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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第二十二話 届く声

 カルガランへ到着してから、二日目の朝。


 夜の闇が薄れ始めるよりも早く、紅蓮たちは宿を出ていた。


 街にはまだ朝の静けさが残っている。


 大通りに人影は少なく、商店の扉も固く閉ざされていた。石畳を踏む靴音だけが、冷たい朝の空気へ規則正しく響いている。


 誰も満足に眠れていなかった。


 紅蓮は寝台へ横になっても何度も目を覚まし、シルフは窓辺に腰掛けたまま朝を待った。


 白鬼と黒鬼は一つの寝台に並んで座り、ほとんど言葉を交わさなかった。


 フェルンに至っては、シグマの認識阻害のマントを胸へ抱いたまま、一睡もしていない。


 大聖堂へ続く道を歩く今も、小さな両手で黒い布を強く握り締めていた。


「フェルン、大丈夫ですか?」


 黒鬼が心配そうに顔を覗き込む。


「大丈夫だよ」


 答える声には、いつもの元気がなかった。


「眠くありませんか?」


「眠くない」


「でも、一度も眠っていないでしょう?」


「シグマも起きてないから、フェルンも寝ない」


「フェルンまで倒れたら、シグマが目を覚ましたときに心配しますよ」


「倒れないよ」


 フェルンは小さく首を振り、大聖堂の尖塔を見上げた。


「シグマが起きるまで、ちゃんと待ってるの」


 黒鬼はそれ以上何も言えず、そっとフェルンの背中へ手を添えた。


 大聖堂へ到着すると、正面扉は既に開かれていた。


 朝の祈りを捧げるため、数人の神官やシスターが静かに礼拝堂を行き交っている。


 紅蓮たちは昨日と同じ廊下を進み、シグマが眠る治療室の前へ向かった。


 扉の脇には、若いシスターが立っていた。


「お待ちしておりました」


「シグマはどうなった?」


 紅蓮が真っ先に尋ねる。


「今朝まで、容体の急変はありません。現在、神父様が傷の状態を確認しております」


「中には入れへんの?」


「確認が終わるまで、もう少しだけお待ちください」


「そうか……」


 シルフは壁へ背を預け、閉ざされた扉を見つめた。


 フェルンは治療室の前まで歩み寄る。


「シグマ、まだ寝てるの?」


「はい。ですが、呼吸は昨夜よりも安定していると聞いています」


「今日、起きる?」


「それは……」


 若いシスターは答えに詰まった。


 安易に期待を持たせることはできない。


 かといって、幼い少女を不安にさせる言葉も口にしたくないのだろう。


「フェルン」


 白鬼が声をかける。


「シグマは、今も身体の中で傷と戦ってるのよ。だから、もう少しだけ待ってあげましょう」


「……うん」


「きっと、私たちの声も聞こえてるわ」


「本当?」


「本当よ。あいつ、寝ていても人の話は聞いてそうだもの」


「それ、褒めとるんか?」


 シルフが小さく口を挟む。


「褒めてるわよ」


「どこがやねん」


 いつもなら続くはずの軽口は、そこで途切れた。


 誰もが、閉ざされた扉の向こうを気にしている。


 やがて、治療室の扉が開いた。


 昨日からシグマの治療を担当している老神父が、ゆっくりと廊下へ出てくる。


 その顔には、一晩中治療を続けた疲労が残っていた。


 しかし、表情は昨日よりも僅かに穏やかだった。


「皆さん、お待たせしました」


「容体は?」


「先に結論から申し上げます。今すぐ命を落とす危険は、ひとまず退けられました」


 その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。


 白鬼が胸元へ手を当て、黒鬼は安堵したように小さく息を吐く。


 シルフも壁へ預けていた背中から力を抜いた。


「よかった……」


 フェルンが呟く。


 しかし、紅蓮だけは表情を崩さなかった。


「ひとまず、ということは、まだ安心できないのだな?」


「はい」


 神父は静かに頷いた。


「傷の周囲へ残っていた黒ずみは、昨日よりも弱まっています。傷口も、ほんの僅かですが塞がり始めています。ただし、呪いそのものが消えたわけではありません」


「身体の中に残っとるんか?」


 シルフが尋ねる。


「その可能性が高いでしょう。正確な仕組みまでは私たちにも分かりませんが、呪いは右腕から流れる特殊な魔力へ絡みつき、身体の内側へ入り込んでいます」


「右腕の炎にも、まだ力が残っているのか?」


 紅蓮の問いに、神父は少し考えてから答える。


「ごく僅かですが、感じられます。ただ、昨日までのような激しいものではありません。呪いと衝突したことで、双方の力が弱まっているように見えます」


「なら、シグマは今も、その呪いと戦っているということか?」


「そう断言はできません。ですが、意識が戻らない原因の一つである可能性はあります」


 紅蓮の拳が強く握られた。


 眠っているのではない。


 シグマは目を閉じたまま、今も一人で何かと戦い続けているのかもしれない。


「それと、もう一つお伝えすることがあります」


 神父が続ける。


「明け方、シグマさんの左手に僅かな反応がありました」


「本当!?」


 フェルンの耳が勢いよく立ち上がる。


「シグマ、動いたの?」


「左手の指先が、一度だけ動きました」


「目を覚ますの?」


「残念ながら、まだ断言はできません。身体が無意識に反応した可能性もあります」


「でも、動いたんだよね?」


「はい。ほんの僅かですが」


 フェルンの顔に、小さな希望が浮かぶ。


 神父はその表情を見つめたあと、紅蓮たちへ視線を巡らせた。


「もしかすると、外からの呼びかけに反応したのかもしれません」


「声が届いとるってことか?」


「意識を失った者が、親しい者の声へ反応することはあります。シグマさんが現在どのような状態にあるのか、私たちにも正確には分かりません。それでも、何かを感じ取っている可能性はあるでしょう」


「だったら、会わせてくれ」


 紅蓮が迷わずに告げた。


「少しでいい。直接、声をかけさせてほしい」


「そのつもりで参りました」


 神父は頷く。


「ただし、治療への影響を避けるため、面会は一人ずつとします。時間も短く区切らせてください」


「ああ。それで構わない」


「傷には触れないようにお願いします。特に右腕と胸元へは、決して触れないでください」


 神父の説明が終わると、少し離れた場所で待っていたメイメイが前へ出た。


「それじゃあ、あたしは昼になったら飛龍発着場へ行ってくるね」


「凛を迎えに行くのか?」


「うん。昨日聞いた到着予定なら、昼過ぎには着くはずだから」


 凛は二人の護衛とともに、既にラトナを発っている。


 カルガランへ来ること自体は、シグマたちが街へ到着した時点で伝えられていた。


 ただし、街道を馬で進んでいるわけではない。


 凛たちはラトナ側が手配した三頭の飛龍に一人ずつ乗り、空路でカルガランへ向かっていた。


 飛龍は馬車や早馬よりも遥かに速い。


 そのぶん扱いは難しく、利用できる者も限られている。大きな都市や主要な交易拠点には専用の発着場が設けられているが、一般の旅人が気軽に使える移動手段ではなかった。


「護衛の二人も一緒だったな?」


「うん。凛一人で来るって言ったらしいんだけど、さすがにそれは許してもらえなかったみたい」


 メイメイは困ったように笑う。


「凛らしい話だな」


「ほんとにね。あの子のことだから、飛龍から降りたら休みもせずにここまで走ってくると思う」


「なら、確実に連れてきてくれ」


「任せて」


 メイメイはフェルンの前へしゃがみ、その銀色の髪を優しく撫でた。


「凛はもうカルガランへ向かってるからね。お昼を過ぎたら、ちゃんとここへ連れてくるよ」


「……うん」


「シグマ君にも、あとで教えてあげようね」


 フェルンは胸に抱いたマントへ顔を埋めながら、小さく頷いた。


「では、最初に面会される方を」


 神父の言葉に、紅蓮が一歩進み出た。


「私が行く」


     ◇


 治療室の中には、薬草と香の匂いが漂っていた。


 窓には薄い白布がかけられ、差し込む朝日を柔らかく遮っている。


 部屋の中央に置かれた寝台には、シグマが静かに横たわっていた。


 顔色はまだ青白い。


 右腕から胸元にかけては幾重にも清潔な布が巻かれ、その上には呪いを抑えるための護符が並べられている。


 包帯の一部には、まだ薄い黒ずみが残っていた。


 僅かに上下する胸だけが、シグマが生きていることを教えている。


 紅蓮は寝台の脇まで歩み寄った。


「……ひどい顔だな」


 返事はない。


 分かっていたはずなのに、その沈黙が胸へ突き刺さった。


 いつもなら、少しくらい何かを返してくる。


 心配をかけたと謝るか。


 大丈夫だと、無理にでも笑うか。


 あるいは、自分の傷より先に紅蓮たちの無事を確かめようとするだろう。


 だが、今は何も返ってこない。


「お前は、いつもそうだ」


 紅蓮は寝台の脇に立ったまま、眠るシグマを見下ろした。


「自分が一番傷ついているくせに、誰かの傷を先に見ようとする。自分が苦しいくせに、何でもないような顔をする」


 その声には、押し殺した怒りが滲んでいた。


 けれど、怒りを向けている相手はシグマだけではない。


 何よりも許せないのは、自分自身だった。


「すまなかった」


 紅蓮は俯いた。


「私は、お前を止められなかった」


 シグマの右腕から黒い炎が噴き出した瞬間。


 いつもの炎ではないと分かっていた。


 身体が限界を迎えていることも、炎に意識を奪われかけていることも見えていた。


 それでも止められなかった。


 あのままでは、仲間の誰かが命を落としていた。


 メイメイも、フェルンも、紅蓮たち自身も無事では済まなかっただろう。


 シグマが力を使ったから、皆は生きている。


 だからこそ、紅蓮は止めることができなかった。


「私は、お前に頼った」


 紅蓮の拳が震える。


「すべてを分かっていながら、お前の力に頼った。その結果、お前一人へ背負わせてしまった」


 シグマの右腕を覆う包帯へ視線を落とす。


「私には、お前を責める資格などないのかもしれない」


 それでも、謝るだけでは終われなかった。


 後悔を並べるだけでは、何も変わらない。


「だがな、シグマ」


 紅蓮は顔を上げた。


「今度は、私たちがお前を守る」


 それは慰めではなかった。


 紅蓮自身が胸へ刻む、誓いだった。


「お前がまた一人で戦おうとするなら、今度は力ずくでも止める。何を抱えているのか話せないというのなら、話せるようになるまで隣にいる」


 寝台の上に置かれたシグマの左手へ目を向ける。


 触れることはせず、紅蓮は拳を握った。


「お前だけが背負う必要はない」


 低く、力強い声が治療室へ響く。


「私たちは、お前に守られるためだけに一緒にいるのではない」


 返事はなかった。


 それでも紅蓮は、言葉を止めなかった。


「だから戻ってこい、シグマ」


 命令のような強さと、祈りにも似た切実さが、その声には込められていた。


「戻ってきて、もう一度私たちと旅をしろ」


     ◇


 暗闇の中を、シグマは一人で歩いていた。


 空も、大地も存在しない。


 前も後ろも分からない。


 何のために歩いているのか。


 どこへ向かっているのか。


 それすらも思い出せなかった。


 ただ、右腕が重い。


 見下ろすと、右腕から胸元にかけて、黒い鎖のようなものが幾重にも絡みついていた。


 一歩進むたび、鎖は闇の奥から強く引かれる。


 戻れ。


 どこからともなく、声が聞こえた。


 戻れ。


 お前が戻る場所などない。


 シグマは鎖を引きずりながら、暗闇の中を歩き続けた。


 右腕の奥には、消えかけた炎が灯っている。


 かつて荒々しく燃え上がっていた炎は、今にも闇へ呑み込まれそうなほど弱っていた。


『――だから戻ってこい』


 不意に、遠くから声が届いた。


 誰の声なのかは分からない。


 言葉も、はっきりとは聞き取れなかった。


 それでも、聞き覚えのある声だった。


 暗闇の中に、小さな赤い火の粉が一つ灯る。


 シグマは足を止め、その火を見つめた。


 消えそうに揺れながらも、火の粉は確かにそこにあった。


     ◇


 紅蓮が治療室から出ると、皆の視線が一斉に集まった。


「どうだった?」


 白鬼が尋ねる。


「変化はない」


 紅蓮は正直に答えた。


 フェルンの耳が垂れそうになる。


「だが、言いたいことは伝えてきた」


 紅蓮はフェルンへ目を向ける。


「届いていると信じる」


 次に、シルフが扉の前へ立った。


「ほな、次はうちが行くわ」


「シルフ」


「心配せんでも大丈夫や。ちょっと説教してくるだけやから」


 シルフは笑ってみせた。


 だが、その笑顔はひどく不自然だった。


「別に、心配してないわよ」


 白鬼が答える。


「白鬼は素直やないなあ」


「今のあんたにだけは言われたくない」


「はいはい。ほな、行ってくる」


 軽口を残し、シルフは治療室へ入った。


 扉が閉ざされた途端、その顔から作り笑いが消える。


 シルフは寝台の脇へ近づき、しばらく黙ってシグマを見つめた。


「ほんま、何してんねん」


 返事はない。


「そんなところで、いつまで寝とるつもりや」


 努めて普段どおりの声を出す。


 けれど、その声はシグマへ聞かせるためだけのものではなかった。


 自分の心が崩れないようにするための、薄い壁でもあった。


「紅蓮たちが、夜通し馬車を走らせてくれたんやで。ノクスもソルも、倒れそうになるまで頑張った」


 シルフは椅子へ腰掛け、膝の上で両手を組んだ。


「フェルンなんて、あんたのマントをずっと離さへん。白鬼も黒鬼も、自分らを責めとる。紅蓮かて、平気な顔しとるけど、今にも自分を殴りそうな顔やった」


 それでも、シグマは動かない。


 シルフは唇を噛み、込み上げるものを押し戻した。


「全部、あんたのせいや」


 その声が僅かに震える。


「勝手に全部背負って、勝手に無茶して、勝手に倒れるなんて……そんなん許さへんからな」


 目頭が熱くなる。


 しかし、シルフは顔を上げた。


 泣けば、本当にシグマが戻ってこないような気がした。


 だから泣かない。


 いつもどおり、叱ってやるのだ。


「目ぇ覚ましたら、まず全員に謝ってもらう。そんで、右腕のことも、身体のことも、話せる範囲でちゃんと話してもらうからな」


 シルフは無理に口角を上げた。


「一人で格好つけるんは、もう禁止や」


 面会時間の終わりを告げる小さな鐘が鳴った。


 扉の近くで待っていたシスターが、静かに頭を下げる。


「お時間です」


「……分かった」


 シルフは立ち上がり、扉へ向かう。


 取っ手へ手をかけたところで、足が止まった。


 振り返ることはできなかった。


 眠ったままのシグマをもう一度見れば、堪えているものが溢れてしまいそうだった。


「シグマ」


 誰にも聞かせまいとするような、小さな声だった。


「頼むから……戻ってきて」


 それだけを告げ、シルフは治療室を出た。


     ◇


 暗闇に灯った赤い火の粉が、激しく揺れた。


 周囲の闇が、その小さな光を押し潰そうとしている。


 赤い火は消えかけ、そのたびに輝きを弱めた。


 だが、どこからか風が吹いた。


 柔らかな緑色の風。


 それは炎を消すのではなく、守るように周囲を巡った。


『勝手に全部背負って――』


 声が聞こえる。


 まだ誰の声なのか分からない。


 それでも、不思議と懐かしかった。


『頼むから……戻ってきて』


 緑の風に包まれた火の粉が、再び赤い輝きを取り戻す。


 シグマはその光へ向かい、一歩を踏み出した。


 途端に、右腕へ絡みついた黒い鎖が強く引かれる。


 身体が後ろへ傾いた。


 戻るな。


 闇の声が囁く。


 戻ってどうする。


 また同じことを繰り返すだけだ。


 シグマは鎖に抗い、もう一歩を踏み出した。


     ◇


 シルフが治療室から出てきた。


 目元に涙はない。


 けれど、普段より強く唇を結んでいる。


 白鬼は何も尋ねず、その横を通り過ぎた。


「次は私ね」


 扉の前へ立ち、一度だけ深く息を吸う。


「白鬼……」


 黒鬼が不安そうに声をかける。


「大丈夫よ」


 白鬼は笑った。


「ちょっと文句を言ってくるだけだから」


 治療室へ入った白鬼は、寝台の上のシグマを見るなり大股で歩み寄った。


「ちょっと、シグマ!」


 病人を前にしているとは思えないほど大きな声だった。


 扉の近くにいたシスターが驚いて顔を上げる。


「もう少し静かに――」


「このくらいじゃないと起きないのよ、この人は」


 白鬼はそう言い切り、寝台の脇へ立った。


「いつまで寝ているつもりなの?」


 もちろん、返事はない。


 白鬼は腰へ手を当て、シグマを睨みつける。


「先に言っておくけど、目を覚ましたら絶対に説教するからね」


 怒っている。


 少なくとも、そう見せようとしていた。


「どうして右腕のことを黙ってたの。どうしてあんな状態になるまで戦ったの。どうして私たちに何も言わなかったの」


 次々と言葉を並べる。


 止まってしまえば、怒りとは別の感情が溢れそうだった。


「いくら私たちを助けるためでも、限度があるでしょう? シグマが倒れたら、誰が御者をするの。誰が料理を作るの。誰がフェルンの面倒を見るのよ」


 途中から声が震え始めた。


「ハクだって、ずっとあんたを待ってるのよ……」


 白鬼は俯き、唇を噛んだ。


 シグマには、何度も助けられた。


 戦いの中だけではない。


 旅の途中、何気なくかけられた言葉。


 自分と黒鬼を区別し、それぞれを一人の人間として扱ってくれたこと。


 過去を無理に聞かず、二人が話せるようになるまで待ってくれたこと。


 どれもシグマにとっては、当たり前のことだったのかもしれない。


 けれど、白鬼にとっては違った。


「あんたには、たくさん助けてもらった」


 怒鳴るような勢いは、もう残っていなかった。


「だから、今度は私たちに助けさせなさいよ」


 白鬼は恐る恐る手を伸ばした。


 傷のある右側を避け、寝台の上に置かれた左手へ指先で触れる。


 冷たくはない。


 確かな体温があった。


 それだけで、胸が苦しくなる。


「私たちを置いていかないで」


 指先を重ね、白鬼は静かに目を閉じた。


「一緒に行くって約束したんだから」


 声は震えていた。


 それでも最後の言葉だけは、はっきりと告げる。


「ちゃんと起きなさい、シグマ」


     ◇


 暗闇の遥か先から、一筋の白い光が差し込んだ。


 細く、頼りない光だった。


 それでも、足元すら見えなかった世界に、初めて道の輪郭が浮かび上がる。


 黒く濁った地面。


 そこから無数の鎖が伸び、シグマの右腕と胸へ絡みついていた。


『私たちを置いていかないで』


 その声を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。


 誰かが待っている。


 自分の帰りを待っている。


 シグマは白い光へ左手を伸ばした。


 だが、指先が届く前に鎖が身体を強く引き戻す。


 お前が戻れば、また傷つく。


 闇が囁いた。


 お前ではない。


 お前の周りにいる者たちが傷つく。


 白い光の中に、血を流して倒れる仲間たちの姿が一瞬だけ浮かんだ。


 現実ではない。


 呪いが、シグマの恐怖を利用して作り出した偽りの光景。


 そう分かっているはずなのに、あまりにも鮮明だった。


「……俺が、いるから……」


 シグマの口から、掠れた声が漏れた。


 自分といるから、皆が危険な目に遭う。


 自分が戻れば、また同じことが起きるかもしれない。


 伸ばしていた左手が、僅かに下がった。


 白い光が少しずつ遠ざかっていく。


     ◇


 白鬼と入れ替わるように、黒鬼が治療室へ入った。


 扉が閉まったあとも、黒鬼はその場から動けなかった。


 白い布を巻かれたシグマの右腕。


 胸元へ並べられた護符。


 青白い顔。


 そのすべてが、自分の犯した失敗を突きつけているように見えた。


 黒鬼は震える足で寝台へ近づき、脇に置かれた椅子へ腰を下ろした。


「シグマ……」


 返事はない。


 黒鬼は膝の上で両手を握った。


「ごめんなさい」


 それ以外の言葉が、すぐには出てこなかった。


「私が、もっと早く気づいていれば……」


 あの傷へ回復魔法を使った。


 傷ついたシグマを助けたくて、必死に魔力を注いだ。


 その結果、傷に残っていた呪いを広げてしまった。


 もし、あのとき魔法を使わなければ。


 もし、もっと呪いに関する知識があれば。


 何度考えても、答えは同じ場所へ戻ってくる。


「私がしたことは、治療なんかではありませんでした」


 黒鬼の手が震える。


「助けたかったのに……余計に苦しませてしまって……」


 涙が頬を伝い、膝の上へ落ちた。


「ごめんなさい。ごめんなさい、シグマ……」


 眠るシグマは何も答えない。


 黒鬼は顔を覆いかけた。


 そのとき、ふとシグマの声が頭の中に蘇った。


 もし、シグマが目を覚ましていたなら。


 きっと、こんな自分を見て同じことを言う。


 黒鬼のせいではない。


 助けようとしてくれただけだ。


 自分を責めるな。


 いつもの穏やかな顔で、そう言うはずだ。


「……違う」


 黒鬼はゆっくりと顔を上げた。


「謝っているだけでは、駄目ですよね」


 涙を拭い、眠るシグマを見つめる。


「シグマなら、きっと私を責めません」


 責めてもらったほうが楽だった。


 怒られ、罰を受ければ、自分の中で区切りをつけられたかもしれない。


 だが、シグマはそれを望まない。


 ならば、自分がすべきことは一つだった。


「私、もっと勉強します」


 黒鬼は胸元へ手を当てる。


「回復魔法だけではなく、呪いや魔石、普通の治療法も……今まで知らなかったことを、もっと学びます」


 一度は間違えた。


 だからこそ、次は間違えないように。


 助けられなかった自分を責め続けるのではなく、助けられる自分になるために。


「今度こそ、あなたを治せるようになります」


 黒鬼は椅子から立ち上がり、シグマの左手の傍らへ自分の手を置いた。


 触れることをためらい、ほんの少しだけ指先を重ねる。


「だから……」


 声が震えた。


 それでも黒鬼は、逃げずに言葉を続ける。


「もう一度、あなたのそばにいさせてください」


 その瞬間だった。


 寝台の上に置かれていたシグマの指先が、ほんの僅かに動いた。


「……え?」


 黒鬼は息を止めた。


 今、確かに動いた。


 そう思った。


 けれど、あまりにも小さな動きだった。


 祈るあまり、自分がそう見たかっただけなのかもしれない。


「シグマ?」


 呼びかけても返事はない。


 黒鬼は左手を見つめ続けたが、指が再び動くことはなかった。


 それでも、黒鬼はすぐに扉へ向かった。


「神父様!」


 扉を開き、廊下へ顔を出す。


「シグマの指が……今、動いたように見えました!」


     ◇


 暗闇の中で、立ち止まりかけていたシグマの身体を、柔らかな光が包み込んだ。


 白い光よりも淡く、どこか温かな光。


 右腕の奥で消えかけていた炎へ寄り添い、傷ついた火を守るように広がっていく。


『今度こそ、あなたを治せるようになります』


 声が聞こえた。


『だから、もう一度――』


 闇の囁きが、僅かに遠ざかる。


『あなたのそばにいさせてください』


 シグマはゆっくりと左手を持ち上げた。


 指先へ、誰かの温もりが触れた気がした。


 自分は、一人ではない。


 そう思った瞬間。


 絡みつく黒い鎖の一本が、微かに軋んだ。


     ◇


 黒鬼の声を聞き、神父はすぐに治療室へ戻った。


 シグマの呼吸と脈を確かめ、左手の指先へ触れる。


 紅蓮たちも廊下から様子を見守っていたが、シグマの指が再び動くことはなかった。


「どうなのですか?」


 黒鬼が不安そうに尋ねる。


「今は反応がありません」


「やはり、私の見間違いだったのでしょうか……」


「そう決めつける必要はありません」


 神父は静かに首を振った。


「明け方にも一度、同じ反応が確認されています。あなたの声へ応えようとした可能性は十分にあります」


「私の声に……」


「ええ。少なくとも、悪い変化ではありません」


 神父はシグマの左手を元の位置へ戻し、掛布を整えた。


「今は刺激を与えすぎないほうがよいでしょう。しばらく身体を休ませます」


 黒鬼は名残惜しそうにシグマを見つめたあと、静かに頷いた。


「分かりました」


 治療室を出ると、白鬼がすぐに駆け寄ってきた。


「本当に動いたの?」


「はい。ほんの少しだけですが……」


「だったら、黒鬼の声が届いたのよ」


「でも、もう一度呼びかけても動きませんでした」


「一度でも動いたなら十分でしょう」


 白鬼は黒鬼の手を握った。


「あんたがそう見えたかっただけじゃない。シグマが動かそうとしたのよ」


「……そうでしょうか」


「そうに決まってるわ」


 白鬼は迷いなく言い切った。


 黒鬼は姉の顔を見つめ、やがて小さく頷いた。


「シグマ、起きる?」


 フェルンが二人の間から顔を覗かせる。


「すぐかどうかは分からないけど、私たちの声は届いてるみたい」


 白鬼が答える。


「じゃあ、フェルンもお話ししたい」


「もちろんよ」


「今すぐ行っていい?」


「今はシグマを休ませるんですって」


 白鬼が言い聞かせると、フェルンの耳が垂れた。


「でも……」


「昼からまた面会させてもらいましょう」


 黒鬼がフェルンの前へしゃがむ。


「凛も到着する予定です。凛が来たことを、フェルンからシグマへ教えてあげてはどうですか?」


 フェルンは少し考えたあと、ゆっくりと頷いた。


「分かった。凛が来るまで待つ」


     ◇


 それから紅蓮たちは、大聖堂の礼拝堂で待つことになった。


 神父の話では、午前中は傷の確認と呪いを抑える処置を続けるため、これ以上の面会は難しいという。


 紅蓮は礼拝堂の長椅子へ座り、腕を組んだまま目を閉じていた。


 眠っているようにも見えたが、神官が廊下を通るたびに薄く目を開く。


 白鬼と黒鬼は隣り合って座り、シグマの指が動いたときのことを何度も話していた。


 シルフは窓辺に立ち、大聖堂の外を眺めている。


 フェルンは紅蓮と黒鬼の間へ座り、シグマのマントを膝の上へ広げていた。


 誰もが口数を減らしている中、メイメイだけは何度か席を外していた。


 大聖堂の者へ、ノクスとソルの様子を確かめてもらうためだった。


 二羽は昨日、限界を超えて馬車を引き続けた。


 今も疲れは残っているものの、休ませている厩舎では水と餌を口にできるまで回復しているという。


 ハクについても、カルガランの兵士から知らせが届いていた。


 巨体の魔物をそのまま街へ入れるわけにはいかないため、ハクは城門の外で待っている。


 事情を知らない兵士たちは最初こそ警戒していたが、紅蓮たちの仲間だと説明を受け、今は水と肉を運んでくれているらしい。


 ハクは暴れることもなく、大聖堂の尖塔が見える場所へ伏せたまま動かないという。


「ハクも待ってるんだね」


 報告を聞いたフェルンが呟く。


「ああ」


 紅蓮が答える。


「あいつもシグマが心配なのだろう」


「シグマが起きたら、一緒に迎えに行っていい?」


「もちろんだ」


「約束だよ」


「ああ。約束する」


 フェルンは胸の前で小さく拳を握った。


「じゃあ、シグマにも教えてあげる。ハクが待ってるから、早く起きてって」


 大聖堂の鐘が、正午を知らせた。


 低く澄んだ音が、カルガランの街へ響き渡る。


 メイメイは長椅子から立ち上がった。


「そろそろ行ってくるね」


「発着場へ向かうのか?」


「うん。到着予定は昼過ぎだから、先に待ってる」


「頼む」


「任せて」


 メイメイはフェルンへ手を振る。


「凛を連れて、すぐ戻ってくるからね」


「うん。待ってる」


 メイメイは礼拝堂を出ると、カルガランの飛龍発着場へ向かった。


     ◇


 カルガランの飛龍発着場は、城壁内の正門近くに設けられていた。


 商店や住居が密集する大通りから少し離れた場所に、広い石畳の区画が確保されている。


 飛龍の爪や着地の衝撃に耐えられるよう、敷き詰められた石はどれも分厚い。


 周囲には、飛龍を休ませるための大型厩舎。


 餌や水を保管する倉庫。


 乗り手と係員のための待機所が並んでいる。


 飛龍は誰でも自由に利用できる乗り物ではない。


 領主や騎士団、規模の大きなギルドなどが管理し、緊急連絡や重要人物の移動、高価な薬の輸送などに使われている。


 発着場の外には見物人が集まっていた。


 大きな都市であっても、飛龍が離着陸する光景を間近で見られる機会は多くない。


 メイメイは係員へ事情を説明し、着陸区画が見える待機所で空を見上げていた。


 やがて、見張り台に立っていた男が声を上げる。


「北東上空、飛龍三頭を確認!」


 発着場へ鐘が鳴り響いた。


 係員たちが石畳の区画から人を遠ざけ、着陸に備えて動き始める。


 メイメイは待機所から出ると、眩しそうに目を細めた。


 雲一つない青空の向こうに、三つの黒い影が見える。


「来た……!」


 影はみるみる大きくなり、やがて翼を広げた三頭の飛龍の姿へ変わった。


 先頭の飛龍の背には凛。


 その後ろに続く二頭には、同行した護衛が一人ずつ乗っている。


 三頭はカルガランの上空で大きく旋回した。


 係員が旗を振り、地上から着陸の合図を送る。


 それを確認した先頭の飛龍が翼を傾け、ゆっくりと高度を下げ始めた。


 巨大な翼が羽ばたくたび、発着場に激しい風が巻き起こる。


 メイメイは髪を押さえ、飛んでくる細かな砂埃から顔を庇った。


 飛龍の後脚が石畳へ触れる。


 鋭い爪が硬い音を立て、その巨体が着地の勢いを受け止めた。


 続いて二頭の飛龍も降り立つ。


 係員が飛龍へ駆け寄り、興奮させないよう声をかけながら手綱を受け取った。


 先頭の飛龍が身体を伏せるよりも早く、凛は鞍から降りようとした。


「まだ動くな!」


 係員の鋭い声が飛ぶ。


 飛龍の足が完全に止まっていない。


 凛は一瞬だけ動きを止め、飛龍が石畳へ腹を近づけるのを待った。


 地面へ降りると、すぐにメイメイを探して周囲を見渡す。


「凛!」


 メイメイが大きく手を振った。


「メイメイ!」


 凛は駆け寄ってくる。


 長時間風を受け続けた髪は乱れ、外套には空の冷気を防ぐための厚い布が巻かれていた。


 顔には疲労が色濃く残っている。


 それでも休もうとする様子はなく、メイメイの両肩を掴んだ。


「シグマさんは!?」


「大聖堂にいるよ」


「容体はどうなのですか?」


「命の危険は、ひとまず退けられたって」


 凛の表情が僅かに緩む。


 しかし、メイメイが安心しきっていないことに気づき、すぐに顔を強張らせた。


「まだ、何かあるのですね?」


「……うん。シグマ君、まだ目を覚ましてないの」


 凛の顔から血の気が引いた。


「いつからですか?」


「襲撃を受けて倒れてから、ずっと」


「大聖堂へ案内してください」


「凛、飛龍で来たばかりでしょ。少しくらい休んでからでも――」


「必要ありません」


 凛は迷わず言い切った。


「シグマさんの顔を見るまでは休めません」


 その声を聞き、あとから飛龍を降りた二人の護衛が近づいてきた。


 二人とも長時間の飛行で疲れている様子だったが、すぐに凛へ続こうとしている。


「お二人はここで休んでいてください」


 凛が振り返る。


「ですが、凛様の護衛が我々の役目です」


「カルガランの街中、それも大聖堂へ向かうだけです。二人まで無理をする必要はありません」


「しかし――」


「飛龍も休ませなければなりません。係員の方々へ、ラトナからの飛行中に異変がなかったことも伝えてください」


 二人の護衛は顔を見合わせた。


「分かりました。ただし、何かありましたらすぐにお呼びください」


「ありがとうございます」


 凛は二人へ頭を下げる。


 メイメイはそのやり取りを見て、小さく息を吐いた。


「相変わらず、自分のことだけは後回しなんだから」


「今は私より、シグマさんのほうが大切です」


「そう言うと思った」


 メイメイは係員へ飛龍と二人の護衛を任せ、凛とともに発着場を離れた。


     ◇


 大聖堂へ向かう道を急ぎながら、凛はメイメイから襲撃の経緯を聞いた。


 カルガランへ向かう街道で、統率された盗賊たちに襲われたこと。


 盗賊たちとは別に、黒い鎧を身につけた騎士が現れたこと。


 その者が、シグマの右腕へ危険な傷を負わせたこと。


 そして、皆を守るために限界を超えて力を使い、シグマが倒れたこと。


 メイメイは起きたことを、できる限り正確に説明した。


 話が進むにつれ、凛の表情が険しくなっていく。


「シグマさんは、傷を負った状態で戦い続けたのですか?」


「うん」


「誰も止められなかったのですか?」


「止めたかったよ」


 メイメイの声が沈む。


「でも、あのときシグマ君が戦うのをやめたら、誰かが死んでた」


「……あなたもですか?」


「たぶんね」


 凛の足が僅かに鈍る。


「ごめん、凛」


「なぜメイメイが謝るのですか」


「護衛として同行したのに、シグマ君に守られちゃったから」


「あなたも戦ったのでしょう?」


「戦ったよ。でも、あたしじゃあの黒騎士を止められなかった」


 メイメイは前を向いたまま、拳を握り締めた。


「もう少し強かったら、シグマ君があんな力を使わなくても済んだんじゃないかって……どうしても考えちゃうんだ」


 凛は何も言えなかった。


 飛龍に乗っている間、自分も同じことばかり考えていたからだ。


 ラトナへ残らず、メイメイと一緒に同行していれば。


 自分も戦いに加わっていれば。


 少なくとも、今よりは何かできたのではないか。


「私も同じです」


 凛が呟く。


「私が同行していれば、シグマさんが倒れる前に何かできたのではないかと……ずっと考えていました」


「凛……」


「役目があってラトナへ残ったことは理解しています。それでも、何も知らないまま離れていたことが悔しいのです」


 大聖堂の尖塔が近づいてくる。


 メイメイは少しだけ歩調を落とし、凛の隣へ並んだ。


「紅蓮たちも、きっと同じことを考えてるよ」


「皆さんも?」


「誰か一人のせいじゃない。頭では分かってるんだけどね」


「……はい」


「だから今は、シグマ君が起きるのを待とう」


 凛は唇を引き結び、静かに頷いた。


     ◇


 大聖堂の治療室前へ到着すると、紅蓮たちが廊下で待っていた。


「凛!」


 白鬼が最初に二人へ気づく。


「紅蓮さん!」


 凛は駆け寄り、深く頭を下げた。


「遅くなり、申し訳ありません」


「頭を上げろ。飛龍で急いできたのだろう」


「ですが……」


「お前の責任ではない」


 紅蓮の言葉に、凛は顔を上げた。


「シグマさんの容体は?」


「命の危険は退けられたそうだ。呪いも昨日より弱まっている」


「では、もう大丈夫なのですね?」


「まだ安心はできん」


 安堵しかけた凛の表情が、再び強張る。


「意識が戻らない」


「……そんな」


「だが、呼びかけには反応している可能性がある。明け方に一度、先ほど黒鬼が面会しているときにも、左手の指が動いた」


 凛は黒鬼へ視線を向けた。


「本当ですか?」


「はい。ほんの僅かでしたが……確かに動いたと思います」


「では、シグマさんに声が届いているかもしれないのですね?」


 神父が頷く。


「その可能性はあります」


「会わせてください」


 凛は迷わず願い出た。


「お願いします。短い時間で構いません」


「長旅の直後です。あなたも休息が必要でしょう」


「シグマさんの顔を見るまでは休めません」


 神父は凛の強い眼差しを見つめたあと、静かに頷いた。


「分かりました。今から傷の状態を確認します。問題がなければ、そのあとで面会を許可します」


「ありがとうございます」


 神父が治療室へ入ったあと、凛は紅蓮たちから改めて襲撃の経緯を聞いた。


 街道を塞いだ盗賊たち。


 騎士団を思わせる統率された動き。


 フェルンを狙うような行動。


 そして、盗賊たちとは別に現れた黒騎士。


 紅蓮の説明を聞くにつれ、凛の拳が強く握られていく。


「そこまで追い詰められていたのですね……」


「ああ」


「私が、もっと早く合流していれば……」


「それは違う」


 紅蓮が強い口調で遮った。


「お前にはラトナへ残る理由があった。私たちも、そのことに納得して出発したのだ」


「ですが、私もいれば、シグマさんが限界を超える前に――」


「それを言うなら、そばにいながら止められなかった私にも責任がある」


「紅蓮さんは、その場で戦っていたではありませんか」


「お前もラトナで、自分に与えられた役目を果たしていたのだろう」


 凛は言葉を失った。


「今、誰に責任があったかを言い争っても、シグマは目を覚まさない」


 紅蓮は治療室の扉を見つめた。


「私たちがすべきことは、あいつが戻ってきたあと、同じことを繰り返させないことだ」


「……はい」


 凛が静かに頷いたとき、治療室の扉が開いた。


「状態の確認が終わりました」


 神父が廊下へ出てくる。


「短い時間であれば、面会していただいて構いません」


「ありがとうございます」


 凛は深く一礼し、治療室へ入った。


     ◇


 寝台に横たわるシグマを見た瞬間、凛は足を止めた。


 何かを言おうとして開いた唇から、声が出てこない。


 容体を聞き、覚悟していたはずだった。


 それでも、実際に目にすると言葉を失った。


 顔は血の気を失い、右腕から胸元には幾重もの包帯が巻かれている。


 包帯の上には、呪いを抑えるための護符が並べられていた。


 凛の知るシグマは、いつも静かに周囲を見ていた。


 仲間の誰かが困っていれば、頼まれるよりも先に動く。


 自分が傷ついても、それを隠して相手の無事を確かめる。


 そんなシグマが、今は呼びかけることさえできずに眠っている。


「シグマさん……」


 凛は震える足で寝台へ近づいた。


 椅子へ腰を下ろす。


 何を話せばよいのか分からなかった。


 謝罪をするべきなのか。


 目を覚ますよう、強く呼びかけるべきなのか。


 迷った末、凛は無理に笑みを浮かべた。


「迎えに来ましたよ」


 その声は、ひどく掠れていた。


「少し遅くなってしまいましたが、あなたに会いに来ました」


 返事はない。


「メイメイから聞きました。シグマさんが、また皆さんを守ったのだと」


 凛は膝の上で拳を握る。


「あなたは、いつもそうなのですね」


 初めて会ったときから、シグマは変わらなかった。


 自分よりも他人を優先し、危険な役目を一人で引き受けようとする。


 それを責任感と呼べば聞こえはいい。


 だが、残された者が何を感じるのか、シグマは本当には理解していないのかもしれない。


「私はラトナへ残りました。自分で決めたことですし、必要な役目だったと思っています」


 それでも、胸に残る悔しさは消えない。


「ですが、あなたが戦っているとき、私は何も知りませんでした」


 声が震える。


「あなたが傷つき、倒れたときも……私は遠く離れた場所にいました」


 もし、間に合わなかったら。


 もし、カルガランへ来る前にシグマの命が尽きていたら。


 自分は何も知らないまま、帰りを待ち続けていたのだろうか。


「何もできなかったことが、悔しいです」


 凛は目を伏せた。


「そばにいたからといって、私に黒騎士を止められたとは思いません。それでも……あなたが一人で苦しんでいることすら知らなかったのは、嫌です」


 シグマの左手を見る。


 傷のないその手は、力なく寝台の上へ置かれていた。


「目を覚ましたら、今度は全部話してください」


 凛はその手へ触れないよう、すぐ傍らへ自分の手を置いた。


「苦しいことも、怖いことも、隠していることも。すべてを今すぐ話せとは言いません」


 一度言葉を切る。


「ですが、一人で抱え込んで、誰にも何も言わずにいなくなるのだけは、やめてください」


 無理に浮かべていた笑みが崩れる。


「帰りを待つ者が、どれほど心配するのか……シグマさんにも分かってほしいのです」


 凛は目元に浮かんだ涙を拭った。


「ラトナにも、あなたの無事を祈っている者がいます。カルガランにも、ここまで一緒に来た皆さんがいます」


 一度息を整え、眠るシグマへ語りかける。


「ですから、戻ってきてください」


 その声には、もう迷いがなかった。


「皆が待っています。私も、あなたが目を覚ますのを待っています」


     ◇


 暗闇の中に、新たな声が届いた。


『皆が待っています』


 白い光が広がり、その先に幾つもの人影が浮かび上がる。


 一人ではない。


 赤い髪の女。


 緑色の髪の小柄な女。


 金色の髪と、黒い髪を持つ双子。


 その隣にも、誰かが立っている。


 姿はまだぼやけ、顔までは分からない。


 それでも、皆がこちらを見ていた。


 シグマへ手を伸ばし、その帰りを待っている。


 シグマは再び足を前へ出した。


 黒い鎖が軋む。


 右腕から胸へ、焼けつくような痛みが走った。


 戻れば、また失う。


 闇の声が耳元で囁く。


 お前に関わった者は傷つく。


 お前を助けようとした者まで、争いへ巻き込まれる。


 理由の分からない恐怖が、胸の奥から込み上げてくる。


 無数の視線。


 自分へ向けられる罵声。


 誰かを失ったような、深い喪失感。


 それが記憶なのか、呪いが見せる幻なのか、シグマ自身にも分からなかった。


「俺は……」


 戻りたい。


 だが、本当に戻ってもよいのか分からない。


 自分がいるから、皆が危険な目に遭う。


 自分の腕に宿る力が、また誰かを傷つけるかもしれない。


 シグマの歩みが止まりかけた。


 すると、仲間たちの影が少しずつ遠ざかっていく。


     ◇


 凛の面会が終わると、最後にフェルンの番となった。


「フェルン、一人で大丈夫?」


 白鬼が尋ねる。


「大丈夫だよ」


 フェルンは抱えていたシグマのマントを黒鬼へ預けた。


 そう答えたものの、治療室の扉を前にすると足が動かなくなる。


 朝からずっと、シグマに会いたいと思っていた。


 けれど、いざ会えるとなると怖かった。


 もし呼びかけても動かなかったら。


 もし昨日よりも苦しそうな顔をしていたら。


 もし二度と目を開けなかったら。


「私も中へ入りましょうか?」


 黒鬼が優しく尋ねる。


 フェルンは少し迷ったあと、小さく首を振った。


「一人で、お話しする」


「分かりました」


 黒鬼はフェルンの前へしゃがむ。


「私は扉のすぐ外にいます。何かあったら、すぐに呼んでくださいね」


「うん」


 神父から許可を受け、フェルンは若いシスターとともに治療室へ入った。


 シスターは二人の時間を邪魔しないよう、扉の近くで静かに見守る。


 フェルンは寝台へ近づいた。


「シグマ」


 小さな声で呼びかける。


 やはり、返事はない。


 けれど、昨日より顔色が少しだけ戻っているように見えた。


 胸もゆっくりと上下している。


 シグマは、ここにいる。


 まだ、生きている。


 フェルンは椅子によじ登るように腰掛け、寝台の上に置かれた左手を両手で包み込んだ。


 左手ならば、優しく触れてもよいと神父から許可を得ていた。


 大きな手。


 いつもフェルンの頭を撫でてくれる手。


 人混みの中で迷わないよう、握ってくれる手。


 その手は温かいのに、今は握り返してくれない。


「今日はね、凛が来たよ」


 フェルンは普段どおりに話すことにした。


 悲しいことばかり話したら、シグマが帰ってきたくなくなるような気がしたからだ。


「飛龍に乗ってきたんだよ。二人の護衛も一緒だったんだって」


 シグマの手を優しく握りながら、今日あったことを一つずつ伝える。


「凛の髪、風でいっぱい乱れてた。飛龍から降りて、すぐにここまで走ってきたんだよ」


 シグマは返事をしない。


 それでも、フェルンは話し続ける。


「それから、ノクスとソルもご飯を食べたって。まだ疲れてるけど、お水もちゃんと飲んだよ」


 少し考え、次の言葉を続ける。


「ハクも街の外で待ってるよ。兵士の人が、お肉とお水を持っていってくれてるんだって」


 脳裏に、城門の外で伏せて待つハクの姿が浮かぶ。


「ハクも、シグマに会いたいと思う」


 フェルンの声が僅かに震えた。


「みんなも、シグマに会いに来たよ。紅蓮も、シルフも、白鬼も黒鬼も、ずっと待ってる」


 凛も。


 メイメイも。


 誰もシグマを置いていったりしない。


 そのことを伝えたかった。


「だからね、目を覚ましたら、みんなでハクを迎えに行こう」


 フェルンは小さく笑った。


「フェルンも一緒に行く。シグマと手を繋いで、ハクのところまで行くの」


 返事はなかった。


 笑顔を保とうとしていた唇が震える。


「それから、また馬車に乗ろうね」


 目の奥が熱くなる。


「フェルン、ちゃんとお手伝いするよ。ノクスとソルにもご飯をあげるし、荷物も運ぶ」


 涙が一粒、シグマの手の甲へ落ちた。


 フェルンは慌てて袖で涙を拭う。


「泣かないよ」


 誰に言うでもなく呟く。


「シグマが起きたとき、フェルンが泣いてたら心配するから……泣かない」


 けれど、涙は次々に溢れてきた。


 フェルンは俯き、シグマの左手を額へ押し当てた。


「でも、早く起きて」


 押し殺していた思いが、言葉となって零れ落ちる。


「フェルンを置いていかないで」


 小さな肩が震える。


「一人にしないでよ、シグマ……」


 そのときだった。


 フェルンの両手に包まれていたシグマの指が、僅かに動いた。


「……え?」


 フェルンは顔を上げた。


 涙で濡れた目を大きく見開き、シグマの左手を見つめる。


「シグマ?」


 もう一度呼びかける。


 すると、シグマの指先がほんの少し曲がった。


 まるで、フェルンの小さな手を握り返そうとするように。


「動いた……」


 フェルンの耳が勢いよく立つ。


「シグマの手、動いた!」


 椅子から飛び降り、扉へ駆け寄った。


「黒鬼! 神父様!」


 勢いよく扉を開く。


「シグマが動いたよ! フェルンの手、握ってくれた!」


「本当ですか!?」


 黒鬼たちが治療室へ駆け込んだ。


 神父はシグマの左手を確認し、呼吸や脈を慎重に調べる。


「シグマ、起きるの?」


 フェルンが期待に満ちた目で尋ねる。


「今の反応は、今朝よりもはっきりしています」


「じゃあ……」


「ですが、まだ意識は戻っていません」


 フェルンの表情が曇る。


 シグマの瞼は閉ざされたままだった。


 何度名前を呼んでも、目を開けることはない。


「それでも、あなたの声に応えようとした可能性は高いでしょう」


 神父はフェルンを安心させるよう、静かに告げた。


「シグマに、フェルンの声が聞こえたの?」


「おそらくは」


 フェルンは寝台へ戻り、もう一度シグマの左手を握った。


「じゃあ、待ってるね」


 すぐに目を覚まさなくてもいい。


 声が届いているのなら、何度でも呼ぶ。


「シグマが起きるまで、フェルンが待ってるから」


     ◇


 暗闇の中で、遠ざかりかけていた光が止まった。


『目を覚ましたら、みんなでハクを迎えに行こう』


 幼い声が聞こえる。


 誰の声なのか。


 その問いへの答えは、もう分かっていた。


「……フェルン」


 シグマがその名を口にすると、暗闇に銀色の光が灯った。


 柔らかく、温かな光。


 その中に、小さな少女の姿が浮かび上がる。


 銀色の髪。


 頭の上で揺れる狼の耳。


 細い腕を伸ばし、シグマへ手を差し出している。


『フェルンを置いていかないで』


 胸が締めつけられた。


 シグマは左手を伸ばした。


 銀色の光に包まれた小さな手と、指先が重なる。


 その温もりを確かめるように、シグマは僅かに指を曲げた。


 現実のどこかで、フェルンの声が自分を呼んでいる。


 戻らなければならない。


 そう思った瞬間、これまで届いていた光が再び輝き始めた。


 赤い火の粉。


 緑色の風。


 道を照らす白い光。


 炎を包み込む柔らかな光。


 そして、暗闇の向こうに浮かぶ仲間たちの姿。


 シグマはその光へ向かって歩き出した。


 だが、右腕へ絡みついた黒い鎖が、これまでにないほど強く身体を引いた。


「くっ……!」


 足元の闇が大きく波打つ。


 鎖は右腕から胸へ食い込み、黒い靄を噴き出した。


 戻るな。


 声が、シグマの内側から響く。


 お前が戻れば、あの少女も傷つく。


 お前のそばにいる限り、誰も争いから逃れられない。


 黒い靄の中に、刺客へ狙われるフェルンの姿が浮かんだ。


 伸ばした手が届かず、暗闇へ引きずり込まれていく。


 それは現実ではない。


 呪いが、シグマの恐怖から作り出した幻だった。


 それでも、シグマは目を逸らすことができなかった。


「フェルン!」


 左手を伸ばす。


 しかし、黒い鎖が全身へ絡みつき、その場から動くことができない。


 助けたいのなら、戻るな。


 お前が消えれば、皆は狙われなくなる。


 その囁きに、シグマの左手が止まった。


 目の前にある光は温かい。


 けれど、一歩近づけば、仲間たちを再び危険へ巻き込むかもしれない。


 自分が戻ることは、本当に皆のためになるのか。


 答えを出せないまま、シグマは暗闇の中で立ち尽くした。


     ◇


 フェルンの面会が終わる頃には、窓の外が夕暮れの色に染まり始めていた。


 呼びかけに反応している可能性がある。


 それは確かな希望だった。


 しかし、長時間の面会はシグマの傷へ負担をかける。


 神父に促され、紅蓮たちは一度大聖堂を離れることになった。


 フェルンだけは、最後まで治療室へ残ろうとした。


「フェルン、シグマも休まなければならない」


 紅蓮が優しく言い聞かせる。


「でも、フェルンがいなくなったら……」


「大丈夫です」


 黒鬼がフェルンの手を握った。


「シスターの方々が、ずっとそばについてくださいます。何かあれば、すぐに知らせてくださるそうです」


「……本当?」


 扉の近くに立つ若いシスターが微笑む。


「はい。容体に変化があれば、すぐ皆さんの宿へ使いを出します」


「明日も来ていい?」


「もちろんです」


「朝、一番に来るから」


「ええ。お待ちしています」


 フェルンは閉ざされた治療室の扉を見つめた。


「シグマ、また明日ね」


 小さく呼びかけ、ようやく大聖堂を離れた。


     ◇


 夜。


 カルガランの街を、冷たい風が吹き抜けていた。


 宿の一室では、紅蓮たちが一つの卓を囲んでいた。


 夕食は用意されているものの、ほとんど手がつけられていない。


 凛とメイメイも同じ部屋に残っている。


 飛龍に同行してきた二人の護衛は、発着場近くの宿で休んでいた。


 凛は大聖堂から戻ったあとも休もうとせず、シグマを襲った者たちについて紅蓮から詳しく聞き取っていた。


 卓上には、紅蓮が記憶を頼りに書き出した盗賊たちの装備や陣形が並べられている。


「この動きが事実なら、やはり普通の盗賊とは思えません」


 凛が紙へ視線を落とす。


「武器を振るうだけの集団が、ここまで統率された動きはできません。指揮官の命令へ即座に従い、退路まで計算していたのなら、相応の訓練を受けています」


「騎士団そのものか、騎士団にいた者たちか」


 紅蓮が腕を組む。


「少なくとも、何の関係もないとは考えにくい」


「黒騎士も、同じ騎士団に関係しとる可能性はあるな」


 シルフが椅子の背へ身体を預けた。


「ただ、最初から盗賊たちと一緒に動いとったようには見えへんかった。別の部隊か、別の命令で動いとった可能性もある」


「どちらにしても、フェルンを狙ってたのは確かよ」


 白鬼の言葉に、フェルンの耳が僅かに震えた。


 それに気づいた黒鬼が、そっと肩を抱き寄せる。


「フェルンの前でする話ではありません」


「……そうね。ごめん」


 白鬼はすぐに謝った。


「ううん。大丈夫だよ」


 フェルンは答えたものの、顔は俯いたままだった。


 自分が狙われたから、シグマは傷ついた。


 誰も口にはしなかったが、その考えが心の中から離れない。


 そのとき。


 宿の一階から、慌ただしい足音が聞こえてきた。


 階段を駆け上がる音が近づき、部屋の扉が激しく叩かれる。


「大聖堂からの使いです!」


 全員が一斉に立ち上がった。


 紅蓮が扉を開く。


 そこには、息を切らした若い神官が立っていた。


「シグマさんの容体が、急変しました」


 その一言で、部屋の空気が凍りつく。


「何があった!?」


「弱まっていた黒ずみが、再び傷口の周囲へ広がり始めています。魔力も大きく乱れ、神父様たちが浄化術を始めました」


「シグマは!?」


 フェルンが神官へ駆け寄る。


「シグマ、死んじゃうの!?」


「今は神官たちが全力で抑えています。ですが、皆さんにもすぐ来ていただきたいと……」


 最後まで聞くよりも早く、紅蓮は壁へ立てかけていた大剣を背負った。


「行くぞ!」


 誰一人として異を唱えなかった。


 紅蓮たちは宿を飛び出し、夜のカルガランを大聖堂へ向かって走り出した。


 凛とメイメイも、そのあとへ続く。


 先頭を走る紅蓮のすぐ後ろで、フェルンは必死に地面を蹴っていた。


「シグマ……!」


 胸の中を満たす不安を振り払うように、何度もその名を呼ぶ。


「待ってて、シグマ!」


 夜空の下。


 大聖堂の尖塔に灯された魔石灯の光が、遠く揺れていた。


     ◇


 大聖堂の正面扉をくぐった瞬間、紅蓮たちの耳に、慌ただしい足音と神官たちの声が飛び込んできた。


 昼間まで静寂に包まれていた廊下を、何人もの神官やシスターが行き交っている。


 清めの水が入った銀の器。


 束ねられた護符。


 淡い光を放つ浄化用の魔石。


 治療に必要な品々が、次々と奥の治療室へ運び込まれていた。


「シグマはどこだ!」


「こちらです!」


 宿まで知らせに来た神官に案内され、紅蓮たちは廊下を駆け抜けた。


 治療室へ近づくにつれ、空気が重くなる。


 肌を刺すような魔力が廊下まで漏れ出し、壁にかけられた魔石灯が不規則に明滅していた。


「何や、これ……」


 シルフが顔をしかめる。


「魔力が、ここまで漏れとる」


 シルフの瞳の奥に、淡い緑色の光が灯った。


 神の目を通して治療室を見た瞬間、その顔が強張る。


「シグマの右腕から出とる炎に、黒い何かが絡みついとる……」


「呪いか?」


「たぶん。けど、それだけやない。シグマ自身の魔力まで乱れとる」


 治療室の中では、複数の神官が寝台を囲んでいた。


 扉が開くたび、床へ描かれた大きな術式が見える。


 白い浄化の光に包まれた寝台の上で、シグマの身体が僅かに震えている。


 右腕から胸元にかけて巻かれた包帯には、再び黒い染みが浮かび上がっていた。


 黒ずみは心臓の鼓動に合わせるように脈打ち、白い光へ抵抗しながら、少しずつ周囲へ広がろうとしている。


「シグマ!」


 フェルンが治療室へ駆け込もうとした。


「いけません!」


 扉の前に立っていた神官が、慌ててその小さな身体を止める。


「現在、浄化術を行っています! 中へ入れば術式が乱れる恐れがあります!」


「でも、シグマが!」


「フェルン!」


 紅蓮が後ろから抱き止めた。


「放して! シグマのところに行く!」


「今は駄目だ!」


「嫌! シグマが苦しんでるの!」


 フェルンは紅蓮の腕の中で必死にもがいた。


「行かせて! フェルン、シグマのそばにいる!」


「中へ入れば、治療の妨げになる!」


「でも……!」


 そのとき、治療室から老神父が出てきた。


 額には大量の汗が滲み、白い法衣の袖には、呪いに触れたためか黒い汚れが付着している。


「神父様、何が起きたのだ!」


 紅蓮が詰め寄った。


「沈静化していた呪いが、再び動き始めました」


「なぜ急に?」


「はっきりとした原因は分かりません」


 神父は治療室へ視線を戻す。


「ただ、昼過ぎからシグマさん自身の魔力に、僅かな動きが見られるようになりました。意識を取り戻そうとしたことで魔力が動き、それに絡みついていた呪いまで活性化した可能性があります」


「目を覚まそうとしたから、呪いも動いたということか?」


「現時点では、そう考えるのが最も自然でしょう」


 治療室から、何かが弾けるような鈍い音が響いた。


「護符が一枚、焼き切れました!」


「すぐに交換を!」


「胸元の術式を乱すな! 浄化は傷の周囲へ集中させろ!」


 神官たちの切迫した声が飛び交う。


 フェルンは紅蓮の腕の中で震えていた。


「神父様」


 黒鬼が青ざめた顔で尋ねる。


「浄化術で、呪いを取り除くことはできないのですか?」


「表面へ現れた呪いを弱めることはできます。しかし、完全に取り除くことはできません」


「どうしてですか?」


「呪いが傷口へ付着しているだけなら、外側からの浄化で取り除けたでしょう」


 神父は苦しげに眉を寄せる。


「ですが、これはシグマさん自身の魔力と、右腕から流れる特殊な力へ深く絡みついています。無理に引き剥がせば、ご本人の魔力まで傷つける恐れがあります」


「なら、どうすればいい?」


 紅蓮の問いに、神父はすぐには答えられなかった。


「私たちにも、正確なことは分かりません」


 その言葉に、全員の表情が強張る。


「外側から弱められるだけ弱めます。しかし、それだけでは限界があります。最後は、シグマさん自身が呪いに抗わなければならないのかもしれません」


「意識がないのに、どうやって抗うんや?」


「それは……」


 神父にも答えはなかった。


     ◇


 シグマは暗闇へ膝をついていた。


 全身へ絡みついた黒い鎖が、徐々に太さを増している。


 右腕から胸元へ食い込んだ鎖の隙間では、弱々しい炎が苦しそうに揺れていた。


 仲間たちの声によって灯された光は、まだ遠くに見える。


 赤い火の粉。


 緑色の風。


 白い光。


 柔らかな光。


 銀色の輝き。


 どれも消えてはいない。


 けれど、光へ近づこうとするたび、黒い鎖が身体を暗闇の底へ引きずり戻した。


 もう休め。


 声が聞こえる。


 戻る必要などない。


 お前がいなくても、皆は生きていける。


「違う……」


 シグマは左手を地面へつき、立ち上がろうとした。


 しかし、黒い鎖が右肩を強く引く。


 身体が再び闇へ沈んだ。


 お前がいるから、あの者たちは狙われる。


 お前が力を持っているから、争いが起きる。


 お前が守ろうとするから、皆は戦いへ巻き込まれる。


 黒い靄の中に、血に染まった仲間たちの姿が映し出された。


 倒れる紅蓮。


 毒に苦しむ白鬼。


 力を使い果たし、動けなくなる黒鬼。


 傷ついたシルフ。


 剣を取り落とす凛。


 血を流しながら倒れるメイメイ。


 最後に、泣きながら手を伸ばすフェルン。


 現実ではない。


 呪いが、シグマの恐怖を利用して作り出した幻。


 そう分かっているはずなのに、あまりにも鮮明だった。


『シグマ……』


「やめろ……」


 シグマは目を逸らした。


 だが、どこを見ても同じ光景が浮かび上がる。


 仲間たちが傷つき、倒れていく。


 その中心には、いつも自分がいた。


 お前さえ戻らなければいい。


 そうすれば、誰も傷つかない。


 黒い鎖が左腕にも絡みついた。


 光へ伸ばしていた手が、ゆっくりと引き下ろされていく。


「俺が、いなければ……」


 その言葉を口にした瞬間。


 右腕の奥に灯っていた炎が、さらに小さくなった。


     ◇


「待って……」


 シルフが治療室の扉へ近づいた。


「どうした?」


「魔力の動きが変わった」


 紅蓮が振り返る。


 シルフは神の目を通し、シグマの体内を流れる魔力を必死に追っていた。


「右腕の炎が、急に弱うなった。それだけやない。シグマ自身の魔力まで、黒いもんに引っ張られ始めとる」


「それは、どういうことですか?」


 凛が尋ねる。


「分からへん。でも、このままやったら……」


 シルフは最後まで言葉にできなかった。


 そのとき、フェルンが紅蓮の腕から抜け出した。


「シグマ!」


 閉ざされた扉へ駆け寄り、両手をつく。


「聞こえる!? フェルンだよ!」


「静かに!」


 神父が止めようとする。


「今は神官たちが術式を維持しています!」


「でも、声が届くって言った!」


「それは容体が安定していたときの話です! 今は――」


「シグマは、フェルンの手を握ってくれた!」


 フェルンは扉から離れなかった。


「フェルンの声、聞こえてたんだよ! だから、今も聞こえる!」


「待ってや!」


 シルフの声が神父を遮った。


 神の目を開いたまま、治療室の中を凝視する。


「今、炎が動いた」


「何ですと?」


「フェルンが呼んだ瞬間、消えかけとった炎が、ほんの少しだけ強うなったんや」


「浄化術による反応ではないのですか?」


「まだ分からへん」


 シルフはフェルンへ顔を向ける。


「フェルン。もう一回、同じように呼んでみて」


「シグマ!」


 フェルンが扉へ顔を寄せる。


「フェルンはここにいるよ!」


 シルフは息を止め、魔力の動きを見つめた。


 神官の浄化術は、同じ強さで維持されている。


 それでも、フェルンが呼びかけた直後。


 弱っていた炎が、もう一度だけ明るく揺れた。


「間違いない」


 シルフは確信を込めて告げた。


「フェルンの声に反応しとる」


「声が、本当に届いている……」


 神父は驚いたように治療室を見た。


 昼間に起きた指の動きは、偶然ではなかった。


 シグマは意識の奥で、仲間たちの声を聞いている。


「神父様」


 紅蓮が扉の前へ進み出た。


「術式の妨げにならないのであれば、私たちにも呼びかけさせてくれ」


 神父は一瞬迷った。


 その間にも、治療室では神官たちの詠唱が続いている。


「詠唱を遮らないよう、一人ずつお願いします」


「感謝する」


 紅蓮は閉ざされた扉へ向き直った。


「シグマ!」


 姿を見ることはできない。


 それでも、必ず声は届く。


 そう信じて呼びかけた。


「何を恐れているのか、私には分からん。あの力で私たちを傷つけると思っているのかもしれない。お前がいるから、また敵に狙われると考えているのかもしれない」


 紅蓮は右手を扉へついた。


「だが、それをお前一人で決めるな」


 言葉を区切り、力強く続ける。


「戻ってきたあとのことは、皆で考えればいい」


 その言葉に応じるように、治療室から漏れる魔力が僅かに揺れた。


 シルフが頷く。


「届いとる。続けて」


「追われるなら、どうすればよいか皆で考える。戦わなければならないのなら、ともに戦う」


 紅蓮の拳へ力がこもる。


「お前だけに答えを出させるつもりはない。だから戻ってこい!」


 続いて、白鬼が扉の前へ立った。


「シグマ!」


 涙の滲む目で扉を睨みつける。


「また一人で何かを決めようとしてるんでしょう!」


 返事はない。


 それでも白鬼は、シグマが聞いていると信じて言葉を届ける。


「自分がいないほうがいいなんて、そんな馬鹿なことを考えてるなら許さないから!」


 声が震えそうになる。


 白鬼は両手を強く握った。


「私たちが一緒にいたいって決めたの! あんたに勝手に置いていかれるなんて、絶対に嫌!」


 一度息を吸う。


「また一人で決めたら、本当に許さないからね!」


 白鬼と入れ替わるように、黒鬼が前へ出た。


「シグマ」


 小さな声だった。


 それでも黒鬼は、一言ずつ丁寧に告げる。


「あなたが戻る場所は、ここにあります」


 紅蓮も、白鬼も、シルフもいる。


 凛とメイメイもいる。


 そして、扉にしがみつくように立つフェルンがいる。


「自分一人が我慢すればいいと、思わないでください」


 黒鬼自身にも、その気持ちは分かった。


 誰かへ迷惑をかけるくらいなら、自分だけで耐えればいい。


 そう思い、心を閉ざしたことは一度や二度ではない。


「あなたが苦しんでいることを知らされないほうが、私たちはもっと苦しいです」


 黒鬼は顔を上げる。


「迷惑をかけてもいいんです。頼ってもいいんです」


 涙が頬を伝った。


「ですから、帰ってきてください。あなたが戻る場所は、ちゃんとここにあります」


 凛が黒鬼の隣へ立った。


「シグマさん」


 呼びかける声には、確かな強さがあった。


「ラトナにも、カルガランにも、あなたを待っている者がいます」


 帰りを待つ者の気持ちを、今度こそ分かってほしい。


「皆があなたを必要としています。勝手にいなくならないでください」


 凛は閉ざされた扉を真っ直ぐに見つめる。


「皆が待っています」


「うちかて待っとるで」


 シルフが凛の隣から声を上げた。


「まだ説教の途中やからな。こんなところで逃げられたら困るんや」


 いつもの調子を装いながら、シルフは涙を堪えている。


「怖いんやったら、怖いって言えばええ。分からへんことがあるなら、一緒に考えたらええ」


 自分の胸元を拳で軽く叩く。


「あんた一人で背負えるほど、全部軽くはないんやろ」


 シルフは僅かに笑った。


「せやから、うちらにも背負わせろや」


 メイメイも扉の前へ進んだ。


「シグマ君。あたしも無事だからね」


 明るく呼びかけようとしたが、うまく笑うことができなかった。


「助けてもらっておいて、ちゃんとお礼も言えてないんだから。こんなところで眠り続けたら駄目だよ」


 メイメイは目元を拭う。


「今度は、あたしにも守らせて。だから帰ってきて」


 一人が言葉を届けるたび、シグマの魔力の乱れが僅かに弱まっていく。


「声が届くたび、炎が少しずつ戻っとる」


 シルフの言葉に、神父が治療室を振り返る。


「神官たちへ伝えます。今は炎を押さえず、黒ずみだけを浄化するようにと」


 神父が治療室へ戻り、術式の調整を指示する。


 皆の言葉が途切れたあとも、フェルンだけは扉へ両手をついたまま動かなかった。


「シグマ」


 幼い声が震えている。


「フェルン、シグマに助けてもらったよ」


 暗い箱の中から連れ出してくれた。


 傷ついた身体を治してくれた。


 温かい食事を与え、一緒に眠り、手を繋いでくれた。


 怯えても怒らず、泣いても置いていかなかった。


「シグマがいたから、フェルンはみんなに会えた」


 紅蓮。


 白鬼。


 黒鬼。


 シルフ。


 ハク。


 ノクスとソル。


 凛とメイメイ。


 シグマが手を伸ばしてくれなければ、誰とも出会えなかった。


「シグマがいるから、フェルンはここにいるんだよ」


 声が涙に濡れる。


「シグマがいないほうがいいなんて、誰も思ってない」


 フェルンは額を扉へ押し当てた。


「だから帰ってきて」


 涙が頬を伝い、床へ落ちる。


「フェルンたちのところに、帰ってきてよ!」


     ◇


 暗闇を貫き、フェルンの声が届いた。


『シグマがいるから、フェルンはここにいるんだよ』


 シグマは顔を上げた。


 遠くに浮かんでいた銀色の光が、眩いほどに輝き始める。


『シグマがいないほうがいいなんて、誰も思ってない』


 赤い火の粉が燃え上がる。


 緑色の風が駆け抜ける。


 白い光が暗闇を切り開き、柔らかな光が弱った炎を包み込む。


 ぼやけていた仲間たちの姿が、少しずつ鮮明になっていく。


 紅蓮が手を差し出していた。


 その隣では、シルフが泣きそうな顔で笑っている。


 白鬼は怒ったように目元を拭い、黒鬼は両手を胸元で重ねている。


 凛とメイメイも、シグマの帰りを待っていた。


 そして、その中心にフェルンが立っている。


 小さな両手を精いっぱい伸ばし、シグマを呼んでいた。


『フェルンたちのところに、帰ってきてよ!』


 声と光が重なり、一つの道を作った。


 シグマは、その道を見つめた。


 これまで、自分が仲間を守らなければならないと思っていた。


 自分が前へ出なければ。


 自分が傷つけば。


 自分一人ですべてを背負えば、皆を守ることができる。


 そう信じていた。


 けれど、それは違った。


 シグマ自身も、何度も仲間に守られていた。


 紅蓮が前へ立ってくれた。


 シルフの矢と風が、何度も道を切り開いてくれた。


 白鬼と黒鬼が傷を癒やし、手を差し伸べてくれた。


 フェルンの声と笑顔に救われた。


 ハクが傍らを走り、凛やメイメイも力を貸してくれた。


 自分一人で、ここまで来たのではない。


 皆に支えられたから、ここまで歩いてこられたのだ。


「……そうだったな」


 シグマは左手を握った。


「俺は、一人じゃなかった」


 黒い鎖が激しく蠢く。


 騙されるな。


 戻れば、また傷つける。


 今度こそ、あの者たちを失うことになる。


 暗闇が仲間たちの姿を覆い隠そうとする。


 だが、シグマはもう目を逸らさなかった。


「傷つけるかもしれない」


 自分の右腕には、制御しきれない力がある。


 過去も、敵の正体も分からない。


 これからも仲間たちを危険へ巻き込む可能性はある。


「それでも、一人で決めるなと怒られた」


 シグマは僅かに笑った。


 紅蓮と白鬼の声が、今も耳に残っている。


「戻ってから、皆で考えればいい」


 シグマは左手を伸ばし、胸元へ食い込んでいる黒い鎖を掴んだ。


 触れた瞬間、掌が焼けるような痛みが走る。


 黒い靄が腕を這い上がり、意識を呑み込もうとした。


 お前には戻る資格などない。


 お前の帰りを待つ者などいない。


「いる」


 シグマは鎖を強く握り締めた。


「俺を待っている人たちがいる」


 黒い鎖に、細い亀裂が走った。


「だから俺は――戻る」


 右腕の奥で、消えかけていた炎が揺れた。


 シグマが炎を従わせたわけではない。


 支配したわけでもない。


 仲間たちの声によって生まれた、生きようとする意思。


 その意思へ応えるように、弱っていた炎が静かに灯った。


 激しい怒りに燃える、破壊の炎ではない。


 何かを焼き尽くすための炎でもなかった。


 赤い火の粉に守られ。


 緑色の風に包まれ。


 白い光に照らされ。


 仲間たちの声を受けた、穏やかな炎。


 その火が、シグマの右腕から胸元へゆっくりと広がっていく。


 黒い鎖は炎を取り込もうとした。


 しかし、穏やかな火は呪いに呑み込まれない。


 仲間たちの光と重なり、鎖の内側から熱を与える。


 シグマを暗闇へ引きずり込んでいた一本の鎖へ、幾つもの亀裂が走った。


 やがて、乾いた音とともに、その一本が砕け散る。


 残された鎖は消えていない。


 右腕と胸へ絡みついたまま、暗闇の奥へ退いていく。


 シグマを完全に解放したわけではなかった。


 それでも、光へ続く道を塞ぐものはなくなった。


 暗闇の向こうから、眩い光が差し込む。


 長い夜の終わりを告げる、朝の光だった。


     ◇


「黒ずみが引いていきます!」


 治療室の中から、神官の声が響いた。


 シルフは神の目を通し、シグマの魔力の流れを見つめていた。


 乱れていた炎が、少しずつ落ち着きを取り戻している。


 黒いものはまだ残っているが、シグマの魔力へ深く食い込もうとする動きが止まり始めていた。


「押し返しとる……」


 シルフの目から、堪えていた涙が零れ落ちる。


「シグマが、自分で呪いを押し返しとる!」


「本当か!?」


「ああ。間違いない」


 シルフは涙を拭いながら笑った。


「うちらの声、ちゃんと届いたんや」


 フェルンは扉へ両手をついたまま、何度もシグマの名を呼んだ。


「シグマ! シグマ!」


 治療室の中では、神官たちが浄化術を続けている。


「今です! 傷口の周囲へ浮かんだ呪いだけを引き離します!」


「術式を第二段階へ!」


「右腕の炎を押さえるな! 浄化は黒ずみに集中させろ!」


 白い光が治療室を満たした。


 扉の隙間から漏れた光が、廊下を眩しく照らす。


 直後、重く淀んでいた空気が、僅かに軽くなった。


 壁の魔石灯も、安定した光を取り戻していく。


「シグマは……?」


 フェルンが不安そうに尋ねた。


 治療室から出てきた神父は、額の汗を拭いながら答える。


「今、呪いの動きは止まりました」


「助かったの?」


「まだ治療は終わっていません」


 フェルンの顔が強張る。


「ですが、最も危険な状態は越えたと思われます」


 その言葉を聞き、フェルンの足から力が抜けた。


 黒鬼がすぐに小さな身体を抱き止める。


「よかった……」


 フェルンは黒鬼へしがみついた。


「シグマ、帰ってくるんだよね?」


「はい」


 黒鬼は涙を流しながら頷いた。


「きっと、帰ってきてくれます」


     ◇


 それから治療は、夜が明けるまで続いた。


 紅蓮たちは治療室の近くにある礼拝堂へ案内された。


 長椅子が並ぶ静かな空間で、誰も宿へ戻ろうとはしなかった。


 紅蓮は腕を組んだまま壁へ背を預け、治療室へ続く扉を見つめている。


 白鬼と黒鬼は隣り合って座っていた。


 白鬼は黒鬼の肩へ頭を預け、黒鬼はその手を握っている。


 シルフは長椅子へ腰掛け、目を閉じていた。


 神の目を使い続けたことで魔力を消耗し、意識を保っているだけでもつらそうだった。


「少し休んでください」


 凛が声をかける。


「今無理をして、あなたまで倒れては意味がありません」


「分かっとるけど……気になって眠れへん」


「それは私も同じです」


 凛の隣では、メイメイが長椅子へ背中を預けていた。


 目を閉じているが、治療室の方角から物音が聞こえるたびに薄く開く。


 フェルンだけは、一度も座ろうとしなかった。


 礼拝堂の出口近くに立ち、治療室へ続く廊下を見つめ続けている。


「フェルン、少し横になったほうがいいわ」


 白鬼が声をかける。


「嫌」


「シグマが目を覚ましたとき、あんたまで倒れてたら心配するわよ」


「大丈夫だよ」


 フェルンは扉から目を逸らさなかった。


「シグマが起きたら、すぐにおかえりって言うから」


 誰も、それ以上は止められなかった。


 窓の外では、夜の闇が少しずつ薄れていく。


 大聖堂の鐘が、静かに朝の訪れを告げた。


 長かった夜が、ようやく明けようとしていた。


     ◇


 朝日が礼拝堂の窓から差し込み始めた頃。


 治療室へ続く扉が、静かに開いた。


 姿を現した老神父へ、全員が一斉に駆け寄る。


「神父様!」


「シグマはどうなった!」


 紅蓮の問いに、神父は疲れた顔で微笑んだ。


「容体は安定しました」


 その言葉を聞いた瞬間、全員の肩から力が抜けた。


「再び現れた黒ずみも、今は傷口の奥へ沈静化しています。魔力の流れも穏やかです」


「では、呪いは消えたのですか?」


 黒鬼が尋ねる。


 神父は首を横に振った。


「いいえ。残念ながら、完全に消えたわけではありません」


 安堵していた空気に、僅かな緊張が戻る。


「私たちが弱めることができたのは、再び広がろうとしていた部分だけです。呪いは、まだ右腕の奥深くに残っています」


「また、昨夜のようなことが起きる可能性があるのだな?」


「否定はできません。ですが、今すぐ再び動き始める様子はありません」


「シグマは?」


 フェルンが神父の法衣を掴んだ。


「シグマ、起きた?」


「まだ眠っています」


 フェルンの耳が垂れる。


 しかし、神父は優しく言葉を続けた。


「呼吸も脈も安定しています。眠りも、昨夜までの危険な状態とは違います」


「会える?」


「ええ。ただし、傷には決して触れないようにしてください」


「うん!」


 フェルンは真っ先に治療室へ向かおうとした。


「待ってください、フェルン」


 黒鬼が慌てて追いかける。


「走って転んだら危ないです」


「早く行かないと、シグマが起きちゃう!」


「起きてくれるなら、そのほうがいいでしょう!」


 白鬼も二人のあとを追う。


 その様子を見て、紅蓮は力の抜けた笑みを浮かべた。


「まったく……」


「紅蓮も笑っとるで」


 シルフが疲れた顔で笑う。


「お前もな」


 紅蓮たちは顔を見合わせ、シグマの待つ治療室へ向かった。


     ◇


 治療室には、朝の柔らかな光が差し込んでいた。


 夜通し灯されていた魔石灯は消され、床に描かれていた術式も役目を終えている。


 寝台の周囲には、使い切った魔石や焼け焦げた護符が積み重ねられていた。


 その中央で、シグマは静かに眠っている。


 顔色はまだ悪い。


 右腕から胸元にかけて、新しい包帯が巻かれている。


 けれど、昨夜のような苦しげな表情ではなかった。


 浅くはあるものの、穏やかな呼吸を繰り返している。


「シグマ……」


 フェルンは寝台の脇へ置かれた椅子へ座った。


 皆が息を潜めて見守る中、シグマの左手を両手で優しく包み込む。


 温かい。


 昨日よりも、はっきりとした体温を感じた。


「朝だよ」


 フェルンは涙の痕が残る顔で微笑んだ。


「おはよう、シグマ」


 呼びかけても、シグマの瞼は閉じたままだった。


 それでもフェルンは手を離さない。


「みんな、いるよ」


 紅蓮も。


 白鬼も黒鬼も。


 シルフも。


 凛もメイメイも。


 全員が、シグマの目覚めを待っていた。


「約束したでしょ」


 フェルンは少しだけ頬を膨らませる。


「起きたら、みんなでハクを迎えに行くんだよ」


 そのとき。


 フェルンの手の中で、シグマの指が動いた。


「……シグマ?」


 昨日のような、ごく僅かな反応ではなかった。


 シグマの左手が、フェルンの小さな手をはっきりと握り返した。


「動いた!」


 フェルンが目を輝かせる。


「シグマ! フェルンだよ!」


 閉ざされていたシグマの瞼が、僅かに震えた。


 ゆっくりと、目が開いていく。


 差し込む朝日が眩しいのか、何度か目を細める。


 ぼやけた視界の中に、最初に銀色の髪が映った。


「シグマ……?」


 涙を浮かべたフェルンが、すぐ傍で自分を見つめている。


 その後ろには、仲間たちがいた。


 紅蓮。


 白鬼。


 黒鬼。


 シルフ。


 凛。


 メイメイ。


 皆が泣きそうな顔で、シグマの目覚めを見つめていた。


「よかった……」


 フェルンの目から、大粒の涙が溢れた。


「シグマ!」


 寝台へ飛び込むように抱きつこうとする。


「待ってください!」


「駄目よ、フェルン!」


 黒鬼と白鬼が左右から慌てて止めた。


「傷に触れたら駄目です!」


「でも、シグマが起きた!」


「分かってるわ! だからこそ、もう一度気絶させたら駄目でしょう!」


「少しだけ!」


「少しでも駄目です!」


 三人の声が、静かだった治療室へ響いた。


 シグマはその光景を、ぼんやりと見つめる。


 身体には力が入らない。


 息を吸うだけで胸元が痛み、喉は焼けつくように乾いていた。


 右腕の感覚もほとんどない。


 それでも、皆がここにいることだけは分かった。


 暗闇の中で聞いた声は、夢ではなかった。


「……みんな……」


 掠れた声が漏れる。


 その一言で、騒いでいた白鬼たちが動きを止めた。


 紅蓮が寝台の傍らへ歩み寄る。


「私たちが分かるか?」


 シグマは僅かに頷いた。


「ああ……」


 声を出した直後、胸元に痛みが走る。


 シグマの表情が歪んだ。


「無理に話してはいけません」


 神父がすぐに制止する。


「胸の傷はまだ塞がっていません。呼吸も浅い。今は目を覚ましただけでも十分です」


 シグマは神父の言葉へ小さく頷いた。


 フェルンは白鬼と黒鬼に止められたまま、涙を流している。


 シグマは左手に残る小さな温もりを確かめるように、フェルンの手をもう一度握った。


「フェルン……」


「なに?」


 フェルンがすぐに顔を近づける。


 シグマは浅く息を吸った。


 胸が痛む。


 それでも、今だけは言葉にしたかった。


「……ただいま」


 一瞬。


 フェルンの目が大きく見開かれた。


 次の瞬間、大粒の涙を溢れさせながら、満面の笑みを浮かべる。


「おかえり、シグマ!」


 その声を聞き、紅蓮は強く目を閉じた。


 白鬼は顔を背けながら涙を拭い、黒鬼は口元を両手で覆って泣いている。


 シルフも「ほんまに、馬鹿やなあ」と呟きながら、目元を拭った。


 凛は胸元へ手を当て、安堵したように微笑む。


 メイメイも涙を流しながら、何度も頷いていた。


 シグマは皆の顔をゆっくりと見渡した。


 何かを言おうと唇を動かす。


 しかし、声になる前に神父が止めた。


「もう話してはいけません」


 神父はシグマの呼吸を確かめ、包帯の上から傷の状態を確認する。


「右腕も動かそうとしないでください。感覚が戻っていなくても、無理に魔力を流せば呪いが再び動く恐れがあります」


 シグマは視線だけを右腕へ向けた。


 そこに腕があることは分かる。


 だが、自分の身体とは思えないほど遠く、動かせる感覚はなかった。


「呪いは……」


 掠れた声で尋ねようとする。


「完全には消えていません」


 神父はシグマが最後まで口にする前に答えた。


「右腕の奥に残っています。傷もまだ深く、長い療養が必要です」


 紅蓮が寝台の傍らへ立った。


「旅のことは考えるな」


 シグマが紅蓮を見る。


「だが……」


「話すなと言われただろう」


 紅蓮は厳しい口調で遮った。


「お前が眠っている間に、全員で決めた」


 白鬼たちも、紅蓮の言葉に頷く。


「これからのことは、皆で考える」


 暗闇の中で聞こえた言葉だった。


 シグマは仲間たちの顔を見渡す。


 誰一人として、迷惑そうな顔をしていない。


 心配し、怒り、泣きながらも、そばから離れようとしなかった。


 これまでのシグマなら、大丈夫だと答えたかもしれない。


 自分で何とかすると言い、再び一人で抱え込んだかもしれない。


 けれど、今は違った。


 シグマは左手でフェルンの手を握ったまま、ゆっくりと頷く。


「……頼む」


 その一言を最後に、目を閉じた。


「シグマ!?」


 フェルンが不安そうに身を乗り出す。


「大丈夫です」


 神父が呼吸と脈を確認する。


「再び眠っただけです。目を覚ましたことで、残っていた力を使い果たしたのでしょう」


「また起きる?」


「ええ。今度は、身体を休ませるための眠りです」


 フェルンは安心したように息を吐いた。


 シグマの左手を両手で包み込む。


「じゃあ、ゆっくり寝ていいよ」


 その声は、これまでとは違っていた。


 もう、目を覚まさないのではないかという恐怖はない。


「フェルン、ここにいるから」


 眠るシグマの指は、今もフェルンの手へ僅かに触れていた。


     ◇


 朝日が治療室の窓から差し込み、シグマと仲間たちを照らしていた。


 シグマの右腕は、まだ動かない。


 傷の奥に残った呪いも、完全に消えたわけではなかった。


 これから長い療養が必要になる。


 再び呪いが牙を剥く可能性もある。


 それでも。


 失われかけていた命の炎は、もう一人で燃えているのではない。


 いくつもの声に守られながら。


 いくつもの思いに支えられながら。


 静かに、確かに燃え続けていた。

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