第39話 裏路地の格闘
十一月。
青海野の街を吹き抜ける風は、本格的な冬の訪れを告げるように刺すような冷たさを帯びていた。
新都心の華やかなネオンから少し離れた、歓楽街の裏路地。ゴミの饐えた匂いと湿った空気が漂う暗がりの中で、湯我原匠と羽元もみじは息を潜めていた。
「匠さん……お願い、もうやめましょう。こんなことをしても澪さんは喜ばないわ」
もみじは震える手で匠のコートの袖を掴み、涙声で懇願してきた。その華奢な体は恐怖からか、小刻みに震えているように見える。
「やめるわけにはいかない。これは僕の義務なんだ」
匠は完璧な悲劇の兄の顔を作りながら、彼女の手を優しく引き剥がした。
しかし、右手のポケットの中で冷たい刃物を握りしめる匠の内心は、妹への哀悼など微塵もない、ひたすらに強欲で焦燥に満ちたものだった。
(ここでヤツを脅し、ペンダントの隠し場所を吐かせなければ、僕が破滅するんだ)
遺産の二十億円を引き出すための絶対条件である、青海野オパールのペンダント。それを奪い返すためなら、殺人すら厭わない。匠は血走った目で路地の入り口を睨みつけていた。
一方、匠の背後に隠れるもみじは、怯えて震えるふりをしながらも、暗闇の中で冷たい笑みを隠し持っていた。
(いいわ、匠さん。その憎悪を存分に成樹へぶつけなさい。せいぜい二人で無様に潰し合ってちょうだい)
やがて、路地の入り口に人影が現れた。
くわえタバコの火が赤く明滅し、無精髭を生やした退廃的な空気を纏う男、磯嶋成樹が気怠そうな足取りで近づいてくる。
(来たな……澪の命と、僕のペンダントを奪った男!)
匠は興奮で視界が狭まるのを感じながら、ポケットから刃物を引き抜き、影から勢いよく飛び出した。
「成樹ッ!」
叫び声と共に、刃物を握りしめた腕を成樹の胸元へ向けて振り下ろす。
しかし、素人の全力の一撃は、いとも容易く空を切った。
「なっ……」
成樹は驚くほど滑らかな動きで上体を逸らすと、匠の手首を強く掴み、恐ろしいほどの力で捻り上げた。
「ぐっ……!」
激痛にたまらず刃物を取り落とす。カラン、と冷たい金属音が路地に響き渡った直後、匠は足を掛けられ、背中からレンガの壁に激しく叩きつけられていた。
「危ねぇな。素人が物騒なモン振り回してんじゃねえよ」
成樹は匠の首元に腕を押し当て、完全に無力化した状態で冷たく見下ろしてきた。元警察官として培われた、洗練された格闘術だった。
「離せ!お前を殺してやる!」
壁に押さえつけられたまま、匠は必死にもがいたが、ビクともしない。
「いい大人が何逆上してんだ。俺に恨みでもあるってのか?」
成樹が面倒くさそうに顔を近づけてきた。
「僕は……湯我原澪の兄だ!」
匠が叫んだ瞬間、成樹の腕の力がふっと緩み、その両目が大きく見開かれた。
「……澪の、兄だと?」
「そうだ!もみじからすべて聞いた!お前が澪の命を奪い、指輪とペンダントを奪ったんだろう!」
匠が声を張り上げると、路地の奥から足音が響いた。
「やめて、成樹!匠さんから離れて!」
隠れていたもみじが飛び出してきて、成樹の背中にしがみついた。
「姉貴……?なんでアンタがここにいるんだ」
成樹は匠から完全に手を離し、信じられないものを見るような目で匠を見つめた。
「アンタ、俺が澪を殺したって本気で思ってるのか?」
「嘘をつけ!」
「嘘じゃねえ!俺はな、元警察官だ。生前、澪とは刑事としてバディを組んでたんだよ」
「……なんだと?バディ……?」
予想もしなかった言葉に、匠は思わず絶句した。
「俺が澪を殺すわけがない。あいつは、俺にとって最高の相棒だったんだ」
成樹の表情から退廃的な色が消え、真剣な眼差しが匠を射抜いた。
「澪は病死なんかじゃない。裏社会の巨大組織に殺されたんだよ」
成樹はギリッと奥歯を噛み締め、拳を握り込んだ。
「俺たちの捜査は、青海野に巣食う組織の核心に迫りすぎていた。だから澪は消されたんだ。警察の上層部も組織と繋がっていて、事件は病死として握りつぶされた。だから、俺は警察を退職して、裏社会の組織の内部に潜り込んだ。澪を殺した本当の犯人を捜すためにな」
悲しみと怒りを滲ませた成樹の告白。
しかし、その言葉はすべて、匠を欺くための真っ赤な嘘であった。澪を組織に売り渡し、幹部ポスト欲しさに警察を辞めたのは成樹自身なのだから。
(なるほど……コイツが犯人じゃないのなら、コイツを利用して組織からペンダントを奪い返せばいい)
強欲な匠は瞬時に計算を巡らせ、すぐさま「妹を想う兄」の顔を取り繕った。
「そうだったのか……。すまない、僕は君を誤解していた。どうかお願いだ、君が犯人に会う時、せめて澪のペンダントだけでも取り返してきてくれないか」
匠が頭を深く下げて頼み込むと、成樹は無言のまま力強く頷いた。
「わかった。必ず取り戻してくる」
真剣な顔で引き受ける成樹だったが、その腹の底ではドス黒い殺意が渦巻いていた。
(チョロい男だ。ペンダントだと?知るかよ。俺が組織と繋がっていることを嗅ぎ回られては面倒だ。警察に駆け込まれる前に、もみじと約束した通り組織に依頼してこの邪魔な兄貴を始末してやる)
「ありがとう。君にすべてを任せるよ」
匠が安堵したように深く頭を下げた、まさにその瞬間だった。
匠の視界から外れた背後で、成樹と、彼にしがみついていたもみじの視線が一瞬だけ交錯した。
姉弟の目が合い、口角がわずかに吊り上がる。
そこには、哀れな獲物を罠にはめた捕食者たちの、冷酷で嘲笑的な笑みがはっきりと浮かんでいた。
匠は「復讐を装いペンダントを回収する」ために。
成樹は「目障りな匠を組織に消させる」ために。
もみじは「この二人を破滅させる」ために。
暗く冷たい裏路地で、三人は互いに嘘をつき合い、利用し合っていた。
誰一人として真実を語らない、底知れぬ悪意で塗り固められたいびつな同盟関係が、ここに完成したのだった。




