第二十四話 静まり返った街道
カルガランを出発してから、二時間ほどが過ぎていた。
朝日に照らされた街道を、ノクスとソルが軽快な足取りで進んでいる。
二羽が地面を蹴るたびに車輪が回り、荷台が小さく揺れた。
御者台ではシグマが手綱を握り、その隣にはフェルンが座っている。
城壁の外で合流したハクは、馬車のすぐそばを走っていた。
しばらく馬車と並んで進んだかと思えば、急に速度を上げて先行し、街道の左右に広がる草原や森の様子を確かめる。
何もなければ、再び馬車のそばまで戻ってくる。
それを何度も繰り返していた。
「ハク、遠くに行ったら駄目」
フェルンが御者台から身を乗り出す。
『周囲を見ているだけだ』
ハクの言葉が、シグマの意識へ直接届く。
その言葉を理解できるのは、シグマとフェルンだけだった。
ほかの仲間たちには、ハクが短く喉を鳴らしたようにしか聞こえていない。
「一人で行くの、危ない」
『私は一人でも問題ない』
「駄目。何かあったら呼ぶって約束した」
『それはシグマと私の約束だ』
「フェルンとも約束する」
『なぜだ』
「フェルンも心配するから」
ハクは走りながら、フェルンへ顔を向けた。
しばらく黙っていたが、やがて諦めたように前を向く。
『分かった。何かあれば呼ぶ』
「遠くに行くときも?」
『先に言う』
「勝手に魔物と戦わない?」
『それは状況による』
「駄目」
『細かいな』
「シグマを監視してるから、上手になった」
「俺のせいなのか?」
手綱を握っていたシグマが口を挟む。
「シグマ、勝手にいなくなる」
「もうしないと約束しただろ」
「だから、ハクも約束する」
『私はシグマとは違う』
「どこが?」
『私は自分の限界を知っている』
「それは否定できないな」
「シグマより、ハクの方がいい子?」
『当然だ』
ハクが得意そうに頭を上げる。
「ハク、自分の方がいい子だって」
「わざわざ伝えなくていい」
「本当のことだから」
「少しくらい否定してくれてもいいんじゃないか?」
『なぜ嘘をつく必要がある』
「ハク、やっぱり自分の方がいい子だって」
「聞こえてるから分かる」
「フェルンもそう思う」
一人と一頭が納得したように頷く。
シグマは何も言い返せず、前方へ視線を戻した。
荷台から二人の会話を聞いていたのか、シルフの笑い声が聞こえてくる。
「なんや、またハクとフェルンに言い負かされたんか?」
「聞こえていたなら分かるだろ」
「フェルンの声しか聞こえへんから、ハクが何を言うたかまでは分からん。でも、だいたい想像はつくわ」
シルフが荷台から顔を出し、得意そうに走るハクを見た。
「どうせ、シグマより自分の方がしっかりしとるとか言うたんやろ?」
「だいたい合ってる」
「ほらな」
「どうして分かるんだ?」
「ハクの顔を見れば分かる。めっちゃ得意そうやもん」
ハクはシルフの声に反応して顔を向けたものの、そのまま何事もなかったように前を向いた。
「身体は平気か?」
シルフがシグマへ尋ねる。
「ああ。痛みはない」
「それならええけど、昼の休憩で御者は代わるで」
「分かってる」
「ずいぶん素直になったな」
「全員から同じことを言われるのにも慣れた」
「倒れるまで無茶するより、素直に聞く方がええ」
「ああ。そのつもりだ」
シグマが抵抗せずに答えると、シルフは僅かに目を見開いた。
「ほんまに変わったな」
「何か不満なのか?」
「別に不満やないけど、素直すぎると逆に調子が狂うわ」
「なら、御者は代わらなくてもいいか?」
「それはあかん」
「結局、代わるのか」
「当たり前や」
シルフは笑いながら荷台へ戻っていった。
シグマは手綱を動かし、ノクスとソルの歩調を整える。
空は晴れ、街道の先まで遮るものはない。
背後を振り返っても、すでにカルガランの城壁は見えなくなっていた。
一か月近く滞在した街を離れた実感が、少しずつ湧いてくる。
隣に座るフェルンは、ときおり後ろを振り返っていた。
「メイメイが気になるのか?」
「……少し」
「今頃は、ラトナへ戻る準備をしている頃だろうな」
「もう馬車に乗った?」
「昼に出ると言っていた。まだカルガランにいると思う」
「そう」
フェルンは小さく答え、見えなくなった街の方角を見つめた。
先ほどまで立っていた狼耳が、僅かに伏せられている。
「寂しいか?」
「少しだけ」
「ああ。俺もだ」
「シグマも?」
「長い間、世話になったからな。それに、あれだけ一緒にいれば、いなくなったら寂しくもなる」
「また会える?」
「約束したんだろ?」
「うん」
「なら、また会える」
フェルンは少し考えてから頷いた。
「次に会ったら、フェルンがお世話する」
「メイメイの?」
「うん。いっぱいお世話してもらったから、次はフェルンがお世話する」
「それなら、できることを増やさないとな」
「荷物、運べる」
「ああ」
「水も持っていける」
「そうだな」
「シグマの監視もできる」
「それはメイメイの世話と関係ないだろ」
「大事なこと」
フェルンは真剣な表情で言い切った。
馬車の前方を走っていたハクの耳が動く。
『あの女は、予定どおりラトナへ戻るのか』
「ああ。メイメイには向こうで仕事があるからな」
『そうか』
「ハクも寂しい?」
フェルンが尋ねると、ハクは僅かに速度を上げた。
『別に寂しくはない』
「本当?」
『ただ、いなくなれば少し静かになるとは思っている』
「それ、寂しいってこと?」
『違う』
「メイメイ、いっぱい話すから?」
『そうだ』
「笑って、いっぱい話す」
『ああ』
「もう声、聞けない」
『……また会えば聞ける』
「やっぱり寂しい?」
『フェルン。少し静かにしろ』
ハクは追及から逃れるように速度を上げ、馬車の前へ出た。
「ハク、逃げた」
「からかいすぎたんじゃないか?」
「からかってない。本当のことを聞いただけ」
「それが嫌だったんだろ」
フェルンは納得できない様子で首を傾げた。
シグマは前方を走るハクへ目を向ける。
白銀の尻尾は僅かに持ち上がり、左右へ大きく揺れていた。
その姿を見ていると、ハクが本当にメイメイとの別れを何とも思っていないようには見えない。
それでも、わざわざ指摘する必要はないだろう。
シグマは小さく笑い、前方へ視線を戻した。
それからしばらく、一行は穏やかな街道を進み続けた。
街道の左右には草原が広がり、その向こうには低い丘や森が見える。
吹き抜ける風が草を揺らし、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
追っ手が現れる気配も、魔物が近づいてくる様子もない。
久しぶりに戻ってきた、何事も起こらない旅の時間だった。
昼前になると、街道沿いに石造りの水飲み場が見えてきた。
そのそばには数本の大きな木が並び、旅人が休める広場も整えられている。
「ここで休憩しよう」
シグマが手綱を引いた。
ノクスとソルが速度を落とし、水飲み場の近くで足を止める。
ハクも広場へ戻り、大きな木の下へ座った。
仲間たちは次々と荷台から降り、それぞれ身体を伸ばす。
「ハク!」
フェルンは御者台から降りると、そのままハクへ駆け寄った。
白銀の身体へ抱きつき、柔らかな毛へ顔を埋める。
「やっと触れる」
『走っている最中に触ろうとするな』
「分かってる」
『本当に?』
「たぶん」
『分かっていないではないか』
ハクは呆れたように答えながら、その場へ伏せた。
フェルンが寄りかかりやすいよう、前足を伸ばして身体を傾ける。
「ハク、ふわふわ」
『暑い』
「フェルンは暑くない」
『私が暑い』
「少しだけ」
『もう抱きついているだろう』
嫌がっているような言葉とは違い、ハクはフェルンを振り払おうとはしなかった。
フェルンもそれが分かっているのか、嬉しそうにハクの首元へ頬を擦り寄せている。
「なんや、ハクもフェルンには甘いな」
シルフが二人の様子を見て笑う。
ハクが片目だけを開け、シルフを見た。
だが、何も伝わらないと分かっているのか、すぐにシグマへ視線を移す。
『お前よりは言うことを聞く』
「どうして俺を見るんだ?」
「ハク、シグマよりフェルンの方が言うことを聞くって」
フェルンが代わりに伝える。
「わざわざ通訳しなくても、視線で何となく分かった」
『なら、覚えておけ』
「まだ何か言うてるん?」
シルフが尋ねる。
「俺よりフェルンの方が言うことを聞くから、覚えておけと」
「それはハクの言うとおりやな」
「シルフまでハクの味方をするのか?」
「事実を言うとるだけや」
「厳しいな……」
紅蓮と白鬼がノクスとソルへ水を与え、装具に緩みがないかを確認する。
黒鬼は荷台から水筒を集め、水飲み場へ向かった。
シルフは大きな木の根元へ座り、カルガランの冒険者ギルドで書き写した街道の地図を広げる。
「このまま順調に進めば、夕方には野営地へ着くはずや」
「次の村までは?」
シグマが隣へ腰を下ろす。
「今日一日では無理や。今夜は街道沿いで野営して、明日の夕方には着けると思う」
「ギルドから聞いた話と変わっていないんだな?」
「せや。最近は雨も降っとらんし、街道が崩れたって報告もない」
シルフは地図の上を指でなぞる。
「ただ、森に近い道を通るから、魔物には注意せなあかん。街道沿いなら危険な魔物は少ないらしいけどな」
「追っ手もいる」
紅蓮が会話に加わった。
「街道が安全でも、私たちにとって安全とは限らない」
「ああ。警戒は続けよう」
シグマはハクへ目を向ける。
「ハク。走り続けて疲れていないか?」
『この程度で疲れるほど弱くない』
「そうか。なら、引き続き周囲を見てもらえるか?」
『そのつもりだ』
「ただし、何か見つけても一人で追わないでくれ」
『分かっている』
「本当に?」
フェルンがハクの毛へ顔を埋めたまま尋ねる。
『さっき約束しただろう』
「なら大丈夫」
ハクの返事に、フェルンは満足そうに頷いた。
「ハクは何て言ったんだ?」
紅蓮が尋ねる。
「何か見つけても一人では追わないと約束してくれた」
シグマが答えると、紅蓮はハクへ目を向けた。
「そうか。頼んだぞ、ハク」
言葉は伝わらなくても、呼びかけられたことは理解したのか、ハクは紅蓮へ顔を向けて一度だけ頷いた。
宿で用意してもらったパンと干し肉、野菜を挟んだ簡単な昼食を全員で取る。
食事を終えた後も、フェルンはハクへ寄りかかったまま離れなかった。
ハクも前足の上へ顎を乗せていたが、その耳だけは周囲の音を拾うように動き続けている。
やがて、シグマは街道の前後へ目を向けた。
広場へ到着してから、それなりの時間が経っている。
しかし、誰も水場へ立ち寄らない。
街道を通る馬車も、旅人の姿もなかった。
「シルフ」
「なんや?」
「この街道は、普段からこれくらい静かなのか?」
「いや。カルガランと周辺の村を結ぶ道やから、行商人や旅人が使っとるはずや」
シルフも街道へ目を向け、僅かに眉を寄せる。
「そう言われると、朝から誰ともすれ違っとらんな」
「早い時間に出たからだと思っていたが、もう昼前だ」
「一台くらいは会ってもおかしくないな」
紅蓮も周囲を見渡した。
水場の地面には、馬車の車輪や人の足跡がいくつも残っている。
だが、どれも輪郭が崩れ、薄く乾いていた。
今日ついたと思われる新しい跡はない。
「ハク」
シグマが声をかけると、ハクはすぐに顔を上げた。
「この水場に残っている匂いは、どれくらい前のものだ?」
ハクは立ち上がり、周辺の地面や水飲み場の匂いを確かめた。
『いくつもの匂いが混ざっている』
「新しいものは?」
『昨日か、その前だ。今日ここへ立ち寄った者はいない』
「俺たち以外は?」
『いない』
シグマの表情が僅かに険しくなる。
「ハクは何て?」
白鬼が尋ねる。
「今日、ここへ立ち寄った者はいないらしい。残っている匂いも昨日か、その前のものだ」
その言葉を聞き、仲間たちの表情も引き締まった。
「街道が封鎖された可能性は?」
白鬼が尋ねる。
「それなら、カルガランを出るときに止められるはずや」
シルフが答えた。
「ギルドからも、そんな話は聞いとらん」
「たまたま、誰も通っていないだけかもしれません」
黒鬼が補充した水筒を運びながら戻ってくる。
「その可能性もある。今の段階では何とも言えないな」
シグマはそう答えた。
ただ、カルガランへ通じる街道で、半日近く誰とも会わないのは不自然だった。
「ここからは、少し警戒を強めよう」
紅蓮の言葉に、全員が頷いた。
休憩を終えると、シグマは紅蓮と御者を交代した。
荷台へ戻ったシグマの隣にはフェルンが座り、その反対側には黒鬼が腰を下ろす。
ハクは再び馬車の前方へ出た。
先ほどまでよりも速度を抑え、何度も道の左右へ顔を向けながら進んでいる。
街道の景色に、目立った変化はなかった。
草原には風が吹き、遠くでは鳥の声が聞こえる。
それでも、人の姿だけが見当たらない。
一時間ほど進んでも、誰ともすれ違わなかった。
「やっぱり変やな」
シルフが荷台の後方から、遠ざかる街道を見つめる。
「カルガランへ向かう旅人が一人もおらん」
「皆、別の道を使ってるとか?」
白鬼が尋ねる。
「次の村へ向かうなら、この街道を使うのが一番早い。それに別の道へ入るような分かれ道も、ここまではなかった」
「だったら、昨日から何かあったのかな」
「その可能性はあるな」
紅蓮は手綱を握りながら、前方を走るハクへ目を向けた。
ハクは何度も街道脇へ顔を向け、匂いを確かめている。
やがて、その足が僅かに遅くなった。
白銀の耳が前を向き、尻尾が低く下がる。
「ハク?」
フェルンも異変に気づき、荷台から顔を出した。
ハクは返事をしない。
何かの匂いを追うように、街道の右側へ少しずつ寄っていく。
そして突然、その場で足を止めた。
『止まれ』
鋭い言葉が、シグマとフェルンへ届いた。
「止まって!」
フェルンが叫ぶ。
ほぼ同時に、シグマも荷台から身を乗り出した。
「紅蓮、馬車を止めてくれ!」
紅蓮がすぐに手綱を引く。
「ノクス、ソル!」
二羽が速度を落とし、馬車がゆっくりと停止した。
シグマたちは武器へ手を伸ばし、周囲を警戒しながら荷台を降りる。
「どうした、ハク?」
『人の匂いがする』
「誰かいるのか?」
『姿は見えない』
「人の匂いがするらしい。ただ、姿は見えないそうだ」
シグマが仲間たちへ伝える。
ハクは街道脇の草むらへ歩いていく。
背の高い草の前で足を止め、低く鼻を鳴らした。
『この奥だ』
「この奥に匂いが続いている」
「全員、周囲を警戒しろ」
紅蓮の言葉に、全員が頷く。
馬車を街道脇へ寄せ、ノクスとソルを落ち着かせてから、ハクが示した草むらを確認する。
街道から数歩離れた場所に、土で汚れた茶色い外套が落ちていた。
その少し先には革製の鞄と、片方だけの靴が転がっている。
「旅人の物か?」
紅蓮が周囲へ視線を巡らせる。
シグマは鞄の前へ屈み、中身を確認した。
保存食、着替え、小さな水筒。
底の方には、銀貨の入った袋も残されている。
「金は盗まれていない」
「盗賊やないってことか?」
シルフが弓を手にしながら尋ねる。
「盗賊なら、鞄ごと持っていくはずだ」
白鬼が外套の周囲を調べる。
「血もついてない。争ったような跡もないね」
「自分から森へ入ったんでしょうか」
黒鬼が木々の方へ目を向けた。
「それなら、どうして靴まで残したんだ?」
紅蓮が片方だけの靴を拾い上げる。
ハクは外套へ鼻先を近づけ、残された匂いを慎重に嗅いだ。
『一人だ』
「この荷物の持ち主か?」
『おそらく』
「いつ頃の匂いか分かるか?」
『昨日か、その前だ』
シグマは顔を上げ、仲間たちへ説明する。
「荷物の持ち主は一人だ。匂いが残されたのは、昨日かその前らしい」
「その人の匂いは、どこへ続いてるの?」
白鬼が尋ねる。
シグマがハクへ目を向けると、ハクは地面へ鼻先を近づけ、ゆっくりと森の入り口へ向かっていった。
草の間には、人が歩いたような跡が残されている。
『森へ続いている』
「森の中だ」
シグマは木々の奥を見つめた。
まだ日は高い。
だが、木々が密集した森の中は薄暗く、外からでは奥の様子を確認できない。
「どうする?」
紅蓮が尋ねる。
「まず、入り口だけ確認する」
シグマはすぐに役割を決めた。
「俺とシルフ、ハクで匂いを追う。ただし、街道から馬車が見える範囲までだ」
「私も行く」
フェルンがシグマの外套を掴む。
「フェルンは紅蓮たちと馬車のそばにいてくれ」
「どうして?」
「この荷物を残した者が一人とは限らない。森へ入ったのが一人でも、ほかに仲間がいるかもしれない」
「でも……」
「ハクも一緒だ。何かあればすぐに戻る」
フェルンは不安そうにシグマとハクを見比べた。
『心配するな。遠くへは行かない』
「約束したから?」
『そうだ』
ハクが答えると、フェルンは迷いながらも頷いた。
「絶対、戻ってきて」
「ああ」
『すぐに戻る』
「ハクも、すぐ戻るって」
「分かった。ここは私たちに任せろ」
紅蓮、白鬼、黒鬼、フェルンが馬車とノクスたちの警戒に残る。
シグマとシルフは、ハクの後を追って森へ入った。
地面には、確かに人の足跡が続いている。
だが、まっすぐには進んでいなかった。
左右へ何度も揺れ、ときおり同じ場所を歩き回っている。
「迷っとったんかな?」
シルフが足跡を確認する。
「森へ入ってすぐの場所だ。街道はまだ見えている」
「せやな。迷うには早すぎる」
ハクは慎重に匂いを追い続ける。
街道から数十歩ほど進んだところで、大きな木の前へ辿り着いた。
そこでハクの足が止まる。
『ここまでだ』
「ハクが止まった。匂いはここまでらしい」
シグマが伝えると、シルフも地面を確認した。
「足跡も消えとるな」
シグマは大木の周囲を見渡す。
引き返した跡はない。
木に登った形跡もなく、何かに引きずられた跡もなかった。
ただ、人の足跡だけが大木の前で突然途切れている。
「ハク。匂いは?」
『同じだ。ここで消えている』
「そんなことがあるのか?」
『普通はない』
「匂いも、ここで完全に消えているそうだ」
「引き返したわけでもないんやな?」
「ああ。ハクにも追えないらしい」
シルフが片目を閉じ、神の目で周囲を見渡す。
その表情が、僅かに険しくなった。
「シグマ」
「何か見えるのか?」
「薄い魔力の痕跡がある」
シルフは大木の前から森の奥へ視線を動かした。
「ここから奥へ流れとる。せやけど、薄すぎてどこまで続いとるか分からへん」
「人の魔力か?」
「分からん。少なくとも、普通に歩いただけで残るようなもんやない」
そのとき、ハクが顔を上げた。
森の奥から流れてくる風の匂いを確かめるように、鼻先を何度か動かす。
白銀の毛が僅かに逆立った。
『妙な匂いがする』
「どんな匂いだ?」
『甘い』
「花か?」
『違う。花でも、獣でも、人でもない。知らない匂いだ』
ハクは森の奥を睨み、低く唸った。
『近づかない方がいい』
「危険なのか?」
『分からない。だが、この匂いを嗅ぎ続けたくない』
シグマは僅かに眉を寄せた。
「ハクは何て言うとるん?」
「森の奥から、花でも獣でも人でもない、甘い匂いがするらしい」
「甘い匂い?」
「ああ。ハクも知らない匂いだ。それに、これ以上近づきたくないと言っている」
シルフの表情からも、僅かに余裕が消えた。
「ハクがそこまで嫌がるなら、普通やないな」
「ああ」
ハクが自分から警戒を促している。
それだけで、森の奥にいる何かが普通の魔物ではないと分かった。
「シルフ。魔力の痕跡を、ここから追えるか?」
「無理や。もっと奥へ入らんと見えへん」
「そうか」
シグマは一度、森の奥へ目を向けた。
消えた旅人が、この先にいる可能性はある。
今すぐ追えば助けられるかもしれない。
だが、相手の正体も、森の中で何が起きたのかも分からない。
馬車にはフェルンたちが待っている。
追っ手の脅威が残る中で、全員を長く街道へ留めるわけにもいかなかった。
「戻ろう」
シグマが告げる。
シルフが少し驚いたように顔を向けた。
「追わんでええのか?」
「今のまま奥へ入るのは危険だ。それに、荷物の持ち主が誰なのかも分からない」
「次の村で話を聞くんやな?」
「ああ。持ち主を知っている者がいるかもしれない。調べるなら、情報を集めて準備を整えてからだ」
「前やったら、一人でも追いかけとったんやない?」
「そうかもしれないな」
「ほんまに反省したんやな」
「何度も説教されたからな」
シルフは安心したように弓を下ろした。
「それなら戻ろか。うちも、このまま進むんは賛成できへん」
ハクも森の奥を睨みながら、ゆっくりと後退する。
『早く離れた方がいい』
「ハクも、早く離れた方がいいと言っている」
「なら、急ごか」
三人が街道へ戻ると、フェルンがすぐに駆け寄ってくる。
「シグマ!」
「大丈夫だ。何もなかった」
「ハクも?」
『問題ない』
「問題ないって」
フェルンはシグマとハクの姿を確かめ、ようやく外套から手を離した。
「何か分かったか?」
紅蓮が尋ねる。
「人の足跡は、森へ入ってすぐの場所で途切れていた。ハクも、その先の匂いを追えなかった」
「神の目では、薄い魔力の痕跡が見えた」
シルフが続ける。
「森の奥へ流れとったけど、ここから追うんは無理や」
「それから、森の奥から知らない匂いがしたらしい」
シグマがハクへ目を向ける。
「花でも獣でも、人でもない甘い匂いだ。ハクがこれ以上嗅ぎたくないと言うほど警戒している。今は森へ入らない方がいい」
紅蓮は森と街道を交互に見た。
「私も賛成だ。まずは次の村へ向かおう」
「この荷物はどうするの?」
白鬼が尋ねる。
「持っていく。村に持ち主を知っている者がいるかもしれない」
鞄と外套、片方だけの靴を荷台へ積み込む。
元の場所が分からなくならないよう、シグマは街道脇の目印になる木と森の位置を地図へ書き加えた。
全員が馬車へ戻った後も、ハクだけは森へ顔を向けていた。
「ハク」
『何だ』
「まだ匂うのか?」
『ああ。先ほどよりは薄いが、消えてはいない』
「何かが近づいてくる様子は?」
『ない』
「そうか。なら、村へ向かおう。何かあればすぐに教えてくれ」
『分かった』
ハクは森に背を向け、馬車の前方へ移動した。
「ハクは何て?」
フェルンが尋ねる。
「匂いはまだ残っているが、何かが近づいてくる気配はないそうだ」
「なら、大丈夫?」
「今すぐ追ってくるものはいない。ただ、ここから離れるまでは気を抜かない方がいい」
「うん」
紅蓮が手綱を動かし、ノクスとソルが再び歩き始める。
止まっていた車輪が回り、馬車は街道へ戻った。
シグマは荷台から、遠ざかっていく森を見つめた。
木々の間には、誰の姿も見えない。
だが、あの場所で人の足跡と匂いが突然消えたことは間違いなかった。
消えた旅人は、どこへ行ったのか。
森の奥へ流れていた魔力は何なのか。
そして、ハクが嫌がった甘い匂いの正体は何なのか。
答えは何一つ分からない。
ただ一つ分かるのは、誰ともすれ違わないこの街道で、何かが起きているということだけだった。
馬車が森から離れてからも、誰一人としてすぐには口を開かなかった。
車輪が地面を踏む音と、ノクスとソルの足音だけが、静まり返った街道に響いている。
ハクは馬車の先頭を走っていた。
先ほどまでのように街道の左右を行き来することはなく、速度を抑えたまま、何度も風の匂いを確かめている。
荷台では、シグマが回収した鞄を改めて調べていた。
保存食や着替え、水筒のほかに、短い縄や火打ち石、使い込まれた小刀が入っている。
どれも旅に必要な物ばかりだった。
鞄の底から出てきた銀貨も、一枚も抜き取られた様子はない。
「名前の分かる物はないの?」
隣に座る白鬼が尋ねる。
「今のところは見つからない」
シグマは着替えを一枚ずつ持ち上げ、鞄の底まで確認した。
「ギルドカードや身分証牌も入ってないな」
「持ち主が身につけたまま、森に入ったんでしょうか」
黒鬼が外套を広げながら言う。
「その可能性はある。ただ、自分から森へ入ったなら、鞄も持っていくはずだ」
「それに、靴まで片方だけ残す理由もないね」
白鬼が荷台の隅に置かれた靴へ目を向ける。
シルフは荷台の後方から、遠ざかっていく森を眺めていた。
「魔物に襲われたにしても、血も争った痕もない。何かに操られて、自分から森へ入ったんやろか」
「操られた?」
フェルンの狼耳が不安そうに伏せられる。
「可能性の話や。まだ決まったわけやない」
シルフが慌てて付け加えた。
「怖がらせるようなこと言わんといて」
「怖くない」
そう答えながらも、フェルンはシグマの外套を掴んだ。
シグマは鞄を閉じると、その手をそっと握る。
「大丈夫だ。今は森から離れている」
「うん」
「今夜の野営地も、森から離れた場所を選ぼう」
御者台から会話を聞いていた紅蓮が振り返る。
「予定していた野営地は、この先だったな?」
「せや。街道沿いに旅人向けの野営地がある。小さな井戸と、雨風を避けるための小屋もあるらしい」
シルフが地図を確認する。
「この速度なら、日が暮れる前には着けるはずや」
「周囲を確認して、危険なら別の場所を探そう」
紅蓮の言葉に、全員が頷いた。
それからも一行は、周囲を警戒しながら街道を進み続けた。
しかし、日が傾き始めても、カルガランへ向かう馬車とは一台もすれ違わなかった。
道の途中には新しい車輪の跡が残っている。
誰も街道を使っていないわけではない。
それでも、その跡を残した馬車の姿は見えなかった。
「この車輪の跡、同じ方向へ進んでるね」
白鬼が荷台から地面を見つめる。
「ああ。俺たちと同じく、セルカ村へ向かっている」
シグマも車輪の跡を確認した。
跡は一台分。
昨日か、早くても一昨日についたものだろう。
昼に見つけた鞄の持ち主とは別に、先を進んでいる者がいる可能性がある。
「その馬車に追いつけば、何か聞けるかもしれんな」
シルフが言う。
「ただし、急いで追うのは危険だ」
紅蓮はノクスとソルの速度を上げなかった。
「何が起きているか分からない以上、体力を残しておいた方がいい」
「ああ。そのままの速度で進んでくれ」
シグマは前方を走るハクへ目を向ける。
今のところ、ハクが何かに反応する様子はない。
だが、白銀の耳は休むことなく動き続けていた。
やがて太陽が西へ傾き、街道が薄い橙色に染まり始める。
その頃になって、前方に小さな木造の小屋が見えてきた。
「あれや」
シルフが地図と前方を見比べる。
「予定してた野営地で間違いない」
小屋の隣には石組みの井戸があり、その周囲だけ草が短く刈られている。
馬車を数台止められるほどの広さもあった。
だが、野営地へ近づいたハクが突然足を止めた。
『誰かいた』
その言葉が、シグマとフェルンへ届く。
「いた?」
フェルンが身を乗り出す。
『今はいない。だが、匂いが残っている』
「紅蓮、少し待ってくれ」
シグマの声に、紅蓮が手綱を引いた。
野営地から少し離れた場所で、馬車が止まる。
「ハクが、誰かの匂いを見つけたらしい」
「今も人がいるのか?」
「いや。匂いが残っているだけだ」
シグマは荷台から降りた。
「まず俺とハクで確認する。シルフは神の目で周囲を見てくれ」
「分かった」
「一人で行かないって約束した」
フェルンも荷台から飛び降りる。
「ここから見える距離だ。それにハクもいる」
「フェルンも行く」
「だったら俺から離れないでくれ」
「うん」
シグマとフェルンは、ハクの後を追って野営地へ向かった。
シルフも弓を手に持ち、少し離れた場所から三人に続く。
紅蓮、白鬼、黒鬼は、馬車とノクスたちの警戒に残った。
野営地には人の姿がない。
だが、小屋の前には一台の荷馬車が止まっていた。
荷台には雨よけの布がかけられ、後部から木箱がいくつも見えている。
馬車を牽いていたはずの馬は、どこにもいなかった。
「置き去りにされたみたいやな」
シルフが周囲を見渡す。
「でも、壊れとるようには見えへん」
車輪も車軸も無事だった。
馬車の前方には切られた手綱が垂れ下がっていたが、切断面は乱れている。
刃物で切ったのではなく、強い力で無理やり引きちぎられたように見えた。
「馬だけ逃げたのか?」
シグマは御者台を確認する。
座席には外套が一枚置かれ、その足元には水筒が転がっていた。
争った痕跡も、血痕もない。
荷台へ回ると、積まれていた木箱の一つが開いていた。
中に入っているのは、食器や布、日用品だった。
「行商人の馬車やな」
シルフが木箱を覗き込む。
「商品はほとんど残っとる」
「盗賊なら、馬車ごと奪うはずだ」
ハクは馬車の周囲を歩きながら、地面の匂いを嗅いでいた。
『四人だ』
「この馬車に乗っていた人数か?」
『おそらく。大人が三人と、子供が一人』
シグマは周囲を見回した。
「四人の匂いが残っている。大人が三人と、子供が一人らしい」
「その人たちは、どこへ行ったん?」
「ハク、追えるか?」
ハクは返事をせず、馬車の後方へ移動した。
野営地の端には、踏み荒らされた草が残っている。
四人分と思われる足跡は、そこから街道とは反対側へ続いていた。
その先にあるのは、夕闇に沈み始めた森だった。
『あの森だ』
「また森か……」
シグマが呟く。
「どうしたん?」
「四人の匂いは、あの森へ続いているらしい」
シルフの表情が険しくなる。
「昼に見つけた旅人と同じやな」
「ああ」
地面に残る足跡は、四人全員が自分の足で森へ向かったことを示していた。
逃げた様子も、誰かに引きずられた痕跡もない。
ただし、その歩幅は不自然なほど揃っていた。
「全員が並んで歩いていったのか?」
シグマは足跡の前へ屈み込む。
大人と子供で歩幅は違う。
それでも、地面を踏んだ位置は奇妙なほど規則正しく並んでいた。
まるで同じ合図に合わせて、一斉に足を動かしたようだった。
フェルンが鼻先を僅かに動かす。
「少し、甘い匂いがする」
「昼の森と同じか?」
「分からない。すごく薄い」
ハクも森から流れてくる風へ顔を向ける。
『同じ匂いだ』
白銀の毛が逆立ち、低い唸り声が漏れた。
「昼の森と同じらしい」
シグマの言葉を聞き、シルフは片目を閉じた。
神の目を使い、森と野営地の周囲を慎重に見渡す。
「魔力の痕跡もある。馬車の周りから、森まで続いとる」
「人が残したものか?」
「違うと思う。昼に見た痕跡と似とる」
「森の奥まで追えるか?」
「今なら追えるかもしれん。昼よりも濃い」
シルフはそこで言葉を止めた。
すでに日が沈みかけている。
森へ入れば、すぐに周囲は見えなくなるだろう。
「今から追うんは危険やな」
「ああ。馬車へ戻ろう」
「ここでは野営せえへんの?」
フェルンが尋ねる。
「森に近すぎる。それに、四人が消えた場所だ」
「別の場所、探す?」
「少し街道を進んで、森から離れた場所を探そう」
シグマたちは急いで馬車へ戻った。
事情を聞いた紅蓮は、迷うことなく出発を決める。
「この野営地は使わない。日が完全に沈む前に、少しでも森から離れる」
「この馬車はどうするの?」
白鬼が置き去りにされた荷馬車へ目を向ける。
「持っていくのは無理だ。商品の一部にも触れない方がいい」
紅蓮が答える。
「でも、セルカ村で報告するために、何か証明になる物があった方がいいんじゃない?」
「それなら、持ち主の名前が分かる物だけ探そう」
全員で手分けして調べた結果、御者台の下から行商人ギルドの札が見つかった。
札には、商人の名前と所属する商会が刻まれている。
シグマはそれだけを預かり、荷馬車には手を加えず、元の状態で残すことにした。
馬車へ戻る直前、フェルンが再び森へ顔を向けた。
「誰か、見てる?」
シグマも足を止める。
木々の間には、誰の姿もない。
「何か見えたのか?」
「見えない。でも、嫌な感じがする」
ハクがフェルンの前へ立ち、森を睨みつけた。
『急いだ方がいい』
「ああ」
シグマはフェルンの手を引き、馬車へ戻った。
紅蓮が手綱を動かす。
「行くぞ」
ノクスとソルが走り出し、一行は野営地を後にした。
完全に日が沈むまで、それほど時間は残されていない。
一行は街道をさらに進み、森から十分に離れた小高い草原を野営場所に選んだ。
周囲には背の高い木も、大きな岩もない。
身を隠せる場所が少ない代わりに、何かが近づいてくればすぐに発見できる。
馬車を草原の中央へ止め、ノクスとソルをそのすぐそばで休ませる。
ハクは野営地の外側を一周し、周囲に魔物や人間の匂いがないことを確かめた。
「今のところ、周囲に何もいないそうだ」
シグマがハクの言葉を仲間たちへ伝える。
「それでも、今夜は火を小さくした方がいいな」
紅蓮が言う。
「明かりを遠くから見つけられるのは避けたい」
「料理は簡単なもんで済ませよか」
シルフが保存食を取り出した。
夕食は硬いパンと干し肉、温めたスープだけとなった。
いつもなら白鬼が味について何か言い、シルフや紅蓮と軽口を交わす。
だが、今夜は全員が周囲を気にしていた。
「消えた人たち、生きてるかな」
白鬼が小さく呟く。
「まだ亡くなったと決まったわけではありません」
黒鬼が答える。
「血もありませんでしたし、魔物に食べられた跡もありませんでした」
「でも、自分から森に入ったんだよね」
「それも、何か理由があったのかもしれません」
黒鬼はそう答えたが、その声には不安が滲んでいた。
シグマは火の向こうに座る仲間たちを見回す。
「明日は予定どおりセルカ村へ向かう。行商人ギルドの札を見せれば、荷馬車の持ち主も分かるはずだ」
「村で最近の状況を聞くんやな?」
「ああ。行方不明者がほかにもいるかもしれない」
「それで、森へ戻るの?」
フェルンが尋ねる。
「情報を集めてから決める。少なくとも、何も分からないまま森へ入るつもりはない」
「一人でも行かない?」
「行かない」
「本当に?」
「ああ。約束する」
フェルンはシグマの顔をじっと見つめた後、ようやく頷いた。
食事を終えると、見張りの順番を決めた。
最初は紅蓮と白鬼。
次にシルフと黒鬼。
最後にシグマがハクと一緒に周囲を警戒する。
「フェルンも見張りする」
「フェルンは寝ていていい」
「ハクの言葉、フェルンも分かる」
「だからこそ、何かあれば起こしてもらう。それまでは身体を休めてくれ」
「でも……」
「明日も一日移動するんだ。疲れたままだと危ない」
フェルンは不満そうに頬を膨らませた。
『寝ておけ』
「ハクまで……」
『何かあれば私が起こす』
「絶対?」
『ああ』
「分かった」
ハクにまで言われ、フェルンは渋々荷台へ入った。
やがて小さな焚き火を残し、草原に静かな夜が訪れる。
周囲から聞こえてくるのは、風に揺れる草と虫の声だけだった。
最初の見張りでは、何も起こらなかった。
紅蓮と白鬼が周囲を警戒し、時間になるとシルフと黒鬼を起こす。
二人の見張りも、半ばまでは何事もなく過ぎていった。
「静かですね」
黒鬼が焚き火へ細い枝を入れる。
「静かすぎるくらいやな」
シルフは草原の先へ目を向けた。
「昼からずっと、まともに人と会っとらん」
「セルカ村は大丈夫でしょうか」
「それを確かめるためにも、明日は早めに出た方がええな」
シルフがそう答えたときだった。
草原を吹き抜けていた風が、不意に止まった。
虫の声も同時に消える。
黒鬼が顔を上げた。
「シルフさん」
「分かっとる」
シルフは弓を掴み、立ち上がった。
風が止まった草原に、微かな甘い香りが漂ってくる。
「この匂い……」
昼の森でハクが警戒し、野営地ではフェルンも感じ取った匂い。
シルフには、それが何の匂いか分からない。
だが、異常であることだけは理解できた。
「全員起こすで」
シルフと黒鬼が馬車へ向かおうとした瞬間、伏せていたハクが勢いよく顔を上げた。
『シグマ!』
その声に反応し、荷台の中でシグマが目を開く。
隣では、フェルンも同時に身体を起こしていた。
「ハクが呼んでる」
「ああ。聞こえた」
シグマはすぐに黒鞘刀を腰へ差し、荷台から飛び降りる。
「何があった?」
「甘い匂いがする。森にあったもんと同じかもしれへん」
シルフが草原の暗闇へ弓を向ける。
紅蓮たちも騒ぎに気づき、次々と馬車から降りてきた。
「どこからだ?」
「分からん。風が止まった直後に匂い始めた」
ハクが低く唸る。
その視線は、街道の向こう側へ向けられていた。
『何かいる』
「どこだ?」
『街道の上だ』
シグマはハクの視線を追った。
夜の闇に沈む街道の上で、淡い光が一つ揺れていた。
旅人が持つ手提げ灯のようにも見える。
しかし、その光は少しずつ増えていった。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて十を超える淡い光が、街道の上に並ぶ。
「誰か来たんかな?」
白鬼が目を凝らす。
「待て」
紅蓮が白鬼を制止する。
「あれはおかしい」
光は近づいているように見える。
それなのに、足音も車輪の音も聞こえなかった。
馬の鳴き声も、人の話し声もない。
ただ、灯りだけが音もなく街道を移動している。
「シルフ。神の目で見えるか?」
「待って」
シルフが片目を閉じる。
次の瞬間、その顔から血の気が引いた。
「人やない」
「何が見える?」
「光の周りに人の形をした魔力がある。でも、中身がない」
「中身がない?」
「見た目だけ人の形を作っとる。あれは生き物やない」
シグマはハクへ視線を移す。
「匂いは?」
『人の匂いはしない』
「人間ではない。ハクにも、人の匂いは感じられないそうだ」
そのとき、並んでいた光が一斉に止まった。
野営地から街道までは、かなりの距離がある。
それでも、何者かがこちらを見ていることだけは分かった。
フェルンがシグマの外套を強く掴む。
「呼んでる」
「何が?」
「あそこから、声がする」
シグマには何も聞こえない。
ほかの仲間たちも、困惑した様子でフェルンを見た。
「どんな声だ?」
「女の人の声。こっちにおいでって言ってる」
「私には聞こえへん」
シルフが答える。
「私も何も聞こえない」
紅蓮も首を横に振った。
ハクがフェルンの前へ立ち、光を睨みつける。
『聞くな。あれはお前に話しかけているのではない』
「じゃあ、誰に?」
『誰でもいいのだろう。声を聞いた者を連れていくつもりだ』
フェルンの尻尾が身体へ巻きつくように下がった。
「ハク、何と言っている?」
紅蓮に尋ねられ、シグマが答える。
「聞こえる者なら誰でもいいらしい。声で近づかせるつもりだと警戒している」
「行商人たちも、その声を聞いたのかもしれんな」
シルフが弓へ矢をつがえる。
街道に浮かぶ光が、再び動き始めた。
今度は先ほどよりも速い。
音もなく草原へ入り、真っ直ぐに一行へ近づいてくる。
「全員、馬車から離れるな!」
紅蓮が大剣を構える。
「ノクスとソルを守れ! 白鬼、黒鬼は左右を警戒!」
「分かった!」
「はい!」
シグマはフェルンを背後へ下がらせ、黒鞘刀の柄へ手を添えた。
しかし、刀は鞘から抜けない。
まだ斬るべき相手として認めていないのか、それとも目の前の光には実体がないのか。
シグマは無理に抜こうとはせず、代わりに両腕へ魔力を巡らせる。
「シルフ。近づく前に止められるか?」
「やってみる」
シルフが弓を引き絞る。
矢の周囲へ風が集まり、鋭い音を立てた。
「全員、伏せて!」
放たれた矢が草原を駆け抜け、光の群れの中央へ突き刺さる。
直後、凝縮された風が一気に弾けた。
草が大きく倒れ、淡い光が激しく揺らぐ。
人の形をしていた魔力が崩れ、霧のように夜の中へ散っていった。
「消えた?」
白鬼が顔を上げる。
「まだや!」
シルフが叫ぶ。
散ったはずの魔力が地面近くを漂い、再び集まり始めていた。
その中心から、甘い匂いが急激に強くなる。
フェルンが両手で鼻を押さえた。
「頭、ぼんやりする……」
「息を止めろ!」
シグマは外套の一部を持ち上げ、フェルンの口元を覆う。
周囲では白鬼と黒鬼も身体をふらつかせていた。
「匂いに何か混ざっとる!」
シルフが風を起こし、野営地の周囲から甘い香りを吹き飛ばす。
ハクが一歩前へ出た。
白銀の毛の間から魔力が溢れ、草原を震わせる。
『消えろ』
ハクの咆哮が夜空へ響き渡った。
言葉を理解できない紅蓮たちにも、その怒りは十分に伝わった。
咆哮とともに放たれた魔力が草原を駆け抜け、集まりかけていた光を包み込む。
淡い光が一斉に潰れ、今度こそ闇の中へ消えた。
甘い匂いも、急速に薄れていく。
しばらくして、止まっていた風が戻った。
草が揺れ、虫たちの声も少しずつ聞こえ始める。
「終わったのか?」
紅蓮は大剣を構えたまま、周囲を見回す。
「ハク。まだ何かいるか?」
ハクは何度も風の匂いを確かめた。
『遠ざかっている』
「どの方向だ?」
『セルカ村の方角だ』
シグマは街道の先へ目を向けた。
闇に包まれた道は、明日向かうセルカ村へ続いている。
「何て言ってるの?」
白鬼が尋ねる。
「あれは遠ざかっている。ただ……向かった先は、セルカ村の方角らしい」
誰も言葉を返さなかった。
先ほどまで以上に重い沈黙が、野営地を包み込む。
セルカ村へ向かう街道から、人の姿が消えている。
道中には持ち主のいない荷物が落ち、野営地では行商人たちが馬車だけを残して森へ消えていた。
そして今、正体不明の光が向かった先もセルカ村だった。
「今から村へ向かうか?」
紅蓮が尋ねる。
「いや」
シグマは首を横に振った。
「夜の街道を進めば、また同じものに襲われるかもしれない。それに、ノクスとソルを暗闇の中で走らせるのは危険だ」
「なら、ここで朝を待つんやな?」
「ああ。ただし、今夜は全員起きていよう」
「賛成だ」
紅蓮が大剣を下ろす。
「相手が一度で諦めたとは限らない」
小さくなっていた焚き火へ薪を加え、周囲を照らす。
その後、甘い匂いが戻ってくることはなかった。
それでも、誰一人として眠ろうとはしなかった。
全員が武器を手元に置き、夜が明けるのを待ち続けた。
やがて東の空が白み始める。
朝日が草原を照らし出すと、昨夜光が集まっていた場所に、黒く変色した草が残されていた。
シルフが神の目で確認したが、魔力のほとんどは消えている。
「追えるか?」
シグマが尋ねる。
「痕跡は街道まで続いとる。でも、そこから先は薄すぎる。セルカ村へ向かったんは間違いないと思うけどな」
「村へ急ごう」
全員で簡単に朝食を済ませ、野営道具を荷台へ積み込む。
ノクスとソルも一晩休んだことで、十分に走れる状態へ戻っていた。
「無理に速度は上げない。ただ、今日は休憩を減らす」
御者台へ座った紅蓮が告げる。
「何か見つけたら、すぐに止まるぞ」
「ああ。それで頼む」
ノクスとソルが走り出し、馬車はセルカ村へ向けて進み始めた。
朝になっても、街道に旅人の姿はなかった。
途中で見つけたのは、道端に落ちた帽子や水筒、子供用の小さな上着。
どれも血に汚れておらず、争った痕跡もない。
まるで持ち主だけが、突然どこかへ消えてしまったようだった。
そして夕方が近づいた頃、一行はようやくセルカ村を囲む木の柵へ辿り着いた。
「見えたで」
シルフが御者台の隣から前方を指さす。
規模はそれほど大きくない。
木の柵の内側には数十軒の家が並び、その奥には小さな教会と風車が見える。
畑には収穫前の作物が残り、水路にも水が流れていた。
村が荒らされた様子はない。
門も開いている。
それなのに、人の姿だけが見当たらなかった。
「門番がおらんな」
紅蓮が馬車の速度を落とす。
「畑にも誰もいない」
白鬼が荷台から周囲を見渡す。
「家畜の声も聞こえません」
黒鬼が不安そうに呟いた。
ハクは馬車の先頭から動かず、開かれた門を睨んでいる。
『匂いは多い』
「村人はいるのか?」
『分からない。古い匂いばかりだ』
ハクはさらに鼻先を動かした。
『あの甘い匂いもする』
シグマは腰の黒鞘刀へ手を添えた。
「どうしたの?」
フェルンが尋ねる。
「村人の匂いは残っている。ただ、新しいものか分からないそうだ」
「甘い匂いは?」
「村の中からするらしい」
フェルンの狼耳が伏せられる。
紅蓮が馬車を門の手前で止めた。
「このまま入るのは危険だな」
「ああ。馬車はここに置こう」
シグマたちは武器を手に、慎重に馬車を降りた。
ノクスとソルのそばには黒鬼とフェルンが残る。
ハクも二人を守れる位置へ移動した。
「村の入り口だけ確認する」
シグマが仲間たちへ告げる。
「誰か見つけても、すぐには近づかないでくれ」
「分かった」
紅蓮が大剣を構え、白鬼も魔法を使えるよう両手を空ける。
シルフは弓へ矢をつがえ、神の目で村の中を見渡した。
「魔力の痕跡だらけや」
「昨夜のものと同じか?」
「似とる。でも、村全体に広がっとって、どこから来とるのか分からへん」
一行は周囲を警戒しながら、開かれた門をくぐった。
村の大通りには、野菜を積んだままの荷車が残されていた。
道端の露店には商品が並び、民家の窓には洗濯物が干されている。
一軒の家からは、煮詰まって焦げたような匂いも漂っていた。
つい先ほどまで、誰かが生活していたかのような光景。
それなのに、どの家からも話し声が聞こえない。
「誰かいないか!」
紅蓮が村中へ届くように呼びかける。
返事はなかった。
「カルガランから来た冒険者だ! 誰かいるなら返事をしてくれ!」
もう一度呼びかける。
それでも、村は静まり返ったままだった。
シグマは大通りへ落ちている木製の人形を拾い上げた。
すぐそばには、小さな子供の足跡が残っている。
足跡は道の中央まで続き、そこで突然向きを変えていた。
その先にあるのは、村の奥に建つ小さな教会だった。
「シグマ」
シルフが教会を指さす。
「あそこだけ、魔力が濃い」
「昨夜のものか?」
「たぶん同じや」
そのときだった。
静まり返った村に、鐘の音が響いた。
カァン――。
一度だけ鳴り、再び静寂が訪れる。
風で鳴ったような弱い音ではない。
誰かが教会の鐘を鳴らした音だった。
「誰かいる」
白鬼が教会を見つめる。
「そうみたいやな」
シルフが弓を構え直す。
シグマは振り返り、門の外で待つハクへ目を向けた。
「ハク。教会に人の匂いはあるか?」
ハクは遠くから教会へ顔を向け、風の匂いを確かめた。
『人の匂いはする』
「生きている人か?」
『分からない』
一呼吸置いた後、ハクが低く唸った。
『だが、その中から甘い匂いが溢れている』
シグマは教会へ向き直った。
「中に人の匂いはある。ただ、あの甘い匂いも教会から出ているらしい」
「助けを求めて鐘を鳴らした可能性もある」
紅蓮が大剣を握り直す。
「ああ。確認しよう」
四人は互いに距離を空けず、教会へ向かって歩き始めた。
その直後、鐘が再び鳴った。
カァン――。
今度は、先ほどよりも大きい。
さらに続けて、三度目の音が響く。
カァン――。
鐘の音に重なるように、教会の中から小さな声が聞こえた。
「……たすけて」
幼い子供の声だった。
白鬼が思わず教会へ駆け出しかける。
「待て!」
紅蓮がその肩を掴んだ。
「でも、子供が!」
「分かっている。だからこそ、慎重に進む」
教会の扉は、僅かに開いていた。
薄暗い隙間の向こうから、甘い香りが流れ出している。
「……たすけて」
再び声が聞こえた。
しかし、今度は先ほどとまったく同じ高さ、同じ速さ、同じ調子だった。
一言も違わない。
シルフの表情が強張る。
「今の声……さっきと同じや」
「ああ」
助けを求めているというより、覚えた言葉を繰り返しているように聞こえた。
シグマは教会の扉を見据えたまま、黒鞘刀の柄へ右手を添える。
今度は、鞘の中から僅かな震えが返ってきた。
教会の奥に、斬るべき何かがいる。
そう告げるような震えだった。
教会の奥から、三度目の声が聞こえた。
「……たすけて」
声の高さも、間の取り方も、先ほどとまったく同じだった。
助けを求める子供が、寸分違わず同じ言葉を繰り返すとは考えにくい。
シグマたちは教会の扉から距離を取り、周囲を警戒した。
「シルフ。中の様子は見えるか?」
「魔力が濃すぎる。教会の中全部が、薄い霧に包まれとるみたいや」
「人の魔力は?」
「いくつか見える。でも、ほとんど動いとらん」
「生きている可能性はあるんだな?」
「たぶん。ただ、あの声の主が人間かどうかは分からへん」
教会の隙間から流れてくる甘い香りが、僅かに強くなる。
シグマは息を浅くしながら、背後へ目を向けた。
村の門には、黒鬼とフェルンが残っている。
ハクは二人と馬車を守りながらも、教会へ鋭い視線を向けていた。
「シグマ」
フェルンが遠くから呼びかける。
「甘い匂い、強くなってる」
「ああ。フェルンは馬車から離れないでくれ」
「でも……」
「何かあれば、ハクと一緒に知らせてくれ」
『こちらは任せろ』
ハクの言葉がシグマとフェルンへ届く。
「分かった。ハクも任せろって」
フェルンは不安そうな顔をしていたが、黒鬼のそばから動かなかった。
シグマは教会へ向き直る。
「俺が扉を開ける。紅蓮は右、白鬼は左を頼む」
「分かった」
「任せて」
「シルフは風で匂いを外へ流してくれ。中に人がいるなら、強い魔法は使えない」
「せやな。できるだけ教会を壊さんようにする」
シグマは認識阻害のマントを口元まで引き上げ、教会の扉へ近づいた。
黒鞘刀の柄を握る。
鞘の中から感じていた震えは、先ほどよりも強くなっていた。
だが、まだ刀は抜けない。
今はそのときではない。
シグマは柄から手を離し、左手で扉へ触れた。
「開けるぞ」
力を込め、扉を押し開く。
軋んだ音を立てながら、薄暗い教会の内部が姿を現した。
左右には長椅子が並び、正面には女神像と祭壇がある。
窓はすべて閉め切られ、外からの光はほとんど差し込んでいない。
床には白い霧が薄く溜まり、甘い匂いが充満していた。
「風よ」
シルフが片手を前へ出す。
教会の中へ風が吹き込み、床に溜まっていた霧が一気に舞い上がった。
白い霧は、開かれた扉から外へ押し流されていく。
その一部が光を受け、細かな粉のように輝いた。
「霧やない。粉や」
「吸い込まない方がよさそうだな」
紅蓮が布で口元を覆う。
シグマたちは互いの背中を守れる距離を保ちながら、教会へ足を踏み入れた。
床には、村人たちのものと思われる足跡がいくつも残っている。
すべての足跡が、教会の奥にある祭壇へ向かっていた。
しかし、戻ってきた足跡は一つもない。
「人の姿が見当たらないね」
白鬼が長椅子の間を確認する。
「地下か、奥に別の部屋があるのかもしれない」
紅蓮が祭壇の左右へ目を向けた。
そのとき、教会の奥から微かな音が聞こえた。
ギィ……ギィ……。
何かが擦れるような音だった。
四人が同時に足を止める。
音は祭壇の裏側から聞こえていた。
「……たすけて」
再び、子供の声が響く。
今度は先ほどよりも近い。
白鬼が祭壇の横から奥を覗き込んだ。
「誰かいるの?」
「待て、白鬼」
シグマが止めた直後、祭壇の裏側から細長い何かが飛び出した。
白鬼の足首へ巻きつこうとしたそれを、紅蓮の大剣が叩き切る。
床へ落ちたのは、白い根のようなものだった。
切断された先端が、生き物のように激しく跳ね回っている。
「植物?」
白鬼が後ろへ下がる。
「ただの植物やない!」
シルフの声と同時に、長椅子の下や壁の隙間から無数の白い根が這い出した。
「下がれ!」
紅蓮が大剣を横へ振り抜く。
数本の根がまとめて切断され、白い液体を撒き散らした。
別の根が紅蓮の背後から迫る。
「紅蓮!」
白鬼が手を伸ばす。
「炎よ!」
小さな火球が根へ直撃し、その表面を焼いた。
根は甲高い音を発しながら身を捩り、長椅子の下へ引っ込んでいく。
「燃えるなら、全部焼けばいいんじゃない?」
「教会ごと燃えてまう! 中に村人もおるかもしれへん!」
シルフが風の刃を放ち、天井から垂れてきた根を切り落とす。
「なら、少しずつ切るしかないね!」
教会中から根が伸び、四人を取り囲んだ。
シグマは右腕を前へ出す。
義手へ魔力を流すのは、まだ避けなければならない。
炎帝石の力も使えない。
代わりに左足を踏み込み、床へ魔力を流した。
土の壁が床板を押し上げながら現れ、正面から迫っていた根を受け止める。
「祭壇の奥へ進む。ここで根を相手にしていても終わらない!」
「根元を探すんやな?」
「ああ!」
紅蓮が先頭に立ち、大剣で道を塞ぐ根を斬り払う。
白鬼は小さな火球だけを使い、左右から近づく根を焼いて後退させた。
シルフは風を絶やさず、甘い粉が四人へ近づかないよう外へ流し続ける。
シグマは三人の間を抜けた根を、土の杭で床へ縫い止めた。
四人は祭壇の裏側へ回り込む。
そこには、地下へ続く石造りの階段があった。
階段の両脇には白い根が絡みつき、脈打つように動いている。
「下から魔力が流れとる」
シルフが階段の奥を睨む。
「根元は地下や」
「村人もそこにいるのか?」
「人の魔力も下から見える。かなり多いで」
「なら、行くしかないな」
紅蓮が大剣を構えたまま階段を下り始める。
四人が地下へ入ると、背後から無数の根が追ってきた。
「風よ!」
シルフが階段へ向けて矢を放つ。
風を纏った矢が根の中心へ突き刺さり、周囲の根をまとめて吹き飛ばした。
「これで少しは時間を稼げる。急ぐで!」
階段の先には、教会の礼拝道具や食料を保管するための地下室があった。
だが、本来の姿はほとんど残っていない。
壁も床も天井も、白い根に覆われている。
部屋の中央には、人の背丈を超える巨大な茸のようなものが生えていた。
白い傘の表面には淡い光がいくつも浮かび、人の顔のような形を作っている。
昨夜、街道に現れた光と同じものだった。
「こいつが……」
白鬼が息を呑む。
巨大な茸の周囲には、白い糸に包まれた人々が横たわっていた。
大人も、老人も、子供もいる。
誰も動いていないが、胸は僅かに上下していた。
「生きてる!」
「村人たちか」
紅蓮が前へ出ようとする。
「待って!」
シルフが呼び止めた。
「村人と、あいつの根がつながっとる」
白い糸から細い根が伸び、巨大な茸の根元へ集まっている。
無理に引き剥がせば、村人を傷つける可能性があった。
「眠らせて、魔力を吸っとるんかもしれん」
「だったら、根元から切れば助けられる?」
白鬼が尋ねる。
「分からへん。あいつを倒した瞬間に、村人へ何か起きるかもしれん」
巨大な茸の表面に浮かぶ光が、一斉に四人へ向けられた。
人の顔を真似ていた光が歪み、口のような形に裂ける。
「……たすけて」
「……たすけて」
「……たすけて」
今度は複数の声が重なった。
男、女、老人、子供。
眠らされている村人たちの声を覚え、それを真似ているようだった。
「気味が悪いな」
紅蓮が大剣を握り直す。
巨大な茸の傘が大きく膨らんだ。
「粉が来る!」
シルフが風の壁を作る。
傘の裏側から噴き出した白い粉が、風の壁へぶつかった。
粉は四人を避けるように左右へ流れ、地下室の壁へ張りついていく。
「この狭さじゃ、全部は外へ流せへん!」
「俺たちの周りだけでいい。村人へ強い風を当てないでくれ!」
「分かった!」
巨大な茸の根元から、太い根が何本も持ち上がる。
その一本が、眠っている子供を巻き上げた。
「離せ!」
白鬼が駆け出す。
だが、子供へ根が巻きついているため、魔法を撃てない。
シグマは左手を床へ向けた。
根の真下から細い土の杭を作り、子供に触れない位置だけを正確に突き上げる。
根が途中から裂け、子供の身体が落下した。
白鬼が滑り込むようにして受け止める。
「大丈夫?」
子供は目を覚まさない。
それでも、息は続いていた。
「黒鬼のところへ運べれば助けられるかもしれない」
「でも、このままじゃ外へ出られないよ!」
階段には再び白い根が集まり始めている。
「私が道を作る!」
紅蓮が階段へ向かい、大剣を振り下ろした。
何重にも絡み合っていた根が切断される。
「白鬼、その子を外へ!」
「紅蓮は?」
「私はここを押さえる! 早く行け!」
「……分かった!」
白鬼は子供を抱き上げ、開いた道へ駆け込んだ。
紅蓮は階段を塞ごうとする根を斬り払いながら、白鬼が上へ到着するまでその場を守る。
巨大な茸は、逃げていく子供を取り戻そうと根を伸ばした。
シルフが矢を放ち、根の先端を射抜く。
「お前の相手はこっちや!」
根の一部がシルフへ向きを変える。
その隙に、白鬼は子供を抱えて地下室から脱出した。
「一人は助けられた。でも、この人数を一人ずつ運ぶのは無理だ」
シグマは眠らされている村人たちを見回す。
地下室にいるだけでも、数十人はいる。
さらに白い根は壁の奥にも続いていた。
教会の地下だけでなく、村全体へ広がっている可能性がある。
「やっぱり、あれを倒すしかない」
シグマは巨大な茸を見据えた。
「シルフ。神の目で、魔力が集まっている場所を探せるか?」
「やってみる!」
シルフは根を避けながら、巨大な茸の周囲を見渡す。
「傘やない。根元の奥に、魔力が集まっとる場所がある!」
「見える位置か?」
「根に隠れとる。正面から少し右や!」
シグマは黒鞘刀の柄を握った。
引き抜こうとする。
だが、刀は動かない。
「まだなのか……」
目の前に敵はいる。
助けなければならない人たちもいる。
それでも、黒鞘刀は今のシグマに抜くことを許さなかった。
「シグマ!」
紅蓮の声に顔を上げる。
天井から伸びた太い根が、シグマへ振り下ろされていた。
シグマは横へ跳び、床を転がる。
根が叩きつけられ、石の床が大きく砕けた。
黒鞘刀の柄から手を離し、立ち上がる。
「抜けないなら、別の方法でやる」
シグマは左腕を前へ出した。
義手へ直接魔力を流すのではなく、周囲の地面へ魔力を広げていく。
地下室の石床が大きく震えた。
「紅蓮! 根を持ち上げる! 切ってくれ!」
「任せろ!」
巨大な茸の根元を囲むように、石の柱が何本も突き上がった。
折り重なっていた白い根が持ち上げられ、魔力が集まる中心部が僅かに露出する。
紅蓮が一気に踏み込んだ。
「邪魔だ!」
大剣が横薙ぎに振り抜かれる。
持ち上げられた根がまとめて切断され、巨大な茸の根元が大きく開いた。
その奥に、赤黒く脈打つ塊が埋まっている。
「あれや! あそこが核や!」
シルフが叫ぶ。
巨大な茸が激しく揺れた。
地下室中の根が一斉に動き、露出した核を覆おうとする。
「風よ、切り裂け!」
シルフが続けて三本の矢を放つ。
矢は根へ突き刺さり、それぞれが異なる方向へ風の刃を放った。
核を守ろうとした根が切断される。
だが、すぐに新たな根が伸び始めた。
「シグマ、今や!」
シグマは再び黒鞘刀の柄を握った。
核を見据え、刀を引き抜く。
先ほどまで鞘の中で固まっていた刀が、今度は抵抗を失っていた。
黒い刀身が姿を現す。
ようやく、黒鞘刀が目の前の核を斬るべきものだと認めた。
シグマは床を蹴った。
伸びてくる根を避け、巨大な茸の懐へ飛び込む。
一本の根が右腕へ巻きついた。
傷が塞がったばかりの腕に強い力がかかり、激痛が走る。
「シグマ!」
「大丈夫だ!」
右腕を引くのではなく、根の動きに合わせて身体を回転させる。
締め上げられる前に間合いへ入り、黒鞘刀を両手で握り直した。
右腕から胸にかけて、焼けるような痛みが広がる。
それでも、刀は離さなかった。
「これ以上、誰も連れていかせない!」
黒鞘刀を振り下ろす。
刃が赤黒い核へ深く食い込んだ。
甲高い悲鳴が、地下室全体へ響き渡る。
「……たすけて!」
「……いたい!」
「……やめて!」
巨大な茸が、村人たちから奪った声を次々と発した。
だが、シグマは刃を止めない。
核へ食い込んだ黒鞘刀をさらに押し込み、一気に斬り抜いた。
赤黒い核が二つに割れる。
巨大な茸の表面に浮かんでいた光が、すべて消えた。
白い根は力を失い、床や壁へ崩れ落ちていく。
地下室を満たしていた甘い匂いも、急速に薄れていった。
「倒したんか?」
シルフが風を維持したまま、巨大な茸を見つめる。
返事をするような動きはない。
傘はゆっくりと萎み、乾いた布のように崩れ始めていた。
「村人たちは?」
紅蓮が倒れている人々へ駆け寄る。
身体を包んでいた白い糸も、根と同じように力を失っていた。
シルフが神の目で一人ずつ確認する。
「魔力は残っとる。弱っとるけど、みんな生きてるで!」
「白鬼たちを呼ぼう。ここから運び出す」
シグマは黒鞘刀を鞘へ戻そうとした。
その直前、刀身に付着した茸の体液が黒い粒へ変わり、刃へ吸い込まれていく。
やがて何も残らなくなると、黒鞘刀は自ら導かれるように鞘へ収まった。
戦いが終わったことを告げるように、鞘の震えも止まる。
「右腕は大丈夫か?」
紅蓮が尋ねる。
「ああ。少し痛むだけだ」
「少しには見えない」
「村人たちを運び出す方が先だ」
「無理をするなと、何度言えば分かるんだ?」
「倒れるほど無理はしない」
「信用できないな」
紅蓮は呆れたように息を吐いた。
「重い者は私が運ぶ。お前は子供たちを頼む」
「分かった」
三人が地上へ戻ると、教会の中に入り込んでいた根もすべて枯れ始めていた。
白鬼が運び出した子供は、黒鬼の治療を受けながら教会の外へ寝かされている。
フェルンとハクも、子供のそばにいた。
「シグマ!」
フェルンが駆け寄ろうとする。
しかし、黒鞘刀と右腕を見て、その場で足を止めた。
「怪我した?」
「怪我はしていない。少し腕が痛むだけだ」
「無理した?」
「少しだけだ」
「少しでも駄目」
「そうだったな」
フェルンはシグマの右手を握ろうとしたが、痛むと分かったのか、代わりに外套の端を掴んだ。
『本当に問題ないのか』
ハクがシグマの右腕へ目を向ける。
「ああ。動かせる」
『お前の大丈夫は信用できない』
「紅蓮と同じことを言うんだな」
「ハク、何て?」
白鬼が尋ねる。
「俺の大丈夫は信用できないと」
「それはハクが正しいね」
白鬼が即答した。
「今は俺の話より、地下に残っている村人たちを運び出そう」
教会の外へ毛布を広げ、全員で地下にいた村人たちを運び出した。
大人が三十一人。
子供が九人。
全員が深く眠っていたが、命に別状はなかった。
黒鬼と白鬼が状態を確認し、衰弱の激しい者から順番に治療する。
シルフは風を使って教会の中に残る粉を外へ流し続けた。
紅蓮とシグマは、地下室の壁や床に残った根を調べる。
白い根は地下室の奥にある亀裂へ続いていた。
その亀裂の先には、村の外へ向かって延びる地下水路があるらしい。
「森とつながっとるんかもしれんな」
シルフが神の目で根の跡を追う。
「昼に見つけた足跡や、行商人たちが向かった森にも、同じものが生えとった可能性がある」
「こいつが親玉だったのか?」
「たぶん。この茸が死んでから、周囲に残っとった魔力も消え始めとる」
「なら、森へ入った者たちも解放された可能性があるな」
「せやけど、森の中で眠ったままかもしれん」
シグマは教会の外にいるハクへ目を向ける。
「村人たちが目を覚ましたら、森の場所を聞こう。それから捜索に向かう」
「お前は残れ」
紅蓮が即座に言った。
「右腕を痛めただろう」
「動けないほどじゃない」
「黒鬼に診てもらってから決める」
「でも――」
「反省したんじゃなかったのか?」
シグマは言い返そうとしたが、紅蓮の視線を受けて口を閉じた。
「ああ。分かった」
「素直でよろしい」
その後、最初に目を覚ましたのは、村長を務める初老の男性だった。
男は教会の前に寝かされている村人たちを見て、何が起きたのか理解できない様子だった。
「私たちは……教会に集まって……」
「ゆっくりでいい。何があったのか話せるか?」
シグマが水筒を差し出す。
村長は少しずつ水を飲み、途切れ途切れに話し始めた。
最初に異変が起きたのは、三日前。
村の若者が一人、夜中に姿を消した。
翌日には、その若者を捜しに出た二人も戻らなかった。
さらに、カルガランへ向かう予定だった行商人たちが、村へ到着しないという知らせが入った。
「夜になると、森の方から声が聞こえたのです」
「どんな声だった?」
「家族の声です。亡くなった妻や、遠くの街で暮らす息子の声が……森へ来てくれと」
村長は震える両手を見つめた。
「皆にも、それぞれ違う声が聞こえていたようです。危険だと思い、残った村人を教会へ集めました。しかし、あの甘い匂いが入り込んで……そこから先は何も覚えていません」
「教会の鐘を鳴らした者に心当たりは?」
「鐘……?」
村長は首を横に振った。
「誰も鐘楼には上がっていません」
鐘を鳴らし、子供の声で助けを求めていたのも、地下の茸だったのだろう。
教会へ入ってきた者を地下へ誘い込むための罠だった。
「森へ消えた人たちが向かった場所は分かるか?」
「村の北東にある森です。捜しに行った者も、そこで足跡を見つけたと言っていました」
ハクが風の匂いを確かめ、村の北東へ顔を向ける。
『今なら追えるかもしれない』
「甘い匂いは?」
『ほとんど消えた。人の匂いも残っている』
「ハクが追えるそうだ」
シグマが立ち上がろうとすると、黒鬼が外套の袖を掴んだ。
「シグマさんは残ってください」
「右腕は動く」
「動くかどうかではありません。傷が開きかけています」
黒鬼は包帯を巻き直しながら、普段よりも強い口調で言った。
「前にも言いました。異変があったら、すぐに教えてくださいと」
「悪かった」
「謝るだけでは駄目です」
「分かった。ここに残る」
シグマが素直に答えると、黒鬼は少しだけ安心したように息を吐いた。
捜索には、紅蓮、白鬼、シルフ、ハクが向かうことになった。
フェルンはシグマと黒鬼のそばに残る。
「ハク。皆を頼む」
『言われるまでもない』
「何かあったら、すぐに戻ってくれ」
『お前こそ、私がいない間に勝手なことをするな』
「しない」
「ハク、シグマを見て何て言ったの?」
白鬼が尋ねる。
「勝手なことをするなと」
「やっぱりハクは分かってるね」
「白鬼まで……」
紅蓮たちは村長から詳しい場所を聞き、北東の森へ向かった。
それから二時間ほどが過ぎた頃、村の外から大勢の声が聞こえてきた。
最初に姿を現したのはハクだった。
その背中には、衰弱した子供が二人乗せられている。
後ろから紅蓮たちが続き、さらにその後ろには、互いに身体を支え合いながら歩く人々の姿があった。
「見つかったのか!」
村長が駆け出す。
「ああ。全員生きている!」
紅蓮が答える。
森の中には、教会の地下にあったものより小さな茸がいくつも生えていた。
茸の周囲で、村人や旅人たちが白い糸に包まれて眠っていたという。
教会の地下にあった巨大な茸が倒れたことで、小さな茸もすべて枯れていた。
森で見つかったのは、村人が五人。
行商人が四人。
そして、街道脇に鞄を残していた旅人が一人。
全員が弱ってはいたものの、命に別状はなかった。
昼に回収した鞄を旅人へ返し、行商人には野営地で見つけた札を渡す。
「ありがとうございます……。何とお礼を言えばいいのか……」
行商人の男性が何度も頭を下げる。
「俺たちだけで助けたわけじゃない。ハクが匂いを追ってくれたから見つけられた」
シグマがハクへ目を向ける。
行商人たちも大きな白銀の姿を見上げた。
「言葉は伝わらないが、感謝しているそうだ」
「そうか」
シグマが伝えると、ハクは僅かに顔を背けた。
『別に感謝されるほどのことではない』
「照れてる?」
フェルンが尋ねる。
『違う』
「尻尾、動いてる」
『風だ』
「風、吹いてない」
『細かいことを気にするな』
フェルンが白銀の身体へ抱きつくと、ハクは困ったようにシグマへ視線を向けた。
だが、振り払おうとはしなかった。
その日の夜、一行はセルカ村に泊まることになった。
村人の多くはまだ衰弱していたが、動ける者たちが協力し、教会から運び出した人々の看護を始めた。
村長はカルガランへ異変を知らせるため、翌朝早くに使いを出すと約束した。
村の宿も無人になっていたが、主人が教会の前で見つかり、目を覚ました後に一行を迎えてくれた。
「宿代なんて受け取れません。どうか好きなだけ休んでください」
「それは駄目だ」
シグマが答える。
「泊まる以上、代金は支払う」
「ですが、皆さんは村を救ってくださったのですよ」
「それと宿代は別だ。それに、俺たちだけで食料を使えば、村の人たちの分が減る」
「相変わらず頑固やな」
シルフが横から口を挟む。
「せやけど、今回は村長さんの厚意に甘えてもええんやない?」
「シルフまで何を言ってるんだ?」
「その代わり、うちらが持っとる食料や薬を村へ分ける。宿代の代わりや」
シグマは少し考えた。
「それなら……」
「決まりやな」
「まだ返事をしてない」
「顔に書いてあるで」
最終的に、宿代は受け取らない代わりに、一行が持っていた薬と保存食の一部を村へ提供することで話がまとまった。
夜になると、セルカ村には久しぶりに人々の声が戻った。
家族との再会を喜ぶ声。
泣きながら抱き合う声。
助かったことに安堵する声。
シグマは宿の二階にある窓から、その様子を静かに眺めていた。
「よかったね」
フェルンが隣へ立つ。
「ああ。全員、生きていてよかった」
「シグマも怪我、治る?」
「傷が少し開いただけだ。黒鬼に診てもらったから大丈夫だ」
「無理しない?」
「ああ」
「本当に?」
「次からは気をつける」
「それ、無理する人の言い方」
フェルンは不満そうにシグマを見上げた。
「どう言えば信じてもらえるんだ?」
「もう無理しないって言う」
「必要なときまで何もしないとは約束できない」
「やっぱり無理する」
「でも、一人では行かなかっただろ?」
フェルンは少し考える。
「うん」
「皆と相談して、危険だと思ったときには止まった」
「森にも、勝手に行かなかった」
「ああ。少しは信じてもらえないか?」
「……少しだけ」
「少しだけか」
「これから、もっといい子になったら増える」
「努力するよ」
翌朝。
セルカ村の門には、多くの村人が集まっていた。
教会で眠らされていた者たちも、支えがあれば歩けるほどに回復している。
村長が一行の前へ進み出た。
「本当にありがとうございました。皆さんが来なければ、村の者は全員、あの魔物に命を奪われていたでしょう」
「間に合ってよかった」
シグマが答える。
「あの茸については、カルガランのギルドにも報告しておく。森に別の個体が残っていないか、改めて調査してもらった方がいい」
「使いの者に、すべて伝えます」
村長は深く頭を下げた。
一晩休んだことで、ノクスとソルの疲れも取れている。
一行が出発の準備を進めている間、村人たちは馬車の装具や車輪を点検してくれた。
回収した荷物も、すべて持ち主へ返している。
「車輪の金具が少し緩んでいましたが、締め直しておきました」
宿の主人が御者台の近くから立ち上がる。
「水樽も満たしてあります。ノクスとソルの飲み水も用意しました」
「助かった。ありがとう」
シグマが礼を言うと、宿の主人は首を横に振った。
「お礼を言うのはこちらです。皆さんがいなければ、私たちは今もあの教会で眠らされていたでしょう」
村人たちは他にも何か持たせようとしてくれたが、シグマは丁重に断った。
村には、まだ衰弱している者が大勢いる。
食料も薬も、この村で使われるべきだった。
「本当に、何も受け取っていただけないのですか?」
村長が尋ねる。
「宿を貸してもらった。それに、馬車まで整備してもらった。それで十分だ」
「ですが……」
「渡した保存食と薬は、村の人たちのために使ってくれ。俺たちへ返したら、宿代の代わりにならないだろ?」
シグマが穏やかに笑うと、村長はようやく頷いた。
「分かりました。皆さんのご厚意、決して無駄にはいたしません」
「ああ。そうしてもらえると助かる」
「ほんま、こういうところだけは譲らへんな」
シルフが呆れたように笑う。
「今回はシグマが正しいだろう」
紅蓮も馬車へ荷物を載せながら答えた。
「村人たちが元気になってから、改めて礼を受け取ればいい」
「今度来たときは、宿代も食事代も、きっちり払わせてもらうで」
「ぜひ、またお越しください。そのときには、村を挙げてお迎えします」
宿の主人が笑顔を見せる。
全員が馬車へ乗り込み、シグマが御者台で手綱を握る。
その隣にはフェルンが座っていた。
ハクはセルカ村の外で待ち、一行が出てくると馬車のそばへ並んだ。
「出発するぞ」
シグマが手綱を動かす。
ノクスとソルが歩き始め、馬車の車輪がゆっくりと回り出した。
「元気でな!」
「また来てください!」
「ありがとう!」
背後から村人たちの声が聞こえる。
フェルンは御者台から何度も手を振った。
「またね!」
白鬼と黒鬼も荷台から顔を出し、村人たちへ手を振る。
紅蓮は少し照れたように片手を上げ、シルフは大きな声で別れを告げた。
「今度来たときは、ちゃんと宿代を払わせてもらうで!」
「さっきも言ってなかったか?」
「大事なことやから、もう一回言ったんや」
馬車はセルカ村を離れ、次の目的地へ続く街道を進んでいく。
昨日まで静まり返っていた道の向こうから、一台の荷馬車が近づいてきた。
村の異変を知らず、セルカ村へ向かっていた行商人の馬車だった。
御者は街道を進むシグマたちの姿を見て、ほっとしたように表情を緩める。
すれ違う際、互いに軽く手を上げて挨拶を交わした。
人の声が戻り、車輪の音が街道へ響く。
ようやく、この道も本来の姿を取り戻し始めていた。
シグマは前方へ視線を向ける。
「ハク。妙な匂いは残っていないか?」
ハクは風の匂いを確かめる。
『もうない』
「そうか」
「ハク、何て?」
フェルンが尋ねる。
「甘い匂いは、もう残っていないそうだ」
「なら、大丈夫?」
「ああ。少なくとも、この辺りはな」
ハクは馬車の少し前へ出ると、軽やかに街道を走り始めた。
フェルンの狼耳も立ち上がり、その後ろ姿を嬉しそうに見つめる。
カルガランを出てから、予定外の出来事に巻き込まれてしまった。
それでも、立ち止まっているわけにはいかない。
旅はまだ始まったばかりだ。
シグマたちは新たな目的地を目指し、街道の先へ進んでいった。




