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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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第十四話 別れの街と小さな宿

 朝の猫夜亭は、いつもと変わらない賑わいに包まれていた。


 食堂では冒険者たちが朝食をかき込み、受付には今日の依頼を探す者たちが集まっている。


 食器の触れ合う音。椅子を引く音。依頼書を眺めながら交わされる威勢のいい声。


 シグマたちが初めて訪れた日から、何度も目にしてきた光景だった。


 しかし、今日だけは少し違って見える。


 これから旅立つのだと思うと、普段なら聞き流していた喧騒さえ、妙に耳に残った。


「荷物は全部積んだんやろ?」


「ああ。忘れ物も確認した」


「ほんまに? うちの荷物も?」


「自分の荷物くらい自分で確認しろ」


「確認したうえで、人にも確認してもらう。これが二重確認っちゅうやつや」


 得意げに胸を張るシルフを見て、紅蓮が呆れたように息を吐く。


「お前の場合、最初の確認をしていないだろう」


「失礼やな。ちゃんとしたで」


「では、自分の水筒がどこにあるか言ってみろ」


「馬車の中や」


「お前の腰に下がっているのは何だ?」


「…………水筒やな」


 シルフは自分の腰を見下ろし、何事もなかったように笑った。


「ほら、ちゃんと持っとる


「本当に大丈夫か、こいつは……」


 そのやり取りを見ていた白鬼が声を立てて笑い、隣に立つ黒鬼も口元を緩める。


 フェルンだけは一歩離れたところから、不思議そうにシルフの腰を見ていた。


「シルフ、それ、二重確認じゃなくて忘れてただけ」


「フェルンまで紅蓮の味方するん?」


「わたし、正しいほうの味方」


「ぐうの音も出ぇへん……」


 肩を落とすシルフの横を通り、シグマは受付へ向かった。


 そこには、いつものようにリリアンヌが立っていた。


「皆さん、おそろいですね」


 リリアンヌは普段と変わらない柔らかな笑みを浮かべている。


「出発前に寄ってくださったんですか?」


「今まで世話になったから、最後に挨拶をしておこうと思って」


「最後だなんて言わないでください。またアルランカに来ることがあれば、いつでも立ち寄ってくださいね」


「ああ……」


 シグマは頷いたものの、うまく目を合わせられなかった。


 昨夜の出来事が頭をよぎる。


 それを意識しているのが自分だけのように思えて、余計に落ち着かない。


 対するリリアンヌは、本当にいつもどおりだった。身分証牌を確認するときと同じ穏やかな表情で、旅の無事を願ってくれている。


「シグマさん?」


「いや、何でもない」


「そうですか?」


 リリアンヌはわずかに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。


 そこへ、食堂からシルビアが駆け寄ってくる。


「間に合った!」


 両手には、小さな布袋をいくつか抱えていた。


「道中で食べられるように、焼き菓子を包んでおいた。あまり日持ちはしないから、今日か明日までに食べて」


「ありがとう。助かる」


 シグマが受け取ろうと手を伸ばした瞬間、シルビアの指先がぴくりと止まった。


 ほんの一瞬だけ視線が重なり、シルビアはわずかに頬を赤くする。


「……な、何?」


「いや……」


「変なシグマ。早く受け取って」


「ああ。悪い」


 布袋を受け取る際、互いの指先が触れそうになり、二人ともわずかに手を引いた。


 昨夜のことなど気にしていないように振る舞うシルビアだったが、普段より少しだけ声が上ずっている。


 とはいえ、シグマほど露骨に戸惑ってはいなかった。


「シグマ、顔が少し赤い」


 いつの間にか横に来ていたフェルンが、シグマの顔をじっと見上げていた。


「気のせいだ」


「熱がある?」


「ない」


「ほんと?」


「ああ」


 フェルンがさらに顔を近づけようとすると、シグマはそっと額を押さえて止めた。


「近い」


「確かめるだけ」


「大丈夫だから」


 その様子を見ていた白鬼が、何かに気づいたように目を細める。


 だが、白鬼が口を開くより先に、奥の扉からマリアが姿を現した。


「ずいぶん賑やかな別れの挨拶だね」


「マリアさん」


「湿っぽいのは性に合わないんだ。言いたいことは一つだけだよ」


 マリアは腕を組み、シグマたちを順番に見回した。


「生きて帰ってきな。依頼を果たすのも、目的地にたどり着くのも、その後だ」


 紅蓮が真剣な表情で頷く。


「承知しました」


「無茶をしそうな連中が多いからね。紅蓮、しっかり見張るんだよ」


「善処します」


「なあ、なんでうち見ながら言うん?」


「自覚があるなら直しな」


「うちだけやないやろ。シグマかて無茶するし、白鬼も勢いで飛び込むし」


「私はちゃんと考えてるよ?」


「悪巧みをやろ?」


「作戦って言って」


「二人とも、今はやめろ」


 紅蓮に止められ、シルフと白鬼は同時に顔を背ける。


 その息の合った様子に、周囲から笑いが起こった。


 マリアは呆れながらも、どこか安心したように微笑む。


「その調子なら、旅先でも退屈はしなさそうだね」


 最後に短い言葉を交わし、シグマたちは猫夜亭を出た。


 外には、荷物を積み終えた馬車が待っている。


 ノクスとソルはすでに馬具をつけられ、出発を待ちきれないように足踏みをしていた。


「待たせたな」


 シグマが首筋を撫でると、ソルが嬉しそうに頭を寄せる。


 一方のノクスは澄ました顔をしていたが、尾羽だけが小さく左右に揺れていた。


「ノクスも寂しかったんやな」


 シルフが手を伸ばすと、ノクスは素早く顔をそむける。


「なんでや。シグマには撫でさせるやん」


「日頃の行いだろう」


「鳥にまで区別されるようなこと、した覚えないで」


「この前、ノクスの餌を一つ食べようとしてた」


 黒鬼の小さな指摘に、ノクスが鋭くシルフを睨んだ。


「違う、あれは味見や!」


「鳥の餌を味見する必要があるのか?」


「どんな味なんか気になったんや!」


「それを食べようとしたと言うんだ」


 再び紅蓮に呆れられ、シルフは渋々荷台へ乗り込んだ。


 御者台にはシグマが座り、その隣に当然のようにフェルンが収まる。


 紅蓮、白鬼、黒鬼、シルフが荷台へ乗ったことを確認すると、シグマは手綱を握った。


「出すぞ」


 ノクスとソルがゆっくりと歩き始める。


 馬車の車輪が石畳の上を転がり、一定の音を響かせた。


 大通りを進む間、四人は何度も後ろを振り返っていた。


 紅蓮は静かに街並みを見つめ、白鬼と黒鬼は見慣れた店や通りを目で追っている。


 アルランカで過ごした時間は決して長くない。それでも、三人にとってこの街は、多くの思い出が残る場所になっていた。


 シルフもまた、荷台の後方から遠ざかる猫夜亭の屋根を眺めていた。


「短い間やったけど、ええ街やったな」


「シルフでも寂しくなるんだね」


「白鬼、うちを何やと思っとるん?」


「食べ物があればどこでも生きていける人」


「間違ってへんけど、もうちょい言い方あるやろ」


「否定はしないんだ……」


 黒鬼が小さく呟く。


 やがて馬車は城門を通り抜け、アルランカの外へ出た。


 石造りの建物が少しずつ遠ざかり、視界には草原と街道が広がっていく。


 フェルンは街を振り返らなかった。


 代わりに、隣で手綱を握るシグマの横顔をじっと見つめている。


「どうした?」


 視線に気づいたシグマが尋ねる。


「何でもない」


「そうか」


「うん」


 短く答えると、フェルンは前へ向き直った。


 どこへ行くのかよりも、誰と行くのか。


 今のフェルンにとっては、それだけで十分なのかもしれなかった。


 最初の目的地は、アルステラ中部にある都市カルガラン。


 そこまでの道のりには、街道沿いにいくつもの小さな村が点在している。


 まずは最も近いイル村に立ち寄る予定だった。


 順調に進んでも二日ほどかかるため、今夜は街道の途中で野営することになる。


「二日かぁ」


 シルフが荷台で寝転がりながら呟く。


「着く頃には腰が四つくらいに割れとるかもしれへんな」


「腰は一つしかないよ?」


「せやから四つに割れるんや」


「割れたら治す」


 黒鬼が真面目な声で答える。


「ありがとうな、黒鬼。けど、できれば割れる前に助けてほしい」


「治せるなら割れても大丈夫」


「たまに黒鬼って容赦ないよな?」


「気のせい」


 黒鬼は静かに目をそらした。


「乗り心地が悪いなら、御者台へ来るか?」


 シグマが前を向いたまま声をかける。


「ええの?」


「ああ。交代でなら――」


「だめ」


 即座にフェルンが遮った。


「ここはわたしの場所」


「ずっと座っている必要はないだろう」


「ある」


「どんな必要やねん」


「あるものはある」


 フェルンは両手で御者台の縁を掴み、座る場所を守るように身構えた。


「そこまで言われたら諦めるしかないなぁ」


 シルフは苦笑しながら身体を起こす。


「まあ、うちは大人やから譲ったるわ」


「シルフは子供より小さい」


「身長の話はしてへん!」


 フェルンの一言に、荷台から笑い声が上がった。


 街を離れて一刻ほどが過ぎた頃だった。


 先を進んでいたノクスとソルが、ほぼ同時に速度を落とす。


 シグマはすぐに手綱を引いた。


「止まれ」


 馬車が止まるより先に、紅蓮が大剣へ手を伸ばしていた。


「何かいるのか?」


「ああ。ノクスたちが気づいた」


 街道の両側には、膝ほどの高さまで伸びた草が広がっている。


 風に揺れる草の中から、がさがさと不自然な音が近づいてきた。


 白鬼と黒鬼が荷台から降り、シルフは弓を手に取る。


 シグマも御者台を降りようとしたが、その袖をフェルンが掴んだ。


「わたしも行く」


「馬車にいろ」


「戦える」


「分かってる。だから馬車とノクスたちを頼む」


 フェルンは不満そうに眉を寄せたが、やがて小さく頷いた。


「……分かった」


 その直後、街道脇の草が大きく割れた。


 飛び出してきたのは、黒褐色の毛に覆われた四体の魔物だった。


 猪に似た姿をしているが、その肩は人間の胸元ほどの高さにあり、額から太い角が前方へ突き出している。


「角猪や!」


 シルフの声と同時に、先頭の一体が地面を蹴った。


 狙いは馬車だった。


 巨体に似合わぬ速度で迫り、額の角を御者台へ向ける。


 しかし、その進路へシグマが滑り込んだ。


 身体を低く沈め、突き出された角を右手で掴む。


 土煙が舞い上がった。


 角猪の突進に押され、シグマの足が街道を削る。


「シグマ!」


「大丈夫だ!」


 左足を強く踏み込み、腰をひねる。


 突進の勢いを横へ流された角猪の巨体が浮き上がり、そのまま街道脇へ叩きつけられた。


 地面が大きく揺れる。


 残る三体が左右へ分かれた。


「白鬼、右だ!」


「任せて!」


 白鬼が杖を向けると、角猪の足元から炎が噴き上がった。


 驚いた角猪が進路を変えた先には、紅蓮が待ち構えている。


「遅い!」


 振り下ろされた大剣が角を断ち切り、そのまま地面へ叩き伏せる。


 別の一体が紅蓮の死角から飛びかかろうとした。


 風を裂く音が響く。


 シルフの放った矢が角猪の前足近くの地面へ突き刺さり、凝縮された風が炸裂した。


 巨体が横へ押し流される。


「黒鬼!」


「うん」


 黒鬼が杖を振るう。


 淡い光の帯が角猪の四肢へ絡みつき、その動きを一瞬だけ封じた。


 その隙を逃さず、シグマが地面を蹴る。


 低く踏み込んだ拳が、角猪の顎を下から打ち抜いた。


 強烈な一撃を受けた巨体が宙を舞い、背中から地面へ落ちる。


 最後の一体は仲間が倒されたのを見て、草原へ逃げようとした。


「逃がさんで!」


 シルフが矢をつがえる。


 弦を引き絞った瞬間、周囲の風が矢じりへ集まった。


 放たれた矢は草原を一直線に駆け抜け、角猪の前方へ着弾する。


 爆ぜた風が土と草を巻き上げ、驚いた角猪が足を止めた。


 そこへ紅蓮が追いつく。


 横薙ぎの一撃が角猪を打ち倒し、戦いは終わった。


「怪我は?」


 黒鬼が全員を見回す。


「問題ない」


「私も大丈夫」


 白鬼が杖を肩に担ぎ、倒れた角猪を見下ろした。


「結構大きいね。これ、食べられるの?」


「ああ。角猪の肉は少し癖があるが、きちんと処理すればうまい」


 紅蓮が答えると、シルフの表情が一気に明るくなった。


「ほんまか? ほんなら今夜は肉祭りやな!」


「四体すべて持っていく気か?」


「せっかく倒したんや。残したらもったいないやろ」


「馬車に載せたら、荷物より肉のほうが多くなるよ」


「夢のある馬車やないか」


「匂いにつられて、別の魔物まで寄ってくる」


 フェルンの冷静な指摘に、シルフは言葉を詰まらせた。


「夢だけでは旅はできんな……」


「最初から現実を見ろ」


 解体に慣れた紅蓮とシグマが、状態のよい一体から必要な肉と素材を回収する。


 白鬼と黒鬼も手伝い、作業は手早く終わった。


 その間、シルフは見張りを任されていた。


「うちだけ仲間外れみたいやな」


「解体を手伝いたいのか?」


 紅蓮が血のついた刃物を持ったまま振り返る。


「見張りに集中します」


 シルフは即座に背筋を伸ばした。


     ◇


 昼前になると、街道の近くを流れる小川が見えてきた。


 流れは緩やかで、水も澄んでいる。


 川沿いには大きな木が何本か立ち並び、その下には休憩するのにちょうどよい木陰ができていた。


 シグマは馬車を街道脇へ寄せ、ノクスとソルを休ませることにした。


 水を飲ませ、馬具を緩める。


 ソルは嬉しそうに水面へ嘴を入れたが、ノクスは先に周囲を見回し、安全を確かめてから静かに水を飲み始めた。


「ノクスって、シグマに似とるな」


 その様子を見ていたシルフが呟く。


「どこがだ?」


「先に周りを気にして、自分のことは後回しにするところや」


「そうか?」


「そうやで。もうちょい自分を甘やかしても罰は当たらんと思うけどな」


 予想外に真面目なことを言われ、シグマは少しだけ目を瞬かせた。


「シルフに言われるとは思わなかった」


「どういう意味や!」


「シルフは自分に甘い」


 黒鬼が木陰から答える。


「黒鬼、今日はうちに厳しすぎへん?」


「いつもどおり」


 シルフが不満そうに頬を膨らませる横で、白鬼が受け取った布袋を開いた。


「シルビアさんがくれた焼き菓子、今食べようよ」


 袋の中には、小さく丸めて焼かれた菓子が並んでいた。


 表面には砕いた木の実が散らされ、近づけると蜂蜜の甘い香りがする。


「待ってました!」


 先ほどまで頬を膨らませていたシルフが、瞬く間に白鬼の隣へ移動した。


「早い者勝ちやな」


「一人一つ」


「世の中、平等ばかりやと成長せぇへんで」


「それ、二つ取る言い訳?」


「競争心を育てようとしてるんや」


「シルフの食欲しか育たない」


 黒鬼が布袋を抱えて遠ざける。


「取らへん! 取らへんから、そんな目で見んといて!」


 全員へ一つずつ配られ、最後にシグマも焼き菓子を受け取った。


 一口かじると、表面はさくりと軽く、中はわずかにしっとりしている。香ばしい木の実と蜂蜜の甘さが口の中へ広がった。


「うまいな」


「うん」


 隣へ座っていたフェルンも、小さく頷く。


 仲間たちの楽しそうな声を聞きながら、シグマは手元の焼き菓子へ視線を落とした。


 シルビアが渡してくれたときの表情を思い出し、昨夜の出来事が再び頭をよぎる。


「また顔が赤い」


 フェルンがじっと見上げていた。


「暑いだけだ」


「木陰なのに?」


「……風が止まったからだ」


「吹いてる」


 ちょうどその瞬間、川面を渡った風がシグマの白髪を揺らす。


 フェルンは疑うように目を細めた。


 その様子を少し離れた場所から眺めていた白鬼が、にやりと笑う。


「ねえ、シグマ。昨日、何かあったの?」


「何もない」


「聞く前に答えたよ?」


「何もないからだ」


「怪しいなぁ」


「白鬼、あまりからかうな」


 紅蓮が止めると、白鬼は素直に引き下がった。


「はーい。今はやめておくね」


「今は、なんだな……」


 シグマが小さくため息をつく。


 簡単な昼食を済ませ、十分に休憩してから一行は再び馬車へ乗り込んだ。


     ◇


 午後の街道は、朝よりも穏やかだった。


 遠くには低い丘が幾重にも重なり、街道の両脇には風に揺れる草原がどこまでも続いている。


 ノクスとソルの足取りも軽く、馬車は一定の速さで進んでいた。


 しばらく走ったところで、前方に止まっている馬車が見えてきた。


 一人の男が車輪のそばへしゃがみ込み、何度も立ち上がっては困ったように頭を掻いている。


「何かあったみたいだな」


 シグマが馬車を止め、男へ声をかけた。


「大丈夫ですか?」


「ああ、旅の人か。いや、参ったよ。道の端へ寄りすぎてしまってな」


 男の馬車は、左側の車輪が深い溝へ落ち込んでいた。


 連れている馬一頭では、引き上げるのは難しそうだった。


「荷物を降ろせば軽くなるんだが、日暮れまでに全部積み直せるかどうか……」


「皆、手を貸せるか?」


 シグマが振り返ると、紅蓮が即座に頷く。


「もちろんだ」


「しゃあないな。困ったときはお互い様や」


「シルフ、まだ何もしてないのに疲れた顔をしないで」


「気持ちを作っとるところや」


 白鬼と黒鬼が後ろから馬車を押し、紅蓮とシルフは側面へ回る。


 シグマは落ち込んだ車輪の前にしゃがみ、溝の深さを確かめた。


「少し持ち上げる。合図したら押してくれ」


「一人で持ち上げる気か?」


「わずかに浮けばいい」


 シグマは車軸の下へ両腕を差し入れ、腰を落とす。


 ゆっくり力を込めると、荷物を満載した馬車が軋みながら持ち上がった。


 行商人の男が目を見開く。


「な、なんて力だ……」


「今だ!」


 紅蓮たちが一斉に押す。


 同時にフェルンが行商人の馬の手綱を取り、優しく前へ促した。


 車輪が溝の縁へ触れ、一度滑りかける。


「もう少し!」


 白鬼の声に合わせ、全員がさらに力を込めた。


 車輪は土を削りながら溝を越え、街道へ戻った。


「上がった!」


 行商人が歓声を上げる。


 シルフはその場へ座り込み、大げさに肩で息をした。


「あかん……もう一歩も動けへん……」


「ほとんど押してなかったよね?」


「白鬼、力仕事はな、気持ちが大事なんや」


「シルフの場所だけ手形がついてない」


 黒鬼が馬車を指差す。


「黒鬼、余計なところをよう見とるな……」


 行商人は何度も頭を下げた。


「本当に助かったよ。あんたたちが来なかったら、ここで夜を明かすことになっていた」


「無事に動いたならよかった」


「礼をさせてくれ。大したものじゃないが、道中で売る予定だった菓子だ」


 男は荷台から、小さな木箱を一つ取り出した。


 蓋を開けると、中には琥珀色の蜜を絡めた木の実が並んでいる。


 香ばしい匂いと甘い香りが漂った瞬間、シルフが勢いよく立ち上がった。


「もう動けるようになったん?」


「疲れてる場合やない」


「現金だね」


「甘いもんは別腹やからな」


 男は笑いながら木箱をシグマへ渡した。


「皆で食べてくれ」


「ありがとう。助かる」


「礼を言うのはこっちだよ」


 行商人と別れたあと、木の実菓子は全員に一つずつ配られた。


 シルフは口に入れた途端、幸せそうに頬を押さえる。


「甘い……うまい……人助けって、ええもんやなぁ」


「お菓子がなかったら?」


「……人助けは、ええもんや」


「今、少し間があった」


「気のせいや」


     ◇


 日暮れが近づいた頃、街道から少し離れた場所に小さな丘を見つけた。


 頂上付近は平らで、周囲を見渡せる。近くには水場もあり、魔物が接近しても早めに気づけそうだった。


 シグマたちはそこを今夜の野営地に決めた。


 紅蓮とシグマが馬車を止める場所を整え、白鬼と黒鬼が薪を集める。シルフは周囲を見回り、フェルンはノクスとソルの世話を担当した。


 夕食には、昼間に倒した角猪の肉を使うことになった。


 厚めに切った肉へ塩と香草を擦り込み、串へ刺して焚き火で焼く。


 脂が火へ落ちるたび、じゅっと音を立てて香ばしい煙が上がった。


 鍋では角猪の肉と根菜、茸を煮込んだスープが湯気を立てている。


「もう焼けたんちゃう?」


 シルフが串へ顔を近づける。


「まだ」


 料理を見張っていたフェルンが答える。


「表は焼けとるで?」


「中はまだ」


「ちょっとくらいなら」


「だめ」


「一口だけ」


「だめ」


「端っこを――」


 フェルンが無言でシルフの手を叩いた。


「痛っ!」


「何度言わせるの」


「フェルン、シルフ相手だと遠慮がなくなったね」


 白鬼が楽しそうに笑う。


「シルフには、これくらいでいい」


「なんでうちだけ扱いが雑なん?」


「日頃の行いだろう」


「今日二回目やぞ、その言葉!」


 賑やかな声が丘の上へ響く。


 焼き上がった角猪の肉は柔らかく、噛むたびに濃い旨味が広がった。


 根菜と茸を煮込んだスープにも肉の脂が溶け込み、身体の芯まで温めてくれる。


「おいしい」


 黒鬼が小さく呟く。


「角猪って、こんなにうまいんやな」


 シルフは肉を頬張りながら、次の串へ手を伸ばす。


「お前は少し食べる速度を落とせ。まだ全員に行き渡っていない」


「紅蓮、旅先では早い者勝ちやで」


「そんな決まりはない」


「今作った」


「却下だ」


 紅蓮が串の載った皿を遠ざける。


 それを取ろうとするシルフと、さらに遠くへ逃がす紅蓮を見て、白鬼は腹を抱えて笑っていた。


 食後には、行商人からもらった木の実菓子を一つずつ食べることにした。


 フェルンはすぐには口にせず、手のひらに載せて眺めている。


「食べないのか?」


 シグマが尋ねる。


「あとで食べる」


「残しておくのか?」


「うん。なくなるともったいない」


 シグマは自分の分を半分に割り、片方をフェルンへ差し出した。


「それなら、こっちを今食べるか?」


「シグマのが減る」


「半分で十分だ」


 フェルンはしばらく木の実菓子を見つめていたが、やがて受け取った。


「……ありがとう」


 一口かじった途端、狼耳がぴんと立つ。


 大きく表情を変えたわけではない。それでも、揺れる尻尾を見れば気に入ったことは明らかだった。


「うまいか?」


「普通」


「尻尾は正直やなぁ」


 シルフに指摘され、フェルンは慌てて尻尾を両手で押さえた。


 皆が笑い、フェルンは少しだけ頬を膨らませる。


 夕食を終える頃には、空はすっかり暗くなっていた。


 見張りの順番は、紅蓮、シルフ、シグマ、黒鬼、白鬼。


 フェルンも自分が見張ると言い張ったが、シグマが説得し、今夜は休ませることになった。


 最初の見張りを紅蓮に任せ、ほかの者たちは馬車と簡易天幕に分かれて横になる。


 夜が深まり、紅蓮から交代したシルフが焚き火の前へ座った。


 静かな丘の上に、薪の爆ぜる音だけが響く。


 ときおり遠くから魔物の鳴き声が聞こえるものの、近づいてくる気配はない。


 やがて交代の時間となり、シグマが目を覚ました。


「交代する」


 背後から声をかけられ、シルフの肩がわずかに跳ねた。


「う、うん。もうそんな時間か」


「ああ。周囲に異常は?」


「なんもないで。遠くで魔物らしい鳴き声はしたけど、近づいてはきてへん」


「分かった。あとは任せてくれ」


 シグマが焚き火の前へ腰を下ろす。


 シルフは立ち上がったものの、すぐにはその場を離れなかった。


「シルフ?」


「いや……」


 炎に照らされたシグマの横顔を見て、シルフはなぜか言葉に詰まった。


 普段なら、軽口の一つでも自然に出てくるはずだった。


 だが今は、二人きりであることを意識した途端、胸の奥が妙に落ち着かない。


「眠れないなら、少し話していくか?」


「だ、大丈夫や。うちはどこでもすぐ寝られるからな」


「そうか」


「ほな、おやすみ」


「ああ。おやすみ」


 シルフはそそくさと天幕へ戻った。


 毛布へ潜り込み、胸元を押さえる。


 走ったわけでもないのに、心臓が少し速い。


「……なんやねん、もう」


 小さく呟き、無理やり目を閉じる。


 その感情が何なのか、シルフ自身はまだ気づいていなかった。


 シグマの見張りは、何事もなく過ぎていった。


 夜空には満天の星が広がり、眼下の草原を淡い月明かりが照らしている。


 交代までは、まだ少し時間がある。


 そのはずだったが、背後で布の擦れる音がした。


 振り返ると、毛布を肩にかけた黒鬼が立っていた。


「黒鬼。まだ早いぞ」


「目が覚めた」


「もう少し眠っていてもいい」


「大丈夫」


 黒鬼は焚き火の向かい側ではなく、シグマの隣へ腰を下ろした。


 しばらく二人で炎を眺める。


「寒くないか?」


「少しだけ」


 シグマが自分の外套を渡そうとすると、黒鬼は首を横に振った。


「それは、シグマが寒い」


「俺は平気だ」


「私も平気」


「そうか」


「うん」


 会話が途切れても、不思議と気まずくはなかった。


 黒鬼は揺れる炎を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始める。


「アルランカ、少し寂しい」


「ああ」


「でも、旅も楽しみ」


「俺もだ」


「イル村の次は、カルガラン?」


「途中でいくつか村に立ち寄るかもしれないが、今のところはそうだな」


「そこにも、おいしいものあるかな」


「シルフみたいなことを言うんだな」


「違う」


 黒鬼は少し慌てたように首を振る。


「私は、皆で食べるのが好きなだけ」


「そうか」


 シグマは小さく笑った。


「俺も、皆で食べる食事は好きだ」


「うん」


 黒鬼の声も、どこか嬉しそうだった。


 それから二人は、今日の戦いや、行商人の馬車を助けたこと、シルフが角猪の肉を何本食べたかなど、他愛もない話を続けた。


「シルフ、七本食べた」


「六本じゃなかったか?」


「調理中に一本食べた」


「フェルンに止められていなかったか?」


「あのあと、白鬼の後ろから取った」


「見ていたのか」


「見てた」


 黒鬼は小さく笑う。


 やがて言葉が途切れ、再び静かな時間が訪れた。


 黒鬼の身体が、ほんの少しだけシグマのほうへ傾く。


 肩と肩が触れた。


 シグマは一瞬だけ黒鬼へ視線を向けたが、何も言わなかった。


 黒鬼も顔を上げない。


 二人の姿を、揺れる焚き火の光が静かに照らしていた。


「そろそろ交代だな」


 しばらくして、シグマが立ち上がる。


「何かあったら、すぐに起こしてくれ」


「うん」


「無理はするなよ」


「大丈夫」


 シグマが天幕へ戻るのを、黒鬼は黙って見送った。


 その背中が見えなくなるまで見つめてから、自分の頬に触れる。


 焚き火の近くにいるせいか、それとも別の理由なのか、少し熱かった。


 さらに時間が過ぎ、白鬼が交代のために起きてきた。


「おはよう、黒鬼」


「まだ夜」


「じゃあ、こんばんは?」


「それも少し違う」


「細かいことはいいの」


 白鬼は黒鬼の隣へ腰を下ろし、にやりと笑った。


「それで、シグマとは何を話してたの?」


「……普通の話」


「普通って?」


「今日のこととか、これからのこと」


「それだけ?」


「それだけ」


 黒鬼の返事は普段と変わらない。


 しかし、頬がわずかに赤くなっている。


 白鬼はそれを見逃さなかった。


「寄りかかったりは?」


「……少しだけ」


「ふうん」


 白鬼はそれ以上からかわず、黒鬼の頭へ手を載せた。


 そして、優しく何度か撫でる。


「白鬼?」


「何でもない。あとは任せて」


「うん」


 黒鬼は少し不思議そうにしながらも、どこか安心した表情で天幕へ戻った。


 白鬼はその背中を見送り、小さく微笑む。


「黒鬼が嬉しいなら、いいかな」


 その声は、焚き火の音に紛れて消えた。


     ◇


 翌朝。


 朝日が丘を照らし始める頃には、全員が起きていた。


 朝食は、固めのパンと干し肉、野菜のスープという簡単なものだった。


「黒鬼、昨日ちゃんと寝られたか?」


 シグマに尋ねられた黒鬼は、持っていた匙を落としかけた。


「ね、寝た」


「そうか。ならいい」


 シグマは何も気づかず、パンをスープへ浸している。


 その向かいでは、白鬼が意味ありげな笑みを浮かべていた。


「白鬼、何?」


「何でもないよ」


「絶対、何かある」


「ないない」


 白鬼は楽しそうにパンをかじる。


 一方、シルフもどこか落ち着かない様子でシグマを盗み見ていた。


「シルフも寝不足か?」


 紅蓮に尋ねられ、シルフが勢いよく首を振る。


「そ、そんなんやないで!」


「まだ何も決めつけていないが」


「うちはよく寝た! ぐっすりや!」


「なら、なぜそんなに慌てる?」


「朝やからや!」


「意味が分からん」


 紅蓮は追及を諦め、ため息をついた。


 食事を終えると野営地を片づけ、ノクスとソルへ馬具をつける。


 再び馬車はイル村へ向けて走り始めた。


 街道の両側には緑の草原が広がり、その奥には穏やかな丘陵が連なっている。


 空は高く、白い雲がゆっくりと流れていた。


 道中では、角兎や小型の犬型魔物に何度か襲われたものの、どれも大きな脅威にはならなかった。


 角兎の群れが草むらから飛び出せば、シルフの矢が先頭の足元を射抜いて進路を止める。


 左右から回り込んだ個体は白鬼の炎に追い立てられ、紅蓮とシグマが一撃で仕留めた。


 木陰から犬型魔物が飛びかかったときには、黒鬼の光の壁が牙を受け止め、フェルンが馬車へ近づいた一体を鋭い蹴りで弾き飛ばした。


「馬車を頼むと言っただろう」


 戦闘後、シグマがフェルンへ声をかける。


「馬車を守った」


「……確かにそうだな」


「ちゃんと頼まれたことをした」


「ああ。助かった」


 褒められたフェルンの狼耳が嬉しそうに動く。


 しばらくすると、街道の先に木造の柵が見えてきた。


 その向こうには、畑と小さな家々が広がっている。


 夕日に照らされたイル村だった。


「見えたで!」


 シルフが荷台から身を乗り出す。


「イル村だな」


 紅蓮も安心したように息を吐いた。


 日が暮れる直前、シグマたちは村へ入った。


 入口近くには小さな馬車預かり所があり、厩と屋根つきの車庫が並んでいる。


 店番をしていた痩せた男へ声をかけると、男は椅子に座ったまま面倒そうに片目を開けた。


「馬車と、この二羽を朝まで預けたい」


「銅貨五十枚」


「餌代も含まれているのか?」


「水と餌、馬車の保管。朝まで全部込みだ」


 シグマが代金を渡すと、男は銅貨を数え、腰を上げた。


「ノクス、ソル。ここで待っていてくれ」


 二羽の首筋を撫でる。


 ソルは素直に頭を寄せたが、ノクスは預かり所の男を警戒するように見ていた。


「心配するな。朝には迎えに来る」


 シグマが言い聞かせると、ノクスもようやく厩へ入っていった。


「この村に宿はあるか?」


「二軒」


 男はそっけなく答える。


「村の中心に満月亭。もう一つは、反対側の外れに三毛猫亭だ」


「どちらがおすすめや?」


 シルフが尋ねる。


「知らん。自分で見ろ」


「商売する気あるんか、このおっちゃん」


「馬車屋だからな。宿屋の客まで世話する義理はない」


「それはそうやけど、もうちょい愛想ってもんがあるやろ」


「用が終わったなら、早く宿を決めたほうがいいぞ。日が暮れる」


 男はそれだけ言うと、再び椅子へ座って目を閉じた。


「ほんまにそっけないなぁ」


「場所を教えてくれただけでも十分だろう」


 紅蓮に促され、一行はまず村の中心へ向かった。


 満月亭は二階建てのしっかりした建物だった。


 一階には広い食堂があり、窓から明るい光が漏れている。看板も立派で、村の宿としてはかなり整っていた。


「ここでよくない?」


 白鬼が建物を見上げる。


「念のため、もう一軒も見てみよう」


 シグマの提案に、全員が頷いた。


 村の外れへ向かって歩くにつれ、家の数は少なくなっていく。


 やがて見えてきたのは、満月亭より一回り小さな木造の宿だった。


 壁はところどころ色褪せ、看板も古い。


 そこには、三色の毛を持つ猫の絵とともに、『三毛猫亭』と書かれていた。


「少し……年季が入っとるな」


 シルフが言葉を選びながら呟く。


「見窄らしいって言いたいんでしょ?」


「うちはそこまで言うてへんで」


「顔に書いてある」


 外見だけで決めるわけにもいかず、シグマたちは扉を開けた。


 からん、と小さな鈴が鳴る。


 中には十席ほどの小さな食堂と、受付用のカウンターがあった。


 建物は古いが、床も机も丁寧に磨かれている。壁際には小さな花が飾られ、室内は驚くほど清潔だった。


 奥から、ぱたぱたと足音が近づいてくる。


「いらっしゃいませ!」


 現れたのは、フェルンと同じ年頃に見える少女だった。


 栗色の髪を後ろで一つに結び、少し大きめの前掛けを身につけている。


 客が来たのがよほど嬉しいのか、満面の笑みを浮かべていた。


「お泊まりですか? お食事ですか?」


「両方を頼みたい」


 シグマが答えると、少女の表情がさらに明るくなる。


「六名様ですね!」


「一泊いくらや?」


 シルフがカウンターへ身を乗り出す。


「お一人、銅貨二十枚です。夕食と朝食もついています」


「ここにする!」


 シルフは即答した。


 いつもなら紅蓮かシグマが待ったをかけるところだが、今回は誰も反対しなかった。


 しばらく待っても声が上がらず、シルフは怪訝そうに仲間を振り返る。


「……なんで誰も反対せぇへんの?」


「反対してほしかったのか?」


「そうやないけど! いつもなら『まだ部屋を見ていない』とか、『先に話を聞け』とか言うやろ!」


「安いから決めたわけではない」


 紅蓮は厨房のほうへ鼻を向ける。


「先ほどから、かなり美味そうな匂いがしている」


 煮込んだ肉と野菜の香りが、奥から漂ってくる。


「それに、外見は古いが中は綺麗だ」


 紅蓮の言葉に、シグマ、白鬼、黒鬼、フェルンが揃って頷いた。


「なんやそれ! うちだけ金に釣られたみたいやん!」


「実際に値段を聞いた瞬間、決めただろう」


「安いのは大事や!」


「誰も否定していない」


「否定されへんのも腹立つ!」


 シルフが地団駄を踏み、少女が困ったように笑う。


 六人分、銅貨百二十枚を一括で支払い、荷物を部屋へ運んでから食堂へ戻った。


 しばらくすると、少女が大きな盆を抱えて現れる。


「お待たせしました!」


 夕食は、焼きたての丸いパンと、鶏肉と豆を煮込んだスープ。


 さらに、薄切りの芋と玉葱を重ねて焼いた料理と、塩漬け野菜の盛り合わせだった。


 鶏肉のスープは白く濁るまでじっくり煮込まれており、肉は匙で触れただけでほぐれるほど柔らかい。


 豆と細かく刻んだ根菜にも旨味が染み込み、一口飲むだけで優しい味が身体へ広がった。


 芋と玉葱の重ね焼きは、表面が香ばしく焼かれている。間には少量のチーズが挟まれ、芋のほくほくとした食感と玉葱の甘さによく合っていた。


「おいしい!」


 白鬼が目を輝かせる。


「このスープ、すごく煮込まれてる」


 黒鬼も夢中で匙を動かしていた。


「パンも焼きたてや。外は香ばしいのに、中はふわふわやで」


 シルフはパンをスープへ浸し、大きな口で頬張る。


「銅貨二十枚で本当にいいのか?」


 紅蓮が尋ねると、少女は得意げに胸を張った。


「はい! 材料は村で採れたものがほとんどなので。料理は母が作っています」


「お母さん、料理上手」


 フェルンが芋の重ね焼きを食べながら言う。


「ありがとうございます! 伝えておきますね」


「でも、ちょっと安すぎへん?」


 シルフが真剣な表情で少女を見る。


「うちが言うのもなんやけど、この料理が二食ついて銅貨二十枚やと、ほとんど残らへんやろ」


「その……たくさんのお客さんに来てもらいたくて」


 少女は笑ったが、その表情にはわずかな陰りがあった。


 食事が一段落したところで、紅蓮が尋ねる。


「最近、この辺りで何かあったのか?」


 少女は少し迷ってから頷いた。


「近くの街道に、盗賊が出るようになったんです。それに、村の周りでは魔物も増えていて……」


「魔物の種類は分かるか?」


 シグマが尋ねる。


「私は詳しくないんです。でも、畑を荒らしたり、家畜を襲ったりしています。旅の人も減って、村の人たちも困っているんです」


 そのとき、厨房からふくよかな女性が姿を現した。


 少女と同じ栗色の髪を頭の後ろでまとめ、穏やかな顔立ちをしている。


「こら、お客さんを困らせちゃ駄目でしょう」


「お母さん」


「申し訳ありません。この子、お客さんが来てくれたのが嬉しくて、つい話しすぎてしまったようで」


「いや、こちらから尋ねたんだ」


 シグマが答える。


「あなたが、この宿の主人ですか?」


「ええ。娘と二人で三毛猫亭を切り盛りしています」


 女性は少女の肩へ優しく手を置いた。


「夫を亡くしてからは、ずっと二人で。どうにか続けてきましたが、最近は盗賊と魔物のせいで旅人がほとんど来なくなってしまって……」


「村の冒険者は討伐に向かわないのか?」


 紅蓮が尋ねると、女性は困ったように眉を下げた。


「この村には、冒険者がほとんどいないんです。村の男たちで見回りをしていましたが、被害が続いたので、今朝から大勢で魔物狩りへ出ています」


「まだ戻っていないのか?」


「ええ……」


 窓の外はすでに暗くなっている。


「盗賊もいる状況で、村の男たちがほとんど外へ出ているのか」


 紅蓮の表情が険しくなった。


「ギルドには依頼を出しているのか?」


「はい。小さな出張所ですが、村の中に冒険者ギルドがあります。ただ、報酬をあまり用意できなくて……依頼を受けてくれる方がいないんです」


 紅蓮はシグマたちを振り返った。


 シグマは静かに頷く。


 白鬼と黒鬼にも異論はない。


 シルフも食べかけのパンを置き、真剣な表情で頷いた。


「明日の朝、ギルドへ寄ります」


 紅蓮が女性へ告げる。


「詳しい状況を聞き、依頼として受けられるものがあれば、私たちが引き受けましょう」


「本当ですか?」


 女性の目が大きく開かれる。


「まだ必ず解決できるとは言えません。まずは情報を集める必要があります。それでも、私たちにできることがあるなら力になります」


「ありがとうございます……!」


 女性は深く頭を下げた。


 隣の少女も、慌てて頭を下げる。


「ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」


「まだ何もしとらんで」


 シルフが苦笑する。


「礼は全部終わってからにしてや。代わりに、明日の朝も美味しいもんを頼むわ」


「シルフ」


「ええやん。食事込みの代金は払っとるんやから」


 紅蓮に睨まれ、シルフが口を尖らせる。


 宿の女性は、そんな二人を見て柔らかく笑った。


「もちろんです。腕によりをかけて作りますね」


「やった!」


「結局、目的は朝食なんじゃない?」


「人助けと朝食の両方や。どっちか一つを諦める必要はないやろ」


「それは少し正しい気がする」


 白鬼が悔しそうに呟く。


 食事を終え、六人はそれぞれの部屋へ向かった。


 古い建物ではあるが、寝台の敷布は清潔で、毛布からは太陽の匂いがした。


 フェルンは今夜もシグマと同じ部屋へ入ろうとしたが、白鬼と黒鬼に両側から捕まえられる。


「今日は私たちと寝ようね」


「嫌」


「三人なら寂しくないよ」


「シグマがいない」


「すぐ隣の部屋だから」


「壁がある」


「当たり前だろう」


 シグマが困ったように言うと、フェルンはしばらく不満そうに彼を見つめた。


「……朝、起こしに行く」


「ああ」


「絶対?」


「約束する」


 ようやく納得したフェルンは、白鬼と黒鬼に連れられて隣の部屋へ入っていった。


「子供に起こしてもらう約束をする大人って、どうなんやろな」


 廊下の奥からシルフが呟く。


「お前は起こされても起きないだろう」


「それとこれとは別の話や」


 紅蓮とシルフの言い争う声が遠ざかっていく。


 シグマは一人で部屋へ入り、寝台へ腰を下ろした。


 明日はイル村のギルドで、盗賊と魔物について詳しい話を聞くことになる。


 本来なら、補給を済ませて通り過ぎるだけの村だった。


 しかし、困っている者たちを置いて先へ進むという選択肢は、最初から誰の中にもなかった。


 シグマは身体を横たえ、静かに目を閉じる。


 やがて小さな宿は静寂に包まれ、イル村の夜はゆっくりと更けていった。

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