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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第三十一話 覇王石

王都図書館の制限区画で、シグマとシルフは覇王石に関する古い文献を調べていた。


 その中で見つけたのは、覇王石が自らの持ち主を選ぶと記された一節だった。


 ――石が選ぶのは、己の力に耐え得る器である。


 その文章を読んだ直後、シグマの左義手に宿る獣王石が微かに震えた。


 何に反応したのか確かめる間もなく、静まり返った制限区画の奥から異変を知らせる音が響いた。


木箱の中から、何か硬いものが擦れる音がした。


 シグマとシルフは、同時に息を止めた。


 広い制限区画に響いたのは、ほんの僅かな音だった。


 だが、誰も触れていない木箱の中から聞こえた以上、聞き間違いでは済ませられない。


「……今の、聞こえたよな?」


「聞こえた。せやけど、シグマは触っとらんよな?」


「ああ」


 シグマは木箱から目を離さないまま、左義手を胸元へ引き寄せた。


 獣王石が埋め込まれている箇所から、弱い振動が伝わってくる。


 痛みはない。


 力が溢れ出そうとしている様子もない。


 それでも、左義手の奥に存在する何かが、木箱の中身へ呼びかけるように脈打っていた。


「獣王石が、あれに反応している」


「近づかん方がええんちゃう?」


「そうしたいが……」


 シグマは木箱の蓋へ目を向けた。


 そこには古びた金属板が打ちつけられている。


 表面を覆っていた埃を指先で拭うと、掠れた文字が現れた。


 シルフが横から覗き込み、小さく読み上げる。


「覇王石……災禍記録?」


 二人の声を聞きつけ、少し離れた場所で目録を確認していた司書が近づいてきた。


「何かありましたか?」


「この箱の中から音がした」


「音、ですか?」


 司書は訝しげに眉を寄せ、木箱を調べ始めた。


 蓋や留め金に壊された痕跡はない。


 箱の周囲にも、何らかの魔術を仕掛けた形跡は見当たらなかった。


 しかし、シグマの左義手が微かに震えるたび、木箱の中から金属同士が触れ合うような音が返ってくる。


 司書の視線が、シグマの左腕へ向けられた。


「その腕が、箱の中にあるものへ反応しているのですか?」


「おそらくは」


「少し離れていただけますか」


 シグマが数歩後ろへ下がる。


 それだけで左義手の振動は弱まり、木箱の中から聞こえていた音も止まった。


 今度は一歩だけ近づく。


 再び、かすかな音が鳴った。


「間違いないみたいやな」


 シルフの表情から、先ほどまでの軽さが消える。


 司書も事態を理解したのか、すぐには木箱を開けようとしなかった。


「この箱は、覇王石によって引き起こされた災害の記録を収めたものです。王家の許可なく閲覧することはできません」


「俺たちが受けた許可は、覇王石に関する資料の閲覧だったはずだ」


「確かに、そのとおりです」


 司書は王城から届けられた許可証を、もう一度確認した。


 やがて覚悟を決めたように頷くと、腰から鍵束を取り出す。


「ただし、箱の中に何が収められているのか、私にも分かりません。目録によれば、二百年以上前に封じられて以来、一度も開けられていないことになっています」


「二百年以上……」


 シグマは左義手を見下ろした。


 その年月には覚えがあった。


 先ほど読んだ古文献には、約二百年前、火の勇者と土の勇者が争ったと記されていた。


 そして、その記述を目にした直後、獣王石が反応した。


「シグマ」


 シルフが静かに呼びかける。


「嫌な予感がするなら、今からでもやめられるで」


「いや、調べる」


 シグマは迷わず答えた。


「この腕が何に反応したのか、知らないままにはできない」


 司書が鍵を差し込む。


 錆びついた錠は、一度では動かなかった。


 何度か力を込めて回すと、乾いた音を立てて錠が外れる。


 続いて、蓋へ巻きつけられていた鎖が解かれた。


「開けます」


 司書が慎重に蓋を持ち上げる。


 箱の中から、古い紙と革が混ざった独特の匂いが流れ出した。


 収められていたのは、分厚い一冊の本だった。


 黒ずんだ革で覆われた表紙には、題名らしき文字がない。


 その本の下には、円形の金属板が敷かれていた。


 金属板には七つの小さな窪みが刻まれ、そのうち一つだけに灰色の欠片が収められている。


 左義手の振動に合わせ、金属板の上でその欠片が細かく揺れていた。


「石……なんか?」


「いや」


 シグマは目を凝らした。


「力は感じない。魔石でもなさそうだ」


 司書が箱の内側に残されていた目録を確認する。


 そこに書かれた文字を追ううちに、その表情が強張っていった。


「これは……石化した人間から削り取られたものだと記されています」


 シルフの顔から、僅かに血の気が引いた。


「人間から……?」


「二百年前に起きた、獣王石の暴走。その被害者の身体から採取されたもののようです」


 シグマの左手が、強く震えた。


 指先が僅かに開き、灰色の欠片へ向かって伸びようとする。


「止まれ」


 シグマは左手首を右手で掴んだ。


 制御リングが淡い光を放ち、義手の動きを押さえ込む。


 それでも、獣王石の振動は止まらなかった。


「シグマ、大丈夫なん?」


「ああ。動かそうとしているのは俺じゃない」


「それ、大丈夫って言わへんやろ」


 シルフがシグマと木箱の間へ入る。


 灰色の欠片が視界から隠れると、左義手の震えが僅かに弱まった。


「これ以上近づくのは危険や。読むなら、うちが本を出す」


「頼む」


 シグマが木箱から距離を取る。


 シルフは本へ直接触れず、近くに置かれていた厚手の布で包むようにして持ち上げた。


 本そのものには、特別な力は感じられない。


 反応しているのは、その下に収められていた灰色の欠片だけだった。


 三人は木箱から離れた閲覧台へ移動した。


 司書が慎重に表紙を開く。


 古い紙が擦れ、乾いた音を立てた。


 一頁目には、この記録が作られた理由が記されていた。


 覇王石は、力を求める者の前へ現れる。


 覇王石は、己の力に耐え得る器を選ぶ。


 そして、七つの覇王石は長い歴史の中で、その全てが一度は勇者の手へ渡っていた。


 シグマは文面を目で追いながら、眉を寄せた。


「一つや二つじゃない。全ての覇王石が、一度は勇者の手に渡っている……」


「勇者と覇王石には、何か関係があるんかな?」


「分からない。ただの偶然とは思えないが……」


 頁を進める。


 覇王石を手にした勇者の中には、その力によって国を救った者もいた。


 魔物の大群を退け、大勢の民を守った者もいる。


 枯れた大地を蘇らせ、一つの国を滅亡から救ったという記録も残されていた。


 しかし、覇王石について記された内容の多くは、英雄の功績を称えるものではなかった。


 街が消えた。


 山が崩れた。


 海が割れた。


 大地が毒に侵され、人々が互いに争い、国そのものが滅びかけた時代さえあった。


 どの時代にも、覇王石が残した爪痕が刻まれていた。


「勇者が使っていたのに、どうしてこんなことになったんや……」


 シルフの呟きに、司書が首を横へ振る。


「勇者であっても、最後まで正しく力を扱えるとは限らなかったのでしょう」


「力が強すぎたのかもしれない」


 シグマは自らの両義手へ目を落とす。


 強い力は、それだけで持ち主へ従うものではない。


 扱い方を誤れば、敵だけでなく、周囲にいる者まで巻き込んでしまう。


 シグマ自身、何度もそれを経験していた。


 頁を進めると、見出しの下に大きな文字が並んでいた。


 ――覇王石と七つの大罪。


「七つの大罪……」


 シグマがその言葉を口にした瞬間、右義手と左義手の両方が僅かに熱を帯びた。


 右腕に宿る炎帝石。


 左腕に宿る獣王石。


 二つの覇王石が、その言葉に反応している。


「両方が反応した……」


「気ぃつけてや。今度は箱の中の欠片だけやないで」


「ああ」


 シグマは制御リングの状態を確かめてから、記述を読み進めた。


 七つの覇王石には、それぞれ大罪の名が与えられている。


 人の心から生まれる負の感情を糧とし、その感情が強くなるほど覇王石の力も増大する。


「感情を食べて、強くなるっちゅうことか?」


「そう読める」


「ほんなら、怒ったり落ち込んだりするだけでも危ないん?」


「それだけで暴走するとは限らないだろう。ただ、覇王石と結びついた感情が強くなれば、影響を受ける可能性はある」


 その下には、それぞれの覇王石が歴史に残した被害について記されていた。


 全ての記録が完全な形で残されているわけではない。


 頁の一部が破られ、文字が焼け落ちている箇所もある。


 名前を塗り潰された勇者もいれば、何を糧とした覇王石なのか判別できない記録もあった。


 それでも、覇王石が時代を越えて多くの災害を引き起こしてきたことだけは、十分に読み取れた。


 やがて、二人の目が一枚の挿絵で止まった。


 赤く透き通った巨大な山々が、どこまでも連なっている。


 山脈の内部には、今も燃え続けているような炎が描かれていた。


 二百年前。


 火の国と土の国の国境で、火の勇者と土の勇者が争った。


 戦いの最中、火の勇者は炎帝石の力を解放した。


 放たれた炎は国境一帯へ広がり、山も大地も空さえも焼き尽くそうとした。


 それに対抗するため、土の勇者は獣王石を使った。


 獣王石の力は、火の勇者が放った炎そのものへ及んだ。


 荒れ狂っていた炎は、燃え盛る姿を保ったまま結晶へ変わった。


 巨大な炎の波。


 空へ立ち上る火柱。


 大地を這う無数の火の筋。


 それら全てが赤い結晶となり、山のように積み重なった。


 そうして生まれたのが、火の国と土の国の国境に現在も残る、炎の結晶で形作られた山脈だった。


 赤く透き通った山々は、二百年が過ぎた現在も熱を失っていない。


 結晶の内部には炎帝石の力が残り続け、山脈へ近づくだけでも身体を焼かれるほどの熱が放たれている。


 さらに、結晶を傷つければ閉じ込められていた炎が噴き出す危険があるため、現在も山脈一帯への立ち入りは禁止されていた。


「炎帝石が放った炎を、獣王石が結晶に変えた……」


 シグマは両義手を見下ろした。


 右義手に宿る炎帝石が、全てを焼き尽くす炎を生み出す。


 左義手に宿る獣王石が、その炎さえも結晶へ変える。


 今、自分の両腕には、二百年前の災害を引き起こした二つの力が揃っていた。


「これ、シグマの両腕と同じやん……」


「ああ」


 シルフの声が僅かに震える。


 シグマも、その事実の重さを理解していた。


 炎帝石と獣王石。


 それぞれ単独でも危険な力だが、二つを同時に使えば何が起こるのか分からない。


 二百年前に二人の勇者が衝突したことで生まれた災害を、今のシグマは一人で再現できてしまう可能性がある。


 制御リングを取りつけてから、以前より義手の力は扱いやすくなった。


 だが、それは溢れ出す力を抑えているだけに過ぎない。


 覇王石そのものを制御できているわけではなかった。


「同時に使うんは、絶対にやめた方がええな」


「分かっている」


「ほんまに?」


「少なくとも、何が起こるか分からない状態で試すつもりはない」


「何が起こるか分かったら試すみたいな言い方やな……」


「今は先を読もう」


「誤魔化したやろ」


 シルフは不満そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。


 さらに頁を進める。


 次に現れたのは、石像が立ち並ぶ街の挿絵だった。


 逃げようとする者。


 子供を抱き締める者。


 助けを求めて手を伸ばす者。


 そこに描かれた人々は、誰もが石へ変わり、動きを止めていた。


 街の建物や街路樹にも結晶が広がり、ところどころが陽光を反射して不気味に輝いている。


 中央には、全身を結晶に覆われた一人の男が描かれていた。


 土の勇者だった。


 火の勇者との争いが終わった後、土の勇者は獣王石を暴走させた。


 何が直接のきっかけとなったのかは、記録に残されていない。


 獣王石から溢れ出した力は大地を伝い、周囲にいた人々を次々と石へ変えた。


 石化を免れた者も、身体の一部が結晶へ変化し、その多くが命を落とした。


 被害がどこまで広がったのか、正確な記録は残されていない。


 ただし、当時存在した三つの集落が地図から消えたと記されていた。


「さっきの欠片は、この時に石にされた人から取られたものなんやな……」


「おそらくは」


 シグマが木箱へ視線を向けた瞬間、左手が再び震え始めた。


 先ほどよりも強い。


 制御リングが淡い光を放ち、獣王石から漏れ出そうとする力を押さえ込む。


「シグマ、一回読むのをやめよ」


「待ってくれ」


「でも、その腕……」


「もう少しだけだ。獣王石について、まだ肝心なことが分かっていない」


 シグマは左手首を押さえながら、次の記述へ目を向けた。


 そこには、獣王石について詳しく記されていた。


 ――獣王石。


 ――大罪の名は、怠惰。


「怠惰……?」


 シルフが首を傾げる。


「怠けるって意味やろ? 獣王石の力と、何の関係があるん?」


 シグマにも分からなかった。


 獣王石が持つのは、周囲や触れたものを石や結晶へ変える力だ。


 怠けることと、石化させる力が結びつくとは思えない。


 だが、その下に記された一文を読んだ瞬間、シグマの呼吸が止まった。


 ――怠惰とは、身体を休めることにあらず。


 ――歩むことを諦め、未来を捨てる心なり。


 ――獣王石は、未来への失望を糧とする。


「未来への……失望」


 シグマの声が掠れた。


 自分が何者なのか分からない。


 なぜ両腕を失ったのかも、どうして二つの覇王石が義手に埋め込まれているのかも分からない。


 追っ手から逃げ続けても、いつか捕まるかもしれない。


 両腕の力を抑えられず、仲間を傷つけるかもしれない。


 その不安が消えたことなど、一度もなかった。


 何も分からないまま、先の見えない道を歩き続けている。


 どれほど進んでも、答えには届かないのではないか。


 自分の過去を知ったところで、待っているのは救いではないのではないか。


 心の奥で、何度そう考えただろう。


 左義手から伝わる振動が、さらに大きくなる。


 閲覧台の端が、白く変色した。


「シグマ、離れて!」


 シルフが本を抱え、後ろへ跳ぶ。


 白く変色した箇所から細い結晶が伸び、閲覧台の表面をゆっくりと覆い始めた。


 シグマはすぐに左腕を持ち上げ、力を外へ逃がそうとする。


 だが、獣王石の力は止まらない。


 押さえ込もうと意識するほど、左義手の奥から強い力が湧き上がってくる。


「くっ……!」


 シグマは歯を食いしばった。


 制御リングの光が強くなる。


 それでも、結晶化は完全には止まらなかった。


 司書が本棚から距離を取り、緊急時に備えて壁際の呼び鈴へ手を伸ばす。


「シグマ! 力で押さえつけたらあかん!」


 シルフの声が飛んだ。


「でも、このままでは広がる!」


「さっきの文を思い出して! 獣王石は、未来を諦める心を食うんやろ!」


 シグマは息を呑んだ。


 力を抑えられない。


 また暴走させる。


 周囲を巻き込み、仲間まで傷つける。


 そう考えるたびに、獣王石の振動が強くなっている。


 恐怖に負け、最悪の未来ばかりを思い浮かべること自体が、獣王石へ力を与えていた。


 シグマは目を閉じた。


 左腕を押さえつけることをやめる。


 代わりに、ゆっくりと息を吸った。


 ミルザードで、茜から教えられた気術の基礎。


 呼吸を整え、身体の内側へ意識を向ける。


 焦りを消そうとはしない。


 恐怖を無理に押し殺すこともしない。


 自分が今、何を恐れているのかを確かめる。


 過去を知ること。


 両腕の力を制御できないこと。


 仲間を失うこと。


 その全てが恐ろしい。


 だが、恐れているからといって、歩みを止める理由にはならない。


「俺は……まだ、諦めていない」


 シグマは小さく呟いた。


 左義手の震えが、僅かに弱まった。


「何が待っているのか分からなくても、進むと決めた」


 呼吸に合わせて、身体の内側を巡る気へ意識を向ける。


 胸元から肩へ。


 肩から左義手へ。


 力を押し返すのではなく、自分の意思が届く道を作るように気を流す。


 制御リングの光が、ゆっくりと弱まっていく。


 同時に、閲覧台を覆い始めていた結晶の成長も止まった。


 左義手から伝わっていた振動が消える。


 制限区画に静けさが戻った。


 シグマはしばらく動かなかった。


 左義手を見つめながら、自分の中で起きた変化を確かめる。


「止まった……」


 シルフが恐る恐る閲覧台へ近づいた。


「制御リングで止めたん?」


「いや。リングだけでは止まらなかった」


「ほんなら、どうやったん?」


「気を流した」


「気術を使ったんか?」


「正確には、気を使って自分の心を整えた。獣王石へ力を与えていた感情から、目を逸らさないために」


 シグマは結晶化した閲覧台へ触れないよう注意しながら、本の続きを見た。


 獣王石の項目には、さらに別の記述が残されていた。


 ――覇王石を縛る鎖は存在しない。


 ――術具によって力を弱めることはできようとも、その根源を封じることはかなわない。


 ――石を従えんと望む者は、先に己の心を治めよ。


「心を、治める……」


 制御リングは無意味ではない。


 暴走しかけた力を抑え、引き返す時間を作ってくれる。


 しかし、最後に覇王石を止めるのは道具ではない。


 持ち主自身の心だった。


 そして、心を整えるための方法を、シグマはすでに教えられている。


「気術と同じだ」


 シグマの言葉に、シルフが瞬きをする。


「気術が?」


「茜は、気を力任せに動かそうとするなと言っていた。焦れば流れが乱れ、迷えば身体が止まる。自分の心を知り、その上で気の流れを導けと」


 覇王石も同じだった。


 力だけを押さえ込もうとしても、いずれ限界が訪れる。


 怒りや恐怖、絶望を消すのではない。


 それらを自覚し、飲み込まれず、自分の意思で進む方向を選ばなければならない。


「心を鍛えれば、気術だけやなく、覇王石も制御できるかもしれん……そういうこと?」


「ああ。少なくとも、今までのやり方よりは可能性がある」


 シグマは腰へ手を伸ばした。


 そこには、茜から渡された気術の秘伝書が収められている。


 上巻には、呼吸法や気の巡らせ方といった基礎が記されていた。


 そして、まだ開いていない下巻もある。


「宿へ戻ったら、下巻を読む」


「いきなり難しい技を試すつもりちゃうやろな?」


「まずは内容を確認するだけだ」


「その言い方、ちょっと信用できへんなあ」


 シルフは疑うような目を向けたが、すぐに小さく息を吐いた。


「まあ、ここで腕を暴走させられるよりはええか。続きは、宿に戻ってから考えよ」


「ああ」


 シグマはもう一度、獣王石について記された頁へ目を落とした。


 未来への失望を糧とし、周囲や触れたものを石や結晶へ変える覇王石。


 それがなぜ、自分の左義手に埋め込まれているのか。


 答えは、まだ分からない。


 だが、この石が何を求め、何によって力を増すのかは分かった。


 何も知らなかった昨日までとは違う。


 シグマは左手を握り締める。


 今度は、獣王石が勝手に動くことはなかった。


それからシグマとシルフは、必要な箇所を紙へ書き写した。


 獣王石の力が収まったとはいえ、再び同じことが起きないとは限らない。


 司書からも長居は避けるよう求められ、二人は残りの記録を急いで確認することになった。


 しかし、覇王石を完全に制御する方法までは残されていなかった。


 大罪に結びついた感情へ飲み込まれないこと。


 力で抑えつけるのではなく、自らの心を治めること。


 分かったのは、その二つだけだった。


 結晶化した閲覧台については、王城へ報告したうえで処置を決めるという。


 シグマは弁償を申し出たが、司書は首を横へ振った。


「この机も、今後は覇王石に関する貴重な資料となるでしょう。これ以上被害が広がらなかっただけでも幸いです」


「ですが、俺が壊したことに変わりはありません」


「処置が決まれば、王城を通してお伝えします。それまでは、決してご自身で触れないでください」


「分かりました」


 結晶化した部分を削り取ろうとして、再び獣王石が反応しては意味がない。


 シグマは司書へ深く頭を下げ、シルフとともに制限区画を後にした。


 図書館の外へ出ると、既に太陽は空の高い位置まで昇っていた。


 多くの人々が行き交う大通りには、露店から漂う料理の匂いや、客を呼び込む商人たちの声が満ちている。


 制限区画の静けさの中に長くいたためか、その賑わいが普段以上に騒がしく感じられた。


「とんでもないもん見つけてもうたな……」


 シルフが歩きながら呟く。


「ああ」


「右と左に入っとる石が、昔あんな災害を起こしたんやろ?」


「正確には、二人の勇者がそれぞれ使った結果だ」


「今のシグマは、その二つを一人で持っとるやん」


 シグマは答えず、外套の下に隠れた両義手を見下ろした。


 炎帝石が放った炎を、獣王石が結晶へ変える。


 二百年前に二人の勇者が衝突したことで生まれた炎の山脈を、今のシグマなら一人で再現できてしまう可能性がある。


 もちろん、試すつもりなどない。


 それでも、自分の両腕に何が宿っているのかを知った以上、考えないわけにはいかなかった。


「シグマ」


 隣を歩いていたシルフが、横から顔を覗き込んでくる。


「また悪い方に考えとらん?」


「……少しだけな」


「それで獣王石が元気になったら困るで」


「分かっている」


「分かっとる人は、そんな難しい顔せえへんと思うけどなあ」


 シルフは呆れたように息を吐いた。


「一人で考え込む前に、戻って皆にも話そ。何かあった時に黙っとったら、また怒られるで」


「それもそうだな」


 シグマは小さく頷いた。


 二人が宿へ戻ると、借りている部屋には紅蓮たちが集まっていた。


 卓上には王都周辺の地図と、道具や食料を書き出した紙が広げられている。


 シグマたちが図書館へ行っている間に、今後の出発に必要なものを確認していたらしい。


「おかえり!」


 最初に気づいた白鬼が、勢いよく立ち上がった。


「覇王石のこと、何か分かった?」


「いくつか分かったことがある」


 シグマとシルフが卓へ近づく。


 フェルンはシグマの隣へ来ると、真っ先に左義手へ目を向けた。


「シグマ、腕……大丈夫?」


「ああ。今は落ち着いている」


「今は?」


 黒鬼がその言葉を聞き逃さなかった。


「ということは、図書館で何かあったんですね」


「少しだけ、獣王石の力が漏れた」


「少しって、どれくらい?」


 白鬼が心配そうに尋ねる。


「机の端が結晶になったくらいや」


 代わりに答えたシルフへ、紅蓮が険しい目を向けた。


「それのどこが少しなんだ」


「それ以上は広がらんかったんやから、少しで合っとるやろ」


「王都の図書館で暴走しかけたんだぞ」


「うちに怒らんといて。止めようとはしたんやで」


「シルフを責めても仕方がない。俺の問題だ」


 シグマが二人の間へ入る。


 紅蓮はしばらく厳しい顔でシグマを見ていたが、やがて大きく息を吐いた。


「それで、何が原因だった?」


「獣王石が何を糧にしているのかを知った」


 シグマは図書館で書き写してきた紙を卓上へ広げた。


 七つの覇王石が、その全てが一度は勇者の手へ渡っていること。


 覇王石が、それぞれ七つの大罪と結びついていること。


 二百年前、炎帝石が放った炎を獣王石が結晶へ変え、火の国と土の国の国境に巨大な山脈を作ったこと。


 その後、土の勇者が獣王石を暴走させ、多くの人々を石や結晶へ変えたこと。


 そして、獣王石が怠惰の名を持ち、未来への失望を糧としていること。


 シグマが順に説明すると、部屋の空気は次第に重くなっていった。


「未来に失望すると、強くなる石か」


 紅蓮が腕を組む。


「随分と性格の悪い力だな」


「弱っている人間を、さらに諦めさせようとしているみたいです」


 黒鬼の言葉に、白鬼も嫌そうに顔をしかめる。


「それで完全に諦めたら、暴走するの?」


「そこまでは書かれていなかった。ただ、持ち主がその感情に飲み込まれるほど、力が強くなる可能性は高い」


 シグマが答えると、フェルンが左義手をそっと握った。


「シグマ、未来……嫌い?」


 あまりに真っ直ぐな問いかけに、シグマはすぐに答えられなかった。


 自分が何者なのか分からない。


 この先で何が待っているのかも分からない。


 不安がないと言えば嘘になる。


 それでも、未来そのものを嫌っているわけではなかった。


「いや」


 シグマは小さく首を横へ振る。


「怖いと思うことはある。だが、嫌いではない」


「なら、大丈夫」


 フェルンはそう言って、左義手を両手で包み込んだ。


「フェルンたち、一緒にいる」


「ああ。ありがとう」


 シグマが頭を撫でると、フェルンの尻尾が小さく揺れた。


「それで、暴走しかけた力はどうやって止めたんですか?」


 黒鬼に尋ねられ、シグマは左腕の制御リングへ触れた。


「制御リングだけでは止まらなかった。茜から教わった気術で呼吸と気を整えたら、獣王石の反応が弱まった」


「気術で覇王石を押さえ込んだの?」


 白鬼が身を乗り出す。


「押さえ込んだわけではない。むしろ、押さえ込もうとするのをやめた」


「どういうことだ?」


「自分が何を恐れているのかを確かめた。そのうえで、恐れていても進むと決めた。そうしたら、獣王石へ流れ込んでいた力が弱まった」


 紅蓮は考え込むように目を細めた。


「力じゃなく、心の問題ということか」


「古い記録にも、覇王石を従えるには、先に己の心を治めろと書かれていた」


「簡単に言ってくれるな」


「ああ。俺もそう思う」


 感情は、消そうと思って消せるものではない。


 まして、シグマは自分の過去さえ分からないまま、何者かに追われ続けている。


 不安や恐怖を完全に捨てるなど不可能だった。


 それでも、自分の心と向き合う方法なら、既に手元にあるかもしれない。


 シグマは腰に収めていた二冊の書物を卓上へ置いた。


 茜から受け取った、気術の書だった。


「そういえば、まだ下巻は読んどらんかったな」


 シルフが二冊目へ目を向ける。


「上巻の基礎を覚えるまでは開くなと言われていたからな」


「開いて大丈夫なんですか?」


「気を感じ取り、身体の中で巡らせるところまではできるようになった。完璧とは言えないが、読むだけなら問題ないはずだ」


「読むだけで済むか?」


 紅蓮が疑うような目を向ける。


「まずは読む」


「その後は?」


「内容による」


「やっぱり試す気じゃねえか」


 シグマは紅蓮の言葉には答えず、気術の書下巻を手元へ引き寄せた。


 表紙は上巻と同じく、長い年月を経たように色褪せている。


 端は擦り切れ、何度も開かれた跡が残っていた。


 閉じ紐を解き、最初の頁を開く。


 そこに記されていたのは、気術を学ぶ者へ向けた警告だった。


 ――気を感じることと、気を操ることは異なる。


 ――己の内に巡らせることと、己の外へ放つこともまた異なる。


 ――力のみを求める者は、いずれ心を乱し、気に呑まれる。


「最初から随分と怖いことが書いてあるね」


 白鬼が横から頁を覗き込む。


「茜らしいといえば、茜らしいな」


 シグマは頁をめくった。


 下巻の前半には、身体の外へ気を放つ技が記されていた。


 拳や掌、武器の先へ集めた気を、一瞬で前方へ解き放つ。


 気を直接ぶつけることで、離れた相手を攻撃したり、接触する前に攻撃を逸らしたりできるという。


 だが、ただ勢いよく気を外へ押し出せばいいわけではない。


 放つ方向。


 届かせる距離。


 込める量。


 その全てを、気が身体から離れる瞬間まで正確に捉え続けなければならなかった。


「これができれば、義手を使わなくても離れた敵を攻撃できるな」


「すぐ試そうとするな」


 紅蓮が釘を刺す。


「まだ読んでいるだけだ」


「目が完全に試す奴の目になってるぞ」


「私もそう思う」


 白鬼が迷わず紅蓮へ同意した。


 シグマは二人から目を逸らし、次の頁へ進んだ。


 続いて記されていたのは、気を纏う技だった。


 身体の表面へ薄く気を広げ、全身を覆う。


 成功すれば身体の強度が増し、攻撃と防御の両方を高められる。


 拳や脚の一部へ気を集中させれば威力が上がり、武器へ纏わせれば刃を補強することもできる。


 ただし、気を厚く纏えば強くなるというものではなかった。


 一箇所へ集めすぎれば、他の場所を守れなくなる。


 全身を厚く覆おうとすれば、気の消耗が激しくなり、すぐに動けなくなってしまう。


 必要な場所へ、必要な量だけ纏わせることが重要だと記されていた。


「これ、黒鬼の障壁に少し似てるね」


 白鬼が双子の妹へ顔を向ける。


「似ているようで、かなり違うと思う。私の障壁は魔力を外に固定するものだから。気術は、自分の身体へ沿わせるみたいだね」


「なら、黒鬼にも分からない?」


「仕組みは参考にできても、気の感覚までは分からないかな。私たちは、気を扱ったことがないから」


「茜から教わったのはシグマだけだからな」


 紅蓮が言った。


「まずは本に書かれたとおりにやらせるしかない。ただし、いきなり外へ放つ技はやめろ」


「なぜだ?」


「ここが宿だからだ」


 紅蓮が部屋の壁を指差した。


「壁に穴を開けてから気づいても遅い」


「さすがに、そこまでの威力は出ないと思うが」


「義手の試射でも似たようなことを言ってなかった?」


 白鬼に言われ、シグマは口を閉じた。


 さらに頁をめくる。


 気を放つ技。


 気を纏う技。


 その二つに続いて記されていたのは、戦うための技ではなかった。


 床へ座り、目を閉じた人物の絵。


 その周囲には、呼吸と気の流れを示す細い線が描かれている。


 見出しには、心を鍛える方法と記されていた。


「これだ」


 シグマの手が止まる。


 気を正しく扱うためには、身体だけでなく、心を鍛えなければならない。


 恐怖や怒りを捨てるのではない。


 無理に感情を消そうとすれば、かえって心は乱れる。


 大切なのは、自分の中に生まれた感情を認めながら、それに行動を支配されないこと。


 気術を扱う者は、どのような状況でも己の心を見失ってはならないと書かれていた。


 そのための鍛錬は、呼吸を整えるところから始まる。


 静かな場所へ座り、目を閉じる。


 身体の内側を巡る気を感じながら、自分の呼吸へ意識を向ける。


 雑念が生まれても追い払おうとはせず、何を考えたのかを自覚してから、再び呼吸へ意識を戻す。


 それを何度も繰り返す。


 一見すれば、ただ座っているだけの鍛錬だった。


「これで心が強くなるの?」


 白鬼が不思議そうに尋ねる。


「すぐには変わらないだろう」


「どのくらいやればいいって書いてある?」


「毎日欠かさず、心の揺れを自覚できるまで……らしい」


「分かりにくいなあ」


「心は目に見えないからね」


 黒鬼が白鬼を宥めるように言った。


 シグマは、その先へ目を通す。


 心を鍛える方法は、それだけではなかった。


 静かな場所で心を整えられるようになった後は、周囲に音がある場所。


 人の話し声が聞こえる場所。


 危険を感じる場所。


 そして最後には、実際の戦闘中でも自分の感情と気の流れを見失わないよう、段階を踏んで鍛錬すると記されていた。


「最初から戦いながらやったらあかんって、しっかり書いとるな」


 シルフがシグマへ念を押すように言う。


「分かっている」


「ほんまに分かっとる?」


「今日は静かな場所で試す」


「今日は、なんやな……」


 シルフが呆れたように肩を落とした。


 シグマは心を鍛える方法について書かれた頁を、もう一度最初から読み直した。


 覇王石を制御するには、先に己の心を治めなければならない。


 気術を極めるためにも、心を鍛えなければならない。


 二つの書物に記された内容は、別々のものではなかった。


 これまでのシグマは、両義手の力をどう抑えるかばかり考えていた。


 制御リングを使い、放出する力を弱める。


 暴走しそうになれば、力ずくで押さえ込む。


 だが、覇王石が持ち主の感情を糧にするのなら、それだけでは足りない。


 不安や恐怖を抱くたびに、両腕の石は影響を受ける。


 どれほど頑丈な制御具を取りつけても、シグマ自身の心が折れれば、いずれ抑えきれなくなる。


「俺が鍛えるべきなのは、身体や技だけじゃなかったんだな」


 シグマの呟きに、紅蓮が頷く。


「今さら気づいたのか」


「何が言いたい?」


「お前は何でも一人で抱え込む。怪我をしても、腕が暴走しても、大丈夫だと言って黙っている。そんな状態で、心だけ乱すなという方が無理だろ」


「……否定はできないな」


「少しは私たちにも話してよね」


 白鬼が頬を膨らませる。


「何か悩んでるなら聞くし、嫌なことがあったら一緒に怒ってあげるから」


「白鬼は、関係なくても怒るだろ」


「紅蓮、今は黙ってて」


「ほら、もう怒ってるじゃねえか」


「姉さんが言いたいのは、一人で我慢する必要はないということだと思う」


 黒鬼が苦笑しながら言葉を補う。


「心を鍛えることと、何も感じなくなることは違うんでしょう。だったら、私たちを頼るのも鍛錬の一つじゃないかな」


「頼ることも、鍛錬か」


 シグマは隣にいるフェルンへ目を向けた。


 フェルンは今も左義手から手を離していなかった。


「シグマ、怖い時、言って」


「ああ」


「フェルン、そばにいる」


「分かった。その時は頼む」


 シグマが答えると、フェルンは安心したように頷いた。


「話は決まったな」


 紅蓮が卓上の地図を畳む。


「ここで技を試されると困る。昼飯を食ったら、街の外へ行くぞ」


「ハクのいる場所なら、気を放つ技も試せるな」


「最初は心を鍛える方からだ」


「分かっている」


「お前が言うと不安しかない」


 白鬼が楽しそうに笑い、黒鬼も小さく肩を揺らした。


 重くなっていた部屋の空気が、ようやく少しだけ和らいだ。


 ◇ ◇ ◇


 昼食を終えたシグマたちは、王都の門を出てハクのいる森へ向かった。


 街道を離れ、周囲から人の気配が消えた頃、シグマは足を止めた。


 魔獣契約を通じ、森の奥からハクの気配が近づいてくる。


 呼びかける必要はなかった。


 茂みの向こうで枝が揺れ、白銀の巨体が静かに姿を現す。


 ハクは一行を見渡した後、ゆっくりとシグマへ視線を向けた。


『ようやく来たか』


「昨日も会っただろ」


『今日はまだ姿を見ていない』


「朝からシルフと図書館へ行っていたんだ」


『そのようだな』


 ハクは落ち着いた足取りで近づき、シグマの左義手へ目を向けた。


『それよりも、その石だ』


「分かるのか?」


『直接感じ取れるわけではない。だが、お前の心が大きく乱れれば、契約を通じてこちらにも伝わる』


「そんなに乱れていたか?」


『気づいていなかったのなら、随分と鈍いな』


 淡々と返され、シグマは言葉に詰まった。


「ハク、シグマね、図書館で机を結晶にしたんだよ」


 白鬼が報告すると、ハクの視線が僅かに鋭くなる。


『ほう』


「わざとじゃない」


『分かっている。故意にやったのなら、お前の仲間たちはもっと騒いでいる』


「ハクも怒っとる?」


 シルフの問いに、ハクは一度だけ尾を揺らした。


『怒ってはいない。だが、自らの力を知らぬまま抱えている危うさを、ようやく本人が理解し始めたのなら悪いことではない』


「随分な言い方だな」


『間違っているか?』


「……いや」


 否定できず、シグマは小さく息を吐いた。


 ハクはそれ以上何も言わず、一行へ背を向ける。


 そのまま少し先まで歩くと、一度だけ振り返った。


『ここでは森に近すぎる。力を試すなら、向こうの開けた場所を使え』


「案内してくれるのか?」


『森を壊されては迷惑だからな』


 ハクはシグマの返事を待たず、先へ進み始めた。


 一行はその後を追い、森から少し離れた草地へ移動した。


 背の低い草が広がり、その先には大小の岩が並んでいる。


 周囲に人の気配はなく、王都の外壁からも十分に距離があった。


 ハクは草地の端にある大きな岩の上へ上がると、そこへ腰を下ろした。


 近くまで寄ってきた白鬼が背中へ触れようとする。


 だが、ハクは身体を僅かにずらし、その手をかわした。


「少しくらいいいじゃん」


『今は遊びに来たのではないだろう』


 白鬼には声が届いていないため、ハクが避けたことへ頬を膨らませている。


 シグマが言葉を伝えると、白鬼は渋々ハクから離れた。


「終わったら触らせてよね」


 ハクは答えず、草地の中央へ向かうシグマを静かに見つめていた。


 シグマは地面へ気術の書下巻を置き、心を鍛える方法が記された頁を開く。


「まずは座ればいいんだよね?」


「ああ」


 白鬼に答え、シグマは草の上へ腰を下ろした。


 両脚を組み、背筋を伸ばす。


 両手は力を抜き、膝の上へ置いた。


 少し離れたところでは、紅蓮たちが見守っている。


 フェルンはシグマの近くに座り、ハクは岩の上から動こうとしなかった。


「静かな場所でやるんやろ?」


 シルフが声を潜める。


「なら、しばらく話しかけん方がええな」


「白鬼、黙っていられる?」


「大丈夫だよ。たぶん」


「その時点で不安なんだけど」


「黒鬼だって話してるじゃん」


「二人とも、もう黙れ」


 紅蓮が低い声で注意する。


 シグマは小さく息を吐き、目を閉じた。


 風が草を揺らす音。


 遠くから聞こえる鳥の鳴き声。


 仲間たちが僅かに動く気配。


 聞こえてくるものを無理に遮断せず、ゆっくりと呼吸へ意識を向ける。


 息を吸い、吐く。


 身体の中心に存在する気を感じ取り、呼吸に合わせて全身へ巡らせる。


 ここまでは、上巻で何度も繰り返した。


 だが、心を鍛える鍛錬は、その先が違った。


 何も考えないようにするのではない。


 心に浮かんだものを、一つずつ自覚する。


 最初に浮かんだのは、図書館で見た炎の山脈だった。


 次に、石や結晶へ変えられた人々の姿。


 もし、自分が両腕の力を暴走させたら。


 紅蓮が。


 白鬼が。


 黒鬼が。


 シルフが。


 フェルンが。


 ハクが。


 あの挿絵に描かれていた者たちと同じ姿になるかもしれない。


 左義手の奥が、僅かに震えた。


 シグマの呼吸が乱れる。


 すぐに不安を打ち消そうとしたが、気術の書に記されていた言葉を思い出した。


 感情を追い払おうとしてはならない。


 何を恐れているのか、自分で認める。


 シグマは、仲間を失うことを恐れていた。


 自分の力で傷つけることを、何よりも恐れている。


 その感情から目を逸らさず、呼吸へ意識を戻す。


 ゆっくりと息を吸う。


 時間をかけて吐き出す。


 左義手の震えが、次第に弱まっていく。


 完全に消えたわけではない。


 それでも、図書館で暴走しかけた時とは違い、力が外へ漏れ出すことはなかった。


 どれほどの時間が過ぎたのか。


 やがてシグマは、静かに目を開いた。


 仲間たちは先ほどと同じ場所にいる。


 フェルンは黙ったままシグマを見つめ、ハクは岩の上からその様子を観察していた。


『終わりか?』


「ああ」


『静かな場所で、何も起きていない時に心を落ち着けるだけなら難しくはない』


「いきなり厳しいな」


『事実を言っただけだ。敵を前にし、仲間が傷ついた時にも同じことができなければ、その石は止められないのだろう?』


「そのとおりだ」


『ならば、今の成功だけで満足するな』


「ああ。分かっている」


 ハクはシグマの答えを聞くと、僅かに目を細めた。


 それが納得したという意思表示なのか、まだ信用していないのかは分からない。


「獣王石は反応したんですか?」


 黒鬼が尋ねる。


「僅かにな。ただ、力が漏れる前に落ち着かせることができた」


「ほんなら、ひとまず成功やな」


「完全に制御できたわけではない。だが、続ける価値はありそうだ」


「本にも段階を踏めと書いてあったんだろ」


 紅蓮が言う。


「今日はそこまでで十分じゃねえのか?」


「気を放つ技と、纏う技も確認しておきたい」


「やっぱりやる気だったか」


 紅蓮が額へ手を当てる。


 シグマは立ち上がると、少し離れた場所にある岩へ目を向けた。


「威力を求めるつもりはない。まずは、気を身体の外へ出せるかだけ試す」


「制御リングは?」


「最初から一段階目を使う。覇王石の力が混ざったら、すぐに中止する」


 紅蓮はしばらく考えた後、仕方なさそうに頷いた。


「一度だけだ。異変があれば、俺たちが止める」


『随分と甘いな』


 ハクの声がシグマの意識へ届く。


「何か言ったか?」


『一度失敗した程度で諦める男ではない。止めても、後で一人で試すだけだろう』


「お前まで俺を何だと思っている?」


『自覚がないなら、なおさら性質が悪い』


「……聞かなかったことにする」


 シグマは右義手を前へ出した。


 制御リングを一段階目まで解放する。


 これまで炎帝石の力を放つ時とは違い、右腕そのものへ意識を集中させない。


 身体の中心にある気を肩へ運び、右腕を通して掌へ集める。


 義手の内部を進む気の流れが、炎帝石の近くへ差しかかった。


 途端に、右腕の温度が上がる。


「シグマ、炎が出とる!」


 シルフの声に、シグマは気の流れを止めた。


 右手の指の隙間から漏れ始めていた小さな炎が消える。


「気だけを通したつもりだったんだが……」


「義手を通すと、覇王石の力が混ざるみたいですね」


 黒鬼が右腕の様子を観察する。


「なら、気を放つ技を使う時は、腕から出さない方がいいんじゃない?」


 白鬼の言葉に、シグマは考え込んだ。


 右義手から放てば、炎帝石。


 左義手から放てば、獣王石。


 気を外へ出す前に覇王石の近くを通ることで、その力に引き込まれてしまう。


 気術だけを使うには、両腕とは別の場所から気を放つ必要があった。


「脚を使う」


「蹴りから放つんか?」


「ああ。気の通り道を変えてみる」


 シグマは右脚を引き、身体の中を巡る気を腰から脚へ流した。


 膝。


 脛。


 そして足先へ。


 両義手を通さなければ、覇王石が反応する気配はない。


 正面の岩へ向かい、シグマは鋭く蹴りを放った。


 足先から気を放とうとする。


 しかし、気は身体の外へ出る直前で散り、周囲の草を僅かに揺らしただけだった。


「……失敗だな」


「初めてなんやから、そんなもんやろ」


 シルフが笑う。


「炎が出んかっただけでも、一歩前進や」


『気を放つ瞬間に、力みすぎている』


 岩の上から見ていたハクが告げる。


「お前には分かるのか?」


『気術とやらは知らん。だが、蹴る直前に全身の動きが固くなった。それでは力が流れぬのも当然だろう』


「紅蓮もそう見えたか?」


「ああ。岩を砕こうと意識しすぎだ。気を放つことより、蹴りを当てる方へ力が入っていた」


「岩を狙うなということか」


「狙うなとは言ってねえ。余計な力を抜けってことだ」


 シグマはもう一度岩へ向き直った。


 だが、すぐには蹴りを放たず、先ほど乱れた呼吸を整える。


 気を外へ押し出そうとするのではない。


 体内を巡っている流れを、そのまま足先の外まで延ばす。


 そう意識しながら、ゆっくりと右脚へ気を移した。


 今度は岩を砕こうとせず、その手前にある空間へ向けて蹴りを放つ。


 足先から、僅かな気が外へ抜けた。


 目には見えない。


 しかし、離れた場所の草が一直線に倒れ、その先にあった岩肌から小さな欠片が落ちた。


「出た!」


 白鬼が声を上げる。


「ほんの少しだけど、岩まで届いたよ!」


「今のが、気を放つ感覚か……」


 シグマは自分の右脚を見下ろした。


 一度目とは違い、気が身体の外へ抜けた感覚が確かに残っている。


 だが、喜んだ直後に足元が僅かに揺れた。


「シグマ?」


「大丈夫だ。少し力が抜けただけだ」


「それ、大丈夫やないやろ」


 シルフが近づき、肩を支えようとする。


 シグマは手で制し、その場で呼吸を整えた。


 僅かな気を放っただけのつもりだった。


 だが、慣れない方法で身体の外へ出したためか、予想以上に消耗している。


『自分がどれほどの力を使ったのかも分かっていないようだな』


「初めてなんだから仕方がないだろ」


『だからこそ、続けるべきではない』


 ハクは岩から下りると、シグマの前を横切った。


 そのまま標的にしていた岩との間へ立ち、進路を塞ぐ。


「退いてくれ。次は纏う方を試す」


『断る』


「なぜだ?」


『今のお前は、成功したことで気が逸っている。その状態で別の技を試せば、先ほど心を整えた意味がない』


 シグマは反論しようとした。


 しかし、自分でも次の技を早く試したいと考えていたことに気づき、言葉を止める。


 成功した。


 次もできるかもしれない。


 さらに先まで進めるかもしれない。


 その焦りに近い感情で、呼吸が僅かに速くなっていた。


 気術の書に書かれていたとおりだった。


 恐怖や不安だけが、心を乱すわけではない。


 期待や興奮も強くなりすぎれば、気の流れを乱す。


「……分かった。今日はここまでにする」


『賢明だ』


 ハクはそう告げると、ようやく岩との間から退いた。


「ハクの言うことなら聞くんやな」


 シルフが不満そうに言う。


「お前たちの話も聞いている」


「何度も止められた後にやろ?」


「結果的に止まったんだからいいだろ」


「よくない」


 白鬼と黒鬼の声が重なった。


 紅蓮も呆れた顔をしている。


「心を鍛える前に、その無茶をする癖をどうにかしろ」


「それも含めて、これから鍛える」


『随分と都合のいい言葉だな』


 ハクの冷静な声が意識へ届く。


 シグマが睨み返しても、ハクは気にした様子を見せない。


 再び岩の上へ戻ると、前脚を組むように伏せ、目を閉じた。


 もう話は終わったという態度だった。


 シグマは小さく息を吐き、草の上へ置いた気術の書下巻へ目を向ける。


 気を放つ技。


 気を纏う技。


 そして、どのような状況でも自らの心を見失わないための鍛錬。


 気術と覇王石。


 これまで別々だと思っていた二つは、心を制御するという一点で繋がっていた。


 技を覚えるだけでは足りない。


 力を押さえ込むだけでも足りない。


 自分の中に生まれた感情を理解し、それに飲み込まれることなく、進む方向を選ばなければならない。


 それができなければ、いつか両腕の覇王石に支配される。


「明日からも続ける」


 シグマの言葉に、紅蓮が頷く。


「心を整える鍛錬からだぞ」


「ああ」


「先に技を試したら、私たちも止めるからね」


 白鬼が拳を握る。


「私たちだけで無理なら、ハクにも頼みます」


 黒鬼が岩の上へ目を向ける。


 ハクは目を閉じたまま、片方の耳だけを僅かに動かした。


『必要なら止めてやる。ただし、多少痛い目を見ることになると思え』


 シグマはその言葉を皆へ伝えなかった。


 黙って気術の書を閉じる。


 このままでは、鍛錬より先にハクへ叩きのめされることになりそうだった。


草地を後にする頃には、太陽が西へ傾き始めていた。


 シグマたちが帰り支度を始めても、ハクは岩の上から動こうとしなかった。


「ハクは戻らないの?」


 白鬼が尋ねる。


 当然、その声はハクには届かない。


 シグマが代わりに問いかけると、ハクは森の方角へ顔を向けた。


『私は森へ戻る』


「宿まで来てもいいんだぞ」


『断る。人の集まる場所で過ごすつもりはない』


「そうか」


『明日も鍛錬をするなら、今日と同じ場所を使え。森の近くで余計な力を放つな』


「分かっている」


『本当に分かっているのならいいがな』


 ハクは岩から飛び降りると、一行へ背を向けた。


 白銀の巨体が草地を横切り、森へ向かって歩いていく。


「もう帰っちゃうの?」


 白鬼が残念そうに声を上げる。


 ハクは振り返らなかった。


「終わったら触らせてって言ったのに」


「約束したわけではないからな」


「シグマから言ってよ」


「嫌がっている相手へ無理に触るな」


「ちょっとくらいいいじゃん」


「そのちょっとが嫌なんだろ」


 白鬼が不満そうに頬を膨らませる。


 その間にもハクの姿は森の中へ消え、やがて魔獣契約を通して感じていた気配も遠ざかっていった。


 シグマは草地へ置いていた気術の書を拾い上げる。


 心を整える鍛錬。


 気を放つ技。


 そして、まだ試していない気を纏う技。


 一日で全てを身につけられるとは思っていない。


 それでも、進むべき方向だけは見え始めていた。


「帰るぞ」


 紅蓮の声に促され、一行は王都へ向かって歩き始めた。


 ◇ ◇ ◇


 王都へ戻る頃には、辺りはすっかり夕暮れに染まっていた。


 宿の食堂で夕食を済ませた後、一行は借りている部屋へ集まった。


 卓上には、図書館で書き写した覇王石の記録と、気術の書下巻が並べられている。


 シグマは椅子へ腰を下ろし、今日起きたことを順に紙へ書き留めていた。


 獣王石は、未来への失望を糧とする。


 恐怖や不安を押し殺そうとするほど、かえって心が乱れ、力が強まることがある。


 気術を使って呼吸と気を整えれば、獣王石の反応を弱められる可能性がある。


 そして、義手を通して気を放とうとすると、覇王石の力が混ざる。


 まだ一度試しただけだ。


 確かなことばかりではない。


 それでも、今後も鍛錬を続けるなら、記録を残しておく必要があった。


「まだ書いとるん?」


 寝台に腰掛けていたシルフが、卓上を覗き込んでくる。


「忘れないうちにまとめておきたい」


「今日は図書館で暴走しかけて、その後すぐに気術の鍛錬までしたんやで。少しは休んだ方がええんちゃう?」


「これが終わったら休む」


「その言葉、何回聞いたやろなあ」


 シルフが呆れたように肩を落とす。


 床に座っていたフェルンも、心配そうにシグマを見上げていた。


「シグマ、疲れた?」


「少しだけだ」


「大丈夫?」


「ああ」


「今日、その言葉を禁止にした方がいいんじゃない?」


 白鬼が口を挟む。


「シグマの大丈夫は、あんまり信用できないから」


「そこまで信用がないのか?」


「図書館の机を結晶にした後で、街の外へ行って新しい技を試す人の言葉だからね」


「反論できねえだろ」


 紅蓮に言われ、シグマは黙って筆を置いた。


「分かった。今日はここまでにする」


「随分と素直ですね」


 黒鬼が僅かに笑う。


「ハクに止められたのが効いたんじゃない?」


「別に、ハクに言われたからではない」


「ほんなら、うちらが言った時にも止まってや」


 シルフの言葉に、白鬼と黒鬼が揃って頷いた。


 シグマは返事をせず、書き終えた紙を重ねた。


 その一番上には、図書館で見た被害の記録が書き写されている。


 獣王石によって石へ変えられた人々。


 身体の一部を結晶に侵され、命を落とした者たち。


 シグマの視線が、その記述で止まった。


「どうした?」


 紅蓮が尋ねる。


「調べていないことがある」


「覇王石についてか?」


「石化と結晶化を治す方法だ」


 部屋の空気が静まった。


 シグマは書き写した紙を卓上へ広げる。


「図書館で調べたのは、獣王石がどのような力を持ち、何を糧にしているのかということだけだ。石や結晶に変えられた者を元に戻せるのかまでは確認していない」


「そんな余裕、なかったやろ」


 シルフが言う。


「あのまま調べ続けて、もう一回暴走した方が危なかったで」


「分かっている。だから、明日もう一度行く」


「また図書館へ行くの?」


 白鬼が目を丸くする。


「ああ。万が一、獣王石が暴走し、誰かを石や結晶へ変えてしまった時のためだ」


 シグマは自らの左義手を見下ろした。


 今日の暴走では、閲覧台の端が結晶化しただけで済んだ。


 だが、近くにいたシルフや司書へ力が及ばなかったのは、ただ運がよかっただけかもしれない。


 もし、あの結晶が人間の身体へ伸びていたら。


 その時に治す方法を知らなければ、取り返しがつかない。


「俺が制御できれば、それが一番いい。だが、絶対に暴走させないと言い切れる段階ではない」


「そうだな」


 紅蓮が腕を組む。


「止める方法だけじゃ足りねえ。起きた後のことも考えておくべきだ」


「私も行こうか?」


 黒鬼が尋ねる。


「治療や術に関する記録なら、シグマたちより見つけやすいかもしれないよ」


「いや、明日は俺とシルフで行く。覇王石に関する閲覧許可は、俺たち二人に出されているからな」


「またうちも一緒なん?」


「嫌か?」


「嫌とは言っとらん。ただ、明日は机を丸ごと結晶にせんといてな」


「気をつける」


「暴走しそうになったら、すぐ離れるんやで」


「ああ」


「もう少し反省しとる感じを出してくれてもええんやけど……」


 シルフが深く息を吐く。


「それなら明日の鍛錬は中止だな」


 紅蓮が告げた。


「図書館から戻ってきた後も、街の外へ行くつもりだったんだろ」


「そのつもりだった」


「休め」


「だが――」


「今日は予想以上に気を消耗したんだ。明日は調査だけにしておけ」


「私も賛成」


 白鬼がすぐに手を上げる。


「私も」


 黒鬼も続く。


「うちも賛成や」


「フェルンも」


 全員から止められ、シグマは言葉を失った。


「……分かった」


「最初からそう言えばいいんだ」


 紅蓮が満足そうに頷く。


 シグマはもう一度、獣王石の被害について書き写した紙へ目を向けた。


 心を鍛え、暴走を防ぐ。


 それだけでは足りない。


 もしもの時に、傷つけてしまった者を救う方法も必要だった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 シグマとシルフは、再び王都図書館を訪れた。


 昨日と同じ司書へ事情を伝えると、すぐに制限区画へ案内された。


 結晶化した閲覧台の周囲には縄が張られ、誰も近づけないよう処置が施されている。


 結晶は昨日と同じ範囲で成長を止めていた。


 それでも、陽光を反射する白い表面は、獣王石の力が今も残っていることを思わせた。


「腕に異常はありませんか?」


 司書が慎重に尋ねる。


「今のところは」


「昨日の木箱には近づかないでください。王城から調査の指示が届くまで、封鎖することになりました」


「分かりました。今日は、あの記録を見るために来たわけではありません」


「では、何をお探しですか?」


「獣王石による石化と結晶化についてです」


 シグマは結晶化した閲覧台へ目を向けた。


「人間が獣王石の力を受けた場合、元へ戻す方法があるのか。それを調べたい」


 司書は僅かに考えた後、手元の目録を開いた。


「治療記録や災害後の報告書を調べれば、何か見つかるかもしれません。ただ、昨日の災禍記録ほど詳しく整理されてはいないと思います」


「構いません。確認できるものは、全て見せてください」


「承知しました」


 司書の案内で、二人は制限区画の奥へ進んだ。


 運び出されたのは、古い治療記録や各地の災害報告、旅人や医師が残した手記だった。


 覇王石について直接書かれたものは少ない。


 表紙や目録に獣王石の名がなくても、石化や結晶化について触れられている記録を一冊ずつ確認する必要があった。


 シグマとシルフは向かい合って座り、手分けして頁をめくり始めた。


 最初に見つかったのは、石化を魔術によって治そうとした記録だった。


 治癒術。


 解呪術。


 土の魔術による干渉。


 魔力を吸収する術具。


 考えられる限りの方法が試されていた。


 しかし、そのどれも獣王石によって引き起こされた石化には効果がなかった。


「普通の石化とは違うみたいやな」


 シルフが顔を上げる。


「ああ。状態異常を引き起こす魔術ではなく、身体そのものが石へ変えられているらしい」


「ほんなら、解呪しても戻らんのか」


「そう書かれている」


 獣王石の力を受けた者は、表面だけを石で覆われるわけではない。


 皮膚も、血も、骨も、石や結晶へ変化する。


 魔術によって作られた拘束を解除するのとは違い、既に変化した身体を元の状態へ戻さなければならなかった。


 結晶化についても同様だった。


 身体から結晶を削り取れば、その部分は傷として残る。


 無理に砕けば、石や結晶へ変わっていない箇所まで傷つけ、命を奪う危険がある。


「削り取るのも駄目か……」


 シグマが呟く。


「机やったら削れるかもしれんけど、人の身体では無理やな」


「ああ」


 頁を進めるほど、治療に失敗した記録ばかりが増えていく。


 完全に石化した者を元へ戻せなかった例。


 結晶化の進行を止められず、身体の大半を侵された例。


 一度は進行を抑えても、数日後に再び結晶が広がった例もあった。


 確実な治療法は、どの記録にも残されていない。


 やがてシルフが、疲れたように頁を閉じた。


「ほんまに、治せへんのかな……」


「まだ全部を確認したわけではない」


「せやけど、これだけ探しても失敗した話ばっかりやで」


「失敗の記録が残っているなら、成功した記録がどこかにある可能性もある」


「そうやとええけど……」


 シグマは次の本へ手を伸ばした。


 焦りが生まれている。


 それを自覚し、一度呼吸を整える。


 未来を諦める心が、獣王石へ力を与える。


 治療法が見つからないと決まったわけではない。


 今はただ、探し続けるしかなかった。


 それからしばらく経った頃、シグマは一冊の古い報告書を手に取った。


 革の表紙は湿気で歪み、題名の半分が読めなくなっている。


 残っていたのは、二百年前に獣王石の災害が起きた後、各地へ運ばれた被害者についてまとめた記録だった。


「シルフ」


「何かあったん?」


「これを見てくれ」


 二人で報告書を覗き込む。


 獣王石が暴走した際、僅かではあるが、完全に石化する前に災害地域から救出された者たちがいた。


 身体の一部を石へ変えられた者。


 手足や胸元を結晶に侵された者。


 その多くは治療を受けても回復せず、時間とともに衰弱していった。


 しかし、全ての被害者が命を落としたわけではなかった。


 記録の途中に、別の土地へ移送された者たちについて書かれた項目がある。


 移送先として記されていたのは、シルトウォーデンだった。


「シルトウォーデン……」


 シルフが地名を読み上げる。


「そこへ運ばれた者の一部は、生きて戻っている」


「ほんまに?」


「ああ」


 シグマは慎重に文字を追った。


 そこには、はっきりと記されていた。


 獣王石の力によって石化した者。


 同じく、身体を結晶へ変えられた者。


 シルトウォーデンへ運ばれた彼らは、その地に伝わる仙気を用いた秘術によって治療を受けた。


 石へ変わっていた身体は元の肉体へ戻り、広がっていた結晶も消えた。


 治療を受けた者たちは意識を取り戻し、自らの足で故郷へ帰ったという。


「治ったんや……」


「ああ。獣王石による石化も、結晶化も、仙気で治せる」


 これまで見つかった失敗の記録とは違う。


 石化の進行を止めただけではない。


 結晶を削り取ったわけでもない。


 獣王石によって変えられた身体を、元の姿へ戻したと明確に書かれている。


「仙気って、気術に使う気と同じもんなん?」


「分からない」


 シグマは続きへ目を向けた。


 しかし、記録されていたのは治療が成功したという事実だけだった。


 仙気をどのように扱ったのか。


 どのような手順で石化や結晶化を解いたのか。


 誰が秘術を使ったのか。


 シルトウォーデンのどの地域に、その術が伝わっていたのか。


 肝心な部分は何も残されていなかった。


 報告書を書いた者も、治療へ立ち会ってはいない。


 回復した被害者から話を聞き、結果だけを記したらしい。


「方法は書いとらんな」


「ああ」


「治ったことしか分からへん」


「それでも十分だ」


 シグマは報告書を見つめた。


「治す方法が存在しないのと、どこかに存在するのでは大きく違う」


「でも、シルトウォーデンのどこへ行けばええかも分からんで」


「今すぐ使える対策ではない。それでも、手掛かりにはなる」


 獣王石の力を暴走させれば、誰かを石や結晶へ変えてしまうかもしれない。


 その危険が消えたわけではない。


 治療法があるからといって、暴走させてもいい理由にはならない。


 だが、一度変えられたら二度と戻せないわけではなかった。


 元の姿へ戻った者が、確かに存在している。


 その事実だけでも、昨日までとは違う。


「この頁を書き写す」


 シグマが紙を引き寄せる。


「地名と、仙気という言葉もだ」


「うちも手伝う」


 二人は欠けた文字まで間違えないよう、慎重に記録を写し始めた。


 その間、司書は別の棚からシルトウォーデンに関する資料を探してくれた。


 しかし、仙気や秘術について詳しく記されたものは見つからなかった。


 古い地図にもシルトウォーデンの広い領域が記されているだけで、秘術が伝わっていた場所までは分からない。


「申し訳ありません」


 司書が残念そうに首を横へ振る。


「当館に残されている記録では、これ以上は追えないようです」


「いえ。治療に成功した記録が見つかっただけでも十分です」


「仙気という言葉についても、詳しい資料はありません。シルトウォーデンの一部地域で扱われていた力、ということしか……」


「その秘術は、今も残っていると思いますか?」


「分かりません。二百年前の記録ですから、既に失われている可能性もあります」


 司書は一度言葉を切り、報告書へ目を落とした。


「ですが、当時その術を受けた者が回復したことは、複数の記録から確認できます。少なくとも、作り話ではないでしょう」


「獣王石による石化と結晶化が、仙気で治ったことは確かなんですね」


「はい。その点に関しては、間違いないと思います」


 シグマは静かに頷いた。


 必要な箇所を書き写し終えると、二人は資料を司書へ返した。


 結晶化した閲覧台の前を通る際、シグマは一度だけ足を止める。


「この机も、仙気で元に戻せるんかな?」


 シルフが尋ねる。


「記録にあったのは、人間を治療した例だけだ。物まで戻せるかは分からない」


「試すにしても、仙気を使える人がおらんしな」


「ああ」


 今はまだ、何もできない。


 それでも、白い結晶を見た時に感じるものは昨日とは少し違っていた。


 絶対に戻せないものではない。


 少なくとも人間に対しては、獣王石の変化を覆した者がいる。


 シグマは閲覧台から目を離し、制限区画を後にした。


 ◇ ◇ ◇


 宿へ戻ると、紅蓮たちは出発に必要な荷物を整理していた。


「おかえり!」


 白鬼が駆け寄ってくる。


「何か見つかった?」


「ああ」


 シグマは図書館で書き写した紙を卓上へ広げた。


「獣王石による石化と結晶化を治した記録があった」


「治せるの?」


「過去には治した者がいる」


 白鬼と黒鬼が同時に紙を覗き込む。


 フェルンも二人の間から顔を出した。


「どうやって治すんだ?」


 紅蓮が尋ねる。


「仙気と呼ばれる力を用いた秘術らしい」


「仙気?」


「シルトウォーデンの一部地域に伝わっていたものだ。獣王石で石にされた者も、身体を結晶に侵された者も、その秘術で元の姿へ戻ったと記されていた」


「それなら、もしもの時も助けられるんだね」


 白鬼の表情が明るくなる。


「いや、まだ安心はできない」


 シグマは首を横へ振った。


「治療の手順は残されていなかった。術を使った者の名前も、シルトウォーデンのどの地域に秘術が伝わっていたのかも分からない」


「今も残っているかどうかも、分からないんですね」


 黒鬼が紙の文字を追いながら言う。


「ああ。分かったのは、獣王石による石化と結晶化が、仙気で治ったという事実だけだ」


「でも、治らんわけやないんやろ?」


 シルフが皆へ向かって言う。


「方法は分からんけど、実際に元へ戻った人がおる。そこは間違いないみたいやで」


 紅蓮はしばらく考え込んだ後、静かに頷いた。


「なら、その記録は大事に持っておけ。今すぐ使えなくても、いつか必要になるかもしれねえ」


「ああ」


 シグマは書き写した紙を折り畳み、気術の書とともに荷物へ収めた。


「シグマ」


 フェルンが左義手へ触れる。


「石になっても、治る?」


「ああ。仙気を使えれば治せる」


「シグマ、使える?」


「まだ使えない」


「覚える?」


「必要なら、その方法も探す」


 シグマが答えると、フェルンは安心したように左義手を握った。


「ですが、まずは石化させないことですね」


 黒鬼がシグマへ視線を向ける。


「分かっている」


「仙気で治せると知ったからって、無茶に獣王石を使わないでよ」


 白鬼も釘を刺す。


「治療法があるかもしれないというだけで、今は使えないんだからね」


「ああ」


「なんか返事が軽いなあ」


「理解している」


「ならええけど」


 シルフは疑うようにシグマを見たが、それ以上は言わなかった。


 その時、部屋の扉が叩かれた。


 紅蓮が警戒しながら扉を開くと、宿の従業員が封書を持って立っていた。


「王城から使いの方が届けに来られました」


「王城から?」


 紅蓮が封書を受け取り、扉を閉める。


 封には王家の紋章が押されていた。


 シグマが中の書状を確認する。


 原生林へ派遣されていた調査隊が、王都へ帰還した。


 報告の整理が終わり、シグマたちが原生林へ立ち入る許可も下りたという。


 翌朝、王城へ来るよう記されていた。


「ようやく戻ってきたか」


 紅蓮が荷物へ目を向ける。


「なら、出発も近いな」


「原生林へ行けるの?」


 白鬼の声が弾む。


「ああ。明日、詳しい報告を聞くことになる」


「今日は休むって約束したんやから、今から鍛錬に行ったらあかんで」


 シルフが先回りして告げる。


「行くつもりはない」


「ほんまに?」


「明日に備えて休む」


「やっと学習したんだね」


 白鬼が感心したように言う。


「そこまで驚くことか?」


「驚くことだろ」


 紅蓮が即座に答えた。


 部屋に小さな笑い声が広がる。


 シグマは王城から届いた書状を畳み、先ほどの記録の隣へ置いた。


 獣王石は、未来への失望を糧とする。


 だが、石や結晶へ変えられた者たちの未来を取り戻した術も、かつて存在していた。


 その名は、仙気。


 詳しいことは、まだ何も分からない。


 それでも、失われた未来を元へ戻す力があると知った。


 シグマは左義手を握り締める。


 獣王石は反応しなかった。


 原生林の先に何が待っているのかは分からない。


 それでも、進むための理由は、昨日より一つ増えていた。

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