。


 地面へ転がり、それでも立ち上がろうとする。


 だが、既にシグマが目の前へ立っていた。


「殺すと言っておいて、自分だけ逃げるのか?」


「く、来るな……!」


「誰に頼まれた?」


「知らん! 私は何も知らん!」


「先ほど、話が違うと言ったな」


「言っていない!」


「全員が聞いていた」


「勘違いだ!」


 シグマが一歩近づく。


 男は肩へ刺さった矢を押さえ、這うように後退した。


「関所で、ゆっくり話してもらう」


     ◇


 倒れた騎士たちは、命を失ってはいなかった。


 しかし骨を折った者や、深い傷を負った者もいる。


 黒鬼は負傷者を一人ずつ確認し、命に関わる者へ最低限の治療を施していった。


「敵に治療までしてやる必要あったん?」


 シルフが尋ねる。


「このままだと、関所に着く前に危険な人もいましたから……」


 黒鬼は小さく答えた。


「でも、完全には治していません。動けるようになると、また襲ってくるかもしれないので」


「黒鬼らしいな」


 紅蓮はそう言うと、騎士団長の鎧へ被せられていた布を剥ぎ取った。


 その下から、翼を広げた竜の紋章が現れる。


「確かに、ディアグランディアの騎士だ」


「国境を越えて、こんなところまで来ていたのですね」


 白鬼の表情が曇る。


「正規の部隊なら、堂々と紋章を隠す必要はない」


 シグマは倒れた騎士たちを見る。


「少人数で密かに国境を越えてきたということか」


「それだけでも大問題だ」


 紅蓮が低い声で答えた。


「問題は、誰が私たちの通る道と荷物を教えたかだ」


 紅蓮が荷台の木箱を見る。


 箱は、激しい戦闘が終わったあとも静かなままだった。


「レイラしかおらんやろ」


 シルフが吐き捨てる。


「断定はできない」


「せやけど、荷物を積んで、地図を渡して、この道を通れ言うたんはレイラやで?」


「店員が情報を漏らした可能性もある。受取側から漏れた可能性もある」


「紅蓮はあの女を庇うん?」


「庇ってはいない。確証がないと言っている」


「うちら、殺されかけたんやで」


「だからこそ、感情だけで決めるな」


 シルフは言い返そうとした。


 だがシグマが二人の間へ入る。


「まず騎士たちを関所へ連れていこう。箱の中身も、そこで確認してもらう」


「……せやな」


 シルフは納得しきれない表情のまま、弓を下ろした。


 騎士たちの武器を全て取り上げ、両手を縄で縛る。


 さらに数人ずつ繋ぎ、逃げられないよう馬車の後方へ結びつけた。


 負傷の重い者は、奪った馬へ乗せる。


「歩けないふりをしたら置いていくで」


 シルフが睨むと、騎士たちは青ざめながら首を横に振った。


 捕らえた騎士たちを歩かせ、馬車は再び関所へ向けて進み始めた。


     ◇


 関所は、そこからさほど離れていなかった。


 森を抜けた先に、石壁と複数の建物が並んでいる。


 高い柵。


 見張り台。


 荷物を調べる検査場。


 街道を塞ぐように頑丈な門が設けられていた。


 見張り台に立っていた兵士が、縛られた騎士たちの姿を見つける。


「警戒!」


 鐘が激しく鳴らされた。


 門の内側から兵士たちが飛び出し、弓や槍を構える。


「止まれ! 何者だ!」


「リッドガルから来た冒険者だ!」


 紅蓮が声を張る。


「森の中で、この者たちに襲撃された! ディアグランディアの騎士だ!」


「その場を動くな!」


 関所の兵士たちは警戒しながら近づき、捕らえられた騎士たちの鎧を確認する。


 隠されていた竜翼章を見た瞬間、表情が一変した。


「本当にディアグランディアの騎士だ!」


「武器を全て回収しろ! 負傷者は治療所へ! 他は牢へ連行しろ!」


 関所内が一気に騒がしくなる。


 騎士団長は何かを叫ぼうとしたが、兵士に口を塞がれ、そのまま引きずられていった。


 シグマたちも事情を聞くため、奥の建物へ案内される。


 通された部屋で待っていると、やがて一人の男が現れた。


 四十代ほどの、短い灰色の髪を持つ大柄な男だった。


 日に焼けた顔には深い傷があり、鎧の肩には関所を預かる団長であることを示す紋章が付いている。


「この関所を預かる、バルガスだ」


 男は椅子へ座ると、鋭い目で五人を見回した。


「話は部下から聞いた。しかし、ディアグランディアの騎士十数名を、冒険者五人だけで捕らえたというのか?」


「そのとおりだ」


 紅蓮が答える。


「死者は一人もいないそうだな」


「殺す必要がなかったからだ」


「信じろと言われても難しい話だ」


 バルガスは腕を組む。


「お前たちが騎士を殺し、鎧や武器を奪って連れてきた可能性も否定できん」


「なんやと⁉」


 シルフが立ち上がる。


「落ち着け」


 紅蓮が制止する。


「国境を守る立場として、簡単に話を信じるわけにはいかん」


「なら、負傷の状態を確認すればいい」


 シグマが言う。


「全員、生きている。戦った痕も森に残っているはずです」


「既に部下を現場へ向かわせた」


「なら、すぐ分かる」


 バルガスはシグマを見つめた。


「随分と落ち着いているな」


「事実を話しているだけです」


 バルガスはしばらく黙っていた。


 そのとき、シルフが懐から冒険者カードを取り出す。


「これを見ても、うちらが騎士を襲ったと思うんか?」


 机の上へカードを置く。


 表面に、風を象徴する勇者認証が浮かび上がった。


「風の勇者、シルフ・ミュラーや」


 バルガスの目が見開かれる。


 男は椅子から立ち上がり、カードとシルフの顔を何度も確認した。


「本物……なのか」


「さっき街の門でも、たっぷり確認されたわ!」


「失礼した」


 バルガスは頭を下げた。


「勇者が同行しているとは聞いていなかった。無条件に全てを信じるわけにはいかないが、あなた方の証言は極めて重要なものとして扱わせてもらう」


「最初から、そう言うてくれたらええねん」


 シルフが力なく椅子へ座る。


 紅蓮は戦闘の経緯と、騎士団長が口にした言葉を詳しく説明した。


 さらに、フォックス商会から荷物を関所まで運ぶよう依頼されたことも話す。


「フォックス商会……レイラ・リストウッドか」


 バルガスの表情が曇った。


「知っているのか?」


「リッドガルで、彼女を知らない者はいない。商会の規模だけなら、街でも上位に入る有力者だ」


「なら、すぐに捕らえて話を聞け」


 シルフが机へ身を乗り出す。


 しかし、バルガスは苦い顔で首を横に振った。


「今すぐ拘束することはできん」


「何でや!」


「証拠がないからだ」


「うちらが依頼を受けた直後、道で待ち伏せされとったんやで⁉」


「それだけでは、レイラが情報を流した証拠にはならない」


「騎士団長を問い詰めたらええやろ!」


「既に尋問は始めている。だが、レイラの名が出たとしても、敵国の騎士一人の証言だけでは拘束に足りん」


「そんなもん……」


「店員、受取側、書類を作った者、積荷を準備した者。情報を知る可能性があった人間は他にもいる」


「せやけど、調べるくらいできるやろ!」


「調査はする」


 バルガスが強い口調で答える。


「だが、公に踏み込むには証拠が必要だ」


「有力者やから手ぇ出されへんってことか?」


 バルガスはすぐには答えなかった。


 やがて、拳を握ったまま低い声を出す。


「レイラ・リストウッドは、リッドガルの物流の多くに関わっている。彼女を証拠なく拘束すれば、街の商業だけでなく、関所への補給まで止まりかねん」


「やっぱり金持ちやからやないか!」


「そう受け取ってもらって構わん」


 シルフの顔に怒りが浮かぶ。


「ふざけんな! うちらは殺されかけたんやで!」


「シルフ」


「紅蓮は黙っといて!」


 シルフは机を強く叩いた。


「勇者とか関係ない。一歩間違っとったら、白鬼ちゃんも黒鬼ちゃんも、みんな死んどったかもしれへん!」


 白鬼と黒鬼が驚いたようにシルフを見る。


「それなのに、相手が金持ちやから今は捕まえられへん? 街が困るから待て? そんな話、納得できるか!」


 バルガスは何も言い返さなかった。


 拳を強く握り締めている。


 彼自身も、納得しているわけではないのだろう。


「……申し訳ない」


 やがて、それだけを口にした。


「ただ、何もしないわけではない。非公式に店と関係者を調べる。捕らえた騎士からも必ず情報を引き出す」


「絶対やで」


「ああ」


 シルフは唇を噛み締め、顔を背ける。


 重い沈黙が室内を満たした。


 その中で、シグマが静かに口を開く。


「レイラを今すぐ捕らえられないことは分かりました」


「シグマ?」


「ですが、せめて箱の中身は確認してください」


 バルガスが顔を上げる。


「俺たちは、あの箱を関所へ運ぶ依頼を受けました。届け先はここです」


「受け取りを拒むつもりはない。書類を確認したうえで――」


「書類ではなく、中身を直接確認してほしい」


「危険な動物だと聞いているが」


「だからこそです」


 シグマの声は穏やかだった。


 しかし、その目に宿る疑念は強い。


「俺たちは道中で襲撃されました。騎士たちは、あの箱を不正な積荷だと言った」


「……」


「中身を見ずに受け取ることは、関所にとっても危険ではありませんか?」


 バルガスは腕を組み、しばらく考える。


「書類には、訓練用の生体資材とあるのだな?」


「はい」


「こちらへ、そのような荷物が届く予定だったか確認させる」


 バルガスは部下を呼び、受領担当者を調べるよう命じた。


 しばらくして戻ってきた兵士が、小さく首を振る。


「訓練担当から、そのような荷物を依頼した記録はないとのことです」


 室内の空気が凍りついた。


「やっぱりや!」


 シルフが立ち上がる。


 バルガスの顔も険しくなった。


「箱を確認する。私も立ち会おう」


     ◇


 一行はバルガスと数人の兵士を連れ、馬車へ戻った。


 問題の木箱は、荷台の上に積まれたままだ。


 変わらず静かだった。


 兵士たちが周囲を囲み、武器を構える。


「封印を確認しろ」


 バルガスの命令で、一人の兵士が箱へ近づく。


 金属の留め具。


 太い縄。


 そして、蓋の端へ貼られた封印札。


「封印そのものは、魔獣運搬用のものです」


「中から魔力反応は?」


 兵士が手持ちの魔石を箱へ近づける。


 淡い光が灯った。


「反応はあります。しかし微弱です。魔獣にしては、かなり弱い」


 シグマの胸の奥で、違和感がさらに大きくなる。


「眠らされている可能性は?」


「あります。ただ、大型の魔獣ではないでしょう」


「開けるぞ。全員、下がれ」


 バルガスが剣を抜く。


 紅蓮も大剣を構え、白鬼と黒鬼は魔法を使えるよう杖を握った。


 シルフは矢を番える。


 シグマは箱の正面へ立った。


「近すぎるぞ」


 バルガスが声をかける。


「何かが飛び出した場合、俺が止めます」


「無茶はするな」


「ああ」


 兵士が縄を切る。


 太い縄が荷台へ落ちる。


 金属の留め具を一つずつ外していく。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 金属が擦れる音だけが、静かな関所へ響いた。


 最後に兵士が封印札へ触れる。


 札が淡く光り、音もなく燃え尽きた。


 その瞬間。


 箱の中から、何かが小さく身じろぎする音が聞こえた。


 白鬼が息を呑む。


「開けます」


 兵士が蓋へ手をかけた。


 僅かに持ち上げる。


 隙間から暗い内部が見える。


 唸り声はない。


 爪が飛び出してくることもない。


 兵士は仲間の顔を確認したあと、さらに蓋を持ち上げた。


 光が暗い箱の中へ差し込んでいく。


 誰もが飛び出してくる魔獣へ備えていた。


 鋭い爪。


 牙。


 唸り声。


 だが。


 箱の中から聞こえてきたのは、怯えたような小さな呼吸音だった。


「……え?」


 白鬼が杖を下ろす。


 箱の隅で、小さな何かが身を丸めていた。


 銀色の髪。


 汚れ、破れた薄い服。


 細い手足。


 そして髪の間から覗く、獣のような耳。


 そこに入れられていたのは、危険な魔獣ではなかった。


 一人の、小さな女の子だった。


 少女の手首と足首には、重い鉄の枷が嵌められている。


 首にも、黒い金属で作られた細い輪が取り付けられていた。


 箱の床には僅かな水と、硬くなったパンが一片置かれている。


 光が差し込んだことに気づくと、少女は怯えたように身体を震わせた。


「ご、ごめんなさい……」


 掠れた声が箱の中から聞こえる。


「暴れません……言うことを聞きます……だから……」


 少女は両腕で頭を守り、さらに小さく身を縮めた。


「痛いこと、しないでください……」


 誰も動けなかった。


 誰も言葉を発することができなかった。


 危険な動物。


 訓練に使う生体資材。


 レイラが口にした言葉が、頭の中で繰り返される。


 シルフの手から、番えていた矢が落ちた。


 乾いた音を立て、地面へ転がる。


「なんや……これ……」


 白鬼は口元を押さえている。


 黒鬼は震える手で杖を握り締め、少女の枷を見つめていた。


「こんなの……荷物じゃない……」


 紅蓮の表情からは、全ての感情が消えていた。


 ただ、その大剣を握る指だけが、怒りで白くなるほど強く締められている。


 バルガスの顔も青ざめていた。


「まさか……人身売買……」


 シグマは、ゆっくりと箱へ手を伸ばした。


 少女はその動きに怯え、目を固く閉じる。


 身体が激しく震えていた。


「近づかない方がいい」


 兵士の一人が止める。


「首輪が何の魔道具か分からない」


 シグマは手を止めた。


 少女を刺激しないよう、箱の前へ片膝をつく。


「大丈夫だ」


 可能な限り穏やかな声で告げる。


 少女の耳が、小さく動いた。


「もう、誰にも痛いことはさせない」


「……ほんとう?」


 か細い声だった。


「ああ」


「怒って……ない?」


「怒っていない」


「私、ちゃんと言うことを聞きます……役に立ちます……だから、痛くしないで……」


 その言葉に、黒鬼が口元を押さえたまま俯いた。


 白鬼の瞳にも涙が浮かぶ。


 シグマはゆっくりと右手を差し出す。


 少女はその手を見つめた。


 殴られると思っているのか、何度も身体を震わせる。


 それでも、しばらくして恐る恐る顔を上げた。


 乱れた銀髪の奥から、涙で濡れた瞳がシグマを見つめる。


 小さな手が、僅かに持ち上がる。


 だが、鉄の枷が鳴ると、少女は再び怯えて手を引っ込めた。


「枷を外せるか?」


 シグマが尋ねる。


 兵士が首輪と手枷を調べる。


「鍵が必要です。それに、この首輪……奴隷用の服従魔道具に似ています」


 バルガスの顔が険しくなる。


「関所の魔道具師を呼べ。絶対に無理やり外すな」


「はっ!」


 兵士が走り出す。


 その瞬間。


 シグマの胸の奥で、長く押し殺されていた何かが静かに燃え上がった。


 暗い場所。


 拘束具。


 人ではなく、物のように扱われる命。


 かつて自分へ向けられた無数の視線と、逃げることのできなかった時間が、脳裏を掠める。


 右の義手が、微かに熱を帯びた。


 シグマは拳を握り締める。


 レイラ・リストウッド。


 フォックス商会。


 ディアグランディアの騎士たち。


 そして、この少女を荷物として運ばせようとした者たち。


 誰が、どこまで関わっているのか。


 今はまだ分からない。


 だが一つだけ、はっきりしている。


 このままにはしておけない。


 シグマは箱の中の少女へ、もう一度静かに告げた。


「大丈夫だ」


 少女が僅かに顔を上げる。


「俺たちが、必ず守るから」


 穏やかだった護衛の旅は、箱の蓋が開いたその瞬間から、全く別の事件へと姿を変えたのだった。

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