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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第四話 盗賊討伐

 街道を半刻ほど進んだところで、シグマたちは足を止めた。


 門兵から聞いた話では、盗賊に襲われた商人たちが最後に目撃されたのは、この辺りだという。


 周囲には木々が生い茂り、街道の左右には深い森が広がっている。一見しただけでは、人が通ったような場所は見当たらない。


「手分けして調べるぞ。ただし、互いの姿が見える範囲から離れるな」


 紅蓮の指示に、全員が頷いた。


 シグマは街道の端へしゃがみ込み、地面へ視線を落とす。


 土の表面は不自然なほど平らに均されていた。しかし、完全に痕跡を消すことはできなかったらしい。薄く残った靴跡が、森の方角へ続いている。


 木の幹には、荷箱か荷車をぶつけたような傷。


 低い枝には、何か重い物を引っ掛けた跡。


 踏み倒された草も、上から新しい草を被せて隠されていた。


「こっちだ」


 シグマの声に、四人が集まってくる。


 草木をよく観察すると、その奥に人一人が通れるほどの細い脇道が隠されていた。


 枝葉を重ね、遠目にはただの茂みに見えるよう細工されている。


「門の兵士が言っていた道で間違いなさそうだな」


 紅蓮が周囲を警戒しながら呟く。


「ほな、さっそく行こか!」


 シルフは迷うことなく枝をかき分け、脇道へ飛び込もうとした。


 しかし、その身体が前へ進むことはなかった。


「へ?」


 紅蓮がシルフの首根っこを掴み、そのまま軽々と持ち上げていた。


 両足が地面から離れ、シルフが宙ぶらりんになる。


「ちょ、紅蓮!? 何すんねん!」


 紅蓮は暴れるシルフを自分の顔へ近づけると、声を潜めて耳元へ囁いた。


「勝手な行動はするなと、昨日言ったはずだが?」


「……はい」


「聞いていなかったのか?」


「聞いてました……」


「では、なぜ一人で入ろうとした?」


「道があったから、つい……」


 紅蓮の目が細くなる。


 シルフは叱られた子供のように肩を縮めた。


「ごめんなさい……」


 その様子を見ていた白鬼が、口元を押さえながら小さく笑う。


 黒鬼は何も言わなかったが、前髪の奥から心配そうにシルフを見上げていた。


 紅蓮は深いため息をつき、シルフを地面へ下ろす。


「シグマ。偵察を頼めるか?」


「ああ」


「危険だと判断したら、無理をせず戻れ」


 シグマは頷くと、隠された脇道へ入った。


◇


 細い道は、左右から伸びた枝葉に覆われていた。


 普通に歩けば、草を踏む音や枝を折る音が出る。


 シグマは道から少し外れ、近くの木へ飛び乗った。


 枝から枝へ。


 身体を低くし、木々の間を音もなく進んでいく。


 鳥が枝を移るよりも静かだった。


 少し進んだところで、シグマは突然足を止めた。


 前方から、微かな話し声が聞こえる。


 太い幹の陰に身を隠し、慎重に様子を窺った。


 開けた場所に、二人の男が立っている。


 一人は腰に剣を差し、もう一人は背に弓を背負っていた。


 その背後には、山肌に開いた大きな洞窟。


 入口の近くには、荷車や木箱、空になった樽が無造作に積み重ねられている。


「中の連中、まだ飲んでるのか?」


「昨日の獲物が上物だったからな。頭も機嫌がいい」


「それにしても、見張りなんて必要か? こんな場所、誰も見つけられねえだろ」


「油断すんな。最近は冒険者が嗅ぎ回ってるって話だ」


「来たところで返り討ちだろ。中には二十人以上いるんだぞ」


 シグマは男たちの会話を聞きながら、洞窟の入口を確認する。


 盗賊のアジトで間違いない。


 敵は最低でも二十人。


 予想よりも多い。


 さらに詳しく調べることもできたが、洞窟へ入れば発見される危険が一気に高くなる。


 シグマは無理をせず、来た道を引き返した。


◇


「洞窟の前に見張りが二人。一人は剣、一人は弓だ」


 偵察から戻ったシグマは、見たものと聞いたものを紅蓮たちへ伝えた。


「中には二十人以上いるらしい」


「二十人以上か……」


 紅蓮の表情が険しくなる。


 当初の情報では、盗賊は最低八人。


 倍どころではない。


「ここでは話しづらい。場所を移すぞ」


 紅蓮は四人を連れ、脇道から少し離れた川辺へ向かった。


 流れる水の音が会話をかき消してくれる。盗賊の見張りに聞かれる心配も少ない。


 紅蓮は大きな岩へ地図を広げた。


「今分かっているのは、アジトが洞窟であること。見張りが二人。そして、敵が二十人以上いることだ」


「弓を使う者も、他にいる可能性が高い」


 シグマが付け加える。


「洞窟の中がどうなっているかは分からへんの?」


「そこまでは調べていない。中に入れば、見つかる危険が高かった」


「それで正解だ」


 紅蓮は迷わず答えた。


 今回の依頼には、盗賊討伐のほかに、五人の連携を確認するという目的もある。


 だが、連携の確認を優先して命を危険に晒すつもりはない。


「敵の人数を考えれば、いったん街へ戻り、兵士の増援を頼むのが確実だ」


「戻るん?」


 シルフが少し不満そうに尋ねる。


「最後まで聞け」


 紅蓮が睨むと、シルフは慌てて口を閉じた。


「だが、敵はこちらに気づいていない。見張りを静かに倒せれば、奇襲できる可能性はある」


 紅蓮は地図の上へ指を置く。


「洞窟へ入った後、敵の数や状況を確認する。人質がいる場合は救出を優先。無理だと判断した時点で撤退する」


「それなら異議はない」


 シグマが頷く。


 白鬼と黒鬼も頷いた。


「シルフはどうだ?」


「もちろん賛成や!」


「ただし、私の指示より先に動くな」


「分かっとるって!」


「本当に分かっているのか?」


「今度こそ大丈夫や!」


 自信満々に胸を張るシルフを見て、紅蓮は不安そうに眉を寄せた。


◇


 五人は見張りから見えない位置まで移動した。


 木々の隙間から、洞窟の入口が僅かに見える。


 見張りの二人は、相変わらず退屈そうに立っていた。


「シルフ」


 紅蓮が小声で呼ぶ。


「二人を同時に仕留められるか?」


「任せとき」


 先ほどまでの軽い表情が消える。


 シルフは背負っていた弓を手に取ると、矢筒から二本の矢を抜いた。


 二本を同時に弦へ番え、静かに引き絞る。


 狙う先は、離れた位置に立つ二人の見張り。


 風が止んだ。


 葉擦れの音すら消え、周囲が静寂に包まれる。


 シルフの髪が、魔力に反応するようにふわりと揺れた。


「……今や」


 二本の矢が放たれる。


 ほぼ同時に飛び出した矢は、途中で僅かに軌道を変え、それぞれ別の男へ向かった。


「ん?」


 弓を持った男が異変に気づき、腰に下げた警鐘へ手を伸ばす。


 だが、遅い。


 一矢が男の喉を貫く。


 もう一矢は、剣を抜こうとした男の額へ突き刺さった。


 二人の身体が、ほぼ同時に地面へ崩れ落ちる。


「……すごい」


 黒鬼が、思わず小さな声を漏らした。


 白鬼も目を輝かせている。


「二本同時に撃ったのに、別々の場所へ飛んでいったよ!」


「風で少し軌道を変えたんや。あれくらいなら簡単やで」


 シルフは得意げに笑った。


「見直したぞ、シルフ」


 紅蓮が素直に褒める。


「せやろ? もっと褒めてもええんやで?」


「調子に乗るな。行くぞ」


「もうちょっと褒めてくれてもええやん!」


 抗議するシルフを残し、紅蓮は洞窟へ向かう。


 シグマがその後へ続き、白鬼と黒鬼も歩き出した。


「待ってや!」


 慌ててシルフも四人を追いかけた。


◇


 洞窟の中は、外から見た以上に広かった。


 天井は高く、大剣を振り回しても余裕がある。


 岩壁には一定の間隔で松明が取り付けられ、奥へ続く通路を照らしていた。


 鼻を刺す酒の臭い。


 焼いた肉の臭い。


 湿った土と汗が混ざった、不快な空気。


 通路の端には、奪われたと思われる荷箱や武器、防具が積み上げられている。


 壊れた馬車の車輪。


 血の付いた衣服。


 さらに奥には、人のものと思われる白骨まで転がっていた。


 シルフの表情から笑みが消える。


「……こいつら」


「今は声を抑えろ」


 紅蓮に言われ、シルフは唇を噛みながら頷いた。


 五人は足音を立てないよう、洞窟の奥へ進んでいく。


 通路はいくつか枝分かれしていたが、人の声と明かりを頼りに進めば迷うことはなかった。


 やがて、前方から大きな笑い声が響いてくる。


「酒を持ってこい!」


「昨日の商人、ずいぶん金を持ってたな!」


「あの荷ならしばらく遊んで暮らせるぜ!」


 五人は岩陰へ身を隠し、慎重に広間を覗き込んだ。


 洞窟の奥には、酒場ほどの広さを持つ空間があった。


 盗賊たちは焚き火を囲み、酒を飲みながら騒いでいる。


 人数は二十人を超えていた。


 壁際には弓が立て掛けられ、その近くに数人の男が座っている。


 広間の一番奥。


 粗末な椅子へ、ひときわ大柄な男が腰掛けていた。


 身長は二メートル近く、片目には大きな傷がある。傍らには、紅蓮の大剣にも劣らない巨大な戦斧が置かれていた。


 あれが盗賊の頭だろう。


 さらに、盗品が積み上げられた場所の隣には、縄で縛られた三人の商人がいた。


 顔には殴られた痕があるが、まだ生きている。


 紅蓮は人数と配置を確認すると、音を立てずに仲間の元へ戻った。


「敵は二十二人。奥に盗賊頭らしき大男がいる。人質は三人だ」


「助けなあかんな」


「ああ。だから大規模な魔法は使えない」


 紅蓮は全員を見回す。


「作戦を説明する」


 四人が耳を傾ける。


「まず、私とシグマが正面へ出る。敵の注意をこちらへ引きつける」


「二人だけで大丈夫なん?」


「倒す必要はない。敵を広間の中央へ集めるだけだ」


 紅蓮はシルフを見る。


「シルフは高い位置を取り、弓を持つ者を優先して狙え。人質の近くに敵が向かった場合は、そちらを止めろ」


「任せとき」


「白鬼は火の魔法を使うな。洞窟が崩れる可能性もあるし、火が人質へ燃え移る危険もある」


「分かりました」


「氷か風で、敵の動きを制限してくれ」


「はい!」


「黒鬼は補助と回復だ。人質を守るための防御魔法も頼む」


「……うん。やってみる」


 黒鬼は緊張した様子だったが、しっかりと頷いた。


「盗賊頭は私が抑える。シグマは周囲を減らしてくれ」


「了解した」


「危険だと感じたら、すぐに声を上げろ。勝手な判断で無理をするな」


 紅蓮の視線がシルフへ向く。


「なんでうちを見るん?」


「心当たりがないのか?」


「……気をつけます」


「よし。行くぞ」


◇


 紅蓮とシグマは岩陰から姿を現し、堂々と広間へ足を踏み入れた。


 最初に気づいた盗賊が、酒の入った木杯を落とす。


「誰だ、てめえら!」


 その声に、広間の視線が一斉に二人へ集まった。


 盗賊たちは次々と立ち上がり、剣や斧を手に取る。


 しかし、現れたのが二人だけだと分かると、すぐに笑い声が上がった。


「なんだ、二人だけかよ!」


「女と、細いガキじゃねえか!」


「冒険者か? 俺たちを捕まえに来たのかよ!」


 大柄な盗賊頭も椅子へ座ったまま、紅蓮たちを見下ろしている。


「命が惜しければ武器を捨てろ」


 紅蓮が大剣を抜きながら告げた。


 一瞬の静寂。


 直後、盗賊たちは腹を抱えて笑い出した。


「聞いたか、頭!」


「俺たちに武器を捨てろだとよ!」


「女は生け捕りにしろ! 男は殺せ!」


 数人の盗賊が、紅蓮とシグマを取り囲むように広がっていく。


 弓を持つ男たちは、壁際に立て掛けられていた弓へ手を伸ばした。


 その瞬間。


「遅いで」


 岩棚の上から、シルフの声が響いた。


「上だ!」


 盗賊たちが顔を上げる。


 シルフはすでに三本の矢を番え、弓を引き絞っていた。


「まずは三人!」


 放たれた三本の矢が、風を纏いながら広間を駆け抜ける。


 一人目の肩。


 二人目の手首。


 三人目の太腿。


 弓を構えようとした三人が、次々と悲鳴を上げて倒れた。


「弓使いだ!」


「先にあいつを狙え!」


 別の盗賊が短剣をシルフへ投げつける。


 だが、短剣は彼女へ届く直前、不自然に軌道を逸らして岩壁へ突き刺さった。


 シルフの周囲を、目には見えない風が渦巻いている。


「そんなもん、うちには当たらへんで!」


 続けざまに矢を放つ。


 一射。


 二射。


 三射。


 矢は盗賊の武器を持つ腕や足を正確に射抜き、次々と戦闘不能にしていく。


「くそっ、速すぎる!」


「構っている暇があるのか?」


 紅蓮が踏み込んだ。


 大剣が横薙ぎに振るわれる。


 三人の盗賊が武器ごと吹き飛ばされ、岩壁へ叩きつけられた。


 あまりの威力に、広間全体が震える。


「ば、化け物……!」


「誰が化け物だ」


 紅蓮が低い声で睨む。


 その隣では、シグマが盗賊たちの懐へ飛び込んでいた。


「囲め!」


「素手だ! 一斉にかかれ!」


 四方から剣と斧が振り下ろされる。


 シグマは身体を沈め、最初の斬撃を紙一重で避ける。


 空振りした男の腕を掴み、その勢いのまま隣の盗賊へ投げ飛ばした。


 二人が折り重なって倒れる。


 背後から別の男が斧を振り下ろす。


 シグマは振り返らない。


 半歩横へずれると、斧が地面へ突き刺さった。


 男の腹へ肘を打ち込み、身体が折れ曲がったところへ膝蹴りを叩き込む。


「ぐはっ!」


 盗賊の身体が浮き上がった。


 さらに右から迫った剣を義手で受け止める。


 金属音が響き、剣の刃が途中から砕けた。


「なっ……!」


 驚愕する男の胸へ掌底を放つ。


 男は数人を巻き込みながら吹き飛んだ。


「こいつ、本当に人間かよ!」


「シグマ! 伏せて!」


 シルフの声。


 シグマは迷わず身を低くした。


 その頭上を、三本の矢が通過する。


 矢はシグマの背後から迫っていた三人の足へ突き刺さり、その動きを止めた。


「助かった」


「礼は後でええ! 右から二人来るで!」


 言われるより早く、シグマは地面を蹴った。


 一人目の顔へ跳び蹴り。


 着地と同時に身体を回転させ、二人目の足を払う。


 宙へ浮いた男の腹へ拳を叩き込み、地面へ沈めた。


 シグマとシルフ。


 二人は初めて共に戦っているとは思えないほど、互いの動きを邪魔せず敵を倒していく。


「白鬼!」


 紅蓮が叫ぶ。


「はい!」


 後方で待機していた白鬼が杖を掲げた。


 足元に青白い魔法陣が広がる。


「凍てつく氷よ――敵の足を封じて!」


 地面を冷気が走る。


 盗賊たちの足元が一瞬で凍りつき、数人がその場から動けなくなった。


「足が!」


「くそっ、外れねえ!」


「今や、紅蓮!」


「分かっている!」


 紅蓮が大剣の腹を使い、動けなくなった盗賊たちをまとめて薙ぎ払う。


 まともに刃を当てずとも、その重さだけで男たちは意識を失った。


 別の盗賊が人質の方へ走り出す。


「動くな! こいつらがどうなっても――」


「させへん!」


 シルフが矢を放つ。


 男が人質へ剣を向けるより先に、その手の甲を矢が貫いた。


「ぎゃああっ!」


 剣が地面へ落ちる。


 続く二本目が男の足元へ突き刺さり、纏った風が男の身体を弾き飛ばした。


「人質に手ぇ出す奴は、絶対に許さへんで」


 シルフの声から、普段の軽さが消えていた。


 緑色の髪が風に揺れ、その瞳は盗賊を鋭く睨みつけている。


 その姿は、紛れもなく勇者だった。


「黒鬼! 人質を!」


「……うん!」


 黒鬼は前へ出ると、杖を両手で握りしめた。


「守護の光よ……彼らを守って」


 淡い光の膜が三人の商人を包み込む。


 続けて、紅蓮たちの身体にも白い光が宿った。


「身体強化……防御強化……」


 シグマは、自分の身体が急に軽くなるのを感じた。


 先ほどまでよりも速く動ける。


 盗賊の剣を義手で受けても、衝撃がほとんど伝わってこない。


「これは……」


「黒鬼の補助魔法だ」


 紅蓮が盗賊を斬り伏せながら答える。


「遠慮なく使え!」


「ああ」


 シグマはさらに速度を上げた。


 残った盗賊たちは、シグマの姿を目で追うことすらできない。


 拳。


 肘。


 蹴り。


 必要最小限の動きで、一人ずつ確実に倒していく。


 紅蓮が正面から敵陣を崩し。


 白鬼が氷で動きを封じ。


 黒鬼が仲間を強化し、人質を守る。


 そして、逃げようとする者や弓を取ろうとする者を、シルフが正確に射抜いていく。


 五人の役割が、徐々に一つへ噛み合っていった。


「なんなんだ、こいつら……!」


「聞いてねえぞ! こんな化け物どもが来るなんて!」


「逃げろ!」


 数人の盗賊が、広間の奥へ逃げようとする。


 シルフは矢筒へ手を伸ばした。


 残る矢を確かめると、口元へ笑みを浮かべる。


「逃がすと思う?」


 四本の矢を同時に番える。


「風よ――うちの矢を運んで!」


 放たれた矢が風に乗り、複雑な軌道を描きながら飛んでいく。


 四本の矢は逃げる盗賊たちの前へ突き刺さり、激しい風を巻き起こした。


「うわああっ!」


 盗賊たちは風に押し戻され、広間の中央へ転がっていく。


「今や!」


 白鬼が杖を振る。


 盗賊たちの周囲を氷が囲み、その場へ閉じ込めた。


「ええ連携やな!」


「自分で言うな」


 紅蓮が呆れながらも、僅かに笑った。


 やがて、立っている盗賊はほとんどいなくなった。


 そのとき。


 広間の奥から、低い笑い声が響く。


「情けねえ連中だ」


 盗賊頭が椅子から立ち上がった。


 巨大な手で戦斧を掴み、肩へ担ぐ。


 先ほどまで座っていたとは思えないほどの威圧感が、広間全体を包み込んだ。


「二十人以上いて、たった五人にやられるとはな」


 盗賊頭は倒れた仲間たちを一瞥すると、唾を吐き捨てた。


「使えねえ」


「仲間を何だと思っている」


 紅蓮が盗賊頭の前へ立つ。


「金を運ぶ道具だ。それ以外に何がある?」


「最低だな」


「盗賊に何を期待してるんだ?」


 盗賊頭が戦斧を構える。


「お前は強そうだ。女にしておくには惜しい」


「黙れ」


 紅蓮も大剣を構えた。


 二人が同時に地面を蹴る。


 戦斧と大剣が激突した。


 耳をつんざくような金属音。


 衝撃波が広がり、焚き火の炎が大きく揺れる。


「ぐっ……!」


 紅蓮の足が僅かに後ろへ滑った。


 純粋な力だけなら、盗賊頭が上回っている。


「どうした! その程度か!」


 盗賊頭が戦斧を振り回す。


 紅蓮は大剣で受け止めるが、重い一撃が打ち込まれるたびに腕が痺れた。


 盗賊頭が大きく戦斧を振り上げる。


「潰れろ!」


 紅蓮へ向けて振り下ろされた。


 だが。


 シグマが横から飛び込み、戦斧の柄へ蹴りを叩き込む。


 軌道を逸らされた刃が、地面へ深く突き刺さった。


「てめえ!」


 盗賊頭が片手を離し、シグマへ拳を振るう。


 シグマは両腕を交差させて受け止めたが、身体ごと後方へ吹き飛ばされた。


「シグマ!」


 黒鬼がすぐに回復魔法を放つ。


 淡い光がシグマを包み、腕に走った痛みが和らいでいく。


「大丈夫だ」


 シグマは空中で体勢を整え、地面へ着地した。


「紅蓮! 正面から力で押したらあかん!」


 シルフが岩棚の上から叫ぶ。


「分かっている!」


「ほんまに分かっとる!?」


「今それを言う必要があるか!」


 盗賊頭が戦斧を地面から引き抜く。


「戦ってる最中に喧嘩してんじゃねえ!」


 その巨体からは想像できない速さで、紅蓮へ迫った。


「させへん!」


 シルフが二本の矢を放つ。


 一本目は盗賊頭の右肩。


 だが、男は戦斧の腹で矢を弾いた。


 二本目は膝を狙う。


 盗賊頭は身体を捻り、矢を避けた。


「当たらねえぞ!」


「それでええんや」


「何?」


 避けた先。


 そこにはシグマが待ち構えていた。


 踏み込んだ拳が、盗賊頭の脇腹へ突き刺さる。


「ぐっ!」


 巨体が初めて大きく揺れた。


「今です!」


 白鬼の杖が地面へ向けられる。


「氷鎖!」


 地面から伸びた氷の鎖が、盗賊頭の両足へ絡みつく。


「こんなもの!」


 盗賊頭が力任せに引きちぎろうとする。


 氷へ亀裂が走る。


「黒鬼!」


「身体強化……紅蓮さんへ!」


 黒鬼の魔法が紅蓮へ集中する。


 淡い光が紅蓮の全身を包み、その腕へ力が満ちていく。


「シルフ!」


「分かっとる!」


 シルフが弓を引き絞った。


 周囲の風が一本の矢へ集まっていく。


 矢を中心に、小さな渦が生まれた。


「風穿ち!」


 放たれた矢は、先ほどまでとは比較にならない速さで飛んだ。


 盗賊頭が戦斧で防ごうとする。


 矢は戦斧の刃へ当たり、纏った風を炸裂させた。


「なっ――!」


 凄まじい衝撃に戦斧が弾かれ、盗賊頭の両腕が大きく開く。


「今や、紅蓮!」


「言われなくとも!」


 紅蓮が一気に間合いを詰めた。


 大剣を横へ構える。


「これで――終わりだ!」


 刃ではなく、大剣の腹を盗賊頭の胴体へ叩き込む。


 轟音。


 盗賊頭の巨体が地面から浮き上がり、広間の奥にある岩壁へ激突した。


 岩肌へ亀裂が走り、土煙が舞い上がる。


 戦斧が地面へ落ちた。


 煙が晴れると、盗賊頭は白目を剥き、その場に倒れていた。


 しばらくの沈黙。


 誰も動く者はいない。


「……終わったん?」


 シルフが弓を下ろしながら尋ねる。


 シグマは盗賊頭へ近づき、呼吸を確認した。


「生きている。意識はない」


「よし。全員を拘束するぞ」


 紅蓮が大剣を背へ戻した。


 シルフは岩棚から飛び降りると、大きく息を吐く。


「疲れたぁ……」


「かなり余裕そうに見えたが?」


「勇者やからな!」


「では、拘束を手伝え」


「そこは少し休ませてくれてもええやん!」


「働け」


「紅蓮は人使いが荒いわ!」


 文句を言いながらも、シルフは縄を拾った。


◇


 盗賊たちを全員拘束した後、三人の商人を解放した。


「た、助かった……」


「ありがとうございます! 本当に……!」


 商人たちは何度も頭を下げる。


 怪我をしていたため、黒鬼が一人ずつ治療を行った。


 命に関わる傷はなかったが、数日間まともな食事を与えられていなかったらしい。白鬼が持っていた水と保存食を渡すと、三人は涙を流しながら口へ運んだ。


 洞窟の奥には、大量の宝箱や荷物が残されていた。


 金貨。


 宝石。


 武器。


 衣服。


 食料。


 どれも盗賊たちが、これまで襲ってきた者から奪った物だ。


「これ、全部うちらが持って帰ってええん?」


 目を輝かせるシルフへ、紅蓮が首を横に振る。


「駄目だ。盗品は持ち主へ返還される」


「一個くらいなら分からへんのと違う?」


「駄目だ」


「冗談やって!」


 シルフは笑って誤魔化した。


 紅蓮は回収用の札を取り出し、宝箱の蓋へ貼り付ける。


 札には討伐した冒険者の名と、発見した盗品のおおよその量を記す決まりになっている。


 後ほど兵士たちが荷物を回収し、持ち主を調べて返還する。


「返還された財産のうち二割が、討伐した冒険者への謝礼になる」


「二割ももらえるん?」


「ああ。ただし、持ち主が判明した物だけだ」


「十分やん!」


 落ち込んでいたシルフが、一瞬で元気を取り戻した。


「現金な奴だな」


「お金は大事やで?」


「否定はしない」


 連絡を受けて到着した兵士たちへ、盗賊と商人たちを引き渡す。


 盗賊の数を見た兵士たちは驚いていたが、五人に何度も礼を述べた。


 討伐と引き渡しを終えた頃でも、日はまだ高い。


 予定よりも早く依頼を終えることができた。


◇


 日が暮れる前に、シグマたちは猫夜亭へ戻った。


 扉を開けると、店内から料理の香りと賑やかな話し声が流れてくる。


「お帰りなさいませ!」


 受付にいたリリアンヌが、猫耳をぴんと立てながら笑顔を見せた。


「皆さんお揃いということは、無事に終わったようですね」


「ああ。盗賊は全員捕らえて、兵士へ引き渡した」


「本当ですか!?」


 リリアンヌは驚いたように目を丸くする。


「報告にあった人数よりも、かなり多かったと聞いていましたが……」


「二十二人おったで!」


 シルフが得意げに胸を張った。


「それに、めっちゃ大きい頭もおったんや!」


「二十二人……」


 リリアンヌの笑顔が引きつった。


「皆さん、本当に無事でよかったです」


「今回は白鬼が報告をする」


 紅蓮が言うと、白鬼は元気よく受付へ向かった。


「任せて!」


 シグマ、紅蓮、シルフ、黒鬼の四人は、店内の空いている席へ移動する。


 席へ着くと、黒鬼が疲れたように息を吐いた。


「……緊張した」


「初めて組んだにしては、よく動けていた」


 紅蓮が声をかける。


「黒鬼の補助魔法がなければ、もう少し苦戦していたはずだ」


「……本当?」


「ああ。助かった」


 黒鬼は前髪の奥で嬉しそうに笑った。


「うちも助かったで! 身体が軽くて、いつもより矢を撃ちやすかったわ!」


「……よかった」


 そこへ、注文用の紙と炭筆を持ったシルビアがやって来た。


「皆さん、お帰りなさい。随分と早かったですね」


「予定より早く片付いた」


「怪我はありませんでしたか?」


「黒鬼が治してくれたから問題ない」


「それなら安心しました」


 シルビアは柔らかく微笑み、注文用の紙を構える。


「今日はたくさん動いたでしょうから、お腹も空いていますよね。おすすめは鹿肉の香草焼きです。焼いた根菜と黒パン、それから野菜のスープも付きます」


「それや!」


 シルフが真っ先に手を挙げた。


「まだ全員に聞いていないだろう」


「絶対うまいやつやん。うちはそれ!」


「では、鹿肉の香草焼きを一つですね」


 シルビアが慣れた手つきで書き留める。


「俺も同じものでいい」


 シグマが続く。


「私もそれを頼む」


「……私も」


 紅蓮と黒鬼も同じ料理を選んだ。


「白鬼さんの分はどうしましょう?」


「たぶん同じ物を頼む」


 黒鬼が答える。


「白鬼、肉が好きだから……」


「では、五人分にしておきますね」


 シルビアは紙へ書き込み、次に飲み物を尋ねた。


「お飲み物はいかがなさいますか?」


「エール!」


 またしてもシルフが真っ先に答える。


 紅蓮が眉を寄せた。


「昼間から酒か?」


「依頼が終わった後やで? 祝杯にはエールやろ!」


「飲み過ぎるなよ」


「大丈夫やって! うちは酒に強いんや!」


「その言葉は信用できない」


「なんでや!」


 シルビアが笑いを堪えながら、注文を書き留める。


「シルフさんはエールですね。紅蓮さんは?」


「私もエールを頼む」


「飲むんやん!」


「お前が飲み過ぎないよう見張るためだ」


「絶対自分が飲みたいだけやろ!」


「シグマさんと黒鬼さんは?」


「果実水を」


「……私も果実水」


「かしこまりました」


 シルビアは注文を読み返す。


「鹿肉の香草焼きを五つ。エールを二つと、果実水を二つですね。白鬼さんの飲み物は、戻られてから伺います」


「ありがとう」


「すぐにお持ちしますね」


 シルビアが厨房へ戻ろうとしたところで、シルフが呼び止める。


「あ、シルビア!」


「はい?」


「パン、おかわりできる?」


「できますよ」


「やった!」


「ただし、食べきれる分だけにしてくださいね」


「任せとき!」


 シルビアは微笑むと、カウンターの奥にある厨房へ注文を伝えに行った。


 少しして、依頼の報告を終えた白鬼が戻ってくる。


「お待たせ!」


「報告は終わったか?」


「うん。盗賊の人数が多かったから、追加報酬も出るかもしれないって!」


「ほんま!?」


 シルフが嬉しそうに身を乗り出す。


「まだ決まったわけじゃないよ」


「出るとええなぁ」


 白鬼が席へ着くと、シルビアが再びやって来た。


「白鬼さん、お飲み物はどうなさいますか?」


「エール!」


「お前も飲むのか?」


 紅蓮が呆れたように言う。


「今日は頑張ったから!」


「白鬼は一杯だけにしておけ」


「はーい」


 白鬼の返事を聞き、黒鬼が小さく呟く。


「……たぶん守らない」


「黒鬼!?」


「よく分かっているな」


「紅蓮さんまで!」


 全員の注文が揃うと、最初に飲み物が運ばれてきた。


 木製のジョッキに注がれたエールは、表面に白い泡が浮いている。


 果実水からは柑橘の爽やかな香りがした。


 紅蓮がジョッキを持ち上げる。


「まずは依頼の完了を祝おう」


「うちの大活躍にもな!」


「それは後で反省点と一緒に話す」


「今は褒めるところだけでええやん!」


 白鬼が笑いながらジョッキを掲げる。


「それじゃあ、盗賊討伐の成功を祝って!」


「乾杯!」


 五つのジョッキが中央で軽くぶつかった。


 シルフは勢いよくエールを飲む。


「くぅーっ! 依頼の後の酒は最高やな!」


「一杯目から飛ばすな」


「紅蓮も飲んどるやん」


「私はゆっくり飲んでいる」


「負けへんで!」


「何の勝負だ」


 その頃、厨房から料理が運ばれてきた。


 厚切りの鹿肉には香草が散らされ、焼き目の付いた表面から肉汁が滲んでいる。


 付け合わせの根菜からは湯気が立ち、濃い色の黒パンと温かな野菜スープが皿に添えられていた。


「うわぁ……!」


 シルフの目が輝く。


「めっちゃうまそう!」


「熱いのでお気をつけください」


 シルビアが料理を並べていく。


「パンのおかわりが必要になったら呼んでくださいね」


「いただきます!」


 シルフはシルビアが離れるのを待ちきれず、鹿肉へナイフを入れた。


 切り分けた肉を口へ運ぶ。


 次の瞬間、その表情が一気に明るくなった。


「うまっ!」


「声が大きい」


「だって、ほんまにうまいんやもん!」


 香草の香りが肉の臭みを消し、柔らかな肉から濃厚な旨味が広がる。


 シグマも一口食べ、静かに頷いた。


「確かに美味い」


「せやろ!」


「なぜお前が得意げなんだ」


 紅蓮も呆れながら肉を口へ運ぶ。


 その表情が僅かに緩んだのを、シルフは見逃さなかった。


「紅蓮も美味しいと思っとるやろ?」


「悪くない」


「素直やないなぁ」


「お前にだけは言われたくない」


 食事を続けながら、話題は自然と今日の戦いへ移った。


「最初はどうなるかと思ったけど、かなり上手くいったよね」


 白鬼がパンをちぎりながら言う。


「ああ。初めて組んだにしては悪くなかった」


 紅蓮が頷く。


「シルフが遠距離の敵を抑えてくれたから、前で動きやすかった」


「おっ、やっと素直に褒めた!」


「ただし」


「ただしはいらん!」


「最初に一人で脇道へ入ろうとした件は反省しろ」


「まだ言うん!?」


「当然だ。あそこで罠にかかっていたら、戦闘以前の問題だった」


「結果的には何もなかったやん」


「結果がよければ、勝手に動いていいわけではない」


「うちは自分の判断で動いただけや!」


「その判断を仲間へ伝えろと言っている!」


 二人の声が徐々に大きくなる。


 白鬼は楽しそうに二人を見比べ、黒鬼は少し困ったように果実水を飲んでいる。


 シグマは黙って食事を続けていたが、二人が同時に立ち上がったところで口を開いた。


「そこまでにしておけ」


 紅蓮とシルフが同時にシグマを見る。


「だが――」


「せやけど――」


「周りを見ろ」


 言われて店内を見回すと、他の客たちが何事かとこちらを見ていた。


 二人はしばらく黙り込み、気まずそうに席へ座り直す。


「……ふん」


「……ちぇっ」


 シルフは不貞腐れた様子でジョッキを持ち、一気にエールを飲み干した。


「おかわり!」


「飲み過ぎるなと言ったばかりだろう!」


「紅蓮も飲めばええやん!」


「言われなくとも頼む!」


 シルビアが空になったジョッキを見て、苦笑しながら新しいエールを運んでくる。


 それから一杯。


 さらに一杯。


 白鬼は紅蓮に止められ、二杯目の途中で果実水へ変更させられた。


 しかし、紅蓮とシルフは互いに張り合うように飲み続ける。


「うちはまだ飲めるでぇ……」


「私も……まだ問題ない……」


「二人とも、もうやめた方がいい」


 シグマが止めるが、二人は聞こうとしない。


「シグマは心配性やなぁ」


「そうだ……この程度で酔うものか……」


 言葉とは裏腹に、二人の顔は赤い。


 紅蓮はジョッキを置こうとして、机の端へぶつける。


 シルフはパンを取ろうと手を伸ばし、何もない場所を何度も掴んでいた。


 そして数分後。


「もう……飲めへん……」


「私は……まだ……」


 二人はほぼ同時に机へ突っ伏した。


 静かになった二人を見て、白鬼が笑う。


「二人とも同じくらい弱かったね」


「……似た者同士」


 黒鬼の言葉に、シグマも小さく頷いた。


◇


 紅蓮とシルフは、自分たちの宿へ戻れる状態ではなかった。


 猫夜亭の二階には空き部屋があったため、今夜はそこへ泊めてもらうことになった。


「俺が運ぶ」


 シグマは最初に紅蓮を背負った。


 酔い潰れているとはいえ、紅蓮は大柄で、装備も重い。


 それでもシグマは苦もなく階段を上がり、用意された部屋のベッドへ寝かせた。


「……まだ飲める……」


「もう十分飲んだ」


 眠りながら呟く紅蓮へ布団を掛け、部屋を出る。


 次はシルフだった。


 小柄な身体を抱き上げると、シルフは無意識にシグマの服を掴んだ。


「んぅ……」


「起きたのか?」


「シグマぁ……」


 目は閉じたままだ。


 完全に酔っている。


「どうした?」


「お前なぁ……」


 シルフはシグマの胸元へ頬を寄せる。


「強いし……優しいし……かっこええから……」


「……」


「うち、お前のこと好きや……」


 シグマの足が止まった。


 腕の中にいるシルフを見る。


 しかし、本人は何を言ったのか分かっていないらしく、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。


「……酔っ払いの戯言か」


 シグマはそう呟き、聞かなかったことにした。


 部屋へ運び、シルフをベッドへ寝かせる。


 布団を掛けようとすると、シルフは枕を抱きしめながら小さく笑った。


「もう一杯……」


「まだ飲むつもりなのか」


 シグマは僅かに呆れながら、部屋を後にした。


◇


 自室へ戻ってしばらくすると、扉を叩く音がした。


 扉を開けると、お湯の入った桶を抱えた少女が立っていた。


 前の晩にもお湯を運んできてくれた少女だ。


「ありがとう」


 シグマは桶を受け取る。


 少女の細い腕には、桶を運んだ疲れが見えた。


 シグマは銅貨を数枚取り出し、少女の手へ乗せる。


「これを」


 少女は驚いたように目を見開く。


 そして、銅貨を大切そうに両手で握りしめた。


「それと、今日は他の二つの部屋には行かなくていい」


 少女は不思議そうに首を傾げる。


「二人とも酔って寝ている。起こさない方がいい」


「……うん」


 少女は小さく頷いた。


 そのまま一階へ戻ろうと背を向ける。


 だが、数歩進んだところで足を止めた。


 ゆっくりと振り返り、シグマを見る。


「……エレナ」


「え?」


「わたしの名前」


 少女――エレナは、少しだけ頬を赤くした。


「エレナ、です」


「そうか」


 シグマは穏やかに微笑む。


「覚えておくよ。エレナ」


 自分の名前を呼ばれたことが嬉しかったのか、エレナの表情が明るくなった。


「うん!」


 元気よく返事をすると、今度こそ階段を駆け下りていく。


 シグマはその小さな背中を見送った後、静かに扉を閉めた。


 温かい湯で一日の汚れを拭い、寝間着へ着替える。


 ベッドへ横になると、今日の戦いを思い返した。


 紅蓮の判断。


 白鬼の魔法。


 黒鬼の支援。


 シルフの弓。


 初めて共に戦ったにもかかわらず、最後には互いの動きが自然と繋がっていた。


 悪くない一日だった。


 それでも、眠ることだけは少し怖い。


 目を閉じれば、またあの暗闇へ戻されるかもしれない。


 無数の目。


 怒鳴る口。


 振り上げられる手。


 シグマは布団の中で拳を握る。


「……今日は、あの夢を見ませんように」


 小さく呟き、ゆっくりと目を閉じる。


 静かな夜の中。


 シグマの意識は、やがて深い眠りへと落ちていった。

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