第9話 見破られたアリバイ
私は湧き上がる疑問を胸の奥に押し込め、無言のまま日記帳のページをじっと睨み続けた。
『私は騙された。人命を奪うという取り返しがつかないことを、やってしまった』
この震えた筆跡で書かれた二行。澪が命を奪われた五ヶ月前のページだ。間違いなくもみじの字であり、彼女自身も自分がやったと泣き崩れている。しかし、何か引っかかる。
私はソファーでうずくまるもみじから視線を外し、日記のページを数日前へとパラパラと遡った。
すると、ある日のページに書かれた予定に目が留まった。
『明日の夜から北海道(遠方)旅行。少し長くなりそう』
それは、澪が亡くなった日の前々日の日付だった。
「北海道……?」
私は呟き、日記帳を閉じて革張りのカバーに触れた。カバーの裏側に、わずかな膨らみがあることに気づく。指を差し込むと、紙切れが挟まったままのようになっていた。
引き出してみると、それは新千歳空港行きの航空券と、その一週間後の復路の半券だった。搭乗者の名前は『HANEMOTO MOMIJI』。日付は、旅行の予定が書かれた日と一致している。
「……もみじ」
私は低く声をかけた。もみじは顔を上げず、両手で顔を覆ったまましゃくりあげている。
「この航空券の半券はなんだ。日付を見る限り、澪が殺された時刻、君は青海野にいなかったことになる」
私の言葉に、もみじの肩がビクッと大きく跳ねた。
「君は北海道にいたはずだ。物理的に澪に毒を盛ることは不可能だ。この自白日記は嘘だな?」
「……違うわ!私が、私がやったのよ……!」
もみじは悲鳴のように叫び、必死に首を振った。
「嘘をつくな!ならどうしてこんなアリバイがあるんだ!」
私は声を荒げ、さらに日記帳を調べた。彼女が必死に何かを隠そうとしているのは明白だ。
ページを後ろへと捲っていくと、あるページで手が止まった。ページの全面が、太い黒のマジックで真っ黒に塗りつぶされていたのだ。
「これは……」
私はローテーブルの上に散乱したハンドバッグの中身の中から、一本の鉛筆を見つけ出した。そして、マジックで塗りつぶされたページの次の白紙のページを開き、鉛筆の芯を寝かせて、表面を慎重にこすり始めた。
シャッ、シャッという鉛筆の音が、静まり返ったリビングに響く。
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窓の外には、新都心の煌びやかなタワーマンション群の夜景が美しく広がっている。誰もが誰かを騙している嘘で塗り固められたこの室内とは対照的に、青海野の優雅な夜の景色は静かに光り輝いていた。
やがて、前のページの強い筆圧によってできた凹凸が、鉛筆の黒鉛によって白紙の上に文字として浮かび上がってきた。
『これ以上、Nの暴走は止められない』
『血の繋がったたった一人の家族だから、私が全部かぶるしかない』
あぶり出された文字を読み上げた瞬間、私の頭の中で散らばっていた点と点が繋がった。
「君には『N』という血の繋がった家族がいる……そいつが、真犯人ということか?」
解読した情報が、私に確信を与えた。彼女は犯人ではない。真犯人を庇うために、わざとあの嘘の自白日記を書き、私に罪を告白したのだ。
私は鉛筆を置き、浮かび上がった文字が書かれたページともみじの航空券を、ソファーにうずくまる彼女の目の前に突きつけた。
「Nとは誰だ!君は誰を庇っている!」
私の厳しい追及に、もみじは弾かれたように顔を上げた。彼女の目は限界まで見開かれ、突きつけられた証拠を見て絶望の色に染まっていった。
「やめて……それ以上は言わないで……!」
「君は北海道にいた。そして、この『N』という家族の罪を全部かぶろうとしている。君が持っていた澪の指輪も、そのNが奪ったものを受け取っただけだろう!」
「違う!私がやったの!お願い、信じて!」
「証拠がこれだけ揃っているんだ!これ以上嘘を重ねるな!」
私は容赦なく言葉を叩きつけた。彼女の下手な自白など、もはや通用しない。
「君が庇っている人間が、澪を殺したんだな?答えろ、もみじ!」
私の怒号がリビングに響き渡る。
もみじは力なく首を振り、やがて糸が切れたようにソファーへ崩れ落ちた。彼女の目から、隠しきれない大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
「……もう、隠しきれないのね」
もみじは震える声で呟き、自らを抱きしめるように腕を回した。
「君の家族……Nとは一体誰なんだ。そいつが澪を殺したのか?」
私は少し声のトーンを落とし、冷徹に問いかけた。
もみじはしゃくりあげながら、ゆっくりと頷いた。
「……そうよ。澪さんを殺したのは、私じゃない。……私の、実の弟なの」
「弟……」
「名前は、成樹……磯嶋成樹。幼い頃に両親がいなくなって、私と成樹は別々の家に引き取られたわ。でも、私にとっては、たった一人の血の繋がった家族なのよ」
もみじは涙で顔を濡らしながら、悲痛な声で語り始めた。
「あの子は昔から無茶ばかりして……裏社会の危ない連中とも関わりを持っていたわ。私は何度も止めたけれど、あの子は聞く耳を持たなかった」
彼女は両手で顔を覆い、絞り出すように言葉を続けた。
「ある日、成樹が澪さんの指輪を持ってきたの。『仕事で邪魔な女を片付けた』って。私は、いつかこんな日が来ると思っていた。だから、あの子を警察に捕まらせないために、私が罪をかぶろうとしたの。この指輪も、あの子から取り上げて私が隠したわ」
「それで、あんな嘘の日記を書いたのか」
「ええ……。もし警察の手が伸びてきたら、私が犯人だと言い張るつもりだった。私がすべてを背負えば、成樹は助かるから……!」
彼女の告白を聞き、私は静かに息を吐いた。
弟の罪を隠蔽し、自らが殺人犯として生涯罪を背負う覚悟。その悲壮な決意が、あの不自然な自白と証拠隠滅の理由だったのだ。
「なぜそこまでして弟を庇う?澪は殺されたんだぞ。人の命を奪った人間に、庇う価値などない!」
「私には……成樹しかいないのよ!どれだけ愚かでも、罪を犯しても、私にとってはたった一人の弟なの!匠さんにはわからないわ!」
もみじは泣き叫び、ソファーに顔を伏せて声を上げて泣きじゃくった。
私は冷たい視線で、泣き崩れる彼女を見下ろしていた。
もみじは実行犯ではなかった。妹の命を奪い、あのペンダントを奪い去った真犯人は、彼女の弟である磯嶋成樹という男だ。
私が探すべき相手が、変わった。
窓の外では、青海野の夜景が何事もなかったかのように輝き続けている。
私は静かにソファーから立ち上がり、手帳と航空券をローテーブルに置いた。
もみじの悲痛な泣き声だけが、夜の部屋に響き続けていた。




