第11話 成樹の告白
十一月。
青海野の街を吹き抜ける風は、冬の訪れを告げるように刺すような冷たさを帯びていた。
新都心の華やかなネオンから少し離れた、歓楽街の裏路地。ゴミの饐えた匂いと湿った空気が漂う暗がりの中で、私ともみじは息を潜めていた。遠くから微かに聞こえる喧騒が、かえってこの路地の静けさを際立たせている。
「匠さん……お願い、もうやめましょう。こんなことをしても澪さんは喜ばないわ」
もみじは震える手で私のコートの袖を掴み、涙声で懇願してきた。その顔は青ざめ、寒さからか、それとも恐怖からか、彼女の華奢な体は小刻みに震えている。
「やめるわけにはいかない。君の想いを裏切ることになってすまないが、これは僕の義務なんだ」
私は彼女の手を優しく、しかし確かな力で引き剥がした。右手のポケットの中には、冷たい金属の感触がある。護身用として準備してきた鋭利な刃物だ。調査会社からの情報によれば、磯嶋成樹はこの時間、必ずこの裏路地を通って地下のカジノへ向かうという。
「私が警察に行くわ。私が全部話すから、だから、あなたが手を汚す必要なんてない……!」
「警察では奴を裁けない。病死で片付けられた事件を、今さら警察が真面目に取り合うはずがないだろう。僕の手で終わらせる。君はここで待っていてくれ」
もみじの悲痛な声を背中で受け止めながら、私は路地の暗がりへと一歩踏み出した。冷たい壁に背を預け、標的が現れるのをじっと待つ。
やがて、路地の入り口に人影がふらりと現れた。
くわえタバコの火が、暗闇の中で赤く明滅している。調査会社の写真で見た通りの無精髭。退廃的な空気を纏った男、磯嶋成樹だった。彼はポケットに両手を突っ込んだまま、周囲を警戒する様子もなく、気怠そうな足取りでこちらへと近づいてくる。
興奮で視界が狭まるのを感じながら、私はポケットから刃物を引き抜いた。僕の大切なものを奪い去った男が、今、無防備に目の前を歩いている。澪が最後に感じたであろう恐怖と絶望を、この男にも味わわせてやる。
成樹が路地の中央に差し掛かった瞬間、私は影から飛び出した。
「成樹ッ!」
叫び声と共に、刃物を握りしめた腕を振り上げる。私刑を実行するため、躊躇いなく彼の胸元へとあてがい、ヤツの命乞いを聞こうとした。
しかし、私の脅しのナイフの突き出しは、失敗に終わった。
「なっ……」
成樹は驚くほど滑らかな動きで上体を逸らし、私の襲撃を紙一重でかわしたのだ。そのまま私の手首を強く掴むと、恐ろしいほどの力で捻り上げてきた。
「ぐっ……!」
手首に激痛が走り、たまらず刃物を取り落とす。
カラン、と冷たい金属音が路地に響く。次の瞬間、私は成樹に足を掛けられ、背中からレンガの壁に激しく叩きつけられていた。
「危ねぇな。素人が物騒なモン振り回してんじゃねえよ」
成樹は私の首元に腕を押し当て、完全に無力化した状態で冷たく見下ろしてきた。その身のこなしは、ただの裏社会のチンピラとは明らかに違う、洗練された格闘術のものだった。
「離せ!お前を……お前を殺してやる!」
壁に押さえつけられたまま、私は必死にもがいたが、彼の力はビクともしなかった。息が詰まり、視界がチカチカと点滅する。
「いい大人が何逆上してんだ。俺に恨みでもあるってのか?」
成樹は面倒くさそうに溜息をつき、顔を近づけてきた。
「僕は……湯我原澪の兄だ!」
その名前を口にした瞬間だった。
私を押さえつけていた成樹の腕の力が、ふっと緩んだ。退廃的だった彼の両目が見開かれ、顔色が変わる。
「……澪の、兄だと?」
「そうだ!お前が澪を殺したんだろう!妹の命を奪ったお前を、絶対に許さない!」
私が声を張り上げると、路地の奥から足音が響いた。
「やめて、成樹!匠さんから離れて!」
隠れていたもみじが飛び出してきて、成樹の背中にしがみついた。
「姉貴……?なんでアンタがここにいるんだ。まさか、この男と繋がってたのか」
成樹は驚いたように姉を振り返り、私から完全に手を離した。私はむせ返りながら、壁に背を預けて姿勢を立て直した。
成樹は足元に落ちていた私の刃物を靴の先で遠ざけると、信じられないものを見るような目で私を見つめた。
「アンタ、俺が澪を殺したって本気で思ってるのか?」
「とぼけるな!もみじからすべて聞いた!お前が澪の命を奪い、指輪を奪ったんだろう!」
私の怒声に対し、成樹は自嘲気味に鼻で笑った。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。俺は……澪を殺してなんかいない」
「嘘をつけ!」
「嘘じゃねえ!俺はな、元警察官だ。生前、澪とは刑事としてバディを組んでたんだよ」
「……なんだと?バディ……?」
予想もしなかった言葉に、私は思わず絶句した。警察官?この裏社会にどっぷり浸かった男が、澪の同僚だったというのか。
「姉貴が何を勘違いしてアンタに吹き込んだのかは知らねえが、俺が澪を殺すわけがない。あいつは、俺にとって最高の相棒だったんだ」
成樹の表情から退廃的な色が消え、真剣な眼差しが私を射抜いた。
「なら、どうして澪は死んだ!なぜ警察は病死だと処理したんだ!」
「澪は病死なんかじゃない。裏社会の巨大組織に殺されたんだよ」
成樹の口から語られた事実は、私の理解を超えていた。
「巨大組織に……?」
「そうだ。俺たちの捜査は、青海野に巣食う組織の核心に迫りすぎていた。だから澪は消されたんだ。警察の上層部も組織と繋がっていて、事件は病死として握りつぶされた。俺は、そんな腐りきった警察の捜査に完全に見切りをつけた」
成樹はギリッと奥歯を噛み締め、拳を握り込んだ。
「だから、俺は警察を退職して、裏社会の組織の内部に潜り込んだ。澪を殺した本当の犯人を捜すためにな」
彼の声には、深い悲しみと抑えきれない怒りが滲んでいた。
私に見せる表向きの顔だけではなく、その言葉の端々から伝わってくる感情は、嘘偽りのない真実のように私の胸に響いた。彼は澪の死に苦しみ、たった一人で巨大な闇と戦っていると言うのだ。もみじが言っていた事実とは全く違う、もう一つの真実が目の前に現れた瞬間だった。
「いいか匠さん。俺はもうすぐ澪を殺した奴に会える。そん時はアンタも立ち会わせてやる。それまでおとなしくしてろ」
成樹はそう言い残すと、冷たい風が吹く路地裏の闇の中へと姿を消していった。
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静寂が戻った裏路地で、私は腕の中にいるもみじを見つめた。
「もみじ……どういうことなんだ?成樹くんは澪を殺していないと言っていた。君が僕に話してくれたことと違うじゃないか」
私は努めて穏やかで優しい恋人の声を保ちながら、彼女に問いかけた。
もみじは両手で顔を覆い、しゃくりあげながら口を開いた。
「ごめんなさい、匠さん……私、ずっと勘違いをしていたの」
「勘違い?」
「ええ……澪さんは、私が組織に脅されて資金洗浄に加担させられていることに気づき、私を救い出そうとしてくれていたのよ」
もみじは涙で顔を濡らしながら、震える声で語った。
「だから、何度もバーで私と会ってくれていたの」
その言葉を聞いて、私は内心で腑に落ちた。澪の遺品だった手帳に彼女の名前が何度も書かれていたのは、組織から彼女を救い出すために接触を重ねていたからだったのか。
「そんな優しい澪さんが、ある日突然ニュースで病死したと知って……私もひどくショックを受けたわ。でも……」
もみじは私の胸にすがりつき、さらに強く泣きじゃくった。
「成樹が澪さんがしていた指輪を持ってきたから、てっきりこの子が手を下したんだと勘違いして、私が罪を被ろうとしたの……!」
涙ながらのもみじの弁明。弟をかばうために嘘の自白日記まで用意した彼女の悲壮な行動は、弟が犯人だという完全な思い込みから出たものだったというのだ。
「そうだったのか……。君は一人で、弟の罪だと信じ込んで重い十字架を背負おうとしていたんだね。ひどく責めてしまってすまなかった」
私は彼女の震える背中を撫で、温かい言葉をかけた。




