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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第十九話 それぞれの休暇

 刺客たちとの戦いから、一夜が明けた。


 朝日が差し込み始めたベルク村は、昨夜の騒動など知らないかのように、いつもと変わらない朝を迎えていた。


 通りでは商人たちが店先へ商品を並べ、荷車の車輪が地面を転がる音や、客を呼び込む声が宿の二階にまで届いている。


 しかし、シグマたちが借りている部屋には、普段とは異なる重い空気が流れていた。


「駄目です」


 寝台の上で身体を起こそうとしたシグマへ、黒鬼が静かに言い切った。


 普段の黒鬼なら、もう少し遠慮がちに話す。


 しかし、今日ばかりは一歩も譲るつもりがないらしい。


「でも、少しくらいなら――」


「駄目です」


「せめて、下の食堂まで……」


「駄目です」


 三度目の言葉を口にする前に、黒鬼の両手がシグマの肩へ置かれた。


 そのまま、ゆっくりと寝台へ押し戻される。


 炎帝石を無理に使った反動は、シグマが考えていた以上に身体の奥深くまで残っていた。


 黒鬼の回復魔法によって目立った傷は塞がっている。


 だが、失われた体力や、限界を超えて酷使した身体まで一瞬で元へ戻るわけではない。


 身体を少し起こしただけでも胸の奥に鈍い痛みが走り、右の義手には焼けた鉄を埋め込まれたような熱が残っていた。


「今日は一日、寝ていてください」


「一日中か?」


「一日中です」


「食事のときも?」


「部屋まで運んでもらいます」


「少しくらい身体を動かした方が――」


「駄目です」


「……分かった」


 何を言っても同じ答えしか返ってこない。


 シグマは諦め、枕へ頭を戻した。


 その隣では、白鬼が腕を組みながら何度もうなずいている。


「黒鬼の言うとおりだよ。昨日あんな倒れ方をした人が、朝になったからって歩き回っていいわけないでしょ」


「白鬼も、まだ本調子じゃないだろ」


「私はもう大丈夫。少し身体が重いくらいだから」


「それを本調子じゃないって言うんじゃないか?」


「シグマよりは元気だから問題なし」


 白鬼は胸を張ったが、すぐに黒鬼から冷たい視線を向けられた。


「白鬼も、無理をしてはいけません」


「分かってるって。今日は戦わないし、走らないし、重い物も持たない。これならいいでしょ?」


「人混みでは勝手に先へ行かないでください」


「はいはい。黒鬼は心配性だなあ」


「白鬼が心配をかけるからです」


「私は大丈夫だってば」


「昨日も同じことを言っていました」


「昨日は昨日。今日は今日だよ」


「そういう考え方をしているから、心配なのです」


 黒鬼が頬を膨らませる。


 白鬼は言い返そうと口を開いたが、妹の目の下に残る薄い隈へ気づき、声を止めた。


 昨夜から、黒鬼はほとんど休めていない。


 紅蓮とシルフ、そしてシグマの治療を続け、その合間にも白鬼の身体に毒の影響が残っていないか何度も確かめていた。


「黒鬼も休んだ方がいいんじゃないか?」


 シグマが声をかけると、黒鬼は振り返った。


「私は怪我をしていません」


「でも、魔力をかなり使っただろ」


「それは……」


「魔力が戻っていない状態で何か起きたら、黒鬼も危ない。今日は黒鬼も休んだ方がいい」


 黒鬼が言葉に詰まる。


 そこへ白鬼が横から抱きついた。


「だから今日は、黒鬼も一緒に休むの。部屋に閉じこもるんじゃなくて、外をゆっくり歩いて、美味しい物を食べて、気分転換するんだよ」


「ですが、シグマを一人にするのは……」


「俺なら大丈夫だ」


「そう言って、勝手に起きませんか?」


「起きない」


「武器の手入れもしませんか?」


「しない」


「右腕に異変を感じたら、すぐに誰かを呼んでください」


「ああ」


「外から大きな音が聞こえても、窓から確かめようとしてはいけません」


「……分かった」


「刺客の気配を感じても、自分だけで外へ出てはいけません」


「それはさすがに誰かを呼ぶよ」


「本当ですか?」


「本当だ」


 黒鬼は疑うようにシグマを見つめた。


 これまでの行動を考えれば、簡単に信用できないのも無理はない。


 白鬼が呆れたように黒鬼の肩を叩く。


「このままじゃ日が暮れちゃうよ。シグマも子供じゃないんだから大丈夫だって」


「それを白鬼が言うのか?」


「どういう意味?」


「いや、何でもない」


「何でもない顔じゃなかったよ」


「気のせいだ」


 シグマが視線を逸らすと、白鬼は不満そうに頬を膨らませた。


 部屋の隅では、フェルンが椅子に座り、先ほどから黙ってシグマを見つめていた。


 今日は白鬼と黒鬼がフェルンを連れ、ベルク村を見て回る予定になっている。


 昨夜の襲撃で張り詰めた気持ちを少しでも和らげるために、凛とメイメイが提案してくれたのだ。


 だが、当のフェルンは一度も行くとは答えていなかった。


「フェルン」


 シグマが名前を呼ぶと、伏せられていた銀色の耳が小さく動いた。


「白鬼たちと行っておいで」


「行かない」


「どうして?」


「シグマがいる」


「俺は寝ているだけだ。フェルンがここにいても、何もすることはないぞ」


「それでもいる」


 フェルンは椅子から降りると、寝台のそばまで歩いてきた。


 そのままシグマの服の裾をつかむ。


「また、いなくなるかもしれない」


「いなくならない」


「昨日も倒れた」


「それは……そうだけど」


「目を閉じて、呼んでも起きなかった」


 フェルンの指先に力が入る。


「だから、いる」


 その瞳には、シグマが倒れた瞬間の恐怖が、今も残っていた。


 白鬼と黒鬼も無理に引き離すことができず、困ったように顔を見合わせる。


「フェルン」


 シグマは、服をつかんでいる小さな手へ自分の左手を重ねた。


「心配してくれて、ありがとう。でも、フェルンがずっと怖い顔をしていると、俺もゆっくり休めない」


「フェルンがいると、休めない?」


「そうじゃない。フェルンが楽しく過ごして、笑って帰ってきてくれた方が安心できるんだ」


「……どうして?」


「俺が守りたいのは、怖がって部屋に閉じこもっているフェルンじゃない。外へ出て、美味しい物を食べたり、楽しいものを見たりできる時間も含めて守りたいからだ」


 フェルンは、その言葉の意味を考えるように黙り込んだ。


 しかし、シグマの服から手を離そうとはしなかった。


 そのとき、部屋の扉が軽快な音を立てた。


「おはよー。みんな、起きてる?」


 返事を待つより先に顔を覗かせたのは、メイメイだった。


 その後ろには凛も立っている。


「メイメイ。返事を待たずに扉を開けてはいけません」


「ちゃんと待ったよ?」


「扉を叩いた直後に開けていました」


「心の中では待ったから大丈夫」


「何も大丈夫ではありません」


「細かいことは気にしない、気にしない」


「あなたは、もう少し気にしてください」


 凛は生真面目な顔で注意したが、メイメイは気にした様子もなく部屋へ入ってきた。


 凛はベルク村の冒険者ギルドを預かるギルドマスターであり、メイメイはその下で働くサブマスターだ。


 立場だけを見れば、雇い主と雇われる側になる。


 しかし、二人の間に堅苦しさはない。


 凛が口うるさく注意し、メイメイが笑いながら受け流す。


 普段から似たようなやり取りを繰り返しているのだろう。


 凛も本気で怒っているわけではなく、メイメイも彼女が最後には許してくれると分かっているようだった。


 メイメイは寝台のそばまで来ると、シグマの顔を覗き込んだ。


「昨日より顔色はよくなったね。でも、まだ起きちゃ駄目だよ」


「今、みんなから同じことを言われていたところです」


「それなら、ちゃんと言うことを聞かないとね。黒鬼ちゃんから聞いたけど、シグマ君って、かなり無茶をするらしいじゃない」


「いつもではありません」


「無茶する人って、みんなそう言うんだよねえ」


「シグマの場合、いつもです」


 黒鬼が小さな声で付け加えた。


「黒鬼まで……」


「違うのですか?」


「……否定はできないな」


 メイメイは楽しげに笑い、続いてフェルンへ視線を向けた。


「それで、フェルンちゃんはお出かけの準備をしないの?」


「行かない」


「ありゃ。どうして?」


「シグマのそばにいる」


「そっか。昨日あんなことがあったばっかりだもんね」


 メイメイは無理に誘わず、フェルンの隣へ屈んだ。


「それなら、フェルンちゃんはシグマ君とお留守番かなあ」


「うん」


「残念だなあ。今日行こうと思ってるお店、焼きたての蜂蜜菓子があるんだけどなあ」


 フェルンの耳が、ぴくりと動いた。


 メイメイは気づいていないふりをして話を続ける。


「外側はさくさくで、中には甘い蜜と柔らかい木の実がたっぷり入ってるんだよ。焼き上がったばかりのものを割ると、甘い匂いのする湯気が出るの」


「……甘い?」


「すっごく甘いよ。そのお店でしか飲めない、冷たい果実乳もあるんだけど……フェルンちゃんが行かないなら仕方ないねえ」


 フェルンの尻尾が、本人の意思に反して左右へ揺れ始める。


 白鬼はそれを見逃さなかった。


「それだけじゃないよ。きっと、お肉もあるよね?」


「もちろん。香辛料を塗った鳥肉の串焼きも有名だよ。炭火でじっくり焼いて、最後に甘辛いタレをたっぷりかけるの」


「絶対に美味しいやつだ!」


 今度は白鬼が目を輝かせた。


「白鬼。先ほどまで私を休ませるための外出だと言っていませんでしたか?」


「美味しい物を食べるのも休むうちに入るよ」


「今の顔は、休む人の顔ではありません」


 黒鬼は呆れたように言いながらも、僅かに興味を引かれたらしい。


「ほかには、どのようなお店がありますか?」


「可愛い服や小物を売ってる店もあるよ。中央広場には旅芸人が来ていて、今日は人形劇もやるはず」


「人形劇……」


 黒鬼の声が僅かに弾む。


「黒鬼も見たいんでしょ?」


「興味がないわけではありません」


「それ、見たいってことだよ」


「白鬼ほど浮かれてはいません」


「二人とも、楽しそう」


 フェルンが双子を見上げる。


「フェルンも一緒に行こうよ」


 白鬼が顔を覗き込んだ。


「甘いお菓子も、お肉もあるって。それに、ずっと部屋にいたらシグマも心配するよ」


「怒りはしないけど、行ってきてほしいとは思ってる」


「シグマは黙ってて」


「どうしてだ?」


「今は私が誘ってるの」


「そうか」


 シグマは素直に口を閉じた。


 フェルンはシグマとメイメイを何度も見比べる。


「……食べたら、すぐ戻る?」


「フェルンちゃんが帰りたくなったら、いつでも戻っていいよ」


 メイメイが優しく答えた。


「私と凛が一緒にいるから、怖いことがあっても絶対に守る。もちろん、白鬼ちゃんと黒鬼ちゃんのこともね」


「護衛については、私たちに任せてください」


 凛もフェルンの前へ屈み、視線の高さを合わせた。


「人の少ない道を選びます。休憩も多めに取り、誰かの体調が悪くなれば、すぐに宿へ戻ります。あなたたち三人だけで行動させることもありません」


 丁寧だが、力強い言葉だった。


「知らない人に話しかけられても、フェルンさんが答える必要はありません。私かメイメイが対応します」


「何も話さなくても、怒らない?」


「怒りません」


「大人しくしていたら、いい?」


 フェルンの口から出た言葉に、凛とメイメイの表情が僅かに変わった。


 外へ出るためには、大人の言うことを聞き、感情を見せず、目立たないようにしなければならない。


 フェルンは、そう考えているらしい。


 メイメイは悲しそうな顔を見せないように、柔らかく笑った。


「大人しくしてなくてもいいよ」


「いいの?」


「白鬼ちゃんや黒鬼ちゃんと話してもいいし、食べたい物があったら食べたいって言っていい。見たい物があったら、見たいって言っていいんだよ」


「勝手に言っても、怒られない?」


「怒らないよ。ただし、急に一人で走っていくのは駄目。危ないからね」


「それは白鬼にも言ってください」


 黒鬼が横から口を挟んだ。


「私は走らないよ」


「先ほど、串焼きの話を聞いたときに扉へ向かおうとしていました」


「あれは出発の準備」


「何も持っていませんでした」


「細かいなあ」


 二人のやり取りを聞き、フェルンの表情から僅かに緊張が抜けた。


 やがてシグマの服をつかんでいた手を離す。


「……行く」


「やった!」


 白鬼が喜び、そのままフェルンへ抱きついた。


「じゃあ、いっぱい食べようね!」


「白鬼。目的が観光ではなくなっています」


「美味しい物を食べるのも観光だよ」


「食べすぎて具合を悪くしないでください」


「分かってるってば」


 黒鬼は疑わしそうに姉を見つめている。


 メイメイはそんな三人を見て、楽しそうに笑った。


「賑やかでいいねえ。妹が一気に三人も増えたみたい」


「メイメイ。遊びに行くのではありません。私たちは護衛です」


「護衛しながら楽しめばいいじゃん。凛は真面目すぎるんだよ」


「あなたが気を抜きすぎなのです」


「はいはい。凛お姉さんの言うとおりにしますよー」


「その呼び方はやめてください」


「どうして? 凛って面倒見がいいし、お姉さんっぽいよ」


「あなたの方が年上でしょう」


「年齢とお姉さんらしさは別だよ」


「意味が分かりません」


 凛は困ったように眉間を押さえた。


 だが、本気で怒っているわけではないらしい。


 呆れた表情の中には、僅かな笑みが混じっていた。


 出発の準備を終えると、黒鬼はもう一度シグマの寝台へ戻ってきた。


 水差しの位置を確かめ、薬と呼び鈴を手の届く場所へ置く。


「何かあったら、これを鳴らしてください。宿の方にも話をしてあります」


「ああ。ありがとう」


「昼頃に一度、宿の方へ様子を確認してもらいます」


「黒鬼たちは戻らないのか?」


「フェルンが疲れていなければ、午後も少し村を見て回る予定です。その代わり、宿の方から体調を知らせてもらいます」


「分かった。それなら黒鬼もゆっくりしてきてくれ」


「勝手に起きてはいけませんよ」


「ああ」


「本当に、駄目ですからね」


「分かってる」


「その返事が少し不安です」


 有無を言わせない視線を向けられ、シグマは苦笑した。


「約束する。今日はここで休むよ」


 黒鬼はようやく安心したようにうなずいた。


 フェルンも寝台のそばへやって来る。


「シグマ」


「どうした?」


「動いたら駄目」


「ああ」


「勝手にいなくなるのも駄目」


「分かってる」


「フェルンが帰ってくるまで、ここにいる?」


「ここにいる。約束する」


「絶対?」


「絶対だ」


 シグマが答えると、フェルンはようやく服の裾から手を離した。


「お土産、持ってくる」


「楽しみにしてる」


「フェルンが選ぶ」


「ああ。任せるよ」


 フェルンは小さくうなずき、白鬼たちのところへ向かった。


 五人が部屋を出ていく。


 最後まで何度も振り返るフェルンへ、シグマは安心させるように左手を振った。


 扉が閉じると、先ほどまでの賑やかさが嘘のように、部屋が静まり返った。


 シグマは天井を見上げ、深く息を吐く。


「一日中、寝ていろ……か」


 右の義手へ視線を落とす。


 指先を僅かに動かしただけで、腕の奥から鈍い熱が返ってきた。


 炎帝石を使ったときの感覚が、今もはっきりと残っている。


 怒りに呑まれ、自分が自分ではなくなっていくような、あの不快な感覚。


 考えなければならないことは多い。


 刺客たちは何者なのか。


 なぜ、あれほど執拗にフェルンを狙うのか。


 炎帝石を使ったとき、自分の中で何が起こったのか。


 そして、これからもフェルンを連れて旅を続けるなら、何を変えなければならないのか。


 眠っている場合ではない。


 そう思い、もう一度身体を起こそうとしたところで、黒鬼の厳しい顔が頭に浮かんだ。


「……考えるだけなら、寝たままでもできるか」


 シグマは大人しく枕へ頭を戻した。


  宿を出た白鬼たちは、メイメイを先頭にベルク村の通りを歩いていた。


 白鬼、黒鬼、フェルンの三人を挟むように、メイメイが前を、凛が後ろを歩いている。


 ベルク村は、村という呼び名から想像するよりも賑わっていた。


 通りの両側には食料品店や雑貨店が並び、店先には色鮮やかな布地、金属製の食器、干した果実、香辛料、旅道具などが所狭しと置かれている。


 焼いた肉の香ばしい匂いが流れてきたかと思えば、次には甘く煮た果実の香りが鼻をくすぐる。


「すごいね。思ってたより、お店がたくさんある」


 白鬼は楽しそうに左右を見回していた。


「白鬼。前を見て歩いてください」


「ちゃんと見てるよ」


「今、荷車にぶつかりそうになっていました」


「ぶつかってないから大丈夫」


「ぶつかってからでは遅いのです」


 黒鬼が注意すると、白鬼は気のない返事をしながらも、少しだけ歩く速度を落とした。


 だが、人の多い通りへ出た途端、フェルンの様子が変わった。


 宿では僅かに持ち上がっていた尻尾が下がり、銀色の耳も伏せられている。


 身体を小さく見せるように背を丸め、白鬼たちから一歩下がって歩き始めた。


 道行く者と目が合いそうになるたびに視線を落とし、首元を隠すように服を押さえている。


 昨夜、見知らぬ者たちに繰り返し狙われたばかりだ。


 そう簡単に恐怖が消えるはずもない。


 それだけではなかった。


 知らない者の前へ出ると感情を消し、大人しく従う。


 そうして目立たないように振る舞うことが、フェルンに染みついた身の守り方なのだろう。


 黒鬼は何も尋ねず、フェルンの隣へ並んだ。


「フェルン。手をつなぎませんか?」


「……どうして?」


「私が、はぐれてしまいそうだからです」


 黒鬼が控えめに手を差し出す。


 本当は、フェルンが不安になっていることに気づいたのだろう。


 それでも、怖いのかとは尋ねなかった。


 フェルンは差し出された手を見つめ、やがて自分の小さな手を重ねた。


「黒鬼は、子供?」


「え?」


「はぐれるなら、子供」


「わ、私は十五歳です」


「フェルンより五歳上なだけ」


「五歳も上です」


「でも、小さい」


「フェルンよりは大きいです」


 二人が真剣な顔で言い合う。


 それを聞いていた白鬼が、フェルンの反対側へ回り込んだ。


「じゃあ、私もはぐれないようにつないであげる」


「白鬼も子供?」


「私はお姉さん」


「黒鬼と同じ大きさ」


「私の方が少し大きいよ」


「同じです」


 黒鬼が即座に否定した。


 白鬼は不満そうに妹を見る。


「ほんの少しくらい、私の方が大きいでしょ?」


「同じ日に生まれたのですから、同じです」


「生まれた時間は私の方が先だよ」


「今は身長の話です」


「お姉ちゃんなんだから、少しくらい大きくてもいいでしょ」


「事実は変えられません」


 三人が手をつないだまま言い合う姿を見て、メイメイが声を上げて笑った。


「やっぱり三姉妹みたい。すっごく可愛い」


「誰が一番上に見える?」


 白鬼が尋ねる。


「うーん……黒鬼ちゃんかな」


「なんで!?」


「一番しっかりしてるから」


「私がお姉ちゃんなのに!」


「白鬼は先ほどから食べ物しか見ていません」


 黒鬼が冷静に指摘する。


 実際、白鬼の視線は通りに並んだ屋台を忙しく行き来していた。


「だって、美味しそうな匂いがするんだもん」


「もうすぐ最初のお店に着くから、買い食いは我慢してね」


 メイメイが振り返りながら言った。


「まずは蜂蜜菓子。そのあと中央広場の人形劇を見て、お昼は串焼きと煮込み料理。午後は小物のお店を見ようか」


「食べ物ばかりじゃん」


 白鬼はそう言いながら、誰よりも嬉しそうだった。


「午前中に甘い物を食べて、すぐに昼食を取るのですか?」


 黒鬼が首をかしげる。


「観光は体力を使うからね」


「歩き始めて、まだほとんど時間が経っていません」


「細かいことは気にしないの」


「メイメイは、いつも食べてばかりです」


 後ろを歩いていた凛が口を挟んだ。


「仕事中にも菓子を持ち込み、書類の上へ食べかすを落としています」


「ちゃんと最後に片づけてるでしょ?」


「最初から落とさないでください」


「凛も食べる?」


「話を逸らさないでください」


「お腹が空いてると、怒りっぽくなるよ」


「誰のせいで注意していると思っているのですか」


 二人のやり取りを聞いているうちに、フェルンの尻尾が少しずつ持ち上がっていく。


 表情にも、僅かな笑みが戻っていた。


 やがて一行は、通りの一角にある小さな店へ到着した。


 木造の店先には丸い焼き菓子が並べられ、甘い蜂蜜と焼けた生地の香りが漂っている。


「ここだよ。ベルク村で一番美味しい蜂蜜菓子のお店」


 メイメイが胸を張った。


「メイメイさん!」


 店の奥にいた恰幅のいい女性が、笑顔で手を振る。


「今日は、ずいぶん可愛らしいお客さんを連れてきたねえ」


「知り合いの子たち。焼きたてを五つお願い。凛も食べるでしょ?」


「私は護衛として来ています」


「六つお願いしまーす」


「メイメイ」


「食べないの?」


 凛はしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。


「……一つだけです」


「素直でよろしい」


「あなたは、私を何だと思っているのですか」


「真面目だけど甘い物には弱い、美人のギルドマスター」


「余計な言葉を付けないでください」


 凛は呆れていたが、蜂蜜菓子を断ることはなかった。


 焼きたての菓子を受け取ると、フェルンは両手で大切そうに持った。


 表面には蜂蜜が薄く塗られ、朝日を受けて黄金色に輝いている。


「熱いから、少しずつ食べるんだよ」


 メイメイが注意する。


 フェルンは小さく息を吹きかけてから、端をひと口かじった。


 さくりと軽い音が鳴る。


 中から溶けた蜂蜜が染み出し、柔らかな木の実と一緒に口の中へ広がった。


 途端に銀色の耳が立ち上がり、尻尾が大きく左右へ揺れ始める。


「美味しい?」


 白鬼が尋ねた。


「……おいしい」


「ほんとだ! すごく甘い!」


 白鬼も勢いよくかじりつき、直後に目を見開いた。


「あつっ!」


「先ほど、少しずつ食べるように言われたばかりです」


 黒鬼が呆れながら水筒を差し出す。


「だって、美味しそうだったから……」


「白鬼ちゃん、期待を裏切らないねえ」


 メイメイが笑い、凛も口元を僅かに緩めた。


「黒鬼も早く食べなよ。冷めちゃうよ」


「白鬼のように慌てなくても、菓子は逃げません」


 黒鬼はそう言いながら、端を小さくかじった。


 目隠しの下から表情を窺うことはできない。


 それでも、頬が僅かに緩んだことに白鬼は気づいた。


「美味しいでしょ?」


「……はい」


「黒鬼ちゃんも気に入った?」


 メイメイが尋ねる。


「とても美味しいです」


「よかった。凛は?」


「悪くありません」


「美味しいときに、悪くないって言う癖やめた方がいいよ」


「普通に食べているだけです」


「口元が笑ってるけど?」


「笑っていません」


 凛はメイメイから顔を背け、残った菓子を静かに口へ運んだ。


 フェルンは自分の菓子を見つめたあと、店先に並んだ包みへ目を向ける。


「これ、持って帰れる?」


「もちろん。お土産用もあるよ」


「一つほしい」


「シグマ君に?」


 メイメイが尋ねると、フェルンはこくりとうなずいた。


「シグマ、待ってるから」


「じゃあ、帰る前に焼きたてを包んでもらおうか。その方が美味しいからね」


「うん」


 フェルンは嬉しそうに返事をした。


 その姿を、白鬼と黒鬼が優しい表情で見つめている。


 凛は周囲へ目を配りながらも、三人の様子を見て静かに微笑んでいた。



 蜂蜜菓子の店を出た一行は、ベルク村の中央広場へ向かった。


 広場の中央には石造りの噴水があり、その周囲を旅人や商人、近隣に住む家族連れが行き交っている。


 一角には大きな人だかりができていた。


「何かやってる!」


 白鬼が身を乗り出す。


「先ほど話した人形劇でしょう」


 凛の言葉どおり、人々の輪の中心には小さな舞台が置かれていた。


 舞台の上では、木彫りの騎士と竜の人形が、糸で操られながら大げさに剣を交えている。


 舞台の左右では二人の旅芸人が笛と太鼓を鳴らし、戦いを盛り上げていた。


「見たい!」


 白鬼が声を上げる。


「白鬼。走ってはいけません」


「走らないよ。ちょっと早く歩くだけ」


「同じです」


 駆け出そうとした白鬼の服を、黒鬼がすぐにつかんだ。


「それでは、後ろから見ましょう。人の輪へ入ると、何かあった際に動けません」


 凛は周囲を確認し、人混みから少し離れた場所を示した。


「ここなら舞台も見えます」


「凛は真面目だねえ。観光中まで仕事の顔してる」


「私たちは護衛として同行しているのです」


「でも、あんまり怖い顔をしてると、みんなが楽しめないよ」


「怖い顔などしていません」


「してる、してる。ほら、眉間にしわが寄ってる」


 メイメイが凛の眉間を指で軽く押した。


「メイメイ。やめてください」


「ほぐしてあげてるんだよ」


「必要ありません」


「仲良し」


 フェルンが二人を見上げながら呟いた。


 凛が目を瞬かせる。


「私たちが、ですか?」


「うん」


「凛は素直じゃないけど、私たち、すっごく仲良しだよ」


 メイメイが笑顔で凛の肩を抱いた。


「誰が素直ではないのですか」


「凛」


「あなたが馴れ馴れしすぎるのです」


「ほら。仲が悪いとは言わなかった」


 凛は何か言い返そうとしたが、言葉が見つからなかったらしい。


 小さくため息をつき、メイメイの腕を肩から下ろした。


 その間にも、人形劇は進んでいく。


 竜に追い詰められた騎士が剣を落とし、観客の子供たちから悲鳴が上がった。


 しかし、騎士は足元に落ちていた木の枝を拾い、それを竜の鼻へ突き刺す。


 竜が大げさにくしゃみをすると、吐きかけていた炎が自分の顔へ跳ね返った。


 焦げた竜が舞台の上を転げ回り、広場に大きな笑い声が広がる。


 白鬼も腹を抱えて笑っていた。


「何あれ! 格好よく剣で倒すんじゃないの?」


「子供向けの人形劇ですから」


 黒鬼も口元を押さえながら笑っている。


 その隣で、フェルンは目を丸くして舞台を見つめていた。


 初めは何が起きたのか分からない様子だったが、周囲の子供たちが笑う声を聞き、少し遅れて小さく笑った。


 やがて騎士と竜は仲直りし、二人で魔王を倒す旅へ出るという結末を迎えた。


 大きな拍手が起こる。


 フェルンも白鬼たちを真似し、小さな手を何度も叩いた。


「面白かった?」


 メイメイが尋ねる。


「竜、変だった」


「ふふっ、そうだね。自分の炎で焦げちゃったもんね」


「でも、最後は仲良くなった」


「喧嘩しても、相手のことを知れば仲良くなれることもあるからね」


 メイメイの言葉を聞き、フェルンはもう一度、幕を閉じた小さな舞台を見た。


「フェルンも、できる?」


「何が?」


「知らない人と、仲良くする」


 メイメイはすぐには答えなかった。


 フェルンの頭に優しく手を置き、銀色の髪を撫でる。


「無理にしなくていいよ」


「しなくていい?」


「うん。怖い人や嫌な人とまで、仲良くする必要はないの。フェルンちゃんが、この人なら大丈夫かもって思えたときに、少しずつ話せばいいんだよ」


「少しずつ……」


「それに、もう白鬼ちゃんと黒鬼ちゃんとは仲良しでしょ?」


 フェルンが双子を見上げる。


「私たちだけじゃないよ」


 白鬼が胸を張った。


「紅蓮もシルフもいるし、ハクもいる。それに、シグマとは一番仲良しでしょ?」


「シグマは特別」


「それは分かるけど……」


 白鬼の頬が僅かに膨らんだ。


「フェルンは、いつもシグマばっかり」


「白鬼も、シグマの隣に行く」


「そ、それは別にいいでしょ」


「白鬼もシグマが特別?」


「そんなんじゃないよ!」


 白鬼は慌てて否定したが、顔が僅かに赤くなっている。


「声が大きいです、白鬼」


 黒鬼が注意する。


「フェルンが変なことを聞くからでしょ」


「黒鬼は?」


「え?」


「黒鬼も、シグマが特別?」


「ど、どうして私にまで聞くのですか」


「白鬼と黒鬼は、いつも一緒だから」


「そ、それとこれは関係ありません」


 今度は黒鬼まで顔を伏せてしまう。


 メイメイは微笑ましそうに三人を見つめ、凛は小さく咳払いした。


「本人がいない場所で、あまりそのような話をするものではありません」


「凛にも特別な人いる?」


 フェルンが尋ねる。


「なぜ私にまで話が移るのですか」


「顔、赤い」


「これは日差しのせいです」


「凛って、こういう話に弱いんだよ」


「メイメイ。余計なことを言わないでください」


「私は凛の特別な人だけどね」


「意味を誤解されるような言い方はやめなさい」


 凛の顔がさらに赤くなり、白鬼たちから楽しそうな笑い声が上がった。



 人形劇を見終えた一行は、広場の近くにある食堂へ向かった。


 昼食には、香辛料を振った鳥肉の串焼きと、豆や野菜を煮込んだ温かな料理が並んだ。


「いただきます!」


 白鬼が勢いよく串焼きへかじりつく。


「白鬼。今度は熱くないか確かめてから食べてください」


「これは大丈夫。ちょうどいいよ」


「さっきも食べる前は、そう思っていたはずです」


「黒鬼も食べれば分かるって」


 フェルンも串を両手で持ち、小さな口で肉へかじりついた。


「おいしい」


「でしょ? 蜂蜜菓子も美味しかったけど、お肉もいいよね」


「うん」


「どっちが好き?」


 白鬼が尋ねると、フェルンは真剣な顔で考え込んだ。


「……どっちも」


「分かる!」


「そこまで真剣に悩むことですか?」


 黒鬼は呆れながらも、二人の口元についたタレを布で交互に拭った。


「黒鬼も食べないとなくなるよ」


「白鬼が食べすぎなければ、なくなりません」


「まだ三本しか食べてないよ」


「運ばれてきてから、それほど時間が経っていません」


「観光は体力を使うんだって」


「それはメイメイさんの言い訳です」


「便利な言葉でしょ?」


 メイメイが楽しそうに笑う。


「子供たちへ妙なことを教えないでください」


 凛が注意すると、メイメイは自分の串焼きを凛の前へ差し出した。


「凛も一本食べる?」


「話を逸らさないでください」


「美味しいよ?」


「……一本だけです」


「凛も食べ物に弱い」


 フェルンが呟く。


「違います。出された料理を無駄にしないためです」


「凛さん。先ほどから、全部食べていますよ」


 黒鬼に指摘され、凛は何も言えなくなった。


 食事を終えたあと、宿から使いの者が訪れ、シグマの体調に変化がないことを伝えた。


 黒鬼は何度も詳しい様子を尋ねたが、寝台で大人しく休んでいると聞き、ようやく安心する。


「今から戻りますか?」


 凛が尋ねた。


 黒鬼はフェルンへ視線を向けた。


「フェルンは、どうしたいですか?」


「フェルンが決めていい?」


「はい。疲れたのであれば戻りましょう。もう少し見たいのであれば、午後も一緒に歩きます」


 フェルンは少し考え、白鬼とつないでいる手へ力を込めた。


「もう少し見る」


「分かりました。ただし、疲れたらすぐに言ってください」


「うん」


 自分の希望を尋ねられ、それを受け入れてもらえたことが嬉しかったのか、フェルンの尻尾はゆっくりと左右へ揺れていた。



 午後は雑貨店や衣服店を巡り、ベルク村で作られた小物を眺めて回った。


 立ち寄った小さな露店で、フェルンは足を止めた。


 台の上には、木彫りの動物や鳥、小さな剣などが並んでいる。


 フェルンが見つめていたのは、白い狼をかたどった木彫りだった。


「ハクに似ていますね」


 黒鬼が隣から覗き込む。


「ハクより小さい」


「置物ですからね」


「ハクは、もっと格好いい」


「でも、これも可愛いよ」


 白鬼が木彫りを手に取り、いろいろな角度から眺めた。


「シグマへのお土産、これにする?」


「シグマに?」


「蜂蜜菓子は食べたらなくなっちゃうでしょ。これなら、ずっと残るよ」


 フェルンは白い狼の木彫りと、自分が持っている小さな財布を見比べた。


 財布の中に入っているのは、シグマから持たされていた僅かな硬貨だけだ。


「お金、足りる?」


 店主へ値段を尋ねると、木彫りは銅貨三枚だった。


 フェルンは財布から銅貨を取り出し、一枚ずつ数えて台へ置く。


「これ、ください」


「はいよ。大切な人への贈り物かい?」


 店主が何気なく尋ねた途端、フェルンの表情から笑みが消えた。


 耳が伏せられ、視線が地面へ落ちる。


 僅かに背を丸め、両手を身体の前で重ねた。


 先ほどまで白鬼たちへ向けていた幼い表情は消え、命令を待つような大人しい態度へ変わっている。


「……はい」


 小さく答えたきり、何も話そうとしない。


 知らない大人を前にしたことで、身を守るための振る舞いへ戻ってしまったのだ。


「フェルンちゃんの家族へのお土産なんだよ」


 メイメイが自然に間へ入った。


「そうかい。それなら、きれいに包まないとな」


 店主は特に気にした様子もなく、木彫りを柔らかな布で包んだ。


 フェルンは包みを受け取ると、すぐにメイメイの後ろへ下がった。


「ありがとうは?」


 白鬼が小声で尋ねる。


 フェルンは一瞬だけ身体を強張らせた。


 それでも店主へ頭を下げる。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ、ありがとう。またおいで」


 店を離れてから、メイメイはフェルンの顔を覗き込んだ。


「ちゃんとお礼を言えて偉かったね」


「知らない人には、余計なことを言ったら駄目」


「そう教えられたの?」


 フェルンは黙ってうなずいた。


「大人しくして、聞かれたことだけ答える。勝手なことを言ったら、怒られる」


 メイメイは歩みを止めた。


 フェルンの前へ屈み、表情を合わせる。


「今日は怒られなかったでしょ?」


「うん」


「これからも、すぐに変えなくていいよ。怖いときに黙るのは悪いことじゃないからね」


「いいの?」


「うん。でも、困ったときや嫌なことをされたときは、黙らなくていい。私たちに教えて」


「メイメイたちに?」


「そう。フェルンちゃんが言いにくかったら、白鬼ちゃんや黒鬼ちゃんの服を引っ張るだけでもいいよ」


 凛も周囲へ目を配りながら、静かに言葉を添えた。


「身を守るために警戒することは、悪いことではありません。ただし、すべてを一人で判断する必要はありません」


「凛たちを頼ってもいい?」


「はい。そのために、私たちが同行しています」


「今だけ?」


 凛が答えるより先に、メイメイが笑った。


「今度ベルク村へ来たときも頼っていいよ」


「また来てもいい?」


「もちろん。今度は別の美味しいお店を案内してあげる」


「メイメイ。結局、食べ物なのですね」


「美味しいものを一緒に食べれば、もっと仲良くなれるからね」


 フェルンは胸元に抱いた包みを見下ろした。


 それから、僅かに照れたような笑みを浮かべる。


「また、来たい」


「うん。待ってるよ」


 メイメイが優しく頭を撫でると、フェルンの尻尾が嬉しそうに揺れた。



 一方、その頃。


 同じ宿の別室では、紅蓮が大剣を壁へ立てかけ、外出の準備を整えていた。


 衣服の下には、まだ黒鬼に巻いてもらった包帯が残っている。


 傷は塞がっているものの、身体を大きく動かせば痛みが走った。


 向かいではシルフが椅子へ座り、自分の脇腹を気にしながら上着を羽織っている。


「なあ、紅蓮」


「何だ?」


「うちら、本当に行くん?」


「行くと言い出したのはお前だろう」


「せやけど、黒鬼に見つかったら怒られへんかなあ」


「酒を飲むなとは言われていない」


「安静にしろとは言われたで」


「酒場で座っているだけなら安静だ」


「その理屈、黒鬼に通じると思う?」


「……黙っていれば分からない」


 紅蓮は僅かに視線を逸らした。


 シルフはしばらく彼女を見つめたあと、声を押し殺して笑う。


「紅蓮も悪い顔するようになったなあ」


「お前に言われたくない」


「せやけど、酒を飲んだら傷に悪いんちゃう?」


「少量なら問題ない」


「誰が少量で終われるん?」


「私は加減を知っている」


「前にも同じこと言うて、潰れかけてなかった?」


「あれはシグマが異常に強かっただけだ」


「それは否定できへんなあ」


 シルフが立ち上がる。


 その瞬間、脇腹に痛みが走ったのか、僅かに顔をしかめた。


「大丈夫か?」


 紅蓮がすぐに腕を支える。


「これくらい平気や。傷は黒鬼が塞いでくれたし、今日は戦うわけやないからな」


「無理はするな」


「それ、今のうちらが言い合っても説得力ないで」


「違いない」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


 メイメイから教えられた酒場は、宿からそれほど離れていない。


 昼間から営業しており、各地の酒と料理がそろっているらしい。


 旅を始めてから、二人だけでゆっくり酒を飲む機会はほとんどなかった。


 昨夜は、二人とも命を落としていてもおかしくない戦いだった。


 だからこそ今日くらいは、何も考えずに休みたかった。


 紅蓮は扉へ手をかけたところで、一度だけ振り返った。


「先に言っておくが、今日は軽く飲むだけだ」


「分かってる、分かってる」


「酔って騒ぐなよ」


「紅蓮こそ、酔って泣いたりすんなよ」


「誰が泣くか」


「ほな、どっちが先に酔うか勝負やな」


「今の話を聞いていたのか?」


「細かいことは気にせんと行こうや」


 シルフは笑いながら紅蓮の背中を押した。


 二人はまだ知らなかった。


 軽く飲むだけという約束が、最初の一杯を飲み干した時点で、きれいさっぱり忘れ去られることを。



 酒場の奥にある丸いテーブルを挟み、紅蓮とシルフは向かい合って座っていた。


 昼間だというのに、店内には既に多くの客がいる。


 仕事の合間に休む村人や、夜の仕事を終えた者たちが、それぞれ酒と料理を楽しんでいた。


 二人のテーブルにも、空になった杯がいくつも並んでいる。


「軽く飲むだけやなかったん?」


 シルフが頬杖をつき、紅蓮を見つめる。


 頬は赤く染まり、目元もすっかり緩んでいた。


「まだ軽い」


 紅蓮は杯へ酒を注ぎながら答えた。


 こちらも顔は真っ赤だった。


「それ、何杯目や?」


「覚えていない」


「覚えてへん時点で、軽くないやろ」


「お前こそ、何杯飲んだ?」


「うちは……一、二、三……」


 シルフはテーブルの上に並んだ杯を指で数え始める。


 途中で同じ杯を二度数えたあと、首をかしげた。


「……いっぱいや」


「人のことを言えないじゃないか」


「せやなあ」


 二人は顔を見合わせ、同時に笑った。


 その笑いが脇腹に響いたのか、シルフが身体を縮める。


「いたた……笑うと、まだ痛いな」


「だから飲みすぎるなと言っただろう」


「紅蓮も言える立場ちゃうやん」


「私は痛がっていない」


「さっき座るとき、顔しかめとったで」


「気のせいだ」


「うちの目は誤魔化されへんよ」


「今のお前の目は、まともに焦点も合っていない」


「ちゃんと見えとる。紅蓮が二人に見えるだけや」


「それを見えていないと言うんだ」


 紅蓮は呆れながらも、新しく注いだ酒を口へ運んだ。


「昨日のあれを見たあとだからな。飲みたくもなる」


「シグマの右腕か?」


「ああ」


 紅蓮の表情から、酔いによる笑みが少しだけ消えた。


「あいつ、自分まで炎に呑まれそうになっていた。それでも止まらなかった」


「うちらを助けるためやったからな」


「だから腹が立つんだ」


「助けられたのに?」


「自分の命を軽く扱うなと言っている」


 紅蓮は乱暴に杯を置いた。


「あいつが倒れたとき、心臓が止まったかと思ったぞ。黒鬼が治療してくれなければ、どうなっていたか……」


「紅蓮、あのとき泣きそうな顔しとったもんな」


「していない」


「しとった」


「お前の見間違いだ」


「うちの目は誤魔化されへんって言うたやろ」


「今は私が二人に見えているのだろう」


「昨日は一人やったから間違いない」


「酔っているくせに、そういうところだけ覚えているのか」


「紅蓮がシグマの名前を何度も呼んどったことも覚えとるで」


「呼んでいない」


「呼んどった」


「……必要だったからだ」


「何が必要やったん?」


「意識を失わせないためだ」


「ふうん」


 シルフは杯の縁へ口をつけたまま、にやにやと紅蓮を見る。


「何だ、その顔は」


「別にぃ?」


「言いたいことがあるなら言え」


「紅蓮って、思ってたよりシグマのこと気にしとるんやなあって」


「仲間なのだから当然だ」


「仲間、なあ」


「お前だって同じだろう」


 紅蓮に言い返され、今度はシルフが黙り込んだ。


「……せやな」


 杯の中に残った酒を見つめる。


「うちも、怖かった」


 先ほどまでより小さな声だった。


「炎の中におるシグマを見たとき、今までのシグマやなくなるような気がしたんや。あのまま、どっか遠くへ行ってまうんやないかって」


「……ああ」


「ほんま、無茶ばっかりする男やな」


「自分が倒れれば、残された者がどう思うのか考えていない」


「そういうとこ、腹立つなあ」


「ああ。腹が立つ」


 二人は同時に酒を飲んだ。


「それなのに、不思議だな」


 紅蓮が椅子の背へ身体を預ける。


「何が?」


「知り合って、それほど長くはないはずなのに、ずっと前から一緒に旅をしていたように感じる」


「ああ、それは分かるわ」


 シルフも頬杖をついたまま、天井を見上げた。


「シグマって、変に人の懐へ入るのが上手いねんな」


「上手いか? あいつは、かなり不器用だろう」


「本人に自覚はないけどな。困ってる相手がおったら放っとかれへんし、自分のことより先に人の心配するやろ?」


「そのせいで、こちらが心配させられる」


「ほんまになあ」


 二人は、しばらく黙って酒を飲んだ。


 やがてシルフがテーブルへ杯を置き、ぽつりと呟く。


「最近な、ちょっと気になんねん」


「何が?」


「シグマが」


 紅蓮の手が、一瞬だけ止まった。


「気になる?」


「そう。何してんのかなあとか、また無茶してへんかなあとか。別の女と二人でおったら、何を話してるんやろって気になったり……」


 シルフは自分で話しているうちに恥ずかしくなったのか、杯で口元を隠した。


「別に、好きとか、そんなんやないで?」


「私は何も言っていない」


「せやけど、そういう顔したやん」


「どんな顔だ」


「面白い話を聞いた顔」


「実際、面白い話だからな」


「笑うなや」


 シルフが紅蓮の腕を軽く叩く。


 紅蓮は笑いながらも、胸の奥に生じた小さな痛みを押し隠すように酒を飲んだ。


 自分も、シグマのことが気になっている。


 彼が誰かと親しそうに話していれば、自然と視線が向く。


 危険な行動を取れば腹が立ち、無事な姿を見れば安心する。


 しかし、その気持ちを口にするつもりはなかった。


 白鬼や黒鬼がシグマへ向ける感情にも、薄々気づいている。


 あの二人は、紅蓮にとって守るべき大切な家族だ。


 自分の気持ちで、二人を悩ませたくはなかった。


 それに――。


「紅蓮は、そういう相手おらんの?」


 シルフの質問に、紅蓮は杯を持ったまま黙り込んだ。


「……いた」


「ほんま?」


「ああ」


 紅蓮は杯の中で揺れる酒を見つめる。


「婚姻の約束をしていた男がいた」


 シルフの酔いが僅かに醒めた。


「過去の話、なん?」


「ああ。私の故郷にいた」


「どんな人やった?」


「優しい男だった」


 紅蓮は懐かしむように、微かに笑った。


「私が怒っても逃げずに話を聞き、怪我をすれば誰よりも心配してくれた。疲れているときには、何も言わずに食事を用意してくれるような男だった」


「ええ人やったんやな」


「ああ。私のような女を、可愛いと何度も言う変わり者でもあった」


「紅蓮は可愛いやん」


「お前まで何を言っている」


「ほんまのことやで。綺麗やし、面倒見もええし。ちょっと怖くて、すぐ怒るけど」


「余計な言葉が多い」


「でも、一途そうや」


「……あいつにも、同じことを言われた」


 紅蓮の表情に、懐かしさと寂しさが入り混じる。


「婚姻の話を進めていた。家族にも認めてもらい、あとは日取りを決めるだけだった」


「幸せやった?」


「ああ」


 紅蓮は迷わず答えた。


「ずっと、あの時間が続くと思っていた」


 しかし、その笑みはすぐに消えた。


「村が襲われたとき、あいつは私を庇った」


 シルフは何も言わなかった。


「私なら防げた。私なら、あの程度の攻撃で死ぬことはなかった。それなのに、あいつは勝手に私の前へ出た」


 紅蓮の手が、杯を強く握り締める。


「あいつは最後まで、私に逃げろと言った。自分のことなど気にするなと。そんなことができるはずもないのに」


「紅蓮……」


「馬鹿な男だ」


 紅蓮は震える声で呟き、酒を一気に飲み干した。


「本当に、馬鹿な男だった」


 シルフはテーブル越しに手を伸ばし、紅蓮の拳へそっと触れた。


「大事な人やったんやな」


「ああ」


「今でも好き?」


「分からない」


 紅蓮は正直に答えた。


「忘れた日はない。だが、あれから時間が経った。私は変わった。あいつが知っている頃の私ではない」


「それでも、忘れんでええと思うで」


「……そうだな」


「新しく誰かを気にするようになっても、それは裏切りやない」


 シルフの言葉に、紅蓮が顔を上げる。


「急にどうした?」


「なんとなくや」


「自分に言い聞かせているのか?」


「なんでやねん」


「シグマを気にすることへの言い訳ではないのか?」


「ち、違うわ!」


 シルフが大声を上げ、周囲の客が二人へ視線を向ける。


 シルフは慌てて声を落とした。


「まだ、気になるだけやって言うたやろ」


「分かっている」


「分かってへん顔しとる」


「今はお前が二人に見えているから、顔までは分からない」


「紅蓮も、もう酔っとるやん」


「酔っていない」


「酔っ払いは、みんなそう言うねん」


「それは先ほど私が言った言葉だ」


 二人は再び顔を見合わせ、声を抑えて笑った。


 シルフは自分の杯へ酒を注ぎ、少しずつ口へ運ぶ。


「うちは昔、自分のことが大嫌いやった」


「自分を?」


「見た目も、性格も、何もかもな。周りから笑われることも多かった。鏡を見るんも嫌なくらいやった」


「お前が?」


「今の姿だけ見たら、信じられへんやろな」


 シルフは詳しく語らなかった。


 かつて暮らしていた場所が異なる世界にあることも、そこからこの世界へ来た経緯も、言葉を選びながら曖昧にぼかしていく。


「ずっと遠い場所におった頃の話や。そこでは、今とは全然違う姿をしとった」


「どのように違った?」


「それは秘密や」


「話し始めたのはお前だろう」


「全部話すとは言うてへん」


「酔っているくせに、変なところで慎重だな」


「酔ってるからこそ、危ないんや」


 シルフは自分の長い耳へ触れた。


「いつか、今とは違う自分になりたいって、ずっと思っとった。魔法が使えて、物語に出てくるような綺麗な姿になれたらってな」


「それが今の姿なのか?」


「そうや。今のうちは、昔のうちが願ったとおりの姿や」


「なら、願いが叶ったのだな」


「せや。最初は嬉しかったで。何もかも変わったと思った」


 シルフは杯の中に映る自分の顔を見つめた。


「でもな、時々考えてまう。周りが見てるんは今の姿だけや。昔のうちを知ったら、同じように接してくれるんかなって」


「少なくとも、私は変わらない」


 紅蓮は迷わず答えた。


「お前が昔どのような姿をしていようと、今ここにいるお前がシルフだろう」


「紅蓮……」


「それとも、お前は昔の姿に戻ったら、私たちを見捨てるのか?」


「そんなわけないやろ」


「ならば、こちらも同じだ」


 シルフはしばらく紅蓮を見つめた。


 やがて、照れ隠しのように酒を口へ運ぶ。


「シグマも、同じこと言うてくれるかな」


「言うだろうな」


「あっさり答えるんやな」


「あいつなら、少し驚いたあとで、そうかと答えて終わりだ」


「ほんまに言いそうやな」


「そのあと、昔からシルフはシルフだろう、とでも言うんじゃないか?」


「言いそうや」


 二人はシグマの反応を想像し、同時に笑った。


「せやから、気になるんかもしれんな」


「シグマが?」


「うん。あいつなら、昔のうちを知っても笑わへん気がする。何も変わらず接してくれる気がするんや」


「そうだな」


「でも、好きかどうかは分からへんで」


 シルフは念を押した。


「気になるだけや。まだ、ほんまにそれだけ」


「分かっている」


「ほんまやで?」


「随分と必死だな」


「紅蓮が変な顔するからやろ」


「私は何も言っていない」


「またそれや」


 シルフは新しい酒を注文しようと手を上げた。


 だが、店員を呼ぶ前に紅蓮がその手をつかむ。


「待て。もう飲みすぎだ」


「勝負の途中やろ?」


「いつ勝負になった」


「店を出る前からや」


「私は承諾していない」


「怖じ気づいたん?」


「何だと?」


「紅蓮、もう限界なんちゃう?」


「いいだろう。ならば次で最後だ」


「次で終わると思う?」


 紅蓮は空になった杯と、赤い顔をしたシルフを見比べた。


「……思わないな」


「うちもや」


 二人は再び顔を見合わせ、声を上げて笑った。


 その笑いが傷へ響き、二人同時に身体を押さえる。


「いたた……」


「くっ……」


「やっぱり、飲みに来たん間違いやったかな」


「ここまで来てから言うな」


「黒鬼には秘密やで」


「当然だ。知られれば、しばらく酒を取り上げられる」


「うちら二人だけの秘密やな」


「ああ」


 二人は固くうなずき合った。


  その約束が、宿へ戻った瞬間に破られることになるとは、このときの二人には知る由もなかった。



 日が西へ傾き、ベルク村の通りが茜色に染まり始めた頃。


 白鬼たちは、両手いっぱいの荷物を抱えて宿へ戻ってきた。


 衣服店で買った着替えや日用品、食べ歩きの途中で見つけた保存菓子。それに、フェルンが大切そうに胸へ抱えている小さな包み。


 宿の入口をくぐると、黒鬼は真っ先に受付へ向かった。


「シグマの様子に変わりはありませんでしたか?」


「ええ。何度か目を覚まされましたが、ほとんど眠っておられましたよ。水もきちんと飲まれています」


「熱は?」


「ありません。食事も少しだけ召し上がりました」


 受付の女性から話を聞き、黒鬼はようやく安堵の息を漏らした。


「よかったですね、フェルン」


「うん。シグマのところに行く」


「廊下では走らないでくださいね」


「分かった」


 返事をした直後、フェルンは早足で階段へ向かった。


 走ってはいない。


 しかし、限りなく走ることに近い歩き方だった。


「フェルン、それ走ってない?」


「走ってない。早く歩いてるだけ」


「私も同じこと言ったことある!」


「白鬼は何度も転んでいたでしょう」


「今は転ばないよ」


「先日、木の根につまずいていました」


「あれは木の根が悪いの!」


 双子のやり取りを聞きながら、凛は小さく息をついた。


「あなたたちは、宿へ戻っても賑やかなのですね」


「いつもはもっと賑やかだよ」


「これ以上なのですか?」


「シグマと紅蓮とシルフがいるからね」


「今日は、そのうち二人がいませんが」


 凛の言葉に、白鬼と黒鬼が同時に足を止めた。


「そういえば、紅蓮とシルフは?」


「部屋で休んでるんじゃないの?」


「出かけるとは聞いていませんが……」


 黒鬼は嫌な予感を覚えたのか、階段の途中から一階の受付を振り返った。


「すみません。赤い髪の鬼人と、緑色の髪をしたエルフを見かけませんでしたか?」


「お二人でしたら、昼過ぎに外へ出られましたよ」


「外へ?」


「はい。酒場の場所を尋ねられましたので、近くのお店をご案内しました」


 黒鬼の表情が固まった。


 その隣で、白鬼がそっと目を逸らす。


「……白鬼」


「私は何も知らないよ」


「まだ何も聞いていません」


「でも、絶対に私を疑ってる顔だった」


「紅蓮とシルフが酒場へ行くことを知っていたのですか?」


「知らないってば。知ってたら止めてたよ。たぶん」


「最後の言葉が余計です」


 黒鬼は額へ手を当て、深いため息をついた。


 昨夜の戦いで、紅蓮もシルフも決して軽くない傷を負っている。


 治療によって傷口は塞いだものの、失った血や消耗した体力までは完全に戻っていない。


 酒など飲める状態ではなかった。


「戻ってきたら、きちんと話をしなければなりませんね」


「黒鬼、すっごく怒ってる?」


「怒っていません」


「その言い方をするときの黒鬼は、怒ってるよ」


「心配しているだけです」


「怒っているようにしか見えませんが」


 凛が冷静に指摘すると、黒鬼は黙って階段を上り始めた。


「とにかく、先にシグマの様子を確認します」


「紅蓮たちは探さなくていいの?」


「どこの酒場にいるか分かっているのですから、戻ってこなければ迎えに行きます」


「黒鬼が迎えに来たら、二人とも逃げそう」


「逃がしません」


 黒鬼の声は穏やかだった。


 しかし、白鬼はそれ以上何も言わず、素直にあとへ続いた。



 シグマの部屋へ入ると、薄暗い室内には薬草の匂いが残っていた。


 窓から差し込む夕日が床を赤く照らし、その先に置かれた寝台では、シグマが上半身を起こしていた。


 枕元には水の入った杯と、食べかけのスープが置かれている。


「シグマ!」


 フェルンが駆け寄る。


「フェルン、おかえり」


「起きて大丈夫?」


「ああ。ずっと寝ていたから、少し身体を起こしていただけだ」


 シグマは心配させないように笑ったが、まだ顔色はよくなかった。


 フェルンは寝台の横まで来ると、その場で立ち止まった。


 いつもなら迷わず抱きついている。


 しかし、今はシグマの身体に傷が残っていることを覚えているのか、両手を伸ばしかけたまま動けずにいた。


「どうした?」


「抱きついたら、痛い?」


「少しだけな」


 フェルンの耳がしゅんと伏せられる。


 それを見たシグマは、左腕をゆっくりと広げた。


「こっちからなら大丈夫だ」


「本当?」


「ああ。おいで」


 フェルンは慎重に寝台へ上がり、シグマの左側からそっと身体を寄せた。


 傷へ触れないように、普段よりも弱い力で服をつかむ。


「痛くない?」


「大丈夫だ」


「無理してない?」


「していないよ」


 それでも不安そうに見上げるフェルンの頭を、シグマは優しく撫でた。


「今日は楽しかったか?」


「うん。蜂蜜のお菓子を食べた。人形劇も見た。竜が自分の炎で焦げてた」


「それは、ずいぶん変わった竜だな」


「くしゃみしてた」


「竜もくしゃみをするのか」


「人形の竜だけ」


 フェルンが僅かに笑う。


 その様子を見て、シグマも安心したように表情を和らげた。


「ほかには?」


「鳥のお肉を食べた。豆も食べた。白鬼がたくさん食べてた」


「フェルンも食べてたでしょ」


 後ろから白鬼が反論する。


「白鬼のほうが多かった」


「私は身体が大きいから、その分たくさん食べるんだよ」


「白鬼とフェルンでは、それほど身長は変わりません」


 黒鬼が荷物を置きながら言った。


「十歳のフェルンと比べないでよ!」


「それなら、食べる量も年齢に合わせてください」


「観光は体力を使うんだって」


「まだその言葉を使うのですか」


 黒鬼は呆れた様子を見せながらも、すぐにシグマのそばへ移動した。


 額へ手を当て、熱がないことを確認する。


「気分はどうですか?」


「朝よりはずっといい。傷の痛みも少し引いた」


「右腕は?」


「今は何も感じない」


 シグマが右手を見下ろす。


 炎帝石が埋め込まれた義手は、今は不気味なほど静かだった。


 昨夜、シグマの意識を呑み込もうとした炎の気配は完全に消えている。


 だが、それが本当に眠っているだけなのかは分からない。


「そうですか……」


 黒鬼は不安そうに右腕を見つめたあと、シグマの胸元へ手を当てた。


 淡い光が掌から広がり、体内の魔力の流れを確かめていく。


「大きな乱れはありません。ただ、身体の消耗はまだ残っています。今日だけではなく、明日も休んだほうがよいと思います」


「明日もか?」


「不満ですか?」


「いや。ただ、あまり長くベルク村に滞在すると、予定が遅れると思ってな」


「予定より命のほうが大切です」


「それは分かっている」


「分かっている人は、あのような無茶をしません」


 黒鬼の口調が少しだけ強くなった。


 シグマは反論できず、黙って視線を逸らす。


「シグマ。黒鬼は怒ると怖いよ」


 白鬼が小声で忠告した。


「聞こえています、白鬼」


「ほら、怖い」


「私は怒っているのではなく、心配しているのです」


「紅蓮たちにも同じことを言う?」


「もちろんです」


「やっぱり怒ってるよ」


 シグマが不思議そうに尋ねる。


「紅蓮とシルフに何かあったのか?」


「二人とも、怪我をしているにもかかわらず、酒場へ行きました」


「酒場へ?」


「はい。安静にするよう伝えたはずなのですが」


「……そうか」


「なぜ少し笑っているのですか?」


「二人らしいと思ってな」


「シグマまで、そのようなことを言うのですか」


「いや、悪かった。戻ってきたら俺からも話すよ」


「シグマはまず、自分の心配をしてください」


「分かった」


 素直に返事をしたシグマに、黒鬼はもう一度ため息をついた。


 フェルンは二人の会話を聞きながら、胸元に抱えていた包みへ視線を落とした。


 何かを言いたそうにシグマを見上げるが、すぐに視線を逸らしてしまう。


「フェルン、どうした?」


「……これ」


 フェルンは包みを両手で持ち、シグマの前へ差し出した。


「俺に?」


「うん」


「開けてもいいか?」


 フェルンがうなずく。


 シグマは包みを受け取り、巻かれていた布をゆっくりと解いた。


 中から現れたのは、白い狼をかたどった小さな木彫りだった。


 丸みのある形をしているが、胸を張って立つ姿はどこか誇らしげで、白く塗られた毛並みも丁寧に彫られている。


「ハクか?」


「ハクに似てた。でも、本物のハクのほうが格好いい」


「そうだな。けれど、こっちもよくできている」


「シグマのお土産」


「俺のために買ってくれたのか?」


「うん。フェルンのお金で買った」


 フェルンは誇らしげに答えた。


 シグマはしばらく木彫りを見つめたあと、大切そうに両手で包み込んだ。


「ありがとう、フェルン。大事にするよ」


「ずっと?」


「ああ。ずっと持っている」


「なくさない?」


「なくさない」


「壊さない?」


「壊さないように気をつける」


「約束?」


「約束だ」


 フェルンは嬉しそうに笑い、今度は痛みを与えないように気をつけながら、シグマの左腕へ頬を寄せた。


 その尻尾は寝台の上で何度も左右へ揺れている。


「よかったですね、フェルン」


「うん」


「私たちも選ぶの手伝ったんだよ」


 白鬼が自分を指さす。


「そうなのか?」


「最初に見つけたのはフェルンだけどね。でも、シグマへのお土産にしたらって言ったのは私」


「白鬼は、自分のお菓子ばかり選んでいました」


「黒鬼だって本を買ってたでしょ」


「あれは旅で役立つ薬草について書かれた本です」


「私は旅で役立つ保存食を買ったんだよ」


「帰る途中で、半分近く食べていたではありませんか」


「味を確かめただけ!」


 いつもどおりの双子のやり取りに、シグマが小さく笑う。


 その笑い声を聞き、部屋の中に残っていた緊張が僅かに和らいだ。


 メイメイは扉の近くからその光景を眺め、嬉しそうに目を細める。


「フェルンちゃん、ずっとシグマさんへのお土産を大事に抱えていたんですよ」


「そうか。案内してくれてありがとう」


「いえいえ。私も楽しかったですから」


 凛も静かに頭を下げる。


「道中、特に問題はありませんでした。フェルンさんたちも、勝手に離れることなく行動していました」


「凛もありがとう。二人のおかげで安心して休めた」


「護衛として当然のことをしたまでです」


「凛、蜂蜜菓子をたくさん食べてた」


 フェルンが告げる。


「フェルンさん」


「鳥のお肉も食べてた」


「それは報告しなくてもよいことです」


「凛って、食べ物に弱いんだよ」


 メイメイが笑いながら言う。


「あなたまで余計なことを言わないでください」


「シグマさんにも、凛が案外可愛いところがあるって知ってもらおうと思って」


「そのような配慮は必要ありません」


 凛が僅かに頬を赤らめる。


 白鬼とフェルンが楽しそうに笑い、黒鬼まで口元を押さえた。



 しばらく部屋で話していると、一階から大きな物音が聞こえた。


 続いて、聞き覚えのある声が廊下まで響く。


「ちゃんと歩けるって言うてるやろ!」


「それはこちらの台詞だ! 私に寄りかかるな!」


「紅蓮がこっちに傾いてるんや!」


「お前が引っ張っているからだ!」


 部屋の中が静まり返った。


 黒鬼はゆっくりと扉へ顔を向ける。


「……戻ってきたようですね」


「黒鬼、顔が怖いよ」


「怒っていません」


「絶対怒ってる」


 黒鬼は白鬼の言葉には答えず、静かに立ち上がった。


「私も行きます」


 凛が続く。


「二人とも負傷しているのでしょう。階段で転ばれては困ります」


「それなら私も行くよ。凛だけじゃ、あの二人を止められないかもしれないし」


 メイメイも立ち上がる。


「私はここにいる」


 白鬼はすぐに宣言した。


「白鬼も来てください」


「どうして?」


「二人を部屋まで運ぶのを手伝ってもらいます」


「私、力仕事には向いてないよ」


「それなら、酔いを醒ます水を用意してください」


「フェルンは?」


「シグマと一緒にいてください」


「分かった」


 フェルンはシグマの左腕を抱きしめたまま、素直にうなずいた。


 黒鬼たちが部屋を出る。


 間もなく、廊下から黒鬼の冷静な声が聞こえてきた。


「紅蓮。シルフ。そこで何をしているのですか?」


 騒いでいた二人の声が、ぴたりと止まった。


 長い沈黙のあと、シルフの引きつった声が聞こえる。


「く、黒鬼。戻っとったん?」


「はい。先ほど戻りました」


「そ、そうなんや。観光は楽しかった?」


「とても楽しかったですよ。それより、お二人から強い酒の匂いがするのですが」


「これは酒場の匂いが服についただけや」


「空の酒瓶を抱えて言っても、説得力がありません」


「これは紅蓮のや」


「シルフ!」


「裏切るつもりはなかってん! でも、隠すんはよくないやろ?」


「先ほどまで、二人だけの秘密だと言っていただろう!」


「自分で秘密やって言うてもうたら、もう隠せへんやん」


「お前は本当に……!」


「紅蓮。大きな声を出すと傷に響きますよ」


 黒鬼の声はどこまでも穏やかだった。


「二人とも、部屋へ戻ります」


「私はまだ平気だ」


「うちもや」


「返事は求めていません」


「……はい」


「分かった」


 先ほどまで強がっていた二人が、そろって素直に返事をする。


 部屋の中に残ったシグマとフェルンは、顔を見合わせた。


「黒鬼、やっぱり怒ってる」


「そうみたいだな」


「シグマも怒られる?」


「たぶんな」


「フェルンが守る」


「それは心強い」


 シグマが微笑むと、フェルンは任せろと言わんばかりに胸を張った。



 その後、紅蓮とシルフは黒鬼によって別々の部屋へ連れていかれた。


 酒を薄める薬草茶を飲まされ、傷が開いていないか念入りに調べられたうえで、寝台へ横になるよう厳しく命じられる。


「これ、苦いなあ……」


 シルフが薬草茶の入った杯を見つめる。


「良薬は口に苦しと言います」


「酒のほうが身体にええ気がする」


「そのようなわけがないでしょう」


「一口だけ甘い酒を混ぜたらあかん?」


「駄目です」


「蜂蜜は?」


「薬を飲み終えたあとであれば構いません」


「紅蓮も蜂蜜いる?」


「私は子供ではない」


 隣の寝台へ座った紅蓮はそう答えたが、渡された薬草茶を一口飲んだ瞬間、眉間へ深いしわを寄せた。


「……少しくらいなら、蜂蜜を入れてもいいかもしれないな」


「紅蓮も苦いんやん」


「黙れ」


「お二人とも、反省していますか?」


 黒鬼に尋ねられ、紅蓮とシルフは視線を交わした。


「している」


「しとるで」


「本当に?」


「もちろんだ」


「もう怪我をしているときには飲まへん」


 黒鬼が無言で二人を見つめる。


 耐え切れなくなったシルフが、そっと顔を逸らした。


「……たぶん」


「シルフ」


「分かった! 絶対に飲まへん!」


「紅蓮もです」


「私はもう二度としない」


「酒場を出る前にも、『今日は軽く飲むだけだ』と話していましたよね?」


「なぜ、それを知っている?」


「先ほど、シルフがすべて話しました」


「シルフ!」


「酔ってて覚えてへん!」


「先ほどから、私だけを売っていないか?」


「そんなつもりないって!」


 二人の言い争いを聞き、黒鬼は深いため息をついた。


「とにかく、今夜は大人しく休んでください。次に同じことをしたら、旅が終わるまでお酒は禁止です」


「それは厳しすぎるだろう」


「せや! 横暴や!」


「では、今から禁止にしますか?」


「今夜は休む」


「うちも寝るわ」


 二人は同時に毛布へ潜り込んだ。


 その様子を見届けた黒鬼は、ようやく肩の力を抜く。


 部屋を出ようとしたところで、毛布の中から紅蓮の声が聞こえた。


「黒鬼」


「何ですか?」


「……心配をかけて悪かった」


 隣の寝台からも、シルフが顔だけを出す。


「うちも、ごめんな」


 黒鬼は少しだけ驚いた顔をした。


 それから、いつもの優しい表情を浮かべる。


「分かってくださればよいのです。二人とも、無事に戻ってきてくれてよかったです」


「黒鬼……」


「ただし、明日の朝にも説教はします」


「まだ続くんか?」


「当然です」


 シルフが再び毛布へ顔を隠す。


 紅蓮も諦めたように目を閉じた。


「敵に囲まれたときより厳しいな」


「自業自得や……」


 黒鬼は二人へ毛布を掛け直し、部屋の明かりを消してから廊下へ出た。



 夜。


 宿の中が静かになったあとも、シグマはなかなか眠れずにいた。


 身体は疲れているはずなのに、目を閉じると昨夜の炎が脳裏に浮かぶ。


 燃え上がる右腕。


 胸の奥へ流れ込んできた、焼き尽くせという衝動。


 敵だけではない。


 自分の前に立つすべてを灰へ変えてしまいたいと思うほどの、激しい怒り。


 あのとき、シルフの声が届かなければ。


 紅蓮たちの姿を思い出せなければ。


 自分は、どこまで炎を広げていたのだろう。


 シグマは右手を持ち上げ、暗闇の中で義手を見つめた。


 今は何の反応もない。


 それでも、奥底から何かに見つめ返されているような感覚があった。


「眠れない?」


 隣からフェルンの声がした。


 シグマが顔を向けると、寝台の脇に敷かれた簡易寝具の中から、フェルンがこちらを見上げていた。


「起こしたか?」


「起きてた」


「そうか」


「右手、痛い?」


「痛くはないよ」


「怖い?」


 思いがけない言葉に、シグマは答えられなかった。


 フェルンは毛布を抱えたまま起き上がり、寝台のそばまで来る。


「昨日のシグマ、怖かった」


「……そうだよな」


「でも、シグマが怖いんじゃない」


 フェルンは首を横へ振った。


「シグマが、いなくなるのが怖かった」


 小さな手が、シグマの左手を握る。


「炎の中に、シグマじゃないのがいた」


 シグマは息を呑んだ。


 フェルンが何を感じ取ったのかは分からない。


 だが、あの瞬間の自分が普段とは違っていたことだけは、幼い彼女にも伝わっていた。


「俺も、少し怖かった」


「シグマも?」


「ああ。あのまま自分が自分でなくなるような気がした」


「もう大丈夫?」


「今は大丈夫だ」


「また、ああなったら?」


 シグマはすぐには答えられなかった。


 二度と起こらないとは約束できない。


 炎帝石を使い続ける限り、同じことが起きる可能性はある。


「そのときは、フェルンたちの声を聞く」


「フェルンの声も?」


「ああ。昨日も聞こえたよ。皆の声があったから戻ってこられた」


 フェルンはシグマの左手を両手で包んだ。


「フェルン、いっぱい呼ぶ」


「頼む」


「シグマが戻るまで、ずっと呼ぶ」


「ありがとう」


 シグマが頭を撫でると、フェルンは安心したように目を細めた。


 枕元には、昼間にもらった白い狼の木彫りが置かれている。


 窓から差し込む月明かりを受け、小さな狼はシグマたちを見守るように立っていた。


「フェルン」


「なに?」


「もう一度、約束しておく」


「約束?」


「俺は勝手にいなくならない。危ないときは一人で決めず、皆を頼る」


「本当?」


「ああ」


「フェルンも頼っていい?」


「もちろんだ」


「白鬼と黒鬼も?」


「ああ」


「紅蓮とシルフも?」


「もちろん」


「凛とメイメイも?」


「二人がいてくれる間は、頼っていいと思う」


「分かった」


 フェルンは満足したようにうなずいた。


 それから自分の簡易寝具へ戻ろうとしたが、シグマの手を離したところで足を止める。


「今日は、ここで寝たら駄目?」


 フェルンが寝台の空いている場所を指さした。


「今日は俺が怪我をしているからな。寝返りを打ったときに、フェルンを押してしまうかもしれない」


「フェルン、動かない」


「そう言って、いつも朝には俺の上にいるだろう」


「今日はしない」


「本当か?」


「約束する」


 フェルンは真剣な顔で小指を差し出した。


 シグマは少し迷ったあと、自分の小指を重ねる。


「分かった。ただし、傷に触れないようにな」


「うん」


 フェルンは嬉しそうに寝台へ上がり、シグマの左側へ横になった。


 自分の身体とシグマの間に少しだけ隙間を空け、毛布を胸元まで引き上げる。


 そのまま左手だけを伸ばし、シグマの服の裾をつかんだ。


「これなら痛くない?」


「ああ、大丈夫だ」


「おやすみ、シグマ」


「おやすみ、フェルン」


 しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえ始めた。


 シグマは眠りについたフェルンを見つめる。


 昨夜の襲撃者たちは、明らかに彼女を狙っていた。


 バルガスから届いた手紙にも、フェルンが何らかの争いに利用されようとしていた可能性が記されていた。


 何も知らないまま、再び追手が現れるかもしれない。


 その不安は、まだ消えていない。


 しかし、一人で抱え込む必要はない。


 紅蓮がいる。


 白鬼と黒鬼がいる。


 シルフがいる。


 ハクもいる。


 今は凛とメイメイも力を貸してくれている。


 皆で守る。


 そして、今度こそ誰一人欠けることなく、旅を続ける。


 シグマは枕元に置かれた白い狼の木彫りへ目を向けた。


 小さな贈り物を見ているうちに、胸の奥へ残っていた炎の熱が、少しずつ遠ざかっていく。


 やがてシグマも目を閉じた。


 ベルク村の静かな夜は更けていく。


 明日から先に待つものが、穏やかな旅路なのか、それとも新たな戦いなのかは分からない。


 それでも、一人ではない。


 その事実だけが、今のシグマにとって何よりも確かな支えとなっていた。

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