第二十六話 知られざる両腕
ローデン村を出発してから、数日が過ぎた。
街道を進む間、シグマたちが大きな問題に巻き込まれることはなかった。
時折、森の奥から魔物の気配を感じることはあったが、馬車と並んで走るハクの存在に気づくと、どれも姿を現す前に遠ざかっていった。
夜も穏やかだった。
焚き火を囲んで食事を取り、順番に見張りを交代する。聞こえてくるのは木々を揺らす風と、ノクスとソルが草を食む音くらいだった。
これまでの旅では、刺客や盗賊、魔物に襲われることが何度もあった。
何も起こらないことに、かえって落ち着かなさを覚えるほどだった。
それでも旅は順調に進み、昼を少し過ぎた頃、街道の先に高い石壁で囲まれた街が見えてきた。
壁の向こうには、大小様々な煙突が立ち並んでいる。
そこから昇る白煙が風に流され、雲の少ない空へ細長く伸びていた。
「あれがミルザードか」
御者台に座るシグマが目を細める。
隣で手綱を握る紅蓮も、前方の街へ視線を向けた。
「鍛冶と魔道具の街だったな。思ってたより大きい」
「街の外まで槌の音が聞こえとるで」
荷台の窓から顔を出したシルフが、長い耳を動かす。
耳を澄ませば、確かに金属を打つ音が聞こえていた。
高い音、低い音、一定の間隔で続く音。
いくつもの工房から響く音が重なり、街全体が巨大な鍛冶場になっているようだった。
「武器屋もいっぱいあるかな?」
シルフの横から、白鬼が勢いよく顔を出す。
「身を乗り出しすぎ。落ちる」
黒鬼が白鬼の服を掴み、荷台の中へ引き戻した。
「大丈夫だって」
「白鬼の大丈夫は信用できない」
「なんで?」
「前にも同じことを言って、落ちかけてたから」
「あれは馬車が急に跳ねたせいでしょ!」
「立ってなければ落ちなかった」
「黒鬼は細かいなあ」
「白鬼が雑なだけ」
黒鬼の容赦のない一言に、白鬼が頬を膨らませる。
「街へ入る前から騒ぐな」
紅蓮が呆れたように言う。
「紅蓮だって楽しみなんでしょ?」
「何がだ」
「職人の街なんだから、鬼人丸の手入れに使える物があるかもって思ってる」
「……どうして分かった」
「さっきから煙突の数を見ながら笑ってたから」
「笑ってない」
「ほんの少しだけ口元が緩んでた」
黒鬼まで加わると、紅蓮は眉を寄せた。
「お前ら、妙なところばかり見てるな」
「せっかくやし、宿を取ったら街を見て回ろうや」
シルフが楽しそうに笑う。
「買い出しが先だ。それが終わった後なら好きにしろ」
「紅蓮も行くんやろ?」
「鬼人丸の手入れに使う油を探すだけだ」
「それを楽しみにしとるって言うんやで」
「うるさい」
そんな会話を交わしている間にも、ミルザードの門は少しずつ近づいてきた。
街へ続く馬車の列が見え始めたところで、それまで横を走っていたハクが速度を落とした。
シグマは手綱を引き、街道の端へ馬車を止める。
「どうした?」
『我はここまでだ』
ハクの声がシグマの頭の中へ響いた。
その言葉を聞き取れたのは、シグマとフェルンだけだった。
シグマが御者台から降りると、ハクは煙突の並ぶ街へ顔を向けた。
『あの中は鉄と煙の臭いが強すぎる。それに、我が入れば余計な騒ぎになる』
「そうだな。これだけ人が多い街だと、目立ちすぎる」
白鬼たちも、何事かと荷台から降りてくる。
「ハクは街に入らないの?」
白鬼が尋ねたものの、ハクの返事を聞くことはできない。
シグマが代わりに答える。
「街の外で待つそうだ。少し離れた森にいるらしい」
「そっか……」
白鬼は残念そうにしながら、ハクの首へ抱きついた。
「すぐに戻ってくるから、待っててね」
ハクは言葉を返さず、白鬼の頭へ鼻先を軽く押しつけた。
「白鬼、苦しくない?」
「大丈夫。ハクの毛、ふわふわだから」
黒鬼もハクの首元を撫でる。
「街を出たら迎えに行くから」
ハクは黒鬼へ顔を向け、静かに目を細めた。
白鬼と黒鬼の言葉を理解しているようには見えるが、その声を二人へ直接届けることはない。
「ハク、行っちゃうの?」
フェルンが馬車から降り、ハクを見上げる。
『少し離れるだけだ』
今度はフェルンの頭にも、ハクの声が届いた。
『シグマが呼べば、いつでも戻る』
「本当?」
『ああ。だから心配するな』
ハクは大きな頭を下げ、フェルンの頬へ鼻先を寄せる。
フェルンは安心したように笑い、その鼻先を両手で抱えた。
「街を出るまでは、ゆっくり休んでくれ」
シグマが声をかける。
『何かあればすぐに呼べ』
「ああ。分かった」
ハクは一行を順番に見渡した後、街道から外れた草原へ走り出した。
白銀の巨体は瞬く間に遠ざかり、そのまま森の中へ消えていく。
「行っちゃったね」
白鬼が呟く。
「街を出たら、また会える」
黒鬼が白鬼の腕を引いた。
「そろそろ行こう。ここに馬車を止めたままだと邪魔になる」
紅蓮に促され、全員が馬車へ戻る。
シグマたちは再びミルザードへ向かって進み始めた。
◇
門の前には、商人の馬車や旅人たちが長い列を作っていた。
シグマたちも最後尾につき、順番が来るのを待つ。
門では身分証牌を提示し、荷台の中を簡単に確認された。特に問題になる物もなく、手続きはすぐに終わった。
馬車が門を抜けた途端、外から聞いていた以上の音と熱気が一行を包んだ。
大通りの両側には、武器屋や防具屋、魔道具店が隙間なく並んでいる。
店先には剣や槍だけでなく、鉱石を削るための工具、魔石を組み込んだ照明、湯を沸かす小型魔道具まで飾られていた。
通りを行き交う者の中には、煤で顔を黒くした職人も多い。
人間に混じり、小柄なドワーフたちが自分の体ほどもある荷物を抱えて歩いている。中には、大人二人でも持ち上げるのに苦労しそうな鉱石を、一人で軽々と担いでいる者までいた。
「すごいね。見たことない物ばっかり」
白鬼は荷台の窓から、右へ左へ忙しなく顔を動かしていた。
「白鬼、窓から出すぎ」
黒鬼が服の裾を引っ張る。
「少しくらいいいでしょ」
「さっき注意されたばかり」
「今度は落ちないから」
「今度も、でしょ」
「黒鬼はどっちの味方なの?」
「どっちって?」
「私か、紅蓮」
「紅蓮」
「即答しないでよ!」
白鬼の声に紅蓮が小さく笑った。
「日頃の行いだな」
「紅蓮まで!」
荷台の奥では、フェルンが両手で狼耳を押さえていた。
絶え間なく響く槌の音が、耳の良いフェルンには少しつらいらしい。
「フェルン、大丈夫か?」
シグマが御者台から振り返る。
「うん。でも、耳がちょっと変な感じ」
「先に宿を探そう。表通りから離れれば、少しは静かになるはずだ」
「シグマも一緒?」
「ああ。宿が決まるまでは離れない」
「それなら大丈夫」
フェルンは耳を押さえたまま、小さく笑った。
「この辺りの宿は避けた方がええな」
シルフが周囲の工房を見渡す。
「夜になっても槌の音が止まらんかもしれへん」
「一本裏へ入ろう」
シグマたちは職人たちで賑わう大通りを抜け、宿や食堂が集まる区画へ馬車を進めた。
表通りから離れるにつれて、槌の音も少しずつ遠くなる。
いくつかの宿を見て回った末、一行は比較的静かな場所に建つ二階建ての宿を選んだ。
入口で馬車を止め、シグマと紅蓮が中へ入る。
宿の主人に空き部屋を確認し、数日分の料金を支払った。ミルザードには必要な物を買い揃えるために立ち寄っただけだったが、慌てて出発する必要もない。
部屋が決まると、ノクスとソルを宿の裏にある厩舎へ連れていった。
紅蓮が二羽の体を確認し、シグマが水と飼葉を宿の者へ頼む。
その間に、白鬼たちは荷台から必要な荷物を降ろしていた。
「白鬼、それは私の荷物」
黒鬼が、自分の鞄を持ち上げた白鬼を止める。
「一緒に持っていこうと思っただけだよ」
「白鬼の荷物は、そっちに残ってる」
「あれ、私のだった?」
「自分の荷物くらい覚えて」
「似たような鞄だから仕方ないでしょ」
「全然違う」
黒鬼に鞄を取り上げられた白鬼は、仕方なく馬車へ戻っていった。
全員で荷物を部屋へ運び、ようやく一息つく。
フェルンは真っ先に寝台へ腰を下ろした。
「少し静かになった?」
シグマが尋ねる。
「うん。ここなら大丈夫」
先ほどまで伏せられていた狼耳も、今は元の位置へ戻っている。
「疲れているなら、ここで休んでいていいぞ」
「シグマはどこかに行くの?」
「食料や旅に必要な物を見てくるつもりだ」
「じゃあ、私も行く」
フェルンはすぐに寝台から立ち上がった。
「無理しなくていいんだぞ」
「無理してない。シグマと一緒がいい」
フェルンはそう言って、シグマの服の裾を掴んだ。
その隣では、白鬼が既に出かける準備を終えている。
「私も行く! 武器屋も見たい!」
「買い出しが先だ」
紅蓮が釘を刺す。
「見るだけならいいでしょ?」
「白鬼の見るだけは信用できない」
黒鬼が小さく呟いた。
「黒鬼まで同じこと言う!」
「事実だから」
「なら、黒鬼は宿に残る?」
「白鬼を一人にすると何をするか分からないから行く」
「私、そこまで子供じゃないよ!」
「十分子供だろ」
紅蓮の一言に、白鬼はさらに頬を膨らませた。
「うちも行くで。珍しい魔道具があったら見てみたいしな」
シルフも弓を背負い直す。
結局、宿に残る者は一人もいなかった。
短い休憩を終えた一行は、買い出しを兼ねて街を歩くため、揃って宿を出た。
◇
宿から職人街までは、歩いてそれほどかからなかった。
通りには工具や鉱石を売る露店が並び、店主たちが声を張り上げている。
大通りへ戻った途端、白鬼が一軒の露店へ駆け寄った。
「見て、シグマ! これ、火を使わなくてもお湯が沸くんだって!」
白鬼が小さな金属製の箱を指さす。
「便利そうだな」
「買っていい?」
「値段を見てからにしろ」
白鬼が値札を確認する。
しばらく固まった後、そっと箱を元の場所へ戻した。
「……薪を使えばいいかな」
「いくらだったん?」
シルフが値札を覗き込む。
「銀貨八十枚」
「高っ!」
シルフが思わず声を上げた。
店主が不満そうにこちらを見たため、一行は何事もなかったように露店を離れる。
「ぼったくりじゃないのか?」
紅蓮が振り返る。
「魔石を使っとるみたいやし、あれくらいするんかもしれへんな」
「でも、お湯を沸かすだけだぞ」
「金持ちは、薪を用意する手間を銀貨で買うんやろ」
「分からない世界だな」
そんな会話を交わしながら、一行は露店の並ぶ通りを歩いていく。
そのときだった。
「どけ! 止まらねえ!」
通りの奥から、男の怒鳴り声が響いた。
振り返ると、鉱石を山積みにした荷車が坂道を下ってきていた。
車輪の片方が外れかけ、荷台が大きく傾いている。荷車を引いていた二人の男が後ろから必死に綱を掴んでいたが、その重さに引きずられ、止められずにいた。
通りにいた人々が悲鳴を上げ、左右へ逃げていく。
しかし、荷車の進む先に、一人の小さな子供が取り残されていた。
恐怖で体が動かないのか、その場に座り込んでいる。
「危ない!」
白鬼が叫ぶより先に、シグマは地面を蹴っていた。
子供の前へ飛び込み、迫る荷車へ右手を突き出す。
正面から受け止めれば、積まれた鉱石が崩れ、周囲の人々を巻き込む。
シグマは荷車の側面へ右の掌を当て、その進行方向を強引に逸らした。
鈍い衝撃が右腕を突き抜ける。
義手の指が荷車の枠へ食い込み、木材が大きく軋んだ。
荷車はシグマの横を擦り抜け、無人の露店へ突っ込んでようやく止まる。
積まれていた鉱石が、激しい音を立てて地面へ転がった。
「怪我はないか?」
シグマは座り込んでいた子供へ手を伸ばした。
子供は何が起きたのか理解できていない様子で、何度も瞬きをしていた。
やがて母親らしき女性が人混みをかき分けて駆け寄り、子供を強く抱き締める。
「ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
「怪我がなくてよかった」
シグマはそう答え、自分の右腕へ視線を落とした。
荷車を受け止めた衝撃で、マントの右袖が大きく裂けている。
露わになった赤黒い義手には、傷一つついていなかった。
「シグマ、大丈夫か!」
紅蓮たちが駆け寄ってくる。
「ああ。問題ない」
「問題ないわけないで! あんな重たいもんを受けたんやぞ!」
「正面から止めたわけじゃない。少し向きを変えただけだ」
「それを問題ないとは言わない」
黒鬼が裂けた袖を退かし、右義手の状態を確かめる。
「腕は痛くない?」
「衝撃はあったが、痛みはない」
「生身だったら潰れてるよ」
白鬼が壊れた荷車を見ながら呟いた。
そのとき、人垣の中から一人の男が進み出てきた。
背丈は白鬼や黒鬼とあまり変わらない。
だが、袖のない作業着から伸びた腕は丸太のように太く、肩から胸にかけて盛り上がった筋肉がついている。
顔立ちは若い青年に見えるものの、短く整えられた顎髭と鋭い眼差しには、年齢だけでは測れない貫禄があった。
男はシグマの前で足を止めた。
助けられた子供を見るわけでも、壊れた荷車を見るわけでもない。
露わになった右義手だけを、瞬きもせず凝視している。
「……なんだ、これは」
男が小さく呟いた。
シグマが右腕をマントで隠そうとすると、男は突然その場へしゃがみ込み、食い入るように義手を覗き込んだ。
「おい。少し見せてくれ」
「近い」
「表面に傷がない……いや、それ以前に、なんの金属だ? 継ぎ目も鋲も見当たらねえ。どうやって組み上げてやがる?」
男はシグマの返事も待たず、右義手を別の角度から覗き込もうとする。
黒鬼が警戒するように一歩前へ出た。
「触らないで」
「触りゃしねえ。見てるだけだ」
「十分怪しい」
「俺は怪しくねえ!」
「いや、だいぶ怪しいで」
シルフの指摘に、男は言葉を詰まらせた。
周囲には、騒ぎを聞きつけた人々が集まり始めている。
シグマは裂けたマントで右腕を隠した。
「悪いが、先を急いでいる」
「待て!」
立ち去ろうとしたシグマの前へ、男が回り込む。
「その腕を、俺に調べさせてくれ」
「断る」
「まだ何も説明してねえだろ!」
「見知らぬ相手に、いきなり腕を調べさせてくれと言われて承諾すると思うか?」
「俺は義手職人だ!」
男は自分の胸を強く叩いた。
「ドルド。この街で義手工房をやってる。怪しい者じゃねえ」
「今の行動で信じろっていう方が無理じゃない?」
白鬼が率直に答える。
「ぐっ……」
「それに、調べても何も分からないと思う」
シグマ自身、この両腕が何で作られ、誰が作ったものなのか知らない。
ただ、自分の腕として動く。
これまで、それ以上のことを考える余裕もなかった。
「だから調べたいんだ!」
ドルドは再びシグマの右腕を指さした。
「あれだけの重量を受け止めて、へこみも歪みもない。表面にかすり傷すらついてねえんだぞ! そんな素材、俺は見たことがない!」
「調べるために壊されたら困る」
「壊さねえ! 絶対に傷もつけねえ! 見るだけでもいい!」
「悪いが――」
「頼む!」
ドルドが勢いよく頭を下げた。
それでもシグマが断ろうとした、次の瞬間。
ドルドはその場で両膝をついた。
さらに両手を石畳へつき、額が地面につきそうなほど深く頭を下げる。
突然の土下座に、シグマたちだけでなく、周囲に集まっていた人々まで静まり返った。
「俺の工房へ来てくれ!」
ドルドの大声が通りに響く。
「頼む! 一生に一度出会えるかどうかも分からねえ義手なんだ! ここで見逃したら、俺は死ぬまで後悔する!」
「いや、そこまでされても困るんだが……」
「見るだけでいい! 触るときは必ず許可を取る! 勝手に削ったり、分解したりもしねえ! もちろん金も取らねえ!」
ドルドは顔を上げないまま、さらに声を張り上げた。
「だから頼む! どうか俺に、その義手を調べさせてくれ!」
周囲から好奇の視線が集まる。
事情を知らない者が見れば、小柄な青年をシグマが無理やり土下座させているようにしか見えない。
「シグマ、すごく見られてる」
白鬼が小声で告げる。
「分かってる」
「早くどうにかした方がいい」
黒鬼も周囲を気にしながら促した。
「せやな。このままやと、シグマが悪者にされそうや」
「俺は何もしてないんだが」
「それはうちらしか知らんからな」
紅蓮が呆れたようにドルドを見る。
「おい。分かったから、まず頭を上げろ」
「それじゃあ!」
ドルドが勢いよく顔を上げる。
「シグマはまだ何も言ってないだろ」
「工房へ来てくれるんだな!」
「話を聞け」
ドルドの目は、既に断られる可能性など考えていなかった。
シグマは小さく息を吐き、仲間たちを見る。
紅蓮は好きにしろと言うように肩をすくめた。
白鬼は面白そうに笑い、黒鬼はまだドルドを警戒している。シルフは何度も頷き、フェルンはシグマの服を掴んだまま、不思議そうに首を傾げていた。
「少し見るだけなら構わない」
「本当か!」
「ただし、勝手なことはするな。右腕は不用意に刺激すると危険だ」
「分かった! 約束する!」
先ほどまで石畳へ額を擦りつけていたとは思えない速さで、ドルドは立ち上がった。
「工房はすぐそこだ。ついてこい!」
「急に元気になったな」
「職人ってのは、珍しいもんを前にするとああなるんか?」
シルフが尋ねると、紅蓮は首を振った。
「いや。あいつが変わってるだけだろ」
ドルドは一行の返事を待たず、細い路地へ入っていく。
何度も振り返っているところを見ると、シグマが途中で逃げないか心配しているらしい。
案内された先には、二本の鉄腕を交差させた看板を掲げる工房があった。
「ここが俺の工房だ!」
ドルドが扉を開ける。
頭上で小さな鐘が鳴り、金属と油の匂いが外まで流れてきた。
工房の中には、様々な形の義手や義足が並んでいた。
木製の簡素なものから、指の関節まで細かく動かせそうな金属製のものまである。
シグマが店内を見回していると、奥から何かを削る音が止まった。
「ドルド、帰ってきたなら固定具を探して! 朝から見つからないんだけど!」
女性の声が響く。
「それどころじゃねえ! ヒルメア、今すぐこっちへ来い!」
「大声を出さなくても聞こえてる!」
苛立った声とともに、工房の奥から一人の女性が姿を現した。
紅蓮よりも少し年上に見える。
女性としてはやや背が高く、茶色い髪を無造作に後ろで束ねている。頬と鼻の周りには薄いそばかすがあり、作業で汚れた丸眼鏡をかけていた。
袖を肘まで捲った作業着も、腰に下げた工具も、飾り気より使いやすさを優先したものだった。
「何よ。面倒な仕事なら後にして」
「こいつの腕を見ろ」
ドルドがシグマを指さす。
「人を指さすな」
「いいから、早く見せてくれ!」
「さっきの約束をもう忘れたのか?」
シグマは呆れながら、裂けたマントの袖を捲った。
赤黒い右義手が露わになる。
ヒルメアは眼鏡を押し上げ、何気なくそちらへ目を向けた。
その瞬間、彼女の足が止まった。
「……何、それ」
「だろ!」
ドルドが自分のことのように胸を張る。
「お前の物じゃないだろ」
ヒルメアは返事をせず、シグマの右義手へ近づいてきた。
表面の質感、指の関節、腕へ埋め込まれた赤い石。
一つずつ確認するように視線を動かし、次第に眉間へ深い皺を寄せていく。
「これ、本当に義手なの?」
「少なくとも、俺の腕として動いている」
「誰が作ったの?」
「分からない」
「素材は?」
「それも知らない」
ヒルメアはゆっくりとドルドを見る。
「測定器、出して」
「もう用意してる!」
「一番新しい方。それと鑑定板も」
「分かってる!」
ドルドが工房の奥へ走っていく。
その背中を見送り、ヒルメアはもう一度シグマの右義手へ目を向けた。
「私はヒルメア。義手職人でもあるけど、魔石加工を専門にしてる」
「シグマだ」
「左腕も同じ?」
「ああ」
シグマが反対側の袖も捲る。
黒い左義手と、その甲に埋め込まれた石を見たヒルメアは、小さく息を呑んだ。
「左右で使われている石が違う……なのに、義手の構造はよく似てる」
「何か分かるのか?」
「まだ何も。ただ――」
ヒルメアの瞳に、ドルドと同じ職人の光が宿る。
「これは、私たちが知ってる義手とはまったく違う」
奥から、大量の道具を抱えたドルドが戻ってきた。
「作業台を空けろ! 今から調べるぞ!」
「先に持ち主へ説明しなさいよ」
「時間が惜しい!」
「シグマ。やっぱり帰った方がいいんじゃない?」
黒鬼が真顔で尋ねる。
「少しだけ待ってやろう。土下座までされたからな」
シグマは苦笑しながら、左右の義手へ視線を落とした。
これまで、この両腕について深く考えたことはなかった。
失った腕の代わりに動き、戦うための力を与えてくれる。
シグマにとっては、それだけで十分だった。
しかし、この日。
偶然立ち寄ったミルザードで、彼は初めて知ることになる。
自分の両腕に、まだ一度も使われていない力が眠っていることを。
工房の奥にある作業場は、店先よりもさらに物で溢れていた。
壁には大きさの異なる工具が隙間なく掛けられ、棚には義手や義足の部品が並んでいる。
作業台の上にも金属板や歯車、加工途中の関節部品が積まれており、そのままではシグマの腕を調べる場所すらなかった。
「ヒルメア、そっちを片づけろ」
「それ、ほとんどドルドの物でしょ」
「お前の魔石も混じってる」
「棚から勝手に持ち出したのは誰?」
「後にしろ! 今はこっちが先だ!」
ドルドは作業台の上にあった物を抱え、空いている棚へまとめて押し込んだ。
直後、棚の奥から金属部品がいくつも床へ落ちる。
ヒルメアは呆れたように眼鏡を押し上げた。
「後で自分で片づけなさいよ」
「分かってる!」
「その返事、今日だけで三回目」
「今度は本当にやる!」
「絶対にやらないやつだね」
白鬼が小声で言う。
「白鬼と同じ」
黒鬼が続ける。
「なんで私まで一緒にされるの?」
「片づけるって言って、いつも紅蓮にやらせてるから」
「ちゃんと自分でもやってるよ」
「少しだけ」
「二人とも静かにしろ」
紅蓮に注意され、白鬼は渋々口を閉じた。
どうにか作業台の上を空けたドルドは、その前へ頑丈そうな椅子を置いた。
「座ってくれ。最初は外側を見る」
「見るだけだな?」
「ああ。いきなり削ったり、穴を開けたりはしねえ」
「いきなりじゃなければやるつもりなん?」
シルフが尋ねる。
「必要になったら、本人の許可を取る!」
「絶対に許可するなよ、シグマ」
紅蓮の言葉に、ドルドが顔をしかめる。
「俺をなんだと思ってるんだ」
「珍しい物を見つけて、通りの真ん中で土下座する職人」
「……それは否定できねえ」
シグマは苦笑しながら椅子へ腰を下ろした。
裂けたマントを肩から外し、両腕を作業台の上へ置く。
赤黒い右義手と、黒い左義手。
普段は布やマントで隠しているため、こうして両方を明るい場所へ並べる機会はほとんどなかった。
ドルドは二つの義手を見比べた後、作業台に固定された照明へ魔力を流した。
白い光が灯り、義手の細部まで鮮明に照らし出す。
「指を動かしてみてくれ」
シグマが両手を開閉する。
一本ずつ指を曲げ、手首を回し、肘を曲げ伸ばす。
動きに遅れはなく、金属同士が擦れる音もしない。
ドルドの表情から、先ほどまでの騒がしさが消えた。
「……おかしい」
「何がだ?」
「普通、義手の指を動かすには、内部に関節や力を伝える部品が必要になる。どれだけ精巧に作っても、僅かな継ぎ目は残る」
ドルドは右義手の指先へ顔を近づけた。
「だが、こいつにはそれがない。外から見える継ぎ目は指や肘が曲がる部分だけだ。それすら、どうやって動いているのか分からねえ」
「何かで覆ってるんじゃないの?」
白鬼が尋ねる。
「それなら表面の下に部品があるはずだ。だが、どこを見ても外装を外すための境目がない」
ドルドは細い金属棒を取り出すと、義手へ触れる直前で手を止めた。
「触ってもいいか?」
「ああ」
許可を得てから、義手の表面を軽く叩く。
澄んだ音ではなく、重く短い音が鳴った。
場所を変えながら同じことを繰り返し、右手、前腕、肘、上腕の順番に確かめていく。
続いて左義手も同じように調べた。
「左右で色は違うが、使われてる素材は同じかもしれねえ」
「見ただけで分かるのか?」
「音と硬さがよく似てる。色は表面の加工か、埋め込まれた魔石の影響だろう」
ドルドは棚から小さな箱を取り出した。
中には数本の細い針が並んでいる。
「素材を確かめるための鑑定針だ。金属の表面へ当てたときの反応で、硬さや性質を調べる」
「傷はつかないのか?」
「まずは鉄製から試す。これで傷がつくような義手なら、あの荷車を受けた時点で潰れてる」
シグマが頷くと、ドルドは右義手の手首へ針を当てた。
慎重に力を加える。
金属が擦れる小さな音がした後、ドルドは針を離した。
義手の表面には、跡すら残っていない。
逆に、針の先端が僅かに潰れていた。
「鉄じゃ話にならねえな」
次に取り出した針も、結果は同じだった。
ドルドは少しずつ硬い素材へ替えていく。
鋼鉄。
魔力を通しやすい銀鋼。
高級武具にも使われる魔鋼。
どの針を使っても、義手には傷一つつかなかった。
いつの間にか、白鬼たちも静かに作業を見つめている。
「次は、これだ」
ドルドが箱の奥から黒い針を取り出した。
「それは?」
「アダマンタイトを混ぜた鑑定針だ。高いから、あまり使いたくねえんだがな」
「そんな物まであるんや」
「鍛冶の街だぞ。素材を見分けられなきゃ仕事にならねえ」
ドルドは先ほどより慎重に、黒い針を右義手へ当てた。
少しずつ力を加える。
やがて硬い物同士が擦れ合う、耳障りな音が作業場へ響いた。
それでも、義手の表面に変化はない。
ドルドがさらに力を込めた瞬間、黒い針の先端が欠けた。
「あっ!」
白鬼が声を上げる。
「折れたで」
「見れば分かる!」
ドルドは欠けた針と義手を交互に見た。
驚いてはいるものの、その目はますます輝いている。
「アダマンタイトでも傷がつかねえ……」
「右だけじゃないか?」
紅蓮が左義手を指す。
「今から試す」
ドルドは残った針を左義手へ当てた。
先ほどと同じように力を加えたが、やはり傷はつかない。
「両方とも同じか」
「まだ決めつけるのは早いわ」
それまで測定器の準備をしていたヒルメアが、作業台へ戻ってきた。
手には薄い透明な板と、複数の魔石を組み込んだ器具を持っている。
「単に硬いだけなら、似た素材はいくつかある。問題は魔力を流したとき、どう反応するかでしょ」
「分かってる。だからお前を呼んだんだ」
「その言い方、腹が立つわね」
ヒルメアはドルドを軽く睨んだ後、シグマへ向き直った。
「確認するけど、この義手へ魔力を流しても平気?」
「左は問題ないと思う。ただ、右はやめた方がいい」
「どうして?」
シグマは右義手へ埋め込まれた炎帝石を見る。
「以前、右腕から胸にかけて黒く変色したことがある。回復魔法を使ったり、外から魔力を流したりすると悪化した」
ヒルメアの手が止まった。
紅蓮たちの表情も僅かに強張る。
カルガランへ向かう途中で負った傷と、その後に起きた炎帝石の暴走。
右腕から広がった黒い変色は、シグマの命を奪いかけた。
「……それを先に言いなさいよ」
「今、聞かれたから答えた」
「工房が吹き飛ぶかもしれないって話しか聞いてないんだけど」
「その中に含まれていると思っていた」
「含めないで。そういう危険なことは、全部一つずつ説明して」
ヒルメアは深く息を吐き、右義手へ接続しようとしていた測定器を置いた。
「右は外から魔力を流さない。左も最低限にする」
「それがいい」
「黒鬼。念のため、シグマの様子を見ててくれる?」
「分かった」
黒鬼はシグマの隣へ立ち、いつでも動けるように構えた。
ヒルメアは透明な板を左義手の下へ敷き、その上に測定器を置いた。
器具から伸びた細い金属線を、左義手の表面へ慎重に触れさせる。
「痛みや違和感があったら、すぐに言って」
「ああ」
「じゃあ、始める」
ヒルメアが測定器へ僅かに魔力を流した。
組み込まれた小さな魔石が順番に光り、透明な板の上へ淡い線が浮かび上がる。
線は左義手の形をなぞるように広がった。
しかし、肘まで到達したところで乱れ、突然すべての光が消えた。
「……消えた?」
ヒルメアが測定器を確認する。
「壊れたのか?」
「違う。流した魔力だけがなくなった」
「なくなったって、どういうことや?」
シルフが作業台を覗き込む。
「測定器から流した魔力が、途中で全部消えたのよ。外へ漏れた形跡もない」
「左腕へ吸われたんじゃないか?」
シグマが答える。
「この腕は、魔力を吸収することがある」
ヒルメアが勢いよく顔を上げる。
「それ、本当?」
「ああ。触れた物や魔石から魔力を吸収できる」
「最初に言って」
「それも聞かれていなかった」
「シグマ。今後は義手で起きたことを、聞かれなくても全部話して」
「分かった」
「こいつ、思ったより説明が下手だな」
ドルドが呟く。
「お前には言われたくない」
「二人とも同じくらい」
黒鬼が静かに言うと、白鬼が何度も頷いた。
ヒルメアは測定器に新しい魔石を取りつけ、流す魔力量をさらに落とした。
今度は左義手の内部へ入れるのではなく、表面をなぞるように魔力を動かしていく。
透明な板の上に、左義手の輪郭がゆっくりと浮かび上がった。
「表面の構造だけなら見える……けど、中がほとんど映らない」
「中身が詰まってるのか?」
「それも分からない。魔力が奥へ入る前に散らされてる」
ヒルメアは角度を変えながら、何度も測定を繰り返した。
そのたびに透明な板へ不完全な線が浮かび、すぐに消えていく。
「普通の義手じゃないのは間違いないわね」
「そんなことは見れば分かる」
「黙ってて」
ヒルメアは左義手から金属線を外すと、今度は表面を拡大して見られる筒状の器具を手に取った。
まず左手の甲を確認し、次に右義手へ移る。
荷車を受け止めた掌を見たところで、その動きが止まった。
「ドルド。ここを見て」
「なんだ?」
「掌の端。ほんの少しだけ線が残ってる」
ドルドが器具を受け取り、右義手の掌を覗き込む。
そこには、肉眼では気づけないほど細い傷が一本だけ残っていた。
「荷車の枠でついた傷か?」
「たぶんな」
「アダマンタイトの針でも傷がつかなかったのに?」
「荷車に積まれてた鉱石の中に、硬い物が混じってたのかもしれねえ」
ドルドは傷の位置を覚えるため、そのすぐ横へ白い粉で印をつけた。
「これなら、完全に傷がつかないわけじゃないってことか」
「待って」
ヒルメアがドルドの腕を掴む。
「傷が薄くなってない?」
「そんなはず――」
ドルドは再び拡大器具を覗き込んだ。
先ほど確かに存在していた細い傷が、僅かに短くなっている。
全員が見守る中、傷は端からゆっくりと塞がっていった。
金属が溶けているわけではない。
何かに埋められているわけでもない。
最初から傷などなかったかのように、表面が元の滑らかさを取り戻していく。
しばらくすると、白い印だけを残し、傷は完全に消えた。
「……治った?」
フェルンが小さく呟く。
「ああ」
シグマも自分の掌を見つめた。
「こんな機能があるとは知らなかった」
「持ち主も知らねえのかよ」
ドルドが顔を上げる。
「今まで、細かい傷まで調べたことはなかった」
「この両腕、自分で傷を直してるわ」
ヒルメアが右義手の表面を指先でなぞる。
「魔道具にも自己修復機能を持つ物はある。でも、普通は修復用の素材や大量の魔力が必要になる。これはどちらも使わずに元へ戻った」
「埋め込まれてる魔石の力じゃないのか?」
紅蓮が尋ねる。
「右腕の石から、修復に使われた魔力は感じなかった。少なくとも、この石が直接直したようには見えない」
ヒルメアは右義手へ埋め込まれた炎帝石を見つめた。
「それに、この石はおかしい」
作業場の空気が僅かに変わる。
「おかしいとは?」
「義手を動かすための動力としては、魔力が強すぎるのよ」
「さっきも同じようなことを言っていたな」
「たとえば、小さな部屋を照らすために、街全体へ魔力を送れる炉を用意しているようなもの。とても釣り合ってない」
ヒルメアは左義手の甲に埋め込まれた石も確認する。
「こっちも同じ。性質はまったく違うのに、義手を動かすだけなら、どちらも必要以上の力を持ってる」
「なら、義手を動かすための物じゃないのか?」
「その可能性はある。でも、まだ断言できない」
ヒルメアは細い工具を取り出し、魔石の周囲を慎重に確認した。
「石だけを外せるか?」
シグマが尋ねる。
「今から見る。ドルド、固定具を貸して」
「あれは朝から見つからねえって、お前が――」
「作業台の下に落ちてる」
黒鬼が足元を指さした。
そこには、金属製の固定具が半分だけ布の下へ隠れていた。
ヒルメアが無言でドルドを見る。
「……後で片づける」
「今日四回目」
ヒルメアは固定具を拾い、魔石の周囲へ当てた。
隙間を探すための薄い板を差し込もうとするが、先端が入る場所すらない。
別の道具に替え、角度を変えて調べても結果は同じだった。
「嵌め込まれてるんじゃない」
「どういうことだ?」
「義手を作ってから石を入れたんじゃなく、最初から一つだったみたいに繋がってる。外すための構造がないのよ」
ドルドも魔石の周囲を確かめる。
「無理に外そうとすれば、石か義手のどちらかを壊すことになるな」
「自己修復するほどの義手をどうやって壊すの?」
「それを俺に聞くな」
「なら、外すのは無理だな」
シグマの言葉に、ヒルメアが頷く。
「少なくとも、今ある道具では無理。何が起きるかも分からないから、無理に試すべきじゃない」
炎帝石と獣王石は、後から取りつけられたように見えていた。
しかし実際には、取り外すことを想定した構造すら存在していない。
義手と魔石。
二つは最初から、一つの物として作られた可能性がある。
「素材も分からねえ。アダマンタイトでも傷をつけられず、小さな傷なら勝手に直る。魔石は外せねえ上に、動力としては力が強すぎる」
ドルドは腕を組み、両義手を睨むように見つめた。
「これを作った奴は、何を考えてやがる」
「俺に聞かれても分からない」
「お前、本当に何も知らねえんだな」
「ああ」
シグマが迷いなく頷くと、ドルドは頭を抱えた。
「こんなもんを両腕につけて、よく平然としてられるな」
「今までは動いていた。それで十分だった」
「職人に聞かせたら、全員泣くぞ」
「今まで困らなかったんだから仕方ないでしょ」
白鬼がシグマを庇うように言う。
「困ってからじゃ遅い」
黒鬼は義手を見つめたまま答えた。
「右腕が暴走したこともあるから」
「黒鬼」
「事実だから」
黒鬼はシグマから視線を逸らさなかった。
カルガランでの出来事を思い出しているのだろう。
シグマも反論できなかった。
「暴走したとき、何が起きた?」
ヒルメアが尋ねる。
「右腕の力が強くなり、炎を操れるようになった。ただ、その間の記憶はほとんど残っていない」
「意識まで影響を受けたの?」
「ああ」
「左は?」
「右のように暴走したことはない。触れた物の魔力を吸収し、自分の魔力へ変えられる。それを魔石として取り出すこともできる」
ヒルメアとドルドが、同時に動きを止めた。
「待て」
ドルドが低い声を出す。
「今、魔石として取り出せるって言ったか?」
「ああ」
「どこから?」
「左の掌だ」
「どうやって?」
「吸収した魔力を集め、俺の能力で物質へ変える」
ドルドは何かを考えるように黙り込んだ。
ヒルメアも左義手を見つめ、指先から手首へ視線を動かしていく。
「左腕の機能じゃなく、シグマ自身の能力なのね?」
「そのはずだ」
「そのはず?」
「義手をつける前のことを覚えていない。だから断言はできない」
「また分からないのかよ」
「悪かったな」
「いや……」
ドルドは左義手の掌を見つめたまま、眉間に皺を寄せる。
「もしかすると、俺たちは見方を間違えてたのかもしれねえ」
「どういう意味?」
白鬼が首を傾げる。
「こいつを、人間の腕を再現した義手だと思って調べてた。だが、それだけじゃねえとしたら?」
ドルドは先ほど使った金属棒を手に取り、今度は左義手の前腕を細かく叩いていく。
一か所ずつ、僅かに位置をずらしながら音を確かめる。
やがて手首に近い場所で、その手が止まった。
「ここだけ、音が違う」
ヒルメアも測定器を持ち、ドルドが示した場所へ当てた。
弱い魔力を表面へ流す。
透明な板へ、これまでとは違う線が浮かび上がった。
それは腕の輪郭ではない。
前腕の内側に、細長い空間のようなものが存在していた。
「中に何かある」
ヒルメアの声が低くなる。
「部品か?」
「分からない。でも、ただの関節じゃない」
ドルドは右義手にも同じ検査を行った。
すると右の前腕からも、左とは形の異なる空間が見つかった。
左右の義手には、外から見えない何かが隠されている。
しかも、その位置には外装を開くための蓋も、継ぎ目も存在していなかった。
「ドルド」
「ああ」
ドルドは左右の義手を見比べ、不敵に口元を吊り上げた。
「ようやく入口が見つかった」
「入口なんてないけど」
「言葉の綾だ!」
ドルドは作業台へ身を乗り出し、シグマの両義手を興奮した目で見つめた。
「こいつは、ただ動くだけの義手じゃねえ」
その言葉に、シグマも両腕へ目を落とす。
「この中には、まだ持ち主すら知らない仕掛けが隠されてる」
「この中には、まだ持ち主すら知らない仕掛けが隠されてる」
ドルドの言葉に、作業場が静まり返った。
シグマは作業台の上に置いた両腕を見る。
左右の義手は、いつもと変わらない。
黒い左腕と、赤黒い右腕。
これまで何度も命を救われ、同時に炎帝石の暴走によって仲間を危険に晒しかけた両腕だった。
「仕掛けって、武器なの?」
白鬼が興味を隠そうともせず、作業台へ身を乗り出す。
「それを今から調べるんだ」
「爆発したりしない?」
「しないように調べる!」
「するかもしれないんだ……」
白鬼が一歩後ろへ下がる。
「危ないなら、私たちは外に出た方がいい?」
黒鬼が尋ねると、ヒルメアは少し考えてから首を振った。
「今はまだ大丈夫。いきなり動かしたりしないから。ただし、何か起きたらすぐ離れて」
「何か起きてからで間に合うんか?」
「間に合わせるのよ」
「そこは自信持って否定してほしかったわ」
シルフが不安そうに作業場を見回す。
ドルドは周囲の会話を気にすることなく、左右の義手から得られた測定結果を紙へ書き写していた。
左の前腕には、細長い空間。
右の前腕には、それよりも太く、複雑な形をした空間。
どちらにも、外から開けられる蓋や継ぎ目は存在しない。
「まずは左だ」
ドルドが測定結果を指さす。
「こっちは手首から肘へ向かって、細い道が通ってる。その奥に、小さな空間がいくつも並んでやがる」
「右は?」
「右にも似たような道がある。だが、こっちは指先じゃなく、掌の中央へ繋がってる」
「左で何かを作って、右で使う構造かもしれないわね」
ヒルメアが呟く。
「どうしてそう思う?」
「形がそう見えるだけ。左の空間は何かを整えるための場所で、右は何かを通すための筒に近い」
「それだけじゃ何も分からねえ。実際に動かしてみるぞ」
ドルドは勢いよく顔を上げた。
「どうやってだ?」
「お前が動かすんだ」
「俺が?」
「当たり前だろ。外側から無理に開けられねえなら、持ち主に反応させるしかない」
シグマは左義手を持ち上げ、掌を開閉した。
普段と変わらず動く。
手首を回しても、内部から音が聞こえることはなかった。
「何も起きないな」
「動かすだけじゃ駄目か」
「左腕で魔力を吸収するときは、どうしてるの?」
ヒルメアが尋ねる。
「吸収しようと思いながら、魔力を持つ物に触れる。それだけだ」
「なら、同じことを試してみる」
ヒルメアは棚から小さな魔石を取り出した。
淡い光を放つ、一般的な風属性の魔石だった。
「待て」
紅蓮が二人の間へ腕を伸ばす。
「さっきから話が進むのが早すぎる。何が起きるか分からないんだろ」
「だから弱い魔石を使うのよ」
「弱くても、炎帝石が反応しないとは限らない」
紅蓮は右義手へ目を向けた。
「左で吸った魔力が、右へ流れ込む可能性もある」
「その通りね」
ヒルメアは素直に魔石を引っ込めた。
「左右の繋がりも、まだ分かってない。先に右腕への魔力を遮る」
作業台の下から厚い板を取り出し、シグマの両腕の間へ立てる。
表面には魔力を遮断するための術式が刻まれていた。
さらに右義手へ数本の測定線を取りつけ、魔力の変化を確認できるようにする。
「これで完全に止められるとは思わないで」
「随分と不安になる言い方だな」
「大丈夫だと言い切って、暴走する方が困るでしょ」
「それはそうだが」
「右腕に変化が出たら、すぐに中止する。黒鬼もシグマの体を見てて」
「分かった。少しでも黒くなったら止める」
黒鬼はシグマの肩と右腕の付け根を確認できる位置へ移動した。
フェルンはシグマの背中へ身を寄せている。
「シグマ、大丈夫?」
「ああ。少し試すだけだ」
「痛かったら、すぐやめてね」
「分かってる」
準備が整うと、ヒルメアは先ほどの魔石を左義手の前へ置いた。
「まず、これに触れてみて」
シグマが左手で魔石を握る。
「まだ吸わないで。そのまま、義手の中を意識できる?」
「やってみる」
目を閉じ、左腕へ意識を集中させる。
最初に感じたのは、掌の中にある風属性の魔力だった。
これまでと同じように吸収しようとすれば、その魔力は左腕を通じてシグマの中へ流れ込んでくる。
だが、今回はすぐに吸収しない。
自分の中ではなく、義手の中へ意識を向ける。
しばらくすると、左腕の奥に奇妙な感覚があった。
普段は感じたことのない、小さな空洞。
そこへ繋がる細い道が、掌の奥に隠されている。
「……何かある」
「どこだ?」
「左腕の中だ。今まで気づかなかった」
「そのまま魔力を吸ってみて。ただし、自分の体へ流さないようにして」
「無茶言うなあ」
シルフが呟く。
「無茶でも、やってもらうしかないの」
「シグマ、無理そうならやめろ」
紅蓮の言葉に、シグマは小さく頷いた。
魔石から、ほんの僅かに魔力を引き出す。
いつもなら左義手を通り、そのまま体内へ入ってくるはずだった。
しかし今回は、掌の奥で流れを押し留める。
行き場を失った魔力が、義手の内部を彷徨う。
その瞬間。
左義手の中で、何かが噛み合うような感覚があった。
「動いた!」
測定板を見ていたヒルメアが声を上げる。
左義手の前腕に隠されていた細長い空間へ、魔力が一気に流れ込んでいく。
掌から吸収された風属性の魔力は、シグマの体へ入らず、義手の内部を何度も循環し始めた。
やがて魔力は少しずつ圧縮され、形を変えていく。
「シグマ、痛みは?」
黒鬼が尋ねる。
「ない。右腕にも変化はない」
「もう少しだけ続けて」
ヒルメアが測定器を確認しながら指示を出す。
魔石から引き出された光が完全に消える。
同時に、左義手の手首付近へ一本の細い線が浮かび上がった。
これまでどこにもなかった継ぎ目だった。
「開くぞ!」
ドルドが興奮した声を上げる。
手首の側面が僅かにずれ、隠されていた小さな排出口が姿を現す。
その奥から、乾いた音とともに何かが押し出された。
ドルドが慌てて両手を差し出す。
手の中へ落ちたのは、小指ほどの長さしかない細長い結晶だった。
透明に近い薄緑色で、先端が僅かに尖っている。
自然に採掘される魔石とは明らかに形が違っていた。
「これ……魔石?」
白鬼が覗き込む。
「性質は魔石に近い。でも、こんな形は自然にはできない」
ヒルメアは結晶を摘まみ、光へ透かした。
「内部の魔力が均等に圧縮されてる。削って整えた形跡もない」
「左義手の中で作られたのか?」
「ああ。間違いねえ」
ドルドはシグマの左義手へ顔を近づけた。
役目を終えた排出口は既に閉じ、継ぎ目も消えていた。
「左腕は、吸収した魔法をこいつへ変えるための物だったんだ」
「今までシグマが作ってた魔石とは違うの?」
フェルンが尋ねる。
「違う」
シグマはドルドの手にある結晶を見つめた。
「俺が作るときは、吸収した魔力を物質変化で魔石にしていた。左腕が勝手に形を作ったことはない」
「つまり、これまではシグマ自身の力で魔石にしとっただけで、義手の本当の機能は使えてなかったんやな」
シルフの言葉に、ヒルメアが頷く。
「この結晶は普通の魔石じゃない。何かに使うことを前提に作られてる」
「何かって?」
白鬼が首を傾げる。
ドルドとヒルメアの視線が、同時に右義手へ向いた。
「右腕だ」
ドルドが細長い結晶を持ち上げる。
「左で作った物を、右で使うんだろう」
「待て」
シグマが止める。
「右は左より危険だ。確かめるために炎帝石を刺激するつもりなら、やめた方がいい」
「石は使わねえ」
「どういうことだ?」
「右義手の内部にある仕掛けは、掌まで繋がってる。もしこれを入れる場所があるなら、炎帝石とは別の機能だ」
ドルドは結晶をシグマへ渡した。
「握ってみろ」
「それだけでいいのか?」
「分からん」
「分からないのにやらせるな」
「なら、どうすればいいんだ!」
「それを考えるのが職人でしょ」
ヒルメアが呆れたように言いながら、右義手の測定板を確認する。
「シグマ。さっき左腕の中を感じたときと同じように、右腕へ意識を集中してみて」
シグマは薄緑色の結晶を右手に乗せた。
掌を閉じず、そのまま右腕へ意識を向ける。
炎帝石からは、いつもと変わらない熱が伝わってきている。
その熱を避けるように、さらに腕の奥へ意識を沈めた。
しばらくして、右の掌に左腕と似た感覚を見つける。
何かを受け入れるための、小さな空間。
「見つけた」
「石をそこへ入れるように意識して」
ヒルメアの指示に従い、結晶を右義手へ押し込むイメージを浮かべる。
右の掌に、円形の線が現れた。
全員が息を呑む。
掌の中央が僅かに開き、その奥から細い金属部品がせり出してきた。
形は、ドルドが持つ工具の柄にも似ている。
だが中央には、先ほど作られた結晶と同じ大きさの窪みがあった。
「やっぱり装填口だ!」
ドルドが作業台を叩く。
「声が大きい」
「これで興奮するなって方が無理だ!」
シグマが結晶を窪みへ当てる。
すると金属部品が結晶を取り込み、掌の奥へ戻っていった。
円形の線も消え、右義手は元の姿へ戻る。
「入ったぞ」
「炎帝石に変化は?」
ヒルメアが測定器を見る。
「ない。埋め込まれてる石を通らず、右腕の内部へ直接入った」
「これで何ができるんだ?」
「だいたい想像はつくが、ここで試すのはまずい」
ドルドが工房の壁を見る。
「下手すりゃ、風穴が開く」
「そんな危ない物を工房でシグマの腕に入れたの?」
白鬼が後ずさる。
「撃たなきゃ大丈夫だ!」
「どうしたら撃てるかも分からないんでしょ?」
「……全員、右手の前には立つな」
紅蓮の一言で、シグマの正面から全員が素早く移動した。
「俺も外したいんだが」
「装填できたなら、取り出すこともできるはずよ」
ヒルメアに言われ、シグマは先ほどと逆の動きを意識する。
右の掌が開き、装填された結晶が再び姿を現した。
シグマはそれを抜き取ると、ようやく右手を下ろした。
「試すなら、街の外だな」
紅蓮が言う。
「いや、工房の裏に試験場がある」
「街の中に?」
「武器や魔道具を作る職人が多い街だぞ。試す場所くらい用意してある」
「今から行くぞ!」
ドルドが結晶を持って作業場を飛び出そうとする。
その襟首を、ヒルメアが後ろから掴んだ。
「その前に、安全装置を作る」
「先に一発だけ試せばいいだろ!」
「よくない。左は魔法を吸い、右はそれを撃ち出す。使い方を誤れば、どちらも危険よ」
「だが、義手そのものは壊れねえ」
「持ち主は壊れるかもしれないでしょ」
ドルドが黙り込む。
ヒルメアはシグマの右腕に触れないよう注意しながら、炎帝石の周囲を確認した。
「問題は、こっちの石」
「右だけか?」
「左も同じ。義手の仕掛けは、埋め込まれた石を使わなくても動いた」
その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。
左義手は風属性の魔力を吸収し、細長い結晶へ変えた。
右義手も炎帝石の力を使わず、その結晶を取り込んだ。
ならば、二つの魔石は何のためについているのか。
「義手を動かすための動力ではないのか?」
シグマが尋ねる。
「動力だとしても、力が大きすぎるわ」
ヒルメアは首を横に振った。
「今の仕掛けを動かすだけなら、もっと小さな魔石で足りる。それに、義手自体がシグマの意思へ直接反応してる。動力のすべてを、この石に頼っているようには見えない」
「じゃあ、なんのためにあるの?」
フェルンが不安そうに尋ねる。
「分からない」
ヒルメアは誤魔化さずに答えた。
「分からないけど、右の石が持ち主の意識にまで影響するなら、このまま使い続けるのは危険よ」
「外せないんだろ?」
「ああ。無理に外すのは危険すぎる」
ドルドも真剣な表情で炎帝石を見つめる。
「なら、外さずに抑えるしかねえ」
「抑えられるのか?」
「完全に封じるのは無理。でも、石から溢れた魔力を別の場所へ逃がして、義手や体へ流れ込む量を減らすことはできるかもしれない」
ヒルメアが紙を引き寄せ、簡単な図を描き始めた。
義手の前腕を囲む金属製の環。
そこから手の甲へ伸びる細い部品。
魔石の周囲へ直接触れず、溢れ出す魔力だけを受け止める構造らしい。
「左右それぞれに制御具を作る。魔石から急激に魔力が溢れたら、腕輪側へ流して一時的に留めるの」
「留めた魔力はどうなる?」
「少しずつ外へ逃がす。使う素材は、魔力に強い物が必要ね」
「魔銀だけじゃ足りねえ。黒鋼を混ぜるぞ」
「重くならない?」
「こいつなら多少重くても問題ねえだろ」
「本人に聞きなさいよ」
二人の視線がシグマへ向く。
「今の義手より重くなるのか?」
「いや。制御具だけなら腕輪一つ分だ」
「それなら構わない」
「決まりだ!」
ドルドは新しい紙を広げ、ヒルメアの隣で図を描き始めた。
先ほどまで言い争っていた二人が、今度は迷いなく意見を交わしていく。
「完成まで、どのくらいかかる?」
紅蓮が尋ねる。
「試作品なら三日」
「調整まで含めたら、最低でも五日は欲しいわね」
「そんなにかかるのか?」
「未知の魔石に使う道具よ。急いで作って役に立たなかったら意味がないでしょ」
紅蓮はシグマへ視線を向ける。
「どうする?」
アルスラへ向かう旅の途中だった。
この街で何日も足を止める予定はなかった。
だが、炎帝石の力は一度、シグマの意識を奪っている。
再び同じことが起きれば、次も仲間を傷つけずに済む保証はない。
「五日、ミルザードに滞在しよう」
シグマは迷わず答えた。
「二人に制御具を作ってもらいたい」
「よし、任せろ!」
ドルドが拳を掌へ打ちつける。
「ただし、完成するまでは無理に義手の仕掛けを試さないで」
ヒルメアが念を押した。
「特に右腕。魔石弾を撃てることは間違いないと思うけど、反動も威力も分からない。炎帝石がどう反応するかも未知数よ」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「シグマの分かったも信用できへんからなあ」
シルフが疑うように見る。
「俺は白鬼とは違う」
「そこで私を出さないでよ!」
「でも、シグマも無茶する」
黒鬼が静かに言った。
「フェルンを助けるときも、一人で抱え込んでたから」
「私も、シグマが無茶するの嫌」
フェルンがシグマの服を強く掴む。
「……悪かった。勝手には試さない」
「約束?」
「ああ。約束する」
フェルンはしばらくシグマの顔を見つめた後、ようやく小さく頷いた。
◇
工房を出る頃には、空が赤く染まり始めていた。
結局、買い出しはほとんど進まなかった。
白鬼は宿へ戻る途中も、先ほど作られた薄緑色の魔石弾について何度も話していた。
「右手から撃ったら、どんな感じになるんだろうね。風の矢みたいに飛ぶのかな?」
「試すなと言われたばかりだろ」
紅蓮が釘を刺す。
「私は試さないよ。シグマの腕だもん」
「シグマをけしかけるのも駄目」
黒鬼が続ける。
「しないってば」
「白鬼ならやる」
「黒鬼、今日ずっと私に厳しくない?」
「いつもと同じ」
「いつも厳しいってこと?」
「そうかも」
「双子の姉妹なんだから、もう少し優しくしてよ!」
「姉妹だから言ってる」
黒鬼の返事に、白鬼は言葉を詰まらせる。
紅蓮はそんな二人を見て、小さく笑った。
「宿に戻ったら買い出しの予定を立て直すぞ。五日もいるなら、明日まとめて回ればいい」
「紅蓮は鬼人丸の油を買いに行くんやろ?」
「それもついでだ」
「楽しみなんやな」
「まだ言うのか」
いつもと変わらない会話を聞きながら、シグマは両腕を見下ろした。
左義手は魔法を吸収し、魔石弾へ変える。
右義手は、その弾丸を装填して撃ち出す。
自分の腕でありながら、その機能を今まで何一つ知らなかった。
それどころか、二つの魔石が何のために埋め込まれているのかも分からない。
炎帝石の力を使えば、強大な炎を操ることができる。
獣王石の力も、これまで何度もシグマを助けてきた。
だが、それに頼り続けた結果、力に呑まれれば意味がない。
「シグマ?」
服を掴んでいたフェルンが、顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「少し考えていた」
「腕のこと?」
「ああ」
シグマは右手を握り締める。
金属の指が動く感覚は、生身の腕とほとんど変わらない。
「この腕の力を使わなくても、戦えるようになった方がいいのかもしれない」
「シグマ、剣も使えるよね?」
「この刀は、必要なときしか抜けない。それに、今までの俺は義手の力に頼りすぎていた」
炎帝石も、獣王石も使わない。
黒鞘刀にも頼らない。
その状態で、仲間を守れるだけの戦い方が必要だった。
「なら、ちょうどええんちゃう?」
前を歩いていたシルフが振り返る。
「ここは職人の街やけど、冒険者も多い。道場くらいあるやろ」
「道場?」
「剣や格闘技を教えとる場所や。宿の人に聞いたら、何か分かるかもしれへんで」
紅蓮がシグマの体を見た。
「格闘を学ぶつもりか?」
「義手を使うためじゃない。力に頼らず、体の使い方から覚え直したい」
「五日で身につくほど甘くないぞ」
「分かってる。それでも、何もしないよりはいい」
「そうか」
紅蓮は僅かに考えた後、口元を緩めた。
「なら、明日にでも探してみろ。どうせ制御具が完成するまでは街を出られない」
「ああ。そうする」
宿へ戻ったシグマは、主人にミルザードの道場について尋ねた。
「格闘を習いたいなら、東区にある道場だな」
主人は迷うことなく、一つの場所を挙げた。
「この街には冒険者向けの訓練所もあるが、体の使い方から学びたいなら、あそこが一番だ」
「どんな道場なんだ?」
「気術っていう、変わった技を教えてる。師範は鬼人の女だ」
「鬼人……」
近くで聞いていた紅蓮が反応する。
「名前は?」
「茜だ。見た目はとびきりの美人だが、気をつけた方がいい」
「何にだ?」
「豪快なんてもんじゃない。気に入られたら、立って帰れるかも怪しいぞ」
宿の主人は冗談とも本気ともつかない笑みを浮かべた。
翌朝。
シグマは一人の鬼人が待つ道場を訪ねることになる。
これまでとは異なる、新たな戦い方を学ぶために。




