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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第七話 ワイバーン討伐

8月25日改訂

ハクについて違和感があったので改訂

 森を抜けたシグマたちの前に、どこまでも広がる緑の草原が姿を現した。


 腰ほどの高さまで伸びた草が風を受け、波のように揺れている。


 遠くには緩やかな丘が連なり、そのさらに奥には、陽光を反射する一本の川が見えていた。


「この先やな」


 シルフが額に手を当て、草原の向こうを眺める。


 先ほどまで楽しげにハクの背に乗っていた白鬼と黒鬼も、今は表情を引き締めていた。


 今回の標的は、付近に棲みついた幼いワイバーン。


 依頼書に書かれていた情報では、まだ飛ぶことにも慣れていない幼体であり、経験の浅い冒険者でも複数人で挑めば討伐できる程度とされていた。


 だが、情報が正しいとは限らない。


 魔物は生き物だ。


 食料や周囲の魔力濃度によっては、わずかな期間で急激に成長することもある。


 シグマは隣に立つハクへ視線を向けた。


「ハク。先に見てきてくれるか」


『分かった』


 低く落ち着いた声が、シグマの頭の中に直接響く。


 ハクは一度だけ身を沈めると、白銀の残影を残して草原を駆け出した。


「相変わらず速いな」


 紅蓮が目を細める。


 巨大な身体を持つにもかかわらず、ハクの足音はほとんど聞こえなかった。


 草をわずかに揺らしながら、その姿はあっという間に丘の向こうへと消えていく。


 シグマたちは草原の窪地へ身を隠し、その帰りを待った。


 風が草を撫でる音だけが、静かに耳へ届く。


 やがて白鬼が落ち着きをなくしたように、ハクが消えた方向を何度も覗き込んだ。


「遅くない?」


「まだ、それほど時間は経ってないよ」


 黒鬼が小さな声で宥める。


「でも、ハクちゃんに何かあったら……」


「ハクが簡単にやられるわけないやろ。それより、あんたが飛び出していったら余計に危ないで」


 シルフが白鬼の肩を軽く叩く。


 白鬼は不満そうに頬を膨らませたものの、それ以上は何も言わなかった。


 しばらくして、丘の向こうから白銀の巨体が姿を現した。


 ハクは周囲を警戒しながらシグマたちのもとへ戻り、その場で静かに立ち止まる。


 シグマがハクの首元へ手を添えた。


「どうだった?」


『確かにワイバーンだ。まだ若い』


 そこまで聞き、シグマはわずかに息を吐く。


 だが、続く言葉で表情が変わった。


『ただし、聞いていた大きさとは違う。翼を広げれば、端から端まで十五メートル近くある』


「十五……?」


『周囲には食い荒らされた魔物の骨が多く残っていた。数日の間に、かなり成長したのだと思う』


 幼体と呼ぶには大きすぎる。


 少なくとも、初心者が集まって倒せる相手ではない。


 シグマは立ち上がり、四人へ状況を伝えた。


「翼を広げれば十五メートル近くあるらしい。依頼書に書かれていた大きさより、明らかに育ってる」


「十五メートル……」


 黒鬼の顔が強張る。


 白鬼も口を閉ざし、先ほどまでの落ち着かない様子が消えていた。


 紅蓮は腕を組み、しばらく草原の先を睨む。


「情報が古かったってことか。それとも、依頼を出した奴らが成長速度を見誤ったか」


「どちらにしても、今の情報だけで突っ込むのは危ない」


 シグマの言葉に、紅蓮はゆっくりと頷いた。


「もう少し詳しく見ておきたい。戦うか、撤退するかを決めるにしても、相手の状態を直接確認する必要がある」


「俺とハクで行く」


「アタシも行くよ」


 紅蓮が即座に答えた。


 シグマは少し考えた後、頷く。


「分かった。三人で行こう」


「うちも行くで!」


「私も!」


「わ、私も……」


 当然のように名乗りを上げた三人に、シグマは首を横に振った。


「駄目だ」


「なんでや!」


「相手は飛竜だ。視力も聴覚も人間より鋭い。気配を完全に消せない人数が増えるほど、見つかる可能性が高くなる」


「うちは勇者やで? 気配くらい――」


「消せるのか?」


「……多少は小さくできる」


「完全には?」


「できへんけど」


「なら待っていてくれ」


 シルフは反論しようと口を開いたが、シグマの真剣な眼差しを受け、渋々口を閉じた。


「偵察だけだ。戦闘になりそうなら、すぐに戻る」


「絶対やで」


「ああ」


 シグマと紅蓮は身体を低くし、ハクの後を追って草原を進んだ。


     ◇


 ワイバーンは、川沿いの河原にいた。


 大きな岩陰に身を隠したシグマと紅蓮は、数十メートル先の光景を見て言葉を失った。


 灰褐色の鱗に覆われた巨大な身体。


 前脚と一体になった翼は傷だらけで、皮膜の一部が濃い赤に染まっている。


 頭部からは後方へ湾曲した角が二本伸び、長い尾の先には硬質な棘が並んでいた。


 ワイバーンは河原で捕らえたらしい大型の獣へ牙を突き立て、肉を引き裂いている。


 顎が動くたび、骨の砕ける鈍い音が響いた。


 幼体ではない。


 少なくとも、すでに成長期へ入っている。


 完全な成体と比べればまだ小さいが、放置すれば遠くないうちに周辺の生態系を食い尽くし、人里まで餌を求めて飛んでくるだろう。


「……依頼書と違いすぎる」


 紅蓮が声を潜める。


「あれが街まで飛んだら、家畜だけじゃ済まない」


「ああ」


「ここで倒すしかないか」


 シグマはワイバーンの翼、脚、首、尾の順に観察する。


 鱗は厚い。


 正面から攻撃しても、並の武器では弾かれるだろう。


 弱点となるのは、翼の皮膜、関節、眼、口内。


 そして鱗の薄い腹部。


 だが、最も危険なのは空へ逃げられることだった。


 一度飛び立たれれば、地上から攻撃できる者は限られる。


「飛んだら不利になる」


「そうだな。空から襲われ続けたら、守るだけで精一杯だ」


『風向きが変わる』


 ハクの声がシグマの頭の中へ響く。


 シグマはすぐに指を立て、紅蓮へ後退を促した。


 こちらの匂いがワイバーンへ流れる前に、二人と一匹は静かにその場を離れた。


     ◇


 三人のもとへ戻ると、シグマは地面へ簡単な地図を描いた。


 河原。


 川。


 周囲の岩場。


 そしてワイバーンの位置。


「やっぱり戦うんやな」


 シルフが弓を握り直す。


「ああ。ただし、絶対に空へ飛ばせない」


 シグマはシルフへ顔を向けた。


「どのくらいの距離なら、翼を狙って射抜ける?」


「止まっとる相手か?」


「ああ」


 シルフは迷うことなく答えた。


「千メートル」


「……は?」


 紅蓮が間の抜けた声を出す。


「いや、確実に当てるなら七百メートルくらいやな」


 白鬼と黒鬼も目を丸くする。


 一般的な弓兵が狙った場所へ正確に矢を当てられるのは、百メートル前後。


 腕の立つ者でも二百メートル。


 弓の名手と呼ばれる者でさえ、三百メートル先の標的を射抜くのは容易ではない。


 それを倍以上離れた七百メートルから確実に狙うという。


「お前、すごかったんだな」


 シグマが素直に感心すると、シルフの眉がぴくりと動いた。


「ちょい待ち。今までうちのこと、なんやと思っとったん?」


「騒がしい勇者」


「そこはせめて、かわいくて頼りになる勇者とか言うところやろ!」


「今は見直した」


「今はってなんやねん!」


 シルフは怒ったように声を上げたが、すぐに堪えきれず笑い出した。


「まあ、ワイバーンみたいなでかい相手やから七百や。人間くらいの大きさなら、確実なんは四百くらいやな」


「四百でも十分おかしい」


 紅蓮が呆れたように呟く。


「それなら作戦が立てられる」


 紅蓮は地面の図へ二本の線を引いた。


「作戦は二つだ」


 皆の視線が紅蓮へ集まる。


「まず一つ目。シルフが遠距離から翼を射抜く。成功したら、そのままシグマとハクが正面から注意を引く。アタシと白鬼が左右から攻撃。黒鬼は後方で防御と治療を担当する」


「分かった」


 黒鬼が小さく頷いた。


「二つ目。矢を外した場合、あるいは翼を完全に潰せなかった場合だ」


 紅蓮はハクへ視線を向ける。


「黒鬼とシルフがハクの背に乗る。黒鬼が防壁を張り、ハクに走って距離を詰めてもらいながら、シルフがもう一度翼を狙う。翼を撃ち抜いて空中から地上へ叩き落とす」


「ハクに乗って追撃か! ええな!」


「遊びじゃないよ」


「分かっとるって!」


 シルフは笑っていたが、その瞳には戦士としての鋭い光が宿っていた。


「白鬼」


「うん」


「アンタの魔法は鱗に弾かれる可能性が高い。関節か、口を開いた瞬間を狙いな」


「任せて」


「黒鬼は無理に攻撃しなくていい。全員を生きて帰すことだけ考えて」


「……絶対に、誰も死なせない」


 黒鬼は胸元で杖を握り、静かに答えた。


 最後に紅蓮がシグマを見る。


「シグマとハクが一番危険な役目になる。それでもいいかい?」


「ああ」


『問題ない』


 ハクの声がシグマの頭の中へ響く。


 シグマはハクを一度見てから、紅蓮へ視線を戻した。


「ハクも問題ないそうだ」


 迷いのない返事だった。


 紅蓮は皆の顔を順番に見渡す。


「それじゃあ、始めるよ」


     ◇


 シルフは河原を見下ろせる小高い丘へ登った。


 身体が草に隠れる位置で片膝をつき、静かに弓を構える。


 七百メートル先。


 肉眼では、ワイバーンの姿は小さな影にしか見えない。


 それでもシルフの黄緑色の瞳は、翼の皮膜に走る血管まではっきりと捉えていた。


 風が頬を撫でる。


 草が揺れる。


 シルフは指先へ意識を集中させた。


「風よ……ちょいと力、貸してや」


 矢の周囲へ淡い緑色の風が集まり始める。


 一方、シグマたちは岩場と草むらを利用し、少しずつワイバーンを包囲していた。


 正面にシグマとハク。


 右側に紅蓮。


 左側に白鬼。


 黒鬼は全員を見渡せる後方へ位置取る。


 ワイバーンが肉を飲み込み、ふと頭を上げた。


 鼻先が動く。


 長い首がゆっくりと周囲を見回す。


 何かがおかしいと気づいたのだ。


 その瞬間だった。


「そこや!」


 シルフの指が弦から離れる。


 弦を弾く音は小さかった。


 しかし放たれた矢は風を纏い、空気を切り裂きながら一直線に飛んでいく。


 途中で勢いを失うどころか、風を吸収するように加速する。


 ワイバーンが異変へ気づき、翼を広げた。


 だが、遅い。


 風を纏った矢が翼の皮膜を貫通した。


 さらに矢の周囲で圧縮されていた風が弾け、翼に人の頭ほどもある穴を穿つ。


「グギャアアアアアアッ!」


 ワイバーンの絶叫が草原を震わせた。


 慌てて地面を蹴り、飛び立とうとする。


 しかし穴の開いた翼では十分な揚力を得られない。


 巨体は数メートル浮かび上がっただけで傾き、河原へ激しく転倒した。


「行くぞ!」


 シグマが駆け出す。


 同時にハクが地面を蹴り、白銀の弾丸となってワイバーンへ突進した。


 ワイバーンが起き上がるより先に、ハクの前脚が横顔を捉える。


 重い衝撃音とともに頭部が地面へ叩きつけられた。


 シグマはハクの横を駆け抜け、土魔法を発動する。


「地杭!」


 地面から突き出した複数の岩杭が、ワイバーンの脚を狙う。


 だが、ワイバーンは素早く身を捻り、一本を尾で粉砕した。


 残る岩杭も鱗をわずかに削っただけで止まる。


「硬い……!」


 ワイバーンが巨大な顎を開いた。


 喉の奥で赤い光が膨らむ。


『シグマ!』


 ハクの警告と同時に、シグマは横へ飛んだ。


 直後、灼熱の炎が河原を薙ぎ払う。


 炎が草を焼き、岩の表面を赤く染めた。


 シグマが先ほどまでいた場所は黒く焦げ、地面から白い煙が上がっている。


「こっちだ!」


 シグマは立ち上がりざま、岩をワイバーンの顔面へ蹴り飛ばした。


 岩は鱗に弾かれたものの、意識を向けさせることには成功した。


 ハクも反対側から前脚へ噛みつき、すぐに離れる。


 ワイバーンは怒りの咆哮を上げ、シグマとハクを交互に追い始めた。


「グガアアッ!」


 尾が横薙ぎに振るわれる。


「ハク、下がれ!」


 シグマは右腕を前へ構え、ガントレットで尾を受け止めた。


 衝突した瞬間、腕全体へ凄まじい衝撃が走る。


「ぐっ……!」


 踏ん張った足が地面を削り、シグマの身体が数メートル押し戻される。


 受け止め切れない。


 そう判断したシグマは身体を捻り、尾の勢いを横へ流した。


「今だ!」


「任せな!」


 死角へ回り込んでいた紅蓮が、大剣を振り上げる。


 狙いは、矢によって穴の開いた翼の付け根。


「はあああああッ!」


 全身の力を乗せた一撃が、翼の関節へ叩き込まれる。


 厚い鱗が砕け、刃が肉へ食い込んだ。


 鮮血が噴き出す。


 しかし、切断には届かない。


「浅いか!」


 ワイバーンが紅蓮へ顔を向ける。


 鋭い牙が並ぶ口が大きく開いた。


「紅蓮!」


 黒鬼が杖を掲げる。


「光壁!」


 紅蓮の前へ半透明の壁が現れる。


 直後、ワイバーンの牙が光壁へ激突した。


 甲高い音とともに壁一面へ亀裂が広がる。


「くっ……!」


 黒鬼の身体が震える。


 光壁は一度こそ攻撃を防いだものの、二度目には耐えられない。


 だが、その一瞬で十分だった。


「炎槍!」


 白鬼が放った炎の槍が、開かれたままの口内へ飛び込む。


「ギャアアアアッ!」


 ワイバーンが悲鳴を上げ、紅蓮から顔を背けた。


 口の隙間から黒い煙が漏れ出す。


「効いてる!」


「喜ぶのはまだ早いよ!」


 紅蓮が叫ぶ。


 怒り狂ったワイバーンが、無事な翼を大きく振るった。


 巻き起こった突風により、紅蓮と白鬼の身体が吹き飛ばされる。


「きゃっ!」


「白鬼!」


 白鬼は地面を転がり、岩へ背中を打ちつけた。


 紅蓮も大剣を地面へ突き立て、辛うじて踏み止まる。


 ワイバーンは片方だけの翼を無理やり動かし、再び飛び上がろうとしていた。


「させへん!」


 丘から二本目の矢が放たれる。


 今度の矢は無事な翼の外側へ突き刺さった。


 しかし、角度が浅い。


 皮膜を貫いたものの、大きな穴を開けるまでには至らなかった。


「まずい!」


 ワイバーンの脚が地面を離れる。


 傷ついた翼を強引に羽ばたかせ、その巨体がゆっくりと浮き上がっていく。


「ハク!」


 シグマの声に応え、ハクが走り出した。


 飛び上がったワイバーンの真下まで駆け込むと、勢いを殺さず跳躍する。


 ハクの牙がワイバーンの後脚へ食い込んだ。


 巨体が大きく傾く。


 だが、ワイバーンは空中で尾を振り回し、ハクの脇腹へ叩きつけた。


『ぐっ……!』


「ハク!」


 ハクの身体が地面へ落下する。


 土煙が上がった。


 怒りが一瞬だけシグマの胸を満たす。


 右の義手に埋め込まれた火龍石が、鼓動するように赤く光った。


 身体の奥から熱が溢れ出す。


 視界が赤く染まりかける。


 ――壊せ。


 そんな声が、頭の奥で囁いた。


「……黙れ」


 シグマは奥歯を噛み締め、怒りを押さえ込んだ。


 ここで力に飲まれれば、仲間まで巻き込む。


 シグマは左手を地面へ突く。


「土壁!」


 ワイバーンの真下から、巨大な土の壁が斜めに突き上がった。


 飛び立とうとしていた腹部へ激突し、巨体を横へ弾き飛ばす。


 ワイバーンは空中で体勢を崩し、河原へ墜落した。


 轟音。


 地面が揺れ、砂と小石が雨のように舞い上がる。


「今しかない!」


 シグマは倒れたワイバーンへ駆け寄る。


 起き上がろうとした頭部へ飛び乗り、右拳を眼へ叩き込んだ。


 硬い瞼が拳を阻む。


 それでも構わず、二度、三度と拳を振り下ろす。


「こっちを見ろ!」


 ワイバーンは頭を激しく振り、シグマを振り落とした。


 シグマは空中で身体を捻り、片膝をついて着地する。


 直後、ワイバーンの爪が迫った。


 避けられない。


 そう思った瞬間、白い影が割って入った。


『シグマに触れるな!』


 ハクがワイバーンの首へ噛みつく。


 先ほどの一撃で脇腹から血を流しているにもかかわらず、その力は衰えていなかった。


 白銀の身体全体を使い、ワイバーンの首を地面へ押さえ込む。


「ハク、そのまま押さえろ!」


『早くしろ!』


 紅蓮が翼の付け根へ駆け寄った。


 先ほど自らがつけた傷へ、大剣の刃を深く差し込む。


「これで……終わりだ!」


 紅蓮が雄叫びを上げ、大剣を振り抜く。


 肉と骨を断つ重い感触。


 傷ついた翼が根元から切断され、地面へ落ちた。


 ワイバーンが狂ったように暴れ始める。


「黒鬼!」


「分かってる!」


 黒鬼の杖から淡い光が放たれ、シグマ、紅蓮、ハクの身体を包む。


 傷の痛みが和らぎ、消耗していた力がわずかに戻る。


 同時に白鬼がワイバーンの側面へ回り込み、杖を向けた。


「もう一度、口を開けて!」


 白鬼が炎の球を放つ。


 火球はワイバーンの鼻先で炸裂した。


 驚いたワイバーンが反射的に咆哮を上げる。


 大きく開かれた口。


「シルフ!」


「見えとる!」


 三本目の矢が放たれた。


 風を纏った矢は仲間たちの間をすり抜け、寸分違わずワイバーンの口内へ飛び込む。


 矢は喉の奥へ突き刺さり、圧縮された風が内部で弾けた。


 絶叫すら上げられず、ワイバーンの身体が激しく痙攣する。


 しかし、それでもまだ動いていた。


 尾が地面を叩き、前脚がハクの身体を引き裂こうと振り上げられる。


「シグマ!」


 紅蓮の声が響く。


 シグマはワイバーンの頭部へ駆け上がった。


 腰の刀へ手を添える。


 普段は滅多に抜かない、意思を持つ刀。


 鞘の中から、低く震える音が聞こえた。


「力を貸せ」


 刀を引き抜く。


 黒い刀身が陽光を吸い込み、鈍く輝く。


 シグマはワイバーンの片目へ刃を突き立てた。


 刃先が眼球を貫き、その奥まで深く沈む。


「終わりだ!」


 右の義手を柄頭へ叩きつける。


 刀がさらに深く入り、ワイバーンの身体が大きく跳ねた。


 やがて力を失った前脚が地面へ落ちる。


 長い尾も動きを止めた。


 河原に、静寂が戻った。


 シグマは刀を引き抜き、荒い息を吐く。


「……倒したか?」


 紅蓮が大剣を構えたまま尋ねる。


 ハクがワイバーンの首元へ鼻先を寄せ、その様子を確かめる。


『もう動かない』


 ハクの声がシグマの頭の中へ響く。


「もう動かない。倒したみたいだ」


 その言葉を聞き、全員がようやく武器を下ろした。


「やった……」


 黒鬼が力の抜けたように座り込む。


 白鬼はその隣へ駆け寄り、勢いよく抱きついた。


「勝ったよ、黒鬼!」


「う、うん……!」


「うちらの勝ちやー!」


 丘から駆け下りてきたシルフが、両手を上げて叫ぶ。


 紅蓮も大剣を地面へ置き、安心したように笑った。


「まったく。依頼書じゃ、もっと簡単な仕事のはずだったんだけどな」


「生きてるからええやん」


「そういう問題じゃないよ」


 シグマはハクの脇腹へ手を当てる。


 尾を受けた部分の毛が赤く染まっていた。


「大丈夫か?」


『この程度なら問題ない』


「黒鬼、ハクを頼む」


「うん。すぐ治す」


 黒鬼が傷へ手をかざすと、柔らかな光がハクの身体を包んだ。


 それを見届け、シグマは横たわるワイバーンを見つめた。


 苦戦した。


 誰か一人でも役割を果たせなければ、結果は違っていただろう。


 シルフが翼を射抜き。


 ハクが動きを抑え。


 紅蓮が翼を切り落とし。


 白鬼が攻撃の隙を作り。


 黒鬼が全員を守った。


 シグマ一人では、決して倒せなかった相手だった。


「どうしたん?」


 シルフがシグマの顔を覗き込む。


「いや」


 シグマは小さく首を横へ振った。


「皆がいて助かった」


 一瞬、全員が目を丸くした。


 紅蓮はすぐに笑い、白鬼と黒鬼は嬉しそうに顔を見合わせる。


 シルフは腰へ手を当て、得意げに胸を張った。


「せやろ? もっと褒めてもええんやで」


「矢はすごかった」


「矢だけかい!」


     ◇


 ワイバーンの討伐を終えた頃には、太陽が大きく傾いていた。


 今から街を目指しても、到着する頃には夜が深くなってしまう。


 暗闇の中で魔物に襲われる危険を避けるため、一行は河原で野営することにした。


 野営場所に選んだのは、川辺に生えていた一本の白木の根元だった。


 真っ白な幹と淡い銀色の葉を持つ白木は、その樹液から魔物が嫌う香りを発する。


 黒木とは性質が異なり、人には害を与えない。


 むしろ白木の周囲には魔物が近寄りにくいため、旅人や冒険者たちからは天然の安全地帯として重宝されていた。


「ここなら、夜も多少は安心できそうだな」


 紅蓮が白い幹を見上げる。


「念のため、交代で見張りはする」


 シグマの言葉に、シルフが露骨に嫌そうな顔をした。


「ハクもおるし、白木もあるんやから大丈夫やろ?」


 ハクがシルフへ視線を向ける。


『自分だけ眠るつもりか』


「ハクが、自分だけ眠るつもりかって言ってる」


「そ、そういうわけちゃうで?」


 シグマに伝えられ、シルフは気まずそうに目を逸らした。


「シルフは見張り中に寝そう」


 白鬼が笑う。


「寝えへんわ!」


「前に食堂で座ったまま寝てたよ」


「あれは飲みすぎただけや!」


「余計に駄目じゃないか」


 紅蓮が呆れたように笑った。


 シグマは皆の様子を見ながら、必要な作業を振り分ける。


「白鬼と黒鬼は薪を集めてきてくれ。乾いた枝を優先してくれればいい」


「分かった!」


「山菜も探してくるね」


 白鬼と黒鬼は籠を持ち、白木の周囲へ歩いていった。


「シルフは川で魚を捕まえてくれるか」


「任せとき! うちの腕前、見せたるわ!」


 シルフは嬉しそうに弓を担ぎ、川へ向かって駆けていく。


「それなら、アタシたちはこいつか」


 紅蓮は横たわるワイバーンを見下ろした。


「ああ。食べられる肉と、持ち帰る素材を分ける」


「竜種の解体は骨が折れそうだね」


「ワイバーンは飛竜だ。竜種とは少し違う」


「細かいね、アンタ」


 シグマと紅蓮は、ワイバーンの解体を始めた。


 まず角、爪、牙、鱗、翼膜といった価値の高い部位を切り分けていく。


 硬い鱗に刃を通すには力が必要だったが、鱗の隙間へ正確に刃を差し込めば、肉までは比較的簡単に届いた。


「この大きさじゃ、全部は持って帰れないな」


「価値の高い物だけでいい。残りは場所を記録して、ギルドに報告する」


「魔物に食われないか?」


「魔石を抜けば、他の魔物が寄ってくる可能性は下がる。それでも残っている保証はないけどな」


 シグマはワイバーンの胸部を切り開き、奥から魔石を取り出した。


 握り拳よりも大きな、赤黒い魔石。


 表面には火を思わせる光が脈打っている。


「大きいね」


「依頼書に書かれていた幼体なら、半分以下だったはずだ」


「こいつが成長してた証拠には十分か」


「ああ」


 魔石を布で包み、荷物へ収める。


 続いてシグマは、ワイバーンの腹部から比較的柔らかな肉を切り分けた。


 赤身が多く、見た目は鳥肉と獣肉の中間に近い。


「それ、食えるのか?」


「毒はない。臭みは強いけど、香草を使えば問題ない」


「料理できる奴がいると助かるよ」


「解体を手伝ってくれる奴がいるのも助かる」


 紅蓮は驚いたようにシグマを見た。


「今日はやけに素直じゃないか。頭でも打ったかい?」


「何もしてない」


「ワイバーンの尾を受け止めた時、全身に衝撃は来てただろ?」


「それで性格は変わらない」


「冗談だよ」


 紅蓮が楽しそうに笑う。


 そこへ、川の方から大きな声が響いた。


「取ったどー!」


 振り返ると、シルフが何匹もの川魚を抱えて戻ってきた。


 服の裾は水で濡れ、髪にも水滴がついている。


 しかし、その表情は誇らしげだった。


「結構捕れたな」


「せやろ!」


 シルフは抱えていた魚を地面へ並べた。


 どの魚にも頭部を正確に射抜いた、小さな穴が開いている。


「全部、矢で捕まえたのか?」


「当たり前や。川に入って手づかみするほど暇ちゃうで」


「服が濡れてるけど」


「矢を回収しようとして滑ったんや!」


「結局、川に入ってるじゃないか」


 紅蓮が笑うと、シルフは顔を赤くした。


「そ、それは事故や!」


「魚を撃ち抜く腕はすごいのに、最後が締まらないな」


 シグマが言う。


「うるさいわ!」


 やがて白鬼と黒鬼も、大量の薪を抱えて戻ってきた。


 籠の中には食べられる山菜やキノコも入っている。


「いっぱい見つけたよ!」


「毒のある物は入れてないと思うけど、シグマにも確認してほしい」


「分かった」


 シグマは山菜を一つずつ確認し、食べられる物と避けるべき物を分けた。


「この紫色のキノコは食べない方がいい」


「毒キノコ?」


「食べると、半日くらい笑いが止まらなくなる」


「面白そうやん」


 シルフがキノコへ手を伸ばす。


 その手を白鬼と黒鬼が同時に叩いた。


「駄目!」


「食べないでください!」


「冗談やって!」


「シルフなら本当に食べそうだから信用できない」


 白鬼は紫色のキノコを遠くへ投げ捨てた。


「食材で遊ぶなや!」


「食材じゃないよ!」


 騒ぐ三人を横目に、シグマは焚き火の準備を進める。


 石を円形に並べ、その中央へ乾いた草と細い枝を置く。


 火打ち石で火花を散らすと、小さな炎が生まれた。


 黒鬼が風を送らないよう慎重に太い薪を足していき、焚き火は少しずつ大きくなっていく。


 シグマは切り分けたワイバーンの肉へ塩と香草を擦り込み、平たい石の上へ並べた。


 肉が焼け始めると、脂が弾ける音が響く。


 香ばしい匂いと香草の爽やかな香りが混ざり、辺りへ広がった。


「お腹空いた……」


 白鬼が肉をじっと見つめる。


「まだだ」


「少しくらい味見してもいいよね?」


「さっき生の山菜を味見してたな」


「あれは食べられるかの確認!」


「黒鬼が確認してたのに?」


「二重確認は大切なの!」


 白鬼が真剣な表情で言い切る。


 その隣で黒鬼は申し訳なさそうに俯いた。


「ご、ごめんなさい。止めたんだけど……」


「黒鬼も一緒に食べてたよね?」


「白鬼が口に入れてきたから……!」


「仲良しやなあ」


 シルフが微笑ましそうに笑う。


「そういうシルフは何をしてるんだ?」


 紅蓮が尋ねる。


 シルフは川魚の鱗を丁寧に取り除き、内臓を抜いていた。


 手つきは思った以上に慣れている。


「魚の煮付けや」


「煮付け?」


「せっかく調味料も持ってきとるんや。焼くだけやともったいないやろ」


 シルフは小さな鍋へ水を入れ、乾燥させた香草と調味料を加える。


 そこへ下処理をした魚を並べ、弱火へかけた。


 紅蓮、白鬼、黒鬼の三人が、揃って目を丸くする。


「シルフが料理してる……」


「なんや、その反応」


「てっきり魚を丸ごと火へ投げ込むのかと」


 紅蓮が正直に答える。


「うちをどんな野生児やと思っとんねん!」


「騒がしい勇者」


 シグマが淡々と言う。


「シグマまで!」


「弓しか使えないと思ってた」


「勇者をなんやと思っとるんや!」


「弓を使う人」


「間違ってへんけど、なんか腹立つ!」


 シルフは頬を膨らませながらも、鍋の火加減を細かく調節している。


 魚へ煮汁を何度もかけ、味が均等に染み込むようにしていた。


「ずいぶん手慣れてるな」


 シグマが言う。


「旅が長いからな。自分で料理できへんかったら、毎日干し肉と固いパンになるで」


「それは辛いな」


「せやろ? うちかて、ちゃんと生活力あるんや」


 シグマはもう一つの鍋へ水を入れ、白鬼と黒鬼が採ってきた山菜を加えた。


 乾燥肉と塩で味を整え、しばらく煮込む。


 やがて、ワイバーンの香草焼きと山菜のスープ、シルフの作った魚の煮付けが完成した。


「できたぞ」


 シグマの言葉を聞き、全員が焚き火の周囲へ集まる。


 ハクにも大きく切り分けたワイバーンの肉を渡した。


『この程度では足りない』


「後で追加する」


『ならいい』


「ハクちゃん、いっぱい食べるね」


 白鬼が感心したように眺める。


「身体が大きいからな」


 シグマが答える。


「シルフの魚も少し食べる?」


 白鬼が魚を持ち上げ、ハクへ差し出す。


 ハクは魚へ一度視線を向けると、すぐに顔を背けた。


『いらない』


「いらないそうだ」


 シグマが伝える。


「即答せんでもええやん!」


 シルフが肩を落とす。


 五人と一匹は、それぞれ料理を手に取った。


「いただきます!」


 最初にワイバーンの肉へかぶりついた白鬼が、目を大きく見開く。


「おいしい!」


 表面は香ばしく焼き上がり、中には肉汁がしっかりと閉じ込められている。


 少し歯応えはあるが、噛み締めるほど濃い旨味が口の中へ広がった。


「臭みもほとんどないね」


 紅蓮が感心したように肉を眺める。


「香草が効いてる」


 黒鬼は山菜のスープを一口飲み、小さく息を吐いた。


「温かい……」


「戦った後のスープは染みるな」


 紅蓮も続いてスープを飲む。


 シグマはシルフが作った魚の煮付けへ箸を伸ばした。


 柔らかく煮込まれた身を口へ運ぶ。


 甘辛い煮汁が中まで染み込み、川魚特有の臭みも上手く消されていた。


「うまい」


 シグマが素直に感想を告げる。


「せやろ?」


 シルフは待っていましたとばかりに身を乗り出した。


「うちは料理もできる。弓も得意。明るくてかわいくて、しかも勇者や」


「自分でかわいいって言うんだ」


 白鬼が呆れたように言う。


「事実やからな!」


 シルフは胸を張った後、シグマの隣へにじり寄った。


「なあ、シグマ。うち、めっちゃええ嫁になると思わへん?」


「どうして俺に聞く」


「そら、嫁にもらってもらうなら――」


 シルフがシグマの腕へ抱きつこうとする。


 だが、その直前。


 左右から伸びた白鬼と黒鬼の手が、シルフの肩を掴んだ。


「駄目!」


「だ、駄目です!」


「なんでや!」


 二人は力を合わせ、シルフをシグマから引き剥がす。


「シグマにくっつかないで!」


「ち、近すぎます!」


「2人が独占したらあかんやろ!」


「独占しようとしてるのはシルフでしょ!」


「うちは嫁候補として立候補しただけや!」


「それが駄目なの!」


「なんで白鬼が決めるんや!」


「駄目なものは駄目!」


 白鬼とシルフが睨み合う。


 黒鬼も白鬼の隣で小さく頷いていた。


 紅蓮はその様子を見て、堪えきれず笑い出した。


「あはははっ! アンタたち、戦ってる時より必死じゃないか!」


「紅蓮も笑ってないで助けてや!」


「嫌だね。面白いから、そのまま続けな」


「薄情者!」


 シグマはどう反応すればよいか分からず、黙ってスープを飲んだ。


『大変だな』


 隣で肉を食べていたハクの声が、シグマの頭の中へ響く。


「他人事みたいに言うな」


「ん?」


 白鬼がシグマを見る。


「ハクだ」


「ああ、ハクちゃんか」


 白鬼は納得すると、そのままハクへ顔を向けた。


「ハクちゃんにもいつか好きな狼ができるかもしれないよ?」


 ハクは白鬼を見つめる。


『興味がない』


「興味ないらしい」


 シグマが伝える。


「シグマ以外には興味ないもんな!」


 シルフが嬉しそうに言う。


 ハクはゆっくりとシルフへ視線を向けた。


『お前よりはある』


 シグマは一瞬だけ黙る。


「ハク、なんて言ったん?」


「……お前よりはある、だそうだ」


「なんでや!」


 戦いの緊張は、いつの間にか消えていた。


 焚き火を囲む笑い声が、夜の河原へ響いていく。


     ◇


 食事を終えた後、五人は白木の根元へ集まった。


 ハクが身体を丸めると、全員がその大きな身体へ寄りかかる。


 白銀の毛は柔らかく、焚き火よりも温かかった。


「ここ、うちの場所や!」


 シルフが真っ先にハクの首元へ抱きつく。


 ハクの耳がわずかに伏せられる。


『重い』


「ハクが重いって言ってる」


「この程度で重い言うなや!」


「シルフ、動かないで。眠れない」


 白鬼がシルフの背中を押す。


「白鬼がうちの上に足を乗せとるからやろ!」


「黒鬼の場所が狭くなるから詰めてるの!」


「私は大丈夫だよ……」


 黒鬼は白鬼の隣で、小さく身体を丸めている。


「黒鬼、こっちへ来な」


 紅蓮が自分の隣を軽く叩く。


 黒鬼は少し迷った後、紅蓮のそばへ移動した。


 紅蓮は黒鬼の肩へ毛布を掛ける。


「寒くないかい?」


「うん。大丈夫」


 白鬼もすぐに紅蓮の反対側へ入り込んだ。


「私も!」


「アンタは元気だね」


 紅蓮は苦笑しながら、白鬼にも毛布を掛ける。


 シグマは少し離れた場所で、ハクの脇腹へ背中を預けた。


『もっと近くへ来てもいい』


「ここで十分だ」


『そうか』


 シルフはハクの首元へ顔を埋めたまま、満足そうに息を吐く。


「毎日これで寝たいわ……」


『断る』


 シグマはハクへちらりと視線を向けた。


「断るそうだ」


「即答せんでもええやん……」


 騒がしかった声も、時間が経つにつれて少しずつ小さくなっていった。


 やがて白鬼と黒鬼が紅蓮へ寄り添うように眠り、シルフもハクの毛へ顔を埋めたまま寝息を立て始める。


 紅蓮も大剣を手の届く場所へ置き、静かに目を閉じた。


 シグマも目を閉じる。


 戦いの疲労もあり、すぐに深い眠りへ落ちていった。


     ◇


 どれほど眠っていたのか。


 シグマは、焚き火の薪が小さく弾ける音で目を覚ました。


 周囲はまだ暗い。


 空には無数の星が輝き、草原を淡い月明かりが照らしている。


 身体を起こすと、少し離れた焚き火の前に紅蓮が座っていた。


 赤い髪が、弱くなった炎に照らされて揺れている。


 シグマは眠っている三人を起こさないよう立ち上がり、紅蓮のもとへ向かった。


「眠れないのか?」


「うわっ!」


 紅蓮は肩を揺らし、驚いたように振り返る。


 すぐにシグマだと気づき、胸元へ手を当てた。


「驚かせるんじゃないよ」


「悪い」


「別に眠れないわけじゃない」


「なら、どうして起きてる?」


 紅蓮は焚き火へ視線を戻した。


「少し、先のことを考えてた」


 シグマは紅蓮の隣へ腰を下ろす。


 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。


 薪が崩れ、小さな火の粉が夜空へ舞い上がる。


「白鬼と黒鬼のことか?」


 紅蓮の肩がわずかに動く。


 何も答えず、静かに頷いた。


「アタシとあの子たちは、本当の姉妹じゃない」


 紅蓮は炎を見つめたまま話し始める。


「同じ火の国の生まれではある。でも、昔から顔見知りだったわけじゃない。住んでいた場所も違ったし、家同士の付き合いもなかった」


 シグマは口を挟まず、ただ耳を傾けた。


「三年前、たまたま立ち寄った町で、奴隷商人に連れていかれそうになっている二人を見つけたんだ」


 紅蓮の手が、膝の上で強く握られる。


「白鬼は黒鬼を庇って、奴らに必死で怒鳴ってた。黒鬼は怖くて震えてるのに、白鬼の服を掴んで離さなかった」


 紅蓮の瞳に、焚き火とは違う揺らぎが浮かんでいた。


「気づいた時には、奴隷商人を殴り飛ばしてたよ。後のことなんて何も考えずにね」


「紅蓮らしいな」


「褒めてるのかい?」


「たぶん」


 紅蓮は小さく笑った。


「それから、ずっと一緒だ。二人には帰る場所がなかったから、アタシについてきた。最初は少しの間だけ守ってやるつもりだった」


 紅蓮は焚き火へ薪を一本放り込む。


 炎が一瞬だけ強くなり、その横顔を明るく照らした。


「でも、一緒に飯を食って、依頼を受けて、何度も喧嘩して……いつの間にか、本当の妹みたいになってた」


「二人も紅蓮を姉だと思っている」


「分かってるさ」


 紅蓮は寂しげに微笑む。


「同じ夢を持って、同じ道を歩いてきた。これからも、それがずっと続くと思ってた」


 昨日の食堂での出来事が、シグマの頭へ浮かぶ。


 白鬼と黒鬼が、シグマについていきたいと口にした。


 紅蓮は強く反対した。


 いつもなら豪快に笑い飛ばす紅蓮が、感情を露わにしていた。


「昨日、あの子たちがアンタについていきたいと言った時……驚いた」


 紅蓮の声が小さくなる。


「驚いて、それ以上に寂しくなった。置いていかれる気がしてね。だから、あんなふうに怒っちまった」


「二人は紅蓮を捨てるつもりじゃない」


「ああ。頭では分かってる」


 紅蓮は膝を抱え、少しだけ俯いた。


「でも、アタシは思っていたより子供だったみたいだ。大事な二人が、自分以外の誰かと歩きたいと言ったことが怖かった」


 炎の向こうで、紅蓮の瞳に涙が浮かぶ。


「もっとちゃんと話を聞いてやればよかった。あの子たちが何を考えて、どうしてアンタと行きたいと思ったのか。それなのに、アタシは自分の感情だけをぶつけた」


 シグマはしばらく黙っていた。


 気の利いた慰めの言葉は思い浮かばない。


 安易に大丈夫だと言うこともできなかった。


 紅蓮は顔を上げ、シグマへ向き直る。


「シグマ」


「なんだ」


「アンタは、白鬼と黒鬼をどう思ってる?」


 真っ直ぐな問いだった。


 冗談も、誤魔化しもない。


 シグマは焚き火を見つめ、答えを探す。


 白鬼は明るく、時に強引で、何度もシグマの心へ踏み込んでくる。


 黒鬼は臆病だが優しく、誰かが傷つくと自分のことのように苦しむ。


 二人と過ごす時間を、シグマは心地よいと感じていた。


 離れたくないとも思っている。


 だが、それを素直に口にすることが怖かった。


「……ついてきてほしいと思ってる」


 紅蓮が目を見開く。


「二人と一緒にいるのは嫌じゃない。むしろ、これからも一緒にいたい」


「なら――」


「でも、迷ってる」


 シグマは両手へ視線を落とす。


 右腕と左腕。


 二つの義手。


 自分が何者だったのかを知る手がかりであり、同時に消えない罪の証かもしれない物。


「俺は元咎人だった可能性がある」


「可能性だろ?」


「記憶がないだけで、本当に何かをしたのかもしれない」


 群衆の目。


 無数の口。


 罵声。


 処刑台。


 夢の中で何度も繰り返される光景が、頭の奥を過ぎる。


「俺についてくれば、二人まで狙われるかもしれない。俺の過去が原因で傷つくかもしれない。それが怖い」


「だから迷ってるのかい?」


「ああ」


 シグマは静かに続ける。


「自分が寂しいから、何も考えずについてきてほしいとは言えない」


 紅蓮はしばらくシグマを見つめていた。


 やがて、張り詰めていた力が抜けたように息を吐く。


「よかった」


「何がだ?」


「アンタが、何も考えずに二人へついてきてほしいと言うような男じゃなくて」


 紅蓮の頬を涙が伝う。


 それでも、口元には笑みが浮かんでいた。


「もし何の迷いもなく、二人を連れていくと言ってたら……明日にでも二人を担いで、無理やり別の街へ行ってたよ」


「本気でやりそうだな」


「本気さ」


 紅蓮は涙を拭いながら笑った。


「でも、アンタが二人のことをちゃんと考えてくれてるなら、少し安心した」


 シグマは何も言わず、紅蓮の頭へ手を伸ばした。


 赤い髪を、ゆっくりと撫でる。


 自分でも、なぜそうしたのかは分からなかった。


 ただ、泣いている紅蓮を放っておけなかった。


「なっ……」


 紅蓮の身体が硬直する。


 すぐにシグマの手を払いのけた。


「や、やめろ!」


「悪い」


「まったく……そんなことしてると、俺までお前に惚れちまうだろ。そうなったら大変だ」


 紅蓮は冗談めかして笑う。


 だが、その顔は耳まで真っ赤に染まっていた。


 白鬼と黒鬼がシグマへ向ける想いに、紅蓮は気づいている。


 だからこそ、自分の気持ちを素直に口にはできなかった。


 妹同然に大切な二人から、シグマを奪うわけにはいかない。


 自分の想いを押し殺し、冗談として笑い飛ばす。


 幸い、淡い月明かりだけでは、紅蓮の赤面まではシグマに見えなかった。


「もう寝る!」


 紅蓮は勢いよく立ち上がると、シグマへ背を向けた。


「アタシは何も言ってないからね!」


「今、かなり話してたぞ」


「忘れろ!」


 それだけ言い残し、紅蓮はハクの近くへ戻って横になる。


 背中を向けたまま毛布を頭まで被り、すぐに動かなくなった。


 一人残されたシグマは、焚き火を見つめる。


 胸の奥に、複雑な感情が渦巻いていた。


 好意を向けられることは嬉しい。


 誰かに必要とされることも、一緒にいたいと思われることも。


 それなのに、喜びより先に恐怖が浮かぶ。


 いつか失うのではないか。


 自分のせいで傷つけるのではないか。


 そして何より、自分には誰かの好意を受け取る資格がないのではないか。


 なぜそう思うのか。


 シグマ自身にも分からなかった。


 ふと視線を感じ、後ろを振り返る。


 ハクが目を開け、じっとシグマを見つめていた。


『難しく考えすぎだ』


「起きてたのか」


『途中からな』


「聞いていたのか?」


『私は耳がいい』


 シグマは小さく息を吐く。


「忘れてくれ」


『無理だ』


「そうか」


 ハクはそれ以上何も言わず、再び目を閉じた。


 シグマも焚き火へ土をかけ、火を弱める。


 そしてハクのもとへ戻ると、その温かな身体へ背中を預けた。


 目を閉じても、すぐには眠れなかった。


 それでもハクの静かな呼吸を聞いているうちに、やがて意識は少しずつ遠のいていった。


     ◇


 翌朝。


 シグマも紅蓮も、昨夜の会話などなかったかのように振る舞っていた。


「シグマ、そっちの荷物を持ってくれるかい?」


「ああ」


「紅蓮、顔赤くない?」


 白鬼が不思議そうに首を傾げる。


「朝日だよ!」


「まだ朝日、反対側だけど」


「うるさいね!」


 紅蓮は強引に荷物を背負い、先頭へ歩いていく。


 シグマは何も気づいていない様子で、その後を追った。


 黒鬼だけは二人の様子を交互に見ていたが、何も言わず小さく首を傾げるだけだった。


 五人と一匹は平原を歩きながら、他愛もない会話を続けた。


 昨日の激戦が嘘のように、穏やかな時間だった。


「ワイバーンの肉、もう少し持って帰ればよかったな」


 シルフが名残惜しそうに言う。


「あれ以上持ったら、荷物が重くなる」


「ハクに持ってもらえばええやん」


 ハクがシルフへ顔を向ける。


『断る』


「断るそうだ」


 シグマが伝える。


「まだ何も頼んでへんやろ!」


『顔を見れば分かる』


「顔を見れば分かるらしい」


「ハク、うちにだけ冷たくない?」


『しつこいからだ』


「しつこいからだそうだ」


「愛情表現や!」


『迷惑だ』


 シグマは一瞬だけ黙った。


「なんて言ったん?」


「……迷惑だそうだ」


「ひどない!?」


 白鬼と黒鬼が声を上げて笑う。


 街が近づいた場所で、ハクが足を止めた。


『私は森へ戻る』


 シグマも足を止める。


「ハクはここで森へ戻るそうだ」


「もう行くん?」


 シルフが悲しそうに顔を曇らせる。


『人の多い場所は好きではない』


「人の多い場所は好きじゃないらしい」


「あとちょっとだけ一緒におろうや!」


 シルフはハクの首元へ勢いよく抱きついた。


「ハクー! 行かんといてー!」


 ハクの耳が後ろへ倒れる。


『離れろ』


「シルフ、離してやれ」


「嫌や! うち、まだモフモフし足りへん!」


『離れろ』


「かなり嫌がってるぞ」


「もうちょっとだけ!」


 ハクはしばらく耐えていたが、やがて前脚でシルフの身体を軽く押した。


「わっ!」


 シルフは草原へ尻餅をつく。


 その隙にハクはシグマへ一度だけ顔を向けた。


『また呼べ』


「ああ。助かった」


『当然だ』


 ハクは白銀の尾を揺らし、森へ向かって駆けていく。


「ハクー! うちを置いていかんといてー!」


 地面へ座ったまま手を伸ばすシルフを見て、シグマたちは声を上げて笑った。


「笑うなや!」


 シルフは服についた草を払い、立ち上がる。


「みんなしてひどすぎるやろ!」


「ハクちゃんにしつこくしたシルフが悪いよ」


 白鬼が笑う。


「黒鬼はうちの味方やんな?」


「えっと……ハクが嫌がってたから……」


「黒鬼まで!」


 シルフは悪態をつきながらも、皆と一緒に歩き始めた。


     ◇


 公益都市アルランカへ到着した頃には、すでに昼を回っていた。


 猫夜亭の扉を開ける。


 食堂には昼食を取る冒険者たちの声と、料理の匂いが満ちていた。


「あっ!」


 受付にいたリリアンヌがシグマたちを見つけると、椅子を蹴るように立ち上がった。


 桃色の猫耳をぴんと立て、こちらへ駆け寄ってくる。


「皆さん! 無事だったんですね!」


「ただいま」


「昨日戻らなかったから、何かあったんじゃないかって心配してたんですよ!」


 リリアンヌの尻尾は大きく膨らみ、瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「ごめん。想定より相手が大きくて、戻るのが遅くなった」


「大きかった……?」


 シグマはワイバーンが依頼書の情報よりも成長していたこと。


 戦闘後、夜道を帰還するのが危険だったため、河原で野営したことを順番に説明した。


 話を聞くにつれ、リリアンヌの顔から血の気が引いていく。


「翼を広げて十五メートル……?」


「ああ」


「それ、幼体じゃありませんよ!」


 シグマは持ち帰ったワイバーンの角の一部、鱗、爪、翼膜、そして魔石を受付台へ並べる。


 大きな魔石を目にしたリリアンヌの猫耳が、驚きで真っ直ぐに立った。


「こ、こんなに大きな魔石……」


「討伐の証拠として足りるか?」


「十分です! 十分すぎます!」


 リリアンヌは魔石を抱え、慌てて書類を探し始める。


「でも、依頼書の内容と全然違いますし、報酬もこのままでは……えっと、こういう場合はハンターギルドへ確認して、それから追加報酬の申請をして……でも素材の査定も先に……」


 書類を取り出しては戻し、別の棚を開けては首を傾げる。


「まず討伐報告書を書いてもらって、それから抗議文を……ああ、でも査定担当が今いません!」


「リリアンヌ、落ち着け」


「落ち着いてます!」


「めっちゃワタワタしとるで」


「ワタワタしてません!」


 リリアンヌの大きな声を聞きつけ、厨房の扉が開いた。


「さっきから騒がしいね。何があったんだい?」


 マリアが腕を組みながら食堂へ出てくる。


「あ、マリアさん!」


「リリアンヌ。まず深呼吸しな」


「は、はい……」


 リリアンヌは大きく息を吸い、ゆっくり吐く。


 その後、シグマたちから聞いた内容を順番にマリアへ説明した。


 マリアはカウンターへ置かれた魔石と素材を確認し、しばらく考え込む。


「なるほどね。依頼を出したハンターギルド側の調査不足だ」


「やっぱり、そうなりますか?」


「ああ。幼体として出された依頼で、実際には成長期の個体がいた。討伐できたからよかったものの、下手をすれば死人が出てる」


 マリアはリリアンヌへ視線を向ける。


「依頼の報酬は引き上げる。ハンターギルドには抗議文と、追加報酬の請求書を送っておきな」


「はい!」


「素材と魔石はうちで先に買い取る。後の交渉はアタシがやるよ」


「分かりました!」


 指示を受けたリリアンヌは今度こそ落ち着きを取り戻し、査定と書類作成を進める。


 しばらくして、銀貨の入った革袋をカウンターへ置いた。


「お待たせしました。依頼報酬の増額分が銀貨五十枚。ワイバーンの素材と魔石の査定額が、合わせて銀貨百枚になります」


「百五十枚!」


 白鬼の目が輝く。


「ただし、そこから依頼の仲介と素材の査定、買い取りにかかるギルド手数料として、一割を差し引かせていただきます」


 リリアンヌは帳簿を確認しながら、銀貨を数えていく。


「ギルドの取り分が銀貨十五枚。したがって、皆さんへお渡しする合計金額は銀貨百三十五枚です」


「百三十五枚か。五人で分ければ、一人二十七枚だな」


 紅蓮が素早く計算する。


「昨日の飯代どころか、しばらく豪遊できるで!」


「全部使ったら駄目だからね」


 黒鬼がシルフへ釘を刺す。


「分かっとるって!」


「シルフの分は、黒鬼に預けた方がよさそうだな」


 シグマが言う。


「なんでや!」


 シグマたちは銀貨百三十五枚を五等分し、それぞれ銀貨二十七枚ずつ革袋へ収めた。


 依頼の報告を終えると、ようやく肩の力が抜ける。


「腹減ったな」


 紅蓮が食堂の席へ向かう。


「打ち上げしようよ!」


 白鬼も嬉しそうに続いた。


 五人が大きなテーブルへ座ると、シルフが勢いよく手を上げる。


「シルビアー! 酒と料理、たっぷり頼む!」


「はーい!」


 虎耳を揺らしながら、シルビアが厨房へ注文を伝える。


 白鬼と黒鬼は、向かいに座ったシルフと紅蓮へ鋭い視線を向けた。


「二人とも、今日は飲みすぎないでね!」


「飲みすぎないようにしてください!」


「まだ飲んでもないのに怒られたんやけど」


「昨日までの行いが悪いんだよ」


 紅蓮は笑いながら酒の杯を受け取る。


 シグマの前にも酒が置かれた。


「シグマも飲むん?」


「飲む」


「強いんか?」


「かなり強い方だと思う」


「ほな、うちと勝負や!」


「やめておきな」


 紅蓮がすぐに止める。


「なんでや! まだ始まってもないで!」


「シグマは本当に強いよ。アンタじゃ勝負にならない」


「紅蓮は見たことあるん?」


「この前、一緒に飲んだ時にね。アタシが少し酔い始めても、こいつは顔色一つ変わらなかった」


「それは燃えるやん!」


「どうしてそうなる」


 シグマが呆れたように言う。


 やがて料理が次々と運ばれ、五人は杯を掲げた。


「ワイバーン討伐成功に!」


 紅蓮の声に、全員が続く。


「乾杯!」


 杯がぶつかり、心地よい音が響いた。


 シルフと紅蓮は大声で笑い、白鬼と黒鬼は二人が飲みすぎないよう何度も注意する。


「次、強いやつ頼むで!」


「駄目!」


「まだ一杯目やん!」


「シルフは調子に乗るから駄目!」


「紅蓮もです!」


「アタシまでかい?」


「紅蓮も飲みすぎるとシルフと一緒になって騒ぐから!」


「白鬼、よく分かってるね」


「褒めてないよ!」


 シグマは強い酒を平然と飲みながら、その光景を静かに眺めていた。


 騒がしくて、落ち着かない。


 それでも、不思議と嫌ではなかった。


 昨日まで他人だった者たちが共に戦い、共に食事をし、同じテーブルを囲んで笑っている。


 その輪の中に、自分もいる。


「シグマ、何笑っとる?」


 シルフが顔を覗き込んでくる。


「笑ってない」


「いや、今ちょっと笑っとったで!」


「気のせいだ」


「白鬼も見たやろ?」


「うん。少しだけ笑ってた」


「わ、私も見ました」


「ほらな!」


 シグマは三人から顔を背け、杯へ口をつけた。


「見間違いだ」


「照れとる!」


「照れてない」


「顔は変わってないけど、絶対照れとるで!」


「しつこい」


 シルフの笑い声に、紅蓮と白鬼、黒鬼の笑い声が重なる。


 その賑やかさの中で、シグマの口元が再びほんのわずかに緩んだ。


 五人の笑い声は、夜まで途切れることなく続いた。


 こうしてワイバーン討伐の一日は、賑やかに幕を閉じたのだった。

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