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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第十七話 闇からの刺客

 翌朝。


 三毛猫亭の食堂には、焼きたてのパンと豆のスープ、薄く切った燻製肉が並べられていた。


 湯気とともに香草の匂いが漂い、窓から差し込む朝日が食卓を淡く照らしている。


 だが、シグマたちの間には、普段の朝とは異なる静けさがあった。


「シグマ、傷……まだ痛い?」


 隣に座るフェルンが、シグマの脇腹へ目を向ける。


 黒禍樹の根に貫かれた傷は、黒鬼の治療によって塞がっている。しかし瘴気の影響までは完全に消えておらず、身体を動かすたびに鈍い痛みが残っていた。


「少しだけだ。昨日よりはずっといい」


「本当?」


「ああ」


 フェルンは疑うようにシグマの顔を見上げる。


「無理してない?」


「してないよ」


「嘘」


 即答だった。


 シグマが返事に困っていると、向かいに座るシルフがパンをちぎりながら笑う。


「完全に見抜かれとるやん」


「笑うなよ」


「シグマはすぐ大丈夫って言う」


 フェルンは不満そうに頬を膨らませた。


「大丈夫じゃなくても言う」


「それは……」


「否定できへんやろ?」


「お前まで責めるな」


「うちは事実を言うとるだけや」


 シルフは得意げに胸を張ったが、その額を紅蓮が指先で軽く弾いた。


「お前も人のことを言えんだろう。昨日、魔力が尽きかけても平気な顔をしていたではないか」


「痛っ! そ、それはあれや。場の雰囲気を暗くせんための気遣いやん」


「ただ調子に乗っていただけに見えたがな」


「紅蓮はうちに厳しすぎへん?」


 いつものように言い合う二人を見て、白鬼が小さく笑う。


「朝から元気だね」


「白鬼、これ食べる?」


 黒鬼が自分の皿から燻製肉を一枚取り、白鬼の皿へ移そうとする。


「どうして?」


「昨日、いっぱい魔法を使ったから……」


「それなら黒鬼も同じでしょ。黒鬼の方が治療で魔力を使ってるよ」


 白鬼は燻製肉を受け取らず、反対に半分へ切ったパンを黒鬼の皿へ載せた。


「はい。半分こ」


「……うん」


 黒鬼は小さく頷く。


 しかし、その表情は晴れなかった。


 時折、シグマの脇腹へ目を向けては、前髪の奥で目を伏せている。


 昨夜の食事では僅かに笑顔を見せていたが、黒禍樹の根がシグマの身体を貫いた光景は、今も黒鬼の心に焼きついているらしい。


 シグマはそれに気づいていたが、今は何も言わなかった。


 無理に大丈夫だと言い続けても、かえって黒鬼を追い詰めてしまう。


「そういえば、今日はどこまで行くん?」


 シルフの問いに、紅蓮がスープの器を置く。


「次の目的地はラトナ村だ。ここから馬車で二日ほどかかる。今日はできるだけ進み、街道沿いで野営する」


「また野営かぁ」


「嫌なら歩いて帰れ」


「誰も嫌とは言うてへんやろ。ちょっとくらい柔らかい寝台を名残惜しんでもええやん」


「シルフは馬車でもすぐ寝る」


 フェルンが言う。


「寝てへん。目ぇ閉じて旅の安全を祈っとるだけや」


「いびき、かいてた」


「嘘やろ?」


 シルフが慌てて周囲を見る。


 白鬼が肩を震わせ、黒鬼も口元を手で隠す。紅蓮だけは真顔のまま答えた。


「安心しろ。いびきというほどではない」


「ほんま?」


「時折、奇妙な声を上げる程度だ」


「余計に嫌や!」


 食卓に笑い声が広がる。


 重く沈んでいた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。


 食事を終える頃、三毛猫亭の母親が厨房から出てきた。


 その手には、布に包まれた大きな籠がある。


「昼に食べな。昨日の残りだけじゃ足りないと思って、少し作っておいたよ」


「ありがとうございます。でも、これ以上は……」


 シグマが遠慮しようとすると、母親は籠を御者台の近くへ置いた。


「昨日、娘とフェルンが作りすぎた分だよ。ここに置いておけば傷むだけさ」


「でも……」


「命を懸けて村を守った人たちに弁当を渡すくらい、許しておくれ」


 シグマは少し迷った後、頭を下げた。


「分かりました。ありがたくいただきます」


「それでいいんだよ」


 母親は満足そうに笑った。


 その隣では、娘がフェルンへ小さな包みを渡している。


「昨日作った林檎のお菓子。みんなで食べてね」


「ありがとう」


「また来てね」


 フェルンは包みを抱えながら、シグマの顔を見上げた。


 シグマには、簡単に再訪を約束することはできない。


 代わりに、フェルンが自分で答える。


「うん。また来られたら来る」


「待ってるね」


 二人が小さく手を振り合う。


「道中、気をつけるんだよ」


 母親の言葉に見送られ、シグマたちは三毛猫亭をあとにした。


        ◇


 冒険者ギルドへ入ると、ギルベルトとマリンが受付の前で待っていた。


 昨日とは異なり、ギルド内に冒険者の姿は少ない。


 ギルベルトはシグマの歩き方を見て眉を寄せた。


「傷は大丈夫なのか?」


「黒鬼に治療してもらいました。まだ少し痛みますが、馬車を動かすくらいなら問題ありません」


「本当に休まなくていいのか?」


「ここに長く残れば、村の人たちも落ち着かないでしょう」


 シグマの言葉に、ギルベルトの表情が曇る。


「昨日のことなら、気にする必要はない。お前たちに責任はないんだ」


「責任があるとは思っていません。ただ、森を失った人たちにとって、俺たちは思い出したくない相手なのかもしれません」


 黒禍樹を倒さなければ、村そのものが失われていた。


 侵された木々を焼かなければ、災いは再び広がっていた。


 あの判断が間違っていたとは思わない。


 それでも、森とともに生きてきた者たちが、炎に包まれる木々を見て何も感じないはずがない。


「頭では分かっていても、すぐには納得できない者もいるか」


 紅蓮が呟く。


「そういうことだろうな」


 ギルベルトは重く頷いた。


「森を失った木こりたちには、当面の仕事と食料を用意するつもりだ。焼けた森の調査も必要になる。安全が確認できれば、植林も始める」


「アルランカのギルドにも報告するんですか?」


「ああ。マリンが昨夜のうちに報告書をまとめた」


 全員の視線が受付の中に立つマリンへ集まる。


 マリンはいつもと変わらない無愛想な顔で書類を整理していた。


「何ですか」


「いや、仕事が早いと思ってな」


 シルフが言うと、マリンは僅かに眉を寄せる。


「当然です。放置した結果が昨日の惨状ですから。同じことを繰り返さないためにも、報告は早い方がいいでしょう」


「昨日は格好よかったで。あんな大声出せるんやな」


「忘れてください」


「なんでや。村人みんな黙らせとったやん」


「忘れてください」


 マリンの声が一段低くなる。


 シルフはそれ以上からかうのをやめ、紅蓮の後ろへ隠れた。


「うち、褒めただけやのに……」


「お前は言い方が悪い」


 ギルベルトは苦笑しながら、受付台の上へ二つの革袋を置いた。


「報酬を清算しよう。まず、盗賊討伐の報奨金だ。回収された盗品と装備を含めて銀貨二十枚」


 紅蓮が袋を受け取り、中身を確認する。


「確かに」


「そして、黒禍樹の討伐と周辺の魔物の処理。こちらが銀貨五十枚だ」


「森を焼いた分の弁償を差し引かなくていいのか?」


 紅蓮が尋ねる。


「焼却を命じたのは俺だ。それに、必要な処置だった。お前たちへ弁償を求める理由はない」


 ギルベルトは二つ目の革袋を差し出した。


「むしろ、この額でも少ないくらいだ。本来なら、黒禍樹の討伐は小さな村のギルドで扱えるような依頼ではない」


「今回は正式な依頼を受けたわけではない。十分だ」


「そう言ってもらえると助かる」


 紅蓮が革袋をしまう。


 ギルベルトは一行を見回した後、シグマへ視線を止めた。


「ラトナ村まで二日ほどだったな」


「ああ。今日は途中で野営する予定です」


「街道を外れなければ、大きな危険はないはずだ。ただ、昨日の異変で周辺の魔物が移動している可能性がある。森へ近づきすぎるな」


「分かりました」


「それと――」


 ギルベルトは言いにくそうに口を閉じる。


「何ですか?」


「昨日、森へ入った村人たちから聞いた。お前は黒禍樹が何であるか知っていたそうだな」


 シグマの表情が僅かに強張る。


「知っていたというより、見た瞬間に……分かったんです」


「以前、どこかで見たのか?」


「分かりません」


 シグマは正直に答えた。


「記憶にはありません。でも、実を食べれば死ぬことも、根まで焼かなければならないことも知っていました」


 ギルベルトはしばらく黙り込む。


「そうか。無理に聞いて悪かった」


「いえ」


「だが、その知識がなければ、俺たちは黒禍樹を倒しただけで安心していたかもしれん。根も実も残し、いずれ同じ災いを招いていただろう」


 ギルベルトは深く頭を下げた。


「改めて礼を言う。この村を救ってくれて、ありがとう」


 マリンも受付の中から頭を下げる。


「ありがとうございました」


 いつもの気だるそうな声ではなかった。


 シグマも頭を下げ返す。


「皆が無事でよかったです」


「お前はまだ無事とは言い切れん。ラトナ村に着いたら、治療院か教会でもう一度傷を診てもらえ」


「そうします」


「絶対に診てもらう」


 フェルンがシグマのマントを握りながら付け加えた。


「この子に監視されているなら安心だな」


 ギルベルトが笑う。


「達者でな。アルスラまで、まだ長い道のりだ」


 シグマたちはギルベルトとマリンに別れを告げ、ギルドをあとにした。


        ◇


 村の大通りを馬車へ向かって歩く。


 店先で朝の準備をしていた村人の中には、シグマたちへ頭を下げる者もいた。


「昨日は、ありがとう」


「道中、気をつけて」


 感謝の言葉をかける者がいる一方、無言で顔を背ける者もいる。


 木材を扱う店の前では、数人の男が焼け残った道具を荷車へ積み込んでいた。シグマたちに気づいた一人が手を止め、険しい目を向ける。


 その顔には怒りだけでなく、先の見えない不安と疲労が浮かんでいた。


 紅蓮が足を止めかける。


 シグマは小さく首を横に振った。


「行こう」


「だが……」


「今は、何を言っても届かないと思う」


 森を焼かずに村を救う方法があったのか。


 もっと被害を抑えることができたのか。


 シグマにも分からない。


 正しさを押しつけたところで、失われた森は戻らない。


「……そうだな」


 紅蓮は男たちへ何も言わず、再び歩き始めた。


 村の外へ出ると、街道脇に止めていた馬車と、餌を食べているノクスとソルが見えた。


 荷物を載せ終えると、フェルンが御者台へ登ろうとする。


「今日は俺が動かすよ」


「傷がある」


「手綱を握るだけなら大丈夫だ」


「フェルンがする」


「ラトナ村まで長いぞ」


「疲れたら代わる」


 フェルンは譲ろうとしない。


 シグマが困っていると、紅蓮が二人の間へ入った。


「最初は私が御者をする。シグマは休め。フェルンは隣で道を覚えろ」


「俺なら平気だ」


「今朝、無理をするなと言われたばかりだろう」


「……分かった」


 シグマが折れると、フェルンも渋々頷いた。


 紅蓮が御者台の中央へ座り、その隣にフェルンが腰を下ろす。


 シグマたちは客室へ乗り込んだ。


「出るぞ」


 紅蓮の声に合わせ、ノクスとソルが馬車を引き始める。


 三毛猫亭の母親と娘、それに数人の村人が、遠くから手を振っている。


 フェルンも振り返り、小さな手を振った。


 馬車はゆっくりとイル村を離れ、次の目的地であるラトナ村へ向かった。


        ◇


 その日の旅は、驚くほど穏やかだった。


 街道はなだらかな丘陵の間を通り、左右には草原と疎らな林が広がっている。


 時折、小型の魔物が遠くを横切ったが、馬車へ近づいてくることはなかった。


 昼には小川の近くで休憩を取り、三毛猫亭で受け取った料理を食べた。


 林檎の菓子を見つけたシルフと白鬼が取り合いになり、黒鬼が半分ずつに切ることで決着した。


 夕暮れが近づくと、街道から少し離れた場所に野営できそうな平地を見つけた。


 片側には小さな林があるものの、周囲の見晴らしは悪くない。近くには細い川も流れている。


「今夜はここにしよう」


 紅蓮の判断で、馬車を街道から移動させる。


 シルフが周囲を偵察し、シグマと紅蓮が野営地の安全を確認する。白鬼と黒鬼は焚き火の準備を始め、フェルンはノクスとソルへ餌と水を与えた。


「近くに大きな反応はないで」


 戻ってきたシルフが報告する。


「林の中に小動物が何匹かおるくらいや。魔物らしい反応もない」


「分かった。今夜は交代で見張りをする」


 紅蓮は全員を見回す。


「最初は私と白鬼。次がシルフと黒鬼。最後がシグマだ」


「俺は一人でいいのか?」


「夜明け前なら明るくなるまでの時間も短い。それに、まだ傷が残っている。先に休んでおけ」


「分かった」


 簡単な夕食を終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。


 空には雲が多く、月明かりはほとんど届かない。


 焚き火の外側には深い闇が広がっている。


 シグマは毛布の上へ横になった。


 当然のようにフェルンが隣へ来て、シグマの腕へ抱きつく。


「フェルン、もう少し離れた方が寝やすいだろ」


「ここがいい」


「俺が寝返りを打ったら危ない」


「離れた方が危ない」


「何が危ないんだ?」


「全部」


「全部って……」


 フェルンはシグマの胸元へ顔を寄せ、目を閉じてしまう。


「もう寝た」


「まだ話してるだろ」


「寝てるから聞こえない」


「そうか」


 シグマは諦め、毛布をフェルンの肩まで掛けた。


 瞼を閉じる。


 まだ脇腹に鈍い痛みは残っていたが、旅の疲れもあり、意識はすぐに眠りへ沈んでいった。


        ◇


「シグマ」


 肩を軽く揺すられ、シグマは目を覚ました。


 目の前に黒鬼が立っている。


「交代の時間……」


「ああ。ありがとう」


 シグマは身体を起こした。


 脇腹が僅かに痛んだが、動けないほどではない。


 腕に抱きついたまま眠るフェルンの手を慎重に外し、毛布を掛け直す。


 黒鬼が心配そうに見ている。


「一人で、大丈夫?」


「ああ。もう夜明けも近い。黒鬼は休んでくれ」


「傷……痛くなったら、すぐに呼んで」


「分かった」


 黒鬼は何度も振り返りながら、白鬼の隣へ横になった。


 シグマは焚き火へ薪を一本加え、周囲を見回す。


 雲に覆われた空は暗く、夜明けの気配はまだ見えない。


 風はほとんどなかった。


 虫の声も聞こえない。


 あまりにも静かだった。


 シグマは腰を上げる。


 静かすぎる。


 その瞬間、暗闇の中で微かな金属音がした。


 シグマは反射的に左腕を上げた。


 直後、飛来した細い針が義手へ弾かれる。


 甲高い音が夜の静寂を破った。


「起きろ!」


 シグマが叫ぶ。


 同時に、焚き火の外から複数の黒い影が飛び出した。


 全身を黒い布で覆い、顔も隠している。


 確認できるだけで七人。


 二人がシグマへ向かい、残る者たちは眠っている仲間たちへ散開した。


 いや、違う。


 全員が狙っているのは同じ場所だ。


「フェルン!」


 黒ずくめの一人が、毛布の上で眠るフェルンへ手を伸ばしていた。


 シグマは地面を蹴り、刺客の進路へ割り込む。


 振り下ろされた短剣を右の義手で受け止めた。


 刃と義手が衝突し、火花が散る。


 刺客はすぐに短剣を引き、反対の手でシグマの喉を狙う。


 速い。


 盗賊とは比べものにならない。


 シグマは刃を紙一重で避け、相手の腹部へ拳を叩き込もうとする。しかし刺客は攻撃を読むように身体を捻り、最小限の動きで拳を回避した。


 背後から新たな殺気が迫る。


 シグマが身を沈めると、頭上を短剣が通過した。


 地面へ片手をつき、そのまま回転して足払いを放つ。


 一人の脚を捉えた。


 だが、倒れながらも刺客は短剣を投げる。


 刃はシグマではなく、その後方で起き上がったフェルンへ飛んでいた。


「伏せろ!」


 シグマは左腕を伸ばし、土の壁を作る。


 地面から突き出した壁へ短剣が突き刺さった。


 その間にも、別の刺客が土壁を回り込む。


 フェルンの口を布で塞ぎ、小さな身体を抱え上げた。


「んっ……!」


「フェルン!」


 シグマが追おうとした瞬間、二本の短剣が行く手を遮る。


「退け!」


 右腕を振り抜き、正面の刺客を弾き飛ばす。


 だが脇腹に鋭い痛みが走り、僅かに動きが止まった。


 昨日の傷だ。


 その隙を見逃さず、もう一人がシグマの首筋へ刃を滑らせる。


 刃が届く寸前、横から大剣が振り抜かれた。


 刺客は大きく後退し、紅蓮の一撃を避ける。


「シグマ、フェルンを追え!」


「ああ!」


 シグマが走り出す。


 フェルンを抱えた刺客の足元へ、一本の矢が突き刺さった。


「うちらの仲間に手ぇ出して、逃げられると思うなよ!」


 シルフが二本目の矢を放つ。


 刺客はフェルンを抱いたまま身を翻し、矢を避けた。


 しかし、その進路に白鬼が回り込んでいる。


「その子を離して!」


 白鬼の杖から炎が放たれた。


 刺客はフェルンを盾にするように向きを変える。


「白鬼、撃つな!」


 シグマが叫ぶより早く、白鬼は魔法を消した。


 その一瞬を利用し、刺客が白鬼へ短剣を投げる。


「お姉ちゃん!」


 黒鬼が光の障壁を展開した。


 短剣が弾かれ、地面へ落ちる。


 その間にシグマが距離を詰め、フェルンを抱える刺客の背中へ拳を放つ。


 刺客は攻撃を避けるため、フェルンから片手を離した。


 フェルンが身体を捻り、相手の腕へ噛みつく。


 刺客の力が緩んだ。


「今や!」


 シルフの矢が刺客の肩を貫く。


 フェルンの身体が手から離れた。


 シグマは地面へ落ちる前に受け止め、そのまま胸へ抱き寄せる。


「大丈夫か?」


「大丈夫……!」


「黒鬼のところへ!」


 フェルンが頷き、黒鬼のもとへ走る。


 しかし、刺客たちは退こうとしない。


 一人を紅蓮が大剣で押し返し、もう一人を白鬼の炎が牽制する。


 シルフは次々と矢を放つが、相手は暗闇と木々を利用しながら距離を詰めてくる。


「こいつら、何者や!」


 シルフの問いに、刺客は誰一人として答えない。


 仲間が傷ついても、声をかけることすらない。


 ただフェルンへ向かう者と、シグマたちを足止めする者に分かれ、冷静に動き続けている。


「殺し合うつもりはないらしいな」


 紅蓮が大剣を構え直す。


「私たちを足止めし、あの子を奪うことだけが目的か」


「なら、なおさら渡すわけにはいかない!」


 白鬼が杖を掲げる。


 幾つもの火球が刺客たちの周囲へ降り注いだ。


 直撃を狙ったのではない。


 炎の壁を作り、フェルンから引き離すための攻撃だった。


「黒鬼、フェルンをお願い!」


「うん!」


 黒鬼はフェルンを背後へ庇い、光の障壁を二人の周囲に展開する。


 白鬼はその前へ立った。


 煙と炎の向こうから、二人の刺客が同時に飛び出す。


 一人が白鬼へ短剣を振るい、もう一人は低い姿勢で横を抜けようとする。


 白鬼は迫る刃を杖で受け止めた。


「行かせない!」


 炎を纏った杖を振るい、刺客を押し返す。


 しかし、もう一人が懐から小さな黒い球を取り出した。


「白鬼、離れろ!」


 紅蓮の声が飛ぶ。


 球が地面へ叩きつけられ、濃い煙が爆発的に広がった。


 視界が黒く染まる。


「黒鬼!」


 白鬼が妹の名を呼ぶ。


「ここにいる!」


 返事が聞こえた方向へ、白鬼が手を伸ばす。


 その瞬間、煙の中で金属が擦れる音がした。


 黒鬼へ迫る影が見えた。


「危ない!」


 白鬼は咄嗟に黒鬼を突き飛ばした。


 直後、刃が白鬼の脇腹を深く切り裂いた。


「――っ!」


 白鬼の身体が大きく揺れる。


「お姉ちゃん!」


 黒鬼の悲鳴が響いた。


 白鬼は苦痛に顔を歪めながらも、杖の先端を刺客の胸へ押し当てる。


「吹き飛べ!」


 至近距離から炎が炸裂する。


 刺客は煙の向こうへ吹き飛ばされた。


 シルフが風を起こし、黒い煙を払う。


「白鬼!」


 シグマが駆け寄ろうとするが、残る刺客たちが一斉に進路を塞いだ。


 そのうちの一人が指を二度鳴らす。


 刺客たちは迷いなく後退し、林の闇へ散っていった。


「待て!」


 紅蓮が追おうとする。


「紅蓮!」


 黒鬼の切迫した声に、紅蓮の足が止まる。


 白鬼が黒鬼の腕の中で崩れ落ちていた。


 傷口から流れた血が、服を赤く染めている。


「お姉ちゃん、しっかりして!」


「大丈夫……ちょっと切られただけ……」


「大丈夫じゃない!」


 黒鬼が震える手を傷口へ当て、治療魔法を唱える。


 淡い光が白鬼の身体を包み、傷口がゆっくりと塞がっていく。


 だが、白鬼の顔色は急速に青ざめていった。


 額から汗が噴き出し、呼吸も浅くなっていく。


「黒鬼、どうした?」


「分からない……傷は塞がってるのに……」


 白鬼の身体が小さく痙攣する。


 紅蓮が地面へ落ちていた短剣を確認し、鋭く声を上げた。


「刃に触るな!」


 刃の表面に黒紫色の液体が付着している。


「毒だ」


 黒鬼の顔から血の気が引いた。


「そんな……」


「解毒できるか?」


「やってみる」


 黒鬼は白鬼の胸元へ両手を重ねる。


「有害なる力よ、その身を離れよ――ディスペル」


 白い光が白鬼の身体を包んだ。


 黒紫色に変色し始めていた傷口の周囲が、僅かに元の色へ戻る。


 しかし、光が消えると再び変色が広がり始めた。


「消えない……」


「もう一度だ」


「うん」


 黒鬼は繰り返し魔法を使う。


 だが、完全に毒を取り除くことができない。


「私のディスペルじゃ……毒が広がるのを遅くするくらいしかできない……」


「ラトナ村の教会ならどうだ?」


 紅蓮が尋ねる。


「高位の神官がいれば、もっと強い解毒魔法を使えるはず……」


「村までの距離は?」


 シグマの問いに、紅蓮が空を見上げる。


 夜明けまでは、まだ時間がある。


「通常なら、夕方までかかる」


「今すぐ出よう」


 シグマは迷わず答えた。


「夜明けを待っている余裕はない」


「だが、奴らがまだ近くにいる可能性がある」


「ここに残っていても白鬼を助けられない」


 紅蓮は一瞬だけ目を閉じ、決断する。


「分かった。野営道具は最低限だけ回収する。残りは捨てても構わん」


「うちが周囲を見る。黒鬼は治療を続けて!」


「うん……!」


 シグマは白鬼を抱き上げた。


 軽い。


 普段なら文句を言いそうな白鬼が、力なくシグマへ身体を預けている。


「ごめん……シグマ」


「喋らなくていい」


「でも……傷、痛いでしょ……」


「大丈夫だ」


「また……大丈夫って言ってる……」


 白鬼は弱々しく笑い、そのまま目を閉じた。


「白鬼?」


 返事はない。


「お姉ちゃん!」


「気を失っただけだ。まだ息はある」


 シグマは白鬼を馬車の中へ寝かせる。


 黒鬼が隣に座り、その手を強く握った。


「絶対に助けるから……だから、置いていかないで……」


 ノクスとソルを起こし、馬車を出す。


 紅蓮が御者台へ座り、シグマはその隣で街道を確認する。


 シルフは客室の屋根へ上がり、弓を構えた。


 暗い街道を、馬車が全速力で走り始める。


        ◇


 夜が明けても、馬車は止まらなかった。


 ノクスとソルの体力を考え、速度を落とす時間は作る。それでも、完全な休憩を取る余裕はない。


 客室では、黒鬼が何度もディスペルを唱えていた。


「有害なる力よ、その身を離れよ――」


 淡い光が白鬼を包む。


 魔法が終わるたび、黒鬼の呼吸が荒くなっていく。


「黒鬼、少し休め」


 シグマが声をかける。


「休めない……」


「黒鬼まで倒れたら、白鬼を治療できなくなる」


「でも、魔法を止めたら毒が……」


 シグマは白鬼の傷口を見る。


 先ほどより変色が広がる速度は遅くなっている。


 黒鬼の魔法は確かに毒の進行を抑えていた。


「なら、次の魔法まで少しだけ目を閉じてくれ。俺が白鬼を見ている」


「……少しだけ」


 黒鬼は白鬼の手を握ったまま、目を閉じた。


 だが、数分もしないうちに再び顔を上げる。


「まだ、大丈夫?」


「ああ。変化はない」


 黒鬼は安堵する間もなく、再び魔法を使った。


 その時、客室の屋根からシルフの声が響く。


「前方、何かある!」


 シグマが御者台へ顔を出す。


 街道の中央に、大きな倒木が横たわっていた。


「くっ!!」


 紅蓮が手綱を引く。


 馬車の速度が落ちた瞬間、左右の林から矢が飛来した。


「伏せろ!」


 シグマは左の義手を街道へ向ける。


 地面が盛り上がり、馬車の両側に土の壁が作られた。


 矢が次々と突き刺さる。


「またあいつらや!」


 シルフが林へ矢を放つ。


 木々の間で黒い影が動いた。


 紅蓮が大剣を持って御者台から飛び降りる。


「倒木をどかす! シグマ、馬車を守れ!」


「ああ!」


 紅蓮が大剣を倒木の下へ差し込み、力任せに持ち上げる。


 その間にも、矢が土壁へ突き刺さる。


 一人の刺客が木の上から飛び降り、客室の屋根へ着地した。


 シルフが弓で短剣を受け止める。


「しつこいねん!」


 蹴りを放ち、刺客を屋根から落とす。


 しかし、反対側からもう一人が馬車へ迫っていた。


 狙いは窓際にいるフェルンだ。


「フェルン、下がれ!」


 シグマが拳を振るう。


 刺客は地面を滑るように攻撃を避け、そのまま短剣を突き出した。


 シグマは右の義手で刃を掴む。


 刺客は短剣を手放し、懐から細い縄を取り出した。


 先端についた輪がフェルンの腕へ絡みつく。


「フェルン!」


 縄が強く引かれ、小さな身体が窓へ引き寄せられた。


「離して!」


 フェルンが必死に抵抗する。


 シグマは縄を右手で掴み、力任せに引き戻す。


 義手から僅かな炎が漏れ、縄を焼き切った。


 刺客が別の武器を取り出そうとした瞬間、紅蓮の大剣が地面を抉った。


 刺客は後方へ跳び、木々の中へ逃げ込む。


「倒木をどかした! 出せ!」


 紅蓮が御者台へ戻る。


 馬車が再び走り出す。


 黒い影は追ってこない。


 だが、完全に諦めたとも思えなかった。


「行き先を知られとるな」


 屋根から降りてきたシルフが、悔しそうに呟く。


「うちらがラトナ村へ向かっとると知らんかったら、先回りして倒木なんか置けへん」


「イル村を出る時から見張られていたのかもしれん」


 紅蓮が答える。


「問題は、奴らが何者で、なぜフェルンを狙うのかだ」


 三人の視線がフェルンへ向く。


 フェルンは切れた縄の跡が残る腕を押さえ、怯えた表情を浮かべていた。


「フェルン」


 シグマが近づくと、フェルンは首を横に振る。


「分からない」


「まだ何も聞いてないよ」


「分からない……フェルン、何も知らない」


 声が震えている。


 シグマはそれ以上尋ねず、フェルンの頭へ手を置いた。


「分かった。今は白鬼を助けることを考えよう」


 フェルンは俯いたまま、シグマの服を掴んだ。


        ◇


 昼を過ぎても、襲撃は続いた。


 遠くから矢を放ち、馬車の速度を落とそうとする。


 ノクスとソルを狙うように見せかけ、守りが薄くなった側からフェルンへ近づく。


 深追いはしない。


 失敗すればすぐに退き、シグマたちが先へ進めば、別の場所で待ち伏せる。


 まるで、こちらが疲れ果てるのを待っているようだった。


「これで三度目やぞ……」


 シルフが額の汗を拭う。


「同じ連中かどうかも分からへん。いったい何人おるんや」


「全員が同じ動きをしている」


 紅蓮の表情は険しい。


「相当な訓練を受けている。それに、フェルンを傷つけないよう徹底している」


 襲撃者たちはシグマたちには容赦なく毒の刃を向ける。


 しかし、フェルンへ投げられた道具は縄や煙だった。


 殺すためではない。


 生きたまま連れ去ることが目的なのは明らかだった。


「次に来たら、一人は生け捕りにする」


 シグマが言う。


「気持ちは分かるが、無理はするな」


「このままでは、ラトナ村へ着いても狙われ続ける」


「せやけど、今は白鬼を運ぶんが最優先や」


 シルフの言葉に、シグマは拳を握る。


 客室では、黒鬼が再び解毒魔法を使っていた。


 その声は掠れ、魔法の光も最初より弱くなっている。


「黒鬼、状態は?」


「毒は……まだ抑えられてる。でも、お姉ちゃんの身体が冷たくなってる……」


 黒鬼は白鬼の手を両手で包む。


「魔力もほとんど残ってない。次に毒が強くなったら、私……」


「ラトナ村までもう少しだ」


 紅蓮が前方を見る。


「日没までには着く」


「お姉ちゃん、それまで耐えられる……?」


「耐えさせる」


 シグマは言い切った。


「黒鬼がここまで繋いだんだ。必ず間に合わせる」


 黒鬼は唇を噛み、頷いた。


        ◇


 夕日が地平線へ近づいた頃、街道の先に石造りの外壁が見えた。


「見えた!」


 シルフが声を上げる。


「ラトナ村や!」


 紅蓮が手綱を握り直す。


「ノクス、ソル! あと少しだ!」


 二羽は疲れているはずなのに、最後の力を振り絞って速度を上げた。


 村の門へ近づくと、門番たちが慌てて立ち上がる。


「止まれ! 何があった!」


「仲間が毒を受けた!」


 紅蓮が叫ぶ。


「高位の解毒魔法を使える者はいるか!」


「教会へ行け! 大通りを真っ直ぐ進んだ先だ!」


 門番が道を開ける。


 馬車は速度を落とさず、村の中へ入った。


 通りを歩いていた人々が驚いて左右へ避ける。


 鐘楼のある白い建物が見えた。


 教会の前で馬車を止め、シグマが白鬼を抱き上げる。


「誰か!」


 扉を開けて叫ぶと、数人の修道女と年老いた神官が駆け寄ってきた。


「どうされました!」


「毒を受けています。低位のディスペルでは完全に消せませんでした」


 黒鬼が白鬼の隣へ駆け寄る。


「何度も魔法を使って進行を抑えました。でも、もう……」


「すぐに治療室へ!」


 白鬼は担架へ移され、教会の奥へ運ばれた。


 黒鬼もついて行こうとするが、治療室の前で修道女に止められる。


「ここから先はお任せください」


「私も回復魔法を使えます。何か手伝えることが……」


「あなたも限界です」


「でも、お姉ちゃんが……!」


 黒鬼の膝から力が抜ける。


 シグマが背後から身体を支えた。


「黒鬼」


「離して……私も行かないと……」


「神官に任せよう」


「でも……!」


 扉が閉じる。


 黒鬼はその場へ座り込み、両手を胸元で強く握りしめた。


 治療室の中から、低い詠唱が聞こえてくる。


 扉の隙間から眩い光が漏れ出した。


 シグマたちは廊下で待ち続けた。


 紅蓮は壁に背を預け、腕を組んで目を閉じている。


 シルフは椅子へ座ったまま、何度も足を組み直していた。


 フェルンはシグマのマントを握り、治療室の扉から目を離さない。


 黒鬼は床へ座り込んだまま、祈るように俯いていた。


 時間の感覚がなくなっていく。


 一時間だったのか、それ以上だったのか。


 やがて詠唱が止まり、治療室の扉が開いた。


 年老いた神官が姿を現す。


 黒鬼が立ち上がろうとして、よろめいた。


「お姉ちゃんは……?」


「毒は取り除きました」


 その言葉を聞いた瞬間、全員の表情が緩んだ。


「本当に……?」


「ええ。傷も問題ありません。ただし、強い毒によって体力をかなり消耗しています。しばらくは安静が必要です」


「助かるんですか?」


「命に別状はありません」


 黒鬼の目から、大粒の涙が溢れた。


 神官は黒鬼へ穏やかな視線を向ける。


「あなたが道中で何度も解毒魔法を使っていたのでしょう?」


「でも、私の魔法じゃ消せなくて……」


「完全に消せなくとも、毒の進行を遅らせることはできていた。あなたの処置がなければ、ここへ着く前に手遅れとなっていたでしょう」


 黒鬼が顔を上げる。


「私の魔法が……?」


「ええ。あなたがお姉さんの命を繋いだのです」


 黒鬼は両手で顔を覆い、その場へ泣き崩れた。


        ◇


 白鬼は教会の客室へ移された。


 神官の話では、今夜中に目を覚ます可能性もあるが、明日まで眠り続けても不思議ではないらしい。


 紅蓮は宿の手配と周囲の確認へ向かい、フェルンとシルフは修道女に頼まれて、ノクスとソルの様子を見に行った。


 部屋には白鬼と黒鬼、それにシグマだけが残っている。


 黒鬼は寝台の横に座り、白鬼の手を握っていた。


 シグマが水の入った器を置いても、顔を上げようとしない。


「黒鬼も少し休んだ方がいい」


「……眠れない」


「魔力をほとんど使い切っているだろう」


「私が眠ってる間に、お姉ちゃんに何かあったら嫌……」


「毒は消えた。神官も命に別状はないと言っていた」


「でも……」


 黒鬼は白鬼の手を握ったまま、首を横に振る。


「私、何もできなかった」


「そんなことはない」


「できなかったよ」


「黒鬼が毒を抑えたから、白鬼は助かったんだ」


「違う……」


 黒鬼の肩が震える。


「私がもっと強ければ、あんなに苦しませなかった。すぐに毒を消せていたら、ノクスとソルをあんなに走らせることもなかった。みんなも何度も襲われずに済んだ」


「それは結果を知っているから言えることだ」


「お姉ちゃんは私を庇ったの!」


 黒鬼が初めて声を荒らげた。


 前髪の奥から、涙に濡れた瞳が僅かに覗く。


「私がちゃんと周りを見ていれば、お姉ちゃんが傷つくことはなかった。私がもっと強かったら……!」


「黒鬼」


「昔から、ずっとそうだった……」


 黒鬼は再び俯く。


「お姉ちゃんは、いつも私を守ってくれた。なのに私は、守られてばかりで……」


 シグマは少し離れた椅子を引き、黒鬼の隣へ座った。


「昔から?」


 黒鬼はすぐには答えなかった。


 やがて白鬼の手を握ったまま、途切れ途切れに話し始める。


「小さい頃のお姉ちゃんはね……今よりずっと、男の子みたいだった」


「白鬼が?」


「うん。髪も短くて、毎日外を走り回ってた。木に登って、川で魚を捕まえて、服を泥だらけにして帰ってきて……いつもお母さんに怒られてた」


 黒鬼の口元に、小さな笑みが浮かぶ。


「私は逆だった。髪を長くして、静かにしてることが多くて……村の人から、お姫様みたいだって言われてた」


「今とは少し違うんだな」


「うん。昔は、今より人と話せた」


 幼い双子は正反対だった。


 活発で少年のような白鬼と、お淑やかで人当たりのいい黒鬼。


 周囲の大人たちは、悪気なく二人を比べた。


 黒鬼は可愛らしい。


 白鬼はもう少し女の子らしくした方がいい。


 子供の頃は、二人とも気にしていなかった。


 しかし、成長するにつれて、白鬼の心にも変化が生まれた。


「お姉ちゃんが最初に好きになった男の子は、私のことが好きだった」


 白鬼は何も言わず、その恋を諦めた。


 しばらくして、別の少年に思いを寄せた。


 だが、その少年も黒鬼を見ていた。


「一度だけじゃなかった。何度も同じことがあったの」


 白鬼はいつも笑っていた。


 自分は気にしていない。


 そもそも本気ではなかった。


 そう言って、黒鬼を責めることは一度もなかった。


「でも、お姉ちゃんが鏡を見なくなった。髪を伸ばそうとして、途中で切って……可愛い服を着ても、すぐに脱ぐようになった」


 黒鬼は姉が傷ついていることに気づいていた。


 それでも、何を言えばいいのか分からなかった。


 褒めれば、哀れんでいると思われるかもしれない。


 謝れば、余計に傷つけてしまう。


「私は、何もできなかった」


 その一方で、黒鬼も変わっていった。


 成長するにつれて、男たちから向けられる視線が怖くなった。


 好意を寄せられることも、突然近づかれることも、逃げ場を塞がれるような感覚がした。


 次第に家から出ることができなくなった。


「そんな私を、お姉ちゃんは一度も責めなかった」


 白鬼は黒鬼の代わりに買い物へ行き、村の用事を済ませた。


 外へ出なければならない時は、必ず手を握ってくれた。


 誰かに声をかけられれば、黒鬼の前へ立った。


「怖かったら、私の後ろにいればいいって言ってくれた。私が外に出られなくなっても、ずっと一緒にいてくれた」


 その穏やかな日々は、突然終わった。


 朝早く、村の外から鐘の音が響いた。


 危険を知らせる鐘だった。


 人間たちの軍勢が、村を襲った。


 目的は領土を奪うことではない。


 食料、金目の物、そして人。


 奪えるものを奪うための襲撃だった。


「お父さんは、村のみんなと戦いに行った」


 父親は双子の頭を撫で、母親を頼むと言い残した。


 それが、父親の最後の言葉になった。


「お父さんは帰ってこなかった。村の男の人たちも、ほとんど……」


 家々が焼かれた。


 逃げ遅れた者は殺され、生き残った女と子供は一か所へ集められた。


 白鬼と黒鬼も、母親とともに捕らえられた。


「お母さんは、私たちをずっと抱きしめてた。何があっても、二人で手を離しちゃ駄目って……」


 だが、三人が同じ場所へ売られることはなかった。


 母親は別の荷馬車へ。


 白鬼と黒鬼は子供たちを詰め込んだ檻へ。


「私、お母さんの服を掴んでた。お姉ちゃんも腕にしがみついてた。でも、剣を持った男に引き剥がされて……」


 泣き叫ぶ母親。


 必死に手を伸ばす双子。


 無理やり閉じられる檻の扉。


 走り出す二台の荷馬車は、途中で別々の道へ分かれた。


「それが、お母さんを見た最後だった」


 母親がその後どこへ連れて行かれたのか、二人には分からなかった。


 生きているのかさえ、確かめることができなかった。


「怖かった。檻の中は暗くて、知らない子がずっと泣いてて……大人たちは、私たちがいくらで売れるか話してた」


 黒鬼は恐怖で声も出せず、震えることしかできなかった。


 その時も、白鬼は妹を抱きしめ続けた。


 白鬼自身も泣いていた。


 声を殺し、身体を震わせていた。


 それでも黒鬼の耳元で、何度も同じ言葉を繰り返した。


『大丈夫。私がいるから』


「奴隷商人に売られてからも、お姉ちゃんは私を守ってくれた。食べ物を取られそうになった時も、男の人に髪を掴まれた時も、いつも前に出てくれた」


 二人は奴隷紋を施される前に、紅蓮に助け出された。


 だが、それまでの恐怖が消えたわけではない。


「私は紅蓮に助けてもらって、お姉ちゃんに守ってもらって……ずっと誰かに守られてる」


 黒鬼の涙が、白鬼の手の甲へ落ちる。


「今度こそ、私がお姉ちゃんを守りたかったのに……また庇われた」


 シグマは静かに話を聞いていた。


「黒鬼。守られることは、弱いことじゃない」


「でも……」


「白鬼が黒鬼を庇ったのは、黒鬼が弱いからじゃない。大切だったからだ」


 黒鬼は顔を上げる。


「それに今日、白鬼の命を守ったのは黒鬼だ。毒を消せなかったことばかり考えているけど、黒鬼の魔法がなければ、白鬼はここまで辿り着けなかった」


「それでも怖かった……」


「ああ」


「魔法を使っても、毒が消えなくて……お姉ちゃんの身体がどんどん冷たくなって……」


 黒鬼の呼吸が乱れる。


「もし、お姉ちゃんがこのまま目を覚まさなかったらって……お父さんやお母さんみたいに、もう会えなくなったらって……」


 言葉が続かなかった。


 黒鬼は椅子から立ち上がり、縋りつくようにシグマへ抱きついた。


「嫌だよ……お姉ちゃんまでいなくなるのは嫌……!」


 シグマは何も言わなかった。


 軽い言葉で大丈夫だと繰り返しても、黒鬼の恐怖は消えない。


 ただ、その小さな身体を両腕で抱きしめた。


 黒鬼はシグマの胸へ顔を押しつけ、声を上げて泣いた。


「怖かった……! ずっと、怖かった……!」


 幼い頃から閉じ込めてきた恐怖まで吐き出すように、黒鬼は泣き続けた。


 シグマは背中へ手を回し、震えが収まるまで抱きしめる。


 どれほど時間が過ぎたのか。


 寝台から、弱々しい声が聞こえた。


「……黒鬼、泣きすぎ……」


 黒鬼の身体が止まる。


 シグマも寝台へ顔を向けた。


 白鬼が薄く目を開き、こちらを見ていた。


「お姉ちゃん……?」


「そんなに大きな声で泣いたら……教会の人に怒られるよ……」


「お姉ちゃん!」


 黒鬼はシグマから離れ、白鬼へ抱きついた。


「痛い……黒鬼、痛いって……」


「よかった……! よかった……!」


「苦しい……」


 口では苦しそうに言いながらも、白鬼は黒鬼を引き離さなかった。


 力の入らない腕を妹の背中へ回し、ゆっくりと撫でる。


「ごめんね……心配かけたね」


「私の方こそ、ごめんなさい……!」


「どうして黒鬼が謝るの?」


「私を庇って……お姉ちゃんが……」


「黒鬼が無事だったから、それでいいよ」


 迷いのない言葉だった。


 黒鬼の目から、さらに涙が溢れる。


「それが嫌なの!」


 白鬼が驚いたように瞬きをする。


「お姉ちゃんが傷ついていいわけじゃない! 私を守るためでも、死んじゃうようなことしないで!」


「黒鬼……」


「次は、私もお姉ちゃんを守る。だから一人で何でもしようとしないで……」


 白鬼はしばらく黒鬼を見つめた後、穏やかに笑った。


「分かった。次は二人で守ろう」


「……うん」


「でも、今はもう少し優しく抱きついて。傷は治ってても、まだ痛いから……」


「ご、ごめんなさい……!」


 黒鬼が慌てて身体を離す。


 白鬼はその手を掴み、離れないように握った。


「離れなくていいよ。手、握ってて」


「うん……」


 その時、廊下から足音が聞こえた。


 扉が開き、紅蓮とシルフ、フェルンが入ってくる。


「白鬼!」


「目ぇ覚ましたんか!」


 フェルンは真っ先に寝台へ駆け寄った。


「白鬼、大丈夫?」


「うん。身体が重いけど、大丈夫だよ」


 白鬼はフェルンへ笑いかける。


 フェルンは安心したように息を吐いたが、すぐに俯いた。


「ごめんなさい……」


「どうしてフェルンが謝るの?」


「フェルンが狙われたから、白鬼が怪我した」


 白鬼は空いている手を伸ばし、フェルンの頭へ置いた。


「フェルンのせいじゃないよ」


「でも……」


「悪いのは襲ってきた人たち。フェルンが謝ることじゃない」


 フェルンは唇を噛む。


「それに、私が助けたのは黒鬼だよ。フェルンを庇ったわけじゃないから、フェルンが責任を感じるのはおかしいでしょ?」


「……そうなの?」


「そうなの」


 白鬼は少し得意げに答えた。


 フェルンはまだ納得していない様子だったが、やがて白鬼の手へ自分の手を重ねる。


「白鬼も、いなくならないで」


「大丈夫。どこにも行かないよ」


「約束?」


「約束」


 その言葉を聞き、フェルンの強張っていた表情が僅かに緩んだ。


「まったく、心配をかけさせて」


 紅蓮は厳しい顔を作っていたが、その声には安堵が滲んでいた。


「今は余計なことを考えず、神官の言うとおり休め」


「はーい……」


「返事だけはいいな」


「紅蓮、お腹空いた」


「目を覚まして最初に言うことがそれか?」


「だって、昨日の夜から何も食べてないもん」


「いつもの白鬼やな」


 シルフが笑う。


 その言葉に、全員の表情がようやく和らいだ。


        ◇


 白鬼は修道女が用意した柔らかなスープを少しだけ口にすると、再び眠りについた。


 黒鬼は寝台の横で白鬼の手を握り、やがて椅子へ座ったまま眠った。


 フェルンも反対側へ椅子を運び、白鬼の様子を見ていたが、旅の疲れには勝てなかったらしい。寝台へ上半身を預けたまま、小さな寝息を立て始めた。


 紅蓮が三人へ毛布を掛ける。


「ようやく眠ったか」


「黒鬼も限界やったんやろな」


 シルフが声を落とす。


「二人を休ませよう」


 シグマたちは部屋を出て、予約した宿屋へ向かった。


 時刻はすでに夜になっていた。


        ◇


 宿屋の食堂には、シグマ、紅蓮、シルフの三人だけが残っていた。


 店主が用意してくれた食事は並んでいるが、誰もすぐには手をつけようとしない。


 シルフが温かい茶を一口飲み、重い息を吐く。


「まず、はっきりしとることが一つある」


「ああ」


 紅蓮が頷く。


「あいつらの狙いはフェルンだ」


「殺すつもりはなかった」


 シグマは何度も繰り返された襲撃を思い出す。


「俺たちには毒の武器を使った。でも、フェルンには縄や眠らせるための道具しか使っていない。傷つけずに連れ去ろうとしていた」


「ただの人攫いとは思えへんな」


 シルフが腕を組む。


「動きが揃いすぎとった。誰かが指示を出さんでも、それぞれ何をすればええか分かっとった」


「訓練された集団だ」


 紅蓮は回収した短剣を布の上へ置く。


 神官に毒を処理してもらったため、今は触れても危険はない。


 柄にも鞘にも装飾はなく、持ち主や製造元を示す刻印も見つからない。


「身元に繋がる物を何も持っていない。捕らえられることまで考えて準備していたのだろう」


「一人くらい捕まえられたらよかったんやけどな」


「白鬼を優先したのは正しい」


 シグマは短剣を見つめる。


「それに、あいつらは仲間が倒されても回収しようとしなかった。捕まるくらいなら見捨てるつもりだったのかもしれない」


「厄介な連中だな」


 紅蓮は低い声で呟く。


「もう一つ。奴らは私たちの行き先を知っていた」


「ああ」


「最初の襲撃は、イル村から後をつければ可能だ。だが、その後の待ち伏せは違う。私たちがラトナ村へ向かうと分かっていなければ、街道に倒木を置いて先回りするのは難しい」


「イル村で話を聞かれたんかな」


 シルフが考え込む。


「うちら、行き先を隠してたわけやないし。三毛猫亭でもギルドでも、ラトナ村へ行くって話しとった」


「誰でも知ることはできた」


 シグマが答える。


「ただ、フェルンが俺たちと一緒にいることまで知っていた。最初から俺たちを狙っていたのか、偶然見つけた後で追ってきたのかは分からない」


「フェルンを知っている者が、イル村にいた可能性もある」


 紅蓮の言葉に、シルフが顔を上げる。


「村人の誰かが仲間やったってこと?」


「断定はできん。村へ出入りする商人や旅人もいる。私たちの姿を見た者が、どこかへ連絡した可能性もある」


 三人の間に沈黙が落ちる。


 シグマの脳裏に、一人の人物が浮かんだ。


「レイラさんの調査は、どうなっているんだろう」


「フォックス商会の積荷を調べる言うてた人やな」


 シルフが答える。


「ああ。フェルンが入れられていた箱は、フォックス商会が運んでいた積荷の一つだった」


「レイラ自身を疑っているのか?」


 紅蓮が尋ねる。


「違う。レイラさんがフェルンを取り返そうとする理由はない」


 シグマは首を横に振る。


「でも、積荷にフェルンを紛れ込ませた者が商会の中にいるなら、レイラさんが調査を始めたことで、フェルンが生きていると気づかれた可能性がある」


「なるほどな」


 シルフの表情が険しくなる。


「自分らの仕業が知られる前に、もう一度フェルンを奪おうとしたんか」


「だとしても、疑問は残る」


 紅蓮が言う。


「あれほどの手練れを何人も送り、失敗した後も繰り返し襲わせる理由は何だ? ただ売り物を取り戻すだけなら、労力が釣り合わない」


「フェルン自身に、何か目的がある」


 シグマが呟く。


 フェルンは自分の過去をほとんど話さない。


 質問をすれば、分からない、覚えていないと繰り返す。


 無理に聞き出そうとすれば、目に見えて怯える。


「フェルンは、あいつらを知っとるんやろか」


「襲撃者の顔は隠れていた。本人にも分からない可能性はある」


 シグマは昼間のフェルンの反応を思い出す。


 何も尋ねていないうちから、分からないと繰り返していた。


 ただ知らないのではない。


 思い出すことを恐れているように見えた。


「明日、フェルンに聞く」


「大丈夫なんか?」


「無理に話させるつもりはない。でも、襲撃が続くなら、何も知らないままでは守りきれない」


 シルフは少し考え、頷いた。


「シグマから聞くんが一番ええやろな。うちらが揃って聞いたら、責められとると思うかもしれへん」


「今夜はやめておけ」


 紅蓮が付け加える。


「あの子は白鬼が傷ついたのを自分のせいだと思っている。今問いかけても、冷静には話せないだろう」


「ああ。明日、白鬼の状態が落ち着いてからにする」


 三人は今後の見張りについて話し合った。


 白鬼が回復するまで、数日はラトナ村に滞在しなければならない。


 だが、襲撃者たちが諦めた保証はない。


「白鬼と黒鬼、フェルンは同じ部屋にする」


 紅蓮が指を折りながら確認する。


「一人は部屋の前。もう一人は宿と教会の周囲を見回る。残った者が休み、短い間隔で交代する」


「窓も塞いだ方がええな」


「完全に塞ぐ必要はないが、開けば分かるように細工をする。黒鬼が起きたら、簡単な感知魔法を使えるか確認しよう」


「食事や水も気をつけた方がいい」


 シグマは短剣を見る。


「毒を使う相手だ。正面から襲ってくるとは限らない」


「教会と宿の者にも事情を説明しよう。ただし、フェルンが狙われていることは必要以上に広めない方がいい」


「噂が広がれば、また居場所を知られるかもしれへんからな」


 方針は決まった。


 それでも、最も大きな疑問は何一つ解けていない。


 フェルンを狙う者は誰なのか。


 なぜ、あれほど執拗に生きたまま連れ去ろうとするのか。


 レイラが調べている積荷と、今回の襲撃は本当に繋がっているのか。


「レイラさんにも知らせたい」


 シグマが言う。


「だが、すぐに連絡する手段がない」


 紅蓮が答える。


「明日、この村のギルドで早馬か伝書を頼めるか確認しよう。フォックス商会なら、各地に支店があるかもしれん」


「連絡するにしても、誰を信用するか考えなあかんな」


 シルフが声を落とす。


「商会の中に敵がおるかもしれへんのやろ? 普通に手紙を出したら、レイラさんへ届く前に読まれる可能性もあるで」


「レイラさん本人にしか分からない内容を入れる」


 シグマは少し考える。


「関所で話したことや、フェルンを見つけた時の状況。それなら、途中で偽物が受け取っても見分けられるかもしれない」


「明日、文章を考えよう」


 紅蓮は立ち上がった。


「今夜の最初の見張りは私がする。シグマは休め」


「俺も行く」


「傷が残っているだろう」


「白鬼が狙われたのは、俺が十分に動けなかったせいでもある」


「それで無理をして倒れれば、また黒鬼が自分を責めるぞ」


 紅蓮の言葉に、シグマは黙り込む。


 今日、泣き崩れた黒鬼の姿が浮かんだ。


「……分かった。最初は休む」


「それでいい」


 三人は食事を済ませ、席を立った。


 食堂の窓から外を見る。


 ラトナ村の通りは静まり返り、家々の明かりも少なくなっていた。


 一見すれば、何の異変もない穏やかな夜だ。


 だが、その暗がりのどこかから、こちらを見つめる者がいるような感覚が消えない。


 シグマは右の義手を強く握りしめた。


 白鬼も、黒鬼も、フェルンも。


 もう二度と傷つけさせない。


 その頃。


 宿屋から少し離れた建物の屋根に、一つの黒い影が立っていた。


 影は教会の窓を見つめ、白鬼が運び込まれた部屋の位置を確認する。


 やがて懐から小さな筒を取り出した。


 中に入っていた細い紙へ、短い言葉を書き記す。


『対象を確認。回収に失敗。護衛五名。うち一名負傷』


 影は紙を筒へ戻すと、足元に止まった黒い鳥の脚へ結びつけた。


 鳥が翼を広げ、夜空へ飛び立つ。


 その行方を見届けた影は、音もなく屋根から飛び降りた。


 そして、ラトナ村を覆う闇の中へ溶けるように姿を消した。

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