第六話 レッサーフェンリルのハク
暗闇だった。
光など一切存在しない、底の見えない闇。
その闇の中で、無数の瞳がこちらを見つめていた。
憎悪、悲しみ、絶望、怨嗟。
ありとあらゆる感情を宿した目が、シグマを責め立てるように見つめ続ける。
耳を塞ぎたくなるほどの叫び声。
何かを訴える口。
何度も見てきた悪夢。
――だが、今日は違った。
右腕には、柔らかな温もり。
振り向くと、淡い桃色の髪を揺らす猫人の少女が、巫女服姿で嬉しそうに腕へ抱きついていた。
「えへへ、今日はどこ行こっか?」
屈託のない笑顔。
左を見る。
今度は黒髪の猫人の少女。
可愛らしいメイド服を身にまとい、同じように腕へしがみついて笑っていた。
「いっぱいお話ししましょう」
二人は何かを話している。
声は聞こえない。
それでも、その笑顔だけで十分だった。
――楽しい。
不思議なくらい心が温かくなる。
こんな夢なら、ずっと覚めなければいい。
そう思った、その瞬間だった。
闇が蠢く。
無数の黒い手が地面から伸びた。
「っ!」
二人の身体を一斉に掴む。
少女たちの笑顔が凍り付いた。
「いやっ!」
「シグマさん!」
二人は必死に手を伸ばす。
シグマも夢中で腕を伸ばした。
「待て!!」
届かない。
あと少し。
ほんの少しなのに。
黒い手は容赦なく二人を闇へ引きずり込んでいく。
「助けて!」
「お願い!」
「やめろおおおっ!!」
全力で掴もうとする。
だが指先は空を切る。
二人の姿は闇へ沈み、最後には手だけが見えた。
その手さえも消える。
残ったのは――。
声にならない叫びだった。
耳には届かないはずなのに、脳へ直接刻み込まれるような絶叫。
助けを求める悲鳴だけが、いつまでも、いつまでも頭の中で響き続けた。
――そして。
「……っ!」
シグマは飛び起きた。
全身が汗で濡れている。
乱れた呼吸。
震える手。
額を押さえながら深く息を吐く。
「また……か」
悪夢には慣れている。
昔から何度も見続けてきた。
だが今日の夢だけは違った。
夢に現れた二人。
その姿が、どうしても白鬼と黒鬼に重なってしまう。
もし、本当に二人が旅へついてきたら。
もし、自分のせいで傷付いたら。
もし、自分の過去が二人を巻き込んでしまったら。
――守れるのか。
いや。
守れないかもしれない。
その恐怖が胸を締め付ける。
今日は二人へ自分の気持ちを伝えるつもりだった。
危険だから来ない方がいい、と。
なのに、この夢がその迷いをさらに大きくした。
「どうしたら……いいんだ……」
押し殺そうとしていた感情が溢れた。
「どうしたらいいんだぁぁぁっ!!」
静まり返った夜明け前の街に、その叫びだけが虚しく響いた。
◇ ◇ ◇
まだ陽も完全には昇っていない。
猫夜亭の食堂には数えるほどしか人はいなかった。
店の一番奥。
薄暗い角の席。
そこにシグマは一人座っていた。
装備は整えている。
だが髪は寝癖のまま。
目には生気がなく、まるで魂だけがどこかへ置き去りになったようだった。
その時だった。
バァン!
勢いよく扉が開く。
「おっはよーー!!」
朝から元気いっぱいの声。
入ってきたのはシルフだった。
店内をぐるりと見渡すと、すぐにシグマを発見する。
「おったおった!」
小走りで近付くと――
バシィッ!!
遠慮なく背中を叩いた。
「いった……」
「何けったいな顔しとるん? 昨日のこと、まだ引きずっとるんか?」
笑いながら覗き込んでくる。
シグマは否定できなかった。
昨日の出来事もある。
だが、それ以上に今朝の悪夢が胸を締め付けていた。
そんな様子を見たシルフは笑みを少しだけ柔らかくする。
「しゃーないなぁ。お姉さんに話してみぃ。ちゃんと聞いたるから」
その一言に、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。
シグマは静かに話し始める。
昔から続く悪夢。
今朝見た夢。
白鬼と黒鬼が重なって見えたこと。
二人を守れる自信がないこと。
そして、自分は記憶を失っているだけで、本当は罪人なのではないかという恐怖。
もしそうなら、皆を巻き込んでしまうかもしれないという不安。
最後までシルフは一言も遮らなかった。
静かに聞いていた。
やがて話し終えた時。
シルフは何も言わず、そっとシグマを抱きしめた。
その温もりにシグマは目を見開く。
「夢は夢や」
優しい声だった。
「未来やない。」
「……」
「過去が何やったとしても、今ここにおるシグマは、うちが知っとるシグマや。」
少しだけ笑う。
「咎人やったら、あんたみたいに人のために悩んだりせぇへん。」
「でも……」
「『でも』やない。」
シルフは額を軽く小突く。
「今を見ぃ。うちらはちゃんとあんたを見とる。」
その言葉が胸に染みた。
少しだけ肩の力が抜ける。
「……ありがとう。」
「ええよ。貸し一つや。」
いつもの調子で笑うシルフ。
その笑顔に、シグマもほんの少しだけ笑みを返した。
その後は他愛ない雑談をしながら朝食を待っていた。
◇ ◇ ◇
再び扉が開く。
「おっ、いたいた!」
元気な声と共に白鬼と黒鬼が入ってくる。
二人はシグマを見つけた瞬間、一直線に駆け寄ってきた。
一方、紅蓮だけは迷わず受付カウンターへ向かっていく。
シグマとシルフは顔を見合わせた。
「……何しに行ったんやろ?」
「依頼か?」
そんな会話をしている間に。
白鬼と黒鬼は左右の席へ座るどころか、椅子をギリギリまで寄せてぴったり密着してきた。
「シグマさん!」
「聞いてください!」
二人は満面の笑みだった。
「昨日ね、紅蓮姉ちゃんと話したの!」
「旅が終わるまでにゴールド等級になって、その時までにシグマさんから『一緒に来てもいい』って言ってもらえたら、旅について行ってもいいって!」
嬉しさを隠し切れない。
目を輝かせながら話す二人を見て、シグマも自然と笑みを浮かべた。
「……そうか。それは良かった。」
心から嬉しい。
――それなのに。
胸の奥は苦しかった。
今朝見た夢が頭から離れない。
今ここで「来るな」とは、とても言えない。
隣のシルフも事情を知っているだけに、複雑そうな笑みを浮かべるしかなかった。
だが当の本人たちは気付かない。
未来の話を楽しそうに語り続けていた。
◇ ◇ ◇
そこへ紅蓮が戻ってくる。
空いていた席へ腰掛けると、一枚の依頼書をテーブルへ置いた。
「……お前たち。」
低い声。
白鬼と黒鬼がビクリと肩を震わせる。
「浮かれるのは勝手だが、約束を忘れたのか?」
二人は一瞬だけ目を逸らした。
「……忘れてません。」
「ちゃんと覚えてます。」
「なら離れろ。」
二人は渋々シグマから距離を取る。
紅蓮は静かに頷いた。
「約束は三つだ。」
「まず一つ。旅が終わるまでにゴールド等級へ昇格すること。」
「二つ。シグマ本人が認めること。」
「三つ。仲間集めや記憶探しの邪魔になるなら、その時は潔く諦めること。」
紅蓮は二人を真っ直ぐ見つめる。
「それが守れないなら、この話はなしだ。」
「……うん。」
「分かった。」
二人は真剣な表情で頷いた。
そのやり取りを見ていたシグマは、紅蓮が何か他にも言いたそうにしていたことへ気付く。
だが彼女はそれ以上は口にしなかった。
◇ ◇ ◇
「さて。」
紅蓮は依頼書を広げる。
「今日の依頼だ。」
シグマが目を通した瞬間、思わず目を見開いた。
「ワイバーン討伐……?」
「落ち着け。最後まで読め。」
紅蓮は苦笑しながら説明を続ける。
「街から東へ半日ほど行った平原に、逸れワイバーンが一体現れた。」
「行商人の荷馬車が何度も襲われている。」
「報告ではまだ幼体らしく、小型個体だ。」
「ギルドも確認済み。危険度は高くない。」
「だから受けてきた。」
紅蓮は続ける。
「空を飛び回る相手なら、連携を試すにはちょうどいい。」
シグマはしばらく考え込んだ。
そして静かに頷く。
「……分かった。」
白鬼と黒鬼も力強く頷いた。
その時だった。
「えっ!? ワイバーン!?」
シルフだけ反応が違う。
「ホンマ!? うち、まだ見たことないねん!」
目をキラキラ輝かせ、身を乗り出す。
「ドラゴン系やろ!? めっちゃ楽しみや!!」
完全に遠足気分だった。
シグマは苦笑する。
「いや、楽しみとか言う相手じゃないぞ。飛ぶし速いし、油断したら――」
「ドラゴンやろ!? 空飛ぶんやろ!? ええなぁ!」
「……聞いてるか?」
「どんな鳴き声するんやろ!」
「……聞いてないな。」
シグマは深いため息を吐く。
その姿を見た白鬼と黒鬼は小さく笑いながら慰めた。
「大丈夫ですよ。」
「シルフさん、楽しみすぎるだけですから。」
その光景を見て、シグマも少しだけ笑ってしまう。
紅蓮は立ち上がる。
「依頼は正式受理した。準備はいいな?」
全員が頷く。
「なら出発する。」
五人は猫夜亭を後にし、朝日に染まり始めた東門へ向かった。
朝の空気は澄み渡り、街は少しずつ活気を取り戻し始めている。
門が見えてきたところで、シグマはふと思い出したように紅蓮へ声を掛けた。
「紅蓮、一つ聞いてもいいか?」
「どうした?」
「今回はハクも呼ぼうと思う。ワイバーン相手なら戦力になるし、連携の確認にもなる。」
紅蓮は少し考えたあと、小さく頷いた。
「そうだな。ハクを交えた連携も試しておくべきだろう。許可する。」
その言葉を聞いた白鬼と黒鬼は、ぱっと表情を明るくした。
「本当ですか!」
「やったぁ! ハクさんに会える!」
二人は以前共に戦った白銀のレッサーフェンリルを思い出し、嬉しそうにはしゃぐ。
しかし、それ以上に喜びを爆発させた人物がいた。
「えぇぇぇっ!? ホンマに!? ハク来るん!?」
シルフだった。
両手を握りしめ、今にも飛び跳ねそうな勢いで目を輝かせる。
「うち、前に聞いてからずっと会いたかってん! 白いレッサーフェンリルやろ!? 絶対かわええやん!」
そのあまりにも無邪気な姿に、シグマ、紅蓮、白鬼、黒鬼の四人は揃って冷ややかな視線を向けた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「な、何やその目は!」
シルフは慌てて抗議する。
「しゃあないやん! 白い大きな狼とか憧れるやろ!」
四人は顔を見合わせ、小さくため息をつく。
それでもシルフは気にする様子もなく、鼻歌交じりに歩きながらハクとの対面を想像して頬を緩ませていた。
◇ ◇ ◇
街道をしばらく進み、森の入口へ差しかかったところで、シグマは足を止める。
静かに目を閉じ、心の中で呼び掛けた。
(ハク。)
数秒後。
森の奥から木々を揺らす音が近付いてくる。
やがて茂みをかき分けるように、一頭の巨大な白銀の狼が姿を現した。
陽光を受けて輝く毛並み。
凛とした蒼い瞳。
シグマの相棒、レッサーフェンリルのハクである。
「…………っ!!」
シルフは歓喜のあまり声にならない悲鳴を上げ、その場で固まった。
そんなシルフをよそに、シグマはハクへ歩み寄る。
『久しぶりだ、ハク。』
『主。』
二人は念話で言葉を交わす。
『今日は逸れワイバーンの討伐だ。それと、新しく仲間が一人増えた。風の勇者、シルフだ。』
ハクは静かに周囲を見回す。
そして紅蓮、白鬼、黒鬼の前へ歩み寄ると、一人ひとりへ優しく頭を擦り寄せた。
三人は自然と笑顔になる。
しかし、シルフの前だけは素通りしてしまった。
「あれぇぇぇぇぇ!?」
その場に崩れ落ちるシルフ。
「何でうちだけ無視なん!?」
シグマは苦笑しながらハクへ尋ねる。
『どうした?』
返ってきた答えに、思わず吹き出してしまった。
『あやつから……何故か卑猥な気配を感じる。』
「ぶっ……!」
肩を震わせるシグマ。
「何て言うてたん!?」
シルフが詰め寄る。
シグマは苦笑しながら、そのまま伝えた。
「『卑猥な気配がするから挨拶したくない』そうだ。」
「なんでやぁぁぁぁぁ!!」
森中へ響き渡る絶叫。
シルフは必死に手を振りながら弁解した。
「ちゃうねん! うちは動物が好きなんや! 特に白くて大きな狼には昔から憧れとって、嬉しすぎておかしくなるだけなんや!」
その必死な姿を見たハクは、しばらく考えるように首を傾げる。
やがてゆっくりとシルフの前へ歩み寄ると、頭を優しく擦り付けた。
「えっ……?」
さらに大きな舌で頬をぺろりと舐める。
その場にいた全員が驚いて目を丸くした。
シグマはハクへ問い掛ける。
『どういう意味だ?』
『疑ったことへの謝罪。そして、主を大切に思ってくれていることへの感謝だ。』
シグマはそのままシルフへ伝えた。
話を聞いたシルフの目から、ぽろぽろと涙が溢れる。
「ハクぅぅぅぅ!!」
勢いよく抱きつくシルフ。
ハクも嫌がることなく身体を寄せ、大きな尻尾をゆっくり振った。
その光景を見た白鬼と黒鬼は羨ましそうに声を漏らす。
「私たちも抱きついていいですか?」
シグマがハクを見ると、ハクは静かに頷いた。
『構わん。』
「だってさ。」
「やったぁ!」
二人も笑顔でハクへ抱きつく。
嬉しそうに鼻を鳴らすハク。
その様子を少し離れた場所から眺めていた紅蓮も、どこか羨ましそうにもじもじしていた。
そんな紅蓮の様子に気付いたハクは、自ら歩み寄り、その足元へ頭を擦り寄せる。
まるで「お前も来い」と言っているようだった。
「……まったく。」
紅蓮は照れ臭そうに笑うと、ゆっくり膝をつき、大きな身体を抱きしめる。
「本当に……温かいな。」
普段は見せない穏やかな笑顔。
その優しい空気に包まれながら、一行は改めてワイバーンが待つ平原へ向けて歩き始めるのだった。




