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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第二十一話 カルガラン

 馬車は夜通し、街道を走り続けていた。


 ノクスとソルが大地を蹴るたびに車輪が激しく跳ね、荷台が軋んだ音を立てる。


 夜明け前の冷たい風が御者台を吹き抜けても、手綱を握る紅蓮は一度も速度を緩めなかった。


「ノクス、ソル! もう少しだ! 頼む!」


 二羽は疲労で荒い息を吐きながらも、紅蓮の声に応えるように力強く地面を蹴った。


 荷台では、シグマが毛布の上に横たえられていた。


 右の義手と肩の接合部から胸元にかけて布が巻かれ、黒鬼が滲み出す血を押さえている。


 その傍らでは、フェルンが青ざめた顔でシグマを見つめていた。


「シグマ……」


 何度呼びかけても、返事はない。


 時折苦しそうに眉を寄せ、浅い呼吸を繰り返しているだけだった。


 出血は黒鬼とシルフの処置によって、どうにか抑えられている。


 しかし、右肩から胸元へ広がった黒い変色は消えず、少しずつ範囲を広げていた。


 黒鬼も初めは回復魔法を使おうとした。


 だが、魔力を流し込んだ途端、傷が激しい熱を持ち、黒い変色が脈打つように広がってしまった。


 それ以降は回復魔法を使わず、清潔な布で傷を覆い、止血と体温の維持を続けている。


「……また少し、広がっています」


 黒鬼の震える声に、白鬼が唇を噛んだ。


「何なのよ、この傷……。回復魔法を使ったら悪化するなんて、聞いたことない」


「うちも見たことがあらへん。せやけど、普通の傷やないことだけは確かや」


 シルフはシグマの額に触れた。


 焼けるように熱い。


 すぐに手を離し、荷台の外へ目を向ける。


「もうすぐ夜が明ける。カルガランまでは、あと少しのはずや」


 馬車の横では、ハクが懸命に走り続けていた。


 白銀の毛並みは返り血と土で汚れ、呼吸も大きく乱れている。それでも馬車から離れようとはせず、何度も荷台へ視線を向けていた。


 やがて、東の空が淡く白み始める。


 朝靄の向こうに、巨大な城壁の影が浮かび上がった。


「あそこよ!」


 御者台の隣に座っていたメイメイが身を乗り出す。


「カルガランが見えたわ!」


 その声に、荷台を覆っていた重い空気が僅かに変わった。


 フェルンが顔を上げ、白鬼も荷台の後方から城壁をのぞき込む。


「着いたら、シグマは助かるの……?」


 フェルンの問いに、誰もすぐには答えられなかった。


 それでも黒鬼は、不安を押し隠すように小さく頷く。


「カルガランには大きな聖堂があります。きっと、私たちにはできない治療もできます」


「絶対に助けてもらうのよ」


 白鬼も自分へ言い聞かせるように続けた。


「たとえシグマ自身が諦めそうになっても、私たちが絶対に諦めないんだから」


 フェルンは涙を堪えながら、シグマの服を強く握った。


 カルガランの城壁が近づくにつれ、ハクの速度が僅かに落ちていく。


 正門前には検問所がある。


 巨大な魔物であるハクを連れたまま近づけば、門番たちに警戒されるのは避けられない。


 普段であればシグマがハクとの関係を説明できる。だが、そのシグマは意識を失っており、ハクが従魔であることをすぐに証明できるものもない。


 無理に近づけば、門を閉ざされる可能性さえあった。


 ハク自身も、それを理解しているようだった。


 馬車の前へ回り込んだハクが、御者台の紅蓮を見る。


「……ここまでか」


 紅蓮が悔しそうに呟いた。


 ハクは短く鼻を鳴らすと、速度を緩めて荷台へ顔を寄せた。


 黒鬼たちが場所を空ける。


 ハクは横たわるシグマの頬へ鼻先を触れさせ、確かめるように匂いを嗅いだ。そのまま離れようとせず、喉の奥から不安げな声を漏らす。


「ハク……大丈夫」


 フェルンがハクの鼻先を抱き締める。


「シグマは、フェルンたちが助ける。だから、待ってて」


 その声に、自信はなかった。


 それでもハクを安心させようと、フェルンは必死に笑みを作った。


 ハクはフェルンを見つめたあと、白鬼、黒鬼、シルフ、メイメイ、最後に紅蓮へ順に視線を向ける。


 シグマを任せる。


 そう伝えているかのようだった。


「ああ。任せろ」


 紅蓮が力強く頷く。


「必ず助ける」


 ハクはもう一度だけシグマを見つめると、街道から外れた。


 その場に立ち止まり、遠ざかっていく馬車を心配そうに見送っている。


 フェルンは荷台の後ろから身を乗り出し、小さくなっていくハクへ手を振り続けた。


「ハク! またあとでね!」


 やがてハクの姿は、朝靄の中へと消えていった。


     ◇


 カルガランの正門では、夜勤を終えようとしていた門番たちが、猛然と近づいてくる馬車に気づいて慌ただしく動き始めた。


「馬車が来るぞ!」


「止まれ! 検問を受けろ!」


 二人の門番が槍を構え、門の前へ出る。


 しかし、馬車は速度を落とさない。


 紅蓮が手綱を引こうとした瞬間、隣にいたメイメイが立ち上がった。


「待って! 緊急事態なの!」


 門番たちへ届くよう、大きく声を張り上げる。


「私はメイメイ! ラトナ冒険者ギルドの副ギルドマスターよ!」


 そう叫ぶと、腰に提げていたギルドカードを引き抜き、正面に立つ門番へ向かって投げた。


「これを確認して!」


「なっ……!」


 門番は慌てながらも、飛んできたカードを片手で受け止めた。


 刻まれた名前と役職を確認し、驚いたように馬車を見上げる。


「メイメイ副ギルドマスター!?」


「重傷者がいるの! 普通の回復魔法が使えないわ! 魔力を流すほど傷が悪化しているの!」


 門番の表情が一変した。


 メイメイの切迫した様子を見て、すぐさま槍を下ろす。


「大聖堂へ向かうわ! 道を開けて!」


「分かった! 皆、道を開けろ!」


 門番の声を受け、正門前にいた兵士たちが一斉に左右へ退いた。


 ギルドカードを確認した門番は、迫る馬車とすれ違う瞬間、それを投げ返す。


「大聖堂は門を抜けて中央通りを直進! 三つ目の広場を右だ!」


 メイメイは飛んできたカードを受け止め、そのまま腰へ戻した。


「ありがとう!」


「こちらからも神官へ知らせに行かせる! 止まらず行け!」


「お願いね!」


 紅蓮は速度を緩めることなく、正門を駆け抜けた。


 石造りの門を潜った瞬間、車輪の音が大きく反響する。


 早朝のカルガランには、まだ人の姿がほとんどなかった。


 道の両側には石造りの建物が立ち並び、商店の扉は固く閉ざされている。朝の仕込みを始めていた店主や、通りを掃除していた住民が、激しい車輪の音に驚いて振り返った。


「中央通りを真っ直ぐ進んで!」


 メイメイの指示に従い、紅蓮が馬車を走らせる。


「三つ目の広場で右だな!」


「ええ!」


 荷台から前方を見据えていたシルフが立ち上がった。


「うちが先に行く」


「何をするつもりだ?」


「馬車が着いてから説明しとったら、そのぶん遅れる。先に聖堂へ行って、受け入れる準備をしてもらうんや」


 シルフは馬車の縁に足をかける。


「シルフ、お前もまだ万全ではないだろう!」


「飛ぶだけなら問題あらへん!」


 紅蓮が止めるより早く、シルフは走行中の馬車から跳び上がった。


「風よ!」


 足元に渦巻いた風が、シルフの小さな身体を空高く押し上げる。


 緑の髪をなびかせながら屋根の高さまで舞い上がり、眼下に広がる街並みを見渡した。


 いくつもの建物の向こうに、朝日を受けて輝く白い尖塔が見える。


「あれやな!」


 シルフは風を背にまとい、矢のような速度で大聖堂へ飛んでいった。


     ◇


 カルガラン大聖堂は、白い石で築かれた巨大な建物だった。


 中央にそびえる尖塔の頂には聖印が掲げられ、その左右を包むように小さな塔が並んでいる。


 正面の扉は、早朝の祈りに訪れる者のため、既に開かれていた。


 シルフは聖堂前の広場へ降り立つ。


 着地の勢いを殺し切れず、石畳の上を数歩よろめいたが、すぐに体勢を立て直した。


「そこの人!」


 入口付近を掃除していた若いシスターが、驚いて振り返る。


「ど、どうされました!?」


「重傷者や! もうすぐ馬車で運ばれてくる!」


 息を切らしながら、シルフが駆け寄った。


「右肩から胸にかけて傷が広がっとる。回復魔法を使ったら、逆に悪化したんや。黒い痣みたいなもんが広がって、意識も戻らへん!」


「回復魔法で悪化……?」


 シスターの顔から血の気が引いた。


「すぐに神父様をお呼びします!」


「頼む! うちらでは、もうどうすることもできへんのや!」


 シスターは手にしていた箒を置き、聖堂の奥へ駆けていった。


 シルフもそのあとを追う。


 静かだった聖堂内に、いくつもの足音と呼び声が響き始めた。


「担架を用意してください!」


「地下の浄化室を空けて!」


「高位解呪術を扱える神官を集めなさい!」


 ほどなくして、白と金の法衣をまとった初老の神父が現れた。


「傷の状態を、分かる範囲で構いません。詳しく聞かせてください」


「右肩から胸にかけて傷が広がっとる。止血はしたけど、傷の周りが黒く変色しとるんや。回復魔法をかけた途端、その黒いもんが一気に広がった」


「負傷した原因は?」


 シルフは言葉に詰まった。


 シグマが右腕の力を使った直後に倒れたことは分かっている。


 しかし、その力の正体をシルフは知らない。シグマ自身も、これまで詳しく説明しようとはしなかった。


「……戦いの最中、突然、右肩から傷が広がったんや。詳しい原因までは、うちにも分からへん」


「承知しました。まずは本人の状態を確認します」


 その直後、外から激しい車輪の音が聞こえてきた。


「来た!」


 シルフが入口へ振り返る。


「皆さん、担架を!」


 神父の指示を受け、複数のシスターと神官が一斉に外へ向かった。


     ◇


 紅蓮たちの馬車が大聖堂前の広場へ飛び込んだときには、既に数人のシスターと神官が担架を持って待機していた。


「止まれ、ノクス! ソル!」


 紅蓮が手綱を強く引く。


 二羽が石畳を滑るようにして速度を落とし、馬車が大きく揺れながら停止した。


 完全に止まるより早く、黒鬼が荷台から顔を出す。


「こちらです! 早く!」


 神官たちが荷台へ駆け寄り、横たわるシグマの状態を確認する。


 初老の神父が布の隙間から右肩をのぞき込み、胸元へ広がった黒い変色を見た瞬間、険しい表情を浮かべた。


「これは……」


「シグマは助かるの!?」


 フェルンが縋りつくように尋ねる。


「お願い、シグマを助けて!」


 神父はすぐには答えなかった。


 シグマの脈を測り、瞼を開き、傷の上へ手をかざす。


 魔法を流し込むことはせず、身体から漏れ出す魔力の乱れを慎重に探っていった。


 やがて黒鬼が、耐え切れずに問いかける。


「傷を治せますか?」


「……傷そのものとは別に、異質な魔力が身体へ絡みついています」


「異質な魔力?」


「性質は強力な呪いに酷似しています。ただし、私にも正体までは分かりません」


 その言葉に、全員が息を呑んだ。


「呪い……?」


 白鬼が呆然と繰り返す。


「ただ傷を負っただけじゃないってこと?」


「はい。負傷した箇所を起点として、異質な魔力が全身へ広がろうとしています。回復魔法で悪化したのは、注ぎ込まれた魔力に反応し、力を増したためでしょう」


 黒鬼の顔が青ざめた。


「では、私が回復魔法を使ったせいで……」


 神父は黒鬼へ視線を向け、静かに首を横に振る。


「あなたの責任ではありません。目の前に重傷者がいれば、回復魔法を使うのは当然の判断です。この異常は、我々でも実際に確認しなければ見抜けません」


「でも……」


「止血を続け、傷口を清潔に保ち、体温を維持したからこそ、ここまで命を繋ぐことができたのです。今はご自分を責めないでください」


 黒鬼は何も答えられず、俯いた。


 神父は周囲の神官たちへ向き直る。


「すぐに地下の浄化室へ運びます。高位解呪術を扱える者を集めてください。非番の者も起こしなさい」


「はい!」


「治癒術を得意とする者にも待機するよう伝えてください。ただし、異質な魔力の拡大を抑えるまでは、絶対に回復魔法を使ってはいけません」


 神官たちが一斉に動き出す。


 シグマの身体が慎重に担架へ移された。


「待って!」


 運ばれていくシグマを追い、フェルンが走り出す。


 だが、地下へ続く扉の前でシスターに止められた。


「この先は、治療に携わる者しか入れません」


「フェルンも行く! シグマのそばにいる!」


「申し訳ありません。解呪の最中は、僅かな魔力の乱れも術の妨げになることがあります」


「嫌! シグマを一人にしたくない!」


 フェルンがシスターの横をすり抜けようとする。


 黒鬼が背後から、その小さな身体を抱き止めた。


「離して! 黒鬼、離して!」


「フェルンちゃん……今は、神父様たちに任せましょう」


「でも!」


「私たちにできることは、もうありません」


 声を震わせながらも、黒鬼はフェルンを強く抱き締める。


「だから、信じて待ちましょう」


 フェルンはなおもシグマへ手を伸ばしていた。


 担架に乗せられたシグマの姿が地下への階段を下り、やがて見えなくなる。


 重い扉が閉じられた。


 その音とともに、フェルンの腕から力が抜ける。


「シグマ……」


 黒鬼の胸元へ顔を埋め、フェルンは声を押し殺して泣き始めた。


 紅蓮は地下への扉を見つめたまま、固く拳を握る。


 白鬼も唇を噛み、俯いていた。


「大丈夫や」


 シルフが呟いた。


 それが皆へ向けた言葉なのか、自分へ言い聞かせた言葉なのかは分からない。


「あいつは、こんなところで死なへん。何度倒れても、また起き上がってきたんや。今回も絶対に戻ってくる」


「ああ……」


 紅蓮は短く答え、地下への扉を真っ直ぐ見据えた。


「そうでなければ困る」


     ◇


 地下の浄化室には、初老の神父と二十人の神官が集められていた。


 その中心に置かれた石台の上へ、シグマが横たえられている。


 傷を覆っていた布は外され、右の義手と肩の接合部から胸元にかけて広がる黒い変色が露わになっていた。


 二十人の神官は十人ずつ、二つの組に分けられた。


 第一陣が石台を囲むように魔法陣の内側へ並び、第二陣はその外側で待機する。


 初老の神父が石台の傍らに立ち、全員の配置を確認した。


「始めます。異質な魔力は非常に強力です。決して一人で引き受けようとしてはいけません。浄化によって流れ込んできた穢れは、必ず全員で分散させなさい」


 神官たちが一斉に頷く。


「聖なる光よ。苦しみの鎖を断ち、蝕む闇を退けたまえ」


 神父の詠唱に続き、第一陣の神官たちも祈りを捧げる。


 床に刻まれた巨大な魔法陣が淡く輝き始めた。


 白い光が石台を包み込む。


 次の瞬間、シグマの右肩から胸元に広がっていた黒い変色が、生き物のように激しく蠢いた。


「ぐっ……!」


 意識を失っていたシグマが背を反らし、苦痛の声を漏らす。


 傷の周囲から黒い靄が立ち上り、白い光を拒むように渦を巻いた。


「術を緩めてはいけません!」


 神父の声が浄化室へ響く。


「異質な魔力を右肩へ集めます! 第一陣は術式を維持! 第二陣は外側から全身への広がりを押さえなさい!」


 外側で待機していた神官たちも床へ手をつき、魔法陣へ魔力を流し始めた。


 白い光が二重にシグマを囲み、全身へ広がろうとしていた黒い変色を右肩の周囲へ押し戻していく。


 神官たちの額に汗が浮かぶ。


 白い光と黒い靄がぶつかり合い、床に刻まれた魔法陣が激しく明滅した。


 一人の神官が膝をつきかける。


 隣の者がすぐに肩を支え、途切れかけた光を補った。


「第一陣が限界です!」


「第二陣と交代! 術式を途切れさせてはいけません!」


「はい!」


 第一陣の神官たちが少しずつ後退し、それに合わせて第二陣が魔法陣の内側へ入る。


 白い光を絶やさないよう、慎重に術を引き継いでいった。


 浄化は一度で終わらなかった。


 異質な魔力を少しずつ削り、疲労した者を休ませ、再び祈りを捧げる。


 それが何度も繰り返された。


     ◇


 地上の礼拝堂では、紅蓮たちが長椅子に座っていた。


 大きな窓から差し込む朝日は、いつしか白く強い昼の光へ変わっている。


 それでも地下の扉は開かない。


 白鬼は落ち着かない様子で礼拝堂の中を行き来し、紅蓮は両手を組んだまま微動だにしない。


 シルフは壁に寄りかかり、目を閉じていた。


 眠っているわけではない。


 地下から微かに伝わってくる魔力の揺らぎへ意識を集中させていた。


 黒鬼は長椅子に座り、泣き疲れて眠ってしまったフェルンを膝の上で抱いている。


 メイメイだけが皆から少し離れた場所に立ち、礼拝堂の出入り口へ注意を向けていた。


 追手がここまで来る可能性は低い。


 それでも、完全に安全だと言い切れる状況ではなかった。


「……どれくらい経った?」


 白鬼が足を止める。


「分からへん」


 シルフが目を閉じたまま答えた。


「でも、まだ術は続いとる」


「長すぎるわよ……」


「それだけ厄介なもんが、シグマの身体に残っとるんやろ」


「分かってる。分かってるけど……」


 白鬼は俯き、自分の腕を強く握った。


「どうしてシグマばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないのよ」


 誰も答えられなかった。


 シグマはいつも、自分より他人を優先する。


 傷つくと分かっていても仲間の前へ立ち、誰かが倒れれば、自分の傷を忘れて手を差し伸べる。


 今回もそうだった。


 だからこそ、誰もが同じことを考えていた。


 今度は自分たちが、シグマを守らなければならない。


 やがて、窓から差し込む光が赤みを帯び始めた頃。


 地下へ続く扉の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてきた。


 全員が一斉に立ち上がる。


 重い扉が開き、治療に当たっていた初老の神父が姿を現した。


 白と金の法衣は汗で濡れ、顔には強い疲労が滲んでいる。


「神父様!」


 黒鬼の膝で眠っていたフェルンも目を覚まし、飛び起きた。


「シグマは!? シグマはどうなったの!?」


 神父はフェルンの前まで歩み寄る。


 その表情は険しいままだったが、僅かに安堵の色が浮かんでいた。


「異質な魔力の急激な拡大を、ひとまず抑えることができました」


 一瞬、誰も言葉を発することができなかった。


「じゃあ……シグマは助かるの?」


 フェルンが震える声で尋ねる。


「今すぐ命を落とす危険は、ひとまず退けられました」


 張り詰めていた空気が、僅かに緩む。


 白鬼がその場に座り込み、黒鬼は胸元で両手を握った。


 紅蓮も大きく息を吐き、目を閉じる。


 しかし、神父はすぐに言葉を続けた。


「ただし、まだ安心はできません」


 全員の表情が再び引き締まる。


「身体を蝕んでいた異質な魔力の大部分は取り除きました。しかし、深い部分にはまだ残っています。完全に消えたわけではありません」


「また広がる可能性があるんか?」


 シルフの問いに、神父が頷く。


「はい。弱まったように見えても、魔力を与えた途端に再び活性化する可能性があります。今夜も解呪魔法を絶やさず、経過を見なければなりません」


「回復魔法は使えるのか?」


 紅蓮が尋ねる。


「解呪魔法で異質な魔力を抑えた状態であれば、使える可能性があります。ただし、最初はごく少量の魔力から試す必要があります」


「傷は治せるの?」


 フェルンが神父を見上げる。


「今は、傷を治すことよりも命を守ることを優先します。回復魔法に耐えられると確認できれば、少しずつ治療を進めます」


「シグマに会える?」


「今夜は、まだ治療室へ入れる状態ではありません」


 フェルンの耳が力なく伏せられた。


「でも、フェルンは静かにする。絶対に邪魔しないよ」


「申し訳ありません。今夜は僅かな魔力の変化にも注意しなければなりません。治療に携わる者以外は、中へ入れることができないのです」


「……シグマ、一人なの?」


 神父はフェルンの前へ膝をつき、視線の高さを合わせる。


「いいえ。夜の間も、必ず神官がそばに残ります。決して一人にはいたしません」


「本当?」


「はい。何か変化があれば、すぐに皆様へお知らせします」


 フェルンはしばらく地下への扉を見つめていた。


 やがて、小さく頷く。


「シグマを、お願い」


「全力を尽くします」


 神父は静かに頭を下げた。


 紅蓮も深く頭を下げる。


「頼む。どうか、シグマを助けてくれ」


 白鬼と黒鬼、シルフ、メイメイも続いて頭を下げた。


 フェルンは地下へ続く扉を見つめ、胸の前で両手を強く握る。


「シグマ……絶対に戻ってきて」


 その願いだけが、静かな礼拝堂に小さく響いた。


◇


 神父から説明を受けたあとも、紅蓮たちはしばらく礼拝堂に残っていた。


 地下へ続く扉を前に、誰もその場を離れようとしない。


 異質な魔力の急激な拡大は抑えられた。


 今すぐ命を落とす危険も退けられた。


 それでもシグマは意識を取り戻しておらず、治療もまだ終わっていない。


 扉の向こうにいるシグマを残して立ち去ることに、全員が強い抵抗を感じていた。


 そんな紅蓮たちへ、神父が静かに声をかける。


「皆様も、夜通し馬車で移動されてきたのでしょう。今夜は宿へ戻り、身体を休めてください」


「だが、シグマの容体が変わったら……」


「何か変化があれば、すぐに使いを出します。滞在先を教えていただけますか?」


 紅蓮は僅かに迷ったあと、頷いた。


「分かった。宿が決まったら、すぐに知らせる」


「お願いいたします。皆様まで倒れてしまっては、彼が目を覚ましたときに悲しむでしょう」


 紅蓮は地下への扉をもう一度見つめ、小さく息を吐いた。


「……そうだな」


 紅蓮たちは神父へ頭を下げ、大聖堂をあとにした。


     ◇


 大聖堂を出た一行は、まず今夜泊まる宿を探すことにした。


 全員が夜通し馬車に揺られ、ほとんど休息を取っていない。


 ノクスとソルも限界まで走り続けていたため、一刻も早く休ませる必要があった。


 幸い、大聖堂から大通りを挟んだ向かい側に、厩舎を備えた宿があった。


 三階建ての石造りの建物で、客室の窓からは大聖堂の白い尖塔が見える。何かあった場合でも、走ればすぐに駆けつけられる距離だった。


「ここにしよう」


 紅蓮の言葉に、反対する者はいなかった。


 宿の主人に事情を説明し、紅蓮たちは三部屋を借りることにした。


 白鬼と黒鬼、フェルンが一部屋。


 紅蓮とシルフが一部屋。


 残る一部屋をメイメイが使う。


 ノクスとソルは宿の裏手にある厩舎へ預け、馬車もその近くへ運び込んだ。


 二羽には新しい水と十分な餌が用意されたが、余程疲れているのか、餌に少し口をつけただけで藁の上へ身体を伏せた。


「よく頑張ってくれた」


 紅蓮は二羽の首を順番に撫でた。


「今日は何も気にせず休め」


 ノクスが力なく瞼を閉じ、ソルも紅蓮の手へ頭を預ける。


 その姿を見届けてから宿へ戻ると、メイメイが腰に提げたギルドカードを確かめながら口を開いた。


「私はカルガランの冒険者ギルドへ行ってくるわ」


「今からか?」


 紅蓮が尋ねる。


「ええ。まずは凛にシグマさんの状況を伝えないと。それに、今回の襲撃についても早く報告する必要があるわ」


「領主や国にも知らせるのか?」


「まずはカルガランのギルドへ説明するわ。現場の確認を頼んで、その結果次第では領主様や国にも報告しなければならないもの」


 メイメイも夜通し馬車に乗り続けていた。


 顔には疲労が滲み、服や髪にも戦いの汚れが残っている。


「少しくらい休んでからでもいいんじゃない?」


 白鬼が心配そうに尋ねる。


「ありがとう。でも、こういう報告は早いほうがいいの」


 メイメイは白鬼へ柔らかく微笑みかけた。


「カルガランのギルドにも顔見知りがいるから、話はすぐに通じると思うわ。用事が終わったら戻ってくるから、皆は先に休んでいてね」


「一人で大丈夫ですか?」


 黒鬼の問いに、メイメイが頷く。


「街の中だから大丈夫よ。それに、今はギルドへ報告を届けることも、皆を守るために必要なことだから」


 そう答えると、フェルンの前へ屈み、その銀色の髪を優しく撫でた。


「フェルンちゃんも、少し休もうね。シグマさんが起きたとき、フェルンちゃんまで倒れていたら心配するでしょう?」


「……シグマ、本当に起きる?」


 メイメイの手が僅かに止まる。


 それでも、すぐに優しい笑みを浮かべた。


「ええ。きっと起きるわ」


「いつ?」


「それは、まだ分からないわ。でも、神父様たちもシグマさんも、今も頑張っている。だから私たちも、戻ってくると信じて待ちましょう」


「……うん」


「いい子ね」


 メイメイはもう一度フェルンの頭を撫でてから立ち上がった。


「それじゃあ、行ってくるわ。大聖堂から知らせが来たら、宿の人にギルドへ使いを出してもらってね」


「ああ。気をつけろ」


 紅蓮に見送られ、メイメイは宿を出ていった。


     ◇


 日が沈んだ頃、メイメイが宿へ戻ってきた。


 カルガランの冒険者ギルドへ事情を説明し、通信水晶を借りて凛にも連絡を取ったという。


 さらに、襲撃のあった街道へ調査員が派遣されることも決まった。


 盗賊風の装備を身につけていながら、軍人のように統率された集団。


 そのあとに現れた、黒い甲冑を身につけた騎士たち。


 装備も現れた時期も異なる二つの集団だが、同じ騎士団に属する別部隊である可能性についても報告した。


 証拠がないことも含めて説明したところ、カルガランのギルドマスターは領主へ緊急報告を上げると判断したらしい。


 国への報告については、現場の確認を進めながら領主の判断を仰ぐことになった。


「凛は何と言っていた?」


 紅蓮が尋ねる。


「すぐにこちらへ向かうと言っていたわ」


 メイメイは困ったように笑う。


「シグマさんが意識を失っていると伝えたら、今すぐにでも飛び出しそうな勢いだったけれど、もう夜だったから止めてもらったの。明日の朝、護衛を二人つけて出発するそうよ」


「こちらに着くのは?」


「順調なら、明後日の昼頃になると思うわ」


「そうか」


「凛も、自分だけ離れた場所で待っているのがつらいのよ」


 紅蓮は小さく頷いた。


 必要な報告を終えたメイメイも、宿の主人が用意してくれた食事を口にした。


 しかし、紅蓮たちの食卓に普段のような会話はなかった。


 料理が並んでいても、ほとんど喉を通らない。


 誰かが宿の扉を開けるたび、大聖堂からの使いではないかと全員が振り返ってしまう。


 それでも、シグマの容体を知らせる者が現れることはなかった。


     ◇


 その夜、紅蓮たちは誰一人として落ち着いて眠ることができなかった。


 白鬼と黒鬼は同じ部屋を使い、フェルンも二人と一緒に眠っている。


 しかし、フェルンは何度も寝返りを打ち、そのたびに目を開けて窓の外を見た。


 窓の向こうには、月明かりに照らされた大聖堂の尖塔が見えている。


 その一角には、今も小さな明かりが灯っていた。


「シグマ、まだ痛いのかな……」


 小さな呟きに、隣で横になっていた黒鬼が目を開ける。


「神父様たちが治療してくださっています。きっと、痛みも和らげてくださっていますよ」


「でも、起きてないよ」


「今は身体を休めているんです」


 黒鬼はフェルンを抱き寄せ、その背中を優しく撫でた。


「シグマは、私たちが休んでいなかったら心配すると思います」


「……うん」


「ですから、少しだけでも眠りましょう」


 フェルンはしばらく黙っていたが、やがて黒鬼の服を握った。


「明日になったら、また会いに行く?」


「はい。朝になったら、すぐに行きましょう」


 反対側から白鬼もフェルンへ寄り添う。


「シグマが起きるまで、何度だって行けばいいのよ」


「毎日?」


「そうよ。治療室に入れなくても、礼拝堂で待っていればいいわ」


「……うん」


 フェルンはようやく目を閉じた。


 それでも眠りに落ちるまで、かなりの時間がかかった。


 隣の部屋にいた紅蓮も、寝台に横になったまま天井を見つめ続けていた。


 シグマを止められなかったこと。


 もっと早く黒騎士たちを倒せていれば、シグマが右腕の力を使うまで追い詰められることもなかったかもしれない。


 何度考えても、後悔ばかりが浮かんでくる。


 同じ部屋にいるシルフも眠ってはいなかった。


「自分を責めとるんか?」


 暗闇の中で、シルフが尋ねる。


「……お前もだろう」


「まあな」


 シルフは小さく息を吐いた。


「あのとき、うちがもっと周りを見られとったら。もっと早く敵の狙いに気づいとったら。考え始めたら、いくらでも出てくる」


「そうだな」


「せやけど、今さら何回考えても、起きたことは変わらへん」


「分かっている」


「シグマが戻ってきたとき、今度こそ無茶させんようにするしかないやろ」


「……ああ」


「分かっとっても、簡単には切り替えられへんか」


「ああ」


 二人の会話はそこで途切れた。


 静かな部屋の中に、大聖堂の鐘が時間を告げる音だけが響く。


 その夜、大聖堂から使いが来ることはなかった。


 知らせがないことを、容体が悪化していない証拠だと信じるしかなかった。


     ◇


 翌朝。


 空が明るくなると同時に、紅蓮たちは宿を出た。


 朝食を取るよう宿の主人に勧められたが、フェルンが一刻も早く大聖堂へ向かいたがったため、パンを包んでもらい、道中で食べることにした。


 大聖堂へ到着すると、昨日と同じ若いシスターが一行を出迎えた。


「お待ちしておりました」


「シグマの容体は?」


 紅蓮が真っ先に尋ねる。


「夜の間も治療を続けました。異質な魔力が急激に広がることはなく、今のところ容体は安定しています」


 全員が僅かに安堵する。


「意識は戻ったの?」


 フェルンが尋ねる。


「いいえ。残念ながら、まだ……」


 フェルンの表情が曇る。


「今日も会えないの?」


「……申し訳ありません」


 シスターは心苦しそうに頭を下げた。


「夜の治療中、身体に残った異質な魔力が、回復魔法へ反応する兆候が見られました。そのため神父様は、今日一日は面会を控えていただきたいと判断されました」


「昨日、広がるのを止めたんじゃなかったの?」


 白鬼が尋ねる。


「はい。急激な拡大は抑えられています。ただ、完全に取り除けたわけではありません。今は解呪魔法を維持しながら、ごく少量ずつ回復魔法を施し、反応を確かめている段階です」


 黒鬼が不安そうに胸元で手を握る。


「回復魔法を使っても、また悪化する可能性があるのですか?」


「可能性がないとは言い切れません。そのため、一度に強い魔力を流し込むことができないのです」


「シグマは苦しんでるの?」


 フェルンが尋ねる。


「眠りを保つ魔法をかけています。少なくとも、今は強い痛みを感じていないはずです」


「……そばに行くだけでも駄目?」


「今は治療室へ入る者を最小限にしています。今日一日、容体が安定していれば、明日以降の面会を検討すると神父様は仰っていました」


 フェルンは俯き、両手を強く握った。


 黒鬼がその肩を抱く。


「分かりました。では、ここで待たせてください」


「はい。容体に変化がありましたら、すぐにお知らせします」


 紅蓮たちは礼拝堂の長椅子に座り、そのまま長い時間を過ごした。


 朝が昼になっても、シグマの意識が戻ったという知らせはなかった。


 時折、治療に当たっている神官が地下から上がってきたが、疲れ切った様子で休憩室へ向かうだけだった。


 その姿を見るたびに、治療がどれほど難しいものなのかを思い知らされる。


 昼を過ぎても、フェルンは長椅子から動こうとしなかった。


 白鬼が包んでもらったパンを差し出しても、首を横に振る。


「少しでも食べなさい」


「いらない」


「昨日も、ほとんど食べてないでしょう?」


「お腹、空いてない」


「それでも食べるのよ」


 白鬼がフェルンの隣へ腰を下ろす。


「シグマが起きたとき、フェルンが倒れていたらどうするの?」


「……シグマ、心配する?」


「するに決まってるでしょう。自分がどれだけ傷ついていても、真っ先にフェルンのことを心配するわよ」


 フェルンはしばらくパンを見つめていた。


 やがて両手で受け取り、小さく一口だけ齧る。


「全部食べなくてもいいですから、少しずつ食べましょう」


 黒鬼が水の入った杯を差し出す。


 フェルンは小さく頷き、時間をかけてパンを食べ始めた。


 その様子を見ていたメイメイが、紅蓮へ声をかける。


「紅蓮さんたちも食べておいたほうがいいわ」


「私は大丈夫だ」


「大丈夫ではないでしょう?」


「……お前も食べていないだろう」


「私はあとでいただくわ」


「なら、今ここで一緒に食べろ」


 メイメイは一瞬驚いたあと、困ったように笑った。


「そうね。皆に休んでと言っておきながら、私が倒れたら説得力がないものね」


「ああ」


 紅蓮たちも包んでもらったパンを取り出し、僅かではあるが腹に入れた。


 食欲はなかった。


 それでも、シグマが戻ってくるまで自分たちが倒れるわけにはいかなかった。


     ◇


 夕方近くになり、初老の神父が紅蓮たちの前へ現れた。


「長い間、お待たせしました」


「シグマは?」


 フェルンが真っ先に立ち上がる。


「容体は安定しています。高熱も僅かに下がり始めました」


「本当?」


「はい。解呪魔法で異質な魔力を抑えている間であれば、少量の回復魔法も使えることが確認できました」


 フェルンの耳が僅かに持ち上がる。


「じゃあ、傷も治るの?」


「まだ時間はかかります。ですが、昨日よりも良い状態へ進んでいることは確かです」


「意識は戻ったのか?」


 紅蓮が尋ねる。


 神父は静かに首を横に振った。


「残念ながら、まだ戻っていません」


「そうか……」


「今夜も治療を続けます。容体に変化があれば、すぐに宿へ使いを出しましょう」


「分かった。明日また来る」


「何度も足を運ばせてしまい、申し訳ありません」


「謝る必要はない」


 紅蓮は首を横に振った。


「シグマのために、皆が力を尽くしてくれていることは分かっている」


 紅蓮が頭を下げると、神父も静かに頭を下げた。


 フェルンは名残惜しそうに地下への扉を見つめていたが、白鬼と黒鬼に手を引かれ、大聖堂をあとにした。


     ◇


 紅蓮たちが宿へ戻ると、一階の食堂には数人の騎士が待っていた。


 銀色の鎧を身につけ、胸元には全員同じ紋章が刻まれている。


 その向かいにはメイメイが座っていた。


 紅蓮たちに気づくと、すぐに椅子から立ち上がる。


「おかえりなさい。シグマさんの様子はどうだった?」


「まだ意識は戻っていない」


 紅蓮の答えに、メイメイの表情が曇る。


「そう……。今日も会えなかったの?」


「ああ。だが、高熱は下がり始めたらしい。少量であれば、回復魔法も使えるようになったそうだ」


「少しずつでも、良くなっているのね」


 メイメイはフェルンのそばまで歩み寄り、その頭を優しく撫でた。


「よかったね、フェルンちゃん」


「でも、まだ起きてないよ」


「そうね。だから、目を覚ますまで皆で待ちましょう」


「……うん」


 フェルンは小さく頷いた。


「ところで、この者たちは何者だ?」


 紅蓮が騎士たちへ視線を向ける。


 中央に立っていた騎士が一歩前へ出た。


「カルガラン伯爵家に仕える騎士です」


 騎士は簡潔に名乗ると、紅蓮たちを見渡した。


「領主であるガルディオ・カルガラン様がお呼びです。街道で発生した襲撃について、屋敷で直接説明していただきたい」


「領主が私たちを?」


「昨夜、冒険者ギルドから緊急報告が上がりました。盗賊風の装備を身につけた武装集団に加え、所属不明の黒い甲冑の騎士まで街道に現れたとなれば、放置できません」


 紅蓮の表情が険しくなる。


「シグマが目を覚ましていない。長時間ここを離れるつもりはない」


「ガルディオ様も事情は承知しています。必要な確認が終わり次第、すぐに戻っていただきます」


「紅蓮さん」


 メイメイが穏やかに声をかける。


「私からも概要は説明したわ。でも、戦いの最初から最後まで見ていた皆の話が必要なの」


「大聖堂から知らせが来た場合はどうする?」


「宿の主人から、すぐに伯爵邸へ使いを出してもらえるよう話してあるわ」


 紅蓮は宿の主人を見る。


 主人が緊張した様子で頷いた。


「使いに出せる者も待機させています。大聖堂から何か知らせが届きましたら、すぐに伯爵邸へ向かわせます」


 紅蓮はしばらく騎士を見据えたあと、小さく息を吐いた。


「分かった。知っていることは話す」


 白鬼と黒鬼、シルフへ視線を向ける。


 三人とも小さく頷いた。


「フェルンも行く」


 フェルンが顔を上げる。


「宿で待っていてもいいのよ?」


 メイメイが尋ねると、フェルンは首を横に振った。


「一人で待つのは嫌」


「そうね。では、皆で行きましょう」


     ◇


 伯爵邸へ向かう道中、メイメイはフェルンと手を繋いで歩いていた。


 紅蓮たちの前後には騎士がつき、通りを行き交う人々が何事かと視線を向けてくる。


「そういえば、凛は明日の朝に出発するのだったな?」


 紅蓮がメイメイへ尋ねる。


「ええ。護衛を二人つけてもらうことになっているわ」


「ここへ着くまで、二日ほどかかるんやな?」


 シルフの問いに、メイメイが頷く。


「そうね。皆のように夜通し走り続けるわけにはいかないから、明後日の昼頃になると思う」


「来ても、シグマには会えへんかもしれへん。それでも近くにおりたいんやろな」


「ええ。凛も、自分だけ離れた場所で待っているのがつらいのよ」


「凛らしいわね」


 白鬼が小さく呟いた。


「到着したら、そのまま大聖堂へ連れていくわ」


 メイメイは少し困ったように笑う。


「直接シグマさんの顔を見るまでは、きっと落ち着かないでしょうから」


 話しているうちに、一行はカルガランの中心部へ近づいていった。


 街の北側には、小高い丘がある。


 伯爵邸は、その丘の上に建てられていた。


 堅牢な石壁に囲まれた大きな屋敷で、正面にはカルガランの街並みを見渡せる広い庭園がある。


 門を守る騎士が一行の姿を確認すると、すぐに扉を開いた。


 紅蓮たちは案内役の騎士に従い、屋敷の中へ入った。


     ◇


 通されたのは、長いテーブルが置かれた会議室だった。


 壁にはカルガラン周辺の地図が掛けられ、棚には巻物や書類が隙間なく並べられている。


 テーブルの奥では、一人の男性が紅蓮たちを待っていた。


 年齢は五十歳前後。


 整えられた灰色の髪と口髭を持ち、深い青色の上着を身につけている。


 その隣には、記録を担当する文官と、鎧姿の騎士団長が控えていた。


 紅蓮たちが部屋へ入ると、文官が一歩前へ出る。


「こちらにおられるのが、カルガラン一帯を治めるガルディオ・カルガラン伯爵閣下である」


 文官の紹介を受け、ガルディオは向かいの席を手で示した。


「座れ。負傷した仲間を待たせていると聞いている。必要以上に時間を取るつもりはない」


 紅蓮たちが席へ着く。


 フェルンは黒鬼の隣に座り、メイメイがその反対側へ腰を下ろした。


「冒険者ギルドから概要は聞いている」


 ガルディオは挨拶を長引かせることなく、本題へ入った。


「諸君はカルガランへ向かう街道で、二つの武装集団から襲撃を受けた。最初に現れたのは盗賊風の装備を身につけた一団。そのあとに現れたのが、黒い甲冑を身につけた騎士たちだ。間違いないな?」


「そうだ」


 紅蓮が答える。


「初めから順に説明しろ」


 紅蓮は頷き、街道で起きたことを話し始めた。


「最初に現れたのは、盗賊に見える格好をした集団だ。粗末な服を着ており、武器も統一されていなかった」


「人数は?」


「正確には数えていない。だが、少なくとも十五人以上はいた」


 紅蓮の説明を、文官が書き留めていく。


 ガルディオは口を挟まず、鋭い目で紅蓮を見据えていた。


「偶然集まった盗賊とは思えないほど、動きが揃っていた。前衛と後衛に役割が分かれ、こちらの退路を塞ぎながら、馬車と護衛を切り離そうとしていた」


「戦い慣れた盗賊という可能性は?」


「それだけなら、私たちもそう考えた」


 紅蓮に代わり、シルフが口を開く。


「せやけど、指示の出し方も退き方も軍人に近かった。少なくとも、寄せ集めの盗賊には見えへんかった」


「その集団を退けたあと、黒騎士が現れたのか?」


「そうだ」


 紅蓮が続ける。


「最初の集団とは別に動いていた。全員が黒い甲冑を身につけ、装備も統一されていた」


「人数は?」


「確認できたのは八人だ。だが、ほかに伏兵がいなかったとは言い切れない」


 白鬼と黒鬼、メイメイも、それぞれが目にした敵の配置や動きを補足する。


 全員の証言を聞き終えると、ガルディオは騎士団長へ視線を向けた。


「黒い甲冑に紋章はあったか?」


「確認できなかった」


 紅蓮が答える。


「紋章を削った痕跡や、布で隠していた様子は?」


「戦いの最中だった。そこまでは見ていない」


 ガルディオは一度地図へ目を落としたあと、再び紅蓮を見る。


「二つの集団が同じ組織に属している可能性があると、ギルドから報告を受けている。その根拠は?」


「断定はできない。ただ、無関係とも思えない」


「理由を話せ」


「盗賊風の装備をした者たちの動きは、騎士や兵士に近かった。それに、あとから現れた黒騎士たちも、先の戦いでこちらがどれほど消耗しているか把握していたように見えた」


 シルフも続ける。


「装備も戦い方も、まったく同じやったわけやない。せやけど、こちらの退路を塞いで、馬車から引き離そうとする動きには似たところがあったんや」


「つまり、同じ騎士団に属する別部隊である可能性がある、と考えているのだな?」


「そうだ。だが、証拠はない」


「一方が本隊でもう一方が先行部隊、という関係ではないのか?」


「そこまでは分からない」


 紅蓮は推測を交えないよう、慎重に答えた。


「分かっているのは、二つの集団が別々に現れ、それぞれ統率された動きをしていたことだけだ」


 ガルディオは指を組み、しばらく黙り込んだ。


「襲撃者の目的は?」


 室内の空気が僅かに張り詰める。


 紅蓮は隣に座るフェルンへ一瞬だけ視線を向けた。


「私たちの同行者を狙っていた可能性が高い」


 ガルディオもフェルンを見る。


 フェルンは不安そうに身を縮め、黒鬼の服を握った。


「その子か?」


 紅蓮はすぐには答えなかった。


「襲撃者の所属も、誰の命令で動いていたのかも分からない。だが、金品が目的ではなかった」


「根拠は?」


「金や荷物を要求する言葉は一度もなかった。最初からこちらを殺し、狙った相手を連れ去るつもりだったように見えた」


「黒騎士も同じ目的だったのか?」


「少なくとも、私たちを生かして帰すつもりはなかった」


 ガルディオは紅蓮の答えを聞き、フェルンから視線を外した。


「負傷した男――シグマという者は、黒騎士との戦いで倒れたのだな?」


 紅蓮は一度だけ言葉を止めた。


「そうだ」


「どのような攻撃を受けた?」


「単純な斬撃ではない。戦いの中で右肩から胸へ傷が広がり、そのまま意識を失った」


「黒騎士が呪いを使ったのか?」


「分からない」


 紅蓮はそれ以上答えなかった。


 シグマの右腕に宿る力について、ここで話すつもりはない。


 ガルディオは紅蓮をしばらく見据えたが、無理に追及しようとはしなかった。


「分からぬことを推測で埋める必要はない。確認できた事実だけを話せばいい」


 そう告げると、隣に控えていた文官へ視線を移した。


「昨夜派遣した調査員からの報告は?」


「戦場は既に特定されています」


 文官が手元の報告書へ目を落とす。


「盗賊風の装備と、黒い甲冑の破片が離れた場所から見つかりました。現場には二か所の大きな戦闘痕があり、二つの集団が別々に現れたという証言とも一致します」


「遺体は?」


「冒険者ギルドが回収を進めています。現在までに回収された遺体からは、身元を示す物は見つかっておりません」


「盗賊風の装備と黒い甲冑に、共通点はあったか?」


「現時点では、まだ詳しい調査は終わっておりません」


 ガルディオは騎士団長へ顔を向けた。


「騎士団からも人を出せ。ギルド任せにするな」


「はっ」


「戦場だけでなく、周囲の森と街道も調べろ。逃げた者が潜伏している可能性がある」


「直ちに手配いたします」


「回収した装備についても調査しろ。鍛造の癖、使われた金属、革の加工、留め具の形。どんな小さなことでも構わん。二つの集団に共通するものがないか確認せよ」


「承知しました」


 ガルディオは再び文官へ視線を移す。


「近隣の村には、武装集団への警戒を命じろ。商人には当面、単独で街道を通らせるな。商人ギルドを通じて、複数の馬車でまとまるか、護衛を雇うよう通達させろ」


「かしこまりました」


「国にも報告を上げる。盗賊を装った可能性のある武装集団と、所属不明の黒騎士が街道で活動していると明記せよ」


 ガルディオは一度言葉を区切った。


「両者が同じ組織に属する別部隊である可能性についても付け加えろ。ただし、証拠はなく、現段階では推測にすぎないことも記しておけ」


「承知しました」


 命令を終えると、ガルディオは再び紅蓮たちへ向き直った。


「諸君が泊まっている宿と、大聖堂の周辺に監視を置く」


 フェルンの手に力が入る。


 黒鬼の服を握り、僅かに身を縮めていた。


 それに気づいた紅蓮が口を開く。


「大勢の騎士を置けば、かえって目立つ。それに、襲ってきた者たちも騎士の装備をしていた。フェルンが怖がる」


「護衛を断るつもりか?」


「必要なのは分かっている。だが、宿の前を騎士で固めるのは避けてほしい」


 ガルディオはフェルンへ視線を向けた。


 フェルンはすぐに俯き、黒鬼の陰へ隠れるように身体を寄せる。


 その様子を確認したガルディオは、騎士団長へ指示を出した。


「私服で動ける者を選べ。宿と大聖堂から少し距離を取り、交代で周囲を監視させろ。建物の中へ入る必要はない」


「はっ」


「これなら異論はないな?」


「それなら助かる」


「大聖堂にもこちらから警戒を命じておく。不審な者が出入りしようとした場合は、すぐに領兵へ知らせるよう伝える」


 紅蓮は短く頭を下げた。


「感謝する」


「私の領内で、正体不明の武装集団に好き勝手をさせるつもりはない」


 ガルディオの言葉には、領主としての強い意志が込められていた。


「諸君のためだけではなく、カルガランと周辺の村を守るための措置だ」


 紅蓮も真っ直ぐにその視線を受け止めた。


「他に、襲撃について話していないことはあるか?」


「今話せることは、これで全てだ」


 シグマの右腕については伏せている。


 だが、それ以外に紅蓮が意図して隠している情報はなかった。


 ガルディオは何かを見極めるように紅蓮を見据えたあと、椅子の背へ身体を預けた。


「分かった。今後、何か思い出したことがあれば、冒険者ギルドを通じて報告しろ」


「承知した」


「呼び出しは以上だ」


 ガルディオはそこで、黒鬼の隣に座るフェルンへ視線を向けた。


 先ほどまでの鋭さを僅かに和らげる。


「その子から無理に話を聞くつもりはない。今は負傷した仲間の回復を待て」


 フェルンは黒鬼のそばに身を寄せたまま、小さく頷いた。


「シグマ、助かる?」


「それを決めるのは私ではない」


 ガルディオは、安易に期待を持たせるようなことは言わなかった。


「だが、カルガラン大聖堂の神官たちは、この一帯でも優秀な者たちだ。彼らが総力を挙げて治療しているのなら、今は信じて待つしかない」


「……うん」


 ガルディオは文官へ目を向ける。


「大聖堂から治療に必要な魔石や薬品の要請が来た場合、領の備蓄から不足分を出せ。使用した物は全て記録しておけ」


「承知しました」


 紅蓮が僅かに目を見開く。


「そこまでしてもらっていいのか?」


「大聖堂はカルガランに住む者だけのためにあるわけではない。必要な治療が物資不足で止まれば、この街の信用に関わる」


 ガルディオは淡々と答えた。


「礼は不要だ。治療費そのものは諸君が負担しろ。こちらは、大聖堂の備蓄が不足しないよう補うだけだ」


「分かった。それでも助かる」


「ならば、呼び出しに応じた対価だと思っておけ」


 ガルディオが騎士へ視線を送る。


「宿まで送れ」


「はっ」


 紅蓮たちは席を立った。


 部屋を出る前に、メイメイがガルディオへ頭を下げる。


「お時間をいただき、ありがとうございました」


「メイメイ副ギルドマスター」


「はい」


「カルガランを離れるまで、冒険者ギルドとの連絡役を務めてもらう。現場の調査に進展があれば、そちらへ伝える」


「承知しました」


「こちらから確認したいことが増えた場合も、まずは冒険者ギルドを通す。負傷した仲間を待っている者たちを、何度も屋敷へ呼びつけるつもりはない」


「ご配慮、感謝いたします」


 それだけ確認すると、ガルディオは次の報告書へ目を落とした。


 紅蓮たちは騎士の案内を受け、会議室をあとにした。


     ◇


 伯爵邸を出る頃には、空が赤く染まり始めていた。


 来たときと同じ騎士たちが、紅蓮たちを宿まで送るために同行する。


 丘の上からは、夕日に照らされたカルガランの街並みが一望できた。


 遠くには、大聖堂の白い尖塔が見える。


 フェルンは歩きながら、その尖塔から目を離そうとしなかった。


「明日は会えるかな」


 フェルンの呟きに、黒鬼が答える。


「今日よりも良くなっていれば、きっと会えます」


「昨日も、そう思ってたよ」


「そうですね……」


 黒鬼は困ったように俯いた。


 その反対側から、白鬼がフェルンの手を握る。


「明日も会えなかったら、また次の日に行けばいいのよ」


「次の日も会えなかったら?」


「その次の日も行くわ」


「ずっと?」


「そう。シグマが目を覚ますまで、何度でも行くの。治療室に入れなくても、礼拝堂で待っていればいいわ」


「白鬼の言うとおりです」


 黒鬼もフェルンのもう片方の手を取る。


「私たちは、シグマを置いてどこにも行きません」


「……うん」


 フェルンは二人の手を握り返した。


 その少し後ろを歩くメイメイが、三人を優しく見守る。


「凛が到着するのは、明後日の昼頃だったな?」


 紅蓮が尋ねる。


「ええ。予定どおりなら、その頃には着くと思うわ」


「迎えに行くのか?」


「到着する時間が分かったら、私が門まで迎えに行くわ。皆は大聖堂でシグマさんのそばにいて」


「分かった」


「凛と合流したら、そのまま大聖堂へ連れていくわね」


「ああ。頼む」


 一行が宿へ戻った頃には、街に夜の帳が下り始めていた。


 宿の近くには、既にガルディオの命を受けたらしい私服姿の騎士がいた。


 一見すれば、仕事を終えて通りで話し込んでいる住民にしか見えない。


 しかし、その視線は行き交う者へ注意深く向けられていた。


 少し離れた場所にも、露店の片づけを手伝う男と、壁際で荷物を確認する旅人の姿がある。


 どちらも周囲へ向ける視線だけが鋭い。


「仕事が早いな」


 紅蓮が呟く。


「領主様も、今回の件をかなり重く見ているみたいね」


 メイメイが答えた。


 紅蓮たちは宿の中へ入った。


 全員が疲れていたが、食堂で夕食を取っている間も、会話はほとんど続かなかった。


 誰かが扉を開けるたびに、大聖堂からの使いではないかと振り返ってしまう。


 しかし、食事を終えるまで、シグマの容体を知らせる者が現れることはなかった。


 フェルンは二階へ上がる前に、宿の窓へ近づいた。


 夜の街の向こうに、大聖堂の尖塔が見える。


 その小さな窓には、今も明かりが灯っていた。


「おやすみ、シグマ」


 フェルンは窓へ手を触れ、小さく呟く。


「明日も、会いに行くからね」


 返事はない。


 それでもフェルンはしばらく大聖堂を見つめてから、白鬼と黒鬼に手を引かれ、二階の部屋へ戻っていった。


     ◇


 それから、まだ半刻も経たないうちだった。


 寝台へ横になったばかりの紅蓮たちのもとへ、慌ただしく階段を上ってくる足音が近づいてきた。


 やがて扉が強く叩かれる。


「お客様! 大聖堂からシスターがいらしています!」


 宿の主人の声を聞いた瞬間、紅蓮は寝台から立ち上がった。


 ほとんど眠れていなかったシルフも、弾かれたように顔を上げる。


「シグマに何かあったんか?」


「分からない。行くぞ」


 紅蓮は壁に立てかけていた大剣へ一瞬手を伸ばしたが、すぐに必要ないと判断し、そのまま扉へ向かった。


 廊下へ出ると、向かいの部屋から白鬼と黒鬼も飛び出してくる。


「大聖堂から人が来たって、本当!?」


「ああ」


「容体が悪化したのでしょうか……」


 黒鬼の顔から血の気が引いていた。


 その後ろから、フェルンも外套を抱えたまま姿を現す。


「シグマに何かあったの?」


「まだ分からないわ」


 白鬼が答えたものの、その声にも焦りが滲んでいる。


 廊下の奥にある部屋からは、メイメイも姿を現した。既に髪をまとめ直し、すぐに外へ出られるよう身支度を整えている。


「とにかく、一階へ行きましょう。悪い知らせだと決まったわけではないから、今は落ち着いて」


 優しく言い聞かせるような口調だったが、メイメイ自身の表情も硬い。


 全員が階段を駆け下りる。


 一階の食堂には、昼間に大聖堂で応対した若いシスターが立っていた。


 シスターは紅蓮たちの姿を確認すると、慌てた様子で駆け寄ってくる。


「皆様、ご安心ください。容体が急変したわけではありません」


 その一言に、紅蓮たちの足が止まった。


 張り詰めていた空気が、僅かに緩む。


「では、なぜこの時間に?」


 紅蓮が尋ねる。


「シグマ様の容体に良い変化がありましたので、神父様から皆様へお伝えするよう申しつかりました」


「良い変化……?」


 フェルンが外套を抱き締めたまま、シスターを見上げる。


「解呪魔法を続けた結果、身体に残っていた異質な魔力は、さらに弱まっています。傷の周囲にあった黒い変色も、少しずつ薄くなり始めました」


「消えたの?」


「完全には消えていません。ですが、これまでのように身体の奥へ広がろうとする動きは見られなくなっています」


「では、シグマは助かるのか?」


「危険な状態からは、さらに一歩遠ざかったと神父様は判断されています」


 紅蓮は大きく息を吐いた。


 白鬼も胸元を押さえ、目を閉じる。


 黒鬼の瞳には涙が滲んでいた。


「意識は?」


 紅蓮が続けて尋ねる。


「まだ戻っていません」


「そうか……」


 紅蓮の声が僅かに沈む。


 フェルンも俯きかけたが、シスターは穏やかな声で説明を続けた。


「高熱は少しずつ下がっています。解呪魔法で異質な魔力を抑えた状態であれば、回復魔法も昨日より安定して使えるようになりました」


 黒鬼が胸元で両手を握る。


「もう、回復魔法を使っても悪化しないのですか?」


「今のところは。ただし、強い魔力を一度に流すことはできません。解呪魔法を維持しながら、少量ずつ慎重に治療を進めています」


「傷は治るの?」


 フェルンが尋ねる。


「傷そのものは、時間をかければ治せると思います」


「本当?」


「はい。ただ……」


 シスターは僅かに言葉を詰まらせた。


 その変化に気づき、紅蓮が尋ねる。


「何か問題があるのか?」


「右肩から胸にかけての傷は、異質な魔力の影響を強く受けています。完全に治療できたとしても、傷痕が残る可能性があると神父様はお考えです」


「そんな……」


 黒鬼が俯く。


 回復魔法を使っても、傷を完全に消すことができない。


 治療に携わってきた黒鬼にとって、その事実は重かった。


「でも、生きて戻ってくるんでしょ?」


 白鬼が尋ねた。


「それさえ叶うなら、傷痕くらい何だっていうのよ」


「白鬼……」


「シグマなら、きっと同じことを言うわ」


 メイメイが優しく続ける。


「まずは、目を覚ましてもらわないとね」


「はい」


 シスターも頷いた。


「そのことについて、もう一つお伝えすることがあります」


 フェルンが再び顔を上げる。


「今夜のまま容体が安定していれば、明日の朝から短時間の面会を許可できる見込みです」


「会えるの!?」


 フェルンが思わず大きな声を上げた。


 自分の声に驚いたように口を押さえたが、その目には久しぶりに光が戻っている。


「シグマのそばに行けるんだね?」


「はい。ただし、明日の朝に神父様が容体を確認し、問題がないと判断された場合に限ります」


「分かった。フェルン、ちゃんと待つ」


「ありがとうございます。それから、面会にはいくつか守っていただきたいことがあります」


 シスターは一つずつ、分かりやすいように説明した。


「治療室へ入れるのは、お一人ずつです。面会時間も長くは取れません。シグマ様の身体を揺らしたり、右肩から胸元にかけての傷へ触れたりすることは禁止します」


「魔法は?」


 黒鬼が尋ねる。


「治療室の中では、どのような魔法も使わないでください。ごく僅かな魔力でも、残った異質な魔力がどのように反応するか分かりません」


「分かりました」


 黒鬼は頷いたものの、その表情は晴れなかった。


 しばらく迷ったあと、消え入りそうな声で尋ねる。


「……私も、会っていいのでしょうか」


「もちろんです」


 シスターは即座に答えた。


「ですが、私は回復魔法を使って、シグマの傷を悪化させてしまいました」


「あなたのせいではありません」


「でも……」


「神父様も仰っていたはずです。あの異常を事前に見抜くことは、我々にもできませんでした」


 シスターは黒鬼の前まで歩み寄る。


「それに、あなたが道中で手当てを続けてくださらなければ、大聖堂へ到着する前に命を落としていた可能性もあります」


 黒鬼が驚いたように顔を上げる。


「止血や体温の維持、傷口を清潔に保つ処置。その全てが、シグマ様の命をここまで繋いだ大切な治療です」


 シスターは黒鬼を真っ直ぐに見つめた。


「どうか、ご自分を責めないでください。シグマ様が目を覚ましたとき、そばにいて差し上げてください」


「……はい」


 黒鬼は小さく答えた。


 完全に迷いが消えたわけではない。


 それでも、先ほどまでより僅かに表情が和らいでいた。


「面会して、話しかけてもいいの?」


 フェルンが尋ねる。


「はい。大きな声を出さなければ、普段どおりに話しかけていただいて構いません」


「でも、シグマは眠ってるんだよね?」


「そうですね」


「話しても、聞こえないかもしれない?」


 シスターは少し考えてから答える。


「意識を失っている方へ、ご家族や親しい方が呼びかけ続けたことで、何らかの反応を示した例はあります」


「じゃあ、聞こえるかもしれないの?」


「その可能性はあります」


 フェルンは胸の前で両手を握った。


「何を話したらいいのかな……」


「何でもいいと思いますよ」


 メイメイがフェルンの隣へ屈む。


「今日あったことでも、食べたものでも、ハクちゃんのことでも。いつもシグマさんに話しているように話せばいいの」


「でも、それでも起きなかったら……」


 フェルンの耳が力なく伏せられる。


 白鬼が、その頭へ軽く手を置いた。


「起きるまで話せばいいのよ」


「ずっと?」


「ずっとは神官に怒られるから、毎日少しずつね」


 白鬼はそう言いながら、僅かに笑う。


「フェルンだけじゃないわ。私たちも順番に話すんだから、シグマだってうるさくて寝ていられなくなるわよ」


「せやな」


 シルフも口元を緩めた。


「起きたら起きたで、今度は説教が待っとる。せやから、覚悟してもらわんとな」


「シルフは、シグマを怒るの?」


「当たり前や。どれだけ心配かけたと思っとるんや」


「フェルンも怒る」


「一緒に怒ったろな」


「うん」


 短いやり取りだったが、食堂を覆っていた重苦しい空気が僅かに和らいだ。


 紅蓮はそんな皆の姿を見つめたあと、シスターへ向き直る。


「知らせに来てくれて感謝する」


「明日の朝、神父様が容体を確認したあと、面会できるかどうかをお伝えします。大聖堂へお越しください」


「ああ。必ず行く」


 シスターは一礼すると、宿の主人に見送られながら外へ出ていった。


     ◇


 扉が閉じられたあとも、紅蓮たちはしばらく食堂に残っていた。


「明日は、朝食を取ってから大聖堂へ向かう」


 紅蓮が皆を見渡す。


「今夜こそ、少しでも休め。シグマに会う前に、私たちが倒れるわけにはいかない」


「紅蓮もやで」


 シルフがすぐに返す。


「分かっている」


「昨日も同じこと言うとったやろ。今日はちゃんと寝るんやで」


「お前もな」


 紅蓮とシルフが互いに顔を見合わせる。


 白鬼が小さく笑い、黒鬼も僅かに表情を和らげた。


「誰から面会する?」


 フェルンが尋ねる。


 誰もすぐには答えなかった。


 全員がシグマへ会いたい。


 だが、誰も自分が先に入るべきだとは言えなかった。


「それは、明日決めましょう」


 メイメイが穏やかに答える。


「まだ面会できると決まったわけではないもの。まずは今夜、シグマさんの容体が安定することを祈りましょう」


「……うん」


「きっと大丈夫よ」


 白鬼がフェルンの手を取る。


「だから、今日は眠りましょう」


「分かった」


 フェルンは今度こそ素直に頷いた。


 紅蓮たちは、それぞれの部屋へ戻っていく。


 最後まで食堂に残ったフェルンは、窓の向こうに灯る大聖堂の明かりを見つめた。


「明日、いっぱいお話しするからね」


 小さく呟き、白鬼と黒鬼を追って階段を上っていった。


     ◇


 その頃。


 カルガラン大聖堂の地下にある治療室では、数人の神官が交代しながら解呪魔法を維持していた。


 部屋の中央に置かれた寝台には、シグマが横たえられている。


 右肩から胸元にかけて幾重にも包帯が巻かれ、その下には薄くなった黒い変色が今も残っていた。


 高熱は下がり始めていたが、意識は戻っていない。


 寝台の周囲に刻まれた魔法陣は淡い光を放ち、一定の間隔で明滅を繰り返している。


「魔力の流れは安定しています」


 若い神官が小声で報告する。


「そのまま維持してください。回復魔法を強めてはいけません」


 初老の神父が答えた。


「はい」


「今夜を越えれば、ひとまず峠は越えたと考えてよいでしょう」


 神父はシグマの額へ手を当て、熱を確かめる。


 昨日までの焼けるような熱さはない。


 呼吸も、僅かではあるが深くなっていた。


「よく耐えています」


 神父は静かに呟いた。


 やがて交代の時間となり、神父と疲労した神官たちが治療室を出る。


 新しく入った神官が魔法陣の前へ座り、解呪魔法を引き継いだ。


 誰も言葉を発しない。


 静かな治療室には、シグマの呼吸と、魔法陣が明滅する微かな音だけが続いていた。


 そのときだった。


 毛布の上に置かれていたシグマの左手。


 その指先が、ほんの僅かに動いた。


 あまりにも小さな変化だった。


 解呪魔法の維持に意識を集中させていた神官は、それに気づかない。


 シグマの指は、何かを求めるようにもう一度だけ動き、再び静かになった。


 その小さな変化に、このとき気づいた者は誰もいなかった。

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