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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第十五話 イル村

 早朝。


 窓の隙間から差し込む淡い朝日が、薄暗い部屋の床を静かに照らしていた。


 遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。


 シグマはゆっくりと目を開いた。


 身体を起こそうとしたところで、胸から腹にかけて妙な重みがあることに気づく。


「……なんだ?」


 眠気が一気に引いた。


 昨夜、同じ部屋で眠った者はいなかったはずだ。


 警戒しながら掛け布を持ち上げると、その下から銀色の髪と二つの狼耳が現れた。


 フェルンだった。


 シグマの身体に両腕を回し、頬を胸元に押しつけたまま、気持ちよさそうに眠っている。


「フェルンか……」


 シグマは胸を撫で下ろした。


 昨夜は確かに、別の部屋で白鬼や黒鬼と眠ったはずである。おそらく夜中に目を覚まし、こちらへ忍び込んできたのだろう。


 だが、そこまで考えたところで、少し前に起きた出来事が脳裏をよぎった。


 同じように目を覚まし、すぐそばにいたシルフ。


 あのとき感じた柔らかな感触まで思い出し、シグマの顔が一気に熱くなる。


「……思い出すな」


 誰に言うでもなく呟き、片手で顔を覆う。


 フェルンをすぐに起こす気にもなれず、シグマは火照りが収まるまで、しばらく天井を眺めていた。


 やがて呼吸が落ち着いたところで、フェルンの肩を優しく揺らす。


「フェルン。朝だぞ」


「んぅ……」


「そろそろ起きよう」


 フェルンの狼耳がぴくりと動いた。


 眠たそうに目を擦りながら顔を上げ、シグマを見つけると、安心したように小さく笑う。


「おはよう、シグマ」


「ああ。おはよう」


 フェルンは身体を起こした。


 しかし、なぜかシグマの胸元をじっと見つめている。


「どうした?」


 問いかけるより先に、フェルンがシグマの寝間着の襟へ指をかけた。


 そのまま胸元を広げようとする。


「待て待て。何をしている」


 シグマは慌てて襟を押さえた。


 すると、フェルンは不満そうに頬を膨らませる。


「シルフは見た」


「……なぜ知っている?」


「シルフが昨日、白鬼たちに怒られているときに言ってた」


「シルフ……」


 本人が何をどこまで話したのか考えるだけで頭が痛くなる。


「だからフェルンも見る」


「そうはならないだろ」


「ずるい」


「ずるくない」


「シルフだけ、ずるい」


 フェルンは諦めず、再び襟へ手を伸ばした。


 シグマは深いため息をつく。


 このまま押し問答を続ければ、かえって時間がかかりそうだった。


「少しだけだぞ」


「うん」


 フェルンは嬉しそうに頷くと、シグマの胸元をわずかに広げた。


 中を覗き込み、なぜか鼻を近づけて何度か小さく匂いを嗅ぐ。


「……何を確認しているんだ?」


「シグマの匂い」


「そうか……」


 満面の笑みを浮かべたフェルンは、そのまま勢いよく抱きついた。


「やっぱりシグマ」


「朝から元気だな」


 シグマは呆れながらも、フェルンの頭を軽く撫でる。


 それから脇へ手を入れて身体を持ち上げ、自分の上から下ろした。


「ほら、もう起きるぞ。着替えたら白鬼たちを起こしてきてくれ」


「分かった」


「扉は静かに開けるんだぞ」


「分かった」


「寝ている相手に飛び乗るのも駄目だ」


 フェルンは返事をしなかった。


「フェルン?」


「行ってくる」


「待て。今、何をするつもりだ?」


 フェルンは答えず、着替えを抱えて部屋を出ていった。


 数分後。


 身支度を終えたシグマが荷物を持って廊下へ出ると、隣の部屋から賑やかな音が聞こえてきた。


「起きて!」


「わっ、フェルン!? ちょっと待って、まだ着替えてない!」


「……白鬼、布団を取られてる」


「黒鬼、見てないで助けて!」


 どたどたと床を踏む音に続き、何かが倒れる音が響く。


 どうやら予想どおり、静かに起こすことはできなかったらしい。


「……頼む相手を間違えたか」


 シグマは苦笑し、自室の向かいにある扉の前へ立った。


 シルフの部屋である。


 扉を軽く叩く。


「シルフ。朝だぞ」


 返事はない。


 もう一度、少し強めに叩いた。


「シルフ、起きているか?」


 しばらくして、部屋の中から大きな音が聞こえた。


 何かが床へ落ち、慌ただしく走り回る足音が続く。


「いったぁ……! ちょ、ちょっと待ってや!」


 やがて勢いよく扉が開いた。


「おはよぉ……すぐ行くから、そこで待っといて……」


 寝ぼけた顔で立っていたシルフは、大きな欠伸をしながら頭を掻いている。


 その姿を見たシグマは固まった。


 シルフは下着姿だった。


 まだ意識が半分眠っているらしく、目の前に誰が立っているのか理解できていない。


「シ、シルフ……」


「ん?」


 名前を呼ばれ、シルフがようやく顔を上げた。


 シグマを見る。


 自分の姿を見る。


 顔を真っ赤にして立ち尽くすシグマを、もう一度見る。


 それを何度か繰り返したあと、シルフの顔から首、さらに耳の先まで、みるみる赤く染まっていった。


「――いやああああああっ!」


 今まで聞いたこともない悲鳴が、三毛猫亭の二階に響き渡った。


 扉が勢いよく閉じられる。


「ちゃ、ちゃうねん! 今のは違うねん! うち、寝ぼけとって……あああっ、何しとんねん、うちぃ!」


 扉の向こうから、言葉にならない叫び声と何かを叩く音が聞こえてくる。


 その悲鳴を聞きつけ、隣室の扉が開いた。


「今の悲鳴、何!?」


「……シルフ?」


「虫?」


 白鬼、黒鬼、フェルンの三人が、廊下へ顔を出す。


 三人はシルフの部屋の前で立ち尽くしているシグマを見た。


 真っ赤な顔。


 固まった身体。


 そして、閉じられた扉。


 白鬼は瞬時に状況を察したらしい。


「フェルン、シグマを部屋へ連れていってあげて」


「分かった」


「いや、大丈夫だ。少し驚いただけで――」


 そのとき、もう一つの扉が開いた。


「朝から何の騒ぎだ?」


 部屋から出てきた紅蓮も、まだ着替えていなかった。


 下着姿のまま、無防備に廊下へ立っている。


 シグマは反射的に振り返った。


 そして、見てしまった。


「…………」


「シグマ?」


 紅蓮が首を傾げる。


 次の瞬間、シグマの鼻から赤い筋が流れた。


「シグマ!」


 そのまま仰向けに倒れる。


 床へ頭を打つ寸前、黒鬼が駆け寄って抱き止めた。


「大丈夫?」


「……大丈夫じゃないかもしれない」


 紅蓮が心配そうに近づこうとする。


 しかし、黒鬼はシグマを支えながら紅蓮を睨みつけた。


「来ないで」


「だが、シグマが倒れたぞ」


「紅蓮……自分の格好、見て」


「格好?」


 紅蓮が自分の身体を見下ろす。


 それでも状況を理解できず、再び近づこうとしたため、黒鬼は片手で紅蓮の腹を押した。


「部屋に戻って」


「なぜだ?」


「戻って!」


 普段は声を荒らげない黒鬼の一喝に、紅蓮の身体が跳ねる。


 そのまま部屋へ押し込まれ、扉を閉められた。


「シグマは私が見る。紅蓮は着替えて」


「あ、ああ……すまない」


 扉の向こうで、紅蓮は改めて自分の姿を見下ろした。


 ようやく自分がどのような格好で廊下へ出たのかを理解し、顔が一気に赤くなる。


「私は何という破廉恥な真似を……」


 紅蓮は両手で顔を覆った。


「き、着替えよう……」


 一方、白鬼と黒鬼、フェルンの三人は、意識の朦朧としているシグマを部屋へ運び、寝台へ寝かせた。


 黒鬼が回復魔法を使ったこともあり、シグマはほどなく目を覚ました。


「……酷い朝だ」


「シグマ、大丈夫?」


「ああ。怪我はない。ただ、少しだけ一人にしてほしい」


「フェルンがいる」


「そうか……」


 フェルンは当然のように寝台の横へ座った。


 今にも泣きそうな顔でこちらを見ているため、シグマも追い出すことができない。


 白鬼と黒鬼は顔を見合わせた。


「それじゃあ、私たちはシルフのところへ行こうか」


「……話を聞かないと」


 二人がシルフの部屋へ入ると、そこには寝台の上で手足をばたつかせるシルフがいた。


「何してんねん、うち! なんで確認せんと扉開けたんや! アホや! ほんまのアホやぁ!」


「シルフ」


「うひゃあっ!?」


 シルフは慌てて掛け布を頭まで被った。


「ちゃ、ちゃうで! わざとやないんや! うち、まだ寝ぼけとってな! 扉の前にシグマがおるなんて思わへんかったんや!」


「まず服を着ようか」


「……はい」


「それから、シグマにちゃんと謝る」


「はい……」


 黒鬼は部屋の中を見回した。


 衣服や荷物が床に散らばり、椅子の背には昨日脱いだ服が何枚も重なっている。


 先ほど倒れたと思われる水差しからは、床へ水が広がっていた。


「あと、部屋を片づけて」


「今はそれ関係ないやろ!?」


「関係ある。この散らかり方だったから、着替えを見つける前に扉を開けた」


「うっ……」


 言い返せなくなったシルフは、掛け布の中で小さくなる。


 白鬼にも無防備すぎると叱られ、さらに黒鬼から部屋の片づけについて延々と注意される。


 シルフにとっては、まさに踏んだり蹴ったりの朝となった。


     ◇


 しばらくして、一行は三毛猫亭の食堂に集まった。


 昨日と同じ大きな木のテーブルを囲んでいるが、普段とは異なる空気が流れている。


 シグマはシルフと紅蓮を直視できず、窓の外を眺めていた。


 シルフは両膝の上で手を重ね、顔を赤らめながら落ち着きなく身体を揺らしている。


 紅蓮も身体ごと横を向き、なぜか旅用のマントで首から下を隠していた。


「二人とも、だめ」


 フェルンが腕を組み、シルフと紅蓮を交互に睨む。


「シグマに服を着ないで見せた」


「返す言葉もあらへん……」


「本当にすまない……」


 二人は揃って肩を落とした。


「シグマ、堪忍な。さっきのは事故や。ほんまに事故やねん」


「私も軽率だった。シグマが倒れたのを見て、格好も考えずに近づこうとしてしまった」


「いや、二人が悪いわけじゃない。俺もすぐに目を逸らせばよかった」


 そう答えた瞬間、今朝見た光景が脳裏に蘇る。


 シグマは慌てて鼻を押さえた。


「思い出したやろ!?」


「頼む、忘れてくれ!」


「努力する……」


「努力やなくて、絶対忘れてや!」


「約束してくれ!」


 二人が身を乗り出す。


「朝から賑やかですね」


 少女の声が聞こえ、全員が振り返った。


 三毛猫亭の娘が、料理の載った盆を抱えて立っていた。


「そういえば、今朝すごい叫び声が聞こえましたけど……大きな虫でも出たんですか?」


「せ、せや! 虫や!」


 シルフが勢いよく頷く。


「こーんなに大きな虫がおってな! びっくりしてもうたんや!」


 両手を大きく広げて見せるが、どう考えても虫の大きさではない。


 少女は不思議そうに首を傾げた。


「そんなに大きな虫、この村にはいないと思いますけど……」


「シルフの見間違い」


 黒鬼が静かに助け船を出す。


「寝ぼけてたから、大きく見えた」


「そ、そうそう! 黒鬼の言うとおりや!」


 少女は納得したのか分からない表情のまま、料理をテーブルへ並べた。


 ほどなくして、少女の母親も残りの料理を運んでくる。


 朝食は、香草を練り込んだ焼きたての丸パンと、刻んだ野菜や豆、燻製肉を煮込んだ具だくさんのスープだった。さらに、木の実を混ぜた卵焼きと、甘く煮た赤い果実も添えられている。


 焼きたてのパンをちぎると、白い湯気とともに香草の爽やかな香りが広がった。


「おいしい」


 フェルンは早速パンをスープへ浸して口へ運び、狼耳を嬉しそうに動かす。


「ほんまや。昨日の夕食も旨かったけど、朝飯もええなぁ」


「シルフ。食べながら喋らない」


「黒鬼、今朝はいつも以上に厳しない?」


「気のせい」


 黒鬼はそう答えながら、シルフの前へ布巾を置いた。


 気まずかった空気も、温かな料理を食べているうちに少しずつ和らいでいった。


     ◇


 朝食を終えた一行は、村の冒険者ギルドへ向かった。


 ギルドは三毛猫亭のすぐ隣に建っていた。


 看板がなければ、普通の民家と見分けがつかないほど小さな建物である。


「ここがギルドなん?」


「そう書いてあるな」


 入口脇に掲げられた看板には、かすれた文字で『イル村冒険者ギルド出張所』と記されていた。


 中へ入ると、正面に短いカウンターがあり、壁際に古びたテーブルと椅子が数脚置かれているだけだった。


 奥の壁には依頼を掲示する板があるが、貼られている依頼書も数枚しかない。


 カウンターには、一人の女性が座っていた。


 肩まで伸びた青みがかった黒髪に、整った顔立ち。美人ではあるものの、頬杖をつき、眠たそうに何もない宙を眺めている。


 シグマたちが入ってきても、姿勢を変えようとしない。


「おはようございます」


 シグマが声をかける。


「……おはよう」


 女性は気だるそうに返した。


「昨夜、宿で魔物の増加と、盗賊討伐の依頼が出ていると聞きました。詳しい話を伺いたいのですが」


「あそこ」


 女性は掲示板を指さした。


「依頼書が貼ってあるから、自分で探して」


 全員の表情が固まる。


「詳しい状況を確認したいんです。魔物の種類や数、盗賊が目撃された場所など、分かっていることはありませんか?」


「依頼書に書いてなければ、知らない」


 女性はシグマを見ることすらなく、欠伸をした。


 紅蓮の眉が吊り上がる。


「おい。さすがにその態度は何だ」


「別に。受付はしている」


「話を聞くことも受付の仕事ではないのか?」


「面倒」


「貴様……!」


「紅蓮、落ち着け」


 シグマが止めるものの、今度はシルフが前へ出た。


「うちら、困っとる村のために依頼を受けようとしてるんやで? もうちょっと説明してくれてもええやろ」


「だから、掲示板を見て」


「なんやその態度!」


 紅蓮とシルフの声がギルド内に響く。


 それでも女性は頬杖をついたまま、面倒そうに目を細めるだけだった。


 そのとき、建物の奥から重い足音が聞こえてきた。


「マリンッ!」


 腹の底まで響く大声とともに、筋骨隆々の大男が姿を現す。


 短く刈り込んだ茶色の髪に、丸太のように太い腕。左頬には大きな傷痕が走っている。


 男はカウンターまで歩いてくると、受付の女性の首根っこを掴み、そのまま猫のように持ち上げた。


「客人に何という態度を取っている!」


「うるさい、ギルベルト。朝から大声を出さないで」


「お前が真面目に働かんからだろうが!」


「働いてる」


「掲示板を指さしただけだろう!」


「場所を教えた」


「それを働いたとは言わん!」


 ギルベルトと呼ばれた男の声で、窓が小刻みに震える。


 しばらく妻を説教したあと、男はマリンを床へ下ろし、シグマたちへ深く頭を下げた。


「すまなかった! 俺はギルベルト! この出張所のギルドマスターをしている!」


 声が大きすぎて、フェルンが両耳を押さえる。


「ギルベルト。もう少し静かに」


「おお、すまん!」


 注意されても、あまり声量は変わっていない。


「それで、こいつが妻のマリンだ!」


「……よろしく」


 マリンはまったく反省した様子もなく、気だるそうに片手を上げた。


「この辺りは危険な依頼が少なかったから、村に留まっている冒険者も数人しかいない! 最近は魔物と盗賊が同時に出てきて、人手がまるで足りていなかったんだ! 依頼を受けてくれるというなら、本当に助かる!」


 ギルベルトの説明を聞き、シグマは昨夜、三毛猫亭の女将から聞いた話を伝えた。


「どちらの依頼も、できる限り引き受けたいと考えています」


「本当か!?」


 ギルベルトの大声が再び室内を揺らす。


「おお、ありがたい! 少し待っていてくれ!」


 ギルベルトは奥へ駆け込み、二枚の依頼書を持って戻ってきた。


 一枚は盗賊討伐。


 報酬は銀貨五枚。


 もう一枚は村周辺に現れる魔物の討伐で、報酬は銀貨三枚と記されている。


 依頼書を見た紅蓮は眉をひそめた。


「討伐依頼にしては、あまりにも報酬が低くないか?」


「……そのとおりだ」


 先ほどまで豪快だったギルベルトの表情が曇る。


「この村には大きな産業がない。畑と林業で、どうにか暮らしているような小さな村だ。村の蓄えから出せるのは、これが限界だった」


「盗賊について、分かっていることを教えてください」


 シグマが尋ねると、ギルベルトは地図を広げた。


「盗賊は村の西にある森を根城にしている。森の奥には、昔この辺りを守っていた小さな砦があるんだ。今は半分崩れているが、連中はそこへ住み着いている」


「人数は?」


「村人の目撃情報では三十人前後だ。畑へ向かう者を脅したり、村へ運ばれる荷物を奪ったりしている。幸い、今のところ死者は出ていない。だが、このままではいずれ被害が出る」


「魔物の方は?」


「一角ウサギ、黒鼠、黒ガラス、それにゴブリンだ。南の森から次々と現れる。今は村の男たちと、ここに住み着いている冒険者が追い払っているが、畑を守るだけで精一杯だ」


 ギルベルトは地図に置いた太い指を握り締めた。


「できれば、先に盗賊を頼みたい。魔物と戦える者を、盗賊への警戒にも回さなければならない状態なんだ」


 シグマは仲間たちを見る。


 紅蓮が頷き、白鬼と黒鬼も異論はない様子だった。


「分かりました。まず盗賊を討伐します」


「頼む!」


 受領書と詳しい地図を受け取った一行は、すぐに三毛猫亭へ戻った。


 宿の裏手で預かってもらっていた馬車を受け取り、西の森へ向かう。


     ◇


 西の森までは、馬車でそれほど時間はかからなかった。


 しかし、砦へ続く道は木々の根や下草に覆われており、馬車で進むことは難しい。


「ここからは歩きだな」


 シグマは御者台から下り、森の奥を見た。


 フェルンだけを馬車へ残すわけにはいかない。


 かといって、盗賊の砦へ連れていくこともできなかった。


「フェルン。ハクと一緒に、ここで待っていてくれるか?」


「ハク、来る?」


「ああ」


 シグマは目を閉じ、ハクへ意識を向けた。


 頭の中で、その名を呼ぶ。


 直後、馬車の横に淡い光が集まり始めた。


 土の上へ複雑な模様を描く魔法陣が現れ、光が一際強くなる。


 次の瞬間、白銀の巨大な狼が魔法陣から勢いよく飛び出してきた。


 着地と同時に、柔らかな毛が大きく揺れる。


「ハク!」


 フェルンは真っ先に駆け出し、ハクの首元へ抱きついた。


『急に呼ばれたと思えば、随分と辺鄙な場所に来たものだな』


「悪いな。力を貸してほしい」


 ハクの声が、念話でシグマの頭へ届く。


 その一方で、紅蓮たちは驚いたまま魔法陣の跡を見つめていた。


「待て、シグマ」


 紅蓮が目を見開く。


「ハクをこのような形で呼び出せたのか?」


「俺も知らなかった」


「知らんかったん!?」


 シルフが声を上げた。


「前は森から走ってきたやん! なんで急に魔法陣から出てくるようになったん?」


「契約を結んでから時間が経って、つながりが強くなったのかもしれない」


『私にも詳しくは分からん。呼ばれたと思ったら、目の前に道が開いた』


 ハク自身にも分からないらしい。


 シルフはハクが来ると聞いたときから、どこか落ち着かない様子だった。


「なあ、うちも触ってええ?」


 シルフが両手を広げながらハクへ近づこうとする。


 その襟首を紅蓮が掴んだ。


「遊びに来たわけではない」


「ちょっとくらいええやん!」


「戻ってからにしろ」


 シルフは不満そうに手足をばたつかせた。


 シグマはハクの前へ立つ。


「ハク。フェルンと馬車、それからノクスとソルを守ってほしい」


『任せろ。この辺りの者に後れを取るつもりはない』


「フェルンも、ここから離れないようにな」


「分かった」


「危険を感じたら、すぐにハクのそばへ行くんだ」


「シグマも気をつけて」


「ああ。なるべく早く戻る」


 フェルンの頭を撫でてから、シグマたち五人は森へ入った。


     ◇


 森の奥へ進むにつれ、人が通った痕跡が増えていった。


 踏み潰された草。


 折られた枝。


 ぬかるんだ地面には、複数の足跡が残されている。


 やがて木々の隙間から、崩れかけた石壁が見えてきた。


 砦である。


 外壁の半分は崩れ、見張り台も大きく傾いている。それでも正面の門には新しい板が打ちつけられ、簡単な補修が施されていた。


 見張り台に二人。


 正門付近に三人。


 崩れた外壁の上にも弓を持った男がいる。


「見えているだけで六人やな」


 シルフが木の陰から砦を覗く。


「中に何人いるかは分からない」


 紅蓮は周囲を確認した。


 森に近づく者を警戒しているのか、見張りの配置が多い。


 砦の裏手へ回り込もうにも、崩れた壁の周囲には音の鳴る金属片や枝が置かれていた。


「少し離れよう」


 一行は一度引き返し、砦から距離を取った場所で作戦を立てる。


「裏から忍び込むのは難しそうだな」


 紅蓮が地面へ簡単な見取り図を描いた。


「隠れて入っても、いずれ見つかる。ならば、正面から一気に制圧する方がいい」


「うちが見張りを射る。殺さん程度にな」


「私と黒鬼が弓を持っている盗賊を抑えるよ」


「……前は任せて」


 白鬼と黒鬼が続く。


 シグマは地面の見取り図を見つめた。


「逃げ道は残さない方がいい。正面から追い込めば、崩れた裏側から森へ逃げる者が出る」


「なら、白鬼に裏手を塞いでもらおう。炎は使うな。森へ燃え移る」


「風と土で塞ぐよ」


「俺は正面から入る。紅蓮は突破口を開いてくれ。シルフと黒鬼は後方支援を頼む」


「決まりだな」


 紅蓮が立ち上がり、大剣を背負い直した。


     ◇


 最初に動いたのはシルフだった。


 木の陰から放たれた三本の矢が、見張りたちの武器だけを正確に弾き飛ばす。


「敵襲だ!」


 盗賊の叫び声が上がった。


 鐘を鳴らそうとした男の足元へ、四本目の矢が突き刺さる。


「今だ!」


 紅蓮が森から飛び出した。


 正門前の盗賊たちが剣を構えるが、そのまま大剣の腹でまとめて薙ぎ払われる。


 男たちは地面を転がり、積まれていた木箱へ突っ込んだ。


 シグマも門をくぐり、左右から迫る盗賊を迎え撃つ。


 一人目の剣を義手で受け止め、腹へ拳を打ち込む。


 二人目の足を払い、倒れたところを軽く蹴って意識を奪った。


「こいつら、五人しかいねえぞ! 囲め!」


 砦の中から、次々と盗賊が飛び出してくる。


 確かに一人一人は強くない。


 剣の振り方も荒く、連携も取れていなかった。


 しかし、とにかく数が多かった。


「後ろからも来るで!」


 シルフの警告と同時に、建物の窓から矢が飛んできた。


 黒鬼が光の壁を展開し、矢を弾く。


「……前だけ見ないで」


「助かった!」


 紅蓮が大剣を振り回すたび、盗賊がまとめて吹き飛ぶ。


 だが、狭い砦内では得物が大きすぎた。


 味方や建物に当てないよう加減する必要があり、普段のように思い切り振るえない。


「鬱陶しい!」


 紅蓮の背後へ男が飛びかかる。


 シグマが割って入り、その腕を掴んで投げ飛ばした。


 ところが、倒れた盗賊を避けた直後、別の男が桶を投げつけてきた。


 桶そのものは当たらなかったが、中に入っていた泥水がシグマの頭から降りかかる。


「…………」


「シグマ、すごい顔やで」


「分かっている」


 泥水を拭う暇もなく、今度は三人の盗賊が長い棒を持って突進してきた。


 シグマは一本目を受け止めたものの、残る二本が身体へ絡みつく。


「捕まえたぞ!」


「そのまま押さえろ!」


「シグマ!」


 白鬼が風を起こした。


 三人の身体が横から吹き飛ばされ、砦の壁へ重なるように激突する。


「数だけは本当に多いね!」


 白鬼は頬を膨らませながら、土の壁で裏手の穴を塞いだ。


 逃げようとした盗賊たちは引き返し、再び砦の中央へ集まってくる。


「囲め! 一人ずつ潰せ!」


 盗賊の一人が叫ぶ。


 その指示どおり、十人近い男たちが紅蓮へ殺到した。


「数でどうにかなると思うな!」


 紅蓮は大剣を地面へ突き立てた。


 衝撃で土が揺れ、盗賊たちが一斉に体勢を崩す。


 そこへシグマが飛び込んだ。


 拳。


 蹴り。


 肘打ち。


 狭い空間を縫うように動き、盗賊たちを一人ずつ気絶させていく。


 だが、ようやく数が減ったと思ったところで、地下へ続く扉が開いた。


「まだおるんかい!」


 シルフが思わず叫ぶ。


 新たに十人ほどの盗賊が飛び出してきた。


「ギルベルトの話より多いな」


「四十人近くいるぞ!」


 紅蓮の声に、シグマは苦笑した。


「弱いのが救いだな」


「弱くても、これだけいれば面倒だ!」


 その後も戦いは続いた。


 盗賊は砦にある箱や樽を投げつけ、縄を使って足を絡め、建物の窓や屋根から奇襲を仕掛けてくる。


 一度はシルフの足へ縄が絡み、逆さに吊り上げられた。


「ちょお待って! なんでこんな罠があんねん!」


「動かないで」


 黒鬼が縄だけを光の刃で切断する。


 落ちてきたシルフをシグマが受け止めた。


「助かったわ……って、泥まみれやん」


「誰のせいで受け止めたと思っているんだ」


「それとこれとは別や」


 その直後、倒れたふりをしていた盗賊が突然短剣を抜き、シルフへ襲いかかろうとした。


 だが、男は黒鬼が咄嗟に張った光の壁へ顔から激突し、そのまま再び意識を失った。


「……油断しないで」


「黒鬼、助かったわ」


「二回目」


「帰ったら甘いもん奢るから」


「二つ」


「増えとるやん!」


 盗賊たちの実力は低かった。


 それでも、数と砦の構造を利用した抵抗により、一行は予想以上に手間取ることになった。


 最後の一人が紅蓮の大剣の腹で弾き飛ばされ、地面へ倒れる。


 砦へ入ってから、半刻近くが経過していた。


「……終わったか?」


 紅蓮が息を整えながら周囲を見る。


 地面には、気絶した盗賊たちが折り重なるように倒れていた。


 砦の中を調べると、地下には古い牢屋が残されていた。


 幸い、捕らえられている村人や旅人はいない。


 シグマたちは盗賊たちの武器を一か所に集め、全員の手足を縄で縛った。


 縄を結び終えた者から順番に地下へ運ぶ。


「三十九……四十……」


 白鬼が数を確認する。


「こっちに二人いる」


 黒鬼が気絶している盗賊を引きずってきた。


「これで四十二人だね」


「聞いていた人数より随分多いな」


「最近、別の集団と合流したのかもしれない」


 紅蓮は捕らえた大男の装備を調べる。


 どれも使い古された武器ばかりで、不審な魔道具などは見つからなかった。


「この男が、後から合流した集団の頭だった可能性はあるな」


「詳しいことは、ギルドで調べてもらうしかない」


 牢の中に刃物や縄を切れそうな物が残っていないか確認し、盗賊たちを二つの牢へ分けて入れる。


 さらに、手の届かない廊下へ武器をまとめ、牢の鍵を閉めた。


「白鬼。扉の前を補強できるか?」


「完全に塞ぐと村の人たちが開けられないから、扉の外側だけ固めるね」


 白鬼が手をかざす。


 牢の蝶番と錠前の周囲を覆うように土が盛り上がり、やがて硬い岩へ変わった。通気口は残し、鍵を持ってきた村人たちが外側から土を崩せる程度に留める。


「これなら、内側から壊すのは難しいと思う」


「縄を解かれても、すぐには出られないな」


 シグマは牢の扉を何度も引き、開かないことを確かめた。


 それから盗賊の人数、負傷の程度、牢の場所を地図へ書き込む。


「長居はできない。意識を取り戻す前に村へ戻ろう」


「ああ。ギルベルトたちに早く回収へ来てもらう必要がある」


 一行は最後に砦内を確認し、西の森の入口へ戻った。


     ◇


 木々の間から馬車が見えてくる。


 その前では、フェルンとノクス、ソル、ハクが遊んでいた。


 フェルンが投げた木の枝を、ノクスとソルが翼を広げて追いかけている。


 ハクはその様子を伏せたまま眺め、二羽が危ない方向へ進みそうになると、尻尾でそっと押し戻していた。


「平和やなぁ……」


 先ほどまで盗賊と戦っていたことを忘れそうな光景だった。


 紅蓮も目元を和らげる。


「随分と仲良くなったようだ」


「ノクスとソルの遊び相手というより、子守りに見えるね」


 白鬼が笑う。


 フェルンがこちらへ気づいた。


「シグマ!」


 そのまま全力で駆け出し、シグマの腹へ飛びつく。


「ただいま」


「怪我は?」


「ない。少し泥水を被っただけだ」


 フェルンが鼻を近づける。


「泥の匂い」


「嗅がなくても分かるだろ」


 ノクスとソルも翼をばたつかせながら近づいてくる。


 最後にハクがゆっくりと歩み寄った。


『随分と早かったな』


「数は多かったが、一人一人はそれほど強くなかった。変な罠が多くて、少し手間取ったけどな」


『その泥は罠か?』


「桶を投げられた」


『見事にやられたものだな』


「笑うな」


『笑ってはいない』


「その顔で言われても信用できないな」


 ハクは口を閉じているが、どことなく楽しそうだった。


「なあ、今度こそ触ってええ?」


 シルフが恐る恐る手を上げる。


『好きにしろ』


「ほんま!?」


 許可を得たシルフが、嬉しそうにハクの首元へ抱きつく。


「うわぁ……やっぱり、ふわっふわや!」


『少し苦しい』


「シルフ、ハクが困ってる」


「フェルンは抱きついとったやん!」


「フェルンはいい」


「なんでやねん!」


 シグマは苦笑しながらハクの首元を撫でた。


「助かった。ありがとう」


『この程度なら、いつでも呼べ』


「次も同じように呼べるかは分からないけどな」


『呼ばれれば応える。道を開くのはお前の役目だ』


 その言葉を残し、ハクはシグマから少し離れた。


 足元へ再び魔法陣が現れる。


「もう帰るん?」


『森を長く空けるわけにはいかん。また呼べ』


 白い光に包まれた巨体は、森の風へ溶けるように姿を消した。


 その場には、微かに光る魔法陣の残滓だけが残った。


     ◇


 イル村へ戻った頃には、ちょうど昼を迎えていた。


 シグマたちがギルドへ入ると、ギルベルトが目を丸くした。


「まさか、砦を見つけられなかったのか!?」


「いえ。盗賊は全員捕らえました」


「……何?」


「砦の地下にあった牢へ入れています。確認できたのは四十二人です」


「よ、四十二人!?」


 ギルベルトの大声が響く。


 フェルンが両耳を塞いだ。


「声」


「お、おお……すまん。しかし、四十二人だぞ!? 本当に全員捕らえたのか?」


「はい。聞いていた人数より多かったので、別の集団と合流した可能性があります。全員の手足を縛り、武器も一か所に集めました」


「牢の入口は白鬼が補強している。内側から逃げ出すのは難しいはずだ」


 紅蓮が地図をカウンターへ広げる。


「だが、いつまでも放置はできない。意識を取り戻せば、何をするか分からん」


「分かった。すぐに人を集める!」


 ギルベルトはしばらく口を開けたまま固まっていたが、やがて我に返ると奥へ向かって叫んだ。


「マリン! 村長へ知らせてくる! 男たちと馬車を集めなければならん!」


「いってらっしゃい」


「お前も手伝え!」


「受付がいなくなる」


「こんなときだけ真面目なことを言うな!」


「留守中に依頼人が来たら困る」


「朝は掲示板を指さしただけだっただろう!」


「今は働いてる」


「どの口が言う!」


 ギルベルトは頭を抱えたが、言い争っている時間も惜しかったらしい。


 数人の村人を呼び集め、複数の馬車を準備して西の森へ向かった。


 残されたマリンは、机の引き出しから銀貨五枚を取り出す。


「盗賊討伐の報酬」


 机の上へ置く動作まで気だるそうだった。


「盗賊個人に懸けられている賞金については、身元の確認が終わってから。たぶん、明日か明後日」


「分かりました」


「受け取るなら、また来て」


「……相変わらずの態度だな」


 紅蓮が低い声で呟く。


 マリンは聞こえているはずだが、まったく反応しない。


「もう一つの依頼も受けます」


 シグマが告げると、マリンは用意されていた受領書を差し出した。


「南の森から出てくる魔物の討伐。種類と数は問わない。村周辺の安全が確認できれば達成」


「討伐部位は必要ですか?」


「ゴブリンは右耳。ほかは角、前歯、くちばし。面倒なら倒した場所を教えて。ギルベルトが確認する」


 最低限の説明はしてくれた。


「意外とちゃんと受付できるやん」


 シルフが漏らす。


「今のは褒め言葉?」


「半分くらいは」


「そう」


「怒らんのかい」


「面倒だから」


「ほんまにぶれへんなぁ……」


 マリンは気にする様子もなく、再び頬杖をついた。


     ◇


 一行は昼食と休憩を兼ね、一度三毛猫亭へ戻ることにした。


 扉を開くと、カウンターの奥から少女が顔を出す。


「あっ、お帰りなさい!」


 少女は嬉しそうに駆け寄ってきた。


「ずいぶん早いお帰りですね。依頼はどうでした?」


「盗賊は全員捕まえたで」


「もう!?」


 少女の声を聞きつけ、厨房から母親も姿を現した。


「本当ですか?」


「はい。今、ギルベルトさんたちが砦へ向かっています」


 シグマが答えると、母親は口元を押さえた。


 驚きのあと、その表情に深い安堵が広がる。


「よかった……」


 その声は小さく震えていた。


「西の森に盗賊が住み着いてから、村の外へ出るのが怖くなっていたんです。薪や食材を運んでくださる方まで襲われるようになって、このままでは宿を続けられなくなるのではないかと……」


 少女も、安心したように胸へ手を当てた。


「これで、村のみんなも安心して森へ行けますね」


 たった銀貨五枚の依頼。


 報酬だけを見れば、危険に見合っていない。


 しかし、この母娘にとって、盗賊がいなくなることは、暮らしを守るだけでなく、亡き父が残した三毛猫亭を守ることにもつながっていた。


 紅蓮もそれを感じ取ったのか、先ほど報酬の低さを指摘したときとは違い、静かに目を伏せている。


「報酬だけを見て判断するものではないな」


 紅蓮が小さく呟く。


「ん? 何か言った?」


 白鬼に尋ねられ、紅蓮は首を振った。


「いや、何でもない」


「まだ南の森の魔物が残っています」


 シグマは少女と目線を合わせる。


「そちらも今日中に、できるだけ減らしてきます」


「気をつけてくださいね」


「ああ」


 母親は昼食として、硬めのパンに燻製肉と野菜を挟んだものを用意してくれた。


 さらに、塩漬けにした果実と水筒も渡される。


「料金は――」


「いりません」


 シグマが硬貨を出そうとすると、母親は首を振った。


「村を助けてもらっているんです。これくらいはさせてください」


 シグマは少し迷ったあと、素直に受け取った。


「ありがとうございます」


「泥を落とすなら、裏の井戸を使ってください。お湯も用意しますから」


「助かります」


 シグマが井戸へ向かおうとすると、フェルンも当然のようについてくる。


「フェルンは中で待っていてくれ」


「手伝う」


「着替えるだけだから大丈夫だ」


「水をかける」


「余計に泥だらけになりそうだから、待っていてくれ」


「フェルンなら上手」


「そういう問題じゃない」


 そのやり取りを見ていた少女が、楽しそうに笑った。


     ◇


 短い休憩を終え、一行は南の森へ向かった。


 村の南側には畑が広がっていた。


 しかし、森に近い畑では作物が踏み荒らされ、ところどころ土が掘り返されている。


 柵にも大きな隙間ができていた。


 数人の村人が槍や農具を持ち、畑の周囲を見張っている。


 その中には、革鎧を着た三人の冒険者もいた。


「依頼を受けてくれた冒険者か?」


 白髪交じりの男性が声をかけてきた。


「はい。状況を教えてもらえますか?」


「朝方、黒鼠の群れを追い払った。だが、森の中にはまだ相当数いる。最近は魔物同士が争わず、一緒になって村へ向かってくることもあるんだ」


「種類の違う魔物が?」


「ああ。今まではそんなことはなかった。黒鼠の後ろを一角ウサギが走り、その上を黒ガラスが飛んでいた。互いに襲うこともなく、まっすぐ畑へ向かってきたんだ」


 シグマと紅蓮は顔を見合わせた。


 単に数が増えているだけではないらしい。


「巣を追われた可能性は?」


「分からん。だが、大型の魔物を見たという話はない」


「シルフ。森の中を確認できるか?」


「任せとき」


 シルフの瞳が淡い緑色に輝く。


 神の目を使い、木々の向こうへ意識を集中させた。


「……おるな。黒鼠が十二。一角ウサギが七。木の上に黒ガラスがぎょうさんおる。もう少し奥には、ゴブリンも見えるで」


「まとまっているのか?」


「いや、今は別々や。けど、どれも同じ方向へ動いとる」


 シルフが指したのは、村の方向だった。


「このまま待ち構えてもいいが、畑へ出られると被害が出る」


 紅蓮が大剣を抜く。


「森の中で仕留めよう」


 シグマはフェルンを見る。


 三毛猫亭へ残す案も考えたが、魔物が村を目指している以上、宿が確実に安全とは言い切れない。


 それならば、黒鬼の防御と治療をすぐに受けられる場所にいた方が安全である。


「フェルン。森へ入ったら、黒鬼のそばから離れないこと。何があっても一人で動くな」


「分かった」


「危ないと思ったら、すぐに声を出すんだ」


「うん」


「黒鬼、頼めるか?」


「……任せて」


「俺たちが森へ入ります。皆さんは畑を守ってください。もし森から別の魔物が出たら、無理に戦わず声を上げてください」


 村人たちへ告げ、シグマたちは南の森へ入った。


     ◇


 森の中には、不自然な静けさが広がっていた。


 魔物の足跡は多い。


 地面のいたるところに黒鼠の小さな足跡が残り、木の幹には一角ウサギの角で削られた痕もある。


 それにもかかわらず、争った痕跡はほとんど見つからない。


「ほんまに妙やな」


 シルフが周囲を見回す。


「この数が同じ場所におったら、普通は餌や縄張りの取り合いになるはずや」


「仲良くなったわけではないよね?」


 白鬼が尋ねる。


「魔物同士が急に仲良しになったなんて話、聞いたことあらへん」


 そのとき、前方の下草が大きく揺れた。


「来るぞ!」


 紅蓮が大剣を構える。


 最初に現れたのは、黒鼠の群れだった。


 犬ほどの大きさを持つ黒い鼠が、下草を掻き分けながら迫ってくる。


「フェルン、俺の後ろへ」


「うん」


 シグマが前へ出た。


 一匹目を蹴り飛ばし、飛びかかってきた二匹目を義手で払い落とす。


 左右へ回り込んだ黒鼠は、白鬼が作り出した風の壁に弾かれた。


「右から来るよ!」


 白鬼の声に合わせ、紅蓮が大剣を横薙ぎに振るう。


 群れは瞬く間に数を減らした。


 しかし、黒鼠たちは逃げなかった。


 仲間が倒れても構わず、シグマたちの横をすり抜けようとする。


「こいつら、俺たちを狙っていない」


「村へ行こうとしているのか!」


 紅蓮が最後の一匹を大剣で薙ぎ払う。


 間を置かず、前方から何かが木へぶつかる音が続いた。


「次、一角ウサギが来るで!」


 シルフの警告と同時に、額から鋭い角を伸ばした魔物が木々の間から跳び出してきた。


「真っ直ぐしか来ないなら、狙いやすいな」


 シルフの矢が先頭の一匹の角へ命中する。


 体勢を崩した一角ウサギを、シグマが蹴り飛ばした。


 その背後から、二匹、三匹と続けて飛び込んでくる。


「白鬼、左を頼む!」


「任せて!」


 風が巻き起こり、一角ウサギの進路を僅かに逸らす。


 木へ角を突き立て、動けなくなったところを紅蓮が仕留めた。


 戦闘そのものは難しくない。


 だが、魔物たちの行動には明らかな異常があった。


 黒鼠が倒れた直後に一角ウサギが現れた。


 まるで前の群れが作った隙間を通るかのように、同じ経路を使って村へ向かっている。


「偶然にしては、動きが揃いすぎているな」


「次が来る!」


 木々の上から甲高い鳴き声が響いた。


 無数の黒い影が枝から飛び立つ。


 黒ガラスの群れである。


 黒ガラスは翼を大きく広げ、羽根を矢のように放った。


「黒鬼!」


「……任せて」


 光の壁が頭上に広がり、降り注ぐ黒い羽根を弾く。


「数が多い!」


「木の陰に隠れられると狙いにくいな!」


 シルフが矢を放つ。


 一羽を撃ち落とした直後、別の黒ガラスが横から飛び込み、その視界を翼で覆った。


「うわっ、鬱陶しい!」


 シルフが腕で顔を庇う。


 同時に、前方の茂みからゴブリンたちが姿を現した。


 粗末な棍棒や石斧を手にしている。


「今度は同時か!」


 紅蓮がゴブリンの集団へ飛び込む。


 大剣を横薙ぎに振るい、先頭の三体をまとめて吹き飛ばした。


 しかし、残りのゴブリンは紅蓮を避け、左右へ分かれた。


「こいつら、回り込んでくる!」


 白鬼が風を起こし、右から迫ったゴブリンを押し戻す。


 その隙に黒ガラスが急降下し、黒鬼の光の壁へ体当たりした。


 一羽だけではない。


 二羽、三羽と続けて同じ場所へぶつかり、光の壁を揺らす。


「黒鬼、大丈夫か?」


「まだ平気。でも……同じ場所を狙ってる」


 その言葉どおり、黒ガラスたちは一点へ攻撃を集中させていた。


 そこへ左から黒鼠が飛び出した。


「まだ残ってたんか!」


 黒鼠は戦っているシグマたちには目もくれず、黒鬼の光の壁へ飛びかかる。


 鋭い前歯が、黒ガラスの攻撃で揺らいだ場所へ食い込んだ。


 光の壁に小さな亀裂が走る。


「黒鬼!」


「……下がって!」


 黒鬼が壁を張り直そうとする。


 だが、その一瞬を狙うように、一角ウサギが木々の隙間から飛び出した。


 角の先が向いているのは、黒鬼ではない。


 そのすぐ後ろにいるフェルンだった。


「フェルン!」


 シグマは目の前のゴブリンを殴り飛ばし、地面を蹴った。


 しかし、一角ウサギとの距離が近すぎる。


 黒鬼も咄嗟にフェルンを抱き寄せたが、光の壁を維持しているため動けない。


「シグマ!」


 フェルンの叫びが響く。


 その瞬間、地面から土の壁が突き出した。


 一角ウサギの角が土壁を貫く。


 勢いは止まり切らず、壁に亀裂が走った。


 それでも、ほんの僅かな時間が生まれた。


 シグマは土壁を飛び越え、一角ウサギの角を左の義手で掴む。


 凄まじい衝撃が腕から肩へ突き抜けた。


 足元の土が大きく抉れる。


「止まれ!」


 シグマは身体を捻り、一角ウサギを横の木へ叩きつけた。


 その背後から、ゴブリンが石斧を振り上げて迫る。


 フェルンがいち早く気づいた。


「後ろ!」


 シグマが振り返るより先に、一本の矢がゴブリンの手から石斧を弾き飛ばした。


「フェルンばっか見てんと、自分の後ろも見ぃ!」


 シルフが続けて矢を放つ。


 矢は風をまとい、枝の間で無数の細い風へ分かれた。


 黒ガラスが次々と地面へ落ちてくる。


 黒鬼はフェルンを抱いたまま後退し、光の壁を張り直す。


「白鬼、黒鼠を止めて!」


「分かった!」


 地面が盛り上がり、黒鼠たちの進路を塞ぐ。


 行き場を失った群れへ、紅蓮が飛び込んだ。


「一体も村へ通すな!」


 大剣が唸り、黒鼠とゴブリンがまとめて吹き飛ばされる。


 シグマも体勢を立て直し、残った魔物へ向かった。


 拳でゴブリンを倒す。


 蹴りで黒鼠を弾き飛ばす。


 頭上から迫った黒ガラスは義手で払い落とした。


 白鬼の風が魔物を一か所へ集め、紅蓮の一撃が地面を揺らす。


 最後に残った一角ウサギの角をシルフの矢が弾き、シグマがその身体を地面へ叩きつけた。


 やがて、森に静けさが戻った。


     ◇


「フェルン、怪我はないか?」


 シグマはすぐにフェルンの前へ膝をついた。


「大丈夫」


「本当に?」


「うん。黒鬼が守ってくれた」


「……怖かった?」


 黒鬼が心配そうに尋ねる。


 フェルンは少し迷ったあと、小さく頷いた。


「でも、逃げなかった」


「逃げてもよかったんだぞ」


「シグマが来てくれると思った」


 まっすぐに見つめられ、シグマは言葉を失う。


 安心させられたことは嬉しい。


 しかし、それが無謀な行動へつながってはならない。


「次は、危ないと思ったら先に逃げるんだ。俺が間に合うとは限らない」


「シグマは来た」


「今回はな」


 シグマはフェルンの両肩へ手を置いた。


「逃げることは悪いことじゃない。自分の身を守ることも、俺たちを助けることになる。分かるか?」


 フェルンは不満そうに唇を尖らせたが、やがて頷いた。


「分かった」


「黒鬼も、ありがとう」


「……フェルンが無事ならいい」


「それにしても、今の動きは何だったんや?」


 シルフが地面に倒れた魔物たちを見回す。


「黒ガラスが壁を揺らして、黒鼠が同じ場所を壊した。その隙に一角ウサギが突っ込んできた」


「偶然とは思えないな」


 紅蓮が大剣についた汚れを払う。


「ゴブリンも私たちの前衛を避け、黒鬼たちへ回り込もうとしていた。まるで役割を分けていたように見えたぞ」


「違う種類の魔物が連携していたってこと?」


 白鬼の問いに、シルフはすぐには答えなかった。


 再び神の目を使い、森のさらに奥を見つめる。


 やがて、その表情が次第に曇っていった。


「妙やな……」


「どうした?」


「魔物が村へ向かって移動しとったんは確かや。でも、巣が荒らされたようには見えへん」


「何かに追われていたわけではない?」


「たぶん違う。大型の魔物も見えへんし、森が焼けたり、餌がなくなった様子もない」


 シルフは片目を細めた。


「もっと奥から、微かに魔力の流れを感じる。強いもんやない。でも……魔物をこっちへ呼び寄せとるようにも見える」


「魔物を操っている者がいるのか?」


「そこまでは分からん。うちの目でも、奥は木が密集しすぎて見通せへん」


 森を吹き抜けた風が、木々の葉を揺らす。


 先ほどまで聞こえていた鳥の声が、いつの間にか消えていた。


 シグマは薄暗い森の奥を見つめる。


 種類の異なる魔物が、争うこともなく同じ村を目指していた。


 巣を追われた様子もなく、餌を求めているようにも見えない。


 それでも、まるで何かに呼ばれているかのように、魔物たちは森の外へ向かっている。


 偶然で片づけるには、あまりにも不自然だった。


「今日はこれ以上、奥へ進まない方がいい」


 紅蓮が静かに告げた。


「盗賊との戦いを終えたばかりだ。森の地形も把握できていない。原因を調べるなら、準備を整えてからにするべきだ」


「ああ」


 シグマも頷いた。


 旅を急ぐ必要はある。


 それでも、何かが起きていると知りながら、この村を置いていくことはできなかった。


「一度村へ戻ろう。今日の討伐分を報告して、明日の朝、改めて森の奥を調べる」


「やっぱり行くんやな」


 シルフが苦笑する。


「シルフは反対か?」


「まさか。シグマならそう言うと思っとっただけや」


「私も異論はない」


 紅蓮が大剣を背負う。


「原因を放置すれば、また同じことが起きる。次は今日より多くの魔物が来るかもしれない」


「明日も調べるの?」


 フェルンが尋ねる。


「ああ。危険が残っているなら、そのままにはできないからな」


「なら、フェルンも手伝う」


「今日みたいなことがあったばかりだ。無理はしなくていい」


「無理じゃない」


 フェルンは真剣な表情で答えた。


「フェルン、魔物が来る前に気づいた。後ろも教えた」


「確かに助けられたな」


「だから、手伝える」


 シグマは少し考え、その頭へ手を置いた。


「分かった。ただし、俺たちの言うことは必ず聞くこと。危険だと言われたら、すぐに下がるんだ」


「うん」


「約束だぞ」


「約束する」


 フェルンは力強く頷いた。


     ◇


 村へ戻る頃には、空がわずかに赤みを帯び始めていた。


 畑を守っていた村人たちは、討伐した魔物の数を聞き、何度も頭を下げた。


 異なる種類の魔物が連携していたことを伝えると、白髪交じりの男性の表情が険しくなる。


「やはり、俺たちの見間違いではなかったのか……」


「今夜も見張りを続けてください。ただし、魔物が現れても無理に森へ入らないでください」


「分かった。村長とギルベルトにも伝える」


「明日の朝、俺たちが原因を調べます」


「そこまでしてもらって、本当にいいのか?」


「このままでは、安心して旅を続けられないからな」


 男は深く頭を下げた。


 踏み荒らされた畑の向こうでは、三毛猫亭の少女が母親と並び、こちらへ大きく手を振っている。


 今日一日で、西の森の盗賊と、村近くまで来ていた魔物は排除できた。


 少なくとも今夜は、村人たちも昨日より安心して眠れるだろう。


 だが、南の森の奥には、まだ何かが残っている。


 シグマが森を見つめていると、不意に奥の方から低い音が響いた。


 ぎしり。


 何か巨大なものが軋んだような音だった。


「……今の、聞こえたか?」


「ああ」


 紅蓮も森へ顔を向け、大剣の柄へ手を添える。


「木が倒れた音やないな」


 シルフの瞳が再び淡く輝く。


 しかし、すぐに首を横へ振った。


「駄目や。ここからやと何も見えへん」


 音は一度きりだった。


 森は再び、不気味なほどの静けさを取り戻している。


 夕暮れの風が畑を抜け、南の森へ吸い込まれていく。


 その風に混じって、胸の奥をざらつかせるような嫌な気配が漂ってきた。


「明日、確かめよう」


 シグマの言葉に、仲間たちが静かに頷く。


 静かなイル村を包む夕暮れの中。


 南の森だけが、これから訪れる夜を待ち構えるように、深く黒く沈んでいた。

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