第一話 風の勇者
公益都市アルランカ。
アルステラ国内でも有数の規模を誇るこの都市には、日々、さまざまな土地から人が集まってくる。
旅人、商人、職人、傭兵。
そして、魔物の討伐や護衛を生業とする冒険者たち。
都市の大通りから少し外れた場所に、昼夜を問わず人の出入りが絶えない大きな建物があった。
入口に掲げられた木製の看板には、銀色の月と、その下で丸くなって眠る黒猫が描かれている。
冒険者ギルド兼宿屋食堂――猫夜亭。
依頼を求めて集まる冒険者たちの窓口であり、遠方からやってきた者たちが身体を休める宿であり、仕事を終えた者たちが酒と料理を楽しむ食堂でもある。
今日も店内には、活気に満ちた声があふれていた。
豪快な笑い声。
木製の杯がぶつかり合う音。
肉や野菜を焼く香ばしい匂い。
今日倒した魔物について自慢する声もあれば、それを大げさだと笑う声もある。
依頼帰りの者たちは、泥や血の跡が残る装備のまま卓を囲み、無事に戻れたことを酒で祝っていた。
そんなにぎやかな猫夜亭の扉が開く。
冷たい風とともに、最初に店内へ入ってきたのは一人の鬼人だった。
「あぁー……疲れた!」
燃えるような赤い長髪。
額から伸びる鋭い二本の角。
長身で、引き締まった身体には、ひと目で戦士だとわかるほど鍛え上げられた筋肉がついている。
軽装の鎧から露出した腕や腹には、これまで経験してきた戦いを物語る無数の傷痕が残っていた。
鬼人の女戦士、紅蓮。
大きな黒い剣を背負った彼女は、店に入るなり肩を回した。
「さっさと報告を終わらせて、飯にしようぜ。もう腹が減ってしょうがねえ」
「紅蓮、入口を塞がないでください」
その背後から、鈴を転がしたような明るい声が聞こえた。
「あん?」
「後ろが入れません」
「おっと、悪い悪い」
紅蓮が脇へよける。
その横を通って店内へ入ったのは、白を基調とした魔導服を身にまとった小柄な少女だった。
柔らかな白い髪。
頭の片側から伸びる、淡い色をした一本角。
金色の瞳と、明るく愛らしい笑顔。
白鬼は戦いを終えたばかりとは思えないほど軽やかな足取りで、店内を見回した。
「今日も混んでいますね。座るところ、残っているでしょうか?」
続いて、その後ろから黒い服の少女が姿を見せる。
白鬼とよく似た、小柄な体つき。
けれど、身につけているものは正反対だった。
黒と紫を基調とした魔導士風の服。
長く伸びた黒髪は目元を完全に覆い、その隙間から表情をうかがうことはできない。
額の左側には、小さな黒い一本角が伸びている。
双子鬼の妹、黒鬼。
黒鬼は店内の人の多さに少し身を縮め、白鬼の服の裾をそっとつかんだ。
「お姉ちゃん……人、多い……」
「大丈夫ですよ。私のそばにいてください」
「うん……」
白鬼は安心させるように微笑み、妹の手を握った。
周囲から見れば、猫夜亭へ入ってきたのは三人だけだった。
紅蓮。
白鬼。
黒鬼。
だが、実際にはもう一人いる。
三人に続いて扉をくぐった、銀白色の髪を持つ青年。
シグマだ。
青紫色の瞳を持つ彼は、白と紫の幾何学模様が刻まれた大きな外套をまとっている。
腰には黒い鞘に収められた刀。
帯には、赤と白、二つの鬼面が下げられていた。
そのうちの一つを顔につけ、頭から深くフードをかぶっている。
外套と鬼面に施された認識阻害の魔法によって、周囲の者たちはシグマの存在を正しく認識できていなかった。
姿が完全に消えているわけではない。
視界には入っている。
そこに立っているはずなのに、意識が無意識にシグマを避けてしまう。
見ているのに気づけない。
声を出さなければ、すぐそばを歩いていても存在を疑うことすらできない。
四人は、依頼の報告をするため、店の奥に設けられたギルドカウンターへ向かった。
受付には、猫の耳を持つ一人の女性が座っていた。
柔らかな桃色の長い髪。
同じ色の猫耳と尻尾。
白いブラウスと深い茶色の制服を着こなし、胸元には受付職員であることを示す札をつけている。
冒険者ギルドの受付係、リリアンヌ。
紅蓮たちが近づくと、リリアンヌは手元の書類から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「お疲れさまです、紅蓮さん。白鬼さんと黒鬼さんも、依頼から戻られたのですね」
「ああ。ゴブリン討伐、終わったぜ」
紅蓮がカウンターに片肘をつく。
「ちょっと予定とは違ったけどな」
「予定とは違った?」
リリアンヌが聞き返しながら、紅蓮、白鬼、黒鬼へ順に視線を向ける。
そして最後に、三人の横にある何もないように見える空間へ顔を向けた。
「それと、シグマさん」
「えっ?」
自分の名を呼ばれ、シグマが思わず声を漏らす。
リリアンヌはシグマの存在を正確に捉え、その顔がある場所を見つめていた。
「ギルド内では、認識阻害の装備を外してください」
「あっ……」
シグマは慌ててフードを後ろへ下ろし、顔を覆っていた鬼面を外した。
魔法の効果が弱まり、銀白色の髪を持つ青年の姿が、その場に浮かび上がるように現れる。
近くを通りかかった冒険者が、突然現れたように見えたシグマに驚き、目を丸くした。
「すみません。外すのを忘れていました」
「忘れないでください。認識できない人がギルド内を歩いていると、事故や揉め事につながります」
「以後、気をつけます」
「シグマ、また怒られてやがる」
紅蓮が楽しそうに笑った。
「紅蓮さんも、気づいていたのなら教えてあげてください」
「気づいてたけど、いつ気づくか見てた」
「紅蓮!」
白鬼が頬を膨らませる。
「シグマくんがかわいそうでしょ!」
「悪かったって。冗談だよ、冗談」
「どこまでが冗談なんですか……」
シグマは鬼面を腰の帯へ戻しながら、小さくため息をついた。
「それより、依頼の報告をお願いします」
リリアンヌが仕切り直すように告げる。
すると紅蓮は、当然のようにシグマの肩を叩いた。
「報告はシグマに任せる」
「俺に?」
「今回のまとめ役はお前だろ」
「聞いていないぞ」
「今言った」
紅蓮はさっさとカウンターから離れる。
「席がなくなる前に取ってくる。白鬼、黒鬼、行くぞ」
「えっ、私たちもですか?」
「三人で探したほうが早いだろ」
「それはそうですけど……」
白鬼は申し訳なさそうにシグマへ振り返った。
「すみません、シグマくん。報告、お願いしますね」
「仕方ないな」
「シグマ……頑張って……」
黒鬼も小さな声で応援し、白鬼に手を引かれながら席を探しに向かった。
一人残されたシグマは、三人の背中を見送る。
「完全に押しつけられたな……」
「信頼されている証拠ですよ」
リリアンヌがくすりと笑った。
「そういうことにしておきます」
シグマは腰の袋を開き、中から二枚の書類を取り出した。
一枚は、現地の確認担当者によって依頼完了の印が押された依頼書。
もう一枚は、討伐した魔物の種類と数をまとめた報告書だった。
「こちらが完了済みの依頼書です。こっちは討伐報告書になります」
「確認しますね」
リリアンヌは二枚の書類を受け取り、まず依頼書へ目を通す。
依頼内容は、アルランカ近郊に現れたゴブリンの討伐。
本来は十体ほどの小規模な群れを想定したものだった。
しかし、完了印の横には、現地で判明した状況が追加で記されている。
「ゴブリンの群れではなく、集落が形成されていたのですか?」
「はい。森の奥に、柵で囲まれた集落がありました」
リリアンヌの顔から笑みが消え、受付係としての真剣な表情に変わった。
続いて討伐報告書へ視線を落とす。
「ゴブリンキングが一体。ゴブリンジェネラルが一体。ゴブリンソルジャーが十体。それに通常のゴブリンが二十体……」
リリアンヌの手が止まる。
報告書から顔を上げ、シグマを見つめた。
「合計三十二体ですか?」
「はい」
「四人で討伐したのですか?」
「はい」
「怪我をした方は?」
「いません。紅蓮の服が少し焦げたくらいです」
「おい、聞こえてんぞ!」
離れた場所から紅蓮の声が飛んできた。
「焦げたのは敵にやられたんじゃねえ! あたしが火力を上げすぎただけだ!」
「それは余計に駄目じゃないですか!」
続いて白鬼の声が響く。
周囲の冒険者たちから笑い声が上がった。
黒鬼も二人の近くで、肩を小さく揺らして笑っている。
リリアンヌも困ったように微笑んだ。
「紅蓮さんが一緒だったとはいえ、相当な戦闘だったでしょう」
「簡単ではありませんでした」
シグマは素直に答えた。
ゴブリンキングを中心に統率された集落は、通常のゴブリンの群れとは比べものにならない。
装備を整えたソルジャーたちが前線を固め、ジェネラルが指示を出し、キングが全体を支配していた。
紅蓮が正面から敵を引きつけ、白鬼と黒鬼が互いを補いながら数を減らす。
その隙にシグマが指揮役を狙い、集落全体を崩した。
誰か一人でも欠けていれば、同じ結果にはならなかっただろう。
リリアンヌは報告書を確認し終えると、計算用の紙を取り出した。
「ゴブリン集落壊滅の特別報酬が銀貨三十枚です」
細いペン先が、紙の上を走る。
「ゴブリンキングは一体につき銀貨二十枚。ゴブリンジェネラルは銀貨十枚。ソルジャーは一体につき銀貨一枚ですので、十体で銀貨十枚」
「通常のゴブリンは、二十体です」
「一体につき銅貨五枚ですから、銅貨百枚。銀貨一枚分になります」
リリアンヌは書き出した数字を確認した。
「合計で銀貨七十一枚ですね」
「かなりの金額になりましたね」
「はい。ただ、こちらはすぐにお渡しできる額ではありません」
「金額が大きいからですか?」
「それもありますが、キングとジェネラルの討伐記録を正式に登録する必要があります。集落が形成されていた件も、ギルドへ報告しなければなりません」
リリアンヌは二枚の書類を重ねる。
「少しだけお時間をいただけますか?」
「わかりました」
「その間に、皆さんと食事をしていてください。準備ができ次第、こちらからお持ちします」
「ありがとうございます」
「では、少々お待ちください」
リリアンヌは書類を抱え、カウンターの奥へ入っていった。
シグマは鬼面を腰に下げたまま、仲間たちが確保した席へ向かう。
店内の中央から少し外れた場所にある丸いテーブル。
紅蓮はすでに大きな木製の杯を片手に、上機嫌でエールを飲んでいた。
「遅かったな、シグマ!」
「紅蓮、もう飲んでいるのか」
「仕事は終わったんだからいいだろ」
紅蓮は口元についた泡を、手の甲で豪快にぬぐった。
白鬼と黒鬼の前には、濃い紫色をした葡萄のジュースが置かれている。
白鬼は両手で杯を持ちながら、楽しそうに黒鬼へ話しかけていた。
黒鬼は姉の話を聞きながら、時折、小さくうなずいている。
シグマは空いている椅子へ座った。
「報酬はすぐには用意できないらしい。登録や確認があるから、少し待ってほしいそうだ」
「まあ、あれだけ倒したからな」
紅蓮は特に驚く様子もなく、再びエールを飲む。
「報酬は、全部でいくらになったのですか?」
白鬼が尋ねた。
「銀貨七十一枚。そこからギルドの手数料が引かれる」
「七十一枚……?」
黒鬼が驚き、杯を持つ手を止めた。
「すごい……」
「キング一体だけで銀貨二十枚だからな」
「二十枚……」
黒鬼は自分の指を見ながら、金額を数えようとしている。
銀貨一枚でも、一般的な暮らしをする者にとっては小さくない金額だ。
宿や食事の質を選ばなければ、しばらく生活に困らない。
それが七十一枚。
四人で分けても、十分すぎるほどの収入になる。
「しばらくは、無理に依頼を受けなくても大丈夫そうですね」
白鬼の言葉に、紅蓮が鼻で笑った。
「何言ってんだ。金が入ったら、次の戦いに備えて装備を整えるんだよ」
「紅蓮は装備より先に、服を買い替えるべきです」
「ああ? まだ着られるだろ」
「背中が焦げています」
「少しだ」
「脇にも穴が開いています」
「風通しがよくていいじゃねえか」
「よくありません!」
白鬼が声を上げる。
黒鬼はそんな姉と紅蓮のやり取りを見て、口元を小さく緩めていた。
そのとき、シグマの背後から軽い足音が近づいてきた。
「お待たせしましたっ!」
明るい声とともに、シグマの前へ木製の杯が置かれる。
中には黄金色のエールが注がれ、白い泡が縁まで盛り上がっていた。
「ありがとう、シルビア」
シグマが振り返る。
そこには、短い金茶色の髪を持つ小柄な少女が立っていた。
頭には虎を思わせる丸みのある耳。
腰からは、黒い縞模様の入った長い尻尾が伸びている。
白と黒を基調とした、異国風の給仕服。
活発そうな橙色の瞳。
猫夜亭の給仕、シルビアだ。
「依頼帰りなんでしょ? ゴブリンの集落を丸ごと倒したって聞いたよ!」
「もう厨房まで話が伝わっているのか」
「リリアンヌさんと話しているのが聞こえたからね!」
シルビアはにっと笑った。
「お腹空いてるでしょ。何にする?」
「そうだな。シルビアのおすすめを頼む」
「おすすめ?」
その言葉を聞いた瞬間、シルビアの耳がぴんと立った。
尻尾も嬉しそうに左右へ揺れ始める。
「ちょうどよかった! 今日は私が考えた新しい料理があるんだよ!」
「シルビアが考えた料理?」
「なに、その不安そうな顔!」
「いや、不安というわけでは……」
「絶対不安そうだった!」
シルビアが頬を膨らませる。
「今日は厨房のおじさんにも手伝ってもらったし、何度も味を確認したから大丈夫!」
「何度も確認が必要だったのか?」
「そこは気にしない!」
紅蓮が杯を持ったまま笑った。
「食ってやれよ、シグマ。腹を壊すくらいで済むかもしれねえぞ」
「紅蓮さん、それは励ましになっていません」
「シルビアの料理……危ないの?」
黒鬼が不安そうに尋ねる。
「黒鬼ちゃんまで!?」
シルビアが悲鳴を上げた。
「冗談だよ」
シグマは苦笑する。
「その料理を頼む」
「本当!?」
「ああ」
「やった! すぐに作ってくるね!」
シルビアは満面の笑みを浮かべ、厨房へ駆けていった。
「走ると危ないですよ!」
白鬼が背中に向かって声をかける。
「大丈夫、大丈夫ー!」
シルビアは元気な返事を残し、厨房の奥へ消えた。
それを見届けた紅蓮が、改めて杯を持ち上げる。
「よし。料理が来る前にやるか」
「何をするんだ?」
「決まってんだろ。乾杯だよ」
紅蓮は笑い、エールの入った杯をテーブルの中央へ差し出した。
白鬼と黒鬼も葡萄ジュースの杯を持ち上げる。
シグマも目の前のエールを手に取った。
「今回の依頼を無事に終えたことと――」
紅蓮は一度言葉を切り、三人の顔を順番に見た。
「全員、怪我なく帰ってこられたことに!」
「乾杯!」
四つの杯が、テーブルの中央でぶつかる。
軽快な音が響いた。
乾杯を終え、シグマがエールを口へ運ぼうとした、そのときだった。
猫夜亭の扉が開いた。
冷たい風が店内に流れ込み、入口近くにいた冒険者たちが一斉に振り返る。
入ってきたのは、一人の小柄な人物だった。
背丈は黒鬼とそれほど変わらない。
明るい緑色の髪は短く、風に吹かれた草のように無造作に跳ねている。
淡い緑色の瞳。
細い身体には、白と緑を基調とした軽装の弓兵装備を身につけていた。
肩から背中へ流れる薄い布は、風を受けているかのように、本人の動きに合わせて静かに揺れている。
背には、白銀と翠色の装飾が施された美しい弓。
腰には矢筒が下げられていた。
顔立ちは、少年にも少女にも見えた。
凛々しさの中に、どこか柔らかな美しさがある。
華奢な身体つきも相まって、遠目から性別を判断するのは難しい。
店内の騒がしさが、わずかに静まった。
見知らぬ顔だからというだけではない。
酒と汗と土の匂いが漂う荒っぽい冒険者たちの中で、その人物はあまりにも浮いていた。
本人は周囲から向けられる視線を気にすることなく、まっすぐギルドカウンターへ向かって歩き始めた。
その進路を、一人の男が塞いだ。
酒に酔った、ゴロツキ風の冒険者だ。
男が囲んでいたテーブルには、同じような雰囲気を持つ仲間が三人座っている。
「おいおい」
男は小柄な弓使いを見下ろし、嫌な笑みを浮かべた。
「ここはガキが来るところじゃないんだぜ?」
緑髪の弓使いは答えなかった。
男を避けるように横へ動き、そのままカウンターへ進もうとする。
「おい、待てよ」
男も同じ方向へ動き、再び道を塞いだ。
弓使いが反対側へ動く。
男も反対へ動く。
周囲から、からかうような笑い声が漏れた。
「聞こえなかったのか?」
男が顔を近づける。
「怖くて声も出ねえのか?」
緑髪の弓使いは、男を一度だけ見上げた。
その表情に恐怖はない。
怒っている様子すらない。
ただ、心底面倒そうな色だけが浮かんでいた。
何も答えず、男の横を通り過ぎようとする。
「無視してんじゃねえ!」
男が弓使いの肩をつかんだ。
次の瞬間。
「ぐおっ!?」
男の身体が宙を舞った。
緑髪の弓使いは、肩をつかんできた腕を取り、その下へ身体を滑り込ませた。
相手の勢いと体重を利用し、自分より何倍も大きな男を軽々と投げ飛ばしたのだ。
男は背中から床へ叩きつけられる。
店内に重い音が響いた。
一瞬の静寂。
そして、誰かが吹き出した。
「おい、見たかよ!」
「あいつ、投げられやがった!」
「子供みてえなのに負けてんじゃねえか!」
店内のあちこちから、大きな笑い声が上がる。
男は顔を真っ赤にし、よろめきながら立ち上がった。
「て、てめえ……!」
腰の剣に手をかけそうになり、さすがにギルド内だと思い直したのか、拳を固く握る。
「ぶっ飛ばしてやる!」
男が緑髪の弓使いへ飛びかかった。
しかし弓使いは、半歩だけ横へ移動する。
たったそれだけだった。
男の拳は空を切り、勢いを止められなくなった身体が、そのまま店内を突き進む。
その先にあったのは、シグマたちのテーブルだった。
「危ない!」
シグマたちは慌てて席を立つ。
男の身体がテーブルへ激突した。
木製のテーブルが大きな音を立てて倒れ、置かれていた杯が床へ転がる。
紅蓮のエールも、床へ盛大にこぼれた。
「あ……」
紅蓮の視線が、床に広がるエールへ落ちる。
楽しそうだった表情から、ゆっくりと笑みが消えた。
男は倒れたテーブルを押しのけ、ふらつきながら立ち上がる。
「このクソガキが!」
男の仲間三人も、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
四人が緑髪の弓使いへ向かって動き出す。
その前に、シグマたちが立ちはだかった。
シグマ、紅蓮、白鬼、黒鬼。
四人が横一列になり、男たちの進路を塞ぐ。
「ああ?」
ゴロツキの一人が、シグマたちをにらみつけた。
「なんだ、てめえら。関係ねえ奴は引っ込んでろ!」
紅蓮が一歩前へ出た。
「関係あるんだよ」
低い声だった。
先ほどまでの気さくな雰囲気は消えている。
燃えるような赤い瞳が、男たちを鋭く射抜いた。
「あたしの酒を台無しにしやがった」
「た、たかが酒くらいで……」
「それだけじゃねえ」
紅蓮の周囲の空気が、わずかに熱を帯びる。
赤い長髪が、立ち上る熱に揺らされているかのように揺れた。
「ここはギルドだ。弱そうな奴を見つけて絡み、投げられたら逆上して暴れる場所じゃねえ」
「誰が弱そうだ」
背後から緑髪の弓使いの声が聞こえたが、紅蓮は無視した。
「店に迷惑をかけたなら、まず謝れ」
「なんだと?」
「聞こえなかったか?」
紅蓮は男たちを見下ろす。
「謝れって言ってんだよ」
男たちは言い返そうとした。
だが、そのうちの一人が紅蓮の顔と背中の大剣を見て、息を呑む。
「ま、待て……こいつ……」
「あ?」
「紅蓮だ……」
「紅蓮?」
「ゴールド等級の紅蓮だよ!」
その言葉を聞いた瞬間、男たちの表情が変わった。
冒険者には、実績と能力に応じた等級が存在する。
最下級のウッド。
そこから、ストーン、ブロンズ、アイアン、シルバーと続く。
その上に位置するのが、ゴールド等級だ。
さらにミスリル、オリハルコン、アダマンタイトが存在するが、そこまで到達できる冒険者はごくわずかしかいない。
また、通常の等級とは別に、各国の勇者たちへ与えられるプラチナ等級が存在する。
勇者の身分証には所属する国を示す宝石が埋め込まれ、一般の冒険者とは区別されている。
とはいえ、ゴールド等級でも、普通の冒険者から見れば十分すぎるほどの実力者だ。
まして紅蓮は、猫夜亭を利用する冒険者たちの間では有名だった。
「紅蓮って……あの炎の鬼人か……」
「大型の魔物を正面から叩き斬ったっていう……」
「誰が言ったか知らねえが、話を盛るな」
紅蓮は不機嫌そうに男たちをにらんだ。
「仲間がいたから倒せたんだよ」
「す、すみません!」
男の一人が反射的に謝る。
「謝る相手が違うだろ」
紅蓮はあごで、倒れたテーブルを示した。
散乱した杯。
こぼれた飲み物。
騒ぎに巻き込まれた周囲の客。
「す、すみませんでした……」
男たちが小さく頭を下げる。
「聞こえねえな」
「すみませんでした!」
四人の声が、店内に響いた。
紅蓮は腕を組んだまま、男たちを見下ろす。
「次にこの店で同じことしてみろ。外まで蹴り飛ばすぞ」
「ひっ……」
「わかったら、とっとと消えろ」
男たちは慌てて荷物をまとめ始めた。
「くそっ……今日は運が悪かっただけだ!」
「覚えてやがれ!」
「次はこうはいかねえからな!」
見事な捨て台詞を残し、四人は逃げるように猫夜亭を出ていった。
扉が閉まる。
少しの間を置いて、店内から笑いが起こった。
「なんだ、今の捨て台詞!」
「負け犬のお手本みてえだったな!」
「紅蓮、酒がもったいなかったな!」
「うるせえ!」
紅蓮が周囲へ怒鳴ると、さらに大きな笑い声が上がる。
店内はすぐに、元のにぎやかさを取り戻した。
緑髪の弓使いが、シグマたちの前まで歩いてくる。
「助かった」
短く告げ、四人へ軽く頭を下げた。
声もまた中性的で、それだけでは性別を判断できない。
「別に気にすんな」
紅蓮は手をひらひらと振った。
「あいつらが勝手に暴れて、あたしの酒をこぼしただけだ」
「それでも、礼は言う」
弓使いはもう一度、小さく頭を下げた。
白鬼も丁寧に頭を下げ返す。
「お怪我がなくてよかったです」
「問題ない」
「す、すごかった……です」
黒鬼が白鬼の後ろから、小さな声で話しかける。
「大きな人を……簡単に投げて……」
「あの程度なら軽い」
「すごい……」
黒鬼は素直に感心していた。
シグマは、緑髪の弓使いを静かに観察する。
間近で見ても、性別はわからない。
細い首筋。
整った顔立ち。
華奢な体つき。
しかし、その身体の使い方には一切の無駄がなかった。
男を投げ飛ばした動きも、相手の力を利用した見事なものだった。
「じゃあな」
紅蓮は倒れたテーブルを起こし始める。
緑髪の弓使いは、四人を少しだけ見つめたあと、ギルドカウンターへ向かって歩いていった。
シグマたちは散らばった杯を片づけ、店員の案内で別の空いているテーブルへ移動した。
代わりの飲み物も用意されたため、紅蓮の機嫌はすぐに直った。
「なあ」
席に着くなり、紅蓮が三人へ顔を近づけた。
「あいつ、男だと思うか? 女だと思うか?」
「いきなり何を言っているんですか」
白鬼が呆れた顔をする。
「だって気になるだろ。見た目じゃ全然わかんねえぞ」
「私は女の子だと思います」
「なんでだ?」
「なんとなくです」
「理由になってねえな」
「では紅蓮は、どちらだと思うのですか?」
「あたしは男だと思う」
「理由は?」
「なんとなくだ」
「私と同じではありませんか」
白鬼が冷たい目を向ける。
紅蓮は誤魔化すように咳払いをし、黒鬼を見る。
「黒鬼は?」
「えっ……」
突然話を振られた黒鬼は、困ったように緑髪の弓使いの背中を見つめた。
「わ、わからない……」
「どっちか選べ」
「む、難しい……」
「黒鬼を困らせないでください」
白鬼が妹の頭を優しく撫でる。
「シグマはどう思う?」
紅蓮に尋ねられ、シグマは少し考えた。
「女じゃないか?」
「理由は?」
「勘だ」
「結局、全員勘じゃねえか」
「紅蓮が始めた話だろ」
四人がくだらない話をしている間に、緑髪の弓使いはギルドカウンターへ到着していた。
受付には誰もいない。
弓使いはしばらく奥を見つめたあと、カウンターを指先で軽く叩いた。
「誰かいるか」
騒がしい店内でも、不思議とよく通る声だった。
「受付の者に話がある」
少しして、報酬の準備をしていたリリアンヌが奥から姿を現す。
彼女は初めて見る弓使いを前に、丁寧に一礼した。
緑髪の弓使いが何かを告げる。
離れた席にいるシグマには、その声までは届かなかった。
リリアンヌも相手の話を聞きながら、何かを尋ねているようだった。
二人は初対面らしく、リリアンヌの態度はいつもより慎重で、弓使いも必要なことだけを短く説明しているように見える。
やがて、緑髪の弓使いが懐から何かを取り出した。
小さな札のようなものだった。
それを確認した瞬間、リリアンヌの表情が変わる。
驚いたように目を見開き、もう一度、手にしたものを確かめた。
そして弓使いへ何かを告げると、慌てた様子でカウンターの奥へ引っ込んでいった。
「何を見せたんだ?」
シグマがつぶやく。
「さあな」
紅蓮もカウンターへ視線を向けた。
しばらくして、リリアンヌが一人の女性を連れて戻ってくる。
猫夜亭のギルドマスター、マリアだ。
マリアは緑髪の弓使いと向かい合い、何かを話し始めた。
シグマたちの席からでは、会話の内容はまったく聞こえない。
表情や身振りだけが見える。
マリアは最初こそ怪訝そうな顔をしていたが、弓使いの話を聞くうちに、次第に真剣な表情へ変わっていった。
弓使いは何かを説明し、時折、入口や店内へ目を向ける。
その視線が、一度だけシグマたちの席に向いたような気がした。
「こっちを見なかったか?」
シグマが尋ねる。
「気のせいじゃねえか?」
紅蓮はエールを飲みながら答えた。
やがてマリアは奥の部屋を指し示す。
緑髪の弓使いはうなずき、二人はそろってカウンターの奥へ姿を消した。
「ただの冒険者じゃなさそうですね」
白鬼が小さくつぶやく。
「リリアンヌさん、すごく驚いてた……」
黒鬼も不安そうに言った。
シグマも同じことを感じていた。
単なる依頼の受付なら、ギルドマスターが直接出てくることはない。
あの弓使いが見せたもの。
そして、マリアを呼び出すほどの話。
何か大きな事情を抱えていることは間違いなかった。
「何者なんだろうな……」
シグマがつぶやいた、そのとき。
「お待たせー!」
シルビアの大きな声が、思考を遮った。
両手で大きな皿を持ち、満面の笑みを浮かべながら近づいてくる。
「シグマ、できたよ!」
シルビアが皿をテーブルへ置いた瞬間、香辛料と焼けた穀物の香ばしい匂いが広がった。
皿の上には、細長く伸ばした生地を焼いたものが、山のように盛られている。
その上には、細かく刻んだ肉と赤い香辛料を煮込んだ、とろみのある餡がたっぷりとかけられていた。
餡の中には、白く柔らかそうな四角い食材も入っている。
シグマがこれまでに見たことのない料理だった。
「これは……何だ?」
先ほどまで考えていた弓使いのことが、一瞬で頭から消える。
立ち上る湯気。
鼻をくすぐる刺激的な香り。
見ているだけで腹が鳴りそうになる。
「すごくいい匂いだな」
「でしょ!」
シルビアが得意げに胸を張った。
「小麦を練って細長く伸ばしたものを焼いて、その上から豆腐とひき肉を香辛料で煮込んだ餡をかけたの」
「豆腐?」
「水に浸した豆をすり潰して固めた食べ物だよ。厨房のおじさんが東の商人から作り方を聞いたんだって」
「豆を固めたものなのか」
「そう! そのままだと味が薄いから、濃い味の餡と合わせてみたの」
シルビアはシグマの正面に立ち、橙色の瞳を輝かせた。
「さあ、食べて!」
「今すぐ?」
「今すぐ!」
「そんなに見られていると、食べにくいんだが」
「気にしないで!」
「無理があるだろ……」
シルビアはまったく離れる気配がない。
紅蓮たちも興味深そうに料理を見つめている。
シグマは諦め、木製のフォークを手に取った。
細長い生地へ餡を絡め、白い豆腐と一緒に口へ運ぶ。
「熱っ……」
思っていた以上に熱かった。
だが、すぐにそれ以上の感想が湧き上がる。
香辛料の刺激。
肉の濃いうま味。
豆腐の柔らかな食感。
表面を焼いた生地の香ばしさ。
とろみのある餡が生地へしっかりと絡み、噛むたびに異なる食感と味が広がっていく。
「うまい……」
シグマは思わず言葉を漏らした。
「本当!?」
「ああ。かなりうまい」
「やったー!」
シルビアの耳が跳ね、縞模様の尻尾が大きく揺れる。
「頑張って考えたかいがあった!」
喜びの勢いのまま、シルビアはシグマへ抱きついた。
「うわっ!」
シグマの首に腕を回し、頬を寄せる。
「ありがとう、シグマ! もっと食べてね!」
「ちょ、シルビア……!」
シグマが困惑する。
その光景を見た三人が、同時に動いた。
「何をしているんですか!」
「離れろ!」
「だ、だめ……!」
白鬼がシルビアの右腕をつかみ、紅蓮が左肩を引く。
黒鬼はシルビアの腰に抱きつき、後ろへ引っ張った。
「えっ、なに!?」
「シグマくんから離れてください!」
「なんで!? 喜んでただけだよ!」
「喜び方がおかしい!」
「抱きつく必要はありません!」
「シグマ……困ってる……!」
三人が力を合わせ、シルビアをシグマから引き離す。
シルビアは抵抗する間もなく、テーブルの反対側まで連れていかれた。
「シルビア」
紅蓮が腕を組み、怖い顔で見下ろす。
「なんで抱きついた?」
「嬉しかったから……」
「嬉しかったら誰にでも抱きつくのですか?」
白鬼が笑顔のまま尋ねる。
いつもの愛らしい笑顔なのに、なぜか紅蓮よりも圧があった。
「誰にでもじゃないよ……」
「では、なぜシグマくんに?」
「えっと……」
シルビアは視線を泳がせる。
黒鬼も白鬼の隣に立ち、前髪の奥からじっと見つめていた。
「シグマに抱きつくの……だめ……」
「黒鬼ちゃんまで……」
シルビアの虎耳が垂れ下がる。
三人に囲まれ、先ほどまでの勢いはすっかり消えていた。
「ご、ごめんなさい……」
「本当に反省しているか?」
「してます……」
「次から気をつけてください」
「はい……」
シルビアは椅子へ座り、しょんぼりと背中を丸めた。
シグマは、どう声をかけるべきか迷いながら料理を見下ろす。
「別に俺は気にしていないけど……」
「シグマくんは黙っていてください!」
「お、おう……」
白鬼に怒られ、シグマは素直に口を閉じた。
「何を騒いでいるのですか?」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、リリアンヌが小さな袋を四つ載せた盆を持って立っている。
「シルビア」
「はい……」
「遊んでいないで、接客へ戻ってください」
「遊んでたわけじゃないよ……」
「では、なぜ座っているのですか?」
「説教されてました……」
「理由はあとで聞きます。仕事へ戻ってください」
「はーい……」
シルビアは肩を落とし、力のない足取りで離れていく。
その背中を見送り、リリアンヌは小さくため息をついた。
「まったく、あの子は……」
「料理は、とてもおいしかったですよ」
シグマが告げる。
するとシルビアは遠くから勢いよく振り返った。
「本当!? また作るね!」
「仕事をしてください!」
「はーい!」
今度は元気よく返事をし、別の客の注文を取りに向かった。
リリアンヌは気を取り直し、四つの小袋をテーブルへ置く。
「お待たせしました。今回の報酬です」
紅蓮が一つを手に取った。
袋の中から、硬貨同士がぶつかる重い音がする。
「一人、銀貨十六枚です」
「十六枚?」
シグマが首をかしげる。
「計算では、端数が出たはずですが」
「本来であれば、合計銀貨七十一枚から、手数料として銀貨七枚と銅貨十枚をいただきます」
リリアンヌは説明を続ける。
「ですが今回は、集落の発見と壊滅という大きな功績があります。そのため端数分はギルド側で負担し、手数料を銀貨七枚として処理しました」
「残りが銀貨六十四枚か」
「はい。四人で分けて、一人銀貨十六枚です」
「太っ腹じゃねえか」
紅蓮が袋を軽く持ち上げ、満足そうに笑った。
「ギルドとしても、都市近郊の脅威を取り除いていただいたのです。これくらいは当然です」
「ありがとうございます」
シグマは自分の袋を受け取る。
ずっしりとした重みが、手のひらへ伝わった。
白鬼と黒鬼も、それぞれの袋を受け取る。
黒鬼は何度も袋を見つめたあと、恐る恐る胸元へ抱えた。
「こんなに……もらっていいのかな……」
「黒鬼さんも、皆さんと一緒に戦ったのでしょう?」
リリアンヌが優しく微笑む。
「なら、受け取る権利があります」
「う、うん……ありがとう……」
黒鬼が小さく頭を下げた。
報酬の話が終わったところで、シグマはカウンターの奥へ視線を向ける。
緑髪の弓使いとマリアの姿は、まだ戻ってきていない。
「あの、リリアンヌさん」
「はい?」
「先ほど来た、緑髪の弓使いについて聞いてもいいですか?」
リリアンヌの表情が、わずかに変わった。
「先ほどの方ですか……」
「ギルドマスターと一緒に奥へ入った人です。初対面だったように見えましたが」
「はい。私も、今日初めてお会いしました」
「いったい、何者なんですか?」
「それは……」
リリアンヌは少し間を置く。
話してよいものか判断に迷っているようだった。
「先ほど見せてもらったものが本物であれば、あの方は――」
「それなら、あたしから話すよ」
低く落ち着いた女性の声が、リリアンヌの言葉を遮った。
シグマたちが振り返る。
そこには、ギルドマスターのマリアが立っていた。
「あんたら、少し時間はあるかい?」
「報酬も受け取ったし、あとは飯を食って寝るだけだ」
紅蓮が答える。
「何かあったのか?」
「ある」
マリアは短く答え、四人の顔を順番に見た。
「どうやら、あんたらに依頼したいらしい」
「誰が?」
「さっきの弓使いだよ」
マリアが身体を横へずらす。
その後ろから、緑髪の弓使いが姿を現した。
白と緑の軽装。
背中に負った、白銀と翠色の弓。
風に遊ばれているように跳ねた短い髪。
相変わらず、少年にも少女にも見える整った顔立ちをしている。
緑髪の弓使いは、シグマたちの前まで歩いてくると、少し不機嫌そうな顔で立ち止まった。
紅蓮が片眉を上げる。
「依頼ってのは、あんたからか?」
「そうだ」
「なら、その前に名前くらい名乗ったらどうだ?」
弓使いは面倒そうに小さく息を吐く。
そして、必要最低限のことだけを告げるように口を開いた。
「ボクはシルフ・ミュラー」
淡い緑色の瞳が、シグマたちを順番に見つめる。
「風の勇者だ」




