第十八話 守るための炎
その後は何事も起こらないまま、ラトナ村の空に朝日が昇った。
宿の外から聞こえる足音や話し声も徐々に増え始め、村はいつもと変わらない朝を迎えている。
だが、シグマたちの間には、昨夜の襲撃による緊張がまだ色濃く残っていた。
シグマが目を覚ますと、最初に白鬼の様子を確認した。
白鬼は既に寝台から起き上がり、窓辺に立って外を眺めている。顔色も戻り、受け答えもしっかりしていた。
「おはよう、シグマ」
「ああ、おはよう。身体は大丈夫か?」
「うん。もう平気だよ」
白鬼はその場で軽く腕を回してみせる。
「ほら、どこも痛くないし、魔力もちゃんと戻ってる」
「そうか。よかった」
シグマが安堵すると、隣に立っていた黒鬼が白鬼の袖を引いた。
「でも……今日は、無理しちゃ駄目」
「分かってるって」
「昨日も、そう言ってた」
「うっ……」
白鬼が言葉に詰まり、助けを求めるようにシグマを見る。
しかし、シグマは黒鬼の側についた。
「黒鬼の言う通りだ。普通に動けても、今日は無理をしないでくれ」
「シグマまで……」
「白鬼が倒れたら、黒鬼が心配する。それに、俺たちも困る」
そう言われてしまうと、白鬼も反論できなかった。
「分かったよ。今日は大人しくしてる」
「本当に?」
「本当、本当。だから、そんな顔しないでよ」
白鬼が黒鬼の頬を指で軽く押す。
黒鬼はまだ不安そうだったが、ようやく小さく頷いた。
簡単な朝食を済ませたあと、シグマたちはすぐに冒険者ギルドへ向かうことにした。
昨夜の刺客がフェルンを狙っていた以上、このまま何も分からない状態で旅を続けるのは危険だった。
まずはレイラからの手紙が届いているか、アルランカのマリアへ連絡する必要がある。
宿を出ると、ラトナ村の朝の風景が広がっていた。
村とは呼ばれているものの、その規模は小さな都市に近い。
中心部には石畳が敷かれ、道の両側には食料品店や衣料品店、旅道具を扱う店が並んでいる。大小さまざまな宿屋が軒を連ね、少し離れた場所には教会の尖塔も見えた。
表通りを外れれば酒場や夜の店が集まる路地もあり、早朝にもかかわらず、仕事を終えた者たちが眠そうな顔で歩いている。
通りを行き交うのは、住民よりも旅商人や護衛の姿が多かった。
荷車を引く商人。
荷物を担いだ行商人。
武器を腰に下げ、その周囲を警戒する傭兵。
ラトナ村は街道を行き交う商人たちの中継地点であり、商業によって発展した村なのだ。
「本当に村なのか、ここ」
紅蓮が呆れたように周囲を見回す。
「うちらが泊まった宿より、でかい宿が何軒もあるやん」
シルフも店の看板を眺めながら歩いていた。
「お菓子の店もあるよ」
白鬼が足を止めかける。
黒鬼がすぐにその手を掴んだ。
「今日は……安静」
「見るだけだよ」
「買い物は、帰り」
「分かったってば」
二人のやり取りを横目に見ながら、シグマたちは村の中心へ進んだ。
やがて、よく似た造りの大きな建物が二つ見えてくる。
一方には剣と盾を組み合わせた紋章。
もう一方には槌や鎌、弓など、いくつもの道具を円形に並べた紋章が掲げられていた。
「あっちは何?」
フェルンが道具の紋章を指差す。
「市民ギルドだ」
「冒険者ギルドとは違うの?」
「ああ。市民権を持つ人が仕事を紹介してもらう場所だ」
「しみんけん?」
聞き慣れない言葉らしく、フェルンが首を傾げる。
シグマは少し考えてから説明を続けた。
「その街や国に、自分は正式な住民だと認めてもらうための資格みたいなものだ。市民権があれば、その土地で働いたり、家や店を持ったりしやすくなる」
「誰でももらえるの?」
「主要な都市で申請して、審査を受けたうえで金貨五十枚を納めれば取得できる。ただ、犯罪歴があったり、身元を証明できなかったりすると、認められないこともある」
「金貨、五十枚……」
フェルンは目を丸くした。
一般的な暮らしをする者にとって、簡単に払える金額ではない。
「市民ギルドの中には、職人ギルドやハンターギルド、兵士ギルドなんかがある。それぞれ得意な仕事を紹介してもらうんだ。商人には別に商人ギルドがあって、その中に行商人ギルドもある」
「じゃあ、冒険者は?」
「冒険者ギルドは、市民権を持たない旅人でも登録できる。街に住みつかず、各地を移動しながら仕事をする人のための場所だ。大きく分ければ、護衛や戦争を仕事にする傭兵ギルドと、魔物の討伐や採取、調査を引き受ける冒険者ギルドがある」
「……難しい」
フェルンの眉間に小さなしわが寄った。
シグマもどう言い換えるべきか悩んだが、隣を歩いていたシルフがフェルンの肩に手を置いた。
「簡単に言うとな、同じ街で暮らしながら働く人が市民ギルド。旅をしながら仕事する人が冒険者ギルドや」
「住んで働く人と、旅して働く人?」
「せや。商売する人は、また別の集まりやな」
「分かった」
今度はフェルンも素直に頷いた。
シグマはしばらく黙ったあと、シルフを見る。
「最初から、そう説明すればよかったな」
「シグマは説明が真面目すぎんねん」
シルフが笑い、紅蓮も小さく肩を揺らした。
冒険者ギルドの中は、外観以上に広かった。
正面には複数の受付カウンターが並び、右側の壁には依頼書が隙間なく貼り出されている。左側には酒場が併設され、朝から食事を取る冒険者たちで賑わっていた。
シグマは並んでいる受付を見渡し、その中でも特に落ち着いた雰囲気の女性のもとへ向かった。
「すみません。アルランカの冒険者ギルドと連絡を取りたいのですが」
女性はシグマたちの顔と装備を順番に確認した。
「アルランカ支部へのご連絡ですか?」
「はい。ギルドマスターのマリアさんに、直接確認したいことがあります」
「失礼ですが、お名前と冒険者証を確認させていただけますか?」
「シグマです」
シグマたちは首から下げた身分証牌を差し出した。
女性は刻まれた名前と所属、等級を一つずつ確認する。やがて何かに気づいたらしく、表情を引き締めた。
「確認してまいります。少々お待ちください」
女性は席を立ち、奥の部屋へ入っていった。
しばらくして戻ってきた時、その隣には細身の男性が立っていた。
年齢は四十歳ほどだろうか。丁寧に整えられた灰色の髪に、細い銀縁の眼鏡。服装にも乱れがなく、冒険者というより学者や役人のように見える。
「お待たせしました。私がラトナ支部のギルドマスターを務めております、リトリルです」
「シグマです。突然のお願いで申し訳ありません」
「お話は奥で伺いましょう。皆様もご一緒にどうぞ」
リトリルに案内され、シグマたちは応接室へ入った。
全員が椅子に座ると、リトリルは眼鏡の位置を直した。
「マリア殿から、皆様が近いうちにラトナ村を通る可能性があると聞いております。何か緊急のご用件でしょうか」
「マリアさんに頼んでいた手紙が届いているか、確認したいんです」
「手紙ですか」
「詳しい内容は、ここでは話せません」
シグマが慎重に答えると、リトリルは無理に問いたださなかった。
「承知しました」
リトリルは立ち上がり、先ほどの受付の女性を呼ぶ。
「通信水晶を用意してください」
「よろしいのですか?」
「マリア殿から事前に話は聞いています。使用を許可します」
「かしこまりました」
間もなく、女性が両手で抱えられるほどの水晶玉を運んできた。
金属製の台座に固定された水晶玉を、応接机の中央へ置く。
フェルンが興味深そうに身を乗り出した。
「これは?」
「遠くにある同じ水晶と連絡を取るための魔道具です」
リトリルが答える。
「非常に高価なうえ、使用するたびに大量の魔力を消費します。そのため、基本的にはギルドマスター同士の緊急連絡にしか使いません」
リトリルが台座に手を置き、静かに魔力を注ぐ。
透明だった水晶の内部に淡い光が生まれ、白い霧のようなものが渦巻き始めた。
しばらくすると、霧の向こうに人影が浮かび上がる。
『聞こえるかい?』
水晶から聞き覚えのある声が響いた。
「マリア殿、お久しぶりです。ラトナ支部のリトリルです」
『ああ、あんたか。久しぶりだね』
「例の方々がこちらへ到着しています。直接確認したいことがあるそうです」
『もう着いたのかい。それなら代わってやってくれ』
リトリルが台座から手を離し、水晶玉をシグマたちの方へ向けた。
水晶の中に、マリアの顔がはっきりと映っている。
白鬼が驚いたように水晶を覗き込んだ。
「マリアさんが入ってる」
『入ってないよ。映ってるだけだ』
「触ったら出てこない?」
『出てこないって言ってるだろ』
マリアが呆れた顔をすると、白鬼は残念そうに椅子へ戻った。
「マリアさん。急に連絡してすみません」
『構わないよ。それで、要件は何だい?』
「頼んでいた手紙は届いていますか?」
シグマはレイラの名を口にしなかった。
どこから情報が漏れるか分からない以上、可能な限り手掛かりを残したくなかった。
マリアもすぐに意図を察したらしい。
『ああ。あんたの兄弟分からの手紙なら届いてるよ』
「内容は?」
『ここで話すより、直接読んだ方がいいね。転移道具箱を使って、そっちへ送る』
「そんなこともできるんですか?」
『小さい物だけだけどね。リトリルに代わってくれるかい』
シグマは水晶をリトリルへ返した。
リトリルとマリアが短く言葉を交わしたあと、受付の女性が小さな木箱を運んできた。
箱の表面には複雑な魔法陣が刻まれ、角には銀色の金具が取り付けられている。
リトリルが通信水晶でマリアと合図を合わせながら、木箱へ魔力を注いだ。
刻まれた魔法陣が青白く輝く。
一瞬だけ部屋の空気が震え、箱の内部から小さな音がした。
光が収まったのを確認し、リトリルが蓋を開ける。
先ほどまで空だった箱の中に、細長い筒が一本収まっていた。
「転送は無事に完了しました」
リトリルが筒を取り出し、シグマへ差し出す。
「ありがとうございます」
『シグマ』
通信水晶からマリアの声が飛ぶ。
『中身を読んだら、必ず処分しな。あと、何か起きても一人で抱え込むんじゃないよ』
「分かりました」
『本当に分かってるのかい?』
「……気をつけます」
『その答えが一番不安なんだよ』
マリアは深くため息をついた。
シグマたちはリトリルにも礼を伝え、筒を持って冒険者ギルドを後にした。
宿へ戻ると、全員で白鬼と黒鬼の部屋に集まった。
窓と扉を閉め、紅蓮が廊下に人の気配がないことを確認する。
シグマは筒の蓋を外した。
中から出てきたのは、丸められた一枚の羊皮紙だった。蝋で厳重に封じられ、その表面にはリッドガルの関所を預かるバルガスの刻印が押されている。
シグマが封を切り、羊皮紙を広げた。
皆が無言で、その内容を読み進めていく。
フェルンは、シルトウォーデンに対する何らかの切り札として利用できる人物である可能性が高いこと。
ディアグランディア側の者たちによって拉致され、密かに運ばれる途中だったこと。
レイラへ護送を依頼した人物は、既に口封じのため殺されていること。
さらにディアグランディアの一部勢力に不穏な動きがあり、フェルンを巡って再び追っ手が差し向けられる可能性があること。
その全てが、慎重な言葉を選びながら記されていた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
「ほかに読む者はいないな」
紅蓮が確認する。
「ああ」
シグマは羊皮紙を受け取り、燭台の火へ近づけた。
端から炎が燃え移り、書かれていた文字を少しずつ呑み込んでいく。
最後まで燃え尽きたことを確かめ、灰を水差しの中へ落とした。
紅蓮がフェルンを見る。
「フェルン。何か心当たりはあるか?」
フェルンは俯いたまま答えなかった。
膝の上で、小さな両手が強く握られている。
「責めているわけではない」
紅蓮は声を和らげた。
「分からないなら、分からないで構わない。だが、少しでも知っていることがあるなら、私たちにも話してほしい」
それでもフェルンは黙ったままだった。
紅蓮はしばらく待ったが、やがて小さく息を吐く。
「シグマ。任せてもいいか?」
「ああ」
「行くぞ」
紅蓮が皆を促し、部屋の外へ出ていく。
最後に黒鬼が心配そうに振り返ったが、シグマが頷くと、静かに扉を閉めた。
部屋にはシグマとフェルンだけが残された。
シグマは何も尋ねなかった。
隣へ座り、ただフェルンの銀色の髪をゆっくりと撫でる。
フェルンの狼耳が小さく震えた。
それでも、シグマは言葉を急かさなかった。
「……分からない」
長い沈黙のあと、フェルンが呟いた。
「うん」
「フェルン、自分が何なのか分からない」
「そうか」
「昔から……外に出してもらえなかった」
フェルンは俯いたまま、途切れ途切れに話し始める。
「毎日、窓から外を見てた。外で遊んでる子が見えても、出ちゃ駄目って言われた」
「どうしてか、聞いたことはあるか?」
「聞いた。でも……フェルンが外に出たら、大変なことになるって。それしか教えてくれなかった」
小さな手が、シグマの服の裾を掴む。
「自分のことも、知っちゃ駄目って言われた。誰かに聞かれても、何も答えちゃ駄目。フェルンが何者なのかも、どこから来たのかも、知らなくていいって……ずっと」
「そうか」
「変だよね」
「変なのは、フェルンじゃない」
シグマは迷わず答えた。
「何も教えずに閉じ込めた人たちの方だ」
「でも、フェルンが悪いから外に出られなかったのかも」
「違う」
今度は、はっきりと言い切る。
「フェルンは悪くない」
フェルンがゆっくり顔を上げた。
瞳には不安が浮かんでいた。
「本当に?」
「ああ」
「また狙われても?」
「それでもだ」
「シグマたちが傷ついても?」
シグマはすぐには答えられなかった。
昨夜の戦いで倒れた白鬼の姿が、脳裏に蘇る。
それでも、フェルンを置いていくという選択はなかった。
「傷つかないように、皆で考える。そのために仲間がいるんだ」
シグマはフェルンの頭へ手を置いた。
「だから、一人で決めなくていい。一人で怖がらなくていい」
フェルンは唇を噛み、シグマの胸元へ額を押しつけた。
「……うん」
シグマは何も言わず、その頭を撫で続けた。
紅蓮たちを部屋へ呼び戻したあと、シグマはフェルンから聞いた話を説明した。
「フェルン自身も詳しいことは知らない。ただ、幼い頃から外へ出ることを禁じられていたらしい。自分のことも知ってはいけないと言われていた」
「本人にも素性を隠していた、ということか」
紅蓮が腕を組む。
「おそらく、何らかの形で政治的に利用される立場なんだと思う。ただ、それ以上は分からない」
「本人にも知らせへんまま、閉じ込めとったんか」
シルフの声から、普段の明るさが消える。
フェルンはシグマの隣に座り、服の裾を掴んでいた。
シルフはその姿を見ると、突然椅子から立ち上がった。
「大丈夫や、フェルン!」
勢いよく抱きしめる。
「うちが絶対に守ったるからな!」
「く、苦しい……」
「刺客でも何でも、全部うちがぶっ飛ばしたる!」
「シグマがいるから、大丈夫」
「そこは『ありがとう』やろ!?」
フェルンはシルフの腕から抜け出し、シグマの背後へ隠れた。
シルフは両腕を広げた姿勢のまま固まる。
「シグマぁ……うち、今かなり格好ええこと言うたと思うんやけど」
「気持ちは伝わったと思う」
「それ、慰めになってへんで」
重くなっていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
その後、今後の行動について話し合った。
結論は、必要な食料だけを補充し、すぐにラトナ村を出ることだった。
人の多い場所に長く留まれば、無関係な住民を巻き込む危険がある。
次の目的地は、街道沿いのベルク村。
途中で一度野営を挟み、順調に進めば翌日の夕方には到着できる。
「ハクを呼ぼうと思う」
シグマが提案すると、紅蓮が頷いた。
「私も、それがいいと思う。昨夜のように接近される前に気づければ、こちらが先に動ける」
「ハクなら匂いと気配の両方を探れる。俺たちだけで見張るより確実だ」
「問題は、この村の中に呼べないことやな」
シルフが窓の外を見る。
ハクほど巨大な魔物を村の中へ入れれば、大騒ぎになる。
「門を出て、しばらく進んでから呼ぶ」
方針が決まると、シグマたちはすぐに動いた。
宿を引き払い、保存食や水、ノクスとソルの餌を買い足す。荷物を馬車へ積み込み、昼を待たずにラトナ村を後にした。
門をくぐり抜ける直前、シグマは一度だけ背後を振り返った。
多くの商人や旅人が行き交うラトナ村は、今日も変わらず賑わっている。
その人混みの中に、新たな刺客が紛れ込んでいる可能性もあった。
「シグマ?」
御者台の隣に座っていたフェルンが、不思議そうに顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
シグマは前へ向き直った。
「行こう」
ノクスとソルが街道を駆け始める。
馬車はラトナ村を離れ、次の目的地であるベルク村へ向かって進み出した。
ラトナ村の門から十分に離れたところで馬車を止め、シグマは森へ向けてハクを呼んだ。
しばらくすると、茂みの奥から白銀の巨体が姿を現す。
ハクは地面を蹴って一気に駆け寄り、シグマの前で足を止めた。
『呼んだか』
「ああ。力を貸してほしい」
シグマは昨夜の襲撃と、フェルンが狙われていることを伝えた。
ハクはフェルンを一度見たあと、周囲の匂いを確かめるように鼻を動かす。
『分かった。近くを探る』
「無理はするな。見つけても、数が多ければ戻って知らせてくれ」
『心配はいらぬ』
それだけ答えると、ハクは草原を駆けていった。
シグマたちは馬車を再び走らせ、街道を進みながらハクの帰りを待った。
一刻ほどすると、草原の向こうから白銀の巨体が近づいてきた。
ハクは走る馬車へ並び、シグマへ思念を送る。
『黒い布で身を覆った者たちを見つけた』
「刺客か?」
『昨夜、あの娘に近づいた者と同じ匂いがした。何人かは倒したが、一部は逃げた』
「怪我は?」
『ない。奴らの匂いは覚えた。次は逃がさぬ』
「助かった。ありがとう」
シグマが頭を撫でようと手を伸ばすと、ハクは走りながら少しだけ頭を低くした。
「ハク、怪我してない?」
御者台からフェルンが尋ねる。
『この程度の者に傷を負わされるほど衰えてはいない』
「本当に?」
『本当だ』
「なら、よかった」
フェルンは安心したように息を吐いた。
「しっかし、ハクがおっても逃げ切る奴がおるんやな」
シルフが荷台から顔を覗かせる。
『途中で二手に分かれた。一方を倒している間に、残りが散った』
「統率されているな」
紅蓮の表情が険しくなる。
「仲間を囮にしてでも逃げる訓練を受けているのかもしれない」
「次も襲ってくると思うか?」
シグマの問いに、ハクは周囲の匂いを探りながら答えた。
『すぐには近づかぬだろう。だが、諦めた匂いでもない』
「分かった。引き続き警戒を頼む」
『任せろ』
ハクが周囲にいる。
それだけで、張り詰めていた皆の表情が僅かに和らいだ。
日が暮れる前に街道を外れ、周囲を見渡しやすい場所で野営を始めた。
シグマと紅蓮が馬車の周囲へ結界石を配置し、シルフが少し離れた高台から周辺を確認する。
白鬼も手伝おうとしたが、黒鬼に肩を掴まれた。
「白鬼は休む」
「石を置くくらいなら大丈夫だよ」
「駄目」
「本当に何ともないってば」
「今日は安静って、約束した」
「……分かったよ」
白鬼は渋々、馬車の中へ戻った。
それを見届けた黒鬼が、今度はシグマへ視線を向ける。
「今夜は、どうするの?」
「紅蓮、俺、シルフの三人で交代する」
「私も見張る」
黒鬼が申し出たが、シグマは首を横に振った。
「明日は黒鬼に御者を頼みたい。今夜は眠ってくれ」
「でも……」
「ハクもいる。危険があれば、すぐに知らせてくれる」
「シグマも、昨日からあまり寝てない」
「交代で休むから大丈夫だ」
「その大丈夫は、信用できない」
黒鬼は不満そうにシグマを見る。
「俺より、白鬼のそばにいてやってくれ。目を覚ました時に黒鬼がいなければ、不安になるかもしれない」
白鬼が馬車の中から顔を出した。
「ならないよ」
「白鬼は黙って休む」
「はい……」
黒鬼に言われ、白鬼はすぐに顔を引っ込めた。
シグマは思わず笑う。
「黒鬼が一緒なら、白鬼も無茶をしない。頼めるか?」
「……分かった」
黒鬼は完全には納得していない様子だったが、最後には小さく頷いた。
白鬼、黒鬼、フェルンの三人が休む馬車の周囲には、念のため複数の結界石を配置した。
魔力を注ぐと薄い膜のような障壁が馬車を包み、外部からの侵入を防ぐ。
ハクにも三人の護衛を頼み、紅蓮たちは交代で見張りについた。
その夜、刺客は何度か接近してきた。
だが、そのたびにハクが早い段階で匂いと気配を捉え、見張りをしている者へ知らせた。
『右手の林に二人いる』
最初の見張りをしていた紅蓮のもとへ、ハクから警告が届く。
紅蓮は次に交代する予定だったシグマを起こし、二人で林へ向かった。
刺客はハクの存在に気づくとすぐに撤退したが、一人を紅蓮が斬り伏せ、残る一人もシグマが土の壁で退路を塞いで捕らえた。
しかし、捕らえた刺客は舌の奥に仕込んでいた毒を呑み、自ら命を絶った。
「そこまでして口を閉ざすか」
紅蓮が悔しそうに呟く。
「雇われただけの盗賊とは思えないな」
「ああ。相手は、かなり大きな組織かもしれない」
その後も少数の刺客が周囲を窺ったが、ハクの察知能力を突破することはできなかった。
白鬼たちが眠る馬車まで接近されることもなく、夜は静かに明けた。
朝を迎えると、シグマたちは簡単な食事を取り、すぐに野営地を片づけた。
黒鬼が御者台へ座り、ノクスとソルの手綱を握る。
「無理に速く走らせなくていい。一定の速さを保ってくれ」
「うん」
「危険を感じたら、自分で何とかしようとせずに止めるんだ」
「分かってる」
「それと――」
「シグマ」
黒鬼が振り返る。
「心配しすぎ」
「そうか?」
「うん」
荷台から白鬼も顔を出す。
「シグマは黒鬼を子供扱いしすぎだよ」
「白鬼に言われたくない……」
「どういう意味!?」
双子が言い合いを始める。
その姿を見た紅蓮が、小さく息を吐いた。
「いつもの調子に戻ったようだな」
「ああ」
シグマも安堵しながら頷いた。
ハクには馬車の先を走ってもらい、街道周辺の安全を確かめてもらう。
途中で大きな問題は起きず、夕暮れ前にはベルク村へ到着した。
ベルク村はラトナ村とは違い、周囲を広い畑と牧草地に囲まれた農村だった。
石造りの建物は少なく、家屋の多くは木と土壁で造られている。
仕事を終えた農夫たちが道具を担いで畑から戻り、家々の煙突からは夕食を作る煙が立ち上っていた。
「静かな村やな」
シルフが御者台から周囲を見渡す。
「刺客さえおらんかったら、ゆっくり休めそうなんやけど」
「油断はできない」
紅蓮が答える。
「ラトナ村からここまで、何人もの刺客が追ってきている。今夜も来ると考えた方がいい」
「分かっとるって」
シグマたちは馬車を置ける宿を探し、裏手に厩舎と荷車置き場のある宿屋へ入った。
ハクには村の外に残ってもらい、周辺の警戒を頼む。
『村の中へ入らなくてよいのか』
「ハクが入れば、住民が驚く。外から見張ってもらえるだけで十分だ」
『分かった。異変があれば知らせる』
「頼む」
宿では白鬼、黒鬼、フェルンを同じ部屋で休ませ、紅蓮、シグマ、シルフの三人で交代しながら見張ることにした。
順番は紅蓮、シグマ、シルフ。
さらにシグマは、全員へ小さな魔石を渡した。
「魔力を注ぐと、ほかの魔石が振動するようにしてある。何かあれば、すぐに知らせる」
「こんな便利なもの、いつ作ったん?」
「ラトナ村からここへ来る途中だ」
「馬車に揺られながら?」
「ああ」
シルフが呆れた顔をする。
「ほんまに寝る気ないやろ」
「今日は寝る」
「その言葉、信用できへんねんけど」
「シグマの魔石も、こっちへ渡して」
黒鬼が手を差し出す。
「どうして?」
「寝ているか確かめる」
「この魔石に、そんな機能はない」
「なら、作って」
「今から?」
「今から」
「黒鬼、今日はシグマを休ませるんじゃなかったの?」
白鬼が口を挟む。
黒鬼は少し考えてから、手を引っ込めた。
「……明日、作って」
「作る必要があるのか?」
「ある」
シグマは反論を諦め、警告用の魔石を全員へ配った。
夜が更け、紅蓮から見張りを引き継いだシグマは、宿の屋根の上から静まり返った村を見渡していた。
雲の切れ間から、細い月が覗いている。
虫の鳴き声。
遠くの家畜小屋から聞こえる物音。
風に揺らされた木戸の軋む音。
どれも農村では珍しくない、ありふれた夜の音だった。
『シグマ』
突然、ハクの思念が頭へ響いた。
シグマは即座に立ち上がる。
「どうした?」
『村の中に、妙な匂いが混じった』
「刺客か?」
『分からぬ。強い香草の匂いで、自らの匂いを隠している』
ハクが村の外で警戒していたにもかかわらず、既に村の中へ入り込まれている。
街道や門を使わず、畑や用水路から侵入したのかもしれない。
『三つだ。三つの気配が、宿へ近づいている』
「分かった。ハクは村の外側を頼む。逃げた者がいれば追ってくれ」
『気をつけろ。今までの者より、匂いに迷いがない』
思念が途切れる。
シグマは懐から警告用の魔石を取り出した。
魔力を注ごうとした、その瞬間。
背後で、瓦を踏む微かな音がした。
振り返るより先に身体を沈める。
シグマの頭上を、二本の曲刀が通過した。
「っ!」
屋根へ片手をつき、横へ跳ぶ。
直後、曲刀が瓦へ突き刺さった。
瓦が砕け、破片が夜の闇へ飛び散る。
黒衣の刺客は、音もなく曲刀を引き抜いた。
シグマが警告用の魔石へ魔力を流す。
懐の魔石が激しく振動し、同じ術式を刻んだ仲間たちの魔石へ異変を伝えた。
「何者だ」
シグマが問いかけても、刺客は答えない。
「フェルンが目的か?」
「――対象の名を口にするな」
初めて、低い声が返ってきた。
「やはり、フェルンを狙っているのか」
「知る必要はない」
刺客が腰を落とす。
「お前は、ここで死ぬ」
「そういうわけにはいかない」
シグマは両腕を構えた。
「俺が死んだら、あの子を守れない」
曲刀の刺客が屋根を強く蹴った。
二本の刃が左右からシグマの首を狙う。
シグマは右腕で片方を受け止め、もう一方を左の義手で弾いた。
甲高い金属音が夜の村へ響く。
そのまま刺客の腹部へ蹴りを放つ。
刺客は片膝を上げて防ぎ、シグマの足を受け止めた。
「軽い」
刺客が身体を回転させる。
曲刀がシグマの頬を掠め、認識阻害のマントを切り裂いた。
シグマは後方へ跳び、屋根の上を滑る。
刺客は一切間合いを空けなかった。
右。
左。
突き。
斬り上げ。
上下左右から、途切れることなく刃が迫る。
シグマは義手で受け、身体を捻り、紙一重で攻撃を避け続けた。
曲刀の先端が何度も服を裂き、腕や脇腹に浅い傷を刻む。
「守ると言いながら、逃げるだけか」
刺客が嘲る。
「この村で炎は使えない」
「甘いな」
「関係のない人を巻き込むよりはいい」
「その甘さが、お前の仲間を殺す」
曲刀がシグマの右腕へ絡みつく。
刺客は刃の湾曲を利用し、義手を外側へ引いた。
体勢を崩されたシグマの胸へ、刺客の膝が突き刺さる。
「ぐっ……!」
息が詰まり、身体が浮く。
続けて蹴りを受け、隣の屋根まで弾き飛ばされた。
シグマの身体が瓦を砕きながら転がる。
立ち上がろうとした時、宿の窓が勢いよく開いた。
「シグマ!」
紅蓮が大剣を手に屋根へ飛び出す。
別の窓から、弓を持ったシルフも姿を現した。
「ほんまに来よったな!」
「三人いる!」
シグマが叫ぶ。
屋根の影から、残る二人の刺客が姿を現した。
一人は細身の長剣を持ち、もう一人は両手に鋭い金属製の鉤爪を装着している。
「紅蓮、シルフ! 一人ずつ引き受ける!」
「分かった!」
「一人倒したら、すぐ加勢や!」
三人の刺客が同時に散る。
曲刀の刺客はシグマへ。
長剣の刺客は紅蓮へ。
鉤爪の刺客はシルフへと向かった。
紅蓮は迫る刺客を迎え撃ち、大剣を横薙ぎに振るった。
「はあっ!」
風を切り裂く一撃を、刺客は大きく身を反らして避ける。
刃先が黒い布を僅かに切り裂いた。
しかし、大剣を振り切った直後を狙い、刺客の長剣が紅蓮の喉へ伸びる。
「させるか!」
紅蓮は大剣の柄を引き寄せ、鍔元で長剣を受け止めた。
金属同士が激しくぶつかり、火花が散る。
「女にしては力がある」
「それが遺言か?」
紅蓮は刺客の長剣を押し返し、頭突きを放った。
額が顔面を捉える。
刺客が僅かによろめいた。
そこへ紅蓮の膝が腹部へ突き刺さる。
「ぐっ……」
「私の前で仲間を狙ったこと、後悔させてやる!」
紅蓮が大剣を振り上げる。
だが、足元の瓦が重みに耐えきれず崩れた。
体勢が僅かに傾いた瞬間、刺客の長剣が閃く。
紅蓮は咄嗟に肩を引いた。
刃が左肩を切り裂き、鮮血が飛ぶ。
「紅蓮!」
シグマが叫ぶ。
「こちらを見るな!」
紅蓮は傷口を押さえることなく、大剣を構え直した。
「私の相手は、私が倒す!」
「随分と威勢がいい」
刺客が剣についた血を振り払う。
「次は腕を落とす」
「やってみろ!」
二人が同時に踏み込んだ。
シルフは屋根の上を走りながら、素早く矢を放った。
一本目が刺客の胸へ迫る。
鉤爪が振るわれ、矢が弾かれた。
二本目は足。
三本目は肩。
刺客は上体を捻り、最小限の動きで矢を避けていく。
「ちょこまかと!」
「弓使いが、自ら距離を縮めるとは愚かだ」
「誰が縮めとるって?」
シルフの口元が吊り上がる。
刺客の足元に刺さった一本目の矢から、微かな風が巻き起こった。
「うちは、お前をそこに誘導しとったんや!」
風が刺客の足を払う。
身体が大きく傾いた。
その隙を逃さず、シルフは四本目の矢を放つ。
矢が刺客の左肩を貫いた。
「どうや!」
「この程度で……!」
刺客は肩に刺さった矢を鉤爪で切断した。
そのまま風の流れを強引に突破し、シルフとの距離を一気に詰める。
「速っ――」
シルフは弓で鉤爪を受け止めた。
鋭い爪が弓へ食い込む。
「弓使いは、懐へ入られれば終わりだ」
「決めつけんなや!」
シルフが刺客の足を踏みつけ、頭突きを放つ。
刺客は頭を逸らして避けたが、シルフはさらに膝を突き上げた。
腹部へ当たる寸前、刺客の左手がシルフの足を掴む。
「捕らえた」
「まずっ……」
シルフの身体が持ち上げられ、そのまま屋根へ叩きつけられた。
「がっ……!」
瓦が砕ける。
シルフが息を吐き出した瞬間、鉤爪が振り下ろされた。
横へ転がって避ける。
鉤爪が屋根を深く抉った。
シルフは転がりながら矢を一本抜き、それを短剣のように握る。
「弓が使えへんでも、戦いようはあるんや!」
立ち上がる勢いを利用し、矢じりを刺客の太腿へ突き刺す。
「ぐっ!」
刺客の動きが一瞬止まった。
シルフは弓を両手で持ち、横薙ぎに振るう。
弓が刺客の側頭部を捉えた。
だが、浅い。
刺客は倒れず、シルフの腹部へ鉤爪を突き出した。
シルフは身体を捻ったが、完全には避けられなかった。
爪が脇腹を抉る。
「あぐっ……!」
血が飛び散る。
シルフは数歩後退し、片膝をついた。
「シルフ!」
「見るな言うとるやろ!」
苦痛に顔を歪めながらも、シルフは叫び返す。
「こいつは、うちが何とかする!」
「何とかする? 立つことすらできないというのに」
刺客が嘲笑しながら近づく。
シルフは血の流れる脇腹を押さえ、震える足で立ち上がった。
「まだ……倒れてへん」
「ならば、今度こそ倒してやる」
「やれるもんなら、やってみい!」
一方、宿の部屋では黒鬼が魔力障壁を張っていた。
窓と扉を覆うように、淡い光の壁が広がっている。
白鬼は寝台から降り、いつでも攻撃魔法を放てるよう身構えていた。
フェルンも短剣を両手で握っている。
「外に出たら駄目」
黒鬼が二人へ告げる。
「でも、シグマたちが……」
「信じて、待つ」
黒鬼の声も震えていた。
それでも障壁を維持し、外の戦いが終わるのを待つしかなかった。
シグマは二本の曲刀を左右の義手で受け止めていた。
刺客が力を込め、刃をシグマの首へ近づけてくる。
「仲間に気を取られているぞ」
「気にするのは……当然だ!」
シグマは右の義手で曲刀を押し返した。
左腕で刺客の手首を掴み、身体を反転させる。
刺客の身体を背負うように持ち上げ、屋根へ投げ落とした。
衝撃で瓦が砕ける。
しかし、刺客は倒れながらシグマの腕を掴み、そのまま一緒に引き倒した。
曲刀の柄頭がシグマのこめかみを打つ。
視界が揺れた。
刺客はシグマの上へ跨がり、曲刀を逆手に持つ。
「終わりだ」
刃が胸へ振り下ろされる。
シグマは両手で刺客の手首を掴んだ。
切っ先がゆっくりと胸へ近づく。
「お前たちの目的は……何だ」
「死ぬ者が知る必要はない」
「フェルンを、どうするつもりだ」
「道具は、持ち主のもとへ戻すだけだ」
「道具……?」
刺客の言葉に、シグマの表情が変わった。
「あの子は、道具じゃない」
「我々にとっては道具だ。生きていようと、死んでいようと、利用する価値がある」
曲刀の先端がシグマの胸へ触れる。
「お前たちを殺したあと、対象を回収する」
「……させない」
「お前には何も守れない」
その時、別の屋根から鈍い音が響いた。
紅蓮が長剣の刺客に蹴り飛ばされ、大剣を手放した。
さらに細い刃が紅蓮の脇腹を深く貫く。
「紅蓮!」
「がっ……!」
刺客が長剣を引き抜く。
紅蓮の身体が崩れ、屋根の上へ倒れた。
同時に、シルフの持っていた弓が鉤爪によって真っ二つに折られた。
鋭い爪がシルフの肩から胸元を深く切り裂く。
「シルフ!」
シルフの身体が血を撒き散らしながら転がり、軒先で止まった。
二人の刺客が、それぞれ武器を持ち上げる。
紅蓮とシルフへ、止めを刺そうとしていた。
「やめろ……」
右の義手の奥で、炎帝石が脈打った。
ドクン。
心臓とは違う、もう一つの鼓動。
ドクン。
赤黒い光が義手の隙間から漏れ出す。
「やめろ!」
シグマの右腕から、炎が噴き上がった。
曲刀の刺客が咄嗟に離れる。
シグマはゆっくり立ち上がった。
焼けるような熱が腕から肩へ流れ込み、胸の奥まで侵食してくる。
『殺せ』
声が聞こえた。
低く、重く、怒りに満ちた声。
男とも女とも分からない。
それは耳からではなく、シグマの意識の内側へ直接響いていた。
『敵を焼け』
「……誰だ」
『奪う者を許すな』
炎帝石の光が強くなる。
シグマの目の前に、見覚えのない光景が浮かんだ。
炎に包まれた村。
崩れ落ちる家々。
血に濡れた無数の死体。
誰かを失った悲しみ。
守れなかった後悔。
全てを奪った者たちへの、際限のない憎悪。
それらが激流となって、シグマの意識へ流れ込んでくる。
『殺せ』
『全て燃やせ』
『奪われる前に奪え』
『敵を残すな』
誰の感情なのか、シグマには分からなかった。
ただ、胸の奥から怒りが溢れ出す。
紅蓮を傷つけた。
シルフを傷つけた。
白鬼を苦しめた。
フェルンを道具と呼んだ。
許せない。
殺せ。
燃やせ。
一人も残すな。
炎帝石の声と、自分の感情の境目が分からなくなっていく。
「シグマ!」
紅蓮の声が遠くに聞こえた。
「使うな……その力は、危険だ……!」
「もう遅い」
シグマの口から言葉が漏れる。
だが、それが自分の声なのかも分からない。
「全て、燃やす」
曲刀の刺客が後退する。
「何だ、その力は……」
シグマの姿が消えた。
次の瞬間、刺客の目の前へ踏み込んでいる。
曲刀が左右から振るわれた。
シグマは右手で二本の刃をまとめて掴む。
「馬鹿な……!」
刃が赤熱し、飴のように歪んだ。
一瞬で溶け落ちる。
シグマは刺客の顔を右手で掴んだ。
「お前が、あの子を道具と呼んだのか」
「離せ!」
刺客がシグマの腕へ蹴りを放つ。
シグマは微動だにしない。
「お前が、仲間を傷つけたのか」
「何を……」
「なら、燃えろ」
炎が爆発した。
刺客の頭部から全身へ、赤黒い炎が一気に広がる。
断末魔を上げる暇さえなかった。
刺客の身体は一瞬で黒く焼け、炭となって崩れ落ちた。
シグマはそれを見ても、何も感じなかった。
「次だ」
長剣の刺客は紅蓮へ止めを刺すことを諦め、シグマへ向き直った。
両手で長剣を構え、一気に踏み込んでくる。
鋭い突きがシグマの胸を狙う。
シグマは左の義手で長剣を掴んだ。
掌から土が広がり、長剣を一瞬で覆う。
土が岩のように硬化し、刃の動きを封じた。
「こいつ……!」
刺客は剣から手を離し、腰の短剣を抜こうとする。
それより早く、シグマの右手が胸倉を掴んだ。
「お前も、仲間を傷つけた」
刺客がシグマの顔へ拳を叩き込む。
一度。
二度。
三度。
それでも、シグマは手を離さなかった。
「死ね!」
刺客が短剣を抜き、シグマの胸へ突き立てようとする。
「死ぬのは、お前だ」
炎を纏った拳が、刺客の腹部へ突き刺さった。
赤黒い炎が身体の内側から噴き出す。
「がああああっ!」
断末魔が夜の村へ響いた。
刺客の全身が炎に呑み込まれ、黒く焼けながら屋根の上へ崩れ落ちた。
その光景を目にした鉤爪の刺客が、シルフへ止めを刺すのをやめた。
「化け物め……!」
傷ついたシルフを置き去りにし、屋根から屋根へ飛び移って逃走する。
村の外へ向かうつもりなのだ。
『逃がすな』
炎帝石の声が響く。
『追え』
シグマが右手を向ける。
掌の前に、炎が渦を巻いて集まっていく。
逃げる刺客だけではない。
その向こうには民家がある。
眠っている住民たちがいる。
だが、今のシグマには、その全てが黒い影にしか見えなかった。
『敵だ』
『燃やせ』
『全て消せ』
炎が膨れ上がる。
民家を何軒も呑み込めるほどの炎だった。
「シグマ!」
宿の部屋から白鬼の声が聞こえた。
「やめて!」
続いて黒鬼の声。
「シグマ!」
フェルンが窓から身を乗り出していた。
「戻ってきて!」
その言葉が、シグマの意識へ届いた。
白鬼。
黒鬼。
フェルン。
紅蓮。
シルフ。
守ると決めた仲間たちの顔が浮かぶ。
右手に集まっていた炎が大きく揺らいだ。
『邪魔をするな』
炎帝石の声が強くなる。
『敵を焼け』
「違う……」
『敵を残せば、また奪われる』
「違う」
『全て燃やせば、もう失わずに済む』
「違う!」
シグマは左手で右腕を掴んだ。
義手の付け根から皮膚が焼ける。
それでも、無理やり腕を下へ向けた。
「俺が守りたいのは……こんな炎じゃない!」
集まっていた炎が足元へ放たれる。
屋根の一部が爆発し、赤い火柱が夜空へ立ち上った。
衝撃でシグマの身体が後方へ吹き飛ぶ。
逃げる鉤爪の刺客は、その間にも村の外へ向かっていた。
あと少しで、村を囲む畑へ出られる。
そこまで逃げれば、闇に紛れて追跡を振り切れる。
「化け物どもが……!」
刺客が最後の屋根から地面へ飛び降りる。
着地と同時に走り出した、その前方から白銀の巨体が飛び出した。
『逃がさぬ』
「なっ――」
ハクの前脚が、刺客の胸をまともに捉えた。
鉤爪の刺客は地面へ叩きつけられ、そのまま土の上を転がっていく。
すぐに起き上がり、両手の鉤爪を構えた。
「獣が!」
刺客がハクへ飛びかかる。
左右の鉤爪が、白銀の毛並みを狙う。
ハクは身体を僅かに沈めて一撃目を避けた。
二撃目を前脚で弾く。
刺客の腕が大きく跳ね上がる。
次の瞬間、ハクの巨大な顎が刺客の胴体を捉えた。
鉤爪がハクの肩を掠める。
だが、浅い。
ハクは刺客を咥えたまま首を振り、地面へ叩きつけた。
鈍い音が響く。
それでも刺客は短剣を抜こうとした。
ハクの前脚が胸を押さえつける。
『終わりだ』
ハクの牙が刺客の喉元へ食い込んだ。
鉤爪の刺客の身体から力が抜ける。
今度こそ、完全に動かなくなった。
『シグマ! 意識を保て!』
ハクの思念が響く。
シグマは焼けた屋根へ膝をついた。
右腕から、まだ赤黒い炎が漏れている。
頭の奥では、炎帝石の声が何度も響いていた。
『殺せ』
『焼け』
『全て奪え』
「黙れ……」
シグマは自分の頭を左手で押さえた。
「俺の身体だ……勝手に使うな……!」
右腕の炎が激しく揺らぐ。
やがて赤黒い光が弱まり、義手の隙間へ吸い込まれるように消えていった。
声も次第に遠ざかっていく。
『次は、全てを寄越せ』
最後にその言葉を残し、炎帝石は沈黙した。
「紅蓮!」
シグマはふらつきながら立ち上がった。
全身の内側で、何かが破裂し続けている。
筋肉が裂け、骨が軋み、血管の中を炎が流れているようだった。
それでも倒れるわけにはいかない。
まず、紅蓮のもとへ向かう。
「紅蓮、聞こえるか」
「……ああ」
紅蓮は脇腹を押さえながら、苦しそうに息をしていた。
「すまない……負けた」
「喋らなくていい」
「シルフを……先に……」
「二人とも助ける」
シグマは紅蓮を抱き上げ、宿の部屋へ運んだ。
黒鬼が障壁の一部を開く。
「紅蓮!」
「腹を刺されてる。出血が多い」
「寝台に寝かせて!」
シグマは紅蓮を寝台へ横たえた。
黒鬼がすぐに両手を傷口へかざす。
柔らかな白い光が、紅蓮の身体を包んだ。
「シグマ、右腕が……」
「俺は大丈夫だ。先に紅蓮を頼む」
「でも……!」
「シルフを連れてくる」
シグマは黒鬼の返事を待たず、再び屋根へ戻った。
シルフは軒先に倒れたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
「シルフ」
「シグマ……?」
「ああ。もう大丈夫だ」
「敵は……」
「二人は倒した。鉤爪の刺客も、ハクが仕留めた」
「そか……よかった……」
シルフが弱々しく笑う。
「うち、格好悪いな……守る言うたのに、負けてもうた」
「格好悪くない」
「慰めんでええよ……」
「シルフが戦ってくれたから、白鬼たちは無事だった」
シグマはシルフの身体を抱き上げた。
「十分、守ってくれた」
「そういうこと……さらっと言うん、ずるいで……」
シルフは目を閉じ、シグマの胸元へ頭を預けた。
「寝るな。黒鬼のところへ着くまで起きていてくれ」
「無茶言うなぁ……眠いねん……」
「俺と話せ」
「何を話すん?」
「何でもいい」
「ほな……今度、うちにもハクの背中を貸して……」
「分かった」
「一番ええ場所な……」
「ああ」
「約束やで……」
「約束する。だから、もう少しだけ起きていてくれ」
シグマはシルフへ呼びかけ続けながら、部屋へ戻った。
部屋では、黒鬼が紅蓮の治療を続けていた。
「紅蓮は?」
「傷は塞がった……もう大丈夫。でも、血を失いすぎてる」
「次はシルフを頼む」
シグマは空いている寝台へシルフを寝かせた。
黒鬼がすぐに移動し、シルフの肩と脇腹へ手をかざす。
「傷が深い……」
「治せるか?」
「治す」
黒鬼は涙を拭い、強い口調で答えた。
「絶対に治すから」
回復の光がシルフの身体を包む。
裂かれた肩の傷が少しずつ閉じ、脇腹から流れていた血も止まっていく。
シルフの苦しそうだった呼吸が、徐々に安定した。
「黒鬼……」
「喋らないで」
「助かったわ……ありがと」
「まだ終わってない。大人しくして」
「はい……」
黒鬼は残った魔力を惜しまず、シルフへ注ぎ続けた。
やがて傷が完全に塞がる。
黒鬼は額の汗を拭い、シルフの胸元へ耳を当てた。
「呼吸も、脈も大丈夫……」
「本当か?」
「うん。紅蓮もシルフも、もう大丈夫」
「そうか……」
シグマの全身から、力が抜けた。
「よかった……」
視界が大きく揺れる。
右肩から、焼けた臭いが漂っていた。
右の義手と肩の接合部は激しく焼け爛れ、衣服の下には赤黒い傷が無数に広がっている。
炎帝石から逆流した力が、身体の内側で何度も爆発したような傷だった。
「シグマ?」
黒鬼がようやく異変に気づく。
シグマは何か答えようとしたが、声が出なかった。
そのまま膝が崩れる。
「シグマ!」
黒鬼が咄嗟に身体を支えた。
しかし、体格差に耐えきれず、二人で床へ倒れ込む。
「どうして……」
黒鬼はシグマの服を開き、その下に広がる傷を見た。
目から大粒の涙が溢れる。
「どうして、こんなになるまで黙ってたの……!」
「二人を……先に……」
「シグマも死にかけてる!」
黒鬼が声を荒らげた。
「いつもそう……いつも自分のことを後にする……!」
怒りと悲しみで、声が震えている。
白鬼とフェルンもシグマのそばへ駆け寄った。
「シグマ、目を開けて!」
「シグマ!」
フェルンが左手を強く握る。
「置いていかないで!」
「大丈夫……少し、眠いだけだ」
「嘘! 全然大丈夫じゃない!」
黒鬼は泣きながら両手をシグマの胸元へかざした。
白い光が全身を包み込む。
だが、炎帝石による傷は深い。
表面の火傷だけではなく、筋肉や血管、内臓まで傷ついていた。
「お願い……治って……!」
黒鬼が残った魔力を絞り出す。
「死なせない……絶対に、死なせないから!」
その声を最後に、シグマの意識は暗闇へ沈んだ。
シグマが再び目を覚ました時、窓から朝の光が差し込んでいた。
全身が鉛のように重い。
右肩には、焼けるような痛みが残っている。
「……朝か」
寝台の横に座っていた黒鬼が、ゆっくり顔を上げた。
目の周りが赤く腫れている。
「シグマ……?」
「ああ。心配をかけ――」
「馬鹿!」
突然の怒声に、シグマは目を見開いた。
隣で眠っていた白鬼とフェルンも飛び起きる。
「起きたの!?」
「シグマ!」
二人は一瞬だけ安堵した顔を浮かべた。
しかし、すぐに黒鬼と同じ険しい表情になる。
「どうして、炎帝石の力をあんな使い方したの!」
「紅蓮とシルフが危なかったから……」
「だからって、シグマまで死にかけたら意味ないよ!」
白鬼が寝台へ身を乗り出す。
「黒鬼がどれだけ泣いたと思ってるの!」
「白鬼も……泣いてた」
「黒鬼、それは今言わなくていい!」
「二人とも泣いてた」
フェルンが付け加える。
「フェルンも泣いてたでしょ!」
「フェルンの話は今してない」
「皆、泣いていたんだな……」
「誰のせいだと思ってるの!」
三人の声が重なり、シグマは言葉を失った。
フェルンは両手を腰に当て、寝台の上のシグマを睨む。
「シグマは、フェルンに言った」
「何を?」
「一人で決めなくていい。一人で怖がらなくていいって」
「ああ」
「でも、シグマは一人で決めた」
「……そうだな」
「皆に相談しないで、危ない力を使った」
「あの時は、相談する時間がなかった」
「言い訳しない」
「はい……」
「シグマは、炎に呑まれそうになってた」
フェルンの耳が力なく伏せられる。
「フェルンたちのことも、分からなくなってた」
「声は聞こえていた。ただ、身体が言うことを聞かなくて……」
「怖かった」
フェルンがシグマの左手を握る。
「シグマが、シグマじゃなくなると思った」
シグマは何も言い返せなかった。
あの時、フェルンの声が届かなければ、村ごと焼き払っていたかもしれない。
「……ごめん」
「駄目」
「反省してる」
「足りない」
黒鬼と白鬼も同時に頷く。
「炎帝石を絶対に使うな、とは言わない」
黒鬼が涙を堪えながら告げる。
「でも、意識を奪われそうになったら止めて。私たちを呼んで」
「分かった」
「本当に?」
「ああ。約束する」
「破ったら?」
白鬼が尋ねる。
「その時は……好きなだけ叱ってくれ」
「今も好きなだけ叱ってるよ」
「そうだったな……」
シグマが小さく笑うと、三人の顔がさらに険しくなった。
「笑わない!」
「はい」
奥の部屋から、紅蓮とシルフが顔を出す。
二人とも包帯を巻いているものの、自分の足で歩けるまで回復していた。
「目を覚ましたか、シグマ」
「紅蓮、シルフ。傷は?」
シルフが呆れた顔をする。
「目ぇ覚まして最初に言うんが、それかいな」
「二人とも、大丈夫なのか?」
「黒鬼のおかげでな。まだ痛むが、命に別状はない」
紅蓮が答えると、シグマは安堵の息を吐いた。
「よかった」
「よくない!」
白鬼、黒鬼、フェルンの声が揃う。
紅蓮とシルフが揃って肩を震わせた。
「笑わないで!」
今度は白鬼が二人を睨む。
「二人も、ついさっきまで怒られてたでしょ!」
「それは……そうだが」
紅蓮が気まずそうに視線を逸らす。
「うちらも逃げてきたわけやないで」
シルフも頬を掻いた。
「しっかり怒られて、反省したから出てきたんや」
「まだ終わってない」
黒鬼の一言で、二人の表情が固まった。
「まだ続くんか……」
「当然」
「三人とも、今日は絶対に安静」
フェルンが紅蓮、シルフ、シグマを順番に指差す。
「勝手に部屋から出たら駄目」
「私は少し身体を動かした方が――」
「駄目」
「せやけど、一日中寝とるんも――」
「駄目」
「俺はもう――」
「シグマは特に駄目!」
シグマは最後まで言わせてもらえなかった。
紅蓮とシルフも諦めたように肩を落とす。
「分かった。今日は大人しくしている」
「うちも寝とくわ」
「俺も安静にする」
フェルンは三人の顔を一人ずつ確かめる。
「本当に?」
「ああ」
「本当だ」
「ほんまやって」
「……なら、見張ってる」
こうして紅蓮、シルフ、シグマの三人は、フェルンの厳しい監視のもと、一日安静にすることになった。
「フェルン。三人が勝手に動こうとしたら、すぐに呼んで」
出かける支度を整えた白鬼が言う。
「分かった」
「特にシグマをよく見ていて」
黒鬼が念を押した。
「シグマは大丈夫だと言いながら、勝手に動くから」
「シグマを一番見る」
「俺だけ扱いが違わないか?」
「シグマが一番信用できない」
フェルンに言い切られ、シグマは返す言葉を失った。
シルフが寝台の上で腹を抱えて笑う。
「あかん、傷に響く……せやけど、これは反論できへんわ」
「シルフもだぞ」
「うちは大人しく寝とるって」
「さっき窓の外を見に行こうとした」
「外の様子が気になっただけやん」
「同じだ」
紅蓮に指摘され、シルフは布団を引き上げて顔を隠した。
白鬼と黒鬼は顔を見合わせる。
「本当に大丈夫かな」
「不安……」
「フェルンに任せて」
フェルンが胸を張る。
「勝手に動いたら、怒る」
「それでも動いたら?」
「上に乗る」
フェルンの視線がシグマへ向けられる。
「それは見張りなのか?」
「動けなくする」
シグマの問いに、フェルンは真剣な顔で答えた。
白鬼は満足そうに頷く。
「じゃあ、任せたよ」
「うん」
白鬼と黒鬼は護衛を頼むため、ベルク村の冒険者ギルドへ向かった。
二人が戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
廊下から複数の足音が聞こえる。
「誰か来た」
フェルンが椅子から立ち上がる。
扉が開き、白鬼と黒鬼が部屋へ入ってきた。
「ただいま」
「戻った……」
二人の後ろには、見覚えのない二人の女性が立っていた。
一人は長い黒髪を高い位置で束ねた、凜とした雰囲気の女性だった。
切れ長の瞳に、整った顔立ち。黒を基調とした軽装鎧を身につけ、腰には細身の魔剣を差している。
もう一人は淡い茶色の髪を左右でまとめた、柔らかな雰囲気の女性だった。
動きやすい武道着をまとい、手には黒い革製の手甲を装着している。親しみやすい笑顔を浮かべているが、衣服の上からでも全身が無駄なく鍛えられていることが分かった。
白鬼が二人を部屋の中へ招く。
「こっちがベルク村のギルドマスター、凛さん」
黒髪の女性が小さく頭を下げる。
「そして、こっちがサブマスターのメイメイさん」
「初めまして。よろしくお願いします」
メイメイは両手を重ね、穏やかに一礼した。
白鬼が説明を続ける。
「凛さんは魔剣士で、メイメイさんはモンク。二人ともミスリル等級なんだって」
「二人ともか?」
紅蓮が驚いたように二人を見る。
ミスリル等級ともなれば、長年の経験と実績を持つ一流の冒険者である。
小さな農村のギルドに、二人も所属しているとは思っていなかった。
凛は紅蓮の視線に気づくと、わずかに眉を上げた。
「何か問題でも?」
「いや。これほど小さな村に、ミスリル等級が二人もいるとは思わなかっただけだ」
「失礼ね。村が小さくても、守るべき人の数は変わらないわ」
「悪い。侮ったつもりはない」
「ならいいけれど」
紅蓮と凛の間に、僅かに張り詰めた空気が流れる。
メイメイが困ったように笑った。
「凛は少し言い方が厳しいだけです。怒ってはいませんよ」
「余計なことを言わないで、メイメイ」
「ほら、こういうところです」
「どういうところよ」
凛が睨んでも、メイメイは変わらず笑顔を浮かべていた。
シグマは寝台から上体を起こし、二人へ頭を下げた。
「シグマです。怪我をしているので、こんな姿で申し訳ありません」
「そのままでいいわ」
凛が制止する。
「全身に傷を負った人間が、無理に礼儀を示そうとしなくていい。起き上がる必要もないわよ」
「ですが――」
「寝ていなさい。あなたの怪我が悪化すれば、治療した仲間の努力まで無駄になるわ」
「……分かりました」
凛の言葉には反論を許さない強さがあった。
シグマが素直に身体を横たえると、凛は満足したように頷く。
「聞き分けは悪くなさそうね」
「いいえ」
黒鬼が即座に否定した。
「シグマは、見ていないと勝手に動く」
「それはいけないわね」
「まだ何もしてないだろ」
「しようとはしてた」
フェルンから指摘が飛ぶ。
「さっき、水を取りに行こうとしてた」
「それくらいは自分でできる」
「駄目って言った」
フェルンは腕を組み、シグマを睨んだ。
そのやり取りを見ていたメイメイが、口元へ手を添えて笑う。
「随分と可愛らしい看護役ですね」
「フェルンが見張る。シグマはすぐに無茶するから」
「頼もしいですね。では、シグマさんが勝手に動いたら、私たちにも教えてください」
「分かった」
「メイメイさんまで……」
「怪我人は大人しく看護されるものですよ」
穏やかな口調だったが、その笑顔には逆らえない圧力があった。
シグマは諦めて枕へ頭を戻した。
「それで、二人は護衛の依頼を受けてくれたのか?」
紅蓮が尋ねる。
「ええ。その話をするために来たの」
凛は近くの椅子を引き、腰を下ろした。
メイメイもその隣へ座る。
「まず、昨夜の状況を確認させてもらうわ。襲撃者は三人で間違いない?」
「ああ」
シグマが答える。
「一人は両手に曲刀。残りは長剣と鉤爪を使っていた」
「全員が手練れだった」
紅蓮が悔しそうに付け加える。
「気配の消し方も、互いの動きも統率されていた。寄せ集めの暗殺者ではない」
「こっちの相手も、弓使いへの対処に慣れとった」
シルフが傷の残る脇腹を押さえる。
「うちが距離を取ろうとしたら、先回りして塞ぎよった。こっちの戦い方を知っとったようにも感じたわ」
凛は黙って話を聞き、僅かに目を細めた。
「襲撃者の遺体は?」
「曲刀と長剣を使っていた二人は、俺が炎帝石で焼いた」
シグマは右の義手へ視線を落とした。
「鉤爪の刺客は、シルフを傷つけたあと、俺を見て逃げ出した。そいつは村の外へ出る前に、ハクが倒してくれた」
「白い大狼のことね」
「ああ。ハクは俺の相棒だ」
「従魔ではないの?」
「ハクを従わせているつもりはない。互いに助け合っている」
「そう。対等な仲間ということね」
凛は僅かに口元を緩めた。
「遺体は私たちも確認したわ。鉤爪の男は、村外れの用水路付近で倒れていた。胸と喉に大狼の爪痕と牙の痕が残っていたから、戦い方とも一致している」
「残る二人は……本当に真っ黒でした」
メイメイが珍しく困ったような表情を浮かべる。
「身体だけでなく、武器や防具まで焼けていました。あれでは所持品から身元を調べることもできません」
「ごめんなさい」
フェルンが俯く。
「フェルンのせいで、シグマが……」
「フェルンのせいじゃない」
シグマがすぐに否定する。
「力を使ったのは、俺が決めたことだ」
「でも……」
「責めているわけではないわ」
凛が静かに口を挟んだ。
「仲間が殺されかけていたのなら、冷静でいられなかったことも理解できる。ただ――」
凛の視線が、シグマの右腕へ向けられる。
「あの炎を、あなたは完全に制御できるの?」
「できませんでした」
「炎帝石に意識を奪われかけた?」
「ああ。頭の中に声が聞こえた。全て燃やせ、敵を残すなと何度も言われた」
「その声に従っていたら、どうなっていたと思う?」
「刺客だけじゃなく、村まで焼いていたかもしれない」
「そうでしょうね」
凛の声が厳しくなる。
「あの力は強い。けれど、自分を失う力は切り札にはならない。敵と一緒に、守りたい者まで焼く可能性があるもの」
「分かっています」
「本当に?」
凛の問いに、シグマは一瞬答えられなかった。
白鬼たちの声が届かなければ、炎を止められなかった。
それは紛れもない事実だった。
「……次は、同じ使い方をしません」
「使わないとは言わないのね」
「必要になる時が来るかもしれない。ただ、意識を奪われる前に止める。俺一人で無理なら、皆に止めてもらう」
「それなら、今は十分よ」
「凛。少し言いすぎです」
メイメイが静かに口を挟む。
「本人が一番分かっている顔をしています」
「分かっているだけでは、繰り返す人間もいるのよ」
「凛も昔、同じことをマリア姉さんに言われていましたね」
「今は私の話をしていないでしょう」
凛が顔を逸らす。
「それで、刺客の身元は分かったのか?」
紅蓮が尋ねる。
「鉤爪の刺客が身につけていた装備は、全て市販品だったわ。衣服にも武器にも、製作者や所属を特定できる印は残されていなかった」
「徹底しとるな」
「ええ。ただし、身体の動かし方には共通点があった」
凛が腕を組む。
「三人とも、軍か、それに近い組織で訓練を受けた可能性が高い。互いの役割も明確に分かれていたのでしょう。曲刀の男がシグマを押さえ、長剣の男が紅蓮を倒す。鉤爪の男はシルフへ接近し、遠距離攻撃を封じる」
「最初から私たちの戦い方を知っていた、ということか」
「少なくとも、事前に調べていた可能性は高いわね」
「やはり、ディアグランディアの……」
紅蓮が呟く。
「可能性はある。でも、断定はできないわ」
凛は慎重に答える。
「装備を偽装し、別の国へ疑いを向けることも珍しくない。今の段階で決めつければ、相手の思惑に乗ることになる」
「敵がどこにいるか分からないまま、守らなければならないのか」
「そういうことになるわね」
凛の視線がフェルンへ向けられる。
フェルンは少し身を強張らせ、シグマの寝台へ近づいた。
凛はそれに気づくと、すぐに視線を外す。
「事情を聞き出すつもりはないわ」
「聞かないの?」
「言いたくないことを無理に話させても、正しい情報が得られるとは限らないもの。それに、あなたたちが守ろうとしている。その事実だけで、今は十分よ」
「フェルンが悪いかもしれない」
「本当に悪い人間は、自分が悪いかもしれないなんて顔をしないわ」
凛は淡々と答えた。
「少なくとも、子供一人を捕らえるために武装した者を何人も送り込む側を、私は信用しない」
「凛は子供に優しいですからね」
メイメイが笑顔で口を挟む。
「別に、子供だからというわけではないわ」
「先月も、迷子をギルドで預かって、一晩中一緒に両親を探していましたよね」
「あれは仕方がなかったの。ほかに手の空いている者がいなかっただけよ」
「泣いていた子にお菓子も買ってあげていました」
「黙りなさい」
「一緒の寝台で眠ったとも聞いたよ」
白鬼が楽しそうに付け加える。
「白鬼!」
「ギルドで聞いたんだもん」
凛の頬が僅かに赤くなる。
フェルンはしばらく凛を見つめたあと、少しだけ警戒を解いた。
「凛は、優しい人?」
「それを自分で答えるのは難しいわね」
「怖そうやけど、悪い人やないで」
シルフが言う。
「なぜ初対面のあなたが答えるのよ」
「顔見たら、何となく分かるやん」
「その判断方法は信用できないわ」
「でも、うちの顔を見て美人やと思ったやろ?」
「思っていない」
「答えるの早すぎへん!?」
シルフが身体を起こしかけ、傷の痛みに顔を歪める。
「いたた……」
「動かない」
黒鬼がシルフを布団へ押し戻す。
「今のは凛さんが悪いやろ」
「勝手に動いたあなたが悪いわ」
「厳しすぎるで……」
「ですが、凛の言う通りです」
メイメイがシルフの傍らへ移動し、包帯の上から傷の具合を確かめる。
「少し熱を持っていますね。黒鬼さんの回復魔法で傷は塞がっていますが、失った血まではすぐに戻りません」
「やっぱり、今日は寝とかなあかん?」
「はい。明日も無理は禁物です」
「明日もかぁ……」
「無理をすると、もっと長く休むことになりますよ」
メイメイがにこやかに告げる。
シルフは逆らうことを諦め、布団を肩まで引き上げた。
「分かった。大人しくするわ」
「よろしいです」
「なんやろ。黒鬼より笑顔やのに、逆らったらあかん感じがする……」
「メイメイは昔からそうなのよ」
凛が呆れたように答える。
「笑いながら人を追い詰めるのが得意なの」
「人聞きの悪いことを言わないでください。私はお願いしているだけです」
「断った人間がどうなるか、教えてあげたら?」
「訓練場へ連れていくだけですよ」
メイメイは笑顔のまま拳を握る。
革製の手甲から、ぎしりと音が鳴った。
シルフは何も言わずに目を逸らした。
「メイメイには逆らわない方がよさそうだな」
紅蓮が真顔で呟く。
「賢明ね」
「凛さんも逆らってへんの?」
「私は別よ」
「昨日、書類仕事を放置して出かけようとした凛を、訓練場まで運びました」
「メイメイ!」
「運ばれとるやん」
シルフが噴き出す。
白鬼とフェルンも笑い、黒鬼まで口元を僅かに緩めた。
凛は咳払いをして、話を戻す。
「とにかく、今夜の護衛は私たちが引き受けるわ」
「報酬はいくらになる?」
シグマが尋ねると、凛は首を横に振った。
「必要ないわ」
「ですが、ミスリル等級の冒険者を二人も雇うなら、それなりの報酬を支払うべきです」
「今回は正式な依頼として扱わない。村の治安維持も、ギルドマスターである私の仕事よ」
「でも、俺たちの事情に巻き込むことになる」
「昨夜、既に村の中で戦闘が起きているわ。あなたたちだけの問題ではなくなったの」
凛の声が少し厳しくなる。
「刺客は村人が眠っている屋根の上で戦い、逃走のために用水路まで使った。放置すれば次は民家へ侵入するかもしれない。それを防ぐのは、私たちの役目よ」
「だからといって、無償というのは……」
「本当に真面目な人ですね」
メイメイが微笑む。
「ですが、凛が無償で引き受ける理由は、もう一つあります」
「メイメイ」
「マリア姉さんの知り合いなのでしょう?」
凛が止めるより先に、メイメイが口にした。
「マリアさんを知っているのか?」
シグマが尋ねる。
凛は諦めたように息を吐いた。
「昔、少し世話になったのよ」
「少しどころではありません」
「余計なことは言わなくていいわ」
「凛がまだ駆け出しだった頃、依頼先で無茶をして、魔物の群れに囲まれたことがありまして」
「メイメイ」
「そこへ偶然マリア姉さんが通りかかり、助けてもらったのです」
「偶然じゃないわ。あの人は私たちを追いかけてきたのよ」
「どうして追いかけてきたん?」
シルフが興味を示す。
「凛がギルドの忠告を聞かず、危険区域へ入ったからです」
「今のシグマみたいやな」
「俺はそこまで無茶をしていない」
部屋にいる全員の視線が、シグマへ集まる。
「……したかもしれない」
「認めるの遅いよ」
白鬼が呆れる。
凛は腕を組み、気まずそうに顔を逸らした。
「昔の話よ。当時は、自分の力だけで何でもできると思っていたの」
「凛は重傷を負っていたのに、まだ戦えると言い張っていました」
「本人が戦えると言っているのだから、戦わせればよかったのよ」
「その結果、マリア姉さんに担がれて帰りました」
「担がれた?」
フェルンが目を丸くする。
「荷物のように肩へ乗せられていました」
「それ以上言ったら、今夜の見張りは一人でやってもらうわよ」
「それは困ります」
メイメイはそう言いながらも、楽しそうに笑っていた。
「マリアさんらしいな」
シグマも当時の光景を想像し、思わず笑う。
「笑わないで。あなたも同じことをされるわよ」
「今の怪我なら、俺も担がれそうだ」
「マリア姉さんなら、怪我をしていなくても担ぐと思います」
メイメイの言葉に、全員が納得する。
「その後も何度か助けられたわ」
凛の表情が少しだけ柔らかくなる。
「戦い方だけじゃない。ギルドで人を預かる意味も、あの人から教わった。冒険者が戻ってこられる場所を守るのが、ギルドマスターの仕事だとね」
「だから、凛さんもギルドマスターになったのか?」
「それだけが理由ではないけれど、影響は受けたわ」
凛はシグマを見る。
「マリア姉さんが事前に連絡を寄越してまで気にかけていた相手なら、見捨てるわけにはいかない。それに――」
視線が、白鬼、黒鬼、フェルンへ移る。
「あなたが倒れたままでは、この子たちが安心して眠れないでしょう」
「凛さん……」
「だから、今夜は私たちに任せて休みなさい。これはマリア姉さんへの恩返しでもあるの。あなたが気にする必要はないわ」
「分かりました。ありがとうございます」
シグマは寝台の上から、もう一度頭を下げた。
「でも、屋根の修理代は支払ってもらうわよ」
「はい」
「そこは無料ちゃうんやな」
シルフが口を挟む。
「村の共有財産よ。当然でしょう」
「凛はお金に細かいですから」
「誰かが細かく管理しないと、あなたが食費に使うでしょう」
「食事は大切です」
「一日に五回も食べる必要はないわ」
「身体を動かすには、栄養が必要なのです」
メイメイは全く悪びれずに答える。
「五回……」
白鬼がメイメイを見る。
「小さい身体で、そんなに食べるの?」
「食べますよ。白鬼さんも一緒にどうですか?」
「食べる!」
「白鬼は今日は安静」
黒鬼が白鬼の袖を掴む。
「食事は安静にしながらでもできるよ」
「食べすぎは駄目」
「一回くらいならいいでしょう?」
「五回は一回じゃない」
白鬼が残念そうに肩を落とした。
話が一段落したあと、凛とメイメイは一度ギルドへ戻った。
村に滞在している冒険者へ事情を説明し、村の出入口と用水路、宿の周辺へ見張りを配置するためだった。
夕方になると、二人は再び宿へ姿を現した。
「宿の周囲に四人、村の出入口に二人ずつ配置したわ」
凛が部屋へ入るなり報告する。
「用水路も見回らせています。村へ近づく者がいれば、ギルドの鐘で知らせる手筈です」
メイメイも続けた。
「そんなに大勢を動かしたのか?」
「念のためよ。相手は昨夜、村の中まで侵入している。警戒しすぎるくらいでちょうどいいわ」
「冒険者たちへの報酬は?」
「ギルドから出すわ」
「やっぱり俺たちも――」
「シグマ」
凛が名前を呼ぶ。
「はい」
「怪我人が余計な心配をしない」
「……分かりました」
「本当にあなた、放っておいたら全部自分で背負おうとするのね」
「マリア姉さんが気にかける理由が分かりました」
メイメイが納得したように頷く。
「二人とも、マリアさんと同じことを言うんですね」
「それだけ、あなたが分かりやすいのよ」
凛が答えた。
その日の夕食は、凛とメイメイも交えて取ることになった。
怪我人の三人は食堂へ行くことを許されず、食事を部屋へ運んでもらった。
卓上に並べられたのは、焼きたての黒パン、豆と根菜のスープ、香草を詰めた鳥肉の丸焼きだった。
「鳥だ!」
白鬼が目を輝かせる。
「白鬼は、あまり食べすぎたら駄目」
「今日はずっと安静にしてたから、お腹が空いたんだよ」
「動いてないから、そんなに空かないはず」
「頭を使ったから」
「何に?」
「シグマたちの見張り」
「見張っていたのはフェルン」
「応援してた」
白鬼の言い訳に、凛が僅かに口元を緩めた。
「仲がいいのね、あなたたちは」
「うん。黒鬼は白鬼のお姉ちゃんだから」
「同い年……」
「少しだけ白鬼が先に生まれたんだけどね」
「それなら、白鬼さんがお姉さんなのでは?」
メイメイが尋ねる。
「黒鬼の方がお姉ちゃんみたいって、よく言われるんだ」
「納得できます」
「早くない?」
「白鬼、スープが冷める」
「ほら、もうお姉ちゃんみたいです」
メイメイに言われ、白鬼が頬を膨らませる。
食事が始まると、メイメイは本当に驚くほどよく食べた。
鳥肉を大きく切り分け、黒パンと一緒に口へ運ぶ。その間にもスープを飲み、あっという間に一杯目を平らげてしまう。
「ほんまによう食べるなぁ」
シルフが感心する。
「シルフさんも、もう少し食べた方がいいですよ。血を多く失ったのですから」
「食欲はあるんやけど、動いてへんから腹が減らへんねん」
「そういう時こそ、身体を作るために食べるのです」
メイメイが鳥肉をシルフの皿へ追加する。
「いや、ちょっと多ない?」
「残さず食べてください」
「笑顔で強制するん、やめてくれへん?」
「好き嫌いは身体に良くありません」
「好き嫌いの話ちゃうで」
シルフは助けを求めるように周囲を見る。
だが、誰もメイメイを止めようとはしなかった。
「諦めろ」
紅蓮が言う。
「自分だけ逃げる気か?」
「私は既に食べている」
「その皿、うちより少ないやん!」
「紅蓮さんも追加しましょう」
メイメイが笑顔を向ける。
紅蓮の表情が固まった。
「いや、私は――」
「血を失っているのでしょう?」
「……いただこう」
紅蓮は素直に皿を差し出した。
「紅蓮も逆らえへんのかい」
「私は合理的な判断をしただけだ」
「凛さんも食べる?」
フェルンが鳥肉の皿を凛へ差し出す。
「私は十分よ」
「さっきから、あまり食べてない」
「見張りの前に食べすぎると、動きが鈍るの」
「少しくらいなら大丈夫」
フェルンが鳥肉を一切れ取り、凛の皿へ置いた。
凛は僅かに目を見開く。
「フェルン」
「食べないと、力が出ない」
「……そうね。ありがとう」
凛は鳥肉を口へ運んだ。
その表情を見て、メイメイが楽しそうに目を細める。
「何よ」
「いいえ。何も言っていません」
「顔が言っているわ」
「凛は本当に子供に弱いですね」
「言っているじゃない」
「思ったことを答えただけです」
凛はため息をついたが、フェルンが追加した鳥肉は残さず食べた。
「二人は、いつから一緒にいるんだ?」
食事の途中、シグマが尋ねた。
「冒険者になった頃からよ」
凛が答える。
「私とメイメイは、同じ日に登録したの」
「凛が受付で、剣士は一人で十分だと言い張っていたのが最初ですね」
「それを言う必要はある?」
「でも、その直後の実技試験で私と組まされました」
「最悪の組み合わせだと思ったわ」
「私は嬉しかったですよ」
「どうしてだ」
紅蓮が興味を示す。
「凛は受付へ入ってきた時から、とても目立っていましたから」
「確かに、美人やもんな」
シルフが頷く。
「そういう意味ではありません。登録用紙に名前を書くだけなのに、受付の方と喧嘩を始めたので」
「何したん?」
「希望する仕事の欄へ『強い魔物の討伐』とだけ書いたのです」
「ほかに書くことなんてなかったもの」
「採取、護衛、運搬なども書くよう言われて、凛は『雑用をするために冒険者になったんじゃない』と答えました」
「凛さん、昔はかなり尖っとったんやな」
「昔の話よ」
「今も少し尖ってる」
フェルンが呟く。
凛は一瞬黙り、メイメイが盛大に笑い出した。
「フェルン、正直すぎる」
「笑わないで、メイメイ」
「すみません。でも、間違ってはいないと思いまして」
「あなたまで……」
「メイメイさんは、どうして冒険者に?」
黒鬼が尋ねる。
「私は、美味しいものを食べて暮らしたかったからです」
「それだけ?」
「とても大切なことですよ」
メイメイは真剣な表情になる。
「世界には、まだ食べたことのない料理がたくさんあります。各地を旅すれば、それを食べられると思ったのです」
「強くなるためではないのか?」
紅蓮が尋ねる。
「強くなければ旅を続けられません。ですから鍛えました」
「目的と手段が逆やな」
シルフが苦笑する。
「ですが、今では凛より強いですよ」
「何を基準に言っているの」
「素手の試合なら、私が七勝三敗です」
「剣を使えば私が勝つわ」
「剣を持つ前に間合いへ入ります」
「今度、試してみる?」
「食後の運動にちょうどいいですね」
二人が静かに睨み合う。
「今日は護衛に来たんだろう」
シグマが慌てて止める。
「宿を壊したら、俺たちまで怒られる」
「冗談よ」
凛が視線を外す。
「私は半分本気でした」
「メイメイさん、笑顔で怖いこと言わんといて」
シルフが身を引いた。
話題は、これまでシグマたちが通ってきた街や村へ移っていった。
メイメイはラトナ村にある料理店の話を始め、すぐに白鬼と意気投合する。
「東通りにある蒸し菓子の店が美味しいですよ」
「どんなお菓子?」
「小麦の生地に甘い豆を包んで蒸したものです。食感が柔らかく、冷めても美味しいんですよ」
「食べたい」
「今度、一緒に行きましょう」
「行く!」
「黒鬼さんもどうですか?」
「白鬼が行くなら……」
「フェルンも来ますか?」
フェルンは一度シグマを見る。
「シグマも行く?」
「皆で行けばいい」
「なら、行く」
「うちも混ぜてや」
シルフが手を上げる。
「もちろんです。紅蓮さんとシグマさんも一緒に」
「俺たちはベルク村を出る予定だから、すぐには難しいかもしれない」
「それなら、次に会った時ですね」
メイメイは穏やかに笑った。
「旅をしていれば、またどこかで会えます」
「そうだな」
「約束ですよ」
「ああ。覚えておく」
「メイメイ、食べ物の約束だけは絶対に忘れないから気をつけなさい」
凛が忠告する。
「五年越しでも取り立てに来るわよ」
「約束は守るものです」
「お菓子を食べる約束で国境を越えてきたことがあるでしょう」
「あれは近くまで行く依頼があったので、少し足を延ばしただけです」
「三つ先の国を、近くとは言わないわ」
シグマたちの間から、再び笑いが起きる。
凛とメイメイが加わったことで、昨夜まで張り詰めていた空気が少しずつ和らいでいった。
食事を終えると、凛が魔剣を手に立ち上がった。
「それでは、私は屋根へ出るわ」
「私が先でも構いませんよ」
メイメイも手甲を締め直す。
「あなたは食べたばかりでしょう。少し休んでからにしなさい」
「凛も同じだけ食べましたよね」
「あなたの半分も食べていないわ」
「では、お言葉に甘えます」
メイメイは素直に椅子へ座り直した。
「交代は真夜中でいいですか?」
「ええ。それまでは私が見張る」
「俺も一緒に――」
「シグマ」
凛、メイメイ、白鬼、黒鬼、フェルンの声が同時に重なった。
シグマは寝台から起き上がりかけた姿勢のまま止まる。
「冗談だ」
「今、完全に起きようとしてたよ」
白鬼が睨む。
「癖で……」
「その癖を直して」
黒鬼に布団を掛け直される。
フェルンもシグマの胸元へ手を置き、逃げないよう押さえた。
「今日はフェルンが見張る」
「分かった。大人しく寝る」
「本当に?」
「ああ」
「約束」
「約束する」
フェルンはようやく手を離した。
凛はその様子を眺め、僅かに笑う。
「随分と信頼されているのね」
「信用されていない気もします」
「心配されているのよ。それを信頼と呼ぶかは、あなた次第ね」
凛は窓枠へ足を掛ける。
「今夜は何も心配せずに眠りなさい。何が来ても、私たちがここを通さない」
「凛さん」
「何?」
「ありがとうございます」
「礼なら、明日の朝に聞くわ」
凛は窓から屋根へ飛び移った。
夜半になると、メイメイが凛と交代した。
村の出入口や用水路には冒険者たちが配置され、ハクも村の外から周囲を警戒している。
怪しい者が村へ近づくことはなかった。
途中、一度だけ宿の裏手で物音が起きた。
メイメイが屋根から飛び降りたが、その正体は餌を探していた野良猫だった。
「刺客ではなかったのか?」
物音で目を覚ましたシグマが尋ねる。
「はい。小さな猫でした」
窓から戻ってきたメイメイの腕には、灰色の猫が抱かれていた。
「捕まえてきたの?」
フェルンが寝台から降りる。
「お腹が空いているようでしたので」
メイメイが床へ下ろすと、猫はフェルンの足元へ擦り寄った。
フェルンが恐る恐る背中を撫でる。
「柔らかい」
「撫でるのは構いませんが、その子も夜の見張り中かもしれませんよ」
「猫も見張りするの?」
「鼠が食料庫へ入らないよう見張っているのでしょう」
「なら、邪魔しちゃ駄目」
フェルンが手を離すと、猫は一度だけ鳴き、開けられた窓から外へ出ていった。
「メイメイさん」
「はい?」
「刺客が来たら、シグマを守って」
「もちろんです」
「シグマは無茶するから、動かさないで」
「分かりました。動こうとしたら、私が押さえます」
「それなら安心」
「俺の意思は聞かないのか?」
「聞いたら、動くと言う」
「……否定できないな」
「ですから、眠ってください」
メイメイはシグマの布団を肩まで掛け直した。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
フェルンもシグマの隣へ戻り、服の裾を握ったまま目を閉じる。
その後は、何事も起こらなかった。
凛とメイメイの護衛に守られ、シグマたちは朝まで一度も起こされることなく眠った。
刺客の気配も、炎帝石の声も聞こえない。
それはラトナ村を出てから初めて迎える、穏やかな夜だった。
しかし、追っ手が完全に諦めたとは限らない。
ディアグランディアが何を企み、なぜフェルンを求めているのか。
そして、炎帝石の奥に潜むあの声は何者なのか。
答えの見えない二つの不安を抱えながらも、シグマたちは束の間の休息に身を委ねた。




