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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第三十三話 風が運んだ噂

 アルスラを離れてから二日目の午後。


 緩やかな丘を越えた先に、小さな村が見えてきた。


 街道の両側に広がっていた草原は、村へ近づくにつれて畑へと変わっていく。青々とした葉を伸ばす作物の間では、腰を曲げた村人たちが手を動かしていた。


「あれがセルカ村か?」


 御者台に座るシグマが尋ねると、その隣にいたシルフが地図を広げた。


「せやな。位置も合っとるし、たぶん間違いないで」


「ようやく着いたー!」


 荷台から身を乗り出した白鬼が、大きく両腕を伸ばす。


「白鬼、落ちますよ」


 その腰へ黒鬼が慌てて腕を回した。


「大丈夫だって。これくらいじゃ落ちないよ」


「さっきもそう言って、荷物に頭から突っ込んだじゃないですか」


「あれは馬車が急に揺れたから!」


「石を踏むと揺れるから座っていろって、紅蓮にも言われていたでしょう」


「黒鬼、最近ちょっと紅蓮に似てきたよね」


「そうですか?」


「そうだよ。すぐ私のことを子供扱いするし」


「同い年でしょう。白鬼が危なっかしいだけです」


 白鬼は頬を膨らませたが、腰へ回された黒鬼の腕を振りほどこうとはしなかった。


 二人のやり取りを聞いていた紅蓮が、荷台の奥で呆れたように息を吐く。


「騒ぐ元気があるなら、宿に着いた後の荷下ろしは二人に任せるぞ」


「えっ」


「分かりました。白鬼にも、ちゃんと手伝わせます」


「なんで黒鬼が決めるの?」


「姉みたいな顔をするなら、自分の荷物くらい運んでください」


「姉みたいじゃなくて、私がお姉ちゃんなんだけど!」


「はいはい」


「それ! 最近ずっとその返事する!」


 白鬼の声が街道に響く。


 少し前までなら、黒鬼の方が白鬼に引っ張られていた。


 だが、旅を続けるうちに黒鬼も遠慮なく言い返すようになった。それ自体は悪い変化ではないのだろう。


 シグマは二人の言い合いを聞きながら、ノクスとソルの進む速度を僅かに落とした。


 村へ続く道には、畑から戻る人々や荷車を引く村人の姿が増えている。


 急いで追い越す必要はない。


 アルスラを出てから、ここまで大きな問題は起きていなかった。


 街道には魔物の姿もなく、通行人から危険な話を聞くこともなかった。王都で受けた報告どおり、原生林へ続く道に目立った異変はないらしい。


 あまりにも穏やかな旅だったため、初日の夕方には白鬼が退屈だと言い始めたほどだった。


 もっとも、本当に魔物が現れてほしいわけではない。


 白鬼は暇を持て余し、誰かに構ってもらいたかっただけだ。


「今日は野宿じゃない?」


 フェルンが荷台から顔を出した。


「ああ。セルカ村に泊まる」


「屋根、ある?」


「宿が空いていればな」


「お風呂も?」


「それは宿による」


 シグマが答えると、フェルンは少し考え込んだ。


「お風呂、あるといい」


「昨日は身体を拭いただけだったからな」


「シグマも、一緒?」


「一緒には入らない」


「どうして?」


「どうしてもだ」


 フェルンが不満そうに唇を尖らせる。


 シグマの横では、シルフが口元を押さえて肩を揺らしていた。


「何がおかしい?」


「別に。ずいぶん手慣れた断り方になったなあ思っただけや」


「何度も聞かれているからな」


「シグマ、恥ずかしがり」


「そういう問題じゃない」


「フェルン。シグマが困っとるから、うちと入ろか」


「シルフとは、昨日も一緒だった」


「嫌なん?」


「嫌じゃない」


「ほな決まりや」


 フェルンは納得したのか、荷台へ引っ込んでいった。


 その直後、馬車の左側に広がる草むらが大きく揺れた。


 白銀の巨体が背の高い草を押し分け、馬車と並んで走る。


 ハクだった。


 街道へ直接出てくることはなく、少し離れた草原を一定の速さで駆けている。


 巨体のハクが街道を歩けば、他の旅人やノクスとソルを驚かせてしまう。そのため、王都を離れてからは街道の外を進むことが多かった。


『まだ止まらないのか』


 不満を含んだ声が、シグマの頭へ届く。


「もう少しだ。あの村で休む」


『人間の村には入らない』


「分かっている。村の近くで休めそうな場所を探そう」


 ハクは返事をせず、前方へ視線を向けた。


 その声を理解できないシルフは、ハクとシグマを交互に見る。


「なんて言うたん?」


「村には入らないと言っている」


「まあ、そうなるやろな。村の人らを怖がらせてもあかんし」


 会話を聞きつけたフェルンが、再び荷台から顔を出す。


「ハク、お腹空いたって」


『言っていない』


「空いてない?」


『……少しだけだ』


「少し、空いてるって」


 フェルンが真顔で言い直す。


 シグマは思わずハクを見た。


 ハクは何もなかったように顔を逸らしている。


「夕食は少し多めに用意しよう」


『肉だけでいい』


「野菜も食べる」


『いらない』


「昨日、肉だけでは足りないと言っただろう」


『肉が少なかったからだ』


「お肉、いっぱいがいいって」


「そこまで通訳しなくても分かる」


 フェルンは小さく頷き、荷台へ戻っていった。


 今の会話が聞こえなかった白鬼は、荷台の後ろからハクへ手を振っている。


 ハクは一度だけ白鬼を見たが、すぐに視線を前へ戻した。


「ハク、今日も乗せてくれないかな」


「昨日も断られていたでしょう」


「でも、今日は気分が違うかもしれないよ」


「白鬼が背中の上で立とうとしたから怒ったんです」


「立ってないよ。立てるかなって、ちょっと腰を浮かせただけ」


「それを立とうとしたと言うんです」


 黒鬼の指摘に、白鬼は聞こえないふりをして外を眺め始めた。


 穏やかな声が続く。


 アルスラへ向かっていた頃には、誰もが何かしらの不安を抱えていた。


 騎士団による襲撃。


 何度も繰り返した戦闘。


 シグマの両腕に宿る炎帝石と獣王石。


 それらの正体を調べるために王都まで来たが、全てが分かったわけではない。


 むしろ、調べたことで新たな疑問が増えた。


 それでも、今すぐ答えを出せるものではなかった。


 焦っても仕方がない。


 今は原生林を越え、その先へ進むことだけを考えるべきだ。


 シグマは手綱を握り直し、前方に見えるセルカ村へ目を向けた。


     ◇


 村へ入る少し前に、一行は馬車を止めた。


 街道脇には細い林があり、その奥には小さな川が流れている。


 ハクは村へ同行せず、その林で待つことになった。


「夜には様子を見に来る」


『必要ない』


「食事を持ってくる」


『それなら来い』


「やっぱり、お腹空いてる」


 フェルンに指摘され、ハクはゆっくりと顔を逸らした。


 シグマは荷台から干し肉を取り出し、ハクの前へ置く。


「これは今の分だ。全部食べるなよ」


『少ない』


「夕食前だからだ」


 ハクは不満そうだったが、干し肉を咥えると林の奥へ入っていった。


 白鬼が後を追おうとしたため、紅蓮が襟首を掴んで引き戻す。


「どこへ行く気だ」


「ちょっとだけハクと遊んでくる」


「宿を取ってからにしろ」


「でも、ハクが寂しがるかもしれないし」


「あいつが一人で寂しがるように見えるか?」


「見えないけど、実は寂しいかもしれないよ」


「お前が遊びたいだけだろ」


「……ちょっとだけ」


「荷物を運んでからだ」


 紅蓮に言われ、白鬼は渋々馬車へ戻った。


 シグマも御者台へ乗り直し、ノクスとソルを進ませる。


 セルカ村の入口には、簡素な木製の門が設けられていた。


 門の横には小さな詰所があり、槍を持った二人の男が立っている。


 アルスラの城門と比べれば、警備は随分と穏やかなものだった。


 門番の一人が馬車へ近づき、御者台にいるシグマを見上げる。


「旅の人か?」


「ああ。今夜、村に泊まりたい」


「身分証は持っているか?」


 シグマは首から下げた身分証牌を取り出した。


 門番はそれを確かめた後、荷台へ視線を向ける。


 紅蓮たちも、それぞれの身分証牌を見せた。


 フェルンだけは知らない相手を前にすると、自然にシグマの背後へ隠れる。


 以前のように怯えて動けなくなることは減ったが、自分の身分を隠さなければならない状況は変わっていない。


 門番はフェルンを一瞥したものの、深く尋ねることはなかった。


「村の中央に宿が一軒ある。看板が出ているから、すぐ分かるはずだ」


「馬車も預けられるか?」


「裏に小屋がある。二羽とも入るだろう」


「助かる」


「最近は原生林へ向かう旅人が増えている。部屋が埋まる前に行った方がいいぞ」


 門番の言葉に、シグマは僅かに目を細めた。


「原生林へ向かう旅人が?」


「ああ。詳しくは知らないが、何か調査をしているらしい」


「旧街道の調査か?」


「そこまでは分からない。ここには泊まらず、そのまま先へ進んだ連中もいるからな」


 シグマはシルフを見る。


 彼女も同じことが気になったのか、先ほどまでの柔らかな表情を消していた。


 王都で聞いた話では、原生林の魔獣に目立った変化はなく、旧街道にも異常は見つかっていない。


 その報告が正しいなら、調査隊が増えるような理由はないはずだった。


「何か問題が起きているのか?」


「さあな。少なくとも、この辺りは平和だ。魔物が増えたって話も聞かない」


「そうか」


 シグマは門番へ礼を告げ、馬車を村の中へ進ませた。


 セルカ村は、街道を挟むように家々が並ぶ小さな村だった。


 石造りの家はほとんどなく、木と土壁で造られた建物が多い。家の前では洗濯物が風に揺れ、道端では子供たちが木の枝を剣に見立てて遊んでいる。


 王都とは比べものにならないほど静かだった。


「なんか、落ち着く村やな」


 シルフが周囲を眺めながら呟いた。


「アルスラは人が多すぎたからな」


「観光する分には楽しいんやけどなあ。住むんは、うちには無理そうや」


「シルフなら、どこでも馴染みそうだけどね」


 白鬼が言うと、シルフは胸を張った。


「せやろ? シグマのお嫁さんとして、どんな土地でも暮らせるようにせなあかんからな」


「いつ決まったんだ」


「まだ決まってへんよ。これから決めてもらうんや」


「決める予定はない」


「そんな冷たいこと言わんといてや」


 シルフはわざと悲しそうな顔を作り、シグマの肩へ寄りかかろうとする。


 だが、御者台の反対側からフェルンが身体を滑り込ませた。


「ここ、フェルンの場所」


「さっきまで荷台におったやん」


「今、決めた」


「相変わらず手強いなあ」


 シルフは笑いながら身を引いた。


 その笑顔はいつもと変わらない。


 しかし、門番から原生林の調査について聞いてから、僅かに周囲を気にしている。


 シグマはそのことに気づいたが、村の入口で問い詰めることはしなかった。


 先に宿を確保するべきだ。


 村の中央まで進むと、麦の穂を描いた木製の看板が見えた。


 門番が教えてくれた宿らしい。


 建物の前に馬車を止めると、中から恰幅のよい女性が出てきた。


「泊まりかい?」


「ああ。七人だ。部屋は空いているか?」


「七人なら三部屋だね。夕食と朝食も付けられるよ」


 シグマが仲間を見ると、白鬼は迷うことなく大きく頷いた。


「ご飯付きがいい!」


「白鬼、少しくらい考えてから返事をしてください」


「考えなくても、ご飯は必要でしょ?」


「何が出るか聞くべきです」


「嫌いなものが出たら、黒鬼にあげるから大丈夫」


「私は残り物を食べる係じゃありません」


「でも、いつも食べてくれるよね?」


「白鬼が残そうとするからです」


「二人とも、部屋の前で騒ぐな」


 紅蓮に止められ、白鬼と黒鬼が同時に口を閉じる。


 宿の女主人は、その様子を見て楽しそうに笑っていた。


「夕食は鶏肉と野菜の煮込みだよ。パンも好きなだけ食べていい」


「泊まります!」


 白鬼が即答する。


 今度は黒鬼も反対しなかった。


「馬車と二羽を預けたい」


「裏の小屋を使っておくれ。飼料も用意できるよ」


「それも頼む」


「分かった。先に部屋を案内するから、荷物を持っておいで」


 シグマたちは必要な荷物を馬車から下ろした。


 紅蓮に言われていたとおり、白鬼と黒鬼も自分たちの荷物を抱えている。


 白鬼は最初こそ平気そうだったが、階段を上がる途中で荷物が傾き始めた。


「黒鬼、ちょっと持って」


「さっき、一人で運べると言っていたでしょう」


「黒鬼の方が少ないじゃん」


「必要なものを整理しているからです。白鬼は余計なものを持ちすぎなんですよ」


「余計なものなんてないよ」


「その木の実は何ですか?」


「昨日、見つけた。丸くてかわいいでしょ?」


「石も入っていますよね?」


「きれいだったから」


「置いてくればよかったじゃないですか」


「旅の思い出だよ!」


 言い合いながらも、黒鬼は白鬼の荷物へ手を添えた。


 紅蓮は前を歩きながら、一度だけ後ろを振り返る。


 何も言わなかったが、僅かに口元が緩んでいた。


 三部屋の割り振りは、シグマとフェルン、紅蓮と白鬼と黒鬼、シルフが一人で使う形に決まった。


「うちだけ一人なん?」


「嫌なら、こちらの部屋に来るか?」


 紅蓮が尋ねる。


「いや、三人の部屋に混ざったら狭いやろ」


「では、一人で使えばいい」


「シグマの部屋は?」


「フェルンがいる」


「三人でも寝られるんちゃう?」


「狭い」


 フェルンが即座に答えた。


「まだ部屋にも入ってへんやん」


「狭い」


「はいはい。今夜は諦めるわ」


 シルフは肩をすくめ、自分の部屋の鍵を受け取った。


 荷物を置いた後、シグマと紅蓮は馬車を宿の裏へ移動させた。


 ノクスとソルの装具を外し、身体に異常がないか確かめる。


 二羽とも長旅には慣れているが、無理をさせるつもりはなかった。


 紅蓮が飼料を器へ移している間に、シグマは脚や翼の付け根を順番に調べていく。


「問題なさそうだな」


「こいつらも、王都ではろくに身体を動かせなかったからな。街道へ戻ってからの方が調子がいい」


「明日は少し早く出る。ネーベル村まで、どのくらいかかる?」


「朝に出れば、日が沈む前には着くだろ。ただし、街道の状態次第だ」


「雨が降らなければいいが」


 シグマが空を見上げる。


 薄い雲はあるものの、すぐに崩れそうな様子はない。


「さっきの話、気になるか?」


 紅蓮が飼料袋の口を閉じながら尋ねた。


「原生林の調査か?」


「ああ。王都で聞いた話と少し違う」


「門番も詳しくは知らないようだった。旅人が勝手に調べている可能性もある」


「それならいいが」


 紅蓮はそれ以上言わず、ノクスの首を軽く叩いた。


 シグマも今の段階で深く考えるつもりはなかった。


 噂だけなら、話が大きくなっている可能性もある。


 詳しい情報は、宿の食堂か、明日向かうネーベル村で聞けばいい。


     ◇


 夕食までには時間があった。


 白鬼たちは村を見て回ると言い出したが、長旅の途中で必要のない買い物を増やされても困る。


 結局、全員で短く村を歩くことになった。


 セルカ村には目立った店はなく、生活に必要なものを扱う雑貨屋と、小さな酒場がある程度だった。


 それでも白鬼は楽しそうに道の両側を見回している。


「見て、黒鬼。あのパン、大きいよ」


「夕食にパンが出ると言っていましたよ」


「今食べるパンと、夕食のパンは別だよ」


「同じパンです」


「焼きたてかもしれない」


「夕食前です」


「半分ずつなら大丈夫」


「私を巻き込まないでください」


 そう言いながら、黒鬼も店頭に並ぶ丸いパンへ視線を向けていた。


 シグマは小さく息を吐き、店へ入る。


「一つだけだぞ」


「やった!」


「みんなで分ける」


「一人一つじゃないの?」


「夕食前だ」


「シグマまで黒鬼と同じこと言う……」


 大きな丸パンを一つ買い、店の外で切り分ける。


 焼きたてではなかったが、表面には甘い蜜が薄く塗られていた。


 フェルンは両手で受け取ると、すぐに一口かじる。


「甘い」


「ほんとだ!」


 白鬼も目を輝かせた。


「黒鬼も食べてみて。おいしいよ」


「私も同じものを持っています」


「そうじゃなくて、早く食べてみてってこと」


「分かっています」


 黒鬼が小さくかじる。


「どう?」


「おいしいです」


「でしょ?」


 自分で作ったわけでもないのに、白鬼は得意そうに笑った。


 紅蓮は呆れながらも、自分の分を食べている。


 シルフはパンを少しだけ残し、紙に包んだ。


「食べないのか?」


「あとでハクに持っていこう思ってな」


「ハクは甘いものを食べないぞ」


「そうなん?」


「肉の方がいいと言うはずだ」


「ほんま、肉ばっかりやなあ」


「野菜を渡すと、シグマの見ていないところに隠す」


 フェルンの言葉に、シグマは眉を寄せた。


「やはり隠していたのか」


「言ったら、ハクが怒るから黙ってた」


「どこに隠している?」


「土の中」


「後で案内してくれ」


「分かった」


「なんや、ハクも子供みたいなことするんやな」


 シルフが笑う。


 意味は分からなくても自分の話をされていることには気づくのか、村の外にいるはずのハクから不満げな気配が伝わってきた。


 セルカ村を一周するのに、それほど時間はかからなかった。


 村人たちは旅人に慣れているらしく、シグマたちを珍しそうに見る者はいても、必要以上に近づいてくることはない。


 認識を阻害する外套を身につけ、黒い鬼面で顔を隠したシグマも、少し変わった冒険者として受け入れられていた。


 目立たないとは言えなかったが、武器や魔道具と勘違いされているのか、村人から尋ねられることはなかった。


 やがて宿へ戻ると、食堂から煮込み料理の香りが漂っていた。


「いい匂い!」


 白鬼が真っ先に食堂へ入っていく。


「走るな。まだ夕食の時間じゃないぞ」


 紅蓮が止めたが、白鬼は既に空いている席へ座っていた。


 食堂には、一行以外にも数人の客がいた。


 村人らしい男たちと、旅装を身につけた三人組。


 三人組の足元には大きな荷袋が置かれており、服には長旅の汚れが残っている。彼らも原生林方面を行き来している旅人なのかもしれない。


 シグマたちは少し離れた大きな卓を囲んだ。


 やがて女主人が、鶏肉と野菜の煮込みが入った大鍋を運んでくる。


「パンは足りなくなったら言っておくれ」


「はい!」


「白鬼、まだ何も聞かれていませんよ」


「おかわりするから同じだよ」


 木皿へ煮込みが取り分けられる。


 柔らかく煮込まれた鶏肉と、大きく切られた根菜が湯気の中から顔を出している。


 素朴な料理だったが、街道を進んできた身体にはありがたかった。


 フェルンはパンを小さくちぎり、煮込みへ浸して食べている。


「おいしいか?」


「おいしい」


「熱くないか?」


「大丈夫」


「こぼさないようにな」


「子供じゃない」


 そう答えた直後、パンから煮汁が垂れた。


 フェルンは何も言わず、布で机を拭く。


 シルフが横から手を伸ばそうとしたが、フェルンは自分で最後まで拭き取った。


「できた」


「ああ」


 シグマが頷くと、フェルンは満足そうに食事へ戻った。


「シグマ、すっかり父親みたいやな」


 シルフが笑う。


「違う」


「なら、お兄ちゃん?」


「それも違う」


「じゃあ、将来の旦那さん?」


「どうしてそうなる」


「シグマ、フェルンと結婚するの?」


 白鬼が真顔で尋ねた。


「しない」


「即答したら、フェルンがかわいそうですよ」


 黒鬼が小声で言う。


 フェルンは食事の手を止め、シグマを見上げた。


「フェルンとは、結婚しない?」


「そういう意味じゃない。まだ十歳だろう」


「十歳だと、できない?」


「できない」


「なら、大きくなる」


「そういう話をしているんじゃない」


「シグマ、逃げ場なくなっとるで」


 シルフは完全に面白がっていた。


 紅蓮は煮込みを食べながら、深いため息をつく。


「食事中に何の話をしてるんだ、お前らは」


「紅蓮は、シグマと結婚したくないの?」


 白鬼が尋ねる。


 紅蓮の手が止まった。


「なんで俺に振る」


「シルフとフェルンだけだと、不公平かなって」


「何が不公平なんだ」


「白鬼。紅蓮が困っていますから、その話はやめましょう」


「黒鬼は?」


「私に振らないでください!」


 先ほどまで穏やかだった黒鬼が、珍しく大きな声を出した。


 周囲の客が一斉にこちらを見る。


 黒鬼は顔を赤くし、俯いた。


「す、すみません……」


「白鬼、お前は少し黙って食え」


 紅蓮が低い声で言う。


「はーい」


 白鬼は素直にパンを口へ入れた。


 少しの間だけ、卓が静かになる。


 だが、隣の卓で交わされていた会話が、その静けさの中へ流れ込んできた。


「本当にグレイヴァルにいるのか?」


「ああ。俺たちが出た時には、まだ滞在していた」


「何をしに来たんだ?」


「原生林の調査らしい。何人も連れて、旧街道を調べているそうだ」


 シグマは食事の手を止めなかった。


 視線も向けず、隣の卓の話へ耳を傾ける。


 門番が言っていた調査と同じ話だろう。


「騎士団か?」


「いや、勇者だ」


 その言葉に、シルフの表情が僅かに強張った。


「勇者?」


「土の勇者だよ。今はグレイヴァルを拠点にして、原生林を抜ける方法を探しているらしい」


 食堂の空気は何も変わっていない。


 村人たちは酒を飲み、旅人たちは話を続けている。


 だが、シグマたちの卓からだけ、先ほどまでの賑やかさが消えた。


 白鬼も口の中のパンを飲み込み、シルフを見る。


「土の勇者って……」


「白鬼」


 紅蓮が短く名を呼び、それ以上話すなと目で伝えた。


 ここには他の客がいる。


 勇者について詳しく話す場所ではない。


 シルフは俯いたまま、木皿の中を見つめていた。


「シルフ?」


 フェルンが呼びかける。


「なんでもないで」


 シルフはいつもの調子で笑おうとした。


 しかし、その笑顔は明らかに無理をしている。


 シグマは隣の卓の会話を聞き続けた。


「土の勇者って、あの噂の?」


「昔の話だろ。今は勇者教の連中と一緒に動いているって聞いたぞ」


「それでも、俺なら近づかないな」


「俺だって同じだ。グレイヴァルでは揉め事を起こしていないらしいが、何を考えているか分からん」


 三人組の一人が声を潜める。


 その先までは聞き取れなかった。


 やがて別の話題へ移り、原生林と土の勇者についての会話は終わった。


 シグマたちも、それ以上その場で話すことはなかった。


 食事を終えると、それぞれの部屋へ戻る。


 シルフだけを一人にするわけにはいかず、全員がシグマたちの部屋へ集まった。


 部屋の扉を閉め、紅蓮が廊下に人の気配がないことを確かめる。


「聞かせてもらえるか」


 紅蓮が壁際に立つシルフへ尋ねた。


「土の勇者について、何か知ってるんだろ?」


 シルフはすぐには答えなかった。


 窓の外へ視線を向けたまま、腕を組む。


「会うたことはないんや」


「ないのか?」


「せや。うちが召喚された後も、勇者が全員同じ場所に集められたわけやない。召喚された国も違えば、動いとる場所も違う。名前と話だけ知っとる勇者も多いんよ」


「それなら、あの噂を聞いて、どうしてそこまで警戒する?」


 シグマが尋ねる。


 シルフは一度目を閉じた。


「土の勇者については、良くない話が多すぎるんや」


 普段の軽さは消えていた。


「うちが聞いた話では、一つの街を滅ぼしとる」


 誰も口を挟まなかった。


 白鬼と黒鬼も並んで座り、シルフの言葉を待っている。


「街を……一人で?」


 黒鬼が小さな声で尋ねた。


「詳しいことまでは分からへん。せやけど、その街では大勢の人が死んだ。建物もほとんど残らんかったって聞いとる」


「魔物に襲われたとかじゃないの?」


 白鬼の問いに、シルフは首を横へ振った。


「土の勇者がやったことになっとる」


「なっている?」


 シグマは、その言い方が気になった。


「シルフは疑っているのか?」


「分からへんねん。うちは本人に会うたこともないし、現場を見たわけでもない。人から聞いただけの話で、ほんまやって言い切ることはできへん」


「だが、警戒はしている」


「そら、するやろ」


 シルフの声に、僅かな苛立ちが混じる。


「街だけやない。自分に付き従っとった従者も殺した。それどころか、自分をこの世界へ召喚した者まで、最後には自分の手で殺したって言われとる」


 部屋の空気が重くなる。


 フェルンは無意識にシグマの外套を掴んでいた。


 紅蓮の表情も険しくなっている。


「召喚した者まで殺したのか」


「そう聞いとる。何があったのかまでは知らん。ただ、土の勇者は力を制御できへん危険な人間やって、勇者たちの間でも噂になっとった」


「原生林の調査へ来た目的は?」


「分からん。グレイヴァルにおること自体、今初めて知った」


 シルフは額へ手を当てた。


「なんで、よりによって同じ道におるんや……」


 原生林を抜けるためには、グレイヴァルへ向かわなければならない。


 その街で土の勇者が調査をしているのなら、いつどこで顔を合わせるか分からない。


 こちらには風の勇者であるシルフがいる。


 互いに面識がないとはいえ、勇者同士なら何らかの方法で正体を見抜かれる可能性もあった。


「シルフが風の勇者だと知られたら、どうなる?」


 紅蓮が尋ねる。


「そこも分からへん。話ができる相手なら問題ないかもしれん。せやけど、噂どおりの相手やったら……」


「襲われる可能性がある」


 シグマが続けると、シルフは小さく頷いた。


「うち一人なら、逃げることはできる。風を使えば、そう簡単には捕まらへん」


「一人で逃げる気か?」


「そういう意味やない。ただ、みんなを巻き込むんが怖いんよ」


「今さら何を言ってるんだ」


 紅蓮がシルフの前へ立つ。


「俺たちは、これまで何度も面倒事に巻き込まれてきた。勇者が一人増えたくらいで、お前だけ置いて逃げると思うか?」


「紅蓮……」


「まだ襲われると決まったわけでもない。勝手に悪い方へ考えるな」


「でもな」


「それに、シグマがいる」


 紅蓮は迷いなく言った。


 シルフの視線が、シグマへ向く。


「紅蓮。俺に全て押しつけるな」


「そういう意味じゃない。お前なら、相手が誰であろうと無闇にシルフを差し出したりはしないだろ」


「当然だ」


 シグマが答えると、シルフは困ったように笑った。


「そういうことを迷わず言うから、うちは諦められへんのやで?」


「今は関係ないだろ」


「うちにとっては大事な話や」


 いつもの調子が僅かに戻る。


 それでも、瞳の奥にある不安までは消えていなかった。


「シルフ」


 フェルンが外套から手を離し、シルフの前へ歩いていく。


「怖い?」


「……少しだけな」


「なら、一緒にいる」


「フェルンが?」


「みんなもいる」


 フェルンは白鬼たちを振り返った。


 白鬼が勢いよく頷く。


「もちろんだよ。まだ噂を聞いただけだし、本当に悪い人かどうかも分からないんでしょ?」


「そうですね。何も分からないうちから、シルフだけに悩ませる必要はありません」


 黒鬼も白鬼の言葉に続いた。


「明日、ネーベル村へ向かう途中で、今後のことを考えましょう。グレイヴァルへ着くまでには、まだ時間があります」


「黒鬼の言うとおりだ」


 紅蓮が頷く。


「今夜中に決める必要はない。まずは他の旅人からも話を聞く。それから進むか、どこかで待つかを決めればいい」


 シルフは仲間たちの顔を順番に見た。


「ほんま、お人好しばっかりやな」


「シルフほどではない」


 シグマが答える。


「うち、そんなにお人好しやろか?」


「俺たちとここまで来ている時点で、十分だ」


「それを言うなら、シグマが一番やろ」


「俺は違う」


「自覚がないところまで含めて、一番やで」


 白鬼と黒鬼が同時に頷く。


 紅蓮も否定しなかった。


 フェルンだけは不思議そうに首を傾げている。


 少しだけ部屋の空気が和らいだ。


 今夜は休む。


 明日の朝、セルカ村を出てネーベル村へ向かう。


 その道中で情報を整理し、グレイヴァルへ予定どおり進むか、それとも土の勇者が原生林へ入るまで待つかを決める。


 話はそこでまとまった。


「それじゃ、俺はハクのところへ行ってくる」


 シグマが立ち上がると、フェルンも続いて立った。


「フェルンも行く」


「俺一人で大丈夫だ」


「野菜を隠した場所、教える」


「そうだったな」


「うちも行こか?」


 シルフが尋ねたが、フェルンが首を横へ振った。


「シルフは休む」


「でもなあ」


「怖い時は、休んだ方がいい」


 シルフは一瞬だけ目を丸くした後、柔らかく笑った。


「そやな。ほな、今日は甘えさせてもらおかな」


「うん」


「帰ったら、うちの部屋に来てくれる?」


「シグマも?」


「どうして、そこでシグマまで付いてくるんや」


「一緒がいい」


「それやったら、みんなで少しだけ話そか。寝る時は別やで」


「分かった」


 フェルンは素直に頷いた。


 シグマは食堂で分けてもらった肉と野菜を袋へ入れ、フェルンと共に宿を出た。


 村の中は既に暗くなっている。


 家々の窓から漏れる明かりと、道沿いに置かれた魔石灯だけが足元を照らしていた。


 村を出て、昼間ハクと別れた林へ向かう。


 シグマたちが近づくと、木々の奥から白銀の巨体が姿を現した。


『遅い』


「夕食が長引いた」


『腹が減った』


「野菜を埋めているからだ」


 ハクの足が止まった。


『何のことだ』


「フェルンから聞いた」


 ハクがフェルンを見る。


 フェルンはシグマの後ろへ半歩だけ隠れた。


「シグマには、言った方がいい」


『裏切ったな』


「ハクのため」


『肉だけで十分だ』


「駄目」


 フェルンはハクの前へ進み、煮込まれた野菜が入った器を置いた。


「今日は、ちゃんと食べる」


 ハクは器の中を覗き込む。


 その横へ、シグマが肉の入った器を置いた。


「野菜を食べたら、肉を追加する」


『先に肉をよこせ』


「野菜が先だ」


『シグマまで面倒になった』


「今まで俺の見ていないところで捨てていたからだ」


 ハクはしばらく器を見つめていた。


 やがて諦めたように野菜を口へ入れる。


「食べた」


『まずい』


「お肉」


『まだ一口だ』


 フェルンに急かされ、ハクは渋々残りも食べ始めた。


 その様子を眺めながら、シグマは昼間と変わらない静かな林へ目を向ける。


 セルカ村は穏やかだった。


 街道にも異変はなく、原生林から魔物が溢れている様子もない。


 それでも、グレイヴァルには土の勇者がいる。


 偶然なのか。


 それとも、王都では把握していなかった何かが原生林で起きているのか。


 今の段階では何も分からない。


 ただ一つ確かなのは、シルフがこれまでに見せたことのないほど、土の勇者を警戒していることだった。


 ハクが野菜を食べ終え、肉の入った器へ顔を寄せる。


 フェルンはその隣に座り、白銀の毛へ背中を預けた。


 旅の夜は、いつもと変わらない穏やかさに包まれている。


 だが、セルカ村で耳にした噂は、消えることなくシグマの胸に残り続けていた。


翌朝。


 シグマが目を覚ますと、隣の寝台は既に空になっていた。


 畳まれた毛布の上には、フェルンが着替える時に外したらしい髪留めが一つだけ残されている。


 窓の外は明るくなり始めたばかりだった。


 身体を起こし、両腕の調子を確かめる。


 左右の義手をゆっくりと開閉した後、制御腕輪へ意識を向けた。


 炎帝石も獣王石も静かなままだ。


 昨夜、土の勇者について聞いてから、心のどこかに重いものが残っている。


 しかし、それが義手へ影響している様子はなかった。


 シグマは寝台から降り、フェルンが残した髪留めを手に取る。


 部屋の扉を開けると、廊下の奥から小さな足音が聞こえてきた。


「シグマ、起きた」


 階段を上がってきたフェルンが、両手で何かを抱えている。


「どこへ行っていた?」


「下」


「それは見れば分かる」


「お水、もらった」


 フェルンが抱えていたのは、水の入った小さな桶だった。


 どうやら顔を洗うために、自分で女主人へ頼んできたらしい。


「一人で行ったのか?」


「うん」


「知らない人がいたら気をつけろ」


「女将さんだけだった」


「そうか」


 シグマは桶を受け取ろうとしたが、フェルンは渡そうとしなかった。


「フェルンが運ぶ」


「重くないか?」


「大丈夫」


 そう言いながら部屋へ入ろうとしたところで、桶の水が大きく揺れた。


 フェルンは慌てて足を止める。


「少し持つ」


「少しだけ?」


「ああ」


 シグマが片側を持ち、二人で桶を部屋へ運んだ。


 床へ置き終えると、フェルンは満足そうに頷く。


「できた」


「ああ。次は髪を整えろ」


「髪留め、ない」


「寝台の上に置いてあった」


「忘れてた」


 シグマが髪留めを渡すと、フェルンは後ろ髪をまとめようとした。


 だが、何度やってもうまく結べない。


 髪留めが滑り落ち、床へ転がった。


 フェルンはそれを拾い、もう一度挑戦する。


「貸してみろ」


「シグマ、できる?」


「簡単にまとめるくらいならな」


 フェルンが背中を向ける。


 シグマは長い髪を手で集め、髪留めを使って一つにまとめた。


 左右で少し高さが違う気がする。


 それでも、歩いている途中で解けることはないだろう。


「できたぞ」


 フェルンは鏡の前へ立ち、自分の髪を確かめた。


「少し、曲がってる」


「嫌なら誰かに直してもらえ」


「これでいい」


「曲がっているんだろ?」


「シグマがしたから、これがいい」


「そうか」


 フェルンは髪を揺らしながら、部屋を出ていった。


 入れ替わるように、隣の部屋の扉が開く。


 眠そうな白鬼が廊下へ顔を出した。


「おはよう……」


「おはよう」


「もう朝?」


「朝だ」


「まだ暗くない?」


「十分明るい」


「じゃあ、今日は明るくなるのが遅い日だね」


「そんな日はない」


 白鬼は目を閉じたまま、壁に手をついて歩き始めた。


 その背後から、黒鬼が慌てて追いかけてくる。


「白鬼、そっちは階段です」


「分かってるよ」


「目を開けてください」


「開いてる」


「閉じています」


 黒鬼が白鬼の肩を掴み、階段の手前で止めた。


 白鬼はようやく片目だけを開ける。


「黒鬼、朝から元気だね」


「白鬼が危なっかしいんです」


「この間も聞いた」


「前から何も変わっていないからです」


「でも、私がお姉ちゃんだよ?」


「お姉ちゃんを名乗るなら、一人で階段を下りてください」


「分かった。見てて」


「普通に下りるだけでしょう」


 白鬼は急に背筋を伸ばし、慎重に一段ずつ階段を下り始めた。


 黒鬼もそのすぐ後ろをついていく。


「やっぱり、黒鬼が見ているんだな」


 シグマが言うと、黒鬼は足を止めた。


「転んだら危ないですから」


「黒鬼は心配性だなあ」


「白鬼のせいです」


 二人の声が一階へ遠ざかっていく。


 シグマも出発の準備を整え、食堂へ向かった。


     ◇


 朝食を終えた一行は、宿の裏から馬車を出した。


 ノクスとソルは十分に休めたらしく、装具を取りつけている間も落ち着いていた。


 シグマが小屋の外へ二羽を連れ出す。


 その横では、白鬼と黒鬼が荷物を積み込んでいた。


「白鬼、その袋は奥へ置いてください」


「また取り出すかもしれないよ」


「何をですか?」


「木の実」


「取り出しません」


「石もあるよ」


「なおさら取り出しません」


「でも、道の途中で比べたくなるかもしれないし」


「何と比べるんですか?」


「新しく拾ったものと」


「これ以上増やすつもりですか?」


 黒鬼が呆れたように白鬼を見る。


 白鬼は返事をせず、荷袋を手前に置こうとした。


 その手から紅蓮が荷袋を取り上げ、荷台の一番奥へ放り込む。


「あっ」


「旅の途中で出す必要はない」


「紅蓮まで……」


「嫌なら、自分で背負って歩け」


「奥で大丈夫です」


 白鬼はすぐに諦めた。


 最後の荷物を積み終えると、宿の女主人が表まで見送りに出てきた。


「ネーベル村へ行くんだろ?」


「ああ」


「街道を外れなければ迷うことはないよ。昨日までの雨で、一部ぬかるんでいるらしいから気をつけな」


「分かった。世話になった」


「また近くを通ったら寄っておくれ」


 白鬼とフェルンが女主人へ手を振る。


 馬車はゆっくりとセルカ村を離れた。


 村の門を抜けた後、昨夜と同じ林へ向かう。


 ハクは既に川辺まで出てきていた。


 前脚を伸ばして寝そべっていたが、馬車を見ると静かに立ち上がる。


「待たせたな」


『遅い』


「昨日も聞いた」


『今日は本当に遅い』


「予定どおりだ」


『太陽はもう昇っている』


「太陽が昇る前に出るとは言っていない」


 ハクは納得していないようだったが、それ以上は言わなかった。


 フェルンが御者台から身を乗り出す。


「ハク、野菜は?」


『知らない』


「埋めた?」


『知らない』


「食べないと駄目」


『昨日食べた』


「今日も食べる」


『肉があれば十分だ』


 フェルンとハクの会話を、シルフが不思議そうに眺めている。


「なんて言うとるん?」


「今日も肉だけでいいと言っている」


「ハクはほんまに頑固やなあ」


「シルフが言ってる」んわ


 フェルンがそのまま伝える。


 ハクはシルフへ視線を向けた後、何も言わずに街道脇を歩き始めた。


「今、絶対に何か言いたそうな顔しとったやろ」


「何も言っていない」


「ほんま?」


「たぶん」


「フェルン、その『たぶん』は信用できへんで」


 馬車が街道へ戻る。


 村から離れるにつれて、周囲の畑は少なくなっていった。


 代わりに低い草原と林が広がり、遠くには原生林へと続く山々が薄く見えている。


 風は穏やかだった。


 昨日の夜に重い話をしたこともあり、シルフがいつもの調子へ戻れるか、シグマは少し気にしていた。


 だが、今朝からの様子を見る限り、必要以上に落ち込んではいないらしい。


 完全に不安が消えたわけではない。


 それでも、仲間たちの前で無理に明るく振る舞っているようにも見えなかった。


「シグマ、交代するで」


 しばらく進んだところで、シルフが御者台へ上がってきた。


「まだ疲れていない」


「知っとる。うちが暇なんや」


「荷台で白鬼たちと話していればいいだろう」


「白鬼と黒鬼は、どっちがお姉ちゃんかでまた揉めとる。紅蓮は仲裁するんを諦めた。フェルンはハクと話しとる」


「なら、休んでいればいい」


「座っとるだけやと、余計なこと考えてまうからな」


 シグマは僅かに黙った。


 シルフは前方を向いたまま、手を差し出す。


「せやから交代や。シグマは少し休んどき」


「分かった」


 手綱を渡し、シグマは荷台へ移った。


 シルフは御者台へ座ると、ノクスとソルへ軽く声をかける。


「今日も頼むで。道が悪うなったら、無理せんでええからな」


 二羽は声へ応えるように速度を僅かに上げた。


 荷台では、白鬼と黒鬼の言い合いがまだ続いていた。


「だから、私が先に生まれたんだって」


「ほんの少しでしょう」


「少しでも先は先だよ。私がお姉ちゃん」


「お姉ちゃんらしいことをしてください」


「してるよ」


「何をしたんですか?」


「昨日、パンを先に見つけた」


「それは関係ありません」


「黒鬼にも教えてあげたでしょ?」


「白鬼が食べたかっただけですよね」


「でも、一緒に食べたらおいしかったよね?」


「それは……そうですけど」


 黒鬼の勢いが弱まった。


 白鬼は勝ったと言わんばかりに胸を張る。


「ほら、私がお姉ちゃん」


「今の話から、どうしてそうなるんですか?」


「おいしいものを妹に教えるのは、お姉ちゃんの役目だから」


「では、荷物を減らすために木の実も私へ譲ってください」


「それは駄目」


「どうしてですか?」


「私が見つけたから」


「お姉ちゃんらしくないです」


「これは別なの!」


 紅蓮は荷台の端へ座り、二人を放っておくことにしたらしい。


 フェルンは馬車の横を歩くハクへ手を伸ばしていた。


 少し距離があるため、指先は白銀の毛へ届いていない。


「ハク、近く」


『馬車から降りろ』


「シグマが駄目って言う」


『なら諦めろ』


「ハクが近づけばいい」


『嫌だ』


「どうして?」


『白鬼も来る』


 フェルンが白鬼を見る。


 白鬼は黒鬼との話をやめ、期待に満ちた目でハクを見ていた。


「ハク、乗っていい?」


 当然ながら、その声へ返事はない。


 白鬼はシグマへ顔を向ける。


「ハク、なんて言ってる?」


「何も言っていない」


「乗っていいって?」


「言っていない」


「駄目とも言ってないよね?」


 白鬼が荷台から降りようとする。


 その肩を紅蓮が掴んだ。


「走っている馬車から降りるな」


「ゆっくりだよ?」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ、馬車を止めて」


「止めない」


「少しくらいいいじゃん」


「ネーベル村へ着いてからにしろ」


「村に着いたら、ハクはまた外で待つでしょ?」


「今は諦めろ」


 白鬼は不満そうに頬を膨らませた。


 ハクはそれを見て、少しだけ馬車から離れる。


「逃げた!」


「追うなよ」


「分かってるよ」


 紅蓮に肩を掴まれたまま、白鬼は遠ざかるハクへ手を伸ばしていた。


     ◇


 昼前になると、宿の女主人が言っていたとおり、街道の状態が悪くなってきた。


 轍に雨水が残り、土が柔らかくなっている。


 シルフは馬車の速度を落とし、深いぬかるみを避けながら進んだ。


 しかし、街道の先で一台の荷車が止まっていた。


 片方の車輪が深く沈み込み、動けなくなっている。


 荷車の周りでは、年老いた夫婦が困った様子で土を掘っていた。


「止めるで」


 シルフが馬車を街道脇へ寄せる。


 シグマが荷台から降りると、紅蓮も続いた。


「手を貸そう」


「そう言うと思った」


 二人が荷車へ近づく。


 老夫婦は最初こそ警戒したが、シグマたちが旅人だと分かると安堵したように息を吐いた。


「すまないね。避けたつもりだったんだが、思ったより深かったらしい」


 老人が泥に沈んだ車輪を指さす。


 荷車には木箱がいくつも積まれていた。


 隙間から見えるのは、赤や黄色に熟した果実だ。


「荷物を下ろせば軽くなる」


「ネーベル村まで運ぶ品なんだ。泥の上へ下ろすわけにもいかなくてね」


「俺たちの馬車へ一時的に移そう」


 シグマは紅蓮と共に木箱を運び始めた。


 白鬼と黒鬼も馬車から降り、軽い箱を受け取る。


「白鬼、足元を見てください」


「大丈夫だよ」


「そこ、泥が深いです」


 黒鬼が言い終えるより先に、白鬼の足が沈んだ。


「うわっ!」


 身体が傾き、抱えていた木箱が揺れる。


 黒鬼は慌てて箱を支えた。


 紅蓮も白鬼の外套を掴み、泥の中から引き上げる。


「だから足元を見ろと言っただろ」


「箱は落としてないよ」


「先に自分の心配をしろ」


 白鬼の片足は、膝近くまで泥で汚れていた。


 黒鬼が呆れたように息を吐く。


「白鬼。そこで待っていてください」


「まだ手伝えるよ」


「その状態で歩いたら、宿へ着く前に全身泥だらけになります」


「今度は気をつけるから」


「さっきも聞きました」


「黒鬼まで紅蓮みたいなこと言う!」


「心配をかける白鬼が悪いんです」


 白鬼は反論しようとしたが、自分の脚を見て諦めた。


 街道脇の草地へ移動し、靴についた泥を木の枝で落とし始める。


 荷物を全て移し終えると、荷車はかなり軽くなった。


 シグマと紅蓮が後ろから押し、老人が馬を進ませる。


 車輪が泥の中で空回りした。


「もう一度だ」


 シグマは足場を確かめ、荷車へ肩を当てた。


 右の義手に力を込める。


 制御腕輪が淡く反応したが、炎帝石の力は使わない。


 今必要なのは、荷車を壊さない程度の力だった。


「せーの!」


 白鬼の掛け声に合わせ、全員で押す。


 車輪が泥を跳ね上げながら持ち上がり、固い場所まで転がった。


 老人が手綱を引き、荷車を完全にぬかるみから離す。


「助かった。本当にありがとう」


「これくらいなら構わない」


「あなたたちもネーベル村へ?」


「ああ」


「それなら、村まで一緒に行かないかい? この先にも道の悪いところがある。一台で進むより安心だ」


 シグマは仲間たちを見る。


 急ぐ旅ではあるが、今日中にネーベル村へ着ければ問題はない。


「分かった。後ろを走ろう」


 木箱を荷車へ戻している間に、老婆が一つの箱を開けた。


 中には、小さな赤い果実が詰められている。


「お礼に少し持っていっておくれ」


「報酬が欲しくて手伝ったわけじゃない」


「分かっているよ。でも、受け取ってくれないと、こっちの気が済まないんだ」


 老婆が果実をいくつか布袋へ入れる。


 白鬼は欲しそうに見ていたが、シグマが断ったため黙っていた。


「それなら、少しだけもらう」


「そうしておくれ」


 布袋を受け取ると、白鬼の顔が明るくなった。


 老婆はその様子を見て、さらに二つ追加する。


「これは泥だらけになってまで手伝ってくれた子の分だよ」


「いいの?」


「ああ。川で洗ってから食べるんだよ」


「ありがとう!」


 白鬼は果実を両手で受け取った。


「黒鬼、一つあげる」


「白鬼がもらったものでしょう?」


「お姉ちゃんだから、妹に分けてあげる」


「またそれですか」


 黒鬼は困ったように笑った。


 だが、差し出された果実は素直に受け取った。


「ありがとうございます、お姉ちゃん」


「えっ?」


 白鬼が目を見開く。


「今、お姉ちゃんって言った?」


「一度だけです」


「もう一回言って」


「嫌です」


「黒鬼、お願い!」


「早く靴の泥を落としてください」


「もう一回だけ!」


 白鬼は果実を握ったまま、黒鬼の後を追いかけた。


 足元がまだ滑りやすいことを忘れたらしく、再び身体が傾く。


 今度は黒鬼が腕を掴み、転ぶ前に支えた。


「もう……本当に、目を離せないんですから」


「やっぱり黒鬼も私のこと好きだよね」


「妹ですから」


「私がお姉ちゃんだって!」


 老夫婦は二人のやり取りを見て、楽しそうに笑っていた。


     ◇


 昼食は、街道沿いを流れる小川の近くで取ることになった。


 老夫婦の荷車も隣に止まり、全員で休憩する。


 シルフが簡単なスープを作り、セルカ村の宿で分けてもらったパンを温めた。


 老婆から受け取った果実は水で洗い、食後に分ける。


 赤い皮の中には淡い色の果肉が詰まっており、口に入れると甘酸っぱい果汁が広がった。


「おいしい!」


 白鬼が目を輝かせる。


「種がありますから、飲み込まないでください」


「分かってるよ」


「今、飲み込みませんでしたか?」


「飲み込んでない」


「本当ですか?」


「本当だって」


 白鬼は頬を膨らませたまま、次の果実へ手を伸ばした。


 黒鬼がその手を軽く叩く。


「一人二つまでです」


「まだ一つしか食べてないよ」


「さっき、荷物を戻している時にもらっていましたよね?」


「あれは手伝った分」


「同じ果実です」


「これは食後の分だから別だよ」


「別ではありません」


 また始まった言い合いを聞きながら、シグマは少し離れた木陰へ腰を下ろした。


 腰の荷物から、気術について記された秘伝書を取り出す。


 王都の図書館で読んだ内容と、茜から教わったことを思い返す。


 気を放つ。


 気を身体へ纏う。


 そして、心を鍛える。


 最初の二つもまだ十分に扱えてはいない。


 だが、獣王石を制御するには、心を安定させる鍛錬が必要になる。


 シグマは目を閉じ、呼吸を整えた。


 周囲の音が耳へ入る。


 小川を流れる水。


 木々を抜ける風。


 ノクスとソルが草をついばむ音。


 白鬼と黒鬼の言い合い。


 紅蓮が二人を止める声。


 シルフが鍋を片づける音。


 その全てを消そうとはせず、受け入れながら意識を内側へ向ける。


 右腕にある熱。


 左腕の奥へ沈む、重く冷たい感覚。


 獣王石を意識した瞬間、胸の内に小さな不安が生まれた。


 もし、力を制御できなかったら。


 もし、仲間を巻き込んだら。


 もし、失望を糧にする獣王石が、自分の心を――


 冷たいものが左腕から胸へ広がりかける。


 その時、顔へ何かが押しつけられた。


 シグマは目を開ける。


 目の前を、白銀の毛が覆っていた。


「ハク」


 隣で寝そべったハクが、尻尾をシグマの顔へ載せている。


『嫌な気配がした』


「すまない」


『石のことを考えていたのか』


「ああ」


『考えすぎるな』


「簡単に言うな」


『簡単なことだ。今は何も起きていない』


 ハクは尻尾を退かそうとしない。


 シグマは片手で押し返した。


「前が見えない」


『目を閉じていた』


「息ができない」


『その程度では死なない』


「修行の邪魔だ」


『なら、嫌な気配を出すな』


 シグマが尻尾を押し退けると、ハクは不満そうに鼻を鳴らした。


 少し離れた場所にいたフェルンが、その様子を見ている。


「ハク、心配してる」


『していない』


「心配してないって言ってるけど、してる」


『勝手に決めるな』


「尻尾、置いたから」


『邪魔だっただけだ』


「ハクの身体、あっち」


 フェルンがハクの巨体を指さした後、尻尾を見る。


「尻尾だけ、シグマのところ。わざと」


 ハクは何も答えなかった。


 代わりに、再び尻尾がシグマの顔へ飛んでくる。


 シグマは左手で受け止めた。


「なぜ俺に当てる」


『フェルンに当てるわけにはいかない』


「なら、誰にも当てるな」


 フェルンはハクの背中へ寄りかかりながら、満足そうに頷いていた。


「シグマ」


「どうした?」


「嫌な気持ち、なくなった?」


 シグマは左腕へ意識を向ける。


 先ほど感じていた冷たさは、いつの間にか消えていた。


「ああ。もう大丈夫だ」


「なら、ハクのおかげ」


『違う』


「違わない」


 フェルンがハクの首元を撫でる。


 ハクは否定し続けることを諦めたのか、目を閉じた。


「シグマ、何しとるん?」


 片づけを終えたシルフが近づいてきた。


「心を落ち着かせる鍛錬だ」


「ハクの尻尾と戦う修行に見えたで」


「邪魔された」


『助けた』


「助けたって」


 フェルンが伝える。


「やっぱり心配しとったんやな」


『余計なことを言うな』


「余計なこと言うなって」


「フェルン、全部伝えてくれるんやな」


「うん」


 シルフが笑う。


 昨夜から残っていた僅かな緊張も、その笑顔の中では薄れて見えた。


     ◇


 休憩を終えた後は、老夫婦の荷車に合わせてゆっくりと進んだ。


 途中で何度かぬかるんだ場所を通ったが、今度は車輪を取られることもなかった。


 空が夕暮れの色へ変わり始めた頃、前方にネーベル村の屋根が見えてきた。


 セルカ村よりも少し大きい。


 村の周囲には低い石垣が築かれ、入口には頑丈な門が立っている。


 原生林へ近づいているためか、警備に立つ者の数もセルカ村より多かった。


「着いたよ」


 荷車を引いていた老人が、後ろを振り返る。


「私たちは村の中に家がある。宿なら、門を入って右の道を進むと見つかるはずだ」


「分かった」


「今日は本当に助かった。気をつけて旅を続けておくれ」


 老夫婦と別れ、一行は村へ入る前に馬車を止めた。


 ハクは村から少し離れた林で夜を過ごすことになった。


『また人間の村か』


「明日には出る」


『俺は先に原生林へ向かってもいい』


「駄目だ」


『なぜだ』


「ここから先は、土の勇者が調査している可能性がある。勝手に動くな」


 ハクの目が僅かに細くなる。


『土の勇者』


「知っているのか?」


『知らない』


「なら、どうして反応した?」


『その呼び方を、どこかで聞いた気がした』


 シグマはハクを見つめた。


「いつだ?」


『分からない』


「思い出せないのか?」


『考えると、頭に霧がかかる』


 ハクの記憶にも、何らかの干渉が加えられている可能性がある。


 以前から分かっていたことだ。


 だが、土の勇者という言葉に反応したのなら、それはハクの失われた記憶と関わっているのかもしれない。


「無理に思い出そうとするな」


『シグマに言われたくない』


「どういう意味だ?」


『そのままの意味だ』


 ハクは背を向け、林の奥へ歩いていく。


 フェルンが慌てて追いかけた。


「ハク、ご飯」


『後でいい』


「野菜もある」


『いらない』


「逃げても持っていく」


 フェルンの言葉に、ハクの歩みが僅かに速くなった。


「遠くへ行くなよ」


 シグマが声をかける。


 ハクは振り返らなかったが、頭の中へ短い返事が届いた。


『分かっている』


 フェルンが戻ってくるのを待ち、一行はネーベル村へ入った。


 門では身分証牌と荷物を簡単に調べられた。


 原生林の通行許可証も確認されたが、王家の印を見た門番は、それ以上問いただすことなく返した。


「原生林へ入るなら、グレイヴァルで最新の情報を聞いた方がいい」


「何か起きているのか?」


「今のところ異常はない。だが、調査隊が何度も出入りしている。通れる道も日によって変わるらしい」


「魔獣が増えたのか?」


「いや。旧街道を塞いでいた倒木や土砂を調べ直しているそうだ。俺たちも詳しくは聞かされていない」


「調査隊を率いているのは、土の勇者か?」


 シグマが尋ねると、門番は少し驚いたように眉を上げた。


「知っていたのか」


「セルカ村で噂を聞いた」


「なら、話は早い。今はグレイヴァルに滞在しているらしい。ここ数日、勇者の従者が物資を買いに来ている」


 シルフは外套の下で僅かに身を固くした。


「本人も、この村へ来たのか?」


「いや。少なくとも、俺は見ていない。従者たちも必要な物を買ったら、すぐに戻っていったよ」


「何人くらいいる?」


「分からない。見かけたのは四、五人だが、グレイヴァルにはもっといるんじゃないか?」


「揉め事は?」


「聞いていないな。金もきちんと払っていたし、村人へ乱暴したって話もない」


 シグマは僅かに考えた後、門番へ礼を告げた。


 土の勇者に関する悪評と、今の話は結びつかない。


 もちろん、本人が村へ来ていない以上、従者の振る舞いだけで安全とは判断できなかった。


 それでも、最初から争いを目的にグレイヴァルへ来たわけではなさそうだった。


 宿を取り、荷物を置いた後、シグマたちは村の食堂へ向かった。


 セルカ村で聞いた話だけを頼りに判断するわけにはいかない。


 グレイヴァル方面から来た旅人を探し、もう少し情報を集める必要があった。


 食堂には村人だけでなく、数組の旅人がいた。


 シルフには目立たないよう外套の頭巾を深く被ってもらい、シグマと紅蓮が離れた席の会話へ耳を傾ける。


 しばらく待っていると、グレイヴァルから来たらしい商人の話が聞こえてきた。


「土の勇者なら、まだ街にいるぞ」


 商人の言葉に、向かい側の男が身を乗り出す。


「本物なのか?」


「俺が顔を知っているわけじゃない。だが、勇者教の印をつけた連中が宿を一つ借り切っている。街の連中も土の勇者だって言っていた」


「原生林に入ったんじゃないのか?」


「何度か調査には出ているらしいが、毎日じゃない。昨日も街で姿を見たって奴がいた」


「怖くなかったのか?」


「近づいてはいない。遠くから見ただけだ」


 商人は声を落とした。


「街を滅ぼしたって噂があるからな。グレイヴァルの連中も最初は騒いでいたよ。ただ、今のところ何も起きていない。勇者本人も、必要がなければ宿から出てこないそうだ」


「いつまでいるんだ?」


「さあな。旧街道を安全に通れると判断するまでは残るんじゃないか?」


 話はそこで別の商売の話題へ移った。


 シグマたちは食事を済ませ、宿の部屋へ戻った。


 今夜の部屋は二つしか取れなかったため、全員が紅蓮たちの部屋へ集まるだけでも随分と狭い。


 白鬼と黒鬼が寝台へ並んで座り、フェルンはシグマの隣に立っている。


 シルフは窓際の椅子へ腰を下ろした。


「どうする?」


 紅蓮が切り出した。


「土の勇者が原生林へ入るまで、この村で待つ手もある」


「でも、いつ出発するか分からへんで」


 シルフが答える。


「数日で出るかもしれんし、何週間もグレイヴァルに残るかもしれん」


「先に原生林へ入ったとしても、すぐに戻ってくる可能性があります」


 黒鬼が言葉を続ける。


「ここで待っても、道の途中で会うかもしれません」


「だったら、早くグレイヴァルへ行った方がいいんじゃない?」


 白鬼が全員を見る。


「土の勇者が街にいるうちに、私たちだけ原生林へ行くの。そうしたら、会わなくて済むかもしれないよ」


「原生林へ入るには、グレイヴァルで道の状況を確認する必要がある」


 シグマは王都で受け取った通行許可証を卓の上へ置いた。


「許可証があっても、好きな場所から入れるわけではない。調査中なら、入口で止められる可能性もある」


「なら、やっぱりグレイヴァルには行かないと駄目なんだね」


「ああ」


 しばらく沈黙が続いた。


 ここで待つことにも危険はある。


 先へ進んでも、土の勇者と会わずに済む保証はない。


 むしろ時間を置けば、その間に土の勇者がどこへ移動するか分からなくなる。


「俺は予定どおり進むべきだと思う」


 シグマが言った。


「明日、この村を出る。グレイヴァルで必要な情報を集め、準備が整い次第、原生林へ入る」


「土の勇者と会ったらどうする?」


 紅蓮が尋ねる。


「こちらから近づかない。向こうから接触してきた場合も、まずは目的を確かめる。噂だけで敵だと決めつけるつもりはない」


「せやけど、うちが風の勇者やって知られたら?」


「隠す」


 シグマは迷わず答えた。


「グレイヴァルでは風の魔法を使うな。弓も必要がなければ見せない方がいい」


「名前はどうするん?」


「シルフという名前だけで正体が分かるのか?」


「勇者に詳しい奴なら、知っとる可能性はあるな」


「なら、人前では名前を呼ばない。聞かれた時は、旅の弓使いだとだけ答える」


「うち、黙っとった方がええ?」


「それは不自然だ」


「せやな。うちが黙っとったら、みんな余計に心配するやろうし」


「少し静かにするという選択肢はないのか?」


「それはうちやなくなるで」


 シルフが得意そうに胸を張る。


 紅蓮は呆れたように息を吐いた。


「話し方を変えたらどうだ?」


「無理や」


「即答か」


「気を抜いたら、すぐ戻る。途中で変わる方が怪しいやろ?」


「確かにそうだな」


「外套で姿を隠して、風の力を使わへん。勇者やって名乗らん。それで十分やと思う」


 シルフはそう言ったが、まだ僅かな不安が残っているようだった。


「怖いなら、ネーベル村で待っていてもいい」


 シグマが言う。


 シルフはすぐに首を横へ振った。


「それは嫌や」


「無理をする必要はない」


「無理やない。みんなと離れて一人で待つ方が怖い」


 シルフは椅子から立ち上がり、シグマの前まで歩いてくる。


「それに、原生林を抜ける許可を取ったんはうちや。ここまで来て置いていかれるなんて、納得できへん」


「分かった」


「ほんまに?」


「ああ。一緒に行こう」


 シルフの表情が僅かに和らぐ。


「ただし、グレイヴァルでは勝手に動くな」


「分かっとる」


「土の勇者の様子を見に行くのも禁止だ」


「そこまで無茶せえへんよ」


「気になっても、宿を抜け出すな」


「シグマ、うちをなんやと思っとるん?」


「興味を持つと、危険でも確かめに行く人間だ」


「否定しにくいなあ……」


 シルフが視線を逸らす。


「私が見てる」


 フェルンが言った。


「シルフがいなくなったら、シグマに教える」


「フェルンまで、うちを見張る側なん?」


「一緒にいるだけ」


「それなら、ええか」


「よくない。勝手に出歩かないと約束しろ」


 シグマが念を押す。


「分かった。約束する」


「俺たちも単独行動は避ける」


 紅蓮が白鬼と黒鬼を見る。


「特に白鬼。珍しい店を見つけても、勝手に離れるなよ」


「どうして私だけ?」


「一番やりそうだからだ」


「黒鬼だって、気になるものがあったら見に行くかもしれないよ」


「私は一人では行きません」


「私と一緒なら行く?」


「皆に伝えてからなら」


「じゃあ、二人で行けば大丈夫だね」


「勝手に話をまとめるな」


 紅蓮に止められ、白鬼が肩を落とす。


「グレイヴァルに着く前から、何もできなくなってる……」


「観光に行くわけじゃないんですよ」


 黒鬼が宥めるように白鬼の肩へ触れた。


「用事が済んだ後、余裕があれば少し歩きましょう」


「本当?」


「皆と一緒ならです」


「やっぱり黒鬼は優しいね」


「妹ですから」


「私がお姉ちゃん!」


「どちらでもいいだろ」


 紅蓮の言葉に、白鬼と黒鬼が同時に振り返る。


「よくない!」


「よくありません!」


 二人の声が重なった。


 紅蓮は少し驚いた後、面倒そうに額を押さえる。


「そういうところは、よく似てるな」


「似てないよ」


「似ていません」


 再び二人の声が揃う。


 今度はシルフが笑い出した。


「息ぴったりやん」


「双子ですから」


 黒鬼が答える。


「でも、私がお姉ちゃんだからね」


「それはもう分かりました」


 重かった空気が、少しずついつものものへ戻っていく。


 グレイヴァルへ進む。


 シルフが風の勇者であることは隠す。


 土の勇者へ自分たちから近づかず、必要な情報を集めたら、できる限り早く原生林へ入る。


 全員の方針は決まった。


「明日は早く出る」


 シグマが告げる。


「グレイヴァルまで一日では着かない。途中で野営になる」


「ハクと一緒に寝られる?」


 フェルンが尋ねる。


「ハクが嫌がらなければな」


「嫌がらない」


「本人に聞いてから決めろ」


「もう決めた」


「また怒られるぞ」


「大丈夫」


 何を根拠にしているのか分からないが、フェルンには確信があるらしい。


 シグマは通行許可証をしまい、窓の外へ目を向けた。


 ネーベル村の向こうには、暗い夜の街道が続いている。


 その先にあるグレイヴァル。


 さらに向こうには、広大な原生林が待っている。


 街を滅ぼし、従者や召喚者まで手にかけたと噂される土の勇者。


 真実がどこにあるのかは分からない。


 噂どおりの危険な人間なのか。


 それとも、何か別の事情があったのか。


 今はまだ、判断する材料が足りなかった。


 ただ、相手が何者であろうと、シルフを一人で向かわせるつもりはない。


 危険があるなら、全員で避ける。


 避けられないのなら、全員で乗り越える。


 それが、この旅を続けるうちに当たり前となった、一行の進み方だった。


翌朝、シグマたちは日の出と共にネーベル村を出発した。


 空には薄い雲が広がっていたが、雨の気配はない。


 村の門を抜けたところで馬車を止め、昨夜ハクと別れた林へ向かう。


 白銀の巨体は、木々の隙間からこちらの様子を窺っていた。


「ハク」


 フェルンが名前を呼ぶと、ハクはゆっくりと林から出てきた。


 その口には、大きな布袋が咥えられている。


「それは何だ?」


 シグマが尋ねる。


 ハクは布袋を地面へ置いた。


『置いていった』


「誰が?」


『フェルンだ』


 袋を開くと、中には野菜が詰められていた。


 昨日の夕食で余ったものを、宿の女主人から分けてもらったらしい。


 シグマはフェルンを見る。


「これをハクへ渡したのか?」


「うん」


「食べたのか?」


 ハクは答えず、顔を逸らした。


 布袋は昨夜とほとんど変わらない状態で残っている。


「食べてない」


『食べるとは言っていない』


「置いておけば食べると思った」


『いらない』


「今日のご飯に入れる」


『俺の分には入れるな』


「みんな同じ」


『肉だけでいい』


「駄目」


 フェルンが布袋を抱え、馬車へ運ぼうとする。


 だが、思った以上に重かったらしく、その場から動かない。


 シグマが横から袋を持ち上げた。


「最初から俺を呼べ」


「一人でできると思った」


「無理をするな」


「シグマも」


「何がだ?」


「一人で無理する」


 シグマは答えに詰まった。


 隣では、ハクが同意するように鼻を鳴らしている。


「お前は黙っていろ」


『何も言っていない』


「顔に出ている」


『シグマに言われたくない』


 昨日も聞いた言葉だった。


 シグマが布袋を荷台へ積むと、白鬼が中を覗き込んだ。


「こんなに野菜をもらったの?」


「ハクの分」


「食べなかったの?」


「うん」


「好き嫌いは駄目だよ」


 白鬼が真剣な顔でハクを見る。


 ハクに言葉は通じているはずだが、返事はない。


「白鬼も昨日、煮込みの中の野菜を私の皿へ入れていましたよね?」


 黒鬼の指摘に、白鬼の肩が僅かに跳ねた。


「入れてないよ」


「見ていました」


「黒鬼の方が好きかなって思っただけ」


「ハクと同じ言い訳をしないでください」


「でも、ちゃんと他の野菜は食べたよ」


「苦手なものだけ避けていたでしょう」


「一つだけだから」


「ハクにも、同じことを言われますよ」


 黒鬼がハクへ視線を向ける。


 ハクは白鬼のことなど知らないと言いたげに顔を逸らした。


「どうしてハクと私が同じ扱いなの?」


「好き嫌いをしているからです」


「私はハクより食べてるよ」


『俺を巻き込むな』


「巻き込むなって」


 フェルンがそのまま伝えた。


「ハクだって食べてないじゃん!」


 白鬼が抗議しても、ハクは既に街道へ向かって歩き始めていた。


「逃げた!」


「白鬼も早く乗れ。置いていくぞ」


 御者台から紅蓮に呼ばれ、白鬼は慌てて馬車へ駆け戻った。


     ◇


 ネーベル村からグレイヴァルまでは、馬車で二日ほどかかる。


 初日は街道の途中で野営し、翌日の夕方には街へ到着する予定だった。


 シグマは御者台へ座るシルフを見る。


 普段使っている弓は布で包み、荷台の奥へ収めてある。


 外套の頭巾も深く被っていた。


 今の姿だけを見れば、風の勇者だと気づく者は少ないだろう。


「前、見えとる?」


 紅蓮が尋ねる。


「見えとるよ」


「昨日より深く被ってるだろ」


「念のためや。ほら、ちゃんと見えとる」


 シルフが頭巾の端を少し持ち上げる。


「街道に入ったばかりだ。今から隠す必要はない」


 シグマが言うと、シルフは首を横へ振った。


「今のうちに慣れとかんと、グレイヴァルで何度も直すことになるやろ?」


「余計に目立たないか?」


「せやから、自然に被る練習をしとるんや」


「頭巾を被るだけだろ」


「これが意外と難しいんよ。深すぎると前が見えへんし、浅いと顔が見える。ちょうどええ位置を探さなあかん」


「歩いているうちにずれるぞ」


「その時は直す」


「結局、何度も触ることになるだろ」


「細かいこと気にしたら負けや」


 シルフは頭巾を被り直し、何事もなかったように前を向いた。


 その直後、街道に落ちていた小石を車輪が踏む。


 馬車が大きく揺れ、頭巾が目元まで下がった。


「見えへん」


「だから言っただろ」


「シグマ、取って」


「自分で直せ」


「今、手綱持っとるやん」


 シグマは仕方なく手を伸ばし、頭巾の端を持ち上げた。


 シルフが楽しそうに笑う。


「なんや、新婚みたいやな」


「どこがだ」


「出かける前に、旦那が嫁の服を直してくれる感じや」


「今は出発した後だ」


「否定するところ、そこなん?」


 荷台から白鬼が顔を出した。


「シグマ、私の外套も直して」


「自分でやれ」


「シルフにはしてあげたのに?」


「あれは前が見えなくなっていたからだ」


 白鬼は自分で頭巾を目元まで下げた。


「見えなくなった」


「遊ぶな」


「シグマ、扱いが違うよ」


「当たり前だ」


「どうして?」


「今のは自分でやっただろ」


「シグマは誤魔化されてくれへんで」


 シルフが笑う。


 白鬼は不満そうに頭巾を戻し、荷台へ引っ込んだ。


 代わりに黒鬼が顔を出す。


「白鬼がすみません」


「お前が謝る必要はない」


「でも、妹のしたことですから」


「私がお姉ちゃん!」


 すぐに白鬼の声が返ってきた。


「聞こえていましたか」


「聞こえるよ!」


「それなら、少し静かにしてください」


「黒鬼が間違えるからでしょ?」


 再び始まった二人の言い合いを聞きながら、シグマは街道の先へ目を向けた。


 土の勇者の噂を聞いてからも、旅の空気が大きく変わったわけではない。


 警戒は必要だが、まだ姿さえ見ていない相手を恐れ続けても仕方がない。


 それぞれが普段どおりに過ごしていることは、悪いことではなかった。


     ◇


 昼前には雲が流れ、空が明るくなった。


 一行は街道から少し離れた草地に馬車を止め、早めの昼食を取ることにした。


 近くには小さな泉があり、木陰も多い。


 ノクスとソルを休ませるには、ちょうどいい場所だった。


 紅蓮とシグマが二羽の装具を緩めている間に、シルフたちは昼食の準備を始めた。


「シルフ。今日は何を作るの?」


 白鬼が鍋を覗き込む。


「まだ何も入れとらんで」


「お肉?」


「野菜や」


「お肉は?」


「あとで入れる」


「どのくらい?」


「白鬼が鍋から離れたら入れる」


「じゃあ離れる」


 白鬼が素直に数歩下がった。


「これでいい?」


「もう少しやな」


 さらに数歩下がる。


「ここ?」


「その辺でええよ」


「お肉入れた?」


「まだ火もつけとらん」


「じゃあ、何を待ってるの?」


「白鬼が手伝ってくれるんを待っとる」


「私が?」


「食べたいんやろ? 薪を集めてきて」


 白鬼は周囲を見回した。


「一人で?」


「黒鬼と一緒に行ってきたらええやん」


「黒鬼、行こう」


「最初から私も行くことになるんですね」


 黒鬼は呆れながらも立ち上がった。


「遠くへ行くなよ」


 紅蓮が声をかける。


「分かってるよ」


「白鬼は分かっていても、何か見つけたら忘れるでしょう」


「忘れないって」


「では、私から離れないでください」


「逆じゃない? 黒鬼が私から離れないでね」


「はいはい」


「またそれ!」


 二人の声が林の中へ遠ざかっていく。


 フェルンは残された野菜の袋を見つめていた。


「フェルンも手伝う」


「ほな、この野菜を洗ってくれる?」


「うん」


 フェルンが袋を持ち上げようとする。


 今朝と同じように、重さで動きが止まった。


 その横から、ハクが袋の端を咥える。


「ハク、持ってくれる?」


『川までだ』


「ありがとう」


『肉を増やせ』


「野菜も食べたら」


『話が違う』


「まだ決めてない」


 ハクは不満そうに鼻を鳴らした。


 それでも袋を離さず、フェルンと共に泉の方へ歩いていく。


「交渉上手になったなあ」


 シルフが感心したように呟く。


「あれは交渉なのか?」


「ハクに荷物を運ばせとるんやから、成功やろ」


 シグマは二人を眺める。


 フェルンはハクが咥えた袋へ手を添えているだけで、ほとんど力を使っていない。


 それでも本人は一緒に運んでいるつもりらしい。


 泉へ着くと、ハクは袋を置いた。


 フェルンが中から野菜を取り出し、一つずつ水で洗い始める。


「ハクも」


『俺は洗わない』


「食べる野菜、自分で洗う」


『食べない』


「お肉、減る」


『卑怯だぞ』


「シルフに教えてもらった」


「うち、そんなこと教えた覚えないで?」


 シルフが苦笑する。


 やがて紅蓮が火を起こし、鍋をかけた。


 洗った野菜を切り、干し肉と一緒に煮込んでいく。


 しばらくすると、辺りに温かな香りが広がった。


 薪を集めに行った白鬼と黒鬼も戻ってくる。


 黒鬼は必要な分だけ抱えていたが、白鬼は両腕いっぱいに枝を持っていた。


「そんなに使わへんで」


「夜の分もいるでしょ?」


「今日は夕方まで進むから、野営地はここやないよ」


「じゃあ、持っていけばいいよ」


「荷物増やしたら、紅蓮に怒られるで」


 白鬼が紅蓮を見る。


 紅蓮は無言で首を横へ振った。


「置いてきます……」


「乾いとる枝だけ残してくれたらええよ」


「どれが乾いてるの?」


「黒鬼に聞き」


「黒鬼、教えて」


「やっぱり、私が確認するんですね」


 黒鬼は枝を一本ずつ確かめ、使えるものだけを火の近くへ置いた。


 昼食が完成すると、全員が鍋を囲んだ。


 ハクの器にも同じ煮込みが入っている。


 肉の下には、小さく切られた野菜が隠されていた。


 ハクは一度匂いを嗅ぎ、顔を上げる。


『入っている』


「何がだ?」


『野菜だ』


「同じ鍋から分けたからな」


『肉だけにしろと言った』


「フェルンと一緒に洗った野菜だ。残すなよ」


 ハクがフェルンを見る。


 フェルンは自分の器を持ったまま、じっと見返している。


「一緒に洗った」


『俺は運んだだけだ』


「手伝ったから、食べる」


『意味が分からない』


「おいしいよ」


 フェルンが先に野菜を口へ入れる。


 ハクはしばらく迷った後、肉と一緒に野菜を食べた。


「食べた」


『肉の味しかしていない』


「でも食べた」


 フェルンは満足そうだった。


 その向かい側では、白鬼が自分の器から苦手な野菜を抜き出そうとしている。


 黒鬼がすぐに気づいた。


「白鬼」


「何?」


「今、何をしようとしました?」


「熱いから、端に置いただけ」


「冷めたら食べるんですね?」


「……たぶん」


「食べてください」


 白鬼はハクを見る。


 ハクも野菜を前にして、僅かに動きを止めている。


「ハク。一緒に食べよう」


『断る』


「私だけ怒られるの、不公平だよ」


『知らない』


「ハクも残したら、フェルンに怒られるよ」


 ハクがフェルンを見る。


 フェルンは何も言わず、じっと待っていた。


 やがてハクは野菜を飲み込む。


 白鬼も諦め、自分の器に残っていたものを口へ運んだ。


「食べたよ」


「最初から食べればいいんです」


 黒鬼が言う。


「黒鬼、褒めて」


「当然のことをしただけでしょう」


「ハクはフェルンに褒めてもらってるよ」


 フェルンはハクの首元を撫でている。


「白鬼も撫でてもらうか?」


 紅蓮が尋ねる。


「それは子供みたいだからいい」


「褒めてほしいと言っている時点で同じだろ」


「違うよ」


「どこがだ?」


「私はお姉ちゃんだから」


「またその話か」


 紅蓮が呆れたように息を吐く。


 白鬼と黒鬼の言い合いを聞きながら、シルフが声を立てて笑った。


 昨夜、土の勇者について話していた時の緊張は、今は見えない。


 シグマはそれを確かめた後、自分の器へ視線を戻した。


     ◇


 日が傾き始めるまで街道を進み、一行は森の手前に広がる草地で野営することにした。


 街道から近いが、周囲に他の旅人の姿はない。


 ハクが森の中を確認し、危険な魔物がいないことを確かめる。


 シグマと紅蓮は大型天幕を張り、白鬼と黒鬼が毛布を運ぶ。


 フェルンはハクの後をついて回り、寝る場所を探していた。


「ここ」


 フェルンが草の柔らかい場所を指さす。


『天幕で寝ろ』


「ハクと寝る」


『狭い』


「外は広い」


『そういう意味ではない』


「フェルン、小さい」


『知っている』


「なら大丈夫」


 フェルンはハクの返事を待たず、白銀の身体へ背中を預けた。


 ハクが一歩横へ移動する。


 フェルンも一緒に動く。


 さらにハクが移動する。


 フェルンも離れない。


『ついてくるな』


「一緒に寝る」


『まだ寝る時間ではない』


「場所、取ってる」


『誰も取らない』


「白鬼が来る」


 ハクの動きが止まった。


 少し離れたところでは、白鬼が毛布を抱えてこちらを見ている。


「私もハクの隣で寝ていい?」


『駄目だ』


「ハク、何て?」


「駄目だって」


 シグマが伝えると、白鬼は頬を膨らませた。


「フェルンはいいのに?」


『フェルンにも許可していない』


「フェルンも駄目だと言っている」


「もう場所、取った」


「フェルンは動く気がないみたいだよ」


『なぜ俺に聞いた』


「本当だな」


 結局、ハクが諦める形になった。


 フェルンはハクの前脚の間。


 白鬼は少し離れた横。


 黒鬼は白鬼が夜中に蹴られて転がらないよう、その隣で眠ることになった。


「紅蓮も来る?」


 白鬼が尋ねる。


「俺は天幕で寝る」


「シルフは?」


「うちも天幕や。ハクの毛、朝になったら服につきそうやし」


「暖かいよ?」


「それはちょっと羨ましいけどな」


 シルフは笑いながら、焚き火の上に鍋を置いた。


 野営の準備を終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。


 夕食後、シグマは焚き火から少し離れた場所に座り、気術の鍛錬を始める。


 今回は秘伝書を開かない。


 姿勢を整え、ゆっくりと呼吸を繰り返す。


 身体の内側にある気を感じ取り、それを全身へ巡らせる。


 右肩から義手へ。


 左肩から獣王石のある腕へ。


 これまで義手へ気を流そうとすると、途中で感覚が途切れていた。


 血の通う自分の腕ではない。


 そう意識した瞬間、気の流れまで別のものとして切り離してしまう。


 だが、今は両腕も自分の身体として使っている。


 義手になってからの記憶しかないシグマにとって、この両腕がない状態の方が想像できなかった。


 ならば、拒む必要はない。


 ゆっくりと息を吐く。


 僅かな気が右腕の内部へ流れた。


 制御腕輪が淡く光る。


 炎帝石が熱を帯びかけたため、すぐに流れを止める。


 完全に扱えたわけではない。


 それでも、以前より深い場所まで気を通すことができた。


「少し進んだみたいやな」


 背後からシルフの声がした。


 シグマは目を開ける。


「見ていたのか?」


「今来たところや。邪魔やった?」


「いや」


 シルフは隣へ腰を下ろし、焚き火の方を見る。


 白鬼と黒鬼は、ハクの横へ敷く毛布の位置を相談している。


 フェルンは既にハクへ寄りかかり、眠そうに目を擦っていた。


 紅蓮はノクスとソルの様子を確かめている。


「みんな、いつもどおりやな」


「ああ」


「うちだけ怖がっとるんが、少し恥ずかしくなるわ」


「怖がることは悪くない」


「シグマでも怖いこと、あるん?」


「ある」


「即答するんやな」


「何も恐れない人間は、危険を避けられない」


「そういう難しい話やなくてな。シグマが今、何を怖いと思っとるか聞きたいんよ」


 シグマは焚き火の近くにいる仲間たちへ目を向けた。


「力を制御できなくなることだ」


 シルフの表情から笑みが消える。


「炎帝石と獣王石か?」


「ああ」


「図書館で調べたことが、気になっとるんやな」


「獣王石が未来への失望を糧にするなら、俺が何を考えるかで周囲を巻き込む可能性がある」


「せやから、心を鍛えとるん?」


「それだけが理由ではないがな」


「シグマは、すぐ自分一人でどうにかしようとするなあ」


「制御するのは俺だ」


「でも、止めるんはうちらもできる」


「簡単に言うな」


「ハクと同じこと言うんやな」


 シグマは黙った。


 確かに、昼間に自分がハクへ返した言葉と同じだった。


 シルフが小さく笑う。


「うちが土の勇者を怖がった時、みんな一緒に行くって言うてくれた。せやから、シグマが怖い時もうちらに言うたらええ」


「言ったところで、どうにもならないこともある」


「どうにもならんでも、隣にはおれるで」


「……そうか」


「せや」


 シルフは立ち上がり、服についた草を払った。


「それに、もしシグマが暴走したら、うちが風で吹き飛ばしたる」


「隠すと決めたばかりだろ」


「今はグレイヴァルやないからええやん」


「そういう問題じゃない」


「冗談やって。シグマなら大丈夫や」


「根拠は?」


「うちが信じとる」


「それは根拠にならない」


「なら、ハクもフェルンも、紅蓮たちも信じとる。それで十分やろ?」


 シグマは答えなかった。


 だが、先ほどまで胸の奥にあった重さは、僅かに薄れている。


「戻るで。あんまり遅いと、フェルンが迎えに来るからな」


「ああ」


 二人が焚き火へ戻ると、フェルンはハクの前脚に挟まれたまま眠っていた。


 白鬼も毛布へ横になっている。


「ハク、ふわふわ……」


 眠そうに呟きながら、白鬼がハクの腹へ手を伸ばす。


 ハクは前脚で白鬼の身体を押し戻した。


「もう少しだけ……」


 再び近づく。


 もう一度押し戻される。


 そのやり取りを見ていた黒鬼が、白鬼の腰を掴んだ。


「諦めてください」


「でも、暖かいよ」


「蹴られますよ」


『既に蹴りたい』


「蹴りたいって言ってる」


 フェルンは目を閉じたまま通訳した。


「起きてたの?」


「寝てる」


「寝ながら話しとるで」


 シルフが笑う。


 紅蓮は白鬼をハクから引き離し、毛布の上へ戻した。


「いい加減に寝ろ」


「紅蓮も一緒に寝る?」


「寝ない」


「黒鬼は?」


「私はここにいます」


「じゃあ、手つないで」


「仕方ないですね」


 黒鬼が隣へ横になり、白鬼の手を握る。


 白鬼は満足したのか、すぐに目を閉じた。


「やっぱり、黒鬼は私のこと好きだよね……」


「はいはい」


「私は、お姉ちゃん……」


「分かりましたから、寝てください」


 しばらくすると、白鬼の寝息が聞こえ始めた。


 ハクの前脚の間では、フェルンも完全に眠っている。


 ハクは動けば二人を起こしてしまうため、その場から離れられなくなっていた。


『面倒だ』


「嫌なら、起こせばいい」


 シグマが言う。


『フェルンは一度眠ると起きない』


「なら、そのまま寝ろ」


『なぜ白鬼までいる』


「黒鬼が止めているから、もう近づかない」


『朝になったら追い払う』


「好きにしろ」


 ハクは不満そうに息を吐き、大きな頭を前脚の上へ載せた。


 その夜は何事もなく、静かに更けていった。


     ◇


 翌朝。


 白鬼の悲鳴で全員が目を覚ました。


「冷たい!」


 シグマが天幕から出ると、白鬼が草の上に座り込んでいた。


 髪も服も朝露で濡れている。


 少し離れた場所では、ハクが何事もなかったように身体を伸ばしていた。


「何があった?」


「ハクに落とされた!」


『起こしても起きなかった』


「起こしても起きなかったと」


「だからって、転がさなくてもいいでしょ!」


『朝になったら追い払うと言った』


「朝になったら追い払うと」


「私は聞いてないよ!」


「昨夜、俺には言っていた」


「なら、教えてよ!」


「お前は寝ていただろ」


 白鬼が濡れた髪を絞りながら、シグマを睨む。


 黒鬼が毛布を持って近づいた。


「風邪を引きますよ」


「黒鬼、ハクを怒って」


「何度も離れるように言いましたよね?」


「でも、最後はちゃんと黒鬼の隣で寝たよ」


「夜中に移動していました」


「覚えてない」


「寝ながらハクの方へ転がっていったんです」


「じゃあ、私のせいじゃないよ」


「寝相も白鬼の一部です」


 黒鬼は濡れた髪を拭きながら、深いため息をついた。


「着替えてください。出発が遅れます」


「黒鬼も手伝って」


「一人でできますよね?」


「寒い」


「仕方ないですね」


 黒鬼に連れられ、白鬼は天幕へ入っていった。


 その様子を見ていた紅蓮が、ハクへ視線を向ける。


「もう少し優しく起こせなかったのか?」


 ハクは紅蓮の言葉へ答えない。


 代わりにシグマの頭へ声が届いた。


『何度も尻尾で押した』


「何度も起こそうとはしたらしい」


「それで起きないから転がしたのか?」


『そうだ』


「まあ、白鬼も悪いな」


 紅蓮はそれ以上ハクを責めなかった。


 フェルンは何事もなかったように、ハクの背中へ寄りかかっている。


「フェルンは落とされなかったの?」


 着替えを終えた白鬼が尋ねる。


「落とされてない」


「どうして?」


『お前は寝相が悪い』


「寝相が悪いからだと言っている」


「フェルンだって動くでしょ?」


「動かない」


「ずっと同じ場所にいたの?」


「うん」


「ずるい……」


 白鬼は納得できない様子だったが、これ以上言っても味方は増えそうになかった。


 簡単な朝食を取り、野営道具を片づける。


 陽が昇る頃には、一行は再びグレイヴァルへ向けて進み始めた。


     ◇


 昼を過ぎると、街道を行き交う人の数が増えてきた。


 荷馬車だけでなく、武装した冒険者や兵士の姿もある。


 原生林へ近づいているためか、通り過ぎる者たちの装備は、これまでの村で見たものより頑丈だった。


 シルフは御者台から荷台へ移り、頭巾を深く被っている。


 弓は布に包んだまま、他の荷物の下へ隠した。


「息苦しくないか?」


 黒鬼が尋ねる。


「少し暑いけど、大丈夫や」


「無理をしないでください」


「街に入るまでや。宿が決まったら、部屋では外せる」


 白鬼がシルフの頭巾を覗き込もうとする。


「本当に顔、見えないね」


「白鬼、引っ張らんといてや」


「引っ張ってないよ」


「触っとるやん」


「どのくらい見えるのかなって」


「ほとんど見えへん」


「前は見える?」


「足元はな」


「危なくない?」


「せやから、街では誰かにくっついて歩く」


「じゃあ、私が手を引くよ」


「白鬼に任せたら、二人で店に吸い込まれそうやな」


「そんなことしないよ」


「信用できません」


 黒鬼が言い切った。


「黒鬼まで!」


「昨日、皆で決めたばかりでしょう。勝手に離れないって」


「シルフと一緒なら、一人じゃないよ」


「そういう意味ではありません」


「なら、黒鬼も一緒に来ればいいでしょ?」


「最初から全員で動くことになっています」


「じゃあ大丈夫だね」


 白鬼は納得したように頷く。


 黒鬼は何か言おうとしたが、諦めて口を閉じた。


「見えてきたぞ」


 御者台にいる紅蓮の声が聞こえた。


 シグマは前方へ目を向ける。


 街道の先に、高い石壁が見えていた。


 左右へ長く伸びた壁の向こうには、大小さまざまな建物の屋根が並んでいる。


 そのさらに奥には、深い緑に覆われた山々がそびえていた。


 山ではない。


 巨大な木々が幾重にも重なり、山のように見えているのだ。


 原生林だった。


「あれがグレイヴァルか」


「思ったより大きい街だな」


 紅蓮が目を細める。


 原生林へ入る者たちが集まる街なのだろう。


 城門の前には何台もの馬車が並び、街へ入る順番を待っていた。


 門の上や周囲の見張り台には、弓を持った兵士が立っている。


 セルカ村やネーベル村とは、警備の規模が違った。


 ハクは街道の脇で足を止めた。


『ここから離れる』


「どこで待つ?」


『北側の森にいる』


「原生林へ近づきすぎるなよ」


『分かっている』


「街へ入った後、一度様子を見に来る」


『必要ない』


「食事を持ってくる」


『肉を多くしろ』


「野菜も持ってくる」


『いらない』


「ハク」


 フェルンが呼ぶと、ハクは言葉を止めた。


「ちゃんと、待ってて」


『お前たちが遅いだけだ』


「行かない?」


『行かない』


「約束」


 フェルンが小指を差し出す。


 ハクはその意味が分からないのか、差し出された指を見つめた。


「小指、出して」


『無理だ』


「なら、鼻」


『なぜ鼻を出す』


「約束する」


 フェルンはハクの鼻先へ小指を触れさせた。


 ハクは嫌そうに顔を引いたものの、完全には避けなかった。


「約束した」


『していない』


「した」


『勝手に決めるな』


「夕方、行く」


『肉を忘れるな』


「野菜も」


『それはいらない』


 フェルンがハクの首へ抱きつく。


 ハクは少しの間だけ動かずにいた。


 やがて身体を離すと、街道脇の林へ入っていく。


 白銀の巨体は木々の間に紛れ、すぐに見えなくなった。


「さて」


 シグマはグレイヴァルの城門へ目を向ける。


「ここからは、昨日決めたとおりにする」


「うちは風の力を使わへん。勇者とも名乗らん。勝手に離れへん」


 シルフが指を折りながら確認する。


「土の勇者を見つけても、近づかない」


「分かっとる」


「様子を見に行こうともしない」


「信用ないなあ」


「これまでの行動を考えろ」


「今度こそ大丈夫や」


 シルフは外套の前を閉じ、顔が見えないよう頭巾を整えた。


「これなら、風の勇者には見えへんやろ?」


「少し怪しい旅人には見える」


「それはシグマも同じやん」


 シルフの視線が、シグマの黒い鬼面へ向く。


「俺は最初からこれだ」


「怪しさでは負けとるな」


「競うものではない」


 シルフは小さく笑った。


 声に僅かな緊張は残っている。


 だが、セルカ村で噂を聞いた時のように、表情を強張らせてはいなかった。


 馬車は城門の前に並ぶ列の最後尾へついた。


 順番を待つ間にも、何台もの馬車が反対側の門から出てくる。


 原生林で採れたらしい巨大な葉。


 見たことのない色をした木材。


 魔獣の素材が詰められた荷車。


 グレイヴァルが原生林と共に栄えてきた街であることが、外からでも分かった。


 やがて一行の順番が来た。


 門番が御者台のシグマと紅蓮を見上げる。


「旅の目的は?」


「原生林を抜けるためだ」


「通行許可証は持っているか?」


「ああ。ただし、今日は街へ入るだけだ」


 シグマは許可証ではなく、先に身分証牌を取り出した。


 門番はそれを確認し、荷台へ近づく。


「同行者の身分証も見せてくれ」


 紅蓮、白鬼、黒鬼が順番に身分証牌を差し出す。


 フェルンも首から下げていた身分証牌を両手で持ち上げた。


 最後に、シルフが外套の内側から身分証牌を出す。


 門番は一つずつ確認していく。


 シルフの番になった時、僅かに手が止まった。


 シグマたちの間に緊張が走る。


「ずいぶん深く頭巾を被っているな」


「昨日、日に焼けてもうてな。顔が痛いんよ」


 シルフがいつもの調子で答える。


「少し顔を見せてもらえるか?」


 シルフは黙って頭巾の端を持ち上げた。


 門番は身分証牌と顔を見比べる。


 その時間は、実際よりも長く感じられた。


「もういい」


 やがて門番が身分証牌を返す。


 シルフはすぐに頭巾を下ろした。


「原生林の調査が続いている。許可証を持っていても、勝手に入ることはできない」


「どこで手続きをすればいい?」


「街の中央にあるギルドだ。そこで最新の地図と、通行できる時間を確認してくれ」


「分かった」


「それと、今は調査隊が多くて宿が埋まりやすい。泊まるつもりなら、先に部屋を取った方がいいぞ」


「そうする」


 荷物も簡単に確認され、一行はグレイヴァルへの入街を許された。


 ノクスとソルが再び歩き始める。


 石造りの大きな門を抜けた瞬間、街の喧騒が一気に押し寄せてきた。


 道の両側には店が並び、冒険者や商人が行き交っている。


 武器や防具を扱う店。


 原生林で採れた薬草を並べた露店。


 巨大な魔獣の牙を軒先へ飾った素材屋。


 白鬼は興味を惹かれ、荷台の左右を忙しなく見回した。


「すごい! 見たことないものばっかり!」


「白鬼、身を乗り出さないでください」


「黒鬼、あれ見て! あの牙、私より大きいよ!」


「落ちますから、座ってください」


「あとで見に行こうよ」


「まずは宿です」


「宿の後ならいい?」


「皆と相談してください」


 いつもと変わらない二人のやり取りが続く。


 だが、シルフだけは頭巾の奥から周囲を慎重に窺っていた。


「大丈夫か?」


 シグマが小声で尋ねる。


「今のところはな」


「苦しくなったら言え」


「頭巾を被っとるだけやで」


「そういう意味じゃない」


 シルフは一瞬だけ黙り、柔らかく笑った。


「分かっとる。大丈夫や」


 一行は門番から教えられた宿屋通りへ向かう。


 大通りを進んでいると、前方に人だかりが見えた。


 道の端へ集まった住民たちが、同じ方向を眺めている。


 その間を縫うように、統一された外套を身につけた集団が歩いてきた。


 胸元には、勇者教の印がある。


「シルフ」


 シグマが小さく名前を呼ぶ。


「分かっとる」


 シルフは顔を伏せ、フェルンと黒鬼の間へ移動した。


 白鬼も騒ぐのをやめ、荷台の中央へ座り直す。


 紅蓮は御者台から前方の集団を警戒していた。


 勇者教の一団は、十人ほど。


 装備には土や枝葉の汚れがついている。


 原生林の調査から戻ったところなのだろう。


 その中央には、周囲の者たちよりも僅かに背の高い人影がいた。


 深い頭巾を被り、顔は見えない。


 外套の色は、乾いた大地を思わせる濃い茶色。


 腰には剣を下げていた。


「あれが……」


 白鬼が呟きかける。


「声を出すな」


 紅蓮が低く止めた。


 勇者教の一団と馬車の距離が近づく。


 周囲の住民たちは道を空け、遠巻きに彼らを見ていた。


 畏れ。


 好奇心。


 疑い。


 向けられる視線はさまざまだったが、歓迎している者は少ない。


 シグマは黒い鬼面の奥から、中央の人物を見つめた。


 土の勇者かどうかは分からない。


 ただ、周囲を歩く従者たちは、その人物を守るように陣形を組んでいる。


 集団が馬車の横を通り過ぎる。


 中央の人物が、ふと足を止めた。


 シグマの左腕が僅かに熱を帯びる。


 いや、熱ではない。


 獣王石の奥で、何かが小さく震えた。


 シグマは反応を悟られないよう、左手を外套の下へ隠す。


 土色の外套をまとった人物が、ゆっくりと馬車へ顔を向けた。


 頭巾の奥は暗く、表情までは見えない。


 視線がシグマを捉えているような気がした。


 数秒の沈黙。


 だが、その人物は何も言わなかった。


 従者の一人に呼ばれ、再び歩き始める。


 一団はそのまま大通りを進み、人混みの向こうへ消えていった。


 止まっていた馬車が、再び動き出す。


 誰もすぐには口を開かなかった。


「今のが、土の勇者か?」


 紅蓮が前を向いたまま尋ねる。


「分からん」


 シルフの声は小さかった。


「うちも、顔を見たことないからな」


「でも、こっちを見てたよね?」


 白鬼が声を潜める。


「ああ」


 シグマは外套の下で左手を握った。


 獣王石の震えは、既に収まっている。


 偶然だったのか。


 相手も何かを感じ取ったのか。


 今は確かめることができない。


「気づかれたんでしょうか」


 黒鬼が不安そうにシルフを見る。


「うちのことやったら、たぶん大丈夫や」


「どうして分かる?」


「一度も、うちを見とらんかった」


 シルフは頭巾の奥から、シグマへ顔を向ける。


「あの人が見とったんは、シグマや」


 紅蓮たちの視線が集まる。


「心当たりは?」


「ない」


 シグマは短く答えた。


 左腕のことも、今は話さない方がいい。


 人の多い大通りで立ち止まれば、かえって目立ってしまう。


「先に宿へ行くぞ」


 シグマが告げる。


「話は部屋に入ってからだ」


 誰も反対しなかった。


 馬車は人の流れに沿って、大通りを進んでいく。


 風の勇者であることは隠せた。


 土の勇者を名乗る者とも、言葉を交わさずに済んだ。


 それでも、何事もなくグレイヴァルへ入れたとは思えない。


 原生林へ続く街で、二つの覇王石が確かに反応した。


 その意味を知る者は、まだ誰もいなかった。

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