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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第十六話 黒禍樹

 三毛猫亭へ戻った頃には、空は茜色に染まり始めていた。


 店の扉を開けると、帳場にいた女将が驚いたように顔を上げた。その傍らでは、娘が夕食の皿を並べている。


「まあ……お帰りなさい。今日は発つんじゃなかったのかい?」


「その予定だったんですが、少し事情が変わりました」


 シグマが盗賊の捕縛と、森で起きている魔物の異常発生について説明すると、女将の表情から笑みが消えた。


「森の奥を、明日もう一度調べることになりました。今夜も部屋を借りられますか?」


「もちろんだよ。あんたたちは村を助けてくれたんだ。今夜の宿代はいらない。食事も好きなだけ食べておくれ」


「それは駄目です」


 シグマは間を置かずに答えた。


「助けたことと、ここに泊まることは別です。部屋も食事も用意してもらうんですから、きちんと払わせてください」


「けどねえ……」


「ほな、うちらが遠慮なく食べられるようにするためやと思って、受け取ってください」


 シルフが横から笑いかける。白鬼も大きく頷き、自分の腹を軽く叩いた。


「私、今日はいっぱい食べる。無料だと女将さんが困る」


「白鬼。そこは少し遠慮しろ」


 紅蓮が呆れた声を出すと、張りつめていた空気が僅かに緩んだ。


 女将はしばらく困った顔をしていたが、やがて根負けしたように息を吐いた。


「分かったよ。その代わり、少しくらい多めに出しても文句は言わせないからね」


「ああ。それなら喜んでいただきます」


 ほどなくして、食堂の大きな卓に夕食が並べられた。


 焼き目のついた川魚に、茸と根菜を煮込んだ濃いめのスープ。香草を混ぜた芋の団子と、厚切りの黒パン。さらに女将は、保存していた燻製肉まで惜しげもなく切り分けた。


 白鬼は目を輝かせ、黒鬼は湯気の立つスープを両手で包むように持っている。フェルンは川魚をじっと見つめていたが、骨を避けるのに手間取っていた。


「貸してみろ」


 シグマが皿を受け取り、身をほぐして骨を取り除く。食べやすい大きさに分けて返すと、フェルンは嬉しそうに尻尾を揺らした。


「シグマ、ありがと」


「慌てて食べるなよ。小さな骨が残っているかもしれないからな」


「うん」


 素直に頷きながらも、フェルンはすぐに魚へかぶりつく。隣で見ていた女将の娘が、思わず笑い声を漏らした。


 食事が進むにつれ、話題は昼間に捕らえた盗賊へ移った。


「あの人数が村の近くに潜んでいたなんてね……」


 女将は顔を曇らせた。


「幸い、盗賊に襲われた村人はいなかった。だが、連中は森の獣まで異様に怯えていたと言っていた」


 紅蓮は昼間の状況を思い返すように、僅かに眉を寄せた。


「盗賊が魔物を集めたわけではなさそうだった。むしろ、森の異変に追い立てられ、村に近い場所まで出てきたと考えた方が自然だろう」


「悪いもんが、悪いもんに追い出されてきたわけやな」


「笑い話にはならない」


「分かっとるって」


 シルフは肩をすくめたが、その表情には普段の軽さがなかった。


 シグマは黒パンを置き、女将へ視線を向けた。


「森の異変は、いつ頃からあったんですか?」


「はっきりとは分からないけど、木こりたちが奥へ入れないと言い始めたのは半月ほど前だよ。その前から、獲物が減ったとか、妙に甘い臭いがするとか、夜中に獣が騒いでいるとか……そんな話は出ていたね」


「それでも、すぐには大きなギルドへ依頼しなかったんですね」


 黒鬼の静かな問いに、女将はスープの器へ目を落とした。


「森は、この村の暮らしそのものだからね。危険があると広まれば材木の買い手が離れるし、遠くのギルドへ調査を頼めば大金もかかる。大したことじゃないと、皆、思いたかったんだよ。私も含めてね」


 誰も返す言葉を見つけられなかった。


 少しの沈黙の後、白鬼が遠慮がちに口を開いた。


「そういえば、ギルドの受付の人……マリン、だっけ。ずっと気だるそうにしてた」


「ああ。受け答えも随分と無愛想だったな」


 紅蓮の言葉に、女将は困ったように笑った。


「あの子はね、元は貴族の娘なんだよ」


「貴族?」


 シルフが目を丸くする。


「といっても、家はもうない。家族が何をしたのかまでは知らないけど、没落して、行くあてもなくこの辺りを彷徨っていたところをギルベルトさんが拾ったんだ。それから読み書きや計算ができるのを見込まれて、ギルドの仕事をするようになったのさ」


「性格がいいとは、私も言えないけどね」


 女将はそう前置きしてから、言葉を続けた。


「でも、人を傷つけて喜ぶような子じゃないよ。言葉がきついのも、村の連中が何度注意しても聞かないせいさ。あの子なりに、この村を守ろうとしてるんだと思う」


「不器用なんやな」


「お前が言うと妙な説得力があるな」


「紅蓮、それ褒めてへんやろ」


 そのやり取りに、小さな笑いが起きる。


 やがて話題は、明日の調査へ移った。


「今日、魔物が多く出たのは森の北東側だったな」


 紅蓮が卓上へ指先で簡単な位置関係を描く。


「奥へ進むほど数が増えとった。原因があるとすれば、たぶんあっちや」


「詳しい道は、明日の朝にギルベルトさんへ確認しよう。森へ入るなら、案内を頼める人がいた方がいい」


 シグマの言葉に全員が頷く中、フェルンだけは話へ加わるように身を乗り出した。


「フェルンも行く」


 シグマはすぐには答えず、僅かに考えてから首を横へ振った。


「フェルンも行ける」


「明日は何がいるか分からない。守りながら戦える場所とは限らないんだ」


「邪魔しない」


「邪魔だと言っているんじゃない」


 シグマは目線を合わせるように身を屈めた。


「戻ってくる場所を守ってほしい。俺たちが安心して森へ行くために、ここで待っていてくれないか?」


 フェルンは納得していない顔をしていたが、しばらくして小さく頷いた。


「……絶対、戻る?」


「ああ。約束する」


 フェルンはしばらく袖を離さなかったが、最後には渋々と手を緩めた。


 翌朝は、まず村のギルドへ向かう。そこでギルベルトと詳しい話をしたうえで、森へ入る――そう決めると、食事を終えた一行は翌日に備えて早めに部屋へ戻った。


 夜の三毛猫亭には、虫の音と、風に揺れる窓の微かな軋みだけが残った。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 シグマが目を覚ますと、布団の中には予想どおりフェルンがいた。


 胸元へ額を押しつけ、シグマの服を掴んだまま眠っている。いつ入り込んだのかは分からない。扉には鍵を掛けたはずなのだが、最近は考えるだけ無駄な気がしてきていた。


「フェルン、朝だぞ」


「ん……」


 肩を軽く揺すると、銀色の耳が動く。フェルンは眠そうに目を開け、そのままもう一度シグマへ抱きつこうとした。


「二度寝は駄目だ。皆を起こすのを手伝ってくれ」


「……誰?」


「まず紅蓮。それからシルフも頼む」


「紅蓮はいや」


 返事だけは驚くほど早かった。


「どうしてだ?」


「起こすと怖い。シルフならいい」


「……分かった。シルフを頼む」


 フェルンは布団から抜け出すと、寝癖のついた髪のまま廊下へ出た。そして、シグマが止める間もなくシルフの部屋の扉を開け、中へ飛び込んでいく。


 直後、どすんという重い音が響いた。


「ぐえっ――! き、昨日より重いやつ来たぁっ!」


 朝の静けさを引き裂く悲痛な叫びに、シグマはそっと目を逸らした。


「……すまない、シルフ」


 謝罪は胸の内だけに留め、向かいの部屋へ向かう。白鬼と黒鬼の部屋の前に立ち、扉を二度叩いた。


「白鬼、黒鬼。朝だぞ」


 反応はない。


 もう一度、少し強めにノックする。


 すると、部屋の中からぱたぱたと軽い足音が近づき、勢いよく扉が開いた。


 立っていたのは黒鬼だった。


 いつもなら前髪の奥からでも落ち着いた空気を漂わせている彼女が、今朝は髪も寝巻きも乱れ、完全に寝ぼけている。


「おはよう。そろそろ準備を――」


「……シグマだ」


 黒鬼は嬉しそうに呟くと、いきなりシグマの胸へ飛び込んだ。


「く、黒鬼?」


 両腕を背中へ回し、頬を胸元へぐりぐりと押しつける。まるで温かい枕でも見つけたかのように離れない。


 シグマの顔が一気に熱くなる。腕をどこへ置けばよいのかも分からず、廊下の真ん中で完全に固まった。


「シグマ……あったかい……」


「えっと……黒鬼、朝だぞ」


 その声で、奥の寝台にいた白鬼が目を覚ました。


 目の前の光景を見た途端、白鬼は大きく目を見開く。慌てて駆け寄ると、黒鬼の胴を抱え、シグマから力任せに引き剥がした。


 白鬼は片手で黒鬼を抱えたまま、もう片方の手を顔の前に立てて何度も振る。「違う、これは事故だ」と訴えるような必死の仕草だった。


 そのまま素早く頭を下げ、扉を閉める。


 廊下に残されたシグマは、赤い顔のまま動けなかった。


 しばらくすると、扉が僅かに開き、身支度を整え始めた白鬼が顔だけを出した。


「ごめん。黒鬼、まだ寝ぼけてる。私がなんとかするから」


 それだけ告げると、再び扉が閉まった。


「朝から何しとるん?」


「っ!」


 背後から声を掛けられ、シグマは飛び上がるように振り返った。


 そこには、既に旅装を整えたシルフが立っていた。髪も服もきれいに整っているが、腹の辺りを気にするように撫でている。その隣では、フェルンがどこか誇らしげな顔をしていた。


「……なんでもない」


「顔、真っ赤やで?」


「なんでもない」


「二人はどないしたん?」


「白鬼が、黒鬼を起こしている。黒鬼が寝坊するのは珍しいな」


「ほんま珍しいなあ。昨日、疲れとったんかな」


 シグマは追及される前に、話を変えることにした。


「シルフ。紅蓮を起こしてきてくれないか?」


「ええで。フェルン、次行くで」


「紅蓮はいや」


「大丈夫や。うちがおる」


 シルフは嫌がるフェルンの手を引き、紅蓮の部屋へ向かった。


 扉が開く音。短い沈黙。


 次の瞬間、廊下の奥から紅蓮の怒声が響いた。


「シルフ! なぜフェルンを投げ込んだ!」


「確実に起こそう思て――痛っ! 話し合おう、紅蓮! 暴力はあかん!」


「ならばまず、その手に持っている枕を置け!」


 シグマは聞かなかったことにして一階へ降りた。


 食堂では女将と娘が朝食の準備をしていた。焼いたパンの香りと、鍋から立ち上る湯気に触れると、早朝から続いた騒ぎが少し遠く感じられる。


 やがて、白鬼と黒鬼が揃って降りてきた。


 黒鬼は完全に目を覚ましているらしく、顔を真っ赤にし、白鬼の背中へ隠れている。シグマと目が合いそうになるたび、さらに深く身を縮めた。


「黒鬼、さっきのことは気にしなくていい。寝ぼけていただけだろう?」


「……消えたい」


「そこまで気にすることじゃない」


「シグマの胸に、ぐりぐりした……」


「自分で言わなくていい!」


 白鬼が慌てて黒鬼の口を塞いだ。


 その直後、階段を下りてきた三人へ全員の視線が集まる。


 先頭のシルフの頭には、見事なまでに大きなたんこぶができていた。後ろを歩くフェルンは耳と尻尾を垂らしてしょんぼりし、そのさらに後ろから、紅蓮が腕を組み、二人を監視するように歩いてくる。


「シルフ、大丈夫か?」


「紅蓮が本気で叩いた……」


「拳ではない。丸めた毛布だ」


「毛布であんなたんこぶができるん?」


「お前が大げさに風を纏わせているだけだろう!」


 紅蓮がたんこぶを掴むと、それは空気の抜けた袋のように萎んだ。


 白鬼が腹を抱えて笑い、黒鬼まで小さく肩を震わせる。先ほどまで落ち込んでいたフェルンも顔を上げ、ほんの少しだけ笑った。


 朝食の後、シグマたちは装備を整えた。


 フェルンは昨夜の約束どおり、三毛猫亭に残ることになった。それでも出発の時が近づくと不安になったのか、シグマのマントを掴んで離そうとしない。


「昼を過ぎても戻らなければ、村の外へは出るな」


「うん。シグマも、怪我しないで」


「気をつける」


 女将の娘が厨房から顔を出し、フェルンへ笑いかけた。


「私の手伝いをしてくれない? 皆さんが帰ってきたら食べてもらう料理を、一緒に作ろうよ」


 フェルンはシグマと娘を交互に見た後、ようやくマントから手を離した。


「フェルン、作る。シグマの分、いっぱい」


「楽しみにしているよ」


 フェルンを女将たちへ預け、一行は村のギルドへ向かった。


 朝のギルドでは、ギルベルトが既に森の地図を卓上へ広げて待っていた。隣の受付では、マリンが気だるそうに頬杖をつきながら書類を揃えている。一行を見ると手を止めたものの、挨拶をするでもなく、無言で視線をギルベルトへ戻した。


「時間どおりだな。昨日、魔物が多く確認されたのは北東側だ。奥へ進むほど数が増えていたのなら、原因もそちらにある可能性が高い」


「森の道に詳しい方を、案内に借りられませんか?」


 シグマが尋ねると、ギルベルトは壁に立て掛けていた斧を手に取った。


「俺が行く。この村で木こりと狩人をまとめてきた。森の地形も、異変が報告された場所も把握している」


「ギルベルトさんが?」


「村の問題を余所から来たお前たちだけに背負わせるつもりはない。それに、何を見つけても俺ならその場で判断できる」


 紅蓮が地図を覗き込み、北東へ続く道を指でなぞった。


「隊列はどうする?」


「先頭は俺とシグマ。少し後ろに紅蓮と白鬼、中央に黒鬼。最後尾はシルフに頼みたい」


「うちが後ろなん?」


「お前なら高い場所から周囲を確認できる。退路も見失わずに済むだろう」


「なるほどな。任せとき」


 村の北東から森へ入ると、昨日とは明らかに空気が違っていた。


 朝だというのに鳥の声がない。風が吹いても枝葉は擦れず、森全体が息を潜めているようだった。


 奥へ進むにつれ、襲い来る魔物の数は増えていった。


 初めは数匹のゴブリンだった。次に牙を剥く森狼、その後には背中から茸を生やした大猪が現れた。どの魔物も怯えと怒りが混じったような目をし、傷を負っても退こうとしない。


「操られているみたいだな」


 紅蓮が大剣についた血を振り払う。


「しかも、奥へ行かせまいとしとる」


 シルフが木の上から周囲を見渡した。


「右手から、また来るで! 数は十二……いや、後ろにもおる!」


 白鬼が炎の壁を放ち、迫る魔物の群れを二つに分断する。紅蓮が正面から大猪を受け止め、シグマはその脇を抜けた森狼の顎を義手で打ち上げた。


 戦いを重ねるごとに、空気の中へ黒い靄が混じり始めた。


「止まれ!」


 ギルベルトが鋭く叫び、背負っていた鞄を開く。中から口元と鼻を覆う厚手のマスクを取り出し、一人ずつへ投げ渡した。


「瘴気だ。絶対に直接吸うな」


「瘴気?」


「生き物の身体と魔力を内側から蝕む毒だ。少しなら吐き気や目眩で済むが、吸い続ければ意識を失う。濃い場所では、そのまま死ぬぞ」


 全員が急いでマスクを装着する。


 布越しでも、腐った果実と濡れた土を混ぜたような甘い臭いが鼻についた。


「引き返すなら、まだ間に合う」


 ギルベルトの声に、シグマは周囲を見回した。木の幹には黒い筋が浮かび、地面を這う根もところどころ腐り始めている。


「ここで戻れば、いずれ村まで広がります」


「せやな。原因だけでも確かめな、また同じことになる」


「進もう。ただし、少しでも意識に異常が出た者はすぐに申告しろ」


 紅蓮の言葉に、全員が頷いた。


 さらに奥へ進む。


 やがて木々が途切れ、一行は異様な光景の前で足を止めた。


 そこだけ、大地が死んでいた。


 草は一本も残らず、周囲の木々は幹の内側から砕かれたように倒れている。白く乾いた獣の骨、人の頭蓋や折れた武器が、黒ずんだ土の上に無数に転がっていた。


 その中心に、一本の真っ黒な巨木が立っている。


 樹皮は炭のように黒く、枝には血を思わせる真紅の実が鈴なりについていた。実が風もないのに脈打つたび、濃密な甘い香りが辺りに広がる。


「全員、実に近づくな!」


 ギルベルトの顔から血の気が引いていた。


「知っているんですか?」


「昔、記録で読んだことがある。あれは黒禍樹――災いの木だ」


 ギルベルトは声を押し殺すように続けた。


「争い、憎しみ、恐怖。そうした強い負の感情と、死者の血肉に染み込んだ魔力が重なった場所に、ごく稀に芽吹くといわれている。あの実を食べた生き物は、身体も魔力も食い尽くされて死ぬ。そして、死体を苗床に複数の魔物が生まれる」


「実が誰にも食べられなかった場合は?」


 黒鬼が尋ねる。


「熟して地面へ落ちるだけでも同じだ。土中の虫や獣の骨、蓄えた魔力を取り込み、魔物を作り出す。生み出した魔物を操り、さらに餌を集めさせるんだ」


 まるで言葉を理解したかのように、黒禍樹の枝がゆっくりと揺れた。


「ただの木やないな」


「ああ。意思がある。根も蔓も葉も、全てが武器だ。幹を切り倒しただけでは死なない。根を残せば、また芽を出す」


「なら、どうする?」


「切り倒し、根を掘り出し、侵食された土地ごと焼き尽くす。それしかない」


 ギルベルトが言い終えるより先に、真紅の実が一斉に震えた。


 ぼとり、ぼとりと地面へ落ちる。


 果皮が裂け、中から黒い液体が溢れ出した。液体は周囲の骨へ絡みつき、瞬く間に肉と皮を形作っていく。


「来るぞ!」


 シグマの叫びと同時に、死んでいた大地が動き出した。


 骨を継ぎ合わせた獣、腐った皮膚を纏う大狼、腕が四本に増えたゴブリン。木の実一つから、二体、三体と異形の魔物が這い出してくる。


 紅蓮が大剣を薙ぎ、一度に二体を吹き飛ばした。


「白鬼、実を狙え! 黒鬼は全員の補助を!」


「分かった!」


 白鬼の周囲へ炎の槍が並び、枝先の果実へ向けて放たれる。


 だが黒禍樹の葉が一斉に舞い上がり、刃のように炎を切り裂いた。


「葉っぱが魔法を切った!?」


 その直後、地面が爆ぜた。


 槍のように尖った根が無数に突き上がる。シグマは黒鬼を抱えて横へ転がり、紅蓮は大剣を地面へ突き立てて根を受け止めた。シルフは風を纏って跳び上がり、矢を幹へ続けざまに撃ち込む。


 しかし、矢が穿った穴は黒い樹液に覆われ、すぐに塞がっていった。


「再生しとる! 普通に削っても切りがないで!」


「根から力を吸い上げているんだ!」


 ギルベルトは斧で蔓を断ち切りながら叫ぶ。


「根を断て! 地面の下との繋がりを切らなければ、幹は倒せん!」


 シグマは左の義手を地面へ打ちつけた。


 土の魔力が広がり、黒禍樹の根の位置が輪郭となって頭の中へ伝わってくる。


「広すぎる……この場所だけじゃない。森中へ伸びている」


「どこまでだ?」


「少なくとも、ここから村側へかなりの距離までだ!」


 言葉を交わす間にも、魔物は増え続ける。


 黒鬼が光の障壁を広げ、飛来する葉の刃を受け止めた。高い音とともに光の表面へ亀裂が走る。


「長くは、もちません!」


「シルフ! 上の実を全部落とせるか!」


「落とすだけやったら、また魔物が出る!」


「地面に落ちる前に白鬼が焼く!」


「無茶言うなあ――けど、やるしかないな!」


 シルフが弓を空へ向ける。


 放たれた一本の矢は上空で風を纏い、数十本へ分かれた。矢が枝を走り抜け、真紅の実を次々ともぎ取る。


「白鬼!」


「任せて!」


 白鬼が両手を掲げる。落下する実の下へ炎の渦が生まれ、次々と飲み込んだ。


 焼けた果実から、獣とも人ともつかない悲鳴が響き渡る。


 黒禍樹が怒り狂ったように幹を軋ませた。


 地面を覆っていた根が持ち上がり、巨大な蛇の群れとなって一行へ襲いかかる。紅蓮が一本を断ち、シグマが二本を砕く。それでも数が多すぎた。


 背後から迫った蔓がギルベルトの足を絡め取る。


「ギルベルトさん!」


 黒鬼が光弾で蔓を焼き切る。その瞬間、黒禍樹の幹に縦長の裂け目が開いた。


 赤黒い眼のようなものが、黒鬼だけを捉える。


「黒鬼、伏せろ!」


 死角の地面から、太い根が突き出した。


 黒鬼が振り返った時には、既に避けられる距離ではなかった。


 シグマは地面を蹴り、黒鬼の前へ身を投げ出す。


 根の先端が、シグマの脇腹から背中へ深々と食い込んだ。


「――っ!」


 衝撃で身体が宙へ浮く。認識阻害のマントが裂け、血が地面へ降り注いだ。


「シグマ!」


 黒鬼の声が森に響いた。


 紅蓮が大剣で根を叩き折る。支えを失ったシグマの身体を黒鬼が受け止めたが、小さな腕では勢いを殺しきれず、二人揃って地面へ倒れ込んだ。


「ごめんなさい……私のせいで……!」


「違う……黒鬼のせいじゃない」


 シグマは息を詰まらせながら答えた。傷口から溢れる血が、黒鬼の手を赤く染めていく。


「喋らないで!」


 黒鬼は震える手を傷へ当て、必死に回復魔法を注いだ。しかし根に纏わりついていた瘴気が傷口へ入り込み、治癒を妨げている。


「治らない……どうして……お願い、治って……!」


「落ち着け、黒鬼!」


 紅蓮が二人を守るように立ち、迫る魔物を大剣で薙ぎ払う。


 白鬼の炎は実を焼くことで手一杯だった。シルフも無数の葉を風で抑えている。ギルベルトは根に傷をつけ続けていたが、次々と新しい根が地面から現れる。


 このままでは押し潰される。


 シグマは血に濡れた手を地面へつき、意識を集中させた。


『ハク――来てくれ!』


 呼びかけに応えるように、遠くからハクの咆哮が響いた。


 しかし、姿はまだ見えない。


「来るまで持ちこたえろ!」


 紅蓮が大剣を振るい、黒鬼たちへ迫る魔物を押し返す。白鬼は果実を焼きながら足元へ炎の壁を走らせ、シルフは風の矢で根の先端を逸らした。


 それでも、黒禍樹が生み出す数の方が多い。


 光の障壁に二本、三本と亀裂が走る。紅蓮の肩を葉の刃が掠め、白鬼の足元へ蔓が絡みついた。ギルベルトが斧で断ち切った直後、別の根が地面を突き破る。


 押し切られる――誰もがそう感じた瞬間、もう一度、今度はすぐ近くで咆哮が轟いた。


 白銀の巨体が木々の間から飛び出し、黒鬼たちへ迫っていた魔物を横から噛み砕く。


『遅くなった』


「いや、助かった。黒鬼を頼む」


『お前の方が死にかけているように見えるが?』


「まだ動ける」


 ハクは低く唸ったが、黒鬼とシグマの前に立ち、白銀の毛を逆立てた。吐き出された冷気が地面を這う根を凍らせ、動きを鈍らせる。


 黒鬼の回復魔法によって、どうにか出血だけは弱まった。傷口へ入り込んだ瘴気のため、深い裂傷は塞がりきっていない。それでもシグマは、脇腹を押さえながらふらつく足で立ち上がった。


「シグマ、駄目……!」


「ここで止めなければ、もっと多くの人が傷つく」


「でも……」


「黒鬼のおかげで動ける。だから、今は皆を支えてくれ」


 黒鬼は唇を噛み、泣きそうな顔のまま頷いた。


 シグマは左の義手を地面へ突き立てた。土の魔力を限界まで広げ、黒禍樹の根が伸びる方向を探る。


「ギルベルトさん! 太い根は六本です! それを断てば、幹への魔力が弱まる!」


「位置を示せるか!」


「やります!」


 地面から六本の土柱が突き上がり、根の位置を示す。


「紅蓮、ハク! 右側の三本を!」


「任せろ!」


『砕けばいいのだな』


「シルフとギルベルトさんは左! 白鬼は幹と実を焼き続けてくれ! 黒鬼は全員の防御を!」


 それぞれが一斉に動いた。


 紅蓮の大剣が凍った根を叩き割り、ハクの牙が二本目を噛み千切る。シルフの風刃が土を抉り、露出した根へギルベルトの斧が深く食い込んだ。


 黒禍樹も黙ってはいない。


 葉の刃が嵐となって降り注ぎ、蔓が鞭のように空気を裂く。黒鬼の障壁が何度も砕け、そのたびに新しい光の壁が仲間たちを包んだ。


「今度は……私が守る!」


 黒鬼の声とともに、光の壁が大きく膨れ上がる。


 三本、四本、五本。


 根が断たれるたび、黒禍樹の葉が黒く枯れ落ちていく。


 最後の一本へ、シグマは右の義手を叩き込んだ。


 炎帝石から噴き上がった炎が根の内側を走り、幹まで赤い亀裂を広げる。


「今だ、紅蓮!」


「おおおおおっ!」


 紅蓮が全身を捻り、大剣を横一文字に振り抜いた。


 亀裂の入った幹へ刃が食い込み、ギルベルトの斧、シルフの風刃、ハクの突進が同時に重なる。


 耳を塞ぎたくなるような断末魔が森中へ響いた。


 黒禍樹の巨体が傾き、枯れた大地を揺らして倒れる。


 だが、終わりではなかった。


「根を残すな! 一本でも残せば、また生えるぞ!」


 ギルベルトの指示で、地中の根を掘り起こしていく。露出した根はなおも生き物のように蠢き、何度も一行へ絡みつこうとした。


 全ての太い根を断ち切った後、白鬼が炎を放ち、シグマも右の義手に残る火の力を絞り出した。


 黒禍樹の幹と根、地面に散った実が赤い炎に包まれる。


 しかし炎の中で、地面の黒い筋が森の奥へ続いているのが見えた。


 ギルベルトはその先を確認し、膝から崩れ落ちそうになった。


「そんな……ここまで……」


 侵食は黒禍樹の周囲だけではなかった。根は森の広範囲へ伸び、木々の内側へ黒い瘴気を染み込ませている。


「どれくらい焼く必要がありますか?」


 シグマの問いに、ギルベルトは答えられずにいた。


 長い沈黙の後、掠れた声で告げる。


「……森の、三割ほどだ」


 林業で成り立つイル村にとって、それは収入の三割を失うという意味ではない。


 育つまで何十年もかかる木。親から子へ受け継がれてきた仕事場。冬を越すための薪。家を直すための材木。その全てを、自分たちの手で燃やさなければならないということだった。


「ほかに方法は?」


「ない。侵された木を一本でも残せば、根から再び瘴気が広がる」


 ギルベルトは拳を握りしめた。


「俺が、村へ伝える」


 連絡を受け、昼を大きく過ぎた頃には大勢の村人が森の縁へ集まった。


 ただし、瘴気の残る場所へ入ることを許されたのは、ギルベルトが選んだ経験豊富な木こりだけだった。ほかの村人たちは遠く離れた森の外から、不安そうに作業を見守っている。


 木こりたちは黒ずんだ幹へ斧を入れ、まだ使える木と、焼くしかない木を見分けていく。長年手入れしてきた森を前に、斧を振り下ろせず立ち尽くす者もいた。


「この木は、親父と一緒に枝打ちしたんだ……」


 一人の老いた木こりが、黒い筋の浮かぶ大木へ手を当てた。


「孫が大きくなる頃には、いい材になるはずだった」


 誰も慰めの言葉を口にできなかった。


 若い木こりが歯を食いしばり、代わりに斧を振るう。一度、二度。乾いた音が森へ響くたび、周囲の者たちは目を伏せた。


 切り開かれた境界へ土を盛り、延焼を防ぐ溝を掘る。シグマは最後の力で土魔法を広げ、防火帯の土台となる溝を作った。


 魔法を使い終えた途端、その身体が大きく傾く。


「シグマ!」


 黒鬼が咄嗟に支え、紅蓮も反対側から肩を貸した。


「もう十分だ。あとは私たちと村の者に任せろ」


「でも、まだ――」


「お前が倒れれば、黒鬼まで動けなくなるぞ」


 紅蓮に言われ、シグマは黒鬼を見る。黒鬼の手は血で汚れたまま震え、前髪の奥から一度も傷口から目を離していなかった。


 シグマはようやく頷き、森の外へ運ばれた。その後も黒鬼は治療を続けたが、瘴気に侵された傷は簡単には塞がらなかった。


 シルフは風向きを読み、煙が村へ流れないよう慎重に調整した。


 やがて火が放たれた。


 森の三割が、夕日に似た赤に染まっていく。


 村人たちは誰一人として声を上げなかった。ただ、自分たちの暮らしが炎の中で崩れていく光景を、黙って見つめ続けた。


 全てが終わった頃には、日は西の山へ沈みかけていた。


 ◇ ◇ ◇


 村へ戻ったシグマたちを、多くの村人が迎えた。


「助けてくれてありがとう」


「あんたたちがいなかったら、村までやられていた」


 涙ながらに頭を下げる者もいた。一方で、焼却の現場へ入れず、遠くから炎と煙だけを見ていた一部の者たちは、暗い顔で囁き合っている。作業に参加した木こりから説明を受けても、失った森の大きさを前に、すぐには受け入れられない者もいた。


「本当に、あそこまで焼く必要があったのか?」


「余所者が火の使い方を誤ったんじゃないのか」


「森を燃やしておいて、村を救っただと?」


 囁きは次第に大きくなり、やがてシグマたちへ直接向けられた。


「おい! あんたらが討伐に失敗したせいで、火が広がったんじゃないのか!」


 白鬼が反論しようと前へ出る。しかし、ギルベルトがそれより先に声を上げた。


「黙れ!」


 広場に怒声が響いた。


「焼くよう命じたのは俺だ! 黒禍樹の根に侵された木は、残せば再び災いを生む! この者たちは命を懸けて原因を断ち、村を守ったんだぞ!」


「ギルベルトは余所者の肩を持つのか!」


「俺たちはこれからどうやって食っていけばいい!」


「森を失ったのは、お前たちのせいだろう!」


 積もっていた不安が、一気に噴き出した。


 感謝していた者と責める者が互いに押し合い、怒鳴り合う。騒ぎを聞きつけた女将も三毛猫亭から駆けてきた。


「やめな! 助けてくれた人たちに何を言ってるんだい!」


「宿屋には森がなくても客が来る! 俺たち木こりとは違うだろ!」


「誰の客が泊まると思ってるんだ! 村がなくなれば宿だって終わりだよ!」


 女将の言葉さえ、荒れた人々には届かない。


 誰かがギルベルトの胸を押した。紅蓮が眉を吊り上げ、シグマは痛む身体を庇いながらその前へ出る。


 暴動へ変わる寸前だった。


「――いい加減になさい!」


 甲高くも、よく通る声が広場を貫いた。


 全員が振り返る。


 そこには、ギルドの受付を抜け出してきたマリンが立っていた。普段の気だるそうな様子は消え、いつもは感情の乏しい目が、今は激しい怒りに燃えていた。


「森の三割を焼いた? ええ、残念なことでしょうね。ですが焼かなければ、数日後には森の全てが黒禍樹に呑まれ、その次はこの村でした」


「だが、俺たちは何も――」


「何も知らなかった? 嘘をつくのはおやめなさい!」


 マリンは男の言葉を鋭く断ち切った。


「獲物が消えた。獣が狂った。森から甘い異臭がした。木の幹が黒ずんだ。何度も異変は報告されていたでしょう!」


 村人たちが押し黙る。


「私は再三、アルランカのギルドへ調査依頼を出すべきだと言いました。それを皆さんは何と仰いました? 依頼料が高い。材木の評判が落ちる。大事にすれば商人が来なくなる――そう言って、先延ばしにしたのは誰です?」


「それは、村の暮らしを守るためで……」


「その結果、森の三割を失ったのでしょう!」


 マリンは一歩踏み出した。


「この方々は、あなたたちが惜しんだ金の代わりに命を差し出したのです。傷を見れば分かるでしょう。それでも責める相手が必要なら、異変を知りながら何もしなかった自分たちを責めなさい!」


 誰も言い返せなかった。


 怒りに任せていた者たちは、シグマの裂けたマントと血に染まった服を見て、ようやく目を逸らした。


「今するべきことは恩人を責めることではありません。失った森をどう取り戻すか、明日からどう暮らすかを考えることです。それも分からないのなら、私は二度とあなたたちの依頼など受けません」


 マリンは言い切ると、踵を返した。


 広場に残った村人たちは、一人、また一人と無言で立ち去っていった。中にはシグマたちへ深く頭を下げてから去る者もいた。


「マリン」


 ギルベルトが呼び止める。


「よく言ってくれた。立派だったぞ」


「気持ちの悪いことを言わないでください。私は受付として、事実を伝えただけです」


「あんな啖呵、なかなか切れるもんやないで。ちょっと見直したわ」


「あなたに評価されても嬉しくありません」


 マリンはシルフを冷たくあしらい、今度こそギルドへ戻っていく。


 しかし、その耳が僅かに赤くなっていたことに、シグマは気づいた。


「すまなかった」


 ギルベルトは改めて一行へ頭を下げた。


「村を救ってもらったうえに、あんな目に遭わせてしまった」


「皆、先が見えなくて不安だったんだと思います」


「だからといって、許されることではない」


 ギルベルトは悔しそうに拳を握った。


「依頼料については、明日ギルドで正式に清算させてほしい。今日はもう休んでくれ」


 誰も異を唱えなかった。


 疲れは身体だけでなく、心の奥まで重く沈んでいた。


 ◇ ◇ ◇


 三毛猫亭へ戻ると、扉が開くより先に、中から軽い足音が近づいてきた。


「シグマ!」


 厨房から飛び出してきたフェルンが、そのまま抱きつこうとする。しかし血のついた服と脇腹の包帯に気づき、直前で急停止した。


「怪我、した……」


「もう大丈夫だ。黒鬼が治してくれた」


 シグマが頭を撫でると、フェルンは不安そうに傷を見つめた後、そっとシグマの手を握った。


「フェルン、料理した」


「料理?」


「うん。いっぱい」


 厨房から女将の娘が顔を出す。


「朝からずっと手伝ってくれたんです。野菜を洗ったり、生地を丸めたり。帰ってきたら、すぐ食べてもらうんだって」


 食堂の卓には、所狭しと料理が並べられていた。


 鶏肉と豆を煮込んだ温かなシチュー。茸と香草の包み焼き。色とりどりの野菜を重ねた焼き物。丸く焼いた小さなパンに、林檎を甘く煮詰めた菓子まである。


「今日は大変だったんだ。腹いっぱい食べて、嫌なことは少しでも忘れな」


 女将が明るく言い、全員を席へ座らせた。


「せやけど、ほんまにすごい量やな」


「昼から何も食べていないだろう? 残したら明日の朝に出すだけさ」


「ほな、白鬼がおるから残らへんな」


「どういう意味?」


「そのままの意味や」


 白鬼が頬を膨らませる。その横で黒鬼が小さく笑ったが、シグマの包帯が視界に入るとすぐに表情を曇らせた。


「黒鬼」


「……なに?」


「料理が冷める。今は食べよう」


「でも、傷が……」


「黒鬼が治してくれたから、こうして座っていられるんだ。ありがとう」


 黒鬼は俯いたまま、小さく頷いた。それでも、膝の上で握りしめた手は震えていた。


 黒鬼はシグマの言葉を聞いても、自分を許すことができなかった。目を閉じるたび、あの根がシグマの身体を貫いた瞬間と、自分の手を染めた血が蘇る。


 この日の傷は、シグマの身体だけでなく、黒鬼の心にも深く残ることになった。


 フェルンが小さな皿を両手で持ち、シグマの前へ差し出す。


「これ、フェルンが作った」


 皿には少し形の不揃いな芋団子が並んでいた。表面には香草が散らされ、薄い焼き色がついている。


「全部か?」


「丸めた。焼いたのは、お姉ちゃん」


「そうか。いただくよ」


 シグマが一つ口へ運ぶ。


 外側は香ばしく、中は柔らかい。僅かに塩が強かったが、戦いで消耗した身体には、その味が心地よかった。


 フェルンは期待と不安を半分ずつ浮かべ、じっとシグマを見上げている。


「美味しい」


「ほんと?」


「ああ。もう一つもらっていいか?」


 フェルンの顔が一気に明るくなり、尻尾が激しく揺れた。


「いっぱい食べていい!」


 シグマがその頭を撫でると、フェルンは目を細め、嬉しそうに身を寄せる。


「うちも食べよかな」


 シルフが手を伸ばすと、フェルンは素早く皿を抱え込んだ。


「これはシグマの」


「いっぱい食べてええ言うたやん!」


「シルフのは、あっち」


「扱いの差がひどない?」


「日頃の行いだな」


「紅蓮まで!」


 笑い声が食堂に広がる。


 白鬼は包み焼きの中身を黒鬼と分け、女将の娘は料理の作り方をフェルンへ教えている。紅蓮は疲れを忘れたように皆の会話へ耳を傾け、シルフは誰よりも早く林檎の菓子へ手を伸ばして白鬼に抗議された。


 広場で胸に溜まった重苦しさが、温かな料理と笑い声の中で少しずつ薄れていく。


 失ったものは戻らない。それでも、食卓を囲み、明日の話ができる者たちがいる。


 それだけで、今日の戦いが無意味ではなかったと思えた。


 食事が終わる頃には、フェルンはシグマの腕にもたれたまま眠っていた。


「私が、運ぶ」


 黒鬼が申し出て、眠るフェルンをそっと抱き上げる。小柄な者同士、少し危なっかしく見えたが、黒鬼は大切なものを扱うように慎重な足取りで二階へ上がっていった。


 黒鬼が戻ってくると、女将は一行の前で深く頭を下げた。


「本当に、すまなかった」


「女将さんが謝ることではない」


 紅蓮がすぐに言った。


「あの場にいた全員が責めたわけでもない。それに、あなたは止めようとしてくれた」


「それでも私は、この村の人間だよ。命を懸けて村を救ってくれた人たちに、あんな言葉を浴びせるなんて……恥ずかしくて仕方ない」


「俺たちは気にしていません」


 シグマが答えても、女将は頭を上げなかった。


「不安だったから仕方ない、なんて言葉で済ませたら駄目なんだ。あんたたちが許しても、私は謝らなきゃいけない」


 娘も隣で唇を結び、俯いている。


 シグマは少し考えた後、静かに息を吐いた。


「分かりました。謝罪は受け取ります」


 女将がゆっくり顔を上げる。


「俺たちも、森を焼かれた人たちの気持ちを全て分かるわけではありません。それでも、あの場で言われたことが正しいとは思わない。だから謝罪は受け取ります。ただ、女将さんまで自分を責め続けないでください」


「……ありがとう」


「それと、今日の料理も。皆、救われました」


 女将は目元を拭い、今度こそ僅かに笑った。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、シグマは寝台に横たわりながら、いつまでも眠れずにいた。


 脇腹には鈍い痛みが残っている。だが、眠れない理由は傷ではなかった。


 黒禍樹。


 ギルベルトがその名を口にするより前から、シグマはあの木が何であるかを知っていた。


 真紅の実を食べた者が死ぬことも、地に落ちた実から魔物が生まれることも、根まで焼かなければ再び芽吹くことも。


 初めて見たはずなのに、知っていた。


 なぜ知っているのかは分からない。


 失った記憶の中で、あの木を見たことがあるのか。それとも、誰かから教えられたのか。


 考えようとするたび、頭の奥に黒い靄がかかった。


 シグマは寝台から起き上がり、窓辺へ歩いた。


 眼下には、静かな村の夜景が広がっている。


 三毛猫亭の向かいでは、明かりの消えていない家があった。森を失った木こりが、家族とこれからのことを話しているのかもしれない。少し離れた家の庭には、干された薪が積まれている。その薪一本にも、木を育て、切り、運び、割った誰かの仕事がある。


 窓から見える小さな明かりの一つ一つに、人々の暮らしがある。


 自分たちは村を救った。


 だが同時に、多くの者が受け継いできた森を焼いた。


 ほかに方法はなかった。


 そう言い切ることは簡単だった。


 それでも、炎を見つめていた老木こりの横顔を思い出すと、胸の奥に重いものが残る。


「俺は……正しかったのか」


 小さく呟いても、答える者はいない。


 正しかったかどうかは、明日になっても、何年経っても分からないのかもしれない。


 ただ一つ分かるのは、選ばなければ村ごと失われていたということだけだった。


 シグマは窓の外を見つめ続けた。


 明日、ギルドで報酬を受け取れば、この村を発つ。


 けれど焼けた森の臭いも、黒鬼の手を染めた自分の血も、怒号の中で村人を叱りつけたマリンの声も、簡単には忘れられそうになかった。


 村の明かりが一つ、また一つと消えていく。


 答えの出ない問いを抱えたまま、夜だけが静かに更けていった。

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