第十一話 少女フェルン
関所の一角に設けられた治療室には、薬草と消毒薬の匂いが重く漂っていた。
壁際に並ぶ棚には、乾燥させた薬草や包帯、色の異なる薬液が入った小瓶が整然と置かれている。
窓から差し込む夕暮れの光が、古びた木の床を赤く染めていた。
その部屋の中央に置かれた小さな寝台。
薄い毛布に包まれながら、銀髪の少女が膝を抱え、身体を丸めている。
関所で馬車を調べた際、唯一の積荷だった大箱。
少女は、その箱の中から発見された。
細い手首と足首には、重い鉄の枷が嵌められている。
首には黒い金属製の輪。
表面には赤黒い線が幾重にも刻まれ、ときおり呼吸するように淡く明滅していた。
その不気味な光を見るたび、シグマの胸の奥に、押し殺しきれない怒りが込み上げてくる。
少女を囲むように、シグマたちと年配の女性治療師、数人の関所兵が立っていた。
誰かが僅かに動くだけで、少女の銀色の獣耳が敏感に反応する。
床を踏む靴音。
鎧の金具が擦れる音。
剣の鞘が腰当てに触れる音。
その一つ一つに、少女の小さな肩が震えていた。
顔は伏せている。
だが、乱れた銀髪の隙間から覗く青い瞳は、室内にいる者たちの位置を静かに確かめていた。
扉の前に兵士が二人。
窓際に一人。
治療師の腰には、薬草を切るための小さな刃物。
紅蓮は扉から少し離れた壁際。
シルフは窓寄り。
白鬼と黒鬼は、シグマのすぐ後ろに立っている。
人数。
武器。
出口。
逃げ道。
誰がこの場で一番強いのか。
誰に逆らえば危険なのか。
少女は一つずつ確認すると、何も見ていなかったかのように再び顔を伏せた。
シグマは少女の僅かな仕草を見逃さなかった。
周囲を確認することが、身体へ染みついている。
誰を警戒し、誰に従えば生き延びられるのか。
それを瞬時に判断しようとしていた。
「大丈夫ですよ」
年配の治療師が、少女を刺激しないよう穏やかな声をかけた。
「ここは関所の治療室です。あなたを傷つけようとしている者はいません」
少女は返事をしない。
枷を嵌められた両腕で、頭を守るように抱え込んでいる。
「怪我を診せてもらうだけです」
治療師は急に近づかず、少し離れた場所に腰を下ろした。
「痛いことはしませんからね」
少女の肩が僅かに動いた。
しばらくして、掠れた声が落ちる。
「……ごめんなさい」
返ってきたのは、治療を拒む言葉でも、助けを求める言葉でもなかった。
「ごめんなさい……ちゃんとします……」
呼吸の途中で途切れるような、小さな声。
「謝らなくてもいいんですよ」
「言うこと……聞きます」
「何も命令するつもりはありません」
「掃除もできます……」
治療師の表情が曇った。
「荷物も運べます。食事も……少しで大丈夫です。だから……」
少女はそこで言葉を止めた。
周囲の兵士たちの表情を素早く確認する。
誰も怒っていない。
そう判断してから、さらに背中を丸めた。
「捨てないでください……」
白鬼が小さく息を呑む。
黒鬼は口元へ手を当て、悲しげに俯いた。
いつもなら何か一言は挟むシルフも、今は強く唇を噛んでいる。
少女は、生かしてもらうために自分の価値を示そうとしていた。
働ける。
食事は少なくていい。
言うことを聞く。
役に立つから、捨てないでほしい。
だがシグマは、少女が言葉を発する直前、毎回ほんの僅かに間を置いていることに気づいていた。
反射的に謝っているだけではない。
この場では何を言うのが最も安全なのか。
どのような少女に見せれば、殺されずに済むのか。
一つ一つ考えながら、言葉と態度を選んでいる
ただし、それが拙い演技には見えなかった。
間違えれば何をされるか分からない。
そんな恐怖の中で身につけた、生き残るための処世術。
シグマにはそう見えた。
「誰も、あなたを捨てたりしません」
治療師は少女へ安心させるように微笑んだ。
「ですが、傷を診なければ治すこともできません。少しだけ、身体を見せてもらえますか?」
少女は答えない。
治療師は急かさず、静かに待った。
長い沈黙のあと、少女がほんの僅かに頷く。
「ありがとうございます」
治療師がゆっくりと立ち上がった。
「まずは首元を確認しますね。首輪が擦れて、傷になっているかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、少女の身体が強張った。
銀色の獣耳が、頭へ張りつくように伏せられる。
「怖いですよね」
治療師は少女の反応を見て、すぐに手を止めた。
「少し触れるだけです。嫌なら、すぐにやめます」
少女は唇を強く結んだ。
拒めば怒られる。
そんな恐怖が、はっきりと表情に浮かんでいる。
やがて少女は、震えながら顎を引いた。
「では、触りますね」
治療師の指先が、黒い首輪へ触れた。
その瞬間。
首輪に刻まれた赤黒い線が、鮮血のような光を放った。
「っ……!」
少女の身体が大きく跳ねる。
細い喉から声にならない悲鳴が漏れ、そのまま寝台の上へ倒れ込んだ。
両手で首を押さえ、苦しそうに身体を震わせる。
「触るな!」
シグマが反射的に叫んだ。
治療師は驚き、すぐに手を離す。
首輪の光は弱まったが、少女の苦しみはすぐには収まらない。
息を吸おうとしても、喉が塞がれているかのように呼吸が続かなかった。
「ごめんなさい……!」
少女は苦しみながら、それでも頭を下げようとする。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「謝るな」
シグマが強い声で止めた。
「お前は何もしていない」
「でも……私が、ちゃんとしなかったから……」
「違う」
シグマは即座に否定する。
黒鬼が杖を握り、寝台へ一歩近づいた。
「すぐに治癒魔法を――」
「待ってくれ」
シグマは右手を伸ばし、黒鬼を止めた。
「首輪の近くで魔法を使えば、また反応するかもしれない」
「ですが、このままでは……!」
「何が作動条件なのか分からない。今は下手に刺激しない方がいい」
「でも……」
黒鬼は杖を握りしめ、悔しそうに顔を伏せた。
治す力を持っている。
目の前には苦しむ少女がいる。
それなのに何もできない。
そのことが、何よりも辛いのだろう。
シグマは寝台から少し離れた場所へ膝をついた。
少女よりも目線を低くする。
そして、武器を持っていないことが伝わるように、両手を見える位置へ置いた。
「聞こえるか?」
少女の獣耳が僅かに動く。
「もう誰にも、その首輪へ触らせない」
「……怒ってる?」
「お前には怒っていない」
「でも、私が……」
「悪いのは、その首輪をつけた者だ」
少女の呼吸が、一瞬だけ止まった。
「箱へ入れた者も、枷をつけた者もだ。お前じゃない」
少女はゆっくりと顔を上げる。
乱れた銀髪の間から、澄んだ青い瞳がシグマを見つめた。
ただ泣いているだけの少女の目ではない。
表情。
声の調子。
言葉の裏側。
本当に怒っていないのかを、慎重に確かめている。
シグマは余計な言葉を重ねなかった。
優しい言葉を並べるよりも、少女が自分で判断できるよう、静かに待った。
「誰に箱へ入れられたか、覚えていますか?」
治療師が少し離れた場所から尋ねる。
少女の視線が治療師へ向く。
「……分かりません」
先ほどまでより、僅かにはっきりした声だった。
少女自身もそれに気づいたらしい。
慌てて背中を丸め、弱々しい声へ戻す。
「ご、ごめんなさい……何も知らないです……」
「謝る必要はありませんよ」
「本当に、何も……」
少女は顔を伏せる。
枷へ繋がれた指先が、毛布を強く握りしめていた。
「箱へ入れられる前は、どこにいた?」
兵士の一人が尋ねた。
少女の肩が強張る。
ゆっくりと顔を上げ、兵士の胸元へ刻まれた関所の紋章を見る。
次に、階級を示す肩当て。
腰に下げられた剣。
扉の前に立つ兵士たち。
その視線は、一瞬だけ鋭さを帯びた。
しかし、すぐに怯えた少女のものへと戻る。
「覚えて……ません」
「町や村の名前も?」
「知らないです」
「家族はいるのか?」
「いません」
今度は迷いのない即答だった。
早すぎるほどに。
その一言だけは、何度も練習したかのように滑らかだった。
「質問は一度止めてくれ」
シグマが兵士を制止した。
「しかし、身元を確認しなければ――」
「怯えている。これ以上聞いても、正しい答えは返ってこない」
兵士は少女を見たあと、渋々口を閉じた。
シグマは再び少女へ向き直る。
「名前は?」
少女の唇が僅かに開く。
しかし、声は出なかった。
喉の奥で言葉を押し殺すように、息だけが漏れる。
青い瞳が、不安そうに揺れた。
名前を言いたくないのではない。
名前を言ったあと、何が起こるのかを恐れている。
名前から身元を調べられる。
出身地を知られる。
隠している何かを見抜かれる。
そして、連れ戻される。
少女の中では、そこまでが一つに繋がっているのかもしれない。
「無理に言わなくてもいい」
シグマが告げる。
少女は驚いたように瞬きをした。
「……怒らない?」
「怒らない」
「名前を言わなくても……痛くしない?」
「しない」
「嘘をついても?」
そこまで口にした瞬間、少女は自分の失言に気づいたように両手で口を塞いだ。
室内の空気が僅かに揺れる。
兵士の一人が眉をひそめた。
少女は顔を青ざめさせ、枷を鳴らしながら寝台へ額をつけようとする。
「ごめんなさい! 今のは違います! 嘘なんてつきません!」
「分かった」
シグマは少女を責めなかった。
「言いたくないことは、言わなくていい」
少女が恐る恐る顔を上げる。
「本当に?」
「ああ」
「知られたくないことがあっても?」
「誰にでも、知られたくないことはある」
少女の瞳が大きく揺れた。
見抜かれた。
そう感じたのだろう。
だが、シグマが追及しないことを理解すると、強張っていた肩がほんの僅かに下がった。
「俺はシグマだ」
「……シグマ」
「呼び方がないと困る。名前でなくてもいい。俺たちに呼ばれても構わないものがあれば、教えてくれ」
少女は黙り込む。
兵士。
治療師。
紅蓮。
シルフ。
白鬼と黒鬼。
最後に、シグマ。
一人ずつ顔を確かめる。
長い沈黙のあと、少女はシグマにだけ届くような声で答えた。
「……フェルン」
「フェルン?」
少女は小さく頷く。
「フェルン……です」
「分かった。フェルンと呼ぶ」
「それ以上は……」
フェルンの指が毛布を掴む。
「それ以上は、ありません」
家名も。
出身地も。
家族も。
全てを否定する言葉だった。
だがシグマは問い返さなかった。
「分かった」
あまりにもあっさり受け入れられ、フェルンは僅かに目を見開いた。
そのとき、治療室の扉が叩かれた。
フェルンの身体が再び跳ねる。
「私だ。入るぞ」
扉の向こうから、関所を預かるバルガスの声が聞こえた。
兵士が扉を開ける。
バルガスは、白髪交じりの老人を連れて部屋へ入ってきた。
「関所付きの魔道具師、ドノバンだ」
「状況は聞いた」
ドノバンは室内へ入るなり、寝台の上にいるフェルンへ目を向けた。
フェルンは、バルガスの鎧と肩章を見た瞬間、さらに小さくなる。
身なりの良い者。
階級の高い者。
人へ命令を下す立場の者。
それらを危険だと判断したのだろう。
「ご、ごめんなさい……!」
フェルンは即座に頭を下げた。
「言うことを聞きます……何でもします……」
バルガスが眉を寄せ、その場で足を止める。
「何もさせるつもりはない」
「掃除もできます。荷物も運べます。食事も少しで大丈夫です」
「そういうことを言っているのではない」
「邪魔に、なりません……」
「こちらを見ろ」
バルガスがそう言った瞬間、フェルンの肩が大きく跳ねた。
命令された。
その事実だけで、身体が反射的に動く。
フェルンは震えながら顔を上げた。
バルガスはその反応を見て、僅かに表情を曇らせる。
「すまない。命令するつもりではなかった」
謝罪の言葉に、今度はフェルンが戸惑った。
偉い者が自分へ謝る。
その状況が理解できないようだった。
「私はバルガス。この関所を預かっている」
「……はい」
「お前を罰するつもりはない。ここにいる者たちも同じだ」
「はい……」
返事はしたものの、フェルンの表情から警戒は消えない。
バルガスも、すぐに信じてもらえるとは思っていないのだろう。
それ以上は何も言わず、ドノバンへ場所を譲った。
ドノバンはフェルンへ近づかず、少し離れた位置から首輪を観察する。
片眼鏡のような魔道具を取り出し、刻まれた術式を慎重に確認した。
やがて、その顔が険しくなる。
「服従の首輪だ」
その言葉を聞いた瞬間、フェルンの肩が大きく跳ねた。
「やはりか」
バルガスが低い声を漏らす。
「外せるのか?」
「簡単ではない」
ドノバンは首輪に触れず、刻まれた赤黒い線を指し示した。
「本来なら、首輪へ登録された所有者の魔力か、解除用の術具が必要になる」
「どちらもない場合は?」
「無理に外そうとすれば、罰則術式が発動する」
ドノバンの声が低くなる。
「先ほど治療師が触れたことで、首輪が解除行為と判断したのだろう。外そうとした者ではなく、着けられている本人へ苦痛を与える仕組みだ」
「そんな……」
黒鬼が震える声を漏らす。
「どうして、そのようなものを……」
「逃亡や反抗を防ぐためだ」
ドノバンは苦々しげに答えた。
「魔法による解除も感知する可能性が高い。首輪の近くで治癒魔法を使えば、再び術式が作動するかもしれん」
黒鬼は杖を握りしめたまま、悔しそうに俯く。
「解除用の術具を用意するには、どのくらいかかる?」
紅蓮が尋ねる。
「同じ術式を扱った者を見つけるところから始めなければならん。数日で済むとは思えない」
「その間、この子は首輪をつけたままなのか?」
「今のところは、刺激せずに置くしかない」
ドノバンの答えを聞き、フェルンの顔から血の気が引いていく。
この首輪をつけたまま、知らない場所で何日も過ごす。
それが何を意味するのか、フェルンだけは知っているのだろう。
「私、大丈夫です……」
フェルンはすぐに口を開いた。
「首輪があっても、ちゃんと言うことを聞きます」
「フェルン」
「逃げません。勝手なこともしません」
枷の嵌められた両手を胸元へ寄せ、必死に訴える。
「だから、外さなくて大丈夫です」
大丈夫なはずがない。
僅かに触れただけで、あれほどの苦痛を与える首輪。
そんなものを残しておくことなどできなかった。
「俺が外す」
シグマの言葉に、室内の視線が一斉に集まった。
「シグマ?」
紅蓮が眉を寄せる。
「方法があるのか?」
「可能性はある」
「可能性って……」
シルフが困惑したようにシグマを見る。
「ドノバンのお爺ちゃんでも外せへんのやろ? あんた、どうやって外すつもりなん?」
シグマはすぐには答えなかった。
視線を落とし、黒い義手に覆われた左手を静かに見つめる。
左手の甲へ嵌め込まれた獣王石。
その能力について、これまで誰にも話したことはない。
人前で使ったこともなかった。
右手についても、魔石の力を利用して攻撃できるものだとしか仲間たちには伝えていない。
当然、紅蓮たちは左手にも別の力が秘められていることなど知らなかった。
「首輪に込められた魔力を、直接無力化する」
シグマの答えに、黒鬼が首を傾げる。
「そのようなことができるのですか?」
「この左手なら、できるかもしれない」
「左手……?」
シルフの視線が、初めてシグマの左手へ向けられる。
「その義手に、何か仕掛けがあるんか?」
「詳しいことは、終わってから話す」
「終わってからって……」
シルフの表情から、いつもの軽さが消えた。
「危ないことなんやないやろな?」
「危険はある」
シグマは誤魔化さずに答えた。
その一言で、室内の空気がさらに重くなる。
「フェルンに危険があるのか?」
紅蓮が鋭い声で尋ねる。
「首輪の魔力を完全に無力化できれば、フェルンにはない」
「完全にできなかった場合は?」
「異変を感じた時点で手を離す」
「お前自身への危険は?」
シグマは僅かに間を置いた。
「……ないとは言えない」
「それ、めちゃくちゃ危ない言い方やん」
シルフが険しい顔でシグマを見る。
「何を隠しとるん?」
「今は詳しく説明している時間がない」
「せやけど――」
「このまま首輪を残せば、またいつ作動するか分からない」
シグマは寝台の上で怯えるフェルンを見る。
「外せる可能性があるなら、試したい」
紅蓮は黙ったまま、シグマの顔を見つめた。
何かを隠している。
それは明らかだった。
だが同時に、何の考えもなく言い出したわけではないことも分かっている。
「本当に、外せる可能性があるのだな?」
「ああ」
「……分かった」
紅蓮は完全に納得したわけではなかった。
それでも今は、フェルンの首輪を外すことを優先したのだろう。
「ただし、無理だと感じたらすぐに手を離せ」
「分かった」
「その返事、信用してええんやろな?」
シルフが疑わしそうに目を細める。
「できる限り無理はしない」
「もう既に信用できへん返事やん!」
シルフが声を上げたが、シグマはバルガスとドノバンへ向き直った。
「この場に必要のない者を、外へ出してくれ」
バルガスはシグマの左手へ視線を向ける。
「見られたくない力ということか」
「ああ」
「危険なものではないのか?」
「使い方を誤れば危険だ」
しばらくの沈黙。
やがてバルガスが、室内の兵士たちへ顔を向けた。
「全員、廊下へ出ろ。ここで見聞きしたことも、許可なく口外するな」
「はっ!」
兵士たちが治療室を出ていく。
治療師もフェルンを心配そうに見ながら、扉の外へ下がった。
室内に残ったのは、シグマたち五人とフェルン、バルガス、ドノバンだけだった。
シグマは寝台へ近づく。
フェルンが怯えたように身を引いた。
シグマはすぐに足を止める。
「フェルン」
「……はい」
「左手を首輪へ触れさせたい」
フェルンの獣耳が伏せられる。
「触ったら、また痛くなる?」
「一瞬、首輪が反応するかもしれない」
「……」
「だが、その魔力を全て奪う。上手くいけば、二度と首輪は作動しない」
「上手く、いかなかったら?」
フェルンの問いに、室内が静まり返る。
「異変が起きたら、その前に手を離す」
「シグマは?」
「俺のことは気にしなくていい」
「答えになっていないです」
フェルンの声が、先ほどよりもはっきりしていた。
シグマは僅かに目を見開く。
怯え、言われるままになっていた少女が、初めて自分から問い返してきた。
「シグマは、痛くないの?」
「少しは痛む」
嘘ではない。
ただし、全てを話したわけでもなかった。
フェルンはシグマの左手を見つめる。
「嫌です」
小さな声だった。
「私のために、シグマが痛くなるのは……嫌です」
「このまま首輪を残す方が、俺は嫌だ」
「どうして?」
「フェルンが苦しむからだ」
「私は、慣れています」
「慣れていい痛みじゃない」
フェルンは何も言えなくなった。
「無理には触らない」
シグマは静かに続ける。
「決めるのはフェルンだ」
「私が……決めるの?」
「ああ」
フェルンは戸惑ったように周囲を見る。
誰かの命令ではなく、自分で決める。
その意味すら、すぐには理解できない様子だった。
「外したいなら、俺に任せてくれ。怖いなら、今はやめる」
フェルンの手が、首輪へ触れる。
冷たい黒い輪。
触れられるたびに痛みを与え、逃げることも、逆らうことも許さなかったもの。
長い沈黙のあと、フェルンは震えながら顔を上げた。
「……外してほしいです」
「分かった」
「でも……」
フェルンはシグマを見つめる。
「死なないでください」
「死なない」
今度は、迷わず答えた。
シグマは腰の刀と二つの仮面を外し、紅蓮へ預ける。
寝台の前へ膝をつくと、ゆっくりと左手を伸ばした。
「怖くなったら言ってくれ」
「言ったら、止めてくれる?」
「ああ」
フェルンは緊張した表情で、小さく頷く。
シグマの黒い義手が、首輪へ近づいていく。
指先が触れる直前、左手の甲に嵌められた獣王石が淡く輝いた。
ドノバンが息を呑む。
「その石は……」
「今は黙っていてくれ」
シグマは意識を左手へ集中させる。
黒い指先が、首輪へ触れた。
直後。
首輪に刻まれた全ての紋様が、鮮血のような赤色に輝いた。
「っ……!」
フェルンの身体が跳ねる。
「シグマ!」
「まだ動くな!」
紅蓮たちを制止しながら、シグマは左手の力を解放した。
獣王石から淡い光が広がる。
首輪へ込められた赤黒い魔力が、細い糸となって引き出されていく。
魔力は抵抗するように激しく蠢いた。
フェルンの首へ戻ろうとする赤黒い光を、獣王石が強引に引き寄せる。
シグマの左腕へ、氷を押し当てられたような冷たさが走った。
次の瞬間。
「ぐっ……!」
見えない何かが、シグマの首を締め上げた。
息が止まる。
両腕と両足へ、冷たい鉄の枷が食い込む。
実際には何も嵌められていない。
それでも皮膚が裂け、骨が軋むほどの圧迫感が襲ってくる。
膝をつけ。
頭を下げろ。
許可なく喋るな。
目を合わせるな。
逃げるな。
逆らうな。
お前は物だ。
命令に従え。
無数の声が、頭の中へ直接叩き込まれた。
「っ、が……!」
シグマの表情が歪む。
首輪から吸い出しているのは、単なる魔力ではない。
服従を強いる呪い。
逆らった者へ与える苦痛。
意思を奪い、心を縛りつける恐怖。
その全てが、シグマの身体へ流れ込んでいた。
「シグマ?」
フェルンが目を見開く。
「どうして……」
首輪が与えるはずだった苦痛が、今はフェルンへ向かっていない。
その代わり、シグマの首へ赤黒い痣が浮かび上がっていた。
「どうして、シグマが苦しんでるの……?」
「気に……するな……」
「少しだけって言った!」
「大丈夫だ……」
「大丈夫に見えへんわ!」
シルフが叫ぶ。
「シグマ、もうやめ! そんなもん続けたら、あんたがもたへん!」
シルフが駆け寄ろうとする。
紅蓮が腕を伸ばし、その身体を止めた。
「離してや、紅蓮!」
「今、無理に引き離せば、首輪の魔力がフェルンへ戻るかもしれない!」
「せやからって、このまま見とれ言うんか!」
「私だって止めたい!」
紅蓮の声も震えていた。
シグマの左手から、金属が擦れ合うような音が響く。
ギシッ。
ギシギシッ。
義手の指が細かく震え、関節部分から僅かな火花が散った。
「シグマさん、手を離してください!」
黒鬼が涙を浮かべながら叫ぶ。
「私が治します! ですから、一度手を――」
「駄目だ!」
シグマは右手を上げ、近づくなと合図した。
「治癒魔法は……まだ使うな……」
「でも!」
「首輪が……反応する……」
黒鬼は杖を握りしめたまま、動けなくなる。
白鬼も唇を噛み、泣きそうな表情でシグマを見ていた。
「シグマさん……」
「あと……少しだ」
獣王石の光が強くなる。
首輪から赤黒い魔力が次々と吸い出されていく。
だが、そのたびにシグマの頭の中へ命令が響いた。
お前に意思は必要ない。
痛みを恐れろ。
主人へ従え。
捨てられたくなければ、価値を示せ。
役に立たなければ殺される。
「違う……」
シグマは歯を食いしばる。
「フェルンは……物じゃない……!」
その声に、フェルンが息を呑んだ。
「道具でも……奴隷でもない……!」
シグマの左手が首輪を強く掴む。
「一人の……女の子だ!」
獣王石から放たれた光が、治療室全体を覆った。
「うあああああっ!」
シグマの喉から、堪えきれなかった叫びが迸る。
左手の義手が大きく軋む。
首輪の赤黒い光が、一気に獣王石へ吸い込まれた。
そして。
カタン――。
乾いた音を立て、黒い首輪がフェルンの首から外れた。
二つに割れた首輪が、寝台の上へ落ちる。
「……外れた?」
フェルンが両手で首へ触れる。
そこにはもう、冷たい金属の感触はなかった。
赤黒い光も。
息を詰まらせる痛みもない。
「外れた……本当に……」
フェルンの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
その隣で、シグマの左手がゆっくりと開く。
掌には、見覚えのない魔石が握られていた。
濁った紫色。
内部では黒い靄が、生き物のように渦を巻いている。
「シグマ……?」
フェルンが顔を上げる。
シグマの身体が大きく揺れた。
左手から紫色の魔石が滑り落ちる。
「おい、シグマ!」
紅蓮が駆け寄る。
しかし、間に合わない。
シグマは力を失い、その場へ崩れ落ちた。
「シグマさん!」
「シグマ!」
「シグマはん!」
仲間たちの声が重なる。
意識が暗闇へ沈んでいく。
その直前。
冷たい義手を、フェルンの小さな両手が必死に掴んだ。
◇◇◇
身体の奥から響く鈍い痛みに、シグマはゆっくりと目を開いた。
ぼやけた視界に、白い天井が映る。
薬草の匂い。
柔らかな魔道具の明かり。
窓の外は既に暗くなっていた。
「……ここは」
掠れた声を出した瞬間。
「シグマさん!」
最初に声を上げたのは黒鬼だった。
寝台のそばに座っていた黒鬼が、椅子を鳴らしながら勢いよく立ち上がる。
長い前髪で目元は見えない。
だが、頬を伝う涙は隠せていなかった。
「黒鬼……?」
「どうして、あんな無茶をしたんですか!」
黒鬼の大声が、治療室へ響き渡る。
普段は物静かで、声を荒らげることなどほとんどない黒鬼だった。
その黒鬼が、両手を震わせながらシグマを睨んでいる。
「自分が何をしたのか、分かっているんですか!」
「首輪を外して……」
「そういうことを聞いているのではありません!」
シグマの言葉を遮り、黒鬼がさらに声を上げた。
「治癒魔法をかけても、大きな傷が見つからなかったんです! 身体に異常がないのに、ずっと苦しそうにしていて……!」
黒鬼の声が次第に掠れていく。
「何を治せばいいのかも分からなくて……このまま目を覚まさなかったら、どうしようって……」
最後まで言葉にできず、黒鬼が俯く。
握りしめた杖の上へ、涙が落ちた。
「黒鬼。すまなかった」
「謝れば終わりではありません!」
即座に怒鳴り返される。
「私たちにも相談してください! 一人で全部決めないでください!」
「ああ」
「ああ、ではありません!」
黒鬼が寝台へ身を乗り出す。
「約束してください!」
「……約束する」
「絶対ですからね!」
「分かった」
反対側から、シグマの右手を握る力が強くなった。
「うぅ……シグマさんの馬鹿……」
白鬼が手を握ったまま、泣きじゃくっている。
「全然、目を覚まさないんですもん……」
「白鬼も、すまない」
「私も怒っています!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、白鬼が頬を膨らませた。
「せっかく黒鬼が一生懸命治そうとしているのに、治せない苦しみばかり受けて……!」
「悪かった」
「本当に、目を覚まさなかったら……」
白鬼は言葉を詰まらせ、シグマの手へ額を押しつける。
「もう絶対に、あんなことをしないでください……」
「それは……」
「そこはすぐに約束するところです!」
白鬼と黒鬼の声が重なる。
「同じ状況になったら、たぶんまた助ける」
「シグマさん!」
二人の怒声が、再び綺麗に重なった。
その直後、シグマの額に軽い衝撃が走る。
「痛っ」
紅蓮が拳で、シグマの頭を小突いていた。
強くはない。
だが、いつも冷静な紅蓮の目にも涙が滲んでいる。
「少しは残される側の気持ちを考えろ」
「紅蓮……」
「フェルンを助けたことを責めるつもりはない。私も、あの首輪は外すべきだったと思っている」
紅蓮はもう一度、シグマの額を小突く。
「だが、なぜ一人で全てを背負おうとする?」
「他に方法がなかった」
「方法がないから相談しなくていい、という話にはならない」
「……その通りだ」
「お前が倒れたあと、私たちがどれほど不安だったか分かるか?」
シグマは答えられなかった。
紅蓮は唇を噛み、僅かに顔を背ける。
「二度と目を開けないのではないかと思った」
「すまない」
「だから、謝るだけで終わらせるな」
「次からは必ず相談する」
「本当だな?」
「ああ」
「ほんまやろな!」
今度はシルフが、寝台の反対側から顔を覗き込んできた。
目元は真っ赤に腫れ、頬には涙の跡が残っている。
「いつもいつも、一人で勝手に決めて、勝手に無茶して! うちらは何のために一緒におるんや!」
「シルフまで……」
「『シルフまで』って何や!」
シルフが寝台の縁を叩いた。
「うちが一番まともなこと言うとるやろ!」
「それはどうだろう」
「今そこ疑うところちゃうやろ!」
シルフは腕で乱暴に涙を拭う。
「ほんまに心配したんやからな! もうちょいで、目ぇ覚ますまで耳元で駄洒落を言い続けるところやったんやで!」
「危うく永遠に目を覚ませなくなるところだった」
「誰の駄洒落が呪術より危険や!」
涙声のまま叫ぶシルフを見て、シグマは小さく息を吐いた。
怒られている。
責められている。
それでも、不思議と胸の奥は温かかった。
自分が倒れたことを心配してくれる者がいる。
目を覚ましたことを、泣いて喜んでくれる者がいる。
「本当に、すまなかった」
シグマは四人の顔を順番に見て、ゆっくりと頭を下げる。
「次からは、必ず相談する」
「必ずですよ」
黒鬼が念を押す。
「ああ」
「一人で決めませんね?」
白鬼が確認する。
「分かった」
「無茶せえへんな?」
「できる限り」
「そこは絶対やろ!」
シルフが即座に声を上げる。
そのやり取りの途中で、シグマはあることを思い出した。
「フェルンは?」
部屋の中を見回す。
「首輪は外れたのか? そのあと、何か異常は――」
「ここに……います」
小さな声が、部屋の片隅から聞こえた。
棚の陰から、銀色の獣耳がゆっくりと覗く。
フェルンは壁際で身体を縮め、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
首にあった黒い輪は消えている。
手首と足首の枷も外され、擦り傷があった場所には白い包帯が巻かれていた。
「フェルン」
シグマの肩から力が抜ける。
「無事だったんだな」
フェルンは小さく頷いた。
「首輪は、もう痛くないです」
「手足の枷も外れたのか」
「ドノバンさんが、切ってくれました」
首輪が無力化されたあと、普通の鉄製だった枷は工具を使って取り外されたらしい。
「そうか」
シグマは安堵の息を吐いた。
「よかった」
フェルンはその言葉を聞くと、さらに申し訳なさそうに俯く。
「でも……」
「どうした?」
「私のせいで、シグマが倒れました」
「フェルンのせいじゃない」
「私が首輪をつけていたから……」
「フェルンが自分でつけたわけじゃないだろう」
「でも……」
「悪いのは、フェルンへ首輪をつけた者だ」
シグマははっきりと言い切った。
「フェルンが責任を感じる必要はない」
フェルンは唇を結ぶ。
まだ納得できていない様子だった。
それでも、それ以上は自分を責める言葉を口にしなかった。
シグマが目を覚ましたことを確認すると、バルガスとドノバンは紫色の魔石を持って部屋を出ていった。
魔石は何重もの布で包まれ、魔力を遮断する金属製の箱へ厳重に収められている。
治療師も、シグマをしばらく休ませるよう言い残し、席を外した。
室内には、シグマたちとフェルンだけが残る。
扉が閉まったあと、紅蓮が静かに口を開いた。
「シグマ」
「ああ」
「先ほどの力について聞かせてもらう」
紅蓮の視線が、シグマの左手へ向けられる。
「首輪の魔力を吸い取り、魔石へ変えていたな」
シルフたちも、真剣な表情でシグマを見る。
「お前の義手には、一体何が嵌め込まれている?」
シグマはすぐには答えなかった。
左手をゆっくりと持ち上げる。
獣王石の光は収まり、今は何事もなかったかのように沈黙している。
この石の力を、人前で使ったのは初めてだった。
いつかは知られる可能性があると思っていた。
だが、これほど早く説明することになるとは思っていなかった。
「この石の力を知ったのは、紅蓮たちと出会う前だ」
長い沈黙のあと、シグマはゆっくりと話し始めた。
「ディアグランディアに、フォスタリカ村という小さな村がある」
「フォスタリカ村?」
紅蓮が聞き返す。
「ああ。しばらくそこで、村外れに住む老夫婦の世話になっていた」
シグマの脳裏に、小さな村で過ごした日々が浮かぶ。
「爺さんは元兵士で、武芸に詳しい人だった」
「そこで、今の戦い方を習ったのか?」
「ああ」
シグマは壁際へ立てかけられた黒鞘の刀を見る。
「この刀は、俺が抜こうとしても抜けないことがある。だから、刀に頼らず戦う方法が必要だった」
「それで格闘術を?」
「爺さんから基礎を教わった」
紅蓮が納得したように頷く。
「婆さんは元魔術師だった。魔石や魔道具に詳しく、鑑定の魔法も使えた」
シグマは右手と左手を交互に見る。
「この二つの石の名前と、力の使い方を教えてくれたのも、その人だ」
「二つの石に、名前があるのですか?」
黒鬼が尋ねる。
「右手に嵌められているのが炎帝石。左手にあるのが獣王石だ」
「炎帝石と、獣王石……」
白鬼が小さく繰り返す。
「獣王石は、触れた魔力を吸収する。吸い取った魔力は、さっきのように魔石へ変わる」
「魔力なら、何でも吸い取れるん?」
シルフが左手を見ながら尋ねる。
「全てかどうかは分からない。俺自身、この力を完全に使いこなせているわけじゃない」
「それなら、どうしてシグマさんがあれほど苦しんだのですか?」
黒鬼の声には、まだ僅かな怒りが残っていた。
「この石の力を使うには、必ず対価が必要だからだ」
「対価?」
「吸収した魔力の性質に応じた痛みを受ける」
シグマは左手を握る。
「炎なら、身体を焼かれるような痛み。氷なら、身体の内側まで凍るような痛み。雷なら、全身を電撃が駆け抜けるような痛みだ」
「そんなん、吸収できても意味ないやん……」
シルフの顔が引きつる。
「今回は服従を強いる呪術だった」
シグマは首元へ手を当てた。
赤黒い痣は薄くなっていたが、締めつけられる感覚はまだ僅かに残っている。
「呪術の場合は、その呪いが相手へ与えるはずだった苦痛を受けるらしい」
「では、フェルンさんが受けるはずだったものを……」
「ああ。俺が代わりに受けた」
黒鬼が杖を強く握りしめる。
「だから治癒魔法が効かなかったのですね」
「傷そのものではなく、呪いによる苦痛だったからだと思う」
「炎帝石の方はどうなん?」
シルフが、今度は右手へ視線を向ける。
「前に魔石の力を使っとったけど、あっちにも対価があるんか?」
「ああ」
シグマは右手を持ち上げた。
「炎帝石は、取り込んだ魔石の属性を力として放つ。その代わり、放った属性の威力の一部が俺にも返ってくる」
「どのくらいだ?」
紅蓮が尋ねる。
「婆さんの鑑定では、およそ十分の一だと言っていた」
「十分の一……」
紅蓮の表情が険しくなる。
「炎を放てば、お前自身も炎のダメージを受けるということか」
「ああ」
「そないなもん、どっちも使えへんやん!」
シルフが声を上げる。
「敵を倒す前に、自分まで倒れてまうやろ!」
「普通ならそうかもしれない」
「普通なら?」
「俺には、僅かだが再生能力がある」
その言葉に、シルフと紅蓮が目を見開いた。
「再生能力?」
「初耳だぞ」
「大きな傷を一瞬で治せるほどではない。ただ、軽い傷なら普通よりも早く塞がる」
シグマは自分の胸元へ手を置く。
「ある程度の属性による傷なら、時間を置けば回復できる」
「ある程度って、どの程度や?」
「それは俺にも分からない」
「一番あかん答えやん!」
シルフが頭を抱えた。
「自分でも限界の分からん力を使っとったんか!」
「一応、加減はしている」
「さっき気絶した奴が言うても説得力ないわ!」
シグマは言い返せず、僅かに視線を逸らした。
「白鬼、黒鬼」
紅蓮が双子へ顔を向ける。
「お前たちは知っていたのか?」
「いえ、聞いてはいませんでした」
白鬼が答えた。
「でも、なんとなくおかしいとは思っていました」
「私もです」
黒鬼も小さく頷く。
「治癒魔法をかける前から、傷口が塞がり始めていたことが何度かありました」
「気づいていたのか」
「シグマさんが話したくないことなら、無理に聞くべきではないと思っていました」
黒鬼はそう答えたあと、少し声を強くする。
「ですが、危険な力なら話は別です」
「そうですよ」
白鬼も続けた。
「私たちは一緒に戦う仲間です。倒れてから初めて知るのは嫌です」
「……すまない」
「どうして黙っていた?」
紅蓮が静かに尋ねる。
「私たちを信用できなかったのか?」
「違う」
シグマはすぐに否定した。
「この石の力を知る者が増えれば、それだけ危険も増える。石を欲しがる者が現れるかもしれない」
「それだけか?」
紅蓮の問いに、シグマの言葉が止まった。
左手の獣王石。
右手の炎帝石。
力を使いすぎれば、その先に何が起こるのか。
フォスタリカ村の老女から警告された、最も危険な秘密。
それだけは、今ここで話すつもりはなかった。
シグマの沈黙を、紅蓮は見逃さなかった。
「他にも何かあるのだな」
「……」
「シグマ」
「今、話せるのはここまでだ」
紅蓮の目が細められる。
シルフも、白鬼も黒鬼も、シグマが何かを隠していることに気づいていた。
「話せない理由がある」
シグマは四人の顔を見る。
「信用していないわけじゃない。それだけは信じてほしい」
長い沈黙が流れる。
やがて紅蓮が、小さく息を吐いた。
「分かった。今はこれ以上聞かない」
「紅蓮……」
「ただし、危険が迫ったときは必ず話せ」
紅蓮はシグマの左手を真っ直ぐに見る。
「お前一人の問題では済まなくなる前にな」
「分かった」
「今度こそ本当だな?」
「ああ」
難しい話が続いていた。
魔力。
魔石。
炎帝石。
獣王石。
力を使うための対価。
再生能力。
フェルンは部屋の片隅に立ったまま、会話へ入れずにいた。
自分がここにいていいのか分からない。
誰も追い出そうとはしない。
命令する者もいない。
それが、かえって不安だった。
何をすれば正解なのか。
どこに立てば怒られないのか。
誰の許可を取れば動いていいのか。
何も分からない。
フェルンの視線が、寝台の上にいるシグマへ向く。
この中で最初に、自分を道具ではないと言った人。
自分の首輪を外すために、倒れるほどの痛みに耐えた人。
フェルンは迷いながら、ゆっくりと寝台へ近づいた。
一歩。
さらに一歩。
途中で何度も立ち止まる。
紅蓮の顔を見る。
シルフを見る。
白鬼と黒鬼を見る。
誰も止めないことを確認してから、シグマのそばへ立った。
「フェルン?」
シグマが声をかける。
フェルンは答えなかった。
ただ、布団の外へ出ていたシグマの左手へ、自分の手を重ねる。
そして、壊れ物へ触れるように、そっと握った。
「……」
白鬼の眉が僅かに動く。
黒鬼も前髪の奥から、二人の手を見つめている。
二人とも一瞬だけ不満そうに頬を膨らませた。
しかし、フェルンの不安そうな顔を見ると、何も言わなかった。
「どうした?」
シグマが尋ねる。
「……難しいことは、分かりません」
「ああ」
「でも、シグマが痛かったことは分かります」
フェルンの指に力が入った。
「私の首輪を外したから、痛くなったんですよね」
「俺が自分で決めたことだ」
「どうして?」
「放っておけなかった」
「知らない奴隷なのに?」
「フェルン」
シグマは少女の手を握り返す。
「お前は奴隷じゃない」
フェルンの身体が強張った。
「首輪は外れた。枷もない。もう誰かの持ち物ではない」
「でも……」
「それに、知らない相手でもない」
シグマはフェルンの目を見る。
「名前を教えてくれただろう」
「……名前だけです」
「それで十分だ」
「家も、家族もありません」
「今は話したくないんだろう?」
フェルンの瞳が揺れる。
「無理に聞かない」
「どうして……」
「言いたくないことは、誰にでもあるからだ」
フェルンは俯いた。
シグマの手を握る指が、小さく震えている。
「私、役に立たないです」
「役に立つ必要はない」
「働かなくても?」
「ああ」
「言うことを聞かなくても?」
「危険なことをしようとしたら止める。だが、何でも命令を聞く必要はない」
フェルンは困ったように眉を寄せる。
「じゃあ……私は何をすればいいの?」
「まずは身体を治す」
「そのあとは?」
「腹が減っているなら、何か食べる」
「そのあとは?」
「眠ければ眠る」
「それだけ?」
「ああ」
フェルンはシグマの顔をじっと見つめる。
冗談を言っているのか。
騙そうとしているのか。
その答えを探しているようだった。
「何もしなくても、怒られない?」
「怒らない」
「食べても?」
「食べなければ、そちらの方が心配だ」
「眠っている間に、箱へ戻さない?」
「戻さない」
「本当に?」
「ああ」
フェルンの目から、また一粒だけ涙が落ちた。
「私……」
言葉が途切れる。
「シグマが目を覚まさなかったら、また箱に入れられると思いました」
「……」
「ここの人たちは、怖くないのかもしれません。でも、シグマがいなくなったら、誰も守るって言ってくれなくなると思って……」
「そんなことはありません」
黒鬼が静かに口を開いた。
先ほどまでの怒りは消え、普段の優しい声へ戻っている。
「シグマさんが目を覚まさなくても、あなたを箱へ戻したりしません」
「そうですよ」
白鬼もフェルンへ微笑みかけた。
「私たちは、そんな酷いことをしません」
「うちかて、子供を箱に押し込むような趣味はあらへん」
シルフが胸を張る。
「シグマが寝とっても、うちらがおる。安心し」
「シルフは時々頼りないが、私もいる」
紅蓮が真顔で付け加えた。
「ちょっと待ちぃ!」
シルフが勢いよく振り返る。
「なんでうちだけ頼りない扱いやねん!」
「日頃の行いだ」
「紅蓮にだけは言われたないわ!」
「私はお前よりも落ち着いている」
「酒飲んだら一緒やろ!」
「今その話は関係ない!」
二人のやり取りを見て、フェルンが僅かに目を丸くする。
大きな声。
言い争うような口調。
だが、剣を抜く者はいない。
殴られる者もいない。
床へ頭をつけて謝る者もいない。
ただ互いに、遠慮なく言葉を返しているだけだった。
フェルンの獣耳が、ほんの少しだけ持ち上がる。
唇の端も、気づかないほど僅かに緩んだ。
「フェルン」
シグマが呼ぶ。
「まだ怖いなら、手は離さなくていい」
「……いいの?」
「ああ」
フェルンは小さく頷いた。
そして先ほどより少しだけ力を抜き、シグマの手を握り続ける。
白鬼と黒鬼が再び一瞬だけ頬を膨らませたが、今度も何も言わなかった。
そのとき、治療室の扉が叩かれた。
「入るぞ」
バルガスが一人で部屋へ戻ってくる。
その表情は険しかった。
「シグマ。起きたばかりのところ悪いが、積荷について確認できたことがある」
「何か分かったのか?」
「ああ」
バルガスは扉のそばで足を止めた。
フェルンが怯えていることに気づき、必要以上に近づこうとはしない。
「あの馬車に積まれていた荷物は、出発したときから大箱一つだけだった。それは間違いないのだな?」
「ああ」
紅蓮が頷く。
「道中で荷物を増やしたことはない。積み直したこともなかった」
「シグマたち以外にも、御者と関所兵へ確認した。道中で箱が増減した形跡はない」
バルガスは腕を組み、険しい表情を浮かべる。
「箱の外側にも、最近になって無理やり開けられたような痕跡はなかった」
「では、フェルンは出発する前から中にいた可能性が高いのか?」
シグマの問いに、バルガスが頷いた。
「断定はできん。だが、今ある情報だけで判断するなら、その可能性が最も高い」
フェルンの手に力が入る。
シグマは少女の変化に気づき、その小さな手を握り返した。
「箱の出所は分かるのか?」
「ここでは分からん」
バルガスは首を振る。
「荷札に不審な点はなかった。だが、誰が箱を用意し、誰の指示で積み込まれたのかまでは、関所の人間には調べようがない」
「それを知っているのは……」
紅蓮が呟く。
「少なくとも、あの箱をどこから受け取り、誰の依頼で運ばせたのかは、レイラ殿が知っているはずだ」
バルガスの言葉に、シグマたちの表情が引き締まる。
今回の護衛任務を依頼した商人、レイラ。
彼女は今、この関所にはいない。
リッドガルにあるフォックス商会に残っている。
「レイラさんが、箱の中身を知っていたと思うか?」
シグマが尋ねた。
「それは分からん」
バルガスは慎重に答える。
「最初から知っていた可能性もある。中身を知らされず、別の誰かから預かった可能性もある」
「せやけど、知らんかったで済む話やないで」
シルフの声から、いつもの軽さが消えていた。
「子供が首輪と枷をつけられて、箱に詰められとったんや」
「だからこそ、決めつける前に話を聞く必要がある」
紅蓮が静かに言う。
「最初から犯人と決めつければ、本当に必要な情報まで聞き逃すかもしれない」
「分かっとる」
シルフは不満そうに唇を尖らせる。
「せやけど、聞きたいことは山ほどあるで」
「俺も同じだ」
シグマは左手へ視線を落とした。
誰がフェルンへ首輪をつけたのか。
誰が枷を嵌め、箱へ閉じ込めたのか。
何のために、あの少女を運ぼうとしていたのか。
「リッドガルへ戻ったら、フォックス商会へ行く」
シグマが身体を起こそうとする。
「駄目です」
黒鬼が即座に肩を押さえた。
「今、目を覚ましたばかりです」
「すぐに行くとは言っていない」
「今の動きは、すぐに出発しようとしていました」
「話を聞くだけだ」
「レイラさんは、ここにはいません」
「……分かっている」
「分かっている人は、寝台から起き上がろうとしません」
黒鬼の声は穏やかだったが、拒否を許さない強さがあった。
「まずは身体を休めてください」
「黒鬼の言う通りだ」
紅蓮も厳しい表情で続ける。
「今のお前では、馬車に乗ることすら難しい」
「そこまでではない」
「ほな、立ってみるか?」
シルフが腕を組み、挑むようにシグマを見る。
「倒れたら、うちの言うことを一日何でも聞いてもらうで」
「それはやめておく」
「即答かい!」
「自分の身体を大切にする判断だ」
「うちの言うことを聞く方が、呪いより怖いみたいに言うなや!」
シグマは小さく息を吐き、身体を寝台へ戻した。
「分かった。今は休む」
「最初からそうしてください」
黒鬼が安堵したように息を吐く。
フェルンは会話を聞きながら、不安そうにシグマの手を握り続けていた。
「フェルン」
「……はい」
「身体が動くようになったら、俺たちはリッドガルへ戻る」
フェルンの身体が僅かに強張る。
「箱について、レイラさんから話を聞くことになる」
「私も……何か、聞かれますか?」
「無理に話す必要はない」
「でも……」
「話せることだけでいい。言いたくないことは、まだ言わなくてもいい」
フェルンは黙り込み、シグマの手元へ視線を落とした。
「私は……」
声が僅かに震える。
「一緒に行っても、いいですか?」
「ああ」
「一人で、ここに置いていかない?」
「置いていかない」
「本当に?」
「約束する」
シグマが答えると、フェルンは小さく頷いた。
握っていた手から、少しだけ余計な力が抜ける。
レイラは、箱の中身を知っていたのか。
あの大箱を、どこで誰から受け取ったのか。
誰の依頼で、何のために運ぼうとしていたのか。
そしてフェルンは、なぜ自分の素性を必死に隠しているのか。
答えはまだ、関所にはない。
シグマは左手に残る鈍い痛みに耐えながら、フェルンの小さな手を握り返した。
まずは身体を休める。
そしてリッドガルへ戻ったら、仲間たちと共にフォックス商会へ向かう。
あの大箱が、どのような経緯で馬車へ積み込まれたのか。
レイラの口から、全てを聞くために。




