第二十五話 旅路の途中で
セルカ村を出発してから、しばらくの間、馬車の中には静かな時間が流れていた。
ノクスとソルが乾いた街道を進むたび、車輪が規則正しく音を立てる。
シグマが手綱を握る御者台の隣では、フェルンが何度も後ろを振り返っていた。
緩やかな坂を越えたことで、セルカ村を囲む柵も、見送りに出ていた村人たちの姿も、今はもう見えない。
「フェルン。もう村は見えないぞ」
シグマが声をかけると、フェルンはようやく前を向いた。
「うん……」
「村の人たちが心配なのか?」
「ちゃんと元気になるかなって」
教会の地下で救出した村人や旅人の多くは、巨大な茸に魔力と体力を奪われていた。
命に関わる状態を脱したとはいえ、すぐに普段の生活へ戻れる者ばかりではない。
シグマたちは手持ちの薬や保存食の一部を村に残してきたが、フェルンはそれだけでは足りないと考えているようだった。
「残してきた薬があれば、少しずつ回復する。動ける人たちもいるから、皆で助け合えるはずだ」
「でも、もっと置いてきてもよかったんじゃない?」
「全部置いていったら、今度は俺たちが困る。旅はまだ続くからな」
「そっか……」
フェルンは足元に置かれた荷物へ目を落とした。
納得はしていても、気持ちまですぐには切り替えられないのだろう。
「それに、村の人たちも立ち直ろうとしていた。自分たちなら大丈夫だと言っていたんだ。俺たちはそれを信じよう」
「……うん。分かった」
フェルンが小さく頷く。
すると、馬車の右側を歩いていたハクが、御者台へ顔を寄せてきた。
『フェルン。元気がない』
「大丈夫だよ。村のみんなのことを考えてただけ」
『ハクに乗るか?』
フェルンの耳がぴくりと動く。
「乗る!」
先ほどまで垂れ下がっていた尻尾が、途端に左右へ揺れ始めた。
そのまま御者台から立ち上がろうとしたため、シグマは片手でフェルンの肩を押さえる。
「待て。馬車が動いている」
「でも、ハクが隣にいるよ?」
『受け止める』
「ハクも大丈夫だって!」
「二人で話を進めるな。次に止まるまで我慢しろ」
「はーい……」
フェルンは残念そうに座り直した。
そのやり取りを聞いていた白鬼が、荷台から顔を出す。
「フェルン、もう元気になったね!」
「落ち込んでないもん」
「でも、ハクに乗れるって聞いたら、尻尾がすごく動いてたよ?」
フェルンは慌てて自分の尻尾を抱え込んだ。
「動いてない!」
「動いてたよ。こんな感じで!」
白鬼が楽しそうに身体を左右へ揺らす。
「白鬼だって、おいしいものを見つけたらすぐ顔に出るもん!」
「私は隠してないからいいの!」
「それは違うと思う」
「違わないよ!」
白鬼がさらに身を乗り出そうとしたところで、後ろにいた紅蓮が襟元を掴んだ。
「身を乗り出すな。落ちるぞ」
「大丈夫だよ。ちゃんと掴まってるから!」
「落ちてからじゃ遅い。座ってろ」
「紅蓮は心配しすぎだよ」
「誰かが落ちたら、馬車を止めることになる。余計な手間を増やすな」
「もう、素直じゃないなあ」
「何か言ったか?」
「何も言ってないよ!」
白鬼は笑いながら荷台へ引っ込んだ。
その隣では、黒鬼が胸元に手を添えて小さく息を吐いていた。
「白鬼、危ないです。ちゃんと座ってください」
「分かってるって。もう身を乗り出さないよ」
「本当ですか?」
「本当、本当!」
「返事が軽いな」
紅蓮が呆れた声を漏らす。
「ちゃんと分かったってば!」
「ならいい。次に落ちそうになったら、荷台の真ん中に座らせるからな」
「それくらいなら別にいいよ」
「荷物で囲んで動けなくする」
「それは嫌!」
白鬼の声に、シルフが小さく笑った。
先ほどまで馬車を包んでいた重い空気も、いつの間にか薄れている。
シグマも僅かに表情を緩め、前方へ視線を戻した。
街道の左右には、なだらかな草原が広がっている。
風が吹くたび、膝ほどの高さまで伸びた草が波のように揺れていた。
セルカ村の周囲を覆っていた森は既に遠ざかり、身を隠せるような木々はほとんど見当たらない。
「この辺りは、ずいぶん見通しがええな」
シルフが荷台から周囲を見渡す。
「何か見えるか?」
「小さな獣が何匹かおるだけや。魔物も人影も見当たらへん」
「後ろはどうだ?」
「追ってくるもんもおらん。今のところは問題なさそうやで」
「そうか」
シグマは小さく頷いた。
見通しのいい場所なら、不意打ちを受ける可能性は低い。
その一方で、こちらの姿も遠くから見つけられてしまう。
フェルンを狙う者たちが完全に追跡を諦めたとは思えなかった。
「セルカ村では、次の目的地を話してないんだよな?」
紅蓮が荷台の後方を警戒しながら尋ねる。
「ああ。ローデン村へ向かうことも、アルスラを目指していることも伏せてある」
「それでいい。助けた村人を疑いたくはないが、誰がどこで聞いているか分からないからな」
「村の人が、追っ手に話しちゃうかもしれないってこと?」
フェルンの耳が僅かに伏せられる。
「違う」
紅蓮はすぐに否定した。
「村の連中が裏切ると言ってるんじゃない。あれだけ大勢の旅人や行商人がいれば、話を聞かれることもある。本人に悪気がなくても、情報が広がることはあるんだ」
「そっか……」
「フェルンは気にしなくていい。用心するのは俺たちの役目だ」
「僕も用心するよ」
「なら、まずは勝手に馬車から飛び降りないことだな」
フェルンが言葉に詰まる。
「……まだ飛び降りてないよ?」
「シグマに止められなかったら、飛び降りてただろ」
「ハクが受け止めてくれるもん」
『受け止める』
ハクが当然のように答えた。
声が聞こえたフェルンは、味方を得たように胸を張る。
「ほら。ハクも大丈夫だって」
「ハクが何と言っているか、俺たちには分からないんだが」
紅蓮がハクへ目を向ける。
「フェルンを受け止めると言っている」
シグマが通訳すると、紅蓮は呆れたように息を吐いた。
「ハクまで甘やかすな」
『甘やかしていない』
「甘やかしてないって」
「二人とも返事だけは早いな」
紅蓮が肩をすくめる。
その隣で、黒鬼が控えめに口を開いた。
「あの……ハクなら受け止められると思います。でも、急に動いたらノクスとソルが驚きます。止まってから乗った方がいいです」
「うん。黒鬼の言うとおりだ」
シグマが頷くと、フェルンも素直に返事をした。
「分かった。止まるまで待つ」
「はい。その方が安心です」
黒鬼が柔らかく微笑む。
「黒鬼の言うことはすぐ聞くんだね」
白鬼が少し不満そうに口を尖らせた。
「だって、黒鬼は優しく言ってくれるもん」
「私だって優しいよ!」
「尻尾の真似した」
「あれはフェルンが元気になったから、ちょっと嬉しかっただけだよ」
「本当?」
「本当だよ。村を出てからずっと元気がなかったから、心配してたんだからね!」
白鬼が真っ直ぐに答える。
フェルンは抱えていた尻尾から手を離すと、少し照れたように笑った。
「ありがとう、白鬼」
「うん!」
白鬼も嬉しそうに笑い返した。
その様子を見届け、シグマは手綱を握り直した。
次の目的地であるローデン村までは、およそ二日。
道に問題がなければ、明日の夕方には到着できる見込みだった。
セルカ村では、教会の地下に残っていた胞子や菌糸を可能な限り焼き払った。
シルフの目でも確認し、村の中に同じような魔力が残っていないことも調べてある。
それでも、あの巨大な茸がどこから来たのかまでは分からなかった。
教会の地下に自然に生えたのか。
それとも、誰かが持ち込んだものなのか。
今ある情報だけでは、答えを出すことはできない。
「シグマ」
フェルンに呼ばれ、シグマは隣へ目を向けた。
「どうした?」
「難しい顔してる」
「そうか?」
「うん。何を考えてたの?」
「教会にいた茸のことだ」
「まだ村に残ってるかもしれないの?」
フェルンの表情に不安が浮かぶ。
「いや。残っていた胞子や菌糸は、紅蓮とシルフが焼いてくれた。シルフにも確認してもらったから、村の中にはもう同じ魔力はない」
「それなら大丈夫じゃないの?」
「少なくとも、すぐに同じことが起きる心配はないと思う。ただ、どうしてあんな場所にいたのかが分からない」
「誰かが置いたの?」
「分からない。自然に生えた可能性もある」
「また別の場所に出るかもしれない?」
「その可能性はある。次に似たような声を聞いても、一人では近づくなよ」
「うん。シグマたちを呼ぶ」
「そうしてくれ」
フェルンは頷いたあと、何かに気づいたように首を傾げる。
「でも、誰かが本当に助けを呼んでたら?」
「そのときは皆で確かめる。一人で近づかなければ、本当に助けを求めている人がいても助けられる」
「分かった。僕、一人では行かない」
「ハクも頼む」
『フェルンを一人にはしない』
「一人にしないって」
「頼りにしてる」
『任せろ』
ハクが誇らしげに胸を張る。
その様子を見たシルフが、荷台から尋ねた。
「ハクは何て言うたん?」
「僕を一人にしないって!」
「そら頼もしいな。けど、フェルンだけやのうて、シグマのことも見張っといてくれるか?」
「俺を?」
「一番勝手に危ないところへ行くんは、シグマやからな」
「確かにそうだな」
紅蓮が迷うことなく同意した。
「カルガランであれだけ言われたのを、もう忘れたんじゃないだろうな?」
「忘れてない」
「なら、自分だけで何とかしようとするな。何か見つけたら、まず俺たちに話せ」
「ああ。分かった」
「本当かな?」
白鬼が疑うような目を向ける。
「シグマ、前にも同じことを言ってなかった?」
「言ってましたね……」
黒鬼も遠慮がちに続けた。
「傷が治っても、無理をしていいわけではないです。あまり一人で抱え込まないでください」
「分かってる」
「また同じ返事やな」
シルフが苦笑する。
「次に無茶をしたら、縄で縛って荷台に転がすからな」
紅蓮が真顔で言った。
「紅蓮なら本当にやりそうだね!」
白鬼が楽しそうに声を上げる。
「そのときは私も手伝うよ!」
「白鬼まで何を言ってるんだ」
「だって、シグマは普通に言っても聞かないでしょ?」
「あの……私も、必要なら手伝います」
黒鬼が申し訳なさそうに付け加える。
「黒鬼まで?」
「すみません。でも、シグマがまた倒れる方が困りますから……」
「分かった。できるだけ無茶はしない」
「できるだけ、か」
紅蓮が低い声で繰り返す。
「無茶はしない」
「それでいい」
紅蓮が頷き、荷台へ腰を下ろした。
太陽が空の高い位置へ昇った頃、街道の先に一本の大きな木が見えてきた。
広く枝を伸ばした木の下には、旅人が休めるように石造りの腰掛けが置かれている。
少し離れた場所には、澄んだ水が流れる細い川もあった。
「少し早いが、ここで休むか」
「賛成や。ノクスとソルにも水を飲ませた方がええな」
シグマが手綱を緩めると、ノクスとソルは街道を外れ、大木の下へ馬車を運んだ。
馬車が完全に止まる。
フェルンはシグマの顔を見ると、許可を求めるように首を傾げた。
「止まったよ?」
「ああ。行っていいぞ」
「ハク!」
フェルンは御者台を降りると、すぐにハクへ駆け寄った。
ハクが地面へ伏せ、フェルンを背中へ乗せる。
「遠くへ行くなよ」
「分かってる!」
『この辺りを歩くだけだ』
「走るなよ」
『分かった』
「ハクも分かったって!」
フェルンを乗せたハクは、大木の周囲をゆっくり歩き始めた。
楽しそうに揺れるフェルンの尻尾を見送り、シグマはノクスとソルを馬車から外した。
紅蓮たちも荷台を降り、それぞれ身体を伸ばしている。
「昼食の準備をします」
黒鬼が食料袋と小さな鍋を馬車から降ろした。
「私も手伝う!」
白鬼がすぐに黒鬼の隣へ並ぶ。
「ありがとうございます。じゃあ、水をお願いしてもいいですか?」
「任せて!」
「鍋を落とさないように気をつけてください」
「大丈夫だよ。今度はちゃんと両手で持つから!」
「今度は?」
紅蓮が反応すると、白鬼は鍋を抱えたまま固まった。
「何でもないよ」
「前にも落としたのか?」
「落としてないよ。少し傾いただけ!」
「半分こぼしただろ」
「紅蓮、それは昔の話だよ!」
「五日前だ」
「五日も前なら昔だよ!」
「あのときは、地面が少し滑りやすかったですから……」
黒鬼が白鬼をかばうように、小さな声で付け加える。
「黒鬼まで甘やかすな。白鬼、川辺では足元をよく見ろ」
「分かってるって。行こう、黒鬼!」
「は、はい。引っ張らなくても大丈夫です……」
白鬼は黒鬼の手を取り、川へ向かって歩き出した。
「俺は周囲を見てくる」
紅蓮が大剣を背負い直す。
「シルフ、反対側を頼めるか?」
「ええで。あんまり遠くまで行かんようにな」
「分かってる」
二人が周辺の確認へ向かう。
シグマはノクスとソルに水を飲ませながら、足や羽の状態を調べた。
カルガランまで夜通し走らせたときの疲労は、既に抜けている。
二羽とも身体に異常はなく、食欲も戻っていた。
しばらくすると、黒鬼が簡単なスープを作り始めた。
細く裂いた干し肉と僅かな野菜を煮込み、硬いパンを浸して食べられるようにしたものだ。
「いい匂い!」
ハクから降りたフェルンが、鍋の近くへ駆け寄る。
「もう食べられる?」
「もう少し待ってください。まだ野菜が硬いです」
「味見ならできるよ!」
白鬼が木の匙へ手を伸ばす。
「白鬼は、さっき味見をしたばかりです」
「あれは干し肉の味見だよ。今度はスープの味見!」
「さっきも同じことを言ってました」
「黒鬼、ちゃんと覚えてたんだ……」
「覚えてます」
黒鬼は少し困ったように笑い、匙を白鬼から遠ざけた。
「全員が戻ってからにしましょう」
「はーい」
白鬼は素直に手を引っ込めた。
やがて紅蓮とシルフも戻り、全員で大木の下に腰を下ろした。
周囲に魔物や不審な人影はなかったらしい。
温かなスープへパンを浸し、少しずつ口へ運ぶ。
質素な食事だったが、朝から馬車に揺られていた身体には十分だった。
「やっぱり黒鬼の料理はおいしいね!」
「ありがとうございます。でも、煮込んだだけです」
「同じ材料でも、私が作ったらこうならないもん」
「白鬼は火を強くしすぎるからな」
紅蓮がスープを口へ運びながら言う。
「早く煮た方が、早く食べられるでしょ?」
「鍋を焦がしたら余計に時間がかかるだろ」
「次は気をつけるよ!」
「その言葉は前にも聞いたぞ」
「あの……次は私も隣で見ています。たぶん大丈夫です」
「黒鬼がそう言うなら任せる。ただし、危なくなったらすぐ火から離せ」
「はい、分かりました」
「私の料理なのに、黒鬼の方が信用されてない?」
「当然だろ」
「即答しないでよ!」
白鬼が頬を膨らませ、皆から笑いが漏れる。
昼食を終えたあとは、大木の下で短い休憩を取った。
ノクスとソルを馬車へ繋ぎ直し、荷物を確認する。
全員が乗り込んだことを確かめてから、シグマは再び手綱を握った。
午後に入っても、旅は穏やかに進んだ。
魔物が襲ってくることも、追っ手らしき者が現れることもない。
遠くで草食の魔物が顔を上げることはあったが、馬車へ近づこうとはしなかった。
セルカ村での出来事が嘘だったかのように、静かな時間が流れていく。
しかし、日が西へ傾き始めた頃。
御者台の隣でうとうとしていたフェルンが、不意に耳を立てた。
「シグマ」
眠気の消えた声に、シグマはすぐ前方へ意識を向ける。
「どうした?」
「前の方から声が聞こえる」
「どのくらい先だ?」
「まだ遠いけど……何人かいると思う」
荷台にいた仲間たちも、フェルンの言葉を聞いて周囲を警戒する。
シルフが前方を見つめ、目を細めた。
「街道の先に荷馬車が止まっとる。人は五人やな」
「襲われているのか?」
「戦っとる様子はないで。荷馬車の周りに集まって、何かしとるみたいや」
シグマは手綱を僅かに引き、ノクスとソルの速度を落とした。
紅蓮もすぐに大剣へ手を添える。
「俺が先に降りる。何かあったら、シグマは馬車を動かせ」
「いや、まずは全員で様子を見る。待ち伏せの可能性もある」
「分かった。白鬼と黒鬼は荷台から出るな」
「うん!」
「分かりました」
やがて馬車が緩やかな丘を越える。
その先に、一台の荷馬車が止まっていた。
荷馬車の片側の車輪が街道脇の窪みへ落ち、不自然に傾いている。
周囲では五人の男女が車体を押していたが、荷物を積んだ荷馬車はほとんど動いていなかった。
シグマたちに気づいた男の一人が街道へ出て、両腕を大きく振る。
「すまない! 少し手を貸してくれないか!」
シグマは街道の左右へ視線を走らせた。
草原に魔物の姿はない。
身を隠している者の気配も感じられなかった。
「どうする?」
紅蓮が低い声で尋ねる。
「話を聞く。ただし、警戒は解かない」
「分かった」
シグマはノクスとソルをゆっくりと止めた。
セルカ村を離れ、ローデン村へ向かう旅の途中。
シグマたちは、街道で立ち往生している一行と出会った。
シグマたちの馬車が近づくと、街道に立っていた男は安堵したように肩の力を抜いた。
四十代ほどの、日に焼けた顔をした男だった。
腰には短剣を下げているが、鎧は身につけていない。着込んだ上着や汚れた長靴を見る限り、冒険者ではなく行商人なのだろう。
「助かる。荷馬車の車輪が窪みにはまって、動かせなくなったんだ」
男の後ろには、二人の若い男と、中年の女性、十代半ばほどの少女がいた。
全員が疲れた顔をしているものの、怪我をしている様子はない。
「いつからここに?」
シグマは御者台から周囲を確認しながら尋ねた。
「半刻くらい前だ。道の端を通ろうとしたら、土が崩れた。何度か押してみたが、荷物が重すぎてびくともしない」
「魔物に襲われたわけではないんだな?」
「ああ。幸い、まだ魔物は来ていない。ただ、日が暮れる前には何とかしたくてな」
シグマは傾いた荷馬車へ目を向けた。
右側の車輪が街道脇の窪みへ深く沈んでいる。
周囲の土は柔らかく、無理に引き上げようとしたことで、さらに大きく崩れていた。
「どう思う?」
紅蓮がシグマの隣へ降り立つ。
「待ち伏せには見えない。だが、周囲の警戒は続けよう」
「分かった。俺とシルフで見張る」
「頼む」
シグマは御者台から降りると、行商人の男へ向き直った。
「俺たちも手伝う。ただ、いきなり引き上げると車輪が壊れる。先に荷物を少し降ろした方がいい」
「そうしてもらえると助かる。俺はガルトだ。ローデン村で仕入れた品を運んでいる」
「俺はシグマだ」
シグマは同行者たちの名前や目的地については話さなかった。
ガルトもそれ以上は尋ねず、荷馬車へ戻っていく。
「皆、もう一度荷物を降ろすぞ!」
ガルトの声に、同行していた者たちが動き始めた。
「私たちも手伝うよ!」
白鬼が荷台から降りようとする。
紅蓮が振り返り、白鬼を止めた。
「待て。まだ周囲の確認が終わってない」
「でも、人手が必要なんでしょ?」
「安全だと分かってからだ」
「私も、荷物を運ぶくらいならできます」
黒鬼も白鬼の後ろから控えめに口を挟む。
「分かってる。少し待ってろ」
「はい」
黒鬼は素直に頷き、白鬼の腕を軽く引いた。
「白鬼、もう少しだけ待ちましょう」
「うん。分かった」
シルフが周囲を見渡しながら、街道脇の草原へ進んでいく。
ハクも鼻先を上げ、風に混じる匂いを確かめた。
『近くに魔物はいない』
「ハクも、近くに魔物はいないと言っている」
シグマが伝えると、紅蓮は草原の奥へ視線を向けたまま頷いた。
「なら、俺は荷馬車の後ろを見てくる。シルフが戻るまでは気を抜くな」
「ああ」
紅蓮は大剣に手を添えたまま、荷馬車の後方へ回った。
シグマは窪みへ落ちた車輪のそばにしゃがみ込み、状態を確かめる。
幸い、車軸は折れていない。
しかし、車輪を構成する木材の一部に亀裂が入っていた。
このまま強引に引き上げれば、亀裂が広がる可能性が高い。
「この車輪、少し割れかけているな」
シグマが指摘すると、ガルトの顔が曇った。
「やはりか。ここに落ちたとき、嫌な音がしたんだ」
「今すぐ外れるほどではない。ただ、ローデン村に着いたら修理した方がいい」
「ローデン村まで持ちそうか?」
「荷物を減らして、速度を落とせば大丈夫だと思う」
「そうか……」
ガルトは荷台に積まれた木箱や麻袋を見上げる。
「村までもう一日かからないとはいえ、ここに荷物を置いていくわけにもいかない。何とか動かせればいいんだが」
「まずは窪みから出そう。そのあとは、車輪に添え木を当てる」
やがて周囲を確認したシルフが戻ってきた。
「近くに魔物も人もおらへん。街道の先も問題なさそうや」
「なら、作業を始めよう」
紅蓮も荷馬車の後方から戻ってくる。
「俺は何をすればいい?」
「積み荷を降ろしてくれ。重そうな物から頼む」
「分かった」
安全を確認できたことで、白鬼と黒鬼も馬車を降りてきた。
ガルトたちと協力し、荷馬車から積み荷を運び出していく。
「この箱はどこに置けばいい?」
白鬼が小さな木箱を抱えながら尋ねる。
「そっちの布の上に頼む。中身は陶器だから、落とさないでくれ」
「分かった! ゆっくり運ぶね!」
白鬼は先ほどまでとは打って変わって、慎重な足取りで木箱を運んでいった。
黒鬼は麻袋を持ち上げようとしたが、予想よりも重かったらしく、僅かに身体が傾く。
「あっ……」
隣にいた紅蓮がすぐに麻袋を支えた。
「無理するな。これは俺が運ぶ」
「すみません。持てると思ったんですが……」
「気にするな。黒鬼は軽い物を頼む」
「はい。ありがとうございます」
紅蓮は二つの麻袋を抱え、そのまま布の上まで運んでいった。
その様子を見ていたガルトたちが驚いたように目を見開く。
紅蓮の細身の身体からは想像できない力だったのだろう。
「すごいね、お姉ちゃん」
行商人たちと一緒にいた少女が声を上げる。
紅蓮は麻袋を置くと、少女へ目を向けた。
「鬼人だからな。このくらいは持てる」
「その剣も重いの?」
「ああ。持ってみるか?」
「紅蓮、簡単に触らせたら危ないよ!」
白鬼が慌てて止める。
「冗談だ」
「紅蓮の冗談は分かりにくいよ!」
「本当に持たせるわけないだろ」
紅蓮の返事を聞き、少女が楽しそうに笑った。
ある程度の積み荷を降ろしたところで、シグマは車輪の前に土を積み上げた。
段差を小さくし、車輪が上がりやすいように固めていく。
ガルトは地面の変化を見つめ、感心したように声を漏らした。
「土魔法が使えるのか」
「少しだけな」
「十分すごいじゃないか。これなら出せそうだ」
「まだ動かすな。車輪が沈まないように、周りの土も固める」
シグマは窪みの周囲へ手を向け、柔らかくなっていた地面を押し固めた。
その後、シルフが風魔法で車体を下から支えることになった。
シグマと紅蓮、ガルトたちが荷馬車を後ろから押し、残った者たちが荷を引いていた二頭の馬を前へ進ませる。
「いくぞ。せーの!」
ガルトの掛け声に合わせ、全員が力を込めた。
車体が大きく軋む。
窪みにはまっていた車輪が僅かに持ち上がったものの、途中で止まってしまう。
「もう少しだ! そのまま押せ!」
紅蓮が肩で荷馬車を押し上げる。
シルフの風が下から車体を支え、シグマも両腕へ力を込めた。
次の瞬間、車輪が窪みを乗り越えた。
傾いていた荷馬車が街道へ戻り、行商人たちから歓声が上がる。
「出た!」
「やった!」
白鬼も一緒になって両手を上げた。
黒鬼は嬉しそうに笑いながらも、荷馬車の車輪へ目を向ける。
「シグマ、車輪は大丈夫ですか?」
「今、確認する」
シグマは亀裂の入った部分へ、荷馬車に積まれていた予備の板を当てた。
太い縄で何重にも巻きつけ、簡単にはずれないように固定する。
「これでローデン村までは持つと思う。ただし、速度は出さない方がいい」
「分かった。本当に助かった」
ガルトは深く頭を下げた。
「君たちが来なかったら、今夜はここで野営するしかなかった」
「俺たちも、この先で野営する予定だ」
「ローデン村へ向かっているのか?」
「ああ」
「それなら、村まで一緒に行かないか? 俺たちの荷馬車は速く走れないが、この辺りは日が暮れると魔物が出ることもある。一台より二台で進む方が安全だ」
シグマは紅蓮たちへ目を向けた。
行商人たちに怪しい様子はない。
向かう先が同じなら、途中まで同行すること自体に問題はなかった。
「どうする?」
「俺は構わない」
紅蓮が答える。
「この車輪じゃ、放っておいても気になるからな」
「うちもええと思うで。人数が増える分、見張りもしやすなるしな」
シルフも賛成する。
「白鬼と黒鬼は?」
「私もいいよ!」
「私も大丈夫です」
「フェルンは?」
「うん。一緒に行こう」
『ハクも構わない』
ハクからも反対する様子はない。
「分かった。ローデン村まで一緒に行こう」
「ありがたい。足を引っ張らないようにする」
荷馬車へ積み荷を戻したあと、シグマたちはガルトの一行とともに街道を進み始めた。
車輪に負担をかけないよう、先ほどまでより速度を落として進む。
ガルトたちの荷馬車が前を走り、そのすぐ後ろをシグマたちの馬車が続いた。
日が沈むまでに進める距離は短くなったが、焦る必要はない。
ローデン村には、明日のうちに到着できる。
それから一刻ほど街道を進み、周囲が夕日に染まり始めた頃。
シルフが街道から少し離れた場所に、野営に使えそうな場所を見つけた。
背の低い木々に囲まれた平地で、近くには小さな湧き水もある。
街道から完全に隠れる場所ではないが、二台の馬車を止めるには十分な広さがあった。
「今日はここまでにしよう」
ガルトも異論はなく、二台の馬車は平地へ入った。
ノクスとソル、ガルトたちの馬を外し、水と餌を与える。
野営の準備を始めると、ガルトの妻だという女性が、シグマたちの夕食も一緒に作ると申し出た。
「助けてもらった礼には足りないけど、食料なら積んでいるからね」
「でも、それは売り物じゃないの?」
白鬼が積み荷へ目を向ける。
「全部が売り物じゃないよ。傷みかけた野菜もあるし、今夜中に食べた方がいい肉もある。遠慮される方が困るね」
「それなら、私も手伝います」
黒鬼が申し出る。
「私も!」
白鬼もすぐに手を上げた。
「じゃあ、二人には野菜を切ってもらおうか」
「任せて!」
「はい。分かりました」
白鬼と黒鬼はガルトの妻とともに調理を始めた。
フェルンも手伝おうとしたが、包丁を持とうとしたところで止められ、野菜を洗う役目を任される。
「僕も切れるよ?」
「旅先で怪我をしたら困るだろ」
シグマが告げると、フェルンは少し不満そうに頬を膨らませた。
「シグマは僕を子供扱いしすぎ」
「十歳なら子供だ」
「もうすぐ大人になるもん」
「まだ先だろ」
「すぐだよ」
フェルンは野菜を抱え、黒鬼と一緒に湧き水の方へ向かった。
夕食は、野菜と肉を大きな鍋で煮込んだ料理になった。
塩だけでなく、ガルトが商品として運んでいた香辛料も少し使われ、普段の野営では味わえない香りが漂っている。
「おいしい!」
白鬼が一口食べるなり、目を輝かせる。
「これ、何が入ってるの?」
「乾燥させた香草と、少し辛い実を粉にしたものだよ」
「辛い実?」
「そのまま食べると大変なことになるから、口に入れちゃ駄目だからね」
「入れないよ!」
白鬼は答えながらも、香辛料の入った小瓶を興味深そうに見つめていた。
紅蓮がそれに気づき、小瓶を白鬼から遠ざける。
「見るだけにしておけ」
「食べないって言ってるでしょ!」
「白鬼なら味見と言って口に入れかねない」
「私を何だと思ってるの?」
「食べ物に関しては信用できないやつだ」
「ひどい!」
「でも、白鬼なら少し舐めるくらいはしそうです」
黒鬼が小さく言う。
「黒鬼まで!」
「す、すみません……」
すぐに謝った黒鬼を見て、白鬼は慌てて首を横に振った。
「怒ってないよ! ちょっと驚いただけ!」
「そうですか?」
「うん。それに、少しだけ味見したいと思ってたから……」
「やっぱり信用できないな」
紅蓮の言葉に、全員から笑いが漏れた。
食事を終えたあとは、交代で見張りをしながら休むことになった。
ガルトたちも見張りに加わると申し出たが、戦いに慣れている様子ではない。
シグマたちは彼らに先に休んでもらい、何かあったときだけ声をかけることにした。
最初の見張りは紅蓮とシルフ。
次が白鬼と黒鬼。
最後をシグマとハクが担当する。
フェルンは自分も見張りをすると言い張ったが、翌日の移動に備えて休むように言われ、シグマの隣で毛布に包まった。
「眠くない」
「目を閉じないと眠れないぞ」
「シグマはあとで寝るの?」
「ああ。交代まで少し休む」
「起きたらいなくならない?」
「見張りに行くだけだ。すぐ近くにいる」
「本当?」
「本当だ」
フェルンはシグマの服の裾を握ったまま、ようやく目を閉じた。
しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえ始める。
その夜は魔物が現れることもなく、静かに過ぎていった。
翌朝。
薄明るくなり始めた空の下で、シグマたちは野営の片づけを進めていた。
簡単な朝食を終え、馬車へ荷物を戻す。
ガルトの荷馬車も、補強した車輪に異常はなかった。
「これなら村まで持ちそうだ」
ガルトが車輪を確かめながら安堵の息を吐く。
「速度を出しすぎなければ大丈夫だ」
「ああ。今日もゆっくり進む」
二台の馬車は、朝日の昇り始めた街道へ戻った。
午前中は何事もなく進み、昼前には草原を抜ける。
周囲には畑が増え始め、街道沿いには低い石垣や用水路が見えるようになった。
「ローデン村が近いみたいやな」
シルフが前方を見つめる。
「村は見えるか?」
「まだ建物は見えへん。でも、畑で働いとる人がおる。ここからなら、あと一刻もかからんと思うで」
その言葉どおり、しばらく進むと遠くに木造の柵が見えてきた。
柵の内側には、赤や茶色の屋根が並んでいる。
村の中央からは、風車の大きな羽が空へ伸びていた。
「あれがローデン村だ」
先を走る荷馬車から、ガルトが声を上げる。
街道の両側には広大な畑が続き、多くの村人が作業をしている。
セルカ村よりも規模が大きく、行き交う荷車や旅人の姿も多い。
村の入口には二人の自警団員が立っていた。
ガルトの姿に気づくと、そのうちの一人が手を上げる。
「ガルト! ずいぶん遅かったな!」
「途中で車輪を落としたんだ! 後ろの冒険者たちが助けてくれた!」
二台の馬車は速度を落とし、村の入口へ近づいていく。
シグマは御者台の脇から身分証牌を取り出した。
荷台にいる仲間たちも、それぞれ自分の身分証牌を用意する。
ガルトたちの確認が終わり、次にシグマたちの番が来る。
自警団員は身分証牌と人数を確認し、ハクを見て驚いたものの、ガルトから事情を聞くとすぐに道を空けた。
「ようこそ、ローデン村へ。今夜は泊まっていくのか?」
「ああ。そのつもりだ」
「それなら、中央広場の近くにある『麦穂亭』へ行くといい。馬車も預けられる」
「分かった。ありがとう」
シグマが手綱を動かし、ノクスとソルを進ませる。
セルカ村を出発してから二日目の昼過ぎ。
シグマたちは次の目的地であるローデン村へ足を踏み入れた。
ローデン村の中へ入ると、最初に目に入ったのは、道の両側に並ぶ大きな倉庫だった。
開かれた扉の向こうには、麦の詰まった麻袋や木箱が積み上げられている。
荷車が行き交うたびに土埃が舞い、村人たちの掛け声や、荷を引く家畜の鳴き声が重なっていた。
「思っていたより大きな村だな」
紅蓮が荷台から周囲を見渡す。
「この辺りで採れた麦が、一度ここに集められるみたいやな」
シルフが中央にそびえる風車へ目を向けた。
「畑もかなり広かったし、近くの村からも運ばれてくるんやろ」
「パン、いっぱいあるかな?」
白鬼が期待に満ちた顔で身を乗り出す。
「白鬼。さっき紅蓮に注意されたばかりです」
隣にいた黒鬼が白鬼の服を掴み、荷台の中へ引き戻した。
「今度は落ちないようにしてたよ」
「落ちそうになってからでは遅いです。座って見ればいいでしょう?」
「黒鬼まで紅蓮みたいになってきたね」
「白鬼が何度も同じことをするからです」
黒鬼は困ったように言いながらも、白鬼の服についた埃を手で払った。
白鬼も嫌がることなく、そのまま黒鬼の隣へ座り直す。
「麦が多いなら、パンもおいしいよね?」
「たぶん。でも、食べすぎたら夕食が入らなくなります」
「黒鬼と半分ずつなら大丈夫だよ!」
「私も食べることになっているんですか?」
「一人で食べるより、二人で食べた方がおいしいでしょ?」
「それなら……半分だけです」
「やった!」
「まだ買うとも決まってないぞ」
紅蓮が二人の会話に口を挟む。
「宿に着いてから考えろ。先に馬車と部屋を確保する」
「分かってるよ!」
「返事だけはいいな」
先を走っていたガルトの荷馬車が、村の中央広場へ入っていく。
広場の周囲には宿屋や食堂、雑貨屋、鍛冶場などが並び、その一角では農作物を売る露店が開かれていた。
ガルトは鍛冶場の前で荷馬車を止めると、シグマたちへ振り返った。
「俺たちはここで車輪を直してもらう。本当に助かった」
「村まで持ってよかった」
「ああ。君たちがいなかったら、荷物を全部置いてくることになっていたかもしれない」
ガルトは荷馬車を降りると、シグマへ歩み寄った。
懐から小さな革袋を取り出し、差し出してくる。
「大した額ではないが、受け取ってくれ」
「必要ない。俺たちも同じ村へ向かう途中だったからな」
「しかし、それでは俺の気が済まない」
「昨日、夕食をご馳走になった。それで十分だ」
「あれだけで礼になるものか」
「なら、今後どこかで困っている旅人を見つけたら、その人を助けてやってくれ」
ガルトは差し出していた革袋を見つめた。
しばらくしてから、それを懐へ戻す。
「分かった。君たちから受けた恩は、次の誰かに返す」
「ああ。それでいい」
ガルトは頷き、仲間たちとともに鍛冶場へ向かった。
彼らと一緒にいた少女が途中で振り返り、紅蓮へ大きく手を振る。
「赤い髪のお姉ちゃん、またね!」
紅蓮は少し戸惑いながらも、片手を上げて応えた。
「気をつけて帰れよ」
少女が笑顔で鍛冶場へ入っていく。
その姿が見えなくなると、白鬼が紅蓮の顔を覗き込んだ。
「赤い髪のお姉ちゃんだって」
「聞こえてた」
「紅蓮、ちょっと嬉しそうだね!」
「別に普通だ」
「でも、ちゃんと手を振ってたよ」
「別れの挨拶を返しただけだろ」
紅蓮は白鬼の額を軽く指で弾いた。
「痛っ!」
「余計なことを言うからだ」
「照れてる!」
「次はもう少し強くするぞ」
白鬼は額を押さえながら黒鬼の後ろへ回った。
「黒鬼、紅蓮が怒った!」
「白鬼がからかうからです」
「黒鬼は私の味方じゃないの?」
「味方です。でも、今のは白鬼が悪いです」
「そんなあ」
口では不満そうに言いながらも、白鬼は黒鬼の肩へ顎を乗せた。
黒鬼も慣れているらしく、白鬼を押し退けようとはしない。
「白鬼、重いです」
「少しくらいいいでしょ?」
「宿に着くまでです」
「うん!」
「甘やかすから、白鬼が調子に乗るんだ」
紅蓮が呆れたように言う。
「白鬼を放っておくと、もっと騒ぎますから」
「黒鬼、ひどくない?」
「間違ってないでしょう?」
「間違ってないけど!」
黒鬼が小さく笑うと、白鬼も釣られるように笑った。
シグマは皆の様子を確認してから、中央広場の先にある宿屋へ馬車を進ませた。
麦の穂を模した看板には、自警団員から教えられた『麦穂亭』の名が刻まれている。
建物の横には屋根つきの厩舎があり、馬車を置けるだけの広さもあった。
宿の前で馬車を止めると、恰幅のいい宿主が中から出てきた。
「いらっしゃい。泊まりかい?」
「ああ。七人と、この二羽を頼みたい。それから、ハクも一緒だ」
シグマが馬車の横に立つハクを示す。
宿主はその巨体を見上げ、僅かに目を見開いた。
「ずいぶん大きいな。魔物じゃないんだろうね?」
「俺たちの仲間だ。人を襲うことはない」
「分かった。厩舎には入れないが、裏庭なら使っていい。ほかの客が驚かないようにだけしてくれ」
「助かる」
シグマは宿代と厩舎の使用料を支払った。
部屋は三室。
シグマとフェルン、白鬼と黒鬼、紅蓮とシルフに分かれることになった。
荷物を部屋へ運ぶ前に、シグマはノクスとソルを厩舎へ連れていく。
ハクは裏庭へ回り、日の当たる場所に身体を伏せた。
『ここで待っている』
「何かあったら呼んでくれ」
『分かった』
「僕もハクと一緒にいる!」
フェルンがハクの背中へ抱きつく。
「荷物を置いてからにしろ」
「僕の荷物は少ないよ?」
「少なくても、自分で運ぶんだ」
「はーい」
フェルンは名残惜しそうにハクから離れ、シグマとともに部屋へ向かった。
宿の二階にある部屋は、決して広くはなかった。
寝台が二つと、小さな机が一つ置かれている。
窓からは中央広場と、その向こうにある風車が見えた。
「セルカ村の宿より明るいね」
フェルンが窓を開け、外を覗く。
「人も多いからな。あまり身を乗り出すなよ」
「分かってる。落ちないよ」
「白鬼と同じことを言ってるぞ」
「僕は白鬼と違うもん」
フェルンはそう言いながらも、窓枠から少しだけ身体を離した。
荷物を置いたあと、全員が一階の食堂へ集まった。
ローデン村を出るのは明日の朝。
それまでに食料と水、薬などを補充する必要がある。
「まずは役割を決めよう」
シグマが卓上へ必要な物を書き出した紙を広げる。
「俺は雑貨屋で保存食と水を買う。フェルンも一緒に来るか?」
「行く!」
「なら、俺も行く」
紅蓮が答えた。
「荷物持ちが必要になるだろ。それに、シグマとフェルンだけで歩かせるのは危ない」
「ああ。頼む」
「うちはローデン村周辺の情報を集めてくるわ。自警団の詰め所なら、この先の街道についても分かるやろ」
シルフが紙に書かれた項目へ目を落とす。
「次の村までに危険な場所がないかも聞いてくる」
「白鬼と黒鬼はどうする?」
「私たちは薬を買ってくるよ!」
白鬼が元気よく手を上げた。
「薬草と包帯が減ってます。白鬼と一緒に薬屋を見てきます」
黒鬼も頷く。
「二人だけで大丈夫か?」
「大丈夫だよ。黒鬼がいるから!」
「白鬼が勝手にどこかへ行かなければ大丈夫です」
「行かないって!」
「食べ物を見つけてもです」
「それは……見るだけならいいでしょ?」
「先に薬を買います」
「分かったよ」
白鬼は少し残念そうに返事をした。
二人が並んで宿を出ようとしたところで、黒鬼が足を止める。
「白鬼」
「何?」
「お金は持ちましたか?」
白鬼が腰の小袋を確認する。
しかし、何度探しても見つからないらしく、表情が固まった。
「あれ?」
「部屋に置いてきたんですか?」
「たぶん……」
「私が持ってます」
黒鬼は自分の小袋を軽く持ち上げた。
「白鬼はよく忘れるので、二人分を入れておきました」
「さすが黒鬼!」
「戻るのが面倒だっただけです」
「やっぱり黒鬼は私のこと分かってるね!」
「ずっと一緒にいるんですから、分かります」
白鬼は嬉しそうに黒鬼の腕へ抱きついた。
「歩きにくいです」
「薬屋までこのままでいい?」
「人にぶつからないようにしてください」
「うん!」
二人は腕を組んだまま宿を出ていった。
その後、シグマたちも買い出しへ向かった。
中央広場には、採れたばかりの野菜や果物、焼きたてのパンを売る露店が並んでいる。
香ばしい匂いに、フェルンの鼻が何度も動いた。
「シグマ。あれ、何?」
「焼いたパンみたいだな」
「中に何か入ってる」
「肉を挟んでいるように見えるな」
「おいしそう……」
フェルンは露店を見つめたまま、立ち止まった。
「先に買い出しだ」
「見るだけだよ?」
「見ているだけで済む顔をしてないぞ」
「ちゃんと我慢できるもん」
フェルンの腹から、小さな音が鳴った。
紅蓮がそれを聞き、僅かに口元を緩める。
「一つくらい買ってやればいいだろ」
「もうすぐ夕食だぞ」
「三人で分ければ問題ない。俺も少し腹が減った」
「紅蓮も食べたいだけじゃないのか?」
「そうとも言う」
結局、肉を挟んだ小さなパンを二つ買い、三人で分けることになった。
フェルンは両手でパンを持ち、嬉しそうに頬張る。
「おいしい!」
「落とすなよ」
「落とさないもん」
食べ歩きながら雑貨屋へ向かい、保存食や飲み水、野営に使う油などを購入する。
セルカ村で多くの食料を残したため、出費は予定よりも増えた。
それでも、カルガランで受け取ったトロール討伐の報酬には余裕がある。
必要な物を削るほどではなかった。
宿へ戻る頃には、日が西へ傾き始めていた。
白鬼と黒鬼は既に戻っており、食堂の一角で買ってきた薬を確認している。
「おかえり!」
白鬼が手を上げる。
「必要な薬は買えたか?」
「うん! 包帯と傷薬、それから毒消しも買ったよ!」
「少し高かったですが、必要な物はそろいました」
黒鬼が卓上の薬を一つずつ袋へ戻していく。
その隣には、紙袋が一つ置かれていた。
中から甘い香りが漂っている。
「それは?」
紅蓮が紙袋へ目を向ける。
白鬼の肩が僅かに跳ねた。
「これは……」
「薬を買いに行ったんじゃなかったのか?」
「ちゃんと薬を買ってからだよ!」
「白鬼がずっと見ていたので、一つだけ買いました」
黒鬼が紙袋を開く。
中には蜂蜜を塗った丸いパンが入っていた。
「黒鬼も食べたかったんでしょ?」
「少しだけです」
「だから半分ずつにしたんだよ!」
「夕食前に食べすぎるな」
「大丈夫! シグマたちの分も残してあるよ!」
白鬼はパンを小さく分け、全員へ差し出した。
シルフも自警団の詰め所から戻り、席へ着く。
「ちょうどええところに戻ってきたみたいやな」
「シルフの分もあるよ!」
「ありがとな」
全員でパンを分けたあと、シルフが集めてきた情報を話し始めた。
「この先の街道は、しばらく北西へ進むらしい。道自体は整備されとるけど、二日ほど先から森が増えるそうや」
「魔物は?」
「小型の魔物は出る。ただ、最近になって急に数が増えたとか、強い個体が現れたっちゅう話はないみたいや」
「追っ手らしい連中は来ていないか?」
「それも聞いてみたけど、黒い鎧を着た騎士や、不審な集団の目撃情報はない。せやけど、村に入らず街道を通り過ぎる連中までは分からへんそうや」
「当然だな」
紅蓮が腕を組む。
「何もないと決めつけるのは危険だが、今のところ追いつかれた様子はない。それだけ分かれば十分だ」
「ああ。明日は予定どおり、夜明け後に出発しよう」
シグマの言葉に、全員が頷いた。
夕食は麦を使った濃いスープと、焼きたてのパンだった。
白鬼は何度もパンをおかわりしようとしたが、三つ目を取ろうとしたところで黒鬼に手を押さえられた。
「白鬼。さっき蜂蜜のパンも食べたでしょう?」
「これは夕食だから別だよ」
「お腹が痛くなっても知りません」
「黒鬼が治してくれるでしょ?」
「食べすぎは治しません」
「一個だけ!」
「半分にしましょう」
「残りの半分は?」
「私が食べます」
「黒鬼も食べたいんじゃん!」
「白鬼が食べすぎないようにするためです」
そう言いながら、黒鬼はパンを半分に割った。
白鬼は笑顔で片方を受け取り、黒鬼と同時に口へ運ぶ。
「やっぱり黒鬼も食べたかったんだよ」
「違います」
「顔がちょっと嬉しそうだもん」
「白鬼の気のせいです」
黒鬼は否定したが、白鬼の言うとおり、その表情は僅かに緩んでいた。
食事を終えたあとは、それぞれの部屋で休むことになった。
交代で見張りをする必要はないものの、念のため窓と扉の鍵を確認し、何かあればすぐに全員を起こすことにした。
その夜は騒ぎも起こらず、静かに過ぎていった。
翌朝。
まだ朝靄の残るローデン村で、シグマたちは出発の準備を進めていた。
購入した食料や薬を馬車へ積み、ノクスとソルを厩舎から連れ出す。
二羽の体調にも問題はない。
ハクも裏庭から姿を現し、大きく身体を伸ばした。
『よく眠れた』
「僕も!」
フェルンがハクの首元へ抱きつく。
「今日は馬車に乗るんだぞ」
「分かってる。途中でハクにも乗っていい?」
「休憩のときならな」
「約束だよ!」
「ああ」
白鬼と黒鬼も宿から出てきた。
二人はそれぞれ荷物を抱えているが、白鬼の方だけ袋が大きい。
紅蓮がそれに気づき、眉を寄せた。
「白鬼。その袋には何が入ってる?」
「朝ご飯の残りだよ!」
「そんなに残ったのか?」
「宿の人が、道で食べるようにってパンをくれたの!」
「白鬼が欲しそうに見ていたからです」
黒鬼が隣から付け加える。
「お願いはしてないよ!」
「何度もパンと宿の人を交互に見ていました」
「だって、おいしそうだったから!」
「物欲しそうにしていたんだろ」
紅蓮が呆れたように言う。
「ちゃんとお礼は言ったよ!」
「なら、途中で皆に分けろ。一人で食べるなよ」
「分かってるって!」
「私が預かります」
黒鬼が白鬼の持っていた袋へ手を伸ばす。
「私が持つよ?」
「白鬼が持っていたら、村を出る前になくなりそうです」
「食べないよ!」
「本当ですか?」
「……一個だけなら食べるかも」
「やっぱり私が持ちます」
「半分持つ!」
「では、一つだけお願いします」
黒鬼は袋からパンを一つ取り出し、白鬼へ渡した。
「どうして一つだけなの?」
「二人で半分ずつ持ったら、白鬼の方が途中で軽くなりますから」
「黒鬼、私のこと分かりすぎじゃない?」
「双子ですから」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
全員の荷物を積み終えると、シグマは宿主へ鍵を返した。
「世話になった」
「また近くに来たら寄ってくれ。道中、気をつけるんだよ」
「ああ」
シグマが御者台へ乗り、隣にフェルンが座る。
紅蓮、白鬼、黒鬼、シルフも荷台へ乗り込んだ。
ハクが馬車の横についたことを確認してから、シグマは手綱を動かす。
ノクスとソルがゆっくりと歩き始めた。
早朝の中央広場を抜け、村の出口へ向かう。
荷物の積み下ろしを始めた商人や、畑へ向かう村人たちの間を馬車が進んでいった。
村の入口では、昨日とは別の自警団員が立っていた。
「もう出発か?」
「ああ。先を急ぐ」
「この先は畑を抜けたあと、少しずつ森が増える。日暮れ前には野営場所を決めた方がいい」
「分かった。ありがとう」
自警団員が柵の脇へ移動し、道を空ける。
ノクスとソルが村の外へ踏み出した。
朝露に濡れた畑の間を、一本の街道が北西へ延びている。
「次は何があるかな?」
フェルンが遠くの道を見つめる。
「何も起きないのが一番なんだがな」
「でも、それだと少しつまらないよ」
「危険なことが起きるよりはいいだろ」
「それはそうだけど……」
荷台から白鬼が顔を出す。
「私は、おいしいものがある村なら何も起きなくてもいいよ!」
「白鬼は食べ物のことばかりやな」
シルフが笑う。
「旅の楽しみだよ!」
「その楽しみのためにも、食料は計画的に食べろ」
紅蓮が白鬼をたしなめる。
「分かってるって!」
「黒鬼。白鬼が勝手に食べないように見ておけ」
「はい。食料は私が持っています」
「黒鬼、私のこと信用してないの?」
「信用しています。でも、食べ物が近くにある白鬼は別です」
「それ、信用してないよ!」
黒鬼が静かに笑い、白鬼も頬を膨らませながら隣へ座り直した。
賑やかな声を乗せた馬車は、朝の街道を進んでいく。
ローデン村の風車と屋根が少しずつ遠ざかり、やがて広がる畑の向こうへ隠れていった。
短い滞在を終えたシグマたちは、アルスラへ続く次の道へ進み始めた。




