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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第五話 買い出しにはトラブルが付きもの

 翌朝。


 猫夜亭の食堂には、朝から似つかわしくないほど重い空気が漂っていた。


 厨房からは焼きたてのパンと肉の香りが流れ、依頼へ向かう冒険者たちの威勢のいい声が飛び交っている。


 そんな賑やかな食堂の一角で、シグマ、白鬼、黒鬼の三人は、揃って向かいの席を見つめていた。


「……今日は難しそうだな」


 シグマが静かに言う。


 向かい側では、紅蓮とシルフが机へ突っ伏していた。


「頭が……痛い……」


 紅蓮は片手で額を押さえたまま、苦しそうに呻いている。


 赤い髪は乱れ、普段の威勢のよさは完全に消えていた。


 その隣では、シルフが体を起こし水の入った杯を両手で抱え、ぼんやりと中身を眺めている。


「お酒って不思議やなぁ……。昨日はあんなに仲良うしてくれたのに、今日はめちゃくちゃ敵意向けてくるやん……」


「酒に意思はないと思うぞ」


「そういう話やないねん……」


 シルフは力なく言い返すと、再び机へ頬をつけた。


 昨夜の酒盛りで、紅蓮とシルフは互いに張り合うように杯を重ねた。


 シグマも普段どおり酒を飲んでいたが、酒に強いため、今朝も顔色ひとつ変わっていない。


 その違いが気に入らないのか、シルフはじっとりとした目を向けてきた。


「なんでシグマだけ、そんな平気そうなん?」


「酒には強い方だからな」


「いや、うちらより飲んどったやろ……」


「量だけで決まるものでもないんだろう」


「ずるい体質やなぁ……」


「そう言われても困るな」


 本来なら、今日も依頼をこなす予定だった。


 しかし、この二人を連れて外へ出るのは、さすがに危険だった。


「今日は依頼をやめておこう」


「悪い……」


 紅蓮が机に突っ伏したまま、僅かに片手を上げる。


「うちも、ほんまごめん……」


「二人は休んでいてくれ。代わりに、今日は買い出しを済ませよう」


「買い出しですか?」


 白鬼が顔を上げる。


シグマはそう返し、テーブルの上に広げられた買い出しの一覧へ目を落とした。


「ああ。薬草や魔石も減っている。馬車が完成する前に、野営道具も揃えておきたい」


「それなら私も行きます」


「……私も」


 黒鬼も小さく頷いた。


 紅蓮は顔を上げることなく、白鬼へ言う。


「必要な物は分かってるな?」


「大丈夫です」


「余計な物まで買うなよ……」


「信用がありませんね」


「今までの行動を振り返ってから言え……」


 白鬼は聞こえなかったふりをして立ち上がった。


 シグマも席を離れ、黒鬼がそのあとに続く。


「何か食べられそうな物があれば、買ってきましょうか?」


 黒鬼が心配そうに尋ねる。


 紅蓮は少し迷ったあと、力なく首を振った。


「今は何も入る気が......しない」


「うちは、酸っぱい果物があったら欲しいかも……」


「分かりました」


「ありがとう、黒鬼ちゃん……。ほんま天使や……」


「俺にも何か頼むか?」


「シグマさんに頼んだら、水だけ買ってきそうやもん」


「必要なら、他の物も買ってくるぞ」


「ほんま?」


「ああ。だが、今のお前には水が一番必要そうだな」


「やっぱり冷たいわ……」


 シルフの弱々しい声を背に、三人は猫夜亭を出た。


     ◇


 外へ出ると、朝の澄んだ空気が頬を撫でた。


 大通りにはすでに多くの人が行き交い、荷車を引く商人や、店先の準備をする者たちで賑わっている。


「まずは露店街ですね」


 白鬼が通りの先を見る。


「人が多いな。逸れないように気をつけてくれ」


 シグマがそう言うと、白鬼は自然な動作で彼の外套の袖を掴んだ。


「何をしている?」


「逸れないようにです」


「そこまでしなくても大丈夫だと思うが?」


「私たちの方が小さいので、見失われるかもしれませんから」


「二人とも近くにいれば見失わないぞ」


「念のためです」


 白鬼は平然とした顔で袖を離そうとしなかった。


 その様子を見ていた黒鬼も、少し迷ったあと、反対側の袖をつまむ。


「……私も」


 シグマは両側の袖を掴まれ、二人を交互に見た。


「二人とも、袖を掴まなくても一緒に歩けるだろう?」


「袖ですから問題ありません」


「そういう問題なのか……?」


 通りを進むにつれ、人の流れが次第に多くなっていく。


 前から荷車が来たため、三人は道の端へ寄った。


 その拍子に白鬼が体勢を崩し、シグマの腕へしがみつく。


「危ない」


 シグマは咄嗟に白鬼の身体を支える。


「すみません」


「怪我はないか?」


「はい、大丈夫です」


 そう言いながらも、白鬼はなぜか腕を離さなかった。


 むしろ、何かを思いついたように笑う。


「こちらの方が掴みやすいですね」


「いや、もう転ぶ心配はないだろう」


「これからもっと人が増えるかもしれません」


「それでも腕を組む必要までは――」


 言いかけたシグマの反対側で、黒鬼が白鬼と彼の腕を見比べていた。


 やがて、遠慮がちにシグマの左腕へ手を回す。


「黒鬼まで……?」


「……人が、多いので」


「さっきと同じ理由だな」


 黒鬼はこくりと頷き、そのまま離れなかった。


 左右から身体を寄せられ、シグマの動きが固まる。


 白鬼の体温と、黒鬼の控えめな力。


 義手そのものに感覚は薄いが、腕の付け根を通じて、二人がぴったりと寄り添っていることは分かってしまう。


 シグマの頬が、みるみるうちに赤く染まっていった。


「……二人とも、少し近くないか?」


「そうですか?」


 白鬼は、明らかに赤くなったシグマの顔を見上げる。


「もしかして、照れています?」


「いや、そういうわけでは……」


「顔が赤いですよ」


「人が多くて、少し暑いだけだ」


 言いながら、シグマは視線を逸らす。


 だが、朝の風はむしろ涼しい。


 白鬼は楽しそうに目を細めた。


「今朝は涼しいですけど」


「……そうだな」


「では、どうして赤いんですか?」


「それは……」


 答えに詰まったシグマは、黒鬼の方へ視線を向ける。


 しかし黒鬼も、こちらを見上げていた。


「……嫌ですか?」


 声に少し不安が混じっていた。


 シグマはすぐには答えられなかった。


 恥ずかしくはある。


 周囲の視線も気になる。


 だが、だからといって二人を振りほどく気にはなれなかった。


「……嫌ではない。ただ、少し驚いただけだ」


 その答えを聞き、黒鬼の口元が僅かに緩む。


 白鬼も何も言わず、満足そうに笑った。


「それなら、このまま行きましょう」


「歩きにくくなっても知らないぞ」


「大丈夫です」


「……大丈夫です」


 二人はどこか嬉しそうに答えた。


 三人で歩き始めると、周囲からちらちらと視線が向けられた。


 小柄な双子の少女に両腕を取られ、その間を歩く白髪の青年。


 シグマは仮面をつけていないため、赤くなった頬も困ったような表情も隠しようがなかった。


「ずいぶん見られているな……」


「気にしすぎです」


 白鬼が涼しい顔で答える。


「お前は気にならないのか?」


「別に悪いことはしていませんから」


「それはそうだが……」


 シグマはそれ以上言うのを諦め、なるべく周囲を見ないように前だけを向いた。


     ◇


 露店街へ入ると、街の雰囲気が一気に変わった。


 色とりどりの布屋根が通りの両側に並び、商人たちの大声があちこちから響いている。


「新鮮な薬草だよ!」


「魔石ならこっちだ! 火種用も明かり用も揃ってるぞ!」


「朝から焼きたての串肉はいかが!」


 薬草の青臭い香り。


 香辛料の刺激。


 焼けた肉の香ばしい匂い。


 いくつもの匂いが混ざり合い、通りを歩くだけでも腹が減りそうだった。


 三人はまず、消耗品を扱う露店へ向かった。


 傷薬用の薬草。


 毒消し。


 虫除け。


 火起こしに使う魔石。


 夜間の明かりに使う魔石。


 白鬼が必要な数を確認し、黒鬼が品質を見比べる。


 シグマは二人の意見を聞きながら、代金を支払っていった。


「このくらいあれば足りるか?」


「今度の依頼だけなら十分です」


「今後も旅をするなら、もう少しあってもいいかもしれません」


 黒鬼の言葉に、シグマが少しだけ視線を動かす。


「今後も、か」


「……はい」


 黒鬼はそれ以上続けなかった。


 買い物を終えて次の露店へ向かおうとしたとき、肉の焼ける音が聞こえてきた。


 鉄板の上で厚切りの肉が焼かれ、脂が落ちるたびに火が小さく上がっている。


「焼きたてだよ!」


 店主の声に、白鬼が足を止めた。


 黒鬼も続いて止まる。


 シグマは二人を見る。


「食べたいのか?」


「朝食から少し時間が経ちました」


「それほど経っていないと思うが」


「買い物は思ったより体力を使います」


「まだ大して歩いていないぞ」


 白鬼は串焼きから目を逸らさず、もっともらしい理由を並べ続ける。


 黒鬼は何も言わなかったが、その視線も肉に釘づけだった。


 シグマは小さく息を吐く。


「……分かった。三本もらおう」


「毎度あり!」


 義手の指で銅貨を渡し、串焼きを受け取る。


 白鬼と黒鬼へ一本ずつ手渡すと、二人の顔が明るくなった。


「ありがとうございます」


「……ありがとうございます」


 白鬼はすぐに肉へかじりついた。


「おいしいです」


 黒鬼も一口食べ、静かに頷く。


「……柔らかいです」


 シグマも自分の串を口に運ぶ。


 焼けた表面は香ばしく、中には肉汁が閉じ込められていた。


「確かに、これはうまいな」


「もう一本買いますか?」


「さすがに、まだ早いんじゃないか?」


 そう答えると、白鬼は残念そうに串を見た。


 それでも三人は、露店を進むたびに別の食べ物へ足を止めた。


 蜜を塗った焼き菓子。


 冷たい果汁。


 揚げた芋。


 香辛料を効かせた薄切り肉。


 気づけば、消耗品の買い出しよりも食べ歩きの方が目立ち始めていた。


「少し食べますか?」


 白鬼が焼き菓子をシグマへ差し出す。


「俺はいい。それは白鬼が食べたらどうだ?」


「同じ物を食べるより、色々な味を試した方が得ですよ」


「そういうものなのか?」


「そういうものです」


 押し切られる形で一口食べると、今度は黒鬼も果物を差し出してきた。


「……これも」


「黒鬼も分けてくれるのか?」


「……おいしかったので」


「そうか。なら、少しもらおう」


 シグマが差し出された果物を口にすると、黒鬼は満足したように、自分の分を食べ始めた。


 荷物を抱えながら食べ物を分け合う三人の姿は、傍目には買い出しというより、休日を楽しむ仲のよい三人に見えていた。


     ◇


 必要な品を買い終えた三人は、露店街の端にある噴水広場で休憩することにした。


 足元へ荷物を置き、噴水の縁へ腰を下ろす。


 近くでは子供たちが走り回り、旅芸人の奏でる笛の音が穏やかに流れていた。


「馬車が完成したら、すぐに出発するんですか?」


 白鬼が何気ない口調で尋ねた。


「準備が整えば」


「今回の依頼が終わったあとも、その馬車を使うんですよね?」


「ああ。そのつもりだ」


 シグマは噴水の水面を眺めながら答えた。


「依頼が終われば、また自分の記憶を探す旅に戻る」


 その言葉に、黒鬼が僅かに顔を伏せた。


「……やっぱり、行ってしまうんですね」


「最初から、そのつもりでアルランカへ来たんだ」


「そうでしたね」


 白鬼は普段より少し静かな声で答える。


 しばらく、噴水から流れ落ちる水の音だけが三人の間に響いた。


「もし……」


 黒鬼が膝の上で両手を握る。


「もし、私たちも行きたいと言ったら……迷惑ですか?」


 シグマはすぐには答えられなかった。


 黒鬼は俯いたまま、自分の指を強く握っている。


 白鬼は何も言わず、まっすぐシグマの返事を待っていた。


 二人から、これからも一緒にいたいと思われている。


 その事実に、胸の奥が僅かに温かくなる。


 嬉しくないはずがなかった。


 だが、その気持ちだけで二人を旅へ誘うことはできない。


 自分の旅には決まった行き先も、終わりもない。


 記憶の手掛かりを追うためなら、危険な土地へ足を踏み入れることもあるだろう。


 何より、白鬼と黒鬼には紅蓮がいる。


 三人には、失われた故郷と仲間を取り戻すという目的がある。


「迷惑だとは思わない」


 シグマは言葉を選びながら答えた。


 黒鬼が僅かに顔を上げる。


「二人が一緒に行きたいと言ってくれたことは……嬉しいと思う」


 口にしてから気恥ずかしくなり、シグマは噴水へ視線を戻した。


 白鬼の表情が少しだけ明るくなる。


 だが、シグマは続けた。


「ただ、ついてきてほしいかと聞かれると、今は答えられない」


「答えられないんですか?」


「ああ」


 シグマは両方の義手を見下ろした。


「俺の旅がどこへ向かうのか、自分でも分かっていない。危険な場所へ行く可能性もある」


「危険なのは、冒険者をしていれば同じです」


 白鬼が答える。


「それだけじゃない」


 シグマは首を振った。


「お前たちには紅蓮がいる。三人で果たさなければならない目的もあるだろう」


「それは分かっています」


「俺の言葉が原因で、三人が別々の道を選ぶことになるのは嫌なんだ」


 黒鬼が小さく息を呑んだ。


「……姉さんと、離れるからですか?」


「ああ」


 シグマは迷わず頷いた。


「俺は、お前たち三人の関係を壊してまで、一緒に来てほしいとは思っていない」


 白鬼が僅かに眉を下げる。


「では、来てほしくないんですか?」


「それも違う」


 シグマは少し困ったように答えた。


 二人と別れることを想像すれば、胸の奥には僅かな寂しさが生まれる。


 今日のように三人で歩く時間がなくなると思えば、惜しいとも感じる。


 だが、だからといって、自分と来ることを望んでいるとは言い切れなかった。


「来てほしくないわけではない。だが、来てほしいとも簡単には言えない」


 どちらとも決められない、曖昧な答えだった。


 だが、それが今のシグマの正直な気持ちだった。


「まず、紅蓮と話してくれ」


 シグマは二人を順番に見る。


「二人だけで決めることでも、俺だけで決めることでもないと思う」


「紅蓮と話して、それでも私たちが行きたいと言ったら?」


 白鬼が尋ねる。


「そのときは、改めて考える」


「考える、ですか?」


「ああ。今はそれ以上のことは言えない」


 白鬼は少し不満そうだったが、やがて静かに頷いた。


「分かりました。まずは紅蓮と話します」


 黒鬼も小さく頷く。


「……ちゃんと、話してみます」


「ああ。その方がいい」


 シグマはそう答えたものの、胸には小さな引っかかりが残った。


 二人に期待させてしまったのか。


 それとも、期待を裏切ったのか。


 自分でも分からなかった。


     ◇


露店街での買い物を終えた三人は、荷物を一度置くため、紅蓮たちが借りている家へ向かった。


 その家は街の外壁近くにあり、露店街から歩いてすぐの場所にある。


 赤い屋根が目印の、二階建ての家だった。


 庭はそれほど広くないが、三人で暮らすには十分な大きさがある。


「ここが私たちの家です」


 白鬼が門を開ける。


「借りているだけですけど」


「思ったより大きいな」


「紅蓮が、武器を置ける広さが必要だと言い張ったんです」


「大剣だからな」


 三人は家の中へ入った。


 玄関からは、まっすぐ奥へ廊下が伸びている。


 家具は少なく、生活に必要な物だけが置かれた簡素な家だった。


 入ってすぐ右側にある扉を、白鬼が開く。


 その先には、地下へ続く階段があった。


「荷物は下に置きます」


 三人は袋を抱えたまま階段を下りる。


 下へ進むにつれて、空気が少しずつ冷たくなっていった。


 地下室は石造りで、壁には冷気を発する魔石が等間隔に埋め込まれている。


 簡易的な保冷庫になっているらしい。


「肌寒いな」


「食料が傷みにくいようにしているんです」


 室内には木箱や棚が並び、干し肉、穀物、野菜、予備の資材などが保管されていた。


 白鬼は空いている木箱の蓋を開ける。


「買った物はここへ入れましょう」


 三人は薬草や魔石、食料品を種類ごとに分けて収納していく。


 黒鬼は几帳面に瓶の向きを揃え、白鬼は適当に放り込もうとしては黒鬼に無言で直されていた。


「黒鬼、そこまで綺麗に並べなくてもいいと思います」


「……取り出しやすい方がいいです」


「使えれば同じです」


「……駄目です」


「黒鬼は意外と頑固だな」


 シグマが言うと、黒鬼は少し恥ずかしそうに俯いた。


「……ごちゃごちゃしていると、落ち着かないので」


「それに比べて白鬼は雑だな」


「私は効率を重視しています」


「放り込むだけを効率とは言わない」


「細かいことは気にしない主義です」


 そんな他愛のない会話をしながら荷物を片付け、三人は再び家を出た。


     ◇


 道具屋は、西門へ向かう外壁沿いにあった。


 外壁は古く、屋根も少し傾いている。


 初めて見れば閉店していると思いそうな店だったが、白鬼は迷うことなく扉を開いた。


 からん、と鈴が鳴る。


「いらっしゃい!」


 店の奥から現れたのは、シグマより頭ひとつ大きい、筋骨隆々の男だった。


 片目を横切る古い傷と、太い腕。


 顔だけ見れば近づきがたいが、白鬼たちを見ると、すぐに気さくな笑みを浮かべた。


「おお、白鬼に黒鬼か。今日は紅蓮はいねえのか?」


「二日酔いです」


「はっはっは! あいつがか!」


「笑い事ではありません」


「いや、十分笑い事だろ」


 店主は豪快に笑ったあと、シグマへ目を向けた。


「そっちの兄ちゃんは?」


「シグマさんです。今、一緒に依頼を受けています」


「俺はガルドだ。昔は冒険者をやってた」


 ガルドは大きな手を差し出した。


 シグマが右手で握り返すと、ガルドの表情がほんの僅かに変わる。


 人の体温がない。


 硬く、冷たい、無機質な義手だった。


「……なるほどな」


 ガルドはそれだけ言うと、必要以上に問いかけることなく手を離した。


「よろしくな、シグマ」


「ああ。よろしく頼む」


 元冒険者だからこそ、聞かれたくない事情があることも分かるのだろう。


 ガルドはすぐに話題を変えた。


「それで、今日は何が欲しい?」


「馬車に積む野営道具を揃えたいんです」


「人数は?」


「五人です」


「なら、少し大きめの物が必要だな。見せてやる」


 ガルドは三人を店の奥へ案内した。


 そこには天幕、調理器具、毛布、縄、工具、魔石炉など、旅に使う道具が所狭しと並んでいる。


 ガルドはその中から、必要そうな物をひとつずつ選んでいった。


「この天幕なら五人でも使える。雨風にも強い」


「設営は難しいですか?」


「慣れれば一人でもできる。最初は二人でやれ」


 続いてガルドは、複雑な魔法文字が刻まれた鉄製の箱を取り出す。


「これは馬車用のアイテムボックスだ」


「見た目より物が入る物ですか?」


「そうだ。中では時間の流れも遅い。食料も長持ちする」


 白鬼の目が輝く。


「これは必要ですね」


「ただし、適当に放り込むと中で探す羽目になるぞ」


 ガルドは白鬼と黒鬼を見比べ、黒鬼を指した。


「管理はそっちの子に任せろ」


「どうして初対面の人にまで分かるんですか?」


「顔を見りゃ分かる」


 さらに、旅先で武器や防具の簡単な修理ができる魔法金床も紹介された。


「刃こぼれや防具の歪みくらいなら直せる」


「それは助かるな」


「鍛冶屋がない場所で武器が使えなくなったら、それだけで命取りだからな」


 ガルドの言葉には、元冒険者らしい実感がこもっていた。


 シグマたちは相談しながら、必要な道具を選んでいく。


 やがて、店の床には多くの荷物が積み上がった。


「全部で銀貨百枚だな」


「予算より高いですね」


 白鬼が積み上がった道具を見つめる。


「アイテムボックスと魔法金床を外すか?」


 ガルドが尋ねると、シグマは少し考えた。


「どちらも旅では役に立ちそうだ」


「俺もそう思う」


 ガルドは腕を組み、三人を見回した。


「まあ、紅蓮には世話になってる。それに、まとめて買ってくれるなら銀貨八十五枚でいい」


「十五枚も?」


「ああ。その代わり、紅蓮に酒を持って来させろ」


 白鬼が呆れたようにガルドを見る。


「二日酔いの人に、ですか?」


「飲むのは俺だ」


 ガルドは楽しそうに笑った。


「いつも約束だけして、手ぶらで来やがる。今度こそ持って来させろ」


「それなら伝えておきます」


「頼んだぞ」


「分かった。その条件でお願いする」


 代金を支払うと、ガルドは道具を馬車屋まで運んでくれることになった。


「馬車が完成したら、そのまま積めるようにしておく」


「助かる。ありがとう」


「出発前に、使い方を確認しに来いよ」


「ああ。そのときは頼む」


 三人はガルドへ礼を告げ、店をあとにした。


     ◇


 猫夜亭へ戻る頃には、昼を大きく過ぎていた。


 食堂へ入ると、紅蓮とシルフは椅子に座り、遅い昼食を取っていた。


 顔色はまだ少し悪いが、朝よりはかなり回復している。


「戻ったか」


 紅蓮が気まずそうに手を上げる。


「体調はどうだ?」


「頭は痛いが、もう動ける」


「うちもだいぶ戻ったで」


 シルフがそう言いながら、スープをゆっくり口へ運ぶ。


 黒鬼は頼まれていた酸っぱい果物をシルフへ渡した。


「これ、お土産です」


「ありがとう! 黒鬼ちゃんはほんま優しいなぁ」


 シルフは嬉しそうに受け取る。


「シグマさんも見習った方がええで」


「ちゃんと黒鬼が覚えていたから、任せたんだ」


「自分は買う気なかったみたいに聞こえるで」


「黒鬼が忘れていたら、俺が買っていたよ」


「ほんま?」


「ああ」


「……なら許したるわ」


「なぜ俺が許される側なんだ?」


 席へ着いた三人は、今日買った物を順番に報告した。


 薬草や魔石。


 保存食。


 天幕や調理道具。


 アイテムボックス。


 魔法金床。


 紅蓮は黙って話を聞いていたが、最後に値段を尋ねた。


「全部でいくらだ?」


「銀貨八十五枚だ」


 紅蓮の眉がぴくりと動く。


「予定より高いな」


「必要な物を揃えたら、この金額になりました」


 白鬼が答える。


「一度買えば長く使える。無駄な物はなかったと思う」


 シグマも続けると、紅蓮はしばらく黙った。


 本来なら自分も行くはずだった。


 二日酔いで任せきりにした以上、強く責める気にはなれないのだろう。


「……分かった」


 紅蓮は小さく息を吐いた。


「次からは高い物を買う前に相談してくれ」


「今回は相談する相手が机に突っ伏していましたから」


「白鬼」


「はい?」


「それ以上言うな」


 シルフは道具の内容を聞き、驚いたように目を丸くする。


「でも、アイテムボックスと魔法金床まで入っとるんやろ?」


「ああ」


「それで八十五枚なら、かなり安いと思うで」


「安くはない」


「お得と安いは違うねん」


「今、安いと言っただろう」


「細かいなぁ」


「金の話だからな」


 紅蓮とシルフが言い合いを始める。


 その様子を見て、シグマは二人が元気を取り戻したことに僅かに安堵した。


     ◇


 その日の夕食は、五人揃って取ることになった。


 昨夜の失敗を反省した紅蓮とシルフは、酒には手を出さず、食事だけを注文している。


 対してシグマは、いつもどおり強めの酒を注文し、何事もなかったように杯を傾けていた。


 卓上には、香ばしく焼かれた肉と、湯気を立てる野菜の煮込み、黒パンが並んでいる。


 賑やかな話し声。


 木製の杯がぶつかる音。


 給仕が忙しなく行き交う足音。


 夜の猫夜亭は、昼間以上の活気に満ちていた。


「シグマさん、今日も普通に飲むんやな……」


 シルフが恨めしそうに、シグマの杯を見つめる。


「俺は二日酔いではないからな」


「分かっとるけど、今は匂いだけでも頭が痛くなりそうや」


「なら、あまり見ない方がいい」


「昨日、飲みすぎたうちが悪いみたいな言い方やな」


「実際、飲みすぎたんだろう?」


「昨日のうちは、未来のうちが何とかすると思っててん」


「その未来のお前が苦しんでいるな」


「過去に戻って、昨日のうちを止めたいわ……」


「止めても飲むんじゃないか?」


「……否定できへん」


 シルフが情けない声を漏らすと、白鬼が小さく笑った。


 朝の重苦しい空気はすっかり消え、食卓には穏やかな時間が流れていた。


「今日は色々ありました」


 白鬼が楽しそうに、昼間の買い出しについて話し始める。


 露店で薬草や魔石を買ったこと。


 黒鬼が保管箱の中身を几帳面に並べ直していたこと。


 ガルドの店で、銀貨十五枚分も値引きしてもらったこと。


 そして――。


「シグマさんったら、私たちが腕を組んだだけで、すぐに顔を赤くしたんですよ」


 白鬼が悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「白鬼、その話はしなくてもいいだろう」


 シグマが僅かに眉を寄せる。


「シグマが?」


 紅蓮が意外そうにシグマを見る。


「はい。人が多くて暑いだけだと言っていましたけど、朝は涼しかったです」


「余計なところまで詳しく話さなくていい」


「本当のことですから」


 白鬼はまったく悪びれず、料理を口へ運ぶ。


 黒鬼は隣で俯きながら、耳まで少し赤くしていた。


「シグマさん、意外と初心なんやなぁ」


 シルフがにやにやしながら身を乗り出す。


「慣れる機会がなかっただけだ」


「つまり、慣れてへんことは認めるんや」


「否定する必要もないだろう」


「なんや、そこは素直なんやな」


「面白がることではないと思うぞ」


「うちは見たかったわぁ。白鬼ちゃんと黒鬼ちゃんに挟まれて、顔を真っ赤にしとるシグマさん」


「見世物ではない」


 シグマが困ったように杯を傾ける。


 その反応がよほど面白かったのか、シルフと白鬼は顔を見合わせて笑った。


 紅蓮も僅かに口元を緩めている。


 黒鬼だけは恥ずかしそうにしていたが、それでもどこか嬉しそうだった。


 食卓には笑い声が満ちていた。


 その空気が変わったのは、料理が半分ほどなくなった頃だった。


「……姉さん」


 黒鬼が静かに手を止めた。


 小さな声だった。


 それでも、先ほどまでとは明らかに違う硬さがあった。


 紅蓮が黒鬼を見る。


「どうした?」


 黒鬼は膝の上で両手を握りしめた。


 すぐには言葉が出てこない。


 白鬼がそんな黒鬼を横目で見たあと、代わるように口を開いた。


「紅蓮。相談があります」


「相談?」


「今回の依頼が終わったあとのことです」


 紅蓮の表情から、僅かに笑みが消えた。


 シグマも静かに杯を置く。


 木製の杯が卓へ触れ、こつん、と小さな音を立てた。


「シグマさんは、この依頼が終わったら、自分の記憶を探す旅に戻るそうです」


「ああ。それは知っている」


 紅蓮は短く答える。


 白鬼は一度だけ黒鬼と目を合わせた。


 黒鬼が小さく頷く。


「私たちも、シグマさんの旅についていきたいと思っています」


 その瞬間。


 卓の上から、音が消えた。


 周囲の客たちは、変わらず騒いでいる。


 冒険者たちの笑い声。


 注文を叫ぶ声。


 食器のぶつかる音。


 それなのに、五人のいる場所だけが、周囲から切り離されたように静まり返っていた。


 紅蓮は何も答えなかった。


 ただ、白鬼を見つめる。


 続いて、黒鬼へ視線を移した。


 黒鬼は俯きながらも、逃げることなく紅蓮の返事を待っている。


「二人ともか?」


 紅蓮が尋ねた。


「はい」


 白鬼は迷いなく答える。


「……私も、行きたいです」


 黒鬼も、消え入りそうな声ながら、はっきりと言った。


 紅蓮はしばらく黙っていた。


 膝の上に置かれた手が、ゆっくりと握られる。


「今日、急に決めたのか?」


「今日だけで決めたわけではありません」


 白鬼は紅蓮から目を逸らさない。


「前から、この依頼が終わっても、シグマさんと一緒にいられたらと思っていました」


「……私もです」


 黒鬼が続ける。


「シグマさんといると……安心できます」


 紅蓮の眉が僅かに動いた。


 視線がシグマへ向けられる。


「シグマ。お前は何と答えた?」


「俺だけで決められることではないと伝えた」


 シグマは静かに答える。


「二人が紅蓮と話し、自分たちで決めたなら、そのとき改めて考えると」


「改めて考える?」


「ああ」


 紅蓮はシグマの顔をじっと見つめた。


「お前は、二人についてきてほしいのか?」


 その問いに、白鬼と黒鬼もシグマを見る。


 四人分の視線が集まり、シグマは僅かに言葉を詰まらせた。


「……分からない」


 正直にそう答えた。


 白鬼の眉が僅かに動く。


「分からないんですか?」


「ああ」


 シグマは杯に置いていた義手を離し、二人へ向き直る。


「二人が一緒に来たいと言ってくれたことは、嬉しいと思った」


 黒鬼が僅かに顔を上げる。


「だが、だからといって、ついてきてほしいと簡単には言えない」


「危険だからか?」


 紅蓮が尋ねる。


「それもある。それに、俺には行き先も、旅がいつ終わるのかも分からない」


 シグマは一度言葉を切る。


「何より、俺のせいで三人が別々になるのは望んでいない」


 紅蓮は何も答えなかった。


 白鬼も、先ほどまでの勢いを失い、唇を結んでいる。


「二人に来てほしくないわけではない」


 シグマは続ける。


「だが、来てほしいとも言い切れない。それが今の俺の正直な気持ちだ」


 曖昧な答えだった。


 それでも、都合のよい言葉で取り繕うことはできなかった。


 白鬼と黒鬼が一緒に来れば、今までより賑やかになるだろう。


 今日のように、くだらないことで足を止めることもあるかもしれない。


 その光景を想像すると、胸の奥には僅かな温かさが生まれる。


 しかし同時に、二人が紅蓮や故郷への思いを置き去りにする姿も浮かんだ。


 そのどちらも、シグマは望んでいなかった。


「……そうか」


 紅蓮は短く答え、白鬼と黒鬼へ視線を戻した。


「なら、私の答えを言う」


 紅蓮は静かに箸を置く。


「私は反対だ」


 短く、迷いのない言葉だった。


 黒鬼の肩が僅かに揺れる。


 白鬼の表情からも、期待が消えた。


「……どうしてですか?」


 白鬼が静かに尋ねる。


「分かっているはずだ」


 紅蓮の声は低かった。


 怒鳴ってはいない。


 それでも、普段の豪快さとは違う、決して譲らない意思が込められていた。


「私たちには、果たさなければならない目的がある」


「忘れたわけではありません」


「なら、なぜシグマについていくなどと言う」


 紅蓮の言葉に、白鬼が唇を結ぶ。


「滅ぼされた街の生き残りを探す。散り散りになった仲間を集める。そして、いつか私たちの里を取り戻す」


 紅蓮の握った拳が、僅かに震えていた。


「あの日、失ったものを取り戻すために、私たちはここまで来たんだろう」


「……分かっています」


「分かっているようには見えない」


 紅蓮の言葉が鋭くなる。


 黒鬼が僅かに身を縮めた。


「シグマさんについていっても、仲間を探すことはできます」


 白鬼が反論する。


「シグマさんは各地を旅するんです。私たちだけで探すより、情報を集められるかもしれません」


「それは本当に、仲間を探すためか?」


「……どういう意味ですか?」


「お前たちは、シグマと離れたくないだけじゃないのか」


 白鬼の顔が強張った。


 すぐに言い返そうとしたが、声が出てこない。


 図星だった。


 仲間を探したいという気持ちは嘘ではない。


 だが、それ以上にシグマと共にいたいという思いがあることも、否定できなかった。


「それの何が悪いんですか?」


 白鬼が絞り出すように言う。


「シグマさんと一緒にいたいと思うことは、そんなに悪いことですか?」


「悪いとは言っていない」


 紅蓮は即座に答えた。


「だが、その気持ちだけで、自分たちが背負っているものから目を逸らすなと言っている」


「目を逸らしてなんて――」


「逸らしている」


 紅蓮の言葉が、白鬼の声を遮った。


「今のお前たちは、シグマと一緒にいることばかり考えている」


 白鬼は俯き、膝の上で拳を握る。


 黒鬼は黙ったままだった。


 長い前髪の奥から、ぽつりと声が漏れる。


「……私は、シグマさんと一緒にいたいです」


 紅蓮は黒鬼を見る。


「分かっている」


「でも……姉さんとも、白鬼とも離れたくないです」


 黒鬼の手が、膝の上で強く握りしめられる。


「仲間も探したいです。里も取り戻したいです」


 声が、僅かに震える。


「全部、大切なんです」


 紅蓮は何も言わなかった。


「どうして……どれか一つを諦めないといけないんですか?」


 黒鬼の声はか細かった。


 だが、その言葉は食卓の上へ重く落ちた。


 紅蓮はしばらく黒鬼を見つめたあと、ゆっくりと目を伏せた。


「全部を選べるほど、私たちは強くないからだ」


「……そんなの」


「今の私たちがシグマについていけば、仲間を探す旅は後回しになる」


 紅蓮は黒鬼の言葉を待たずに続ける。


「シグマにはシグマの目的地がある。私たちの都合で進む道を変えさせるわけにはいかない」


 シグマは何も言わなかった。


 紅蓮の考えは理解できる。


 だからといって、白鬼と黒鬼の気持ちを否定したくもない。


 自分が何かを言えば、二人へ期待を持たせるか、あるいは傷つけることになる。


 そのどちらも選べず、シグマはただ杯へ視線を落とした。


「私は反対だ」


 紅蓮は改めて言い切った。


「今回の依頼が終わったら、私たちは仲間を探す旅に戻る。シグマとは別の道を行く」


 白鬼の顔が俯く。


 黒鬼の肩が小さく震えた。


「……決定ですか?」


 白鬼の声から、普段の明るさは消えていた。


「ああ」


「私たちの気持ちは、関係ないんですね」


「そういう意味ではない」


「でも、最初から答えは決まっていたんでしょう?」


「白鬼」


「少しくらい、考えてくれてもよかったんじゃないですか?」


 白鬼の声が僅かに強くなる。


 紅蓮も険しい表情で見返した。


「考えたからこそ、反対している」


「私には、そうは見えません」


「なら、どう見える」


「私たちを子供扱いして、自分の考えを押しつけているように見えます」


 紅蓮の表情が固まった。


 空気が張り詰める。


 黒鬼が慌てて白鬼の袖を掴んだ。


「……白鬼」


 白鬼はそれ以上言わなかった。


 だが、紅蓮から顔を背けたまま、拳を握りしめている。


 紅蓮も何かを言い返そうとしたが、結局、言葉にはしなかった。


 卓上の料理から立ち上っていた湯気は、いつの間にか弱くなっていた。


 誰も箸を動かさない。


 先ほどまで賑やかだった五人の食卓に、息苦しい沈黙だけが残る。


 周囲の笑い声が、ひどく遠く感じられた。


「……今日は帰る」


 紅蓮が低い声で言い、席を立った。


 椅子の脚が床を擦り、耳障りな音を立てる。


「白鬼、黒鬼。行くぞ」


 黒鬼はすぐには立ち上がらなかった。


 一度だけシグマを見る。


 前髪の奥の表情は見えない。


 それでも、今にも泣き出しそうなことだけは伝わってきた。


「……また、明日」


「ああ。また明日」


 シグマはそれしか答えられなかった。


 黒鬼は小さく頷き、席を立つ。


 白鬼はシグマを見ることなく、紅蓮のあとを追った。


 三人が猫夜亭を出る。


 扉が閉まる直前まで、誰も言葉を交わさなかった。


     ◇


 あとに残されたのは、シグマとシルフの二人だけだった。


 卓上には食べかけの料理が残されている。


 先ほどまで五人で囲んでいたはずの卓が、急に広くなったように感じられた。


 シグマは閉じた扉を見つめたまま、動かなかった。


 シルフも珍しく何も言わず、スープの中へ匙を沈めている。


 食堂は変わらず賑やかだった。


 だが、二人の間には、重く冷たい沈黙が横たわっていた。


 シグマは酒の入った杯へ視線を落とす。


 二人が一緒に来たいと言ってくれたことは、確かに嬉しかった。


 自分と共にいることを望んでくれる者がいる。


 記憶を失ってから、そんなふうに必要とされた覚えはほとんどない。


 だからこそ、胸の奥には僅かな温かさが残っている。


 だが、その温かさだけを理由に、二人を連れていくことはできない。


 紅蓮の言うことは間違っていない。


 白鬼と黒鬼の気持ちも間違っていない。


 どちらを選んでも、誰かが傷つく。


「……難しいな」


 シグマが小さく呟く。


「何が?」


「二人が来たいと言ってくれたことは、嬉しい」


 シグマは言葉を探しながら続ける。


「だが、本当についてきてほしいのかと聞かれると、自分でも分からない」


 シルフは黙って聞いている。


「二人と別れれば、少し寂しいとは思う。だが、俺と来ることで紅蓮と別れたり、三人の目的を諦めたりしてほしいわけでもない」


「せやな」


「俺の旅は、誰かを連れていけるようなものなのかも分からない」


 シグマは義手の指で杯を静かに回す。


「だから、紅蓮に反対されて残念だったのか、安心したのか……それすら分からない」


 自分でも整理できない感情だった。


 白鬼と黒鬼が一緒に来る未来を考えれば、悪くないと思う。


 だが、三人が別れる姿を想像すれば、それは違うとも思う。


 嬉しさと戸惑い。


 寂しさと安堵。


 相反する感情が胸の中で絡み合い、答えを出せずにいた。


「それでええんちゃう?」


 シルフがぽつりと言った。


「今すぐ答え出さなあかんことでもないやろ」


「そうかもしれないな」


 そこで会話が途切れた。


 重い空気は消えない。


 シルフは何度かシグマへ視線を向けては、何かを言おうとして口を閉じる。


 やがて、意を決したように両手を卓へ置いた。


「なあ、シグマさん」


「なんだ?」


「今の空気、めっちゃ重いやろ?」


「……そうだな」


「せやから、風の勇者であるうちが、ぱーっと吹き飛ばしたろ思うねん」


 シグマは無言でシルフを見る。


 シルフは妙に得意げに胸を張った。


「風だけにな!」


「…………」


「ほら。風が吹いたら、空気も変わるやろ?」


「…………」


 沈黙。


 シルフの自信に満ちた笑顔が、少しずつ引きつっていく。


「……あれ?」


「…………」


「今の、結構うまいこと言うたと思ったんやけど」


「……そうか」


「反応、薄すぎへん?」


「どう反応すればいいのか、分からない」


「笑うとかあるやん!」


「今のは少し難しいな」


「遠回しに面白くない言うとるやん!」


 シルフはがっくりと肩を落とし、そのまま卓へ突っ伏した。


「うち、風の勇者やのに……空気一つ変えられへんなんて……」


「寒くはなったな」


「変わったの温度の方やん!」


「風が吹いた結果なら、間違ってはいないだろう」


「そこだけ冷静に分析せんといて!」


 あまりにも必死なその姿に、シグマの口元が僅かに緩んだ。


「……ふっ」


 小さな笑い声が漏れる。


 シルフが勢いよく顔を上げた。


「今、笑った!」


「笑っていない」


「いや、絶対笑ったで! 今、ふって言うたもん!」


「息を吐いただけだ」


「そんな都合のええ息あるか!」


「気のせいじゃないか?」


「気のせいやない! うちの寒い冗談で笑ったんや!」


「自分で寒いと言うのか」


「今、寒いって認めたんシグマやろ!」


 シルフは頬を膨らませる。


 だが、その目はどこか満足そうだった。


 先ほどまで卓上へ重く沈んでいた空気が、ほんの少しだけ動いたように感じられる。


 シグマは杯から手を離し、僅かに表情を緩めた。


「……ありがとう」


「え?」


「少し、気が楽になった」


 シルフは一瞬目を丸くしたあと、にっと笑った。


「そらよかったわ」


 シルフの寒い冗談で問題が解決したわけではない。


 紅蓮の反対も、白鬼と黒鬼の気持ちも、何一つ変わってはいない。


 それでも、答えの出ない感情を今すぐ無理に整理する必要はないのだと思えた。


     ◇


 食事を終え、自室へ戻る途中。


 シグマは廊下の窓際で足を止めた。


 夜の街にはいくつもの灯りがともり、遠くから人々の笑い声が聞こえてくる。


 黒鬼の震えた声。


 白鬼の傷ついた表情。


 紅蓮の迷いのない言葉。


 二人についてきてほしいのか。


 それとも、紅蓮と共に行ってほしいのか。


 考えても答えは出なかった。


 ただ、二人から一緒にいたいと言われたことが嬉しかった。


 そして、別れることを考えれば、僅かな寂しさを感じる。


 それだけは確かだった。


 だが、その感情だけで二人の道を決めることはできない。


「……明日、もう一度話そう」


 紅蓮とも。


 白鬼とも。


 黒鬼とも。


 自分の気持ちを押しつけるのではなく、まず三人の考えを聞く。


 そのうえで、自分がどう思っているのかも、少しずつ考えればいい。


 シグマは窓から離れ、自室へ向かう。


 ただの買い出しで終わるはずだった一日は、五人の間に小さな亀裂と、簡単には言葉にできない複雑な思いを残して、静かに幕を閉じた。

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