第十五話 イル村
早朝。
窓の隙間から差し込む淡い朝日が、薄暗い部屋の床を静かに照らしていた。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。
シグマはゆっくりと目を開いた。
身体を起こそうとしたところで、胸から腹にかけて妙な重みがあることに気づく。
「……なんだ?」
眠気が一気に引いた。
昨夜、同じ部屋で眠った者はいなかったはずだ。
警戒しながら掛け布を持ち上げると、その下から銀色の髪と二つの狼耳が現れた。
フェルンだった。
シグマの身体に両腕を回し、頬を胸元に押しつけたまま、気持ちよさそうに眠っている。
「フェルンか……」
シグマは胸を撫で下ろした。
昨夜は確かに、別の部屋で白鬼や黒鬼と眠ったはずである。おそらく夜中に目を覚まし、こちらへ忍び込んできたのだろう。
だが、そこまで考えたところで、少し前に起きた出来事が脳裏をよぎった。
同じように目を覚まし、すぐそばにいたシルフ。
あのとき感じた柔らかな感触まで思い出し、シグマの顔が一気に熱くなる。
「……思い出すな」
誰に言うでもなく呟き、片手で顔を覆う。
フェルンをすぐに起こす気にもなれず、シグマは火照りが収まるまで、しばらく天井を眺めていた。
やがて呼吸が落ち着いたところで、フェルンの肩を優しく揺らす。
「フェルン。朝だぞ」
「んぅ……」
「そろそろ起きよう」
フェルンの狼耳がぴくりと動いた。
眠たそうに目を擦りながら顔を上げ、シグマを見つけると、安心したように小さく笑う。
「おはよう、シグマ」
「ああ。おはよう」
フェルンは身体を起こした。
しかし、なぜかシグマの胸元をじっと見つめている。
「どうした?」
問いかけるより先に、フェルンがシグマの寝間着の襟へ指をかけた。
そのまま胸元を広げようとする。
「待て待て。何をしている」
シグマは慌てて襟を押さえた。
すると、フェルンは不満そうに頬を膨らませる。
「シルフは見た」
「……なぜ知っている?」
「シルフが昨日、白鬼たちに怒られているときに言ってた」
「シルフ……」
本人が何をどこまで話したのか考えるだけで頭が痛くなる。
「だからフェルンも見る」
「そうはならないだろ」
「ずるい」
「ずるくない」
「シルフだけ、ずるい」
フェルンは諦めず、再び襟へ手を伸ばした。
シグマは深いため息をつく。
このまま押し問答を続ければ、かえって時間がかかりそうだった。
「少しだけだぞ」
「うん」
フェルンは嬉しそうに頷くと、シグマの胸元をわずかに広げた。
中を覗き込み、なぜか鼻を近づけて何度か小さく匂いを嗅ぐ。
「……何を確認しているんだ?」
「シグマの匂い」
「そうか……」
満面の笑みを浮かべたフェルンは、そのまま勢いよく抱きついた。
「やっぱりシグマ」
「朝から元気だな」
シグマは呆れながらも、フェルンの頭を軽く撫でる。
それから脇へ手を入れて身体を持ち上げ、自分の上から下ろした。
「ほら、もう起きるぞ。着替えたら白鬼たちを起こしてきてくれ」
「分かった」
「扉は静かに開けるんだぞ」
「分かった」
「寝ている相手に飛び乗るのも駄目だ」
フェルンは返事をしなかった。
「フェルン?」
「行ってくる」
「待て。今、何をするつもりだ?」
フェルンは答えず、着替えを抱えて部屋を出ていった。
数分後。
身支度を終えたシグマが荷物を持って廊下へ出ると、隣の部屋から賑やかな音が聞こえてきた。
「起きて!」
「わっ、フェルン!? ちょっと待って、まだ着替えてない!」
「……白鬼、布団を取られてる」
「黒鬼、見てないで助けて!」
どたどたと床を踏む音に続き、何かが倒れる音が響く。
どうやら予想どおり、静かに起こすことはできなかったらしい。
「……頼む相手を間違えたか」
シグマは苦笑し、自室の向かいにある扉の前へ立った。
シルフの部屋である。
扉を軽く叩く。
「シルフ。朝だぞ」
返事はない。
もう一度、少し強めに叩いた。
「シルフ、起きているか?」
しばらくして、部屋の中から大きな音が聞こえた。
何かが床へ落ち、慌ただしく走り回る足音が続く。
「いったぁ……! ちょ、ちょっと待ってや!」
やがて勢いよく扉が開いた。
「おはよぉ……すぐ行くから、そこで待っといて……」
寝ぼけた顔で立っていたシルフは、大きな欠伸をしながら頭を掻いている。
その姿を見たシグマは固まった。
シルフは下着姿だった。
まだ意識が半分眠っているらしく、目の前に誰が立っているのか理解できていない。
「シ、シルフ……」
「ん?」
名前を呼ばれ、シルフがようやく顔を上げた。
シグマを見る。
自分の姿を見る。
顔を真っ赤にして立ち尽くすシグマを、もう一度見る。
それを何度か繰り返したあと、シルフの顔から首、さらに耳の先まで、みるみる赤く染まっていった。
「――いやああああああっ!」
今まで聞いたこともない悲鳴が、三毛猫亭の二階に響き渡った。
扉が勢いよく閉じられる。
「ちゃ、ちゃうねん! 今のは違うねん! うち、寝ぼけとって……あああっ、何しとんねん、うちぃ!」
扉の向こうから、言葉にならない叫び声と何かを叩く音が聞こえてくる。
その悲鳴を聞きつけ、隣室の扉が開いた。
「今の悲鳴、何!?」
「……シルフ?」
「虫?」
白鬼、黒鬼、フェルンの三人が、廊下へ顔を出す。
三人はシルフの部屋の前で立ち尽くしているシグマを見た。
真っ赤な顔。
固まった身体。
そして、閉じられた扉。
白鬼は瞬時に状況を察したらしい。
「フェルン、シグマを部屋へ連れていってあげて」
「分かった」
「いや、大丈夫だ。少し驚いただけで――」
そのとき、もう一つの扉が開いた。
「朝から何の騒ぎだ?」
部屋から出てきた紅蓮も、まだ着替えていなかった。
下着姿のまま、無防備に廊下へ立っている。
シグマは反射的に振り返った。
そして、見てしまった。
「…………」
「シグマ?」
紅蓮が首を傾げる。
次の瞬間、シグマの鼻から赤い筋が流れた。
「シグマ!」
そのまま仰向けに倒れる。
床へ頭を打つ寸前、黒鬼が駆け寄って抱き止めた。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃないかもしれない」
紅蓮が心配そうに近づこうとする。
しかし、黒鬼はシグマを支えながら紅蓮を睨みつけた。
「来ないで」
「だが、シグマが倒れたぞ」
「紅蓮……自分の格好、見て」
「格好?」
紅蓮が自分の身体を見下ろす。
それでも状況を理解できず、再び近づこうとしたため、黒鬼は片手で紅蓮の腹を押した。
「部屋に戻って」
「なぜだ?」
「戻って!」
普段は声を荒らげない黒鬼の一喝に、紅蓮の身体が跳ねる。
そのまま部屋へ押し込まれ、扉を閉められた。
「シグマは私が見る。紅蓮は着替えて」
「あ、ああ……すまない」
扉の向こうで、紅蓮は改めて自分の姿を見下ろした。
ようやく自分がどのような格好で廊下へ出たのかを理解し、顔が一気に赤くなる。
「私は何という破廉恥な真似を……」
紅蓮は両手で顔を覆った。
「き、着替えよう……」
一方、白鬼と黒鬼、フェルンの三人は、意識の朦朧としているシグマを部屋へ運び、寝台へ寝かせた。
黒鬼が回復魔法を使ったこともあり、シグマはほどなく目を覚ました。
「……酷い朝だ」
「シグマ、大丈夫?」
「ああ。怪我はない。ただ、少しだけ一人にしてほしい」
「フェルンがいる」
「そうか……」
フェルンは当然のように寝台の横へ座った。
今にも泣きそうな顔でこちらを見ているため、シグマも追い出すことができない。
白鬼と黒鬼は顔を見合わせた。
「それじゃあ、私たちはシルフのところへ行こうか」
「……話を聞かないと」
二人がシルフの部屋へ入ると、そこには寝台の上で手足をばたつかせるシルフがいた。
「何してんねん、うち! なんで確認せんと扉開けたんや! アホや! ほんまのアホやぁ!」
「シルフ」
「うひゃあっ!?」
シルフは慌てて掛け布を頭まで被った。
「ちゃ、ちゃうで! わざとやないんや! うち、まだ寝ぼけとってな! 扉の前にシグマがおるなんて思わへんかったんや!」
「まず服を着ようか」
「……はい」
「それから、シグマにちゃんと謝る」
「はい……」
黒鬼は部屋の中を見回した。
衣服や荷物が床に散らばり、椅子の背には昨日脱いだ服が何枚も重なっている。
先ほど倒れたと思われる水差しからは、床へ水が広がっていた。
「あと、部屋を片づけて」
「今はそれ関係ないやろ!?」
「関係ある。この散らかり方だったから、着替えを見つける前に扉を開けた」
「うっ……」
言い返せなくなったシルフは、掛け布の中で小さくなる。
白鬼にも無防備すぎると叱られ、さらに黒鬼から部屋の片づけについて延々と注意される。
シルフにとっては、まさに踏んだり蹴ったりの朝となった。
◇
しばらくして、一行は三毛猫亭の食堂に集まった。
昨日と同じ大きな木のテーブルを囲んでいるが、普段とは異なる空気が流れている。
シグマはシルフと紅蓮を直視できず、窓の外を眺めていた。
シルフは両膝の上で手を重ね、顔を赤らめながら落ち着きなく身体を揺らしている。
紅蓮も身体ごと横を向き、なぜか旅用のマントで首から下を隠していた。
「二人とも、だめ」
フェルンが腕を組み、シルフと紅蓮を交互に睨む。
「シグマに服を着ないで見せた」
「返す言葉もあらへん……」
「本当にすまない……」
二人は揃って肩を落とした。
「シグマ、堪忍な。さっきのは事故や。ほんまに事故やねん」
「私も軽率だった。シグマが倒れたのを見て、格好も考えずに近づこうとしてしまった」
「いや、二人が悪いわけじゃない。俺もすぐに目を逸らせばよかった」
そう答えた瞬間、今朝見た光景が脳裏に蘇る。
シグマは慌てて鼻を押さえた。
「思い出したやろ!?」
「頼む、忘れてくれ!」
「努力する……」
「努力やなくて、絶対忘れてや!」
「約束してくれ!」
二人が身を乗り出す。
「朝から賑やかですね」
少女の声が聞こえ、全員が振り返った。
三毛猫亭の娘が、料理の載った盆を抱えて立っていた。
「そういえば、今朝すごい叫び声が聞こえましたけど……大きな虫でも出たんですか?」
「せ、せや! 虫や!」
シルフが勢いよく頷く。
「こーんなに大きな虫がおってな! びっくりしてもうたんや!」
両手を大きく広げて見せるが、どう考えても虫の大きさではない。
少女は不思議そうに首を傾げた。
「そんなに大きな虫、この村にはいないと思いますけど……」
「シルフの見間違い」
黒鬼が静かに助け船を出す。
「寝ぼけてたから、大きく見えた」
「そ、そうそう! 黒鬼の言うとおりや!」
少女は納得したのか分からない表情のまま、料理をテーブルへ並べた。
ほどなくして、少女の母親も残りの料理を運んでくる。
朝食は、香草を練り込んだ焼きたての丸パンと、刻んだ野菜や豆、燻製肉を煮込んだ具だくさんのスープだった。さらに、木の実を混ぜた卵焼きと、甘く煮た赤い果実も添えられている。
焼きたてのパンをちぎると、白い湯気とともに香草の爽やかな香りが広がった。
「おいしい」
フェルンは早速パンをスープへ浸して口へ運び、狼耳を嬉しそうに動かす。
「ほんまや。昨日の夕食も旨かったけど、朝飯もええなぁ」
「シルフ。食べながら喋らない」
「黒鬼、今朝はいつも以上に厳しない?」
「気のせい」
黒鬼はそう答えながら、シルフの前へ布巾を置いた。
気まずかった空気も、温かな料理を食べているうちに少しずつ和らいでいった。
◇
朝食を終えた一行は、村の冒険者ギルドへ向かった。
ギルドは三毛猫亭のすぐ隣に建っていた。
看板がなければ、普通の民家と見分けがつかないほど小さな建物である。
「ここがギルドなん?」
「そう書いてあるな」
入口脇に掲げられた看板には、かすれた文字で『イル村冒険者ギルド出張所』と記されていた。
中へ入ると、正面に短いカウンターがあり、壁際に古びたテーブルと椅子が数脚置かれているだけだった。
奥の壁には依頼を掲示する板があるが、貼られている依頼書も数枚しかない。
カウンターには、一人の女性が座っていた。
肩まで伸びた青みがかった黒髪に、整った顔立ち。美人ではあるものの、頬杖をつき、眠たそうに何もない宙を眺めている。
シグマたちが入ってきても、姿勢を変えようとしない。
「おはようございます」
シグマが声をかける。
「……おはよう」
女性は気だるそうに返した。
「昨夜、宿で魔物の増加と、盗賊討伐の依頼が出ていると聞きました。詳しい話を伺いたいのですが」
「あそこ」
女性は掲示板を指さした。
「依頼書が貼ってあるから、自分で探して」
全員の表情が固まる。
「詳しい状況を確認したいんです。魔物の種類や数、盗賊が目撃された場所など、分かっていることはありませんか?」
「依頼書に書いてなければ、知らない」
女性はシグマを見ることすらなく、欠伸をした。
紅蓮の眉が吊り上がる。
「おい。さすがにその態度は何だ」
「別に。受付はしている」
「話を聞くことも受付の仕事ではないのか?」
「面倒」
「貴様……!」
「紅蓮、落ち着け」
シグマが止めるものの、今度はシルフが前へ出た。
「うちら、困っとる村のために依頼を受けようとしてるんやで? もうちょっと説明してくれてもええやろ」
「だから、掲示板を見て」
「なんやその態度!」
紅蓮とシルフの声がギルド内に響く。
それでも女性は頬杖をついたまま、面倒そうに目を細めるだけだった。
そのとき、建物の奥から重い足音が聞こえてきた。
「マリンッ!」
腹の底まで響く大声とともに、筋骨隆々の大男が姿を現す。
短く刈り込んだ茶色の髪に、丸太のように太い腕。左頬には大きな傷痕が走っている。
男はカウンターまで歩いてくると、受付の女性の首根っこを掴み、そのまま猫のように持ち上げた。
「客人に何という態度を取っている!」
「うるさい、ギルベルト。朝から大声を出さないで」
「お前が真面目に働かんからだろうが!」
「働いてる」
「掲示板を指さしただけだろう!」
「場所を教えた」
「それを働いたとは言わん!」
ギルベルトと呼ばれた男の声で、窓が小刻みに震える。
しばらく妻を説教したあと、男はマリンを床へ下ろし、シグマたちへ深く頭を下げた。
「すまなかった! 俺はギルベルト! この出張所のギルドマスターをしている!」
声が大きすぎて、フェルンが両耳を押さえる。
「ギルベルト。もう少し静かに」
「おお、すまん!」
注意されても、あまり声量は変わっていない。
「それで、こいつが妻のマリンだ!」
「……よろしく」
マリンはまったく反省した様子もなく、気だるそうに片手を上げた。
「この辺りは危険な依頼が少なかったから、村に留まっている冒険者も数人しかいない! 最近は魔物と盗賊が同時に出てきて、人手がまるで足りていなかったんだ! 依頼を受けてくれるというなら、本当に助かる!」
ギルベルトの説明を聞き、シグマは昨夜、三毛猫亭の女将から聞いた話を伝えた。
「どちらの依頼も、できる限り引き受けたいと考えています」
「本当か!?」
ギルベルトの大声が再び室内を揺らす。
「おお、ありがたい! 少し待っていてくれ!」
ギルベルトは奥へ駆け込み、二枚の依頼書を持って戻ってきた。
一枚は盗賊討伐。
報酬は銀貨五枚。
もう一枚は村周辺に現れる魔物の討伐で、報酬は銀貨三枚と記されている。
依頼書を見た紅蓮は眉をひそめた。
「討伐依頼にしては、あまりにも報酬が低くないか?」
「……そのとおりだ」
先ほどまで豪快だったギルベルトの表情が曇る。
「この村には大きな産業がない。畑と林業で、どうにか暮らしているような小さな村だ。村の蓄えから出せるのは、これが限界だった」
「盗賊について、分かっていることを教えてください」
シグマが尋ねると、ギルベルトは地図を広げた。
「盗賊は村の西にある森を根城にしている。森の奥には、昔この辺りを守っていた小さな砦があるんだ。今は半分崩れているが、連中はそこへ住み着いている」
「人数は?」
「村人の目撃情報では三十人前後だ。畑へ向かう者を脅したり、村へ運ばれる荷物を奪ったりしている。幸い、今のところ死者は出ていない。だが、このままではいずれ被害が出る」
「魔物の方は?」
「一角ウサギ、黒鼠、黒ガラス、それにゴブリンだ。南の森から次々と現れる。今は村の男たちと、ここに住み着いている冒険者が追い払っているが、畑を守るだけで精一杯だ」
ギルベルトは地図に置いた太い指を握り締めた。
「できれば、先に盗賊を頼みたい。魔物と戦える者を、盗賊への警戒にも回さなければならない状態なんだ」
シグマは仲間たちを見る。
紅蓮が頷き、白鬼と黒鬼も異論はない様子だった。
「分かりました。まず盗賊を討伐します」
「頼む!」
受領書と詳しい地図を受け取った一行は、すぐに三毛猫亭へ戻った。
宿の裏手で預かってもらっていた馬車を受け取り、西の森へ向かう。
◇
西の森までは、馬車でそれほど時間はかからなかった。
しかし、砦へ続く道は木々の根や下草に覆われており、馬車で進むことは難しい。
「ここからは歩きだな」
シグマは御者台から下り、森の奥を見た。
フェルンだけを馬車へ残すわけにはいかない。
かといって、盗賊の砦へ連れていくこともできなかった。
「フェルン。ハクと一緒に、ここで待っていてくれるか?」
「ハク、来る?」
「ああ」
シグマは目を閉じ、ハクへ意識を向けた。
頭の中で、その名を呼ぶ。
直後、馬車の横に淡い光が集まり始めた。
土の上へ複雑な模様を描く魔法陣が現れ、光が一際強くなる。
次の瞬間、白銀の巨大な狼が魔法陣から勢いよく飛び出してきた。
着地と同時に、柔らかな毛が大きく揺れる。
「ハク!」
フェルンは真っ先に駆け出し、ハクの首元へ抱きついた。
『急に呼ばれたと思えば、随分と辺鄙な場所に来たものだな』
「悪いな。力を貸してほしい」
ハクの声が、念話でシグマの頭へ届く。
その一方で、紅蓮たちは驚いたまま魔法陣の跡を見つめていた。
「待て、シグマ」
紅蓮が目を見開く。
「ハクをこのような形で呼び出せたのか?」
「俺も知らなかった」
「知らんかったん!?」
シルフが声を上げた。
「前は森から走ってきたやん! なんで急に魔法陣から出てくるようになったん?」
「契約を結んでから時間が経って、つながりが強くなったのかもしれない」
『私にも詳しくは分からん。呼ばれたと思ったら、目の前に道が開いた』
ハク自身にも分からないらしい。
シルフはハクが来ると聞いたときから、どこか落ち着かない様子だった。
「なあ、うちも触ってええ?」
シルフが両手を広げながらハクへ近づこうとする。
その襟首を紅蓮が掴んだ。
「遊びに来たわけではない」
「ちょっとくらいええやん!」
「戻ってからにしろ」
シルフは不満そうに手足をばたつかせた。
シグマはハクの前へ立つ。
「ハク。フェルンと馬車、それからノクスとソルを守ってほしい」
『任せろ。この辺りの者に後れを取るつもりはない』
「フェルンも、ここから離れないようにな」
「分かった」
「危険を感じたら、すぐにハクのそばへ行くんだ」
「シグマも気をつけて」
「ああ。なるべく早く戻る」
フェルンの頭を撫でてから、シグマたち五人は森へ入った。
◇
森の奥へ進むにつれ、人が通った痕跡が増えていった。
踏み潰された草。
折られた枝。
ぬかるんだ地面には、複数の足跡が残されている。
やがて木々の隙間から、崩れかけた石壁が見えてきた。
砦である。
外壁の半分は崩れ、見張り台も大きく傾いている。それでも正面の門には新しい板が打ちつけられ、簡単な補修が施されていた。
見張り台に二人。
正門付近に三人。
崩れた外壁の上にも弓を持った男がいる。
「見えているだけで六人やな」
シルフが木の陰から砦を覗く。
「中に何人いるかは分からない」
紅蓮は周囲を確認した。
森に近づく者を警戒しているのか、見張りの配置が多い。
砦の裏手へ回り込もうにも、崩れた壁の周囲には音の鳴る金属片や枝が置かれていた。
「少し離れよう」
一行は一度引き返し、砦から距離を取った場所で作戦を立てる。
「裏から忍び込むのは難しそうだな」
紅蓮が地面へ簡単な見取り図を描いた。
「隠れて入っても、いずれ見つかる。ならば、正面から一気に制圧する方がいい」
「うちが見張りを射る。殺さん程度にな」
「私と黒鬼が弓を持っている盗賊を抑えるよ」
「……前は任せて」
白鬼と黒鬼が続く。
シグマは地面の見取り図を見つめた。
「逃げ道は残さない方がいい。正面から追い込めば、崩れた裏側から森へ逃げる者が出る」
「なら、白鬼に裏手を塞いでもらおう。炎は使うな。森へ燃え移る」
「風と土で塞ぐよ」
「俺は正面から入る。紅蓮は突破口を開いてくれ。シルフと黒鬼は後方支援を頼む」
「決まりだな」
紅蓮が立ち上がり、大剣を背負い直した。
◇
最初に動いたのはシルフだった。
木の陰から放たれた三本の矢が、見張りたちの武器だけを正確に弾き飛ばす。
「敵襲だ!」
盗賊の叫び声が上がった。
鐘を鳴らそうとした男の足元へ、四本目の矢が突き刺さる。
「今だ!」
紅蓮が森から飛び出した。
正門前の盗賊たちが剣を構えるが、そのまま大剣の腹でまとめて薙ぎ払われる。
男たちは地面を転がり、積まれていた木箱へ突っ込んだ。
シグマも門をくぐり、左右から迫る盗賊を迎え撃つ。
一人目の剣を義手で受け止め、腹へ拳を打ち込む。
二人目の足を払い、倒れたところを軽く蹴って意識を奪った。
「こいつら、五人しかいねえぞ! 囲め!」
砦の中から、次々と盗賊が飛び出してくる。
確かに一人一人は強くない。
剣の振り方も荒く、連携も取れていなかった。
しかし、とにかく数が多かった。
「後ろからも来るで!」
シルフの警告と同時に、建物の窓から矢が飛んできた。
黒鬼が光の壁を展開し、矢を弾く。
「……前だけ見ないで」
「助かった!」
紅蓮が大剣を振り回すたび、盗賊がまとめて吹き飛ぶ。
だが、狭い砦内では得物が大きすぎた。
味方や建物に当てないよう加減する必要があり、普段のように思い切り振るえない。
「鬱陶しい!」
紅蓮の背後へ男が飛びかかる。
シグマが割って入り、その腕を掴んで投げ飛ばした。
ところが、倒れた盗賊を避けた直後、別の男が桶を投げつけてきた。
桶そのものは当たらなかったが、中に入っていた泥水がシグマの頭から降りかかる。
「…………」
「シグマ、すごい顔やで」
「分かっている」
泥水を拭う暇もなく、今度は三人の盗賊が長い棒を持って突進してきた。
シグマは一本目を受け止めたものの、残る二本が身体へ絡みつく。
「捕まえたぞ!」
「そのまま押さえろ!」
「シグマ!」
白鬼が風を起こした。
三人の身体が横から吹き飛ばされ、砦の壁へ重なるように激突する。
「数だけは本当に多いね!」
白鬼は頬を膨らませながら、土の壁で裏手の穴を塞いだ。
逃げようとした盗賊たちは引き返し、再び砦の中央へ集まってくる。
「囲め! 一人ずつ潰せ!」
盗賊の一人が叫ぶ。
その指示どおり、十人近い男たちが紅蓮へ殺到した。
「数でどうにかなると思うな!」
紅蓮は大剣を地面へ突き立てた。
衝撃で土が揺れ、盗賊たちが一斉に体勢を崩す。
そこへシグマが飛び込んだ。
拳。
蹴り。
肘打ち。
狭い空間を縫うように動き、盗賊たちを一人ずつ気絶させていく。
だが、ようやく数が減ったと思ったところで、地下へ続く扉が開いた。
「まだおるんかい!」
シルフが思わず叫ぶ。
新たに十人ほどの盗賊が飛び出してきた。
「ギルベルトの話より多いな」
「四十人近くいるぞ!」
紅蓮の声に、シグマは苦笑した。
「弱いのが救いだな」
「弱くても、これだけいれば面倒だ!」
その後も戦いは続いた。
盗賊は砦にある箱や樽を投げつけ、縄を使って足を絡め、建物の窓や屋根から奇襲を仕掛けてくる。
一度はシルフの足へ縄が絡み、逆さに吊り上げられた。
「ちょお待って! なんでこんな罠があんねん!」
「動かないで」
黒鬼が縄だけを光の刃で切断する。
落ちてきたシルフをシグマが受け止めた。
「助かったわ……って、泥まみれやん」
「誰のせいで受け止めたと思っているんだ」
「それとこれとは別や」
その直後、倒れたふりをしていた盗賊が突然短剣を抜き、シルフへ襲いかかろうとした。
だが、男は黒鬼が咄嗟に張った光の壁へ顔から激突し、そのまま再び意識を失った。
「……油断しないで」
「黒鬼、助かったわ」
「二回目」
「帰ったら甘いもん奢るから」
「二つ」
「増えとるやん!」
盗賊たちの実力は低かった。
それでも、数と砦の構造を利用した抵抗により、一行は予想以上に手間取ることになった。
最後の一人が紅蓮の大剣の腹で弾き飛ばされ、地面へ倒れる。
砦へ入ってから、半刻近くが経過していた。
「……終わったか?」
紅蓮が息を整えながら周囲を見る。
地面には、気絶した盗賊たちが折り重なるように倒れていた。
砦の中を調べると、地下には古い牢屋が残されていた。
幸い、捕らえられている村人や旅人はいない。
シグマたちは盗賊たちの武器を一か所に集め、全員の手足を縄で縛った。
縄を結び終えた者から順番に地下へ運ぶ。
「三十九……四十……」
白鬼が数を確認する。
「こっちに二人いる」
黒鬼が気絶している盗賊を引きずってきた。
「これで四十二人だね」
「聞いていた人数より随分多いな」
「最近、別の集団と合流したのかもしれない」
紅蓮は捕らえた大男の装備を調べる。
どれも使い古された武器ばかりで、不審な魔道具などは見つからなかった。
「この男が、後から合流した集団の頭だった可能性はあるな」
「詳しいことは、ギルドで調べてもらうしかない」
牢の中に刃物や縄を切れそうな物が残っていないか確認し、盗賊たちを二つの牢へ分けて入れる。
さらに、手の届かない廊下へ武器をまとめ、牢の鍵を閉めた。
「白鬼。扉の前を補強できるか?」
「完全に塞ぐと村の人たちが開けられないから、扉の外側だけ固めるね」
白鬼が手をかざす。
牢の蝶番と錠前の周囲を覆うように土が盛り上がり、やがて硬い岩へ変わった。通気口は残し、鍵を持ってきた村人たちが外側から土を崩せる程度に留める。
「これなら、内側から壊すのは難しいと思う」
「縄を解かれても、すぐには出られないな」
シグマは牢の扉を何度も引き、開かないことを確かめた。
それから盗賊の人数、負傷の程度、牢の場所を地図へ書き込む。
「長居はできない。意識を取り戻す前に村へ戻ろう」
「ああ。ギルベルトたちに早く回収へ来てもらう必要がある」
一行は最後に砦内を確認し、西の森の入口へ戻った。
◇
木々の間から馬車が見えてくる。
その前では、フェルンとノクス、ソル、ハクが遊んでいた。
フェルンが投げた木の枝を、ノクスとソルが翼を広げて追いかけている。
ハクはその様子を伏せたまま眺め、二羽が危ない方向へ進みそうになると、尻尾でそっと押し戻していた。
「平和やなぁ……」
先ほどまで盗賊と戦っていたことを忘れそうな光景だった。
紅蓮も目元を和らげる。
「随分と仲良くなったようだ」
「ノクスとソルの遊び相手というより、子守りに見えるね」
白鬼が笑う。
フェルンがこちらへ気づいた。
「シグマ!」
そのまま全力で駆け出し、シグマの腹へ飛びつく。
「ただいま」
「怪我は?」
「ない。少し泥水を被っただけだ」
フェルンが鼻を近づける。
「泥の匂い」
「嗅がなくても分かるだろ」
ノクスとソルも翼をばたつかせながら近づいてくる。
最後にハクがゆっくりと歩み寄った。
『随分と早かったな』
「数は多かったが、一人一人はそれほど強くなかった。変な罠が多くて、少し手間取ったけどな」
『その泥は罠か?』
「桶を投げられた」
『見事にやられたものだな』
「笑うな」
『笑ってはいない』
「その顔で言われても信用できないな」
ハクは口を閉じているが、どことなく楽しそうだった。
「なあ、今度こそ触ってええ?」
シルフが恐る恐る手を上げる。
『好きにしろ』
「ほんま!?」
許可を得たシルフが、嬉しそうにハクの首元へ抱きつく。
「うわぁ……やっぱり、ふわっふわや!」
『少し苦しい』
「シルフ、ハクが困ってる」
「フェルンは抱きついとったやん!」
「フェルンはいい」
「なんでやねん!」
シグマは苦笑しながらハクの首元を撫でた。
「助かった。ありがとう」
『この程度なら、いつでも呼べ』
「次も同じように呼べるかは分からないけどな」
『呼ばれれば応える。道を開くのはお前の役目だ』
その言葉を残し、ハクはシグマから少し離れた。
足元へ再び魔法陣が現れる。
「もう帰るん?」
『森を長く空けるわけにはいかん。また呼べ』
白い光に包まれた巨体は、森の風へ溶けるように姿を消した。
その場には、微かに光る魔法陣の残滓だけが残った。
◇
イル村へ戻った頃には、ちょうど昼を迎えていた。
シグマたちがギルドへ入ると、ギルベルトが目を丸くした。
「まさか、砦を見つけられなかったのか!?」
「いえ。盗賊は全員捕らえました」
「……何?」
「砦の地下にあった牢へ入れています。確認できたのは四十二人です」
「よ、四十二人!?」
ギルベルトの大声が響く。
フェルンが両耳を塞いだ。
「声」
「お、おお……すまん。しかし、四十二人だぞ!? 本当に全員捕らえたのか?」
「はい。聞いていた人数より多かったので、別の集団と合流した可能性があります。全員の手足を縛り、武器も一か所に集めました」
「牢の入口は白鬼が補強している。内側から逃げ出すのは難しいはずだ」
紅蓮が地図をカウンターへ広げる。
「だが、いつまでも放置はできない。意識を取り戻せば、何をするか分からん」
「分かった。すぐに人を集める!」
ギルベルトはしばらく口を開けたまま固まっていたが、やがて我に返ると奥へ向かって叫んだ。
「マリン! 村長へ知らせてくる! 男たちと馬車を集めなければならん!」
「いってらっしゃい」
「お前も手伝え!」
「受付がいなくなる」
「こんなときだけ真面目なことを言うな!」
「留守中に依頼人が来たら困る」
「朝は掲示板を指さしただけだっただろう!」
「今は働いてる」
「どの口が言う!」
ギルベルトは頭を抱えたが、言い争っている時間も惜しかったらしい。
数人の村人を呼び集め、複数の馬車を準備して西の森へ向かった。
残されたマリンは、机の引き出しから銀貨五枚を取り出す。
「盗賊討伐の報酬」
机の上へ置く動作まで気だるそうだった。
「盗賊個人に懸けられている賞金については、身元の確認が終わってから。たぶん、明日か明後日」
「分かりました」
「受け取るなら、また来て」
「……相変わらずの態度だな」
紅蓮が低い声で呟く。
マリンは聞こえているはずだが、まったく反応しない。
「もう一つの依頼も受けます」
シグマが告げると、マリンは用意されていた受領書を差し出した。
「南の森から出てくる魔物の討伐。種類と数は問わない。村周辺の安全が確認できれば達成」
「討伐部位は必要ですか?」
「ゴブリンは右耳。ほかは角、前歯、くちばし。面倒なら倒した場所を教えて。ギルベルトが確認する」
最低限の説明はしてくれた。
「意外とちゃんと受付できるやん」
シルフが漏らす。
「今のは褒め言葉?」
「半分くらいは」
「そう」
「怒らんのかい」
「面倒だから」
「ほんまにぶれへんなぁ……」
マリンは気にする様子もなく、再び頬杖をついた。
◇
一行は昼食と休憩を兼ね、一度三毛猫亭へ戻ることにした。
扉を開くと、カウンターの奥から少女が顔を出す。
「あっ、お帰りなさい!」
少女は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ずいぶん早いお帰りですね。依頼はどうでした?」
「盗賊は全員捕まえたで」
「もう!?」
少女の声を聞きつけ、厨房から母親も姿を現した。
「本当ですか?」
「はい。今、ギルベルトさんたちが砦へ向かっています」
シグマが答えると、母親は口元を押さえた。
驚きのあと、その表情に深い安堵が広がる。
「よかった……」
その声は小さく震えていた。
「西の森に盗賊が住み着いてから、村の外へ出るのが怖くなっていたんです。薪や食材を運んでくださる方まで襲われるようになって、このままでは宿を続けられなくなるのではないかと……」
少女も、安心したように胸へ手を当てた。
「これで、村のみんなも安心して森へ行けますね」
たった銀貨五枚の依頼。
報酬だけを見れば、危険に見合っていない。
しかし、この母娘にとって、盗賊がいなくなることは、暮らしを守るだけでなく、亡き父が残した三毛猫亭を守ることにもつながっていた。
紅蓮もそれを感じ取ったのか、先ほど報酬の低さを指摘したときとは違い、静かに目を伏せている。
「報酬だけを見て判断するものではないな」
紅蓮が小さく呟く。
「ん? 何か言った?」
白鬼に尋ねられ、紅蓮は首を振った。
「いや、何でもない」
「まだ南の森の魔物が残っています」
シグマは少女と目線を合わせる。
「そちらも今日中に、できるだけ減らしてきます」
「気をつけてくださいね」
「ああ」
母親は昼食として、硬めのパンに燻製肉と野菜を挟んだものを用意してくれた。
さらに、塩漬けにした果実と水筒も渡される。
「料金は――」
「いりません」
シグマが硬貨を出そうとすると、母親は首を振った。
「村を助けてもらっているんです。これくらいはさせてください」
シグマは少し迷ったあと、素直に受け取った。
「ありがとうございます」
「泥を落とすなら、裏の井戸を使ってください。お湯も用意しますから」
「助かります」
シグマが井戸へ向かおうとすると、フェルンも当然のようについてくる。
「フェルンは中で待っていてくれ」
「手伝う」
「着替えるだけだから大丈夫だ」
「水をかける」
「余計に泥だらけになりそうだから、待っていてくれ」
「フェルンなら上手」
「そういう問題じゃない」
そのやり取りを見ていた少女が、楽しそうに笑った。
◇
短い休憩を終え、一行は南の森へ向かった。
村の南側には畑が広がっていた。
しかし、森に近い畑では作物が踏み荒らされ、ところどころ土が掘り返されている。
柵にも大きな隙間ができていた。
数人の村人が槍や農具を持ち、畑の周囲を見張っている。
その中には、革鎧を着た三人の冒険者もいた。
「依頼を受けてくれた冒険者か?」
白髪交じりの男性が声をかけてきた。
「はい。状況を教えてもらえますか?」
「朝方、黒鼠の群れを追い払った。だが、森の中にはまだ相当数いる。最近は魔物同士が争わず、一緒になって村へ向かってくることもあるんだ」
「種類の違う魔物が?」
「ああ。今まではそんなことはなかった。黒鼠の後ろを一角ウサギが走り、その上を黒ガラスが飛んでいた。互いに襲うこともなく、まっすぐ畑へ向かってきたんだ」
シグマと紅蓮は顔を見合わせた。
単に数が増えているだけではないらしい。
「巣を追われた可能性は?」
「分からん。だが、大型の魔物を見たという話はない」
「シルフ。森の中を確認できるか?」
「任せとき」
シルフの瞳が淡い緑色に輝く。
神の目を使い、木々の向こうへ意識を集中させた。
「……おるな。黒鼠が十二。一角ウサギが七。木の上に黒ガラスがぎょうさんおる。もう少し奥には、ゴブリンも見えるで」
「まとまっているのか?」
「いや、今は別々や。けど、どれも同じ方向へ動いとる」
シルフが指したのは、村の方向だった。
「このまま待ち構えてもいいが、畑へ出られると被害が出る」
紅蓮が大剣を抜く。
「森の中で仕留めよう」
シグマはフェルンを見る。
三毛猫亭へ残す案も考えたが、魔物が村を目指している以上、宿が確実に安全とは言い切れない。
それならば、黒鬼の防御と治療をすぐに受けられる場所にいた方が安全である。
「フェルン。森へ入ったら、黒鬼のそばから離れないこと。何があっても一人で動くな」
「分かった」
「危ないと思ったら、すぐに声を出すんだ」
「うん」
「黒鬼、頼めるか?」
「……任せて」
「俺たちが森へ入ります。皆さんは畑を守ってください。もし森から別の魔物が出たら、無理に戦わず声を上げてください」
村人たちへ告げ、シグマたちは南の森へ入った。
◇
森の中には、不自然な静けさが広がっていた。
魔物の足跡は多い。
地面のいたるところに黒鼠の小さな足跡が残り、木の幹には一角ウサギの角で削られた痕もある。
それにもかかわらず、争った痕跡はほとんど見つからない。
「ほんまに妙やな」
シルフが周囲を見回す。
「この数が同じ場所におったら、普通は餌や縄張りの取り合いになるはずや」
「仲良くなったわけではないよね?」
白鬼が尋ねる。
「魔物同士が急に仲良しになったなんて話、聞いたことあらへん」
そのとき、前方の下草が大きく揺れた。
「来るぞ!」
紅蓮が大剣を構える。
最初に現れたのは、黒鼠の群れだった。
犬ほどの大きさを持つ黒い鼠が、下草を掻き分けながら迫ってくる。
「フェルン、俺の後ろへ」
「うん」
シグマが前へ出た。
一匹目を蹴り飛ばし、飛びかかってきた二匹目を義手で払い落とす。
左右へ回り込んだ黒鼠は、白鬼が作り出した風の壁に弾かれた。
「右から来るよ!」
白鬼の声に合わせ、紅蓮が大剣を横薙ぎに振るう。
群れは瞬く間に数を減らした。
しかし、黒鼠たちは逃げなかった。
仲間が倒れても構わず、シグマたちの横をすり抜けようとする。
「こいつら、俺たちを狙っていない」
「村へ行こうとしているのか!」
紅蓮が最後の一匹を大剣で薙ぎ払う。
間を置かず、前方から何かが木へぶつかる音が続いた。
「次、一角ウサギが来るで!」
シルフの警告と同時に、額から鋭い角を伸ばした魔物が木々の間から跳び出してきた。
「真っ直ぐしか来ないなら、狙いやすいな」
シルフの矢が先頭の一匹の角へ命中する。
体勢を崩した一角ウサギを、シグマが蹴り飛ばした。
その背後から、二匹、三匹と続けて飛び込んでくる。
「白鬼、左を頼む!」
「任せて!」
風が巻き起こり、一角ウサギの進路を僅かに逸らす。
木へ角を突き立て、動けなくなったところを紅蓮が仕留めた。
戦闘そのものは難しくない。
だが、魔物たちの行動には明らかな異常があった。
黒鼠が倒れた直後に一角ウサギが現れた。
まるで前の群れが作った隙間を通るかのように、同じ経路を使って村へ向かっている。
「偶然にしては、動きが揃いすぎているな」
「次が来る!」
木々の上から甲高い鳴き声が響いた。
無数の黒い影が枝から飛び立つ。
黒ガラスの群れである。
黒ガラスは翼を大きく広げ、羽根を矢のように放った。
「黒鬼!」
「……任せて」
光の壁が頭上に広がり、降り注ぐ黒い羽根を弾く。
「数が多い!」
「木の陰に隠れられると狙いにくいな!」
シルフが矢を放つ。
一羽を撃ち落とした直後、別の黒ガラスが横から飛び込み、その視界を翼で覆った。
「うわっ、鬱陶しい!」
シルフが腕で顔を庇う。
同時に、前方の茂みからゴブリンたちが姿を現した。
粗末な棍棒や石斧を手にしている。
「今度は同時か!」
紅蓮がゴブリンの集団へ飛び込む。
大剣を横薙ぎに振るい、先頭の三体をまとめて吹き飛ばした。
しかし、残りのゴブリンは紅蓮を避け、左右へ分かれた。
「こいつら、回り込んでくる!」
白鬼が風を起こし、右から迫ったゴブリンを押し戻す。
その隙に黒ガラスが急降下し、黒鬼の光の壁へ体当たりした。
一羽だけではない。
二羽、三羽と続けて同じ場所へぶつかり、光の壁を揺らす。
「黒鬼、大丈夫か?」
「まだ平気。でも……同じ場所を狙ってる」
その言葉どおり、黒ガラスたちは一点へ攻撃を集中させていた。
そこへ左から黒鼠が飛び出した。
「まだ残ってたんか!」
黒鼠は戦っているシグマたちには目もくれず、黒鬼の光の壁へ飛びかかる。
鋭い前歯が、黒ガラスの攻撃で揺らいだ場所へ食い込んだ。
光の壁に小さな亀裂が走る。
「黒鬼!」
「……下がって!」
黒鬼が壁を張り直そうとする。
だが、その一瞬を狙うように、一角ウサギが木々の隙間から飛び出した。
角の先が向いているのは、黒鬼ではない。
そのすぐ後ろにいるフェルンだった。
「フェルン!」
シグマは目の前のゴブリンを殴り飛ばし、地面を蹴った。
しかし、一角ウサギとの距離が近すぎる。
黒鬼も咄嗟にフェルンを抱き寄せたが、光の壁を維持しているため動けない。
「シグマ!」
フェルンの叫びが響く。
その瞬間、地面から土の壁が突き出した。
一角ウサギの角が土壁を貫く。
勢いは止まり切らず、壁に亀裂が走った。
それでも、ほんの僅かな時間が生まれた。
シグマは土壁を飛び越え、一角ウサギの角を左の義手で掴む。
凄まじい衝撃が腕から肩へ突き抜けた。
足元の土が大きく抉れる。
「止まれ!」
シグマは身体を捻り、一角ウサギを横の木へ叩きつけた。
その背後から、ゴブリンが石斧を振り上げて迫る。
フェルンがいち早く気づいた。
「後ろ!」
シグマが振り返るより先に、一本の矢がゴブリンの手から石斧を弾き飛ばした。
「フェルンばっか見てんと、自分の後ろも見ぃ!」
シルフが続けて矢を放つ。
矢は風をまとい、枝の間で無数の細い風へ分かれた。
黒ガラスが次々と地面へ落ちてくる。
黒鬼はフェルンを抱いたまま後退し、光の壁を張り直す。
「白鬼、黒鼠を止めて!」
「分かった!」
地面が盛り上がり、黒鼠たちの進路を塞ぐ。
行き場を失った群れへ、紅蓮が飛び込んだ。
「一体も村へ通すな!」
大剣が唸り、黒鼠とゴブリンがまとめて吹き飛ばされる。
シグマも体勢を立て直し、残った魔物へ向かった。
拳でゴブリンを倒す。
蹴りで黒鼠を弾き飛ばす。
頭上から迫った黒ガラスは義手で払い落とした。
白鬼の風が魔物を一か所へ集め、紅蓮の一撃が地面を揺らす。
最後に残った一角ウサギの角をシルフの矢が弾き、シグマがその身体を地面へ叩きつけた。
やがて、森に静けさが戻った。
◇
「フェルン、怪我はないか?」
シグマはすぐにフェルンの前へ膝をついた。
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。黒鬼が守ってくれた」
「……怖かった?」
黒鬼が心配そうに尋ねる。
フェルンは少し迷ったあと、小さく頷いた。
「でも、逃げなかった」
「逃げてもよかったんだぞ」
「シグマが来てくれると思った」
まっすぐに見つめられ、シグマは言葉を失う。
安心させられたことは嬉しい。
しかし、それが無謀な行動へつながってはならない。
「次は、危ないと思ったら先に逃げるんだ。俺が間に合うとは限らない」
「シグマは来た」
「今回はな」
シグマはフェルンの両肩へ手を置いた。
「逃げることは悪いことじゃない。自分の身を守ることも、俺たちを助けることになる。分かるか?」
フェルンは不満そうに唇を尖らせたが、やがて頷いた。
「分かった」
「黒鬼も、ありがとう」
「……フェルンが無事ならいい」
「それにしても、今の動きは何だったんや?」
シルフが地面に倒れた魔物たちを見回す。
「黒ガラスが壁を揺らして、黒鼠が同じ場所を壊した。その隙に一角ウサギが突っ込んできた」
「偶然とは思えないな」
紅蓮が大剣についた汚れを払う。
「ゴブリンも私たちの前衛を避け、黒鬼たちへ回り込もうとしていた。まるで役割を分けていたように見えたぞ」
「違う種類の魔物が連携していたってこと?」
白鬼の問いに、シルフはすぐには答えなかった。
再び神の目を使い、森のさらに奥を見つめる。
やがて、その表情が次第に曇っていった。
「妙やな……」
「どうした?」
「魔物が村へ向かって移動しとったんは確かや。でも、巣が荒らされたようには見えへん」
「何かに追われていたわけではない?」
「たぶん違う。大型の魔物も見えへんし、森が焼けたり、餌がなくなった様子もない」
シルフは片目を細めた。
「もっと奥から、微かに魔力の流れを感じる。強いもんやない。でも……魔物をこっちへ呼び寄せとるようにも見える」
「魔物を操っている者がいるのか?」
「そこまでは分からん。うちの目でも、奥は木が密集しすぎて見通せへん」
森を吹き抜けた風が、木々の葉を揺らす。
先ほどまで聞こえていた鳥の声が、いつの間にか消えていた。
シグマは薄暗い森の奥を見つめる。
種類の異なる魔物が、争うこともなく同じ村を目指していた。
巣を追われた様子もなく、餌を求めているようにも見えない。
それでも、まるで何かに呼ばれているかのように、魔物たちは森の外へ向かっている。
偶然で片づけるには、あまりにも不自然だった。
「今日はこれ以上、奥へ進まない方がいい」
紅蓮が静かに告げた。
「盗賊との戦いを終えたばかりだ。森の地形も把握できていない。原因を調べるなら、準備を整えてからにするべきだ」
「ああ」
シグマも頷いた。
旅を急ぐ必要はある。
それでも、何かが起きていると知りながら、この村を置いていくことはできなかった。
「一度村へ戻ろう。今日の討伐分を報告して、明日の朝、改めて森の奥を調べる」
「やっぱり行くんやな」
シルフが苦笑する。
「シルフは反対か?」
「まさか。シグマならそう言うと思っとっただけや」
「私も異論はない」
紅蓮が大剣を背負う。
「原因を放置すれば、また同じことが起きる。次は今日より多くの魔物が来るかもしれない」
「明日も調べるの?」
フェルンが尋ねる。
「ああ。危険が残っているなら、そのままにはできないからな」
「なら、フェルンも手伝う」
「今日みたいなことがあったばかりだ。無理はしなくていい」
「無理じゃない」
フェルンは真剣な表情で答えた。
「フェルン、魔物が来る前に気づいた。後ろも教えた」
「確かに助けられたな」
「だから、手伝える」
シグマは少し考え、その頭へ手を置いた。
「分かった。ただし、俺たちの言うことは必ず聞くこと。危険だと言われたら、すぐに下がるんだ」
「うん」
「約束だぞ」
「約束する」
フェルンは力強く頷いた。
◇
村へ戻る頃には、空がわずかに赤みを帯び始めていた。
畑を守っていた村人たちは、討伐した魔物の数を聞き、何度も頭を下げた。
異なる種類の魔物が連携していたことを伝えると、白髪交じりの男性の表情が険しくなる。
「やはり、俺たちの見間違いではなかったのか……」
「今夜も見張りを続けてください。ただし、魔物が現れても無理に森へ入らないでください」
「分かった。村長とギルベルトにも伝える」
「明日の朝、俺たちが原因を調べます」
「そこまでしてもらって、本当にいいのか?」
「このままでは、安心して旅を続けられないからな」
男は深く頭を下げた。
踏み荒らされた畑の向こうでは、三毛猫亭の少女が母親と並び、こちらへ大きく手を振っている。
今日一日で、西の森の盗賊と、村近くまで来ていた魔物は排除できた。
少なくとも今夜は、村人たちも昨日より安心して眠れるだろう。
だが、南の森の奥には、まだ何かが残っている。
シグマが森を見つめていると、不意に奥の方から低い音が響いた。
ぎしり。
何か巨大なものが軋んだような音だった。
「……今の、聞こえたか?」
「ああ」
紅蓮も森へ顔を向け、大剣の柄へ手を添える。
「木が倒れた音やないな」
シルフの瞳が再び淡く輝く。
しかし、すぐに首を横へ振った。
「駄目や。ここからやと何も見えへん」
音は一度きりだった。
森は再び、不気味なほどの静けさを取り戻している。
夕暮れの風が畑を抜け、南の森へ吸い込まれていく。
その風に混じって、胸の奥をざらつかせるような嫌な気配が漂ってきた。
「明日、確かめよう」
シグマの言葉に、仲間たちが静かに頷く。
静かなイル村を包む夕暮れの中。
南の森だけが、これから訪れる夜を待ち構えるように、深く黒く沈んでいた。




