↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/36

第十三話 アルランカへの帰省

 リッドガルの門を抜けると、整然と敷かれていた石畳はほどなく途切れ、乾いた土の街道へと変わった。


 背後では、巨大な門が重々しい音を響かせながら閉じていく。


 見張り台に立つ兵士たちも、馬車が進むにつれて少しずつ小さくなっていった。


「シグマ、かわって」


 門が十分に遠ざかったところで、隣に座っていたフェルンが、待ってましたと言わんばかりに両手を差し出した。


「街を出たら、フェルンがやる約束」


「ああ。覚えていたんだな」


「忘れてない」


 リッドガルを発つ前から、フェルンは何度も御者をやりたがっていた。


 だが、街中は人や荷車の往来が多い。


 慣れない街で任せるには危険だったため、門を出てから交代すると約束していたのだ。


「分かった。ただし、疲れる前に交代するからな」


「疲れない」


「今はな」


 シグマが手綱を渡す。


 フェルンは嬉しそうに受け取ると、御者台の中央へ移動した。


 小さな身体で背筋を伸ばし、前を歩く二羽へ声をかける。


「ノクス、ソル。お願い」


 二羽が短く鳴き、一定の歩調で街道を進み始める。


 手綱を引く力は強すぎず、緩すぎもしない。


 道に窪みを見つければ、馬車が大きく揺れないよう自然に進路をずらしていく。


 シグマはしばらくその手元を眺めていたが、特に口を出す必要はなさそうだった。


「上手だな」


「知ってる」


「褒めてるんだよ」


「もっと褒めていい」


「調子に乗るから、少しずつにしておく」


 フェルンは不満そうに頬を膨らませる。


 だが、腰の後ろでは銀色の尻尾が嬉しそうに揺れていた。


「それで、今日はどこまで行くつもりなん?」


 荷台の幌から、シルフが顔を覗かせる。


 太陽はまだ頭上近くにあった。


 空には薄い雲が浮かぶ程度で、天候が崩れる様子もない。


「ワイバーンを討伐した時に使った、白い木のところまで行く」


「あの川沿いの野営地か?」


 紅蓮も荷台の前方へ移動してくる。


「ああ。一度使った場所だから周囲の地形も分かってる。川もあるし、白い木なら遠くからでも見つけやすい」


 シルフが手で日差しを遮りながら空を見上げた。


「今から?」


「ああ」


「日が暮れるまでに着けるん?」


「このまま街道を外れず進めば、大丈夫だと思う」


「思う、なんやな」


「絶対とは言えないからな」


 紅蓮が街道の先へ目を凝らした。


「場所としては悪くない。だが、少し無理があるんじゃないか?」


「長い休憩は取らない。ノクスとソルの様子を見ながら、短い休憩を何度か入れる」


「二羽はそれでええとして……」


 シルフが自分の腹へ手を当てた。


「うちら、昼飯まだやで?」


「食事なら用意してあるよ」


「え?」


 シルフだけでなく、紅蓮たちまでシグマを見る。


「黒鬼。アイテムボックスを開けてくれるか?」


「……うん」


 黒鬼がアイテムボックスを開く。


「大きな布包みが入ってるはずだ」


 黒鬼が中を探り、ほどなくして一つの包みを取り出した。


「これ?」


「ああ。今朝、フェルンと作ったサンドイッチだ」


「今朝!?」


 シルフが身を乗り出す。


「いつの間に作ったん?」


「シルフが料理人と遊んでる時」


 フェルンは前を向いたまま答えた。


「遊んでへん!」


「厨房で追いかけられてた」


「あれは料理人のおっちゃんとの交流や!」


「包丁を持った料理人から逃げることを交流とは言わないだろう」


 紅蓮が冷静に返す。


「料理人が包丁持っとるんは普通やん!」


「では、なぜお前は皿を抱えて逃げていた?」


「……味見を頼まれたから?」


「疑問形になっていますよ」


 白鬼が呆れたように言う。


 黒鬼は布包みを開きながら、シルフへじっと視線を向けた。


「……つまみ食い」


「黒鬼ちゃんまで疑うん?」


「見てた」


「見てたんかい!」


「三個」


 フェルンが付け足した。


「フェルン、そこまで覚えんでええやろ……」


「料理人、すごく怒ってた」


「もう勘弁して!」


 白鬼、黒鬼、紅蓮の三人が揃ってシルフへ白い目を向ける。


「なんやその目!」


「いえ」


 白鬼が微笑んだ。


「いつものことだな、と」


「うちの信用、地面に埋まっとらん?」


「積み重ねの結果です」


「悪い方に積み重なっとるやん!」


 その間に、黒鬼は包みの中身を確認していく。


 切り分けられたサンドイッチは、具材ごとに分けて包まれていた。


 卵と香草。


 燻製肉と薄切りチーズ。


 焼いた茸と根菜。


 赤い果実のジャムと白いチーズを合わせた甘いものまである。


「たくさん……」


「誰がどれを食べるか分からなかったから、多めに作ったんだ」


「フェルンが挟んだ」


 御者台からフェルンが胸を張る。


「シグマがパンを切った。フェルンが具を挟んだ」


「そうだったな」


「二人とも、朝から作ってくれていたのか」


 紅蓮の表情が柔らかくなる。


「ありがとう。助かる」


「ありがとうございます、シグマさん、フェルンちゃん」


「……ありがとう」


 白鬼と黒鬼も礼を言った。


 シルフは少し気まずそうに頭を掻く。


「うちが厨房で怒られてる間に、二人は皆の昼飯作ってくれてたんやな」


「遊んでたんじゃないのか?」


「紅蓮まで言うん?」


「違うのか?」


「……違わへんけど」


 素直に認めたことで、荷台に笑いが起こった。


 黒鬼が全員へサンドイッチを配っていく。


 紅蓮には燻製肉とチーズ。


 白鬼と黒鬼には卵と香草。


 シルフには茸と根菜。


「何でうちだけ茸なん?」


「嫌なの?」


「いや、茸好きやけど」


「なら問題ない」


「黒鬼ちゃん、今日ちょっと強ない?」


「いつも通り」


 黒鬼は平然と自分のサンドイッチへ口を付けた。


「フェルンはどれにする?」


 シグマが尋ねる。


「シグマと同じ」


「まだ決めてないぞ」


「シグマが決めたのと同じ」


「分かった」


 シグマは燻製肉とチーズのものを取り、半分に分ける。


 片方をフェルンの口元へ運んだ。


「手綱は離すなよ」


「うん」


 フェルンは口を開け、小さくかじりつく。


 何度か噛んだ後、尻尾が嬉しそうに揺れた。


「おいしい」


「自分で作ったからな」


「シグマと作ったから、おいしい」


 あまりに迷いなく言われ、シグマは一瞬返事に困った。


 後ろから白鬼の笑い声が聞こえる。


「何だ?」


「いいえ。仲が良いなと思っただけです」


「フェルンはシグマと仲良し」


「はい。見れば分かります」


 白鬼もサンドイッチを一口食べる。


「これ、本当に美味しいですね」


「……卵、ふわふわ」


 黒鬼も小さく頷く。


「フェルンが頑張って混ぜたからな」


「いっぱい混ぜた」


「途中で腕が疲れて、両手で混ぜてたけど」


「最後までやった」


「ああ。最後までやってくれた」


 フェルンは少し誇らしそうだった。


「こっちもめっちゃ美味いで」


 シルフが茸のサンドイッチを頬張る。


「料理人から盗ったやつより美味いか?」


 紅蓮が尋ねた。


「せやな……って、盗ってへんわ!」


 また笑いが起こる。


 リッドガルでの慌ただしい出来事が、少しずつ遠ざかっていくようだった。


     ◇


 午後。


 馬車は順調に街道を進んでいた。


 フェルンの運転は安定している。


 一定の車輪の音。


 穏やかな揺れ。


 暖かな陽気。


 朝から張り詰めていた緊張が解けた反動もあったのだろう。


 最初に眠り始めたのはシルフだった。


 荷物袋へ背を預け、そのまま静かな寝息を立て始める。


 続いて白鬼が黒鬼の肩へ頭を預けた。


 黒鬼も姉が眠ったことを確認すると、隣で目を閉じる。


 紅蓮だけはしばらく起きていた。


「眠いなら寝てもいいぞ」


 シグマが声をかける。


「私は大丈夫だ」


「さっきから何度も欠伸してる」


「……見ていたのか」


「野営地に着いたら紅蓮たちに設営を頼むことになる。今のうちに休んでおいた方がいい」


「しかし――」


「街道は見通しがいい。俺も起きてる」


 紅蓮はしばらく迷った。


 だが、もう一度欠伸を噛み殺した後、大きく息を吐く。


「少しだけだ」


「ああ」


「何かあれば、すぐ起こせ」


「分かった」


 紅蓮は荷台の壁へ背を預けた。


 最初は時折目を開けていたものの、やがて眠気に負けたらしい。


「みんな寝た」


 フェルンが小声で言った。


「ああ」


「紅蓮も」


「皆、疲れてたんだろうな」


 しばらくして、シグマがフェルンの手元を見る。


 手綱を握る腕が、少し下がり始めていた。


「フェルン。そろそろ代わろう」


「まだできる」


「約束しただろ」


「シグマも疲れてる」


「フェルンが運転してくれたから、かなり休めたよ」


「……本当?」


「ああ」


 フェルンは手綱とシグマを交互に見る。


 やがて渋々手綱を差し出した。


「少しだけ」


「ああ。休んだらまた頼む」


 二人は御者台の位置を入れ替える。


 シグマが手綱を握ると、ノクスとソルが僅かに首を動かした。


「そのままで大丈夫だ」


 二羽は再び一定の歩調へ戻る。


 隣に座ったフェルンは、すぐには横にならなかった。


 後ろを見る。


 四人とも眠っている。


 それを確認してから。


 そっとシグマの腕へ身体を寄せた。


「どうした?」


「みんな寝てる」


「ああ」


「今は、フェルンだけ」


 シグマの腰へ両腕を回す。


 普段のように勢いよく飛びつくわけではない。


 シグマがそこにいることを確かめるような、静かな抱き方だった。


「不安か?」


「分からない」


「そうか」


「でも、シグマにくっつくと大丈夫」


「なら、好きなだけくっついてていい」


 片手で銀色の髪を撫でる。


 フェルンは目を細めた。


 しばらく街道を眺めていたが、少しずつ身体から力が抜けていく。


「眠くないんじゃなかったのか?」


「眠く……ない」


「そうか」


「目、閉じてるだけ……」


 最後の言葉はほとんど聞き取れなかった。


 すぐに小さな寝息が聞こえてくる。


 シグマは苦笑した。


「目を閉じてるだけ、か」


 落ちないよう身体を支え、街道の先を見る。


 太陽は既に西へ傾き始めていた。


「ノクス、ソル。少しだけ速められるか?」


 二羽が力強く鳴く。


 馬車の揺れが大きくならない程度に速度を上げる。


 シグマは一人、黙々と白い巨木を目指した。


     ◇


 草原が橙色へ染まり始めた頃。


 街道の先に、見覚えのある白い巨木が姿を現した。


 夕陽を受けた幹は淡い金色に輝き、近くを流れる川からは絶え間ない水音が聞こえてくる。


「着いたな」


 馬車を止め、シグマはようやく肩の力を抜いた。


 隣を見る。


 フェルンはまだ腕へ抱きついたまま眠っている。


「フェルン」


「……ん」


「着いたぞ」


 肩を軽く揺らす。


 フェルンがゆっくり目を開けた。


 数秒。


 ぼんやりシグマを見つめる。


「フェルン、寝てない」


「今まで寝てたよ」


「目を閉じてただけ」


「寝息も聞こえてた」


「気のせい」


「分かった。目を閉じて休んでたことにしよう」


「うん」


 フェルンは満足そうに頷く。


「でも、もう起きてくれ。皆も起こさないと」


「……分かった」


 名残惜しそうに腕を離す。


 二人で荷台へ回った。


 最初に紅蓮の肩を揺らす。


「紅蓮。着いたぞ」


「……着いた?」


 目を開けた紅蓮は、最初状況を理解できていなかった。


 だが、窓の外に見える白い巨木と夕焼けを見た瞬間、身体を起こす。


「もうここまで来たのか?」


「ああ」


「私はどれくらい寝ていた?」


「かなり長く」


「……そうか」


 紅蓮は隣を見る。


 シルフ、白鬼、黒鬼はまだ眠っている。


「まさか、到着まで二人だけで?」


「途中まではフェルンが運転して、その後は俺が代わった」


「フェルンも途中で寝た」


 本人が正直に付け加える。


 紅蓮は額へ手を当てた。


「それでも私たちよりましだ」


「気にしなくていいよ」


「私が気にする」


 紅蓮は大きく息を吐く。


「護衛でありながら、全員で眠り込むとは……すまない」


「皆疲れてたんだ。何も起きなかったし、問題ない」


「だからといって二人へ任せきりにしていい理由にはならない」


 紅蓮はシグマとフェルンを順番に見る。


「野営の準備は私たち四人でやる」


「俺も手伝うよ」


「駄目だ」


「でも――」


「四人もいれば十分だ。お前たちはノクスとソルを休ませろ」


「フェルンも寝た」


「それでも御者はしただろう」


「……した」


「なら休め」


「紅蓮、厳しい」


「当然だ」


 紅蓮はシルフの肩を揺らした。


「起きろ。着いたぞ」


「んあ……もう朝?」


「夕方だ」


「夕方!?」


 シルフが飛び起きる。


 白鬼と黒鬼も起こされ、事情を聞くと揃って申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんなさい、シグマさん」


「……ごめん」


「うちも、ほんまにすまん」


「謝罪は後だ」


 紅蓮が荷台から降りる。


「日が落ちる前に天幕を張る。シルフは火と食事。白鬼と黒鬼は水と薪だ」


「紅蓮は?」


「私は馬車の固定と天幕」


「分かりました」


 三人はすぐに動き始めた。


 シグマとフェルンはノクスとソルの装具を外し、水を飲ませる。


 二羽とも呼吸は少し速く、羽毛には街道の細かな砂埃が付いていた。


「頑張ったな」


 シグマがノクスの首元を撫でる。


 ノクスは目を細め、静かに嘴を鳴らした。


「ソルも頑張った」


 フェルンもソルの羽毛を撫でる。


     ◇


 野営の準備は速やかに進んだ。


 白鬼と黒鬼が薪や水を集め。


 紅蓮が天幕を張り。


 シルフは石を並べた簡易かまどへ鍋を乗せた。


 燻製肉。


 豆。


 根菜。


 それらを煮込む香りが辺りへ漂い始める。


「ええ匂いやろ?」


 鍋を混ぜながら、シルフが得意そうに振り返った。


「寝てもうた分、晩飯はちゃんと作るで」


「最初からお前の担当だっただろう」


「こういう時は気持ちが大事なんや」


「味まで気持ち任せでなければいいが」


「信用ないなあ!」


 その横で、フェルンが鍋を覗く。


「シルフ、料理できる」


「できるで。うちは料理も得意なんや」


「今朝は追いかけられてた」


「あれと料理の腕は関係あらへん!」


 フェルンは鍋の匂いを嗅ぐように鼻を動かした。


 尻尾も楽しそうに揺れている。


 だが。


 ふと、隣のシグマを見上げた。


「シグマの料理は?」


「シルフが作ってくれてるだろ」


「シグマのも食べたい」


「昼にも食べたじゃないか」


「夜は違う」


「同じ日に二回食べたいのか?」


「毎回食べたい」


「そこまで言うか」


 シグマは苦笑する。


「作ったったら?」


 シルフが言った。


「でも、シルフが作ってるのに」


「別にええよ。かまどの端空けたる」


「いいのか?」


「ただし、うちの料理より喜ばれても今日は傷付かへん」


「今日は?」


「普段なら傷付く」


「面倒だな」


「そこはちょっと気ぃ遣ってや!」


 シグマは笑いながら、フェルンの頭へ手を置く。


「少し待っててくれ」


「作る?」


「ああ。簡単なものだけな」


「待つ」


 芋と茸、少量の燻製肉を取り出す。


 薄切りにして鉄板へ並べ、塩と香草を振る。


 油を垂らすと、心地よい音が響いた。


 香ばしい匂いが広がる。


 フェルンが鉄板へ顔を近付ける。


「近付きすぎるなよ」


「見てるだけ」


「尻尾」


「?」


「火に近い」


「!」


 慌てて自分の尻尾を抱える。


 シルフが笑った。


「ほんま分かりやすいなあ」


「分かりやすくない」


「今、早く食べたいって顔しとる」


「……少しだけ」


「当たってるやん」


 やがて紅蓮たちも作業を終え、全員で食事を囲んだ。


 シルフの煮込み。


 シグマの香草焼き。


 パン。


 干し果実。


 旅の野営としては十分な食事だった。


 フェルンが真っ先に香草焼きへ手を伸ばす。


「待て」


「?」


「熱いぞ」


「少しなら大丈夫」


「嫌な予感がする」


 止めるより早く、フェルンが芋を口へ入れる。


 ぴたり。


「……熱い」


「だから言っただろ」


 慌てて水を渡す。


「大丈夫ですか?」


 白鬼が心配そうに見る。


「大丈夫」


「まだ熱い?」


「熱い。でも、おいしい」


 それでも皿は放さない。


 今度は何度も息を吹きかけてから口へ運ぶ。


「シルフのも食べてみろ」


 シグマが煮込みを差し出す。


 一口。


「これも、おいしい」


「せやろ?」


 シルフが嬉しそうに胸を張る。


「シグマのとどっちが上や?」


「比べなくていい」


「気になるやん」


 フェルンは少し考える。


 煮込みと香草焼きを交互に見る。


「一緒に食べると、もっとおいしい」


 シグマとシルフが顔を見合わせる。


「上手いこと逃げたな」


「気を遣ったんじゃないか?」


「フェルン、気を遣ってない」


「違ったみたいだな」


 笑いが起きた。


 その時。


 ノクスとソルが同時に身体を強張らせた。


 二羽が白い巨木の向こうを見る。


 紅蓮が器を置き、大剣へ手を伸ばす。


 白鬼と黒鬼も立ち上がる。


 シルフは弓へ手を掛けた。


「何か来る」


「待ってくれ」


 シグマは皆を制する。


 風に乗ってくる気配。


 知っている。


「敵じゃない」


 茂みが揺れた。


 白銀の巨大な身体が姿を現す。


「ハク!」


 白鬼の声から緊張が消える。


「びっくりさせんなや!」


 シルフが胸を押さえる。


「シグマ。呼んでいたのか?」


 紅蓮が尋ねた。


「ああ。皆が寝てる間に呼んだ」


「それなら先に言え」


「御者に集中してて、伝え忘れた」


「そこは忘れるな」


「すまない」


 ハクはすぐにシグマの元へ来るかと思われた。


 だが、その前にノクスとソルの前で足を止める。


 二羽が羽毛を膨らませた。


 ハクは自分の巨体が二羽を怖がらせていると理解しているのか、ゆっくりと前脚を曲げた。


 身体を低くし、鼻先を地面近くまで下げる。


「大丈夫」


 フェルンがノクスとソルの間へ立つ。


「ハクは襲わない」


 ソルが小さく鳴いた。


 恐る恐る近付き、ハクの鼻先へ嘴を触れる。


 ハクは動かない。


 それを見たノクスも近付いた。


 こつん。


 少し強めに鼻先をつつく。


「ノクス、挨拶雑やなあ」


 シルフが呟く。


 二羽との挨拶を終え、ハクはようやくシグマのところへ来た。


「久しぶりだな」


 シグマが首元を撫でる。


 ハクは目を細める。


 しかし。


 すぐに鼻が動いた。


 視線がフェルンへ向く。


 動きが止まる。


 フェルンもハクを見返していた。


 しばらく。


 無言で見つめ合う。


 そして。


 ハクはゆっくり前脚を折った。


 大きな頭を下げ、フェルンと目線が近くなるまで身体を低くする。


「……ハク?」


 白鬼が目を見開いた。


「自分から、こんなに身体を低くするなんて珍しいな」


 紅蓮も少し驚いたようだった。


「うち初対面で鼻先に転がされたで?」


 シルフが不満そうに言う。


「あの時のシルフは叫びながら飛びついたからだろ」


「嬉しかったんやから、しゃあないやん」


 フェルンは気にした様子もなく、ハクへ近付く。


 大きな頭へ手を乗せた。


「かわいい」


 そのまま首へ抱きつく。


 ハクは抵抗せず、静かに尻尾を地面へ打ち付けた。


「フェルンちゃん、魔獣に好かれるんですね」


 白鬼が笑う。


「ハクも子供相手なら、怖がらせないように身体を低くすることがあるんだ」


 シグマが自然に付け加える。


「そういうもんなん?」


「相手によるけどな」


 シルフはまだ少し不思議そうだったが、フェルンが楽しそうにハクへ抱きついている姿を見て、それ以上は追及しなかった。


 シグマはそっとハクへ手を置く。


《ハク》


《何だ、主》


《フェルンのこと、分かったのか?》


《同胞の血を感じる》


《やっぱりか》


《フェンリルの血だ》


 シグマは皆へ聞こえないよう念話を続ける。


《そのことは、皆には伏せてほしい》


《なぜだ》


《知られることを怖がってる。本人が自分から話したくなるまで待ちたい》


 ハクはしばらくフェルンを見る。


《承知した》


《助かる》


《ただし、危険が迫った時まで黙るつもりはない》


《その時は守ってくれ》


《言われるまでもない》


 シグマは小さく笑う。


 生肉を取り出し、ハクの前へ置いた。


「腹減ってるだろ」


 ハクが肉へ食らいつく。


 フェルンがじっと見る。


「フェルンも食べる」


「駄目だ」


「ハクは食べてる」


「ハクとフェルンは違う」


「どう違う?」


「色々」


「説明になってない」


「せめてこっちにしとき」


 シルフが燻製肉を渡す。


「こっちの方が美味いで」


 フェルンは一口。


「こっちがいい」


「せやろ?」


「シルフ、たまに役に立つ」


「たまに言うな!」


     ◇


 ハクが加わったことで、夕食はさらに賑やかになった。


「明日はアルランカまで戻れるんですよね?」


 白鬼が尋ねる。


「ああ。昼を少し過ぎるくらいには着けると思う」


「やっとやなあ」


 シルフが白い巨木を見上げる。


「ただの護衛任務のつもりやったのに、最後にとんでもないことになったな」


「積荷の件は完全に想定外だったからな」


 紅蓮が答える。


「普通の護衛って何やったっけ?」


「何事もなく、依頼人と荷物を目的地まで送り届けることだ」


「今回、途中から全然普通ちゃうかったな」


 白鬼が小さく笑う。


 やがて紅蓮の視線がフェルンへ向く。


「アルランカへ着いたら、今回の件を正式に報告しなければならない」


 フェルンの手が止まった。


 シグマがすぐに気付く。


「大丈夫だ」


「……何が?」


「フェルンが話したくないことまで、勝手に話したりはしない」


「フェルンのこと、話す?」


「助けた経緯は説明する。でも、どこから来たのかとか、何があったのかまで無理に聞かせたりはしないよ」


「シグマも一緒?」


「ああ」


「ずっと?」


「隣にいるよ」


 フェルンは少し考え。


 小さく頷いた。


「なら大丈夫」


 話題は自然とアルランカの話へ変わっていった。


 白鬼は市場の菓子屋。


 黒鬼は本屋。


 シルフは猫夜亭の酒。


「お前は明後日の朝には出発するんだぞ」


 紅蓮が呆れる。


「明日一日あるやん」


「酒で潰す気か?」


「そこまで飲まへん!」


「信用がない」


「皆して酷ない?」


 他愛もない会話が続く。


 気付けば夜はすっかり深くなっていた。


「そろそろ寝るか」


 紅蓮が言う。


「見張りの順番を――」


 伏せていたハクが頭を上げた。


《今夜は我が見張ろう》


「ハクが見張るって」


「一頭で大丈夫か?」


「何か近付けば、すぐ起こしてくれる」


 ハクが一度低く鳴いた。


「なら、今夜は任せよう」


 紅蓮も頷く。


「異変があれば必ず起こせ」


 全員がハクの近くへ集まった。


 白銀の毛は柔らかく、夜の冷気を遮ってくれる。


「ふわふわです」


 白鬼が脇腹へ背を預ける。


「……暖かい」


 黒鬼も隣へ座る。


 フェルンは当然のようにシグマの隣へ入り、腕へ抱きついた。


「フェルンはそこなんやな」


「いつもの場所」


「いつ決まったん?」


「今」


「今決まったんかい」


 白鬼もシグマの反対側へ座る。


「私はここで」


 黒鬼も姉の隣へ寄る。


 結果として、シグマの周囲だけ妙に混雑した。


「なんや……」


 シルフが少し口を尖らせる。


「シグマの周りだけ満員やん」


「シルフも反対側へ来ればいいだろ」


 紅蓮が言う。


「別に、うちはどこでもええし」


 シルフは少し離れた場所へ毛布を敷いた。


「そこ、ハクの毛が届かないぞ」


「うちは寒さに強いねん」


「風の勇者と寒さは関係ないだろう」


「細かいなあ」


 毛布を頭まで被る。


 そのまま眠った。


 ように見えた。


     ◇


 夜がさらに深まった頃。


 シルフは毛布から顔を出した。


 周囲を見る。


 紅蓮も。


 白鬼も。


 黒鬼も。


 フェルンも。


 シグマも。


 眠っている。


「……ずるいわ」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 別にシグマの隣で眠りたいわけではない。


 少なくとも。


 そういうことにしておきたかった。


 ただ。


 自分だけ少し離れた場所にいるのが、何となく寂しかった。


 皆は当たり前のようにシグマの近くへいる。


 自分だけが、その輪の外にいるような気がした。


「ちょっとだけや」


 言い訳するように呟く。


 毛布を抱えたまま立ち上がり。


 音を立てないよう、そっとシグマの近くへ移動する。


「寝ぼけて移動したことにしとこ……」


 誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。


 シグマのすぐ近くへ座る。


 少しだけ身体を寄せる。


 温かい。


「……あかん」


 小さく笑ってしまう。


 さらに少しだけ。


 頬をシグマの胸へ寄せる。


 落ち着く匂いがした。


 思わず鼻を動かす。


「……何してんねん、うち」


 自分で自分へ突っ込みながらも。


 離れなかった。


 やがて眠気が強くなり。


 シルフは本当に眠ってしまった。


     ◇


 翌朝。


 シグマは身体に感じる妙な重みで目を覚ました。


 誰かが身体へ乗るようにして抱きついている。


 フェルンだろう。


 そう思いながら目を開く。


 だが。


 視界へ入ったのは。


 銀色ではなく、鮮やかな緑色の髪だった。


「……シルフ?」


 シルフがシグマの胸元へ頬を寄せて眠っている。


 両腕は身体へ回され。


 片脚まで腰の近くへ乗っていた。


 完全に抱き枕にされている。


 シグマは固まった。


 周囲を見る。


 フェルンはハクの前脚へ抱きついて眠っている。


 白鬼と黒鬼も眠っている。


 紅蓮もまだ起きていない。


 誰も気付いていない。


「シルフ」


 小声で呼ぶ。


「……ん」


「シルフ。起きてくれ」


「んん……」


 薄く目を開く。


 まだ寝ぼけている。


「なんや……まだ早いやろ」


 そして。


 もう一度シグマの胸へ顔を寄せる。


「いや。早いのは分かる。でも、自分の状態を見てくれ」


「状態……?」


 少しずつ瞼が開く。


 自分の頬。


 両腕。


 片脚。


 すぐ近くにあるシグマの顔。


「……」


「……」


 数秒。


 完全な沈黙。


 次の瞬間。


 シルフの顔から眠気が消えた。


 耳まで一気に赤く染まる。


「な、ななな……」


「声を抑えてくれ。皆が起きる」


「なんでうちがここにおるん!?」


「俺にも分からない」


 慌てて身体を離す。


 勢いが強すぎ、そのまま後ろへ倒れそうになる。


 シグマが腕を掴んだ。


「危ない」


「触らんといて!」


「え?」


「いや、転ぶから支えてくれたんは分かっとる! でも今はあかん!」


「どっちなんだ」


「うちも分からへん!」


 シルフは両手で顔を覆った。


 その時。


 ハクが片目を開く。


《昨夜、自ら主の側へ来た》


「自分から?」


 シグマが思わず声へ出す。


 シルフが指の隙間から見る。


「ハク、何て?」


「昨夜、自分から俺の近くへ来たって」


「……嘘やろ」


《主へ抱きつき、頬を擦り寄せていた》


「抱きついて、頬を擦り寄せてたとも」


「ハクぅぅぅ……!」


《何度も匂いを嗅いでいた》


「それから――」


「もう言わんでええ!」


「聞いたのはシルフだろ」


「全部正直に言うと思わへんやん!」


 シルフは首まで真っ赤になっている。


 ハクは何も悪いことをしていないという顔で目を閉じようとした。


「待て、ハク」


《何だ》


「気付いてたなら起こしてくれてもよかっただろ」


《危険はなかった》


「別の意味で困ってる」


《知らん》


「見張りしてたんじゃないのか?」


《周囲は見張っていた》


「俺の周囲も見てくれ」


《断る》


 ハクは目を閉じた。


「ハク、何て?」


「知らないって」


「薄情な狼やな!」


 紅蓮が僅かに身動きする。


 シルフは慌てて口を押さえた。


「うち、川行ってくる!」


「まだ朝早いぞ」


「頭冷やしてくる!」


 着替えを掴み、逃げるように川へ走っていった。


 残されたシグマも。


 しばらく顔の熱が引かなかった。


 無言でハクを見る。


 立ち上がり。


 こつん。


 額へ軽く拳を落とす。


「次からは起こせ」


 ハクが片目を開ける。


《知らん》


「……本当に知らないで通すんだな」


     ◇


 しばらくすると。


 白鬼と黒鬼。


 紅蓮。


 フェルンも目を覚ました。


「あれ?」


 白鬼が周囲を見る。


「シルフさんがいませんね」


「朝起きたら川へ走っていった」


「朝から水浴びですか?」


「頭を冷やすって言ってた」


「何かあったんですか?」


「……俺にもよく分からない」


 嘘ではない。


 正確な理由までは分かっていないのだから。


 白鬼は少し気になった様子だったが、自分の髪へ触れた。


「私も水浴びしてきます。昨日は汗を流せませんでしたから」


「……私も」


 黒鬼も着替えを手に取る。


「なら私が付き添おう」


 紅蓮が剣を腰へ差した。


「フェルンちゃんも行きますか?」


 白鬼に聞かれ。


 フェルンは少し考える。


 そして。


 シグマの袖を掴んだ。


「シグマも行く」


「シグマさんは駄目です」


 白鬼が即答した。


「どうして?」


「女性が水浴びをするからです」


「シグマは見ない」


「見なくても駄目です」


「私たちが着替えられない」


 紅蓮も続ける。


 黒鬼が小さく頷く。


「……シグマ、男」


 フェルンは不思議そうにシグマを見る。


「俺は朝飯作って待ってるよ」


「一人?」


「ハクもいる。ノクスとソルもいる」


「……」


「大丈夫だ」


 まだ不満そうだった。


 だが、白鬼が手を差し出すと渋々握る。


「行きましょう」


「……うん」


     ◇


 川辺。


 朝日を受けた水面が白く輝いていた。


 少し上流では。


 既にシルフが腰ほどまで水へ浸かっている。


 ざぶん。


 頭まで潜る。


 顔を出す。


「何してんねん、うち……」


 ざぶん。


「抱きついたんは……百歩譲ってええとして……」


 顔を出す。


「匂いまで嗅いどるやん!」


 また潜る。


 紅蓮が眉を寄せる。


「シルフ」


「ひゃっ!」


 シルフの肩が跳ねた。


「何をしている?」


「何もしてへん!」


「朝から何度も川へ頭を沈めることを、何もしていないとは言わない」


「暑かっただけや!」


「朝の川はかなり冷たいぞ」


「うちは暑がりやねん!」


「顔まで赤いが?」


「冷たい水に入ったからや!」


「普通は赤くならないと思うが」


「細かいこと気にしたら負けや!」


 必死に目を逸らす。


 紅蓮はしばらく見つめる。


「何かあったのか?」


「……何も」


「本当に?」


「何もあらへん!」


 また顔が赤くなる。


 そして。


 ざぶん。


 水の中へ逃げた。


 紅蓮はため息を吐く。


「……分かった。無理には聞かん。ただし、体調が悪いなら隠すな」


「体調は大丈夫や」


「なら身体が冷える前に上がれ」


「……分かった」


 紅蓮が戻る。


「シルフさん、どうしたんですか?」


 白鬼が尋ねる。


「変な夢でも見たのだろう」


「夢?」


「本人が話したくなれば話す」


 白鬼と黒鬼が顔を見合わせる。


「……怪しい」


「私もそう思います」


 紅蓮は聞こえないふりをした。


     ◇


 しばらくして。


 水浴びを終えたシルフは身体を拭き、服を着替えた。


 ようやく顔の熱も少し引いた。


「ふぅ……」


「シルフ」


「ひゃっ!」


 振り返る。


 フェルンだった。


「な、なんや?」


 フェルンが近付く。


 鼻を動かす。


 すん。


 すんすん。


「何してんの?」


「匂い」


「何の?」


 肩口へ顔を寄せる。


「シグマの匂いがする」


「なっ!?」


 一瞬で顔が真っ赤になる。


「ちゃうで! これは、その……朝起きたら、たまたま近くにおっただけで!」


「抱きついた?」


「何で知ってんの!?」


「匂いいっぱい付いてる」


「それは……寝ぼけてたんや!」


 完全な嘘ではない。


 途中からは本当に眠っていた。


「シグマの匂い、いい匂い」


「……分かるん?」


「うん」


 フェルンは濡れた尻尾を布で拭く。


「落ち着く」


「……」


「だから、シルフがくっつきたくなるのも分かる」


「そ、そうやんな」


 反射的に頷く。


 数秒後。


 自分が何を肯定したのか理解する。


「ちゃう!」


「?」


「うちはそういう意味で言うたんやなくて!」


 フェルンは既に尻尾を拭くことへ意識を戻していた。


「シルフ、顔赤い」


「先戻る!」


 シルフは逃げるように野営地へ走っていった。


     ◇


 全員が戻ると。


 既に朝食は出来上がっていた。


 茸と野菜のスープ。


 焼いたパン。


 燻製肉。


 卵と香草の炒め物。


「シグマさん、一人で全部作ったんですか?」


「ああ。戻ったらすぐ食べられるように」


「ありがとうございます」


「……いい匂い」


 黒鬼が鍋を見る。


「シグマの料理!」


 フェルンが目を輝かせる。


 すぐ隣へ座った。


「昨日も食べたのに毎回その反応なんやな」


 シルフが小さく言う。


「毎回嬉しい」


「せやな……」


 シルフは反論せず。


 シグマから最も遠い場所へ座った。


 食事中も。


 目を合わせない。


 シグマが動けば、僅かに肩が跳ねる。


「シルフさん」


「な、何や?」


「スープ、美味しいですか?」


「美味いで」


「シグマさんが作ったものですよ」


「分かっとる」


「本人へ言えばいいのでは?」


「聞こえとるやろ」


 白鬼が黒鬼を見る。


 黒鬼も頷く。


 何かある。


     ◇


 朝食が終わる。


 シルフが器を持って立ち上がろうとした瞬間。


 右に白鬼。


 左に黒鬼。


「……何や?」


「少し聞きたいことがあります」


「後にしてくれへん? うち片付けを――」


「紅蓮さんがしています」


「ほな馬車を――」


「……確認済み」


「……」


 立とうとする。


 二人が腕を掴む。


「座ってください」


「もう座っとるやん」


「逃げないでくださいね」


「怖いなあ……」


 白鬼が単刀直入に聞く。


「何があったんですか?」


「何もあらへん」


「では、なぜシグマさんを見ないんですか?」


「今日は見たくない気分なんや」


「昨日までずっと話しかけていましたよね」


「今日は静かな日なんや」


「……シグマと何があった?」


 黒鬼が踏み込む。


 シルフの顔が一気に赤くなった。


「やっぱり」


「……何したの?」


「何もしてへん!」


「顔に出ています」


「うちは元から顔赤いねん!」


「髪は緑色ですが?」


「髪の話ちゃう!」


 シグマが近付ってくる。


「二人とも、その辺りに――」


「シグマさんは黙っていてください!」


 白鬼が一喝。


「……俺、まだ何も言ってないぞ」


「シグマがいると話さない」


 黒鬼が言う。


 紅蓮が額へ手を当てた。


「シグマ」


「何だ?」


「片付けはこちらでやる。お前も川で水浴びしてこい」


「でも――」


「この後はアルランカまで大きな休憩を取らないんだろう?」


「ああ」


「なら今しかない」


 一度、シルフを見る。


「男がいると話しづらいこともある」


 シグマはようやく察した。


「……分かった」


 着替えを取る。


「あまり無理に問い詰めるなよ」


「状況による」


「その返事は不安なんだけど」


 それでも川へ向かった。


     ◇


 シグマの姿が見えなくなる。


「行きました」


 白鬼が言う。


「だから何や」


「話してください」


「嫌や」


「……話すまで離さない」


 黒鬼が袖を掴む。


「二人とも強引すぎひん?」


「心配しているんです」


 白鬼の声音から冗談が消える。


「もし本当にシグマさんから嫌なことをされたのであれば、私たちはシグマさんにも話を聞きます」


「シグマは何もしてへん!」


 シルフが反射的に答える。


「……やっぱりシグマ関係ある」


「今ので確定しました」


「しまった……」


 顔を覆う。


「ほんまにシグマは何も悪くない」


「では誰が?」


「……うち」


 紅蓮も腕を組み、続きを待つ。


「昨夜な……」


 シルフは地面を見る。


「三人がシグマの周りに集まって寝てたやろ」


「ハクの毛が暖かかったからです」


「……私は白鬼の隣にいただけ」


「分かってる。でも……」


 指先を弄る。


「何か、うちだけ離れとるんが、ちょっと寂しくなってん」


 白鬼の表情が少し和らぐ。


「なら、一緒に来ればよかったではありませんか」


「それを素直に言えるなら、こうなってへん!」


「それで?」


「皆が寝てから……寝ぼけたふりして、シグマの近くへ行った」


「寝ぼけたふり?」


「最初は起きてた」


「確信犯ですね」


「言い方!」


「それで?」


「ちょっとだけ抱きついた」


「なぜ?」


「皆が近くにおったから、どんな感じなんかなって」


「私は抱きついてません」


「似たようなもんやろ!」


「違います」


「そこ今重要ちゃう!」


 頭を抱える。


「シグマ、思ったより暖かくて……何か落ち着いて、そのまま寝てもうた」


 白鬼は一度口を閉じた。


 理由だけなら、想像していたほど悪いものではない。


「抱きついただけですか?」


「せや!」


 ハクが鼻を鳴らした。


「何や、ハク」


 首を横へ振る。


「……違う」


 黒鬼が言う。


「抱きついただけや!」


 また首を横へ。


 今度は鼻を動かす。


 すんすん。


「……匂い?」


 紅蓮が言った。


「少しだけ!」


「やっぱり嗅いだんですね」


「シグマの匂いがしたから何となく!」


「いっぱい付いてた」


 フェルンが言う。


「フェルンは黙ってて!」


 さらにハクが前脚を上げる。


 自分の胸元の毛を押し分ける仕草。


 シルフの顔から血の気が引いた。


「ハク」


 低い声。


「それは言わんでええ」


「まだ何かあるんですか?」


 白鬼の目が鋭くなる。


「……服の襟がちょっとずれてたんや」


「それで?」


「普段、シグマって身体隠しとるやろ」


「はい」


「傷とか、どうなっとるんかなって……」


「まさか」


「……少しだけ、襟を広げた」


 空気が止まった。


「ほんの少し!」


 ハクが首を横へ振る。


「違うそうです」


「こいつ今日だけ正直すぎん!?」


「何を見たんです?」


「……胸板」


「……」


「ほんの一瞬や!」


 ハクがまた首を横へ。


「一瞬でもないみたいですよ」


「見入ってもうただけや!」


「見入った?」


「だって、思ったより筋肉あるし、傷も……」


 途中で口を塞ぐ。


 何を言っているのか気付いたらしい。


「……ちょっと格好ええなって思っただけや」


 白鬼が深く息を吸う。


「シルフさん」


「はい……」


「眠っている人の服を勝手に動かしてはいけません」


「はい……」


「気になるなら本人へ聞いてください」


「聞けるわけないやろ!」


「聞けないなら見ないでください」


「正論すぎて何も言い返せへん!」


 黒鬼も続ける。


「……シグマに謝る」


「分かっとる」


「ちゃんと」


「分かっとるって……」


 フェルンが首を傾げる。


「シグマの胸、見た?」


「フェルンは気にせんでええ」


「フェルンも見たい」


「駄目だ!」


 紅蓮が即座に止める。


「どうして?」


「眠っている相手の服を勝手に動かしてはいけない」


「起きてたら?」


「そういう意味ではない!」


「シグマに聞いてくる」


 フェルンが立ち上がる。


「待て!」


 紅蓮が後ろから抱き上げる。


「離して」


「今は行くな」


「聞くだけ」


「戻ってきても聞くな」


「どうして?」


「シルフ!」


 紅蓮が睨んだ。


「お前のせいで話がややこしくなっているぞ!」


「うちもこんなことになると思ってへんかった!」


 その後。


 シルフは紅蓮、白鬼、黒鬼の三人から長い説教を受けることになった。


 眠っている仲間の服を勝手に動かしてはいけない。


 危険な野営地で、仲間が即座に動けない状態を作らない。


 どれだけ親しい間柄でも、越えてはいけない線はある。


 最初こそ言い訳していたシルフも。


 最後には正座したまま小さくなっていた。


「……はい」


「分かったか?」


「分かりました……」


「本当に?」


「もうせえへん……」


「……反省」


「してます……」


     ◇


 水浴びを終えたシグマが戻る。


 最初に目へ入ったのは。


 地面へ正座し、完全に小さくなっているシルフだった。


「……何があったんだ?」


「聞かんといて……」


「随分叱られたみたいだな」


「シグマさん」


 白鬼が振り返る。


「はい」


「今はシルフさんを甘やかさないでください」


「甘やかしたつもりはないんだけど」


「反省中です」


「そうなのか?」


 シルフを見る。


 顔を上げないまま小さく頷いた。


「何をしたんだ?」


「あとで本人から聞いてください」


「うちから言うん!?」


「当然です」


「無理や……」


 さらに縮こまる。


 紅蓮が額へ手を当てた。


「それとシグマ」


「俺も?」


「ああ」


「何で?」


「少しは、自分の周囲を気にしろ」


「寝てる時にどうしろって言うんだ?」


「寝ていたことを責めているんじゃない」


 紅蓮は一度言葉を選ぶ。


「お前は、自分が思っている以上に周囲から慕われている」


「……?」


「何気なく優しくしたことで、相手を安心させることもある」


 一拍。


「同時に、別の感情を抱かせることもある」


「別の感情?」


「今すぐ理解しろとは言わない」


 紅蓮は小さく息を吐く。


「ただ、何も考えずに距離を近付け続ければ、いつか誰かが傷付くかもしれない。それだけは覚えておけ」


 シグマは少し黙った。


 完全には分からない。


 ただ。


 今朝のシルフ。


 白鬼と黒鬼。


 色々な顔が浮かんだ。


「……分かった」


「本当に?」


「分からない部分もある。でも、考えるよ」


「ならいい」


     ◇


 野営地を片付け、一行は再びアルランカへ向かった。


 御者は紅蓮、白鬼、黒鬼、シルフの順に交代する。


 昨日、シグマとフェルンへ任せきりにした分を取り戻すつもりなのだろう。


 道中。


 珍しくシルフはほとんど喋らなかった。


 御者台では前だけを見つめ。


 交代すれば荷台の隅へ。


 白鬼や黒鬼も、さすがにこれ以上からかうことはしない。


 そんな少し気まずい空気の中。


 フェルンだけは上機嫌だった。


「アルランカには、シグマの部屋がある?」


「ああ。猫夜亭の二階に借りてる」


「大きい?」


「一人で寝るには十分だけど、広くはない」


「フェルンも寝る」


「フェルンの部屋を用意してもらえるか、マリアさんに相談しよう」


「一緒でいい」


「それは良くないだろ」


「どうして?」


 シグマが答えに困る。


 御者台から紅蓮の声が飛んできた。


「どうしてもだ」


「紅蓮、そればっかり」


「説明しても納得しないだろう」


「シグマはいいって言う」


「まだ言ってないよ」


 フェルンが見上げる。


「駄目?」


「まずマリアさんに相談しよう」


「駄目って言ってない」


 都合の良いところだけ受け取ったらしい。


 嬉しそうにシグマの腕へ抱きついた。


「アルランカへ着いたら、何か欲しいものはある?」


「欲しいもの?」


「服とか靴とか。旅に必要なものを揃えないと」


「シグマと行く?」


「ああ」


「なら何でもいい」


「自分で欲しい物を選んでいいんだぞ」


 フェルンは少し考える。


「……櫛」


「櫛?」


「シグマが髪とかす」


「俺が?」


「うん」


 シグマは苦笑した。


「分かった。櫛も買おう」


 そんな話を続けているうちに。


 街道の先へ、アルランカの城壁が見えてきた。


「見えました!」


 御者台から白鬼が声を上げる。


 見慣れた外壁。


 門の向こうへ立ち上る煙。


「やっと帰ってきたな」


 紅蓮が息を吐いた。


「やっぱり見慣れた街は落ち着くわ」


 シルフもようやく普段に近い声を出す。


「シルフが喋った」


「うちかて喋るで!」


「ずっと静かだった」


「朝のことは忘れて!」


     ◇


 アルランカの門へ近付くと。


 見張りに立っていた兵士たちが、すぐに馬車へ気付いた。


「おお! 戻ったか!」


「随分長い護衛だったな!」


 何度も顔を合わせている門番たちだ。


 紅蓮が軽く手を上げる。


「少し予定外のことが起きた。詳しい話はギルドへ報告する」


「予定外?」


「話すと長い」


「お前たちの予定外は、大抵ろくでもないからな」


「否定できない」


 馬車が検問所前で止まる。


 シグマたち五人は普段からこの門を利用している。


 門番も顔と所属を覚えているため、今日に限って一人ずつ身分証牌を取り出させるようなことはしなかった。


 だが。


「ん?」


 荷台へ視線が向く。


 銀髪の少女。


「その子は?」


 フェルンの身体が僅かに強張る。


 シグマの服を掴んだ。


「大丈夫だ」


 小さく声をかける。


 フェルンは一度シグマを見上げ。


 胸元へ手を伸ばした。


「これ」


 取り出したのは、小さな金属製のカードだった。


 門番が受け取る。


 表面には狐を模した紋章。


 その下へ。


『フォックス商会 行商人見習い』


 と刻まれている。


 裏側には、この身分をフォックス商会が一時的に保証していることを示す認証紋。


 リッドガルを発つ前。


 レイラがフェルンへ持たせた行商人カードだった。


「フォックス商会?」


 門番の表情が変わる。


 指先から僅かに魔力を流す。


 カードに刻まれた狐の紋章が淡く光った。


「本物だな」


 もう一人の門番も覗き込む。


「フォックス商会の行商人見習いか?」


 フェルンは答えに迷い。


 シグマを見る。


「正式な身分証ができるまで、フォックス商会が一時的に身元を保証してくれてるんだ」


「なるほどな」


 紅蓮も関所から受け取った書類を差し出した。


「護衛の道中で保護した少女だ。リッドガル関所でも確認されている」


 門番がバルガスの印を確認する。


「フォックス商会の身分保証に、リッドガル関所の確認書か」


「ああ」


「それなら十分だ」


 カードがフェルンへ返された。


「大事に持っておけよ。フォックス商会の名が入った認証付きの行商人証は、下手な紹介状より信用がある」


 フェルンがカードを見る。


「これ、大事?」


「かなりな」


 門番が笑う。


 フェルンはカードを両手で持ったまま、シグマを見る。


「レイラ、すごい?」


「ああ」


「フェルンが困らないように用意してくれたんだ」


「……そっか」


 小さく呟く。


「また会えたら、ありがとう言う」


「きっと喜ぶよ」


 門番が門衛へ合図を送る。


「よし。通っていいぞ」


「助かる」


「お帰り」


 門番が皆へ声をかけ。


 最後にフェルンを見る。


「嬢ちゃんも、アルランカへようこそ」


「……うん」


 フェルンは小さく頭を下げた。


     ◇


 街へ入った一行は。


 先に馬車屋へ向かった。


 ノクスとソルを休ませ。


 明日以降の長旅に備えて、馬車そのものも点検してもらう。


「明日の朝にはまた使う」


 紅蓮が店主へ告げる。


「車輪と連結部分を一通り見てほしい」


「任せろ」


「餌も多めに頼む」


 フェルンは二羽を順番に撫でた。


「また明日」


 ソルが頬へ嘴を寄せる。


 ノクスも一度だけ小さく鳴いた。


 二羽を預け。


 一行は歩いて猫夜亭へ向かった。


 扉を開ける。


 食器の音。


 冒険者の笑い声。


 酒場の喧騒。


 依頼掲示板。


 受付へ並ぶ冒険者たち。


「帰ってきたんですね」


 白鬼が呟く。


「……落ち着く」


 黒鬼も周囲を見る。


 シグマ自身も。


 胸の奥にあった緊張が少しずつ解けていくのを感じた。


 いつの間にか。


 ここが、帰ってきたと思える場所になっていた。


 フェルンだけは。


 少し足を止めた。


 知らない人。


 知らない声。


 向けられる視線。


 シグマの服を握る手へ力が入る。


 同時に。


 シグマの胸の奥にも、嫌なざわめきが生まれた。


 人の視線。


 雑多な声。


 だが。


「シグマ」


 フェルンが見上げる。


 シグマは一度息を吐いた。


「大丈夫だ」


「シグマも?」


「ああ」


「怖い?」


「人が多いところは、今も少し苦手だ」


 フェルンがシグマの手を掴む。


「フェルンがいる」


 シグマは一瞬目を丸くした。


 そして。


 小さく笑う。


「ああ。一緒に行こう」


 二人は手を繋ぎ。


 カウンターへ向かった。


     ◇


「次の方、依頼票と受領証をお願いします。討伐証明は右側の箱へ――」


 忙しそうに書類を整理していたリリアンヌが顔を上げる。


 動きが止まった。


「シグマさん!」


 表情が一気に明るくなる。


「皆さんも! お帰りなさい!」


「ただいま戻りました」


 シグマが受領書を差し出す。


「行商人の護衛依頼、完了です」


「本当にお疲れさまでした。予定より遅れていたので、心配していたんですよ」


「色々あってな」


 紅蓮が答える。


「詳しく報告したい。ただ、ここでは話しづらい」


 リリアンヌの視線がフェルンへ向く。


 少女がシグマへ隠れるようにしている姿を見て。


 すぐ察した。


「分かりました」


 受領書の確認だけ手早く済ませる。


「奥の応接室へ移動しましょう」


     ◇


 扉が閉じる。


 外の喧騒が遠ざかった。


 フェルンの肩から少し力が抜ける。


 紅蓮がリッドガル関所の書類を机へ置いた。


「護衛中、積荷の中からこの子を発見した」


「積荷……?」


 リリアンヌの表情が変わる。


「拘束され、衰弱していた。関所で治療を受け、今は動けるまで回復している」


「誰が、そんなことを……」


「関所が調査中だ。バルガスから、後日こちらへ報告が届く可能性がある」


 リリアンヌの拳へ力が入る。


 怒りが浮かぶ。


 だが。


 フェルンが見ていることへ気付き。


 表情を和らげた。


「名前を聞いてもいいですか?」


 フェルンはシグマの手を握る。


「……フェルン」


「フェルンちゃんですね」


 リリアンヌが微笑む。


「私はリリアンヌです。このギルドで受付をしています」


「受付?」


「冒険者の皆さんが困った時に、依頼や身分証の手続きをする仕事です」


「シグマを助ける?」


「はい」


「なら、いい人?」


「そうありたいですね」


 フェルンは少し考える。


「困ったらシグマに言う」


「私ではなく?」


「シグマ」


「少し寂しいですが、それでも大丈夫です」


 やがて。


 話を聞いたマリアとシルビアも部屋へ入ってくる。


 説明を聞くほど。


 マリアの表情は険しくなった。


「子供を荷物として運んでいただと?」


「関所が調査中だ」


 紅蓮が答える。


「依頼主がどこまで関与していたのかも、まだ分からない」


「関係者全員、私の前へ並べたいところだな」


 低い声。


 隣でシルビアがフェルンと同じ高さまで腰を落とす。


「怖かったよな」


 フェルンは答えない。


「話したくないなら話さなくていいから」


 それ以上聞かない。


「腹が減ったら言え。美味いもん作るから」


「シグマより?」


「いきなり厳しい質問だね」


 シルビアは苦笑する。


「食べてから決めて」


「分かった」


 マリアがフェルンを見る。


「今夜、行く場所は?」


 首を横へ振る。


「なら、ここへ泊まれ」


「ここ?」


「部屋と飯くらいなら用意できる」


 一度言葉を止める。


「落ち着いて、その気になったら店を手伝ってもいい。今すぐ働けという話じゃない」


 フェルンがシグマを見る。


「シグマもここ?」


「俺の部屋は二階だ」


「なら、ここにいる」


 マリアが頷く。


「身分証は?」


 フェルンは胸元から例のカードを取り出す。


「これ」


 リリアンヌへ渡す。


「フォックス商会の行商人見習い証……」


 リリアンヌが少し驚く。


「レイラさんが用意してくれた」


 シグマが説明する。


「正式な身分証ができるまで、商会が一時的に身元を保証するって」


「なるほど」


 リリアンヌが表裏を確認する。


「これならアルランカの門も問題ありませんね」


「かなり信用あるらしいな」


「ありますよ。フォックス商会は各地を行き来する大きな商会ですから」


 フェルンへカードを返す。


「ただし、これはフォックス商会の行商人として、一時的に身元を保証している証です」


「これじゃ駄目?」


「当面の移動だけなら使えます」


 リリアンヌがシグマの首元を見る。


「でも、これから長い旅をするのであれば、フェルンちゃん自身の身分証牌も作った方がいいでしょう」


「シグマと同じ?」


「似た形になります」


「作る」


 即答。


 マリアが腕を組む。


「保証人が必要なら私がなる」


「ありがとうございます。それなら問題ありません」


 名前。


 年齢。


 話したくないことは未確認。


 出身地も親族も無理には書かない。


 リッドガル関所の確認書。


 フォックス商会の行商人証。


 そしてマリアの保証。


 それらを基に登録が進む。


「ここへ手を置いてください」


 フェルンが登録用の水晶板へ手を置く。


 淡い光。


 魔力紋が記録される。


 しばらくして。


 角を丸めた細長い金属製のプレートへ文字と認証紋が刻まれた。


 細い鎖を通す。


「できました」


 リリアンヌが差し出す。


「フェルンちゃん自身の仮身分証牌です」


 フェルンが受け取る。


 名前。


 アルランカで登録されたことを示す認証。


 仮登録の印。


 フェルンは新しい身分証牌と。


 フォックス商会の行商人カードを見比べた。


「こっちは、もういらない?」


「いいえ」


 リリアンヌが首を横へ振る。


「フォックス商会がフェルンちゃんを助けるために用意した、大切な証明です。期限が切れるまでは持っていてください」


 シグマも頷く。


「あれがあったから、門でも困らなかっただろ」


「……うん」


 フェルンは行商人カードを大切そうにしまう。


 そして。


 新しい身分証牌を首へ掛ける。


 胸元で、小さな金属板が揺れた。


 シグマの物と見比べる。


「シグマと同じ」


「ああ」


「フェルンの名前」


「今度はフェルン自身のものだよ」


 その言葉に。


 フェルンはしばらく身分証牌を見つめる。


「……フェルンの」


「ああ」


 シグマが銀色の髪を撫でる。


 フェルンは嬉しそうに目を細めた。


     ◇


 一通りの手続きを終えたところで。


 紅蓮が空気を切り替えた。


「マリアさん。それとシルフ。もう一つ話したいことがある」


「うちの依頼やな?」


「ああ」


 シルフの表情から軽さが消える。


 マリアも察した。


「全員、マスター室へ来い」


     ◇


 大きな机へ地図が広げられた。


 アルステラ王国。


 その南に広がる巨大な原生林。


 さらに南。


 かつてグランディア王国が存在した地域。


 東側にはディアグランディア。


 西側にはシルトウォーデン。


 南の果てには海。


 シグマ。


 紅蓮。


 白鬼。


 黒鬼。


 シルフ。


 フェルン。


 そしてマリア。


 七人が地図を囲んだ。


「明日の夜明けから、グランディア跡地調査へ本格的に動き始める」


 紅蓮の言葉に、空気が引き締まる。


 この依頼を受けたのは、ずっと前だ。


 その後。


 馬車の準備や護衛任務。


 予想外の出来事が重なった。


 だが。


 ようやく本来の目的へ向けて出発できる。


「ようやくやな」


 シルフが地図を見下ろす。


「このためにアルランカまで来たんや」


「本当の旅はこれからだ」


 紅蓮が答えた。


「まず、王都アルスラを目指す」


「やっぱり、最初は王都経由か」


 シルフが地図へ顔を近付ける。


 白鬼が首を傾げた。


「真っ直ぐ南へ向かうのではないんですか?」


「それも選択肢ではある」


 紅蓮がアルランカから南へ指を滑らせる。


「このまま真南へ進めば、大原生林までは馬車でおよそ一か月半だ」


「一か月半……」


 白鬼が目を瞬く。


「思ったより遠いですね」


「ああ」


 紅蓮は今度はアルランカの位置へ指を戻した。


 そこから地図の左下――西南西へ向けて、ゆっくり指を滑らせていく。


 指先が止まったのは。


 アルステラ王国の中央部に記された、大きな都市だった。


「王都アルスラはここだ」


 シルフも頷く。


「アルランカが、アルスラから見て東北東やから……ここからなら西南西やな」


「ああ」


 紅蓮が答える。


「王都までは馬車で、およそ三週間」


「三週間いうても、ずっと走り続けてって話やないやろ?」


 シルフが尋ねる。


「その通りだ」


 紅蓮の指が、アルランカからアルスラまでの街道をなぞる。


「街道が一直線に王都まで続いているわけではない」


 道の途中には。


 いくつもの小さな点が記されていた。


「途中には大小問わず、多くの村や町がある」


「全部に寄るん?」


「全部ではない」


 紅蓮が答える。


「だが、補給可能な集落を何日も飛ばし、無理に走り続けるつもりもない」


「食料と水の補給?」


 白鬼が尋ねる。


「ああ。それだけじゃない」


 シグマが地図を見る。


「ノクスとソルを休ませないといけない。馬車の車輪や連結部分も、長く走れば少しずつ傷む」


「数日ごとに状態を確かめた方がいい」


 紅蓮も頷いた。


「天候が崩れて、一日動けないこともある。大雨で川が増水すれば足止めもされる」


「橋が壊れとったら?」


「迂回だ」


「それだけでも何日か増えるな」


「そういうことだ」


 紅蓮が次の村を指す。


「三週間というのは、あくまで順調に進んだ場合の目安だ」


「遅れたら一か月くらい?」


 白鬼が聞いた。


「状況次第では、そのくらい考えておいた方がいい」


 今度はシグマが口を開く。


「それに、村へ寄る意味は休憩だけじゃない」


「情報?」


 シルフが聞く。


「ああ」


 シグマが頷いた。


「数日先、数週間先の街道が、今も安全とは限らない。橋が壊れたとか、魔物が増えたとか、盗賊が出始めたとか」


「そういう情報は旅人同士でも集まる」


 マリアが続ける。


「商人は特にな。道が商売に直結するから、街道の変化には敏感だ」


「馬車を直せる場所や、水を確保できる場所を把握しておくことも重要だ」


 紅蓮が付け足す。


「何かあって撤退することになった時にも役に立つ」


 シグマも頷いた。


「長い旅なら、先のことだけ考えてればいいわけじゃないからな」


 白鬼は地図に点在する村々を見つめる。


「こうして見ると……三週間でも、かなり色々ありそうですね」


「せやな」


 シルフも腕を組んだ。


「距離だけ聞いたら三週間くらいやけど、村に寄って情報集めて、鳥を休ませて、道の状態まで考えたら単純にはいかへんな」


「その認識でいい」


 紅蓮が頷く。


「そして、王都アルスラへ寄る一番大きな理由が――」


 指先が地図の南へ移動する。


 巨大な原生林。


「ここだ」


「大原生林」


 シルフが呟いた。


「ああ」


「アルステラ側から正式に大原生林へ入るには、王都アルスラで通行許可を受ける必要がある」


「森に入るだけで?」


 フェルンが首を傾げる。


「普通の森なら必要ない」


 紅蓮の表情が真剣になる。


「ここは違う」


 マリアも地図を見つめた。


「大原生林を、ただの大きな森だと思うなよ」


「そんな危険なん?」


 シルフが尋ねる。


 紅蓮が一言。


「竜種がいる」


 室内が静かになる。


「……竜?」


 白鬼が聞き返した。


「ああ。先日戦ったワイバーンのような亜竜ではない。本物の竜種が縄張りを持つ地域もある」


「それだけじゃない」


 マリアが続ける。


「巨人種。巨獣。大型魔獣。群れで動く肉食魔獣」


「中には、一体で村一つを壊滅させられるような魔獣もいる」


 紅蓮が森の上へ指を滑らせる。


「しかも厄介なのは、魔獣だけではない」


「森自体?」


 シルフが聞く。


「ああ」


「木々が巨大で、奥へ入れば昼でも薄暗い場所がある。街道を外れれば、空すらまともに見えない」


 シグマも地図を見る。


「魔力の濃い地域では、方角を示す魔道具が狂うこともあるらしい」


「遭難したら?」


 フェルンが聞く。


「自力で戻れない可能性がある」


 紅蓮が答えた。


 シルフはしばらく森を見つめた後。


 少し考えるように腕を組んだ。


「一応聞いときたいんやけど」


「何だ?」


「うちらだけで、無許可で抜けるんは?」


 紅蓮の眉が僅かに動く。


 シルフはすぐに両手を上げた。


「待って待って。勝手に行く言うてへんで」


「……」


「選択肢としてや」


 一度地図を叩く。


「真っ直ぐ南なら原生林まで一か月半やろ?」


「ああ」


「王都へ寄ったら三週間。そっから森までは?」


「王都から南へ二、三週間ほどだ」


 シルフが指を使って数える。


「ほんなら……王都経由でも全部で五、六週間くらい?」


「天候や街道の状態によって前後するが、おおよそはな」


「思ったほど変わらへんな」


 白鬼が不思議そうに首を傾げた。


「地図を見ると、かなり遠回りに見えますけど」


「王都までの街道が整備されているからだ」


 紅蓮が答える。


「主要街道は道幅も広い。橋も比較的整備され、村や宿場も多い」


 シグマも頷いた。


「南へ直接向かう道は、途中から山や森が増える。直線距離は短くても、馬車で走れる速度が落ちるんだろうな」


「なるほど」


 白鬼が納得したように頷く。


「なら、なおさら王都経由でええんちゃう?」


 シルフが言った。


 だが、一度原生林を見る。


「……それでも聞いときたい」


「何だ?」


「許可書なしでも、うちらだけで抜けられる可能性はあるん?」


「結論から言えば」


 紅蓮が即答した。


「私は反対だ」


「理由は?」


「危険すぎる」


「やっぱり?」


「ああ」


 紅蓮は大原生林を指す。


「許可証の意味を勘違いするな」


「?」


「単に『森へ入ってよい』と認める紙ではない」


 マリアが続ける。


「アルステラ側から原生林へ入る者は、どの経路を使うか記録される」


「さらに王都で、その時点の危険区域や魔獣の目撃情報を確認できる」


 紅蓮が言った。


「竜種が縄張りを変えた」


「巨獣の群れが移動した」


「古い道が使えなくなった」


「そういう情報か?」


 シグマが尋ねる。


「ああ」


 紅蓮が頷く。


「知らずに竜種の縄張りへ入ったら、戦う以前の問題だ」


「逃げるしかない?」


 フェルンが聞いた。


「逃げられれば、だ」


 紅蓮の答えに。


 フェルンが少し目を見開いた。


「私たちの目的は、大原生林の魔獣を討伐することではない」


 紅蓮が全員を見る。


「グランディア跡地へ辿り着き、土の大聖霊石の状態を確認することだ」


「森の中で消耗して、跡地まで辿り着けんかったら意味ないもんな」


 シルフが言った。


「ああ」


「……せやな」


 シルフは大原生林を見つめ。


 素直に頷いた。


「無許可突破は無しでええと思う」


「お前がそう言ってくれると助かる」


「何やその言い方」


「お前なら『竜おるん? ちょっと見てみたい』くらい言いそうだからだ」


「……ちょっと思ったけど」


「シルフ」


「行かへん! 行かへんって!」


 白鬼が苦笑する。


 フェルンは大原生林を見つめていた。


「ハクより大きい魔獣もいる?」


「いるだろうな」


 シグマが答える。


「もっと?」


「ああ」


「なら逃げる」


「それでいい」


 紅蓮が即答する。


「戦う必要のない相手とは、最初から戦わない」


「王都へ行かない方法は、ほかにもあるんですよね?」


 白鬼が尋ねた。


「ある」


 紅蓮が指を三本立てる。


「現実的に考えられるのは三つだ」


 一本目。


 王都アルスラ。


「一つ目。今話している通り、王都アルスラへ向かう」


 指先が王都から南へ。


「そこで通行許可を取り、アルステラ側の管理された経路から原生林を抜ける」


 二本目。


 指が東へ動く。


「二つ目。東側へ大きく回り、ディアグランディア側から原生林へ入る」


「国境越えやな」


 シルフが言う。


「ああ」


「それも相当遠回りちゃう?」


「王都経由よりは時間が掛かる可能性が高い」


 紅蓮が答える。


「国境を越える手続きも必要になる」


「それに」


 マリアが口を挟む。


「ディアグランディア側の情勢も確認しなければならない」


「安全に通れる保証はない?」


「ああ」


 三本目。


 紅蓮の指がさらに南東。


 原生林そのものを大きく迂回する。


「三つ目」


 指先が南の海へ達する。


「さらに遠回りして、海側まで出る」


「海?」


 白鬼が覗き込む。


「原生林の外側を回り、南側から直接、旧グランディア領の砂漠へ入る」


「森を抜けなくてええん?」


 シルフが尋ねる。


「ほとんどな」


 白鬼が少し明るい顔になる。


「それなら、一番安全なのでは?」


「森に関してだけなら、だ」


 シグマが答える。


「そこまで回り込むだけで、さらにひと月以上余計に掛かる可能性がある」


「海沿いだから安全という保証もない」


 紅蓮が続ける。


「街道が整備されていない場所。崖。湿地。馬車では進めない地域もあるだろう」


「町も少ない」


 マリアが言う。


「水と食料の補給は、王都経由より難しくなる」


「さらに砂漠へ直接入れば、水の確保が問題になる」


 紅蓮が締める。


「なるほどなぁ」


 シルフが頭を掻く。


「森を避けたら全部解決ってわけやないんやな」


「そういうことだ」


 そこで。


 フェルンが地図の西側を指した。


「こっちは?」


 シルトウォーデン。


 紅蓮が首を横へ振る。


「そのルートは最初から考えない」


「どうして?」


「シルトウォーデン側は、基本的に人間の通行が認められていないからだ」


「入れない?」


「ああ」


 紅蓮はそれ以上余計な説明を加えず。


 ただ現実的な問題だけを話した。


「許可を求めるために向かうにしても遠すぎる。何週間も掛けて国境まで移動し、そこで拒否されれば大幅な時間の損失になる」


「なら無しやな」


 シルフがあっさり切り替える。


「現実的には、王都アルスラか、ディアグランディア経由」


「そうなる」


 紅蓮は王都へ指を置く。


「私は、まずアルスラを目指すべきだと思っている」


「やっぱ許可書が一番の理由?」


「それが大きい」


 紅蓮が頷く。


「だが、もう一つある」


「情報やな?」


 シルフが先に言った。


「ああ」


「原生林の最新情報もやけど……」


 シルフがグランディア跡地を見る。


「跡地そのものの情報も王都の方が多そうや」


 シグマが頷いた。


「俺もそう思う」


 全員の視線がシグマへ向く。


「アルランカにも資料はある。でも王都なら、グランディアがまだ国として存在していた頃の記録が残ってるかもしれない」


「土の大聖霊石についても?」


 白鬼が尋ねる。


「可能性はある」


「それなら寄る価値はあるな」


 マリアも頷く。


「森を抜ける許可を取るだけじゃない」


 紅蓮が言った。


「アルスラまでの三週間も含めて、グランディアへ向かうための準備期間と考える」


「途中の村でも情報を集める」


「必要なら依頼も受ける」


「馬車の状態も整えながら進む」


「そうだ」


 シルフが大きく息を吐く。


「三週間か」


「今さら怖くなったか?」


「逆や」


 シルフは少し笑う。


「ちょうどええくらいやと思っただけや」


「何がだ?」


「いきなり原生林に突っ込むんやなくて、村や町を回りながら旅して、その先に王都がある」


 地図を眺める。


「ようやく本格的な旅が始まる感じするやん」


 紅蓮がアルランカから西南西へ続く街道へ指を滑らせる。


「明日の朝、アルランカを出たら」


 最初の小さな村を指した。


「まずここを目指す」


「何日くらいですか?」


 白鬼が尋ねる。


「天候に問題がなければ数日だ」


「そこで一泊?」


「状況次第では二泊する」


「二泊も?」


「ノクスとソルの調子。馬車の状態。次の村までの道の情報。それを確認する」


「なるほど……」


 地図の上には。


 小さな村。


 町。


 川。


 山。


 森。


 さらに村。


 それらが点々と続いている。


 そして。


 その先に。


 王都アルスラ。


「三週間」


 シルフが呟く。


「順調ならな」


 紅蓮が答える。


「そこはやっぱり付けるんやな」


「必要だからな」


「途中で仕事することもあるん?」


 シルフがマリアへ尋ねる。


「必要ならな」


 マリアが答えた。


「宿代。食費。馬車の補修。ノクスとソルの餌。三週間とはいえ、六人で馬車旅をすれば金は掛かる」


「村で魔物討伐とか護衛の依頼を受けながら進むのもありか」


「あまり大きな依頼を受けて足止めされるのは避けろ」


「分かっとる」


「本当に?」


「今日、うち信用なさすぎん?」


「今日だけではない」


「紅蓮!」


 小さな笑いが起こる。


 だが。


 紅蓮はすぐに表情を戻した。


「一つだけ、今のうちに全員へ言っておく」


 全員が見る。


「これは短い遠征じゃない」


 静かな声。


「王都アルスラまで、およそ三週間」


 大原生林を指す。


「そこから原生林へ辿り着くまで、さらに二、三週間」


 そして。


 グランディア跡地へ指を移す。


「森を越えてからも、グランディア跡地までどれだけ掛かるかは分からない」


「……」


「今後の状況次第では、目的地へ着く頃には季節が変わっている可能性もある」


 紅蓮が地図へ置いた手を握る。


「だから焦るな」


 全員を見る。


「一日早く進むことより、一人も欠けずに次の村へ到着することを優先する」


 白鬼が頷く。


「はい」


「……分かった」


 黒鬼も続く。


 シルフも今度は冗談を挟まなかった。


「了解や」


「フェルンも」


 紅蓮が見る。


「分かった」


「勝手に馬車を進めるなよ」


「しない」


「本当に?」


「紅蓮、シルフとフェルンで信用の差が酷ない?」


「実績の差だ」


「うち何したん!?」


 白鬼が小さく笑った。


 シグマも地図を見る。


 王都アルスラ。


 そこまで三週間。


 決して近くはない。


 けれど。


 途方もない距離というほどでもない。


 いくつもの村や町を通り。


 様々な人と出会い。


 一歩ずつ。


 南へ近付いていく。


 その先には。


 大原生林。


 砂漠。


 そして。


 グランディア跡地。


「俺も紅蓮の案に賛成だ」


 紅蓮を見る。


「まずはアルスラへ行こう」


「ああ」


 シルフも頷く。


「決まりやな」


 マリアが地図を見下ろした。


「なら、最初の目的地は王都アルスラだ」


 そして。


 全員を見る。


「ただし」


「?」


「三週間先の王都ばかり見て、明日の最初の村で転ぶなよ」


 シルフが噴き出す。


「それ紅蓮よりマリアさんが言う方が怖いわ」


「なら覚えておけ」


 明日の朝。


 長い旅の。


 本当の最初の一日が始まる。


     ◇


 話し合いを終えると。


 紅蓮たちは各自の準備へ戻っていった。


 シグマとフェルンは猫夜亭へ残る。


 シグマの荷物は少ない。


 装備と衣類。


 必要最低限の道具。


 確認はすぐ終わる。


 フェルンには旅道具が必要だった。


「買い物へ行こう」


「買い物?」


「靴。外套。着替え。水筒もいる」


「櫛」


「ああ。忘れてない」


「シグマと二人?」


「ああ」


 尻尾が嬉しそうに揺れた。


     ◇


 夕方前の市場は賑わっていた。


 露店。


 荷車。


 買い物客。


 人混みへ入った途端。


 フェルンの歩みが少し遅くなる。


 シグマの胸も僅かにざわついた。


 それでも。


 フェルンへ手を差し出す。


「ここは人が多い。離れないようにしよう」


「手、繋ぐ?」


「ああ」


 すぐ握る。


「離さない」


「俺も離さないよ」


 まず靴。


 底が厚く、足首を固定できる物。


「少し歩いてみて」


 フェルンが店内を歩く。


「痛くないか?」


「大丈夫」


「指は?」


「当たってない」


「本当に?」


「シグマ、心配しすぎ」


「長く歩いてから痛くなると困るからな」


 次は外套。


 着替え。


 水筒。


 携帯食器。


 毛布。


 簡単な手当て用品。


 そして。


「これ」


 櫛の露店で立ち止まる。


 木製。


 金属製。


 その中で。


 小さな狼の飾りが付いた櫛を選んだ。


「気に入った?」


「これがいい」


「じゃあこれにしよう」


「シグマが使う」


「フェルンの髪にな」


「毎朝」


「毎朝?」


「毎朝シグマがとかす」


「自分でも練習しような」


「シグマがいる時はシグマ」


「分かったよ」


 買い物を終えると。


 保存食なども補充する。


 大半の長期遠征用物資は、護衛依頼へ出る前から準備してある。


 今日買うのは。


 足りなくなった分。


 フェルンの分。


 そして、道中で消耗する可能性が高い品の追加程度だった。


 買った物は馬車屋へ運ぶ。


 ノクスとソルの様子を確認し。


 猫夜亭へ戻る頃には。


 夕食時になっていた。


     ◇


 扉を開けた瞬間。


 シグマは違和感を覚えた。


「……静かだな」


 普段なら。


 一番賑わう時間。


 だが。


 食堂には冒険者がいない。


 代わりに。


 大きなテーブルへ大量の料理が並べられていた。


「お帰り!」


 シルビアが近付く。


「ちょうどいいところに戻ったな」


「これは?」


「いいから座れ」


 背中を押され。


 シグマとフェルンは席へ座らされた。


 奥からマリアとリリアンヌも出てくる。


「ほかの四人が来たら始める」


 マリアが言った。


「何をです?」


「見れば分かるだろ」


 大きな肉料理。


 魚。


 煮込み。


 パン。


 果物。


 菓子。


「まさか、俺たちのために?」


「明日から、この店の飯を食えなくなるだろ」


 シルビアが答える。


「今夜くらい腹いっぱい食っていけ」


「ほかのお客さんは?」


「今日は貸し切りだ」


「急に?」


「はい」


 リリアンヌがにこやかに答える。


「たくさん苦情をいただきました」


「やっぱり……」


「ですがマリアさんが一喝しましたから」


「一晩くらい別の店で食えと言っただけだ」


「文句を言い続けた方には、一週間薬草採取しか回さないとも言いました」


「それは職権乱用じゃ?」


「静かになった。問題ない」


「問題しかないような……」


 ほどなくして。


「なんやこれ!」


 シルフ。


 続いて。


 紅蓮。


 白鬼。


 黒鬼。


「これは、すごいな」


「全部食べていいんですか?」


「……甘い物もある」


 黒鬼の目は既に菓子へ。


「座れ」


 全員が席へ着いた。


 フェルンには果実水。


 白鬼と黒鬼には薄めた果実酒。


 シグマ。


 紅蓮。


 シルフには冷えたエール。


 マリアが杯を持つ。


「護衛依頼から無事に帰ったことを祝って」


 一度。


 皆を見る。


「それから」


 少しだけ声が落ち着く。


「これから始まる長旅に」


 杯を掲げる。


「湿っぽい顔はするな」


「誰もしてへんで」


 シルフが笑う。


「朝はしてた」


 フェルンが言った。


「今それ言う?」


「何かあったのか?」


 シルビアが興味を示す。


「何もあらへん!」


 シルフが即答。


 白鬼と黒鬼が顔を見合わせる。


「今は食事にしましょう」


「……反省した」


「黒鬼ちゃん!」


 笑いが起こる。


 マリアも僅かに笑った。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 杯が触れ合った。


     ◇


 宴は賑やかだった。


 シルビアが肉料理を切り分ける。


「新しい香辛料を使った。感想を聞かせてくれ」


 シグマが一口。


「美味しい」


「それだけ?」


「辛味が強いけど、果実の甘みで食べやすい」


「そう。それが聞きたかった」


「フェルンも」


「少し辛いぞ」


「大丈夫」


 一口食べる。


 尻尾が勢いよく揺れた。


「おいしい」


「シグマの料理とどっちが上?」


 シルビアが笑う。


 フェルンはほとんど迷わなかった。


「シグマ」


「もう少し悩め!」


「でも、これもおいしい」


「それだけで十分だよ……」


 白鬼と黒鬼は菓子を半分ずつにする。


 紅蓮はマリアと酒。


 シルフはシルビアへ料理を習う。


「この魚、甘いのに後味さっぱりやな」


「柑橘と蜂蜜」


「焦げへんの?」


「火を強くしすぎなければ」


「今度試してみよ」


「鍋を燃やすなよ」


「何でうちが料理したら燃える前提なん!」


「実績がありますから」


 リリアンヌが答える。


「厨房で鍋を二つ駄目にしましたよね」


「あれは鍋が古かったんや!」


「新品でした」


「覚えとるんかい!」


 笑い声。


 フェルンも少しずつその空気へ馴染んでいく。


「フェルンちゃん」


 リリアンヌが焼き菓子を差し出す。


「こちらもどうですか?」


「何?」


「蜂蜜と赤い果実です」


 シグマを見る。


「食べていいよ」


 一口。


「甘い」


「気に入りました?」


「うん」


「旅に持っていく分も包んでおきますね」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 それから。


 昔話に花が咲いた。


 シルフが酔ってテーブルの下で眠った夜。


 白鬼と黒鬼が同じ服を買った話。


 紅蓮がマリアへ腕相撲を挑み。


 何度負けても再戦した話。


「今日こそ勝つ」


 紅蓮が腕を出した。


「明日出発だぞ」


「だからこそ今日勝つ」


「意味が分からんな」


 マリアも腕を置く。


「始め!」


 シルフの合図。


 机が軋む。


「う……ぐ……!」


「前よりは強くなった」


「まだだ!」


 数秒。


 どん。


 紅蓮の手が机へ叩き付けられる。


「もう一度!」


「明日に響く」


「今のは手が滑った!」


「毎回それ言うなあ」


 笑いが続く。


     ◇


 宴の最後。


 シルビアが大きな丸い焼き菓子を運んできた。


 赤い果実で。


 少し不格好な文字。


『いってらっしゃい』


 食堂が少しだけ静かになった。


「さよならって書くのは、嫌だったからな」


 シルビアが頭を掻く。


「だから、これでいい」


 シグマは文字を見る。


 胸の奥が温かい。


 それと同時に。


 言葉にしづらい寂しさも湧いた。


「ありがとう」


 シルビアを見る。


「行ってくるよ」


「ああ」


 白鬼が笑う。


「たくさんお土産話を作りましょう」


「……いっぱい」


 黒鬼も頷く。


「うちも色んな国見てみたいわ」


 シルフが言う。


 マリアは何も約束させなかった。


 ただ。


 杯を持ち上げる。


「どこまで行くことになっても」


 全員を見る。


「生きてろ」


 短い言葉。


 それだけだった。


 シグマも静かに頷いた。


「ああ」


     ◇


 宴が終わる頃。


 フェルンは椅子で眠っていた。


 シグマがそっと抱き上げる。


「おやすみなさい、シグマさん」


 白鬼が手を振る。


「……おやすみ」


 黒鬼も。


 紅蓮がシグマを見る。


「明日は早い。少しでも休め」


「ああ」


「寝坊するなよ」


「それ、シルフに言った方がいい」


「何でうちやねん!」


「朝から色々あったからな」


「もう忘れて言うたやろ!」


 最後まで。


 いつものやり取り。


 四人もそれぞれ休むため、猫夜亭を後にした。


 シグマはフェルンを抱いたまま二階へ上がる。


 部屋へ入ると。


 フェルンを寝台へ寝かせ。


 毛布を掛けた。


 眠ったまま。


 フェルンがシグマの指を掴む。


「ここにいるよ」


 小さく声をかけると。


 少しだけ力が緩んだ。


     ◇


 だが。


 シグマは眠れなかった。


 明日から始まる。


 長い旅。


 まずは。


 王都アルスラ。


 そこまで、およそ三週間。


 その後。


 大原生林。


 その先のグランディア跡地。


 土の大聖霊石。


 そして。


 今日。


 何度も耳にした。


『いってらっしゃい』


 その言葉が。


 胸の奥へ残っていた。


 シグマはしばらく寝返りを繰り返す。


 やがて。


 静かに起き上がった。


 フェルンを起こさないよう部屋を出る。


 一階へ降りる。


     ◇


 食堂は暗い。


 だが。


 受付の奥だけ、まだ灯りが残っていた。


 リリアンヌが一人。


 書類を整理している。


「まだ仕事してたんですか?」


 リリアンヌが顔を上げた。


「シグマさん?」


「眠れなくて。少し外の空気でも吸おうかと思って」


「明日は早いんですよ?」


「分かってるんですが」


 カウンターの前へ座る。


「リリアンヌさんこそ、まだ終わらないんです?」


「あと一枚です」


 手を止めずに答える。


「護衛依頼の完了処理。明日からの調査依頼。それからフェルンちゃんの登録記録」


「俺たちのせいで仕事増やしましたね」


「仕事を増やすのはいつものことではありませんか?」


「否定できません」


「冗談です」


 小さく笑う。


「シグマさんが初めてここへ来た時も、こんな時間まで登録作業をしていましたね」


「そんなに?」


「本人が話してくれませんでしたから」


「人が多かったので」


「名前を聞いても黙ってました」


「警戒してたんです」


「水晶板へ手を置いてくださいと言っても?」


「何をされるか分からなかった」


「説明しましたよ?」


「その説明を信じていいのか分からなかった」


「酷いですね」


「すみません」


 リリアンヌは懐かしそうに笑う。


「あの頃は、いつでも扉から逃げられる場所に立っていました」


「そんなところまで見てたんですか?」


「受付ですから」


 最後の書類へ印を押す。


「今も同じに見えます?」


 リリアンヌが顔を上げる。


「少しだけ」


「まだ警戒してる?」


「はい」


 それから。


 少し微笑んだ。


「でも、昔とは違います」


「何が?」


「昔は、自分が逃げる道だけを見ていました」


 静かな声。


「今は、周りの人が逃げられる道も見ています」


 シグマは黙る。


「白鬼さんと黒鬼さんが来て」


「……」


「紅蓮さんとシルフさんと旅をするようになって」


「……」


「今日はフェルンちゃんまで連れてきました」


「見つけたら放っておけなかっただけです」


「そういうところですよ」


 リリアンヌが書類を揃える。


「変わりましたね」


「良い方に?」


「もちろん」


「なら良かった」


「ただ」


 少しだけ声が落ちた。


「自分の逃げ道も、ちゃんと残してくださいね」


 シグマが見る。


「人の逃げ道ばかり探して、自分だけ逃げられなくなったら意味がありませんから」


「……気を付けます」


「それなら十分です」


 リリアンヌは大きく息を吐いた。


「終わりました」


「お疲れさまです」


「シグマさん」


「はい?」


「少しだけ、お酒を飲みませんか?」


「明日は早いですよ」


「それは先ほど私が言いました」


「忘れたんです?」


「忘れていません」


 少しだけ視線を落とす。


「ただ……」


「?」


「今日くらいは、一緒に飲んでもいいかなと思っただけです」


 シグマは断らなかった。


「少しだけなら」


「シグマさんの少しは信用できませんね」


「俺は酒に強いだけです」


 リリアンヌは奥へ行く。


 しばらくして。


 小さな樽を抱えて戻った。


「それは?」


「マリアさんの秘蔵のお酒です」


「勝手に飲んで大丈夫なんですか?」


「本来は駄目です」


「駄目なんですね」


「ですが」


 リリアンヌが人差し指を立てる。


「これはマリアさんが私に内緒で、ギルドのお金を使って購入した酒です」


「それなら余計に駄目では?」


「ギルドのお金で買った以上、職員である私にも品質確認の義務があります」


「今考えましたよね?」


「細かいことを気にしてはいけません」


 厚いグラスを二つ。


 指先に魔力を集め。


 丁度いい大きさの氷を作る。


「氷魔法も使えたんですね」


「このくらいなら」


 琥珀色の酒が注がれる。


 甘く深い香り。


 リリアンヌはカウンターを回り込み。


 シグマの隣へ座る。


 こつん。


 グラスが触れた。


「お疲れさまでした」


 それから。


 少しだけ寂しそうに笑う。


「そして、これからのシグマさんの旅路に」


「ありがとう」


 二人で酒を飲む。


「美味しいですね」


「でしょう?」


「マリアさんが隠す理由も分かる」


「私たちに飲まれると思ったのでしょうね」


「実際飲まれてます」


「マリアさんの判断は正しかったということですね」


 二人で小さく笑った。


 そこから。


 昔話に花が咲いた。


 初めてゴブリンの討伐証明を持ってきた日。


 袋を受付で開いて止められたこと。


 白鬼と黒鬼が報酬を何度も数えたこと。


 シルフが受付台へ座り。


 マリアに放り落とされたこと。


「色々ありましたね」


「あっという間だった気がします」


「私もです」


「アルランカへ来た頃は、長くいるつもりなかったんです」


「そうだったんですか?」


「人が多い場所は苦手だったから」


「今も苦手ですよね」


「ああ。でも」


 シグマは暗い食堂を見回す。


「ここは少し違う」


「?」


「帰ってきたと思える場所になった」


 リリアンヌは何も言わなかった。


 ただ。


 嬉しそうに笑った。


 その笑みには。


 少しだけ寂しさも混じっていた。


「それなら」


 リリアンヌが静かに言う。


「ここで過ごした時間を、時々思い出してください」


「忘れないよ」


「本当ですか?」


「ああ」


「白鬼さんたちのことも」


「ああ」


「マリアさんも」


「もちろん」


「シルビアも」


「ああ」


 リリアンヌは少し間を置いた。


「……私のことも」


 シグマはリリアンヌを見る。


「ああ」


「忘れない」


 それだけ。


 リリアンヌは少し目を細めた。


「それなら十分です」


 酒を飲み干す。


 リリアンヌの頬は少し赤くなっていた。


「少し飲みすぎました」


「送ります」


「大丈夫です」


 立ち上がる。


 身体が僅かに揺れた。


 シグマが腕を支える。


「やっぱり送ります」


「平気です」


 リリアンヌがシグマの顔を見上げる。


「シグマさん」


「何です?」


「少しだけ、目を閉じてもらえますか?」


「どうして?」


「いいからです」


 理由は分からなかった。


 だが。


 シグマは目を閉じる。


 次の瞬間。


 頬へ。


 柔らかな感触が触れた。


「……え?」


 目を開ける。


 リリアンヌは一歩離れ。


 顔を赤くしていた。


「旅の餞別です」


「餞別……」


「今のことに、答えはいりません」


「リリアンヌさん?」


「ただ」


 一度だけ視線が揺れる。


「私がそうしたかっただけです」


 そして。


 少し照れたように笑った。


「おやすみなさい、シグマさん」


「……おやすみなさい」


 リリアンヌは受付の奥へ姿を消した。


 シグマは頬へ手を当てたまま。


 しばらく動けなかった。


「何ぼーっとしてるんだ?」


「!?」


 振り返る。


 厨房の入口。


 シルビアが立っていた。


「いつからいた?」


「今来た」


 口元が少し笑っている。


「本当に?」


「何があったかは知らないぞ」


「まだ何も聞いてない」


「なら気にするな」


 シルビアがカウンターへ近付く。


「リリアンヌは?」


「さっき奥へ行ったよ」


「ふーん」


 ニヤリ。


「何だよ」


「何でもない」


 シルビアの腕には水と粉が付いていた。


「まだ仕事してたのか?」


「明日持たせる保存食を作ってた」


「ありがとう」


「礼は食べてから」


 厨房へ戻ろうとして。


 足を止める。


「シグマ」


「何だ?」


「腹、減ってないか?」


 少し考える。


「少しなら」


「味見してくれ」


「保存食?」


「それもある」


 少しだけ視線を逸らす。


「新しい料理も作った」


「そんなに?」


「こうして味見頼めるのも……」


 声が僅かに落ちる。


「今夜が最後になるかもしれないからな」


 シグマは少しだけ黙る。


「分かった」


 座り直した。


「食べるよ」


「うん」


     ◇


 六枚の小皿。


 魚の酢漬け。


 薄切り肉で野菜を巻いたもの。


 甘辛い揚げ芋。


 茸とチーズの小さなパン。


 煮詰めた果実を添えた燻製肉。


 辛い肉団子。


 さらに。


 大ジョッキのエールが二つ。


「また酒か」


「嫌なら水」


「嫌じゃないけど、さっき強いの飲んだ」


「シグマなら平気だろ」


「俺を何だと思ってる?」


「酒樽」


「人ですらないのか」


 シルビアが笑う。


 先ほどまでの妙な緊張が、少し和らいだ。


 二人で一品ずつ味見していく。


「魚は?」


「少し酸味が強い。でも保存するなら、このくらいでいいと思う」


「やっぱり?」


「肉巻きは美味しい」


「冷めても?」


「問題ない」


「明日の昼に持たせる」


「フェルンも好きそうだ」


「揚げ芋は?」


「甘い」


「フェルン向け」


「なら丁度いい」


 話すうち。


 シルビアも普段の表情へ戻っていく。


「最初にシグマへ料理持っていった時も、こんなこと聞いたな」


「そうだった?」


「覚えてない?」


「料理は覚えてる」


「扉、ちょっとしか開けなかった」


「警戒してたんだ」


「分かってる。でも」


 シルビアが笑う。


「隙間から仮面付けた男がじっとこっち見てるんだぞ。怖かった」


「それでも料理置いていった」


「腹減ってるように見えたから」


「仮面してたのに?」


「立ち方で分かる」


「そんなもの?」


「そんなもん」


 エールを飲む。


「あの頃は、話しかけてもほとんど返事しなかったな」


「今もそんな喋る方じゃないけど」


「変わったよ」


「そう?」


「今はちゃんと笑う」


 シグマはジョッキを見る。


「皆のおかげだ」


「そういうこと言うようになったのも変わったところ」


 少し沈黙。


 気まずくはない。


 何度もあった。


 静かな。


 穏やかな時間。


「なあ、シグマ」


「何だ?」


「向こうへ行っても」


 シルビアはジョッキを見つめたまま言う。


「ちゃんと飯食えよ」


「食べるよ」


「面倒だからって干し肉だけで済ませるな」


「分かった」


「フェルンにも食わせろ」


「ああ」


「シルフに全部料理任せるな」


「それは俺も少し不安だ」


「聞こえたら怒るな」


「間違いなく怒る」


 二人で少し笑う。


「それから」


 シルビアの声が少しだけ小さくなる。


「たまには、私の料理も思い出せ」


 シグマはシルビアを見る。


「ああ」


「忘れないよ」


 シルビアが少しだけ笑った。


「ならいい」


     ◇


「片付けるか」


 料理を食べ終え。


 シルビアが皿を重ねる。


「手伝うよ」


「客に洗わせられない」


「もう閉店してる」


「そういう問題か?」


「二人の方が早い」


「……好きにしろ」


 二人で厨房へ入る。


 シグマにとって。


 初めて入る調理場。


「広いな」


「毎日何十人分も作るから」


 大きなかまど。


 作業台。


 鍋。


 包丁。


 食材棚。


 二人で洗い場へ並ぶ。


 シルビアが洗い。


 シグマが拭く。


「これは?」


「右」


「こっちは?」


「上」


 短い会話。


 だが。


 少しずつ。


 シルビアの返事がなくなる。


「シルビア?」


 返事がない。


 横を見る。


 同じ皿を。


 何度も。


 何度も洗っている。


 頬を。


 大粒の涙が伝っていた。


「どうした?」


 シルビアが気付く。


 慌てて腕で拭う。


「何でもない」


「でも」


「何か目に入っただけ」


 笑おうとする。


 しかし。


 涙は止まらない。


「おかしいな」


 声が震える。


「今日は玉ねぎ切ってないのに」


 シグマは何も言えなかった。


 シルビアが皿を置く。


 濡れた手を強く握った。


「行ってほしくない」


 小さな声。


「シルビア……」


「分かってる」


 涙を拭う。


「行かなきゃいけないのも」


「……」


「長い旅になるのも」


「……」


「笑って送り出さなきゃいけないのも」


 顔を上げる。


「全部分かってる」


「……」


「でも」


 もう。


 堪えられなかった。


「もっと一緒にいたかった」


 涙が溢れる。


「毎日飯作って」


「……」


「味見頼んで」


「……」


「くだらない話して」


 声が崩れる。


「もっと普通に……」


 シグマの胸へ飛び込む。


「もっと、ここにいてほしかった……!」


 服を掴む。


 泣きじゃくる。


 シグマは戸惑いながらも。


 そっと腕を回した。


 シルビアを抱きしめる。


 頭を優しく撫でる。


「ごめん」


「謝るな……」


「でも」


「行くんだろ」


「……ああ」


「分かってる」


 さらに強く服を掴む。


「分かってるから……」


 シグマは何も言わなかった。


 安易な約束はできない。


 この先。


 どこへ行くのか。


 どれほど時間がかかるのか。


 その旅路が、どこへ続いていくのか。


 自分自身にも分からない。


 だから。


 ただ。


 泣き止むまで背中を撫で続けた。


 しばらくして。


 シルビアの呼吸が少しずつ落ち着く。


 ゆっくり身体を離した。


 目は赤い。


 頬にも涙の跡。


「……格好悪いな」


「そんなことない」


「ある」


「ないよ」


 シルビアはシグマを見る。


 しばらく。


 何かを迷うように。


 そして。


「シグマ」


「何だ?」


「返事はいらない」


「え?」


「これは」


 一歩近付る。


「私がしたいだけだから」


 背伸びをした。


 唇へ。


 柔らかな感触。


 ほんの一瞬。


 触れるだけの口付け。


 シグマが驚いて動けない間に。


 シルビアは身体を離した。


 顔が真っ赤だった。


「……これでいい」


「シルビア」


「何も言うな」


「でも――」


「今は聞きたくない」


 シルビアは泣き笑いのような顔をした。


「行ってこい」


「……」


「やりたいこと、ちゃんとやってこい」


 そして。


「元気でな」


 シグマはしばらく何も言えなかった。


 やがて。


 静かに頷く。


「ああ」


「シルビアも」


「うん」


 それだけだった。


 シルビアは顔を赤くしたまま。


「もう寝ろ!」


 逃げるように厨房の奥へ消えていった。


 扉が閉まる。


 静寂。


 シグマは一人。


 その場に残された。


     ◇


 残った皿を片付け。


 厨房の灯りを消す。


 二階へ戻る。


 静かに扉を閉めた。


 フェルンは寝台で眠っている。


 シグマは簡易寝台へ腰を下ろした。


 両手で髪を掻き上げる。


 リリアンヌ。


 シルビア。


 そして。


 今朝のシルフ。


 胸の奥へ。


 色々な感情が重なっていた。


 どう受け止めればいいのか。


 自分がどう思っているのか。


 まだ。


 分からない。


「……難しいな」


 小さく呟く。


 すると。


 毛布が動いた。


「シグマ……?」


 フェルンが眠そうに目を開ける。


「起こしたか?」


「どこ行ってたの?」


「下にいただけだよ」


「戻った?」


「ああ」


 シグマは少しだけ笑う。


「戻ったよ」


 フェルンが毛布から出る。


 目を擦りながらシグマへ近付き。


 何も聞かず。


 抱きついた。


「フェルン?」


「シグマ、いる」


「ああ」


「ここにいる」


 それを聞くと。


 安心したように目を閉じる。


 そのまま。


 再び眠ってしまった。


「……」


 シグマは呆気に取られる。


 だが。


 先ほどまでの呆気とは違った。


 胸の奥で絡まっていたものが。


 小さな体温によって。


 少しずつほどけていく。


 全部の答えを。


 今夜出す必要はない。


 明日から。


 長い旅が始まる。


 まずは王都アルスラ。


 馬車でおよそ三週間。


 いくつもの村や町を越え。


 山を越え。


 川を渡り。


 その先には。


 大原生林。


 そして。


 グランディア跡地。


 アルランカで過ごした時間は。


 明日の朝で、一つの区切りを迎える。


 それでも。


 ここで出会った人たちまで消えるわけではない。


 シグマはフェルンを抱き上げる。


 寝台へ戻そうとした。


 だが。


 服を掴む手が離れない。


「……仕方ないな」


 隣へ横になる。


 銀色の髪をゆっくり撫でる。


「ありがとう」


 小さく呟く。


 眠ったまま。


 フェルンの尻尾がシグマの腕へ巻きついた。


 明日の朝。


 アルランカを離れる。


 この先の旅が。


 どこまで続いていくのか。


 シグマには、まだ分からない。


 だから。


 戻るとは言わなかった。


 誰にも。


 約束はしなかった。


 ただ。


 ここで過ごした時間を忘れずに。


 前へ進む。


 今は。


 それでいい。


 フェルンの小さな温もりを感じながら。


 シグマはようやく。


 静かに目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。