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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第三十五話 伝えたい言葉

 翌朝、シグマが宿の食堂へ下りると、窓から差し込む光が卓の端を照らしていた。


 外からは、荷車の軋む音や、店先で交わされる声が聞こえてくる。グレイヴァルの街は、すでに朝の仕事を始めているようだった。


 昨夜は、皆で持ち寄った情報を整理してから、それぞれの部屋へ戻った。


 気にかかることはある。それでも、出発に向けてできることを一つずつ済ませていくしかない。


 シグマは空いている椅子を引き、仲間たちと朝食を取った。


 食事が一段落したところで、今日の準備について話そうと顔を上げる。


 向かいでは、黒鬼が小さな紙を卓へ広げていた。白鬼が横から覗き込み、その隣でフェルンが指を折っている。


「何を数えてるんだ?」


 シグマが尋ねると、フェルンは折った指をそのままに顔を上げた。


「昨日見た、お店」


「買い物に行く順番を決めてたんです」


 黒鬼が、シグマにも見えるように紙を向けた。


 そこには、昨日三人で歩いた通りと、店の場所が簡単に書き留められていた。細かな地図ではないが、角を曲がる目印まで添えられている。


「こっちに乾物を売っているお店があって、その隣が布や紐を扱っているところです。昨日は見るだけだったので、値段までは全部聞けませんでしたけど」


「ここのパン、おいしそうだったよ」


 フェルンの指が、紙の端を押さえた。


「あ、それ! 私も気になってた。前を通った時、ちょうど焼けたところだったんだよね」


「白鬼はずっとそっちを見てたでしょう」


「ずっとじゃないよ。ちゃんと他のお店も見たもん」


 黒鬼が顔を上げると、白鬼は隣のフェルンに目を向けた。


「ね?」


「……パンの前、二回通った」


「それは道を確かめてたの!」


 向かいで聞いていた紅蓮が、喉の奥で笑った。


「なら、道案内は任せられるな」


「任せて。少なくとも、そのお店までは間違えないから」


「他も覚えておけ」


 シグマは紙を覗き込み、店の位置を確かめた。


「先に荷物を確認しよう。残っている分を見てから、足りないものだけ買う」


「せやな。あれもこれも買うて、積む場所なくなったら困るし」


 シルフが椅子から腰を上げる。


「食べ物はうちも見るわ。奥にしまったままの袋もあったやろ」


「頼む。黒鬼、その紙を借りてもいいか?」


「はい」


 受け取ろうとしたシグマの指が、紙の下で黒鬼の指先に触れた。


 黒鬼は一瞬だけ手を止め、それからそっと紙を離した。


「……あまり綺麗には書けてませんけど」


「十分分かる。助かるよ」


「それなら、よかったです」


 黒鬼は小さく笑い、椅子を引いた。


     ◇


 馬車を置いている場所へ回ると、ノクスとソルが首を持ち上げた。


 フェルンが近づくにつれ、二羽の視線もそちらへ動く。


「おはよう」


 声をかけたフェルンは、まずノクスの首元へ手を伸ばした。すぐ横からソルが顔を寄せると、そちらにも同じように触れる。


「待って。順番」


 シグマはその様子を横目に、馬車の荷台へ上がった。


 通りには、朝の仕事へ向かう人々の足音が行き交っている。宿の表から荷を運ぶ音が聞こえ、どこかで店の戸を開ける音が続いた。


 紅蓮が荷台の横に立ち、シグマの差し出した袋を受け取る。


「こっちも下ろすか?」


「ああ。底の布も見ておきたい」


 食料と野営道具を順に下ろし、宿の邪魔にならないよう、馬車の脇へまとめる。


 全てを買い直す必要はない。


 アルスラでも必要なものは揃えているし、使える道具まで増やせば荷物になる。袋を開き、残りを確かめ、傷んでいる箇所があれば直す。その繰り返しだった。


「これ、まだ結構あるで」


 シルフが乾物の入った袋を持ち上げた。


 口紐をほどき、中身を確かめてから白鬼へ渡す。


「湿ってへんな。そのまま使えるわ」


「こっちは?」


「先に食べる方へ回しとこか。そっちの袋に分けてくれる?」


「はーい」


 白鬼は返事をして、荷物の前にしゃがみ込んだ。


 黒鬼はその横で、包帯や清潔な布を確かめていた。包みを開けたまま地面へ置かず、膝に広げた布の上で一つずつ数えている。


 シグマは荷台から降り、その隣へ膝をついた。


「そっちはどうだ?」


「使えるものは、まだあります。少し補充すれば大丈夫だと思います」


 黒鬼が残っている分を示す。


「細いものばかりになってきたので、幅のある布も買っておきたいです」


「分かった。必要な分を書いてくれ」


「はい」


 黒鬼は布を畳み直し、取りやすい順に重ねた。


 以前なら、荷物の確認でも、誰かの判断を待っていることが多かった。今は自分の使うものについて、何が必要かをはっきり伝えてくれる。


 シグマがその手元を見ていると、黒鬼が顔を上げた。


「何か、変でしたか?」


「いや。任せられると思ってな」


「……布を数えてるだけです」


「それでも、俺より使う時のことを分かってる」


 黒鬼は少し目を伏せた。


 返事の代わりに包みの端を揃え、結び目を作る。ほどけないように確かめてから、もう一度だけシグマを見た。


「だったら、取り出す場所も決めておいていいですか。必要な時に、奥にあると困るので」


「ああ。後で皆にも教えてくれ」


「分かりました」


「黒鬼、こっちの紐も見て」


 白鬼が横から紐の束を差し出した。


 黒鬼は受け取り、途中のほつれを指で確かめる。


「ここが傷んでるね」


「結べば使えない?」


「小さな袋なら。でも、重いものには使わない方がいいと思う」


「じゃあ、軽いもの用!」


「うん。間違えないように分けておこう」


 白鬼は短い紐をまとめ、空いている袋へ入れた。


 すぐ隣では、紅蓮が荷台を固定する縄を引いている。


「こっちは問題ないぞ。替えるほど傷んでない」


「分かった。積み直す時にもう一度締めよう」


 シグマは馬車の下へ視線を向けた。


 車輪や軸の周りも確かめ、緩みや目立つ損傷がないかを見ていく。ノクスとソルにつけるものも、擦れる部分を中心に手を入れた。


 フェルンは二羽のそばを離れず、作業の邪魔にならない位置から見ていた。


「シグマ」


「どうした?」


「ハクのところ、今日は行く?」


「ああ。買い物が済んだら顔を出す。出発のことも話しておきたいからな」


「わたしも行く」


「そのつもりだった」


 フェルンは頷き、ソルの羽毛をもう一度撫でた。


「ハク、街のごはんのこと聞いたら、食べたかったって言うかな」


「食べたければ、自分でそう言うだろう」


「……お肉、持っていこうかな」


「持っていくなら、ちゃんと分けて買おう。俺たちの夕食がなくならない程度にな」


 フェルンは少し考えてから、真面目な顔で頷いた。


 荷物の確認が終わる頃には、宿の壁に落ちていた影が短くなっていた。


 不足しているものは、思っていたほど多くない。


 道中で使った分の食料と、清潔な布。傷んだ袋の代わりと、細かな消耗品。シグマは黒鬼の書いた店の見取り図の余白へ、それらを書き足した。


「これで全部か?」


「うちの方はそれでええよ」


「こっちも大丈夫です」


「私も……あ、パン!」


 白鬼が思い出したように声を上げる。


 紅蓮は袋を荷台へ戻しながら、呆れた顔を向けた。


「忘れてなかっただろ」


「忘れてないけど、書いてないから」


「昼の分なら買ってもいい。持ち歩く分とは別にな」


 シグマが紙に書き加えると、白鬼の顔が明るくなった。


「じゃあ、最初に行こう!」


「先に必要な買い物を済ませるぞ。持ったまま歩けば潰れる」


「……それもそうだね」


「戻ってきた時、うちの分だけぺちゃんこになってたら嫌やで」


「しないよ!」


 シルフは笑いながら、空になった袋を受け取った。


 街中で目立つのを避けるため、シルフは今日も宿に残る。紅蓮も残り、下ろした荷物を整理して、買い足したものを積む場所を空けておくことになった。


 買い出しはシグマと白鬼、黒鬼、フェルンの四人で向かう。


「場所は分かるんだな?」


 紅蓮の問いに、白鬼が胸を張った。


「昨日ちゃんと歩いたから。ね、黒鬼」


「昨日と同じ道なら大丈夫」


「途中で違う店に吸い込まれるなよ」


「子供じゃないんだから」


 その横でフェルンが、シグマの袖を軽く引いた。


「袋、ひとつ持つ」


「じゃあ、これを頼む」


 畳んだ袋を渡すと、フェルンは両手で受け取った。


 シグマは外套を整え、黒い鬼面をつける。腰の赤と白の鬼面が荷台へ引っかからないよう確かめてから、通りへ向かった。


     ◇


 昨日歩いた三人に案内され、シグマは通りを進んだ。


 中央へ向かわずとも、旅に必要なものを扱う店はある。荷車が行き交う道の脇に店が並び、軒先には縄や革袋が吊るされていた。


「こっちです」


 黒鬼が立ち止まったのは、布や紐を扱う小さな店だった。


 中へ入ると、棚には大きさの違う袋や、巻かれた布が収められている。店主はシグマたちを一度見てから、手にしていた品を台の上へ置いた。


「何を探してる?」


「丈夫な袋と、布を少し。あと紐を」


 シグマが答える横で、黒鬼が必要な幅を両手で示した。


「傷に当てるものなので、あまり硬くないものがいいんです」


「それなら、こっちだな」


 出された布を、黒鬼は指先で確かめた。


 端を軽く折り、厚みを見てからシグマへ目を向ける。


「これがいいと思います」


「じゃあ、それを。必要な長さは?」


 黒鬼が答えると、店主は頷き、布を広げ始めた。


 シグマはその間に袋を選んだ。


 同じ程度の大きさでも、生地の厚みや口の閉じ方が違う。値段を聞き、縫い目を見ていると、隣から白鬼が別の袋を持ち上げた。


「こっち、紐が二本あるよ」


「引いて閉じるやつか」


「これなら、ぎゅっと引くだけで閉まる」


 白鬼は実際に両側の紐を引き、袋の口を閉じてみせた。


 黒鬼がその手元を覗き込む。


「それ、さっきの布を入れるのによさそう」


「でしょ?」


「うん。結び直さなくていいから、急いでる時も開けやすいし」


「じゃあ、これにしようよ」


 シグマは袋を受け取り、底の縫い目を確かめてから頷いた。


「そうするか」


 白鬼は満足そうに笑った。


 買ったものを袋へ収め、次は乾物を扱う店へ向かう。


 シルフに頼まれた分を伝え、残りの食料と合わせて使えるものを選んだ。日持ちのする食材を中心に買い足し、量を確かめてから口を閉じる。


 フェルンは渡された軽い袋を両腕で抱え、店の外へ出た。


「重くないか?」


「大丈夫」


 足取りを見ても、無理をしている様子はない。


 それでもシグマが少し手を伸ばすと、フェルンは袋を抱え直した。


「これ、わたしの」


「分かった。落とさないようにな」


「うん」


 通りを横切ろうとしたところで、荷車が近づいてきた。


 シグマは足を止め、フェルンを自分の脇へ寄せる。車輪が石を踏む音を立てて通り過ぎるまで待ち、それから三人を促した。


 黒鬼は一歩後ろから、その背中を見ていた。


「黒鬼?」


 呼ばれて顔を上げる。


 シグマが振り返り、手元の袋へ視線を落としていた。


「そっちも重くなっただろ。ひとつ持つ」


「このくらいなら平気です」


「まだ寄る店があるからな。両手は空けておいた方がいい」


 差し出された手へ、黒鬼は少しためらってから袋を渡した。


「……ありがとうございます」


「ああ。次はどっちだ?」


「そこの角を、右です」


 シグマが歩き出す。


 黒鬼は空いた手をそっと握り、それから急いで隣へ並んだ。


「道、覚えてきましたか?」


「帰り道くらいは。店の場所はまだ怪しいな」


「今通ったのが、最初に曲がったところです。戻る時は、あの桶が並んでいるお店が目印になります」


「なるほど」


「白鬼はパンの匂いがすれば分かるって言ってましたけど」


「聞こえてるよ!」


 前を歩いていた白鬼が振り向いた。


「ちゃんと道でも覚えてるからね」


「分かってる」


 黒鬼が笑うと、白鬼もすぐに笑い返した。


 角を曲がった先から、焼けたパンの香りが漂ってきた。


 白鬼がぴたりと足を止める。


 黒鬼が何も言わずに見つめると、白鬼はわざとらしく前を向いた。


「……ほら。ちゃんと合ってた」


「ああ、頼りになるな」


 シグマの声には笑いが混じっていた。


     ◇


 宿へ戻る頃には、四人の手にした袋はすっかり膨らんでいた。


 食べ物の包みだけは潰れないように上へ載せ、フェルンが持つ袋には軽いものをまとめてある。


 馬車の脇では、紅蓮が最後の荷物を積み直していた。


「帰ったか」


「ああ。必要なものは買えた」


 シグマが袋を下ろすと、宿の中からシルフも顔を出した。


「ちょうどええところに戻ってきたな。こっちも片づいたで」


「パン、ちゃんとあるよ!」


 白鬼が包みを持ち上げる。


「潰してないからね」


「そこまで言うたら、見せてもらわなあかんな」


「ほら!」


「ここで全部開けるな。先に買ったものを片づけろ」


 紅蓮に言われ、白鬼は開きかけた包みを閉じた。


 フェルンが隣で、自分の袋を差し出す。


「これは、どこ?」


「こっちや。ありがとうな」


 シルフが受け取り、中身を確かめていく。


 黒鬼は買ってきた布を新しい袋へ移した。白鬼が選んだ二本の紐を引き、口を閉じる。今度は開く方へ力をかけ、引っかからないかを確かめた。


「使えそうか?」


 シグマが尋ねると、黒鬼は頷いた。


「はい。これなら、すぐに取り出せます」


「どこに置く?」


「ここでもいいですか」


 黒鬼は荷台の手前を示した。


 他の荷物を下ろさずに取れ、奥へ滑り込む心配も少ない場所だった。


「皆も、ここにあるって覚えておいてください」


「分かった」


「はーい」


 仲間たちの返事を聞いてから、黒鬼は袋を収めた。


 その横へ別の荷物を積もうとして、シグマの外套の留め紐が木枠に引っかかった。


「あ、待ってください」


 黒鬼がすぐに手を伸ばした。


 シグマが動きを止めると、黒鬼は木のささくれに絡んだ部分を指先で外す。無理に引けば傷みそうだった紐が、するりとほどけた。


「取れました」


「悪い。助かった」


「少し、長く垂れてます。短く結び直した方がいいかもしれません」


 シグマは留め紐へ目を落とした。


「そうだな」


「……結びましょうか」


 黒鬼の声は、先ほどより少し小さかった。


 シグマが頷くと、黒鬼は外套の端を整えた。結び目をほどき、余った部分が垂れないよう長さを揃える。


 顔を寄せすぎないようにしているせいか、いつもの手際より少し慎重だった。


 シグマは動かずに待った。


「きつくないですか?」


「大丈夫だ」


「なら、これで」


 黒鬼が手を離す。


 短くまとまった紐を確かめ、シグマは礼を言った。


「ありがとう」


「……はい」


「黒鬼、こっち手伝って!」


 白鬼に呼ばれ、黒鬼は顔を上げた。


 姉が広げた布の端を押さえようとして、風に煽られている。


「今行く」


 黒鬼はすぐにそちらへ向かった。


「先に端を畳めばいいのに」


「だから、そっちを持ってほしかったの!」


「はいはい。引っ張らないで」


 二人で端を持つと、布はあっさり畳まれていく。


 シグマは結び直された紐から手を離し、買ってきた荷物を持ち上げた。


 残っているのは、持ち歩くものと馬車に積んでおくものの仕分け。それを終えたら、街の外へ出てハクにも会いに行く。


「その前に、昼にしよか」


 シルフが食べ物の包みを取り上げた。


「せっかく買うてきたんやし。白鬼も、さっきから気にしてるやろ」


「もう片づけたから、食べていいよね?」


「手を洗ってからだ」


 紅蓮に言われるより早く、白鬼はフェルンを振り返った。


「行こ!」


 フェルンが頷き、二人で宿へ向かう。


 黒鬼はその後を追おうとして、シグマへ振り向いた。


「それ、私も持ちます」


「これは置くだけだ。先に行ってていい」


「でも、片方が空いてた方が置きやすいでしょう」


 黒鬼はシグマの返事を待って、小さい方の袋を受け取った。


 二人で残りを積み、荷台の端を確かめる。


「これでいいな」


「はい」


 並んで馬車を離れると、宿の入口から白鬼の声がした。


「二人とも、早く!」


「今行く」


 シグマが答える。


 その隣で、黒鬼がそっと笑った。


開け放たれた戸の向こうからは、白鬼がパンを並べる声と、それに返す仲間たちの声が聞こえていた。


           ◇


 手を洗って食堂へ戻ると、白鬼はすでに人数分のパンを並べ終えていた。


 シグマと黒鬼の座る場所にも、それぞれ一つずつ置かれている。


「冷めちゃうよ」


「お前が食べたくて待ってただけだろ」


 紅蓮が椅子に腰を下ろすと、白鬼は否定せずに笑った。


「それもある!」


 宿に頼んだスープが運ばれ、卓に湯気が広がる。


 シグマは鬼面を外して脇へ置き、パンを手に取った。表面にはまだ微かな温かさが残っていた。


 一口かじると、薄い皮が音を立てて割れる。


「……うまいな」


「でしょ?」


「お前が焼いたみたいな顔をするな」


「見つけたのは私たちだもん」


 白鬼はそう言いながら、隣に座った黒鬼を肘で軽くつついた。


「ね?」


「うん。これは買ってよかったね」


 黒鬼も、ちぎったパンを口へ運んだ。


 買い物の間は人や荷車を避けながら歩いていたせいか、こうして腰を下ろすと、ようやく息がつける。


 フェルンは両手でパンを持ち、少しずつ食べていた。時々、包みの入った袋を確かめるように見ている。


「ハクの分なら、ちゃんと残ってるぞ」


 シグマが声をかけると、フェルンは顔を上げた。


「わかってる」


「何度も見てたからな」


「……つぶれてないかなって」


 買い物の帰りに分けて買った肉は、他のものと混ざらないよう、別の包みにしてあった。


 シグマが袋の置き場所を少しずらすと、フェルンは安心したようにスープへ手を伸ばした。


「午後は、買ってきたもん分けたら外へ行くんやろ?」


 シルフが尋ねる。


「ああ。長居はしないつもりだ」


「私も行っていい?」


 白鬼が手を上げた。


「いいぞ。黒鬼はどうする?」


「私も、一緒に行きたいです」


「なら、午前と同じ四人だな」


 紅蓮はスープの器を置いた。


「こっちは武器の手入れを済ませておく。戻ったら、残りも見てやる」


「頼む」


「うちも、部屋で道具を見とくわ。ハクによろしくな」


 シルフは軽く手を振った。


 外へ出られないことを大げさに嘆くでもなく、手元のパンをちぎってスープへ浸す。


「何か買い忘れてたら、戻る途中で頼むかもしれへんけど」


「今のうちに思い出してくれ」


「せやから、今考えてるねん」


 シグマが笑うと、シルフも目を細めた。


 少し前まで卓に広がっていた湯気は、いつの間にか薄くなっている。


 食べ終えた者から荷物の話へ戻り、明日使う分をどの袋に分けるか、先に消費する食料はどれかと確認していった。


 黒鬼が置き場所を説明すると、紅蓮は一度頷いた。


「分かった。積み直す時も、そこは塞がないようにする」


「お願いします」


「お前も、自分で持つ分は用意しとけよ」


「はい。そのつもりです」


 黒鬼は空になった器の脇へ両手を置いた。


 白鬼が最後のパンを口へ放り込み、立ち上がろうとする。


「食べ終わったなら、袋を取ってきてくれる?」


「いいよ。小さい方?」


「うん。口を縛れるのを二つ」


「分かった!」


 白鬼は椅子を戻すと、軽い足取りで食堂を出ていった。


     ◇


 荷物を分け終える頃には、日差しが朝よりも強くなっていた。


 シグマは自分の装備を確かめ、魔石弾を収めたストックホルダーへ指を添えた。


 道中で補充してきた分は残っている。留め具に緩みがないかを見てから、手を離した。


 両腕の制御具にも、目立った異常はない。


「今日は試さなくていいのか?」


 紅蓮が視線を向けた。


「数を確かめるだけだ。出発前に、わざわざ消耗することもない」


「ならいい」


 紅蓮は手元へ視線を戻した。


 そのそばで、フェルンが荷物の中から木の短剣を取り出している。


「持っていくのか?」


「少し、練習したい」


 シグマはフェルンの手元を見てから頷いた。


「ハクに会ってからな。疲れるほどはやらないぞ」


「うん」


「走り込みまで始めるなよ」


 紅蓮が付け加えると、フェルンは一瞬だけシグマを見た。


「……しない」


「どうして俺を見るんだ」


 白鬼が声を立てて笑った。


「シグマが教えると、長くなりそうだからじゃない?」


「今日は短くする」


「今日は、なんだ」


 黒鬼まで口元を緩めたので、シグマはそれ以上言い返すのをやめた。


 四人で宿を出て、門へ向かう。


 中央の賑わいから離れるにつれて、店の数は減っていった。午前中よりも荷物が少ないぶん、足取りは軽い。


 フェルンはハクへ持っていく包みを抱え、白鬼はその歩幅に合わせて隣を歩いていた。


 黒鬼はシグマの横にいる。


「疲れてないか?」


 シグマが尋ねると、黒鬼はすぐに首を横へ振った。


「歩くくらいなら平気です。ずっと座ってるより、外に出たかったので」


「そうか」


「シグマこそ、大丈夫ですか」


「俺は何ともないぞ」


「朝から、ずっと動いてます」


「それは皆も同じだろ」


「皆が座ってる時も、荷物を見に行ってました」


 シグマは少し考え、食事の途中に袋を確かめたことを思い出した。


「あれは、見ただけだ」


「分かってます。でも、座った時くらいは休んでください」


 責める口調ではなかった。


 シグマは黒鬼を見て、頷いた。


「気をつける」


「はい」


 黒鬼はそれだけ言うと、前へ向き直った。


 門の向こうには、街へ出入りする人々が見える。


 シグマたちは通行の邪魔にならないよう脇へ寄り、その流れが落ち着いたところで外へ出た。


     ◇


 街道を離れ、ハクがいる林へ近づくと、頭上で枝が揺れた。


 風に擦れる葉の音に混じって、草を踏む音が聞こえる。


 木々の陰から現れた白銀の巨体を見て、フェルンが足を速めた。


「ハク」


『来たか』


 ハクはシグマへ一度目を向け、それからフェルンの手元を見た。


『それは何だ』


「お肉。街で買ったの」


 フェルンは足元の平らな場所を選び、包みを開いた。


 ハクが鼻先を寄せる。


『妙な匂いがする』


「食べる前からそんなことを言うな。燻した匂いだ」


 シグマが答えると、ハクはもう一度匂いを確かめた。


 白鬼が黒鬼の隣へしゃがむ。


「何て?」


「匂いが気になるらしい」


「おいしそうな匂いなのに」


 ハクは白鬼をちらりと見たが、何も答えず肉を口へ運んだ。


 フェルンがじっと見守る。


「どう?」


『悪くない』


 その答えを聞いて、フェルンの顔がほころんだ。


「おいしいって」


『そこまでは言っていない』


「でも、食べてる」


 ハクは返事をせず、残りも平らげた。


 シグマは笑いを堪えながら、近くの木へ背を預けた。


 街の音は、ここまで来るとほとんど届かない。葉の隙間から落ちる光が、ハクの背をまだらに照らしていた。


『出るのか』


 ハクが顔を上げる。


「ああ。今日は準備を済ませる。明日、出るつもりだ」


 シグマは、原生林へ向かうことと、街を出てから合流することを伝えた。


 ギルドで得た情報についても、行動に関わるところだけを選んで話す。


 ハクは途中で口を挟まず、耳を動かしながら聞いていた。


『近づかなければいいのだろう』


「そうだ。こっちから関わる必要はない」


『なら、分かった』


 それだけ言って、ハクは前脚を伸ばした。


 白鬼がシグマを見上げる。


「話、済んだ?」


「ああ。出発のことは分かってくれた」


「なら、明日は一緒だね」


 白鬼はハクへ向けてそう言い、立ち上がった。


 フェルンは空になった包みを丁寧に畳んでいる。


 黒鬼が手を差し出すと、小さく礼を言って渡した。


「木の短剣、出す?」


「うん」


「少し離れたところでやろう。根が出てる場所は避けた方がいい」


 シグマは木から背を離し、林の縁へ目を向けた。


 低い草の生えた場所がある。四人でそちらへ移ると、ハクもゆっくり立ち上がった。


『騒がしくするな』


「お前まで来るのか」


『そこが日陰だからだ』


 ハクは近くの木の下へ腰を下ろした。


 確かにそこには、枝の広げる大きな影が落ちていた。


     ◇


 フェルンは木の短剣を握り、シグマの前に立った。


 シグマは足元の草を踏み、石や窪みがないかを確かめる。それから数歩離れ、フェルンへ向き直った。


「この前と同じだ。まず、構えてみてくれ」


 フェルンが足を開き、短剣を胸の前へ持ってくる。


 以前より、握った手が上がりすぎなくなっていた。


 シグマは正面から姿勢を見て、次に横へ回った。


「肩の力を抜いて。握り潰さなくていい」


「……こう?」


「ああ。それで少し下がる」


 フェルンが後ろへ足を動かす。


 二歩目で歩幅が大きくなり、上体が後ろへ揺れた。


 シグマが手を添える前に、フェルンは自分で踏みとどまった。


「今、下がりすぎた」


「分かったなら大丈夫だ。最初の位置から、もう一回やってみよう」


 フェルンは頷き、足を戻した。


 白鬼と黒鬼は、少し離れたところで見ている。


 木の短剣が届く範囲には入らず、フェルンが後ろへ下がる場所も空けてあった。


「今度はよかった」


 シグマの声に、フェルンの口元が緩む。


「もう一回」


「急がなくていいぞ」


 数度繰り返すうちに、足の運びが落ち着いてきた。


 速く動こうとするとまだ姿勢が崩れるが、ゆっくりなら、自分の身体を支えたまま下がれる。


「足ばっかり見てしまう」


 フェルンが呟いた。


「最初は気になるだろうな。今度は俺の胸のあたりを見てみてくれ」


「足、見ないで?」


「ゆっくりでいい。さっきの幅を思い出して」


 フェルンはシグマを見つめ、小さく足を動かした。


 一歩。


 もう一歩。


 最後に足元を見かけたが、顔を上げ直した。


「できた」


「ああ。今の動きでいい」


「ちゃんと下がれたね!」


 白鬼が声をかけると、フェルンは嬉しそうに振り向いた。


 短剣を持った手も、一緒に横へ動く。


「フェルン」


 シグマが呼ぶと、フェルンはすぐに気づいて手を下ろした。


「……ごめんなさい」


「人の方へ向けない。それも練習のうちだ」


「うん」


 白鬼も、少し申し訳なさそうに頭を掻いた。


「途中で呼んじゃった」


「分かればいい。今日はここまでにしよう」


「もう?」


 フェルンは短剣とシグマを見比べた。


「少しだけって言っただろ。上手くできたところを覚えておいて、続きはまただ」


 フェルンは残念そうにしながらも、頷いた。


 木の短剣をしまい、黒鬼の差し出した水筒を受け取る。


「ありがとう」


「ゆっくり飲んでね」


 フェルンは両手で水筒を持ち、少しずつ水を飲んだ。


 その横で、白鬼がさっきの足の動きを真似ている。


「見てる時は簡単そうなのにね。速くしようとすると、後ろに倒れそう」


「足だけ先へ行くからだ」


 シグマが答えると、白鬼はもう一度試した。


 今度は小さく下がり、姿勢を保ったまま止まる。


「こんな感じ?」


「ああ」


「できた!」


「白鬼も、足元ばっかり見てる」


 フェルンに言われ、白鬼は下を向いていた顔を上げた。


 黒鬼が堪えきれずに笑う。


「さっき聞いてたでしょう」


「聞いてたよ。でも、気になるんだもん」


「フェルンと同じだね」


「……じゃあ、一緒に練習しようかな」


 白鬼が言うと、フェルンはすぐに頷いた。


 シグマは二人を見て、木陰を指した。


「その相談も、座ってからにしてくれ。今日は休みに来たんだろ」


「シグマもね」


 黒鬼に言われ、シグマは苦笑した。


「分かってる」


     ◇


 ハクのいる木陰へ戻ると、フェルンはその脇に腰を下ろした。


 白鬼も少し離れて座り、木の根を避けながら足を伸ばす。


 シグマは外套の裾を払って座った。人目がないことを確かめてから鬼面を外すと、額に触れる風が涼しかった。


 黒鬼は水筒をしまい、その隣へ腰を下ろした。


 誰かが話し始めるまでの、短い静けさがあった。


 木々の上で鳥が鳴く。


 フェルンはハクの毛並みに手を置いていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。


「ハクは、後ろに下がるの上手?」


『必要なら下がる』


「転ばない?」


『転ばない』


「わたし、さっき転びそうだった」


『見ていた』


 フェルンは少し唇を尖らせた。


「でも、最後はできたよ」


 ハクは片目を開け、フェルンを見た。


『それも見ていた』


 フェルンの手が、白銀の毛の上で止まった。


 それから、またゆっくり動き始める。


 白鬼には返事が聞こえないため、フェルンが一人で話しているように見えただろう。それでも、フェルンの顔を見て何となく分かったらしい。


「ハク、ちゃんと見ててくれた?」


「うん」


「よかったね」


 白鬼が笑い、フェルンも頷いた。


 シグマは膝へ手を置き、静かに息を吐いた。


 座った姿勢のまま肩の力を抜き、呼吸を整える。茜に教わってから繰り返してきた、気術の基礎だった。


 何かを打ち砕くために力を集めるのではなく、まず自分の身体へ意識を向ける。


 歩いていた時には気づかなかった脚の張りが、少しずつ分かってくる。


 息を吐き終えたところで、隣から小さな声がした。


「それも、練習ですか?」


 黒鬼が見ていた。


「ああ。でも、休みながらできることだ」


「休んでくださいって言う前に、答えられました」


「そう言いそうな顔だったからな」


 黒鬼は少しだけ笑った。


「そんなに分かりやすいですか」


「今のは」


 黒鬼は膝へ視線を落とした。


 風が吹き、頬にかかった髪が揺れる。それを指で押さえ、フェルンたちへ目を向けた。


「ちゃんと見てるんですね」


「何を?」


「フェルンのことです。できるようになったところも、無理をしそうなところも」


「教えてるんだから、見てないとな」


「それだけじゃないと思います」


 シグマが顔を向けると、黒鬼は言葉を探すように少し間を置いた。


「荷物を持ちたいって言った時も、全部取り上げたりしなかったでしょう。危なくない分は、任せてました」


「本人がやりたいって言ってるからな」


「……はい」


 黒鬼は両手を膝の上で重ねた。


 フェルンが荷物を抱えて歩いていた姿を思い出しているのかと思ったが、それきり言葉は続かなかった。


 シグマはしばらく待ち、それから口を開いた。


「黒鬼も、何かやりたいことがあるのか?」


「え?」


「いや。そういう話なのかと思って」


 黒鬼は驚いたように目を上げた。


 視線が合うと、すぐに唇を結ぶ。


「……今は、うまく言えません」


「そうか」


 シグマはそれ以上尋ねなかった。


 急いで答える必要のある話ではなさそうだったし、黒鬼も困っているわけではない。言葉にするまで、少し考えたいのだろう。


 向こうでは、白鬼がフェルンに靴の裏を見せるよう言っていた。


 さっき練習していた時に、小さな石が挟まったらしい。


「ほら、あった。歩く時、気にならなかった?」


「ちょっとだけ」


「言ってくれればよかったのに」


「いま、取れたから」


 白鬼は取り出した石を、人のいない方へそっと転がした。


 フェルンがもう一度靴を履く。


 そのやり取りを見ながら、黒鬼が小さく息を吐いた。


「今日は、静かですね」


「ああ」


「街の中にいた時は、あまり気づきませんでした」


「音が多いからな。人の声も、荷車も」


「ここだと、葉っぱの音まで聞こえます」


 シグマは頭上を見上げた。


 重なった葉の間から、青い空が細く見えている。


 ハクが片耳を動かした。


『そろそろ戻ったらどうだ』


「邪魔か?」


『眠るところで話を続けられてはな』


「お前がこっちへ来たんだろ」


 ハクは返事をせず、鼻先を前脚へ載せた。


 シグマは笑い、膝についていた草を払った。


「そろそろ戻ろう。まだ宿でやることもある」


「ハク、眠いの?」


 フェルンが尋ねる。


『今なら眠れそうだ』


「じゃあ、また明日」


 フェルンは立ち上がり、畳んだ包みを黒鬼から受け取った。


 シグマも鬼面をつけ直す。


「出る時に、また声をかける」


『分かった』


 短い返事が届いた。


 白鬼が手を振り、黒鬼も小さく頭を下げる。


 四人が林を離れても、ハクは追ってこなかった。


     ◇


 帰り道では、白鬼とフェルンが少し前を歩いた。


 フェルンは時々、自分の足元を見ている。


「歩きながら練習するなよ」


 シグマが声をかけると、フェルンはすぐに顔を上げた。


「してない」


「今、下がりそうになってただろ」


「……ちょっとだけ」


 白鬼が笑って、その手を取った。


「帰る時は前に進もうね」


「わかってる」


 二人の足音が、並んで続いていく。


 黒鬼はその後ろで歩調を緩めた。シグマも自然と歩く速さを合わせる。


 街へ近づくにつれ、人の声が戻ってきた。


「さっきの話ですけど」


 黒鬼が言った。


 シグマが顔を向ける。


「また、聞いてもらってもいいですか」


「ああ。もちろん」


「まだ、話がまとまってないんです」


「まとまってなくても、聞くくらいはできるぞ」


 黒鬼は何か言いかけた。


 けれど、前を歩いていた白鬼が門の方を指したため、二人ともそちらへ目を向ける。


 外へ出てくる荷車があり、通路が狭くなっていた。


 シグマが道の端へ寄ると、黒鬼も隣へ並んで立ち止まる。


「……ありがとうございます」


 車輪の音の合間に、その声が聞こえた。


 シグマが頷くと、黒鬼は今度は何も言わず、静かに微笑んだ。


 宿へ戻った時には、窓から差す光が朝とは反対側の壁を照らしていた。


「おかえり。ハク、元気やった?」


 部屋から顔を出したシルフに、フェルンが頷く。


「お肉、全部食べた」


「そらよかった」


「いまは寝てると思う」


「ほな、うちらは準備しよか。こっちはもう少しや」


 紅蓮が部屋の中から声をかけた。


「シグマ、こっちに置いた道具を見てくれ。確認が済んだものから戻すぞ」


「ああ。今行く」


 シグマは扉へ手をかけ、後ろの黒鬼が通れるよう押さえた。


 黒鬼は軽く会釈して、その横を通る。


 部屋の中では、白鬼が早速フェルンの練習の話を始めていた。


 紅蓮に足の動きを見せようとする二人を、シルフが慌てて止める。


「ここでやったら、荷物踏むやろ」


「あ、そっか」


 白鬼が足を戻し、フェルンもそれに倣った。


 黒鬼は笑いながら、床に広げられた袋の前へ座った。


 少し遅れて隣へしゃがんだシグマに、確認を終えた道具を一つ渡す。


「これは、こっちでいいですか?」


「ああ。そこへ入れてくれ」


 声を掛け合いながら、残りの荷物を収めていく。


 林で話しかけたことを、黒鬼がもう一度口にすることはなかった。


最後の袋の口を縛ると、白鬼が大きく両腕を伸ばした。


「終わったー」


「まだそれを運ぶぞ」


 紅蓮が足元の荷物を指す。


 白鬼は伸ばしかけた腕を下ろし、袋へ目を向けた。


「……運んだら終わり?」


「ああ」


「じゃあ、さっさと運ぼう!」


 立ち上がった勢いのまま袋を持ち上げかけ、白鬼は途中で手を止めた。


「これ、何が入ってるんだっけ」


「割れるものは入ってない。でも、振り回すなよ」


「振り回さないってば」


 紅蓮がもう一つを肩へ担ぐ。


 シグマも足元の袋へ手を伸ばしたが、その前にシルフが持ち上げた。


「そっち、見てくれる? 何か下に落ちてへんか」


「分かった」


 床へ広げていた布を畳み、寝台の下や卓の脚のそばまで確かめる。


 転がっていた短い紐を拾い、道具をまとめた袋へ戻した。残りは今夜使うものと、各自で持つ装備だけだった。


 黒鬼はフェルンと一緒に、空いた場所を片づけている。


 シグマが戸口へ向かうと、二人も顔を上げた。


「下へ運んでくる。これで全部だな?」


「はい。こっちは、もう何もありません」


「わたしのも、しまった」


「よし」


 シグマは袋を抱え直し、紅蓮たちの後を追った。


 馬車へ積むものを収め、縄を締める。朝から何度も開けていた荷台も、ようやく落ち着いた。


 白鬼が両手を腰に当て、満足そうに頷く。


「今度こそ終わり!」


「ああ。お疲れ」


 紅蓮が袋の位置を一度確かめてから、手を離した。


 シグマは宿を振り返った。


 窓の向こうで、黒鬼が畳んだ布を抱えている。フェルンが何か言ったらしく、顔を向けて笑っていた。


「何見てんねん」


 シルフの声に、シグマは視線を戻した。


「向こうも済んだみたいだ」


「ほな、夕飯まで休もか。座れるうちに座っときたいわ」


 シルフは肩を回しながら、先に宿へ入っていった。


     ◇


 夕食までには、まだ少し時間があった。


 顔や手の汚れを落とした後、シグマは宿の裏手へ回った。


 昼間、荷物を運ぶ際に気になった馬車の覆いを確かめるためだった。端が少し浮いていたので、内側へ折り込み、留め直す。


 その脇を抜けた先には、小さな空き地があった。


 建物の陰になっている地面には、まばらに草が生えている。隅には薪が積まれ、使われていない木箱が壁際へ寄せられていた。表の道へ通り抜ける人はおらず、宿の中から聞こえる声も、ここでは幾分遠い。


 シグマはそのまま少し歩き、空を見上げた。


 屋根の上に、夕方の色が広がり始めている。


「シグマ」


 振り返ると、裏口に黒鬼が立っていた。


「ここにいたんですね」


「ああ。すぐ戻るつもりだった」


「シルフが呼んでます。お茶をもらったから、冷める前にって」


「分かった」


 歩き出したシグマを、黒鬼は戸口で待った。


 その手には、乾いた布が一枚握られている。


「何かしてたのか?」


「手を洗ってたところです。シグマがこっちに来るのが見えたので」


「ついでに呼びに来てくれたのか」


「はい」


 シグマが近づくと、黒鬼は扉を押さえた。


 昼間とは逆だなと思い、シグマは礼を言って中へ入った。


 食堂では、シルフが湯気の立つ杯を前に座っていた。


「休む言うたそばから、おらへんようになるんやから」


「覆いを留め直してただけだ」


「終わった?」


「ああ」


「ほな、座り」


 シグマは差し出された椅子を引いた。


 白鬼とフェルンは隣の卓で、昼間買った袋を見比べている。もう何も詰めるものはないはずだったが、フェルンが結び方を覚えたいと言ったらしい。


 白鬼が紐を一度ほどき、ゆっくり結び直していた。


「こっちを通して、引っ張るの」


「こっち?」


「そう。あ、そっちは引っ張りすぎ」


 結び目が固くなり、二人で顔を寄せる。


 紅蓮は横から手を出さず、杯を傾けながら見ていた。


 黒鬼もシグマの向かいに座り、両手で杯を包む。


 しばらくは誰も、原生林の話をしなかった。


 食堂の奥では夕食の支度が進み、煮炊きする匂いが少しずつ濃くなっていく。


 シグマはお茶を一口飲んだ。


 熱さが喉を通り、肩から力が抜ける。


 向かいの黒鬼と目が合うと、彼女は安心したように微笑んだ。


 シグマも軽く頷き、そのまま椅子へ背を預けた。


     ◇


 窓の外が暗くなる頃、卓に夕食が並んだ。


 煮込んだ肉と野菜の皿に、温かい汁物。皿を手前へ引き寄せた白鬼が、嬉しそうに声を上げる。


「おいしそう」


「熱いからな。慌てるなよ」


 紅蓮に言われ、白鬼は匙を持ったまま頷いた。


 フェルンは先に湯気へ息を吹きかけ、小さな一口を口へ運ぶ。


 その慎重な食べ方を見ていた白鬼も、同じように匙の上へ息を吹いた。


「……うん、おいしい」


 黒鬼は柔らかくなった野菜を匙で割り、皿の端へ寄せた。


 シグマが食べ始めるのを見てから、自分も匙を口へ運ぶ。


 今日の昼間にあったことを話しているうちに、フェルンの練習の話になった。


「ちゃんと止まれたんだな」


 紅蓮が尋ねると、フェルンは頷いた。


「最後は、足を見ないでできた」


「そうか。少しずつ慣れていけばいい」


「白鬼もやったよ」


「私のことは言わなくてもいいのに」


 白鬼が匙を止める。


「できたんやろ?」


「できたけど、フェルンに足を見てるって言われた」


「ちゃんと見とるなあ」


 シルフが笑うと、フェルンも少し誇らしそうに顔を上げた。


「それで、一緒に練習することにしたの」


 白鬼が続けた。


「ね、フェルン」


「うん」


「私が教えるんじゃなくて、一緒にやるの。そしたら、お互いに分かるでしょ」


「いいんじゃないか。ただ、勝手に難しいことまでやらせるなよ」


 シグマが言うと、白鬼はすぐに頷いた。


「分かってる。今日やったことだけ」


 黒鬼は二人を見ながら、静かに笑っていた。


「何?」


 白鬼がその顔を覗き込む。


「ううん。頼りにされて嬉しそうだなって」


「嬉しいよ。だって、私、お姉ちゃんだもん」


「それと練習は別でしょう」


「別じゃないよ。黒鬼にもお姉ちゃんらしいところ見せておかないと」


「見てるよ」


 黒鬼があっさり答えたので、白鬼は続けかけた言葉を飲み込んだ。


「……見てる?」


「うん。今日だって、フェルンの靴の石を取ってあげてたでしょう」


「あれくらい、普通だよ」


「そういうところ」


 白鬼は一度フェルンを見てから、何も言わずに匙を持ち直した。


 少し照れたらしい。


 紅蓮が笑い、シルフも杯の陰で口元を緩めた。


 シグマは黒鬼へ目を向けた。


 からかっている様子はない。白鬼がまた食べ始めると、黒鬼も自分の皿へ視線を戻した。


 誰かの小さな仕草を、よく見ている。


 昼間、自分が言われた言葉を思い出し、シグマは少し可笑しくなった。


「シグマ?」


 黒鬼が気づいて顔を上げる。


「いや。黒鬼も、よく見てると思ってな」


 何の話か、すぐに分かったらしい。


 黒鬼は一瞬目を見開き、それからそっと伏せた。


「……近くにいるので」


「そうだな」


 シグマが答えると、黒鬼は匙で皿の中を軽く混ぜた。


「何の話?」


 白鬼が首を傾げる。


「昼間の話だ。フェルンの練習を見てる時に、少しな」


「ふうん」


 白鬼はそれ以上聞かず、残っていた野菜を口へ運んだ。


 食事の終わりに、明日の支度を簡単に確認した。


 朝使うものは部屋に残し、それ以外はもうまとめてある。出発前にノクスとソルの様子を見て、水を補充すればいい。


「荷物を開けたら、使ったもんは元へ戻しときや。朝になって探すの、大変やからな」


 シルフの言葉に、白鬼が頷く。


「大丈夫。もう全部見たから」


「私も、用意できてます」


 黒鬼が続けた。


 フェルンも小さく手を上げる。


「わたしも」


「なら、今日は早めに休もう」


 シグマはそう言って杯を置いた。


 誰からも異論は出なかった。


     ◇


 夕食を終えても、すぐに寝床へ入ったわけではなかった。


 借りた器を返し、顔を洗い、部屋で身の回りを整える。その間に、食堂から聞こえる声も少しずつ減っていった。


 シグマが廊下へ出ると、白鬼と黒鬼が部屋へ戻るところだった。


 白鬼は欠伸を噛み殺し、目の端を指で拭っている。


「もう眠いのか?」


「うん。座ったら、急に」


「今日はよく歩いたからな」


「でも、明日はちゃんと起きるよ」


「頼むぞ」


 白鬼は頷き、先に扉を開けた。


「黒鬼、先入るね」


「うん」


 黒鬼は戸口に残った。


 シグマも、自分の部屋へ向かいかけた足を止める。


「どうした?」


「……いえ」


 黒鬼は扉の縁へ目を落とした。


 少しして、顔を上げる。


「おやすみなさい」


「ああ。おやすみ」


 返事を聞いた黒鬼は、小さく頷いて部屋へ入った。


 扉が静かに閉まる。


 シグマはその前にいつまでも立っているわけにもいかず、自分の部屋へ戻った。


 黒鬼が昼間言いかけたことは、少し気になっていた。


 ただ、話してほしくない時にまで聞き出すつもりはない。明日も、道中で話す時間はあるだろう。


 外套を外し、手の届く場所へ置く。


 荷物を寝台の脇へ寄せ、横になった。


     ◇


 灯りを落とした部屋で、黒鬼は寝台の端に腰をかけていた。


 白鬼はもう横になっている。掛け布を引き上げながら、こちらを見た。


「まだ寝ないの?」


「もう寝る」


「何か忘れ物?」


「ううん。大丈夫」


 黒鬼は畳んでいた布を置いた。


 もう何度も端を揃えていることに、自分でも気づいていた。


 白鬼が片肘をつき、少し身体を起こす。


「黒鬼」


「何?」


「具合悪いわけじゃないよね」


「違うよ。疲れてもない」


「そっか」


 白鬼は黒鬼の顔をしばらく見ていたが、それ以上は尋ねなかった。


 ゆっくり横になり、掛け布を肩まで引く。


「だったらいいや。寝られる時に寝ないと、明日眠くなるよ」


「白鬼に言われると、説得力あるね」


「何それ」


「もう眠そうだから」


「眠いもん」


 白鬼は目を閉じた。


 黒鬼は口元を緩め、ようやく寝床へ入った。


 身体を横たえると、部屋の静けさが急にはっきりした。


 隣から、布の擦れる音が聞こえる。


 廊下を誰かが通り、遠くで扉が閉まった。


 黒鬼は目を閉じた。


 昼間、シグマと並んで座った木陰が浮かんだ。


 こちらが黙っても急かさず、答えを待ってくれた横顔。


 帰り道で歩く速さを合わせてくれたこと。


 食堂で、何でもないように自分へ向けられた笑顔。


 思い出すたび、胸の奥が落ち着かなくなる。


 今日に限ったことではなかった。


 一緒に旅をする中で、同じようなことは何度もあった。そのたびに嬉しくなって、もう少し近くにいたいと思っていた。


 けれど、いざこちらへ顔を向けられると、言いたい言葉が喉の手前で止まってしまう。


 夕方も、廊下でもそうだった。


 何か言おうとしていることには、シグマも気づいている。


 それでも待ってくれているから、余計に、適当な言葉でごまかしたくなかった。


 黒鬼は寝返りを打った。


「……黒鬼?」


 眠りかけの白鬼の声がした。


「ごめん。起こした?」


「まだ……起きてる」


「何でもないから。寝てていいよ」


「うん……」


 少しの間を置いて、白鬼の呼吸がゆっくりと整っていった。


 黒鬼はそれを聞きながら、暗い天井を見つめた。


     ◇


 シグマは、何度目か分からない寝返りを打ったところで、諦めて目を開けた。


 身体は休んでいるはずなのに、眠気が遠かった。


 明日の道を考え、今日まとめた荷物を思い出し、そのうち考える必要のないことまで頭に浮かんでくる。


 支度に不足があるわけではない。


 今から袋を開いても、同じものを数え直すだけだろう。


 シグマはゆっくり息を吐いた。


 昼間と同じように呼吸を整えてみたが、静かになった頭には、今度は別の考えが浮かんだ。


 黒鬼は、何を話そうとしていたのだろう。


 深刻に思い悩んでいるようには見えなかった。皆と話している時は、普段と変わらず笑っていた。


 ただ、自分と目が合った時にだけ、何かを飲み込むような間があった。


 考えても、答えが分かることではない。


 シグマは寝台から身体を起こした。


 足を床へ下ろし、しばらく座る。


 窓の隙間から、細い夜気が流れ込んでいた。


 少し外へ出よう。


 そう決めると、立ち上がるのは早かった。


 靴を履き、外套を羽織る。身につけるものを整えてから、音を立てないよう扉を開けた。


 廊下には、弱い灯りが一つ残っている。


 階段へ向かい、軋む段を避けながら下りた。


 食堂の椅子は卓へ寄せられ、昼間の賑わいはすっかり消えていた。


 シグマは裏手へ回り、静かに戸を開けた。


     ◇


 廊下で扉の閉まる音がして、黒鬼は目を向けた。


 まだ眠れずにいたせいか、小さな音まで耳に入る。


 続いて、階段へ向かう足音が聞こえた。


 黒鬼は寝台から起き上がった。


 白鬼と紅蓮は眠っている。


 起こさないように靴を履き、扉を少しだけ開けた。


 階段の方に、外套の裾が見えた。


 シグマだった。


 この時間に、どこへ行くのだろう。


 呼びかけようとして、黒鬼は口を閉じた。廊下で声を出せば、他の客まで起こしてしまう。


 シグマの姿はすぐに階下へ消えた。


 黒鬼は部屋を振り返り、羽織るものを手に取った。


 もう一度2人の様子を確かめてから、そっと外へ出る。


 階段を下りた時には、食堂にシグマの姿はなかった。


 けれど、裏手で戸の閉まる音がした。


 夕方、呼びに行った場所が思い浮かぶ。


 黒鬼はそちらへ足を向けた。


     ◇


 外へ出ると、夜風が頬を撫でた。


 シグマは裏口から少し離れ、夕方に立った空き地へ向かった。


 建物に挟まれた狭い場所だったが、上を見れば空が見える。


 宿の窓から漏れる灯りが、地面へ薄く落ちていた。その先では草も木箱も暗がりに沈み、輪郭だけが月明かりに浮かんでいる。


 通りの方から、遠く人の笑う声が聞こえた。


 それもすぐに途切れ、風の音が残った。


 シグマは周囲を確かめてから鬼面を外し、腰へ留めた。


 両腕を軽く動かし、肩の凝りをほぐす。


 外套の胸元へ指を添えると、昼間に黒鬼が結び直してくれた紐に触れた。


 結び目は、まだきちんと収まっていた。


 シグマは手を下ろし、長く息を吐いた。


 その時、背後で戸の開く音がした。


 振り返ると、黒鬼が外へ出てくるところだった。


「黒鬼?」


 名を呼ぶと、彼女は少しだけ肩を揺らした。


「あ……」


 戸を静かに閉め、こちらへ歩いてくる。


「眠れないんですか?」


「ああ。少し風に当たろうと思ってな。起こしたか?」


「いえ。私も、起きてたので」


 黒鬼はシグマから数歩離れたところで立ち止まった。


 羽織った布の端を片手で押さえている。


「出ていくのが見えたんです。どこに行くのかなって」


「ここまでだ。街を歩くつもりはないよ」


「はい」


 返事をしても、黒鬼は戻ろうとはしなかった。


 シグマは自分の隣へ目を向けた。


「少し、一緒にいるか?」


 黒鬼が顔を上げる。


「……いいんですか」


「もちろん」


 黒鬼は小さく頷き、残っていた距離をゆっくり詰めた。


 並んで立つと、昼間よりも互いの気配が近く感じられた。


 シグマはまた空を見上げる。


「寒くないか?」


「大丈夫です。部屋にいた時より、気持ちいいです」


「俺もだ」


 黒鬼は肩にかけた布を直した。


 風が通り抜け、草の先が微かに揺れる。


「夕方は、こんなに静かじゃなかったですね」


「まだ皆、起きてたからな」


「白鬼は、もう寝てます」


「今日は早かったな」


「明日はちゃんと起きるって言ってましたけど、私も一緒に起きないと」


「起こしてくれるんじゃないのか。お姉ちゃんだから」


 黒鬼が小さく笑った。


「起きてたら、起こしてくれます」


「そうか」


「でも、寝てたら私が起こします。いつも、そうなので」


 その言い方があまりにも自然で、シグマも笑った。


 黒鬼は横顔を見上げた。


 昼間なら、その先に何か言えただろうか。


 白鬼の話でも、フェルンの話でも、明日の支度の話でもよかった。


 けれど、今はどれも続かなかった。


 シグマがこちらへ顔を向ける。


「どうした?」


「……何でもないです」


 そう答えてから、黒鬼は視線を落とした。


 また同じようにごまかしてしまった。


 隣にいるだけで嬉しいのに、隣にいるだけでは、胸の中が苦しくなる。


 羽織った布を押さえる指に、少し力がこもった。


 シグマは追及しなかった。


 黒鬼が顔を上げられるまで、ただ隣に立っていた。


「……シグマ」


「ああ」


 すぐに返事があった。


 黒鬼はゆっくり顔を上げた。


 宿から漏れる淡い灯りの中で、シグマが自分を見ていた。


黒鬼は唇を開いた。


 けれど、呼びかけた後の言葉が出てこなかった。


 シグマは急かさずに待っている。


 昼間と同じだった。話がまとまらないと言っても、それで構わないと答えてくれた。今も、何を話すのか分からないまま、こちらへ身体を向けてくれている。


 その顔を見ていると、胸の奥にしまっていた気持ちが、もう収まらなくなった。


「私……」


 声が小さく震えた。


 シグマの眉が、僅かに動く。


 何かを尋ねられる前に、黒鬼は一歩踏み出していた。


 自分でも、どうするつもりだったのか分からなかった。


 ただ、これ以上離れて立っていられなかった。


 シグマの外套へ手を伸ばし、そのまま身体を寄せる。


「黒鬼?」


 驚いた声が頭の上でした。


 黒鬼は答える代わりに、シグマの背へ両腕を回した。


 額を胸元へ押し当てる。


 昼間、自分で結び直した紐が、すぐそばにあった。


 あの時は、触れる理由を見つけただけで精いっぱいだった。


 今は、自分から抱きついている。


 そう気づいた途端に顔が熱くなったが、腕をほどくことはできなかった。


「……少しだけ」


 外套に顔を伏せたまま、黒鬼は言った。


「このまま、聞いてもらってもいいですか」


 シグマが息をのむ気配がした。


 それから、短い返事が返ってきた。


「ああ」


 黒鬼は目を閉じた。


 自分の鼓動ばかりが、やけに大きく聞こえる。


 上手く話そうと思えば、きっとまた言えなくなる。


 だから、一番伝えたかった言葉を、そのまま口にした。


「好きです」


 シグマの身体が、僅かに強張った。


 黒鬼は外套を握り、もう一度言った。


「……シグマのことが、好きなんです」


 声は震えていた。


 けれど、今度は途中で止まらなかった。


 シグマからは、すぐには返事がなかった。


 黒鬼は顔を上げられず、外套へ額を預けたままでいた。


 言ってしまった。


 ずっと胸の中で繰り返していた言葉が、ようやく相手へ届いた。


 その安堵と、どんな顔をして聞いているのか分からない怖さが、一度に込み上げてくる。


「今日も、何度も言おうとしたんです」


 黙って待っていることができず、黒鬼は小さく続けた。


「でも、シグマがこっちを見ると……何を言えばいいのか、分からなくなって」


 林の木陰でも、帰り道でも、部屋へ戻る前の廊下でも。


 聞いてくれると分かっていたのに、勇気が出なかった。


「一緒に歩くだけで、嬉しくて。話しかけてもらうと、もっと話したくなります」


 言葉にすると、どれもささやかなことだった。


 隣へ座れたこと。


 頼まれたものを渡した時に、名前を呼ばれたこと。


 手を貸して、ありがとうと言ってもらえたこと。


 他の誰かが同じようにしてくれても、こんなふうにはならない。


「今日、荷物を見てる時、任せられるって言ってくれたでしょう」


「ああ」


「あれも、嬉しかったです。ちゃんと役に立てたんだって」


 黒鬼は一度言葉を切った。


 背へ回した腕に、少しだけ力がこもる。


「でも、それだけじゃなくて……シグマに、そう思ってもらえたのが嬉しかったんです」


 声が小さくなった。


 恥ずかしかった。


 自分の中にある気持ちを、一つずつ見せてしまっている。


 それでも、ここまで言って、もうごまかしたくはなかった。


「皆と一緒にいるのも、好きです。でも、シグマと二人になると、もっとそばにいたくなります」


 黒鬼はゆっくり息を吸った。


「今も……戻りたくないって、思ってます」


 言い終えると、辺りが急に静かになったように感じた。


 どこかで草が擦れる音がする。


 シグマは動かなかった。


 黒鬼の背へ回しかけた手が、途中で止まっていた。


 驚きは、まだ消えていない。


 けれど、腕の中にいる黒鬼を離したいとは、少しも思わなかった。


 今朝、紙を差し出した時の表情。


 隣で歩いていた時の声。


 言いかけては目を伏せた、その理由。


 今になって、一つずつ分かってくる。


 シグマは、止めていた手をゆっくり動かした。


 黒鬼の背へ、そっと添える。


 触れた瞬間、彼女の肩が小さく揺れた。


「……シグマ?」


「聞いてる」


 それだけ答えると、黒鬼の指が外套を握り直した。


 シグマは言葉を探した。


 嬉しかった。


 勇気を振り絞って自分に伝えてくれたことも、何気なく過ごしていた時間を、そんなふうに大切にしてくれていたことも。


 できることなら、その気持ちに応えたかった。


 ただ、嬉しいという思いと、彼女がくれた「好き」が、同じものなのか。


 すぐには分からなかった。


 黒鬼は、大切な相手だ。


 これからも隣で笑っていてほしいし、自分にできることがあるならしてやりたい。


 その気持ちは確かだった。


 けれど、それだけを答えにしていいのか、シグマには判断できなかった。


「黒鬼」


 名を呼ぶと、腕の中で彼女が小さく頷いた。


「……顔を見てもいいか」


 少しの間があった。


 それから、黒鬼がゆっくり顔を上げた。


 頬が赤くなっていた。


 目が合うと、また伏せそうになったが、今度は逸らさなかった。


 背へ回していた腕も、そのままだった。


「言ってくれて、ありがとう」


 黒鬼の唇が、僅かに動いた。


 何か答えようとして、結局、声にはならなかった。


「嬉しいよ」


 シグマは続けた。


「本当に、嬉しい」


 黒鬼の表情が少し緩んだ。


 それを見て、シグマは次の言葉を口にするまでに時間がかかった。


 期待させたいわけではない。


 けれど、困っているだけだとも思われたくなかった。


「ただ……ごめん。今すぐには、答えが出せない」


 黒鬼の指が止まった。


 シグマは背へ添えた手を離さず、彼女の目を見た。


「黒鬼の気持ちに、ちゃんと応えたい。でも、まだ自分の気持ちを、上手く言葉にできないんだ」


 黒鬼は黙って聞いていた。


 シグマの声にも、迷いがあった。


 上手く説明できている自信はなかった。それでも、言わなければ伝わらない。


「……少し、待ってくれ。ちゃんと考えて、答えたい」


 風が、二人の間を通り抜けた。


 黒鬼は顔を上げたまま、シグマを見つめていた。


 ほんの僅かな間が、とても長く感じられた。


 やがて、黒鬼が小さく頷いた。


「……はい」


 それからもう一度、今度ははっきりと頷く。


「待ってます」


 声はまだ少し震えていた。


 けれど、無理に明るくしようとはしていなかった。


 黒鬼はシグマの胸元へ視線を落とした。


「困らせるだろうなって、思ってました」


「黒鬼……」


「でも、言えてよかったです」


 彼女は少しだけ笑った。


「また何でもないって言ったら、きっと部屋に戻ってから、後悔すると思ったので」


 シグマは、さっきまで眠れずにいた部屋を思い出した。


 黒鬼もあの暗がりの中で、今日言えなかった言葉を考えていたのだろうか。


 そう思うと、背へ添えていた手を簡単には下ろせなかった。


「ちゃんと聞けてよかった」


 シグマが言うと、黒鬼は唇を結んだ。


 その目が僅かに潤んだが、涙は落ちなかった。


 黒鬼は再び、額をシグマへ預けた。


「……もう少しだけ、このままでもいいですか」


「ああ」


 シグマは静かに答えた。


 黒鬼は外套を握っていた指を少し緩めた。


 抱きついてから、ずっと力が入っていたらしい。腕の中で、ゆっくり息を吐くのが分かった。


 シグマも何も言わなかった。


 返事を待ってくれることに甘えて、このまま曖昧にしてしまうつもりはない。


 今、彼女が伝えてくれたことを、一つずつ受け止めたかった。


 黒鬼の背に添えた手を、ほんの少し動かす。


 それに気づいた彼女が、また僅かに身体を寄せた。


 遠くの通りで足音がして、やがて聞こえなくなった。


 宿の窓に残る灯りは、変わらず地面を照らしていた。


     ◇


 先に腕をほどいたのは、黒鬼だった。


 いきなり離れるのではなく、片方ずつ、そっと手を戻していく。


 シグマも背から手を下ろした。


 黒鬼は半歩離れ、ずれていた肩の布を直した。


 その時になって、シグマの外套に自分の握った跡が残っていることに気づいたらしい。


「あ……すみません」


「何が?」


「ここ、こんなに」


 黒鬼が、皺になったところへ手を伸ばす。


 指先で布を整えながら、ますます顔を赤くした。


「ずっと、掴んでました」


「このくらい、気にするな」


「でも……」


「破れてないだろ」


 シグマが言うと、黒鬼は一度だけ瞬きをした。


 それから、小さく笑った。


「そういう問題じゃないです」


「そうか?」


「……はい」


 短い会話の後に、また沈黙が戻った。


 けれど、先ほどのように息が詰まる沈黙ではなかった。


 黒鬼は外套から手を離し、シグマを見上げた。


「明日……」


「ああ」


「普通に、話しかけてもいいですか」


 シグマは頷いた。


「もちろん。俺も話しかける」


 黒鬼の肩から、少し力が抜けた。


「よかった」


 その言葉が、思った以上にはっきり聞こえた。


 シグマは、彼女が何を怖がっていたのかに気づいた。


 答えがもらえるかどうかだけではない。


 伝えてしまったことで、これまでのように隣へ来られなくなるかもしれない。気軽に名前を呼べなくなるかもしれない。


 それでも黒鬼は、ここまで来てくれた。


「避けたりしないよ」


 シグマが言うと、黒鬼はゆっくり頷いた。


「はい」


 今度は、少しだけ声が明るかった。


 シグマは宿へ目を向けた。


「そろそろ戻るか。あまり遅くなると、明日に響く」


「そうですね」


 黒鬼も裏口の方を見た。


 戻れば、白鬼と紅蓮が眠っている。


 音を立てないように部屋へ入り、自分の寝床へ戻る。それだけのことなのに、今は扉までの数歩が遠く感じられた。


 黒鬼が一歩、宿へ向かった。


 シグマも続こうとする。


 その時、黒鬼が足を止めた。


「……シグマ」


 振り返った彼女の顔は、まだ赤かった。


「どうした?」


 黒鬼は答えず、シグマの前へ戻ってきた。


 さっきまで抱きついていた距離まで近づき、外套の袖をそっと掴む。


 何か言いたいことが残っているのかと思い、シグマは少し身を屈めた。


 黒鬼が背伸びをした。


 唇に、短い口づけが触れた。


 シグマが驚いて動きを止めた時には、もう黒鬼は離れていた。


 袖を掴んでいた手だけが、僅かに残る。


 黒鬼は自分でも信じられないことをしたような顔で、シグマを見上げていた。


 それでも、目を逸らさなかった。


「どんな答えでも、私はシグマから離れません」


 静かな声だった。


 その言葉だけは、最後まで震えずに届いた。


 シグマは彼女の名を呼ぼうとした。


 けれど、声になるより先に、黒鬼が手を離した。


「……おやすみなさい」


 言い終えると、くるりと背を向ける。


 黒鬼は赤くなった顔を隠すように、裏口へ駆けていった。


 戸の前で慌てて足を止め、音を立てないよう取っ手へ手をかける。


 一度だけ、こちらを振り返った。


 シグマと目が合うと、何かを言いかけるように唇を動かしたが、結局、恥ずかしそうに笑っただけだった。


 扉が開く。


 黒鬼の姿が、その向こうへ消えた。


 戸が閉まる小さな音を聞いても、シグマはしばらく動けなかった。


     ◇


 夜風が、外套の裾を揺らした。


 シグマは、誰もいなくなった裏口を見つめていた。


 先ほどまで、黒鬼が立っていた。


 抱きついてきた時の勢いも、言葉を待つ間の緊張も、離れる時のためらいも、まだはっきりと思い出せる。


 そして、最後に見せた顔。


 落ち着いた声で言い切った後、もうこちらを見ていられなくなったように走っていった。


 シグマはゆっくり息を吐いた。


「……おやすみ」


 返しそびれた言葉が、小さな空き地に落ちた。


 思わず口元へ手をやりかけ、途中で止める。


 今になって、驚きとは別の感情が胸の中へ広がってきた。


 嬉しい。


 それだけでは、もう上手く言い表せなかった。


 今日までにも、黒鬼と二人で話すことはあった。


 近くに座り、荷物を渡し合い、互いに礼を言う。旅を続ける中で、いつしか当たり前になっていた時間だ。


 その間、彼女はどんな気持ちで自分を見ていたのだろう。


 思い返すたび、今まで気づかなかった表情が浮かんだ。


 ただ、答えを出すために考えるべきなのは、黒鬼の気持ちだけではない。


 自分がどうしたいのか。


 彼女と、これからどういう時間を過ごしたいのか。


 そこから目を逸らしたままでは、待っていてくれる黒鬼へ返事ができない。


 シグマは、外套の胸元へ手を添えた。


 彼女が整えたところに、まだ少し皺が残っていた。


 指先でそれに触れ、手を下ろす。


 扉の向こうでは、もう足音も聞こえなかった。


 黒鬼は部屋へ戻ったのだろう。


 白鬼たちを起こさずに寝床へ入れただろうか。明日、自分と顔を合わせた時、やはり目を伏せるのだろうか。


 そう考えて、シグマは少しだけ笑った。


 明日は、自分から声をかけよう。


 何か特別な言葉が見つからなくても、まず、いつもどおりに名前を呼ぼう。


 シグマは宿へ戻ろうとして、一歩踏み出した。


 けれど、すぐには扉へ向かえなかった。


 あまりにも多くのものを、一度に受け取った気がした。


 腕の中にあった温もり。


 真っ直ぐに向けられた眼差し。


 そして、離れる間際に残された言葉。


 シグマはもう少しだけ、その場に立っていた。


 眠れずに出てきた時よりも、胸の内はずっと落ち着かなかった。


 それでも今は、その気持ちを静めてしまいたいとは思わなかった。

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