第二十三話 傷が癒えるまで
シグマが再び意識を取り戻したのは、仲間たちの声に応えてから二日後の朝だった。
瞼を開くと、淡い朝日が治療室の天井を照らしていた。
一度目を覚ましたときとは違い、意識ははっきりしている。
自分がカルガランの大聖堂にいることも、仲間たちに声をかけられたことも覚えていた。
ただ、身体は思うように動かなかった。
指を動かそうとしただけで、右肩から胸の奥へ鈍い痛みが走る。全身にも鉛を詰め込まれたような重さが残っていた。
シグマは小さく息を吐き、ゆっくりと顔を横へ向けた。
寝台の傍らに置かれた椅子では、黒鬼が俯いたまま眠っていた。
その隣では、フェルンが寝台へ上半身を預け、シグマの左手を両手で握っている。
二人とも、ここ数日まともに休めていないのだろう。黒鬼の長い黒髪は少し乱れ、フェルンの銀色の髪にも寝癖がついていた。
シグマは二人を起こさないよう、左手の指を僅かに動かした。
「……ん」
小さな動きだったが、フェルンの狼耳がぴくりと反応した。
ゆっくりと顔を上げ、眠そうに目を擦る。
その青い瞳がシグマの顔を捉えた瞬間、大きく見開かれた。
「シグマ……?」
「ああ。おはよう、フェルン」
「……ちゃんと、起きてる?」
「たぶんな」
「また、すぐ寝ちゃわない?」
「大丈夫だと思う。頭もはっきりしてる」
フェルンは何度か目を瞬かせると、握っていた左手を自分の頬へ押し当てた。
「温かい……」
「左手は義手だぞ」
「シグマの手だから、温かい」
「そうか」
フェルンの瞳に、少しずつ涙が溜まっていく。
「シグマ、また眠っちゃったから……フェルン、怖かった」
「心配をかけたな」
フェルンはシグマの胸へ飛び込みかけた。
だが、包帯に覆われた右肩と胸元が目に入り、途中で動きを止める。
「抱きついたら、痛い?」
「今は少し痛いな」
「じゃあ、我慢する」
「そうしてくれると助かる」
シグマが微笑むと、フェルンは涙を拭いながら何度も頷いた。
二人の声で黒鬼も目を覚ました。
ゆっくりと顔を上げた黒鬼は、しばらく何も言わずにシグマを見つめていた。
「黒鬼、おはよう」
「……おはよう、ございます」
「心配をかけたな」
「はい」
短い返事だった。
それでも、その声は微かに震えていた。
黒鬼は立ち上がると、寝台の脇に置かれていた呼び鈴へ手を伸ばす。
「神父様を呼びます」
「ああ。頼む」
「皆にも、知らせてきます」
黒鬼は扉へ向かいかけ、途中で足を止めた。
もう一度振り返り、恐る恐る尋ねる。
「今度は……本当に起きたんですよね?」
「ああ。大丈夫だ」
「……よかったです」
黒鬼は小さく呟き、治療室を出ていった。
間もなく、初老の神父と数人の神官が入ってきた。
神父はシグマへ名前や現在地、最後に覚えている出来事などを尋ね、意識が正常に戻っていることを確かめた。
その後、目の動きや呼吸、右肩から胸にかけての傷を慎重に確認する。
包帯の下に残っていた黒い変色は、以前よりも薄くなっていた。
傷口も塞がり始めている。
「命に関わる状態は脱したと考えてよいでしょう」
「そうですか」
「ただし、完治したわけではありません。右手の感覚はありますか?」
「あります」
「無理に動かさず、指先だけを少し動かしてみてください」
シグマが右手の指を僅かに動かす。
その瞬間、右肩から胸の奥へ鋭い痛みが走った。
「っ……!」
「シグマ!」
フェルンが不安そうに身を乗り出す。
神父はすぐにシグマの右腕を支え、その動きを止めた。
「もう結構です。今はこれ以上動かしてはいけません」
「すみません」
「右腕だけでなく、身体の内側にも大きな損傷が残っています。完全に回復するまでには、数週間かかるでしょう」
「数週間……」
「これでも予想より早い回復です」
神父は包帯を丁寧に巻き直した。
「しばらくは右腕へ魔力を流さないでください。回復魔法も、まだ使用してはいけません」
「分かりました」
「今後は毎日、診察と浄化を受けていただきます。今日一日容体が安定していれば、夕方には大聖堂近くの宿へ移って構いません」
シグマは少し考えてから尋ねた。
「旅を続けるのは?」
「お勧めできません」
神父は即答した。
「馬車の揺れだけでも、塞がりかけた傷が開く可能性があります。少なくとも、私が許可するまではカルガランを離れないでください」
「そうですか……」
シグマが小さく息を吐いた直後、廊下から複数の足音が近づいてきた。
扉が開き、紅蓮、白鬼、シルフ、メイメイ、凛が次々と治療室へ入ってくる。
「シグマ!」
先頭にいた紅蓮が寝台へ駆け寄った。
「本当に目を覚ましたのか!?」
「ああ。今度はちゃんと起きてる」
「私が誰か分かる?」
白鬼が寝台の反対側から顔を覗き込む。
「白鬼」
「こっちは?」
「黒鬼」
「じゃあ、あそこにいる小さい緑色は?」
「誰が小さい緑色や!」
シルフがすぐに声を上げた。
白鬼はその反応に満足したように頷く。
「うん。ちゃんといつものシグマだね」
「確かめ方がおかしくないか?」
「元気そうで安心したわ」
シルフは呆れた様子を見せながらも、安堵したように表情を緩めた。
メイメイと凛も、少し離れた場所から静かにシグマを見つめている。
「皆様」
神父が咳払いをした。
「目を覚ましたばかりです。騒がせてはいけません」
「す、すまない」
紅蓮が素直に頭を下げた。
「詳しい話は宿へ移ってからにしてください。今は食事を取り、もうしばらく休ませる必要があります」
仲間たちは名残惜しそうにしながらも、神父に従って治療室を出ていった。
フェルンだけはシグマの左手を離そうとしなかったが、最後には黒鬼に手を引かれて退室する。
扉が閉まる直前まで、その狼耳はシグマの方へ向けられていた。
◇
夕方。
シグマは神官たちの手を借り、大聖堂のすぐそばにある宿へ移った。
大通りから少し離れた場所に建つ、三階建ての宿だった。
正面には石畳の広場があり、その中央では大きな噴水が水音を響かせている。
シグマに用意されたのは、階段に近い二階の部屋だった。
寝台へ腰を下ろすだけでも身体が軋むように痛んだが、大聖堂の地下にある治療室よりも、木の温もりを感じられる宿の方が気持ちは落ち着いた。
「それじゃあ、始めるぞ」
紅蓮が椅子を寝台の正面へ運んできた。
「何をだ?」
「説教だ」
「今でないと駄目なのか?」
「神父から、長引かなければ話をしても構わないと言われた」
「わざわざ確認したのか……」
「当然だ」
紅蓮が椅子へ座る。
その両隣には白鬼と黒鬼が並び、シルフ、メイメイ、凛も部屋の中に集まっていた。
フェルンは寝台の端へ座り、シグマが逃げないようにするつもりなのか、左腕へしがみついている。
「全員で囲む必要はあるのか?」
「ある」
紅蓮が即答した。
「まずは私からだ。シグマ、お前は自分の身体を何だと思っている?」
「自分の身体だと思っている」
「そういう意味ではない!」
紅蓮の声が部屋へ響く。
すぐに黒鬼から「大声は駄目です」と注意され、紅蓮は一度咳払いして声を落とした。
「お前が戻ってきたとき、どんな姿をしていたと思っている。限界が近いことくらい、自分でも分かっていただろう」
「……ああ」
「なら、なぜ一人で残った?」
「あのまま俺まで離れたら、黒騎士たちが皆を追うと思った」
シグマが静かに答えると、紅蓮は言葉を詰まらせた。
何かを言い返そうとして口を開いたが、すぐには続きが出てこない。
「そういうところ!」
代わりに白鬼が声を上げた。
「すぐに自分一人で何とかしようとするところが駄目なの!」
「白鬼まで……」
「当たり前でしょ! 戻ってきたと思ったら、右肩から血を流して、そのまま倒れたんだから!」
黒鞘刀を杖にして、シグマがどうにか仲間たちのところまで戻ってきたとき、最初に異変へ気づいたのはハクだった。
倒れかけたシグマの身体をハクが受け止め、その場で白鬼と黒鬼が治療を始めた。
だが、右肩の傷へ魔力を流した途端、傷は急激に悪化した。
「私も黒鬼も、どうしたらいいか分からなかったんだから!」
「悪かった」
「右腕に異変があったなら、どうして先に教えてくれなかったの?」
「俺も、あそこまでになるとは思っていなかった」
「分からなかったなら、それもちゃんと言って!」
「分からないことを、どうやって伝えるんだ?」
「『何が起きるか分からない』って言えばいいの!」
「なるほど」
シグマが納得すると、白鬼はさらに頬を膨らませた。
「素直に納得されると怒りづらいんだけど」
「俺はどうすればいいんだ?」
「とにかく反省して!」
「ああ。反省してる」
「軽い!」
白鬼の隣で、黒鬼が小さく手を挙げた。
「私からも、あります」
「黒鬼もか」
「はい」
黒鬼は少し俯きながら、小さな声で続けた。
「身体に異変があったら、すぐに教えてください。隠したまま一人で戦うのは、もうやめてほしいです」
「分かった」
「本当に、お願いします」
「ああ。約束する」
黒鬼はシグマの返事を聞くと、安心したように小さく頷いた。
「次は、うちやな」
シルフが腕を組んで前へ出る。
「うちは、自分を犠牲にして仲間を守ることが、全部間違いやとは思っとらん」
「そうなのか?」
「戦っとったら、誰かが無茶せなあかんときもある。せやけど、それは最後の最後や。仲間を逃がすためやからって、一人で残って、そのまま帰ってこんのは無茶にもほどがある」
「一応、帰ったつもりなんだが」
「倒れる寸前で戻ってくるんは、無事に帰ったとは言わへん!」
シルフは真剣な目でシグマを見つめた。
「次に同じことが起きても、勝手に一人で残らんといて。うちらにも一緒に戦わせてや」
「だが、あのときは――」
「うちらが足手まといやったんは分かっとる」
シルフは悔しそうに唇を噛んだ。
「それでも、何も知らんまま待っとるしかないんは、もう嫌なんや。せめて、どうするつもりなんかくらいは言うてほしい」
「……ああ。分かった」
「本当やな?」
「ああ。次はできる限り伝える」
「できる限り、か……まあ、今はそれで許したる」
「甘くない?」
白鬼が口を挟む。
「いきなり全部直せ言うても無理やろ。少しずつ覚えさせたらええねん」
「俺は訓練中の動物か?」
「放っといたら勝手に危ないところへ行くんやから、似たようなもんや」
「それなら、止める役も必要だね」
「紅蓮でええやろ。力ずくで止められそうやし」
「任せろ。言うことを聞かなければ、殴ってでも止める」
「傷が増えないか?」
「倒れるよりはましだ!」
三人のやり取りを見ながら、メイメイが小さく笑った。
「それじゃあ、お姉ちゃんからも一つだけ言わせてもらおうかな」
「まだあるのか……」
「もちろん。シグマくんに言われたとはいえ、一人で残してしまったことは後悔しているの」
「メイメイのせいじゃない。あの場を離れるように言ったのは俺だ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、お姉ちゃんをもっと頼ってほしかったな」
メイメイはシグマの頭へ手を伸ばし、優しく撫でた。
「全部を一人で背負おうとしたら駄目よ。年上を頼るのも、大事なことなんだから」
「子供扱いしてないか?」
「シグマくんは放っておくと危なっかしいから、これくらいでちょうどいいの」
最後に凛が一歩前へ出る。
「私からは、ラトナ冒険者ギルドの者として申し上げます」
凛は背筋を伸ばし、生真面目な表情でシグマを見据えた。
「療養中の単独行動は禁止です。大聖堂へ向かうときも、必ず誰かに付き添ってもらってください」
「そこまでしなくても――」
「禁止です」
「……分かった」
「また、右腕に異常を感じた場合は、どれほど小さな変化でも報告してください」
「ああ」
「無断で街の外へ出ることも認めません」
「俺は捕まったのか?」
「似たようなものです」
凛が真顔で答えると、シルフが吹き出した。
「せやな。しばらくは療養という名の監禁生活や」
「監禁……」
「大丈夫!」
それまでシグマの腕へしがみついていたフェルンが、勢いよく顔を上げた。
「フェルンが、シグマを見張る!」
「それは大丈夫なのか?」
「ずっと一緒にいる。ご飯のときも、お風呂のときも、寝るときも!」
「風呂は駄目だ」
「どうして?」
「どうしてでもだ」
「なら、扉の前で待つ!」
「監視役が一番厳しそうだな……」
シグマが困ったように呟くと、部屋の中に笑い声が広がった。
説教が一段落すると、シグマは寝台へ背中を預けた。
思っていた以上に体力を使ったらしく、呼吸が少し乱れている。
黒鬼はすぐに水の入ったカップを差し出した。
「少し休んでください」
「ああ。ありがとう」
シグマは水を飲み、そのまましばらく目を閉じた。
仲間たちも急かすことなく、静かに待っている。
やがて呼吸が整うと、紅蓮が表情を引き締めた。
「話せそうか?」
「ああ」
「私たちが移動した後、何があった?」
部屋の空気が変わった。
シグマは包帯に覆われた右腕へ視線を落とす。
「皆が離れた後も、黒騎士たちは俺を囲んでいた」
「やっぱり、うちらを追うつもりやったんか?」
「分からない。だが、すぐに俺を倒して追いかけるつもりだったと思う」
シグマは右手の指を僅かに動かした。
「普通に戦い続けても、長くは持たないと思った。それで、炎帝石の力を使った」
「炎帝石を……」
紅蓮が低い声で呟く。
「ああ。あのとき炎帝石の力を、右腕から解放した」
「それで、あんな傷に?」
白鬼の問いに、シグマは頷いた。
「力を使った直後から、怒りが膨れ上がった」
「怒り?」
「ああ。自分の感情のはずなのに、自分では抑えられなかった。フェルンを狙ったことも、皆を傷つけたことも、何もかも許せなくなって……黒騎士を一人残らず焼き尽くせばいいと思った」
フェルンがシグマの左腕を抱く力を強める。
「炎を放ったところまでは覚えている。その後も戦っていたはずだ。だが、途中から記憶が途切れている」
「どうやって戦いが終わったのかも、覚えていないのか?」
紅蓮に尋ねられ、シグマは首を横へ振った。
「はっきりとは覚えていない。気づいたときには炎が弱まり、周囲に追ってくる者の気配はなかった」
「それから、一人で戻ってきたん?」
「ああ。皆が向かった方へ歩いた。途中からは、それもよく覚えていない」
「そのまま、私たちの前で倒れたんだよ」
白鬼が不満そうに付け加えた。
「そうだったのか」
「まったく覚えてないの?」
「ああ。ハクに受け止められたことも覚えていない」
重い沈黙が落ちた。
「もう少し長く力を使っていたら、二度と自分に戻れなかったかもしれない」
シグマの言葉に、白鬼と黒鬼の表情が強張る。
「だったら、簡単に使っちゃ駄目だよ」
「ああ」
「シグマが自分で止められないなら、私たちが止める」
「そのときは頼む」
シグマが答えると、紅蓮が力強く頷いた。
「今後、炎帝石の力は最後の手段だ。一人の判断で使うことは許さない」
「分かった」
「それから、今後の旅についてだが――」
「完全に治るまでは、カルガランに残る」
紅蓮が言い終える前に、シグマが答えた。
全員が意外そうに目を瞬かせる。
「なんだ?」
「いや……もっと反対すると思っていた」
「神父から数週間かかると言われた。今の状態で旅を続けたら、また皆に迷惑をかける」
「ようやく反省したんやな」
シルフが感心したように頷く。
「今の説教をもう一度聞きたいなら、反対してもいいけど」
白鬼に笑顔で言われ、シグマはすぐに首を横へ振った。
「遠慮しておく」
シグマの傷が完全に治るまで、一行はカルガランに滞在する。
その間、メイメイはフェルンの護衛として残ることになった。
凛はラトナへ調査の経過を報告するため、護衛二人と共に翌朝の馬車でカルガランを発つという。
「飛龍では帰らないのか?」
「帰路は急ぎではありませんから」
凛が答える。
「領主様とカルガランの冒険者ギルドから預かった報告書や、現場で回収された物も運ばなければなりません。飛龍より馬車の方が都合がよいのです」
「そうか」
「飛龍については、発着場とラトナ支部の間で返却の手配が済んでいます」
今後の方針が決まり、話し合いはそこで終わった。
夕食は全員で取ることになった。
ただし、シグマに用意されたのは、具材を細かく煮込んだ薄味のスープだけだった。
向かいでは紅蓮が厚く切られた肉へ豪快に齧りつき、白鬼とシルフは香辛料を使った鳥肉料理を取り合っている。
「どうして俺だけ、これなんだ?」
「病人だからに決まってるでしょ」
白鬼が鳥肉を頬張りながら答える。
「目の前で食べなくてもいいと思うんだが」
「一人にしたら、何をするか分からないから」
「何もしない」
「信用できない」
「今日くらい信用してくれてもいいだろ」
「今日から信用を取り戻すの!」
言い返せず、シグマはスープを口へ運んだ。
味は悪くない。
だが、香ばしく焼かれた肉の匂いが漂う中では、あまりにも物足りなかった。
食事を終えると、皆はそれぞれの部屋へ戻っていった。
フェルンは最後まで残りたがったが、寝台の隣に椅子を置いて眠ると言い出したため、白鬼と黒鬼に連れられていく。
部屋の灯りが消えると、宿の中は次第に静かになった。
シグマは目を閉じた。
しかし、眠ることはできなかった。
炎の中で黒騎士と刃を交えた記憶。
自分の中で膨れ上がっていった怒り。
何もかも焼き尽くしたいという衝動。
目を閉じるたび、それらが鮮明に蘇る。
昼間交わした約束が、頭をよぎった。
一人で行動しない。
何かあれば、必ず皆へ伝える。
それでも今夜だけは、一人で外の空気を吸いたかった。
シグマはゆっくりと身体を起こした。
「っ……」
右肩から胸にかけて、軋むような痛みが走る。
寝台の脇に立てかけられていた杖を手に取り、音を立てないように部屋を出た。
階段を一段下りるたび、全身へ鈍い痛みが広がる。
一階の食堂には、まだ薄明かりが残っていた。
数人の客が酒を飲みながら、小声で話している。
そのうちの一人が、階段を下りてきたシグマへ視線を向けた。
シグマが食堂を横切る間も、その客の目は静かに動きを追っていた。
胸の奥が僅かにざわつき、シグマは無意識に顔を伏せた。
杖を握る左手へ力を込め、足早に食堂を抜ける。
宿の外へ出ると、入り口の近くにも数人の姿があった。
酔いを醒ましている者や、壁際で話し込んでいる者たちだ。
シグマの姿を見ると、そのうちの何人かが会話を止めた。
再び視線が集まり、胸の奥が締めつけられる。
それでも引き返さず、顔を伏せたまま宿の正面にある広場へ向かった。
中央の噴水まで歩き、その縁へゆっくり腰を下ろす。
静かな水音が、夜の広場に響いていた。
シグマは杖を足元に置き、空を見上げる。
雲一つない夜空には、無数の星が輝いていた。
「……眠れませんか?」
背後から聞こえた声に、シグマは振り返った。
黒鬼が外套を羽織り、広場の入り口に立っていた。
「黒鬼」
「部屋の窓から見えました。シグマが宿を出ていくところが」
「起こしたか?」
「まだ起きていました」
黒鬼はゆっくりとシグマの前まで歩いてくる。
何か言いたそうに口を開きかけたが、すぐに俯いてしまった。
「どうした?」
「……単独行動は禁止されたばかりです」
「ああ」
「それなのに、どうして一人で出ていくんですか?」
「眠れなかったんだ。部屋にいると、余計なことばかり考えてしまってな」
「だからといって、一人で出歩いてはいけません」
黒鬼の声は強くなかった。
それでも普段より僅かに硬く、怒っていることは分かった。
「悪かった」
「本当に心配したんですから……」
黒鬼は小さく呟くと、噴水の縁へ目を向けた。
シグマの隣へ座ろうとしたが、直前で足を止め、少し離れた場所へ腰を下ろす。
二人の間には、一人分ほどの隙間があった。
噴水から落ちる水の音だけが、静かな広場に響く。
シグマが再び夜空を見上げると、黒鬼もつられるように顔を上げた。
「綺麗だな」
「……はい」
それきり、会話は途切れた。
黒鬼は膝の上で両手を重ね、何度も指を組み直している。
時折、シグマの方へ顔を向けかけては、恥ずかしそうに俯いていた。
「黒鬼」
「は、はい」
「何か話があるんじゃないのか?」
「……どうして、そう思うんですか?」
「さっきから落ち着かないみたいだからな」
「そんなことは……」
否定しかけた黒鬼は、途中で口を閉じた。
誤魔化すことを諦めたように俯き、外套の裾を強く握る。
「話したくないなら、無理に話さなくてもいい」
「違います」
思いのほか強い声が出たことに、黒鬼自身が驚いたように肩を揺らす。
「違うんです。ただ……何と言えばいいのか、分からなくて」
「ゆっくりでいい」
「……はい」
黒鬼は深く息を吸った。
しかし、なかなか次の言葉が出てこない。
しばらく迷った末、黒鬼は噴水の縁へ手をつき、ほんの少しだけシグマとの距離を縮めた。
それでもまだ、二人の肩が触れるほどではない。
「シグマ」
「ああ」
「私は……あまり、こういうことを言うのが得意ではありません」
震える声で、黒鬼が話し始める。
「何を言えばいいのかも、どう言えば伝わるのかも、分かりません」
黒鬼は膝の上で手を握り締めた。
「でも、言わないと……また言えなくなると思うので」
途中で何度も言葉を止めながら、それでも懸命に続けようとしている。
シグマは急かさず、黙ってその言葉を待った。
「シグマは、私にとって……」
黒鬼の声が途切れる。
俯いたまま何度か息を整え、ようやくその先を口にした。
「とても、大切な人です」
言い終えた途端、黒鬼の頬が赤く染まった。
「だから、その……失いたく、ありません」
声が次第に小さくなっていく。
「もう目を覚まさないかもしれないと考えたら、怖くて……何をしていても、シグマのことばかり考えてしまって……」
黒鬼はそこで言葉に詰まった。
顔を伏せたまま、シグマの方へ僅かに手を伸ばす。
だが、触れる直前で指が止まった。
一度引っ込めようとして、迷った末に、シグマの袖をそっと摘む。
「私たちを守るためでも、自分を捨てないでください」
「黒鬼……」
「シグマがいなくなったら、私は……」
その先を口にすることができず、黒鬼は唇を噛んだ。
やがて覚悟を決めたようにシグマの隣まで身を寄せると、その左腕を両腕で抱きしめた。
勢いのある動きではない。
拒まれないか確かめるような、恐る恐るとした抱き方だった。
黒鬼はシグマの顔を見ることができず、腕へ額が触れそうなほど深く俯いている。
シグマは驚いたものの、何も言わなかった。
黒鬼も、それ以上は言葉を続けなかった。
二人は黙ったまま、噴水の水音を聞き続けた。
どれほど時間が経ったのだろう。
やがて黒鬼は、我に返ったようにシグマの腕を離した。
自分が何をしていたのか改めて気づいたのか、耳まで真っ赤になっている。
「す、すみません……」
「謝らなくていい」
「でも……」
「伝えてくれて、ありがとう」
シグマが穏やかに答えると、黒鬼はますます顔を上げられなくなった。
「黒鬼が言ってくれたことは忘れない。簡単には変われないかもしれないけど、次は自分も一緒に帰れる方法を考える」
「……本当ですか?」
「ああ。約束する」
「約束……」
黒鬼は小さく繰り返した。
ほんの僅かに口元を緩めた直後、シグマの方を向きかけ、慌てて顔を背ける。
「も、もう戻ります!」
黒鬼は勢いよく立ち上がった。
「急にどうした?」
「遅い時間ですから! シグマも早く戻ってください!」
「ああ。そうだな」
「それから、今夜のことは……」
黒鬼は何かを言いかけ、口を閉じた。
「今夜のこと?」
「……何でもありません!」
黒鬼はシグマへ背を向け、早足で宿へ向かう。
だが、数歩進んだところで足を止めた。
振り返ることなく、その場で待っている。
「黒鬼?」
「シグマが戻るまで、ここにいます」
「先に戻っていいぞ」
「駄目です。またどこかへ行くかもしれません」
「行かないよ」
「信用できません。早く来てください」
恥ずかしさを隠すような黒鬼の言葉に、シグマは小さく笑った。
「ああ。今行く」
シグマが杖を手に立ち上がると、黒鬼は少しだけ歩調を緩めた。
二人の間には僅かな距離があった。
それでも黒鬼は一度もシグマを置いていかず、何度も足を止めながら宿まで付き添った。
◇
黒鬼と広場で話した夜から、数日が過ぎた。
シグマの傷は、少しずつではあるが確実に回復していた。
右肩から胸元に広がっていた黒い変色は薄くなり、寝台から一人で起き上がれるようになっている。
まだ右腕は満足に動かせず、歩くときには杖が必要だったが、部屋の中を移動する程度なら誰かの手を借りずに済むようになっていた。
毎朝、大聖堂で診察と浄化を受ける。
昼までは宿で休み、午後になると部屋や廊下を少し歩く。
それ以外の時間は、ほとんど寝台の上で過ごしていた。
もちろん、シグマが再び勝手な行動をしないよう、部屋には必ず誰かが残っている。
「水、持ってきた」
「ありがとう、フェルン」
「次は何がいる?」
「今のところは何もいらない」
「本当に?」
「ああ」
「お腹は?」
「空いてない」
「暑くない?」
「大丈夫だ」
「寒くない?」
「それも大丈夫だ」
「お外、行きたくない?」
「行きたいけど、今は我慢する」
シグマが答えると、フェルンは満足そうに頷いた。
「ちゃんと反省してる」
「監視される生活にも慣れてきたからな」
「フェルン、監視じゃない。お世話してる」
「そうだったのか」
「そう!」
フェルンは胸を張り、寝台の脇に置かれた椅子へ戻った。
その後ろでは、白鬼が果物の皮を剥きながら笑いを堪えている。
「フェルン。シグマが一人で部屋を出たら、どうするの?」
「捕まえる!」
「言うことを聞かなかったら?」
「紅蓮を呼ぶ!」
「完璧だね」
「妙なことを教えないでくれ」
シグマが困ったように言うと、白鬼は切り分けた果物を一切れ差し出した。
「信用をなくしたシグマが悪いんでしょ」
「そろそろ許してもらえないか?」
「まだ駄目」
「厳しいな……」
そんな騒がしい療養生活にも、少しずつ変化が訪れていた。
その日の朝。
大聖堂での診察を終えて宿へ戻ると、カルガランの領主から使者が来ていた。
シグマの容体が安定したと大聖堂から報告を受け、黒騎士との戦闘について本人から詳しく話を聞きたいという。
「断ることもできます」
使者はそう付け加えた。
「まだ療養中の身です。体調が優れないのであれば、日を改めても構わないとのことです」
「いや、大丈夫です。俺も説明しておいた方がいいと思います」
「シグマ、本当に平気か?」
紅蓮が心配そうに尋ねる。
「ああ。長く歩かなければ問題ない」
「その言葉は、どこまで信用していいんだ?」
「今回は本当に大丈夫だ」
「今回は、ねえ……」
白鬼が疑わしそうにシグマを見る。
結局、シグマ一人を行かせることを誰も認めず、紅蓮とメイメイが付き添うことになった。
フェルンも同行したがったものの、聴取が長引く可能性もあるため、白鬼たちと宿で待つことになった。
領主の屋敷までは、使者が用意した馬車で向かった。
僅かな距離ではあったが、石畳を進むたびに車体が小さく揺れる。
シグマは右肩を押さえ、座席へ深く腰を下ろした。
「痛むの?」
向かいに座るメイメイが、心配そうに顔を覗き込む。
「少しだけだ」
「無理をしたら駄目よ。辛くなったら、すぐお姉ちゃんに言ってね」
「ああ」
「今度は隠しちゃ駄目だからね?」
「分かってる」
「本当に?」
「……辛くなったら、すぐに言う」
「よくできました」
満足そうに笑うメイメイを見て、シグマは小さく息を吐いた。
屋敷へ到着すると、三人は以前メイメイたちが報告を行った応接室へ案内された。
広い室内には領主と数人の文官、そのほかに警備を担当する騎士の姿があった。
シグマが頭を下げると、領主は正面の椅子を示した。
「病み上がりのところを呼び立ててすまない。座ったままで構わない」
「ありがとうございます」
シグマが椅子へ腰を下ろす。
紅蓮とメイメイも、その両隣に用意された席へ座った。
「仲間の方々から、おおよその事情は聞いている」
領主は机の上に置かれた報告書へ目を落とした。
「盗賊の一団に襲われた後、黒い鎧を纏った騎士たちが現れたこと。そして彼らが、銀髪の獣人の少女を狙っていたこともな」
「はい」
「今回は、君が一人で残った後の出来事を確認したい。覚えている範囲だけで構わない。話してもらえるか?」
「分かりました」
領主の隣に座る文官が、紙へ筆を走らせる。
「まず、黒騎士たちは所属を示す物を身につけていたか?」
「確認できませんでした。鎧はすべて黒く、紋章らしいものも見当たりませんでした」
「指揮官と思われる者は?」
「いました。他の者たちが、その男の指示に従って動いていました」
「少女を殺そうとしていたのか。それとも、生きたまま捕らえようとしていたのか?」
「生きたまま連れ去るつもりだったと思います。攻撃も、フェルンを傷つけないようにしているように見えました」
領主の表情が険しくなる。
「盗賊を装った一団と目的は一致しているか」
現時点では、盗賊と黒騎士は同じ騎士団に所属する別部隊である可能性が高い。
しかし、現場から回収された装備には所属を示す紋章がなく、断定できる証拠はまだ見つかっていないという。
「君が仲間を逃がした後、黒騎士たちは追撃しなかったのか?」
「俺を先に排除するつもりだったようです。全員で囲まれました」
「その状態から、どうやって切り抜けた?」
シグマは僅かに迷い、包帯に覆われた右腕へ視線を落とした。
「炎帝石の力を使いました」
「炎帝石?」
領主の眉が僅かに動いた。
「それは、君の右腕に使われている物の名か?」
「はい」
「どのような物だ?」
「俺にも、すべてが分かっているわけではありません」
シグマは慎重に答えた。
「魔石の力を取り込み、炎として放つことができます。ただ、今回は力を使った直後から、自分の感情を抑えられなくなりました。戦闘の途中からは、記憶もほとんど残っていません」
「その傷も、炎帝石の力を使ったために?」
「そうだと思います」
領主はしばらく黙り込み、シグマの右腕を見つめた。
「炎帝石……覇王石の一つか」
その言葉に、シグマは顔を上げた。
「覇王石を知っているんですか?」
「知っていると言えるほどではない」
領主は椅子へ背を預け、記憶を辿るように目を細めた。
「以前、王都を訪れた際、古い勇者の記録を調べている学者から話を聞いたことがあるだけだ」
「どんな話ですか?」
「今からおよそ百年前、先代の土の勇者と火の勇者が、それぞれ特殊な石を所持していたという」
「土と火の勇者が……」
「ああ。それらの石を含む特殊な石を、覇王石と呼ぶ記録が残っているそうだ」
シグマは包帯に覆われた右腕へ目を落とした。
炎帝石が普通の魔石ではないことは分かっていた。
だが、百年前の勇者が同じような石を所持していたという話を聞くのは初めてだった。
「火の勇者が持っていたのが、炎帝石なんですか?」
「そこまでは分からない。私が聞いたのも、覇王石という呼び名と、二人の勇者が特殊な石を持っていたという程度だ」
「ほかにも覇王石があるんですか?」
「複数存在するという話だが、正確な数も名称も知らない」
領主は隣にいる文官へ目を向けた。
文官も静かに首を横へ振る。
「詳しく知りたいのであれば、王都の図書館へ行くといい。勇者に関する古い記録が保管されているはずだ」
「王都の図書館……」
「今すぐ向かえと言っているわけではない」
領主はシグマの傷へ視線を向けた。
「まずは身体を治すことだ。記録は逃げない」
「はい。ありがとうございます」
それからも黒騎士の武器や戦い方、交わした言葉について質問が続いた。
シグマは記憶を補わず、覚えていないことには、はっきりと分からないと答えた。
途中で右肩の痛みが強くなると、メイメイがすぐに気づいた。
「少し休ませていただけますか?」
穏やかな声だったが、断らせない強さがあった。
領主もすぐに聴取を止め、休憩を挟むことを認めた。
シグマは水を飲み、痛みが落ち着いてから残りの質問へ答えた。
聴取が終わる頃には、昼を少し過ぎていた。
「協力に感謝する」
領主は報告書を閉じた。
「こちらでも引き続き調査を進める。新しい事実が判明した場合は、宿か冒険者ギルドを通じて知らせよう」
「よろしくお願いします」
「同じ者たちがカルガランへ入り込んでいる可能性も捨てきれない。療養中だからといって、警戒を怠らないことだ」
「分かりました」
三人は領主へ一礼し、応接室を後にした。
屋敷を出たところで、紅蓮がシグマの顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「ああ。少し疲れただけだ」
「今日はもう宿へ戻るぞ」
「ギルドにも呼ばれているんだろ?」
「だからといって、続けて行く必要はない」
「今日のうちに終わらせたいんだが」
「駄目だ」
紅蓮はきっぱりと言い切った。
「先ほど痛みが出ただろう。宿へ戻って休んでからだ」
シグマはメイメイへ助けを求めるように視線を向けた。
「今回は紅蓮さんが正しいわね」
「メイメイまで……」
「お姉ちゃんとの約束、もう忘れちゃった?」
「忘れてない」
「なら、ちゃんと休みましょうね」
結局、三人は一度宿へ戻ることになった。
昼食を取り、シグマは夕方近くまで寝台で身体を休めた。
その間にメイメイがカルガランの冒険者ギルドへ向かい、聴取の時間を短くするよう話をつけてくれた。
午後。
体調が落ち着いたことを確認してから、今度は全員で冒険者ギルドへ向かった。
シグマは焼け焦げた認識阻害のマントの代わりに、宿で用意してもらった外套を羽織り、フードを深く被っている。
人通りの多い大通りでは、何人もの視線がシグマたちへ向けられた。
胸の奥が僅かにざわつく。
それでも、隣ではフェルンが左手を握り、前後には仲間たちがいる。
シグマは呼吸を整え、ゆっくりと歩き続けた。
カルガランの冒険者ギルドでは、支部を任されている責任者と数人の職員が待っていた。
領主の屋敷で詳しい聴取を受けたことは、すでに伝わっているらしい。
「同じ質問を何度もするつもりはありません」
責任者はそう前置きし、シグマへ椅子を勧めた。
「こちらでは、街道を利用する冒険者や行商人の安全に必要な部分だけを確認させていただきます」
「分かりました」
質問されたのは、最初に盗賊と遭遇した場所、敵の人数や装備、黒騎士が現れた時期、そして今後も同じ街道で襲撃が起きる可能性についてだった。
炎帝石についても尋ねられたが、シグマは特殊な力を使って黒騎士を退けたことと、その反動で負傷したことだけを簡単に説明した。
「黒騎士の所属について、何か分かりましたか?」
シグマが尋ねると、責任者は首を横へ振った。
「残念ながら、まだ断定できる証拠は見つかっていません。ただし、盗賊を装った者たちと黒騎士が、同じ騎士団に属する別部隊だった可能性は高いと見ています」
「そうですか」
「周辺の村と街道には、すでに警戒情報を出しています。行商人にも、単独での移動を避けるよう伝えました」
責任者はそこで一度言葉を切り、メイメイへ視線を向けた。
「ラトナ支部からも追加の報告を受け取っています。凛さんが持ち帰った証言と合わせて、引き続き調査を進めます」
「よろしくお願いします」
メイメイは明るい表情を保ちながらも、真剣な声で答えた。
「この子たちが安心して旅を続けられるように、しっかり調べてくださいね」
「承知しています」
ギルドでの聴取は、領主の屋敷よりも短い時間で終わった。
外へ出ると、傾き始めた日差しが街並みを柔らかく照らしていた。
「これで全部終わったな」
シグマが大きく息を吐く。
「終わったけど、そのまま宿へ戻るぞ」
紅蓮が当然のように告げた。
「少しくらい歩いてもいいんじゃないか?」
「駄目だ」
「昼に休んだ。それに神父から、短い時間なら歩いてもいいと言われてる」
「短い時間、やろ?」
シルフが念を押す。
「街中を端から端まで見て回るんは、短い時間とは言わへんからな」
「そこまでするつもりはない」
「本当かな?」
白鬼まで疑わしそうにシグマを見る。
メイメイは少し考え、大通りの先へ目を向けた。
「それなら、宿へ戻りながら少しだけ見て回りましょうか」
「メイメイ?」
「ずっと部屋にこもっていたら、気持ちまで沈んじゃうもの。お姉ちゃんたちが一緒なら、少しくらい大丈夫よ」
メイメイはシグマへ顔を向ける。
「ただし、疲れたらすぐに休むこと。勝手に遠くへ行かないこと。それが守れるならね」
「ああ。約束する」
「本当か?」
紅蓮が疑わしそうに見る。
「今度は守る」
「今度は、って自分で言うとるで」
「細かいことは気にするな」
結局、宿へ戻るまでの短い時間だけ、全員で街を散策することになった。
人通りの多い場所は避け、ギルドから宿へ続く大通りをゆっくり歩く。
カルガランは行き交う馬車と商人の声で賑わっていた。
道の両側には、食料品や旅道具、衣服、装飾品などを扱う店が並び、屋台からは香ばしい匂いが漂ってくる。
「シグマ、あれ」
フェルンが指した先では、薄い生地に果物と甘いクリームを包んだ菓子が売られていた。
「食べたいのか?」
「シグマが食べたいなら、フェルンも食べる」
「それは食べたい顔だな」
「違う。シグマのため」
フェルンは真剣な表情で言い張ったが、その視線は屋台の菓子から一度も離れていない。
「じゃあ、俺が食べたいから買おう」
「仕方ないから、フェルンも食べる」
「私も食べたい!」
白鬼が素早く手を挙げる。
「なら、全員分買うか」
「待て」
紅蓮がシグマの前へ手を出した。
「病人に払わせるわけにはいかない。ここは私が出す」
「紅蓮、全員分持ってるの?」
「……シルフ、少し貸してくれ」
「持ってへんのかい!」
屋台の前で騒ぎが起こり、店主まで笑い始める。
結局、紅蓮とシルフが半分ずつ支払い、全員分の菓子を買うことになった。
「おいしい!」
フェルンは一口食べた途端、尻尾を大きく揺らした。
「シグマも食べて」
「ああ」
シグマが菓子を口へ運ぼうとすると、左手に持った杖が邪魔になった。
持ち替えようとしたところで、黒鬼がおずおずと手を伸ばす。
「杖、持ちます」
「大丈夫だ。一人で食べられる」
「でも……」
黒鬼は杖と菓子を交互に見た。
広場で気持ちを伝えた夜から、黒鬼は以前よりもシグマを気にかけるようになっていた。
だが、近づこうとするたびにあの夜を思い出すのか、すぐに恥ずかしそうに俯いてしまう。
「それなら、少しだけ頼む」
「は、はい」
黒鬼はシグマから杖を受け取った。
その指先が左手へ僅かに触れた瞬間、肩を揺らして顔を伏せる。
「ありがとう」
「い、いえ……」
白鬼が二人を交互に見つめた。
「黒鬼、顔が赤くない?」
「赤くないです」
「そう?」
「赤くありません」
黒鬼は頑なに否定し、杖を抱えるように持った。
シグマは事情を説明するべきか迷ったが、黒鬼が小さく首を横へ振ったため、何も言わずに菓子を口へ運んだ。
しばらく歩くと、今度は香辛料を使った串焼きの屋台が見えてきた。
「ええ匂いやな」
シルフが足を止める。
「さっき甘いものを食べたばかりでしょ」
「甘いもんと肉は別腹や」
「聞いたことないよ、そんな別腹」
「白鬼も食べたい顔しとるやん」
「私はシルフがどうしてもって言うなら、付き合ってあげてもいいけど?」
「それ、さっきのフェルンと同じやぞ」
二人が言い争う横で、紅蓮はすでに串焼きを三本注文していた。
「紅蓮が一番食べる気じゃないか」
「療養には栄養が必要だ。シグマも食べろ」
「神父から、刺激の強いものは避けろと言われてる」
「なら、私が食べる」
「最初からそのつもりだっただろ」
賑やかな会話を聞きながら、シグマはゆっくりと街を歩いた。
人の視線が集まるたび、胸の奥が僅かにざわつく。
それでも、隣ではフェルンが左手を握り、少し前では紅蓮たちが騒いでいる。
完全に恐怖が消えたわけではない。
だが、一人で歩いていた夜よりも、呼吸はずっと楽だった。
やがて疲れが足に現れ、杖へ預ける体重が少しずつ増えていく。
誰にも気づかれないようにしていたつもりだったが、メイメイはすぐに足を止めた。
「シグマくん」
「どうした?」
「休憩しましょう」
「まだ歩ける」
「歩けるかどうかじゃなくて、休んだ方がいいかどうかよ」
メイメイは近くの広場に置かれた長椅子を指した。
「ほら、お姉ちゃんの言うことを聞いて」
「……分かった」
シグマが素直に従うと、メイメイは満足そうに笑った。
「今日は聞き分けがよくて偉いわ」
「また子供扱いしてないか?」
「褒めてるだけよ」
長椅子へ座ると、フェルンがすぐに隣へ腰を下ろす。
反対側には黒鬼が座ろうとしたが、少し迷った末、一人分の間を空けて腰を下ろした。
紅蓮たちは屋台で買った食べ物を分け合い、シルフと白鬼は最後の一本を巡って再び言い争っている。
「これなら、療養も悪くないな」
シグマが呟く。
「何言うとるんや。療養せんで済むんが一番やろ」
シルフが呆れたように答える。
「それはそうだな」
「せやけど……」
シルフは仲間たちを見回し、僅かに笑った。
「たまには、こういう寄り道もええかもしれんな」
西へ傾いた陽光が、カルガランの街並みを茜色に染めていた。
アルスラへ向かう旅は、予定より大きく遅れることになった。
それでも今は、焦って先へ進むより、こうして皆と同じ時間を過ごすことの方が大切なのかもしれない。
シグマは賑やかな仲間たちを眺めながら、静かにそう思った。
◇
それからも、シグマたちはカルガランでの日々を過ごした。
毎朝、大聖堂へ通い、診察と浄化を受ける。
初めの頃は街を歩くだけで疲れていたシグマも、日を重ねるごとに杖を使う時間が減っていった。
右肩から胸元に残っていた黒い変色も、今では注意して見なければ分からないほど薄くなっている。
そして、カルガランへ到着してから一か月近くが過ぎた朝。
シグマは大聖堂の診察室で、初老の神父と向かい合っていた。
「右腕を上げてみてください」
「分かりました」
シグマは右腕をゆっくり持ち上げた。
以前なら肩より上へ動かすだけで激しい痛みが走っていたが、今は僅かな違和感が残るだけだった。
「痛みはありますか?」
「少し引っ張られるような感覚はあります。でも、痛いというほどではありません」
「では、指を握ってください」
右手を開閉する。
指先まで問題なく動き、力が抜ける感覚もない。
神父は右肩から胸元へ触れ、魔力の流れを慎重に確認した。
「異常な魔力の反応もありません。傷はほぼ完全に塞がっています」
「それなら、もう戦っても大丈夫ですか?」
「シグマ」
背後から紅蓮の低い声が聞こえた。
振り返ると、紅蓮だけでなく、白鬼、黒鬼、シルフ、フェルン、メイメイまで揃ってシグマを見つめている。
「なんだ?」
「なぜ最初に旅ではなく、戦いについて尋ねるんだ」
「身体が動くか確かめるには、戦うのが一番だと思った」
「そういうところが反省していないと言っている!」
「大声を出す場所ではありませんよ」
神父に注意され、紅蓮は気まずそうに咳払いした。
「……すまない」
神父は苦笑しながら、診察に使った道具を片づける。
「戦闘そのものを禁止する必要はないでしょう。長く休んだことで体力が落ちていますから、少しずつ身体を慣らすことは必要です」
「本当ですか?」
「ただし、以前のような無茶は認めません」
神父はシグマの右腕へ厳しい視線を向けた。
「特に、炎帝石の力は使わないでください。現在は傷が塞がっていますが、同じ力を使えば再び異常が現れる可能性があります」
「分かりました」
「少しでも痛みや熱を感じた場合は、すぐに戦闘を中止すること。それを守れるのであれば、街の外へ出ることも許可します」
「ありがとうございます」
シグマが頭を下げると、フェルンが服の裾を引いた。
「本当に、痛くない?」
「ああ。もう大丈夫だ」
「走っても?」
「たぶんな」
「跳んでも?」
「できると思う」
「倒れない?」
「倒れないよ」
それでも不安が消えないのか、フェルンはシグマの右腕をじっと見つめている。
シグマは左手を伸ばし、その頭を優しく撫でた。
「何かあったら、すぐ皆に言う。約束しただろ?」
「……うん」
「だから心配しなくていい」
「フェルンも、一緒に行く」
「ああ。一緒に行こう」
大聖堂を出た一行は、今後について話し合うため冒険者ギルドへ向かった。
シグマには、街を出る前に会っておきたい相手がいた。
「ハクに会いに行きたい」
歩きながらシグマが告げると、白鬼も大きく頷いた。
「私も会いたい。カルガランに来てから、ずっと離れたままだもんね」
「ハク、元気かな?」
フェルンの狼耳が心配そうに伏せられる。
「呼びかければ反応はある。元気にしてるよ」
ハクは巨大な魔物であるため、カルガランの街中へ入ることができない。
そのため、街から離れた森や草原を移動しながら、シグマたちが街を出るのを待っていた。
「それなら、ちょうどええやん」
シルフが声を上げた。
「ハクに会うついでに、軽い依頼でも受けたらどうや?」
「俺も同じことを考えていた」
「軽い依頼やで? いきなり危険度の高い依頼を選んだらあかんからな」
「分かってる」
「その返事が一番信用できへんねん」
「お姉ちゃんも一緒に選んであげるわ」
メイメイが明るく笑いながら、シグマの肩を軽く叩く。
「復帰したばかりなんだから、無理のない依頼にしましょうね」
「ああ。頼む」
一行がカルガランの冒険者ギルドへ入ると、朝から多くの冒険者たちで賑わっていた。
依頼掲示板の前には複数の人だかりができ、受付では職員たちが忙しそうに書類を処理している。
メイメイが事情を説明すると、以前聴取を担当した責任者が奥から出てきた。
「体調はもうよろしいのですか?」
「今朝、大聖堂から街の外へ出る許可をもらいました」
「それは何よりです。しかし、復帰直後に危険な依頼を受けることはお勧めできません」
「身体を慣らしたいんです。それに、街の外で待っている仲間にも会いたいので」
「仲間というのは、あのレッサーフェンリルですか」
「はい」
責任者は少し考え、机に置かれた依頼書を確認した。
「それでしたら、ちょうどよい依頼が一件あります」
差し出された依頼書には、カルガランから馬車で半日もかからない森に、複数のトロールが出現したと記されていた。
森の近くを通る猟師が三体の姿を確認している。
今のところ人への被害は出ていないが、街道へ近づく前に討伐してほしいという内容だった。
「トロールか」
紅蓮が依頼書を覗き込む。
「一体だけでも、普通の冒険者には危険な相手だな」
「身長は三メートル前後。力が強く、傷の治りも早い魔物です」
責任者は一行の顔を順番に見た。
「ですが、皆さんほどの人数と実力があれば、十分に対応できるでしょう。場所も街から近く、万が一の場合も撤退しやすい」
「これにします」
シグマが答えると、紅蓮が依頼書を奪うように受け取った。
「待て。勝手に決めるな」
「皆で相談する約束だったね」
白鬼が笑顔で釘を刺す。
「そうだったな……」
「忘れるのが早すぎるやろ」
シルフが呆れた声を上げる。
改めて全員で内容を確認した結果、トロール討伐依頼を受けることになった。
ただし、炎帝石の力は使わない。
身体に異常を感じた場合、シグマはすぐに戦闘から離れる。
フェルンはメイメイのそばを離れない。
それらを条件として、紅蓮たちも依頼を受けることに同意した。
「全部守れる?」
白鬼が尋ねる。
「ああ」
「本当に?」
「守るよ」
「なら、信じてあげる」
「少しは信用が戻ったみたいだな」
「ほんの少しだけね」
依頼を受けた一行は宿へ戻り、装備を整えた。
約一か月使われていなかった馬車も、預けていた厩舎から引き出す。
ノクスとソルは十分に休んでいたため元気を持て余しており、紅蓮が手綱を持つと、早く走らせろと言わんばかりに地面を蹴った。
「元気そうやな」
「休みすぎて退屈していたらしい」
御者台へ座った紅蓮が答える。
「だが、いきなり飛ばしすぎるなよ。今日はシグマの身体を確かめるための依頼だ」
「分かってる」
「お前に言ったんだ!」
「俺はまだ何もしてないぞ」
荷台から笑い声が上がる。
全員が馬車へ乗り込むと、ノクスとソルはゆっくりとカルガランを出発した。
追っ手の脅威が消えたわけではない。
正体不明の黒騎士たちが、再び襲ってくる可能性も残っている。
だからといって、いつまでも街に閉じこもっているわけにはいかなかった。
旅を続けるのであれば、身体を戦いへ慣らす必要がある。
街道を進みながら、シグマは何度も右手を開閉した。
「気になるんですか?」
向かいに座る黒鬼が尋ねる。
「少しな。痛みはないけど、前と同じように動けるかは分からない」
「無理をしないでください」
「ああ」
「本当に、無理をしないでくださいね?」
「分かってる」
「約束しましたから」
「覚えてるよ」
黒鬼はまだ不安そうだったが、シグマの返事を聞くと小さく頷いた。
広場で話した夜以来、黒鬼は以前よりもシグマを気にかけるようになっていた。
だが、あの夜のことを思い出すたびに恥ずかしくなるのか、二人きりで目が合うとすぐに顔を伏せてしまう。
「黒鬼、また顔が赤いよ」
白鬼が横から覗き込む。
「赤くありません」
「馬車の中、暑い?」
「暑くないです」
「なら、どうして赤いの?」
「知りません」
黒鬼は逃げるように窓の外へ顔を向けた。
何も知らない白鬼が首を傾げる横で、シグマは黙って目を逸らした。
昼前には、目的の森が見えてきた。
馬車を街道から外れた開けた場所へ止め、全員が荷台から降りる。
シグマが目を閉じ、ハクへ意識を向けた。
遠くにいる相棒へ呼びかけるように、強くその姿を思い浮かべる。
間もなく、森の奥から草木を掻き分ける音が聞こえてきた。
「来た!」
フェルンの狼耳が勢いよく立ち上がる。
白銀の巨体が木々の間から姿を現した。
体高は大人の背丈に近く、頭から尾までの長さは三メートルほどある。
ハクは一行を見つけると速度を上げ、シグマの前まで駆けてきた。
「久しぶりだな、ハク」
シグマが左手を伸ばす。
ハクはその手へ鼻先を押しつけた後、シグマの身体を確かめるように何度も匂いを嗅いだ。
「もう大丈夫だ。心配をかけたな」
ハクは納得していないのか、低く喉を鳴らした。
次の瞬間、大きな頭をシグマの胸元へ押しつける。
「待て、ハク。重い」
シグマが押されて一歩下がると、紅蓮がすぐに背中を支えた。
「病み上がりに突進するな!」
紅蓮に注意されても、ハクはシグマから離れようとしない。
「ハク、フェルンもいる!」
フェルンが白銀の毛へ飛びつく。
ハクはようやくシグマから顔を離すと、今度はフェルンの頬を大きな舌で舐めた。
「つめたい!」
そう言いながらも、フェルンの尻尾は嬉しそうに揺れている。
白鬼もハクの首元へ抱きつき、シルフは背中を何度も叩いた。
「元気そうでよかったわ」
「本当に、皆さんと仲がいいのね」
少し離れた場所から見ていたメイメイが微笑む。
「ハクくんも、ずっと待っていたんでしょうね」
再会を喜んだ後、一行は討伐の準備を始めた。
ハクが森の匂いを確かめ、トロールの痕跡を探す。
すぐに大きな足跡が見つかった。
人間のものより遥かに大きく、周囲には折れた枝や踏み潰された草が続いている。
「三体とも近くにおるみたいやな」
シルフが神の目で森の奥を見通す。
「ここから北東へ少し行ったところや。岩場の近くに集まっとる」
「俺が先頭に立つ」
シグマが前へ出ようとすると、紅蓮が肩を掴んだ。
「待て」
「なんだ?」
「ハクと私が前だ。お前は中央にいろ」
「身体を慣らすために来たんだぞ」
「最初からすべて任せるとは言っていない。まずは自分がどれだけ動けるか確かめろ」
「そうやな。身体が動くからって、いきなり一人で突っ込むんは禁止や」
「分かったよ」
先頭をハクと紅蓮が進む。
その後ろにシグマとシルフ、白鬼、黒鬼が続き、最後尾ではメイメイがフェルンを守る。
足跡を追って森を進むと、やがて木々の間に岩場が見えてきた。
三体のトロールが、地面へ座り込んで獣の肉を食べている。
一体一体が三メートル近い巨体だった。
灰色がかった分厚い皮膚に覆われ、丸太をそのまま削ったような棍棒を持っている。
風向きが変わった。
一体のトロールが鼻を鳴らし、シグマたちの方へ顔を向ける。
「グオオオオッ!」
咆哮が森を震わせた。
三体のトロールが立ち上がり、棍棒を手に一斉に駆け出す。
「来るぞ!」
紅蓮が大剣を構えた。
最初の一体が棍棒を振り上げる。
だが、それが振り下ろされるより先に、ハクが地面を蹴った。
白銀の巨体がトロールの胸元へ激突する。
「グオッ!?」
トロールの巨体が仰向けに倒れた。
すぐさま紅蓮が踏み込み、大剣を振り下ろす。
分厚い皮膚を刃が切り裂き、最初の一体は起き上がることなく動きを止めた。
「一体!」
「こっちも来るで!」
二体目のトロールが横から迫る。
シルフが弓を引き、素早く二本の矢を放った。
矢はトロールの両目の近くへ突き刺さり、その足を止める。
「グアアアッ!」
「白鬼!」
「任せて!」
白鬼が両手を向けると、地面から鋭い氷の柱が突き出した。
氷はトロールの足元を貫き、その巨体をその場へ縫い止める。
トロールが棍棒を振り回しながら暴れた。
凄まじい力で氷に亀裂が走る。
そこへメイメイが飛び込んだ。
「フェルンちゃん、そこを動かないでね!」
「うん!」
メイメイはトロールの棍棒を掻い潜り、懐へ潜り込む。
流れるような動きで足を払うと、巨体が大きく傾いた。
「今よ!」
再び白鬼が魔法を放つ。
鋭い氷塊がトロールの胸元を貫き、二体目も地面へ崩れ落ちた。
「残り一体や!」
三体目のトロールは、仲間が倒されたことにも構わずシグマへ向かってきた。
振り上げられた棍棒が、唸りを上げる。
シグマは腰の黒鞘刀へ左手を伸ばした。
柄を握り、僅かに引く。
しかし、刀身は鞘に収まったまま、少しも動かなかった。
「やっぱり抜けないか」
黒鞘刀にとって、目の前のトロールは刀身を晒すほどの相手ではないらしい。
「今言うことか!?」
紅蓮の声が飛んでくる。
「大丈夫だ」
シグマは柄から手を離さず、鞘に収めたまま黒鞘刀を構えた。
迫る棍棒を正面から受けるのではなく、その側面へ鞘を当てて軌道を逸らす。
重い衝撃が左腕へ伝わった。
だが、身体は揺らがない。
「動ける」
シグマはすぐにトロールの懐へ踏み込んだ。
地面へ土魔法を流す。
トロールの足元が隆起し、片足を大きく跳ね上げた。
「グオッ!?」
巨体が体勢を崩す。
シグマは身体を回転させ、鞘に収めた黒鞘刀をトロールの脇腹へ叩き込んだ。
鈍い衝撃音が響く。
トロールは横へよろめいたものの、倒れずに踏み止まった。
すぐに反撃の棍棒が振り回される。
シグマは後方へ跳び、それを避けた。
肩にも胸にも痛みはない。
呼吸も乱れていなかった。
「シグマ、無理してない!?」
白鬼が声を上げる。
「ああ。問題ない!」
「なら、続けるぞ!」
紅蓮がトロールの右側から斬りかかる。
トロールが大剣を棍棒で受け止めた。
その間に、ハクが反対側から足へ噛みつく。
「グアアアッ!」
トロールの注意が二人へ向いた。
シグマは左手を地面へ向ける。
岩のように固い土がトロールの両足を包み込み、その動きを完全に止めた。
「シルフ!」
「分かっとる!」
シルフの矢がトロールの額へ突き刺さる。
続いて白鬼の魔法が胸元で炸裂した。
巨体が仰向けに倒れ、地面が大きく揺れる。
トロールはしばらく手足を動かしていたが、やがて力を失った。
「終わったか?」
紅蓮が周囲を警戒する。
シルフは神の目で森の奥まで確認し、弓を下ろした。
「ほかにはおらん。依頼にあった三体だけや」
戦闘は、始まってから僅かな時間で終わっていた。
一体でも普通の冒険者には脅威となるトロールを、三体。
それでも万全の仲間たちが揃っていれば、苦戦するほどの相手ではなかった。
「シグマ!」
フェルンが駆け寄ってくる。
「怪我してない?」
「してないよ」
「本当に?」
「ああ」
フェルンはシグマの服や腕を何度も確認した。
黒鬼も近づき、右肩へそっと手を添える。
「痛みはありませんか?」
「ない。魔力の流れも問題ないと思う」
「思う、では困ります」
「本当に問題ないよ」
黒鬼は回復魔法を使わず、シグマの表情や呼吸を慎重に確かめた。
「……大丈夫そうです」
「言っただろ?」
「シグマは無理を隠すので、言葉だけでは信用できません」
「まだ信用が戻ってないのか」
「少しずつです」
「厳しいな」
シグマが苦笑すると、黒鬼は僅かに口元を緩めた。
「それにしても、ほんまに抜けへん刀やな」
シルフが黒鞘刀を覗き込む。
「トロール相手でも抜けへんのか」
「必要がないと思ったんだろう」
「刀にまで過保護にされとるんちゃうか?」
「それはないと思う」
「どうやろな」
シグマは黒鞘刀へ目を落とす。
今は何の反応もない。
危険がないと分かっているのか、それとも単に興味がないのか。
どちらにしても、無理に抜こうとしても黒鞘刀が応じることはないだろう。
討伐の証明となる魔石を回収し、一行は馬車へ戻った。
帰りの車内では、フェルンと白鬼がハクの身体へもたれかかっている。
ハクも狭そうにしながら二人を拒まず、大人しく伏せていた。
「ハクを荷台へ乗せたら、さすがに狭いな」
シグマが呟く。
「でも、ハクも一緒がいい」
フェルンが白銀の毛へ顔を埋める。
「街へ入る前には、また離れなあかんけどな」
シルフの言葉に、フェルンの狼耳が下がった。
「すぐに迎えに来る」
シグマがハクの頭を撫でる。
「もう旅を再開できそうだからな」
「本当に出発するの?」
白鬼が尋ねる。
「ああ。今日戦ってみて分かった。身体はもう問題ない」
「炎帝石は使ってないけどね」
「これからも、簡単に使うつもりはないよ」
「ならいいけど」
紅蓮は御者台から振り返らずに尋ねた。
「出発はいつにする?」
「明日は準備に使おう。その次の日の朝でどうだ?」
「急やない?」
シルフが少し驚いた顔をする。
「必要な物の多くは揃ってる。それに、あまり長く同じ街へ留まるのも危険だ」
黒騎士たちの正体は、まだ分かっていない。
この一か月、カルガランで襲撃が起こることはなかったが、追っ手が諦めたとは限らない。
「それなら、早く出た方がええかもしれんな」
「皆はどう思う?」
シグマが尋ねると、紅蓮が最初に答えた。
「異論はない。お前の身体が問題ないのなら、旅を再開しよう」
「私もいいよ」
「私も、大丈夫です」
白鬼と黒鬼も頷く。
「フェルンも行く」
「それは最初から決まってるだろ?」
「うん。ずっと一緒」
フェルンがシグマの左腕へ抱きつく。
シルフも笑いながら頷いた。
「うちも賛成や。そろそろ先へ進まんとな」
最後に、全員の視線がメイメイへ向けられた。
メイメイは少し寂しそうに目を細めたものの、すぐにいつもの明るい笑顔を浮かべた。
「そうね。シグマくんも元気になったし、お姉ちゃんの護衛はここまでかな」
「メイメイは一緒に来ないの?」
フェルンが寂しそうに尋ねる。
「お姉ちゃんには、ラトナで待っているお仕事があるの」
「ずっと一緒は、駄目?」
「ごめんね」
メイメイはフェルンの頭を優しく撫でた。
「でも、お別れしても、もう会えないわけじゃないわ。またラトナへ戻ってきたら、いつでも会えるからね」
「……約束?」
「ええ。約束よ」
フェルンは不満そうにしながらも、小さく頷いた。
その日の夕方、一行はカルガランの冒険者ギルドへ戻り、トロール討伐の完了を報告した。
三体分の魔石が確認され、依頼は正式に達成となる。
シグマの復帰戦に問題がなかったことを知ると、ギルドの責任者も安堵したように頷いた。
そして、旅を再開することも告げた。
「黒騎士について新しい情報が入りましたら、アルスラの冒険者ギルドを通してお知らせします」
「お願いします」
「くれぐれも警戒を怠らないようにしてください」
「分かりました」
宿へ戻る頃には、空が茜色に染まっていた。
カルガランで過ごす夜も、残り二日となった。
◇
翌日は、朝から旅立ちの準備に追われた。
食料や水、馬車の修理道具、ノクスとソルの餌を買い足す。
長く滞在した部屋の荷物を整理し、必要のない物は処分した。
シルフと白鬼は買い出しを任されたものの、途中で菓子や串焼きを買い込んで戻ってきた。
「これは旅に必要な食料や」
「半分以上お菓子じゃないか」
「甘いもんは疲労回復に効くんや」
「神父みたいなこと言わないでよ。私が選んだのも入ってるんだから」
「二人とも同じじゃないか」
紅蓮が呆れながら荷物を確認している横で、黒鬼は薬や包帯を一つずつ整理していた。
「シグマの分は、多めに用意しておきました」
「そこまで必要ないと思うけど」
「必要です」
「まだ怪我をするとは決まってないぞ」
「シグマなので、必要です」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です」
黒鬼は真顔で答え、包帯を荷物へ詰め込んだ。
フェルンはメイメイと一緒に、旅へ持っていく服を畳んでいる。
「これは?」
「それは冬に使う服だから、荷物の奥でいいわね」
「これは?」
「すぐに使うから、取り出しやすいところにしまいましょう」
「分かった」
メイメイは一つずつ丁寧に説明しながら、フェルンと荷造りを続けていた。
その姿を見ていると、明日の朝には別れるという実感が少しずつ湧いてくる。
夕食は、カルガランでの最後の夜ということで、全員で取ることになった。
テーブルには焼いた肉や魚、煮込み料理、パンなどが並んでいる。
「シグマ、今日はスープだけじゃないね」
白鬼が楽しそうに言う。
「もう病人じゃないからな」
「本当に?」
「大聖堂から許可をもらっただろ」
「なら、これも食べていいよ」
白鬼は香辛料のかかった肉をシグマの皿へ乗せた。
「おい。それはシルフの皿から取っただろ」
「細かいことは気にしないで」
「気にするわ!」
シルフがすぐに声を上げる。
紅蓮とフェルンが笑い、黒鬼も小さく口元を緩めた。
メイメイは賑やかな仲間たちを眺めながら、静かに微笑んでいる。
「メイメイ、どうした?」
シグマが尋ねる。
「何でもないわ。ただ、最初に会った頃より、皆ずっと仲良くなったなって思って」
「そうかな?」
「ええ。とっても」
メイメイはカップを持ち上げた。
「明日からの旅も、皆で助け合うのよ。誰か一人だけで頑張ろうとしたら駄目だからね」
その視線が、真っすぐシグマへ向けられる。
「俺に言ってるのか?」
「ほかに誰がいるの?」
「せやな」
「シグマしかいないね」
シルフと白鬼まで同意する。
「分かったよ。できるだけ皆を頼る」
「できるだけ、じゃなくて、ちゃんと頼るの」
「……善処する」
「それ、守らない人の言い方よ?」
メイメイが呆れたように笑い、皆もつられて笑った。
食事が終わっても、誰もすぐには席を立たなかった。
旅の話やカルガランでの出来事を振り返りながら、夜が更けるまで会話が続いた。
◇
翌朝。
空が白み始めたばかりの早い時間に、一行は宿を出た。
通りにはまだ人影が少なく、冷たい朝の風が石畳の上を吹き抜けている。
宿の前には荷物を積み終えた馬車が止まり、ノクスとソルも出発を待っていた。
カルガランへ到着してから、約一か月。
命に関わる傷を負い、長い療養を続けた街とも、ようやく別れる時が来た。
「忘れ物はないな?」
紅蓮が確認する。
「大丈夫」
「食料も水も積んだで」
「薬もあります」
「お菓子もあるよ!」
「それは食料とは別なのか?」
シグマが白鬼を見る。
「大事な旅道具だよ」
「何に使うんだ?」
「食べる」
「やっぱり食料じゃないか」
いつもと変わらない会話が交わされる。
しかし、フェルンだけはメイメイの服を掴んだまま、なかなか離そうとしなかった。
「フェルンちゃん」
メイメイがしゃがみ込み、フェルンと目を合わせる。
「お別れするの、寂しい?」
「……うん」
「お姉ちゃんも寂しいわ」
「なら、一緒に来る?」
「それはできないの」
メイメイは困ったように笑い、フェルンを優しく抱きしめた。
「でも、絶対にまた会えるわ。それまで、ちゃんとご飯を食べて、皆の言うことを聞くのよ」
「シグマの言うことも?」
「シグマくんが無茶をしようとしたときは、聞かなくていいわ」
「分かった」
「そこは分かるのか……」
シグマが呟くと、メイメイは楽しそうに笑った。
フェルンが離れると、白鬼がメイメイへ抱きつく。
「メイメイ、また遊びに行くからね」
「ええ。待ってるわ」
「次はもっとおいしいお店に連れていって」
「それが目的なの?」
「半分くらい」
「正直ね」
黒鬼もメイメイの前へ進み、丁寧に頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
「そんなに畏まらなくていいのよ」
メイメイは黒鬼の手を取り、柔らかく笑った。
「黒鬼ちゃんも、自分の気持ちは大事にしてね。言わないと伝わらないこともあるから」
「……はい」
黒鬼の頬が僅かに赤くなる。
それを見た白鬼が首を傾げたが、黒鬼は素早く顔を逸らした。
「シルフちゃんも、皆をお願いね」
「任せとき。うちが一番しっかり見張っとくわ」
「一番騒がしいの間違いだろ」
「なんやて?」
「朝から喧嘩するな」
紅蓮が二人の間へ入り、そのままメイメイへ向き直った。
「世話になった」
「紅蓮さんも、あまり一人で抱え込まないでくださいね」
「私はシグマほどではない」
「それでもよ」
「……分かった」
最後に、シグマがメイメイの前へ立った。
「本当に、ありがとう。メイメイがいてくれなかったら、カルガランまで辿り着けなかったかもしれない」
「お礼なんていいのよ。お姉ちゃんは、自分がしたいことをしただけだから」
「それでも助かった」
「なら、元気に旅を続けること。それがお姉ちゃんへのお礼ね」
「ああ。約束する」
「それから、シグマくん」
メイメイは人差し指を立て、シグマの胸元へ向けた。
「自分を犠牲にすることばかり考えない。身体に異変があったら、すぐ皆に伝える。危ないときは一人で決めずに相談する」
「全部覚えてるよ」
「本当に?」
「本当だ」
メイメイはシグマの顔をしばらく見つめた。
やがて、その返事を信じることにしたのか、穏やかに笑う。
「なら、行ってらっしゃい」
「ああ。行ってくる」
全員が馬車へ乗り込む。
紅蓮が御者台へ座り、手綱を握った。
「出発するぞ!」
ノクスとソルが地面を蹴り、馬車がゆっくりと動き始める。
メイメイは宿の前に立ったまま、何度も手を振っていた。
「メイメイ!」
フェルンが荷台から身を乗り出す。
「またね!」
「ええ! また会いましょう!」
白鬼とシルフも手を振り、黒鬼も小さく手を上げる。
紅蓮は前を向いたままだったが、一度だけ片手を掲げた。
シグマも荷台の後ろからメイメイを見つめる。
その姿は次第に小さくなり、やがて朝の街並みの中へ隠れていった。
寂しさは残っていた。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
馬車がカルガランの正門を抜ける。
街から十分に離れたところで、森の方角から白銀の巨体が駆けてきた。
「ハク!」
フェルンが嬉しそうに声を上げる。
ハクは馬車へ追いつくと、その横へ並んで走り始めた。
「これで全員やな」
シルフが笑う。
「ああ」
シグマは遠ざかっていくカルガランを一度だけ振り返った。
炎帝石の暴走。
黒騎士との戦い。
仲間たちの声。
傷を癒やした日々。
そして、覇王石と百年前の勇者に関する僅かな手がかり。
カルガランで得たものは少なくなかった。
右腕へ視線を落とす。
炎帝石の力には、まだ分からないことが多い。
王都の図書館へ行けば、その答えへ近づけるかもしれない。
だが、まずはアルスラを目指す。
「シグマ」
隣に座るフェルンが左手を握った。
「今度は、一緒に帰る?」
「ああ」
シグマはその小さな手を握り返した。
「何があっても、皆で帰ろう」
紅蓮が手綱を操り、ノクスとソルが速度を上げる。
その横をハクが軽やかに駆けていく。
朝日が街道の先を照らす中、シグマたちは再びアルスラへ向けて旅を始めた。




