第三十二話 原生林への道
翌朝、シグマたちは宿を出て王城へ向かっていた。
朝の王都にはすでに多くの人々が行き交い、大通りには荷馬車の車輪が石畳を叩く音や、店を開く商人たちの声が響いている。
シグマたちは人の流れを避けながら、通りの先にそびえる王城を目指して歩いていた。
「いよいよやな」
シルフが王城を見上げながら口を開く。
「調査隊から問題ないって報告があれば、明日にでも王都を出られるんやろ?」
「ああ。その予定だ」
シグマは歩きながら答えた。
「ただ、旧街道が使えるからといって、原生林が安全になったわけじゃない。調査結果は細かいところまで確認しておきたい」
「魔獣の動きも気になるからな」
紅蓮が周囲を歩く人々へ目を向けながら言う。
「森にいる魔獣が増えてたり、縄張りを変えてたりしたら面倒だ。馬車で入ったあとに囲まれちゃ、逃げるのも難しくなる」
「ノクスとソルを危険な目には遭わせたくないね」
白鬼の言葉に、黒鬼も頷いた。
「馬車が通れる道幅だけでなく、休める場所が残っているかも確認したほうがいいですね。原生林の中で無理に進み続けることはできませんから」
「報告を聞けば、そのあたりも分かるだろう」
会話を続けているうちに、シグマたちは王城の正門へ到着した。
昨日のうちに話が通されていたため、門兵はシグマたちの身分証牌を確認すると、すぐに城内へ取り次いだ。
「こちらへ。陛下がお待ちです」
案内役の文官に従い、一行は長い廊下を進んでいく。
通されたのは、以前にも使われた会議室だった。
部屋の中央には大きな長机が置かれ、その上に王都から原生林までの地図が広げられている。
すでに国王と数名の重臣が席に着き、その向かいには旅装の上から軽装の鎧を身につけた者たちが並んでいた。
鎧や外套には、洗っても落としきれなかった泥の跡が残っている。
原生林の調査に加わっていた者たちだろう。
「来たか」
国王の声を受け、シグマたちは足を止めて頭を下げる。
「堅苦しい挨拶はよい。こちらへ来るがいい」
促されたシグマたちは長机へ近づいた。
地図には王都から原生林へ続く道だけでなく、その先にある旧街道も細かく描かれている。
「まずは原生林の調査結果から伝えよう」
国王が視線を向けると、調査隊を率いていたと思われる男性が一歩前へ出た。
「先日、原生林および旧街道の調査を終えました。結論から申し上げますと、現時点では大きな異常は確認されておりません」
男性は地図へ手を伸ばし、原生林の入り口から奥へ続く旧街道を指でなぞった。
「魔獣たちの様子にも、以前の調査から目立った変化はありません。生息数が急激に増えた形跡はなく、縄張りを大きく変えた個体も確認されませんでした」
「魔獣が街道へ出てくることは?」
シグマが尋ねる。
「小型の魔獣を数体確認しました。しかし、いずれも我々の姿に気づくと森の奥へ逃げています。人間や馬車を積極的に襲っている様子はありません」
「大型の個体はどうだ?」
今度は紅蓮が問いかける。
「旧街道の近くで新しい痕跡は見つかりませんでした。森の奥には強力な魔獣も生息していますが、今のところ縄張りから出てはいないようです」
調査隊の男性は、続いて旧街道の途中に置かれた複数の駒を動かした。
「街道そのものにも異常はありません。以前の調査で確認されていた倒木や土砂については、通行に支障が出ない範囲で除去しました。道幅が狭くなっている箇所はありますが、馬車一台であれば通行できます」
「車輪が埋まるような場所はあるのか?」
「数か所、地面の柔らかい場所があります。ただ、最近は大雨も降っていません。ノクスとソルほど体格のよい馬であれば、問題なく抜けられるでしょう」
シグマは地図に記された旧街道へ目を落とした。
「野営できる場所は?」
「旧街道沿いに、かつて商人たちが利用していた休息地が残っています。そのうち二か所を調査しましたが、今も使用できます。周囲の見通しも比較的よく、馬車を止められるだけの広さがあります」
「水場は近いですか?」
黒鬼の問いに、調査隊の男性が別の場所を指した。
「一つ目の休息地の近くには小川があります。ただし、原生林の中の水をそのまま飲むのは避けてください。煮沸するか、浄化の魔道具を使ったほうがよいでしょう」
「分かりました」
黒鬼は小さく頷いた。
「調査した範囲では、旧街道を通行することに問題はありません」
男性はそこで一度言葉を切り、シグマたちを見回した。
「ですが、原生林全体の安全を保証するものではありません。我々が確認したのは、あくまで旧街道とその周辺のみです。森の奥に何がいるのか、そのすべてを調べることはできませんでした」
「それで十分だ」
シグマは答えた。
「原生林に入ったあとは、俺たちで周囲を警戒する」
「森の中は魔力が濃く、感知を妨げられる場所もあります。魔力だけに頼らず、音や痕跡にも注意してください」
「覚えておく」
調査隊からの報告が終わると、重臣の一人が地図上に三つの駒を置いた。
「王都から原生林の入り口までは、馬車でおよそ一週間です」
最初に示されたのは、王都から伸びる街道の途中にある小さな村だった。
「王都を出て、最初に立ち寄ることになるのはセルカ村です。順調に進めば二日ほどで到着します」
そこから指が先へ進み、二つ目の村を示す。
「セルカ村からさらに二日ほど進んだ場所に、ネーベル村があります。規模はセルカ村と大きく変わりませんが、宿と小さな冒険者ギルドがあります」
「その先にあるのが、原生林の入り口にある都市か?」
「はい。大都市グレイヴァルです」
原生林の手前に描かれた都市は、二つの村よりもはるかに大きい。
「ネーベル村からグレイヴァルまでは二日から三日。天候や街道の状態にもよりますが、王都から六日か七日で到着できるでしょう」
王都からセルカ村まで二日。
セルカ村からネーベル村まで二日。
そこからグレイヴァルまで、さらに二日から三日。
順調に進めば、一週間ほどで原生林の入り口へ到着する。
「グレイヴァルに到着したら、冒険者ギルドではなく、先に守備隊の詰所へ向かってください。そこで通行許可証を見せれば、原生林と旧街道の最新情報を受け取れるよう手配します」
「分かった」
シグマが頷くと、国王が重臣へ目を向けた。
重臣は用意していた一枚の書状をシグマの前へ差し出す。
「これが旧街道の通行許可証だ。グレイヴァルの守備隊にも、すでに連絡を出している」
シグマは両手で書状を受け取った。
「ありがとうございます」
「調査結果に問題はなかった。お前たちは明日、王都を発つとよい」
これで原生林へ向かう準備は整った。
シグマが書状を荷物へ収めると、国王はそのまま話を続けた。
「次は、お前から報告を受けたい」
国王の視線が、シグマの左義手へ向けられる。
「王都の図書館で、覇王石について調べたそうだな。何が分かった?」
会議室の空気が僅かに重くなる。
紅蓮たちは口を挟まず、シグマの言葉を待った。
シグマは左義手へ目を落としたあと、国王へ向き直る。
「俺の左義手に使われている石は、獣王石と呼ばれる物でした。七つ存在する覇王石の一つです」
室内にいた重臣たちが小さくざわめく。
「獣王石が糧にするのは、未来への失望。その力は、周囲の人間や物を石化、あるいは結晶化させるものです」
「触れた物だけではないのか?」
「暴走すれば、周囲にも影響が広がる可能性があります」
「二百年前、土の勇者が引き起こした事件と同じ力か」
国王の問いに、シグマは頷いた。
「記録が正しければ、同じです。二百年前、火の勇者と土の勇者の争いによって、火の国と土の国の国境に結晶化した山脈が生まれました」
炎帝石が放った炎を、獣王石の力が結晶へと変えた。
その結果生まれた山脈は、二百年が過ぎた今も残り続け、立ち入りが禁じられている。
「その後、土の勇者が獣王石を暴走させ、多くの民が石化、あるいは結晶化したことも記されていました」
「お前の左腕にある物が、その獣王石だと断定できるのか?」
「図書館で記録を調べている最中、左義手の石が反応しました。魔力は流していません。制御リングも操作していませんでした」
国王はシグマの左義手を見つめ、僅かに眉を寄せた。
「制御はできるのか?」
「完全にできるとは言えません」
シグマは誤魔化さずに答えた。
「制御リングは、覇王石から引き出される力を抑えるための物です。暴走そのものを止められる保証はありません」
「では、どうするつもりだ?」
「獣王石が未来への失望を糧にするのなら、その感情に呑まれないことが重要だと考えています。気術で呼吸と心を整え、恐怖や不安を受け入れた上で、前を向く。それが今の俺にできる対策です」
「それだけで抑えられると?」
「分かりません。だから、これからも制御するための方法を探します」
国王は黙ったまま、シグマを見つめた。
やがて、その口から静かな問いが発せられる。
「もし、獣王石が暴走し、誰かを石化させてしまった場合はどうする?」
シグマは僅かに息を詰めた。
図書館で見つけた記録を思い出しながら、ゆっくりと答える。
「治療法は存在します」
「何?」
「過去に獣王石によって石化、結晶化した者たちは、シルトウォーデンの仙気によって治療されています」
今度は、重臣たちがはっきりと声を上げた。
「仙気だと?」
「シルトウォーデンに、そのような秘術があるのか?」
「現在も残っているとは限らないぞ」
「詳しい方法までは分かっていません」
シグマが続けると、重臣たちの声が収まる。
「記録に残されていたのは、獣王石による石化と結晶化が、シルトウォーデンの仙気によって治ったという事実だけです。誰が使ったのか、どのような術なのか、今も使い手がいるのかまでは記されていませんでした」
「それでも、実際に治った記録はあるのだな?」
「はい」
国王は背もたれへ身体を預け、しばらく考え込んだ。
やがて姿勢を戻すと、傍らに控えていた文官を呼ぶ。
「図書館だけに任せるな。国内の教会、治療院、魔術研究機関へ通達を出せ。獣王石による石化と結晶化、それを治した仙気に関する記録を探させろ」
「承知いたしました」
「シルトウォーデンにも正式な書状を送れ。王家や古い寺院に、仙気を用いた治療法が残されていないか確認するのだ」
「すぐに手配いたします」
「他国にも協力を求める。古い歴史書や暦書の中に、同じ事例が残されている可能性がある。覇王石に関する記録も合わせて調べさせろ」
文官は国王の命令を次々と書き留め、深く頭を下げた。
国王は改めてシグマへ視線を戻す。
「お前たちだけで調べられる範囲には限界がある。こちらでも可能な限り情報を集めよう」
「助かります」
「これは、お前一人の問題ではない。覇王石が今も世界のどこかに残され、再び使われる可能性があるのなら、放置はできぬ」
国王の判断は、シグマにとってありがたいものだった。
自分たちが旅を続けている間にも、各地で調査が進められる。
失われたと思われている治療法も、どこかに詳しい記録が残っているかもしれない。
「新しい情報が見つかった場合、旅の途中で立ち寄った冒険者ギルドから王都へ連絡を送ります」
「よかろう。こちらも情報が集まり次第、各地のギルドへ通達を出す。お前が身分証牌を示せば受け取れるようにしておこう」
「ありがとうございます」
話がまとまり、シグマたちは改めて頭を下げた。
◇
会議室を出たあと、文官に案内されて王城の正門へ戻る。
外へ出ると、昇った太陽が王都の街並みを明るく照らしていた。
城門から少し離れたところで、白鬼が大きく息を吐く。
「緊張したぁ……。王様の前って、何度来ても慣れないね」
「白鬼は途中から落ち着きがありませんでしたね」
黒鬼が静かに指摘する。
「動いてないよ」
「何度も立ち位置を変えていました」
「足が痺れただけ!」
「立っていたのにですか?」
「それくらい緊張してたの!」
「自分で認めましたね」
黒鬼が落ち着いた顔で返すと、白鬼は口を開いたまま固まった。
その様子を見て、フェルンが小さく笑う。
白鬼はすぐに黒鬼へ顔を向けた。
「最近、黒鬼がお姉ちゃんみたいな顔するのが不満なんだけど」
「そのようなつもりはありません」
「絶対してるよ! 今だって、私をからかう時だけ妙に余裕があるし!」
「それと、どちらが姉かは関係ないと思います」
「あるよ! 私がお姉ちゃんなんだからね!」
白鬼が胸を張る。
黒鬼は少し考えたあと、白鬼の服へ手を伸ばした。
「分かっています。ところで白鬼、服の留め具が一つ外れています」
「えっ?」
「動かないでください。今、直しますから」
黒鬼が外れていた留め具を直すと、白鬼は何も言えなくなった。
「終わりました」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
白鬼は礼を言ったあと、すぐに頬を膨らませる。
「だから、そういうところ! 黒鬼のほうがお姉ちゃんみたいになってる!」
「でしたら、次からは自分で確認してください」
「黒鬼の服も私が確認する!」
「お願いします」
「なんでそんなに余裕があるの!」
「確かに、どっちが姉か分からへんな」
シルフが笑いながら言う。
「シルフまでそんなこと言うの?」
「白鬼が姉なんは知っとるよ。ただ、黒鬼のほうがしっかりしとるだけや」
「私だって、ちゃんとしっかりしてるよ!」
「なら、明日から旅の食料を管理してみるか?」
紅蓮が口を挟むと、白鬼が勢いよく振り向いた。
「やる!」
「残りの量と、毎日使った分を全部覚えておくんだぞ。水と薬、それからノクスとソルの餌もだ」
「……黒鬼と一緒にやる」
「一人でやるとは言わねえんだな」
「姉妹なんだから、協力するのは当たり前でしょ!」
言い切った白鬼に、黒鬼が小さく笑う。
「では、私が確認しますね」
「黒鬼は手伝う側だからね! 私が中心だから!」
「はいはい」
「その返事もお姉ちゃんっぽい!」
二人のやり取りを聞きながら、シグマは王都の大通りへ目を向けた。
「明日の朝、王都を出る。今日は必要な物を買い揃えよう」
「原生林に入るなら、矢の材料も多めに欲しいな」
シルフが腰の矢筒へ手を添える。
「食料だけじゃなく、薬や馬車の備品も確認したほうがいいだろうな」
紅蓮の言葉に、シグマは頷いた。
「ああ。買い出しが終わったあと、残った時間は自由に過ごそう。原生林へ入れば、しばらくゆっくり休めない可能性がある。今日のうちに英気を養っておいたほうがいい」
「自由に過ごしていいの?」
白鬼が目を輝かせる。
「ああ。ただし、先に必要な物を揃えてからだ」
「じゃあ、買い出しが終わったらお菓子を見に行きたい!」
「買い過ぎないようにしてください」
黒鬼がすぐに口を挟む。
「ほら、またお姉ちゃんみたいに言う!」
「白鬼が買い過ぎなければ、何も言いません」
「私は黒鬼の分も選んであげようと思ったのに!」
「それなら、一緒に選びましょう」
黒鬼がそう答えると、白鬼は一瞬だけ目を丸くした。
「……うん。一緒に選ぶ」
先ほどまでの不満はどこへ行ったのか、白鬼の表情がすぐに明るくなる。
明日の出発を前にしても、姉妹の賑やかさは変わらない。
シグマは僅かに笑いながら、皆とともに王都の市場へ向かって歩き出した。
王都の市場は、昼を前にして多くの人々で賑わっていた。
通りの両側には食料品や日用品を扱う店が並び、その間にも色鮮やかな布を張った露店が所狭しと軒を連ねている。
呼び込みの声が絶え間なく飛び交い、荷物を抱えた人々が行き交う中を、シグマたちはまとまって進んでいった。
「まずは食料から揃える」
シグマは事前にまとめていた一覧へ目を落とした。
セルカ村までは二日ほどだが、その先にはネーベル村とグレイヴァルがあり、さらに原生林を抜けなければならない。
途中で補充できるとしても、村に必要な品が十分に揃っているとは限らない。
原生林で足止めされる可能性まで考え、余裕を持たせる必要があった。
最初に立ち寄った食料品店では、干し肉や硬焼きパン、乾燥させた野菜など、長く保存できる物を補充していく。
塩や香辛料の残りも確認し、不足していた分を買い足した。
白鬼と黒鬼は、買った品物の数を確認しながら袋へ収めている。
「干し肉が八袋で、硬焼きパンが十袋。乾燥野菜は……黒鬼、そっちは何袋?」
「六袋です」
「じゃあ、これで全部だね」
白鬼は手にしていた紙へ数を書き込み、満足そうに頷いた。
「どう? ちゃんとできてるでしょ?」
「塩を書き忘れています」
「……今から書こうと思ってたの」
「香辛料もです」
「それも今から!」
「文字を書く場所を間違えていますよ。そこは薬の欄です」
「分かってるってば!」
白鬼が慌てて書き直そうとすると、今度は紙を裏返してしまう。
黒鬼は何も言わず、その紙を元の向きへ戻した。
「もう! 黒鬼は黙って見ててよ!」
「白鬼が困っているように見えたので」
「困ってないよ。これは姉として、妹に仕事を教えてるところなの」
「私は何を教わっているんですか?」
「お姉ちゃんを立てる方法!」
「それは旅に必要ですか?」
「必要!」
白鬼が迷わず言い切る。
黒鬼は僅かに首を傾げたあと、それ以上は何も言わなかった。
その隣では、フェルンが口元を押さえて笑いを堪えている。
「フェルンまで笑ってる!」
「ご、ごめん。でも、二人とも仲がいいなって思って……」
「そうだよ。仲はいいよ」
白鬼は当然のように答えたあと、黒鬼の腕へ自分の腕を絡めた。
「私の妹だからね」
「先ほどまで怒っていたのでは?」
「怒ってても妹は妹でしょ?」
「そうですね」
黒鬼も白鬼の腕を振りほどくことなく、買った食料の確認へ戻った。
シグマは二人に食料の記録を任せ、紅蓮とともに店主への支払いを済ませる。
「これだけあれば、グレイヴァルまでは問題ねえだろ」
「ああ。原生林へ入る前に、向こうでもう一度補充する」
「水はどうする?」
「今ある容器をすべて満たす。予備の水袋も二つ追加しておこう」
食料品店を出た一行は、続いて旅道具を扱う店へ向かった。
そこでは新しい道具を増やすのではなく、使った分の補充と、傷み始めている備品の交換を行った。
切れかけていた予備の縄を買い替え、ランタン用の油や火口、雨除けの布を追加する。
馬車の予備部品も一つずつ確認し、車輪を固定するための金具を余分に買い足した。
シルフは店内の一角に並べられた木材を手に取り、一本ずつ曲がりや硬さを確かめていた。
「こっちは軽いけど、ちょっと軟らかすぎるなぁ……」
「矢に使うのか?」
シグマが尋ねる。
「せや。森の中でも作れるけど、原生林の木が矢に向いとるとは限らへんからな。今のうちに、何本か作れるだけの材料を持っていきたいんや」
シルフは別の木材を取り、片目を閉じて真っ直ぐかどうかを確かめる。
「これなら使えそうやな。少し削れば、ええ矢になると思う」
「必要なだけ選んでくれ」
「分かった。鏃と羽根も少し買い足してええか?」
「ああ」
シルフが矢の材料を選んでいる間、紅蓮は大剣の手入れに使う油と布を探し始めた。
黒鬼と白鬼も、自分たちの装備に不足がないか確かめている。
フェルンはシグマの近くに立ち、店内に並ぶ商品を珍しそうに眺めていた。
「欲しい物はないか?」
シグマに尋ねられ、フェルンは小さく首を横へ振る。
「大丈夫。腕輪も短剣もあるから」
フェルンは服の下に身につけた防御用の腕輪へ触れたあと、腰に収めた短剣を確認した。
「薬は足りてる?」
「このあと補充する予定だ」
「じゃあ、包帯も多めがいいと思う。原生林だと、すぐ町に戻れないかもしれないから」
「そうだな。薬屋で確認しよう」
旅道具を買い終えた一行は薬屋へ移動し、傷薬や解毒薬、包帯などを補充した。
強力な魔獣が生息する原生林では、どのような毒を受けるか分からない。
すべてに対応することはできないが、一般的な毒や虫に備えた薬もいくつか追加しておく。
その後、ノクスとソルの餌を扱う店にも立ち寄った。
街道沿いで草を食べさせることはできるが、それだけに頼るわけにはいかない。
原生林へ入れば、馬が口にしてよい植物なのか判断できない場合もある。
「これで必要な物は一通り揃ったな」
紅蓮が荷物を見回す。
買った品の一部は店から宿へ運んでもらい、すぐに必要な物だけをシグマたちが持っていた。
「まだ何か残ってる?」
白鬼が自分で書いた一覧を確かめる。
「食料、薬、矢の材料、ランタンの油、縄、雨除けの布、馬の餌……」
「水は宿へ戻ってからです」
黒鬼が付け加えた。
「分かってるよ。今から言うところだったの」
「そうですか」
「その顔、絶対に信じてないでしょ?」
「信じていますよ」
「なら、笑わないでよ!」
「笑っていません」
黒鬼の口元は、僅かに緩んでいる。
白鬼は納得できない様子だったが、書き終えた一覧を大切そうに折り畳んだ。
「今度はなくさないでくださいね」
「なくさないよ!」
「先ほど、一度落としかけていました」
「黒鬼が拾ったから大丈夫だったでしょ?」
「私がいなければ落としていました」
「だから、私が妹に仕事を与えてあげたの!」
「そういうことにしておきます」
「またお姉ちゃんみたいな言い方する!」
再び始まった二人のやり取りに、紅蓮がため息をつく。
「荷物の確認が終わったなら、好きにさせてやれ。今日くらいしか、ゆっくりできねえんだろ」
「ああ。ここからは自由に過ごしていい」
シグマが告げると、白鬼が勢いよく顔を上げた。
「じゃあ、お菓子!」
「結局、それなんやな」
「だって、王都には見たことのないお菓子がたくさんあるんだよ?」
白鬼は黒鬼の手を引き、近くの露店を指した。
そこでは、木の実と蜜を固めた菓子や、果物を焼き込んだ小さな菓子が売られていた。
「黒鬼、一緒に選ぶって言ったよね?」
「言いましたが、買い過ぎないでください」
「分かってるって。黒鬼が好きそうなのも選んであげる」
「白鬼が食べたい物ではなくて?」
「ちゃんと黒鬼の好きな物を選ぶよ。私、お姉ちゃんだから」
白鬼は得意げに胸を張ると、黒鬼を連れて露店へ駆けていった。
「走ると人にぶつかりますよ」
「黒鬼、早く!」
「分かりましたから、引っ張らないでください」
口では注意しながらも、黒鬼はどこか楽しそうに白鬼のあとをついていく。
フェルンが二人の背中を眺め、小さく笑った。
「本当に仲がいいね」
「昔からあんなもんだ」
紅蓮が肩をすくめる。
「白鬼は姉らしくしたがるくせに、最後には黒鬼に面倒を見られてる。黒鬼も文句を言いながら、結局は白鬼を放っておかねえ」
「ええ姉妹やん」
シルフが微笑む。
やがて白鬼と黒鬼は、菓子の入った紙袋を一つずつ抱えて戻ってきた。
「見て! 黒鬼が選んでくれた!」
「白鬼が食べたいと言った物を買っただけです」
「黒鬼の分は私が選んだよ!」
「ほとんど同じ物ですが」
「姉妹だから好きな物も似てるの!」
白鬼は嬉しそうに笑うと、紙袋から一つ取り出して黒鬼へ差し出した。
「はい。これは黒鬼の分」
「ありがとうございます」
「お姉ちゃんに任せれば大丈夫だからね」
「では、いただきます」
黒鬼が素直に受け取ったことで、白鬼はさらに満足そうな表情を浮かべた。
「フェルンも食べる?」
「いいの?」
「もちろん。ちゃんとフェルンの分も買ったよ」
「ありがとう」
白鬼はフェルンにも菓子を渡し、シルフと紅蓮の分まで袋から取り出した。
最後に残った一つを手に取り、シグマの前へ差し出す。
「シグマの分もあるよ」
「俺にもか?」
「みんなで食べたほうがおいしいでしょ?」
シグマは差し出された菓子を受け取った。
「ああ。ありがとう」
「どういたしまして!」
自分の分を配り終えた白鬼は、最後にもう一つの袋を開けた。
「自分の分は別に持ってたんかい」
シルフが呆れた声を上げる。
「これは明日から食べる分だよ」
「旅の途中で全部食べないようにしてくださいね」
「大丈夫だって。私が管理するんだから」
黒鬼の言葉に、白鬼が胸を張る。
「それが一番心配なんですが」
「黒鬼!」
白鬼の声と、皆の笑い声が市場の賑わいへ溶けていった。
◇
買い出しを終えたあと、シグマたちはそのまま王都を見て回ることにした。
明日の朝には、この街を離れる。
再び戻ってこられるとしても、それがいつになるのかは分からない。
市場を抜けた一行は、大通りを歩きながら王都の中央広場へ向かった。
広場の中心には、大きな噴水が設けられている。
その周囲には花壇や腰掛けが並び、大勢の人々が思い思いの時間を過ごしていた。
水辺では子供たちが走り回り、広場の端では吟遊詩人が楽器を奏でている。
「王都って、やっぱり広いなぁ」
白鬼が噴水の縁へ近づき、流れ落ちる水を見上げた。
「今まで通ってきた町とは、人の数が全然違うね」
「迷子にならないようにしてください」
黒鬼がすぐに声をかける。
「ならないよ。黒鬼こそ、私から離れないでね」
「どちらが迷子になると思っているんですか?」
「黒鬼」
「迷わず答えましたね」
白鬼は黒鬼の手を掴み、今度は自分が妹を守るように前を歩き始めた。
しかし、人の流れが多くなると、いつの間にか黒鬼のほうが白鬼を引いている。
フェルンはそれを眺めながら笑ったあと、シグマの隣へ並んだ。
「シグマは、王都を見なくていいの?」
「俺も今、見て回っている」
「でも、ずっと私たちを見てる」
言われて初めて、シグマは自分が街並みよりも仲間たちへ目を向けていたことに気づいた。
「誰かが人混みではぐれないか確認していただけだ」
「白鬼だけ見てれば大丈夫だと思う」
「なぜ白鬼だけなんだ?」
「一番先に迷子になりそうだから」
フェルンが真面目な顔で答える。
少し前を歩いていた白鬼が振り向いた。
「聞こえてるよ!」
「ご、ごめん!」
「フェルンまで私を子供扱いする!」
「違う。白鬼は、気になる物を見つけるとすぐ走っていくから……」
「それは白鬼が悪いな」
紅蓮が言う。
「紅蓮まで!」
白鬼が抗議する一方で、シルフは広場に響く音楽へ耳を傾けていた。
「ええ音やなぁ」
「知っている曲か?」
「知らん曲や。でも、こういう場所で聴くと落ち着くやろ?」
「ああ」
シグマたちは広場の一角にある腰掛けへ座り、しばらく吟遊詩人の演奏を聴いた。
旅を始めてから、立ち止まって音楽を楽しむ機会などほとんどなかった。
何かを警戒する必要もなく、次の目的地までの距離を考える必要もない。
ただ流れる音へ耳を傾けているだけの時間が、今は妙に穏やかに感じられた。
演奏が終わると、白鬼とフェルンが真っ先に拍手を送る。
周囲の人々も続き、広場は大きな拍手に包まれた。
その後も一行は、大通りに並ぶ店を覗きながら王都を歩いた。
珍しい装飾品を眺め、露店で飲み物を買い、城下を一望できる高台にも足を運ぶ。
高台からは、王城を中心に広がる街並みと、その外側を囲む城壁まで見渡すことができた。
「すごい……」
フェルンが感嘆の声を漏らす。
遠くには、明日進むことになる街道も見えている。
今はまだ細い線にしか見えない道が、セルカ村とネーベル村を経て、原生林の入り口にあるグレイヴァルまで続いている。
「明日から、また旅が始まるんだね」
「ああ」
シグマは街道の先へ目を向けた。
「まずはセルカ村を目指す。原生林のことを考えるのは、グレイヴァルへ着いてからでいい」
「ハクとも合流するんやろ?」
シルフが楽しそうに尋ねる。
「ああ。王都を出たあと、待たせている森へ迎えに行く」
「やっと会えるなぁ。王都に入ってから、普段は別々やったもんな」
「ハクなら心配はいらない」
そう答えながらも、シグマも早くハクと合流したいと思っていた。
王都へ入る前に別れてから、数日が過ぎている。
念話で無事は確認しているが、直接顔を見るのとは違う。
「ハクも一緒なら、原生林でも安心だね」
白鬼が明るく言う。
「油断はできませんよ」
黒鬼が答える。
「分かってるよ。でも、ハクがいると心強いでしょ?」
「それは同感です」
「ほら、私たち意見が合った!」
「姉妹ですから」
黒鬼の返事を聞き、白鬼は嬉しそうに笑った。
それからもしばらく高台の景色を楽しみ、日が傾き始める前に宿へ戻ることにした。
◇
宿へ戻ると、店から届けられていた荷物が馬車の近くへまとめられていた。
シグマたちは手分けして買った物を確認し、明日の朝すぐに出発できるよう馬車へ積み込んでいく。
食料と薬は取り出しやすい場所へ。
予備の縄や馬車の部品は奥へ。
雨除けの布やランタンは、必要になった時にすぐ取り出せる位置へ収める。
ノクスとソルの様子も確認したが、二頭とも体調に問題はなかった。
毛並みは整えられ、蹄にも異常はない。
王都で十分に休むことができたため、長旅の疲れも抜けているようだった。
「こっちは終わったぞ」
紅蓮が馬車の荷台から降りる。
「食料も全部載せたよ!」
白鬼が一覧を掲げた。
「私が数えたから間違いないよ!」
「私も確認しました」
黒鬼が続ける。
「黒鬼は確認しただけだからね。数えたのは私!」
「はい。分かっています」
「その言い方、子供を褒めてるみたい!」
「白鬼がしっかり数えてくれたので助かりました」
「……本当に?」
「本当です」
黒鬼が頷くと、白鬼は少し照れたように鼻の下をこすった。
「まあ、私がお姉ちゃんだからね。これくらいはできるよ」
「では、明日からもお願いします」
「任せて!」
白鬼は張り切って答えたあと、ふと一覧へ目を落とした。
「……黒鬼も一緒にやってね?」
「もちろんです」
黒鬼の返事を聞き、白鬼は安心したように笑った。
すべての荷物を積み終える頃には、王都の空が夕焼けに染まり始めていた。
あとは一晩休み、明日の朝を待つだけだ。
シグマは馬車の荷台を閉じ、固定した縄を引いて緩みがないことを確かめた。
原生林へ続く、新たな旅が始まる。
その先で何が待っているのかは分からない。
それでも今夜だけは、王都で過ごす最後の穏やかな時間を、仲間たちとともに過ごすことにした。
◇
翌朝。
空が白み始めた頃には、シグマたちは出発の準備を終えていた。
前日のうちに買い揃えた食料や旅道具は、すでに馬車へ積み込んである。
残っていた水袋を満たし、最後に荷台の縄が緩んでいないかを確かめれば、準備は完了だった。
シグマは馬車の周囲を一周し、車輪や車軸に異常がないことを確かめる。
紅蓮はノクスとソルへ馬具を取り付け、その締まり具合を一つずつ調べていた。
「こっちは問題ねえぞ」
「ああ」
シグマは宿の主人へ部屋の鍵を返し、残っていた宿代を支払った。
「長い間、お世話になりました」
「こちらこそ。また王都へ来ることがあれば、ぜひ立ち寄ってください」
宿の主人はそう答え、馬車のそばに立つ一行を見回した。
「原生林へ向かうと聞きました。どうかお気をつけて」
「ありがとうございます」
シグマが頭を下げると、フェルンも隣で小さく頭を下げた。
「行ってきます」
「ああ。元気でな」
宿の主人に見送られながら、一行は馬車へ乗り込んだ。
御者台にはシグマが座り、その隣へフェルンが腰を下ろす。
紅蓮、白鬼、黒鬼、シルフは後ろの客室へ乗り込んだ。
全員が乗ったことを確認し、シグマは手綱を握る。
「行くぞ」
手綱を軽く動かすと、ノクスとソルがゆっくりと歩き始めた。
馬車が宿の敷地を出て、王都の大通りへ入る。
朝早い時間にもかかわらず、道にはすでに多くの人々が行き交っていた。
市場へ品物を運ぶ荷馬車。
店先を掃除する商人。
門の外へ仕事に向かう者たち。
その間を縫うように、馬車は王都の外門を目指して進んでいく。
フェルンは御者台から街並みを眺めていた。
「人が多いね」
「ああ。ぶつからないように、しばらくゆっくり進む」
「うん」
後ろの客室から白鬼の声が聞こえてくる。
「王都ともお別れかぁ。もっと見て回りたかったな」
「昨日、十分に歩いたでしょう」
「まだ行ってない場所がたくさんあったよ」
「白鬼の場合、町がどれだけ小さくても同じことを言うと思います」
「そんなことないよ。小さな村なら、全部見て回れるもん」
「その途中で気になる店へ入り、出てこなくなるんでしょう?」
「ちゃんと出てくるよ!」
「お菓子を買い終わったら、ですよね」
「当たり前でしょ?」
「やはり同じではありませんか」
黒鬼の指摘に、白鬼はしばらく黙り込んだ。
やがて客室の小窓から顔を出し、御者台にいるフェルンへ声をかける。
「フェルンは、もっと見たかった場所ある?」
フェルンは少し考えてから、首を横へ振った。
「ない。昨日、みんなで見られたから十分」
「そっか」
「白鬼は?」
「私は全部!」
「それは無理だと思う」
「フェルンまで黒鬼みたいなこと言う!」
客室からシルフの笑い声が響いた。
賑やかな声を聞きながら馬車を進めているうちに、王都の外門が近づいてきた。
城壁を出入りする者たちが並んでいたが、出口側の列はそれほど長くない。
順番が来ると、シグマは門兵へ身分証牌を見せた。
「原生林へ向かわれる一行ですね」
「ああ」
門兵は王城から発行された書状を確認し、シグマへ返した。
「話は聞いております。グレイヴァルまでの街道では、現在、大きな問題は起きていません。ただ、王都から離れるほど魔獣が姿を見せるようになります。お気をつけください」
「分かった」
門兵が道を空け、閉じられていた柵が持ち上げられる。
シグマは手綱を動かし、ノクスとソルを前へ進ませた。
馬車が城門をくぐる。
厚い城壁の下を抜けた先には、朝日に照らされた草原と、遠くまで続く街道が広がっていた。
王都を囲んでいた建物は次第に少なくなり、代わって畑や牧草地が増えていく。
目的地はセルカ村。
順調に進んでも、到着は明日の夕方になる。
今日は日が暮れる前に野営地を探さなければならない。
「まずはハクと合流する」
シグマは街道の先へ目を向けた。
王都を出る前に念話で呼びかけ、今朝迎えに行くことは伝えてある。
ハクが待っているのは、街道から少し離れた森だった。
「もう近くまで来とるん?」
シルフが客室から身を乗り出す。
「森で待っているはずだ」
「早く会いたいなぁ」
「昨日も会いに行ったでしょ?」
白鬼が言う。
「それとこれとは別や。今日からは、また一緒に旅できるんやで?」
「シルフは本当にハクが好きだね」
「当たり前やん。あんな綺麗な白い毛並みのレッサーフェンリル、ほかにはおらんもん」
「触り過ぎて嫌がられないようにしてくださいね」
「分かっとるって」
黒鬼に注意され、シルフは客室へ引っ込んだ。
街道をしばらく進んだあと、シグマはノクスとソルを脇道へ向けた。
草に覆われた道を進むと、前方に木々の生い茂る森が見えてくる。
森の手前で馬車を止め、シグマは御者台から降りた。
「ここで待っていてくれ」
「私も行く」
フェルンもすぐに御者台から降りる。
「遠くへは行かない。すぐ戻る」
「それでも行く」
フェルンはシグマの隣へ並んだ。
その直後、客室の扉が開き、白鬼と黒鬼、シルフまで降りてくる。
「私たちも行くよ」
「せっかく迎えに来たんや。みんなで行ったほうがええやろ?」
「馬車は俺が見てる。さっさと行ってこい」
紅蓮だけが御者台へ移り、ノクスとソルの手綱を受け取った。
「分かった。行くぞ」
シグマたちは森へ足を踏み入れた。
街道に近いこともあり、木々の間には朝の光が差し込んでいる。
魔獣の気配はなく、聞こえてくるのは鳥の声と、風に揺れる葉の音だけだった。
シグマは足を止め、意識を集中させる。
『ハク。近くまで来た』
念話で呼びかけると、すぐに返事が届いた。
『分かっている』
声が聞こえた直後、前方の茂みが僅かに揺れた。
木々の隙間から、白い巨体が静かに姿を現す。
「ハク!」
白鬼が真っ先に声を上げた。
ハクは一行の前まで歩いてくると、落ち着いた様子で足を止めた。
『王都での用は済んだのか』
その声が届いたのは、シグマとフェルンだけだった。
「ああ。原生林を通る許可が下りた。今日からグレイヴァルへ向かう」
『そうか』
ハクは短く答えたあと、シグマの両腕へ視線を向けた。
『石についても、さらに調べられたのか』
「分かったことはある。詳しい話は、今日の野営で話す」
『承知した』
そのやり取りを終えると、フェルンがハクの前へ進んだ。
「ハク、待たせてごめんね」
『気にする必要はない。こちらはこちらで、静かに過ごせた』
「寂しくなかった?」
『お前たちとは毎日会って話していただろう』
「それでも、寂しい」
フェルンが素直に言うと、ハクは僅かに目を細めた。
『今日からは、また同じ道を進む』
「うん」
フェルンの表情が明るくなる。
「ハク、昨日ぶりやな!」
シルフも待ちきれない様子で近づいた。
「触ってもええ?」
ハクはすでに伸ばされているシルフの手を見たあと、シグマへ視線を向けた。
『断る前から触れる気だろう』
シグマは僅かに苦笑する。
「嫌なら離れさせる」
『今さらだ。好きにさせておけ』
「ハクは嫌じゃないみたいだ」
「ほんまに?」
「ああ」
「やった!」
シルフがハクの首元へ両腕を回す。
白鬼もすぐに反対側へ回った。
「私も!」
「二人とも、強く抱きつかないでくださいね」
そう言いながらも、黒鬼もハクの白い毛並みへそっと触れる。
ハクは騒ぐ三人を追い払うことなく、その場に立っていた。
やがてシグマへ、呆れの混じった声が届く。
『迎えに来たのではなかったのか』
「そうだったな」
シグマはハクの言葉を受け、三人へ声をかけた。
「そろそろ戻るぞ。このままだと、いつまで経っても出発できない」
「もう少しだけええやろ?」
「これからは一緒に旅をする。今でなくても触れられる」
「それもそうやな」
シルフが納得してハクから離れる。
白鬼と黒鬼も毛並みから手を離した。
一行が馬車へ戻ると、紅蓮が御者台から声をかける。
「ずいぶん遅かったな」
「白鬼とシルフが、ハクから離れなかったんです」
黒鬼が答えた。
「黒鬼も触ってたでしょ?」
「私は少しだけです」
「そういうところだけ自分を外すんやな」
「事実を伝えただけです」
「全員、乗れ。今日中に進めるだけ進む」
シグマの言葉を受け、白鬼たちは客室へ戻った。
フェルンが御者台へ座り、紅蓮も後ろへ移動する。
ハクは馬車へ乗らず、その隣へ並んだ。
「速度は大丈夫か?」
『誰に聞いている』
ハクはそう答えると、先に街道へ向かって歩き始めた。
シグマも御者台へ戻り、ノクスとソルを進ませる。
再び街道へ出た馬車は、セルカ村を目指して進み始めた。
◇
王都から離れるにつれ、道を行き交う人の数は少なくなっていった。
午前中は何台かの荷馬車とすれ違ったが、昼を過ぎる頃には、見えるのは広い草原と街道だけになっていた。
空は晴れ、風も穏やかだった。
街道の状態もよく、馬車は順調に進んでいる。
ハクは馬車の少し先を歩き、時折、道の両側へ視線を向けていた。
シグマも周囲の気配を探っているが、近くに魔獣はいない。
「王都に入る時とは、反対だね」
隣に座るフェルンが口を開いた。
「何がだ?」
「あの時は、遠くに王都が見えて、だんだん大きくなった。今は、どんどん小さくなってる」
シグマが振り返ると、遠くに王都の城壁が見えた。
朝にはあれほど大きかった王城も、今は街並みの中に浮かぶ小さな影になっている。
「寂しいのか?」
「少しだけ。でも、ハクもいるから大丈夫」
フェルンは街道を歩くハクへ目を向けた。
「それに、シグマもいる」
「ああ」
「今度は、どんな村かな」
「セルカ村か?」
「うん」
「王都で聞いた話では、街道沿いにある農村らしい。周囲には畑が多いそうだ」
「食べ物、おいしいかな」
「白鬼みてえなこと言ってんな」
客室の小窓から紅蓮が顔を出す。
「聞こえてるよ!」
白鬼の声が、その後ろから飛んでくる。
「おいしい物があるか気になるのは普通でしょ?」
「まだ王都を出て半日も経ってねえぞ」
「セルカ村に着くのは明日なんだから、今から考えてもいいでしょ?」
「その前に、今日の食料を管理するんじゃなかったのか?」
「あっ」
客室の中が静かになった。
やがて白鬼が荷物を動かす音が聞こえ始める。
「黒鬼、今日のお昼に使った分って、もう書いた?」
「書いてあります」
「なんで黒鬼が書いてるの?」
「白鬼が忘れていたからです」
「忘れてたんじゃなくて、あとで書こうと思ってたの!」
「そのまま夕方まで忘れていたと思います」
「忘れないよ!」
「では、夕食の分は白鬼が書いてください」
「任せて!」
白鬼の元気な返事に、紅蓮が苦笑しながら客室へ戻った。
その後も馬車は大きな問題なく街道を進み続けた。
一度だけ草原の奥に小型の魔獣が姿を見せたが、ハクに気づくと、すぐに走り去っていった。
戦闘になることもなく、太陽は少しずつ西へ傾いていく。
シグマは空の色と周囲の地形を確認した。
このまま進めば、日が沈む前に小さな林へ到着する。
地図によれば、その近くには水場があった。
『この先に、野営できそうな場所がある』
前を歩いていたハクから念話が届く。
『街道から少し離れているが、周囲の見通しは悪くない。水の匂いもする』
「分かった。今日はそこで休む」
シグマは後ろの客室へ声をかけた。
「もうすぐ野営にする。準備しておいてくれ」
「分かった」
紅蓮の返事が聞こえる。
しばらく進むと、街道の脇に低い草の生えた空き地が見えてきた。
奥には細い木々が並び、その向こうから水の流れる音が聞こえている。
シグマは周囲を確認しながら、馬車を街道から外した。
地面は乾いており、ノクスとソルの脚が沈む様子もない。
馬車を止めると、全員が外へ降りた。
「今日はここで野営する」
「まだ少し明るいな」
紅蓮が西の空を見上げる。
「ああ。暗くなる前に準備を終わらせる」
「なら、俺は薪を集めてくる」
「うちは周りを見てくるわ。水場も確かめたいしな」
シルフが弓を持って林へ目を向ける。
ハクもその方向へ顔を向けたあと、シグマへ念話を送った。
『私も周囲を見てくる』
「ああ。頼む」
シグマはシルフにも声をかけた。
「ハクも一緒に行く。あまり遠くへは行くな」
「分かっとる」
シルフとハクが水場の確認へ向かい、紅蓮も近くの林へ入っていく。
残ったシグマたちは、馬車から野営道具を降ろし始めた。
「白鬼、そちらを持ってください」
「私が指示しようと思ってたのに」
「では、指示をお願いします」
「えっと……黒鬼は、そっちを持って」
「分かりました」
「フェルンは、その小さい袋をお願い」
「うん」
「私はこれを運ぶ!」
白鬼が一番大きな袋へ手を伸ばす。
持ち上げようとした瞬間、その身体が僅かに傾いた。
「白鬼、無理をしないでください」
「これくらい持てるよ!」
「二人で運びましょう」
「でも、私がお姉ちゃんだから……」
「姉妹なら、協力するのが当たり前なのでしょう?」
黒鬼に自分の言葉を返され、白鬼は何も言えなくなった。
「……うん。じゃあ、そっち持って」
「はい」
二人は袋の端をそれぞれ持ち、息を合わせて運び始めた。
フェルンも小さな袋を抱え、そのあとへ続く。
シグマはノクスとソルの馬具を外し、水と餌を与えた。
二頭の身体を確かめたが、疲れはあるものの、脚や蹄に異常はない。
「シグマ、こっちは運び終わった」
フェルンが空になった両手を見せる。
「分かった。次は寝床の準備を手伝ってくれ」
「うん」
日が沈み始める頃には、野営の準備はほとんど終わっていた。
紅蓮が集めた薪で火を起こし、白鬼と黒鬼が夕食を作り始める。
しばらくして、シルフとハクも戻ってきた。
「周りに魔獣の気配はなかったで。小川も濁っとらんかった」
シルフの報告を聞きながら、シグマはハクへ視線を向ける。
『上流にも異常はない。ただし、念のため火を通したほうがよい』
「分かった。飲み水は持ってきた物を使う。川の水は洗い物に回そう」
「そのほうがええな」
シルフはシグマの判断に頷いた。
鍋の中では、干し肉と乾燥野菜を煮込んだスープが湯気を立てていた。
香辛料の匂いが辺りへ広がり、白鬼が木匙で中身を混ぜながら味を確かめる。
「うん。おいしい」
「味見は一度で十分です」
黒鬼が言う。
「まだ一回しかしてないよ」
「先ほども食べていました」
「あれは硬さを確かめただけ!」
「煮込んでいる途中の野菜を食べて、何の硬さを確かめるんですか?」
「ちゃんと火が通ってるかどうか」
「それを味見と言うんです」
「私が料理を見てるんだから、必要なの!」
白鬼が胸を張る。
黒鬼は何か言おうとしたが、鍋の中を一度確かめると、それ以上は追及しなかった。
「味は問題ありません。器を用意しましょう」
「私が配る!」
「こぼさないでくださいね」
「大丈夫だよ。今日は一回も失敗してないでしょ?」
「一覧を落としかけていました」
「落としてないから失敗じゃないよ!」
二人のやり取りを聞きながら、シグマたちは焚き火を囲んだ。
白鬼が一人ずつ器を渡し、最後に黒鬼の隣へ座る。
「食料の記録も忘れてないよ」
白鬼は折り畳んでいた一覧を取り出し、黒鬼へ見せた。
「夕食に使った分、ちゃんと書いたから」
「本当ですね」
「どう? お姉ちゃんらしいでしょ?」
「はい。今日は助かりました」
黒鬼が素直に認めると、白鬼は目を丸くした。
すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべ、黒鬼の肩へ寄りかかる。
「もっと頼っていいんだよ?」
「明日も忘れずにお願いします」
「任せて!」
白鬼は勢いよく返事をすると、配られたスープを食べ始めた。
「おいしい!」
「自分で何回も味見してたやろ」
シルフが笑う。
「みんなで食べたほうがおいしいの!」
王都を出てから、最初の夜。
焚き火を囲む一行のそばには、再びハクの姿があった。
魔獣に襲われることもなく、馬車に異常が出ることもなく、予定どおり街道を進むことができた。
それだけで十分だった。
食事を終えたあと、シグマは王都の図書館で知った獣王石のことを、改めて皆へ説明した。
ハクにも伝わるよう、獣王石が未来への失望を糧にすることや、石化と結晶化の力を持つことを順番に話していく。
そして、シルトウォーデンの仙気によって治療された記録が残っていたことも伝えた。
ハクはシグマのそばに伏せ、黙って話を聞いていた。
『治す術があると分かっただけでも、意味はある』
ハクの声が届いたのは、シグマとフェルンだけだった。
「ああ。だが、詳しい方法は分かっていない」
『ならば、探せばよい』
ハクは迷いなく答えた。
『分からぬことが一つ増えたところで、今までと変わらない。一つずつ確かめていけばよい』
「そうだな」
「ハク、何て言ったの?」
白鬼がシグマへ尋ねる。
「詳しい方法が分からないなら、これから探せばいい。一つずつ確かめればいいと言っている」
「うん。ハクの言うとおりだよ」
白鬼は力強く頷いた。
「私たちも一緒に探すからね。シグマ一人のことじゃないよ」
「そうですね。私たちにも関係のあることです」
黒鬼も続く。
「使い方が分からん力なら、分かるまで調べればええ。王様も動いてくれとるんやし、何か見つかるやろ」
「一人で抱え込むんじゃねえぞ」
紅蓮が念を押す。
「シグマが探すなら、私も探す」
フェルンは短く言い、シグマの左義手へ自分の手を重ねた。
『私も同じ道を進む』
ハクの声が、続けてシグマとフェルンへ届く。
フェルンはその言葉を聞き、ハクへ顔を向けた。
「うん。ハクも一緒」
その小さな手から伝わる温かさを感じながら、シグマは皆を見回した。
「ああ。分かっている」
夜が深まり、焚き火の向こうには無数の星が広がっていた。
明日には、最初の目的地であるセルカ村へ到着する。
その先にはネーベル村とグレイヴァル。
そして、旧街道の通る原生林が待っている。
何が起こるのかは、まだ誰にも分からない。
それでもシグマたちは、再び同じ道を進み始めていた。




