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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第二十話 新たな刺客

 ベルク村を出発する日の朝。


 空は薄い雲に覆われ、冷たい風が大通りを吹き抜けていた。


 宿の前には既に馬車が止められ、ノクスとソルも出発の準備を終えている。


 二羽は揃って首を振り、羽毛に残った朝露を飛ばしていた。荷台には食料や水、野営道具が隙間なく積み直されている。


 次の目的地は、旅の中間地点となる都市カルガラン。


 本来ならば、ベルク村を出たあとは街道に沿って進むだけだった。


 しかし、今のシグマたちは万全な状態とは言い難い。


 刺客との戦いで負った傷は、黒鬼と白鬼の治療によって塞がっている。だが、失われた体力までは完全に戻っていなかった。


 特にシグマは、炎帝石の力を無理に使った影響が残っている。


 右腕を動かすたび、義手の奥から焼けた針を突き刺されるような痛みが走った。


 それでもシグマは仲間たちに悟られないよう、いつもどおり旅の準備を続けている。


「干し肉、黒パン、豆、香草……水も問題ないな」


 荷袋の中身を確認していると、荷台の端に座っていた白鬼が、呆れたように頬杖をついた。


「シグマ、さっきから同じ荷物を何度も調べてない?」


「……そうだったか?」


「うん。今ので三回目」


 隣に座る黒鬼も、小さくうなずいた。


「少し……休んだ方がいいと思う」


「大丈夫だ。荷物を調べるくらいなら問題ない」


「その台詞、もう信用できへんわ」


 馬車の反対側から、シルフが顔を覗かせる。


 紅蓮も腕を組み、シグマへ厳しい視線を向けた。


「今回はシルフに同意する。お前は大丈夫ではないときほど、大丈夫だと言い張るからな」


「そんなつもりはないんだが……」


「自覚がないから余計に悪い」


 紅蓮に睨まれ、シグマは返す言葉を失った。


 足元では、フェルンが心配そうに右の義手を見つめている。


 やがて外套の裾をつかみ、小さく引いた。


「まだ痛い?」


「少しだけだ」


「本当に少し?」


「ああ」


 シグマが頭を撫でると、フェルンは不満そうに頬を膨らませた。


「シグマ、嘘をつくときも同じ顔する」


「……俺は、そんなに分かりやすいのか?」


「分かりやすい」


「めっちゃ分かりやすいで」


「分かりやすいな」


「分かりやすいよ」


 シルフ、紅蓮、白鬼の声が続く。


 少し遅れて、黒鬼まで静かにうなずいた。


 シグマは困ったように眉を下げ、荷袋の口を閉じる。


「だが、いつまでもベルク村に留まるわけにはいかない。刺客がまた来る可能性もある。村を巻き込む前に出た方がいい」


「それについては、私たちも同じ意見です」


 背後から聞こえた声に、シグマたちは一斉に振り返った。


 宿の入口に、凛とメイメイが立っている。


 凛は腰に刀を差し、普段と変わらない落ち着いた表情を浮かべていた。


 一方のメイメイは旅装に身を包み、大きな荷袋を背負っている。その上、両手には籠と小さな鍋まで抱えていた。


 どう見ても、見送りだけの格好ではない。


 シルフが目を瞬かせる。


「……なんや、その荷物」


「見れば分かるでしょ。旅の準備よ」


 メイメイは当然のように答えた。


「一緒に来るつもりか?」


 紅蓮が尋ねると、メイメイは胸を張る。


「そうよ」


「初耳なんだが」


「今言ったもの。初耳で当たり前でしょ?」


「それは説明とは言わん」


 紅蓮が額に手を当てた。


 凛は小さく息を吐き、シグマたちの前へ歩み寄る。


「昨夜、メイメイと話し合いました。今の状態で皆さんだけを送り出すのは危険です。フェルンさんを狙った襲撃が続いていますし、相手が既に諦めたとは思えません」


「それは俺たちも分かっている。だが、二人にはベルク村での役目があるはずだ」


「だから、どちらか一人が同行し、もう一人が村に残ることにしたの」


 メイメイが答える。


「本当は二人とも一緒に行くつもりだったんだけど、ベルク村を空けるわけにはいかないでしょ? それで話し合った結果、私がついて行くことになったのよ」


 凛の眉がわずかに動いた。


「正確には、話し合いを始めた直後にメイメイが荷造りを始めました」


「行動が早いって褒めていいのよ?」


「止めても聞かなかっただけです」


「だって、凛より私の方が旅に向いてるもの。料理もできるし、どこでも眠れるし、細かいことも気にしないし」


「最後の二つは誇ることではありません」


「それに、旅の途中であの子とも合流するんでしょ?」


 メイメイが周囲を見回す。


「白くて、大きくて、ふかふかの子」


「ハクのことか?」


「そう、その子。今度こそ思い切り抱きつくって決めてるの」


「護衛の話はどこへ行ったんや……」


 シルフが半眼を向ける。


 メイメイは咳払いを一つして、シグマの前に立った。


「もちろん、護衛が一番の目的よ。相手はフェルンちゃんを狙っている。戦える人間は多い方がいいでしょ?」


「それは助かるが……本当にいいのか?」


「いいから準備してきたの。今さら断っても、勝手について行くわよ」


 口調は軽い。


 しかし、その瞳には揺るぎない意思が宿っていた。


 凛もシグマを真っ直ぐに見つめる。


「彼女の腕は私が保証します。それに、メイメイは見た目ほど無鉄砲ではありません」


「見た目ほどって何よ」


「事実でしょう」


「凛はいつも一言多いのよね」


「あなたが余計なことまで話しすぎるのです」


 二人のやり取りを聞いていた白鬼が、楽しそうに笑った。


「やっぱり仲いいね」


「どこを見たらそうなるのよ」


 凛とメイメイの声が重なる。


 白鬼はますます笑みを深めた。


 シグマは仲間たちの顔を順番に見た。


 紅蓮たちも、メイメイの同行に反対する様子はない。むしろ戦力が増えることに安堵しているようだった。


「分かった。カルガランまで、よろしく頼む」


「任せて。フェルンちゃんは指一本触れさせないわ」


 メイメイは笑顔でフェルンへ抱きつこうとした。


 しかし、フェルンは素早くシグマの背後へ隠れる。


「あれ?」


「フェルンは、まだメイメイに慣れていない」


「昨日はあんなに一緒にいたのに」


「追いかけられてただけ」


「あれも立派な交流よ」


「違う」


 シグマの外套から顔だけを出し、フェルンがきっぱりと言う。


 その様子を見ていた凛が、小さく笑った。


「メイメイ。嫌われる前に、少し距離を覚えた方がいいですよ」


「大丈夫よ。私、最後には大体好かれるもの」


「最後まで嫌われる可能性は考えないのですか?」


「考えないわ」


 メイメイは迷いなく答えると、抱えていた荷物を馬車へ運び始めた。


 凛はその後ろ姿を見つめ、諦めたように息を吐く。


 だが、シグマへ向き直ったとき、その表情から笑みが消えた。


「シグマさん」


「どうした?」


「危険だと感じたら、カルガランへ進むことだけにこだわらないでください。引き返すことも、街道を外れることも選択肢に入れてください」


「ああ。分かっている」


「それから……炎帝石の力は、できる限り使わないでください」


 凛はシグマの右腕を見つめていた。


 炎帝石の力を無理に使ったとき、何が起こるのか。


 凛もメイメイも、その危険性を目の当たりにしている。


 シグマは右の拳を軽く握った。


 義手の奥で、鈍い熱が脈打つ。


「俺も使うつもりはない」


「約束できますか?」


 すぐには答えられなかった。


 仲間の命が危険に晒されたとき、それでも使わないと言い切れるほど、シグマは器用ではない。


 凛も答えを急かさなかった。


 やがてシグマは、静かに口を開く。


「使わずに済む方法を、最後まで探す。それで許してくれ」


「……分かりました」


 完全な約束ではない。


 それでも凛は、それ以上何も言わなかった。


     ◇


 出発の準備を終えたシグマたちは、ベルク村の大通りを進んだ。


 商店街では既に多くの人が行き交い、店先から客を呼び込む声が飛んでくる。


 村で過ごした時間は短い。


 それでも宿や店の者たちは、シグマたちへ手を振ってくれた。


 凛は村の外まで見送りに来ている。


 門を抜けたところで、メイメイが振り返った。


「ベルク村のこと、お願いね!」


「誰に言っているのですか」


「凛によ」


「あなたに言われなくても分かっています」


「寂しくなっても泣かないでよ?」


「今からでも、あなたを置いていってもらいましょうか?」


「ごめんなさい」


 メイメイが即座に謝る。


 凛は小さく息を吐いたあと、表情を和らげた。


「気をつけて」


「うん。行ってくるわ」


 短い言葉を交わし、メイメイが前を向く。


 シグマも凛へ頭を下げ、御者台へ乗り込んだ。


 隣にはフェルンが座り、後ろの客室には紅蓮、白鬼、黒鬼、シルフ、メイメイが乗っている。


 シグマが手綱を握ると、ノクスとソルが同時に鳴いた。


「行こう。カルガランへ」


 馬車がゆっくりと動き始める。


 凛はその姿が見えなくなるまで、街道の入口に立ち続けていた。


     ◇


 ベルク村を出てから一刻ほど進むと、街道は緩やかな林の中へ入った。


 空を覆っていた雲も次第に薄くなり、木々の隙間から柔らかな日差しが落ちてくる。


 風は少し冷たいが、旅をするには悪くない天候だった。


 周囲に他の旅人がいないことを確認したシグマは、遠くにいる相棒へ意識を集中させる。


 しばらくすると、林の奥から地面を蹴る重い音が響いた。


 鳥たちが一斉に飛び立ち、茂みが大きく揺れる。


 メイメイが客室から勢いよく顔を出した。


「来た?」


「ああ」


 木々の間から、白銀の巨体が飛び出した。


 ハクは街道へ着地すると、土煙を巻き上げながら馬車の横を駆ける。


 フェルンが満面の笑みを浮かべた。


「ハク!」


『無事だったか』


「うん!」


 フェルンの返事に、ハクは安心したように目を細める。


 シグマが馬車を止める。


 その直後、メイメイが客室から飛び降りた。


「ハク!」


『……何だ、こいつは』


 メイメイは勢いを落とすことなく、ハクの首元へ飛びついた。


 両腕を白銀の毛へ埋め、頬を押しつける。


「すごい! ふかふか! 思ってたよりずっと柔らかい!」


『離れろ』


「少しだけ! もう少しだけだから!」


『お前の少しは信用できん』


 ハクが首を振る。


 それでもメイメイは離れない。


 ついにはハクが前脚でメイメイの体を押し退けた。


「もう、照れなくてもいいのに」


『照れているのではない』


 ハクの言葉はシグマとフェルンにしか伝わらない。


 シグマが苦笑しながら通訳すると、メイメイはハクの鼻先へ顔を近づけた。


「私はメイメイ。カルガランまで一緒に旅をするの。よろしくね、ハク」


『騒がしい女だ』


「騒がしい人だって」


「そんなにはっきり言わなくてもいいじゃない」


「俺が言ったんじゃない」


 シグマが答えると、ハクは大きく息を吐いた。


 白い吐息がメイメイの髪を揺らす。


「でも、嫌われてはいないわよね?」


『今後次第だ』


「今後次第だそうだ」


「なら大丈夫ね。私、仲よくなるのは得意だから」


『……不安しかない』


 ハクがシグマへ視線を向ける。


 その目は、本当にこの女を連れて行くのかと訴えていた。


 シグマは何も言わずに目を逸らした。


     ◇


 その日、旅は驚くほど順調に進んだ。


 街道ですれ違うのは、数台の荷馬車と旅人だけだった。


 モンスターの姿もない。


 昼を過ぎる頃には、メイメイもすっかり一行に馴染んでいた。


 彼女は客室で大人しくしているような性格ではない。


 御者台に移ってはシグマやフェルンへ話しかけ、後ろへ戻っては白鬼やシルフと騒いでいる。


「メイメイは、凛とは長い付き合いなのか?」


 シグマが尋ねると、メイメイは御者台の背もたれへ腕を乗せた。


「それなりに長いわよ。でも、最初は本当に可愛くなかったんだから」


「今は可愛いの?」


 フェルンの問いに、メイメイがにやりと笑う。


「今も可愛くないわ」


「本人がおらんからって、好き放題言うとるな」


 後ろからシルフが口を挟む。


「凛も同じことを言うわよ。私たち、そういう関係なの」


「仲が悪いわけではないんだな」


「もちろん。あの子は口数が少ないし、何でも一人で抱え込もうとするけど、本当は優しいのよ。困っている人を放っておけないし」


「それ、誰かさんにも当てはまるんとちゃう?」


 シルフがシグマを横目で見る。


 シグマは気づかないふりをして、手綱を握り直した。


 メイメイはそんなシグマを見て、楽しそうに笑う。


「確かに、少し似てるかも。だから凛も、シグマのことを心配してたのね」


「俺より、フェルンたちの心配だろう」


「そういうことにしておいてあげる」


「どういう意味だ?」


「秘密」


 メイメイはそれ以上答えず、フェルンの髪を撫でようと手を伸ばした。


 フェルンは身を屈めてかわす。


「あっ、避けた」


「近い」


「まだ駄目?」


「まだ駄目」


「いつならいいの?」


「メイメイが静かになったら」


「それは難しい注文ね」


「諦めるの早すぎへん?」


 シルフの言葉に、客室から笑い声が上がる。


 シグマもつられるように笑った。


 度重なる襲撃によって、仲間たちの間には重い緊張が残っている。


 しかし、メイメイが加わったことで、その空気が少しだけ和らいでいた。


 日が傾き始めると、シグマたちは街道を外れ、川に近い開けた場所で野営することにした。


 ノクスとソルを馬車から外し、ハクが周囲の安全を確認する。


 紅蓮と白鬼は薪を集め、黒鬼とフェルンは寝床の準備を始めた。


 シグマが夕食を作ろうと荷物を下ろしていると、メイメイが前へ出る。


「今日は私が作るわ」


「手伝う」


「シグマは休んでなさい」


「だが、一人では大変だろう」


「材料を切るくらいなら、白鬼ちゃんと黒鬼ちゃんにお願いするから大丈夫よ」


「私たち?」


 白鬼が自分を指さした。


「そう。二人とも包丁は使える?」


「それくらいなら使えるよ」


「わ、私も……できる」


「それじゃ、二人にお願いするわ」


 メイメイは手際よく調理道具を並べ始めた。


 使うのは干し肉と豆、固くなり始めた黒パン。それに、道中で採取した香草や食べられる野草だった。


 特別な食材はない。


 シグマには、普段自分が使っているものとほとんど同じに見えた。


 しかし、メイメイは干し肉をそのまま鍋へ入れず、薄く削いで水へ浸した。


 黒パンも細かくちぎり、表面を火で炙っている。


「何を作るんだ?」


「食べてからのお楽しみ」


「その干し肉は、水に浸すのか?」


「塩気を抜くのよ。浸した水にも肉の味が出るから、全部は捨てないで煮汁に少し戻すの」


「なるほど……」


「黒パンは焼いてから煮込むと香ばしさが加わるわ。溶けたパンで、とろみもつくのよ」


 シグマは、メイメイの手元をじっと見つめた。


 火加減。


 香草を入れる順番。


 食材の切り方。


 同じ材料でも、自分とは扱いがまるで違う。


「シグマ、休むんじゃなかったの?」


「見ているだけだ」


「目が完全に料理人になってるわよ」


「知らない作り方だったから、覚えておきたい」


「本当に料理が好きなのね」


「ああ。誰かに食べてもらうのも好きだ」


 メイメイの手が一瞬止まった。


 そして、穏やかに微笑む。


「そういう人の料理は、美味しくなるわ」


 やがて鍋から、肉と香草の濃厚な香りが漂い始めた。


 全員が焚き火の周りへ集まり、器へよそわれた料理を受け取る。


 見た目は具の多い煮込み料理だが、焼いた黒パンが溶け込んだことで、とろりとした濃さがある。


 白鬼が最初に一口食べ、目を丸くした。


「美味しい!」


「本当……干し肉が柔らかい」


 黒鬼も驚いたように器を見つめる。


 紅蓮は肉と豆を一緒に口へ運び、満足そうにうなずいた。


「うむ。干し肉を使っているのに塩辛くない。それに体も温まる」


「せやけど、材料はいつも使っとるもんとほとんど同じやろ? 作り方だけで、こんなに変わるもんなんやな」


「料理は工夫よ。旅先では、いい材料が揃う方が珍しいもの」


 メイメイは得意げに胸を張った。


 フェルンは夢中になって食べている。


 口元に煮汁がついていることにも気づいていない。


 メイメイが布を手に近づくと、今度は逃げなかった。


「ほら、口元についてるわよ」


「ん……」


 優しく拭われ、フェルンは少し恥ずかしそうに俯いた。


「美味しい?」


「うん」


「ならよかった」


 メイメイが頭を撫でる。


 フェルンは一瞬だけ耳を伏せたが、その手を振り払うことはなかった。


 その様子を見ていた白鬼が、にやにやと笑う。


「もう仲よくなってる」


「静かに料理してたから」


「それが条件だったのね」


 メイメイは嬉しそうに笑い、もう一度フェルンの頭を撫でた。


 食後、シグマは鍋を洗いながら、作り方を忘れないよう頭の中で手順を繰り返していた。


 メイメイが横へしゃがみ込む。


「気に入った?」


「ああ。次に作るときは試してみたい」


「今度は別の作り方も教えてあげる。干した果物を少し入れても美味しいのよ」


「甘くならないのか?」


「入れすぎなければ大丈夫。肉の臭みを抑えて、味に深みが出るわ」


「それは知らなかった」


「料理は奥が深いでしょ?」


「ああ。面白いな」


 シグマが素直に答えると、メイメイは満足そうに笑った。


 夜の見張りは、シグマ、紅蓮、メイメイ、シルフの順に行うことになった。


 黒鬼はシグマも休むべきだと反対したが、短い時間だけだと約束し、どうにか納得してもらった。


 その夜は、川の流れる音と、焚き火で薪が爆ぜる音だけが聞こえていた。


 遠くで獣の鳴き声がしたものの、ハクが警戒する様子はない。


 危険な獣ではないのだろう。


 初日の旅は、何事もなく終わった。


     ◇


 二日目も朝から天候に恵まれた。


 夜露に濡れた草が朝日に照らされ、街道の両側で小さな光を散らしている。


 シグマたちは早めに野営地を片づけ、カルガランへ向けて出発した。


 昼前までは順調だった。


 だが、低い丘に挟まれた狭い道へ差しかかったところで、先頭を歩いていたハクが足を止める。


 耳を立て、左右の斜面を睨んだ。


『シグマ。人間が隠れている』


「数は?」


『多い。左右に分かれている』


 シグマは手綱を引き、ノクスとソルを止めた。


 客室の笑い声も途切れる。


 紅蓮が大剣へ手を伸ばした。


「どうした?」


「待ち伏せだ。左右の斜面に複数いる」


「昨日の刺客か?」


「まだ分からない」


 メイメイが御者台の脇から周囲を見渡す。


 何気ない仕草だったが、その目つきは先ほどまでとは別人のように鋭かった。


「この狭い場所を選んで待っていたのなら、偶然とは思えないわね」


「ああ」


 シグマはフェルンを客室の中央へ移動させる。


「黒鬼はフェルンのそばにいてくれ。シルフは馬車の中から斜面を警戒。白鬼はシルフの援護を。紅蓮と俺が前に出る」


「私は?」


 メイメイが尋ねる。


「馬車の護衛を頼む。相手の狙いがフェルンなら、必ず隙を突いてくる」


「分かったわ」


 シグマと紅蓮が馬車から降りる。


 ハクは二人の前に立ち、低い唸り声を上げた。


 しばらく待っていると、前方の岩陰から一人の男が姿を現した。


 汚れた革鎧を身につけ、顔の下半分を布で覆っている。


 手にしているのは、刃こぼれした曲刀だった。


「荷物を置いていけ!」


 男が声を張り上げる。


「抵抗しなきゃ、命までは取らねえ! 女とガキも見逃してやる!」


 言葉だけなら、街道に出没する盗賊と変わらない。


 しかし、その立ち方に隙がない。


 曲刀を低く構え、いつでも動けるよう重心を落としている。


 紅蓮が小声で呟いた。


「盗賊にしては、随分と鍛えられているな」


「ああ。それに、さっきから積荷を一度も見ていない」


 男の視線は、シグマと紅蓮の武器だけを追っている。


 荷物を奪うのが目的なら、馬車や積荷へ目を向けるはずだ。


 何より、盗賊を名乗りながら、斜面に潜んでいる者たちは一切騒がない。


 息を殺し、合図を待っている。


「俺たちは冒険者だ」


 シグマが告げる。


「奪う相手を間違えたんじゃないか?」


「だったら、ここで死ね!」


 男が曲刀を振り上げた。


 同時に、左右の斜面から幾つもの弓弦が鳴る。


「来るぞ!」


 シグマが左の義手を地面へ向けた。


 魔力を流し込むと、街道の土が隆起し、馬車の左右に分厚い壁が作られる。


 矢が次々と土壁へ突き刺さった。


 その間に、岩陰や茂みから二十人を超える男たちが飛び出してくる。


「二十……いや、三十近くおるで!」


 シルフが客室の窓から弓を構える。


 狙いを定め、矢を放った。


 風をまとった矢が、斜面を駆け下りてきた男の肩を射抜く。その体が後方へ弾き飛ばされた。


 白鬼も杖を向ける。


「炎よ、走れ!」


 地面すれすれを火の帯が駆け抜けた。


 先頭の男たちは足を止めることなく左右へ分かれ、炎をかわす。


「やっぱり普通の盗賊やない! 動きが揃いすぎとる!」


 シルフの声が響く。


 紅蓮が前へ出た。


「ならば、遠慮は不要だな!」


 大剣を横薙ぎに振るう。


 迫っていた三人が武器ごと弾き飛ばされ、地面を転がった。


 だが、その背後から槍を持った者たちが同時に踏み込んでくる。


 一人が紅蓮の足を狙い、残る二人が左右から脇腹へ槍を突き出した。


 紅蓮は大剣を地面へ突き立て、柄を軸に体を浮かせる。


 三本の槍が空を突いた。


 回転の勢いを乗せて一人の顔を蹴り、そのまま大剣を引き抜く。


 シグマの前にも四人が迫っていた。


 正面の男が曲刀を振り下ろし、別の二人が左右へ回り込む。


 残る一人は、シグマではなく馬車を狙っている。


『右は任せろ』


 ハクが地面を蹴った。


 白銀の巨体が男へ体当たりし、そのまま斜面へ叩きつける。


 シグマは正面から迫る曲刀を左の義手で受け止めた。


 金属音が鳴り、火花が散る。


 右から迫った短剣を身を沈めてかわし、男の懐へ入った。


 肩をぶつけて体勢を崩し、その腹へ右の拳を叩き込む。


「がっ……!」


 男の体がくの字に折れた。


 続けて左の掌を地面へ向けると、土の柱が突き上がり、もう一人の顎を打ち抜く。


「シグマ、後ろ!」


 フェルンの声が聞こえた。


 シグマが振り返る。


 シルフが矢を放った直後の隙を狙い、二人の男が馬車へ迫っていた。


 しかし、男たちがシルフへ到達するより早く、メイメイがその前に立つ。


「させないわよ」


 一人目が長剣を振り下ろした。


 メイメイは半歩だけ横へ動き、刃をかわす。


 男の手首をつかみ、自分の方へ引き寄せた。


 次の瞬間、その体が宙を舞う。


「なっ――」


 男は背中から地面へ叩きつけられ、息を詰まらせた。


 もう一人が横から短剣を突き出す。


 メイメイは半身になってかわし、肘で男の腕を跳ね上げる。


 そのまま胸へ掌底を叩き込んだ。


 鈍い音が鳴る。


 男の体が数歩後ろへ吹き飛び、動かなくなった。


 メイメイは最初に倒した男から長剣を奪い、軽く振って重さを確かめる。


「少し重いけど、使えないことはないわね」


 そこへ三人が同時に襲いかかった。


 一人目の槍が胸元へ迫った瞬間、メイメイは低く踏み込み、穂先の下を抜ける。


 すれ違いざまに槍の柄を斬り落とし、返す刃で男の革鎧を切り裂いた。


 二人目の剣を長剣の腹で受け流す。


 相手の刃が地面へ滑った瞬間、その剣を踏みつけ、無防備になった顔へ柄頭を叩き込んだ。


 三人目が背後へ回る。


 メイメイは振り返りながら長剣を手放し、男の腕を取った。


 踏み込んできた勢いを利用し、肩越しに投げ飛ばす。


 投げられた男が、起き上がろうとしていた二人を巻き込んだ。


「一か所に集まりすぎよ」


 メイメイは地面の長剣を蹴り上げ、再び右手でつかむ。


 剣先を男たちへ向け、楽しそうに笑った。


「まとめて倒してほしいの?」


 男たちの間に動揺が走る。


 盗賊に扮してはいるが、決して弱くはない。


 一人一人が兵士に近い技量を持ち、集団戦にも慣れている。


 だが、メイメイの前では、その連携すら意味を成していなかった。


 陣形を整えようとすれば、指示を出している者を真っ先に倒される。


 左右から挟もうとすれば、一方を投げ飛ばしてもう一方へぶつけられる。


 武器を奪われ、足を払われ、次々と意識を刈り取られていく。


「やるな」


 紅蓮が目の前の男を、大剣の腹で殴り飛ばしながら言った。


「褒めても何も出ないわよ!」


「夕食を作ってくれれば十分だ!」


「それなら任せて!」


「戦いながら晩飯の相談せんといて!」


 シルフが叫び、紅蓮へ迫っていた男の太腿を矢で射抜いた。


 しばらくすると、最初に現れた男が鋭い指笛を鳴らす。


「退け!」


 まだ動ける者たちが、一斉に斜面へ向かった。


「逃がすと思うか!」


 紅蓮が追おうとする。


「待て!」


 シグマが止めた。


「深追いは危険だ。別の部隊が待っているかもしれない」


 紅蓮は悔しそうに奥歯を噛んだが、足を止める。


 メイメイも追撃せず、倒れている者たちを警戒した。


「判断は正しいわ。あいつら、退き方まで訓練されている」


「ああ。盗賊じゃない」


 シグマは足元に倒れている男の顔から布を外した。


 見覚えのない顔だった。


 体を調べても、所属を示すものは見つからない。


 金銭も身分証牌も持っていなかった。


 他の男たちも同じだった。


 装備は使い古されているように見える。


 しかし、刃や革鎧の手入れは行き届いていた。盗賊らしく見せるため、表面だけを意図的に汚したものらしい。


 紅蓮が落ちていた槍を拾い、刃先を確かめる。


「刃の質も悪くない。これだけの人数を揃えるには、相当な金が必要だ」


「前に襲ってきた刺客と、同じ人たちかな?」


 白鬼が尋ねた。


「断定はできない」


 シグマは逃げていった男たちの方角を見つめる。


「だが、ただの盗賊ではない。それに、狙われていたのは積荷じゃない」


 戦いの途中、何人もの男がシグマたちを無視して馬車へ向かっていた。


 おそらく、今回も狙いはフェルンだ。


 ただし、これまでの刺客とは戦い方が違う。


 夜陰に紛れて襲うのではなく、盗賊を装って街道を封鎖した。


 正体を隠すことよりも、確実に足止めすることを優先している。


「ベルク村を出て、まだ一日しか経ってへんで……」


 シルフの声から、普段の軽さが消えていた。


「俺たちが出発するのを、どこかで見張っていた可能性がある」


 シグマが言うと、黒鬼の顔が青ざめる。


「ベルク村の中に……あの人たちの仲間がいたの?」


「分からない。街道を見張っていた可能性もある」


「凛は大丈夫かな」


 白鬼がベルク村の方角を振り返る。


「凛なら大丈夫よ」


 メイメイは奪った長剣を地面へ置いた。


「それに、あの子は私より慎重だから。村の中に怪しい者が残っていたとしても、簡単には隙を見せないわ」


「そうだな」


「問題は、逃げた連中が仲間を呼ぶかもしれないってことね」


 その言葉に、誰も答えられなかった。


 倒した者のうち、命に別状がない者だけを街道脇へ集めて拘束する。


 意識を取り戻した男へ問いかけても、何も答えようとはしなかった。


 シグマたちは通りかかった行商人へ事情を説明し、ベルク村のギルドまで知らせを届けてもらうことにした。


 拘束した者たちの詳しい確認は、ベルク村から来る者へ任せるしかない。


 これ以上この場所に留まれば、逃げた者たちが戻ってくる危険がある。


 シグマたちは馬車を出し、先を急いだ。


 それ以降、会話は少なくなった。


 先ほどまでの楽しい空気は消え、誰もが周囲を警戒している。


 ハクは馬車から離れず、メイメイも客室の入口に座り続けた。


 日が沈む前に、街道を少し外れた岩場で夜を明かすことにする。


 火は最小限に抑え、食事も簡単なもので済ませた。


 見張りは二人一組へ変更する。


 夜の間に、何かが近づいてくることはなかった。


 だが、安らかに眠れた者はいない。


 逃げた者たちが仲間を連れて戻ってくるのではないか。


 暗闇の向こうから、再び矢が飛んでくるのではないか。


 誰もがそんな不安を抱えながら、夜明けを待ち続けた。


 そして三日目。


 シグマたちを待っていたのは、偽りの盗賊とは比べものにならないほど統率された、新たな刺客たちだった。


 三日目。


 空は厚い雲に覆われ、朝から冷たい風が吹いていた。


 昨夜は誰も十分に眠れていない。


 偽装した盗賊たちが、逃げた先で仲間を呼んでいるかもしれない。


 それでも、同じ場所に留まり続ける方が危険だった。


 シグマたちは簡単な朝食を済ませると、今後の進路を決めるために地図を広げた。


「街道を外れれば、馬車の速度が大きく落ちる」


 紅蓮が地図を見ながら言う。


「この辺りは岩場と林が多い。ノクスとソルだけなら進めても、馬車を通すのは難しいだろう」


「けど、このまま街道を進んだら、また待ち伏せされるかもしれへんで」


 シルフが周囲を警戒しながら答えた。


「林に入れば、今度は遠くが見えなくなるわ」


 メイメイが地図の一点を指す。


「まずは、この古い石橋を目指しましょう。橋の先は平らな土地が続いている。街道を外れるかどうかは、そこで決めればいいわ」


「メイメイは、この道を通ったことがあるのか?」


「何年か前に一度だけね。道が大きく変わっていなければ、昼過ぎには着けるはずよ」


 シグマは少し考え、うなずいた。


「分かった。まずは石橋を目指そう。ただし、昨日と同じような連中が現れたら、戦うことより逃げることを優先する」


「異論はない」


 紅蓮の言葉に、他の者たちもうなずく。


 シグマたちは野営地を片づけ、街道へ戻った。


     ◇


 午前中は何も起きなかった。


 他の旅人とすれ違うこともなく、モンスターの姿も見当たらない。


 しかし、それがかえって不気味だった。


 いつもなら街道沿いでは、小型の獣や鳥の姿を見かける。


 今日は鳴き声すら聞こえない。


 風が吹くたびに木々の枝が擦れ合い、乾いた音を立てていた。


 ハクも普段より慎重に歩いている。


 馬車から大きく離れることはなく、何度も鼻を動かして周囲の匂いを確かめていた。


「何かいる?」


 御者台に座るフェルンが尋ねる。


『今のところ、人間の匂いはない』


「今はいないって」


「そうか」


 シグマは前方を見据えたまま手綱を握る。


 右腕の痛みは、昨日よりも強くなっていた。


 それでも表情には出さない。


 フェルンに気づかれれば、また休めと言われる。


 今は少しでも早く、安全な場所まで進む必要があった。


 昼を少し過ぎた頃。


 街道の先に、古い石橋が見えてきた。


 幅の広い川へ架けられた、頑丈な橋だった。


 石造りの欄干には長い年月による亀裂や苔が目立つものの、大型の馬車でも問題なく渡れそうな広さがある。


「あれね」


 メイメイが客室から顔を出した。


「橋を越えれば、開けた場所に出るはずよ」


「橋の先で一度休憩しよう。ノクスとソルにも水を飲ませたい」


「賛成や。朝から走りっぱなしやもんな」


 シルフの言葉に、ノクスとソルが短く鳴く。


 ところが、橋の手前まで近づいたところで、ハクが突然足を止めた。


 頭を低くし、橋の中央を睨む。


 その喉から、低い唸り声が漏れた。


『シグマ』


「ああ。俺にも見えている」


 橋の中央に、一人の大男が立っていた。


 全身を黒い鎧で覆い、巨大な剣を石畳へ突き立てている。


 頭には角のような装飾がついた兜を被り、顔は見えない。


 その背後にも、同じ黒い鎧を身につけた騎士たちが並んでいた。


 数は十や二十ではない。


 橋の上だけで三十人近く。


 シグマが手綱を引く。


 馬車が止まると同時に、背後の林から鎧が擦れる音が聞こえた。


 振り返れば、来た道にも黒騎士たちが姿を現している。


 さらに川の両岸からも、弓や槍を持つ者たちが次々と出てきた。


 既に包囲されている。


「昨日の連中とは、装備が違うな」


 紅蓮が大剣へ手を伸ばす。


「それに、数も多いで……」


 シルフが周囲を見渡した。


「見えるだけでも五十人はおる」


 シグマたちが進む先には、黒騎士の並ぶ石橋。


 引き返す道にも別の部隊がいる。


 街道の左右は斜面と深い林に挟まれ、馬車では逃げ込めない。


「最初から、ここで待ってたみたいやね」


 白鬼が杖を握りしめる。


「ああ。昨日逃げた者が知らせたのか、それとも最初から別の部隊がいたのかは分からない」


 シグマは御者台から降りた。


「どちらにしても、俺たちを通すつもりはなさそうだ」


 メイメイはすぐに客室へ戻り、フェルンを馬車の中央へ移動させた。


「フェルンちゃん。何があっても、ここから出ないで」


「でも……」


「今回は言うことを聞いて」


 普段の明るさが消えたメイメイの顔を見て、フェルンは小さくうなずいた。


 橋の中央に立つ大男が、大剣を持ち上げる。


 その動きに合わせ、黒騎士たちが一斉に武器を構えた。


 誰一人として声を発しない。


 鎧の擦れる重い音だけが、川の流れに重なる。


 シグマは黒騎士たちの前へ出た。


「何者だ」


 大男は答えない。


「俺たちに何の用がある」


 再び問いかけても、返事はなかった。


 兜の奥から向けられる視線は、シグマではなく馬車へ注がれている。


 その先にいるフェルンへ。


 大男が片手を上げた。


 直後、黒騎士たちが一斉に動き出した。


「来るぞ!」


 紅蓮と白鬼、黒鬼、シルフが馬車から飛び降りる。


 メイメイだけは、フェルンのそばを動かなかった。


「シルフ、後ろを頼む!」


「分かった!」


 シルフが振り返り、退路を塞ぐ黒騎士たちへ矢を放つ。


 風をまとった矢が一人の胸へ直撃した。


 しかし、黒騎士は数歩後退しただけで倒れない。


「硬っ……! 鎧に魔力が流れとる!」


「白鬼!」


「任せて!」


 白鬼の炎が、シルフのつがえた矢へ絡みつく。


 シルフが二本目を放った。


 炎をまとった矢が盾へ命中し、激しく爆発する。


 黒騎士が地面を転がった。


 だが、その炎を突き破るように、別の騎士たちが前進してくる。


 紅蓮は橋の入口へ立ち、大剣を構えた。


「ここから先は通さん!」


 紅蓮の大剣と、黒騎士の長槍が激突する。


 一人が紅蓮の一撃を大盾で受け、別の二人が左右から槍を突き出した。


 大剣を盾に押さえられ、すぐには引き戻せない。


「させるか!」


 シグマが左の義手を石畳へ向けた。


 黒騎士たちの足元から、鋭い石の杭が飛び出す。


 一人は飛び退いたが、もう一人は足を取られて体勢を崩した。


 紅蓮が力任せに盾を押し返し、黒騎士ごと弾き飛ばす。


 続けて大剣を振り下ろした。


 凄まじい音とともに石畳へ亀裂が走る。


 しかし、黒騎士は寸前で横へ転がり、大剣をかわしていた。


「昨日の連中より強いぞ!」


「ああ。それに――」


 シグマは周囲を見渡す。


 黒騎士たちは闇雲に攻めているわけではない。


 紅蓮を足止めする者。


 シルフと白鬼の攻撃を大盾で防ぐ者。


 黒鬼の光の壁を破壊しようとする者。


 馬車の左右から回り込む者。


 それぞれが役割を持ち、正確に動いている。


 しかも、シグマたちの攻撃へ対応するのが異様に早い。


「こいつら、俺たちの戦い方を知っている!」


「昨日の戦いを見られとったんか!」


 シルフが叫びながら、三本の矢を連続で放つ。


 黒騎士たちは即座に大盾を並べ、矢を受け止めた。


 風の力で盾が押し戻される。


 だが、後ろにいる者が前列の背中を支え、陣形を崩さない。


「だったら、これならどう!」


 白鬼が杖を地面へ突き立てる。


 黒騎士たちの足元から、炎が噴き上がった。


 盾では防げない下からの攻撃。


 数人の黒騎士が慌てて左右へ飛ぶ。


「シルフ!」


「見えとる!」


 陣形の開いた場所へ、シルフの矢が飛び込んだ。


 一人の肩を射抜き、その体を後方へ吹き飛ばす。


 白鬼とシルフは目を合わせ、わずかにうなずいた。


 だが、二人が一か所へ攻撃を集中させたことで、反対側への警戒が薄くなる。


 黒鬼の光の壁へ、二本の斧が同時に叩きつけられた。


 透明な壁が大きく揺れ、細い亀裂が走る。


「黒鬼!」


「まだ……大丈夫!」


 黒鬼は両手を前へ伸ばし、必死に光の壁を支えた。


 三本目の斧が振り下ろされる。


 亀裂が広がった。


 黒鬼の膝が震え始める。


「下がって!」


 メイメイが馬車の脇から飛び出した。


 斧を持つ黒騎士の手首をつかみ、体勢を崩す。


 そのまま腕を捻り上げ、黒騎士を前方へ投げ飛ばした。


 投げられた体が、光の壁を攻撃していた二人へ激突する。


 三人がまとめて地面を転がった。


「黒鬼ちゃん、大丈夫?」


「う、うん……」


「今のうちに壁を張り直して」


「分かった」


 黒鬼が呼吸を整え、再び光の壁へ魔力を流し込む。


 しかし、メイメイが馬車から離れたのは、ほんの数秒だった。


 橋の欄干を飛び越え、川岸から回り込んだ黒騎士がフェルンへ迫る。


「フェルン!」


 シグマが声を上げる。


 フェルンは短剣を抜き、客室の入口で身構えた。


 黒騎士が腕を伸ばす。


「触るな!」


 メイメイが地面を蹴った。


 一瞬で馬車の横へ戻り、黒騎士の腕を蹴り上げる。


 続けて胸元をつかみ、馬車から引き離した。


 黒騎士は地面へ投げつけられ、その衝撃で兜を大きくへこませる。


「馬車から出ないでって言ったでしょ!」


「出てない!」


「それなら、そのまま中にいて!」


 別の二人が左右からメイメイへ斬りかかる。


 メイメイは一人の長剣を奪い、その刃で反対側から迫る剣を受け止めた。


 金属音が鳴り響く。


 彼女ならば、目の前の黒騎士たちを簡単に倒せる。


 だが、追撃はできない。


 少しでも馬車から離れれば、別の者がフェルンを狙う。


 黒騎士たちはメイメイの動きを完全に封じていた。


「数が多すぎるわね……!」


 メイメイの額に汗が浮かぶ。


 橋の中央から、大男が動いた。


 地面へ突き立てていた大剣を肩へ担ぎ、ゆっくりと歩いてくる。


 周囲の黒騎士たちが左右へ分かれ、道を作った。


 大男の兜が、シグマへ向けられる。


『来るぞ』


 ハクがシグマの横に並んだ。


「ああ。ハク、援護を頼む」


『無理はするな』


「分かっている」


『分かっている者は、右腕を隠すような真似をしない』


 シグマは一瞬だけ言葉を失った。


 大男が石畳を蹴る。


 足元の石が砕けた。


 巨体からは想像できない速度で間合いを詰め、大剣を横薙ぎに振るう。


「っ!」


 シグマは身を低くして刃をかわした。


 頭上を通過しただけで、衝撃が白い髪を激しく揺らす。


 刃の先端が石橋の欄干へ触れた。


 硬い石材が、紙のように切断される。


 シグマは大男の懐へ踏み込み、右の拳を鎧へ叩き込んだ。


 重い金属音が響く。


 大男の体がわずかに揺れた。


 だが、倒れない。


 兜の奥から赤い光が覗いた。


 大男が左手を伸ばし、シグマの首をつかもうとする。


 その腕へ、ハクが噛みついた。


『離れろ!』


 ハクが首を振り、大男を引き倒そうとする。


 だが、大男は片腕だけで踏みとどまった。


 そのままハクの巨体を持ち上げようとする。


「ハク!」


 シグマが左の掌を、大男の鎧へ押し当てる。


 義手から流れた魔力が、鎧の内側へ衝撃を叩き込んだ。


 大男の体が後方へ滑り、ハクの腕を放す。


『馬鹿力だ』


「大丈夫か?」


『問題ない』


 シグマの左腕にも、鈍い痛みが残っていた。


 大男の鎧は硬い。


 それだけではない。


 鎧全体を覆う魔力が、外から加えられた衝撃を弱めている。


 大男は自分の腹を見下ろしたあと、初めて口を開いた。


「二つの義手……報告どおりか」


 兜の奥から、低く濁った声が響いた。


 シグマの背筋に冷たいものが走る。


「俺のことを知っているのか?」


「知る必要はない」


「誰から聞いた」


「答える必要もない」


 大男が大剣を両手で構える。


 黒い魔力が刀身へ絡みついた。


 その圧力だけで、周囲の空気が震える。


『シグマ、避けろ!』


 ハクの警告と同時に、大男が剣を振り下ろした。


 シグマは横へ飛ぶ。


 黒い斬撃が石畳を走り、シグマのいた場所を大きく切り裂いた。


 橋全体が揺れる。


 砕けた石片が川へ落ち、幾つもの水柱を上げた。


 大男は間髪を入れずに追撃する。


 振り上げ。


 横薙ぎ。


 突き。


 巨大な剣を振るっているとは思えないほど、一撃ごとの間隔が短い。


 シグマは左の義手で剣の腹を逸らし、後方へ下がった。


 それでも衝撃を殺しきれず、両足が石畳を削る。


 大男の一撃を受けるたび、右の義手から痛みが走った。


 炎帝石が熱を帯び始めている。


 抑え込んでいた何かが、シグマの怒りへ触れようとしていた。


 使え。


 燃やせ。


 邪魔をする者を消してしまえ。


 言葉ではない。


 怒りを煽り立てる、どす黒い衝動だった。


 シグマは奥歯を噛み、右腕を左手で押さえ込む。


 まだ使わない。


 まだ別の方法がある。


「よそを見る余裕があるのか」


 大男の声が響いた。


 大剣が斜め上から振り下ろされる。


 シグマは黒鞘刀を両手で構え、刃を受け止めた。


 凄まじい音が響く。


 黒鞘刀は抜けていない。


 それでも折れることなく、巨大な刃を受け止めていた。


 衝撃が両腕へ伝わり、シグマの足が石畳へ沈み込む。


「ぐっ……!」


 大男がさらに力を込めた。


 シグマの膝が少しずつ下がる。


 その横から、ハクが突進した。


『倒れろ!』


 白銀の巨体が大男の脇腹へ激突する。


 大男が欄干へ叩きつけられた。


 しかし、倒れながらも大剣を振るい、ハクの脇腹を切り裂く。


 白銀の毛が赤く染まった。


『ぐっ……!』


「ハク!」


 シグマが大男の胸へ飛び蹴りを放つ。


 大男は橋の上を転がったが、すぐに片膝をついた。


 シグマはハクのそばへ駆け寄る。


 傷は浅くない。


 すぐに治療が必要だった。


 だが、黒鬼も馬車の前から動けない。


『まだ戦える』


「無理をするな」


『それは、お前にだけは言われたくない』


 ハクは苦しげに立ち上がった。


 そのとき、背後で激しい破砕音が響く。


 黒鬼の光の壁が砕けた。


「黒鬼!」


 白鬼が黒鬼を庇うように前へ出る。


 黒騎士の剣が、白鬼の左腕を浅く切り裂いた。


「白鬼!」


「大丈夫! これくらいなら……!」


 白鬼は炎の槍を放ち、黒騎士を馬車から引き離す。


 だが、別の騎士が斧を振り上げていた。


 黒鬼が新たな光の壁を作り、白鬼を守る。


 しかし、先ほどよりも壁が薄い。


 魔力を消耗しすぎている。


 シルフの矢筒に残る矢も、既にわずかだった。


 紅蓮は十人近い黒騎士に囲まれ、絶え間なく攻撃を受けている。


 一人が傷つけば、すぐに後方へ下がる。


 代わりに別の者が前へ出る。


 紅蓮へ休む隙を与えない。


 大剣を振るう速度が徐々に落ちていく。


「鬱陶しい連中だ……!」


 紅蓮が大盾を殴りつける。


 盾ごと黒騎士を弾き飛ばした直後、別の槍が肩をかすめた。


 赤い髪の一部が切れ、血が飛ぶ。


「紅蓮!」


「私に構うな!」


 全員が苦戦している。


 メイメイだけは大きな傷を負っていない。


 しかし、フェルンを守るため、その場から一歩も離れられない。


 メイメイが黒騎士を一人倒す。


 その間に、別の二人が馬車の反対側から回り込む。


 二人を倒せば、橋の欄干を越えて三人目が現れる。


 黒騎士たちは、メイメイを倒そうとはしていない。


 フェルンへ手を伸ばし続けることで、彼女の動きを封じている。


「メイメイ!」


 フェルンが客室から声を上げた。


「後ろ!」


 メイメイが振り返る。


 背後から迫った槍を、奪った長剣で弾いた。


 続けて相手の膝を蹴り、体勢を崩す。


 だが、倒れた黒騎士の向こうから、新たな敵が現れた。


「数が多すぎる……!」


 メイメイの声から、初めて余裕が消える。


 シグマは周囲を見渡した。


 白鬼の左腕から血が流れている。


 黒鬼は新しい光の壁を作るだけで、肩を大きく上下させていた。


 シルフの矢は残りわずか。


 紅蓮は片膝をつき、それでも大剣を支えに立ち上がろうとしている。


 ハクも脇腹を傷つけられた。


 メイメイはフェルンから離れられない。


 このまま戦い続ければ、誰かが倒れる。


 一人でも倒れれば、そこから陣形が崩れる。


 全員が押し潰されるまで、長くはかからない。


「シグマ!」


 紅蓮が大剣で槍を受け止めながら叫ぶ。


「このままでは押し切られるぞ!」


「分かっている!」


「橋を落とすか?」


「駄目だ! それでは逃げ道までなくなる!」


 橋を落とせば、カルガランへ続く道を失う。


 背後の街道も黒騎士に塞がれている。


 左右の斜面は、馬車では下りられない。


 逃げるには、どちらかの包囲を正面から破るしかなかった。


 大男が再び立ち上がる。


 黒い鎧の隙間から、赤い光が漏れ出していた。


 大剣を肩へ担ぎ、ゆっくりとシグマへ歩み寄る。


「これで終わりだ」


 その言葉に呼応するように、黒騎士たちが一斉に攻勢を強めた。


 黒鬼の光の壁へ、三本の斧が叩きつけられる。


 壁が再び砕けた。


 紅蓮は大盾を受け止めた直後、横から槍の柄で殴られ、片膝をつく。


 シルフの腕を矢がかすめ、弓が地面へ落ちた。


 白鬼が黒鬼の前へ出て、剣を背中に受ける。


「白鬼!」


「大丈夫……これくらい……!」


 大丈夫なはずがない。


 フェルンの周囲にも、黒騎士たちが集まり始めている。


 メイメイは次々と倒しているが、それ以上の数が押し寄せていた。


 右腕が燃えるように熱を帯びる。


 義手の奥で炎帝石が脈打ち、シグマの意識へ食い込もうとしていた。


 怒れ。


 焼き尽くせ。


 邪魔をする者を、一人残らず消してしまえ。


 その力を使えば、敵を倒せる。


 しかし、今度こそ自分が自分でなくなるかもしれない。


 それでも、このまま迷えば仲間が死ぬ。


「紅蓮!」


 シグマが叫んだ。


「何だ!」


「皆を連れて逃げてくれ!」


 紅蓮が目を見開く。


「何を言っている?」


「俺がここに残る! その間に橋の包囲を破って、カルガラン側へ逃げろ!」


「ふざけるな! お前一人を残せるわけがないだろう!」


「このままなら全員が死ぬ!」


「だからといって、お前が死んでいい理由にはならん!」


 シグマは大男の一撃を黒鞘刀で受け止めた。


 衝撃で両腕が痺れ、膝が沈む。


「俺も死ぬつもりはない!」


「その腕を使う気やろ!」


 シルフが落とした弓を拾いながら叫んだ。


 シグマは答えなかった。


 その沈黙だけで、全員に意図が伝わった。


「駄目!」


 黒鬼の悲鳴に近い声が響く。


 新たな光の壁を作りながら、必死に首を振った。


「絶対に駄目! あの力は、シグマを壊す!」


「黒鬼……」


「もう無理に使わないでって言った! シグマだって、使わずに済む方法を探すって……!」


「探した」


 シグマは大男の剣を押し返しながら答える。


「でも、他に道がない」


「それでも駄目!」


 黒鬼の瞳から涙が溢れた。


「シグマがいなくなるなら、逃げても意味がない! 私も残る!」


「黒鬼だけやないで」


 シルフが矢をつがえる。


「うちら全員、同じ気持ちや。シグマ一人に全部押しつけて、自分らだけ逃げられるわけないやろ」


「そうだ」


 紅蓮が大剣を杖にして立ち上がる。


「勝手に一人で決めるな。最後まで全員で戦う」


「シグマ、行かないで!」


 フェルンがメイメイの背後から手を伸ばした。


 シグマの胸が締めつけられる。


 本当なら、自分も一緒に逃げたい。


 誰一人置き去りにしたくない。


 だが、そのための道がない。


 敵は強く、数も多い。


 ノクスとソルが馬車を引いて走り出すまで、誰かがここで黒騎士たちを止めなければならない。


「お願いだから、言うことを聞いてくれ」


 シグマは黒騎士の剣をかわし、左の拳を兜へ叩き込む。


「俺は、皆を守りたいだけなんだ」


「それは私たちも同じ!」


 黒鬼が叫んだ。


「私たちだって、シグマを守りたい!」


 その言葉に、シグマは何も返せなかった。


 大男が再び間合いを詰める。


 シグマとハクは同時に左右へ分かれた。


 ハクが大男の足へ噛みつき、シグマが鎧の胸へ拳を打ち込む。


 それでも大男は倒れない。


 大剣の柄がシグマの腹へ叩き込まれた。


「がっ……!」


 体が浮き、石畳の上を転がる。


 肺から空気が抜け、呼吸が止まった。


「シグマ!」


 フェルンが駆け出そうとする。


 メイメイが、その小さな体を抱き止めた。


「離して!」


「駄目よ!」


「シグマが!」


「分かってる!」


 メイメイはフェルンを抱えたまま、シグマを見つめる。


 いつもの明るさは、その表情から消えていた。


「シグマ。本当に勝つつもりなのね?」


 シグマは腹を押さえながら立ち上がる。


「ああ」


「戻ってこられる?」


「必ず戻る」


「約束できる?」


「ああ。約束する」


 今度は迷わず答えた。


 根拠などない。


 それでも、必ず戻らなければならない。


 メイメイはシグマの目を見つめ続けた。


 やがて、唇を強く噛む。


「……分かったわ」


「メイメイ!」


 黒鬼が叫ぶ。


「駄目! 認めないで!」


「認めたくなんてないわよ!」


 メイメイの声も震えていた。


「でも、このまま戦えば全員が死ぬ! シグマが作ってくれる時間を無駄にしたら、それこそ何の意味もない!」


「嫌……嫌だよ……!」


「黒鬼ちゃん。今は生きることを選んで」


「シグマがいないのに……!」


「戻ってくるって言ったでしょ!」


 メイメイは、自分自身へ言い聞かせるように叫んだ。


「シグマは戻ると言った! だったら今は信じるしかない!」


 紅蓮は目を伏せ、大剣を強く握りしめる。


 シルフも悔しそうに歯を食いしばっていた。


 白鬼は泣きそうな顔で、シグマを見つめる。


「絶対だよ」


 白鬼が言った。


「絶対に戻ってきて。戻ってこなかったら……許さないから」


「ああ」


「シグマ。必ず生きて戻れ」


 紅蓮が続く。


「帰ってきたら、勝手な真似をしたことを後悔させてやる」


「覚悟しておく」


「うちからも説教や」


 シルフが震える声で言う。


「一人だけで全部背負おうとしたこと、絶対に許さへんからな」


「ああ」


 シグマは仲間たちへ答えながら、意識だけをハクへ向けた。


『ハク』


『聞いている』


『黒鬼とフェルンを頼む』


『二人は残ると言うぞ』


『だから、無理にでも連れて行ってくれ』


『お前はどうする』


『ここに残る』


『炎帝石を使うつもりか』


『他に方法がない』


 ハクは大男を警戒しながら、低い唸り声を漏らす。


『また意識を奪われるぞ』


『分かっている』


『今度は戻れないかもしれない』


『それでも、皆を死なせるよりはいい』


『よくない』


 ハクの声には、はっきりとした怒りが滲んでいた。


『お前も我らの仲間だ。自分だけを守る者の中から外すな』


『……悪い』


『謝ってほしいのではない』


『それでも頼む。皆を安全な場所まで連れて行ってくれ』


 ハクはすぐには答えなかった。


 大男が再び歩き出す。


 周囲の黒騎士たちも、包囲の輪を狭めていた。


 時間がない。


『ハク』


『……必ず追いつけ』


『ああ』


『必ずだ』


『約束する』


 長い沈黙のあと、ハクは承諾した。


 シグマは息を整え、黒鞘刀を大男へ向ける。


「メイメイ。橋の上に道を作ってくれ」


「分かった。紅蓮、シルフ、白鬼! ノクスとソルが走れるだけの道を開けるわよ!」


「承知した!」


「任せて!」


「一気に行くで!」


 四人が同時に動いた。


 メイメイがフェルンを抱えて馬車へ飛び乗る。


 続けて橋の正面を塞ぐ黒騎士へ、奪った剣を投げつけた。


 剣は大盾へ突き刺さり、黒騎士の体勢を崩す。


 その瞬間、紅蓮の大剣が盾ごと敵を薙ぎ払った。


「白鬼!」


「いくよ!」


 白鬼が橋の中央へ炎を放つ。


 黒騎士たちは即座に盾を並べた。


「そこや!」


 シルフの矢が、大盾の下にある石畳へ突き刺さる。


 矢に込められた風が爆発し、黒騎士たちの足元をすくった。


 陣形が崩れる。


 白鬼の炎が盾の隙間を通り抜け、黒騎士たちを左右へ追いやった。


 馬車一台が通れるだけの狭い道が開く。


「今よ!」


 メイメイが御者台へ飛び乗り、手綱をつかむ。


 紅蓮と白鬼、シルフも馬車の側面へ取りついた。


 黒鬼だけはシグマのもとへ向かおうとする。


「私は残る! シグマを治す!」


 その進路を、ハクの巨体が塞いだ。


「ハク、どいて!」


『すまない』


 ハクは黒鬼の服を傷つけないよう、背中側から口でつかむ。


「やめて! 離して!」


 黒鬼は必死に手を伸ばした。


「ハク! お願い! シグマを置いていかないで!」


 ハクは答えない。


 黒鬼を客室へ押し入れると、その入口を体で塞いだ。


「シグマ!」


 フェルンも御者台から飛び降りようとする。


 メイメイが片腕で抱き止めた。


「離して! シグマのところに行く!」


「駄目よ!」


「シグマ! シグマ!」


 フェルンの泣き声が響く。


 黒鬼も客室から手を伸ばし、シグマの名を呼び続けていた。


 その声を聞くたび、シグマの決意が揺らぎそうになる。


 振り返ってはいけない。


 顔を見れば、行かせられなくなる。


「ノクス! ソル! 走って!」


 メイメイが手綱を鳴らした。


 二羽が力強く地面を蹴り、石橋へ進入する。


 黒騎士たちが、開いた道を塞ごうと動いた。


 紅蓮の大剣が右側から迫る敵を弾き飛ばし、白鬼とシルフが左側を炎と風で押し返す。


 馬車は戦列の間を駆け抜けた。


 黒騎士の一人が、客室へ槍を突き出す。


 紅蓮が大剣で受け止めた。


「触れさせん!」


 別の黒騎士が、ノクスへ斬りかかる。


 シルフの矢が手首へ突き刺さり、剣が地面へ落ちた。


「この子らを傷つけさせへんで!」


 ノクスとソルが全力で駆ける。


 馬車の車輪が石畳を激しく叩いた。


 揺れる客室の中で、黒鬼とフェルンはシグマへ手を伸ばし続ける。


「シグマ!」


「戻ってきて!」


 二人の声が重なる。


 ハクはその場に残り、最後に一度だけシグマを見つめた。


『行け』


『……必ず迎えに来る』


『ああ』


 ハクは背を向け、橋を渡る馬車を追った。


 馬車が橋の反対側へ抜ける。


 黒騎士たちはすぐに追撃へ動こうとした。


「行かせない」


 シグマは左の義手を石畳へ叩きつける。


 橋の上から幾本もの岩柱が突き上がり、黒騎士たちの進路を塞いだ。


 数人が岩柱を回り込もうとする。


 シグマは右の拳を振るった。


 炎帝石から漏れ出した炎が地面を走り、岩柱の間へ火の壁を作る。


 追手の足が止まった。


 馬車は橋を渡り切り、その先の街道を走っていく。


 フェルンと黒鬼の泣き叫ぶ声が、少しずつ遠ざかっていった。


 やがて、ノクスとソルの足音も聞こえなくなる。


 シグマは橋の中央へ続く道を背にし、残された黒騎士たちへ向き直った。


「これ以上、追わせない」


 黒騎士たちはシグマを包囲し直す。


 川岸や後方にいた者たちも集まり、その数はまだ四十人以上残っていた。


 大男が大剣を肩へ担ぐ。


「仲間を逃がしたか」


「ああ」


「愚かな判断だ。お前を殺したあとで追えばいい」


「追わせない」


「一人で我々を止めるつもりか」


「そのつもりだ」


 大男の兜の奥で、赤い光が揺れた。


「ならば、ここで死ね」


 黒騎士たちが一斉に武器を構える。


 シグマは右の義手へ視線を落とした。


 内部で炎帝石が赤く輝いている。


 熱は既に痛みへ変わっていた。


 右腕と肩の接合部が裂け、流れた血が指先から滴り落ちる。


 シグマは炎帝石へ意識を伸ばした。


 封じ込めていた力に触れる。


 その瞬間。


 仲間を傷つけられた怒りが、何倍にも膨れ上がった。


 フェルンを奪おうとする者たちへの怒り。


 黒鬼を泣かせた者たちへの怒り。


 何度退けても追いかけてくる者たちへの怒り。


 自分の力が足りないことへの怒り。


 心の奥に押し込めていたすべての感情が、炎帝石へ吸い込まれていく。


「まだだ……」


 シグマは右腕を左手で押さえた。


 今なら引き返せる。


 今なら、まだ自分の意思で止められる。


 だが、目の前では黒騎士たちが武器を構えている。


 ここで倒れれば、仲間たちが追われる。


 迷っている時間は残されていない。


「皆を……頼む」


 遠ざかっていくハクへ、届かない念話を送る。


 そして、右腕を押さえていた左手を離した。


 炎帝石の力が、一気に解き放たれる。


 右腕から噴き出した炎が、シグマの全身を包み込んだ。


 認識阻害のマントが激しくはためく。


 白い髪の先端が赤く染まり、右目が燃えるような光を帯びる。


 額の両側では炎が揺らめき、角のような形を作った。


 地面へ落ちた血が、一滴残らず蒸発していく。


 石橋が熱に耐えきれず、音を立ててひび割れ始めた。


 大男が初めて後ずさる。


「何だ……その姿は……」


 シグマはゆっくりと顔を上げた。


 黒騎士たちの姿が、赤く染まった視界に映る。


 仲間たちを守らなければならない。


 ここから先へ、一人も通してはいけない。


 それが、シグマに残された最後の意思だった。


 だが、その奥から別の衝動が這い上がってくる。


 追手を止めるだけでは足りない。


 傷つけた者たちを許すな。


 すべて壊せ。


 一人残らず焼き尽くせ。


 シグマの口元が、自分の意思とは無関係に歪んだ。


「逃げるなら……今のうちだ」


 低い声が漏れる。


 黒騎士たちは動かない。


 シグマを包む炎が、さらに勢いを増した。


 巨大な獣の顎のような形となり、黒騎士たちの頭上へ広がっていく。


 右目に残っていた穏やかな光が、赤い炎の奥へ沈んだ。


「いや……」


 シグマは黒騎士たちを見渡す。


 その声から、いつもの優しさが消えていく。


「もう、遅い」


 直後、炎の獣が大きく顎を開いた。


 炎の獣が、大きく顎を開いた。


 橋を覆うほど巨大な炎が、黒騎士たちへ襲いかかる。


「盾を構えろ!」


 大男の号令に従い、黒騎士たちが大盾を並べた。


 黒い魔力が盾から溢れ、幾重もの障壁を作り出す。


 直後、炎の獣が障壁へ食らいついた。


 轟音とともに石橋が大きく揺れる。


 炎と黒い魔力が激しくぶつかり、砕けた火の粉が空へ舞い上がった。


「押し返せ!」


 黒騎士たちが一斉に盾を押し出す。


 障壁は炎に削られながらも、わずかに前進した。


 だが、シグマは動かない。


 赤く染まった右目で、盾の向こうにいる黒騎士たちを見つめている。


 足りない。


 もっと燃やせ。


 何も残すな。


 頭の奥へ流れ込む衝動が、シグマの怒りを掻き立てる。


 右腕から溢れる炎が、さらに勢いを増した。


 障壁の表面へ亀裂が走る。


「弓兵、放て!」


 橋の両岸に展開していた黒騎士たちが、一斉に矢を放った。


 幾十もの矢が炎を避けるように弧を描き、シグマの頭上から降り注ぐ。


 シグマは右腕を振り上げた。


 炎が渦を巻き、飛来した矢を呑み込む。


 大半は一瞬で灰へ変わった。


 しかし、炎の隙間を抜けた一本が左肩をかすめる。


 外套が裂け、鮮血が散った。


 シグマは傷へ目を向けなかった。


「今だ!」


 大男が障壁の陰から飛び出した。


 巨大な剣を両手で握り、真っ直ぐにシグマへ迫る。


「その右腕ごと叩き潰す!」


 振り下ろされた大剣を、シグマは右の義手で受け止めた。


 金属同士が激突する。


 黒い魔力と炎が爆ぜ、橋の欄干が衝撃だけで砕け散った。


 シグマの足元が陥没する。


 義手の接合部に強い負荷がかかり、右肩の奥で何かが軋んだ。


 皮膚が裂け、熱い血が流れ出す。


 だが、その血も炎へ触れた途端に蒸発した。


「捕らえろ!」


 大男の声に応じ、四人の黒騎士がシグマを囲む。


 彼らが投げた鎖は、両腕と胴体へ絡みついた。


 鎖から黒い光が放たれる。


 全身を締めつけられ、シグマの炎がわずかに弱まった。


「引け!」


 四方から鎖を引かれ、シグマの膝が石畳へ落ちる。


 大男は大剣を引き、一歩後ろへ下がった。


 そして今度は、シグマの首を狙って刃を振り上げる。


「これで終わりだ!」


 大剣が迫る。


 その瞬間、シグマの脳裏へ仲間たちの顔が浮かんだ。


 泣きながら自分の名を呼んでいたフェルン。


 置いていかないでと訴えた黒鬼。


 必ず戻れと言った紅蓮。


 泣きそうな顔で笑った白鬼とシルフ。


 自分の言葉を信じ、決断してくれたメイメイ。


 そして、必ず追いつけと告げたハク。


 ここで倒れるわけにはいかない。


「俺は……」


 右腕の炎が、巻きついた鎖へ燃え移る。


「戻ると約束したんだ!」


 炎が鎖の内側を走り、四方へ広がった。


「離せ!」


 黒騎士たちが鎖を手放そうとする。


 だが、遅かった。


 四本の鎖が同時に弾け、黒騎士たちが爆風に呑み込まれる。


 大剣が首へ届く寸前、シグマは右手で刃をつかんだ。


「何っ……!」


 大男が剣を引こうとする。


 しかし、大剣は動かない。


 シグマの五指から炎が流れ込み、黒い刀身を赤熱させていく。


「この……化け物め!」


 大男は片手を柄から離し、シグマの顔へ拳を放った。


 シグマは頭を傾けてかわす。


 拳が頬をかすめた。


 そのまま大剣を引き寄せ、大男の腹へ膝を叩き込む。


 分厚い鎧が内側へへこんだ。


「がっ……!」


 大男の体がわずかに浮く。


 続けて、シグマの右拳が胸甲へ突き刺さった。


 爆発が起きた。


 炎に包まれた大男が橋の中央まで吹き飛ばされ、何度も石畳へ叩きつけられる。


 その姿を追うことなく、シグマは周囲へ右腕を向けた。


 炎が扇状に広がる。


 迫っていた黒騎士たちがまとめて吹き飛ばされ、盾や武器が赤く溶けた。


「囲め!」


 倒れた大男が叫ぶ。


「一人ずつ近づくな! 隊列を組み直せ!」


 黒騎士たちは素早く距離を取った。


 前列に大盾。


 その後ろへ槍兵。


 さらに後方へ弓兵が並ぶ。


 仲間の多くを倒されながらも、完全には統率を失っていない。


 大盾を並べた黒騎士たちが、左右からシグマを挟み込む。


「進め!」


 盾の壁が一斉に動き出した。


 シグマの視界では、黒い鎧が炎の向こうで歪んで見えた。


 敵。


 フェルンを奪おうとした者たち。


 仲間を傷つけた者たち。


 逃がしてはいけない。


 一人でも残せば、また追ってくる。


 ならば、すべて焼けばいい。


 冷たい考えが、当たり前のことのように心へ入り込む。


 シグマは右の掌を石橋へ向けた。


 義手から流れ出した炎が、石畳の亀裂へ入り込む。


 盾の壁が近づく。


 槍の穂先が隙間から伸びた。


 その直前、シグマは右手を握り込んだ。


 橋の下から無数の火柱が噴き上がる。


 大盾が宙を舞った。


 黒騎士たちは陣形ごと炎に呑まれ、石畳へ叩きつけられる。


 橋の一部が崩れ落ち、巨大な石材が川へ落下した。


 幾つもの水柱が立ち昇る。


「怯むな!」


 大男が立ち上がった。


 胸の鎧は砕け、その隙間から血が流れている。


 手にした大剣も歪み、刀身へ幾つもの亀裂が走っていた。


 それでも戦意は消えていない。


「弓兵! 右腕を狙え!」


 残っていた弓兵が矢を放つ。


 シグマは炎の壁を作った。


 だが、先ほどまでより反応が遅い。


 炎帝石の力は増している。


 それとは反対に、シグマ自身の意識が少しずつ沈み始めていた。


 一本の矢が炎を抜け、右肩へ向かう。


 シグマは身を捻った。


 矢は義手の接合部を外れ、上腕の外側を浅く切り裂いて後方へ飛んだ。


 痛みとともに血が溢れる。


 そこへ右腕の炎が流れ込んだ。


「ぐっ……!」


 肉の焼ける臭いが立ち昇る。


 炎は傷を塞ぐのではなく、その縁を内側から焼き広げた。


 右肩から首筋へ、赤黒い筋が浮かび上がる。


 シグマは歯を食いしばり、無理やり右腕を振るった。


 巨大な炎の爪が弓兵たちを襲う。


 黒騎士たちは左右へ飛んだが、逃げ遅れた者たちが爆風に巻き込まれた。


 シグマは一歩ずつ前へ進む。


 黒騎士たちの剣が迫るたび、炎が迎え撃つ。


 槍は穂先から溶け、盾は内側から弾け飛んだ。


 黒鞘刀を振るえば、鎧をまとった体が数人まとめて薙ぎ払われる。


 敵が倒れるたび、胸の奥に広がる怒りが熱へ変わっていく。


 熱は炎帝石へ注がれ、さらに大きな炎となって返ってくる。


 止まれない。


 止める必要もない。


 全員を倒すまでは。


「隊長!」


 一人の黒騎士が大男へ駆け寄る。


「これ以上は持ちません!」


「退けば標的を逃す!」


「このままでは部隊が全滅します!」


「それでも任務を果たせ!」


 大男は黒騎士を押し退け、大剣を構え直した。


「奴をここで止めろ! 残りは標的を追え!」


 その言葉が、シグマの耳へ届いた。


 燃え盛る炎が、さらに大きく膨れ上がる。


「追う……?」


 低い声が石橋に響いた。


「まだ、フェルンを追うつもりなのか」


 大男が振り返る。


 その視界から、シグマの姿が消えた。


「どこだ!」


「上だ!」


 炎をまとったシグマが、頭上から落下する。


 右の踵が大男の肩へ直撃した。


 肩当てが砕け、大男の片膝が石畳へ沈む。


 それでも大男は大剣を振るった。


 シグマは後方へ跳んで刃をかわす。


 着地と同時に左手を地面へ向けた。


 二本の岩柱が突き上がり、大男の両足を挟み込む。


 動きを封じられた大男へ、シグマが迫った。


「命令は変わらん!」


 大男が叫ぶ。


「お前を倒し、娘を連れ帰る!」


「連れていかせない」


「貴様一人で、いつまで守れる!」


 大男は大剣を振り下ろし、足を封じていた岩柱を砕いた。


「今日を凌いだところで、次の部隊が来る! その次もだ! お前が倒れるまで追跡は終わらん!」


「なら、そのたびに守る」


「いつか必ず失敗する!」


「それでもだ」


 シグマは迷わず答えた。


「フェルンは、お前たちへ渡さない」


 大男が咆哮を上げる。


 黒い魔力をまとった大剣が、シグマへ振り下ろされた。


 同時に、シグマも右の拳を繰り出す。


 拳と大剣が正面から激突した。


 衝撃が石橋を駆け抜ける。


 黒い刀身の亀裂が大きく広がった。


 大男がさらに力を込める。


 シグマの右肩から血が噴き出した。


 炎帝石の熱が傷の奥へ入り込み、赤黒い筋が胸元へ向かって伸びる。


 それでも、拳は引かない。


「俺は……」


 仲間たちの姿が脳裏に浮かぶ。


「もう、誰にも奪わせない!」


 右腕の炎が爆発した。


 大剣が粉々に砕け散る。


 その破片を突き抜けた拳が、大男の胸甲へ直撃した。


 分厚い鎧が陥没する。


 大男の巨体は橋の端まで吹き飛び、欄干を砕いて倒れた。


 兜が外れ、石畳を転がっていく。


 短く刈られた灰色の髪。


 無数の傷に覆われた顔。


 大男は血を吐きながら、それでも立ち上がろうとした。


「まだだ……」


 震える手を地面へつく。


「任務は……終わっていない……」


「終わりだ」


 シグマが大男の前へ立つ。


 右腕を持ち上げる。


 炎が拳へ集まり、男の顔を赤く照らした。


「殺せ」


 大男はシグマを睨み上げた。


「だが、俺たちを倒しても何も変わらん。次の刺客が、お前たちを追う」


「誰の命令だ」


「答えると思うか」


「なら、フェルンを狙う理由は?」


 大男の口元が歪む。


「何も知らずに守っているのか」


「答えろ」


「知りたければ、自分で探せ」


 大男はそう告げると、笑った。


「もっとも、それまで仲間が無事でいられればの話だがな」


 炎が大きく揺れた。


「黙れ」


「今日守れたからといって、次も守れるとは限らん。眠っている間に奪われるかもしれん。お前ではなく、弱い仲間から殺されるかもしれん」


「黙れ」


「その力も同じだ」


 大男がシグマの右腕を見る。


「守るための力だと言いながら、既にお前自身を焼いている」


 シグマの動きが止まった。


「いずれ、お前はその炎に呑まれる。そのとき、最初に焼かれるのは誰だろうな」


「黙れ!」


 拳が振り下ろされる。


 大男は目を閉じなかった。


 燃え盛る拳が顔へ届く寸前、シグマの右腕が止まる。


 炎だけが大男の頬をかすめ、背後の欄干を吹き飛ばした。


「……何のつもりだ」


 シグマの腕は震えていた。


 殺せ。


 今すぐ焼き尽くせ。


 敵を残すな。


 炎帝石から流れ込む衝動が、理性を押し潰そうとする。


「俺は……」


 シグマは右腕を押さえた。


「お前の言うとおりにはならない」


 炎が一瞬だけ弱まる。


 右目に、本来の色が戻りかけた。


 その隙を、大男は逃さなかった。


 腰の後ろから短剣を抜き、シグマへ突き出す。


 刃が脇腹を浅く切り裂いた。


「っ……!」


 シグマの体が揺れる。


 大男はさらに踏み込み、短剣をもう一度振り上げた。


「その甘さが、お前を殺す!」


 次の瞬間、シグマの右手が大男の顔をつかんだ。


「そうかもしれない」


「なっ……!」


「だが、お前を行かせるわけにはいかない」


 五指の間から炎が漏れる。


 大男がシグマの腕を外そうともがいた。


 しかし、義手は動かない。


「待て! 俺を殺せば、何も聞き出せんぞ!」


「話すつもりはないんだろう」


「取引ならできる!」


「遅い」


 炎が大男を包んだ。


 爆発音が響く。


 シグマが右手を離すと、大男の体は力を失って石畳へ崩れ落ちた。


 隊長を失った黒騎士たちの動きが止まる。


「隊長が……」


「退却だ!」


「標的を追え! 任務を続けろ!」


「無理だ! ここを抜けられない!」


 それまで保たれていた統率が、初めて大きく乱れた。


 シグマは残る黒騎士たちへ振り返る。


 右肩から血が流れ、指先から石畳へ落ちている。


 脇腹の傷は浅い。


 左肩も動かせる。


 だが、右腕の接合部だけは違った。


 傷は炎を使うたびに広がり、赤黒く焼けた筋が首元と胸元へ伸びている。


 それでも、炎帝石の力は弱まらない。


 むしろシグマの痛みを糧にするように、ますます激しく燃えていた。


「次は……お前たちか」


 黒騎士たちが後ずさる。


 一人が武器を捨て、背を向けた。


「退け!」


 それをきっかけに、黒騎士たちが一斉に逃げ始める。


 川岸へ下りる者。


 林へ飛び込む者。


 仲間たちが逃げた方角へ向かおうとする者。


 シグマの右目が、再び赤く染まる。


 逃がすな。


 一人でも残せば、また来る。


 今ここで、すべて焼け。


 シグマは右腕を空へ掲げた。


 掌の上に灯った小さな炎が、渦を巻きながら膨らんでいく。


 周囲の火が吸い寄せられ、巨大な球体へ変わった。


 空が赤く染まる。


 川の水が沸き立ち、立ち昇った蒸気が橋を覆った。


 逃げる黒騎士たちが振り返る。


「何だ、あれは……」


「走れ!」


「逃げろ!」


 炎の球体は、なおも膨らみ続ける。


 それを見た瞬間、シグマの中に残っていた意識が警鐘を鳴らした。


 駄目だ。


 このまま放てば、橋だけでは済まない。


 周囲の森も川も、街道も焼き尽くす。


 仲間たちが、まだ十分に離れていないかもしれない。


「止まれ……」


 右腕を下ろそうとする。


 しかし、義手はシグマの意思に反して前へ向こうとしていた。


「やめろ……」


 焼き尽くせ。


 敵を残すな。


 それが仲間を守る唯一の方法だ。


「違う……」


 巨大な火球が、逃げる黒騎士たちへ傾く。


 シグマは左手で右の義手をつかんだ。


 炎が左の掌を焼く。


 それでも手を離さない。


「こんなものを放ったら……守れない」


 右腕が激しく震える。


「これは俺の腕だ」


 炎帝石が強く脈打った。


 右肩の傷がさらに裂け、血が噴き出す。


 視界が赤く明滅する。


 意識を奪おうとする衝動へ逆らい、シグマは右腕を少しずつ動かした。


「俺の……言うことを聞け!」


 火球の向きが変わる。


 逃げる黒騎士たちの頭上を越え、誰もいない岩山へ流れていく。


 次の瞬間、白い光が周囲を埋め尽くした。


 遅れて、腹の底まで響く爆発音が届く。


 岩山の一部が炎に包まれ、砕け散った。


 衝撃波が大地を駆け抜ける。


 林の木々が大きくしなり、川面が激しく波打った。


 逃げていた黒騎士たちも吹き飛ばされ、地面へ転がる。


 シグマの体も宙へ浮き、石橋へ叩きつけられた。


「ぐっ……!」


 背中を強く打ち、肺から空気が押し出される。


 崩れた石材が降り注いだ。


 シグマは左手を伸ばし、低い土壁を作る。


 砕けた石が壁へぶつかり、左右へ弾かれた。


 最後の石片が落ちると、土壁も形を失って崩れ落ちる。


 シグマは片膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返した。


 右腕からは、まだ炎が漏れている。


 炎は石畳を這い、倒れている黒騎士たちへ向かおうとしていた。


 意識を失ってはいけない。


 ここで気を抜けば、今度こそ炎帝石にすべてを奪われる。


「戻れ……」


 シグマは右腕を胸元へ引き寄せる。


 左手で義手を押さえ込み、残る意識を集中させた。


「もう、終わった……!」


 右肩を焼く痛みが強くなる。


 赤黒い筋が脈打ち、傷口から炎が噴き出す。


 それでも、押さえる力を緩めない。


「俺の中へ……戻れ!」


 地面を這っていた炎が止まった。


 続いて、右腕から噴き出していた火も少しずつ小さくなる。


 額から伸びていた炎の角が崩れ、赤い光となって義手へ吸い込まれた。


 最後まで残っていた右目の光も消える。


 静寂が訪れた。


 聞こえるのは、燃え残った草木の音と川の流れだけだった。


 シグマは周囲を見渡す。


 古い石橋は中央から大きく崩れ、ところどころが川へ沈んでいる。


 街道には深い亀裂が走り、石も土も黒く焼け焦げていた。


 動ける黒騎士の姿はない。


 炎に巻き込まれた者。


 衝撃で気を失った者。


 崩れた橋から川へ落ちた者。


 逃げられた者がいるかどうかまでは、今のシグマには分からなかった。


「終わった……のか」


 勝ったという実感はなかった。


 目の前に残された光景を見ても、胸に浮かぶのは安堵ではなく恐怖だけだ。


 あと少し、右腕を止めるのが遅れていたら。


 火球の向きを変えられなかったら。


 仲間たちまで巻き込んでいたかもしれない。


 シグマは右腕へ視線を落とした。


 炎帝石は、何事もなかったかのように光を失っている。


 しかし、接合部を中心に広がった赤黒い傷は消えていない。


 脈打つたび、焼けた針を奥へ突き刺されるような痛みが走った。


「帰らないと……」


 仲間たちが待っている。


 必ず戻ると約束した。


 シグマは黒鞘刀を拾い、それを杖にして立ち上がった。


 脇腹と左肩の傷は浅い。


 歩くことはできる。


 だが、炎帝石を使い果たした体には、ほとんど力が残っていなかった。


 一歩進むだけで膝が揺れる。


 右腕を動かすたび、接合部から血が滲んだ。


 それでも足を止めない。


 崩れた橋の端を慎重に渡り、馬車の轍を探す。


 ノクスとソルが全力で走った跡は深く、黒く焼けた街道にも残っていた。


 その横には、ハクの大きな足跡も続いている。


 シグマは足跡を頼りに歩き始めた。


 一歩。


 また一歩。


 何度も足がもつれた。


 そのたびに黒鞘刀を地面へ突き、どうにか倒れずに踏みとどまる。


 太陽は西へ傾いている。


 仲間たちがどこまで進んだのかは分からない。


 それでも、戻ると決めた。


「待っていてくれ……」


 声は風の中へ消えた。


 シグマは顔を上げ、再び足を前へ出した。


     ◇


 シグマが黒騎士たちと戦っていた頃。


 メイメイたちは、石橋から離れるため街道を走り続けていた。


 ノクスとソルは限界に近い速度で馬車を引いている。


 紅蓮、白鬼、シルフは客室へ戻り、後方から追手が来ないか警戒していた。


 ハクも馬車のすぐ後ろを走りながら、何度も石橋の方角を振り返っている。


「止めて!」


 フェルンが叫んだ。


「シグマのところに戻る!」


「駄目よ!」


 御者台で手綱を握るメイメイが、前を向いたまま答える。


「今戻ったら、シグマが残った意味がなくなる!」


「シグマが死んじゃう!」


「死なない! 必ず戻るって約束したでしょ!」


「そんなの分からない!」


 フェルンが客室から飛び出そうとする。


 紅蓮はその小さな体を抱き止めた。


「離せ!」


「落ち着け、フェルン!」


「みんなでシグマを置いてきた!」


「……ああ」


 紅蓮は否定できなかった。


「私たちは、シグマを一人で残した」


「だったら戻って!」


「今戻れば、あいつはお前を守るためにもっと無理をする」


「もう無理してる!」


 フェルンは紅蓮の腕の中で暴れた。


 それでも離してもらえないと分かると、声を上げて泣き始める。


「シグマ……!」


 黒鬼も客室の隅で俯いていた。


 両手を強く握り、何度も首を振っている。


「私が残ればよかった……」


「黒鬼……」


 白鬼が隣へ座り、その肩を抱く。


「私なら、シグマが傷ついても治せたのに……」


「黒鬼が残ったら、シグマは黒鬼を守りながら戦わないといけなかったよ」


「でも……」


「悔しいけど、あの場所にいたら邪魔になってた」


 白鬼の声も震えていた。


「私だって残りたかった。でも、あのまま戦っていたら、全員が倒れてたよ」


 シルフは黙ったまま弓を握りしめている。


「うち、勇者になってから、少しは強くなったと思っとった」


 絞り出すような声だった。


「まだ四年くらいやけど、それでも前よりは誰かを守れるようになったつもりやった」


 シルフは唇を噛む。


「せやのに、また守られた。シグマ一人を残して、逃げとる」


「シルフだけの責任ではない」


 紅蓮が低い声で言う。


「私たち全員の力が足りなかった」


「なら、戻ろうや」


「まだ駄目よ!」


 メイメイが叫ぶ。


「敵が追ってきているかもしれない。今は少しでも距離を取るの!」


「いつまで走るつもりや!」


「ノクスとソルが限界になるまでよ!」


 その直後、背後の空が赤く染まった。


 遅れて、地面を揺らす轟音が届く。


 ノクスとソルが驚いて鳴き、馬車が大きく揺れた。


 紅蓮が客室から身を乗り出す。


 遠く離れた石橋の方角で、巨大な炎が空へ昇っていた。


 厚い雲まで赤く染まっている。


「シグマ……」


 黒鬼が呟く。


 あれほど離れていても分かる。


 シグマが炎帝石の力を解き放ったのだ。


 フェルンが再び暴れ始める。


「戻って! 今すぐ戻って!」


「まだだ!」


 紅蓮が必死に押さえる。


「離して! シグマが苦しんでる!」


「分かっている!」


「分かってない!」


「分かっているに決まっているだろう!」


 紅蓮の声が震えた。


「私だって今すぐ戻りたい! だが、戻ればあいつは、私たちを逃がすためにさらに無茶をする!」


 フェルンの力が抜ける。


「今は、シグマを信じるしかない」


「嫌だよ……」


「ああ。私も嫌だ」


「シグマと一緒がいい……」


「私もだ」


 紅蓮は泣き続けるフェルンを強く抱きしめた。


 馬車は走り続けた。


 やがて街道脇に大きな岩壁が現れる。


 根元には風雨によって削られた窪みがあり、馬車を隠せるだけの広さがあった。


 ノクスとソルの足取りも、目に見えて乱れている。


 メイメイは手綱を引いた。


「ここで休ませるわ!」


 二羽は岩陰まで馬車を運ぶと、その場へ座り込みそうになった。


 全身から汗が流れ、胸が激しく上下している。


 メイメイとシルフが急いで馬車との連結具を外した。


「水を少しずつ飲ませて。いきなりたくさん飲ませたら駄目よ」


「分かった」


 白鬼が桶へ水を入れ、二羽の前へ置く。


 ノクスとソルは荒い呼吸を繰り返しながら、少しずつ水を飲み始めた。


 メイメイは周囲を見回す。


 追手の姿はない。


 しかし、安全だと断言できる状況でもなかった。


「二羽が走れるようになったら、すぐにカルガランへ向かうわ」


「シグマを待たずに行くの?」


 黒鬼が顔を上げる。


「待つわ。ただし、ノクスとソルが回復するまでよ」


「来なかったら?」


 フェルンが震える声で尋ねた。


 メイメイはすぐには答えられなかった。


「そのときは、私とハクが迎えに戻る」


「フェルンも行く」


「あなたは馬車に残って」


「嫌」


「今度だけは聞いて」


「嫌!」


 フェルンは街道へ向かおうとする。


 だが、その前へハクが立った。


『待て』


「ハクも戻りたいでしょ?」


『戻りたい』


「なら、一緒に行こう」


『今は待つ』


「どうして!」


『シグマと約束した』


 フェルンの目から、再び涙が溢れた。


「そんな約束、嫌い」


『我もだ』


 ハクは石橋の方角を見つめる。


『それでも、破るわけにはいかない』


 フェルンはその場にしゃがみ込み、ハクの首元へ顔を埋めた。


 ハクも動かず、小さな体を受け止める。


 それからしばらくして、ハクの耳が動いた。


 鼻先を上げ、風の匂いを確かめる。


『待て』


 フェルンが顔を上げた。


「どうしたの?」


『血の匂いだ』


 紅蓮たちが一斉に武器を構える。


 メイメイはノクスとソルの前へ立ち、街道へ目を凝らした。


「敵?」


『違う』


 フェルンの耳が震える。


「じゃあ……」


 ハクが街道へ飛び出した。


『シグマだ』


「シグマ!」


 フェルンも追いかける。


「待って!」


 メイメイは一瞬だけ迷い、すぐにあとを追った。


 紅蓮たちも武器を手に続く。


 街道を戻るにつれ、焦げた臭いが濃くなっていく。


 風に乗って灰が舞っていた。


 やがて、夕暮れに染まる道の先へ一つの人影が現れる。


 黒鞘刀を杖代わりにし、一歩ずつこちらへ歩いていた。


 認識阻害のマントは焼け焦げ、白い髪は煤で汚れている。


 左肩と脇腹には浅い傷がある。


 だが、最も酷いのは右肩だった。


 義手の接合部から血が流れ、首元まで赤黒い筋が伸びている。


 一歩進むたび、体が左右へ大きく揺れた。


「シグマ……」


 黒鬼の手から杖が落ちる。


 その音に気づいたのか、人影が顔を上げた。


 仲間たちの姿を確認すると、シグマはわずかに口元を緩める。


「……戻ったぞ」


「シグマ!」


 フェルンが駆け出した。


 ハクもその横を走る。


 シグマは二人へ手を伸ばそうとした。


 しかし、その直前に足から力が抜ける。


 黒鞘刀が地面へ倒れた。


『シグマ!』


 ハクが飛び込み、倒れかけた体を背中で受け止める。


 フェルンはその場へ膝をついた。


「シグマ! 起きて!」


 返事はない。


 だが、呼吸は続いている。


 黒鬼が遅れて駆けつけ、シグマのそばへ座った。


「退いて。すぐ治すから」


 杖を拾い、回復魔法を発動する。


 淡い光がシグマの体を包んだ。


 左肩の傷が塞がり始める。


 脇腹の裂傷から流れていた血も止まっていく。


 だが、光が右肩へ触れた瞬間。


 赤黒い傷が強く脈打った。


「うっ……!」


 意識を失っていたシグマの体が大きく跳ねる。


 義手の接合部から炎が噴き出した。


 塞がりかけていた傷が再び裂け、先ほどよりも多くの血が溢れ出す。


「な、何で……?」


 黒鬼の顔が青ざめる。


 それでも治そうと、さらに魔力を注ぎ込んだ。


 回復の光が強くなる。


 同時に、右肩の傷も深く広がった。


 赤黒い筋が首元へ伸び、皮膚の下から熱を放つ。


「ぐっ……あ……!」


 シグマが苦しげな声を漏らす。


「黒鬼、止めて!」


 メイメイが黒鬼の手をつかんだ。


「でも、傷が!」


「魔力を流すほど悪化してる!」


「そんな……」


「今は止めて!」


 黒鬼が魔法を止める。


 淡い光が消えると、右肩から噴き出していた炎も次第に収まった。


 しかし、広がった傷は元へ戻らない。


 白鬼もシグマの右肩へ手を近づけたが、メイメイが首を振る。


「白鬼ちゃんも、そこへ回復魔法を使わないで」


「でも、このままじゃ血が止まらないよ!」


「魔法以外で止めるの。布と薬を出して!」


「分かった!」


 メイメイはシグマの衣服を右肩の周囲だけ慎重に切り開いた。


 熱気が肌から立ち昇っている。


 傷は炎に焼かれたように赤黒く変色し、その中心から血が滲んでいた。


「紅蓮、清潔な布を。シルフは水を冷やせる?」


「風で冷やす。直接、傷には当てん方がええよな?」


「ええ。冷やした布を周りへ当てるだけにして」


「分かった」


 紅蓮が布を重ね、義手の接合部を避けながら傷口を圧迫する。


 白鬼は止血用の薬草をすり潰し、布へ塗り込んだ。


 黒鬼は震える手を握りしめている。


「私の魔法が……シグマを傷つけた……」


「黒鬼のせいじゃない」


 白鬼が隣から肩を支える。


「普通の傷は治ってる。右腕のところだけがおかしいんだよ」


「でも……」


「今は落ち込んでる場合やない」


 シルフが冷やした布をメイメイへ渡す。


「シグマをカルガランまで連れていくんやろ?」


「ええ」


 メイメイは脈を確認した。


「呼吸は浅いけど、止まりそうな状態ではない。普通の傷も塞がった。右肩の出血さえ抑えれば、馬車へ乗せられるわ」


「本当に助かるの?」


 フェルンが尋ねる。


 メイメイは不安を表へ出さず、強くうなずいた。


「助ける。だから今は、できることをするのよ」


「フェルンにも、できる?」


「シグマのそばにいてあげて。目を覚ましたとき、一人だと思わせないで」


 フェルンはシグマの左手を両手で包み込んだ。


「戻ってきたよ」


 聞こえているか分からないまま、何度も語りかける。


「シグマ、ちゃんと戻ってきた。約束、守ったよ」


 ハクもシグマへ鼻先を寄せた。


『遅い』


 低い声で呟く。


『必ず追いつけと言っただろう』


「でも、戻ってきた」


『ああ』


「シグマは、フェルンたちのところに戻ってきた」


『ああ』


 ハクは静かに目を閉じた。


『だから、次は我らが守る』


 応急処置を終えると、紅蓮とメイメイがシグマを持ち上げた。


 右肩を揺らさないよう、慎重に岩陰まで運ぶ。


 荷台の長椅子へ毛布を幾重にも敷き、その上へシグマを寝かせた。


 体が揺れないよう両脇へ荷物袋を置き、布で腰と足を固定する。


 右腕は胸元へ置かず、折り畳んだ毛布の上へ乗せた。


「黒鬼ちゃん。右肩を避けて、呼吸と脈を見ていて」


「分かった」


「白鬼ちゃんはハクを治療して。あの子の傷は普通の回復魔法で治せるはずよ」


「うん」


「シルフと紅蓮は周囲の警戒をお願い」


「任せろ」


「追手が来たら、すぐ知らせるで」


 役割を決めると、メイメイはノクスとソルのもとへ向かった。


 二羽は岩陰へ伏せ、荒い呼吸を繰り返している。


 先ほどよりは落ち着いてきたものの、すぐに全力で走らせるのは危険だった。


 メイメイは二羽の足を確かめ、水を少しずつ与える。


「まだやすませるの?」


 フェルンが馬車から顔を出す。


「もう少しだけよ」


「シグマが苦しんでる」


「分かってる。でも、ここで二羽を潰したらカルガランまで行けなくなる」


 メイメイはノクスの首を撫でた。


「走れるようになったら、すぐに出る。夜通し走ってでも、カルガランへ連れていくわ」


 フェルンは唇を噛み、荷台へ戻った。


 シグマの左手を再び握る。


 右肩の傷は布で覆われている。


 それでも、その周囲から異様な熱が伝わっていた。


 黒鬼は魔法を使わず、呼吸と脈を確かめ続ける。


「どうして治らないの……」


 小さく呟く。


「回復魔法で治らない傷なんて……」


 答えられる者はいなかった。


 分かっているのは、魔力を流せば傷が悪化するということだけだ。


 今は、それ以上確かめる余裕もない。


 やがて日が沈み始めた。


 ノクスとソルは自分の足で立ち上がり、ゆっくりと首を振った。


 呼吸はまだ少し荒い。


 それでも、先ほどのように足が震えてはいない。


 メイメイは二羽の様子を確かめ、決断した。


「行けるわ」


「本当に大丈夫か?」


 紅蓮が尋ねる。


「全力では走らせない。でも、ここに留まるよりいい。カルガランなら治療院もあるし、この傷を診られる人がいるかもしれない」


「分かった。出発しよう」


 ノクスとソルを馬車へつなぐ。


 二羽は振り返り、客室で眠るシグマを見た。


 何かを感じ取ったのか、同時に短く鳴く。


「頼むわね」


 メイメイが二羽の首を撫でた。


「シグマを、カルガランまで連れていって」


 メイメイが御者台へ座る。


 その隣には紅蓮が乗り、前方を警戒する。


 シルフは荷台の後ろから追手を見張り、白鬼は治療を終えたハクとともに馬車の横を守る。


 客室では、黒鬼がシグマの脈を確かめ続けていた。


 フェルンも左手を握ったまま離れない。


「行くわよ」


 手綱が鳴る。


 ノクスとソルが力強く地面を蹴った。


 馬車は岩陰を出ると、カルガランへ続く街道を走り始める。


 速度は逃走したときより抑えられている。


 それでも二羽の足取りは確かだった。


 車輪が石を踏むたび、客室が小さく揺れる。


 シグマの右肩を固定した布に、新しい血が滲んだ。


 黒鬼は慌てて布を重ねる。


 だが、もう回復魔法は使わない。


 使いたくても、使えない。


「シグマ」


 フェルンが呼びかける。


「もう少しでカルガランに着くから」


 実際には、まだ遠い。


 夜通し走っても、一日で到着できるかは分からない。


 それでもフェルンは、何度も同じ言葉を繰り返した。


「だから、起きて」


 返事はない。


 ただ、握っていたシグマの指が、ほんのわずかに動いた。


 フェルンが顔を上げる。


「シグマ?」


 目は開かない。


 呼吸も浅いままだった。


 それでも確かに、フェルンの手を握り返そうとしていた。


「大丈夫」


 フェルンは涙を拭った。


「フェルンたちが、今度はシグマを守るから」


 黒鬼も強くうなずく。


「もう、一人にはしない」


 馬車は夜の街道を進み続ける。


 遠く後方の空には、石橋で燃え残った炎の赤い光がまだかすかに見えていた。


 誰がフェルンを狙っているのか。


 なぜ、これほど多くの刺客が送り込まれたのか。


 炎帝石が残した傷に、なぜ回復魔法が通じないのか。


 答えのない疑問だけが増えていく。


 だが、今は立ち止まれない。


 一刻も早くカルガランへたどり着き、シグマを助ける。


 全員で生き延びる。


 その思いだけを胸に、ノクスとソルは暗い街道を駆けていった。

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