第40話 ヒットマンの手配
十二月。
青海野の海風が氷のように冷たく吹き荒れる夜。
警視庁と青海野県警の合同特別捜査本部が置かれた極秘施設では、佐久本管理官が複数のモニターを前に、冷徹な指示を飛ばしていた。
「管理官。ダークウェブ上の『エクリプス・シンジケート』専用窓口へ、新たな暗号化通信が入りました。送信元は……磯嶋成樹です」
ヘッドセットをつけた特命班の捜査員が、緊張した面持ちで報告する。
モニターに映し出されたメッセージには、『湯我原匠が嗅ぎ回っていて目障りだ。明日夜、臨海コンテナ埠頭の指定倉庫に誘導する。確実に始末してくれ』と記されていた。
佐久本は銀縁メガネを中指で押し上げ、低く鼻で笑った。
「愚かな男だ。自分がまだ、巨大組織の幹部として裏社会を操っているとでも錯覚しているのか」
磯嶋成樹は知らない。彼が頼みにしているエクリプス・シンジケートの上層部は、すでに佐久本率いる極秘特命班の執念の捜査によって、完全に摘発・壊滅させられていたのだ。
現在、組織の通信システムや資金洗浄のダミー口座は、すべて警察の完全な管理下に置かれている。成樹が連絡を取った闇の窓口の向こう側にいるのは、冷酷なヒットマンなどではなく、警察の捜査員だった。
「どう返信しますか、管理官」
「『依頼は引き受けた。指定時間に向かう』と返せ」
佐久本は重厚な声で宣告した。
「我々が殺し屋のふりをして、彼らの待つ倉庫へ出向いてやろう。……すべての嘘に、終止符を打つ時だ」
罠を仕掛けたつもりの成樹が、自ら警察の巨大な網の中へと飛び込もうとしていた。
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翌日、青海野臨海コンテナ埠頭へと向かう黒い高級車の車内には、重苦しい沈黙と、底知れぬ欺瞞が渦巻いていた。
運転席でハンドルを握る湯我原匠の横顔は、完璧な紳士のそれだった。しかし、助手席に座る羽元もみじは、膝の上で両手をきつく組み合わせ、青ざめた顔で窓の外を見つめていた。
「怖いかい、もみじ」
匠が静かに問いかけると、もみじはビクッと肩を震わせ、すがるような瞳を向けてきた。
「……ええ。成樹が、あんな危険な連中と一人で会うなんて。もし、あの子の身に何かあったら……」
「大丈夫だ。成樹くんは元警察官で、優秀な刑事だったんだろう?彼ならきっと上手くやるさ。僕が君を守るよ」
匠は片手でハンドルを握りながら、もう片方の手でもみじの震える手を優しく包み込んだ。
「これで全てが終わる。澪の無念も晴れて、君を苦しめていた鎖も断ち切られるんだ。そうしたら、二人でまた平和な日々を取り戻そう」
「匠さん……。ありがとう。あなたがそばにいてくれて、本当に心強いわ」
もみじは涙ぐんだ瞳で微笑み、匠の手を強く握り返した。
しかし、美しい恋人たちの会話の裏側で、二人の本心は恐ろしいほどに冷え切っていた。
(あの馬鹿な弟がどうなろうと、知ったことではない)
匠は前方を睨みつけながら、内心で冷酷に毒づいた。
(僕の目的はただ一つ、親父の遺産二十億円を引き出すためのペンダントだ。成樹が組織からペンダントを奪い返した直後、用済みになったこの女もろとも、どう処分してやろうか)
一方、匠の手にすり寄るもみじの心の中にも、真っ黒な嘲笑が渦巻いていた。
(優しい言葉を並べているけれど、匠、あなたは今夜ここで死ぬのよ。成樹が手配した組織の人間によってね。実の妹の復讐を気取った哀れな男。最後に勝つのは、私と成樹よ)
互いに相手が今夜瀕すると信じて疑わず、極限状態の直前まで「愛し合う恋人」の仮面を被り続ける。二人の異常なまでの執着と騙し合いは、いよいよ終着点へと近づいていた。
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やがて車は、コンテナ埠頭の奥深くにある、人気のない指定倉庫の近くに到着した。
エンジンを切り、車のヘッドライトを消すと、あたりは完全な暗闇と静寂に包まれる。遠くで波が防波堤に打ち付ける音だけが、不気味に低く響いていた。
「行こう。音を立てないようにね」
匠の囁きに、もみじが無言で頷く。
二人は冷たい潮風に身を縮めながら、巨大なトタン張りの倉庫へと忍び寄った。少しだけ開いた搬入口の隙間から、息を潜めて内部を覗き込む。
倉庫の内部は、高い天井から吊るされた裸電球が一つだけ灯っており、薄暗い空間をぼんやりと照らしていた。
その中央の何もない空間に、磯嶋成樹が一人で立っていた。
成樹はポケットに両手を突っ込み、周囲を鋭く見回している。その表情には、いつもの退廃的な空気はなく、研ぎ澄まされた刃物のような緊張感がみなぎっていた。
(成樹……犯人はまだ来ないのか)
匠は暗闇の中で唾を飲み込んだ。成樹が「澪を殺した真犯人」を待ち伏せしていると、匠は信じて疑っていない。
しかし、成樹の内心は全く違った。
(遅いな……組織のヒットマンはまだか。さっさと現れて、そこに隠れている目障りな匠を蜂の巣にしてくれ。俺は組織の幹部として、新しい人生を歩むんだ)
成樹は、暗闇に隠れている匠ともみじの気配を感じ取りながら、己の出世の邪魔になる男が処刑される瞬間を待ちわびていた。
三者三様の思惑が交錯し、異常なまでの緊張感が倉庫を包み込む。
その時だった。
倉庫の奥にある、さらに暗い通路の向こうから、コツ、コツ、と静かな足音が響いてきた。




