第二十八話 新たな力
ミルザードを発つ予定だった日の朝。
シグマたちは旅支度を整えることなく、宿の食堂で朝食を囲んでいた。
本来なら、日の出とともに街を出る予定だった。
それを一日遅らせると決めたのは、昨夜のことである。
「やっぱり、街を出る前に試しておいた方がいいよね」
白鬼がパンをちぎりながら、シグマの両腕へ目を向ける。
左右の義手には、昨日ドルドとヒルメアに装着してもらった制御具が取り付けられていた。
黒鋼で作られた輪の内側には細い魔銀線が張り巡らされ、複数の小さな魔石が埋め込まれている。それぞれの前腕を挟むように二つずつ固定され、義手から溢れた魔力を一時的に受け止め、分散させる仕組みだった。
工房では僅かな魔力を流し、左右とも正常に作動することまでは確認できている。
しかし、左義手で作り出した魔石弾を右義手に装填し、実際に発射する機能は、まだ一度も試していなかった。
「旅の途中でいきなり使うよりは、その方がいい」
黒鬼も白鬼に同意した。
「ただ、ドルドも言っていたけど、制御具があるから絶対に安全というわけじゃない。少しでもおかしいと思ったら、すぐにやめて」
「ああ。分かっている」
「シグマの『分かっている』は、あまり信用できない」
隣に座るフェルンが、シグマの左手を握ったまま言った。
「そんなにはっきり言わなくても……」
「無茶するから」
「せやな。これまでのこと考えたら、フェルンの方が正しいで」
シルフまで同意すると、シグマは反論できなくなった。
向かいの席では、紅蓮が呆れたように息を吐いている。
「昨日も話しただろ。制御具がどう動くのか、自分の体にどれだけ負担がかかるのか。それを確かめるために出発を遅らせるんだ。威力を見せるためじゃない」
「分かっている。最初から強い魔力を使うつもりはない」
「本当かなあ」
白鬼が疑うようにシグマを見つめる。
「わたし、シグマが何かを試すときって、毎回すごいことになる気がする」
「今回はドルドとヒルメアも一緒だ。危険だと思ったら、二人が止めてくれる」
「その二人が一番楽しみにしてそうなんだけど」
白鬼に言われ、全員が黙り込む。
否定できる者は一人もいなかった。
「それに、茜も来るんだろ?」
紅蓮に尋ねられ、シグマは頷いた。
「ああ。制御具だけじゃなく、俺が気術を使って力を抑えられるかも確認するそうだ」
「まだ右脚に一瞬集められるようになっただけやろ?」
「だからこそ、見ておきたいらしい」
五日間の修行を経て、シグマは呼吸によって体内の生命力と魔力を巡らせ、その流れを一か所へ集める感覚を掴み始めていた。
今のところ、確実に成功するのは右脚だけ。
それも、ほんの一瞬である。
茜からは毎朝の呼吸と走り込みを欠かさず、当分は脚への集中だけを繰り返すように言われている。
旅に出たからといって、修行が終わるわけではなかった。
「食べ終わったなら行くぞ!」
突然、食堂の入り口から大きな声が響いた。
宿にいた客たちが驚いて振り返る。
そこには、白髪を高い位置で束ねた茜が立っていた。
その後ろには、大きな工具鞄を背負ったドルドと、紙束や測定器を抱えたヒルメアもいる。
「茜、声が大きい」
「朝から元気がないよりいいだろ」
紅蓮に指摘されても、茜はまったく気にしていなかった。
そのまま食堂へ入ると、シグマの右隣にあった空席へ腰を下ろす。
「準備はできてるな?」
「まだ食べ終わっていない」
「遅い。修行中はもっと早かっただろ」
「修行中は、茜が夜明け前に起こしに来ていたからな」
「一人で起きられない弟子を起こしてやったんだ。感謝しろ」
「起きられないとは言ってない」
「同じようなものだ」
豪快に笑う茜を見て、白鬼も楽しそうに笑った。
五日という短い期間ではあったが、茜はすっかり一行に馴染んでいた。
「それより、本当に街の外で撃つのか?」
シグマが確認すると、ドルドが身を乗り出した。
「当たり前だ! 工房で試せるわけねえだろ!」
「工房どころか、街の近くでも危険です」
ヒルメアが眼鏡を押し上げながら、ドルドの言葉を補う。
「西門から街道を外れた先に、採掘を終えた古い採石場があります。今は使われていないそうなので、そこで試しましょう」
「標的にできそうな岩も残っている。周りに人がいないことも確認してあるぞ」
ドルドは嬉しそうに笑っていた。
「左腕が作った魔石弾を右腕へ装填して撃つ。話だけでも面白かったが、ようやく実際に見られるんだ!」
「やっぱり、ドルドが一番楽しみにしてるよね」
白鬼の呟きに、ヒルメアが困ったように笑う。
「すみません。昨夜からずっとこの調子で……」
「お前だって何度も測定器を確認してたじゃねえか」
「私は万一に備えていたんです」
「同じだろ」
「違います」
二人の言い合いが始まったところで、茜がテーブルを軽く叩いた。
「遊びに行くんじゃないぞ」
その声に、ドルドとヒルメアが同時に口を閉じる。
「制御具がうまく動いても、シグマが力を抑えられなければ危険なのは変わらない。あたしが止めろと言ったら、その場でやめさせる。それでいいな?」
「ああ。俺もそのつもりだ」
「なら、さっさと食べろ。日が高くなる前に出るぞ」
「だから、今食べている」
急かされながら朝食を終えたシグマたちは、茜、ドルド、ヒルメアとともに宿を出た。
西門を抜けて街道を進み、途中から人の通らない細い道へ入る。
しばらく進むと、削り取られた岩肌に囲まれた広い場所へ出た。
かつて石材を切り出していた採石場らしく、周囲には人の背丈を超える岩がいくつも残されている。
ドルドとヒルメアは、周囲に人がいないことをもう一度確認すると、持ってきた道具を地面へ並べ始めた。
「まずは制御具の確認をします」
ヒルメアがシグマの左腕を取り、二重に固定された輪を一つずつ調べていく。
ひび割れや魔銀線の断裂がないかを確かめ、小魔石の状態も確認する。
続いて右腕も同じように調べた。
「異常はありません。昨日、工房で確認したときと同じ状態です」
「左腕に吸収させる魔法は、できるだけ弱いものにしろ」
ドルドが制御具の留め具を締め直しながら言う。
「制御具は、獣王石や炎帝石の力を封じるためのものじゃねえ。溢れた魔力を一時的に受け止めて、体へ一気に流れ込むのを遅らせるだけだ」
「時間を作るためのものだったな」
「ああ。その間にお前が力を止めるか、腕の機能を切る。制御具が光り続けたり、小魔石に亀裂が入ったりしたら、すぐに中止だ」
「分かった」
説明を聞いていた茜が、シグマの正面に立つ。
「昨日教えた呼吸は覚えてるな?」
「ああ」
「義手だけに意識を向けるな。まずは足の裏で地面を感じろ。そこから息に合わせて、体の中を巡っている力を意識するんだ」
シグマは静かに呼吸を整えた。
五日間、何度も繰り返した呼吸だった。
鼻からゆっくり息を吸い、体内を巡る生命力と魔力を意識する。
その流れを乱さないようにしながら、口から細く息を吐く。
「右脚に集めるときとは違う。今回は一か所へ集めるんじゃない。体全体へ均等に巡らせたまま、義手へ流れる力を感じろ」
「やってみる」
「無理に動かそうとするなよ。今のお前は、まだ気を動かすことに慣れ始めたばかりだ」
茜の言葉に頷き、シグマは左腕を前へ出した。
「魔法は誰が使う?」
「うちがやる」
シルフが一歩前へ出る。
「風なら、魔力の流れもうちが見やすい。最初はほんまに弱くするで」
「頼む」
シグマとシルフが、少し距離を取って向かい合う。
紅蓮たちは二人から離れ、ドルドとヒルメアの後ろまで下がった。
フェルンは最後までシグマの傍に残ろうとしたが、黒鬼がその手を取る。
「今はこっちにいよう」
「でも……」
「シグマが集中できなくなる」
黒鬼に言われ、フェルンは渋々シグマから離れた。
それでも心配そうな視線は、シグマの左腕へ向けられたままだった。
「準備できたで」
シルフの手のひらに、小さな風の塊が作られる。
攻撃魔法と呼ぶには弱く、人に当たっても少し押される程度のものだった。
「いつでもいい」
「ほな、いくで」
シルフが手を前へ出す。
小さな風の塊が放たれ、シグマの左手へ向かって真っ直ぐ飛んだ。
シグマは左手のひらで、それを受け止める。
風が弾けることはなかった。
獣王石が反応し、風に含まれていた魔力を吸収していく。
左義手の内部へ流れ込んだ魔力が圧縮され、別の形へ変化していくのが分かった。
同時に、前腕へ取り付けられた制御具の小魔石が淡く光る。
「制御具、正常に作動しています」
ヒルメアが測定器を確認しながら声を上げる。
「魔力の急激な上昇もありません。そのまま続けてください」
やがて左義手の一部が開き、内部から細長い魔石が姿を現した。
シグマは右手でそれを抜き取る。
透明に近い魔石の中で、シルフから吸収した風の魔力が淡い緑色の光となって揺れていた。
「できた……」
白鬼が目を輝かせる。
「それが魔石弾?」
「ああ。形も昨日見せてもらったものと同じだ」
シグマは細長い魔石弾を確かめた。
左腕で魔法を吸収し、魔力として取り込み、魔石弾へ変換する。
ここまでは、ドルドとヒルメアが調べたとおりだった。
問題は、この先である。
「次は右腕だ」
ドルドが真剣な表情で言った。
「右義手の装填口を開けろ。無理にこじ開けるなよ。自分の腕を動かすときと同じように、開くよう意識しろ」
シグマは右義手へ意識を向ける。
小さな金属音が鳴り、前腕部分の一部が細く開いた。
その内側には、魔石弾を収めるための空間がある。
シグマが魔石弾を差し込むと、義手の内部へ吸い込まれるように収まった。
装填口が閉じる。
直後、右腕の中で炎帝石が反応した。
「……っ」
右腕の内側から、熱が広がる。
魔石弾に蓄えられた風の魔力へ、炎帝石の力が流れ込もうとしていた。
制御具に埋め込まれた小魔石が、一つ、また一つと赤く光る。
「シグマ、呼吸を乱すな!」
茜の声が飛ぶ。
シグマは右腕へ向きかけた意識を、全身へ戻した。
足の裏で地面を捉え、ゆっくりと息を吸う。
体内を巡る力を感じながら、右腕へ流れ込もうとする熱を押さえ込む。
完全に止めることはできない。
それでも、以前のように力が一気に全身へ流れ込んでくることはなかった。
制御具が溢れた魔力を受け止め、小魔石へ分散している。
「どうだ?」
茜が尋ねる。
「熱はある。でも、意識ははっきりしている。腕の状態も分かる」
「怒りが強くなったり、頭の中がぼやけたりは?」
「今のところはない」
「なら、そのまま維持しろ。撃つことを急ぐな」
シグマは頷き、正面に置かれた大岩へ右腕を向けた。
ドルドとヒルメアも測定器を持ったまま後方へ下がる。
「狙うのは、あの岩だけだ」
ドルドが大岩を指差す。
「最初だからな。魔石弾の力を全部出そうとするな。ほんの少し押し出すだけでいい」
「ああ」
「制御具に異常が出たら、すぐに腕を下ろしてください」
ヒルメアが小魔石の状態を注意深く見つめている。
右義手の手のひらに、淡い光が集まり始めた。
風と炎。
二つの力が魔石弾の中で混ざり合い、外へ放たれようとしている。
「撃てるか?」
茜の問いに、シグマは正面の岩を見据えたまま答えた。
「やってみる」
「気を抜くなよ。何かおかしいと思ったら、撃たずに止めろ」
「分かった」
呼吸を整える。
足の裏から体の中心へ。
体の中心から右肩へ。
そこから先は、義手の内側にある熱を感じながら、流れを乱さないようにする。
右手のひらに集まっていた光が、さらに強くなった。
「いくぞ」
シグマは右義手の発射機能を作動させた。
次の瞬間。
採石場を揺るがす轟音とともに、炎を纏った風の弾丸が放たれた。
大岩へ命中した直後、風が内側から弾ける。
炎を巻き込んだ爆風が周囲へ広がり、人の背丈を大きく超える岩が一瞬で砕け散った。
さらに、岩を貫いた力がその後ろの地面まで抉る。
砕けた石片が空高く舞い上がり、遅れて周囲へ降り注いだ。
紅蓮たちのいる場所まで熱風が押し寄せる。
「うわっ!」
白鬼が咄嗟に黒鬼の後ろへ隠れた。
シルフは風の障壁を作り、飛んできた細かな石片を逸らす。
爆風が収まったあとには、大岩があった場所を中心に、大きく抉れた地面だけが残されていた。
静まり返った採石場に、小さな石が転がる音が響く。
「……今の、ほんまにうちの弱い風魔法なん?」
シルフが呆然と呟いた。
「弱い魔法だったはずだ」
紅蓮も抉れた地面を見つめたまま動かない。
「それを吸収して作った魔石弾が、どうしてこんな威力になるんだ……」
「シグマ、大丈夫?」
フェルンが真っ先に駆け出した。
黒鬼もその後を追い、二人でシグマの左右から義手を確かめる。
「怪我は?」
「ない。少し右腕が熱いだけだ」
「本当に?」
「ああ。意識もはっきりしている」
黒鬼はシグマの言葉だけでは安心できないのか、右腕の制御具へ目を向けた。
埋め込まれた小魔石は赤く光っていたが、既に少しずつ元の色へ戻り始めている。
亀裂も見当たらない。
「制御具も壊れていないみたい」
「よかった……」
フェルンは安心したように息を吐くと、シグマの外套を強く掴んだ。
一方、少し離れた場所では、白鬼が砕けた大岩とシグマを何度も見比べている。
「これ……強すぎない?」
「強すぎるな」
紅蓮が即答した。
「今のを旅の途中で使われたら、近くにいる俺たちまで巻き込まれかねない」
「うちも、もっと離れとけばよかったと思ったわ……」
シルフまで顔を引きつらせている。
仲間たちが揃って引いている中、ドルドとヒルメアだけは違った。
「成功だ!」
ドルドが両拳を突き上げ、大声で笑う。
「見たか、ヒルメア! 左腕で作った魔石弾を、右腕から問題なく撃ち出したぞ!」
「見ていました! 制御具も正常に作動しています!」
ヒルメアも興奮を隠せず、眼鏡の位置を直しながら測定器とシグマの右腕を交互に見ていた。
「発射直前に魔力が大きく上昇しましたが、急激な流入は抑えられています。小魔石への分散も成功しています!」
「やっぱり俺たちの考えは正しかったんだ!」
「ですが、威力は想定を大きく超えています!」
「最高じゃねえか!」
「喜んでいる場合ではありません!」
言いながらも、ヒルメアの表情には笑みが浮かんでいた。
二人にとっては、自分たちの考えた仕組みが実際に動いたことが何より嬉しいらしい。
シグマは抉れた地面へ目を向けた。
「これだけの威力があるなら、強い魔獣が相手でも役に立つ」
「お前もそっち側か!」
紅蓮が思わず声を上げる。
「役に立つかもしれないが、今のお前には危険すぎると言っているんだ!」
「でも、使い方を間違えなければ――」
「その使い方ができていない」
茜の声が、シグマの言葉を遮った。
先ほどまで黙って様子を見ていた茜は、笑っていなかった。
砕けた岩の跡を一度見たあと、シグマの前まで歩いてくる。
「右腕を出せ」
シグマが差し出した右義手に、茜が手を添える。
制御具ではなく、その奥にあるシグマ自身の状態を探るように目を閉じた。
しばらくして手を離す。
「制御具は働いた。お前も意識を失わずに済んだ。そこまではいい」
「なら――」
「だが、撃つ直前に呼吸が止まった」
シグマは言葉を失った。
「右腕の力に引かれて、体内を巡らせていた気が全部そっちへ偏った。撃った瞬間には足元も崩れていた。自分でも分かっていただろ?」
「……ああ」
発射の瞬間、右腕へ意識を奪われた。
茜に教えられた呼吸も、体内の気の流れも、頭から抜け落ちていた。
大岩が動かない標的だったから当てられたにすぎない。
「この力自体は役に立つ。そこは認める」
茜は抉れた地面へ顎を向けた。
「だが、今のままじゃ敵だけじゃなく、仲間まで吹き飛ばす。撃ったあとに別の魔獣から襲われても、お前はすぐには動けない」
シグマの右脚は、僅かに震えていた。
義手に痛みはない。
しかし、発射の反動を受け止めるために全身へ力を入れたことで、気を集めていた右脚へ負担がかかっている。
「出発は、もう少し先にしろ」
茜が言った。
「一日では足りない。あと数日、あたしが仕込む」
「まだ滞在するのか?」
「嫌なのか?」
「そういうわけではない。ただ、随分長くミルザードにいることになる」
「数日遅れたくらいで何だ。仲間を巻き込んで後悔するより、ずっとましだろ」
シグマは仲間たちへ目を向けた。
「俺は茜に賛成だ」
紅蓮が迷わず答える。
「この威力を見たあとで、すぐに出発しようとは思えない」
「わたしも。シグマがちゃんと止められるようになるまで、練習した方がいいと思う」
白鬼も続いた。
「もう一度使ったときも、無事でいられるとは限らないから」
黒鬼の言葉に、フェルンも何度も頷く。
「シグマが倒れなくなるまで、ここにいる」
「うちも賛成や。旅の途中でも修行はできるやろうけど、茜から直接教えてもらえるのは今だけやからな」
全員の意見を聞き、シグマも頷いた。
「分かった。もう数日、ミルザードに残る」
「決まりだな!」
茜は先ほどまでの険しい表情を一変させ、豪快に笑った。
「そうと決まれば、午後から稽古だ! まずは、どんな状況でも呼吸を止めないように叩き込んでやる!」
「今撃ったばかりなんだが……」
「怪我はしてないんだろ?」
「してはいない」
「なら動ける!」
茜がシグマの背中を強く叩く。
その勢いでシグマが一歩よろめくと、紅蓮たちから笑いが漏れた。
「俺たちも作り直すぞ、ヒルメア!」
ドルドは右腕の制御具を指差した。
「今のままでも役目は果たしてる。だが、出力の調整が大雑把すぎる。もっと細かく魔力を逃がせるようにする」
「そうですね。魔石弾へ炎帝石の力が流れ込む量も調整できるようにしましょう」
「できるのか?」
シグマが尋ねると、ドルドは胸を張った。
「誰に聞いてやがる。お前が気術を使えるようになるまでに、こっちも新しい制御具を完成させてやる」
「今度は腕輪だけで調整できるように考えてみます。シグマさんが戦いながら操作できる形にしないといけませんね」
「頼めるか?」
「もちろんです」
ヒルメアは穏やかに笑った。
「これほど興味深い義手を調べさせてもらっているんです。最後までやらせてください」
「決まりだ! 戻るぞ!」
茜が先頭に立ち、ミルザードへ向かって歩き始める。
その後ろでは、ドルドとヒルメアが新しい制御具について早くも話し合っていた。
紅蓮たちは、先ほどの一撃で大きく抉れた採石場を振り返る。
「本当に、あれを使えるようにするのか……」
白鬼が不安そうに呟く。
「使いこなせれば大きな力になる」
シグマが答えると、白鬼は頬を膨らませた。
「その前に、わたしたちを巻き込まないでよね」
「気をつける」
「気をつけるだけじゃなくて、ちゃんと使えるようになって」
「ああ。今度こそ」
シグマは右義手へ目を落とした。
思っていた以上に強力だった、新たな機能。
使いこなせれば、仲間を守るための力になる。
だが、扱いを誤れば、守りたい仲間を傷つけかねない。
その力を自分のものにするため、シグマたちはミルザードでの滞在を、さらに数日延ばすことになった。
それからの数日間、シグマは引き続き茜の道場へ通った。
朝日が昇る前から走り込みを行い、道場へ戻ると呼吸を整える。
体内の生命力と魔力を呼吸に合わせて巡らせ、必要な場所へ気を集める。
右脚へ一瞬だけ気を集めることは、以前よりも安定してできるようになっていた。
次に茜が教えたのは、脚へ集めた気を踏み込みだけで終わらせず、腰、肩、拳へつなげる方法だった。
「気を一か所に溜め込むな!」
道場の中央で構えるシグマへ、茜の声が飛ぶ。
「右脚へ集めたら、踏み込みと一緒に腰へ通せ! 腰から肩、最後に拳だ!」
シグマは呼吸を整え、右脚へ気を集めた。
足の裏で道場の床を捉え、一歩踏み込む。
右脚に集めた気を腰へ。
そこから肩を通し、右拳へ流そうとする。
しかし、拳を突き出す直前に流れが途切れた。
乾いた音が響いたものの、拳に気は乗っていない。
「また肩で止まったぞ」
「分かっている」
「分かってるなら、できるまで続けろ!」
茜はシグマの背後へ回り、肩を軽く叩いた。
「お前は腕を意識しすぎだ。義手だからって、そこで別のものだと思うな。肩の先にある、お前自身の腕だ」
シグマは自分の右義手を見る。
義手の状態で目覚めてから、一年半。
ジークから教わった格闘術を使い、両腕が義手であることを補う戦い方を身につけてきた。
だが、気術を使おうとした瞬間、無意識に生身の体と義手を別のものとして考えてしまう。
「お前がジークから教わった動きを変える必要はない」
茜はシグマの構えを確かめながら続ける。
「格闘術そのものは十分に身についてる。新しい技を一から覚えようとするな。今までの動きの中へ、呼吸と気の流れを加えろ」
「今までどおりに動けばいいのか?」
「ああ。難しく考えるから流れが止まるんだ」
茜が一歩下がる。
「もう一度だ」
シグマは目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。
構えを取り直す。
無理に気を動かそうとはせず、これまで何度も繰り返してきた動きに集中する。
右足を前へ出し、腰を落とす。
呼吸に合わせて体内を巡っていた気を、一瞬だけ右脚へ集めた。
床を踏み込む。
その力を腰へつなぎ、肩を回しながら右拳を突き出す。
今度は途中で止めようとしなかった。
脚から拳まで、一つの動きとして振り抜く。
拳が空気を打ち抜き、先ほどよりも鋭い音が道場へ響いた。
「……どうだ?」
「今のは通ったな」
茜が満足そうに笑う。
「まだ力みすぎだが、気の流れは拳まで届いてた」
「成功したのか」
「ああ。だから、あと百回だ!」
「百回?」
「一度できただけで満足するな。考えなくてもできるまで、体に覚えさせろ!」
あまりにも簡単に言い切る茜を前に、シグマは小さく息を吐いた。
それでも文句を言わず、再び構えを取る。
茜の教え方は厳しい。
だが、何ができていないのかを正確に見抜き、シグマが理解できる言葉で伝えてくれる。
その指導によって、気術は少しずつシグマの戦い方へ組み込まれ始めていた。
一方、ドルドとヒルメアは、採石場で得た記録をもとに制御具の改良を続けていた。
これまでの制御具は、義手から溢れた魔力を小魔石へ分散させ、シグマの体へ急激に流れ込むことを抑えるものだった。
それでも役割は十分に果たしていた。
しかし、魔石弾を発射する際の出力までは細かく調整できない。
そこで二人は制御具へ回転式のリングを加え、魔力を逃がす量を段階的に変えられるように作り直していた。
「右側の魔銀線は、もう少し太くした方がよくないですか?」
作業台の上に広げた設計図を見ながら、ヒルメアが尋ねる。
「これ以上太くしたら、制御具そのものが重くなる」
ドルドは小さな部品を削りながら答えた。
「シグマさんの義手なら、この程度の重さは問題になりません。ですが、魔銀線が焼き切れる方が危険です」
「分かってる。だから、炎帝石の力を一つの小魔石だけで受けないようにするんだ」
ドルドが設計図の一部を指差す。
「リングを回せば、魔力を受け止める小魔石の数が変わる。最低出力なら、魔石弾へ流れ込む力のほとんどを制御具へ逃がす」
「その分、小魔石への負担は大きくなります」
「ああ。だが、シグマが扱いに慣れるまでは、その方が安全だ」
「制御具は、完全に力を封じるものではありませんからね」
ヒルメアは改めて確認するように言った。
「どれだけ改良しても、最後に止めるのはシグマさん自身です」
「そのために茜が鍛えてるんだろ」
ドルドは削り終えた部品を持ち上げ、不敵に笑った。
「こっちは、あいつが力を制御するための助けを作る。それが職人の仕事だ」
さらに三日が経った。
昼前の道場で、シグマが最後の正拳突きを終える。
右脚で踏み込み、その力を腰から肩へつなげ、右拳へ通す。
拳が空気を押し出し、道場の壁際に置かれていた布が僅かに揺れた。
シグマは拳を突き出した姿勢のまま、呼吸を続けていた。
「よし。今日はそこまでだ」
茜の声を聞き、シグマは構えを解く。
「まだ昼前だぞ」
「何だ? 物足りないのか?」
「いや、そういうわけではない」
「なら余計なことを言うな」
茜は笑いながら、道場の入り口へ顔を向けた。
「そろそろ来る頃だからな」
その言葉が終わるのと同時に、道場の扉が勢いよく開いた。
「完成したぞ!」
大きな工具箱を持ったドルドが入ってくる。
その後ろには、布に包んだ制御具を両手で抱えたヒルメアが続いていた。
「お待たせしました。改良した制御リングが完成しました」
二人は道場の隅に工具箱を置き、持ってきた布を床へ広げた。
中には四つの制御具が並べられている。
黒鋼と魔銀線、複数の小魔石を組み合わせた作りは、これまでと変わらない。
新たに中央へ回転式のリングが加えられ、その周囲には段階を示す目盛りが刻まれていた。
「座れ。今の制御具と交換する」
シグマは壁際へ腰を下ろし、両腕を差し出した。
ドルドとヒルメアが手分けして、古い制御具を取り外していく。
その後、左右の前腕へ新しい制御リングを二つずつ固定した。
「左腕のリングは、吸収した魔法から魔石弾を作る際の魔力量を調整します」
ヒルメアが左義手のリングを指差す。
「最低の一段階目では、吸収した魔力の大部分を小魔石へ分散させます。そのため、作られる魔石弾の威力も抑えられます」
「右側は、炎帝石から魔石弾へ流れ込む力の調整だ」
ドルドが右義手のリングを一段階目へ合わせる。
「当分は、ここから動かすな。二段階目より上は、俺たちも実際に試してねえ」
「一段階目でも、採石場で試したときよりかなり弱くなるのか?」
「ああ。そのはずだ」
「そのはず?」
「計算上は大丈夫だ!」
「採石場へ行く前にも似たようなことを言っていたな」
「今回は本当に大丈夫だ!」
自信満々に言い切るドルドの横で、ヒルメアは不安そうに眼鏡の位置を直した。
「制御リングは、あくまで補助です。これまでの制御具と同じく、暴走を完全に止められるわけではありません」
「分かっている」
「異常を感じたら、すぐに使用を中止してください」
「ああ」
「勝手に二段階目へ上げないでくださいね」
「それも分かっている」
「本当でしょうね?」
ヒルメアが疑うようにシグマを見る。
「シグマが勝手に触ったら、あたしが殴る」
茜が横から口を挟んだ。
「なら安心ですね」
「俺への信用がないな……」
「今までの行動を考えろ」
茜に言われ、シグマは反論できなかった。
装着が終わると、ヒルメアが左右の制御リングへ僅かな魔力を流した。
埋め込まれた小魔石が順番に光り、流れ込んだ魔力を分散していく。
「左側、正常です」
続いて右側も確認する。
「右側も問題ありません。リングによる切り替えも正常に動いています」
「これで完成だ!」
ドルドが満足そうに胸を張った。
「後は実戦で、どこまで使えるか確かめるだけだな」
「また採石場で試すのか?」
「動かねえ岩を撃つだけじゃ、実戦で使えるか分からんだろ」
「気術も同じだ」
茜もドルドの言葉に同意した。
「道場で何度成功しても、実際の戦いで使えなければ意味がない。今のお前がどこまで動けるか、一度見ておきたい」
「それなら、ギルドで依頼を探すか」
「ああ。ただし、無茶な依頼は選ぶなよ」
茜がそう告げると、ドルドが自分の胸を叩いた。
「俺も行くぞ! 制御リングが戦闘中にどう動くか、この目で確かめる!」
「それなら、私も同行します」
ヒルメアも続く。
「測定器があれば、発射前後の魔力変化を記録できますから」
「二人とも戦えるのか?」
「俺は護身程度だ」
「私は、ほとんど戦えません」
ヒルメアは正直に答えた。
「ですから、戦闘には参加せず、安全な場所で記録します」
「分かった。絶対に前へ出ないでくれ」
「シグマさんも、無茶をしないでくださいね」
「……ああ」
ヒルメアに返され、シグマは僅かに目を逸らした。
宿へ戻って紅蓮たちと合流した一行は、そのままミルザードの冒険者ギルドへ向かった。
普段の六人に、茜、ドルド、ヒルメアまで加わっている。
フェルンも一緒だったが、今回は戦闘に参加させないことを出発前に決めていた。
ギルドへ入ると、受付の職員が茜の姿を見て驚いた。
「茜さんまで一緒とは珍しいですね」
「弟子の実戦を見るだけだ。あたしが依頼を受けるわけじゃない」
「弟子?」
受付の職員がシグマへ目を向ける。
茜はシグマの背中を叩き、豪快に笑った。
「まだ基礎も満足にできない弟子だけどな!」
「それを、ここで言う必要はないだろ」
「事実だ!」
受付の職員が小さく笑う中、シグマたちは掲示板へ向かった。
近隣で受けられる討伐依頼を確認していた紅蓮が、一枚の依頼書に目を止める。
「火焔熊、五体の討伐か」
火焔熊は、炎を纏う大型の熊型魔獣である。
立ち上がれば二メートルを超え、分厚い筋肉と硬い毛皮を持つ。
興奮すると全身から炎を噴き出すため、近接戦闘では特に危険な相手だった。
それが五体ともなれば、経験の浅い冒険者では近づくことすら難しい。
「今のシグマたちなら、ちょうどいい相手だな」
茜が依頼書を覗き込む。
「火焔熊が五体やで?」
シルフが呆れたように言う。
「それくらいの相手じゃないと、実戦で使えるか分からないだろ」
「茜の言う『ちょうどいい』は、あまり信用しない方がよさそうだな」
紅蓮は依頼書を見ながら、僅かに眉を寄せた。
「でも、今のわたしたちなら倒せると思う」
白鬼が出現場所を確かめる。
「茜も一緒なんだよね?」
「あたしは手本を見せるだけだ。最初から全部倒させるなよ」
「手本?」
「シグマに、気術を実戦でどう使うか見せる」
茜は自信に満ちた笑みを浮かべた。
「火焔熊なら、相手として不足はない」
紅蓮たちは話し合った末、火焔熊五体の討伐依頼を受けることにした。
火焔熊の群れが確認されたのは、ミルザードから馬車で半日ほど進んだ場所にある森だった。
シグマが御者台で手綱を握り、ノクスとソルに馬車を引かせる。
隣にはフェルンが座っていた。
「フェルンは、戦いが始まったらドルドとヒルメアの傍にいてくれ」
街を出る前にも伝えたことを、シグマは改めて確認した。
「一緒に戦ったら駄目?」
「ああ。火焔熊は危険だ」
「でも、シグマたちだけ戦うのは……」
「今回は義手の機能と気術を試すための依頼だ。フェルンが戦う必要はない」
フェルンは不満そうに耳を伏せた。
それでも、シグマの言葉に逆らうことはなかった。
「危なくなったら、ちゃんと逃げて」
「ああ。約束する」
「絶対?」
「絶対だ」
ようやくフェルンが頷く。
後ろの客室では、紅蓮たちと茜、ドルド、ヒルメアが火焔熊について話していた。
「火焔熊は炎に強い耐性を持っています」
ヒルメアが、依頼書に添えられていた資料を読み上げる。
「全身を炎で覆うため、火属性の魔法はほとんど効きません」
「右腕の機能とは相性が悪いんじゃないか?」
黒鬼が尋ねる。
「今回使う魔石弾の中心は、炎帝石の炎ではありません」
ヒルメアは採石場で得た記録を見ながら答える。
「シルフさんの風魔法から作った魔石弾なら、中心になるのは風です。炎帝石の力は、それを発射するために加えられます」
「火焔熊が炎に耐えられても、風の衝撃までは防げねえはずだ」
ドルドが自信満々に続ける。
「それに今回は、改良した制御リングを最低出力にして撃つ。採石場ほどの威力にはならねえ」
「ならないはず、ではありませんよね?」
「何度も計算した! 大丈夫だ!」
「前回も聞いた気がするで、その言葉」
シルフに指摘され、ドルドが気まずそうに顔を逸らした。
森へ到着すると、シグマたちは馬車を街道から離れた安全な場所へ止めた。
ノクスとソルを残し、全員で森の中へ入る。
ドルドとヒルメア、フェルンは戦闘へ参加しないため、一行の後方を歩いていた。
「フェルン。戦いが始まったら、二人から離れないで」
黒鬼が念を押す。
「うん」
「何かあれば、すぐに呼んで。わたしが戻るから」
「分かった」
フェルンは素直に頷いたものの、その視線はシグマの背中へ向けられたままだった。
先頭を進むシルフが神の目を使い、周囲の魔力を探る。
「おるで。ここから少し北や」
「五体全部か?」
「近い場所に固まっとる。たぶん、群れで間違いない」
シグマたちは足音を抑えながら、火焔熊のいる方角へ進んだ。
やがて木々の隙間から、赤黒い毛皮を持つ巨大な熊が見えた。
一体だけではない。
五体の火焔熊が、森の中にある開けた場所で倒した獲物を食べていた。
大きな個体は、四本足のままでもシグマの胸ほどの高さがある。
口を開くたびに、熱を帯びた息が漏れていた。
「ここから先は俺たちだけで行く」
紅蓮が後方を振り返る。
「ドルド、ヒルメア、フェルンは、この岩陰にいろ。絶対に出てくるな」
「分かった」
「はい」
ドルドとヒルメアが頷く。
フェルンだけは、すぐには返事をしなかった。
「フェルン」
シグマが呼ぶと、フェルンは外套の端を掴んだ。
「絶対に戻ってきて」
「ああ」
「怪我もしないで」
「できるだけ気をつける」
「できるだけじゃ駄目」
「……怪我をしないようにする」
フェルンはようやく外套から手を離した。
黒鬼が周囲へ小さな障壁を張り、三人が岩陰から出なくても守れるようにする。
「この障壁は、戦いが終わるまで消えない。何があっても外へ出ないで」
「うん」
「フェルンのことは、俺たちが見てる」
ドルドが答える。
「ですから、皆さんも戦いに集中してください」
ヒルメアもフェルンの傍へ腰を下ろした。
シグマは二人に任せ、仲間たちとともに火焔熊へ向き直った。
「まず一体目は、シグマの右腕を試す」
紅蓮が小声で言う。
「残りが動いたら、俺たちで押さえる。後方へは絶対に行かせない」
「ああ」
シグマは、あらかじめ用意していた風属性の魔石弾を取り出した。
シルフの弱い風魔法を左義手で吸収し、変換したものである。
右義手の装填口を開き、魔石弾を収める。
左右の制御リングは一段階目。
炎帝石が魔石弾に反応し、右腕の内側に熱が広がり始める。
「呼吸を忘れるな」
茜が声をかけた。
「右腕だけを見るな。足の裏から、体全体を巡る気を意識しろ」
シグマはゆっくりと息を吸った。
足の裏で地面を捉え、体内の気を巡らせる。
その流れを崩さないようにしながら、木々の間から姿を現した。
最も近くにいた火焔熊が、すぐにシグマへ気づく。
「グオオオオッ!」
咆哮とともに立ち上がり、全身の毛皮から炎を噴き出した。
残る四体も顔を上げる。
最初の火焔熊が地面を揺らし、シグマへ向かって突進を始めた。
シグマは右腕を構える。
義手へ力が集まり始めても、呼吸を止めない。
体内を巡る気を意識したまま、迫ってくる火焔熊へ狙いを定める。
「まだだ」
茜の声が聞こえる。
火焔熊との距離が急速に縮まる。
炎を纏った前脚が振り上げられた。
「今だ!」
シグマは右義手の発射機能を作動させた。
轟音とともに、炎を帯びた風の魔石弾が放たれる。
採石場で試したときほどの大きさはない。
それでも、魔石弾は火焔熊の胸へ正面から命中し、炎を貫いて巨体を吹き飛ばした。
火焔熊が背中から地面へ落ち、土煙を上げながら転がっていく。
一度は起き上がろうとしたものの、すぐに力を失った。
「一体目、討伐を確認しました!」
岩陰から、測定器を確認していたヒルメアの声が聞こえる。
「制御リングも正常だ!」
ドルドも声を上げた。
「小魔石に亀裂はねえ! 魔銀線も耐えてるぞ!」
シグマは右義手の状態を確かめた。
採石場で発射したときに感じた強い痺れはない。
呼吸も止めず、足元を崩すことなく反動を受け止められた。
「成功したか」
「ああ。だが、気を抜くな!」
紅蓮が大剣を抜く。
残る四体の火焔熊が、一斉に動き始めていた。
「予定どおり散らすぞ!」
シルフが矢を放ち、白鬼も攻撃魔法を撃ち込む。
二人の攻撃によって火焔熊の進路が分かれ、後方の岩陰へ向かおうとした個体も足を止めた。
紅蓮と黒鬼が左右へ動き、残る火焔熊をシグマから引き離す。
「二体目は、気術だけで倒せ!」
茜がシグマへ声を飛ばした。
「義手の新しい機能は使うな! この数日で覚えたことを、実戦でやってみろ!」
「分かった!」
正面には、群れの中で最も大きな火焔熊が残った。
シグマは右腕を下ろし、腰を落として構える。
火焔熊が咆哮し、炎を纏った前脚を振り上げた。
シグマは右脚へ気を集める。
前脚が振り下ろされる直前、右脚に集めた気を使って横へ踏み込んだ。
火焔熊の爪が、直前までシグマの立っていた地面を深く抉る。
避けることには成功した。
しかし、拳へ気をつなげようとした瞬間、火焔熊が体を捻った。
反対側の前脚がシグマへ迫る。
「くっ……!」
シグマは左義手で受け止めた。
激しい衝撃で体が浮き、地面を滑るように後退する。
「シグマ!」
岩陰で見ていたフェルンが立ち上がる。
すぐにドルドが、その肩を掴んだ。
「出るな!」
「でも、シグマが!」
「仲間がいる! お前が出たら、あいつらが戦いに集中できなくなる!」
フェルンは飛び出しかけた足を止めた。
心配そうに耳を伏せながらも、岩陰から出ることはなかった。
「シグマ、立って……」
小さな声で、シグマへ呼びかける。
シグマは左義手を地面につき、すぐに立ち上がった。
「一度に全部やろうとするな!」
茜の声が飛ぶ。
「今のお前は、避けながら気を拳へ通せるほど器用じゃない! 一つずつ確実にやれ!」
シグマは呼吸を整える。
火焔熊が再び突進してくる。
まずは避けることだけに集中する。
右脚へ気を集め、火焔熊の爪が届く直前に横へ踏み込んだ。
巨体の横を通り抜けたあと、すぐに攻撃しようとはしない。
一度足を止め、構えを取り直す。
振り返った火焔熊と、正面から向き合う。
「そうだ! 焦るな!」
茜の声を聞きながら、シグマは体内へ気を巡らせた。
火焔熊が両前脚を広げ、押し潰そうと迫ってくる。
シグマは逃げなかった。
右脚へ気を集め、正面から一歩踏み込む。
炎に包まれた懐へ入った。
右足で地面を踏みしめ、その力を腰から肩へつなげる。
右拳を火焔熊の腹へ叩き込んだ。
鈍い音が響く。
拳へ集めた気が分厚い毛皮を通り、その内側へ僅かに伝わった。
火焔熊の巨体が揺れる。
だが、倒れない。
炎を纏った前脚がシグマへ伸びる。
シグマは屈んで爪を避け、その場から離れた。
「まだ浅い!」
茜が叫ぶ。
「拳を当てただけで終わるな! その先まで気を通せ!」
「その先……」
火焔熊が怒り狂い、再びシグマへ襲いかかる。
シグマは呼吸を続けながら、その動きを見据えた。
爪を避ける。
体勢を整える。
再び右脚へ気を集め、踏み込む。
今度は拳へ力を集めるのではなく、脚から腰、肩、拳の先まで、一つの流れとして通していく。
「――はっ!」
短く息を吐き、右拳を火焔熊の胸へ打ち込んだ。
一撃目よりも鋭い衝撃が、火焔熊の体内へ伝わる。
その巨体が一瞬止まった。
シグマは間を空けず、左拳を腹へ叩き込む。
右の肘を脇腹へ。
最後にもう一度右脚で地面を踏み、体重を乗せた右拳を胸元へ突き上げた。
火焔熊の巨体が僅かに浮き、そのまま仰向けに倒れる。
地面が大きく揺れた。
火焔熊は何度か前脚を動かしたが、やがて力を失った。
「はあ……はあ……」
シグマは拳を構えたまま、荒い呼吸を繰り返す。
義手の新機能を使った一体目とは違い、かなり苦戦した。
それでも、最後まで魔石弾には頼らず倒し切ることができた。
「シグマ!」
フェルンが岩陰から声を上げる。
「大丈夫?」
「ああ。怪我はない!」
シグマが答えると、フェルンは安心したように胸元へ手を当てた。
「茜、今のはどうだった?」
「最後の一撃だけは、少しましだったな!」
茜は豪快に笑った。
「途中で呼吸が止まりかけた! 気も何度か途切れてた! 帰ったら、また基礎から確認するぞ!」
「倒した直後に、それを言うのか……」
「倒したことと、できてない部分は別だ!」
厳しい言葉ではあったが、その表情は満足そうだった。
しかし、戦いはまだ終わっていない。
紅蓮たちが押さえていた三体のうち、一体が白鬼の魔法を強引に突き抜けた。
火焔熊はシグマへ狙いを定め、全身から炎を噴き出しながら突進してくる。
シグマは構え直そうとしたが、気術を使い続けた右脚に力が入りきらない。
炎を纏った爪が振り上げられる。
その間へ、茜が飛び込んだ。
「よく見てろ、シグマ!」
茜は迫る爪を紙一重で避け、火焔熊の懐へ潜り込んだ。
踏み込みの音は小さかった。
シグマのように、一度右脚へ気を溜めるような間もない。
呼吸に合わせて全身を巡っていた気を、必要な瞬間だけ右脚へ通し、そのまま前進する力へ変えていた。
「気術は、気を一か所に溜め込むだけの技じゃない!」
火焔熊が反対側の爪を振るう。
茜は左手を添えるように前脚の側面へ当て、その力を僅かに横へ逸らした。
火焔熊の体勢が前へ崩れる。
「全身を巡らせたまま――」
茜の右足が地面を踏む。
脚から腰へ。
腰から肩へ。
肩から拳へ。
「必要な場所へ、必要な瞬間だけ通すんだ!」
茜の右拳が、火焔熊の胸へ触れる。
「――破ッ!」
短い呼気とともに、拳から気が放たれた。
大きな音はしなかった。
火焔熊の巨体が、遠くへ吹き飛ぶこともない。
ただ、茜の拳が触れた瞬間、その全身が大きく跳ねた。
炎が一斉に消え、口から熱い息が漏れる。
火焔熊はその場へ崩れ落ち、二度と起き上がらなかった。
「……一撃?」
白鬼が驚きに目を見開く。
「シグマが殴ったときより、ずっと静かだったのに」
「外へ力を逃がしてへんのや」
シルフも茜の一撃を見つめていた。
「拳から入れた気を、全部あの火焔熊の中へ通したんやな」
茜は倒れた火焔熊から拳を離し、シグマへ振り返った。
「今のお前は、気を外へ出しすぎてる! 相手を吹き飛ばすことばかり考えるな!」
「中へ通す……」
「そうだ。相手の大きさや毛皮の硬さに惑わされるな。拳が触れた場所から、その奥まで気を通せ!」
シグマは自分の右拳を見る。
同じ気術を使っていても、茜の一撃とはまるで違っていた。
余計な動きもなければ、溢れる力もない。
必要な量の気を、必要な瞬間に、必要な場所へ通している。
「分かったなら、ぼんやりするな!」
茜が残る火焔熊へ向き直る。
「まだ二体残ってるぞ!」
紅蓮と黒鬼が、それぞれ一体ずつの火焔熊を押さえていた。
白鬼とシルフも援護を続けている。
二体とも激しく暴れ、全身から噴き出す炎はさらに強くなっていた。
後方にいるフェルンたちへ近づけないよう、紅蓮たちは常に火焔熊の進路を遮っている。
シグマは荒い呼吸を整えながら、もう一度構えを取った。
右腕の新たな機能は、強力な魔獣を一撃で倒すほどの威力を持っていた。
気術も、使いこなすことができれば、義手の機能に頼らず強敵と戦える。
だが、そのどちらも手に入れたばかりの力だった。
「最後まで気を抜くなよ、シグマ!」
紅蓮の声に、シグマは顔を上げる。
「ああ!」
残る二体を倒すため、シグマは仲間たちのもとへ駆け出した。
残る火焔熊は二体。
一体は紅蓮が大剣で押さえ、もう一体は黒鬼の障壁を前脚で何度も叩いていた。
白鬼とシルフも攻撃を続けているが、興奮した火焔熊の炎は勢いを増すばかりだった。
「まずは紅蓮の方から倒すぞ!」
シグマの声に、白鬼とシルフが頷く。
「黒鬼、もう一体を任せても大丈夫か?」
「大丈夫。しばらくなら押さえられる」
黒鬼は杖を構え、火焔熊の前に幾重もの光の障壁を展開した。
火焔熊が爪を振るうたびに障壁が砕ける。
それでも黒鬼はすぐに新しい障壁を作り、後方にいるフェルンたちへ近づけさせなかった。
「白鬼、足を狙えるか?」
「やってみる!」
白鬼が両手を火焔熊へ向ける。
地面に青白い魔法陣が広がり、冷気が立ち上った。
火焔熊の前脚が凍りつき、地面へ固定される。
全身を覆う炎によって氷は少しずつ溶かされていたが、動きを止めるには十分だった。
「シルフ!」
「任せて!」
シルフが弓を引き絞る。
風を纏った矢が放たれ、火焔熊の右目へ突き刺さった。
「グオオオオッ!」
火焔熊が苦痛に暴れ、凍りついた前脚を強引に持ち上げようとする。
「紅蓮、下がれ!」
シグマが声を上げた。
紅蓮は火焔熊へ大剣を振り下ろすと、すぐに後方へ跳ぶ。
その横を通り抜け、シグマが前へ出た。
魔石弾は使わない。
呼吸を整え、体内を巡る気を意識する。
右脚へ集め、踏み込みと同時に腰へ通す。
火焔熊の懐へ入ったシグマは、右拳をその腹へ叩き込んだ。
衝撃が毛皮を通り抜け、その内側へ伝わる。
だが、先ほどの戦いで右脚を使い続けた影響もあり、気の流れは途中で弱まっていた。
「浅い!」
茜の声が飛ぶ。
「無理に一撃で倒そうとするな! 今は仲間と一緒に戦ってるんだぞ!」
シグマは火焔熊の反撃を避け、すぐにその場から離れた。
「紅蓮!」
「ああ!」
入れ替わるように紅蓮が踏み込む。
シグマの拳を受けて体勢を崩していた火焔熊の脇腹へ、大剣を深く斬り込んだ。
硬い毛皮が裂け、火焔熊の巨体が大きく傾く。
白鬼が足元の氷をさらに広げ、その動きを完全に止めた。
「これで終わりだ!」
紅蓮は大剣を引き抜き、今度は火焔熊の首元へ振り下ろした。
火焔熊の咆哮が途切れる。
巨体が地面へ倒れ、纏っていた炎がゆっくりと消えていった。
「四体目!」
白鬼が声を上げる。
「あと一体や!」
シルフが残る火焔熊へ矢を放つ。
しかし、最後の一体は黒鬼の障壁を突き破り、白鬼とシルフのいる方角へ向かって走り始めていた。
その先には、フェルンたちが身を隠している岩場がある。
「後ろへ行かせるな!」
紅蓮が叫ぶ。
白鬼が火焔熊の前へ複数の氷塊を落とす。
火焔熊は足を止めることなく、肩から氷塊へ突っ込んだ。
砕けた氷が周囲へ飛び散る。
「止まらへん!」
シルフが続けて矢を放つが、火焔熊は炎を強めながら突進を続ける。
岩陰では、ドルドがヒルメアとフェルンの前に立っていた。
「フェルン、絶対に出るなよ!」
「でも、こっちに来る!」
「シグマたちを信じろ!」
フェルンは岩陰から飛び出さず、両手を胸元で強く握った。
「シグマ……!」
その声が聞こえた瞬間、シグマは右脚へ気を集めた。
疲労で重くなっている。
それでも、後方へ火焔熊を行かせるわけにはいかなかった。
右足で地面を強く踏む。
一瞬だけ集めた気を解放し、火焔熊の進路へ回り込んだ。
「こっちだ!」
シグマが正面へ立つと、火焔熊は標的を変えた。
大きく口を開き、灼熱の炎を吐き出す。
「シグマ!」
黒鬼が杖を向ける。
シグマの前へ光の障壁が広がり、炎を受け止めた。
先ほどまで一体を押さえ続けていた影響で、黒鬼の魔力も大きく消耗している。
障壁へ細かな亀裂が入り始めた。
「長くは持たない!」
「十分だ!」
シグマは障壁に守られながら、右義手へ風属性の魔石弾を装填した。
「また使うつもりか?」
茜が問いかける。
「ああ。ただし、倒すためじゃない」
制御リングは一段階目のまま。
右腕へ熱が集まり始める。
シグマは呼吸を止めず、体内を巡る気を意識し続けた。
「黒鬼、障壁を消してくれ!」
「分かった!」
黒鬼が杖を引く。
光の障壁が消え、火焔熊の炎が途切れた瞬間、シグマは右腕を地面へ向けた。
狙うのは火焔熊ではない。
その前方の地面だった。
「撃つ!」
風を帯びた魔石弾が放たれる。
地面へ命中した瞬間、激しい風が土と落ち葉を巻き上げた。
正面から風を受けた火焔熊が足を止める。
炎で視界を守ろうとしたが、巻き上げられた土と石が全身へ叩きつけられ、その巨体が僅かに後退した。
その隙を紅蓮たちは逃さなかった。
「白鬼、もう一度足を止めろ!」
「うん!」
白鬼の氷が、火焔熊の後ろ脚へ絡みつく。
「シルフ、右側を頼む!」
「任せとき!」
シルフが放った二本の矢が、火焔熊の右前脚へ続けて突き刺さった。
火焔熊の体勢が右へ傾く。
「紅蓮!」
「これで終わらせる!」
紅蓮が正面から大剣を振り下ろし、火焔熊の左肩を深く切り裂いた。
火焔熊は倒れなかった。
怒りに任せて前脚を振り回し、紅蓮を吹き飛ばそうとする。
その懐へ、茜が入った。
しかし、茜は拳を放たなかった。
火焔熊の前脚へ手を添え、その勢いを僅かに横へ逸らす。
「シグマ!」
「ああ!」
茜が作った隙へ、シグマが踏み込む。
呼吸を整える。
右脚から腰へ。
腰から肩へ。
肩から右拳へ。
外へ弾き飛ばすのではなく、火焔熊の内側へ通す。
「――はっ!」
シグマの右拳が、紅蓮のつけた傷の近くへ叩き込まれた。
拳から流れ込んだ気が、火焔熊の体内へ突き抜ける。
その巨体が大きく震えた。
火焔熊は一歩後退し、それでもシグマへ爪を伸ばそうとする。
「もう一度だ!」
茜の声に押され、シグマは左足を前へ出した。
右脚だけに頼らず、全身を使って踏み込む。
左義手を火焔熊の胸へ打ち込み、続けて右肘を腹へ叩き込んだ。
最後に右拳を握り、火焔熊の胸元へ突き上げる。
今度は、拳から気が抜けなかった。
火焔熊の体内へ衝撃が通り、その巨体が後方へ倒れる。
地面が大きく揺れた。
紅蓮たちは警戒を続けたが、火焔熊が再び起き上がることはなかった。
「終わったん……?」
白鬼が周囲を見回す。
シルフが神の目を使い、五体の状態と森の中を確認した。
「五体とも動いとらん。近くに他の魔獣もおらんで」
「討伐完了だな」
紅蓮が大剣を地面へ下ろす。
張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ。
「シグマ!」
フェルンが岩陰から飛び出し、真っ直ぐシグマのもとへ駆けてくる。
戦いが終わるまで後方から出なかった反動なのか、そのままシグマの腰へ抱きついた。
「怪我してない?」
「ああ。大丈夫だ」
「火焔熊に殴られてた」
「左腕で受けたから、怪我はない」
「本当に?」
フェルンはシグマの左義手だけでなく、右脚や胸元まで確かめる。
「本当に大丈夫だ」
「……よかった」
ようやく安心したフェルンは、それでもシグマから離れようとしなかった。
「きちんと後ろで待っていてくれて、ありがとう」
「シグマが約束したから」
「ああ。フェルンも守ってくれたな」
シグマが頭を撫でると、フェルンの耳が少しだけ持ち上がった。
黒鬼は仲間たちの怪我を確認し、傷のある者へ回復魔法を使っていく。
紅蓮の腕と肩には軽い火傷があり、シグマの体にも細かな傷がついていた。
「シグマ、右脚も見せて」
「怪我はしていない」
「気術を使いすぎたはず。立ったままでいいから、動かさないで」
黒鬼はシグマの返事を待たず、右脚へ回復魔法をかけた。
「筋肉に負担がかかってる。今日はもう気術を使わない方がいい」
「ああ。分かった」
「本当に?」
「今日は使わない」
シグマが言い直すと、黒鬼はようやく頷いた。
「制御リングを見せろ!」
今度はドルドが駆け寄ってくる。
シグマの右義手を掴み、リングに埋め込まれた小魔石を一つずつ調べ始めた。
「ひびはねえ。魔銀線も切れてないな」
「二度目の発射時も、魔力の変化を記録できました」
ヒルメアも測定器を見ながら、紙へ数値を書き込んでいく。
「一度目より出力を抑えたことで、小魔石への負担も減っています。制御リングは正常に作動しています」
「成功だ!」
ドルドが両腕を上げる。
「実戦でも問題なく使えたぞ!」
「一度の戦闘だけで判断するのは早いです」
ヒルメアは注意しながらも、表情には笑みを浮かべていた。
「ですが、シグマさんが意識を失うことも、制御リングが破損することもありませんでした。改良前より安全になったことは間違いありません」
「気術はどうだった?」
シグマが茜へ尋ねる。
「まだまだだな」
茜は迷うことなく答えた。
「最後の一撃は悪くなかった。だが、二体目を倒したあとに右脚へ気を集めすぎた。そのせいで最後は動きが鈍ってた」
「自分でも分かった」
「分かったなら、次から考えて使え。気術は力を絞り出すための技じゃない。今ある力を、無駄なく使うための技だ」
「ああ」
「それと、最後に魔石弾を地面へ撃った判断はよかった」
茜が珍しく素直に褒める。
「敵へ直接撃つだけが使い方じゃない。威力を抑えて隙を作り、仲間につなげる。ああいう使い方なら、今のお前でも危険は少ない」
「使い方次第ということか」
「そうだ。一人で全部倒そうとするな。お前には仲間がいるんだからな」
紅蓮たちを見ながら言われ、シグマは静かに頷いた。
その後、討伐証明となる部位を回収した。
五体すべてを馬車へ積むことはできないため、ギルドへ詳しい場所を伝え、解体を行う者たちに回収してもらうことになった。
ミルザードへ戻った頃には、空が夕焼けに染まっていた。
冒険者ギルドで討伐証明を提出し、火焔熊五体の討伐が正式に認められる。
受付の職員は驚いていたが、茜が同行していたと知ると、納得したように頷いた。
「何だ、その顔は。あたしが全部倒したわけじゃないぞ」
「分かっています。茜さんが倒したのは一体だけですね」
「一体だけって言い方は気に入らないな。手本として一体倒したんだ」
「はい。報告にもそのように記録しておきます」
受付の職員が笑いながら答える。
報酬を受け取ったシグマたちは、宿へ戻った。
予定どおりなら、明日の朝にはミルザードを出発する。
この街で過ごす最後の夜になるため、白鬼の提案で宴会を開くことになった。
宿の食堂に大きなテーブルを借り、料理と飲み物を並べる。
シグマたちだけではなく、茜、ドルド、ヒルメアも加わっていた。
「今日は飲むぞ!」
茜が杯を高く掲げる。
「制御リングの完成と、気術の実戦成功! それから火焔熊五体の討伐を祝って、乾杯だ!」
「乾杯!」
杯とコップが打ち合わされ、賑やかな音が響く。
白鬼、黒鬼、フェルンには果実水が用意されていた。
紅蓮とシルフは酒を選び、シグマも自分の杯へ少しだけ注ぐ。
「ドルドさん、飲みすぎないでくださいね」
ヒルメアが隣へ座るドルドへ注意する。
「これくらいで酔うか! ドワーフを舐めるな!」
「前にも同じことを言って、工房の床で寝ていましたよね?」
「あれは三日間、ほとんど寝てなかったからだ!」
「理由はどうあれ、床で寝たことは変わりません」
言い返せなくなったドルドを見て、皆から笑いが起きた。
「シグマ、これ取って」
フェルンが大皿に載った肉料理を指差す。
「これか?」
「うん。大きいの」
シグマが取り分けると、フェルンは嬉しそうに尻尾を揺らした。
すぐに黒鬼が、煮込んだ野菜をその皿へ加える。
「野菜も食べて」
「少しでいい?」
「全部」
「……分かった」
耳を伏せるフェルンを見て、白鬼が笑う。
「黒鬼、お姉ちゃんみたい」
「わたしは姉だから」
「わたしと同じ日に生まれたのに?」
「わたしの方が少し早かった」
「ほんの少しでしょ?」
「少しでも姉は姉」
黒鬼が珍しく譲らず、白鬼は頬を膨らませた。
そのやり取りを見ながら、紅蓮とシルフも楽しそうに酒を飲んでいる。
「シグマも飲め!」
茜が酒瓶を持ち上げた。
「もう飲んでいる」
「全然減ってないだろ!」
「茜が早すぎるんだ」
「弟子なら師範に付き合え!」
「気術と酒は関係ないだろ」
「細かいことを言うな!」
茜はシグマの杯へ酒を注ぎ、自分の杯も一気に空にした。
その勢いに、シルフが目を丸くする。
「茜、結構飲めるん?」
「当たり前だ! あたしを誰だと思ってる!」
茜は胸を張った。
しかし、次の一杯を飲み干した直後、頬が急に赤くなった。
「……茜、大丈夫?」
白鬼が尋ねる。
「大丈夫だ!」
茜は勢いよく答えたが、その体は僅かに左右へ揺れている。
「茜さん、お酒が弱かったんですか?」
ヒルメアも心配そうに顔を覗き込む。
「弱くない! 今日の酒が強いだけだ!」
「それを酒に弱いって言うんやで」
シルフが笑いながら指摘する。
茜は不満そうに唇を尖らせたあと、突然シグマの腕へ抱きついた。
「シグマ!」
「どうした?」
「お前、あたしの弟子だよな?」
「ああ」
「だったら、あたしと結婚しろ!」
食堂が一瞬、静まり返った。
「……どうしてそうなる?」
シグマだけが状況を理解できず、茜を見つめている。
「師範の面倒を見るのは、弟子の役目だろ!」
「聞いたことがない」
「あたしが今決めた!」
「勝手に決めないでくれ」
「何が不満だ! あたしは強いぞ!」
「強さの問題ではない」
「料理だってできる!」
「本当か?」
「たぶん!」
「たぶんなのか……」
茜はシグマの腕を抱いたまま、さらに体を寄せた。
「照れるな! あたしが一生鍛えてやる!」
「それは結婚なのか?」
「似たようなものだ!」
「全然違うと思うで」
シルフは助けるどころか、腹を抱えて笑っていた。
そのとき、椅子を引く音が二つ重なった。
「離れて」
フェルンが茜の右腕を掴む。
「シグマが困ってる」
反対側では、黒鬼が顔を赤くしながら茜の左腕を引っ張っていた。
「茜、酔いすぎ。シグマから離れて」
「何だ、お前たち。あたしとシグマの仲を邪魔するのか?」
「する」
フェルンは迷うことなく答えた。
「シグマと結婚したら駄目」
「どうしてだ!」
「駄目だから」
フェルンは茜の腕へしがみつき、シグマから引き離そうとする。
黒鬼も勇気を振り絞るように力を込めた。
「結婚は、酔った勢いで迫るものじゃない」
「なら、酔ってないときに言えばいいのか?」
「それも……困る」
黒鬼の声が小さくなる。
顔を赤くしながらも、茜の腕を離そうとはしなかった。
「二人とも、もっと引っ張ってくれ」
シグマが頼む。
「自分で何とかしろ」
紅蓮は杯を持ったまま笑っている。
「気術の修行だと思えばいい」
「こんな修行は聞いてない」
「酒に酔った鬼人から逃げる修行か。悪くないな!」
ドルドも大声で笑った。
「笑っていないで、茜さんを止めてください!」
ヒルメアだけは本気で慌てている。
「俺が止められるわけねえだろ!」
「自信満々に言わないでください!」
最後には紅蓮とヒルメアまで加わり、どうにか茜をシグマから引き離した。
椅子へ戻された茜は、それでもシグマへ手を伸ばしている。
「シグマ! まだ返事を聞いてないぞ!」
「酔いが覚めてから話そう」
「逃げるな!」
「明日の朝には忘れとるやろ」
シルフの言葉どおり、しばらくすると茜はテーブルへ突っ伏し、そのまま眠ってしまった。
「本当に酒に弱いんだな」
シグマが呟く。
「最初の勢いだけだったね」
白鬼が楽しそうに笑う。
「でも、茜らしいかも」
「シグマは笑ってる場合じゃない」
フェルンは不満そうに、シグマの外套を掴んでいた。
黒鬼も反対側の隣へ座り、茜が起きてこないか警戒している。
「二人とも、もう大丈夫だ」
「まだ分からない。急に起きるかもしれない」
黒鬼はそう答え、シグマの隣から動こうとはしなかった。
宴会はその後も続いた。
火焔熊との戦いや、ミルザードで過ごした日々。
ドルドとヒルメアが義手を調べたときのこと。
茜の道場で、シグマが何度も床へ倒れたこと。
それぞれが思い出を語り、食堂には夜遅くまで笑い声が響いていた。
翌朝。
宿の前には、旅支度を整えたシグマたちが集まっていた。
馬車には必要な荷物が積まれ、ノクスとソルも出発を待っている。
そこへドルドとヒルメアが、大きな荷物を抱えてやって来た。
その後ろには、昨日の宴会が嘘のような顔をした茜もいる。
「おはよう」
シグマが声をかけると、茜は僅かに視線を逸らした。
「……ああ」
「頭は痛くないのか?」
「痛くない」
「昨日のことは覚えているか?」
「覚えてない!」
あまりにも早い返事だった。
茜の顔が僅かに赤くなっている。
「絶対に覚えとるやろ」
シルフが小声で笑う。
「何か言ったか?」
「何も言うてへんで」
茜が睨むと、シルフは素知らぬ顔で口笛を吹いた。
「出発の前に、皆さんへ渡したいものがあります」
ヒルメアが大きな荷物を地面へ下ろす。
布を外すと、中にはいくつもの武器や道具が並べられていた。
「これは?」
「俺とヒルメアが作った自信作だ!」
ドルドが胸を張る。
「お前たちが修行している間に、制御リングと一緒に作っておいた!」
最初にドルドが持ち上げたのは、紅蓮の体格に合わせて作られた大剣だった。
紅蓮が普段使っている大剣より僅かに短く、刃の根元には赤い魔石が埋め込まれている。
「紅蓮には、火属性の魔石を入れた大剣だ。魔力を流せば、炎を刃へ集中させられる。今使ってる大剣が使えないときの予備にしろ」
「これを俺に?」
「お前以外に誰が使うんだ」
紅蓮は大剣を受け取り、軽く構えて重さを確かめた。
「手に馴染む。俺の体格に合わせたのか?」
「道場や採石場で動きを見てたからな」
「ありがとう。大切に使う」
白鬼には、複数の小さな魔石が埋め込まれた短い杖が渡された。
「これは攻撃魔法を補助する杖だ。流した魔力を複数の魔石へ分け、術式を安定させる」
「かわいい!」
白鬼は装飾の施された杖を受け取り、嬉しそうに掲げる。
「色も綺麗! ありがとう、ドルド、ヒルメア!」
「ここで魔力を流すなよ!」
「分かってるって!」
すぐに試そうとした白鬼の手を、黒鬼が押さえた。
黒鬼へ渡されたのは、白を基調とした細身の杖だった。
先端には、淡い緑色の魔石が埋め込まれている。
「黒鬼さんの杖は、回復魔法と障壁を安定させるためのものです」
ヒルメアが説明する。
「魔力を広い範囲へ行き渡らせやすくしています。複数の人を同時に守るときにも役立つはずです」
「ありがとう。練習して、大切に使う」
黒鬼は両手で杖を受け取り、控えめに笑った。
シルフには、風属性の魔石を埋め込んだ弓が用意されていた。
持ち運びやすいように作られているが、弦を張れば十分な大きさになる。
「風の魔石が、放った矢の軌道を安定させます」
ヒルメアが弓を手渡す。
「強い風の中でも狙いがぶれにくくなるはずです」
「遠くを狙うときほど、僅かな風でずれるからな。これは助かるで」
シルフは弦を軽く引き、感触を確かめた。
「ええ弓や。ありがとうな」
「それから、フェルンにはこれだ」
ドルドが取り出したのは、小さな腕に合わせて作られた一対の腕輪だった。
銀色の腕輪には、透明に近い魔石がいくつも埋め込まれている。
「腕輪?」
フェルンが首を傾げる。
「ああ。魔力を流すと、体の周りに障壁が出る」
ドルドはフェルンの両手首へ腕輪を取り付けた。
「危険が迫ったときは、腕輪を胸の前で合わせろ。それから、自分を守りたいと強く思え」
「それだけでいいの?」
「最初はな。使い方に慣れれば、片方だけでも小さな障壁を出せるようになる」
ヒルメアが腕輪の留め具を確かめる。
「フェルンさんの魔力が乱れた場合や、強い攻撃が近づいた場合には、自動的に障壁が出るようにも作っています」
「ただし、どんな攻撃でも防げるわけじゃねえぞ」
ドルドが念を押した。
「火焔熊みたいな強い魔獣の攻撃を受け続ければ、障壁は壊れる。これがあるから戦えると思うな」
「戦うための腕輪ではありません」
ヒルメアが優しく続ける。
「危険な場所から逃げる時間を作るためのものです」
「分かった」
フェルンは両腕を胸の前へ持ち上げ、腕輪を見つめた。
透明な魔石が、淡く光っている。
「それと、もう一つある」
ドルドが革の鞘に収められた短剣を差し出した。
フェルンでも扱えるように小さく作られており、柄には黄色い魔石が埋め込まれている。
「短剣……」
「護身用だ」
フェルンが受け取ろうとすると、シグマがその前に短剣を手に取った。
「ドルド。これは、どんな力を持っている?」
「柄に雷属性の魔石を入れてある。刃で傷をつければ、相手の体へ弱い雷が流れる」
「倒すためのものではありません」
ヒルメアが補足する。
「一時的に体を痺れさせ、動きを鈍らせます。魔獣の大きさや強さによって効果は変わりますが、人間や小型の魔獣なら逃げる時間を作れるはずです」
シグマは短剣を確認してから、フェルンへ向き直った。
「これは戦うための武器じゃない」
「うん」
「腕輪の障壁でも逃げられず、誰も助けに来られないときだけ使うんだ」
「シグマたちと一緒に戦うためじゃないの?」
「ああ。自分を守って、逃げるためのものだ」
フェルンは短剣を見つめたあと、シグマの目を見て頷いた。
「分かった。勝手に戦うためには使わない」
「約束だ」
「約束する」
シグマは革の鞘をフェルンの腰へ固定した。
フェルンは短剣へ触れず、先に両手首の腕輪を嬉しそうに見つめる。
「これで、シグマに心配をかけなくなる?」
「心配はする。でも、今までより少し安心できる」
「なら、ちゃんと使えるように練習する」
「練習するときも、必ず誰かと一緒だ」
「うん」
「シグマの分もあるぞ」
ドルドが小さな革製の入れ物を持ち上げた。
腰へ固定できる形をしており、内側には細長い魔石弾を一本ずつ収める場所が並んでいる。
「左義手で作った魔石弾を、安全に持ち運ぶための専用ケースだ。属性ごとに分けて入れられる」
「これは助かる」
「必要以上に作り置きしないでくださいね」
ヒルメアが念を押す。
「長期間保存した場合、魔石弾がどう変化するかは、まだ確認できていません」
「分かった」
「シグマさんの『分かった』は、少し心配です」
「仲間たちにも見てもらう」
「それがいいですね」
武器や道具とは別に、ヒルメアは手のひらほどの水晶をシグマへ渡した。
「こちらは通信魔石です」
透明な水晶の中には、細い魔銀線が通されている。
「私たちの工房にある通信水晶とつながっています。あまり遠く離れると使えませんが、この地方にいる間なら連絡できるはずです」
「義手と制御リング、それに今渡した武器の使用感を教えてくれ」
ドルドが続ける。
「使いにくいところや壊れやすい部分があったら、すぐに知らせろ」
「でも、これだけのものを受け取るわけにはいかない。代金を払わせてくれ」
シグマが財布を取り出すと、ドルドは片手を振った。
「いらねえ」
「そういうわけには――」
「これは依頼されて作った商品じゃねえ。俺たちが勝手に作った試作品だ」
「シグマさんたちのおかげで、私たちも新しい発想を得ることができました」
ヒルメアも受け取りを断る。
「義手の制御リングを作ったことで、魔力を複数の小魔石へ分散させる方法を試せました。その仕組みを応用したのが、皆さんへお渡しした武器や道具です」
「金の代わりに、しっかり使って感想を聞かせろ」
ドルドは不敵に笑った。
「それが試作品を渡す条件だ」
「分かった。必ず連絡する」
「壊れたら持ってこい。もっといいものに作り直してやる」
「壊れる前に連絡してくださいね」
ヒルメアが付け加えると、皆から笑いが漏れた。
「シグマ」
今度は茜が前へ出た。
手には、紐でまとめられた数冊の本がある。
「持っていけ」
「これは?」
「あたしの道場に伝わる、気術の秘伝書だ」
一番上の一冊には、『気術基礎』と書かれている。
その下にも数冊の秘伝書があったが、固く閉じられ、表紙には見慣れない術式の描かれた札が貼られていた。
「気術には、呼吸と気の巡らせ方だけじゃなく、気功を使ったいろいろな技がある」
茜は一番上の秘伝書を指で叩く。
「まずは基礎だけ読め。呼吸、走り込み、立ち方、脚への集中。道場で教えた内容が書いてある」
「下の本は?」
「まだ読むな」
「封がされているように見えるが」
「そのとおりだ。無理に開こうとしても開かないぞ」
茜は楽しそうに笑った。
「お前が基礎を身につけたとき、封が外れるようにしてある」
「どうやって判断するんだ?」
「秘伝書へ流れ込む気だ。基礎が身につけば、札がお前の気に反応する」
「途中を飛ばして、先の技だけ覚えることはできないということか」
「そういうことだ」
茜はシグマの胸元を拳で軽く叩いた。
「お前は新しい力を得ると、すぐに実戦で使おうとするからな。これくらいしないと危なっかしくて仕方ない」
「そこまで信用がないのか?」
「ない!」
即答され、紅蓮たちも揃って頷く。
「全員で頷く必要はないだろ」
「これまでの行動を考えろ」
紅蓮に言われ、シグマは何も言い返せなかった。
「毎日、基礎を続けろ」
茜は真剣な表情で告げる。
「戦うときだけ気術を使おうとするな。歩くときも、馬車に乗ってるときも、寝る前もだ。呼吸と体の中を巡る気を意識しろ」
「ああ」
「脚が少し使えるようになったからって、すぐに別の技へ手を出すなよ」
「分かっている」
「どうだかな」
疑うような言葉とは裏腹に、茜の表情には僅かな寂しさが滲んでいた。
「次に会うまで、さぼるな」
「茜も酒は控えた方がいいんじゃないか?」
「何の話だ?」
「昨日の――」
「覚えてない!」
茜が大声で遮る。
「とにかく、さっさと行け! いつまでも出発できないだろ!」
「結婚の返事はいらないの?」
白鬼が無邪気な顔で尋ねる。
「白鬼!」
「だって昨日、あんなに――」
「言うな!」
茜が慌てて白鬼の口を塞ごうとする。
白鬼は笑いながら逃げ、黒鬼も口元へ手を当てて小さく笑っていた。
シグマたちは受け取った武器や道具を馬車へ積み、出発の準備を終えた。
「本当に世話になった」
御者台へ乗る前に、シグマは三人へ頭を下げる。
「義手のことも、気術のことも、ここへ来なければ何も分からないままだった」
「俺たちの方こそ、面白いもんを見せてもらった」
ドルドが笑いながら、シグマの左義手を軽く叩く。
「その両腕には、まだ俺たちにも分からないことが山ほどある。何か変化があったら、必ず知らせろ」
「ああ」
「故障や異常があった場合も、すぐに通信してください」
ヒルメアが続ける。
「制御リングは万能ではありません。異常を感じたまま使い続けないでくださいね」
「分かった」
「皆さんも、シグマさんを見ていてください」
「任せろ」
紅蓮がすぐに答えた。
「無茶をしようとしたら、全員で止める」
「それなら安心です」
茜は腕を組み、シグマを真っ直ぐ見つめた。
「死ぬなよ」
短い言葉だった。
「せっかく弟子にしたんだ。次に会ったとき、勝手に死んでたら承知しないからな」
「茜も元気で」
「あたしは、お前よりずっと丈夫だ」
いつものように笑ったあと、茜は右拳を差し出した。
シグマも右拳を出し、その拳へ軽く合わせる。
「また会おう、師範」
「ああ。次に会ったとき、どれだけ成長したか確かめてやる」
シグマは御者台へ乗り、手綱を握った。
隣にはフェルンが座る。
客室の窓から白鬼と黒鬼が顔を出し、ドルドたちへ手を振った。
「ドルド、ヒルメア、茜! またね!」
「今度会ったとき、武器の使い方を見せる」
「壊すなよ!」
「大切に使います」
黒鬼が答えると、ドルドは満足そうに頷いた。
シルフも窓から身を乗り出す。
「茜、次はうちと飲み比べしような!」
「絶対にやらん!」
「昨日のこと、やっぱり覚えとるやん」
「うるさい!」
茜の声が響き、再び笑いが起きた。
「行くぞ、ノクス、ソル」
シグマが手綱を動かす。
二羽がゆっくりと歩き始め、馬車の車輪が街道を進んでいく。
ドルドとヒルメアは並んで手を振っていた。
茜は腕を組んだまま見送っていたが、馬車が離れ始めると、片手を高く上げた。
フェルンは何度も後ろを振り返っている。
「寂しいか?」
シグマが尋ねる。
「少しだけ」
フェルンは両手首につけられた腕輪へ目を落とした。
「ドルドとヒルメアも、茜も好き」
「また会える」
「そのときは、シグマももっと強くなってる?」
「ああ。そのつもりだ」
「フェルンも、腕輪と短剣をちゃんと使えるようにする」
「短剣は使わずに済む方がいい」
「分かってる。でも、シグマに心配をかけないように覚える」
「ああ。みんなと一緒に練習しよう」
「うん」
シグマは両義手へ取り付けられた制御リングと、腰に収めた秘伝書へ目を向けた。
ミルザードで得たものは、新たな機能や武器だけではない。
力を抑えるための制御具。
義手だけに頼らず戦うための気術。
そして、遠く離れてもつながることのできる新たな縁。
どれも、これからの旅に必要なものになるだろう。
街道を進む馬車の後ろで、ミルザードの街並みが少しずつ遠ざかっていく。
別れを惜しみながらも、シグマたちは次の目的地へ向かって旅を再開した。




