第10話 標的の変更
もみじの悲痛な泣き声が、夜のリビングに響き続けていた。
私はソファーの前に立ち尽くし、両手で顔を覆って泣き崩れる彼女をただ静かに見下ろしていた。妹の澪を殺した真犯人は、彼女の実の弟である磯嶋成樹。その事実が、静まり返った部屋の空気とともに私の全身に重くのしかかっていた。
やがて、もみじはゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた頬に張り付いた髪を震える手で払い、彼女は真っ直ぐに私を見つめてきた。その瞳には、怯えや絶望とは違う、ある種の覚悟のような光が宿っていた。
「匠さん……ごめんなさい」
掠れた声で、彼女はぽつりと呟いた。
「謝る必要はない。君は真犯人ではないのだから」
「違うの。私が謝りたいのは、そこじゃないわ」
もみじは小さく首を横に振り、自らの両手を強く握りしめた。
「私……最初から知っていたのよ。あなたが、澪さんの実のお兄さんだってこと」
「……なんだと?」
予想もしなかった言葉に、私は思わず息を呑み、言葉を失った。
「あの飛行機のファーストクラスでの出会いも、あなたが私に近づいてきた理由も、全部わかっていたわ。あなたが妹さんの死の真相を探るために、私に復讐しようとしていることも全部知っていたの」
私は眉をひそめ、彼女の言葉の真意を探るように目を細めた。
「なら、なぜ逃げなかった?僕の罠だとわかっていて、どうして同棲なんて提案を受け入れたんだ」
「……償いたかったの」
もみじの目から、再び大粒の涙が零れ落ちた。
「成樹が奪ってしまった命の重さを、誰かが背負わなきゃいけなかった。だから、あなたが真実に辿り着いた時……私に復讐を果たすことで、少しでもあなたの気が済むのなら、それでいいと思っていたの。弟の罪を、私がこの命で償うつもりだったわ」
彼女の悲痛な告白が、静かな部屋に溶けていく。
自らを犠牲にしてでも弟の罪を隠蔽し、私からの復讐を一身に受け止めるつもりだったというのか。私はソファーに崩れ落ちる彼女の華奢な肩を見つめながら、ゆっくりと歩み寄った。
「憎しみから始まった偽りの関係だったわ……」
もみじは顔を伏せ、絞り出すような声で言葉を紡いだ。
「いつかあなたに憎まれる日が来るとわかっていたのに……このマンションで一緒に暮らすうちに、どうしようもなく惹かれてしまった。嘘で塗り固められた日々の中で、私だけが……あなたを本当に愛してしまったの」
彼女は私の足元にすがりつくようにして、声を上げて泣きじゃくった。
私は静かに膝をつき、彼女の震える肩に手を置いた。
「もみじ、顔を上げてくれ」
私は限りなく優しく、穏やかな声で彼女に語りかけた。もみじが恐る恐る顔を上げると、彼女の涙を指先でそっと拭った。
「君が復讐の相手でなくてよかった」
「匠、さん……?」
「憎しみから始まったかもしれない。だが、僕も……君を本当に好きになってしまったんだ。この気持ちに嘘はない」
私は彼女の体を強く、壊れないように優しく抱きしめた。
もみじは私の胸に顔を埋め、安堵したように大きな声で泣き始めた。彼女の温かい涙が私のシャツを濡らしていくのを感じながら、私は彼女の背中越しに、窓ガラスに映る自分の顔を冷徹に見つめていた。
「もみじ、教えてくれ。成樹は今、どこにいるんだ」
背中を撫でながら静かに問いかけると、もみじは私の胸の中で弱々しく首を振った。
「……わからないわ。澪さんの事件の後、私はあの子と縁を切って、もう二度と会わないつもりでいたから。連絡先も知らないの」
「そうか……」
私は彼女をそっと離し、真っ直ぐに目を見つめた。
「なら、僕が必ず見つけ出す」
「匠さん、まさか……」
「澪を殺した真犯人を、このまま野放しにしておくわけにはいかない。それに、君をこれ以上苦しめる過去も、僕が断ち切ってみせる」
私の決意を聞き、もみじは不安と痛みが入り混じったような表情を浮かべた。
私は立ち上がり、すぐさま手を回せる調査会社へと連絡を入れる準備を始めた。
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季節は進み、十月。
互いに本心と素性をさらけだした私たちの、いびつな愛の同棲生活は今も続いていた。
青海野の街にも冷たい秋風が吹き始める頃、私が依頼していた調査会社から一通の分厚い封筒が届いた。
リビングのダイニングテーブルにその封筒を置き、私はもみじと共に中身を取り出した。そこには、数枚の写真と詳細な素行調査報告書が同封されていた。
「これは……」
写真を見た瞬間、もみじが口元を両手で覆い、小さく息を呑んだ。
写真に写っていたのは、無精髭を生やし、退廃的な雰囲気を纏った若い男だった。青海野グランドカジノリゾート特区へ続く埋立地の裏路地や、歓楽街のネオンの下で、柄の悪い男たちを従えて歩く姿が鮮明に捉えられている。
「彼が、君の弟の磯嶋成樹だな」
「ええ……間違いないわ」
もみじは震える手で写真を一枚手に取り、その場にへたり込むようにして椅子に座った。
「調査結果によれば、彼は現在も青海野県の裏社会にどっぷりと浸かっているようだ。特に、地下で営業している非合法な裏カジノの周辺で頻繁に目撃されているらしい」
私が報告書を読み上げると、もみじの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「そんな……あの子、何も変わっていなかったのね……」
彼女は写真を強く握りしめ、嗚咽を漏らした。
「私が罪をかぶってまで守ろうとしたのに……いつか更生して、まともな道を歩んでくれると信じていたのに……全部、無駄だったのね……!」
絶望に打ちひしがれる彼女の肩を、私は無言で抱き寄せた。
もみじの想いを踏みにじり、裏社会でのうのうと生き延びている男。そして何より、妹の命を奪ったに違いない男だ。
「もう泣かなくていい、もみじ。君は十分に苦しんだ」
私は彼女を慰めながら、テーブルに置かれた成樹の写真を冷たい目で見下ろした。
「成樹は、警察に突き出しても真実を語るとは思えない。法律で裁くには、彼は裏社会の闇に深入りしすぎている」
私は静かに立ち上がり、ワインセラーから青海野黒紫葡萄の赤ワインを取り出した。グラスに注がれた深い赤黒い液体が、照明を反射して血のように妖しく光る。
グラスを傾けながら、私は低く、だが確かな殺意を込めて告げた。
「僕の手で終わらせる」
「……匠さん?」
「澪の無念を晴らし、君を縛り付ける鎖を断ち切るためだ。成樹は、僕がこの手で裁く」
私刑の宣言に、もみじは顔を青ざめさせて立ち上がった。
「駄目よ!そんなことをしたら、匠さんが犯罪者になってしまう!私のために、あなたが手を汚す必要なんてないわ!」
「君のためだけじゃない。これは、兄としての僕の義務だ」
私は彼女の制止を遮り、グラスのワインをゆっくりと飲み干した。
胸の奥底で、どす黒い炎が静かに、だが激しく燃え上がっていくのを感じる。標的は完全に定まった。
澪の命を奪った磯嶋成樹。必ず僕の手で追い詰め、すべての真実を明らかにして見せる。
私は空になったグラスをテーブルに置き、成樹の写真を静かに伏せた。




