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ナイン ―忘却の咎人と九人の勇者―   作者: 空色唐辛子
第一章 グラン国編 ―旅立ちの始まり―

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序章 勇者の名の下に

 千年前。


 この世界は、ひとつの災厄によって滅びの危機にさらされていた。


 その名は、黒龍リュドリカ。


 黒き鱗を持ち、黒き翼で空を覆い、黒き炎で大地を焼いたとされる存在。

 ただ暴れ回るだけの魔物ではない。

 黒龍リュドリカは、世界そのものを壊そうとするほどの力を持っていた。


 国は焼かれた。

 森は枯れた。

 川は濁り、人々の心には恐怖が染みついた。


 王も、騎士も、魔導士も、民も。

 誰ひとりとして、黒龍を止めることはできなかった。


 誰もが終わりを覚悟したその時、ひとりの少女が突然現れた。


 名を、アイリシア。


 彼女こそが、後に初代勇者と呼ばれる存在である。


 アイリシアは強かった。

 けれど、ただ強いだけの少女ではなかった。


 傷ついた者に手を伸ばし、怯える者の前に立ち、絶望する者に「まだ終わっていない」と言える少女だった。


 アイリシアは人々を救った。


 黒龍に焼かれた土地を巡り、傷ついた者を守り、魔物に襲われる村を救い、絶望に沈む人々に希望を与えた。


 人々は彼女に祈った。

 王たちは彼女に未来を託した。

 そしてアイリシアは、黒龍リュドリカとの最後の戦いへ向かった。


 その戦いがどれほど凄惨なものだったのか。

 今となっては、正確に知る者はいない。


 ただ、勇者教の聖典にはこう記されている。


 初代勇者アイリシアは、自らの命と魂を捧げ、黒龍リュドリカを聖王都の地下深くへ封印した。


 黒龍は滅びなかった。

 だが、世界を壊すほどの力は封じられた。


 世界は救われた。


 人々はアイリシアの名を都に刻んだ。

 彼女が命を落とした地を聖地とし、彼女の願いを教えとし、彼女の存在を信仰へと変えていった。


 それが、勇者教の始まりだった。


 勇者教。


 それは、ただ神に祈るだけの宗教ではない。

 世界を救った勇者を讃え、勇者の存在そのものを神聖なものとして崇める教えだった。


 人々は勇者に祈る。

 人々は勇者を讃える。

 人々は勇者を、世界が危機に瀕した時に現れる希望だと信じている。


 その信仰の中心にあるのが、聖王都アイリシア。


 白く輝く大聖堂を持つその都は、勇者教における最大の聖地であり、世界中の信徒たちが一生に一度は訪れたいと願う場所でもある。


 勇者とは、世界を救う者。

 勇者とは、人々の希望となる者。

 勇者とは、初代勇者アイリシアの意志を継ぐ者。


 その教えは、千年という長い年月の中で世界中に広がっていった。


 しかし、黒龍リュドリカの封印は永遠ではなかった。


 封印を維持するためには、百年に一度、精霊王石へ膨大な魔力を注がなければならない。


 精霊王石とは、黒龍の封印を支えるための聖なる石。

 世界に満ちる精霊の力を束ね、黒龍リュドリカを地下深くへ押し留める、封印の要である。


 だが、その精霊王石に近づくことが許されているのは、勇者だけだった。


 だから世界は、百年に一度、勇者を召喚する。


 光の勇者。

 影の勇者。

 木の勇者。

 風の勇者。

 火の勇者。

 土の勇者。

 雷の勇者。

 水の勇者。

 氷の勇者。


 九つの属性を宿す、九人の勇者。


 彼らは世界を救うために呼ばれる存在であり、勇者教にとっては初代勇者アイリシアの使命を受け継ぐ、神聖な者たちだった。


 千年の間、世界はその仕組みによって守られてきた。


 百年に一度、勇者を召喚する。

 勇者が精霊王石へ魔力を注ぐ。

 黒龍リュドリカの封印は保たれ、世界は次の百年を生きる。


 それはもはや、世界の決まりごとのようになっていた。


 本来なら、次の勇者召喚まではまだ十年ほどの猶予があった。


 しかし、世界各地で異変が起き始めた。


 黒禍樹――こっかじゅ。


 それは、人々の怒り、悲しみ、憎しみ、不安といった負の感情を吸い上げて育つ、黒き災厄の樹である。


 黒禍樹は、ただそこに生えるだけで周囲の空気を淀ませる。

 根を張った土地を蝕み、人々の心に不安を広げ、やがてその実から魔物を生み落とす。


 最初は、小さな異変にすぎなかった。


 人里離れた森に、一本の黒い樹が生えた。

 その近くで魔物が増えた。

 近隣の村では争いが増えた。

 誰かの憎しみが膨らみ、その感情を糧に、黒禍樹はさらに育っていった。


 やがて被害は、ひとつの村だけでは済まなくなった。


 旅人が消えた。

 街道が封鎖された。

 村が襲われた。

 黒禍樹の実から生まれた魔物が、人々の暮らしを脅かし始めた。


 そして聖王都の神官たちは、ある恐ろしい可能性に気づく。


 黒禍樹の発生が増えているのは、黒龍リュドリカの封印が弱まり始めている証なのではないか。


 封印が弱まれば、黒龍の力が世界へ漏れ出す。

 その力は人々の負の感情を刺激し、黒禍樹を生み、さらに黒禍樹が魔物を増やす。


 放置すれば、世界は再び黒龍の災厄に呑まれる。


 百年を待つ余裕はなかった。

 十年早くても構わない。

 封印を守るためには、今すぐ勇者が必要だった。


 そうして、予定よりも十年早く、九人の勇者は召喚された。


 世界は歓喜した。

 聖王都の鐘は鳴り響き、神官たちは涙を流して祈りを捧げた。


 人々は思った。


 これで救われる。

 初代勇者アイリシアのように、彼らもまた世界を導いてくれるのだと。


 けれど、召喚された勇者たちは、聖典に描かれる英雄とは違っていた。


 彼らは神ではない。

 完全な聖人でもない。

 突然、知らない世界へ呼び出された、ただの人間だった。


 ある勇者は、与えられた力に酔いしれ。

 ある勇者は、使命を忘れて遊び。

 ある勇者は、貴族と手を組み、贅沢な暮らしをし。

 ある勇者は、この世界の人々を自分より下の存在として見下した。


 そんな噂が、人々の間で囁かれるようになった。


 それらの話が、すべて真実なのかは誰にもわからない。


 勇者を快く思わない者が、わざと悪い噂を流したのかもしれない。

 実際に、そう見える振る舞いをした勇者がいたのかもしれない。

 あるいは、小さな失敗やわがままが、人々の不安によって大きく膨らんでしまっただけなのかもしれない。


 だが、噂というものは、一度広がれば簡単には消えない。


 酒場で語られた話は、翌日には市場へ届く。

 市場で囁かれた話は、旅人の口から隣町へ運ばれる。

 そして隣町へ届いた頃には、元の形など誰にもわからなくなっている。


 勇者は希望。

 勇者は救い。

 勇者は世界を守る者。


 そう信じていた人々の心に、少しずつ疑いが生まれていった。


 もちろん、すべての勇者が悪く言われていたわけではない。


 黒禍樹の被害に立ち向かい、人々を助け、勇者としての務めを果たそうとした者もいた。

 自らの力を過信せず、この世界の人々と向き合おうとした者もいた。


 だからこそ、人々は一部の勇者だけを信じた。


 だが、それ以外の勇者たちに向けられる目は、年々冷たくなっていった。


 そして、その不信をさらに大きくしたのが、土の勇者にまつわる噂だった。


 土の勇者は、街をひとつ滅ぼした。


 そして極刑として、聖王都アイリシアの地下深くに幽閉されている。


 人々は、そう囁いた。


 だが、その話の真偽を確かめられる者はほとんどいない。


 どの街が滅ぼされたのか。

 なぜ土の勇者はそんなことをしたのか。

 本当に彼ひとりの仕業だったのか。

 それとも、誰かがそう語らせているだけなのか。


 真実を知る者は限られていた。


 それでも、人々は語る。


 土の勇者は危険だ。

 土の勇者は災厄だ。

 土の勇者は、黒龍リュドリカの封印がある地下に閉じ込められている。


 まるで、それが最初から真実だったかのように。


 この噂を境に、人々の勇者を見る目は大きく変わった。


 勇者だからといって、必ずしも善とは限らない。

 勇者だからといって、必ずしも世界を救うとは限らない。

 勇者だからといって、人々の味方であるとは限らない。


 その疑念は、静かに世界へ広がっていった。


 特に土の勇者の名は、忌まわしいものとして語られるようになった。


 彼の姿を見たことがない者でさえ、彼を恐れた。

 彼の声を聞いたことがない者でさえ、彼を憎んだ。

 彼が何をしたのか知らない者でさえ、「土の勇者だけは危険だ」と口にした。


 真実よりも先に、噂が世界を歩いていた。


 それでも世界は、勇者を必要としていた。


 黒禍樹の被害は消えていない。

 黒龍リュドリカの封印は、今も弱まり続けている。

 聖王都の地下深くでは、千年前に世界を滅ぼしかけた黒龍が封じられている。


 そして同じ地下に、土の勇者も封じられていると囁かれている。


 勇者は嫌われている。

 けれど、勇者なしでは世界を守れない。


 信仰は揺らぎ、希望は汚れ、正義の名は疑われるようになった。


 初代勇者アイリシアが救った世界は、千年の時を越え、今また静かに壊れ始めている。


 そして――。


 九人の勇者が召喚されてから、四年が経った。

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