第十七話 闇からの刺客
翌朝。
三毛猫亭の食堂には、焼きたてのパンと豆のスープ、薄く切った燻製肉が並べられていた。
湯気とともに香草の匂いが漂い、窓から差し込む朝日が食卓を淡く照らしている。
だが、シグマたちの間には、普段の朝とは異なる静けさがあった。
「シグマ、傷……まだ痛い?」
隣に座るフェルンが、シグマの脇腹へ目を向ける。
黒禍樹の根に貫かれた傷は、黒鬼の治療によって塞がっている。しかし瘴気の影響までは完全に消えておらず、身体を動かすたびに鈍い痛みが残っていた。
「少しだけだ。昨日よりはずっといい」
「本当?」
「ああ」
フェルンは疑うようにシグマの顔を見上げる。
「無理してない?」
「してないよ」
「嘘」
即答だった。
シグマが返事に困っていると、向かいに座るシルフがパンをちぎりながら笑う。
「完全に見抜かれとるやん」
「笑うなよ」
「シグマはすぐ大丈夫って言う」
フェルンは不満そうに頬を膨らませた。
「大丈夫じゃなくても言う」
「それは……」
「否定できへんやろ?」
「お前まで責めるな」
「うちは事実を言うとるだけや」
シルフは得意げに胸を張ったが、その額を紅蓮が指先で軽く弾いた。
「お前も人のことを言えんだろう。昨日、魔力が尽きかけても平気な顔をしていたではないか」
「痛っ! そ、それはあれや。場の雰囲気を暗くせんための気遣いやん」
「ただ調子に乗っていただけに見えたがな」
「紅蓮はうちに厳しすぎへん?」
いつものように言い合う二人を見て、白鬼が小さく笑う。
「朝から元気だね」
「白鬼、これ食べる?」
黒鬼が自分の皿から燻製肉を一枚取り、白鬼の皿へ移そうとする。
「どうして?」
「昨日、いっぱい魔法を使ったから……」
「それなら黒鬼も同じでしょ。黒鬼の方が治療で魔力を使ってるよ」
白鬼は燻製肉を受け取らず、反対に半分へ切ったパンを黒鬼の皿へ載せた。
「はい。半分こ」
「……うん」
黒鬼は小さく頷く。
しかし、その表情は晴れなかった。
時折、シグマの脇腹へ目を向けては、前髪の奥で目を伏せている。
昨夜の食事では僅かに笑顔を見せていたが、黒禍樹の根がシグマの身体を貫いた光景は、今も黒鬼の心に焼きついているらしい。
シグマはそれに気づいていたが、今は何も言わなかった。
無理に大丈夫だと言い続けても、かえって黒鬼を追い詰めてしまう。
「そういえば、今日はどこまで行くん?」
シルフの問いに、紅蓮がスープの器を置く。
「次の目的地はラトナ村だ。ここから馬車で二日ほどかかる。今日はできるだけ進み、街道沿いで野営する」
「また野営かぁ」
「嫌なら歩いて帰れ」
「誰も嫌とは言うてへんやろ。ちょっとくらい柔らかい寝台を名残惜しんでもええやん」
「シルフは馬車でもすぐ寝る」
フェルンが言う。
「寝てへん。目ぇ閉じて旅の安全を祈っとるだけや」
「いびき、かいてた」
「嘘やろ?」
シルフが慌てて周囲を見る。
白鬼が肩を震わせ、黒鬼も口元を手で隠す。紅蓮だけは真顔のまま答えた。
「安心しろ。いびきというほどではない」
「ほんま?」
「時折、奇妙な声を上げる程度だ」
「余計に嫌や!」
食卓に笑い声が広がる。
重く沈んでいた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
食事を終える頃、三毛猫亭の母親が厨房から出てきた。
その手には、布に包まれた大きな籠がある。
「昼に食べな。昨日の残りだけじゃ足りないと思って、少し作っておいたよ」
「ありがとうございます。でも、これ以上は……」
シグマが遠慮しようとすると、母親は籠を御者台の近くへ置いた。
「昨日、娘とフェルンが作りすぎた分だよ。ここに置いておけば傷むだけさ」
「でも……」
「命を懸けて村を守った人たちに弁当を渡すくらい、許しておくれ」
シグマは少し迷った後、頭を下げた。
「分かりました。ありがたくいただきます」
「それでいいんだよ」
母親は満足そうに笑った。
その隣では、娘がフェルンへ小さな包みを渡している。
「昨日作った林檎のお菓子。みんなで食べてね」
「ありがとう」
「また来てね」
フェルンは包みを抱えながら、シグマの顔を見上げた。
シグマには、簡単に再訪を約束することはできない。
代わりに、フェルンが自分で答える。
「うん。また来られたら来る」
「待ってるね」
二人が小さく手を振り合う。
「道中、気をつけるんだよ」
母親の言葉に見送られ、シグマたちは三毛猫亭をあとにした。
◇
冒険者ギルドへ入ると、ギルベルトとマリンが受付の前で待っていた。
昨日とは異なり、ギルド内に冒険者の姿は少ない。
ギルベルトはシグマの歩き方を見て眉を寄せた。
「傷は大丈夫なのか?」
「黒鬼に治療してもらいました。まだ少し痛みますが、馬車を動かすくらいなら問題ありません」
「本当に休まなくていいのか?」
「ここに長く残れば、村の人たちも落ち着かないでしょう」
シグマの言葉に、ギルベルトの表情が曇る。
「昨日のことなら、気にする必要はない。お前たちに責任はないんだ」
「責任があるとは思っていません。ただ、森を失った人たちにとって、俺たちは思い出したくない相手なのかもしれません」
黒禍樹を倒さなければ、村そのものが失われていた。
侵された木々を焼かなければ、災いは再び広がっていた。
あの判断が間違っていたとは思わない。
それでも、森とともに生きてきた者たちが、炎に包まれる木々を見て何も感じないはずがない。
「頭では分かっていても、すぐには納得できない者もいるか」
紅蓮が呟く。
「そういうことだろうな」
ギルベルトは重く頷いた。
「森を失った木こりたちには、当面の仕事と食料を用意するつもりだ。焼けた森の調査も必要になる。安全が確認できれば、植林も始める」
「アルランカのギルドにも報告するんですか?」
「ああ。マリンが昨夜のうちに報告書をまとめた」
全員の視線が受付の中に立つマリンへ集まる。
マリンはいつもと変わらない無愛想な顔で書類を整理していた。
「何ですか」
「いや、仕事が早いと思ってな」
シルフが言うと、マリンは僅かに眉を寄せる。
「当然です。放置した結果が昨日の惨状ですから。同じことを繰り返さないためにも、報告は早い方がいいでしょう」
「昨日は格好よかったで。あんな大声出せるんやな」
「忘れてください」
「なんでや。村人みんな黙らせとったやん」
「忘れてください」
マリンの声が一段低くなる。
シルフはそれ以上からかうのをやめ、紅蓮の後ろへ隠れた。
「うち、褒めただけやのに……」
「お前は言い方が悪い」
ギルベルトは苦笑しながら、受付台の上へ二つの革袋を置いた。
「報酬を清算しよう。まず、盗賊討伐の報奨金だ。回収された盗品と装備を含めて銀貨二十枚」
紅蓮が袋を受け取り、中身を確認する。
「確かに」
「そして、黒禍樹の討伐と周辺の魔物の処理。こちらが銀貨五十枚だ」
「森を焼いた分の弁償を差し引かなくていいのか?」
紅蓮が尋ねる。
「焼却を命じたのは俺だ。それに、必要な処置だった。お前たちへ弁償を求める理由はない」
ギルベルトは二つ目の革袋を差し出した。
「むしろ、この額でも少ないくらいだ。本来なら、黒禍樹の討伐は小さな村のギルドで扱えるような依頼ではない」
「今回は正式な依頼を受けたわけではない。十分だ」
「そう言ってもらえると助かる」
紅蓮が革袋をしまう。
ギルベルトは一行を見回した後、シグマへ視線を止めた。
「ラトナ村まで二日ほどだったな」
「ああ。今日は途中で野営する予定です」
「街道を外れなければ、大きな危険はないはずだ。ただ、昨日の異変で周辺の魔物が移動している可能性がある。森へ近づきすぎるな」
「分かりました」
「それと――」
ギルベルトは言いにくそうに口を閉じる。
「何ですか?」
「昨日、森へ入った村人たちから聞いた。お前は黒禍樹が何であるか知っていたそうだな」
シグマの表情が僅かに強張る。
「知っていたというより、見た瞬間に……分かったんです」
「以前、どこかで見たのか?」
「分かりません」
シグマは正直に答えた。
「記憶にはありません。でも、実を食べれば死ぬことも、根まで焼かなければならないことも知っていました」
ギルベルトはしばらく黙り込む。
「そうか。無理に聞いて悪かった」
「いえ」
「だが、その知識がなければ、俺たちは黒禍樹を倒しただけで安心していたかもしれん。根も実も残し、いずれ同じ災いを招いていただろう」
ギルベルトは深く頭を下げた。
「改めて礼を言う。この村を救ってくれて、ありがとう」
マリンも受付の中から頭を下げる。
「ありがとうございました」
いつもの気だるそうな声ではなかった。
シグマも頭を下げ返す。
「皆が無事でよかったです」
「お前はまだ無事とは言い切れん。ラトナ村に着いたら、治療院か教会でもう一度傷を診てもらえ」
「そうします」
「絶対に診てもらう」
フェルンがシグマのマントを握りながら付け加えた。
「この子に監視されているなら安心だな」
ギルベルトが笑う。
「達者でな。アルスラまで、まだ長い道のりだ」
シグマたちはギルベルトとマリンに別れを告げ、ギルドをあとにした。
◇
村の大通りを馬車へ向かって歩く。
店先で朝の準備をしていた村人の中には、シグマたちへ頭を下げる者もいた。
「昨日は、ありがとう」
「道中、気をつけて」
感謝の言葉をかける者がいる一方、無言で顔を背ける者もいる。
木材を扱う店の前では、数人の男が焼け残った道具を荷車へ積み込んでいた。シグマたちに気づいた一人が手を止め、険しい目を向ける。
その顔には怒りだけでなく、先の見えない不安と疲労が浮かんでいた。
紅蓮が足を止めかける。
シグマは小さく首を横に振った。
「行こう」
「だが……」
「今は、何を言っても届かないと思う」
森を焼かずに村を救う方法があったのか。
もっと被害を抑えることができたのか。
シグマにも分からない。
正しさを押しつけたところで、失われた森は戻らない。
「……そうだな」
紅蓮は男たちへ何も言わず、再び歩き始めた。
村の外へ出ると、街道脇に止めていた馬車と、餌を食べているノクスとソルが見えた。
荷物を載せ終えると、フェルンが御者台へ登ろうとする。
「今日は俺が動かすよ」
「傷がある」
「手綱を握るだけなら大丈夫だ」
「フェルンがする」
「ラトナ村まで長いぞ」
「疲れたら代わる」
フェルンは譲ろうとしない。
シグマが困っていると、紅蓮が二人の間へ入った。
「最初は私が御者をする。シグマは休め。フェルンは隣で道を覚えろ」
「俺なら平気だ」
「今朝、無理をするなと言われたばかりだろう」
「……分かった」
シグマが折れると、フェルンも渋々頷いた。
紅蓮が御者台の中央へ座り、その隣にフェルンが腰を下ろす。
シグマたちは客室へ乗り込んだ。
「出るぞ」
紅蓮の声に合わせ、ノクスとソルが馬車を引き始める。
三毛猫亭の母親と娘、それに数人の村人が、遠くから手を振っている。
フェルンも振り返り、小さな手を振った。
馬車はゆっくりとイル村を離れ、次の目的地であるラトナ村へ向かった。
◇
その日の旅は、驚くほど穏やかだった。
街道はなだらかな丘陵の間を通り、左右には草原と疎らな林が広がっている。
時折、小型の魔物が遠くを横切ったが、馬車へ近づいてくることはなかった。
昼には小川の近くで休憩を取り、三毛猫亭で受け取った料理を食べた。
林檎の菓子を見つけたシルフと白鬼が取り合いになり、黒鬼が半分ずつに切ることで決着した。
夕暮れが近づくと、街道から少し離れた場所に野営できそうな平地を見つけた。
片側には小さな林があるものの、周囲の見晴らしは悪くない。近くには細い川も流れている。
「今夜はここにしよう」
紅蓮の判断で、馬車を街道から移動させる。
シルフが周囲を偵察し、シグマと紅蓮が野営地の安全を確認する。白鬼と黒鬼は焚き火の準備を始め、フェルンはノクスとソルへ餌と水を与えた。
「近くに大きな反応はないで」
戻ってきたシルフが報告する。
「林の中に小動物が何匹かおるくらいや。魔物らしい反応もない」
「分かった。今夜は交代で見張りをする」
紅蓮は全員を見回す。
「最初は私と白鬼。次がシルフと黒鬼。最後がシグマだ」
「俺は一人でいいのか?」
「夜明け前なら明るくなるまでの時間も短い。それに、まだ傷が残っている。先に休んでおけ」
「分かった」
簡単な夕食を終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
空には雲が多く、月明かりはほとんど届かない。
焚き火の外側には深い闇が広がっている。
シグマは毛布の上へ横になった。
当然のようにフェルンが隣へ来て、シグマの腕へ抱きつく。
「フェルン、もう少し離れた方が寝やすいだろ」
「ここがいい」
「俺が寝返りを打ったら危ない」
「離れた方が危ない」
「何が危ないんだ?」
「全部」
「全部って……」
フェルンはシグマの胸元へ顔を寄せ、目を閉じてしまう。
「もう寝た」
「まだ話してるだろ」
「寝てるから聞こえない」
「そうか」
シグマは諦め、毛布をフェルンの肩まで掛けた。
瞼を閉じる。
まだ脇腹に鈍い痛みは残っていたが、旅の疲れもあり、意識はすぐに眠りへ沈んでいった。
◇
「シグマ」
肩を軽く揺すられ、シグマは目を覚ました。
目の前に黒鬼が立っている。
「交代の時間……」
「ああ。ありがとう」
シグマは身体を起こした。
脇腹が僅かに痛んだが、動けないほどではない。
腕に抱きついたまま眠るフェルンの手を慎重に外し、毛布を掛け直す。
黒鬼が心配そうに見ている。
「一人で、大丈夫?」
「ああ。もう夜明けも近い。黒鬼は休んでくれ」
「傷……痛くなったら、すぐに呼んで」
「分かった」
黒鬼は何度も振り返りながら、白鬼の隣へ横になった。
シグマは焚き火へ薪を一本加え、周囲を見回す。
雲に覆われた空は暗く、夜明けの気配はまだ見えない。
風はほとんどなかった。
虫の声も聞こえない。
あまりにも静かだった。
シグマは腰を上げる。
静かすぎる。
その瞬間、暗闇の中で微かな金属音がした。
シグマは反射的に左腕を上げた。
直後、飛来した細い針が義手へ弾かれる。
甲高い音が夜の静寂を破った。
「起きろ!」
シグマが叫ぶ。
同時に、焚き火の外から複数の黒い影が飛び出した。
全身を黒い布で覆い、顔も隠している。
確認できるだけで七人。
二人がシグマへ向かい、残る者たちは眠っている仲間たちへ散開した。
いや、違う。
全員が狙っているのは同じ場所だ。
「フェルン!」
黒ずくめの一人が、毛布の上で眠るフェルンへ手を伸ばしていた。
シグマは地面を蹴り、刺客の進路へ割り込む。
振り下ろされた短剣を右の義手で受け止めた。
刃と義手が衝突し、火花が散る。
刺客はすぐに短剣を引き、反対の手でシグマの喉を狙う。
速い。
盗賊とは比べものにならない。
シグマは刃を紙一重で避け、相手の腹部へ拳を叩き込もうとする。しかし刺客は攻撃を読むように身体を捻り、最小限の動きで拳を回避した。
背後から新たな殺気が迫る。
シグマが身を沈めると、頭上を短剣が通過した。
地面へ片手をつき、そのまま回転して足払いを放つ。
一人の脚を捉えた。
だが、倒れながらも刺客は短剣を投げる。
刃はシグマではなく、その後方で起き上がったフェルンへ飛んでいた。
「伏せろ!」
シグマは左腕を伸ばし、土の壁を作る。
地面から突き出した壁へ短剣が突き刺さった。
その間にも、別の刺客が土壁を回り込む。
フェルンの口を布で塞ぎ、小さな身体を抱え上げた。
「んっ……!」
「フェルン!」
シグマが追おうとした瞬間、二本の短剣が行く手を遮る。
「退け!」
右腕を振り抜き、正面の刺客を弾き飛ばす。
だが脇腹に鋭い痛みが走り、僅かに動きが止まった。
昨日の傷だ。
その隙を見逃さず、もう一人がシグマの首筋へ刃を滑らせる。
刃が届く寸前、横から大剣が振り抜かれた。
刺客は大きく後退し、紅蓮の一撃を避ける。
「シグマ、フェルンを追え!」
「ああ!」
シグマが走り出す。
フェルンを抱えた刺客の足元へ、一本の矢が突き刺さった。
「うちらの仲間に手ぇ出して、逃げられると思うなよ!」
シルフが二本目の矢を放つ。
刺客はフェルンを抱いたまま身を翻し、矢を避けた。
しかし、その進路に白鬼が回り込んでいる。
「その子を離して!」
白鬼の杖から炎が放たれた。
刺客はフェルンを盾にするように向きを変える。
「白鬼、撃つな!」
シグマが叫ぶより早く、白鬼は魔法を消した。
その一瞬を利用し、刺客が白鬼へ短剣を投げる。
「お姉ちゃん!」
黒鬼が光の障壁を展開した。
短剣が弾かれ、地面へ落ちる。
その間にシグマが距離を詰め、フェルンを抱える刺客の背中へ拳を放つ。
刺客は攻撃を避けるため、フェルンから片手を離した。
フェルンが身体を捻り、相手の腕へ噛みつく。
刺客の力が緩んだ。
「今や!」
シルフの矢が刺客の肩を貫く。
フェルンの身体が手から離れた。
シグマは地面へ落ちる前に受け止め、そのまま胸へ抱き寄せる。
「大丈夫か?」
「大丈夫……!」
「黒鬼のところへ!」
フェルンが頷き、黒鬼のもとへ走る。
しかし、刺客たちは退こうとしない。
一人を紅蓮が大剣で押し返し、もう一人を白鬼の炎が牽制する。
シルフは次々と矢を放つが、相手は暗闇と木々を利用しながら距離を詰めてくる。
「こいつら、何者や!」
シルフの問いに、刺客は誰一人として答えない。
仲間が傷ついても、声をかけることすらない。
ただフェルンへ向かう者と、シグマたちを足止めする者に分かれ、冷静に動き続けている。
「殺し合うつもりはないらしいな」
紅蓮が大剣を構え直す。
「私たちを足止めし、あの子を奪うことだけが目的か」
「なら、なおさら渡すわけにはいかない!」
白鬼が杖を掲げる。
幾つもの火球が刺客たちの周囲へ降り注いだ。
直撃を狙ったのではない。
炎の壁を作り、フェルンから引き離すための攻撃だった。
「黒鬼、フェルンをお願い!」
「うん!」
黒鬼はフェルンを背後へ庇い、光の障壁を二人の周囲に展開する。
白鬼はその前へ立った。
煙と炎の向こうから、二人の刺客が同時に飛び出す。
一人が白鬼へ短剣を振るい、もう一人は低い姿勢で横を抜けようとする。
白鬼は迫る刃を杖で受け止めた。
「行かせない!」
炎を纏った杖を振るい、刺客を押し返す。
しかし、もう一人が懐から小さな黒い球を取り出した。
「白鬼、離れろ!」
紅蓮の声が飛ぶ。
球が地面へ叩きつけられ、濃い煙が爆発的に広がった。
視界が黒く染まる。
「黒鬼!」
白鬼が妹の名を呼ぶ。
「ここにいる!」
返事が聞こえた方向へ、白鬼が手を伸ばす。
その瞬間、煙の中で金属が擦れる音がした。
黒鬼へ迫る影が見えた。
「危ない!」
白鬼は咄嗟に黒鬼を突き飛ばした。
直後、刃が白鬼の脇腹を深く切り裂いた。
「――っ!」
白鬼の身体が大きく揺れる。
「お姉ちゃん!」
黒鬼の悲鳴が響いた。
白鬼は苦痛に顔を歪めながらも、杖の先端を刺客の胸へ押し当てる。
「吹き飛べ!」
至近距離から炎が炸裂する。
刺客は煙の向こうへ吹き飛ばされた。
シルフが風を起こし、黒い煙を払う。
「白鬼!」
シグマが駆け寄ろうとするが、残る刺客たちが一斉に進路を塞いだ。
そのうちの一人が指を二度鳴らす。
刺客たちは迷いなく後退し、林の闇へ散っていった。
「待て!」
紅蓮が追おうとする。
「紅蓮!」
黒鬼の切迫した声に、紅蓮の足が止まる。
白鬼が黒鬼の腕の中で崩れ落ちていた。
傷口から流れた血が、服を赤く染めている。
「お姉ちゃん、しっかりして!」
「大丈夫……ちょっと切られただけ……」
「大丈夫じゃない!」
黒鬼が震える手を傷口へ当て、治療魔法を唱える。
淡い光が白鬼の身体を包み、傷口がゆっくりと塞がっていく。
だが、白鬼の顔色は急速に青ざめていった。
額から汗が噴き出し、呼吸も浅くなっていく。
「黒鬼、どうした?」
「分からない……傷は塞がってるのに……」
白鬼の身体が小さく痙攣する。
紅蓮が地面へ落ちていた短剣を確認し、鋭く声を上げた。
「刃に触るな!」
刃の表面に黒紫色の液体が付着している。
「毒だ」
黒鬼の顔から血の気が引いた。
「そんな……」
「解毒できるか?」
「やってみる」
黒鬼は白鬼の胸元へ両手を重ねる。
「有害なる力よ、その身を離れよ――ディスペル」
白い光が白鬼の身体を包んだ。
黒紫色に変色し始めていた傷口の周囲が、僅かに元の色へ戻る。
しかし、光が消えると再び変色が広がり始めた。
「消えない……」
「もう一度だ」
「うん」
黒鬼は繰り返し魔法を使う。
だが、完全に毒を取り除くことができない。
「私のディスペルじゃ……毒が広がるのを遅くするくらいしかできない……」
「ラトナ村の教会ならどうだ?」
紅蓮が尋ねる。
「高位の神官がいれば、もっと強い解毒魔法を使えるはず……」
「村までの距離は?」
シグマの問いに、紅蓮が空を見上げる。
夜明けまでは、まだ時間がある。
「通常なら、夕方までかかる」
「今すぐ出よう」
シグマは迷わず答えた。
「夜明けを待っている余裕はない」
「だが、奴らがまだ近くにいる可能性がある」
「ここに残っていても白鬼を助けられない」
紅蓮は一瞬だけ目を閉じ、決断する。
「分かった。野営道具は最低限だけ回収する。残りは捨てても構わん」
「うちが周囲を見る。黒鬼は治療を続けて!」
「うん……!」
シグマは白鬼を抱き上げた。
軽い。
普段なら文句を言いそうな白鬼が、力なくシグマへ身体を預けている。
「ごめん……シグマ」
「喋らなくていい」
「でも……傷、痛いでしょ……」
「大丈夫だ」
「また……大丈夫って言ってる……」
白鬼は弱々しく笑い、そのまま目を閉じた。
「白鬼?」
返事はない。
「お姉ちゃん!」
「気を失っただけだ。まだ息はある」
シグマは白鬼を馬車の中へ寝かせる。
黒鬼が隣に座り、その手を強く握った。
「絶対に助けるから……だから、置いていかないで……」
ノクスとソルを起こし、馬車を出す。
紅蓮が御者台へ座り、シグマはその隣で街道を確認する。
シルフは客室の屋根へ上がり、弓を構えた。
暗い街道を、馬車が全速力で走り始める。
◇
夜が明けても、馬車は止まらなかった。
ノクスとソルの体力を考え、速度を落とす時間は作る。それでも、完全な休憩を取る余裕はない。
客室では、黒鬼が何度もディスペルを唱えていた。
「有害なる力よ、その身を離れよ――」
淡い光が白鬼を包む。
魔法が終わるたび、黒鬼の呼吸が荒くなっていく。
「黒鬼、少し休め」
シグマが声をかける。
「休めない……」
「黒鬼まで倒れたら、白鬼を治療できなくなる」
「でも、魔法を止めたら毒が……」
シグマは白鬼の傷口を見る。
先ほどより変色が広がる速度は遅くなっている。
黒鬼の魔法は確かに毒の進行を抑えていた。
「なら、次の魔法まで少しだけ目を閉じてくれ。俺が白鬼を見ている」
「……少しだけ」
黒鬼は白鬼の手を握ったまま、目を閉じた。
だが、数分もしないうちに再び顔を上げる。
「まだ、大丈夫?」
「ああ。変化はない」
黒鬼は安堵する間もなく、再び魔法を使った。
その時、客室の屋根からシルフの声が響く。
「前方、何かある!」
シグマが御者台へ顔を出す。
街道の中央に、大きな倒木が横たわっていた。
「くっ!!」
紅蓮が手綱を引く。
馬車の速度が落ちた瞬間、左右の林から矢が飛来した。
「伏せろ!」
シグマは左の義手を街道へ向ける。
地面が盛り上がり、馬車の両側に土の壁が作られた。
矢が次々と突き刺さる。
「またあいつらや!」
シルフが林へ矢を放つ。
木々の間で黒い影が動いた。
紅蓮が大剣を持って御者台から飛び降りる。
「倒木をどかす! シグマ、馬車を守れ!」
「ああ!」
紅蓮が大剣を倒木の下へ差し込み、力任せに持ち上げる。
その間にも、矢が土壁へ突き刺さる。
一人の刺客が木の上から飛び降り、客室の屋根へ着地した。
シルフが弓で短剣を受け止める。
「しつこいねん!」
蹴りを放ち、刺客を屋根から落とす。
しかし、反対側からもう一人が馬車へ迫っていた。
狙いは窓際にいるフェルンだ。
「フェルン、下がれ!」
シグマが拳を振るう。
刺客は地面を滑るように攻撃を避け、そのまま短剣を突き出した。
シグマは右の義手で刃を掴む。
刺客は短剣を手放し、懐から細い縄を取り出した。
先端についた輪がフェルンの腕へ絡みつく。
「フェルン!」
縄が強く引かれ、小さな身体が窓へ引き寄せられた。
「離して!」
フェルンが必死に抵抗する。
シグマは縄を右手で掴み、力任せに引き戻す。
義手から僅かな炎が漏れ、縄を焼き切った。
刺客が別の武器を取り出そうとした瞬間、紅蓮の大剣が地面を抉った。
刺客は後方へ跳び、木々の中へ逃げ込む。
「倒木をどかした! 出せ!」
紅蓮が御者台へ戻る。
馬車が再び走り出す。
黒い影は追ってこない。
だが、完全に諦めたとも思えなかった。
「行き先を知られとるな」
屋根から降りてきたシルフが、悔しそうに呟く。
「うちらがラトナ村へ向かっとると知らんかったら、先回りして倒木なんか置けへん」
「イル村を出る時から見張られていたのかもしれん」
紅蓮が答える。
「問題は、奴らが何者で、なぜフェルンを狙うのかだ」
三人の視線がフェルンへ向く。
フェルンは切れた縄の跡が残る腕を押さえ、怯えた表情を浮かべていた。
「フェルン」
シグマが近づくと、フェルンは首を横に振る。
「分からない」
「まだ何も聞いてないよ」
「分からない……フェルン、何も知らない」
声が震えている。
シグマはそれ以上尋ねず、フェルンの頭へ手を置いた。
「分かった。今は白鬼を助けることを考えよう」
フェルンは俯いたまま、シグマの服を掴んだ。
◇
昼を過ぎても、襲撃は続いた。
遠くから矢を放ち、馬車の速度を落とそうとする。
ノクスとソルを狙うように見せかけ、守りが薄くなった側からフェルンへ近づく。
深追いはしない。
失敗すればすぐに退き、シグマたちが先へ進めば、別の場所で待ち伏せる。
まるで、こちらが疲れ果てるのを待っているようだった。
「これで三度目やぞ……」
シルフが額の汗を拭う。
「同じ連中かどうかも分からへん。いったい何人おるんや」
「全員が同じ動きをしている」
紅蓮の表情は険しい。
「相当な訓練を受けている。それに、フェルンを傷つけないよう徹底している」
襲撃者たちはシグマたちには容赦なく毒の刃を向ける。
しかし、フェルンへ投げられた道具は縄や煙だった。
殺すためではない。
生きたまま連れ去ることが目的なのは明らかだった。
「次に来たら、一人は生け捕りにする」
シグマが言う。
「気持ちは分かるが、無理はするな」
「このままでは、ラトナ村へ着いても狙われ続ける」
「せやけど、今は白鬼を運ぶんが最優先や」
シルフの言葉に、シグマは拳を握る。
客室では、黒鬼が再び解毒魔法を使っていた。
その声は掠れ、魔法の光も最初より弱くなっている。
「黒鬼、状態は?」
「毒は……まだ抑えられてる。でも、お姉ちゃんの身体が冷たくなってる……」
黒鬼は白鬼の手を両手で包む。
「魔力もほとんど残ってない。次に毒が強くなったら、私……」
「ラトナ村までもう少しだ」
紅蓮が前方を見る。
「日没までには着く」
「お姉ちゃん、それまで耐えられる……?」
「耐えさせる」
シグマは言い切った。
「黒鬼がここまで繋いだんだ。必ず間に合わせる」
黒鬼は唇を噛み、頷いた。
◇
夕日が地平線へ近づいた頃、街道の先に石造りの外壁が見えた。
「見えた!」
シルフが声を上げる。
「ラトナ村や!」
紅蓮が手綱を握り直す。
「ノクス、ソル! あと少しだ!」
二羽は疲れているはずなのに、最後の力を振り絞って速度を上げた。
村の門へ近づくと、門番たちが慌てて立ち上がる。
「止まれ! 何があった!」
「仲間が毒を受けた!」
紅蓮が叫ぶ。
「高位の解毒魔法を使える者はいるか!」
「教会へ行け! 大通りを真っ直ぐ進んだ先だ!」
門番が道を開ける。
馬車は速度を落とさず、村の中へ入った。
通りを歩いていた人々が驚いて左右へ避ける。
鐘楼のある白い建物が見えた。
教会の前で馬車を止め、シグマが白鬼を抱き上げる。
「誰か!」
扉を開けて叫ぶと、数人の修道女と年老いた神官が駆け寄ってきた。
「どうされました!」
「毒を受けています。低位のディスペルでは完全に消せませんでした」
黒鬼が白鬼の隣へ駆け寄る。
「何度も魔法を使って進行を抑えました。でも、もう……」
「すぐに治療室へ!」
白鬼は担架へ移され、教会の奥へ運ばれた。
黒鬼もついて行こうとするが、治療室の前で修道女に止められる。
「ここから先はお任せください」
「私も回復魔法を使えます。何か手伝えることが……」
「あなたも限界です」
「でも、お姉ちゃんが……!」
黒鬼の膝から力が抜ける。
シグマが背後から身体を支えた。
「黒鬼」
「離して……私も行かないと……」
「神官に任せよう」
「でも……!」
扉が閉じる。
黒鬼はその場へ座り込み、両手を胸元で強く握りしめた。
治療室の中から、低い詠唱が聞こえてくる。
扉の隙間から眩い光が漏れ出した。
シグマたちは廊下で待ち続けた。
紅蓮は壁に背を預け、腕を組んで目を閉じている。
シルフは椅子へ座ったまま、何度も足を組み直していた。
フェルンはシグマのマントを握り、治療室の扉から目を離さない。
黒鬼は床へ座り込んだまま、祈るように俯いていた。
時間の感覚がなくなっていく。
一時間だったのか、それ以上だったのか。
やがて詠唱が止まり、治療室の扉が開いた。
年老いた神官が姿を現す。
黒鬼が立ち上がろうとして、よろめいた。
「お姉ちゃんは……?」
「毒は取り除きました」
その言葉を聞いた瞬間、全員の表情が緩んだ。
「本当に……?」
「ええ。傷も問題ありません。ただし、強い毒によって体力をかなり消耗しています。しばらくは安静が必要です」
「助かるんですか?」
「命に別状はありません」
黒鬼の目から、大粒の涙が溢れた。
神官は黒鬼へ穏やかな視線を向ける。
「あなたが道中で何度も解毒魔法を使っていたのでしょう?」
「でも、私の魔法じゃ消せなくて……」
「完全に消せなくとも、毒の進行を遅らせることはできていた。あなたの処置がなければ、ここへ着く前に手遅れとなっていたでしょう」
黒鬼が顔を上げる。
「私の魔法が……?」
「ええ。あなたがお姉さんの命を繋いだのです」
黒鬼は両手で顔を覆い、その場へ泣き崩れた。
◇
白鬼は教会の客室へ移された。
神官の話では、今夜中に目を覚ます可能性もあるが、明日まで眠り続けても不思議ではないらしい。
紅蓮は宿の手配と周囲の確認へ向かい、フェルンとシルフは修道女に頼まれて、ノクスとソルの様子を見に行った。
部屋には白鬼と黒鬼、それにシグマだけが残っている。
黒鬼は寝台の横に座り、白鬼の手を握っていた。
シグマが水の入った器を置いても、顔を上げようとしない。
「黒鬼も少し休んだ方がいい」
「……眠れない」
「魔力をほとんど使い切っているだろう」
「私が眠ってる間に、お姉ちゃんに何かあったら嫌……」
「毒は消えた。神官も命に別状はないと言っていた」
「でも……」
黒鬼は白鬼の手を握ったまま、首を横に振る。
「私、何もできなかった」
「そんなことはない」
「できなかったよ」
「黒鬼が毒を抑えたから、白鬼は助かったんだ」
「違う……」
黒鬼の肩が震える。
「私がもっと強ければ、あんなに苦しませなかった。すぐに毒を消せていたら、ノクスとソルをあんなに走らせることもなかった。みんなも何度も襲われずに済んだ」
「それは結果を知っているから言えることだ」
「お姉ちゃんは私を庇ったの!」
黒鬼が初めて声を荒らげた。
前髪の奥から、涙に濡れた瞳が僅かに覗く。
「私がちゃんと周りを見ていれば、お姉ちゃんが傷つくことはなかった。私がもっと強かったら……!」
「黒鬼」
「昔から、ずっとそうだった……」
黒鬼は再び俯く。
「お姉ちゃんは、いつも私を守ってくれた。なのに私は、守られてばかりで……」
シグマは少し離れた椅子を引き、黒鬼の隣へ座った。
「昔から?」
黒鬼はすぐには答えなかった。
やがて白鬼の手を握ったまま、途切れ途切れに話し始める。
「小さい頃のお姉ちゃんはね……今よりずっと、男の子みたいだった」
「白鬼が?」
「うん。髪も短くて、毎日外を走り回ってた。木に登って、川で魚を捕まえて、服を泥だらけにして帰ってきて……いつもお母さんに怒られてた」
黒鬼の口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「私は逆だった。髪を長くして、静かにしてることが多くて……村の人から、お姫様みたいだって言われてた」
「今とは少し違うんだな」
「うん。昔は、今より人と話せた」
幼い双子は正反対だった。
活発で少年のような白鬼と、お淑やかで人当たりのいい黒鬼。
周囲の大人たちは、悪気なく二人を比べた。
黒鬼は可愛らしい。
白鬼はもう少し女の子らしくした方がいい。
子供の頃は、二人とも気にしていなかった。
しかし、成長するにつれて、白鬼の心にも変化が生まれた。
「お姉ちゃんが最初に好きになった男の子は、私のことが好きだった」
白鬼は何も言わず、その恋を諦めた。
しばらくして、別の少年に思いを寄せた。
だが、その少年も黒鬼を見ていた。
「一度だけじゃなかった。何度も同じことがあったの」
白鬼はいつも笑っていた。
自分は気にしていない。
そもそも本気ではなかった。
そう言って、黒鬼を責めることは一度もなかった。
「でも、お姉ちゃんが鏡を見なくなった。髪を伸ばそうとして、途中で切って……可愛い服を着ても、すぐに脱ぐようになった」
黒鬼は姉が傷ついていることに気づいていた。
それでも、何を言えばいいのか分からなかった。
褒めれば、哀れんでいると思われるかもしれない。
謝れば、余計に傷つけてしまう。
「私は、何もできなかった」
その一方で、黒鬼も変わっていった。
成長するにつれて、男たちから向けられる視線が怖くなった。
好意を寄せられることも、突然近づかれることも、逃げ場を塞がれるような感覚がした。
次第に家から出ることができなくなった。
「そんな私を、お姉ちゃんは一度も責めなかった」
白鬼は黒鬼の代わりに買い物へ行き、村の用事を済ませた。
外へ出なければならない時は、必ず手を握ってくれた。
誰かに声をかけられれば、黒鬼の前へ立った。
「怖かったら、私の後ろにいればいいって言ってくれた。私が外に出られなくなっても、ずっと一緒にいてくれた」
その穏やかな日々は、突然終わった。
朝早く、村の外から鐘の音が響いた。
危険を知らせる鐘だった。
人間たちの軍勢が、村を襲った。
目的は領土を奪うことではない。
食料、金目の物、そして人。
奪えるものを奪うための襲撃だった。
「お父さんは、村のみんなと戦いに行った」
父親は双子の頭を撫で、母親を頼むと言い残した。
それが、父親の最後の言葉になった。
「お父さんは帰ってこなかった。村の男の人たちも、ほとんど……」
家々が焼かれた。
逃げ遅れた者は殺され、生き残った女と子供は一か所へ集められた。
白鬼と黒鬼も、母親とともに捕らえられた。
「お母さんは、私たちをずっと抱きしめてた。何があっても、二人で手を離しちゃ駄目って……」
だが、三人が同じ場所へ売られることはなかった。
母親は別の荷馬車へ。
白鬼と黒鬼は子供たちを詰め込んだ檻へ。
「私、お母さんの服を掴んでた。お姉ちゃんも腕にしがみついてた。でも、剣を持った男に引き剥がされて……」
泣き叫ぶ母親。
必死に手を伸ばす双子。
無理やり閉じられる檻の扉。
走り出す二台の荷馬車は、途中で別々の道へ分かれた。
「それが、お母さんを見た最後だった」
母親がその後どこへ連れて行かれたのか、二人には分からなかった。
生きているのかさえ、確かめることができなかった。
「怖かった。檻の中は暗くて、知らない子がずっと泣いてて……大人たちは、私たちがいくらで売れるか話してた」
黒鬼は恐怖で声も出せず、震えることしかできなかった。
その時も、白鬼は妹を抱きしめ続けた。
白鬼自身も泣いていた。
声を殺し、身体を震わせていた。
それでも黒鬼の耳元で、何度も同じ言葉を繰り返した。
『大丈夫。私がいるから』
「奴隷商人に売られてからも、お姉ちゃんは私を守ってくれた。食べ物を取られそうになった時も、男の人に髪を掴まれた時も、いつも前に出てくれた」
二人は奴隷紋を施される前に、紅蓮に助け出された。
だが、それまでの恐怖が消えたわけではない。
「私は紅蓮に助けてもらって、お姉ちゃんに守ってもらって……ずっと誰かに守られてる」
黒鬼の涙が、白鬼の手の甲へ落ちる。
「今度こそ、私がお姉ちゃんを守りたかったのに……また庇われた」
シグマは静かに話を聞いていた。
「黒鬼。守られることは、弱いことじゃない」
「でも……」
「白鬼が黒鬼を庇ったのは、黒鬼が弱いからじゃない。大切だったからだ」
黒鬼は顔を上げる。
「それに今日、白鬼の命を守ったのは黒鬼だ。毒を消せなかったことばかり考えているけど、黒鬼の魔法がなければ、白鬼はここまで辿り着けなかった」
「それでも怖かった……」
「ああ」
「魔法を使っても、毒が消えなくて……お姉ちゃんの身体がどんどん冷たくなって……」
黒鬼の呼吸が乱れる。
「もし、お姉ちゃんがこのまま目を覚まさなかったらって……お父さんやお母さんみたいに、もう会えなくなったらって……」
言葉が続かなかった。
黒鬼は椅子から立ち上がり、縋りつくようにシグマへ抱きついた。
「嫌だよ……お姉ちゃんまでいなくなるのは嫌……!」
シグマは何も言わなかった。
軽い言葉で大丈夫だと繰り返しても、黒鬼の恐怖は消えない。
ただ、その小さな身体を両腕で抱きしめた。
黒鬼はシグマの胸へ顔を押しつけ、声を上げて泣いた。
「怖かった……! ずっと、怖かった……!」
幼い頃から閉じ込めてきた恐怖まで吐き出すように、黒鬼は泣き続けた。
シグマは背中へ手を回し、震えが収まるまで抱きしめる。
どれほど時間が過ぎたのか。
寝台から、弱々しい声が聞こえた。
「……黒鬼、泣きすぎ……」
黒鬼の身体が止まる。
シグマも寝台へ顔を向けた。
白鬼が薄く目を開き、こちらを見ていた。
「お姉ちゃん……?」
「そんなに大きな声で泣いたら……教会の人に怒られるよ……」
「お姉ちゃん!」
黒鬼はシグマから離れ、白鬼へ抱きついた。
「痛い……黒鬼、痛いって……」
「よかった……! よかった……!」
「苦しい……」
口では苦しそうに言いながらも、白鬼は黒鬼を引き離さなかった。
力の入らない腕を妹の背中へ回し、ゆっくりと撫でる。
「ごめんね……心配かけたね」
「私の方こそ、ごめんなさい……!」
「どうして黒鬼が謝るの?」
「私を庇って……お姉ちゃんが……」
「黒鬼が無事だったから、それでいいよ」
迷いのない言葉だった。
黒鬼の目から、さらに涙が溢れる。
「それが嫌なの!」
白鬼が驚いたように瞬きをする。
「お姉ちゃんが傷ついていいわけじゃない! 私を守るためでも、死んじゃうようなことしないで!」
「黒鬼……」
「次は、私もお姉ちゃんを守る。だから一人で何でもしようとしないで……」
白鬼はしばらく黒鬼を見つめた後、穏やかに笑った。
「分かった。次は二人で守ろう」
「……うん」
「でも、今はもう少し優しく抱きついて。傷は治ってても、まだ痛いから……」
「ご、ごめんなさい……!」
黒鬼が慌てて身体を離す。
白鬼はその手を掴み、離れないように握った。
「離れなくていいよ。手、握ってて」
「うん……」
その時、廊下から足音が聞こえた。
扉が開き、紅蓮とシルフ、フェルンが入ってくる。
「白鬼!」
「目ぇ覚ましたんか!」
フェルンは真っ先に寝台へ駆け寄った。
「白鬼、大丈夫?」
「うん。身体が重いけど、大丈夫だよ」
白鬼はフェルンへ笑いかける。
フェルンは安心したように息を吐いたが、すぐに俯いた。
「ごめんなさい……」
「どうしてフェルンが謝るの?」
「フェルンが狙われたから、白鬼が怪我した」
白鬼は空いている手を伸ばし、フェルンの頭へ置いた。
「フェルンのせいじゃないよ」
「でも……」
「悪いのは襲ってきた人たち。フェルンが謝ることじゃない」
フェルンは唇を噛む。
「それに、私が助けたのは黒鬼だよ。フェルンを庇ったわけじゃないから、フェルンが責任を感じるのはおかしいでしょ?」
「……そうなの?」
「そうなの」
白鬼は少し得意げに答えた。
フェルンはまだ納得していない様子だったが、やがて白鬼の手へ自分の手を重ねる。
「白鬼も、いなくならないで」
「大丈夫。どこにも行かないよ」
「約束?」
「約束」
その言葉を聞き、フェルンの強張っていた表情が僅かに緩んだ。
「まったく、心配をかけさせて」
紅蓮は厳しい顔を作っていたが、その声には安堵が滲んでいた。
「今は余計なことを考えず、神官の言うとおり休め」
「はーい……」
「返事だけはいいな」
「紅蓮、お腹空いた」
「目を覚まして最初に言うことがそれか?」
「だって、昨日の夜から何も食べてないもん」
「いつもの白鬼やな」
シルフが笑う。
その言葉に、全員の表情がようやく和らいだ。
◇
白鬼は修道女が用意した柔らかなスープを少しだけ口にすると、再び眠りについた。
黒鬼は寝台の横で白鬼の手を握り、やがて椅子へ座ったまま眠った。
フェルンも反対側へ椅子を運び、白鬼の様子を見ていたが、旅の疲れには勝てなかったらしい。寝台へ上半身を預けたまま、小さな寝息を立て始めた。
紅蓮が三人へ毛布を掛ける。
「ようやく眠ったか」
「黒鬼も限界やったんやろな」
シルフが声を落とす。
「二人を休ませよう」
シグマたちは部屋を出て、予約した宿屋へ向かった。
時刻はすでに夜になっていた。
◇
宿屋の食堂には、シグマ、紅蓮、シルフの三人だけが残っていた。
店主が用意してくれた食事は並んでいるが、誰もすぐには手をつけようとしない。
シルフが温かい茶を一口飲み、重い息を吐く。
「まず、はっきりしとることが一つある」
「ああ」
紅蓮が頷く。
「あいつらの狙いはフェルンだ」
「殺すつもりはなかった」
シグマは何度も繰り返された襲撃を思い出す。
「俺たちには毒の武器を使った。でも、フェルンには縄や眠らせるための道具しか使っていない。傷つけずに連れ去ろうとしていた」
「ただの人攫いとは思えへんな」
シルフが腕を組む。
「動きが揃いすぎとった。誰かが指示を出さんでも、それぞれ何をすればええか分かっとった」
「訓練された集団だ」
紅蓮は回収した短剣を布の上へ置く。
神官に毒を処理してもらったため、今は触れても危険はない。
柄にも鞘にも装飾はなく、持ち主や製造元を示す刻印も見つからない。
「身元に繋がる物を何も持っていない。捕らえられることまで考えて準備していたのだろう」
「一人くらい捕まえられたらよかったんやけどな」
「白鬼を優先したのは正しい」
シグマは短剣を見つめる。
「それに、あいつらは仲間が倒されても回収しようとしなかった。捕まるくらいなら見捨てるつもりだったのかもしれない」
「厄介な連中だな」
紅蓮は低い声で呟く。
「もう一つ。奴らは私たちの行き先を知っていた」
「ああ」
「最初の襲撃は、イル村から後をつければ可能だ。だが、その後の待ち伏せは違う。私たちがラトナ村へ向かうと分かっていなければ、街道に倒木を置いて先回りするのは難しい」
「イル村で話を聞かれたんかな」
シルフが考え込む。
「うちら、行き先を隠してたわけやないし。三毛猫亭でもギルドでも、ラトナ村へ行くって話しとった」
「誰でも知ることはできた」
シグマが答える。
「ただ、フェルンが俺たちと一緒にいることまで知っていた。最初から俺たちを狙っていたのか、偶然見つけた後で追ってきたのかは分からない」
「フェルンを知っている者が、イル村にいた可能性もある」
紅蓮の言葉に、シルフが顔を上げる。
「村人の誰かが仲間やったってこと?」
「断定はできん。村へ出入りする商人や旅人もいる。私たちの姿を見た者が、どこかへ連絡した可能性もある」
三人の間に沈黙が落ちる。
シグマの脳裏に、一人の人物が浮かんだ。
「レイラさんの調査は、どうなっているんだろう」
「フォックス商会の積荷を調べる言うてた人やな」
シルフが答える。
「ああ。フェルンが入れられていた箱は、フォックス商会が運んでいた積荷の一つだった」
「レイラ自身を疑っているのか?」
紅蓮が尋ねる。
「違う。レイラさんがフェルンを取り返そうとする理由はない」
シグマは首を横に振る。
「でも、積荷にフェルンを紛れ込ませた者が商会の中にいるなら、レイラさんが調査を始めたことで、フェルンが生きていると気づかれた可能性がある」
「なるほどな」
シルフの表情が険しくなる。
「自分らの仕業が知られる前に、もう一度フェルンを奪おうとしたんか」
「だとしても、疑問は残る」
紅蓮が言う。
「あれほどの手練れを何人も送り、失敗した後も繰り返し襲わせる理由は何だ? ただ売り物を取り戻すだけなら、労力が釣り合わない」
「フェルン自身に、何か目的がある」
シグマが呟く。
フェルンは自分の過去をほとんど話さない。
質問をすれば、分からない、覚えていないと繰り返す。
無理に聞き出そうとすれば、目に見えて怯える。
「フェルンは、あいつらを知っとるんやろか」
「襲撃者の顔は隠れていた。本人にも分からない可能性はある」
シグマは昼間のフェルンの反応を思い出す。
何も尋ねていないうちから、分からないと繰り返していた。
ただ知らないのではない。
思い出すことを恐れているように見えた。
「明日、フェルンに聞く」
「大丈夫なんか?」
「無理に話させるつもりはない。でも、襲撃が続くなら、何も知らないままでは守りきれない」
シルフは少し考え、頷いた。
「シグマから聞くんが一番ええやろな。うちらが揃って聞いたら、責められとると思うかもしれへん」
「今夜はやめておけ」
紅蓮が付け加える。
「あの子は白鬼が傷ついたのを自分のせいだと思っている。今問いかけても、冷静には話せないだろう」
「ああ。明日、白鬼の状態が落ち着いてからにする」
三人は今後の見張りについて話し合った。
白鬼が回復するまで、数日はラトナ村に滞在しなければならない。
だが、襲撃者たちが諦めた保証はない。
「白鬼と黒鬼、フェルンは同じ部屋にする」
紅蓮が指を折りながら確認する。
「一人は部屋の前。もう一人は宿と教会の周囲を見回る。残った者が休み、短い間隔で交代する」
「窓も塞いだ方がええな」
「完全に塞ぐ必要はないが、開けば分かるように細工をする。黒鬼が起きたら、簡単な感知魔法を使えるか確認しよう」
「食事や水も気をつけた方がいい」
シグマは短剣を見る。
「毒を使う相手だ。正面から襲ってくるとは限らない」
「教会と宿の者にも事情を説明しよう。ただし、フェルンが狙われていることは必要以上に広めない方がいい」
「噂が広がれば、また居場所を知られるかもしれへんからな」
方針は決まった。
それでも、最も大きな疑問は何一つ解けていない。
フェルンを狙う者は誰なのか。
なぜ、あれほど執拗に生きたまま連れ去ろうとするのか。
レイラが調べている積荷と、今回の襲撃は本当に繋がっているのか。
「レイラさんにも知らせたい」
シグマが言う。
「だが、すぐに連絡する手段がない」
紅蓮が答える。
「明日、この村のギルドで早馬か伝書を頼めるか確認しよう。フォックス商会なら、各地に支店があるかもしれん」
「連絡するにしても、誰を信用するか考えなあかんな」
シルフが声を落とす。
「商会の中に敵がおるかもしれへんのやろ? 普通に手紙を出したら、レイラさんへ届く前に読まれる可能性もあるで」
「レイラさん本人にしか分からない内容を入れる」
シグマは少し考える。
「関所で話したことや、フェルンを見つけた時の状況。それなら、途中で偽物が受け取っても見分けられるかもしれない」
「明日、文章を考えよう」
紅蓮は立ち上がった。
「今夜の最初の見張りは私がする。シグマは休め」
「俺も行く」
「傷が残っているだろう」
「白鬼が狙われたのは、俺が十分に動けなかったせいでもある」
「それで無理をして倒れれば、また黒鬼が自分を責めるぞ」
紅蓮の言葉に、シグマは黙り込む。
今日、泣き崩れた黒鬼の姿が浮かんだ。
「……分かった。最初は休む」
「それでいい」
三人は食事を済ませ、席を立った。
食堂の窓から外を見る。
ラトナ村の通りは静まり返り、家々の明かりも少なくなっていた。
一見すれば、何の異変もない穏やかな夜だ。
だが、その暗がりのどこかから、こちらを見つめる者がいるような感覚が消えない。
シグマは右の義手を強く握りしめた。
白鬼も、黒鬼も、フェルンも。
もう二度と傷つけさせない。
その頃。
宿屋から少し離れた建物の屋根に、一つの黒い影が立っていた。
影は教会の窓を見つめ、白鬼が運び込まれた部屋の位置を確認する。
やがて懐から小さな筒を取り出した。
中に入っていた細い紙へ、短い言葉を書き記す。
『対象を確認。回収に失敗。護衛五名。うち一名負傷』
影は紙を筒へ戻すと、足元に止まった黒い鳥の脚へ結びつけた。
鳥が翼を広げ、夜空へ飛び立つ。
その行方を見届けた影は、音もなく屋根から飛び降りた。
そして、ラトナ村を覆う闇の中へ溶けるように姿を消した。




