第三十四話 土の勇者と勇者教団
勇者教の一団が人混みの向こうへ消えても、シグマの左義手に残った違和感は消えなかった。
御者台の上で手綱を握ったまま、外套の内側へ隠した左手を強く握る。
痛みはない。
獣王石から力が溢れたわけでもなく、手首に取り付けられた制御腕輪にも異常は見られない。それでも、すれ違った瞬間に感じた脈動は、気のせいではなかった。
「シグマ」
隣に座っていた紅蓮が低い声で呼ぶ。
「前を見ろ。ノクスとソルが止まりかけてる」
「ああ」
シグマは手綱を握り直し、二羽の騎鳥へ進むよう合図を出した。
黒いノクスと黄色いソルが再び足を進め、馬車がゆっくりと動き出す。
グレイヴァルの大通りには、旅人や冒険者、荷車を引く商人が絶えず行き交っていた。ここで立ち止まれば、後ろから来る馬車の邪魔になるだけでなく、余計な注目まで集めてしまう。
シグマは勇者教の一団を追わず、そのまま馬車を進めた。
先ほど一瞬だけ目が合った背の高い人物も、こちらを追ってくる様子はない。
互いに振り返ることなく、人混みの中を反対方向へ進んでいく。
「さっきの連中を追うか?」
紅蓮が前を向いたまま尋ねた。
「いや」
シグマは迷わず答えた。
「今は宿を探す。話は人の少ないところでする」
「分かった」
紅蓮はそれ以上聞かず、周囲の警戒へ戻った。
馬車の中では、白鬼と黒鬼が左右の窓から外を窺っている。
フェルンはシグマの様子が気になるらしく、前方の小窓から何度も御者台を見ていた。
その隣では、シルフが深く被ったフードの縁を押さえている。
勇者教の一団とすれ違った時も、シルフは顔を上げなかった。
認識阻害のマントがあるとはいえ、それだけで必ず正体を隠せるわけではない。風の勇者として知られているシルフが顔を見られれば、何が起きるか分からなかった。
シグマは大通りの先へ目を向ける。
街の中央には、周囲の建物よりも頭一つ高い石造りの宿が見えた。
入口には勇者教の紋章をつけた者が立ち、周囲へ目を光らせている。
建物の前だけ、不自然なほど人通りが少ない。
道を歩く者たちも、その宿へ近づく前に反対側へ移っていた。
先ほどすれ違った一団も、あの方角から来た。
中央の宿に土の勇者が滞在しているという噂が事実なら、あの背の高い人物が本人である可能性は高い。
だが、今は確かめるべきではない。
「この先を曲がるぞ」
シグマが馬車の中へ声を掛ける。
「中央から離れるのですね」
黒鬼が小窓から答えた。
「ああ。外壁沿いで宿を探す」
「その方がええ」
シルフの声が続く。
「さっきみたいなんと、もう一回すれ違うんは勘弁やからな」
シグマは交差路で手綱を引き、馬車を右へ曲げた。
中央へ向かう大通りを外れると、人と馬車の数が少しずつ減っていく。
道幅は狭くなったが、馬車が通れないほどではない。シグマは速度を落とし、道端に積まれた木箱や荷車を避けながら進んだ。
しばらく走ったところで、紅蓮が周囲を見回す。
「もういいだろ。腕に何があった?」
「獣王石が反応した」
馬車の中が静かになった。
白鬼が小窓から顔を覗かせる。
「反応したって、いつ?」
「さっきの一団とすれ違った時だ」
「誰かが、シグマの腕に何かしたの?」
「分からない。魔法を受けた感覚はなかった」
シグマは左の指をゆっくりと動かした。
動作に問題はない。
一度だけ大きく脈打った後、獣王石は元の静かな状態へ戻っている。
「石から力が漏れたわけでもない。制御腕輪も正常だ」
「それなら、近くに何かあったのでしょうか」
黒鬼が尋ねる。
「その可能性はある。ただ、原因を判断できるほどの情報がない」
「土の勇者と関係あるんかな」
シルフの呟きに、シグマはすぐには答えなかった。
獣王石は、かつて土の勇者が使っていた覇王石だ。
同じ土の勇者が近くにいたから反応したと考えることはできる。
しかし、風の勇者であるシルフと行動していても、獣王石が反応したことは一度もない。勇者という存在そのものへ反応したとは考えにくかった。
「まだ、さっきの人物が土の勇者だと決まったわけじゃない」
シグマは前を向いたまま言った。
「外見は噂と似ていた。だが、それだけで断定はできない」
「追わなくてよかったの?」
フェルンが心配そうに尋ねる。
「ああ。向こうが俺たちに気づいていないなら、今は近づかない方がいい」
「左の腕は、もう大丈夫?」
「今は何ともない」
「また変になったら、すぐ言ってね」
「分かった」
フェルンの声が少しだけ安心したものへ変わる。
シグマは左義手のことから意識を切り替え、道の両側に並ぶ建物を確認した。
外壁へ近づくにつれ、商店よりも宿や倉庫が増えていく。
原生林へ入る冒険者を相手にしているのか、どの宿にも馬車を置くための広い庭や、馬や騎鳥を休ませるための家畜小屋が備えられていた。
一軒目の宿は、入口に満室と書かれた札が出ていた。
二軒目は部屋に空きがあったものの、馬車置き場が狭く、ノクスとソルを休ませる場所もなかった。
三軒目は大きな酒場を兼ねており、昼間から多くの冒険者が出入りしている。
人目を避けたい一行には向いていなかった。
「なかなか決まらないね」
白鬼が馬車の中で呟く。
「条件に合わない宿へ泊まって、後で困るよりいいでしょう」
黒鬼が答える。
「でも、ずっと馬車に乗ってるのも退屈」
「白鬼は、さっきまで外を見て楽しんでいたではありませんか」
「同じ道ばっかりになってきたもん」
「文句を言っても宿は見つかりません」
「黒鬼は平気なの?」
「私は平気です」
「絶対ちょっと疲れてる」
「疲れていません」
「声が疲れてるよ」
「二人とも、もう少しだから」
フェルンが間に入る。
その様子を聞いていた紅蓮が、呆れたように息を吐いた。
「フェルンに止められてどうする」
「喧嘩してない」
「話していただけです」
白鬼と黒鬼が同時に答える。
「なら、もう少し静かに話せ」
「紅蓮も疲れてる?」
フェルンに尋ねられ、紅蓮が僅かに言葉を詰まらせた。
「俺は疲れてない」
「声が疲れてるよ」
先ほどの白鬼と同じ言葉だった。
馬車の中から白鬼の笑い声が聞こえる。
「フェルン、それ私が言ったやつ」
「白鬼の真似」
「似てた!」
「笑ってないで宿を探せ」
紅蓮が言った直後、道の先に古い木製の看板が見えた。
麦の穂と羽根が描かれている。
二階建ての宿は新しくないが、外壁や窓は丁寧に手入れされていた。建物の横には馬車が通れる道があり、奥には屋根付きの馬車置き場と家畜小屋が見える。
表に停まっている馬車は一台だけだ。
客の出入りも多くない。
「あそこはどうだ?」
紅蓮が看板を示す。
「見てくる」
シグマは馬車を宿の脇へ寄せ、手綱を引いた。
ノクスとソルが速度を落とし、建物の前で止まる。
「俺も行く」
紅蓮が御者台から降りた。
「ほかのみんなは、馬車で待っていてくれ」
「私も見たい」
白鬼が扉へ手を掛けようとする。
「宿の中を見るだけだ。大人数で入る必要はない」
「でも――」
「白鬼。シグマたちが戻るまで待ちましょう」
黒鬼に止められ、白鬼は不満そうに手を離した。
「すぐ戻ってきてね」
フェルンが小窓から顔を出す。
「ああ」
シグマは手綱を建物脇の繋ぎ柱へ固定した。
ノクスとソルが落ち着いていることを確かめてから、紅蓮と共に宿へ入る。
扉の先は、小さな食堂になっていた。
正面に受付があり、右手には幾つかの卓と椅子が並んでいる。昼を過ぎた時間だったが、食堂に客の姿はない。
受付の奥で帳面を確認していた男が顔を上げた。
年は五十前後。
恰幅のよい身体に清潔な服を着ている。腰には短剣が下げられていたが、グレイヴァルのような街では宿主であっても最低限の自衛手段が必要なのだろう。
「いらっしゃい。泊まりかい?」
「はい。六人で泊まれる部屋を探しています」
「六人か。全員大人か?」
「大人が三人と、子供が三人です」
シルフの年齢は二十二歳だが、小柄な外見を見られれば子供と間違われる可能性がある。
しかし、宿泊人数を偽る必要はない。
「二人部屋が三つ空いてる。それでいいなら泊められるよ」
「お願いします。それと、馬車が一台、騎鳥が二羽います」
宿主が窓越しに外を見る。
黒いノクスと黄色いソルの姿を確認すると、すぐに頷いた。
「裏の家畜小屋が空いてる。穀物と野菜、それに水も用意できるが、別料金だ」
「構いません」
「何泊する予定だ?」
「まだ決めていません。原生林の状況を確認してからになります」
原生林という言葉を聞いた瞬間、宿主の手が僅かに止まった。
シグマはその変化を見逃さなかった。
「森へ行くのか?」
「旧街道を通る予定です」
「そうか」
宿主は何か言いたそうにしたが、すぐに口を閉じた。
宿泊の手続きを先に進め、三本の鍵を受付台へ並べる。
「部屋は全部二階だ。朝と夜は食事が出る。昼も必要なら、前の日までに言ってくれ」
「分かりました」
「身分証牌を確認させてもらうよ」
シグマは首から下げていた身分証牌を取り出した。
紅蓮も同じように提示する。
宿主は必要な内容だけを帳面へ書き写し、すぐに二人へ返した。ほかの四人については、荷物を運び込む際に確認することになった。
宿代と、馬車置き場や騎鳥の餌に必要な代金を支払う。
手続きが一通り終わったところで、シグマは何気ない調子で尋ねた。
「街へ入る途中、中央の大きな宿の周辺だけ人が少なかったのですが、何かあったんですか?」
宿主の表情が僅かに曇った。
食堂にほかの客がいないことを確認し、声を落とす。
「あんたたち、知らずに来たのか?」
「途中の村で、土の勇者が滞在しているという噂は聞きました」
「なら、中央の宿には近づかない方がいい」
「土の勇者が借り切っているのですか?」
「ああ。勇者教の連中と一緒にな」
宿主は受付台へ片手を置いた。
「数日前、大勢でこの街へ入ってきた。中央の宿に泊まっていた客は、ほかへ移された。今は勇者教の関係者以外、ほとんど出入りできない」
「街の人たちは、土の勇者を恐れているのか?」
紅蓮が尋ねる。
「良くない噂を知ってる奴が多いからな」
「街を滅ぼしたという話ですか?」
宿主はすぐには答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「どこまで本当かは知らん。一つの街を滅ぼしたとか、自分に仕えていた者まで殺したとか、いろいろ言われてる」
「この街では、何か問題を起こしましたか?」
「今のところは何もない」
宿主は正直に答えた。
「店の品を奪ったわけでもない。街の人間を脅したわけでもない。宿代も、買った物の代金もきちんと払ってるらしい」
「それでも、皆が避けている」
「何か起きてからじゃ遅いからな」
宿主は中央の方角へ視線を向けた。
「それに、原生林の調査を巡って、何か揉めてるらしい」
「調査を巡って?」
「土の勇者たちは、ギルド本部の書状を持ってきたそうだ。最初は正式に認められた調査だと思われてた」
「今は違うんですか?」
「俺には分からん」
宿主は首を横へ振った。
「街のギルドと、ほかの国のギルドで連絡を取り合ってるらしいが、書状の扱いについて話が食い違ってるそうだ」
「まだ決着していない?」
「みたいだな」
宿主は困ったように眉を寄せた。
「調査を続けていいとか、駄目だとか、街でもいろんな話が出てる。王都まで関わってるって噂もあるが、俺たちには何が決まったのか知らされてない」
「土の勇者たちは、今も原生林へ?」
「それも分からん」
「分からない?」
「森へ入ったのを見たって奴もいれば、今は宿から出てないって奴もいる。誰が本当のことを言ってるのか、さっぱりだ」
宿主は肩をすくめた。
「確かなのは、土の勇者たちがまだ街にいることと、ギルドが慌ただしく動いてることくらいだ」
ここから先は、冒険者ギルドで確かめる必要がある。
宿主も、すべてを直接見たわけではない。街で広まっている話を伝えているだけだ。
「教えていただき、ありがとうございます」
「礼はいらん。余計な騒ぎを宿へ持ち込まれたくないだけだ」
宿主は三本の鍵をシグマへ差し出す。
「森へ行くなら、先にギルドで話を聞きな。土の勇者たちと同じ時期に入るのは避けた方がいい」
「そうします」
シグマと紅蓮は鍵を受け取り、宿の外へ戻った。
馬車の扉がすぐに開き、白鬼が顔を出す。
「どうだった?」
「泊まれる。裏に馬車も置けるそうだ」
「やっと降りられる!」
「白鬼、飛び出すと危ないです」
黒鬼が後ろから白鬼の外套を掴む。
「分かってるって」
「分かっている人は、扉を開ける前に周りを確認します」
「馬車は止まってるよ」
「先ほどから止まっています」
フェルンが小さく教えた。
白鬼は気まずそうに扉を閉め直し、改めてシグマが開けるのを待つ。
シグマは繋ぎ柱から手綱を外し、再び御者台へ乗った。
宿の横にある細い道から、馬車を裏手へ回す。
屋根付きの馬車置き場へ馬車を収め、ノクスとソルの装具を外した。
二羽を家畜小屋へ入れると、長く街道を走ってきたノクスとソルは、用意された水へすぐに嘴を寄せた。
黒鬼が二羽の羽毛や脚に異常がないか確認する。
「怪我はなさそうです」
「餌は宿の人が用意してくれる」
シグマが答えると、フェルンもノクスとソルへ近づいた。
「ゆっくり休んでね」
ソルが返事をするように小さく鳴く。
ノクスも翼を一度広げた後、敷かれた藁の上へ身体を落ち着かせた。
二羽の世話を宿の者へ任せ、一行は荷物を部屋へ運び込んだ。
部屋割りは、シグマと紅蓮、白鬼と黒鬼、シルフとフェルンの組み合わせになった。
必要な荷物を置いた後、全員がシグマと紅蓮の部屋へ集まる。
中央にある小さな卓を囲み、シルフは窓際に立った。
窓の外を確認し、誰も近くにいないことを確かめてからフードを外す。
「それで、宿の人は何て?」
「土の勇者たちについて、街で広まっている噂を聞いた」
シグマは宿主から聞いた内容を説明した。
土の勇者と勇者教の一団が、中央の宿を借り切っていること。
今のところ、街では問題を起こしていないこと。
ギルド本部の書状を持って原生林の調査に来たものの、その書状の扱いを巡って複数のギルドが連絡を取り合っていること。
調査が正式に認められたものなのか、街の者には分からないこと。
「ギルド本部の書状があるのに、揉めとるんか」
シルフの表情から、普段の軽さが消える。
「ああ。ただ、宿主も詳しい事情は知らなかった」
「調査を続けているかも分からないんだな?」
紅蓮が尋ねる。
「森へ入ったという話と、中央の宿から出ていないという話が混ざっているらしい」
「なら、ギルドで確かめるしかありませんね」
黒鬼が言った。
「ああ」
シグマは懐から、王都アルスラで発行された通行許可証を取り出した。
卓上へ置かれた書状には、アルステラ王家の紋章と正式な署名が記されている。
「俺たちには、王家から発行された原生林の通行許可証がある。まずはグレイヴァルのギルドで、この許可証を確認してもらう」
「土の勇者側の調査についても聞くの?」
白鬼が尋ねる。
「ああ。旧街道を使っているなら、俺たちと行動範囲が重なる可能性がある」
「向こうの目的が分からん以上、できるだけ離れて進んだ方がええやろな」
シルフが言う。
「そのためにも、どこまで調査しているのかを確認する必要がある」
「誰がギルドへ行く?」
紅蓮が尋ねた。
「俺と紅蓮で行く」
「分かった」
「シルフは宿に残ってほしい」
シグマが続けると、シルフは素直に頷いた。
「今は、その方がええやろな。勇者教が近くにおるのに、顔を出して歩く気にはならへん」
「馬車とノクスたちも見ていてくれ」
「任せとき」
シグマは白鬼と黒鬼へ視線を向けた。
「白鬼と黒鬼は、フェルンと一緒に商店を見てきてほしい」
「私たちだけで?」
白鬼が少し驚いた顔をする。
「ああ」
「大丈夫でしょうか」
黒鬼が尋ねた。
「街の中央へは行かず、この宿に近い商店通りだけを回ってほしい。原生林へ入る前に、足りない物がないか確認する」
「情報も集めるの?」
「無理に聞き回る必要はない。店の者が土の勇者や原生林について話した場合だけ、覚えておいてくれ」
シグマは黒鬼を見る。
「黒鬼が一緒なら、二人を任せられる」
「私が?」
「ああ。街中なら大きな戦いになる可能性は低い。それに、何かあった場合も黒鬼の障壁があれば、白鬼とフェルンを守りながら逃げられる」
黒鬼は少し驚いた後、真剣な表情で頷いた。
「分かりました。二人を必ず連れて戻ります」
「私も黒鬼を守るよ」
白鬼が胸を張る。
「白鬼は、勝手に離れないでください」
「離れないって」
「気になる物を見つけると、すぐに走っていくでしょう」
「子供じゃないんだから、そんなことしないよ」
「白鬼は私と同じ十五歳です」
「黒鬼だって子供じゃないでしょ?」
「そういう意味ではありません」
「二人とも、フェルンが守る」
フェルンが間に入る。
白鬼と黒鬼が同時にフェルンを見た。
「フェルンは守られる方だよ」
白鬼が言う。
「でも、二人が喧嘩したら、フェルンが止める」
「喧嘩はしません」
「黒鬼が怒らなければね」
「白鬼が勝手なことをしなければ怒りません」
「それ、やっぱり喧嘩するやつやで」
シルフが呆れたように笑った。
シグマは三人を行かせることに不安がないわけではなかった。
だが、黒鬼は戦闘になっても周囲をよく見て動ける。白鬼を止められるのも黒鬼だ。
三人とも見た目が幼いため、武装した大人たちが街を聞き回るより警戒されにくい。中央へ近づかず、人通りのある商店通りだけを歩くなら、危険は少ないと判断した。
「守ってほしいことがある」
シグマの声に、三人が姿勢を正す。
「絶対に三人で行動すること。人通りの少ない道へ入らないこと。勇者教の者や、先ほどすれ違った一団を見かけても追わないこと。日が暮れる前に戻ること」
「分かった」
白鬼が答える。
「必ず守ります」
黒鬼も頷いた。
「フェルンも守る」
フェルンが続く。
「よし」
シグマは許可証を畳み、懐へ戻した。
「集めた情報は、全員が戻ってから整理する。今日は状況を確認するだけだ。土の勇者たちへ近づく必要はない」
「明日には出発するの?」
フェルンが尋ねる。
「それも、集めた情報を確認してから決める」
街の外れでは、ハクが一行の帰りを待っている。
できるだけ早く迎えに行きたいが、焦って土の勇者たちと同じ時間に原生林へ入れば、全員を危険に晒すことになる。
ハクには、数日戻らない可能性も伝えてある。
今は予定を変えず、確実な情報を集めるべきだった。
「それじゃ、行くぞ」
紅蓮が立ち上がる。
シグマも立ち上がり、黒い鬼面の位置を確かめた。
認識阻害のマントを整え、許可証を持っていることをもう一度確認する。
白鬼と黒鬼も、それぞれ荷物を準備した。
白鬼はフォックス商会から受け取った自動整理機能付きのバッグを肩へ掛ける。黒鬼は必要な代金を小さな革袋へ分けて入れ、フェルンのフードが外れないよう整えた。
「買いすぎるなよ」
紅蓮が白鬼へ言う。
「必要な物しか買わないよ」
「前にも同じことを言って、菓子を増やしてただろ」
「あれはフェルンの分」
「白鬼も食べていましたよね」
黒鬼が横から言う。
「少しだけ」
「半分以上です」
「今日は買わないって!」
「買うなとは言ってない」
紅蓮は呆れながら扉を開けた。
一行は一階へ下り、宿の食堂で二手に分かれる。
シルフはそのまま宿に残り、シグマと紅蓮は冒険者ギルドへ向かう。
白鬼、黒鬼、フェルンの三人は、宿主から近くの商店通りを教えてもらった。
「ギルドは南門の近くだ」
宿主がシグマたちへ道を説明する。
「中央を通れば早いが、土の勇者たちが泊まってる宿の前を通ることになる。避けたいなら、この裏道を使うといい」
「そうします」
「商店通りは、この道を反対へ行ったところだ」
今度は三人へ向け、宿主が指を差した。
「食料、薬草、旅道具なら大抵の物が揃う。ただし、夕方には閉める店も多い。ゆっくりしすぎるなよ」
「ありがとうございます」
黒鬼が丁寧に頭を下げた。
宿を出たところで、シグマは三人を振り返る。
「何かあったら、すぐ宿へ戻れ」
「分かってるよ」
白鬼が答える。
「シグマたちも気をつけてね」
フェルンが言う。
「ああ」
シグマと紅蓮は、宿主に教えられた裏道へ入った。
白鬼たちは反対方向にある商店通りへ向かう。
街の中央へ近づく者はいない。
土の勇者や勇者教の一団を追う者もいない。
今必要なのは、正体の分からない相手へ近づくことではなかった。
土の勇者たちの原生林調査を巡り、何が起きているのか。
彼らは現在も森へ入っているのか。
そして、自分たちはいつ旧街道へ入るべきなのか。
それぞれが答えを持ち帰るため、グレイヴァルの街へ歩き出した。
宿主に教えられた裏道へ入ると、大通りの喧騒はすぐに遠ざかった。
建物の間を縫う細い道には、商品を運ぶ店員や仕事を終えた職人が時折通る程度で、馬車の姿はほとんどない。
シグマと紅蓮は並んで歩きながら、周囲に勇者教の者がいないことを確認する。
「さっきの話、どう思う?」
紅蓮が声を抑えて尋ねた。
「ギルド本部の書状があるのに、調査を続けられるか決まっていないという話か?」
「ああ。正式な依頼なら、街の連中があそこまで騒ぐとは思えない」
「宿主も詳しいことは知らなかった。街で噂だけが先に広がっている可能性もある」
「だからギルドで確かめるんだろ」
「ああ」
シグマは懐に収めた通行許可証へ触れた。
アルスラの王から直接発行された、原生林の通行を認める正式な書状だ。
原生林を通過するためには、アルステラ王家の許可が必要になる。
王都で数日待ち、原生林と旧街道に異常がないことを確認した上で発行されたものだった。
それに対し、土の勇者たちはギルド本部の書状を持っているらしい。
同じ原生林へ入るための書状であっても、王家が発行した通行許可証とは意味が違う。
「もし、土の勇者たちの調査が認められていないなら、俺たちにも影響が出るかもしれない」
「同じ時期に原生林へ入ろうとしてるからか」
「それだけじゃない」
シグマは声をさらに落とした。
「シルフがいる」
「風の勇者と土の勇者が、同じ時期に同じ原生林へ入ることになるな」
「ああ。俺たちに関係がなくても、事情を知らない者から見れば、勇者同士が協力して何かを探しているように見えるかもしれない」
土の勇者側に同行するつもりはない。
接触するつもりもなかった。
だが、二つの一行が近い時期に同じ街を出て、同じ旧街道へ入ったという事実だけが残れば、後からどのように解釈されるか分からない。
「面倒だな」
紅蓮が顔をしかめる。
「だから、先に状況を把握しておきたい」
「それと、腕のこともか?」
シグマはすぐに答えなかった。
獣王石は、あれから一度も反応していない。
左義手を動かしても、土魔法を僅かに流しても異常は感じられなかった。
「原因は気になる。だが、ギルドで聞けるとは思っていない」
「土の勇者を見た瞬間に反応したと言えば、余計に怪しまれるか」
「まだ、あの人物が本人だと決まったわけでもない。それに、獣王石について知っている者は少ない方がいい」
「王都では見せたんだろ?」
「国王と、話を聞く必要があった者だけだ」
図書館で覇王石について調べた際も、石そのものを大勢の目に晒したわけではない。
獣王石が過去に引き起こした被害を知れば、シグマを警戒する者が出るのは当然だった。
「なら、腕のことは伏せるんだな」
「ああ。今回は原生林の状況と、土の勇者側の調査について確認するだけにする」
「分かった」
紅蓮はそれ以上尋ねなかった。
二人が裏道を抜けると、南門へ続く広い通りへ出た。
街の中央ほどではないが、こちらも多くの冒険者や商人が行き交っている。
道の先には、周囲の建物より一回り大きな石造りの建物があった。
正面には、剣と盾を組み合わせた冒険者ギルドの紋章が掲げられている。
建物の隣には、魔物の素材を運び込むための倉庫が幾つも並んでいた。原生林で採取された素材を扱うため、ほかの街のギルドより規模が大きいらしい。
「ここか」
紅蓮が建物を見上げる。
「ああ」
シグマは周囲を確認してから、紅蓮と共に冒険者ギルドへ入った。
中は外から見た以上に広かった。
正面には複数の受付が並び、右側の壁一面には依頼書が貼り出されている。
依頼の多くは、原生林の浅い場所で採れる薬草や木の実、魔物の素材に関するものだった。旧街道の奥へ入る依頼は少なく、あっても高い等級が必要と記されている。
左側では、森から戻った冒険者たちが素材の査定を受けていた。
職員たちは運び込まれた牙や皮を確認し、慣れた手つきで種類ごとに仕分けている。
普段なら活気があるだけの光景なのだろう。
しかし、今日は受付や依頼書の前に集まった者たちが、時折声を潜めて中央の宿や土の勇者について話していた。
「昨日も森へ入ったらしいぞ」
「調査は止まったんじゃなかったのか?」
「そんな話もあるってだけだ。ギルドから正式な発表は出てない」
「勇者教の連中は、まだ中央の宿にいるんだろ?」
「今朝、何人か街を歩いてるのを見た」
断片的な話ばかりで、どれが事実かは分からない。
シグマと紅蓮は会話へ加わらず、人の少ない受付へ向かった。
受付にいたのは、二十代半ばほどの男性職員だった。
二人の鬼面や認識阻害のマントへ一度だけ目を向けたが、特に尋ねることなく仕事用の表情を保っている。
「依頼をお探しですか?」
「いいえ。原生林の旧街道を通るため、王都で発行された通行許可証を確認していただきたい」
シグマは周囲から内容が見えないよう、折り畳んだ書状を受付台へ置いた。
職員は両手で受け取り、静かに開く。
アルステラ王家の紋章を目にした瞬間、その表情が僅かに変わった。
許可証に記された内容を上から順に読み、最後に押された印と署名を確かめる。
「少々お待ちください」
職員は声を上げなかった。
許可証を丁寧に閉じると、隣の職員へ受付を任せ、奥にある扉へ入っていった。
「やっぱり、普通の受付だけでは終わらないみたいだな」
紅蓮が小声で言う。
「ああ。王都から連絡が届いている可能性が高い」
「俺たちのことも?」
「国王は、必要な場所へ連絡すると言っていた」
王都へ到着する前にも、シグマたちは各地の冒険者ギルドを利用している。
その全てから詳しい情報が送られているとは限らないが、身元やこれまでの行動を確認するための連絡が回っていても不思議ではなかった。
しばらくすると、先ほどの職員が戻ってきた。
「お待たせしました。ギルドマスターがお話を伺います。こちらへどうぞ」
シグマと紅蓮は受付の内側へ通された。
廊下を進み、階段を上がる。
一階の喧騒は少しずつ遠ざかり、二階へ着く頃にはほとんど聞こえなくなっていた。
廊下の奥にある部屋の前には、武装した職員が二人立っている。
案内役の職員から話を聞くと、二人は左右へ分かれ、扉を開けた。
「どうぞ」
室内へ入ると、大きな机の向こうに一人の男が座っていた。
年は五十前後。
短く刈った灰色の髪と、左の眉から頬へ伸びる古い傷が目を引く。机の横には使い込まれた長槍が立てかけられており、書類を扱う今も、元冒険者らしい鋭さを残していた。
男は書類から顔を上げ、シグマと紅蓮を順に見る。
「よく来た。俺がグレイヴァルの冒険者ギルドを預かる、ベルガンだ」
ベルガンは立ち上がり、机の前にある椅子を示した。
「名は、許可証に記されているもので呼べばいいか?」
「はい」
「分かった。二人とも座ってくれ」
シグマと紅蓮が椅子へ座ると、案内してきた職員は部屋を出た。
扉が閉まるのを待ち、ベルガンも椅子へ戻る。
「王都から連絡は受けている」
机上には、シグマが受付へ出した通行許可証が置かれていた。
「風の勇者シルフと、その同行者たち。原生林の旧街道を通り、旧グランディア王国跡地へ向かっている。間違いないな?」
「はい」
「シルフ本人は?」
「街には来ています。ただ、勇者教の一団が滞在していると聞いたため、宿で待機してもらっています」
「賢明だ」
ベルガンは迷わず答えた。
「今は、風の勇者がこの街にいると知られない方がいい」
「土の勇者側は、シルフが来ることを知っているんですか?」
「少なくとも、こちらからは何も伝えていない」
ベルガンは通行許可証とは別の書類へ手を伸ばした。
「王家から届いた連絡も、俺と一部の職員しか確認していない。受付の者には、王家発行の許可証を持った一行が来る可能性だけを伝えてあった」
「俺たちのことを、王家以外からも聞いているのか?」
紅蓮が机上の書類へ目を向ける。
「ああ」
ベルガンは幾つかの書状を取り出した。
封蝋には、それぞれ異なる冒険者ギルドの印が残っている。
「ここへ来るまでに立ち寄った支部から、順に連絡が届いている」
「俺たちが来ると分かっていたんですか?」
「正確な到着日は分からなかった。だが、原生林を目指していることは伝わっていた」
ベルガンは一通の書状を開く。
「事情を抱えて旅をしているが、信用できる一行だ。必要であれば力を貸してほしい。どの支部も、似たような内容を送ってきている」
シグマと紅蓮は顔を見合わせた。
自分たちの知らないところで、各地のギルドが次の街へ連絡していたらしい。
「お前たちが各地で何をしてきたかも、簡単に書かれている」
ベルガンは書状を机へ戻した。
「行く先々で問題に巻き込まれながら、依頼の範囲を越えて人を助けてきたそうだな」
「好きで巻き込まれたわけじゃない」
紅蓮が不満そうに答える。
「そう書いてあるものもあった」
ベルガンの口元が僅かに緩んだ。
「頼まれてもいないのに首を突っ込み、放っておけずに最後まで手を貸す一行だとな」
「誰がそんなことを……」
「一人ではない」
ベルガンは書状をまとめ、机の端へ寄せた。
「だから、こちらも可能な範囲で協力する。ただし、土の勇者と勇者教がいる今は、いつも以上に慎重に動いてもらいたい」
「宿の主人から、原生林の調査を巡ってギルド同士が揉めていると聞きました」
シグマが本題へ入ると、ベルガンの表情から僅かな笑みが消えた。
「あの話か」
「何が起きているんですか?」
ベルガンはすぐには答えなかった。
机の引き出しを開け、紐でまとめられた複数の書状を取り出す。
どの書状にも、何度も読み返された跡が残っていた。
「最初から説明した方がいいな」
ベルガンは一番上の書状を机へ置いた。
「数日前、土の勇者と勇者教の一団が、この街へ到着した。彼らが持っていたのは、ディアグランディア側の冒険者ギルドから本部を経由して発行された調査依頼書だ」
「調査対象は原生林ですか?」
「ああ。旧街道と、周辺に生息する魔物の状態を調べるという内容だった」
「正式な依頼書だったんだな?」
紅蓮が尋ねる。
「書状そのものは正式だ。偽物でもなければ、印に不備があったわけでもない」
「それなら、何が問題なんですか?」
「原生林が、一つの国だけに属する場所ではないからだ」
ベルガンは机の上へ簡単な地図を広げた。
広大な原生林を囲むように、三つの国の境界が記されている。
「原生林は、アルステラ、ディアグランディア、そしてもう一つの国、シルトウォーデンにまたがっている。だが、現在利用できる入口はアルステラ側にしかない」
ベルガンはグレイヴァルから森へ続く旧街道を指でなぞった。
「ディアグランディア側のギルドは、三カ国にまたがる原生林の共同調査に近いものだと考えていたらしい。ギルド本部が依頼を受理した時点で、各国の支部も協力できると思っていた」
「アルステラ側は違うと?」
「ああ」
ベルガンの指が、グレイヴァルの位置で止まる。
「ギルド本部の依頼書は、冒険者ギルドが仕事として調査を認めたというだけだ。アルステラへ入国し、この国の領内から原生林へ入る許可ではない」
「土の勇者たちは、王家の許可を取っていなかったんですか?」
「取っていなかった」
ベルガンははっきりと答えた。
「俺たちも、最初は本部を通した正式な調査だと聞かされていた。土の勇者本人と勇者教が同行していたこともあり、必要な手続きは済んでいると思っていた」
「後から違うと分かったのか」
「ああ。王都へ確認を取ったところ、アルステラ王家は調査について何も知らされていなかった」
部屋の空気が重くなる。
「では、無許可で入国したことになるのですか?」
「アルステラ王家は、そう判断している」
ベルガンは別の書状を開いた。
「土の勇者たちは、ギルド本部の依頼書を根拠に入国し、そのまま原生林の調査を始めた。だが、王家から見れば、入国も調査も正式に認めたものではない」
「それで、抗議が?」
シグマが尋ねる。
「王家はディアグランディアへ抗議文を送った。調査の中止と、土の勇者たちの退去も求めている」
宿主からは聞けなかった、正式な情報だった。
「もう決まったことなのか?」
紅蓮が尋ねる。
「決まっていない」
ベルガンは首を横へ振る。
「アルステラ王家が抗議文を送ったことと、調査中止や退去を求めていることは事実だ。だが、ディアグランディア側は、ギルド本部を通した正式な依頼であることを理由に、すぐには受け入れていない」
「ギルド本部は?」
「双方へ確認を取っている最中だ」
ベルガンは紐でまとめられた書状へ目を落とした。
「アルステラ側のギルドは、国への入国許可まで出した覚えはないと主張している。ディアグランディア側は、三カ国にまたがる原生林を調べるための依頼であり、入口を使うことも含まれていると考えていたと言っている」
「話が噛み合ってないな」
「そういうことだ」
「土の勇者本人は、何と言っているんですか?」
シグマの問いに、ベルガンは少し間を置いた。
「何も言っていない」
「何も?」
「こちらへ説明しているのは、勇者教の者たちだ。土の勇者本人は、必要な場に姿を見せるだけで、ほとんど口を開かない」
「調査を止める気は?」
「勇者教側は、ディアグランディアとギルド本部から正式な指示が届くまで待つと言っている」
「その間も森へ入っているのか?」
紅蓮の声が低くなる。
「そこも揉めている」
ベルガンは地図の上へ数枚の記録を並べた。
「王家から調査を中止するよう連絡が届く前に、土の勇者側の従者が何人か原生林へ入っている。今も森の奥に残っている者がいるようだ」
「戻るよう命じなかったんですか?」
「勇者教へは伝えた。だが、連絡が取れないという返答だった」
「本当だと思うか?」
「分からん」
ベルガンは率直に答えた。
「原生林の奥では、遠距離の連絡手段が安定しない。すぐに呼び戻せないこと自体は不自然ではない。だが、それを理由に調査を続けている可能性も否定できない」
「土の勇者本人は?」
「今は中央の宿にいる」
「街から出ていないんですか?」
「少なくとも、王家から調査中止の連絡が届いた後は出ていない。勇者教の者たちも、必要な物を買うために街へ出る程度だ」
先ほどすれ違った一団の中に、土の勇者本人がいた可能性が高くなった。
だが、シグマは獣王石の反応について口にしなかった。
「アルステラ側は、土の勇者たちを捕らえないのか?」
紅蓮が尋ねる。
「簡単にできると思うか?」
ベルガンが聞き返した。
「相手は土の勇者と勇者教だ。しかも、ディアグランディアは正式な調査依頼だと主張している。こちらが武力で捕らえれば、国同士だけでなく、各国のギルドや勇者教まで巻き込むことになる」
「だから、監視に留めている」
「ああ。王家から新しい命令が届くまでは、街から出ないよう求めている。向こうも今のところ、表立って逆らってはいない」
「今のところ、か」
「中央の宿を監視させているが、街で乱暴を働いた者はいない。商店で買い物をする時も、代金は支払っている」
ベルガンは記録を一枚めくった。
「だからこそ、こちらから強引に動く理由が足りない。無許可入国と調査の問題はあるが、街の中で犯罪を起こしたわけではないからな」
「原生林の中では、何を調べていたんですか?」
シグマが尋ねる。
「提出された計画では、旧街道の状態、魔物の分布、地盤の変化を確認することになっている」
「実際は?」
「地面を調べている時間が長い」
ベルガンは、森の入口を監視していた職員からの報告を開いた。
「土の勇者本人が森へ入った日は、旧街道を歩くよりも、地面へ手を触れていることが多かったそうだ。従者たちも、街道の周辺で土を採取していた」
「地盤の調査なら、不自然ではないんじゃないか?」
紅蓮が言う。
「一度や二度ならな」
ベルガンは別の日の報告を重ねる。
「同じような作業を場所を変えて繰り返している。街道が崩れやすい場所ではなく、何もない林の中へ入ったことも確認されている」
「何かを探しているように見える?」
「俺はそう考えている」
「何を探しているかは?」
「分からん。尋ねても、地盤と魔力の流れを確認しているとしか答えない」
シグマは地図へ目を落とした。
原生林の地中に何があるのか、アルスラの図書館でも詳しい情報は見つからなかった。
土の勇者側が何かを探しているとしても、それが旧グランディア王国跡地と関係しているのかは分からない。
「旧街道そのものに異常はありますか?」
「今のところはない」
ベルガンは別の地図を取り出した。
「王都へ報告された内容から、大きく変わっていない。魔物の数も安定している。街道を塞ぐ倒木や、馬車が通れないほどの崩落も確認されていない」
「通行はできるんですね」
「ああ。お前たちの許可証も正式なものだ。土の勇者側の問題で、通行を止める理由はない」
「ただし、従者が森に残っている」
「そうだ」
ベルガンは地図上の数か所へ指を置いた。
「旧街道の周辺で姿を確認された場所だ。今も同じ場所にいるとは限らない」
「街道を外れて避けた方がいいですか?」
「いや」
ベルガンは首を横へ振った。
「馬車で森へ入るなら、旧街道を外れる方が危険だ。接触を避けるために森の中へ入れば、魔物の縄張りへ踏み込むことになる」
「なら、どう避ける?」
「出発する時間をずらす。確認された場所では立ち止まらない。最初の野営地も、土の勇者側が使っていた場所から離す」
ベルガンは旧街道沿いにある別の空き地を示した。
「少し狭いが、馬車と騎鳥二羽なら休ませられる。水場も近い」
「この地図を借りられますか?」
「そのために用意した」
ベルガンは地図を折り畳み、シグマへ差し出した。
「王家から、お前たちには可能な範囲で協力するよう言われている。それに、各地のギルドからも頼まれているからな」
「ありがとうございます」
「礼は、無事に原生林を抜けてからでいい」
シグマは地図を受け取り、通行許可証と一緒に懐へ収めた。
「出発するなら、いつがいいですか?」
「今すぐは勧めない」
ベルガンは窓の外へ目を向けた。
「今日は、土の勇者側へ送った連絡の返答を待っている。森に残っている従者が戻るかどうかも確認したい」
「明日には分かりますか?」
「分からん」
「なら、何日もここで待つ可能性もあるのか」
紅蓮が顔をしかめる。
「そうなる可能性はある。だが、お前たちにも予定があるだろう。待てと強制するつもりはない」
ベルガンはシグマへ視線を戻した。
「今日一日、街の様子を確認しろ。夕方までに新しい連絡が届けば、宿へ使いを出す」
「滞在先は、受付へ伝えておきます」
「ああ。それと、シルフには宿から出ないよう伝えてくれ」
「勇者教に見つかる危険があるからですか?」
「それもある」
ベルガンは机の上で指を組んだ。
「今の状況で風の勇者まで現れれば、話がさらに複雑になる。ディアグランディア側が何を考えるかも分からない。アルステラ王家も、シルフが土の勇者側と接触することは望まないだろう」
「分かりました」
「こちらからシルフの滞在を漏らすことはない。ギルド内でも、知っている者は増やさない」
「お願いします」
シグマと紅蓮が立ち上がる。
ベルガンも席を立ち、二人を扉まで見送った。
「原生林自体は、今のところ安定している」
扉を開ける前に、ベルガンが言う。
「だが、森に入った者たちが何を探しているかは分からん。旧街道を通るなら、何かを見つけても不用意に触れるな」
「覚えておきます」
二人は部屋を出た。
案内役の職員と共に一階へ戻り、受付で滞在している宿の名前を伝える。
外へ出ると、日は少し西へ傾いていた。
シグマは人通りの中へ勇者教の姿がないことを確かめ、宿へ続く道へ足を向ける。
「結局、何も決まってないんだな」
紅蓮が隣を歩きながら言った。
「アルステラは調査を認めていない。だが、ディアグランディアとギルド本部は、正式な依頼だと考えている」
「土の勇者たちは、国から命令が来るまで動かない」
「森には従者が残っている」
「面倒なことばっかりだな」
紅蓮は大きく息を吐いた。
「それでも、旧街道に異常がないことは確認できた」
「出発するか?」
「全員の話を聞いてから決める」
シグマは懐に入れた地図へ触れた。
「白鬼たちが、何か別の情報を聞いているかもしれない」
◇
シグマと紅蓮が冒険者ギルドへ向かっていた頃、白鬼、黒鬼、フェルンの三人は宿から離れた商店通りを歩いていた。
中央の大通りほど混雑していないが、食料品店や薬草店、旅道具を扱う店が並び、多くの客が行き交っている。
黒鬼は先頭を歩かず、白鬼とフェルンの少し後ろについていた。
二人が勝手に別の店へ入らないよう見守りながら、通りの奥や背後にも注意を向けている。
「黒鬼、ずっと後ろ見てる」
白鬼が振り返った。
「周りを確認しているだけです」
「誰もついてきてないよ」
「今は、です」
「シグマみたい」
「任されたのですから、きちんとしないといけません」
「そんなに力まなくても大丈夫だよ」
「白鬼が気を抜きすぎなんです」
「抜いてないって」
「二人とも、あのお店は?」
フェルンが通りの先を指差した。
木製の看板に、縄と小さな鍋が描かれている。
店先には丈夫そうな縄、革袋、折り畳める調理器具、虫除けに使う香草などが並べられていた。
「旅道具のお店みたいですね」
黒鬼が店の周囲を確認する。
勇者教の紋章を身につけた者はいない。
「入りましょう」
三人が店へ入ると、奥で商品を整理していた女性が顔を上げた。
四十歳前後の、日に焼けた女性だった。
「いらっしゃい。三人だけかい?」
「仲間がいます」
黒鬼が答える。
「原生林へ入る前に、必要な物を確認しに来ました」
「原生林へ?」
女性は三人を順に見る。
「旧街道を使うんだろうね?」
「はい」
「だったら、虫除けは多めに持っていきな。水場の近くは羽虫が多いよ」
女性は店先に吊るされた香草の束を指差した。
「火へ入れて煙を出す物と、砕いて服へ擦りつける物がある。両方あった方がいい」
黒鬼は値段を確認し、状態のよい束を選んだ。
「縄や工具は持っています。ほかに必要な物はありますか?」
「馬車なら、予備の縄はいくらあっても困らないよ。雨の後は車輪がぬかるみに取られることもある」
「予備は一本あります」
「太い物もあるかい?」
「ありません」
「なら、一本持っていきな。細い縄だけじゃ、馬車を引き上げられない」
黒鬼が縄を確かめている間、白鬼は店の棚に置かれた金属製の器具を手に取った。
「これは何?」
「魔物避けの音具だよ。紐を引けば大きな音が鳴る」
「魔物が逃げるの?」
「小型ならね。大型には効かないし、逆に音へ寄ってくる魔物もいるから、原生林でむやみに使う物じゃない」
「じゃあ、いらない」
白鬼が器具を戻そうとすると、黒鬼が横から受け取った。
「雑に置かないでください」
「雑じゃないよ」
「壊したら困ります」
「壊さないって」
「白鬼は力加減を間違えることがあるでしょう」
「ないよ」
「この前、木の器を割ったじゃないですか」
「あれは器が古かったの」
「シルフの器は割れていませんでした」
「黒鬼、細かい」
「二人とも、喧嘩しないでね」
フェルンが間に入る。
店の女性が三人のやり取りを見て笑った。
「仲がいいね」
「普通です」
黒鬼が答える。
「黒鬼が細かいだけ」
白鬼が続けた。
「それを仲がいいって言うんだよ」
女性は選ばれた品物をまとめながら、何気ない調子で尋ねる。
「今から森へ入るなら、土の勇者たちには気をつけな」
三人の表情が僅かに変わった。
だが、黒鬼はすぐに普段どおりの顔へ戻す。
「土の勇者が、この街へ来ていることは聞きました」
「なら、話は早い」
「このお店にも来たのですか?」
「ああ。本人じゃなくて、勇者教の連中だけどね」
「何を買っていったの?」
白鬼が尋ねる。
「縄と油、それから杭を何本か。土を入れる小さな革袋も、あるだけ買っていったよ」
「土を?」
フェルンが首を傾げる。
「原生林の調査に使うんだろうさ」
女性は声を少し落とした。
「大きな槌や、小さな瓶も探してた。うちには置いてなかったから、別の店へ行ったけどね」
「いつ頃ですか?」
「二日前だったかな」
「昨日や今日は?」
「来てないよ」
黒鬼はその言葉を覚えておく。
土の勇者側が、土や地面を調べるための道具を集めていた可能性がある。
「土の勇者たちは、街で問題を起こしていませんか?」
「少なくとも、うちの店では何もなかったね」
女性は包んだ品物を黒鬼へ渡した。
「必要な物を選んで、言われた代金を払って帰った。愛想はなかったけど、乱暴でもなかったよ」
「街の人が避けているのは、噂のせいですか?」
「それもある」
女性は通りの向こうへ目を向けた。
「一つの街を滅ぼした勇者だなんて聞けば、近づきたい奴はいないよ。それに、ギルドや王都まで何か揉めてるらしいからね」
「何を揉めているか知っていますか?」
「知らないよ」
女性は首を横へ振る。
「土の勇者たちが原生林へ入っていいのか、駄目なのか。その辺りで話がまとまってないって噂だけだ」
宿主から聞いた話と変わらない。
詳しい事情は、一般の店までは伝わっていないらしい。
「ありがとうございます」
黒鬼が代金を支払う。
購入した香草と太い縄は、白鬼が肩へ掛けている自動整理機能付きのバッグへ収めた。
品物が中へ入ると、店の女性が目を丸くする。
「便利な物を持ってるね」
「もらった物なんです」
白鬼は少し得意そうにバッグを撫でた。
三人は店を出た。
「次は、土を入れる瓶を売ってるお店へ行く?」
白鬼が尋ねる。
「行きません」
黒鬼が即座に答えた。
「なんで?」
「情報を聞くためだけに店を回れば、土の勇者たちについて調べていると思われます」
「買い物するかもしれないよ」
「何を買うのですか?」
「瓶とか」
「必要ありません」
「何かに使えるかも」
「使い道を考えてから買ってください」
白鬼は不満そうに口を尖らせる。
「シグマは、無理に聞き回らなくていいと言っていました」
「分かってるよ」
「でしたら、必要な店だけ見ましょう」
「黒鬼、お姉ちゃんみたい」
フェルンの一言に、白鬼の足が止まった。
黒鬼も困ったようにフェルンを見る。
「フェルン」
白鬼が静かな声で呼ぶ。
「何?」
「お姉ちゃんは私だからね」
「うん」
「黒鬼は妹」
「双子ですから、ほとんど変わりません」
「私が先に生まれたの」
「その話は今、関係ないでしょう」
「最近、黒鬼がお姉ちゃんみたいにするから言ってるの」
「任されたから、しっかりしているだけです」
「私だってしっかりしてるよ」
「先ほど、必要のない瓶を買おうとしていました」
「まだ買ってない!」
「また始まった」
フェルンが小さく呟いた。
白鬼と黒鬼が同時に黙る。
「フェルン、ごめん」
「すみません」
「フェルンは大丈夫」
フェルンが二人の手を取った。
「三人で行く」
「そうだったね」
白鬼がフェルンの手を握り返す。
黒鬼も反対側の手を握った。
「次は薬草店へ行きましょう」
三人は再び商店通りを歩き始めた。
その後、薬草店で傷薬の材料と虫刺されに使う薬草を補充し、食料品店でノクスとソルに与える穀物と乾燥させた果物を少しだけ買った。
どの店でも土の勇者に関する話は出たが、内容は似たものばかりだった。
街で乱暴を働いた者はいない。
買い物の代金も支払っている。
だが、過去の噂と、原生林の調査を巡る問題から、街の者たちは距離を取っている。
日が傾き始める前に、黒鬼は通りの先へ目を向けた。
「そろそろ戻りましょう」
「もう?」
白鬼が尋ねる。
「日が暮れる前に戻る約束です」
「まだ暮れないよ」
「宿までの時間も考えてください」
「黒鬼の言うとおり」
フェルンが答える。
「二人とも黒鬼の味方する」
「白鬼も一緒に帰るでしょう?」
「帰るよ」
白鬼は自動整理バッグの位置を直した。
「シグマたちも、もう戻ってるかな」
「ギルドの話が長ければ、私たちの方が先かもしれません」
三人は来た道を引き返した。
黒鬼は最後まで周囲への警戒を緩めなかった。
勇者教の者とも、先ほどすれ違った一団とも遭遇していない。
人通りの少ない道へ入ることもなく、三人は揃って宿へ向かった。
白鬼たちが宿へ戻ると、入口の脇でシルフが待っていた。
深くフードを被り、外から顔を見られないようにしている。三人の姿を見つけると、周囲を確認してから宿の中へ招き入れた。
「三人とも、おかえり。何もなかったか?」
「大丈夫だったよ」
白鬼が肩に掛けたバッグを軽く叩く。
「必要な物も買ってきた」
「勇者教の人たちとは会いませんでした」
黒鬼が続けた。
「土の勇者たちが買った物について、少し話を聞けました」
「ほんまか?」
「はい。ただ、詳しい話はシグマたちが戻ってからにします」
「それがええな」
シルフは三人の後ろへ目を向ける。
「二人はまだ戻っとらん。ギルドで話が長引いとるんやろ」
「ノクスとソルは?」
フェルンが尋ねる。
「二羽とも家畜小屋で休んどるで。さっき餌も食べ始めたところや」
「見に行ってもいい?」
「ええけど、先に荷物を置いてき。買った物も確認せなあかんやろ」
「うん」
三人は二階の部屋へ向かった。
白鬼が自動整理バッグから購入した物を取り出し、黒鬼が卓上へ並べていく。
虫除けに使う二種類の香草。
馬車を引き上げられる太い縄。
傷薬の材料となる薬草。
虫刺されへ塗る薬草。
ノクスとソルへ与える穀物と、乾燥させた果物。
どれも原生林へ入る前に必要になる物ばかりだった。
「余計な物は買っていませんね」
黒鬼が一つずつ確認する。
「最初から必要な物しか買わないって言ったでしょ」
「瓶を買おうとしていました」
「あれは、何かに使えると思っただけ」
「何に使うつもりだったのですか?」
「それは今から考えるところだったの」
「やっぱり、必要なかったじゃないですか」
「買ってないからいいでしょ」
「二人とも」
フェルンが呼ぶと、白鬼と黒鬼が同時に口を閉じた。
少し遅れて部屋へ入ってきたシルフが、二人の顔を見比べる。
「また喧嘩しとったん?」
「喧嘩じゃないよ」
「買った物を確認していただけです」
「ほんま、よう似た姉妹やな」
「似てない」
「似ていません」
白鬼と黒鬼の声が重なる。
シルフは笑いを堪えながら、卓上の品物へ目を向けた。
「必要な物は揃えられたみたいやな」
「まだ持っている物を全部確認していません」
黒鬼が答える。
「宿へ戻ってから、シグマたちと一緒に確認する予定だったので」
「それは明日でええやろ。今日は情報を集めて、まとめるだけや」
今日行うのは、あくまでグレイヴァルと原生林の現状確認である。
出発のための本格的な準備は、集めた情報を整理し、進む方針を決めてから行う必要があった。
フェルンが窓際へ近づき、通りを覗き込む。
「シグマたち、まだかな」
「もう少しかかるかもしれへんな」
シルフが答えた直後、宿の扉が開く音が一階から聞こえた。
足音が二つ、食堂を横切る。
やがて廊下から紅蓮の声が聞こえた。
「戻ったぞ」
フェルンはすぐに扉へ向かった。
白鬼と黒鬼も卓上の品物を片づけ、シルフと共に廊下へ出る。
階段を上がってきたシグマを見つけると、フェルンはその場で足を止めた。
以前のように勢いよく抱きつくことはせず、まずシグマの左腕へ目を向ける。
「腕、大丈夫だった?」
「ああ。ギルドへ行っている間も、何も起きなかった」
「よかった」
フェルンの表情が和らぐ。
「そっちも無事だったか?」
「うん。三人で帰ってきた」
「約束どおり、中央には近づいていません」
黒鬼が答える。
「勇者教の人も見なかったよ」
白鬼が続けた。
「そうか」
シグマは安心したように頷き、黒鬼へ視線を向ける。
「二人を連れて帰ってくれて、ありがとう」
「任されたことをしただけです」
黒鬼はそう答えたが、僅かに頬を緩めていた。
「私もちゃんとしてたよ」
白鬼が横から割り込む。
「勝手に離れなかったし、要らない物も買ってない」
「瓶を買おうとしていました」
「まだ言うの?」
「結局、買わなかったのなら問題ない」
シグマが言うと、白鬼は得意そうに黒鬼を見る。
「ほら」
「シグマが甘いだけです」
「とりあえず、全員揃ったんや。先に部屋へ入ろうや」
シルフに促され、一行はシグマと紅蓮の部屋へ集まった。
全員が卓を囲むには狭いため、白鬼と黒鬼は寝台の端へ座り、フェルンはその間に入った。
シルフは窓際に立ち、紅蓮は壁へ背を預ける。
シグマは卓上へ、ベルガンから受け取った地図と王家の通行許可証を広げた。
「まず、ギルドで聞いた内容を話す」
全員の視線がシグマへ集まる。
「俺たちの通行許可証に問題はなかった。旧街道にも大きな異常はなく、原生林の魔物も安定している」
「なら、森へ入れるんやな?」
シルフが尋ねる。
「ああ。土の勇者側の問題で、俺たちの通行まで止められることはない」
「それなら、すぐ出発できるの?」
フェルンが尋ねる。
「通ることはできる。だが、今すぐ出発するのは避けた方がいいと言われた」
「土の勇者の従者が、原生林に残ってるから?」
白鬼の問いに、シグマは頷いた。
「何人かが旧街道の周辺で調査を続けている可能性がある。ギルドも、正確な居場所までは把握できていない」
「戻るよう伝えていないのですか?」
黒鬼が尋ねる。
「勇者教には伝えたそうだ。だが、森の奥にいる者とは連絡が取れないと答えたらしい」
「ほんまに連絡が取れへんのか、戻すつもりがないんかは分からんわけやな」
シルフの言葉に、シグマは頷く。
「ギルドマスターも、同じことを考えていた」
「街にいる土の勇者は?」
紅蓮が尋ねた。
「ギルドから調査中止を伝えられた後は、中央の宿から離れていないらしい。必要な買い物には勇者教の者が出ているが、本人は森へ戻っていない」
先ほどすれ違った一団の中に、土の勇者本人がいた可能性が高い。
しかし、シグマはそのことを断定せず、ギルドで確認できた事実だけを説明した。
「調査が止められた理由は?」
シルフが尋ねる。
「土の勇者側が持っていた書状は、ディアグランディアの冒険者ギルドから、本部を通して発行された正式な調査依頼書だった」
「正式やったんやろ?」
「ああ。ただし、ギルドが仕事として調査を認めた書状であって、アルステラへの入国や、この国の入口から原生林へ入る許可ではない」
シグマはベルガンが見せた地図を思い出しながら説明を続けた。
「原生林は、アルステラ、ディアグランディア、シルトウォーデンの三カ国にまたがっている。だが、今使える入口はアルステラ側にしかない」
「ディアグランディアのギルドは、原生林を調べる依頼だから入口も使えると思った」
黒鬼が言う。
「アルステラ王家は、入国や調査の許可まで出していないと判断したのですね」
「そういうことだ」
「それで揉めとるんか」
シルフが腕を組む。
「王家はディアグランディアへ抗議文を送っている。調査の中止と、土の勇者たちの退去も求めているそうだ」
「もう、出ていけって決まったの?」
白鬼が尋ねる。
「アルステラ側は、それを求めている。だが、ディアグランディア側は、ギルド本部を通した正式な依頼だと主張している」
「まだ決着していないんですね」
「ああ。ギルド本部も、双方へ確認を取っている最中らしい」
「面倒やなあ」
シルフが深く息を吐く。
「書状を出した側は正式やと思っとって、入口がある側は勝手に入られたと思っとる。そら、すぐには終わらへんわ」
「武力で追い出すわけにはいかないの?」
白鬼が尋ねる。
「相手は土の勇者と勇者教だ」
紅蓮が答えた。
「しかも、ディアグランディアは正式な依頼だと言ってる。アルステラが強引に捕らえれば、国同士の問題になる」
「街で何か悪いことをしたわけでもないから、なおさら動きにくいそうだ」
シグマが補足する。
「宿の人が言っていたことと同じだね」
フェルンが言った。
「お金も払ってるし、誰も困らせてないって」
「ああ。無許可入国と調査の問題はあるが、街の中では乱暴を働いていない」
「過去の噂だけで捕まえるわけにはいかないのですね」
黒鬼が呟く。
土の勇者が一つの街を滅ぼしたこと。
自らに仕えていた者や、召喚に関わった者まで殺したという話。
それらがどこまで事実なのか、今の一行には確かめられない。
少なくとも、グレイヴァルへ来てから大きな問題を起こしたという記録はなかった。
「土の勇者たちは、原生林で何を調べていたんだ?」
紅蓮が本題を戻す。
「提出された計画では、旧街道の状態、魔物の分布、地盤の変化を調べることになっている」
「実際も同じだったの?」
白鬼が尋ねる。
「地面を調べている時間が長かったそうだ。土の勇者本人が地面へ手を触れ、従者たちが土を採取していた」
黒鬼が白鬼を見る。
「私たちが店で聞いた話と同じですね」
「店では何を聞いた?」
「勇者教の人たちが、縄や油、杭を買っていました」
黒鬼が順に説明する。
「土を入れる小さな革袋も、店にあった分をすべて買ったそうです。ほかにも、大きな槌や小瓶を探していました」
「二日前に来たって言ってたよ」
白鬼が付け加える。
「昨日と今日は、そのお店には来てないって」
「やはり、土や地面を調べるための道具か」
シグマは地図へ目を落とした。
ただ旧街道の状態を確認するだけなら、土を採取するための袋や小瓶を大量に集める必要があるのか。
地盤を調べるためとも考えられる。
しかし、街道から外れた林の中でも同じ作業を続けていたという話がある。
「何か探しとるんと違うか?」
シルフが静かに言った。
「ギルドマスターも、そう考えていた」
「何を?」
「分からない。土の勇者側は、地盤と魔力の流れを調べているとしか答えていない」
「魔力の流れか……」
シルフは地図を覗き込む。
「原生林は魔力が濃い。場所によって流れも大きく変わる。調べる理由自体はおかしくないで」
「でも、旧街道から外れてるんでしょ?」
白鬼が言う。
「街道の安全を調べるだけなら、関係ない場所まで行く必要はないよね」
「その通りです」
黒鬼も頷く。
「別の目的がある可能性は考えておいた方がよさそうです」
「覇王石と関係があるのかな」
フェルンの言葉に、部屋の中が静かになった。
シグマは無意識に左義手へ視線を落とす。
すれ違った瞬間、獣王石は確かに反応した。
だが、その一度だけで、土の勇者側が覇王石を探していると断定することはできない。
「可能性は否定できない」
シグマは慎重に答えた。
「だが、今は何も分かっていない。覇王石と結びつけて考えすぎれば、別の目的を見落とす」
「せやな。たまたま地面を調べとるだけかもしれへん」
シルフも無理に話を広げなかった。
「腕のことは、ギルドへ話さなかったのか?」
紅蓮が尋ねる。
「ああ。原因が分からない以上、話しても混乱させるだけだ。それに、獣王石について知る者を増やしたくない」
「国王には話してあるんやろ?」
「獣王石を持っていることは話した。だが、今日の反応までは王も知らない」
「なら、しばらく様子を見るしかないな」
紅蓮が壁から背を離す。
「また反応したら、その時は全員で考える。それでいいだろ」
「ああ」
シグマは地図を卓の中央へ広げ直した。
「ギルドから、旧街道の新しい地図を借りた」
街から原生林へ続く道。
森へ入った後の旧街道。
最初に休める場所や、水場の位置。
そして、土の勇者側の従者が確認された場所が記されている。
「この印が、従者がいた場所?」
白鬼が身を乗り出す。
「ああ。ただし、今も同じ場所にいるとは限らない」
「避けるために、森の中へ入るの?」
フェルンが尋ねる。
「いや。馬車で街道を外れる方が危険だ」
シグマは旧街道を指でなぞった。
「原生林には、強い魔物の縄張りが幾つもある。接触を避けるために道を外れれば、別の危険へ入り込むことになる」
「なら、このまま旧街道を進むのですね」
「そうだ。従者が確認された場所では立ち止まらない。出発する時間も、土の勇者側と重ならないようにする」
「野営は?」
紅蓮が尋ねる。
「いつも使われている場所は、土の勇者側も利用していたらしい。少し手前に、馬車とノクスたちを休ませられる空き地がある」
シグマは地図上の別の印を示した。
「広くはないが、水場も近い。最初の夜はここを使う」
「土の勇者側が使っていた場所からは離れとるんやな?」
「ああ」
「それなら、その方がええ」
シルフが頷いた。
「問題は、いつ出発するかだな」
紅蓮が言う。
全員の視線がシグマへ集まる。
「ギルドマスターは、今日すぐに出ることは勧めないと言っていた」
「森に残っている従者が戻るか、確認するためですか?」
黒鬼が尋ねる。
「ああ。それと、ディアグランディアやギルド本部から新しい連絡が届く可能性がある」
「何日待てばいいの?」
白鬼が尋ねる。
「それは分からない」
「何日も待つの?」
「そこまで待つつもりはない」
シグマは地図を見つめた。
街の外ではハクが待っている。
数日戻らない可能性は伝えてあるが、いつまでも街へ留まるわけにはいかない。
何より、土の勇者側の問題が完全に解決するまで待っていれば、出発がいつになるか分からなかった。
「今日は、このまま宿で待つ」
シグマは全員へ向けて言った。
「夕方までに新しい連絡が届けば、ギルドから使いが来ることになっている」
「来なかったら?」
紅蓮が尋ねる。
「明日は出発の準備をする」
「出発は、その次の日?」
「今のところは、そのつもりだ」
シグマは地図の上へ指を置いた。
「明日一日で装備と食料を確認する。ノクスとソルも休ませる。森に残っている従者の情報が入れば、それを踏まえて出発時間を決める」
「何も分からなかった場合は?」
黒鬼が尋ねた。
「土の勇者本人が中央の宿にいる時間を確認し、従者が確認された場所を避けながら旧街道を進む」
「じゃあ、ずっと待つわけじゃないんだね」
フェルンが安心したように言った。
「ああ。ハクも待っているからな」
「明日、ハクに会いに行く?」
「街へ入れない以上、すぐに戻るなら会いに行ける。ただし、勇者教に見つからないよう、一人では行かない」
「フェルンも行く」
「それも明日決めよう」
フェルンは少し残念そうにしたが、素直に頷いた。
「分かった」
その時、部屋の扉が軽く叩かれた。
一行の会話が止まる。
紅蓮が大剣へ手を伸ばし、白鬼と黒鬼も身構えた。
「どちら様ですか?」
シグマが扉越しに尋ねる。
「宿の主人だ。冒険者ギルドから使いが来てる」
シグマと紅蓮は顔を見合わせた。
「今、下へ行きます」
シグマは地図と通行許可証を畳み、荷物の中へ収めた。
「俺と紅蓮で行く。みんなはここにいてくれ」
「気をつけて」
黒鬼の言葉に頷き、二人は部屋を出た。
一階へ下りると、食堂の入口近くに一人の職員が立っていた。
ギルドの受付で案内を担当していた男だった。
「先ほどはどうも」
職員は周囲にほかの客がいないことを確認し、声を落とす。
「ベルガンから、追加の連絡です」
「何か分かったんですか?」
「森へ入っていた土の勇者側の者が、二人戻ったそうです」
「残りは?」
「正確な人数が分からないため、全員かどうかは確認できていません。戻った二人はそのまま中央の宿へ入りました」
「何を持ち帰った?」
紅蓮が尋ねる。
「背負い袋と、土が入っていると思われる革袋です。武器は使った形跡がなく、負傷も確認されていません」
「ギルドは話を聞けたんですか?」
「勇者教を通して、調査は中断したとだけ回答がありました」
「中断……」
「終了ではありません」
職員が付け加える。
「ディアグランディアとギルド本部からの返答次第では、再開を求める可能性があるようです」
「土の勇者本人は?」
「中央の宿に残っています。今日、再び森へ出る様子はありません」
「分かりました」
シグマは短く考え、職員へ尋ねる。
「明日も、森へ入る者がいないか確認していただけますか?」
「既に南門と原生林の入口へ連絡が出ています。新しい動きがあれば、改めて知らせます」
「ありがとうございます」
「ベルガンからは、今夜は宿を離れず、勇者教へ近づかないようにとのことです」
「仲間にも伝えます」
職員は一礼し、宿を出ていった。
シグマと紅蓮は二階へ戻る。
部屋へ入ると、全員が二人の言葉を待っていた。
「森に残っていた者が二人、街へ戻ったそうだ」
シグマが説明すると、シルフが窓際から離れる。
「全員なん?」
「分からない。ギルドも、森へ入った正確な人数を把握できていない」
「何を持ち帰ったのですか?」
黒鬼が尋ねる。
「背負い袋と、土の入った革袋だ。勇者教は、調査を中断したと答えたらしい」
「中止ではなく、中断ですか」
「ああ。ディアグランディアとギルド本部の返答次第では、再開するつもりかもしれない」
「やっぱり、土を調べてたんだね」
白鬼が卓上に置かれた地図を見る。
「何を探してるんだろ」
「今は考えても答えは出ない」
シグマは再び全員を見回した。
「少なくとも、今日と今夜は土の勇者側が森へ入る可能性は低い。明日もギルドが動きを確認してくれる」
「ほな、さっき決めたとおりでええな」
シルフが言った。
「明日は準備。問題がなければ、その次の日に出発や」
「ああ」
シグマは頷いた。
「ただし、新しい問題が起きた場合は、もう一度話し合う。無理に予定どおり進むつもりはない」
「分かった」
紅蓮が答える。
白鬼、黒鬼、シルフ、フェルンも順に頷いた。
その後、一行は一階の食堂へ下りた。
夕食には、焼いた肉と野菜の煮込み、硬いパンが並んだ。
昼から続いていた緊張が少しだけ解け、食事が始まると白鬼と黒鬼は買い物中の出来事を話し始めた。
「黒鬼がね、ずっとお姉ちゃんみたいにしてたの」
「シグマから任されたのですから、当然です」
「私がお姉ちゃんだって言ってるのに」
「双子ですから、そこまで変わらないでしょう」
「変わるよ。私が先に生まれたんだから」
「どれくらい先だったん?」
シルフが面白そうに尋ねる。
白鬼が答えようとして、口を閉じた。
「……知らない」
「知らんのかい」
「でも、私が姉なのは決まってるの」
「それは否定していません」
「最近の黒鬼は、姉みたいな顔する」
「白鬼が落ち着いてくれれば、私も何も言いません」
「落ち着いてるよ」
「店で必要のない瓶を買おうとしていました」
「まだ言うの?」
紅蓮が呆れた顔で二人を見る。
「店でまで何やってるんだ」
「ちゃんと買い物したよ」
「黒鬼が止めてくれたからだろ」
「買ってないんだから同じでしょ」
「結果だけはな」
フェルンが煮込みを口へ運びながら、小さく笑った。
シグマも二人のやり取りを聞きながら、ようやく肩の力を抜いた。
今日、必要な情報は集められた。
土の勇者側の調査は、少なくとも一度は中断された。
旧街道や原生林に大きな異常はない。
シグマたちの通行許可証も有効なままだ。
不明な点は多く残っている。
土の勇者たちは、地面から何を探していたのか。
すれ違った瞬間、なぜ獣王石が反応したのか。
ディアグランディアとアルステラの話し合いが、どのような結論へ向かうのか。
今のシグマたちに、それらを確かめる方法はない。
だが、分からない相手を追いかけ、予定を変える必要もなかった。
自分たちの目的は、旧グランディア王国跡地へ向かうことだ。
翌日は原生林へ入るための準備に使う。
装備と食料を確認し、馬車や騎鳥の状態を確かめる。
街の外で待つハクとも合流し、問題がなければ翌朝にグレイヴァルを出る。
その方針だけは、全員の間で決まった。
食事を終え、一行はそれぞれの部屋へ戻った。
シグマは窓際に立ち、夜の街へ目を向ける。
ここから中央の宿は見えない。
勇者教の一団が何をしているのかも、土の勇者が何を考えているのかも分からなかった。
左義手を持ち上げ、指をゆっくりと握る。
獣王石は静かなままだ。
一度だけの反応。
ただの偶然とは思えない。
それでも、今は答えを求めて動くべきではなかった。
「明日は準備か」
背後から紅蓮の声がした。
「ああ」
「やることは多いぞ」
「分かっている」
「分かってるなら、今日はもう休め。朝からずっと考え込んでるだろ」
紅蓮は自分の寝台へ腰を下ろした。
「土の勇者のことも、腕のことも、今夜考えたところで答えは出ない」
「そうだな」
シグマは窓から離れた。
卓上に置いた荷物の中には、ベルガンから渡された原生林の地図がある。
その隣には、アルステラ王家から発行された通行許可証。
自分たちが進むために必要なものは揃っている。
残るのは、無事に原生林を抜けるための準備だけだった。
窓の外では、グレイヴァルの夜が静かに更けていく。
土の勇者と勇者教の一団が滞在していることを除けば、どこにでもある街の夜に見えた。
だが、その静けさの下では、三つの国と冒険者ギルド、そして二人の勇者を巡る思惑が絡み始めている。
シグマたちはまだ、その全てを知ることはできない。
今はただ、自分たちの進む道を選ぶしかなかった。




