第二十七話 白髪の鬼師範
翌朝。
シグマたちは、宿の主人から教えられた道場を目指してミルザードの東区を歩いていた。
ドルドとヒルメアが制御具を完成させるまで、最低でも五日。
その間に、義手や二つの魔石の力へ頼らずに戦える手段を増やす。
シグマは格闘術を一から学びたいわけではない。
現在使っている格闘術を生かしたまま、炎帝石と獣王石を使わずに戦う方法を探していた。
「それで、なんで全員ついてくるんだ?」
シグマが後ろを振り返る。
そこには紅蓮、白鬼、黒鬼、シルフ、フェルンが揃っていた。
「同じ鬼人が師範をしてるなら、俺も気になる」
紅蓮が答える。
「私も見たい!」
「白鬼だけだと何をするか分からないから、私も来た」
「黒鬼、私の見張りに来ただけなの?」
「半分くらいは」
「残りの半分は?」
「私も気術を見てみたい」
「やっぱり黒鬼も気になってるんじゃん!」
「二人とも朝から元気やなあ」
シルフが欠伸を噛み殺しながら言う。
「シルフも来る必要はなかっただろ」
「うちは止めたんやで? でも誰も聞かへんから、もう全員で行った方が早いやろ」
「その割には楽しそうだな」
「気術なんて珍しいもん、見られる機会は滅多にないからな。気にならん方がおかしいやん」
「やっぱり見物に来たんじゃないか」
「それだけやないで。シグマが無茶せえへんか、見張る必要もあるやろ」
「それなら、私も見張る」
フェルンがシグマの左手を握る。
「修行している間も、近くにいる」
「道場の師範が許してくれればな」
「ちゃんとお願いする」
結局、一人で向かうことは諦めるしかなかった。
東区へ近づくにつれて、街の雰囲気が変わり始める。
工房が立ち並んでいた中央区とは異なり、東区には冒険者向けの訓練所や武具店が多かった。
朝早くから木剣を打ち合わせる音や、威勢のいい掛け声が通りへ響いている。
鎧姿の冒険者が走り込みを行い、若い兵士たちが槍の扱いを教わっていた。
「この辺りのはずなんだが……」
シグマは宿の主人から聞いた道順を思い返す。
大通りから三つ目の角を曲がり、石造りの訓練所を越えた先。
やがて一行の前に、周囲よりも少し古い木造の建物が現れた。
広い敷地を囲む板塀。
開かれた正門には、飾り気のない木製の看板が掲げられている。
書かれているのは、道場名ではなく一文字だけだった。
「『気』」
白鬼が看板の文字を読む。
「これだけ?」
「分かりやすくていいんじゃないか」
紅蓮が門の奥を覗き込む。
敷地の中央には土を固めた広い稽古場があり、その向こうに大きな道場が建っていた。
しかし、稽古場にも道場の入口にも人の姿はない。
「休みなんかな?」
「いや」
シグマは足を止めた。
道場の裏手から、人の気配を感じる。
近くにいるはずなのに、魔力の動きはほとんど感じられなかった。
「誰かいる」
シグマが門をくぐろうとした、そのときだった。
道場の裏側から、何かが勢いよく飛び出してきた。
「危ない!」
黒鬼の声と同時に、黒い塊がシグマたちの前を横切る。
それは人間ほどの大きさがある木製の訓練人形だった。
地面へ落ちた人形は何度も転がり、板塀へ激突して止まる。
太い胴体の中央には、拳の形をした大きな窪みができていた。
「……今の何?」
フェルンがシグマの後ろへ隠れる。
「訓練用の人形だと思う」
「そうじゃなくて、なんで飛んできたの?」
「それは俺にも分からない」
シグマが人形の飛んできた方向へ目を向ける。
道場の裏手から、一人の女性が姿を現した。
背丈は紅蓮とほとんど変わらない。
白い髪を高い位置で束ねた長いポニーテールが、歩くたびに大きく揺れている。
額から伸びているのは、白銀に近い一本の角。
年齢は二十代後半ほど。
袖のない黒い道着から伸びる腕は細いが、無駄なく鍛え上げられていた。
整った顔立ちと華やかな容姿は、宿の主人が話していた通りだった。
ただし、新しい訓練人形を片手で担いでいる姿からは、美しさよりも先に力強さが伝わってくる。
「悪い、悪い! そいつ、そろそろ壊れると思ってたんだ!」
女性は豪快に笑いながら、担いでいた人形を地面へ下ろした。
「まさか胴体ごと飛んでいくとは思わなかった。怪我はないか?」
「ああ。誰にも当たってない」
「ならよかった!」
「壊れそうだと分かっていたなら、先に直した方がよかったんじゃないか?」
紅蓮が尋ねる。
「どこまで耐えられるか確かめてたんだ。壊れる前に直したら、限界が分からないだろ?」
「普通は壊れる前に止めると思うけど」
白鬼が板塀のそばに転がる人形を見る。
「こっちまで飛んできたら危ないよ」
「次からは飛ばす方向も考える!」
「殴り飛ばすのはやめないんだ……」
黒鬼が小さく呟いた。
女性は迷いなくシグマたちへ近づいてくる。
紅蓮、白鬼、黒鬼の姿を見ると、僅かに目を見開いた。
「へえ、珍しいな。鬼人が三人も揃ってるじゃないか」
紅蓮も女性の白髪と一本角を観察する。
「お前が、この道場の師範か?」
「そうだ。あたしが茜だ」
茜は腰へ両手を当て、堂々と名乗った。
「入門希望は、お前たち三人か?」
「俺たちじゃない。こいつだ」
紅蓮がシグマを示す。
シグマは一歩前へ出た。
「シグマだ。義手に備わった力へ頼らずに戦う方法を学びたい」
「義手?」
茜の視線が、シグマの両腕へ向く。
シグマは両腕を覆っていた布を外した。
黒い左義手と、赤黒い右義手が姿を現す。
「こりゃすごいな」
茜は驚きながらも、不必要に騒ぐことはなかった。
両腕へ顔を近づけるが、勝手に触れようとはしない。
「両方とも義手なのか?」
「ああ。外すことはできない」
「それで、義手を使わずに戦いたいって?」
「腕そのものは使う。頼りたくないのは、義手に備わった機能と、埋め込まれている二つの魔石の力だ」
「なるほど。腕まで封じるつもりじゃないんだな」
「ああ」
「武器は?」
「腰の刀がある。ただ、必要なときしか抜けない」
茜が黒鞘刀へ目を向ける。
「お前が抜こうと思っても抜けないのか?」
「そうだ」
「それで、刀が抜けないときは格闘で戦うわけか」
「ああ」
「誰かに教わった動きだな」
茜はシグマの足元を見ながら言った。
「まだ構えてもいないのに分かるのか?」
「立ち方を見ればな。素人は、いつでも動けるように立ったりしない」
茜はシグマの周囲をゆっくりと歩く。
「誰に教わった?」
「ジークという人だ」
その名前を聞いた瞬間、茜の足が止まった。
「……ジーク?」
「ああ。一年半前、記憶を失った俺を世話してくれた老夫婦の一人だ」
「待て。そのジークって、まさかグランディア王国の将軍だったジークか?」
「昔、グランディア王国に仕えていたとは聞いている」
茜は驚いた顔でシグマを見つめる。
「聞いているって……あの人は、ただの将軍じゃないぞ」
「知っているのか?」
「武を学ぶ者で、その名を知らない奴の方が少ない」
茜は興奮を隠そうともせず、シグマへ詰め寄った。
「グランディア王国最強の武人とまで呼ばれた男だ。軍を率いる将軍でありながら、自ら先頭に立って敵陣を崩したって話が残ってる」
「爺さんが……?」
「お前、本人から何も聞いてないのか?」
「元兵士だったとは聞いた。将軍だったことも後から知ったが、それ以上はあまり話してくれなかった」
「元兵士で済ませるような人じゃないだろ……」
茜は片手で額を押さえた。
「シグマ、知らんかったん?」
シルフが尋ねる。
「ああ。爺さんは自分のことをほとんど話さなかった」
「でも、シグマに格闘を教えたんだよね?」
白鬼が茜を見る。
「ああ。黒鞘刀を自由に抜けない俺に、武器がなくても戦えるようになれと言って教えてくれた」
「どのくらい教わった?」
「二人の家で世話になっている間は、ほとんど毎日だ」
「毎日……」
茜の表情が引きつる。
「グランディアのジークから、直々に?」
「ああ」
「それで入門希望としてここへ来たのか?」
「格闘術を一から教わりたいわけじゃない。今の戦い方に、気術を加えられないかと思っている」
「先にそれを言え!」
「今、説明しているところだ」
シグマが答えると、茜は深く息を吐いた。
「もう一人の老婦人は?」
「サーシャだ」
今度は茜だけでなく、紅蓮まで目を見開いた。
「サーシャだと?」
「紅蓮も知ってるの?」
白鬼が尋ねる。
「名前だけならな。グランディア王国に仕えた大魔導士だ。複数の属性を操り、古い魔道具や魔石の研究にも詳しかったと聞いている」
「そんなにすごい人なの?」
「ああ。ジークと同じく、かなり昔に活躍した人物だ」
「婆さんも、自分のことはあまり話さなかった」
シグマは左右の義手へ目を落とす。
「ただ、俺の両腕を鑑定してくれた。右腕にある石が炎帝石、左腕にある石が獣王石だと教えてくれたのも婆さんだ」
「石の能力もか?」
「分かる範囲ではな。だから俺は、二つの石が持つ基本的な力を使うことができた」
「昨日見つかった義手の仕掛けは、サーシャにも分からなかったん?」
シルフが尋ねる。
「ああ。婆さんが鑑定したのは、主に二つの石だ。義手の内部に隠されていた機構までは分からなかった」
「魔石の能力と、義手そのものの機能は別だったってことやな」
「たぶん、そうだ」
茜はしばらくシグマの両腕を眺めた後、改めて顔を上げた。
「事情は分かった。お前の格闘術は我流じゃない。グランディア王国でも名を知られた武人から、直接教わったものだ」
「ああ」
「なら、あたしが余計な形へ崩すわけにはいかないな」
「教えられないということか?」
「逆だ」
茜は口元を吊り上げる。
「格闘術の基礎がそこまでできてるなら、気術を教えるには都合がいい」
「ジークの格闘術へ、気術を加えられるのか?」
「実際の動きを見ないと分からない。まず構えてみろ」
シグマは右足を僅かに引き、腰を落とした。
両腕を体の中心へ置き、肩と肘から余分な力を抜く。
最初から義手を前提として教え込まれた構えだった。
重い両腕だけで攻撃を受けるのではなく、足と腰の動きによって衝撃を逃がす。
すぐに拳を打てるだけでなく、相手を掴み、投げ、関節を押さえる動きへも繋げられる。
茜の表情から笑みが消えた。
シグマの正面、側面、背後へと移動しながら、全身の構えを細かく観察する。
「隙が少ない」
「そうか?」
「ああ。どの方向から攻められても、足を入れ替えるだけで対応できる。義手の重さも、最初から動きへ組み込まれてる」
「ジーク爺さんに、何度も直されたからな」
「具体的には、どんなことを教わった?」
「拳や蹴りだけじゃない。受け流し、投げ、関節を押さえる方法も教わった。相手の武器を奪う動きもある」
「やっぱり戦場で使う格闘術だな」
茜はシグマの正面へ戻った。
「少し動いてみろ。最初は歩くだけでいい」
「歩くだけで分かるのか?」
「分かる。早く行け」
シグマは言われた通り、稽古場の端まで歩いて戻る。
「次は走れ。稽古場を一周」
シグマは地面を蹴、一定の速さで稽古場を回った。
茜は腕を組んだまま、その足運びを追っている。
「今度は、あたしの前まで踏み込んで止まれ」
シグマは茜から距離を取り、右足で地面を蹴った。
一気に間合いを詰め、茜の一歩手前で体を止める。
その瞬間、茜の右手がシグマの胸へ伸びてきた。
シグマは右手で茜の手首を外側へ払い、左手を肘へ添える。
同時に茜の横へ踏み込み、腕を捻りながら体勢を崩そうとした。
「ほう!」
茜は腕を引き、シグマから素早く距離を取った。
「今のもジークから教わったのか?」
「ああ。真正面から力を受けず、相手の勢いを利用しろと言われた」
「いい動きだ。義手の強度に任せて受け止めてない」
「爺さんから、両腕がいくら頑丈でも、体まで頑丈とは限らないと言われたからな」
「その通りだ。腕で防げても、衝撃まで消えるわけじゃない」
茜はシグマの足元を見る。
「ただ、少し動きが硬いな」
「怪我の影響か?」
「それもあるだろうが、両腕を使う動きが慎重すぎる。昨日、何かあったのか?」
「義手に知らない機能が隠されていると分かった。今は不用意に動かさないよう意識している」
「それで無意識に腕の動きを抑えてるわけか」
茜がシグマの右手を指さす。
「今まで通り動かしても、勝手に機能が発動することはあるのか?」
「それはないと思う。どちらも意識して動かす必要があった」
「なら、格闘をするときまで怖がる必要はない」
「怖がっているつもりはない」
「体は正直だぞ」
茜はシグマの胸を軽く叩いた。
「知らない機能があると分かって、両腕の動きを疑ってる。それじゃ、ジークから教わった格闘術まで鈍る」
シグマは自分の両腕を見る。
茜の言葉を否定することはできなかった。
昨日まで、自分は両腕の使い方を分かっているつもりだった。
炎帝石と獣王石については、サーシャから教わった。
格闘術は、ジークから両腕を生かせる形で教え込まれた。
それでも、義手そのものには知らない仕掛けが残されていた。
「どうすればいい?」
「両腕を信じろとは言わない。分からない物を無条件に信じる方が危険だ」
茜は自分の胸へ拳を当てた。
「だから、両腕だけに意識を集めるな。体全体を使え。呼吸、足、腰、肩、拳。そのすべてを一つに繋げる」
「それが気術か?」
「気術の基礎だ」
茜が大きく息を吸う。
その瞬間、周囲の空気が変わった。
強い魔力は感じない。
風も起きず、地面も揺れていない。
それでも、茜の存在だけが急に大きくなったような圧力があった。
白鬼と黒鬼が同時に息を呑む。
「これが気術……?」
白鬼が呟く。
「俺も実際に見るのは初めてだ」
紅蓮が茜を見つめる。
「鬼人の間でも、使える者はほとんどいない」
「その通りだ」
茜は息を吐きながら、ゆっくりと構えを取る。
「気術は魔法じゃない。体の内側にある生命力と魔力を、呼吸に合わせて全身へ巡らせる技だ」
「身体強化の魔法とは違うのか?」
シグマが尋ねる。
「似ているようで違う。魔法は術式によって体を強化する。気術は自分の呼吸と意識で、必要な場所へ必要な力を通す」
「魔力を使うなら、二つの石が反応する可能性はないのか?」
「外へ放つわけじゃない。体内に元からある力を巡らせるだけだ。ただし、お前の場合は両腕に特殊な石がある。最初から無理に力を通すつもりはない」
「なら、どうやって修行する?」
「まずは呼吸と重心だけだ。気を感じるところから始める」
茜はそこで言葉を切り、シグマを真っすぐ見た。
「もっとも、その前に弟子にする価値があるか確かめる」
「まだ決めてなかったんだね」
白鬼が声を上げる。
「ジークから教わったと聞いたからって、無条件に認めるわけにはいかない。名高い師から教わっても、本人が身につけてなければ意味がないだろ」
「何をすればいい?」
シグマが尋ねる。
「一度、あたしと立ち合え」
茜は稽古場の中央へ進んだ。
「魔法と武器は禁止。炎帝石と獣王石の力も、昨日見つかった義手の機能も使うな」
「格闘術だけで戦うのか?」
「ああ。お前が一度でもあたしに触れられたら、そこで終わりだ」
紅蓮が茜の前へ出る。
「待て。シグマは大怪我から回復したばかりだ」
「分かってる。あたしから攻撃はしない」
「あの人形を見た後じゃ、信用しにくい」
「あれは壊れる寸前だったから、最後に思い切り殴っただけだ」
「十分不安になる話だな」
「安心しろ。本当に避けるだけだ」
茜はシグマへ顔を向ける。
「どうする?」
「やる」
シグマは迷わず答えた。
認識阻害のマントと黒鞘刀を外し、紅蓮へ預ける。
「無茶はするな」
「ああ」
「二つの石も使うなよ」
「分かってる」
「絶対にだぞ」
「紅蓮まで疑うのか?」
「昨日、全員から釘を刺されたばかりだろ」
シグマは反論できず、そのまま稽古場の中央へ進んだ。
茜と向かい合い、ジークから教わった構えを取る。
茜は両腕を自然に下ろしたまま、腰を落とそうともしない。
一見すると無防備だった。
だが、どこから踏み込んでも届かないような、奇妙な感覚がある。
「来い」
茜が片手を上げ、シグマを招くように指を曲げた。
「ジークから何を教わったのか、あたしに見せてみろ」
「分かった」
シグマは地面を蹴った。
義手の機能も、二つの魔石も、土魔法も使わない。
ジークから教わった足運びで一気に間合いを詰め、右拳を茜の肩へ伸ばす。
茜が僅かに体を傾ける。
シグマは右拳を途中で止め、茜の逃げる方向へ左足を踏み込んだ。
左手で腕を掴み、そのまま体勢を崩す。
そう動こうとした瞬間、茜の姿が僅かに揺れた。
シグマの左手が、何もない空間を通り過ぎる。
「なっ……」
茜は先ほどとほとんど同じ場所に立っていた。
ただ半歩だけ、後ろへ下がっている。
足音さえ聞こえなかった。
シグマは体勢を崩さず、すぐに足を踏み替える。
今度は茜の背後へ回り、右手で肩を掴もうとした。
再び、茜の姿が揺れる。
指先は僅かな差で届かない。
「いい動きだ!」
茜が楽しそうに笑う。
「ジークの名を出すだけのことはある!」
「今の動きが気術なのか?」
「ああ。脚へ気を巡らせ、踏み出す一瞬だけ力を高めた」
「魔力の動きがほとんど見えへん……」
シルフが目を細める。
「体の外へ放ってへんから、神の目でも追いにくいんか」
「正解だ」
茜はシルフへ答えながらも、シグマから視線を逸らさない。
「さあ、どうした? 一度避けられたくらいで終わりか?」
「いや」
シグマは再び構えを整える。
「触れるまで続ける」
「いい答えだ!」
茜は両腕を下ろしたまま、シグマを待ち構えた。
「来い、シグマ! グランディアの将軍ジークから受け継いだ格闘術、そのすべてを見せてみろ!」
白髪の鬼師範を前に、シグマは再び地面を蹴った。
今度は正面から攻めなかった。
シグマは茜を中心に円を描くように動き、僅かずつ距離を縮めていく。
茜もその場から動かず、楽しそうにシグマを目で追っていた。
「どうした? 来ないのか?」
「さっきと同じように踏み込んでも、避けられるだけだ」
「ちゃんと考える頭はあるみたいだな」
茜は構えを取らない。
どこからでも触れられそうに見えるのに、隙が見つからなかった。
先ほど茜が動いた瞬間、魔力の変化はほとんど感じられなかった。
だが、完全に何もなかったわけではない。
動く直前、僅かに呼吸が変わっていた。
シグマは茜の胸元へ視線を向ける。
大きく吸うわけでも、息を止めるわけでもない。
呼吸の流れが、踏み出す寸前だけ短く途切れている。
「見るところを変えたか」
茜が口元を緩める。
「気術は呼吸と関係があると言ったからな」
「教えたことをすぐに使うのは悪くない。だが、分かったからといって追えるとは限らないぞ」
「ああ。試してみる」
シグマは右足で地面を蹴た。
茜との距離を一気に縮め、右拳を正面へ伸ばす。
茜の呼吸が僅かに変わった。
次の瞬間、その姿が右へ揺れる。
シグマは拳を途中で止め、体を捻った。
左足を茜の進行方向へ踏み込み、左手を伸ばす。
「甘い!」
茜はさらに半歩後ろへ下がった。
シグマの左手も空を切る。
だが、シグマは追いかけなかった。
その場で腰を落とし、茜の足首へ向かって右脚を払う。
茜は軽く地面を蹴り、足払いを避けた。
着地する位置へ、シグマの右手が伸びる。
「ほう!」
茜は空中で体を捻り、伸ばされた手を避けて着地した。
シグマはすぐに立ち上がり、再び構える。
「今のは惜しかったよ!」
白鬼が稽古場の端から声を上げる。
「でも、茜はまだほとんど動いてない」
黒鬼が冷静に続けた。
「白鬼、シグマを応援するのはええけど、あんまり騒いだら集中できへんで」
「分かってる。今から静かにする」
白鬼は両手で自分の口を塞いだ。
その隣では、フェルンが祈るように両手を握っている。
「シグマ、大丈夫かな?」
「茜は避けるだけだと言っている。今のところ危険はない」
紅蓮はそう答えながらも、シグマと茜から目を離していなかった。
シグマは呼吸を整え、茜を見る。
正面から追うだけでは触れられない。
動き始める瞬間を見抜いても、茜は一度の移動で終わらず、続けて方向を変えられる。
「もう終わりか?」
「いや」
シグマは再び走り出す。
右から拳を伸ばし、茜を左へ避けさせる。
茜が動いた先へ踏み込み、今度は肩を掴もうと左手を伸ばした。
その手も届かない。
続けて蹴りを放つが、茜は紙一重で体を引いた。
拳。
掌底。
足払い。
掴み。
シグマはジークから教わった技を繋ぎ、攻撃を途切れさせずに茜を追う。
しかし、どれだけ手数を増やしても、茜の体には触れられなかった。
茜は必要な分だけ動き、最小限の歩幅でかわしていく。
「動きは悪くない!」
茜は笑いながら言う。
「拳だけに頼らず、蹴りや掴みへ繋げるのもいい! 戦場で使われていた技だけあって、相手を倒すことより動きを止めることを優先してる!」
「よく話しながら避けられるな」
「まだ余裕があるからな!」
茜の言葉通りだった。
息一つ乱していない。
一方のシグマは、連続して攻撃を仕掛けたことで呼吸が僅かに荒くなっていた。
「このまま続けても、シグマの方が先に疲れるな」
紅蓮が呟く。
「茜は気術を使ってるのに疲れないの?」
白鬼が口から手を離して尋ねる。
「無駄な力を使ってないんやろ」
シルフが茜の動きを目で追う。
「必要な瞬間に、必要な場所だけ強化しとる。シグマみたいに全身を動かして追い続けるより、消耗が少ないんや」
「じゃあ、どうすれば触れるの?」
「それを今、シグマが考えとるんやろ」
シグマは茜から距離を取り、呼吸を整えた。
茜の動きを追えば追うほど、こちらが不利になる。
ならば、追うのをやめるしかない。
茜が避けることを利用し、動く場所を限定する。
シグマは稽古場へ視線を走らせた。
武器や道具を使うことは禁止されている。
だが、自分の体をどのように使うかまでは制限されていない。
「何か思いついた顔だな」
茜が言う。
「試してみないと分からない」
「いいぞ。やってみろ」
シグマは深く腰を落とした。
茜へ向かって踏み込み、右拳を真っすぐ放つ。
茜が左へ避ける。
予想していた方向だった。
シグマは左足を踏み込み、体ごと茜へぶつかるように距離を詰める。
茜が後ろへ下がった。
さらに一歩。
右手で掴もうとすれば左へ、左手を伸ばせば後ろへ。
シグマは攻撃を当てるのではなく、茜が避けられる方向を一つずつ潰していく。
「なるほどな!」
茜の笑みが深くなった。
「あたしの動きを追うんじゃなく、動く場所を選ばせるつもりか!」
茜の背後に、先ほど壊れた訓練人形が転がっていた。
そのまま下がれば足元を取られる。
左右はシグマの両腕が塞いでいる。
残されたのは、上だけだった。
シグマが両手を伸ばす。
茜は地面を蹴、シグマの頭上を飛び越えた。
シグマもすぐに振り返る。
だが、茜はすでに着地し、間合いの外へ離れていた。
「惜しかったな!」
「まだだ」
シグマは再び茜へ向かった。
先ほどと同じように左右の逃げ道を塞ぎ、後ろへ下がらせる。
「同じ手が通じると思うか?」
「思ってない」
シグマは右拳を伸ばした。
茜が横へ避ける。
それを追おうとした瞬間、シグマの右足が僅かに滑った。
連続した動きで踏み固められた土が崩れ、体勢が前へ傾く。
「シグマ!」
フェルンの声が響く。
倒れかけたシグマを避けるため、茜が半歩横へ動いた。
次の瞬間。
シグマは地面へ左手をつき、崩れた体勢のまま右脚を振り抜いた。
蹴りではない。
茜の足首へ、右足の甲を軽く触れさせる。
茜の動きが止まった。
シグマはそのまま地面へ転がり、すぐに起き上がる。
「……触れたぞ」
稽古場が静まり返った。
白鬼が目を丸くし、茜の足元を見る。
「今、触ったよね?」
「うん。右足が当たった」
黒鬼が頷く。
「転んだんじゃなかったの?」
フェルンが尋ねる。
「途中までは本当に体勢を崩してたで」
シルフが苦笑する。
「でも、そのまま転ぶんやなくて、茜が避ける方向へ足を出したんや」
紅蓮も僅かに口元を緩めた。
「ジークから、倒れかけたときの動きまで教わっていたんだろうな」
「ああ」
シグマは服についた土を払いながら答える。
「体勢を崩したときに、無理に立ち続けようとするなと言われた。倒れるなら、次の動きへ繋げろと」
茜は自分の足首を見下ろしていた。
やがて肩を震わせ始める。
「ははっ……」
笑い声は少しずつ大きくなり、最後には道場全体へ響き渡った。
「はははははっ! やるじゃないか!」
「そんなに笑うことか?」
「あたしが勝手に、立ったまま触れに来ると思い込んでた! まさか倒れながら足を伸ばしてくるとはな!」
「触れれば何でもいいと言ったのは茜だ」
「ああ、その通りだ! 文句はない!」
茜はシグマの前まで歩いてくる。
「技術もある。相手の動きを見る目もある。それに、追い詰められてから戦い方を変えられる」
茜の拳が、シグマの胸へ軽く当てられた。
「合格だ」
「それなら――」
「ああ。今日からお前を弟子にする」
「本当に?」
フェルンがシグマより先に聞き返した。
「本当だ。約束したからな」
「よかったね、シグマ!」
フェルンが駆け寄り、シグマの腰へ抱きつく。
「ああ」
「ただし、喜ぶのはまだ早いぞ」
茜が二人の間へ割って入るように声を上げた。
「弟子にするとは言ったが、気術を使えるようになるとは言ってない」
「教えても使えないことがあるのか?」
「当然だ。気を感じられなければ、何年修行しても使えない」
「それは困るな。俺たちがミルザードに滞在するのは五日ほどだ」
「五日?」
茜の眉が上がる。
「五日で気術を覚えるつもりなのか?」
「完全に使えるようになるとは思っていない。基礎だけでも身につけたい」
「随分と無茶を言うな」
「やっぱり無茶する人でしょ?」
白鬼が茜へ言う。
「戦いだけじゃなく、修行でも無茶を言うみたいだな」
「無理なら、できるところまででいい」
「いや」
茜は腕を組み、シグマを上から下まで見る。
「できるかどうか、試す前から諦める気はない。五日でどこまで進めるか、あたしが見てやる」
「厳しくするのか?」
「当たり前だ!」
茜は豪快に笑った。
「グランディアの将軍ジークから直々に教わった奴を、半端なまま帰したら、あたしの名が廃る!」
「茜はジーク爺さんに会ったことがあるのか?」
「ない。あたしが生まれるよりもずっと前に名を馳せた人だ。伝わっている話と、残された記録でしか知らない」
茜はそこで一度、声を落とした。
「生きていると知ったら、武を学ぶ連中が押しかけるかもしれない。今、どこにいるかは誰にでも話すな」
「ああ。爺さんと婆さんにも、静かに暮らしたいと言われている」
「なら、なおさらだ」
茜は紅蓮たちへも視線を向ける。
「お前たちも、二人のことは不用意に話すなよ」
「元から話すつもりはない」
紅蓮が答える。
白鬼と黒鬼も同時に頷いた。
「話が決まったなら、早速始めるぞ」
茜は道場の入口へ向かう。
「立ち合いの続きじゃないのか?」
「気術を覚えたいんだろ? だったら最初にやることは一つだ」
茜が道場の床を指さした。
「座れ」
◇
道場の中には、余計な物がほとんど置かれていなかった。
磨かれた木の床。
壁に並べられた木剣や槍。
奥には、何度も使い込まれた訓練人形が置かれている。
シグマは道場の中央で足を組んで座っていた。
茜はその正面に腰を下ろす。
紅蓮たちは少し離れた壁際へ並んでいた。
「背筋を伸ばせ」
茜の指示に従い、シグマは姿勢を正す。
「肩の力を抜け」
「抜いている」
「抜けてない。両腕を動かさないように意識しすぎだ」
茜がシグマの右肩を軽く叩く。
「義手が重いから支えようとしてるんだろうが、今は腕を動かさない。膝の上へ置いて、体に預けろ」
シグマは両手を膝へ置いた。
「目を閉じろ」
「閉じた」
「次は呼吸だ。鼻からゆっくり吸って、口から吐け」
シグマは言われた通りに呼吸する。
「もっとゆっくりだ。吸うことより、吐くことを意識しろ。体の中に残っている息を、全部外へ出すつもりでな」
長く息を吐き、再び吸う。
何度か繰り返すが、特に変化は感じなかった。
「気は感じるか?」
「何も」
「だろうな」
「もう少し考えてから聞いてくれ」
「最初から感じられる奴なんて、滅多にいない。確認しただけだ」
茜は悪びれる様子もない。
「魔力を感じるときとは違うのか?」
「ああ。魔力だけを探すな。血が流れる感覚、呼吸で胸や腹が動く感覚、地面に触れている足の感覚。全部まとめて自分の内側へ意識を向けろ」
「曖昧だな」
「だから難しいんだ」
シグマは再び呼吸を整えた。
胸が膨らみ、腹が僅かに動く。
床へ触れている脚。
膝の上に置いた左右の義手。
意識を向けるほど、普段は気にしていなかった体の感覚が一つずつ浮かび上がってくる。
だが、それらしい力は見つからない。
「まだ何も感じない」
「焦るな。無理に探そうとすると、余計に分からなくなる」
「五日しかないんだが」
「始めてからまだ半刻も経ってないぞ」
「シグマ、焦りすぎや」
壁際からシルフの声が飛んでくる。
「見ているだけなら簡単に言えるな」
「ほな、うちもやってみよか?」
「駄目だ」
茜が即座に止めた。
「気術は教え方を間違えれば、体内の魔力を乱す。遊びで真似するな」
「そんな危険なん?」
「基礎の呼吸だけなら問題ない。だが、勝手に魔力を巡らせようとするのは危険だ」
茜は壁際の全員を見回した。
「見ているのは構わないが、シグマの真似はするなよ」
「分かった」
黒鬼が素直に頷く。
白鬼も真剣な表情で何度も頷いた。
「シグマ。今は両腕へ気を通そうとするな」
「どうしてだ?」
「炎帝石と獣王石がどう反応するか分からないからだ。最初は脚だけでいい」
「脚だけ?」
「ああ。呼吸に合わせて、腹から右脚へ温かい物が流れていく様子を想像しろ」
「想像でいいのか?」
「最初はな。何もない場所へ道を作るようなものだ。同じ場所へ何度も意識を通せば、いずれ本物の気の流れを見つけられる」
シグマは目を閉じたまま、呼吸を繰り返す。
腹から腰。
腰から右の太腿。
膝を通り、足先へ。
頭の中で流れを思い描く。
何度繰り返しても、感じるのは呼吸と自分の体温だけだった。
やがて右脚に力が入り、僅かに筋肉が強張る。
「力むな」
茜の声が飛ぶ。
「気を流すんだ。筋肉で押し出そうとするな」
「流しているつもりだ」
「つもりだけだな」
「難しいな……」
「だから修行になる」
どれほど続けても、シグマは気の正体を掴めなかった。
昼を過ぎる頃には、立ち合いよりも座っている時間の方が長いにもかかわらず、全身へ疲労が溜まっていた。
「今日はここまでだ」
茜の声に、シグマは目を開く。
「まだできていない」
「最初からできるとは思ってない。これ以上続けても、集中が切れた状態で同じことを繰り返すだけだ」
「もう少しなら続けられる」
「師匠の言うことを聞けないなら、弟子にした話は取り消すぞ」
シグマは口を閉じた。
「分かった」
「返事だけはいいな」
茜は立ち上がり、固まった体を解すように大きく伸びをする。
「今日は宿へ戻って休め。明日の朝、また来い」
「それまでに何をすればいい?」
「普段通りに過ごせ。ただし、歩くときに足の裏を意識しろ。地面を蹴る瞬間と、着く瞬間。その違いを考えながら歩け」
「それも気術の修行なのか?」
「そうだ。気術は座っているときだけ使うものじゃない。自分の体がどう動いているか分からない奴に、気を巡らせることはできない」
シグマは立ち上がった。
何時間も座っていただけなのに、脚が僅かに痺れている。
「シグマ、大丈夫?」
フェルンがすぐに駆け寄ってくる。
「ああ。少し脚が痺れただけだ」
「歩ける?」
「問題ない」
一歩踏み出した瞬間、右脚から力が抜けた。
倒れる前に紅蓮が肩を支える。
「大丈夫じゃないだろ」
「……思ったより痺れていた」
「シグマの大丈夫は、やっぱり信用できないね」
白鬼が呆れたように言う。
「今のは無茶とは違う」
「同じようなもの」
黒鬼まで白鬼へ同意する。
茜はその様子を見て、豪快に笑った。
「明日からは、もっときつくなるぞ!」
「座っているだけじゃないのか?」
「まさか。今日のは、自分の体へ意識を向けるための準備だ」
茜は拳を掌へ打ちつける。
「明日は走りながら気を探してもらう!」
「いきなり変わりすぎじゃないか?」
「座って分からないなら、動きながら探すしかないだろ!」
「本当に大丈夫なんやろな……」
シルフが不安そうに呟く。
「任せろ!」
茜は迷いなく胸を張った。
その自信に満ちた姿を見ても、なぜか誰一人として安心できなかった。
翌朝。
シグマが道場へ到着すると、茜は既に稽古場の中央で待っていた。
その足元には、大人の腰ほどの高さがある重そうな木箱が置かれている。
「来たな!」
「ああ。それは何だ?」
「今日の修行に使う」
茜が木箱を片手で持ち上げ、シグマへ差し出す。
「持って走れ」
「昨日は、体の感覚を意識しながら走ると言ってなかったか?」
「持って走れば、嫌でも体の感覚が分かるだろ!」
「説明が随分と足りていない気がする」
「細かいことは走りながら考えろ!」
シグマは差し出された木箱を両腕で受け取った。
予想していた以上に重い。
中には砂が隙間なく詰められているらしく、少し傾けただけで重心が大きく偏った。
「腕だけで持つなよ」
茜がシグマの腹を指さす。
「足、腰、腹、背中。その全部で重さを支えろ。呼吸に合わせて力を巡らせ、稽古場を走れ」
「気を感じていないのに、巡らせられるのか?」
「だから先に体を動かす。昨日みたいに座ったまま考え込むより、お前にはこっちの方が合ってる」
「どのくらい走る?」
「気を感じるまでだ」
「回数を聞いているんだが」
「決めてない!」
シグマは木箱を抱えたまま、茜を見つめた。
「昨日より不安になってきたな」
「いいから走れ!」
茜に背中を叩かれ、シグマは稽古場を走り始めた。
一周目は問題なかった。
二周目も、僅かに木箱の中身が偏っただけで体勢を崩さずに走る。
三周目を過ぎた頃から、両脚へ重さが溜まり始めた。
「肩に力が入りすぎだ!」
茜の声が飛んでくる。
「腕で箱を持ち上げようとするな! 腰へ乗せろ!」
シグマは木箱を抱える位置を僅かに下げる。
「呼吸を止めるな! 吸って、吐いて、足を出せ!」
呼吸。
足の裏。
膝。
腰。
木箱の重さに意識を奪われそうになるたび、昨日言われた体の感覚へ意識を戻す。
やがて腕だけで支えていた重さが、腰から脚へ流れていくような感覚があった。
気ではない。
体の使い方を変えただけだ。
それでも、先ほどより木箱が軽くなったように感じられる。
「今だ! その感覚を逃がすな!」
茜の声に、シグマは走り続けた。
呼吸に合わせて右足を踏み出す。
地面へ足が着く。
腰が前へ進み、その動きに上半身が続く。
今まで無意識に行っていた動きが、一つずつ分かれて感じられた。
そして、それぞれが繋がって一つの動きになる。
十周を越えた頃、右脚の奥に僅かな熱が生まれた。
走ったことで筋肉が熱を持った感覚とは違う。
腹の奥から細い何かが流れ込み、右脚へ溜まっていく。
「茜!」
「止まるな! 何を感じた!」
「右脚が熱い!」
「その熱を足先まで流せ! 押し込むんじゃない! 呼吸に乗せろ!」
シグマは息を吸い、ゆっくりと吐く。
腹から右脚へ流れる熱を意識しながら、地面を蹴った。
次の瞬間。
右足が予想以上の力で地面を押した。
シグマの体が前へ飛び出す。
「なっ――」
突然の加速に体が追いつかない。
木箱が大きく傾き、シグマは正面から地面へ倒れかけた。
直前に茜が回り込み、片手で木箱を受け止める。
もう片方の手でシグマの服を掴み、その体を支えた。
「初めてにしちゃ上出来だ!」
「今のが気か?」
「ああ。ほんの一瞬だけだが、右脚へ集まった」
茜は木箱を地面へ置く。
「ただし、全然制御できてない。今のまま戦いで使えば、自分から敵へ突っ込んでいくだけだな」
「使えたと思ったんだが」
「使えたことと、扱えたことは別だ」
「難しいな」
「昨日まで感じることもできなかったんだ。二日目で文句を言うな」
茜は笑いながら、シグマの肩を叩いた。
「でも、今のは気だったんだな?」
「ああ。間違いない」
シグマは右脚を見る。
先ほど感じた熱は既に消えていた。
同じように呼吸を整えても、すぐには戻ってこない。
「もう一度やる」
「当然だ」
茜は木箱を再び持ち上げ、シグマへ押しつける。
「今度は飛び出す前に止めろ!」
「止め方を教えてくれ」
「呼吸を乱すな!」
「それだけか?」
「まずはそれだけだ!」
結局、その日、シグマが同じ感覚を掴めたのは三度だけだった。
二度目は右脚が僅かに速く動き、三度目は何も起こらないまま熱が消えた。
思い通りに集めることも、留めることもできない。
それでも、昨日まで存在すら分からなかったものを、確かに感じることはできた。
◇
三日目から、修行はさらに厳しくなった。
朝は呼吸を整えながら走り込みを行う。
昼からはジークに教わった格闘術を繰り返し、拳や蹴りを放つ瞬間だけ気を集める練習へ移った。
「全身を一度に強化しようとするな!」
茜の声が稽古場へ響く。
「今のお前には無理だ! 拳を出すなら拳だけ、蹴るなら脚だけを意識しろ!」
シグマは訓練人形の前で構えを取る。
呼吸を整え、右脚へ気を集めようとする。
腹の奥に、僅かな熱を感じた。
それを脚へ流し、地面を蹴る。
踏み込みは成功した。
だが、拳を放つ前に気が散り、いつもと変わらない一撃が訓練人形へ当たる。
「遅い!」
茜がすぐに指摘する。
「脚へ気を集めることばかり考えて、拳が止まってる!」
「両方へ同時に流すのは、まだ無理だ」
「なら、脚の気を踏み込みと同時に解け! その後で拳へ意識を移せ!」
「そんなに早く切り替えられるのか?」
「あたしはできる!」
「茜と同じことが、三日目の俺にできると思っているのか?」
「できるまでやるんだよ!」
茜の答えは、いつも同じだった。
シグマは再び構える。
踏み込む。
気が散る。
もう一度。
今度は右脚へ流す前に、呼吸が乱れた。
「やり直し!」
何度失敗しても、茜は止めなかった。
シグマも諦めなかった。
日が傾く頃には、立っているだけでも脚が震えていた。
「今日はもう終わりだ」
「あと一度だけだ」
「その言葉、さっきも聞いたぞ」
「次はできる気がする」
「それも聞いた」
「なら、これで最後にする」
「信用できないな」
茜は呆れながらも、訓練人形の前から退いた。
「本当に最後だ。体が限界を越えたら、気術どころか明日の修行もできなくなるぞ」
「ああ」
シグマはゆっくりと息を吸う。
腹の奥にある熱を探す。
右脚へ流す。
完全ではない。
だが、何も感じなかった最初の日よりは、僅かに輪郭が分かる。
シグマは地面を蹴った。
踏み込みへ気を使った直後、その流れを手放す。
同時に腰を回し、右拳を突き出した。
拳が訓練人形へ触れる寸前。
腕の奥に、僅かな熱が流れ込む。
重い音とともに、訓練人形が大きく揺れた。
倒れるほどではない。
表面に傷がついたわけでもない。
それでも、これまでの拳より明らかに重い一撃だった。
「……できたか?」
「一瞬だけな」
茜が訓練人形の揺れを手で止める。
「右脚へ集めた気を解き、拳へ切り替えた。まだ流れは途切れてるが、初めてにしては悪くない」
「なら、もう一度――」
「終わりだ!」
茜はシグマの襟首を掴み、訓練人形から引き離した。
「最後だと言っただろ!」
「感覚を忘れる前に、もう一度試したい」
「明日やれ!」
「明日まで覚えているとは限らない」
「体を壊したら、それこそ全部やり直しだ!」
そのまま茜はシグマを引きずり、壁際で待っていた仲間たちの前へ連れていく。
「こいつを宿へ連れて帰れ!」
「だから言っただろ。無茶をするなと」
紅蓮がシグマの腕を肩へ回す。
「まだ歩ける」
「脚が震えてる人の言葉は信用できないよ」
白鬼が右側からシグマを支える。
「シグマ、今日はもう休んで」
黒鬼も心配そうに顔を覗き込んだ。
「明日も修行するなら、今は休んだ方がいい」
「分かった」
「本当に?」
フェルンが疑うように見上げる。
「ああ。本当に休む」
「じゃあ、宿に戻ったら私が見てる」
「そこまでしなくても逃げない」
「シグマなら、夜中に一人で練習するかもしれへんからなあ」
シルフまで疑っている。
「しない」
「ほな、約束やで」
「ああ」
茜はそんな一行を見送りながら、楽しそうに笑っていた。
◇
四日目。
シグマは右脚へ気を集め、短い距離だけなら狙って加速できるようになっていた。
成功するのは三度に一度ほど。
動く距離も一歩か二歩に限られる。
それ以上続けようとすれば呼吸が乱れ、気の流れも消えてしまう。
拳や蹴りへの集中は、さらに不安定だった。
うまくいけば普段より僅かに威力が増す。
だが、力を集めることへ意識を向けすぎると、ジークから教わった動きそのものが遅くなる。
「気術を使おうとするな」
茜が言う。
「気術の修行をしているのにか?」
「使おうと意識しすぎるなって意味だ。お前の格闘術は、考えなくても体が動くところまで身についてる。気術も、最後はそこへ重ねる必要がある」
「今は考えなければ、気を感じることもできない」
「だから、まだ基礎なんだ」
茜は自分の右拳をゆっくりと前へ出した。
構えることも、力むこともしない。
拳が訓練人形へ触れた瞬間だけ、空気が僅かに震えた。
次の瞬間、巨大な訓練人形が地面を滑り、数歩先で倒れる。
「今、何をした?」
「拳へ気を集めた。それだけだ」
「腕を振りかぶってもいないのに?」
「体の内側から力を通した。外から見える動きが小さくても、気が繋がっていれば力は伝わる」
茜は倒れた訓練人形を起こす。
「今のお前は、腹から脚、脚から拳へ気を移そうとしてる。だが、本来は全部繋がってるんだ」
「最初から全身に流せと言わなかったか?」
「言ったら、お前は初日に無理やり全身へ流そうとしただろ」
「試してみないと分からない」
「そう言うと思ったから、教えなかったんだ!」
茜は大きく息を吐いた。
「まず一本の道を作る。そこから少しずつ枝を増やす。焦るな」
「五日しかない」
「ミルザードを離れた後も修行は続けられる。あたしがいなきゃ何もできない教え方をするつもりはない」
「一人でも続けられるのか?」
「ああ。呼吸と走り込みは毎日やれ。気を集めるのは脚から始め、慣れるまでは両腕へ無理に流すな」
茜の視線が、炎帝石と獣王石へ向く。
「特にその二つの石がある。気を通したときに、どう反応するか分からない」
「今のところ反応はない」
「今は脚と拳へ一瞬流してるだけだからな。両腕全体へ巡らせるのは、制御具が完成してからにしろ」
「分かった」
「本当に分かってるんだろうな?」
「茜まで疑うのか?」
「数日一緒にいれば、嫌でも分かる」
茜は腕を組み、紅蓮たちへ目を向ける。
「こいつ、普段からこうなのか?」
「もっとひどいときもある」
紅蓮が答える。
「否定できへんなあ」
シルフも続く。
「シグマは止めても行くよ」
「止め方が足りないんじゃないか?」
「シグマの意識を失わせるくらいやないと、止まらへんときがある」
「それは大変だな……」
「本人の前で話すことか?」
シグマが尋ねるが、誰も答えなかった。
◇
五日目の朝。
シグマは稽古場の中央で、茜と向かい合っていた。
「今日は、今まで覚えたことを格闘へ繋げる」
茜が両手を構える。
これまでとは違い、避けるだけではないらしい。
「打ち合うのか?」
「ああ。ただし、本気で殴るなよ」
「俺より茜の方が危ないと思うが」
「あたしは加減できる!」
「訓練人形を飛ばしていたのに?」
「あれは加減しなかっただけだ!」
茜は気にするなと言わんばかりに手を振る。
「使っていいのは、脚へ集めた気だけだ。炎帝石、獣王石、義手の機能、土魔法は禁止。拳へ無理に流すのもまだ駄目だ」
「分かった」
「それじゃ、来い!」
シグマは呼吸を整える。
腹の奥に生まれた熱を、右脚へ流す。
初日ほど時間はかからない。
完全ではないが、細い流れが右脚へ通っていく。
茜との距離を見定め、地面を蹴った。
気が右脚へ集中する。
シグマの体が一気に前へ進む。
茜は真正面から拳を放った。
シグマは右義手で受け止めず、体を横へずらして拳をかわす。
そのまま茜の懐へ入り、左手を伸ばす。
茜が肘で弾こうとする。
シグマは腕を引き、足を踏み替えて背後へ回った。
右手が茜の肩へ触れる。
「そこまで!」
茜の声で、シグマは動きを止めた。
「どうだ?」
「一瞬だけだが、踏み込みへ気を使えてた。加速した後も、体勢は崩れてない」
「なら、使えるようになったのか?」
「勘違いするな」
茜がシグマの額を指で弾く。
「今できるのは、短い踏み込みを少し速くすることだけだ。気を集めるまで時間もかかる。連続では使えない。実戦で無理に使えば、呼吸を乱して動けなくなる」
「分かってる」
「今の段階では、使わない方が強い場面も多い」
「それでも、第一歩にはなった」
「ああ」
茜は満足そうに笑った。
「そこは認めてやる」
そのとき、道場の門から誰かが駆け込んできた。
「シグマって人は、ここにいるか!」
現れたのは、ドルドの工房で働く若い職人だった。
「俺だ」
「ドルド親方とヒルメアさんからだ! 制御具が完成したから、工房へ来てほしいって!」
「完成したのか」
シグマが茜へ目を向ける。
「行ってこい」
「修行は?」
「今日の分は終わりだ。それに、あたしもその制御具には興味がある」
茜は迷いなく歩き出した。
「一緒に来るのか?」
「弟子が危ない道具をつけるんだ。師匠として確認するのは当然だろ!」
「弟子になったばかりやけどな」
シルフの言葉を、茜は聞こえなかったことにした。
◇
工房へ到着すると、ドルドとヒルメアは作業台の前で待っていた。
台の上には、左右一組の金属製の制御具が置かれている。
腕輪にも見えるが、一般的な装飾品より幅が広い。
黒鋼を基礎に、魔銀で作られた細い線が何重にも刻まれ、表面には小さな魔石が等間隔に埋め込まれていた。
「遅かったな!」
「連絡を受けてすぐ来た」
「待ってる方には長く感じるんだ!」
「ドルド。先に説明して」
ヒルメアがドルドを押し退けるように前へ出た。
「これが、炎帝石と獣王石の力を抑えるための制御具よ」
「完全に封じられるのか?」
「いいえ」
ヒルメアははっきりと首を振った。
「二つの石から溢れた魔力を一時的に受け止め、複数の小さな魔石へ分散させる。急激に体へ流れ込む量を減らすための物よ」
「右腕の暴走も止められるのか?」
紅蓮が尋ねる。
「暴走そのものを止められるとは言い切れないわ。ただ、炎帝石から大量の魔力が溢れたとき、すぐに意識を奪われる危険は減らせると思う」
「思う?」
白鬼が不安そうに聞き返す。
「実物の炎帝石を使った制御具なんて、誰も作ったことがないの。絶対に大丈夫とは言えないわ」
「でも、何もないよりはいい」
シグマが制御具を見る。
「どうやってつける?」
「左右の前腕へ固定する」
ヒルメアは右腕用の制御具を持ち上げた。
「義手そのものには加工できなかったから、外側から挟む構造にした。外すときは、ここの留め具を押して」
「勝手に外れねえよう、二重に固定してある!」
ドルドが得意そうに胸を張る。
「戦闘中に壊れる心配は?」
「少なくとも普通の武器で壊れるような物じゃねえ。だが、義手そのものほど頑丈じゃない。そこは勘違いするな」
「ああ」
シグマは両腕を作業台へ置いた。
ヒルメアとドルドが左右に分かれ、制御具を取りつけていく。
黒い左腕には、黒鋼を基礎に青みを帯びた魔銀の線が走る制御具。
赤黒い右腕には、同じ構造でありながら赤い魔石を多く使った制御具が固定された。
「重さは?」
ヒルメアが尋ねる。
「気にならない」
「動かしてみて」
シグマは肘を曲げ、手首を回す。
拳を握り、開く。
僅かな重さは加わったが、動きを妨げるほどではなかった。
「今度は、ほんの少しだけ炎帝石へ魔力を流して」
「大丈夫なのか?」
フェルンが不安そうにシグマの服を掴む。
「強い力は使わない。反応を見るだけだ」
「少しでも変だったら、すぐやめてね」
「ああ」
シグマは右腕へ意識を向けた。
炎帝石の奥にある熱へ、僅かに触れる。
赤い魔石が淡く光った。
同時に、制御具へ刻まれた魔銀の線が明滅する。
炎帝石から溢れた熱が、腕輪の周囲へ広がり、複数の小さな魔石へ分かれていく。
「止めて」
ヒルメアの声に従い、シグマはすぐに魔力を断った。
制御具の光が少しずつ弱まり、やがて完全に消える。
「体に変化は?」
「ない。右腕の熱も、いつもより弱かった」
「成功だ!」
ドルドが両手を上げる。
「まだ一度目の確認よ」
「動いたんだから成功だろ!」
「小さな魔力を流しただけ。暴走に近い状態で同じように働くとは限らない」
「試すのか?」
シグマが尋ねる。
「試さない」
ヒルメアだけでなく、仲間全員の声が重なった。
シグマは僅かに身を引く。
「俺も今すぐ試すつもりはない」
「今すぐじゃなくても、試そうとはするんやな」
シルフが疑うように見ている。
「必要な状況になれば、使うことはある」
「それは仕方ない。でも、自分から暴走させるのは絶対に駄目」
黒鬼が念を押す。
「分かってる」
「本当に?」
フェルンまで疑っている。
「ああ。約束する」
その言葉を聞き、フェルンはようやく服を掴んでいた手を緩めた。
「左も確認するわよ」
ヒルメアの指示で、シグマは左義手へ僅かな魔力を流す。
獣王石が反応すると、左腕の制御具にも淡い光が走った。
魔力は一か所へ集まらず、埋め込まれた小さな魔石へ分散していく。
右腕と同じように、正常に作動していた。
「これで完成だ」
ドルドは満足そうに両腕を見る。
「ただし、覚えとけ。こいつは二つの石を大人しくさせるための物じゃねえ」
「力が溢れたときに、抑えるための物だろ?」
「ああ。暴れ出した石を完全に止めるんじゃない。暴れ出すまでの猶予を作り、溢れた力を少し逃がすだけだ」
「制御具があるから安全だとは思わないで」
ヒルメアも続ける。
「右腕の黒い変色、強い熱、意識の乱れ。少しでも異常を感じたら、すぐに力を止めること。左腕も同じよ」
「分かった」
「それと、魔石弾の発射機構はまだ使わないで」
「試験場でも駄目か?」
「制御具をつけた状態で義手がどう反応するか、もう少し調べたい。威力も反動も分からないまま撃たせるつもりはないわ」
「お前らがミルザードを出る前に試せりゃいいが、間に合わなければ諦めろ」
ドルドは残念そうに言った。
「機能があると分かっただけでも十分だ。今すぐ使う必要はない」
「随分と素直だな」
「昨日から何度も同じことを言われたからな」
「少しは学んだんやなあ」
シルフが感心したように頷く。
「今まで学んでいなかったように言うな」
工房の隅で見ていた茜が、制御具をつけたシグマの両腕へ歩み寄る。
「これで気術を両腕へ流しても大丈夫なのか?」
「待って」
ヒルメアが即座に止めた。
「気術がどういう物か分からない。魔力と同じ反応をするとは限らないわ」
「気術は体内の生命力と魔力を巡らせる技だ。外へ放つ魔法とは違う」
「それなら、なおさら慎重に確認する必要がある。制御具が気の流れを妨げる可能性もある」
「今は両腕へ流さない方がいいか?」
シグマが尋ねる。
「ええ。まずは脚だけで修行を続けて。両腕へ流すのは、私も立ち会える場所で少しずつ試しましょう」
「分かった」
茜も異論はないらしく頷いた。
「焦る必要はない。お前はまだ、脚へ一瞬集めることしかできないからな」
「一瞬でも使えるようにはなった」
「胸を張るほどじゃない」
「茜が認めたんだろ?」
「第一歩だと認めただけだ!」
二人の会話を聞いていたドルドが、シグマと茜を交互に見る。
「いつの間に弟子になったんだ?」
「今日から、あたしの弟子だ!」
茜が自慢するように答える。
「たった五日で?」
「期間は関係ない。弟子は弟子だ」
「シグマ、師匠が増えたの?」
フェルンが尋ねる。
「ああ。そうなるみたいだ」
「みたいじゃない! ちゃんと師匠と呼べ!」
茜がシグマの背中を強く叩く。
「痛い」
「その程度で痛がるな!」
「制御具をつけたばかりなんだから、もう少し加減してくれ」
茜は豪快に笑う。
シグマは左右の腕を見る。
新たに取りつけられた二つの制御具。
それは炎帝石と獣王石の力を完全に封じる物ではない。
これまで通り、必要なときには二つの石の力を使うことができる。
だが、力に呑まれる危険を僅かでも減らし、止まるための猶予を作ってくれる。
そして、もう一つ。
義手にも、二つの石にも頼らない、新しい力。
今のシグマが使えるのは、右脚へ一瞬だけ気を集め、短く踏み込むことだけだった。
拳や蹴りへ流すことも安定せず、全身へ巡らせることなど到底できない。
それでも、何も知らなかった数日前とは違う。
「茜」
「なんだ?」
「ミルザードを離れた後も、教わった修行は続ける」
「ああ。毎朝、呼吸を整えてから走れ。いきなり速く走ろうとするなよ。足の裏から順番に、体の動きを意識しろ」
「分かった」
「気を感じても、一度に全身へ流そうとするな。まずは脚だけだ」
「ああ」
「両腕へ流すのは、ヒルメアが確認してから」
「それも分かってる」
「本当に分かってるんだろうな?」
「何回聞くんだ?」
「お前が信用されてないからやろ」
シルフの一言に、全員が頷いた。
「全員で頷かなくてもいいだろ」
白鬼と黒鬼が顔を見合わせ、同時に笑う。
フェルンも安心したようにシグマの左手を握った。
茜はそんな一行を眺めた後、腰へ両手を当てる。
「旅の途中で行き詰まったら、またミルザードへ来い!」
「戻る頃まで、道場は壊さないでくれよ」
紅蓮が言う。
「壊すわけないだろ!」
「訓練人形を門まで飛ばしてたからな」
「あれと道場は別だ!」
「本当に?」
白鬼が尋ねる。
「本当だ!」
茜の大声が工房中へ響き渡った。
シグマは小さく息を吐き、右足へ意識を向ける。
腹の奥から脚へ続く、まだ頼りない細い流れ。
集中しなければ、すぐに見失ってしまう。
だが、確かにそこにある。
ジークから教わった格闘術。
サーシャから教わった二つの石の力。
ドルドとヒルメアが見つけた、義手本来の機能。
そして、茜から教わった気術。
どれか一つに頼るのではない。
必要なときに必要な力を選び、仲間と自分の両方を守る。
シグマは、そのための新たな一歩を踏み出した。




